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前項では文化服装学院ファッション流通専攻過程(3年制)を卒業した元部下たちのことに触れましたが、今日は文化学園を大きな学校法人に育てた前理事長の大沼淳さんとのやりとりを。大沼淳さん(1928-2020年)東京ファッションデザイナー協議会議長をだった頃、繊研新聞社編集局長の松尾武幸さんからちょっと変わった忘年会に誘われました。松尾さんの業界仲間で映画鑑賞が趣味の人との親睦会にゲストとして来ないか、と。メンバーは西武百貨店渋谷店長だった水野誠一さん(のちに社長)、オンワード樫山専務の高田健治さん(のちに副社長)、店舗システム協会専務理事の高山れい子さん、文化学園秘書室長の相澤たまきさんと松尾さんの5人。同じ映画をそれぞれ映画館で観て後日集まり、その映画をサカナに会食する会、忘年会はそれぞれがゲストを同伴する特別企画でした。このとき文化学園大沼理事長と初めてじっくり話ができました。第二次大戦直後、マッカーサー司令官のGHQは日本の官僚システムを是正するため若手官僚を集めて地方合宿、そこで米国式の民主的な組織運営を叩きこんだそうですが、人事院の役人だった大沼さんもそれに強制的に参加させられ、組織マネジメントの教育を受けました。その後、当時労働争議で激しくもめていた文化学園の争議鎮静化に尽力、人事院を退職して文化学園の理事に就任したのが28歳、1960年には創業一族でもないのに理事長に。以来亡くなる前年の2019年まで59年間ずっと文化学園理事長でした。教育者と言うよりもむしろ経営者タイプ、だから文化学園の事業を大きく伸ばせたと思います。余談ですが、この交友録46で触れた文化出版局の久田尚子さんは「私も赤旗振って(学園職員の)デモに参加してたのよ」。人事院から来た大沼さんに向かって「バカヤロー」と叫んでいたそうです。中央の眼鏡かけたスーツ姿が若き大沼理事長忘年会の前後だったと思います。私は文部省管轄ではない官民協同の産業人育成機関をつくろうと奔走し始め、主宰していたファッションビジネス私塾「月曜会」を墨田区役所の職員が見学に来ました。この私塾に賛同してくれた墨田区によって繊研新聞の松尾さんが座長を務める墨田区ファッション人材育成戦略会議が発足、専門学校と競合しないプロ人材を育てるビジネススクールの議論が始まりました。どういう対象者に、誰が、何を、どう教えるかを議論、構想がまとまったところで松屋の社長だった山中さんに理事長をお願いしようとなり、山中さんも加わってさらに議論を深めました。墨田区で議論していた人材育成プランが通産省(現在の経済産業省)マターとなったところで、私は大沼理事長に人材育成機関の説明に行きました。前項で触れたように、この席で「教育は我々に任せてくれ」と言われ、マル秘の在校生の高校時代の成績一覧表を見せてもらいました。在校生の偏差値レベルがいかに高いかをわかって欲しかったからでしょう。優秀な若者がファッション専門学校に集まっていることは東京コレクションの学生アルバイトから感じていましたし、これまで専門学校がどれだけデザイナーを輩出してきたかは十分認識していました。しかし、企業に入った若手社員に実践教育でマネジメントを教える人材育成機関を業界の力で作りたいんです、と申し上げました。東京都が10億円、墨田区が20億円、産業界が20億円出捐、合計50億円の財団法人としてIFIビジネススクールは誕生。IFIの夜間プログラムを始めたのが1994年9月でした。アパレルマーチャンダイジングのクラスは墨田区戦略会議メンバーだった岡田茂樹さん(ジュンコシマダ)、小売マーチャンダイジングは私が主任講師として週1回半年間の授業を回しました。そのうち夜間プログラムは月曜から木曜日まで4つのクラス全体を私が面倒をみる形になり、さらに全日制プログラムが1998年4月に始まり、私の負担はかなり増えました。ちょうどその頃、高校3年生の息子が「文化服装学院に行きたい」と言い出したので、大沼理事長に「文化には二次募集ってあるんですか」と質問しました。真面目に高校に行かない息子には高校から卒業見込書は発行されない、頼みは見込書不要の二次募集だったからです。大沼さんは「うちでいいの」とおっしゃるので、「将来やりたいことがあってどうしても文化なんです」と説明すると、「教務に言っておくから二次募集でなくすぐ応募するように」と言われました。IFIビジネススクール設立に奔走した私が息子を文化服装学院にお願いするんですから、決してファッション専門学校に敵対する立場ではないと理解してもらえたと思います。が、それでも大沼さんは教育は専門学校が担う、業界は産学交流、奨学金制度や就職受け入れなどでもっと学校を支援して欲しいというお考えでした。文化学園内に新たに「文化ファッション大学院大学」を作ったり、文化女子大学を男子学生も入学できる「文化学園大学」に改編したのも、ファッションにおける教育は専門学校マターであって業界マターではないというお考えだったからだと思います。もう一点、大沼さんにお願いしたことがあります。東京ファッションデザイナー協議会議長を退任するにあたり、文化出版局の久田尚子さんを後継議長にしたいのでご承認ください、と。議長退任の条件は後任を決めることでした。久田さんは私と違って組織の人間、上司である文化学園理事長の許可が必要でした。大沼さんの快諾を得て、私はやっと議長から解放されました。さらにもうひとつ、大沼さんには「高田賢三プログラムをデザイン科のカリキュラムに入れて欲しい」とお願いしたことがあります。高田賢三回顧展@文化学園服飾博物館文化服装学院からはたくさんのデザイナーが世に出ていますが、最初に世界的に有名になったOBは「花の9期生」の一人、高田賢三さんです。賢三さんは時々日本に長期滞在して全国各地を旅していると長年のパートナー鈴木三月さんから聞いていたので、賢三さんの目の黒いうちに賢三クリエーションを後輩たちに体感してもらったら、とカリキュラムを考えました。1)ジャーナリストや鈴木三月さんからレクチャー。2)賢三さんのデザイン、世界観を徹底的に調べる。3)アシスタントのつもりでコレクション企画、テーマを決める。4)企画マップ作成、デザイン画を描き、制作サンプルを決める。5)シーチングでサンプルを組み、パターンチェック。6)賢三さんに1回目プレゼン。(オンラインで講評もあり)7)アドバイスを受けて修正する箇所はパターン修正。8)生地調達、サンプル制作にかかる。9)サンプル完成したらプレゼン、最終講評をもらう。文化服装学院の学生たちによる賢三コレクション、賢三さんご本人あるいは所縁のジャーナリストや研究者のレクチャーとサンプルづくりを通してクリエーションを伝える構想でした。説明を終えると大沼さんは「この先は担当者と進めて」と窓口になってくださる方を紹介してくれました。が、残念ながら賢三さんも大沼理事長も相次いで亡くなり、結局この構想は実現しませんでした。文化学園の卒業生でもない私の願いをよく聞いてくださった恩義のある方、「僕は100歳まで生きるんだ」といつも背筋をピンと伸ばして仰っていたのを思い出します。
2023.02.27
世界で通用するプロのビジネス人材を育てる人材育成機関を日本にも作ろう、とIFIビジネススクール設立に奔走していた頃、特別に配慮しなければならなかったのが、多くのファッションデザイナーを輩出してきたファッション専門学校でした。 中でもリーダー格だった文化学園(文化服装学院や文化女子大学を有する学校法人)大沼淳理事長には、専門学校のライバル機関を作るつもりはなく、共存共栄できる存在と理解していただく必要がありました。IFI山中理事長はじめ理事の大手企業経営者と共に文化服装学院の見学に出かけたのも、おかしな軋轢を回避するためでした。私は大沼理事長から「業界が学校を作ろうなんて考えず、教育は私たちに任せてくれ。欧米のように企業はもっと学校を支援して欲しい」と言われ、「専門学校生の中には高校時代の偏差値が高く国立大学に入学できそうな学生も少なくないんだよ」と極秘扱いの高校成績が記載された学生一覧表を見せてもらったこともありました。官民協同の「大学院」のような人材育成機関は作って欲しくない、大沼さんのお気持ちはよくわかっていましたが、それでも専門学校とは競合しない形で官民一体となった人材育成機関を作る意味は大きい、と私たちは考えていました。だから、IFIビジネススクールはファッションデザイナー育成の部門は作らない、入学資格者は専門学校または一般大学を卒業している者に限定する、とみんなで決めました。さらに既存の専門学校に協力する姿勢を見せるためにも、私は文化服装学院の商品企画系3年生のクラス(曽根美知江先生)と流通系3年生のクラス(林泉先生)を外部講師として指導することになったのです。東京ファッションデザイナー協議会から松屋の東京生活研究所に移籍する前後、本業とは別にIFIビジネススクールの講義があり、さらに文化服装学院ではそれぞれのクラスを週1回担当するのですからかなりの負担でしたが、誤解されないためにもやらざるを得ませんでした。 その後2000年に私は2つの企業の重責を担うことになってしまい、IFIビジネススクールでも文化服装学院やほかの専門学校でも後進を育てる時間的余裕がなく、しばらく教育現場からは離れました。単発の特別講義ではなくレギュラー講師として教育現場に復帰したのは、官民投資ファンドの社長退任後、文化服装学院流通過程に初めてできた4年生(以前は3年生まで)のクラスでした。文化服装学院ファッション流通科の卒業ショー さて、今日の本題はビジネススクールや専門学校のことではありません。文化服装学院で教えた若者たちの中から、私の部下になった人たちの話です。 文化服装学院で2つのクラスを週1回教え始めた頃、流通専攻科の林泉先生から、「太田先生の下で働きたいという学生が二人いるの。せめて面接だけでもしてやってもらえないかしら」と頼まれました。採用する気もないのに面接するのは学生さんに失礼ですから、私は会社に戻って人事担当と相談し、もしも能力がありそうならば専門職採用する方向で面接することになりました。 私が講義でよくコムデギャルソンの話をしたからでしょう、二人の女子学生はバリバリのコムデギャルソンを着て面接にやってきました。一人はファッションセンスが良い、もう一人は論理的でマーケティングに向いている、二人を足して2で割ったらファッションコーディネイターとして使えるかもしれない。が、採用枠は一人のみ、絞れませんでした。 窓口だった流通専攻科の副担任に「残念ながら採用できない」と連絡、「クラスにはほかに一人優秀な子がいるでしょ。その子も面接したい」と伝えました。私の講義で、当時数寄屋橋にオープンしたばかりのギャップ日本一号店と改装直後の西武百貨店渋谷店の両方を自主的に視察し、その感想を要領よく発表した一人の女子学生(両方の店を自主的に視察したのはクラスでたった一人)のことが気になっていました。 ところが、副担任は「あの子はダメです。既にS社の内定が出ていますから」。S社はこれまで販売職でも大学生だけを採用、専門学校生を採用したことがない敷居の高い企業でした。その女子学生が応募したら販売職で内定、これまで縁のなかったS社とのパイプが初めてできたので先生たちは喜んでいました。 担任の林先生に頼まれて新卒採用の枠を設けた私としては、大勢の学生の中で特に気になっていた学生を面接してみたい、副担任に「ファッションコーディネイターとして育ててみたいので面接させてくれ」と頼みました。 そして、その女子学生は私の下で働きたいと言ってくれました。彼女に内定を出していたS社は私が転職直前にあれこれアドバイスしたことがあり、騒動を避けたいので「家庭の都合で就職しない」と内定辞退するよう勧めました。が、真面目な学生は正直に私に声をかけられたのでキャンセルしたいと伝え、S社は納得してくれたそうです。 IFIビジネススクール全日制1期生山本雅範と関口奈々と昨年末にこうして新卒の関口奈々は東京生活研究所とファッションコーディネイター契約を結びました。しかし彼女と私との間を取り持った副担任は先輩の先生方から厳重注意されました。学校と初めてパイプができそうだったS社の内定を学生の方からキャンセル、やってはいけないことだったようです。 関口は性格もセンスも良く、コーディネイターとして優秀でした。我々も彼女をIFIビジネススクール夜間コースに出して勉強させ、ニューヨーク視察にも連れて行き、いろんな経験をさせました。米国に戻った杉本明子さんの後任ファッションディレクター関本美弥子(私が大手アパレルから引き抜いた)も、のみ込みがはやい関口をしっかり指導しました。 それから数年後、関口は家庭の事情で退職(のちにファッション企業に強い広告代理店コスモコミュニケーションズに就職)しました。現在も同じ代理店で活躍しています。ファッションディレクター関本美弥子(右)と岡野涼子(左)2000年3月卒業シーズンのある夜、たまたま千駄ヶ谷界隈をタクシーで通行中に関口の内定辞退で迷惑をかけた文化服装学院の木本晴美先生から「歌舞伎町で謝恩会の二次会をやっています。時間あれば寄ってください」と電話がありました。二次会の会場に到着してすぐ、私のテーブルに1年間の講義で一番前の座席で熱心に話を聞いていた学生が現れたので、「キミはどこに就職するの?」と質問。学院OBが経営するB社と聞いて、「そっちを辞めてウチに来ないか」と誘いました。その場にいた木本先生は「やめてください。関口のときは大変だったんだから」と言われましたが、学生は入社1週間でB社に辞表を出しました。 