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円安の影響はかなりあるのでしょう、物価の上昇が止まりません。春物商品が並び始めた売り場を歩いて感じるのは「随分高くなったなあ」。コロナ禍以前インポートブランドのナイロン地やキャンバス地小型バッグは20万円程度、若年層にはちょっと背伸びすれば手が届くエントランス価格でした。が、いまやエントランスは30万円、ブランドロゴが入ったキャンバストートはちょっと信じられない高価格になりました。 スーパーマーケットでもこの1年間食料品値上げラッシュ、誰もが物価高を実感する世の中。数年前までデフレ脱却は経済政策のキーワードでしたが、今度は一転してインフレ抑制が重要なテーマに。政府は企業側に賃上げを呼びかけ、経済団体はこれにある程度応じる構え、労働組合は今春闘は強気な姿勢。果たして物価上昇を上回る賃上げは実現するのでしょうか。 何度もSNSやこのブログで指摘してきましたが、日本のアニメ漫画は世界で高く評価されているものの、儲けは日本側に入らず海外勢が儲けるだけ、いつまでたっても制作現場は低賃金と不当な残業で「ブラック」です。日本側がしっかり権利主張して儲けを取り戻し、制作現場の処遇改善を進めてブラック企業からの脱却を実現して初めて「クールジャパン」と言えるのであって、海外勢を儲けさせるだけではいくらコンテンツが高付加価値でもクールじゃないです。 C F D(東京ファッションデザイナー協議会)の事務局を預かってファッション流通業界にいろんな提言をしているとき、デザインの盗用問題と共に販売員の処遇改善の呼びかけには力を入れました。ちょうど「夜霧のハウスマヌカン」というファッションブランドの販売員の日常を皮肉った歌がヒット、これにはものすごい抵抗がありました。真面目に働く販売員がいっぱいいるのに彼らをからかう歌、業界人の一人として腹がたちましたが、同時にその原因は業界側にもあると思いました。 このブログを書き始めた頃、ある大手アパレル企業で息子が働いているという女性から突然メールを頂戴しました。都内有名私立大学を卒業して大手企業に就職、これでやっと親の仕送りを終えることができると思ったら、社会人1年生の息子から仕送り継続を頼まれたとか。息子に状況確認したら、最初は店頭で販売職からスタート、試着販売のため会社から支給されるユニホーム用以外に自社商品を購入せねばならず、給料から天引きされると毎月手取りはほとんどゼロ。試着販売の服を買わせて社員の手取りがほとんどないなんてブラック企業ではないでしょうか、そんな内容のメールでした。 私は「そうですね」と同意するしかありませんでした。これが、私の関係する企業に対するご批判であれば、しっかり反論しました。なぜなら、われわれは試着販売の服を社員に負担させないようルールを改善、総合職と販売職の給与格差の是正に取り組んでいましたから。他社のことは内情をよく知らずに説明できませんので、曖昧な返信を差し上げたと記憶しています。おそらくファッション企業で子供が働く親御さん、同じ思いの方はいまも多いのではないでしょうか 一般的にファッション流通企業では総合職と販売職をわけ、処遇の差も明確に提示して新卒採用します。入社時から両者の給与格差は明白なのでしょうが、どうして総合職の方が初任給は多いのでしょうか。総合職と販売職を分けることさえ私は意味があるとは思えないのです。 自分が責任者のとき、総合職採用も1年程度は全員が店頭での販売業務(これが嫌ならどうぞ他社を受験してくださいという姿勢)、また本社M Dや販促担当などは販売経験のある社員をどんどん抜擢する仕組みに改善しました。だから総合職と販売職の給与をわける意味がありません。財源が必要なので時間はかかりましたが、給与体系一本化に向けてみんなで努力したものです。(その後のことはわかりません) 販売員にはよく言いました。「自動販売機でも販売はできる」と。ファッション販売のプロとなって発注に責任を持ち、マーチャンダイジングの知識を持って仕事してくださいとも言いました。店長に発注権を渡したのも、マーチャンダイジングをゼミ形式で丁寧に教えたのも、販売の仕事を変えたかったから。精度の高い発注ができて店頭で良いチームを作れる店長はプロ、それなりに処遇するのは企業として当然と幹部たちには言い続けました。だから他の会社に比べると販売職の研修は充実、素晴らしい発注をさらりとやってのける店長が増え、高いプロパー消化率を維持できました。 百貨店に復帰してお取引先の店長さんにマーチャンダイジング講座を開いたとき、あるファッションブランドの店長さんからこんなことを言われました。「◯◯◯(私が所属した会社)のショップはどこか違うと感じていましたが、講座に参加してその理由がわかりました」、と。「どこか違う」と感じていた競合ブランド店長さんがいたと知ってものすごく嬉しかったですね。 そもそも総合職って何なんでしょう。