野口 艫男の不定期日記

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「今頃になって読んだのかよ」って言われそうですが、はい、今頃になって読みました(笑)。

前に読んだのは、小学生の頃で、かれこれ30年くらい前になりますね。
記憶では、結構インパクトがあったつもりだったんですけど、どうも、その後見たジョージ・パル製作の映画版とごっちゃになってしまったみたいなのと、流石に30年経つと記憶もあやふやになってしまっていたようで、スピルバーグの映画を観て「原作に忠実」と言われても、「あれそうだったけ?」と思う始末(汗)。
確実に記憶に残っていたのは、「空から隕石が落ちて来て、中から火星人が出てくる」「火星人はタコ型」「火星人は足のついた歩行型のマシンで人を襲う」「フライングマシンも出る」そして、ラストがどういうふうになるかということくらいでした。
特に「赤い草」や「火星人の食事」については全然覚えていなかったのです。
記憶では、学校の図書館か学級文庫で借りて読んだと思うので、もしかしたら、子供向けに難しかったり、残虐だったりするシーンは削除された「子供向け」版だったのかも知れません。
そんな訳で、改めてきちんと読んでみようと思った次第です。

さて、内容ですが、作者は言わずとしれたハーバート・ジョージ・ウェルズ(H・G・ウェルズ)で、19世紀末のイギリスを舞台といた物語です。

しかも、現在進行形の話ではなく、全てが終わった後、読者もその「事件」を知っているものとして語りかけてくるような形で書かれています。
主人公である「わたし」は論文を書いて暮らしているような文系人間で、天文学については、天文学者と付き合い、自分でも趣味で望遠鏡を覗く程度の知識はあるものの、その他の科学知識はあまり持ち合わせていません。
これは、非常に上手い設定と手法だと思います。
まず一つには、なにしろ「終わった事」なので、「わたし」が生き残っていることが、びっくりするような驚異的な幸運の結果であっても、とりあえず受け入れられるということ。
そう、例えて言うなら、「奇跡体験アンビリーバボー」で、最初に本人が出て来てから、再現フィルムが流れるようなものです(笑)
そして、もう一つには、「事件」後に発表された(とされる)研究結果などを持って来て、その当時の状況を説明しながら、その当時の状況にさらされた「わたし」自体は訳が分からず逃げ回るという展開が可能だからです。
映画でこれをやろうとすると、回想シーンや独白ばっかりの訳が分からないものになってしまうところです。
小説の強みですね。
ストーリー展開としては、2つのラインがあります。
一つは「わたし」のストーリーで、もう1つはロンドンに住んでいた、「わたし」の弟のストーリーです。
「わたし」の方は、最初の隕石が落下した近くに住んでいて、そこから現れた火星人から逃げる話。

結局どちらも逃げる話ではあるのですが、「わたし」の方が、ほとんどの場面で1人、もしくは2人という少人数で行動し、逃げたり隠れたり閉じ込められたりして、どちらかというとじわじわと忍び寄る恐怖や狂気にかられていく人間の様を描いて行くのに対して、弟の方は途中2人の女性と行動を共にするようになり、割と群集と一緒に移動して行く事で、群集心理とかパニックといったことを描写する役割を担っています。
これも、一つの「事件」で違った側面を描くのに適した手法だと思います。
そして、どちらでも火星人に対する反撃シーンがあるのですが、それを行うのはあくまでも軍隊であり、「わたし」も弟も傍観者に過ぎません。
あくまでも、一般市民の立場で「事件」を見ており、この辺がスピルバーグの映画が「原作に忠実」な部分なのでしょう。
もっとも、何しろ19世紀末の作品なので、飛行機はもちろん、自動車もほとんど出て来ません。

しかも、馬車も個人が持っている代物ではないので、主人公の「わたし」が近所の居酒屋(パブ)の主人から馬車を借りて妻をいとこの家に連れて行き、馬車を返すために自宅のある町に戻って、結果妻と別れて火星人から逃げ回るくだりを読んだ時には、なんとも正直というか、のんびりした時代だったんだなぁと思ってしまいましたが(笑)
とにかく、100年以上前の作品ですから、冷静に今の常識や科学知識で見ればツッコミどころも多いのですが、読んでいる間は結構一気にいけます。
そして、「あとがき」に書かれていた、作者自身の言葉をご紹介したいと思います。
それは、作者が世間からジュール・ベルヌと比較され「第二のベルヌ」と呼ばれたりしたことについて、ベルヌという人は、科学的な検証を行って、「実際に実現しそうな事を書き、また実際に実現していることもある」とした上で、自分の作品のことについて話しているくだりです。
「けれども、私の科学小説は、可能性のあることを取り扱ってはいない。まったく相違した方面に想像を働かしているのである。みんな空想で、まじめな可能性を示したものではない。夢の中で持つぐらいの真実らしさが有れば良いと思って書いた。読み終わるまで読者を―証拠や議論によらず―文学的技巧や幻想によって―惹きつければ足りるので、読者は巻を閉じた瞬間にその不可能なことに気が付くであろう。
 かかる種類の小説の生きた興味は非空想的のところに存するのであって、発明そのものに存しない。人情小説と同じような興味を動かすのである。違った世界とか奇抜な発明とかいう空想的の要素は、我々の心に起こる驚異、恐怖または当惑の情を強化するために使用するので、それ自身は何でもない。この原則を飲み込まないと、愚かな誇張したものが出来あがる。(中略)
 空想小説の作者は読者に興味を持たせるため、まず不可能な理論を消化させなければならぬ。ありそうなことだと思わせて、その錯覚が消えぬ内に筋を発展させるので、その点に私の科学小説が最初あらわれた時には新味があったと思う。」
文章はまだ続きますが、内容としては、まずここまでで良いかと思います。
取りようによっては「開き直り」感も与えますが(笑)、本というのは(映画もですが)読んでいる(見ている)間、その物語に没頭出来て、話が楽しめれば、後から矛盾などに気が付いても、それはそれで良いじゃんか、ということですかね(笑)
実際、全部の作品が、「後に何らかの『教訓』だと『生きるための指針』だのを残さなくてはならないとは私も思っていませんし、第一、読んで絵(見て)いる間だけでも、その物語に没頭させられる作者というのは、相当な実力者です。
凡庸な力量では、途中で本を閉じられるか、席を立たれるか、寝られるかでしょう。
こういう事をさらりと言ってしまえるH・G・ウェルズという人は、やっぱりすごい人だったんだなと思います。

さて、本の内容の検証はここまでにします。
これ以上は、ネタバレになりますので(もうなってる?)。
私自身は、ひどいネタバレ文章書くのは嫌いなんですけど・・・ただ、今回原作を買って、ジョージ・パル製作の「宇宙戦争」のビデオも持っていて、スピルバーグの映画も見た今となっては、この3つを細かく比較してみたい欲求にも、正直かられています。
ブログに載せるかどうかは別として、一度自分用に書いてみようかな、とは考えています。





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最終更新日  2005年07月23日 23時32分59秒
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