文化を卒業して1ヶ月後、岡野涼子は関口奈々の後任として東京生活研究所ファッションコーディネイターに就任。ちょうど大きなリニューアルの構想を練り始めたタイミング、社員たちから上がってくる売り場プランは当たり前すぎて私には面白くありません。入社したばかりの岡野に「どんな売り場にすれば面白いと思う?」と質問すると、彼女の答えは「化粧品メーカーの美容部員に接することなく買い物できるセルフのコスメ売り場が百貨店にあってもいいのではないでしょうか。テスターをいっぱい置いて、時間を潰せたら若いお客様は楽しいと思います」でした。私は「それで進めてみろ」と。こうして学校を卒業したばかりの新米コーディネイターが発案した広いセルフコスメゾーンが松屋2階の目玉売り場として誕生しました。コーディネイターとして岡野も優秀でしたが、ダンナが関西方面に転勤するため研究所を退職、現在は関西の商業施設で仕事をしています。 大規模改装前(上)と改装後(下)の外観関口と岡野の恩師である木本先生からはのちにもう一人教え子を紹介してもらいました。文化を卒業してロンドンに渡り、帰国した高橋史佳です。彼女も松屋のコーディネイターとして活躍、出産を機に退職しました。余談ですが、ダンナは松屋の社員です。今日、その高橋から久しぶりにメールが届きました。今春お子さんが保育園に入るので自分は社会復帰、某百貨店とコーディネイター契約を結びましたとわざわざ知らせてきたのです。律儀な子です。実は、関口の前にも東京生活研究所は文化服装学院流通専攻科から新卒を採用しています。研究所ファッションディレクターで友人の杉本明子さんに頼まれ、私が教えていた学院3年生のクラスからセンスのいい子を紹介しました。渋谷陽子は卒業後東京生活研究所に採用され、杉本さんにコーディネイターの仕事をみっちり叩き込まれ、研究所卒業後は森ビルのテナントリーシングに携わっています。私の部下にはもう一人、文化服装学院流通専攻科出身者がいます。私の特別講義に刺激され、どうしても部下にしてくれとデザイナー協議会を訪ねてきた田中英樹です。協議会で新卒採用して東京コレクションの運営を経験、私が東京生活研究所長になった翌年には田中も移籍して研究所のメンズ部門ファッションコーディネイターに。数年後にはアパレル企業や学校でも指導するプロになりました。彼は私にとって文化服装出身の弟子第1号、いまは独立して独自の商品企画、ものづくりをしています。1985年ニューヨークから戻った直後、私は文化服装学院の小池千枝学院長に声をかけられ学院の「火曜会」という先生方の勉強会で講演、米国式実践教育をお話ししました。文化服装学院と私のご縁はこのときから始まり、気がつけばここで紹介した元部下以外にもアパレルメーカー時代に多くの若者を新卒採用しました。今日たまたま元部下高橋から社会復帰報告メールをもらい、文化出身の部下たちに恵まれたなあと振り返った次第です。<追記>1995年10月14日に私が文化服装学院の当時副担任だった木本晴美先生に送ったファックス、ご本人からコピーが送られてきました。返信はニューヨークの滞在ホテルのファックス番号までとお願いしているのでおそらく若手バイヤーの海外研修引率したときのものでしょう。木本先生、よく保管していましたね。
2023.02.18
コロナウイルス感染で2020年10月に亡くなったデザイナー高田賢三さんのプレス担当やビジネスパートナーとして公私共に賢三さんを長く支えてきた鈴木三月さんが、今月「高田賢三さんと私」を出版されると聞いて早速Amazonに予約を入れました。世界的デザイナーの成功、挫折、葛藤を至近距離でずっと見てきた鈴木さんだからこそ書ける、私たちが知らないケンゾーストーリーがいっぱい盛り込まれているでしょう。ファッションビジネスに関わっている多くの方々や、これからその世界を目指そうとする学生さんたちにもぜひ読んでもらいたいです。時事通信社から2月21日に発売予定。
2023.02.08
昨日、南青山スパイラルホールで開催された目白ファッション&アートカレッジのファッションショー(=写真)にお邪魔しました。コロナウイルス感染の影響で一般公開するのは実に3年ぶりだそうですが、自分たちで作り上げるファッションショーを経験することなく卒業した若者も3年の間にはいたことでしょう。(学生ショーのフィナーレ)与えられたテーマに沿ってデザインを考案し、時には放課後夜遅くまで残って作品制作に没頭、みんなでショーを作り上げる過程で生まれるチームワークはファッション系教育現場では大変重要なこと。苦労してみんなの力でショーを披露した後の達成感、恐らくファッション専門学校を卒業した人たちには生涯忘れられない思い出になっているはずです。また、指導する先生たちにとっても、一連の作業プロセスでどんどん伸びていく教え子たちを見ることは先生冥利を実感する瞬間です。コロナウイルスで中止あるいは大幅縮小を余儀なくされ、どの専門学校の先生方にも辛い3年間だったと推察します。プロの現場でも、ファッションショーに向けて組織の全部署が一斉に始動し、ショーが終了するまでの苦労とその過程で生まれるチームワーク(もちろんプロセスでチーム崩壊するケースもあります)は学生ファッションショーと同じ。ショー制作には莫大な経費がかかります。単純に経費管理の視点で言えば無駄かもしれない出費。でも、組織一丸となってコレクションとショーを作り上げるプロセスにはお金で買えないものがいっぱいあります。パリ、ミラノでメンズコレクションが終わり、もうすぐ2023年秋冬ウイメンズコレクションがニューヨークから始まります。コロナウイルス拡散時期は多くのメゾンがデジタル配信でしたが、今シーズンからは従来通りプレスやバイヤーを招いて普通にショーを披露するメゾンが大半でしょう。空白の3年間を経ていつもの活気が業界に戻ってきます。幸い消費市場ではコロナ以前の売上を記録するブランドが増えてきました。世界のファッションウイークから新しいアイディアや新人デザイナーが登場すれば、市場での消費熱はもっと高まるでしょう。今週9日スタートのニューヨークから来月7日終了のパリコレまで、目が離せません。東京コレクション(Rakuten Fashion Week TOKYO)は来月13日(月曜日)から18日(土曜日)まで渋谷ヒカリエなどで開催されます。
2023.02.05
大学2年生の冬に父の同業仲間を訪ねたとき、オフィス応接室に置いてあった見知らぬ新聞が「繊研新聞」でした。「何これ」と手に取って電話番号をひかえて翌日電話し、数日後に購読を開始しました。以来、繊研新聞とは長い付き合いが続いています。購読初期はわからない単語だらけ、記事に赤線をひいてはあとで調べ、興味ある記事は切り抜いてスクラップ、私には最良のテキストでした。大学生のファッション研究団体を立ち上げ、いろんな媒体の取材を受けるようになり、若者市場に関するマーケティングレポートを寄稿する中で繊研新聞の取材も何度か受けました。このブログの交友録20に登場する松尾武幸さん(当時は編集部デスク)が取材に連れてきたのが、直属部下の織田晃記者と営業部の古旗達夫さんでした。織田晃さん(故人)そして、大学卒業が迫ったタイミングで織田さんに呼び出され、「卒業したらうちに来ないか」と誘われました。が、私はどうしてもマーチャンダイジングを収得のためニューヨークに行きたかったのでお断りしました。その後渡米して1年経過、松尾さんが特約通信員に誘ってくれ、私はニューヨークのデザイナーコレクション評や業界動向を繊研新聞に書くようになりました。1983年3月、パリコレとはどんなものか一度見てみたいと思い、コレクション担当記者だった織田さんに招待状の追加申請をお願いしたら快く引き受けてくれました。宿泊は織田さんがあの頃パリ出張時に使っていた凱旋門にほど近い安ホテル、凱旋門からホテルまで歩道には派手な化粧のコールガールが並ぶなんとも薄気味悪いエリアでした。いまでは想像できない1ドル230円の円安時代、日本からの出張者は安ホテルで我慢するしかありませんでした。コレクション期間中チケットが複数枚届いたメゾンのショーは織田さんに同行、多くのコレクションを見せてもらいました。働く女性たちにとっての実用的な服が大半を占めるニューヨークと違い、パリコレは「誰がいつ着るの」と問いたくなる奇抜なデザインも多く、ショーの演出は楽しく、華やかさは明らかに違いました。連日最終時間のショーが終わると、織田さんにくっついて日本からの取材陣と合流して遅めのディナー。一般紙の記者、女性誌や専門誌の編集者、フリージャーナリストやパリ在住の関係者、ブランド広報の人たちとちょっとした打ち上げ宴会のようでした。朝から夜までほぼ1時間おきのショー取材、しかも大半の方はミラノに続いてパリコレですから相当きつかったでしょうが、それでも皆さんとても元気でした。織田さんのほかには服飾評論家の大内順子さん、毎日新聞の田中宏さん、集英社の愛甲照子さん、モードエモードの大塚陽子さん、ほかにパリ在住フリーのジャーナリストやカメラマンらがよくサントノーレ通りの中華料理店に集まっていました。残念ながら多くの方はすでに亡くなっていますが....。いまでもそうかもしれませんが、当時ファッションショーの招待状は同業者の間で奪い合いでした。宿泊しているホテルのコンシュルジュが間違ってショーの招待状を赤の他人に渡そうものならまず戻ってはきませんし、会場で指定された座席番号には先着した他社の記者が知らん顔して座っていることも日常茶飯事、自分の席に座るまで安心できません。(シャネル 2013年春夏パリコレ)新聞雑誌の正社員記者が初めてパリコレに来ると、それまでパリコレレポートを寄稿していたパリ駐在特派員や外部のフリーランスジャーナリストに招待状が届くものの「新参者」には届かないといったケースがよくありました。初めて取材に来た若手記者が確認のためにオートクチュール協会のオフィスを訪ねたら、協会側の登録媒体リストに自分の名前はなく、自社の欄には登録手続きをお願いした人の名前しかなかったという怖い話も。先輩ジャーナリストやパリ在住フリーランスの人たちに虐められ、初回のパリコレ取材で「もうパリコレには来たくない」と嘆く記者もいましたが、私は織田さんがちゃんと招待状を渡してくれ、織田さんにくっついて行動していたので初回パリコレでも惨めな思いを全くせずに済みました。あれは私にとって2回目のパリコレ、1985年3月のことでした。織田さんからマリ・クリスティーヌさんを紹介されました。女優や番組司会で活躍していたマリさんはいろんな国で生活した経験とその語学力を活かしてファッションレポートにも意欲を燃やし、85年秋冬パリコレ取材に来ていました。パリコレ取材は新人同然、先輩取材陣の洗礼を受けてちょっと悩んでいる様子。織田さんから「太田くん、面倒見てやってよ」と言われ、現地であれこれアドバイスすることになったのです。マリさんは先輩取材陣から冷たくされたのか、「いったい誰を信じたらいいのでしょう」とストレートな質問。私はニューヨークがホームグラウンド、パリコレは2回目で誰が信用できるなんて軽々に答えられません。「織田さんは裏のない人、彼の背中に隠れていればいいよ」と助言しました。彼女にはもう一点、「あくまでもタレントとして消費者目線でファッション情報を視聴者や読者に伝えることに徹してみてはどうかな。あなたがファッションの専門家を目指すとなれば、報道陣の中には警戒する人が出るかもしれない」。先輩の紹介だったのでじっくり相談に乗りましたが、その後しばらくして彼女はファッションの世界を諦めたのかショー会場で姿を見ることはなくなりました。後輩たちや若いデザイナーの面倒見も良かったが、織田さんは学生の頃から反骨精神の持ち主、ビッグネームのコレクションにも忖度なしで辛口批評を書き、時々ブランド広報やデザイナー本人と口論になることもありました。織田さんの記事に怒り心頭だったデザイナーに上司の松尾編集局長共々呼び付けられて胸ぐらを掴まれたこともあったそうです。反骨精神の記者から見れば、日本の主だったファッションデザイナーが組織したCFD(東京ファッションデザイナー協議会)はひとつの権威団体、その事務局長に就任した弟分の私(織田さんほどではないけれど忖度抜きの私の記事に対するクレームが繊研新聞に来ることがたびたびありました)は「裏切り者」だったのかもしれません。CFD設立してからは何かにつけCFDや東京コレクションに批判的、私とは距離を置くようになりました。反骨のジャーナリストにとって、取材対象であるデザイナーを守る側に行ってしまった後輩が許せなかったのかもしれません。
2023.02.02
