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昨日まで目を三角にして騒ぎ走りまくっていた若年寄や美女!事務からやっと開放されて、誰もいなくなった事務所の机などを眺めながら、この一年を振りかえってみたりもします。うちの商売の状況もひどいものでしたが、ひるがえってこの一年というか、ここ最近の外の世界をみていると、たんに経済や政治社会の状況がひどいというのではなくて、倫理的な部分で日本にかぎらず、世界的に荒んだ景況を呈しているように思えてならないのです。 年末恒例の今年の一文字では「偽」が話題になっていましたが、私の見るかぎりテレビに登場する謝罪会見の人たちの表情に、「本気」だけが感じさせる「覚悟」のような張り詰めた感じはここから先もなく、かえって見ているものを愚弄しているようにさえみえる。この場合の「本気」とは、その場で刺し違えで「切腹」するというほどの「殺気」のことです(荒川さんやイチローにはあったでしょう)。 はたまた世界の政治家や経済人や学者を眺めても、自国の利益や、持ち株会社の株価や、特許利益に奔走することに臆面もない状態をみていると、今どきの世界を覆っている倫理的な荒廃というのは、ひとくくりに「卑しさ」そのものと言っていいと思うのです。これは知的レベルや権力の大きさや国力の高低とは関係なく、皆等並みに「卑しさ」の表徴を示しているので、その醜さには驚くばかりですが、これなら私の周辺を取り巻いているオッサンやオバハンのほうが、はるかにまともな顔をしている。あられもない豹柄の戦闘服をまとった大阪のオバハン(失礼!)さえ、ヘンに取り繕わない姿勢を保持している限りで「卑しい」表徴とはならないのです。 江戸期に日本を訪れた多くの外国人は、この国がとてつもなく貧しい社会でありながら、倫理的秩序が保たれていることに、皆驚がくの言葉を発しているのですが、初期資本主義の考え方をひっさげてやって来たオランダのケンペルや、遅れた帝国主義のアメリカからやってきたペリーなどは、富と武力を背景とした資本主義がもたらす人心の荒廃を多少とも意識していたので、それをいまだ知らない日本が「最悪の栄養状態と、最悪の衛生状態」のなかで「しかし間違いなく、この国の人たちは高貴である。寸毫も卑しいところがない」と言い切っているのは、良くも悪くも江戸時代を律していた牢固たる儒教的身分秩序の倫理でありました。 儒教的倫理については、とてもじゃないが私の話の手には余るのですが、これが日本において実質的に作動したのはおそらく江戸以降で、戦国時代まではこうした儒教的秩序の倫理はなかったのです。時代小説やテレビドラマでよく勘違いするのはこのへんで、戦国期の武将が儒教的倫理で事を判断したり、行動したりする場面が往々にして登場します。これは言い換えれば今どきの日本が、依然として江戸時代以来の儒教的秩序をじゅうぶん相対化できていないことを示しているので、やはりもっと慎重に歴史を振り返る必要がありますね。 というわけで、古臭いだの興味がわかないだのといっても、今どきの日本を考えるうえで、もう一度江戸初期の儒教的倫理の導入の歴史を探り、それを客体化してみる必要がありそうです。これはまた改めます。 日本や世界のトップやリーダーの立ち居振る舞いに、「卑しさ」の表徴が現われだしたのは、前にも触れましたが、おそらく東西冷戦が崩壊して戦後秩序の見直しが始まった1990年代からで、よくいわれるように東の標榜した「失業率ゼロと福祉に守られた夢の社会」に対するに、西の「資本主義」は「自由主義」という倫理規範を掲げて対抗せざるを得ず、多少なりと崇高なる権威の表徴をともなっていたのでした。 この「自由主義」なる規範は、東西冷戦が終わってみれば、資本の自由な移動を意味するに過ぎないことを、その後の歴史は明らかにしているので、倫理的規範をかなぐり捨てた「自由主義」は、人の心の「卑しさ」の開放に他ならなかったようです。これはむしろ自由主義のリーダーであるアメリカだけでなく、むしろ新興資本のロシアや共産中国やアラブ世界で、露わに出てくる現象で、日本や古いヨーロッパの国々は、その「卑しさ」の相貌の醜さかげんに戸惑い、立ち尽くしているように見えます。 しかしここ数年の「偽」に集約される、日本のトップやリーダーの顔はだんだん「卑しさ」の表徴にまみれてきているので、同じ謝罪にしても10年ほど前の山一證券の社長と、今年のコムスンの社長の謝罪会見の表情を比べてごらんなさい。 年の瀬、こんな時期になって、こんな不愉快な話で締めくくるのは、はなはだ不本意ですが、まあ来年は年初から楽しい話題でスタートできますように、乞うご期待!
2007.12.30
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ヤボ用の集積のような日頃の雑事に追われているうちに、気がつけば今年もあと幾日かという時節になっていて、気晴らしのこのブログがほったらかしになっているのに愕然とする今日この頃です。正直いって、こういう状態というのは仕事もあまりうまくいっていないときなので、自分のひそかな楽しみをいそいそと書き込んでいた去年のほうが、よほど商売もはかどっていたという気がします。 囲碁に先手後手という考え方がありますが、囲碁はいってみれば先手争いのゲームみたいなもので、どうやったら自分が先手を取れるか(主導権を握れるか)の戦いなのです。ラグビーなんかもそうみたいですが、囲碁などでも一方的にこちらが責めまくっているときは、こんなに気持ちのいいものはない。全能感に満たされて、行くところ敵無しの目眩に酔うのですが、ひょっとした隙に相手に根本のところで腰を折られる。調子に乗ってあちこちに戦線を拡大して伸びきったこちらの戦線は、いたるところ傷だらけで、たちまち傷の修復や手当てに追われて攻めるどころじゃなくなってしまう。いわゆるシノギの局面ですが、これが結構しんどいのです。 いくら戦線がもったいないと思っても、どこかの石を捨てなければならない。そうしなければ、いくら中央の長い戦線でジタバタしても、根本で一眼をつぶされているのだから(囲碁は二眼ないと、それにからんでいる石は全滅するのです)、どこかであきらめないとしょうがないのですが、責めまくりの最中に描いていた作戦が一度に覆される感じで、これがなかなかできないんですね。 囲碁の強い人というのは(囲碁に限りませんが)、このあたりの見切りがとてつもなく早くて、しかも多面的。数子を捨てるだけで、すでに次の手が数十種用意されている。こういうのを生きた捨て方というので、たんなる損害とは意味が違う。数子を捨てたことで、かえって局面が多面的になって容易に相手に先手を渡さない。 このあたり囲碁に学ぶことは多いのですが、さて現実のこととなると、今ある雑事の集積のどれを捨てるか、どれを生かすか、例によってメタボ寸前の若年寄を横目で睨みながら、考えあぐねているのです。さしあたってこのブログをやめてしまえと、彼の眼は語っているのですが、もちろんそんなことは考えてません。 とはいえ、さて生きた数子の捨て方というのが、どれなのか今日明日にも決めなくてはならないのですが。
2007.12.27
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