近年は売り場をほとんど回らず、デスクのパソコンをパチパチしてるのか会議ばかりしてる人が増えたと感じます。アパレルメーカーの営業担当と売り場で出会う機会は極端に減りました。幹部の大半が営業部門の総合職という企業はいまも多いでしょうが、それでは時代が読めず世界のブランドと戦えないのではないでしょうか。改めて思うのです、総合職と販売職をわけて採用すること自体そろそろ再考してみては、と。でないとずっと本社や営業所のデスクにいて売り場に関心持たない社員が増えるのではないでしょうか。加えて、人口減少の中、社員の定年延長も真剣に考える時期ではと思います。ミナペルホネンが高齢者を新たに販売員採用して話題になりましたが、経験豊富な販売員は相当な戦力になるはずです。欧米のようにキャリアの長い販売員が売り場にいるとショップ全体に安心感が生まれると思います。ミナペルホネンに続く会社が現れるといいんですが。
2024.01.29
今日はファッション流通業に関することではなく、ガキの頃に私を導いてくれたありがたい恩師のことを書きます。私は三重県桑名市で生まれ、育ちました。桑名市立益世小学校で4人、桑名市立光風小学校で2人、県立桑名高等学校で2人の担任の先生にお世話になり、それぞれ卒業時の担任の3人の先生とは長らく年賀状のやり取りが続いています。残念ながら数年前光風中学3年生の担任だった小黒哲郎先生はお亡くなりになりました。桑名市立益世小学校益世小学校に入学して最初の2年間は女性の饗庭渚(あいば・なぎさ)先生が担任でした。先生には私と同年齢の娘さんがいて、のちに彼女とは高校で同じクラスになり、同時期に上京し、私がニューヨークに住んでいた頃は航空会社CAさん、ニューヨーク便業務の際はわが愛煙ショートホープを買ってきてもらう仲でした。わが人生で後にも先にも一番素晴らしい成績表をもらったのが小学2年生3学期。2年間お世話になった饗庭先生から成績表を手渡されたとき「太田くん、放課後残ってください」と言われました。成績評価に大満足だったのに、教室にただ一人残されて先生からしばしお説教。「将来あなたはこの学校のリーダーにならなきゃいけない子なのに、自覚が足りず悪戯ばかりしている。3年生になったら行動を改めなさい」、と。確かに私は悪戯をしては叱られ、教室の後方に何度も立たされていましたから。このときから先生が言った「リーダー」という言葉を意識するようになりました。それ以降3年生から6年生まで一学期に学級委員、加えて卒業時は生徒会長として答辞を即興で述べ(生徒会長が担当するとは事前に聞いていなかった)、饗庭先生にも褒められました。もしも2年生修了の放課後に先生から説教されなかったら、リーダーなんて意識することなくずっと悪戯少年のままだったでしょうし、生徒会長にはなれなかったでしょう。大人になってからこれまでまがりなりにもいろんな組織で取りまとめ役、リーダー役を演じてこれたのは、饗庭先生の説教が原点にあります。なので私を導いてくれた最初の恩師は小学1、2年の担任でした。仲良しの娘さんからは母上はご健在と聞いていますが、先生には元気で長生きして欲しいです。三重県立桑名高等学校つぎに、人生で最も迷惑をかけた恩師は桑名高校2年と3年の担任だった小林明男先生、恐らく先生の教員人生で最も手を焼いた悪ガキは私です。高校1年生英語リーダーの授業はほかのクラス担任だった若い小林先生でした。教科書に登場する旧約聖書の巨人兵士「ゴリアテ」の発音記号は「グァライアス」、しかし英語教育が有名な名古屋の名門南山大学英文科出身のはずがなぜか「ゴリアテ」と発音する。英語リーダー担当教員は発音記号に忠実な読み方をすべき、だからついたあだ名はゴリアテでした。1年生の授業中、ゴリアテは「キミら、こんな歌知ってるか?」と突然英語で歌いだしました。1960年代反戦フォークソングを世界に広めたPPM(ピーター、ポール&マリー)の「500マイル」。なぜゴリアテがこれを突然歌いだしたのか理由はわかりません。英語に自信があった私は下手くそな発音の英語教師をなめていましたが、ゴリアテの歌とPPMの話には素直に感動、下校時に街のレコードショップに寄り道してLPレコードを購入しました。高校3年間レコードがすり減るくらい聞いたのは「500マイル」「花はどこへ行った」「悲惨な戦争」「風に吹かれて」が入ったこのアルバムでした。恩師に感化され初めて買ったPPMのレコード2年生になるとクラス担任はゴリアテに。このとき私と学年主任(古典のF先生)との騒動が続きました。修学旅行前の中間試験のとき、F先生が私の席までやってきてこう言いました。F:「キミ、(制服の)帽子はどうした?」私:「今日は忘れました」(本当にこの日だけ忘れたんです)F:「なんだ、この上履きは?」 (私の上履きは学校の購買部で買ったピンクとグレーのギンガムチェック) 私:「購買部で売ってた」F:「男子がこんな(ピンク)の履いて良いのか?」私:「男子用、女子用と書いてなかった。