あれは確か1984年正月明けの寒い日でした。ニューヨークから一時帰国した私はオヤジの代理で、弟が結婚したい女性の父親にご挨拶に出向きました。名鉄岐阜駅の改札口、全身黒いコムデギャルソンをまとった白髪の男性が立っていたので「この人だな」とすぐわかりました。そのまま柳ケ瀬の割烹店に案内され、初対面ながら昔から親交があったかのようなもてなしを受けました。松下弘さん(故人)織物研究舎、通称オリケンの松下弘さん。当時コムデギャルソン全ブランドの大半の生地をデザインし、ヨウジヤマモトにも生地を提供していたテキスタイルの達人です。すでに世界で高い評価を得ていたイッセイミヤケにはテキスタイルデザイナーの皆川魔鬼子さんという強力な戦力が社内にいました。イッセイミヤケの海外進出から10年遅れてパリコレに進出するんですから、コムデギャルソン、ヨウジヤマモトも意匠性ある独自素材を作る仕組みが必要でした。そこで松下さんにテキスタイルの創作を託したのでしょう。弟は松下さんの長女と1984年秋に結婚しました。名古屋の熱田神宮での結婚式、新婦の父は儀式進行の巫女さんの方をじっと眺めていました。「巫女さんの裾模様のジャカード、見ましたか。素晴らしい。今度作ってみようかな」、と。娘の結婚式なので父親の感傷的表情を見せたくなかったのかもしれませんが、松下さんは新婦の父というよりクリエイターそのものの目でした。松下家の披露宴主賓は山本耀司さんと川久保玲さん、太田家の主賓はオヤジの長年の友人の実業家と私の友人でちょうど来日していた米国デザイナーのジェーン・バーンズでした。あの頃ヨウジヤマモトの米国小売店パートナーはセレクト店シャリバリ、そしてジェーンはデビュー当初シャリバリのアトリエ専属デザイナー、妙なご縁でした。このとき私は新郎の兄として初めて山本耀司さんと会話を交わしました。結婚式の数日後、ファッション業界のことを全く知らないわが親族は朝日新聞の「天声人語」を読んで驚きました。朝日新聞社所有の有楽町マリオン朝日ホールこけら落としファッションイベントにヨウジヤマモト、コムデギャルソンが参加、山本さんと川久保さんの記述があったので親戚のおばさんたちは「あの方たちは有名なデザイナーだったのね」。田舎のおばさんたちにとって「天声人語」に載るような人が参列していたのでびっくりだったのでしょう。その後私は米国から帰国、東京からパリコレ出張はどういうわけか毎回松下さんと同じフライトでした。当時はまだパリ直行便がなく、アラスカのアンカレッジ経由便、もしくはアンカレッジとロンドンで給油してからパリに入る日本航空便でしたが、アンカレッジ、ロンドンの空港待合室で松下さんは私によく囁きました。「今度は光るんですわ」、「今度は赤なんですわ」、と。パリコレ当日ショー会場に行くと、コムデギャルソンの配慮なのか松下さんの隣が私の席、そこでも「光るんですわ」、「赤いんですわ」。1988年秋冬テーマ「エスニック」そしてショーが始まるとどのシーンでもキラキラ光る織物やニットだったり、布に付けられた透明ストーンのアクセサリーが光っていました。松下さんは素材提供していても実際にどういう形で服が登場するかは事前にご存知ありませんから、ショーが終わるや「全部光ってたねえ」と満足そうでした。ステージに登場した全点がどこかしらに赤を使っていたコレクションでは「全部赤だったねえ」。このとき松下さんが教えてくれたのは、コムデギャルソンから出たキーワードは「私のエスニックを作って」だったと。このキーワードを膨らませて素材を創作していたらトマトのような赤が浮かんできたそうです。「赤い布を作って」ならば我々にも想像つきますが、川久保さんと松下さんとの間はまるで禅問答のような掛け合い、「私のエスニック」が赤い布になりました。ほかには「掌の中におさまるドレス」のキーワードから、超薄手のジャージーやポリエステル地ファブリックで透け透けのコレクションが発表されたシーズンのこともよく覚えています。1993年春夏コムデギャルソン80年代の中頃、パリコレの記事ではフランス左翼系日刊紙リベラシオンに優秀な記者がいて、フィガロ紙、ルモンド紙、インターナショナルヘラルドトリビューン紙以上に注目されていました。パリコレ期間中リベラシオン紙はコレクション報道の一環として松下弘さんを顔写真入りで大きく取り上げ、彼のテキスタイル作りの姿勢、川久保さんと山本さんとの関係を紹介したことがありました。この記事で恐らく多くのジャーナリストやバイヤーは、ヨウジヤマモトとコムデギャルソンのテキスタイルがどことなくニュアンスが似ている理由を初めて知ったのではないでしょうか。コレクションそのものの記事よりも大きな扱いでしたから。ヨウジヤマモトプールオムのショーではこんなことがありました。フィナーレに登場した男性モデルたちは一斉にジャケットの前をパッとオープン、そこには白地のシャツにプリントで描かれた大きな花の絵がズラリ、これに観客は拍手喝采でした。黒の世界が最後に一転パッと派手なお花のプリントでしたから。このとき客席にいた川久保さんがただ一人ムッとした顔つきで下を向いたまま。フィナーレの演出はいたって単純、モデルごとに違うお花プリントに特別な意味はなさそう。私はあまりに単純な演出で拍手喝采とはクリエーションの同志としてあまりにありきたりすぎると不満なんだろうな、と勝手に推察しました。しかし、私の見立ては間違いでした。フィナーレ直前のワンシーン、登場したプレーンな平織り素材はヨウジヤマモトではなくコムデギャルソンに配分してくれたら良かったのに、という理由での不満表情だったのです。ショー終了後会場近くのカフェで松下さんがコムデギャルソンの幹部たちに、「来月(婦人服パリコレ)は表面起伏のある素材でもヨウジはジャカード、ギャルソンはドビー(織り)。あっちの方が良かったなんて言わないでくれ」とピシャリ。起伏の表現をわざわざ織り方を変えてテキスタイルを作る、時代を牽引する二人のクリエイターの狭間で仕事する苦労とプレッシャーを垣間見ました。2003年秋冬ヨウジヤマモトそれから数年後、ある事件があってヨウジヤマモトと織物研究舎の関係が切れ、松下さんはコムデギャルソンに全力投入できる状況になりました。ところが、川久保さんから私に連絡があり、山本さんと松下さん二人を説得する仲介役を頼まれました。私が「100%ギャルソンになったから良かったじゃないですか」と言ったら、川久保さんは「両方に素材提供するから緊張感があるし、松下さんは手抜きができない。うちだけだと良いもの作れないかもしれない。親戚なんだから何とかしてください」。川久保さんのクリエーションに対する姿勢はハンパないです。頼まれた私は山本さん、松下さんと個別に会って両者の和解を試みましたが、このときは完全に力不足、失敗でした。その後松下弘さんは亡くなり、大学卒業後ヨウジヤマモトで数年間修行したことのある松下さんの長男が織物研究舎を引き継ぎ、いまはヨウジ社とは良好な関係が続いていると聞いています。写真上の2003年秋冬ヨウジヤマモトのコレクションはいかにもオリケンという感じだったので、私は弟に「オリケンはまたヨウジの仕事を始めたのか」とメールしたくらい。テキスタイルの達人の味、亡くなったいまもしっかり続いています。
2023.01.21
年末年始都心部の売り場にコロナ禍以前のような活気があった要因のひとつは台湾や香港などのインバウンドパワーがあげられます。まだ中国人観光客の姿は見かけることはありませんが、外国人の消費は売上に相当寄与しているはずです。先日アップルストアの消費税免税処置に対する追徴金が170億円と発表され、在日転売ヤー(あるいはその元締め)の存在の大きさに改めて驚かされました。アップルストアに限らずどの商業施設も従来より慎重に免税処置を受け入れていますから、普通に免税される外国人観光客と在日の転売ヤー合わせて一体どれくらいの外国人シェアなのかはわかりません。年末ラグジュアリー系ブランドがやっとコロナ禍前の2019年売上に戻ったのは、明らかに海外からのお客様と転売ヤーのお陰でしょう。今年は春節がちょっと早く、しかも中国政府の外遊緩和策でそろそろ中国人の来日も増えてきそうです。年末中国からの観光客抜きでも相当売り場に活気がありましたから、コロナ禍前のようには行かないとしても今年の春節は中国人も復活してそれなりにインバウンド消費があるかもしれません。私がクールジャパン政策に関わった2013年、来日外国人はおよそ1,000万人でした。それが6年後の2019年には3,000万人を突破、このまま伸びて行けば5,000万人突破も夢ではないと思っていました。美味いラーメンを日本で食べたいという理由だけで来日する富裕層外国人もいれば、アニメやコスプレの聖地巡礼、自国よりも品揃えが豊富で価格の安いブランド商品ショッピング目的、日本の伝統文化に触れてみたい外国人の来日も増えてきました。コロナウイルスさえなければ2022年には5,000万人に迫っていたのではないでしょうか。世界で最も外国人客を集めているのはフランス、その数はおよそ9,000万人。数年前フランスの政府関係者に聞いた話では、フランスの悩みはパリ一極集中、政府としてはフランスの地方都市にもっと賑わいを作りたいそうですが、他国には羨ましいダントツ人気。ヴィジットジャパンやクールジャパン政策がいくら奏功しても日本がフランス並みに外国人観光客を集めることはできないでしょうが、かなり上位にランクされるのは可能だと思います。日本は東京一極集中ではなく、結構地方にも分散していますから期待できます。コロナ禍直前の2019年、日本は世界で12位でした。普通に東京オリンピックが開かれていたらどうなっていたんでしょう、8位のタイに肩を並べていたかもしれません。各国ともコロナウイルス対策はどんどん緩い規制になってきました。コロナ感染者の数が減少しなくても、旅行者の行き来はこの3年間とは違うでしょう。そこに外国からの旅行者にはありがたい円安傾向、インバウンドが再び急増する環境は整いつつあります。接客のいらない転売ヤーより、つたない英語でもちゃんと接客して販売できる方が販売スタッフのやる気も違うはず。早くインバウンドが復活することを期待したですね。
2023.01.19
2014年1月シンガポールとマレーシアの視察。クールジャパン政策を推進するために設立された新組織の代表に就任して最初の海外出張でした。このときシンガポールのマリーナベイサンズカジノのスケールの大きさに圧倒されました。東京ドームのような巨大カジノ場(写真上)、このビル周辺にはカジノで勝利した観光客を相手にしているであろうラグジュアリーブランドの大型店がズラリ並ぶショッピングモール。当時日本でもインバウンド拡大のための「I R構想」が議論され、東京お台場、大阪、沖縄の3か所がカジノの候補地らしいと噂されていました。最近はコロナウイルスの影響でしょうか、とんと噂すら聞かなくなりましたが...。近未来、日本にもこんなスケールの大きな娯楽商業施設はできるのでしょうか。2年後このシンガポールでは「ジャパンフードタウン」開店(2016年7月、写真下)のお手伝いをしました。ラーメン屋、稲庭うどん店、居酒屋、寿司店、蕎麦屋、天ぷら屋、とんかつ店、鉄板焼きや鯖専門店など日本の食をまとめて海外に紹介しようとする事業家の情熱に多くの飲食店が共感しての出店でした。オープニング視察した台湾の百貨店から早速アポが入り、同じようなレストラン街を台北に作りたいので協力してもらえないかと言われました。マレーシアの首都クアラルンプールの宿泊ホテル部屋からのぞむ高層ツインタワー(写真上)はもの凄く迫力がありました。発展途上国のイメージは吹き飛び、ASEANに対する認識を変えないといけないとこのとき思いましたね。この地に全館クールジャパンの日系百貨店はできないものか、と議論を開始。2年後の2016年10月にはISETAN The Japan Storeがオープン。1階サカイ、アンダーカバー、ヨウジヤマモト、プレイ・コムデギャルソンなど日本を代表するファッションブランドから、伝統的な生活雑貨、スキンケア、カメラ、キャラクターグッズ、デパ地下まで、どこを切り取っても「かっこいい日本」でした。ドバイの商業施設開発会社幹部からは「このままドバイに持ってきてくれないか」と興奮気味にアプローチされました。2014年視察から退任する2018年までアジア各国には何度も足を運び、訪れるたびにどんどん進化する様と日本文化への関心に驚いたものです。いまはもっと日本の食、ファッションやアニメなどのコンテンツ分野が人気になっていることでしょう。コロナウイルスでなかなか海外に出られませんが、日本の生活文化がどのように広まっているのか、この目で見たいです。
2023.01.12
寒中お見舞い申し上げます。昨年8月に母・和子がコロナウイルス感染して永眠、新年のご挨拶は失礼させていただきました。年始のニュースによれば、都心部の百貨店ではラグジュアリーブランドの12月売上がコロナ禍以前の2019年12月を上回り、インバウンド消費もかなりの水準に戻ったそうです。中国人観光客はまだ戻ってきていない状況の中でこの好成績、景気は回復しつつあります。年末クリスマスイブの昼下がり、ラグジュアリーブランドが並ぶフロアはまるでバーゲンセール初日のような賑わいでした。急激な円安、物価上昇、コロナ感染者増は気になるところですが、景気がこの調子でもっともっと良くなることを期待したいですね。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
2023.01.06
今夏、大きな病院の上層階にある介護施設でお世話になっていた母がコロナウイルスで亡くなりました。院内クラスター感染だったのでしょう。享年95歳、長生きしてくれました。母には感謝しかありません。母が亡くなったので個人的に2022は特別な年ですが、英国の国王として長年君臨してきたエリザベス2世、ソビエト連邦を葬り去ったゴルバチョフ書記長、遊説中に暗殺された安倍晋三元首相と忘れられない年になりました。そして、今年はファッションデザイナーの訃報も続きました。西田武生さん、1922年富山県高岡市生まれ。美空ひばりさんや黒柳徹子さんなど芸能人の舞台衣装もたくさん手がけられた長老です。徴兵から復帰するまでファッションとは無縁の仕事。戦後、地元百貨店の大和に就職してからファッションの世界へ。1962年からデザイナーとして活躍されました。享年100歳。三宅一生さん、1938年広島市生まれ。多摩美術大学でグラフィックを学びつつファッションデザインを始める。卒業後パリオートクチュールメゾンで修行中「五月革命」を目撃、特権階級に向けたオートクチュールから一般市民に向けた既製服の時代が来ると感じてニューヨークに渡る。帰国して1970年三宅デザイン事務所を立ち上げた。その後の活躍は皆さんご存知でしょう。享年84歳。森英恵さん、1926年島根県鹿足郡生まれ。東京女子大学在学中に知り合ったご主人の実家は尾州の繊維会社。ご主人の理解もあってドレスメーカー女学院に通い、1951年新宿東口前にブティック「ひよしや」を開業。1965年ニューヨークコレクション進出、1977年には日本人初のパリオートクチュール協会正会員に。享年96歳。花井幸子さん、1937年東京都青梅市生まれ。1959年長沢節さんのセツ・モードセミナーを卒業後広告制作会社のアドセンターに就職。1968年銀座にマダム花井開店、ファッションデザイナーとして活躍。テレビ司会者芳村真理さんの衣裳を多数手掛けたことでも有名。(社)ザ・ファッショングループ会長も務めた。享年84歳。そして、昨日12月30日「パンクの女王」英国ヴィヴィアン・ウエストウッドさんの訃報が飛び込んできました。パートナーのマルコム・マクラーレンさんと共にロンドンからパンクファッションを世界に広め、パリコレでは特異な存在でした。享年81歳。謹んで皆様のご冥福をお祈りします。<写真は全てネットから引用しています>
