ある、わけではない。
アル、というのは「享有」にのみ存在するポシティヴな考え方で。
物理力においては「ない」、とも言える。
私たちの共有する物理的な力というものは、必ずネガチブだからだ。
隠れている、ということか?。
ちょっと違う。
それまではない、と言える。
想定もされてない。
物理的なモデル想定は数学的に可能だが、それも「数学という時空の枠の中で」可能だ。
この時空を胡麻化したり、存在を胡麻化して、わたしたちの日常は成り立っている。
厳密な物理力想定をやらずに、日常的な修辞をやってしまうわけだ。
科学論文と銘打っていても、そうではないものがほとんど。
そしてこの「修辞」は「命題」と「数学的解」から成り立っているのだが、それすら曖昧にしてしまう。
詐欺の材料にする。
世に哲学は失われているのだから、その事実をまず認識すべき。
曖昧にぼかした修辞学が古典ギリシャ哲学の名で偽物を背負い。
西洋の基礎を踏みつけて、ぐちゃぐちゃにしてしまった。
享有と共有をきっちりと切り分けて見出し。
倫理と相互の決まりごとは違うんだとハッキリ見出し。
主観と客観は別物なのだと、これも見分けておくべきである。
これは容易ではない。
物理的なモデル想定は、決して自然学で生まれた発想ではなく。
これは共有の客観的認識から生まれた「修辞学」である。
優生学を含み、ギリシャ古典認識修辞学の生んだ、後の時代の現代ものである。
ヘラスの哲学とは別のものだということ。
これにしかし私どもは科学技術の名を冠し、ネイチャー・マシーナリーテクニークと呼ぶ。
そしてここで使われるネイチャーとは、「素材」のことなのだ。
ありもしない「純粋素材」。
ヘラスのフィシスとは似ても似つかぬ概念であり、細分化された分析を伴う。
まったくの別物なのである。
フィシスは「隠れ無き事」、であってその自然は自分を「隠さない」。
それに対し、西洋の古典ギリシャ修辞学に言う自然なモノ、は身を隠す。
物理、として我々が相手している自然学は、詐欺後に変質した素材なのだ。
この単純なことがわかっていないと、おいらの哲学概論は全く読めないだろう。
「優生学修辞学」になり下がってしまうからである。
そうなってしまってる。
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哲学概論 2-2 2025年07月16日
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