文句あるなら購買部に言ってよ」 (返事に困ったF先生が去った後すぐゴリアテが血相変えて登場)G:「太田、F先生に謝って来い」私:「なんでや。購買部で買ったスリッパに文句言ったのはFだぞ」G:「とにかく謝って来い」私:「謝る理由がない。俺は絶対に謝らない」 (ゴリアテは諦めて職員室に戻っていきました)数日後の全校朝礼、学年主任は「本校で制帽をかぶらず通学していたのはたった1名だけ。みんなは規則を守っているので安心しました」と嫌味な発言。翌年大学受験直前の全国共通模擬テストで奇跡の好成績をとるまでF先生と私のバトルは続きました。大学受験時に文系私立大学志望の私は英語と世界史は満点狙い、古典を含む国語は0点でも合格できそうな採点配分の大学を受験しました。F先生が教える古典は一切勉強せず、大学受験は国語放棄での合格作戦でした。上履き事件の後九州への修学旅行に。うざいことにF先生はじっと私のそばで私の行動を監視です。全15クラス(総勢750人の大移動)の担任の中でゴリアテは最年少教師だからでしょう、わがクラスの男子生徒だけは大阪港から別府港までの関西汽船の船中で部屋はなく、食堂を片して床にゴザを敷く船員以下の待遇でした。私たちは反発、提供された枕と毛布は瀬戸内海に放り投げました。そして、別府港に到着した初日もちょっとした事件があって我々男子生徒はゴリアテから謹慎を宣告され、現地で私服を着てはならないとなりました。ゴリアテはほかの先輩教師の手前私たちに謹慎処分を発するしかなかったのでしょう。当然私たちは抵抗します。わがクラスのバスガイドが「右手に見えますのは」と説明すれば、女子生徒も含めクラス全員が左方向を見ます。「合唱しましょう」とガイドに言われれば、誰も歌わない。最後にバスガイドが泣き出しました。観光バスが信号停車するたび、「私は桑名高校教諭の小林明男です。生徒に拉致されているので助けてください」と書いたビラを窓から多数ばらまきました。その夜私たちの部屋に来て「太田、仲直りしようやないか」と言うので、「私服禁止の謹慎処分を解除してくれたら」とゴリアテに条件提示。地元警察にビラが届いて宿泊先に問い合わせが入ったと聞いたのは修学旅行の後、ゴリアテは「親、呼んで来い」でした。もちろん「親には関係ない」と拒否しました。3年生になるとき、仲間で私だけが担任はゴリアテのまま。目を離すとかえって面倒と思ったのか、リーダーシップに少しは期待してくれたのかはわかりません。5月のゴールデンウイーク明け、私は名古屋の栄公園でおまわりさんに補導されました。タバコ所持です。三重県と愛知県、県警が違うと処分はどうなるかわからないと交番で脅され、翌日ゴリアテに「昨日タバコで補導された」と報告。「お前には期待してたんだがな。親に言うしかない」。私はオヤジが怖かったのでそれだけは勘弁してくれと頼みましたが、このときだけは聞き入れてもらえませんでした。翌日から卒業するまでの数か月、朝の点呼のあと連日「太田、職員室に来い」。ゴリアテはうまそうにタバコを吸いながら私に煙をかけて「もう吸ってないやろな」。私は補導された日から卒業まで禁煙、でも疑ってたのでしょう、連日こうやってチェックされました。高校時代はサッカーに夢中、ほとんど勉強をしたことがなかった私の成績は低レベル、とてもじゃないけど名だたる大学に行ける出来ではありません。が、10月にオヤジが病で倒れ、ことによると翌年浪人する余裕がなくなるかもしれないと思って突如ガリ勉くんに変身。それまでずっと最後方だった自分の席を先生の眼前の席に移しました。いつも授業中寝てるか悪戯していた私が急に勉強し始めたのですからクラスメイトは驚いていました。大学入学試験の願書提出が迫ったとき、ゴリアテの個人面談がありました。G:「太田、滑り止めを受験せんとあかんやないか」私:「南山大学を2つも受験する」G:「おまえの成績では南山は滑り止めにはならん」私:「いまはちゃんと勉強してるから大丈夫」 (問題児が滑り止めに母校を選ぶなんて許せなかったでしょうね)G:「早稲田と明治を受験するなんて、東京6大学やぞ。無理っちゃうか」私:「東京6大学は野球の話や、受験には関係ないわ」名古屋の大学を卒業して三重県北部の高校に赴任、東京の大学事情なんてほとんど知らない田舎の高校教師の助言は無視でした。その頃、全国大学入試模擬テストでどういうわけか国語がなんと学校で1番、国語0点作戦の私ですからもちろんマグレ。が、職員室で遭遇した宿敵F先生は「太田くん、最近頑張ってるねえ」と。「ちょっと成績が上がるとこんなに態度変わるんか」と返してやりたかったけど、またまたゴリアテに迷惑かけそうなのでやめました。同窓会で挨拶する小林明男先生運良く南山大学の2学部と明治も合格、ゴリアテはすごく喜んでくれました。そして卒業から今日まで律儀に年賀状をくれます。25年ぶりに地元で同窓会があったとき、私が送った新著を会場に持参して教え子たちに「太田が本を書いたんや」。同級生たちは「先生、みんな持ってるよ」と大笑いでした。