2022.12.31
官民投資ファンドで仕事をしていたとき、毎年仕事始めは霞ヶ関の関係省庁への挨拶回りでした。本省から応援スタッフを数人出してくれている経済産業省に行くと、私よりも一足早く年始挨拶に来ている人とすれ違いました。日本ニット工業組合連合会(通称ニット工連)元理事長の樋口修一さん、理事長を退任されたあとも年始挨拶を続けていました。退任後もニット業界全体のため欠かさず挨拶、なかなかできることではありません。ジャパンベストニットセレクション展の表彰式数日前、その樋口さんから恒例の年末レターをいただきました。今年87歳、会社をやめ、組合メンバーでもなくなったのにいまも両国駅前のニット組合事務所に顔を出し、「大久保彦左衛門をやってます」とありました。数年前に体調崩されたようですが、文面からは事務局スタッフや後輩経営者たちに大きな声でアドバイスされている光景が目に浮かびました。私は若い頃から生意気で、どんなに偉い人でも大先輩でも、筋の違ったことをされたらはっきりと「あなたは間違ってる」と言ってきました。時には夜間ご自宅に激しい抗議文をファックス送信したことも。夜にファックス送信したら、翌朝オフィスにお越しになっていた長老の一人は東武百貨店の山中社長、そしてもう一人がニットの樋口理事長。お二人ともオフィスの会議室で私が出社してくるのをお待ちでした。山中さんには理事長をされていたIFIビジネススクールの基本方針に関して「あなたは実学を本気でやる気があるのか」と抗議したのを覚えていますが、樋口さんへの抗議は何だったのかはっきり覚えていません。業界長老に「ふざけるな」と送信したことだけは覚えていますが。当時、樋口さんからこんなことを頼まれました。群馬県太田市のニット製造業の若手経営者たちを指導してやってくれませんか、と。彼らにマーチャンダイジングを教えるのは苦ではありませんが、毎回太田市まで出かけて現地で指導するのはちょっと厳しい。そこで、「講師料はいりませんから毎回太田市から受講に来てくれませんか。都内の売り場を回ることも講義の一部に含まれているので」と引き受けました。ご自身の東京ニット組合でもないのに、地方産地の若手のためにわざわざ私に指導要請する面倒見の良さでした。太田ニット組合の皆さんには小野塚秋良さんのZUCCaのニットを店頭で買ってもらい、ドンピシャ同じゲージ、同じフィット感のニットを作って次回持ってきてください、そんな研修をやらせてもらいました。これが案外難しかったようで、皆さんそれなりに研究して同じニットを作ったつもりなのでしょうが、私から見たらニットは全てZUCCAaとは別物でした。勉強会の課題にさせてもらったZUCCaZUCCaのニットは複雑な先染めヤーンを使っているわけでも、数本のヤーンを絡めて編んでいるわけでも、製造が難しい超ハイゲージでもありません。一見すると分量、フィット感がタイトでありながら、着てみて決して窮屈ではない、一見ありふれた無地ニットです。それと同じものを簡単に作れそうで作れない、そこに太田市の組合員の感覚的課題がありました。私とは全く無関係の太田市のニットメーカーを丁寧に指導したのは、「地方でのものづくりの火を消してはならない」と奔走する樋口さんからの依頼だったからでした。CFDが若手デザイナーのコレクション発表をサポートする「東京コレクションANNEX」を開催していたとき、たまたま選出したミラノ在住デザイナーKenichi Ogawa(現在はアクセサリーデザイナーとして活躍)はかつて樋口さんの会社フロンティアヒグチで働いていました。「ケンちゃんが選ばれた」と樋口さんはわが子のように喜び、帰国したデザイナー本人と関係者をご自宅に招いておもてなし。私もその中にいました。このとき樋口さんはピアノを弾いてくれましたが、ピアノは還暦から始めた、と。還暦を機にピアノを始めるとは無茶な話と思いますが、ご本人は超マジ、何事にも真剣に取り組む人なんだなあと思いました。JFWプレミアムテキスタイル展繊維産地全体のモノづくり底上げのために奔走した、いわゆる「産地ボス」としてもう一人記憶に残っている方がいます。尾州産地の毛織物工業組合理事長だった岩仲毛織の岩田仲雄さんです。一宮市で会議があったとき、普通であれば理事長はど真ん中の席に座りますが、岩田さんは「若い人たちがリードしてくれたらいいんじゃ」とあえて隅っこの席に陣取っていました。こんな理事長、他の産地で見たことありません。その岩田さんから尾州産地の底上げのために特別なプログラムをやってみたいと相談がありました。組合員をランダムに数チームに分け、各チームに若手デザイナーを立てて一緒にものづくりをするという構想、頼まれた私は数人のデザイナーに協力要請をしました。このとき「各チームに超ベテランの職人さんを技術アドバイザーに指名してください」とお願いしました。デザイナーの一人が「タテ糸もヨコ糸も細いステンレスで織物できませんか」と尋ねたところ、毛織物メーカーの構成員は「そんなのは金物屋に行ってくれ」と返しました。そのときこのチームで一番のベテラン職人さんが「あなたはステンレスで何をしたいんだ。ステンレスの色?、それともツヤ?、あるいはハリなの?」とデザイナーに質問したのです。デザイナーが希望を説明すると、「それならステンレスでなくウールでやってみよう」となったそうです。この場面のことを私に話してくれた岩田理事長はとても嬉しそうに目を細めていました。岩田さんはよくこんなことをおっしゃっていました。できることならば、ゆっくり織って、じっくり寝かせて良い生地を作ってみたい。ハイスピードの新型織機は短時間で織れるから効率は良くなったものの、どうしても古いションヘル織機のような味や風合いはでない、と。手間ひまかけてガッチャン、ガッチャンとゆっくり織った生地の良さを何度も私は伺いました。古い織機でゆっくり織ると風合いが出ます余談ですが、尾州の大手メーカー中伝毛織のオフィス入口には動かなくなったションヘル織機が飾ってありますが、尾州の皆さんにとってションヘル織機は特別な思いがあるんですね。ちなみに、私のクローゼットにある30着ほどのスーツは全てションヘル織機で織った葛利毛織のウールです。岩田さんから何度も吹き込まれたからでしょうか、ションヘル織機ではないウールはもう着たくなくなりました。ニットの樋口さんや毛織物の岩田さん(故人)のように、日本のものづくりを活性化するために奔走してくれる熱いリーダーがいる繊維産地にはまだものづくりの火は残っているのではないでしょうか。時代が変わって経営者たちがその息子や孫世代に交代しようとも、産地全体のことを考えてくれるリーダーの存在は不可欠。繊維製品のメイドインジャパン、ずっと残したいですね。
2022.12.29
中東カタールで開催されたFIFAワールドカップ決勝戦、アルゼンチンとフランスは3-3の同点、PK決着でアルゼンチン優勝となりました。決勝戦まで5得点で並んでいたアルゼンチンのメッシとフランスのエムバペ、決勝でハットトリックを決めたエムバペが得点王に、2ゴールを決めたメッシがMVPに。二人ともカタール投資庁が経営するパリ・サンジェルマンFC所属(ブラジルのスター選手ネイマールも同じ)、カタールにとっては願ってもない結末でした。 日本も強豪ドイツとスペインに逆転勝ち、目標のベスト8進出は叶いませんでしたが、日本のサッカー史に残る快挙でした。ベスト8の壁を破るには大きな課題を克服しなければなりませんね。特に、世界の高レベルでキャリアを積む選手を増やすことと、しっかりした戦略を立ててチームを編成、育成できる監督の抜擢。 サッカーで思い出すのはJリーグ発足直後に当時の川淵三郎チェアマンから直接聞いた話です。(元Jリーグチェアマン川淵三郎さん) Jリーグ発足直後の1994年2月、大阪府泉大津市にあったファッションセンターでIFIビジネススクール主催のセミナーがありました。海外出張から戻ってちょっとした手術をしたばかりの私は第2部パネル討論会の進行役、山中IFI理事長からは「手術したばかりなんだから来なくていい」とファックスもらいましたが、第1部基調講演をお願いした川淵三郎さんの話も聞きたくて痛みを我慢して出かけました。 このときセミナー楽屋で川淵さんがサッカー選手の人材育成について興味深いことを話してくれました。ご自身も含め日本人監督は「根性論」で選手を鍛えようとするが、外国から招聘した監督は「基本の徹底」を繰り返して育てる、と。基本中の基本インサイドキックとボールトラッピングの繰り返しに相当時間をかけるので、選手の間では「監督は俺たちのことをバカにしているのか」と反発する者も出るそうです。 ゴールキーパーの練習でも、ゴールの端に強いシュートを何本も放ってキーパーに「飛べ!」、「気合を入れろ!」「根性だ!」とやるのが日本人監督。一方海外指導者はキーパーの正面に緩いゴロをコロコロ転がし、しっかりキャッチングできたら褒め、徐々にキーパー正面から離れたところにボールを飛ばし、シュートのスピードも徐々に上げていくそうです。正面に緩いボールで正しくキャッチングする練習の反復、選手を褒めながら育てるのが世界の指導方法、日本の根性論とは違うとおっしゃっていたのが印象的でした。 川淵さんら日本サッカー協会幹部が高く評価していた、当時名古屋グランパスエイトのアルセーヌ・ヴェンゲル監督はあまりに基本練習に時間をかけたので選手は不満タラタラ。でもサッカー協会はその育成方法を高く評価して日本代表チーム監督にと交渉したものの、寸前にイングランド名門アーセナル監督就任が決まっており、ヴェンゲルさんは同じフランス人のフィリップ・トルシエを推挙しました。もしもあそこでヴェンゲルさん自身が日本代表チーム監督に就任、アーセナルのように長期的に指導していたら、日本のサッカーは変わっていたかもしれません。 あるいは、ジェフ市原監督から日本代表チーム監督になったイビチャ・オシムが病に倒れずあのまま監督を長く続けていたら、「日本のスタイル」が出来上がっていたかもしれません。川淵さんが記者会見でまだ正式発表していない監督の名前を迂闊にも「オシム」と発言してしまったのも、その後オシム監督が病で救急搬送されたときに記者団の前で男泣きしたのも、オシムがどれくらい信頼されていたかを物語っています。 毎日同じ顔ぶれで練習するクラブチームの監督と、たまにしか全員揃わない代表チーム監督とでは求められる資質が違うでしょう。前者はなんと言ってもチームワーク、選手間の和を保ってアウンの呼吸で選手を引っ張っていける人柄が求められます。 しかし、近年日本代表チームの選手のほとんどは海外で活躍していますから、クラブチームのように連日顔を合わせて練習できるはずありません。代表チーム監督に求められるのは強いリーダーシップ、明確な戦略ビジョン、それを遂行するために必要な選手選抜の目、そしてゲーム前半と後半の戦術と見直しです。加えて言うなら世界レベルを肌で知っているかどうかも。 今回は選手交代5人(従来は3人まで。今回はトーナメント延長では6人まで可能)が認められる新ルールでしたが、柴崎、町野選手に全く出番が与えられませんでした。期待された久保選手の出場時間も予想よりかなり短かった。そもそも人選は正しかったのでしょうか。 また、世界ランキング格下コスタリカ戦先発メンバーの顔ぶれ、本当にあれで良かったのでしょうか。格下コスタリカには負けてしまった原因、PKで負けてしまったクロアチアとの戦い方と選手交代のタイミング、将来のためきちんと検証すべきではないでしょうか。 まだワールドカップが開催中なのに、目標には達せず敗退して帰国した選手や監督がテレビで生出演したり、官邸訪問したり、ドイツとスペインに勝ったんだからとヒーロー扱いされる空気、個人的にちょっと気持ち悪いです。まずは今回戦った4試合の検証、今後のための課題掘り起こし、テレビ出演も官邸訪問もワールドカップ全日程が終わってからでいいのでは。 テレビでは日本のベスト8進出、優勝も決して遠い未来ではないと楽観的なことを言う解説者やタレントがたくさんいますが、とても賛同できません。検証をまずしっかりやる、今後日本はどういうサッカーを進めるのか基本方針を立てる、その上で監督の去就も決めるべきでしょう。ドイツ、スペインに勝利したことは素晴らしいし、森保監督の人間性も素晴らしいと思いますが、川淵さん世代が卒業した後のサッカー協会幹部には冷静な考察を期待したいです。 ガキの頃、朝から晩までサッカーのことしか頭になかった私、生きている間に日本の優勝はともかくベスト8進出だけは見たい!
