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「土偶」などという、はなはだ興ざめな女性器論からはじめて、大ブーイングがおこりそうですが、 それには、興味本位な読者をあらかじめ追っ払うという目的(とっくにどっかへ行ってる?)のほかに、「女性」「ないし「女性なるもの」の具有する「自然=神性」を考えるためでもありました。 これまでの話でも多少明らかになってきた事柄ですが、古代人にとって人智の及ばない周囲の自然の振る舞いに対して、彼らは畏れとともに敬うしかなかったので、自然=神性は常に両義的でありました。とてつもない災氾をもたらすかと思えば、かぎりない恵みももたらすという意味での自然=神性は、女性器を通して人間の内側にも浸透していると理解されていたので、それが証拠に「古事記」神代に出てくる国生み伝説では、正常な子とともに異形の未熟児?(蛭子)も同じような割合で生まれてくるので、これは古代に限らず戦前までの日本では実は普通の出来事でした。 前にも触れましたが、神とか神性などというものを考えついたのは、たぶん男=オスだろうといったのは、女性器を持つ女性は畏れだの敬うどころじゃないわけで、さしあたって子供を産み育てるのに忙しかったはずだからです。「女性」あるいは「女性なるもの」に「自然=神性」を見出したのは、自然を体内に蔵さない(ように見える)男=オスが周囲を眺めつつ射程したので、女性が第二の性(名指しされた性)といわれるゆえんです。 ヒトの想像力とは多様で、自然=神性に対する敬いかたや畏れというのは、世界中の古代社会で多様な現われかたをするみたいですね。とくに古代エジプト文明や中米のマヤ、アステカ文明というのは、現代とは隔絶した社会とはいえ、極度に成熟した社会だったわけで、今どきの倫理基準ではとうてい歯が立たない論理が感じられます。おびただしいミイラや人身御供など、今どきの脳化社会の論理では到底ついていけない世界観ですが、要は自然=神性とどう折り合いをつけていくかについて、科学的合理主義はなかったにせよ、極度に考え煮詰められた方法が、それぞれの文明に存在したのでした。 今の文明がエジプトやアステカの直系ではないがゆえに、これらの宗教的方法を野蛮だとか異世界の出来事とか簡単に裁断するのは危険です。折りしも8月15日の前後に世界大戦の兵士の証言や、戦争裁判の記録が数多くテレビで放映されていますが、現代社会の生み出したものの中には、今までの人類が経験しなかった(人間の想像力をはるかに超えた)暴力や野蛮が顔を出しているのかも知れず、3000年後とは言いませんが、1000年後の世界が今を語るとき、現代社会とは理解不能の野蛮な時代と看做すかもしれないのです。 まあそれはともかく、古代日本は成熟する間もなく大陸の巨大文明の浸透にさらされていたので、そのぶん古代社会の気分は割り合いプリミティヴなまま歴史時代まで残されたようです。「古事記」はいわば成熟する前のナマの古代社会の気分をあわてて記録として残したので、その50年も前の聖徳太子の時代から、大陸と対等の関係を立てようとしていた大和政権としては、王権のアイデンティティをさまざまな形で探り、その正当性を確立することは、きわめて性急かつ切実な問題であったでしょう。 というわけで、私たちは日本の原始社会から古代王権の統治システムまで、相当豊富に想像力を羽ばたかせることができるので、ひょっとすると一つのテクストで、これほど多様な分野から論じられる文献は、世界じゅう見渡してもそんなにないかもしれません。― つづく ―
2007.08.20
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歴史のダイナミックな面白みを話しようと思って、はじめたテーマですが、いつの間にやら歴史意識=時間意識の発生論のようなところに遡ってしまい、神話や「魂」のところで往生しています。 司馬遼太郎は宗教を「放っておくと何をしでかすか分からないヒトを飼いならすための壮大なシステム」とかおっしゃってましたが、もちろんその中心は空で、空を空と知りつつ敢えて信じ切ろうとする、その信心の証しがカソリックのような膨大な神学となって、空の周囲を堅固に取り巻いているのでした。 確かに西欧の哲学や論理学は、神学のしもべとして現れてきたので、中心が空であるだけ周囲は厳密に構築されていなくてはならないのでした。これは何も西欧の宗教や学問を揶揄しているわけではありません。宗教的振るまいの一つとして、こうした形態がありうるということが云いたかったのです(前にも触れましたが、宗教的振るまいには、知的なものや美的なものや倫理的なものがあって、どれが良いとか悪いとかの話ではありません)。 ところで、19世紀以降の西欧思想というのは、近代科学技術の急速な発達とともに、神の証明に著しい困難を感じたわけで、20世紀に入ると二つの世界大戦によって根本的な見直しを迫られているようにみえます。産業革命以降の楽天的な発展史観と、西欧中心主義を単純に信じている人は、もはやどこにもいないでしょう(少なくともうわべは)。 しかし方法としての論理学や修辞学は、神がなくても牢固として生きているので、ときに神なき神学や哲学、あるいは心理学などが現れたりします。S・フロイトの方法は彼自身の個人的な体験を、神学の方法で鎧ったようにみえると誰か言ってましたね。