私がサッカーゴール後方の校舎窓ガラスを割ったこともあったので、卒業後サッカーゴールと校舎の間には大きな金網が設置されました。生意気な私を取り囲んだ上級生を威嚇するため、ヤンキー丸出しの長ーい学ランを着た名古屋のちょいワル高校生(サッカー仲間ら)をわが校に呼んだこともあり、卒業後に他校生徒の出入りは全面禁止になったそうです。軟式と硬式野球部にソフトボール部、陸上部があるため運動場が狭いからとサッカー部でなく(近隣高校に何度も勝利して弱くはないのに)同好会のままだったので校長先生に抗議したら、卒業後正式にサッカー部にしてくれました。こういうとき若いゴリアテは学年主任や校長からたびたび嫌味を言われていたでしょうね。出来の悪い生徒ほどかわいいという説がありますが、強烈な印象だけは残っているはず。饗庭先生、小林先生だけでなく、小中高校と私は多くの先生方に守られ育ちました。本当にありがたいことです。
2024.01.27
2018年伊勢神宮で行われた「建築学生ワークショップ2018」以来、19年出雲大社、20年東大寺、21年明治神宮(コロナの影響で延期22年春実施)、22年厳島神社、23年仁和寺とお手伝いしてきたイベント、今年は京都の醍醐寺での開催です。将来建築家を目指している学生さんにはぜひエントリーして欲しいです。現在参加申し込みを受け付けていますので詳細はこちらをご覧ください。 https://ws.aaf.ac/開催地のことをチームで徹底的に調べ、自分たちの設計テーマ、コンセプトを決め、小さな建築物を実際に現地で制作して講評者に見てもらうユニークな実践教育。毎回参加するたびファッションデザインの世界でも同じような実践教育イベントができたらいいなあと思います。
2024.01.25
能登半島の余震、なかなかおさまりません。連日テレビ画面上部に地震速報のテロップが現れるたび、東京で揺れは感じませんがドキッとします。地元中学生の集団疎開、勉強できる環境を求めて参加した生徒もいれば、地元から離れたくないと避難所に残った生徒もいて、中学生社会の分断に心が痛みます。震災後自分たちは何ができるのか、やれることをやってみようと動いたことが過去二度あります。1995年の阪神淡路大震災、東京ファッションデザイナー協議会議長としての最後の仕事は有料チャリティーファッションショーを企画して収益と募金を被災地に贈ることでした。デザイナーの皆さんはそれぞれの個性を表現しにくいジョイントショーは大嫌い、でも今回だけは黙って参加してくださいと呼びかけてどうにか実現しました。東日本大震災直後救済イベントのビジュアル2011年百貨店に復帰した直後の東日本大震災、被災地のためにみんなで被災地救済チャリティーを企画、地震の1カ月後に全館あげての救済イベントを実施しました。正面ウインドーに貼った全社員の被災地に向けた多数のメッセージカードを写メしながら涙を流すお客様、東北の食材を買い物カゴに入れながら「被災地のためになるのよね」と涙を浮かべながらお買い物されるお客様には心打たれました。このときルイヴィトンのマーク・ジェイコブスさん、靴デザインのクリスチャン・ルブタンさん、日本では山本耀司さんなど世界各国デザイナーがチャリティーオークションに協力してくれました。イベントのことをネットで知った南相馬の避難所暮らしの女性から感謝のメッセージをいただき、社員からは「この会社で働いていることを誇りに思います」と泣けてくるメールをもらい、私も感動させてもらいました。「百貨店にはまだやれることがある」とチャリティーイベントの模様を長年のライバル店幹部に伝え、一緒にファッションイベントを始めたのも大震災直後の救済チャリティーがきっかけでした。GINZA FASHION WEEKのウインドー能登半島の惨状を見るにつけ、ファッション流通業界は何ができるんだろうと考えさせられます。被災地には世界に誇る繊維産業がありますし、ハイレベルな衣食住関連商品を長年作ってきた工房や工場も多数。生地を織れなくなった繊維会社、醸造が困難になった蔵元、津波で魚市場や水産加工所が被害にあって魚介類を全国に送れなくなった漁業組合、彼らのため我々にできることは何なのか、みんなで考えたいですね。 * * * * * 昨年12月の杭州でのセミナーさて、12月杭州で中国ファッション業界の経営者たちに向けてセミナーをやらせてもらいましたが、それがご縁で2月下旬に上海と広州を訪問することになりました。2月中旬はお正月にあたる春節、中国企業のほとんどはお休みになり、多くの中国人は旅行に出ます。なのでセミナー時に投影するテキストを早めに制作して春節前に現地通訳さんに翻訳してもらわねばなりません。ここ数日はその資料作りに没頭、やっと完成したのでセミナー主催者にメール送信しました。今回は普段日本で指導している「マーチャンダイジングの基礎」を中心に講演します。誰に、何を、どのように、いくつ販売するつもりなのか仮説を立て、販売計画をみんなで話し合って能動的販売を心がけましょうというストーリー。