2022.12.19
日本のバブル景気は1986年12月から1991年2月までの51ヶ月。株式取引に全く縁のなかった一般市民が電電公社民営化で売りに出されたNTT株に群がり、三菱地所がニューヨークのロックフェラーセンターを買収して世界を驚かせたのも、バブルの象徴的な出来事でした。過剰な経済拡大期のあとには当然大きな反動、バブルがはじけて資産下落や不良債権処理が一斉に始まりました。ファッション業界におけるバブル崩壊は日本経済のバブル崩壊よりも一足早く起こりました。1980年代前半デザイナーブランドを扱う百貨店、ファッションビル、セレクトショップが急増。大手から中堅アパレルメーカーまでがこぞって有力デザイナーブランドの下で働くアシスタントや装苑賞などコンテストで認められた学生を青田刈り、ブランドデビューさせるケースが増えました。1985年CFD(東京ファッションデザイナー協議会)を設立した頃が青田刈りデビューのピーク、ファッション業界はバブルそのものでした。経験がほとんどない若手デザイナーに高額ギャラを約束、それなりの規模のファッションショーでデビューさせる。港区、渋谷区に立派なプレスルームと立派な直営店舗を開設。ブランド立ち上がりから素材の大半はオリジナル、先駆者たちが生地屋でありもの素材を調達してブランドを開始したことを考えると随分贅沢でした。しかし世の中そう甘くはありません。デビューして2年ほど経過すると、出費だけが増え、在庫が膨らみ、売上がついてこない企業側は焦り、デザイナーとの関係はギクシャク、ブランド閉鎖が始まりました。CFDが誕生すると、どういうわけかブランドの後始末相談に来る企業や若いデザイナーが増えました。彼らが持ってくる当初事業計画書を見ると、デビュー3年後には売上10億円程度でちゃんと利益が出るプラン。しかし実際には売上は計画の半分以下で在庫は7~8億円、しばらく黒字化が見えない「机上の空論」ばかりでした。このときつくづく思いました。日本にはファッション専門学校が才能あるデザイナーをたくさん輩出してきたけれど、デザインマネジメントやマーチャンダイジングできる人材がいない。日本にもファッションビジネスのプロを育てる教育機関を作らないといけない、この思いがIFIビジネススクール設立に向けて走り出した大きな理由でした。青田刈りで失敗した例はたくさんありますが、その中で個人的に最も印象深かったのは文化服装学院出身の石川ヨシオさんです。1981年の第50回装苑賞を受賞して注目された石川さんは大手アパレルのイトキンからブランドデビュー。ところが、デビューしてすぐプロジェクトは打ち切られました。文化服装学院の小池千枝学院長に石川さんの再デビューを頼まれたのが、新規デザイナーブランドで急成長した中堅アパレルN社でした。石川さんとの交渉がとんとん拍子で進んで契約寸前になって、N社の下で既にブランドデビューしていた文化服装学院の同級生デザイナーがオーナー社長に直談判、結局石川さんの再スタート計画は見送りになりました。このブランドの責任者になるはずだったN社幹部から頼まれて、私は石川さんと面会することに。このとき、出版されたばかりの旺文社「一生たち」(三宅一生さんの三宅デザイン事務所で働くアシスタント全員が仕事への思い、ものづくりの姿勢を綴った書籍)を石川さんに手渡し、こんな話をしました。野性のライオンは束縛されることなくどこへ行くのも自由だが、日々のエサは自分で獲得しなければならない。一方、動物園のライオンにはオリの外に出る自由はないが、エサは毎日提供される。どちらのライオンになりたいのか、この本を読んで自分の進む道を考え、次回答えを持ってきてください、と。当時CFDを訪ねてくる若手デザイナーや専門学校生は、行動の自由は欲しい、エサの提供も受けたい若者が少なくなかったので、私はテキストとして「一生たち」を渡していました。石川さんの思いを聞いて、私が業界人に出資をお願いして小さなデザイン会社を作り、あとは周囲を説得してアパレル販売事業を計画してください、となりました。1口100万円で業界仲間に呼びかけ、石川デザイン事務所は西麻布に誕生しました。中立でいなくてはならないCFDの私自身は出資できませんから、親交のある小売店、メディア、アパレル工場、繊維商社の幹部たちを説得して資本金を集めました。この交友録13に登場するリッキー佐々木氏からは「(アパレル会社は)俺にやらせてくれないか」と声をかけられました。旧知のビジネスマンからは「息子をこのプロジェクトで育ててくれるなら」とアパレル会社に出資する話もありました。が、石川さんがアパレル事業のパートナーとして連れてきたのは、日本橋堀留町の織物会社国洋の奥井新一社長(ファッションコーディネイター西山栄子さんのご主人)でした。クリエーションを発信するデザイン会社を母体に、商品化して販売する別会社を起こすのが私の構想でしたが、奥井さんは発足したばかりのデザイン会社を買い取ってアパレル販売会社と一本化する形を希望。石川デザイン事務所に出資してくださった方々には私から事情を説明、奥井さんへの株譲渡をお願いし、私がお手伝いする必要はなくなりました。それから1年後だったでしょうか、久しぶりに石川さんと奥井さんが訪ねてきました。「僕たちは別れることになりました」、私の目の前で両者は互いに目を合わせることなくブランド事業からの撤退を宣言したのです。やっぱりダメだったか、と思いました。デザイナーが代表になるデザイン会社と、ビジネスマンが代表になるアパレルメーカーとは利害もスタンスも違います。両社を一本化して経営権を出資者が握るとどうしても軋轢が生まれます。互いに我慢の限界を超えたのでしょう、石川ヨシオの事業化はまたしても実を結びませんでした。その後石川さんはパリに移り住み、帰国してからは専門学校で指導しているらしいと聞きました。才能のあるデザイナーでしたから、正直もったいないと思います。石川さんと学生時代にファッションコンテストを競い合ったデザイナー予備軍には才能ある人が多く、アパレルメーカーに次々とスカウトされましたが、そのほとんどはブランドビジネスとして成果を上げることなく表舞台から消えました。(成功事例の1つマイケルコース)欧米ではデザイナーとビジネスマンが団結して売上を伸ばしている例がいくつもあります。マイケルコースのようにマネジメント側が提示した「雑貨90%、服10% 」の商品構成比(それまでは服90% )をデザイナーが理解し、大きく成長してジミーチュウやヴェルサーチを傘下におさめた成功事例もあります。ダナキャランやラルフローレンのように株式上場を達成、創業時に共に苦労した仲間に利益還元した例もあります。経営側のデザインマネジメントとお互いが立場を尊重し合う構図、クリエーションとビジネスのいい関係が日本でも増えると良いんですが。
2022.12.18
2006年3月、世間を騒がせたホリエモンさんに刺激され、自分も書いてみようと始めたこちらのブログ「売り場に学ぼう」、最初は相談メールをくれる多くの教え子や元部下たちに向けた担任教師の復習講義のつもりでした。日々売り場を歩いて感じたこと、ファッション流通業界の動向に対して思うこと、海外視察で刺激されたことなど綴ってきました。しかし、徐々にメディア関係者や企業幹部が読んでくださるようになり、さらに転職して立場上ストレートに発言するのは難しいと感じることあったので途中何度も中止、2006年からアップした記事は削除しました。誤解を避けるため数年間ほとんど何も書かない、書けない時期もありました。が、記事の新規アップを中止しているにもかかわらず、どういうわけかこのブログをのぞいてくださる人が少なくありませんでした。今年、記事アップを再開したら再び読んでくださる方が増えました。気がつけば2006年からこれまでの延べヒット数が250万、本当にありがたいことです。最初の頃は、自分たちが設立したCFD(東京ファッションデザイナー協議会)からJFW(日本ファッションウイーク推進機構)に移管された「東京コレクション」のこと、新しく始まった「東京ガールズコレクション」のことを書きました。そのときの写真が以下の2枚です。2006年3月JFW主催の東京コレクション2006年3月東京ガールズコレクション海外出張のたび、現地で刺激されたこと、感動したこともたくさん書きました。在住時代から私には常に生きた教材であるニューヨークをはじめ、シアトル、サンフランシスコ、ロス、サンパウロのアメリカ大陸、パリ、ロンドン、ベルリン、アムステルダム、アントワープ、チューリッヒ、ビルバオなどヨーロッパ、台北、台中、高尾、北京、上海、香港、寧波の東アジア、UAEドバイ、オマーンのマスカットの中東、シンガポール、クアラルンプール、バンコク、ホーチミンのASEANといろんな都市でたくさんの気付きがありました。ここ数年はコロナウイルスで海外に出ておりませんが。これからもマイペースでブログをアップしますので、どうか時々のぞいてください。よろしくお願いします。
2022.12.16
長年有楽町国際フォーラムで開催されてきたジャパン・ベストニット・セレクション展(略称JBKS)、コロナウイルスの影響を受け昨年規模を縮小して竹芝の都立産業貿易センター展示室に移転、今年のJBKS 2022も昨年同様竹芝開催でした。出展者は減少、毎年優秀企業を表彰してきたAWARDもなくなりましたが、予想以上の賑わいでホッとしました。出展したニットメーカー各社の熱意でしょう、ものづくりしている方々の声を聞くのは楽しいです。JBKS 2022の案内状を送ってくれた山形県の「今間メリヤス」織田社長を最初に訪ねました。1980年代後半GAPが米国市場をリードしていた時代、GAPはどういうニット企画を進めていたか、それがいかに効率的でしかもサステナブル、模範的マーチャンダイジングであったかを説明してきました。次回以降の商品企画の参考にしてもらえたら。新潟県五泉の「高橋ニット」、ネット通販の売上が全体の4割になったと前社長の高橋さんから伺いました。IFIビジネススクール全日制出身の息子さんに社長職はバトンタッチ、その若社長と直営店舗とネット販売をうまく噛ませることがいかに重要か話しました。ものづくり側と消費者とが背中合わせのビジネスをもっと加速して欲しいですね。前職の部下たちが投資先の米国アパレルブランドに繋げた山形県の「米富繊維」。最近地元に直営店舗を開設、今日は社長自らショップで販売当番だそうで会場不在でした。直営店、ネット通販をうまくリンクさせて手の込んだオリジナル商品を強化、海外販路をさらに拡大して欲しい。ニット業界のリーダー、山形県の「佐藤繊維」佐藤社長は接客中だったので短い挨拶だけ。彼が文化服装学院に指導してもらったS先生から「自宅に遊びにきて」と私も誘われてる話で盛り上がりましたが、例年会場で伺っている次シーズンの重点MDは聞けませんでした。次回どこかでお会いするときに質問します。コロナウイルスが完全にストップし、JBKSが再び国際フォーラムのような大会場に戻り、AWARD審査も復活できたらなあと思います。日本のニット素晴らしいです。
2022.12.15
コロナウイルスの影響でここ2年間クリスマス商戦は厳しかったでしょうが、今年はコロナ前の活気が戻ってきたように感じます。街に人が溢れ、ブランドショップ入口は入場規制のためお客様の行列、中国人観光客はまだ戻ってきていませんが、日本在住の中国人バイヤー(主に中国への転売で儲けている人々)が走り回って大活躍、内外の主要ブランド売上はほぼコロナ以前でしょうね。
2022.12.11
1985年5月ゴールデンウイーク最終日に一時帰国した私は、通信員契約をしていた繊研新聞社のニューヨークセミナーで解説したり、終わったばかりのニューヨークコレクション(当時秋冬物は4月後半の2週間開催だった)の総括記事を書く一方、突然構想が持ち上がった東京ファッションデザイナー協議会設立の準備に追われていました。参加を呼びかけるデザイナーのリストアップ、会則や規約づくりなど、発起人デザイナーやその実務責任者と連日打ち合わせ、事務所探しは三宅デザイン事務所の小室知子さんとワイズの林五一さんが引き受けてくれました。7月8日、日比谷のプレスセンターで設立総会、記者会見、設立記念パーティーがあり、いよいよ東京コレクション自主開催に走り出しました。しかし、いい事務所物件がなかなか見つからず、小室さんの勧めでしばらく六本木にあった三宅デザイン事務所の別館スペースを借りて業務開始でした。このとき第1号アルバイトとして仮事務所でサポートしてくれたのが、玉川大学の学生だった欧子ちゃん、帽子デザイナー平田暁夫さんのお嬢さんでした。平田さんは1955年帽子デザイナーとして事業をスタート、日本ファッションエディターズクラブ賞を受賞した翌年パリに渡り、オートクチュールと共に発展してきたフランス流帽子づくりのワザを身につけたと聞いています。欧州滞在中に生まれたお子さんに「欧子」という名前をつけました。帰国後、縁あって皇太子妃美智子さま(現在の上皇后さま)の帽子も担当するようになり、上品な小さな帽子は女性誌グラビアなどで何度も取り上げられました。1994年4月25日、仲良しだった市倉浩二郎さんが急逝したとき、彼の先輩記者から「毎日新聞から一人出すのでファッション業界からも一人弔辞を読む人を出してくれ。あんたがやるのが一番良いんだが」と言われました。が、声を詰まらせることなく弔辞を読む自信のない私は、故人と親交のあった平田さんに弔辞をお願いしました。このとき奥様から「(心臓の病気だった)平田を殺す気」と𠮟られました。「あなたがおやりなさい」という意味だったのかもしれません。告別式の遺影に選んだ写真は、鳥居ユキさんのファッションショーで市倉さんが平田さんをエスコートしてモデルとしてステージにあがったときのもの、照れくさそうに笑う写真がその人柄をよく表していました。実際の写真は市倉さんの横に平田さんも写っていますから写真の説明もして「ここはぜひ平田先生にお願いしたいんです」と奥様を説得、平田さんは引き受けてくださいました。平田さんは心臓を患っていてたくさんお薬を服用されていると伺いました。私は強い薬の副作用の心配から、当時巷で流行し始めた有機栽培の根菜などを煮た「野菜スープ」を勧め、そのレシピコピー奥様にをお渡ししました。2カ月後、平田さんのトレードマークであった白い顎髭が段々黒くなってきた、と喜んでくださいました。確かに、それまで真っ白だった髭に少し黒いものが混じっていました。盟友の死から約1年後、私はそれまで務めたデザイナー協議会を退職、松屋のシンクタンク東京生活研究所に転職、あるパーティーで平田さんと三宅一生さんから「せっかく百貨店に入ったんだから暴れてください。