それと同じように、日本の民俗学や神話学、はたまた人文学一般には、その厳かな風貌や難解な論理の背景に、ときどきその書き手の子供時代の記憶を、たどるような記述に気付かされることがあります。 それはさておき、私の子供のころの記憶に、天狗の鼻は男のナニを表しているとか、マンジュウは女のオッパイだとかいったことが、子供仲間の間でまことしやかに喧伝されていたことがあり、その中に鳥居は女性の性器の入り口だといった話があって、あとあと民俗学の本などで、それに近い記述を読んだような気がするのですが、自信がありません。 というわけで、例によってWikipediaも調べてみたのですが、めずらしくオーソドックスな記述ばかりで、得意のサブカルチャー的なウラネタ情報は、こと「鳥居」にかんしては残念ながら出ていませんでした。したがってここから先は、私のあやふやな子供時代の記憶だけを根拠に話をすることになります。 古代人にとって「女性」あるいは「女性なるもの」が表徴するものとはなんであったかを知る手がかりとして、縄文時代の「土偶」を見てみましょう。「土偶」が乳房や臀部を極端にデフォルメした形状で、多産や豊饒を祈る地母神崇拝のための土製人形といわれるゆえんですが、いくらオッパイや女陰が精密に描かれているからといって、この像を観て欲情する男=オスは現代はもちろん当時においてもいなかったはずで、その鎧のような(刺青とも言われます)胴と何よりも怪異な両眼、これは明らかに「女性」あるいは「女性なるもの」が具有する自然=神性に対する畏れとともに、崇める対象として作られたものだったからでしょう。― つづく ―
2007.08.16
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月末月初のゴタゴタから、夏休みになだれ込んで、すっかりブログのUPができなくなっています。前にも言いましたが、この手のことにはリズムが大事で、いったん崩れるとなかなか修復が難しい。我ながら自分のリズムを何でどうやって取り戻すか、首をひねっている最中なのです。 とりあえず私事になりますが、私は10年ほど前に痛風をやって、大好きだった車をやめて二足歩行に切り替えたのですが、その後の体調は自分でも腹の立つくらい快調で、メタボの心配も当面はなさそうです。毎朝ワンちゃんを連れたり、トランクス姿のお父さん奥さんを多く見かけますが、わざわざしかるべきいでたちをするまでもなく、車を放り出しさえすれば人の身体というのは普通に戻るのですが、なかなかそういうわけにもいかないようで、例の巨大S.C.には毎晩遅くまで多くの車が停まっています。 前にも触れたような気がしますが、車にはたんに生活の道具としての利便さではなく、ドライバーの全能感を満たすところがあるようで、早い話どんなボロ車でもいったん座席に着けば、どこにでも好きなところへ行けるような気がする。この自由さは会社勤めの時にはかけがえのないもので、盆休みや正月にどんなに道が混もうと、何がなんでも遠出を敢行するというのは、日頃の組織の束縛がどれほどのものであるかの反証にも見えます。 私もディーラーのうまいくすぐりにのせられて、HONDAのツィンカムを長いこと乗り回していたのですが、車を放り出して10年もたつと(たまには運転感覚を忘れない程度にレンタカーを使いますが)、おのれの全能感を満たすために、ずいぶん散財していたもんだと思ってしまいます。日常不可欠の要素というのは、日本では車には少しもないのです。こんなことを云うとECO派の烙印を押されてしまいそうですが、車の宣伝を見たって生活用具としての利便性を謳ったような広告はどこにもないでしょう(誰もそんなものに金は出しません)。 結局化粧品やブランドもののバッグなどと同じく、車も大きな(高価な)夢を買っているので、かつてツィンカムだのターボだの走りを強調したのが、ECOにシフトしたとは云え、全能感の夢をくすぐる手法には何ら変わりはないのです。 ところで、車を去ってからの10年間の私の家計簿の内訳は金額は車の比ではないにせよ、通信費にとてつもなくシフトしていて我ながら愕然とします。携帯やインターネットが普及する以前は、わが家計簿に占める通信費の割り合いはほとんどないに等しく、家の電話機が唯一の通信機器でありました。 今や子供まで含めて一人一台の通信機器を備える時代ですから、ややもすると一ヶ月の通信費が我が家の食費を上回るときがある。もともと高すぎると思っているNHKの聴取料も通信費に含めるとすると、これは間違いなく我が家の全能感が、車という事物でハイウェイを突っ走って満たしていた時代から、電脳空間の情報ハイウェイを突っ走るほうに完全に向かっていることを表わしているので、おそらくそちらのほうが満たされ度数がはるかに高いのでしょう。 こんなことを云っていると、しまいに日本を支える車産業から総スカンを喰らってしまいそうですが、今どきの経済構造というのは、必要不可欠なものごとでなく、ある種の巨大な夢(悪夢かもしれないのですが)で動いているので、二足歩行で家の周りを歩いてみれば、日常からこそぎ落とせる夢の垢はまだまだ山ほどありそうです。
2007.08.14
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