前回杭州でお世話になった素晴らしい通訳さんが再度手伝ってくださると伺ってますので、前回以上に私の意図を理解して訳してくれるはず。海外セミナーは通訳さんの出来不出来で成果は決まりますから心強いです。先日お会いしたテキスタイル業界の重鎮と中国ファッション企業の経営者たちのことが話題になりました。プレミアムテキスタイル展ベストニットセレクション展これまで日本でもたくさんセミナーや社内研修を引き受けてきましたが、概して日本では最後の質疑応答は形式的、経営者は「いいお話を伺いました」とは言ってくれますが次のアクションはほとんど何もありません。一方の中国は質疑応答は司会者が止めなければ延々と続き、その場にいた経営者は「もっと教えてもらえませんか」、「今度はわが社の社員に研修してくれませんか」と積極的。このリアクションの差はなんでしょう、という話になりました。創業10年足らずの新興ベンチャー企業数社がしのぎを削って電気自動車を一気に普及させた中国に対し、日本では電気自動車の普及は大幅に遅れている。経営者の改善しようとする情熱、探求心あるいは時代を読む力の違いでしょうか。先月杭州での講演と同じ話をもしも日本でやったとしても、中国のようにその続きを講演依頼する会社は恐らく現れないでしょう。来月の中国出張ではバージョンアップした次のレベルの話をせねばと、前回以上に一生懸命テキストを作りました。仮に来月の講義が及第点ならばそのまた次の要請が来るでしょうし、彼らの胸に刺さらなければ次の話は全くないと思います。言い方を換えれば、中国は「いいお話を伺いました」で終わる社会ではなく、ビジネス講演でさえ真剣勝負、スピーチする側には緊迫感がつきものなんでしょう。大学卒業後渡米してから私は組織人でなく一匹オオカミとして仕事をしてきたので、案外中国社会とは肌が合うかもしれません。振り返ってみれば、これまで日本では「空約束」を何度も経験しました。お会いするたび「今度ぜひお話を伺いたい」や「今度ぜひ一献」と言ってくださる企業や組織の幹部は多いんですが、その大半は実現しないまま。もちろん中にはそういう挨拶を交わした翌日すぐ連絡があって研修の依頼や会食アポが入ったケースはありましたが、あいさつ代わりに言っただけというケースはかなり多かった。帰国してデザイナー協議会を始めた頃は私も若かったので、そのお誘い言葉は単なる社交辞令、その気はさらさらないとは知りませんでした。大人たちの空約束や、こちらがあまりに若過ぎてアポのお偉いさんがしらけた顔をするケースが頻繁だったので、私はあえてネクタイの着用を止め年中ノータイスタイルになりました。若造がノータイで面会の場に現れるとムッとした表情になるお偉いさんたち、彼らにあれこれ説明したり協力要請するのは時間の無駄、こういう人ならさっさと面談を切り上げたものです。当時は若かったので相手にされないのも無理ありませんが、ベテランになってからも空約束や社交辞令は続きましたから日本のビジネス界の習慣なんでしょう。ポリエステルメーカーの工場前述のテキスタイル業界の重鎮に申し上げました。中国にはもっと日本の素材を起用して上質なファッション商品を作ってみたいと考える経営者もいます。彼らに日本素材の起用を促す具体的な仕掛けを業界全体で考えるべき時期に来ている。市場規模を考えても、日本企業の将来性を考えても、やる気のある中国企業に本気で売り込む体制作りに早く取り組むべき、と。セミナーのあとのリアクションのスピードを見ればやる気のある中国企業と向き合う方がテキスタイルメーカーにはプラスです。能登地震被災地は世界にその技術を誇る合繊生産拠点も含まれます。被災地支援のためにも、海外バイヤー招聘予算を持っている公的機関、テキスタイル展やニット展示会の運営関係者には、リアクションのスピードが速く市場規模の大きな国への訴求策を具体的に考えて欲しいです。
2024.01.20
前項「社員のお母さん」が1970年に自宅で起業したのは30歳になるかならないか、会社経営を学校で学んだわけでもないし、当時はまだ男性社会で苦労も多かったはず。しかも創業の翌年早くも三宅一生さんはニューヨークでデビュー、73年にはパリコレ進出、きっと資金繰りも大変だったでしょう。出産前の大きなお腹を抱えて資金調達に関西出張した話を小室さんから伺いました。いつの時代もいかなるジャンルでも先駆者はお手本がないので苦労の連続です。小室知子さん(ソルトンセサミお仲間のブログから引用)ソルトンセサミのお仲間と。右から2番目が小室さん。CFD(東京ファッションデザイナー協議会)を設立してちょうど1年経過した頃、私がニューヨークのパーソンズ(PARSONS SCHOOLF DESIGN)夜間バイヤー養成プログラムで学んだことを日本の若者にも伝えようと、個人的な勉強会「月曜会」を開講しました。ここで一番伝えたかったことは、「売り場を歩いて時代の変化に敏感になる」でした。