面白いこと一緒にやりましょう」と激励されました。その直後でした。三宅さんのプリーツプリーズ春物展示会、会場には鮮やかな春色商品がズラリ、思わず私は「Spring has comeですね」、と。そして直感的にイベントを思いつき、「先日、面白いことをやれとおっしゃったですよね。展示会終わったらサンプルを平田先生のところに送ってくれませんか。コラボイベントやりましょう」と三宅さんに提案しました。オフィスに戻って今度は平田さんに電話を。「近日中に三宅さんのところからプリーツプリーズのサンプルが届くと思います。それをご覧になった瞬間の気分を帽子にしていただけませんか。テーマは"春が来た"、松屋一階のSOG(Space of Ginza。天井までオープンスペース)で面白いことしましょう」。こうして半年後AKIO HIRATA X PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKEイベント開催。SOGの大きな壁面いっぱいに円形パイプを設置、カラフルなプリーツTシャツのハンガーをパイプに取り付けて観覧車のような展示を行い、フロアでは平田さんの帽子とプリーツ服を並べて販売、期待以上によく売れました。このとき大手アパレル大幹部が「こういうのって松屋らしくていいねえ。売れる、売れないじゃないんだよ。お客さんに楽しいこと、面白いことを提供するのが百貨店の使命。こういうのどんどんやってよ」と激励されました。普段は売上のことしか言わない大手企業の人にもわかってもらえてうれしかったです。コラボイベントのあと、ご協力いただいた平田さんと三宅さんにお礼をしなければと、専務営業本部長が銀座のイタリアンレストランで一席セットしたとき、奥様が席を立たれるたびに平田さんはワインを私に所望なさるのです。恐らくドクターからお酒を控えるよう助言あり、奥様からは禁止されていたのかもしれません。でも、奥様の目を盗んでいたずらっ子のような目でワイングラスを差し出す姿、とてもおかしかったです。お会いするたび、「今度飲もうよ」とよく声をかけてくださり、年末になると特別に蔵元から取り寄せた出来立てほやほや濁り酒の一升瓶を2本わざわざ持参してくださいました。これも「飲もうよ」のシグナルだったかもしれません。2011年東北大震災のあと、南青山スパイラルガーデンでnendo佐藤オオキさんが空間演出した「ヒラタノボウシ展」がありました。インスタレーションのための白い不織布帽子(=写真)を制作するのに手が足りない、どこか専門学校の学生さんに手伝いをお願いできないだろうかと相談され、私は指導していた目白デザイン専門学校の先生方に協力をお願いし、助っ人を動員しました。この展覧会は高く評価され、その年の毎日ファッション大賞に選ばれました。平田暁夫さんは2014年に亡くなりましたが、欧子ちゃん(本名は石田欧子)が「平田欧子」を襲名、父上の後を継いで帽子デザイナーとして活躍、二人のお子さんも若者向け帽子ブランドを手掛けています。2016年、南青山のギャラリーで欧子さんの小さな展覧会にお邪魔したら、そこに美智子皇后がいらっしゃいました。私たち一般人は進路の邪魔にならぬよう部屋の隅っこに立っていたら、どういうわけか皇后さまが私にも声をかけられました。どんな有名人から声をかけられてもあがったことはありませんが、このときだけは頭の中が真っ白になり、ご質問に対して何を答えたのかはっきり覚えていません。皇室の方々のために服や帽子をデザインするのってものすごく神経すり減らすのでは、とこのとき初めて思いました。オートクチュールのような帽子を身につける人は現代社会において多くはないでしょうが、誰かが継承しないとこれまで培われてきた伝統技術、職人技は消えてなくなります。フランス以上にフランスっぽい帽子を創作した平田さんのクリエーションとクラフトマンシップ、欧子さんやお孫さんがしっかり守ってさらに発展させて欲しいです。
2022.12.10
サッカーワールドカップ、日本は強豪ドイツ、スペインを予選リーグで撃破して大いに盛り上げてくれましたが、ベスト8の壁は厚く、クロアチアには敗れました。世界の壁、まだまだ厚くて高いんですね。「ドーハの悲劇」と言われるアジア予選最終ゲームで引き分けワールドカップに駒を進められなかったとき、正直日本はワールドカップにしばらく出場できないないんじゃないかと思いました。が、世界の強豪を2つも倒す日がこんなに早く来るとはちょっとびっくり。ベスト8進出は近未来きっと実現してくれると期待してしまいます。オマーンのホテルロビーマスカット市街マスカット市内の市場ワールドカップで盛り上がっている間、中東では世界経済にも影響ありそうな出来事がありました。国交を断絶していた開催国カタールをアラブ首長国連邦(UAE)の大統領が訪問、今後の関係改善などを協議したそうです。ここ3年半、湾岸エリアの6カ国、通称GCC(UAE、バーレーン、クウェート、カタール、オマーン、サウジアラビア)の関係にヒビが入り、カタールと近隣諸国とは断絶状態でした。恐らくイランとの関係(カタールはイランと親交あり)をめぐる考えの相違が原因でしょう。ワールドカップという名目があってサウジアラビアの皇太子もサウジ応援のためにカタール入りしたそうですから、GCCの断絶関係はこれから少し変わるのかもしれません。余計なことですが、この皇太子は強豪アルゼンチンに勝利したサウジの全選手にロールスロイスをプレゼントするとか。資源を持っている国はスケールがでかいです。ウインドーにはRamadanの文字があちこちに男性は白、女性は黒服このGCCがらみのビジネスで一度だけUAEのドバイとオマーンのマスカットを訪問したことがあります。とっても暑い夏、ちょうどRAMADAN(ラマダン。日の出から日没までの間は断食)の時期と重なりました。夕方太陽が沈むと同時にドバイの市民は街に繰り出し、一族郎党テーブルを囲んでもの凄い量の食事をしていました。断食は日中だけのこと、日が落ちると多くのレストランは満席でした。ドバイの滞在ホテルの回転ドアを出た瞬間に強い熱波を感じて驚き、オマーンでは庭に面したコテージのドアを開けたら足元に大勢のヤモリがいてビビりました。爬虫類苦手な私にはきつい出張でした。このときGCCの政府関係者から聞いた話。カタールとイランとの不思議なパイプ、インド洋に面したオマーンの地政学的メリットでした。仮にイランとの紛争でアラビア海が海上封鎖されても、オマーンに荷揚げして陸上輸送できるので完全封鎖から逃れることができる、と。私も含め多くの一般日本人にはそういう目線でアラビア海を見たことはないでしょうし、イランと湾岸諸国の複雑な関係、GCC内部でもイランとの距離感がバラバラということにもほとんど意識はないでしょう。ワールドカップを契機に、GCC諸国の関係が改善され、石油が増産されて物価上昇が緩和されるといいですね。ドバイのショッピングセンターは世界のトップブランドがズラリオマーンはインド洋に面しGCCにとっては重要な輸送拠点
2022.12.06
前述しましたが、今井啓子さんは高島屋を退職して米国留学後資生堂ウェルネス事業部に入りましたが、同社の子会社ザ・ギンザに異動することになって再びファッションの世界に戻りました。ザ・ギンザの立役者だった殖栗昭子さんが退職、ザ・ギンザはファッションビジネスに明るい女性幹部が必要だったのでしょう。殖栗昭子さんと私この殖栗さんの退職、少なからず私も関係していました。松屋再建のあと東武百貨店社長に就任した山中さんとの会話の中から飛び出した構想だったのです。山中さんに「顧問になってくれ」と言われて以来、たびたび会食やミーティングの場に駆り出された私は、依然男性社会の百貨店業界は女性幹部をもっと採用しなければ変化は起こらない、思い切って優秀な女性を役員クラスに登用すべきでは、と進言していました。「優秀な女性っていったいどこにいるんだ」と百貨店経営の神様はおっしゃるので、「身近にもいるじゃないですか。たとえば殖栗昭子さんなんてどうです、伊勢丹時代からよくご存知でしょ」と名前をあげました。数日後、殖栗さんから電話がありました。「あなた、山中さんに変なこと言ったでしょ。さっき山中さんから電話がかかってきて食事に誘われたわ。あなたも同席してちょうだい」、強い口調で命じられました。しかし、「知らない仲じゃないんだから、お二人でどうぞ」と断りました。かつて、三越から西武百貨店社長に転じた(のちに三越に復帰)坂倉芳明さん、東急百貨店三浦守さん、松屋山中さん、3人の密室宴席がありました。部屋を提供していたのは帝国ホテル犬丸一郎社長、某大手アパレルメーカー大幹部K氏が費用を負担、数名のアパレルメーカー経営者が差し入れの酒を持参する席だったそうです。これに付き合わされた「華」の一人が伊勢丹研究所出身の殖栗さん、山中さんとは入魂でした。だから私が二人の間に入って紹介する必要はありません、同席は遠慮しました。山中さんが東武百貨店社長に就任した直後、「殖栗くんはパリコレに出張中だが滞在先がわからないんだ。キミ、探して伝言してくれないか。東武の根回しは終わったと」、と電話がありました。二人の間で話は進んでいたのです。その数カ月後、殖栗さんは東武百貨店マーチャンダイジング部門担当の常務になりました。インポートブランドの集積では同業他社に先駆け圧倒的に強かった西武池袋本店ですが、当時人気急上昇中だったプラダやジルサンダーのショップは東武にオープン。殖栗ネットワークであることは言うまでもありません。パリコレ時に発表される人気ブランド上位20傑のうち東武は7つ導入、西武池袋の目の前でこれはあっぱれでした。初めて殖栗昭子さんと会ったのはニューヨークコレクション会場、ショーでたまに見かける「いつもクールな表情の滅多に笑わない姉御」、そんな印象でした。どういうわけか当時から私はひと回りほど年長の姉御たちに可愛がられる「おばんキラー」でした。生意気な意見を言っても叱られない、殖栗さんとも自然に交流が始まりました。 ニューヨークを引き上げ東京コレクションの運営を始めた私は、パリコレ初日木曜日コムデギャルソン、ヨウジヤマモトのコレクション終了後ミラノでまだ展示会まわりをしている彼女に電話を入れ、コレクションの感想などを報告しました。いつだったか「今晩、あなた空いてない」と電話がありました。来日中の英国セレクトショップのブラウンズロンドン女性経営者バーンスタインさん、コムデギャルソン川久保玲さんと今晩食事をするので英語を話す男性を加えたい、と急なご指名でした。毎回、突然こんな調子で電話をもらってはディナーを付き合いました。バーンスタインさんと川久保さんがお帰りになった後二人でグラッパを飲んでいたとき、何の話がきっかけだったかは忘れましたが、「ババア、うるせー」と私、「ババアとはなんだ」と姉御、「年長の女性はみんなババアだ」と言い返す私と、他人が聴いたらびっくりする場面になったこともありました。でも数日後ケロッと「今晩、付き合いなさいよ」と電話、決して悪い関係ではなかったと思います。ある大手アパレルメーカーの幹部に頼まれて今度は私が彼女を紹介する席をセットしたら、後日電話で「アパレルのおじさんたちは楽しくないわね。今後アパレルメーカーの人は紹介しないでちょうだい」とピシャリ。お互い正直に思ったことを言える仲でした。滅多に笑わない、人を褒めない、ストレートな言い方をするベテラン女性が商品政策の責任者として外部から入ってくる、百貨店の男性社員の中には面白くない人も少なくなかったでしょう。陰でコソコソ動く男性たちが気に障ったのか、時には会議で小型レコーダーをセットして「文句があるならここではっきり言いなさい。録音を山中社長に聴いてもらいますから」とやったそうです。こういう行動はかえって火に油を注ぐようなもの、次第に批判的な声が私にも聞こえてきました。正直、危ないぞと思いました。 そして、山中さんが病死された後は居心地が悪かったのでしょう、彼女は東武百貨店を退任してトッズジャパンに移りました。私は熱烈トッズ愛用者ですが、彼女がトッズにいた間は表参道の直営店に出かけたことがありません。なぜなら、私が同業他社の百貨店に転職して以降、蜜月関係は一気に冷えたのです。同業者になったのがよほど気に入らなかったのでしょう、パリコレ会場で遭遇しても完全にシカトされました。 結局疎遠になったまま彼女は亡くなり、二度と会食するチャンスはありませんでした。
2022.12.04
昨年に引き続き今年も松屋銀座は青森県ねぶたアーティストとコラボした「ねぶたクリスマス」です。こういう日本の伝統を取り入れながらもモダンな装飾、いいなあ。
2022.12.03
1995年春に百貨店のシンクタンク部門に転職。当時スカウトしてくれた社長から「人材育成を急いでくれないか」と頼まれました。若手バイヤーやアシスタントバイヤーを早く一人前のプロにしようと、バイヤーゼミ、アシスタントバイヤーゼミをさっそく開講。数年後は「MDゼミ」と名称変更して多くの若手社員にマーチャンダイジングの基本を伝えてきました。(財)ファッション産業人材育成機構のIFIビジネススクール開校時に自分が作ったマーチャンダイジングのカリキュラムをベースに。VPの留意点の説明で使用した写真のひとつ例年7月にスタート、クリスマス商戦に入る頃に講義は終わります。先日、本年度MDゼミがワンクール終わりました。年明けには試験、そのあと締めの最終講義を行いますが、一連のマーチャンダイジングの授業そのものは終了。市場環境、マーケティングに始まり、途中宿題をはさみながら敵情視察、顧客分類、商品分類、展開分類、定数定量管理、発注、販売計画立案、そして最後にVPの留意点を講義します。難しい宿題をこなし、熱心に受講してくれました。これまでのべ数百人の社員をゼミ形式で指導しました。近年コロナウイルスで中止していますが、10月には恒例の海外研修もありました。主にニューヨーク視察ですが、パリのボンマルシェ百貨店の創業祭イベントの視察や米国シアトルのノードストローム百貨店本店サービス視察の年も。朝から夕方まで現地の商業施設を歩きまわって肌で市場動向やMDの方向性を感じる海外研修、参加できた社員は恵まれています。こんなに人材育成に力を入れてくれる会社、経営者は多くありません。日本では「先輩の背中を見て学べ」と昔ながらの徒弟制度的人材育成が少なくありませんが、その先輩たちがフィーリングとヤマカンで自己流、しかも丁寧には教えてくれない、こんなOJTでは困ります。基本中の基本はしっかりロジカルに組織として伝承すべきでしょう。が、なかなかそれをやらない、やれない企業がほとんどではないでしょうか。ネット社会でリアル店舗の存在感は薄れていますが、地球上からすべての大型小売店が消えるわけではありません。小売店社員にはマーチャンダイジングの基本中の基本を身につけ、お客様の方を見て誠実に仕事をして欲しいですね。早くコロナ禍から脱却し、社員が再び海外視察に行ける日が来ることを願っています。なんたって米国小売業はお手本であり反面教師でもあり、とても勉強になりますから。何度も視察したバーグドルフグッドマン生活雑貨売り場
