<享有する自分の無知>を見出すことで、現実だと思い込んでいるカルト状況から個々人が「脱存」し、泥沼を抜け出るための対話、でもあるのだ。
しかし宗教的マトリクスや、<価値価値山の泥船思想>が世にはびこっているため。
カルトの犠牲になって神殿の基礎に塗り込められたり、人柱となったり、生きたまま皮むきされたり。
泥船で、ともに沈んでしまう人も跡を絶たない。
それが今や泥沼の原因や現状なのだが、そうなった要因、みたいなものがある。
1:哲学フィロソフォスを目指すものと、知恵者ソフィストであろうとする者の、<違いを明確にしない>こと。
2:哲学と宗教の<違いを明確にしない>こと。
3;哲学と実務学の<違いを明確にしない>こと。
4:哲学と倫理や道徳との<違いを明確にしない>こと。
5:哲学と諸学の関係、その<違いを明確にしない>こと。
全部同じ、ネガチブな理由が、そこにあるのだ。
<違いを明確に「しない」>こと。
だから逆に、違いを明確にしていけばいい。
ネガチブを忌避する人々には、これがまったく見えてないというか、できないんだろうと思う。
ならば、この逆を実践すればよいわけで、実に簡単なのである。
泥沼回避には、哲学と諸学の<違いを明確にすればよい>わけだ。
これには先達の大先生がいる。
アリストテレス先生の「タ・メ・タ・タ・フィシカ」が、これなのだ。
自然学の(メ)<の付け所>。
意図的に修辞学風に誤って、形而上学と訳されている。
本の内容は、ヘラスの諸学、特に自然学者の学問の過去を尋ね、それらとソクラテス由来の哲学との、<違いを明確にすること>、だった。
アリストテレス先生は、フィロソフォスとソフィストの<違いを明確に>したのだ。
これを明確にするものは哲学で。
そうでないものは哲学ではない、と。
ここで明確に述べることができるだろう。
哲学概論の、これは命題であるというより、第一の原則であると思う。
例外はない。
「哲学者と、無知の知が見えてない知恵者とを、明確に区分すること」。
それができたら、哲学概論は仕上がったも同然。
但し誰も読んでくれんが。
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