パーソンズで「敵情視察」(2つの店を調べて比較分析、改善点を考える訓練)の宿題が一番きつかったし、同時に人生で最も役に立った講義、これを日本でも教えようと私塾を始めたのです。月曜会の授業料は無料、週一度講義があり、宿題もたっぷり出す。外部講師への謝金は私が業界セミナーで得た講演料でカバー、会場はCFD会議室を使用するので無料。受講生は一般公募、その告知は夏休み期間中に繊研新聞に記事掲載してもらいました。普通に募集すれば職場や学校で記事が目に留まることもあるでしょうが、夏休みならば自宅購読していないと気がつきません。せめて専門紙の1つくらいは自宅で読んでいるやる気のある若者を集めたかったので、あえて夏休みに募集しました。選抜レポートで応募者の中から参加者を決めましたが、正直に言えば毎回1枠だけ例外がありました。CFDの運営で何かと私の力になってくれる小室知子さんの推薦枠、小室さんが指名したイッセイグループの若者が毎回1人参加していました。当時主にショップデザインを担当していた吉岡徳仁さん、滝沢直己さんのイッセイミヤケで雑貨デザインを担当した小此木達也さん、独立後バッグブランドMagnu(マヌー)を手掛けた伊藤卓哉さん、彼らは特別枠での参加でした。吉岡徳仁さんはユニークな存在でした。宿題とは別に毎回全受講生には感想文を提出してもらうんですが、彼だけは毎回文章の代わりに詩を書いてきました。外部講師の話に対して自分なりに感じたことを詩に書く、それがなかなかマトを得ていて説得力あるものでした。昨秋の毎日ファッション大賞授賞式で彼とは久しぶりに会いましたが(同賞トロフィーは吉岡さんデザイン)、「太田さんの顔を見たら月曜会を思い出しました。楽しかったですよね」、と。彼の詩に「楽しい」の文字は見たことなかったですが、懐かしそうに声をかけてくれて嬉しかったです。もうひとりバオバオイッセイミヤケのバッグを考案した松村光さんも参加者でした。彼はすでに三宅デザイン事務所に在籍して小室さんの推薦だったのか、それともまだ武蔵野美術大学大学院生で自主応募だったのか忘れましたが、彼も月曜会の塾生でした。デザイナーのほかにも素材メーカーや小売店勤務、ショーのプロデュース会社やデザイナーアパレルで中核メンバーとして活躍している教え子もいます。CFD事務局で開催する無料の私塾、会員企業の従業員が参加してもいいんですが、CFDのほかの会員企業は興味がなかったようで頼まれることはありませんでした。また、私たちが設立に奔走したIFIビジネススクール(1994年秋開講)の夜間プロフェッショナルコースにも、イッセイグループ社員(エイネット含む)が毎回参加していました。こちらは授業料有料、参加のための審査はありません。小室さんはこういう場で若い社員が刺激を受け、他社の人たちと交流して視野を広げることが重要とお考えだったのでしょう。ビジネススクールに毎回若手社員を送ってきたブランド企業はイッセイミヤケグループだけでした。山中IFI理事長(中央)の背後にイッセイグループ社員主だったファッションブランドは年2回はコレクション発表(メンズ、レディース両方を展開するブランドは年4回)があり、コレクション発表直前と展示会準備で企画部門も営業部門も残業が当たり前、中にはタイムカードなしのサービス残業をさせるブラック企業も少なくありません。だから従業員は自己啓発の機会が少ない。これでは視野の広い人材、人脈ネットワークのある人材はなかなか育ちません。サービス残業はもってのほか、ブランド企業幹部は残業をやめさせ、社員を時間通りに解放して自己啓発や他社との交流の時間を与えるべきだと思います。せっかくファッション流通業界の人材育成のためにビジネススクールを作っても(設立に奔走していた私は当時CFD議長)、ファッションブランド企業からの受講生はほとんどなく、イッセイグループの社員たちだけが参加者でした。世界的に知名度の高いブランド企業の創業者が若い従業員を私設勉強会やビジネススクールに送り込んで経験を積ませる、ブランド企業の幹部にはぜひ考えて欲しいことです。本来、企業はヒト、モノ、カネの順。近年はカネ、モノ、ヒトの順と考える経営者は決して少なくないように感じますし、クリエーションが重要なブランド企業はまず最初にモノありきかもしれません。が、いくらアトリエのクリエーションが秀逸でも、ヒトを育てないことには企業の発展はありません。小室さんはグループのお母さんとして多くの子供たちにチャンスを与えてきました。加えて、自宅に若い社員たちを呼んでは社員たちの忌憚のない意見をよく聞いていましたし、グループから独立した社員たちが開く展示会には頻繁に足を運んで励まし、応援のために個人発注もされていました。もちろんグループの発展には歴史に名を残すカリスマデザイナーの存在が大きかったし、ほかに優れたテキスタイルデザイナーや熟練パタンナーの存在もありましたが、人材育成に熱心だった創業マネージャーの存在も大きかったと思います。グループ卒業生がファッション業界でたくさん活躍しているのも、ヒトに学ぶチャンスを与えてきたからではないでしょうか。