2022.12.03
高校3年の秋、にわか受験勉強でどうにか大学入試にパスした私は、大学に入ったら真面目に勉強しようと決意して上京しました。しかも昼間は大学で経営学を、夜間はオヤジが教鞭をとったことがある西新宿の紳士服専門学校、ダブルスクールでしっかり学ぶつもりでした。ところが、入学して数日授業に出たら明治大学和泉校舎は突然学校封鎖に。キャンパスを封鎖占拠する首謀者は上級生なのか、それとも外部の過激派なのかわかりませんが、校門には「当分の間休講」の告知、一般学生はキャンパスに入ることさえ許されませんでした。現在のようにスマホやメールはなく、いつ授業が再開されるのかさっぱりわかりません。たまに出かけては「まだロックアウトか」とあきらめて帰ってくる日々の繰り返し、なんとも空虚な時間を過ごしました。ロックアウトは1年間続き、学年末まで授業はなく、進級はレポート審査。講義を受けずとも単位がとれ、翌々年も完全ロックアウト、「授業料返せ」と言いたくなる状況でした。勉強するつもりで上京したのに学校に足を踏み入れることも許されない、やる気はなくなります。そこで学校の枠を超えて学生ファッション研究会設立、マーケティング調査をして原稿を書いたり、企業の広報担当と共に記者会見でデータ分析を発表、私の心は完全に大学から離れていきました。2年間のロックアウト、結局大学時代に講義を受けたトータル日数は60日くらい、大学数え歌にもある「何も勉強せず卒業して世に出て恥かく〇〇生」そのものです。その代わり独学でマーケティングを勉強、学生時代にたくさん原稿を書いてファッション流通業界に発信しました。学校には来ないでマスコミにはたびたび登場、卒業時には大学教務課の職員さんに嫌味を言われました。そんなわけで明治大学OBと言われるととても恥ずかしい、後輩学生に講義する場面では本当に申し訳ないと思ったものです。が、幸運にもファッション流通業界で活躍する大学OBの先輩方にはかわいがってもらいました。この交友録第1回目VAN創業者の石津謙介さんをはじめ、紳士服業界の重鎮だった中右茂三郎さんには「私の最後のかばん持ちになるかね」と誘ってもらい、ファッションコーディネイターのはしりだった髙島屋の今井啓子さんにも親切にしてもらいました。ここでは、今井啓子さんについて触れます。今井啓子さんとは、私が大学卒業してニューヨークに渡った直後ボストンで初めてお会いしました。明治大学卒業後今井さんは文化出版局に就職してファッション雑誌編集の仕事に携わり、そののちに早くから男女均等雇用に熱心だった高島屋に転職、正社員のファッションコーディネイターとして活躍しました。確か今井さんが課長職の頃だったでしょうか、ボストンの老舗百貨店ファイリーンに短期研修の機会を得ます。渡米したばかりの私はボストンに飛び、ハーバード大学の真ん前にあったホテルに長期滞在する今井さんを訪ねました。彼女の部屋で長く話し込み、深夜に今井さんが日本から持参したインスタントラーメンを作ってくれたのを覚えています。そのとき、「ハーバード大学に通っている学生たちは特別優秀という感じがしないのよ。私だってハーバードで勉強できるような気がする」、近い将来留学で戻って来たいとおっしゃる。流通業界でもうかなりキャリアを積んだのに留学構想、米国に戻ったときすぐ普通に生活できるよう現地銀行アカウントをそのままにして帰国されました。数年後高島屋を退職し、あの頃は新分野だった「ウェルネス」を学ぶために再渡米、ハーバードではなくその分野を学ぶためニューヨーク大学に留学。それなりの大人年齢なのに初心に帰って新分野を勉強するなんて私には到底真似のできないこと、凄いです。そして、ウェルネスの勉強を終えて帰国した今井さんは、資生堂の新しいウェルネス事業部に迎えられます。当時資生堂福原義春社長と今井さんのつながりもあったのでしょう。そのつながりとは、1977年資生堂が開催した「6人のパリ」というファッション業界に大きなインパクトを与えたファッションイベント。当時パリでデビューして間もなかったクロード・モンタナ、ティエリー・ミュグレー、ジャン=シャルル・ド・カステルバジャックらフランスの若手デザイナー6人を招聘、日本各地で合同ショーを開きました。このとき資生堂の担当部署責任者が福原さん、デザイナーの人選や参加交渉を頼まれたのが今井さんと彼女の元同僚だった文化出版局パリ支局編集者たちでした。髙島屋が当時絶大な人気を誇っていたソニア・リキエルとの導入交渉で西武百貨店と激しく戦ったのも、ティエリー・ミュグレーと自社ブランド提携を結んだのも、早くからアズディン・アライアのインポートを始めたのも、文化出版局パリ支局の仲間から現地情報が今井さん周辺に届いていたからでしょう。こんなことがありました。天才イラストレーターだったアントニオ・ロペスとの面会直後(ロペスと今井さんのつながりも文化出版局ルートのはず)、今井さんとマンハッタン東59丁目を歩いていたら、ディズニーアニメ映画に登場する魔女のような風貌の赤毛女性がこちらに向かってきました。パリのソニア・リキエルご本人でした。すると今井さんは私の背中に隠れたのです。パリで提携交渉を進め、帰国したらすぐに上司の了解を取って連絡すると約束したものの社内コンセンサスに手間取ってすぐには連絡できず、結局西武百貨店が独占導入の契約を結びました。今井さんは「ソニアに合わせる顔がないの」と隠れたのです。ニューヨーク大学から戻って資生堂のウェルネス事業部で新しい仕事を始めた今井さんでしたが、資生堂ザ・ギンザを設立時から仕切ってきた殖栗昭子さんが退任したため、福原さんからザ・ギンザのケアを頼まれ、再びファッションの世界に復帰しました。ファッションショーなどで今井さんと顔を合わすたび、「在庫を整理するのでしばらく新しいことができないの。何やってるんだと思わないでね」と何度も言われました。ザ・ギンザはパリ、ミラノのトップデザイナーブランドをたくさん扱う高級セレクトショップ、ブランドのラインナップは素晴らしいけれど高価な商品だけにどうしても在高は増えます。体制が代わり、今井さんたちはまず方向転換の前に在庫の整理に追われ、数シーズンは我慢のときでした。「ザ・ギンザで何やってるんだ」と言われたくなかったのでしょうね。ようやく在庫の整理も終わり、これから攻めに転じるというタイミングで銀座7丁目本店の改装計画があり、「改装後のMD方向性を一緒に考えてくれない」と頼まれました。私は近隣のザ・ギンザ既存店をいくつかまわり、これからの時代どういう路線でいくべきなのかをレポートにまとめて今井さんに提出しました。それから数ヶ月後私は松屋銀座に転職。銀座中央通り松屋の斜め前にはデザイナーブランドを集めたザ・ギンザの支店がありました。近隣OLに受けそうな価格のこなれたインポートブランドを集めていましたから、松屋もファッションを軸に大きな改革をしてザ・ギンザ4丁目支店の顧客層にも来店してもらえるMDプランを考えよう、と婦人服バイヤーやファッションコーディネイターたちに呼びかけました。今井さんに頼まれてレポートした自分が今度はザ・ギンザ支店と張り合うようになるとは想像していませんでした。その後今井さんはザ・ギンザを退職、ユニバーサルデザイン協会の会長に就任してウェルネス分野での活動を再開しました。最後の仕事として華やかなデザイナーファッションの世界ではなく、地道なユニバーサルデザインの啓蒙を通じて社会貢献をしたかったのでしょう。いかにも学究肌で真面目な今井さんらしい選択ではなかったかと思います。こういう生き方は私には真似できませんが、大先輩にはただただ敬意しかありません。
2022.11.28
前項パリ在住フリーランスジャーナリストだった村上新子さんは自分が取材して書いた記事の掲載誌をよく送ってくれました。強く印象に残っているのは、元国際通貨基金専務理事で現欧州中央銀行総裁クリスティーヌ・ラガルド女史の単独インタビューと、高田賢三さん、島田順子さん、入江末男さんのパリ同窓会のような三者座談会、どちらも皆さんのお人柄がにじみ出て素敵な記事でした。 島田順子 おしゃれも生き方もチャーミングな秘密 (マガジンハウス刊)昨日は南青山で開催していたジュンコシマダ展示会にお邪魔しました。パリから一時帰国中の島田順子さん、数日前には新著を上梓したばかりでお忙しいのでしょう、残念ながら今回は会場でお会いできませんでした。新著の帯には「いくつになっても自分が好きなことを大切に」とありますが、80歳を過ぎても自然体のデザイナーのまんま、いまも活動拠点はパリというのが凄いです。 私が島田順子という存在を初めて知ったのは1983年3月のパリコレ時、素材や下着を製造販売していた京都のルシアン野村の野村直晴社長からのオファーを受け、順子さんはパリでデビューしたばかりでした。ルシアン野村でイッセイミヤケ子供服の経験があった岡田茂樹さんがジュンコシマダ事業ルシアンプランニングのビジネス統括、アタッシュドプレスとして活躍していたフラッシュの小笠原洋子さんが広報とイメージ戦略、クリエイションはパリ島田順子さんの三権分立「トロイカ方式」(岡田さんが何度も口にしたセリフ)で事業は急成長しました。(80年代後半、東京コレクション特設テント前にて) 1980年代初頭、日本ではアパレルメーカーが外部のデザイナーと組んで個性的なファッションブランドを次々立ち上げ、 D C(デザイナー&キャラクター)ブランドが大きなブームとなりました。が、その大半はデビュー数年以内に企業とデザイナーの軋轢が表面化してブランド解散するなどの失敗続き。その中にあってジュンコシマダはボディコントレンドの波にも乗って売上はあっという間に百億円に手が届きそうな勢い、アパレル企業とデザイナーとの協業では数少ない成功事例でした。 ところが、順子さんの良き理解者だったオーナーの野村社長が突然の病死、その先には契約更新時期が迫り、京都のルシアン本社、パリのアトリエ、東京の営業部隊との間に微妙な風が吹き始め、事業成長の功労者だった岡田さんはルシアングループを退職してしまいました。 あの頃東京コレクションのショー経費をめぐって開催日直前にルシアン側とパリのアトリエが対立、順子さんがキレそうになってパリ側で経費負担する代わりに会場で不思議なメッセージを配付しようかという話がありました。このとき東京コレクション運営責任者の私は順子さんに「観客には関係のないこと。ここはいつも通り普通にショーをやりましょうよ」とアドバイスしました。野村社長急逝、トロイカ方式が崩れ、数少ない協業成功事例だった企業出資のデザイナービジネスに暗雲が漂い始め、この関係は長くは続かないだろうなとこのとき感じました。 島田順子さんにとっては何でも相談できる岡田茂樹さんがしばらくしてジュンコシマダのゴルフウエアを提携制作していたダンロップスポーツ専務に就任、その関係で島田さんからさまざまな相談を受けていたのでしょう。岡田さんから「順ちゃんからこんな話があったけど、太田さんはどう思う」とよく相談されました。毎回相談というより、「決めた」という報告みたいなものでしたが、岡田さんは親身に順子さんをサポートしていました。結局、そのあとジュンコシマダ事業はルシアンプランニングから独立、順子さんから頼まれた岡田茂樹さんが再びジュンコシマダ事業を経営することになり、岡田さんの引退とともに名古屋のクロスプラスに引き継がれました。現在順子さんの事業を担当しているのが、私が主宰していた私塾「月曜会」の教え子というのも不思議なご縁です。 岡田さんがダンロップスポーツで側面から順子さんをサポートし始めた頃、サッカーのJリーグがスタートしました。ある日銀座の小さなカウンターバーで繊研新聞早川弘と飲んでいたら、見知らぬ初老の紳士が突然話に割り込んできました。日本サッカー協会幹部、女子サッカーリーグ専務理事を名乗る紳士、私たちがファッション業界と知って相談を持ちかけたのです。女子サッカーを盛り上げるため、東西オールスター戦のためにカッコいいユニフォームを選手たちに着せてやりたい、デザイナーを紹介してもらえませんか、と。 女性選手のデリケートな心理を理解し、サッカーを身近に感じるデザイナーでないとこの話は無理。そこで思いついたのが、パリ在住でサッカーが身近なはずの島田順子さんでした。東西両選抜チームのデザインをお願いし、制作自体はダンロップスポーツ岡田さんに打診することになりました。当時女子サッカーリーグはマイナーな存在、協会側にデザイン料や制作コストを払う余裕はありませんでしたが、順子さんと岡田さんの好意でこの話は実現しました。のちにワールドカップ女子大会優勝の立役者となる澤穂希さんがまだ年少さんの時代のことです。完成した順子さんデザインの特別ユニフォーム(グランドコート含めフルセット)を着た選手たちはロッカールームで「東西対抗に選ばないとこんなカッコいいユニフォームは着られない。来年も出場できるよう頑張らないと」と大喜び、両軍それぞれ特徴があってなかなかカッコよかったです。(2019年11月JUNKO SHIMADAイベントにて)東京コレクションを運営している頃も百貨店に転職してからも、順子さんとはパリでも東京でもよく会食やカラオケをご一緒しました。パリのご自宅に招かれ、ディナーをご馳走になったこともたびたび。私は長くファッションデザイナーの方々とお付き合いしてきましたが、考えてみれば自宅ディナーの機会は順子さん以外ほとんどありません。自然体の気さくな人ですから、ご自宅に呼ばれるたびパリ出張の緊張から解放されホッとしたものです。こんなこともありました。深夜パリのカラオケバーから出て順子さん運転の車に乗り込もうとしたら、順子さんがドアを開けた瞬間大きな声で「キャッ」、なんと車の中で浮浪者が寝ていたのでびっくりしました。カギのかかった車に潜入して浮浪者が寝ているとはなんともパリっぽいシーン、いまも鮮明に覚えています。数シーズン前、松屋銀座でジュンコシマダのイベントがあった際、集まったたくさんのお客様が順子さんと歓談する場面に遭遇しました。恐らくお客様の多くはボディコン時代からの長い熱烈ファンでしょうが、まるでアイドル歌手を囲むファンクラブのような熱い光景でした。順子さんは80歳を過ぎたいまも現役バリバリ、毎シーズンパリで新作発表してから東京に来て展示会を開いています。パリに渡った1960年代、現地で親交のあった高田賢三さんや三宅一生さんはすでに鬼籍されましたが、順子さんにはずっと現役デザイナーとしてファンを楽しませて欲しいです。(2023年春夏コレクション展示会にて)