2024.01.14
能登半島地震の被害者の皆様の労苦をニュースで見るたび心が痛みます。いまも強い余震が続き、断水に停電、道路は遮断されて救援物資は届かず、かなり厳しい状況に変わりありません。1日も早い復旧をお祈りします。年明け早々写真家篠山紀信さんの訃報が届きました。そして、篠山紀信さんの名前を聞くと反射的に思い出す方がいます。三宅一生さん(1938年ー2022年)の創業パートナー小室知子さん。このブログ「交友録40」でも少し触れましたが、私が尊敬するファッション業界人のお一人。イッセイミヤケグループの「落穂拾い」を自認、グループの扇の要であり、社員たちにはお母さんのような存在です。(右)小室知子さん(中)資生堂池田守男さん 1997年撮影まだ米国まで直行便が飛んでいなかった時代、小室さんはメーキャップアーチストを目指して米国西海岸に留学するはずでした。ところがいまで言う留学詐欺に引っ掛かり、現地入りするも目指す学校には入学できなかったそうです。せっかく米国に渡ったのだから1年くらいは住んでみようと遊学を決め、帰国して講談社の女性誌編集長と出会ってファッションページを担当する仕事に。その頃多摩美術大学を卒業してフリーランスだったパリ留学前の三宅一生さんと出会います。帰国後小室さんが関わった女性誌表紙アンアン、ノンノが発行されていなかった頃の女性誌は巻頭カラーの数ページをファッションにあてていました。婦人服メーカーや小売店、ファッションデザイナーの作品を紹介する巻頭ページに大学を卒業したばかりの三宅さんに声をかけましたが、個人で服を作っている青年にはサンプルを制作する十分な資金がありません。企業やすでに活躍しているデザイナーから撮影用サンプルを無償提供されるのが当たり前だった時代、「制作費はどうなるんですか」の三宅さんの質問にはハッとしたそうです。このやりとりで小室さんにははっきり記憶に残るデザイナーとなりました。その後、三宅さんは鯨岡阿美子さんらに勧められてパリのオートクチュール協会が主宰するモード学校に留学、オートクチュールメゾンのジバンシイやギラロッシュでアシスタントとして働きます。1968年三宅さんはパリ五月革命に遭遇して「特権階級のためのオートクチュールでなく、一般市民のための既製服を作ろう」と時代の変化を感じてニューヨークに移り、米国トップデザイナーのジェフリービーンで既製服作りを体験して帰国しました。一方の小室さんは雑誌の世界からスタイリストとして広告業界に身を置きます。天才CM作家としていまでも語られる杉山登志さん(1936年〜1973年。「リッチでないのに リッチな世界などわかりません ハッピーでないのに ハッピーな世界などわかりません」という遺書を残して自殺)や、カメラマンの横須賀功光さん(1937年ー2003年)と組んで資生堂などのTVコマーシャルや広告写真撮影に携わっていました。ちなみに「貼っても貼ってもすぐ盗まれるポスター」第1号は前田美波里がモデルとなった資生堂のポスター(写真下)、そのスチールは横須賀さん、映像は杉山さん、スタイリストは小室さんでした。前田美波里を起用した資生堂ポスター(撮影:横須賀功光)そして、湘南海岸で運命の再会。湘南に遊びに行った小室さんは、あの青年デザイナーとバッタリ遭遇します。いずれ日本でデザイン会社を作りたいと三宅さんから抱負を聞いた小室さんは、仕事仲間だったカメラマンたちに出資協力を呼びかけ、下落合の自宅マンションを登記所在地に1970年株式会社三宅デザイン事務所を設立します。このとき小室さんは弱冠30歳寸前、新進気鋭の写真家だった横須賀功光さんや篠山紀信さんよりも若い女性、思い切った決断でした。もうひとつエピソードを。杉山登志さんと共に旭化成のCM撮影地で小室さんは宣伝部の女性社員から「どうやったらスタイリストになれますか?」と声をかけられます。それから数年後小室さんが彼女の姿を再び見かけたのは、最初に三宅デザイン事務所がオフィスを構えた赤坂の小さなマンションでした。なんと上層階であのときの女性は一足早くファッションブランドを立ち上げていたのです。誰だかもうおわかりですよね。世界の次世代デザイナーたちに多大な影響を与えたジャパンブランド2つは偶然にも同じマンションにオフィスがありました。1970年に創業、翌年にはニューヨークでコレクション発表、1973年にはパリコレに参加してイッセイミヤケの名前はあっという間に世界で知られるようになりました。三宅デザイン事務所には多くのデザイナーやパタンナー、テキスタイルデザイナーが集まり、巣立って行きましたが、グループを卒業した後も小室さんはずっと目をかけていました。なので退職して時間が経過しても卒業生たちにはお母さんのままでした。1985年東京ファッションデザイナー協議会が発足、このとき事務所探しはじめいろんな相談に乗ってくれたのが小室さんでした。協議会事務局を預かる私のところにはたくさんのデザイナーやアパレル企業幹部が契約解消や新ブランド立ち上げの相談にやってきました。このとき私が「これをテキストと思って読んでください」と渡していたのが、三宅デザイン事務所創業15年の85年に旺文社から出版された「一生たち」、小室さんの思いが詰まった本でした。旺文社「一生たち」この本は三宅さんのクリエーションではなく、デザイン事務所で働く全員のインタビューが収録され、いろんな立場の人がそれぞれ役割を担っていることがよくわかる解説書、言い換えればデザイン会社の企業秘密を公開したような内容でした。デザイナー個人の才能だけではブランドビジネスは成立しない、チームとしての組織力が成功には不可欠と教えてくれるバイブル、だから私は訪ねてくる若いデザイナーたちにこれを配りました。1985年当時はバブル時代のど真ん中、簡単にブランドビジネスできると勘違いしていた若者や企業が多く、業界全体が浮き足立っていましたから。協議会の運営方針やメディア対応などで三宅さんと私が意見衝突すると、三宅さんのパートナーである小室さんは私の主張を入れてよく三宅さんを説得してくれました。時には副社長辞任を申し出て部外者の私をかばってくれました。デザイナー企業では創業デザイナーのイエスマン幹部がほとんどでしたが、小室さんのおかげで三宅さんとは衝突してもすぐ和解できました。だから私は長きにわたり年長の三宅さんと遠慮なく話せる関係でいられたのです。三宅さんと小室さんは、天才ミュージシャンとバックステージの敏腕マネージャーのような関係だったと思います。「三宅の夢を実現するために私たちは働いています」、このフレーズを何度も聞きましたが、小室さんは黒子に徹してご自身はほとんど表には出てきません。だからマスコミ関係者はイッセイグループにおける小室さんの役割、存在価値をほとんど知らなかったのではないでしょうか。すでに三宅さんはこの世になく、創業当時からブランドが世界で認知されるまでのプロセスは小室さんしかわかりません。ファッション業界全体のためにも、黎明期のデザイナービジネスの扇の要がお元気なうちにどなたかインタビューして1冊にまとめてくれないでしょうか。大切な秘話がいっぱい出てくると思いますが....。
2024.01.06
謹賀新年2024本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。年が明けていきなり能登半島を襲った震度7の大地震。多くの家屋が倒壊、道路は遮断され、断水、停電、犠牲者は少なくなく、あらためて日本は地震に弱い国だと実感しました。余震のニュース速報が流れる中、今度は羽田空港で被災地に救援物資を届けるために離陸予定だった海上保安庁の飛行機と着陸してきた日本航空機が衝突する大事故、正月から胸が痛みます。与党の裏金問題で政権は不安定、増税前のわずかな減税に国民はしらけ、円安と物価上昇で生活は苦しくなるばかり、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」だったはずがいつの間にかテクノロジーではどんどん遅れをとって元気度では先進7カ国でビリになり、この先日本はどうなるんだろうとちょっと不安になります。いま日本が世界に誇れるのはドジャースに移籍した大谷翔平ら日本人メジャーリーガー、ヨーロッパ各国リーグで活躍する三苫薫らサッカー選手、世界陸上選手権女子やり投げ金メダルの北口榛花選手など若きスポーツ選手だけでしょうか。昨年末久しぶりに中国出張して、中国の進化スピードに驚かされました。電気自動車の普及はハンパない、すでに電機メーカーが自動車販売を開始、名刺交換は紙でなく大半がスマホ、駐車場の決済はスマホQRコード、すぐに車がやってくる配車アプリ、日本より1歩も2歩も進んでいました。多分日本はもう中国に追い付けないところにいるんでしょう。ただひとつだけ、まだ虎の子「クリエーション」があるかもとは思いました。昨年秋から中国の業界人には何度も「クリエーションとビジネスの関係」をお話ししてきました。2月中国でのセミナーでも、クリエーションをどう育てるのか、よりクリエイティブな商品をどうつくるのかをお話しする予定です。日本がものづくりでのクリエーションとクラフトマンシップを失ったら、もう残るものはありません。マンガ、アニメもそうですが、創作自体はハイレベルでもこれらで稼ぐのは外国企業では話になりません。パリコレに参加しようがプルミエールヴィジョンやミラノサローネに出品しようが、クリエーションする側が外国企業を儲けさせるだけでは意味ありません。クリエーションとクラフトマンシップで日本が簡単におまけしないでしっかり稼ぐ、これこそが本当の意味での「クールジャパン」だと思います。頑張りましょう。
2024.01.03
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