2022.11.19
1994年3月下旬、故・鯨岡阿美子さんのご主人古波蔵保好さん(元毎日新聞論説委員)が85歳の誕生会を銀座ソニービルにあったマキシム・ド・パリで開催されました。沖縄生まれの古波蔵さんによれば、85歳の誕生日を迎える側が好きな人を呼んでご馳走するのが沖縄流だそうで、鯨岡阿美子賞創設で奔走した毎日新聞市倉浩二郎編集委員、鯨岡さんの会社アミコファッションズで毎シーズン講義していたスタイリスト原由美子さんと共に招待されました。その直前に開催された1994年秋冬物パリコレはルーブル博物館地下にファッションショーのシアターが完成した最初のシーズン、会場間移動は以前より便利になったので取材陣はかなり楽だったはずでした。しかし、誕生会に現れた市倉さんはどこか疲れた表情でした。そして4月初旬に始まった東京コレクション初日の夜、彼は体調不良でダウン、翌日には意識不明の重体、3週間後に入院先の府中病院で亡くなりました。古波蔵さんから「今度三人で沖縄にいらっしゃい」と誘われていたのに実現できませんでした。パリコレ出張から戻って特集記事を入稿というタイミングでの編集委員の意識不明、編集局もタイアップ記事を仕込んでいた事業局も大慌てに。そこで仲が良かったからという理由で私に協力要請がありましたが、パリコレに行っていない私にコレクション記事は書けませんし、タイアップ企画のデザイナー取材も中立な立場のデザイナー協議会議長としては受けられません。適任者が一人いました。市倉さんの仲間、パリ在住フリーランスのファッションジャーナリスト村上新子さんです。ちょうど帰国したところだったので、私から毎日新聞事業局長だった堤哲さん(のちに拙著「ファッションビジネスの魔力」発行に尽力してくれた人)に紹介、市倉さんが書くはずだった企画は村上さんが引き受けてくれました。(2013年12月、私の壮行会に来てくれた村上新子さんと)市倉さんが「パリでおもしろい女性を見つけたよ」、帰国中の村上さんを伴って飲み会に現れたのはその数年前のことです。数少ないファッション専門テレビ番組「ファッション通信」を制作するインファスの元パリ支局長、現在はフリーランスジャーナリストと紹介されました。年齢不詳、お酒は飲まないのに飲食の造詣深く、フランス語は極めて流暢、はっきりブランド名がわかるような服は着ない、人に媚びない姿勢の人でした。父親が元朝日新聞社記者、その血をひいてかジャーナリスト魂がある人でしたが、村上さんの出身校も卒業後の足取りも私生活も全く不明、謎の多い不思議な人でした。私がパリ出張すると必ずフレンチディナーを予約、ファッション業界動向のみならずパリ生活文化の最新情報を提供してくれる貴重な情報源でした。有名レストランから若いシェフが独立して開店したばかりのレストランや、人気急上昇の新しいレストラン、伝統的家庭料理のビストロなど、ニュース性のあるフレンチによく連れて行ってくれました。あれは1997年10月のパリコレ出張、「今日お連れした店は最近ニュースになったばかりなの。どうして話題になったのか当ててみて」と村上さんはおかしなことを言う。内装はごく普通のビストロ、創業は1912年と古く決して高級レストランではなさそう、こんなありきたりの店がどうしてニュースになるんだろう。想像つかないので「まさかダイアナ妃?」と答えたら、「その通りなの、よくわかったわね」でした。ダイアナ妃はこのごく普通のビストロがお気に入り、あの事故の晩も予約を入れていたそうです。が、ホテルの周りに多数のパパラッチ、お店に迷惑をかけるといけないので予約キャンセル、リッツホテル内レストランで食事され、その後事故死。その話が拡散されて「ブノワ」は一躍有名になったとか。大きなトレイに剥製のように動かない3種類の野鳥が運ばれ、その中から私はウズラを選び、飲まない村上さんの分までシャンパンを一人で一本あけたことを覚えています。のちにアランデュカスに買収されるまでブノアには頻繁に通いました。私のスマホのアドレス帳パリ欄にある飲食店のほとんどが村上さんに連れて行ってもらったお店、どれも美味しいけれど決してバカ高くはなくリーズナブル、そこに彼女の人柄を感じます。(ギャラリーラファイエットの屋外大規模ショー)東北大震災があった2011年秋、村上さんからメールが届きました。ギャラリーラファイエット百貨店が屋外に大きなランウェイを設置、750人の素人モデルを登場させた大規模な秋物ファッションイベントを開催した、と。「太田さんもこれくらいのことを仕掛けては」と村上さんからハッパかけられているようなメールと添付写真でした。このとき私は百貨店に復帰した直後だったので、パリの百貨店にできて東京にできないわけがないと思いました。その頃、長年のライバル三越銀座と初の共同プロモーション「銀座ファッションウイーク」を被災地のために企画、三越伊勢丹幹部とは「銀座通りで屋外ファッションショーをやれたらいいね」と話していたところでした。さっそく部下の販売促進課長に村上さんから届いたギャラリーラファイエットのイベント写真を持たせ警視庁に送りました。第一打は空振り、警視庁の担当部署には笑われました。東京都が主催する東京マラソンだって企画段階から最終的に認可するまで7年を要したんだぞ、と急な申請に対して警視庁担当官から叱られたとか。戻ってきた課長に言いました。「東京マラソン42.195キロが7年だろ、こっちはたった100メートルのランウェイなんだ、7年もかからない。もう一度交渉に行ってくれ」と部下の背中を押し、経済産業省クールジャパン推進室の課長に協力をお願いしました。さすがお役人、六法全書を抱えてわが部下を応援するため警視庁に同行、「六法全書には歩行者天国の禁止事項とは書いてない」と抵抗してくれました。しかし、それでも警視庁は首を縦に振らず、なかなか許可が出ません。最後の頼みは同課長から勧められた経済産業大臣への直訴でした。「補助金欲しいと言っているのではありません。節電のための自粛で元気がない銀座のため、疲弊する地方の繊維産地のためにも許可して欲しいんです」、私は大臣に訴えました。大臣が直々に警察トップを説得してくれ、歩行者天国の銀座中央通りで「ジャパンデニム」をタイトルに屋外ファッションショーを開催することが認められました。デニム生地で作ってもらったランウェイは100メートル、モデルには東北被災地のちびっ子、銀座泰明小学校の生徒、協力してくれた経済産業大臣ご本人、ブロードウェイ進出寸前だった女優の米倉涼子さんたちが登場してくれ「ギンザランウェイ」は数千人の観客を集めました。2012年3月、東北大震災から1年後のことです。(2012年3月ギンザランウェイ)その模様はテレビニュースや一般紙1面でも大きく取り上げられましたが、ファッション業界の出来事が全紙1面でしかも写真付きで大きく報道されたのはこのギンザランウェイが初めて。パリのギャラリーラファイエットのイベント写真が村上さんから届いていなかったら、おそらく私たちも警視庁の拒否に対して簡単に諦めていたでしょう。あの写真があったからこそ交渉できたのです。すでに村上さんは鬼籍、謎の多い不思議な人のまま私の前から消えました。屋外ファッションショーを見るたびハッパをかけてくれた彼女のことを思い出します。
2022.11.15
あれは1997年頃だったか。マンハッタンSOHO地区ウエストブロードウェイのポロスポーツ路面店で店頭展開の素晴らしさに衝撃を受けたのは。店名は「ポロスポーツ」、なのにこの店の中にはラルフローレンの最上級ブランド「パープルレーベル」から、その次のランクの「ブラックレーベル」、ブリッジラインの「ラルフ」(メンズならポロ・バイ・ラルフローレン)、ポロスポーツ、そして「ダブルアール」、さらにデニム専業メーカー「リーバイス」や「リー」のヴィンテージものも並べ、ハンガーラックにはこうしたブランドごとの展開ではなく、ラックごとにストーリー性を持たせたブランドミックスでした。しかも、メンズ、レディース両方をこうした見せ方にしていました。「凄いことやるなあ」、あのときは鳥肌立ちました。ブランド企業の大型路面店で複数ブランドを導入してブランドごとに店内エリアや什器を分けて陳列しているケースはほかでも見たことあります。が、どのラックも複数ブランドのミックス、ラックごとにそれぞれストーリーが違う展開なんて見たことありません。デザイナーが自社ブランドを因数分解して、しかも他社のヴィンテージを加えてまるでセレクトショップの趣でお客様に楽しさを提供している、いまもそんなブランド企業はありません。初めてこの展開方法をポロスポーツ店で見たときの衝撃、さすが世界有数のファッションディレクターのやることだと感動、興奮しました。写真は、昨日松屋銀座5階にオープンしたメンズ、レディース併設「ポロ・ラルフローレン」ショップ。これまでどの百貨店もメンズはメンズフロアで、レディースはレディースフロアで別々に展開してきました。が、今回は同じショップ空間の中にメンズ、レディース併設。米国では全ブランドをミックスコーディネート展開してきたラルフローレン、それに比べたら驚くほどのことではありませんが、それでも併設インショップは一歩前進です。果たしてこの試み、お客様にどのように映るのか。歓迎されるといいんですが。
2022.11.12
東京メトロ銀座線銀座駅松屋側改札口を出てすぐ左手、最初の地下ウインドー前を通り過ぎる瞬間、ちょっと違和感を感じて振り返ってよく見ると、ブランド名"balenciaga"の上部はあの見慣れた3本線のロゴマーク。悪戯っぽくて、でもどういうわけかおさまりよく調和していますよね。こういう遊び心あるデザイン、好きだなあ。去年のグッチとのコラボ(写真下)はまだ記憶に新しいけれど、今年バレンシアガのコラボ相手はアディダスです。グッチは同じ企業グループだったので意外性はそれほどなかったが、今年は意外性があるのに妙にロゴマークとブランド表記のバランスが良い。何年も前からこのデザインと言われても不思議に思わないかも。来週末からは中東カタールでワールドカップ2022が開幕するタイミング。名だたるサッカー選手が3本線のスパイクを履いて活躍するでしょうから連日私たちは動画で3本線スパイクを目にします。この時期だから一層目立つ、このコラボもヒットすると良いですね。不運にも日本代表チームはアディダスのドイツ、クリストバル・バレンシアガ出身国のスペインと同じ予選グループに入ってしまいました。今大会での予選突破はかなり難しいかもしれませんが、奇跡がないとは限らないのがワールドカップ、僅かながらでも日本の突破を期待。
2022.11.10
ありがたいことにこれまでたくさんの仕事仲間に恵まれ活動してきましたが、ファッション流通業界内で気がねすることなく何でも話せた大親友となると、ひとまわり年長の市倉浩二郎(毎日新聞社)とひとつ年長の早川弘(繊研新聞社)の二人です。でも、残念なことにイッチャン(市倉)52歳、ハヤチャン(早川)は57歳の若さで亡くなりました。二人は遠慮なく忠告してくれる私の良きアドバイザーでしたから、しばらく飛車角を抜かれたような喪失感がありました。高校3年生後半、急に受験勉強を始めたとき、受験生がよく読んでいた志望校別「赤本」を私も慌てて買いました。このとき、サッカーのことしか頭になかった体育系田舎者がガラでもないので買ってはいけないと思った赤本が「立教」「上智」「青山学院」。3校は私の個人的な印象では「かわいこちゃんが通う都会のお洒落な大学」、硬派の田舎者の男にはかなり遠い存在でした。が、イッチャンは上智、ハヤチャンは青山学院の卒業、お酒を飲みだしたら私以上に止まらない大酒飲みの二人ですから、学校イメージは私の中で完全に崩れました。(写真右が早川弘さん)早川弘(ハヤチャン)とはまだ私がニューヨークで繊研新聞社の通信員をしていた頃からの付き合い。彼は記者ではなく営業担当でしたが、年齢が近かったので会話に違和感なく、自然と交流が始まりました。帰国してCFDを始めると、ハヤチャンはいろんな情報を教えてくれ、何か調べものを依頼すると自社資料室でデータ収集して資料を渡してくれました。贔屓にしていた銀座の狭いカウンターバーではほぼ毎日一緒、彼が早く帰宅した日には世田谷区経堂の自宅に電話をかけて深夜銀座に呼び出したことも何度かありました。彼とはお互い出張スケジュールを合わせ、何度「うまいもん珍道中」をしたことか。京都出張のとき、ある繊維メーカーの新社屋落成パーティーで繊研新聞社の石川一成社長(=当時)にばったり遭遇。パーティーのあと誘われたらまずいとサッサと会場をあとにしてハヤチャンと合流、馴染みの四条河原町の豆腐料理店へ。が、ドアを開けるとなんとそこに石川社長がいるじゃないですか。石川社長が「早川くん、今日はなんだね?」と訊くと、彼はとっさに「有給です」。これには笑いました。本当は大阪支社での会議の帰り道、ちゃんと仕事をした帰り道だったのですが。香港での営業も担当していたハヤチャンと、香港ファッションウイークのゲストとして招聘された私は、彼の通訳をしてくれる日本生まれの在香港Teresa Ip(テレサ・イップ)さんの案内で連日食べ歩きました。出張最終日、帰国フライト前のランチ、コンラッドホテルの高級中華料理店でハトを食べたら、「口の中にハトのにおいが残ってるなあ。これを消しに京都に行こうぜ」と成田行きフライトをキャンセル、伊丹行きに変更してもらって京都まで豆腐を食べに行ったこともありました。(お別れの会、写真右がTeresa Ipさん)この出張時に香港島の西武百貨店で見つけたKRUG(クリュグ)のヴィンテージロゼをホテルの洗濯ビニール袋に大量の氷を入れて外出、ディナーから戻ってキンキンに冷えたシャンパンを二人であけました。これがいまもわが生涯ベストスリーシャンパンの1本。あまりに美味しかったので翌日再び香港西武に。日本の価格よりいくら安いとは言え最高級クラスの逸品、「二日続けて飲んだらバチが当たるね」とヴィンテージ白で我慢しました。初日がヴィンテージ白、翌日がロゼなら両方楽しめたでしょうが、計画性のない我々は順番を間違えました。香港ファッションウイークの取材に来ていた文化出版局の久田尚子さん(のちに私のあとのCFD議長)と彼女の部下と我々の4人でテレサさんおすすめの「鄧小平がお忍びでくる鮑専門店」に行ったら、びっくり仰天のお勘定だったということも。この種のびっく仰天はハヤチャンといると頻繁に起こりました。のちに私が社長として転職したデザイナーアパレルはデザイナー本人と繊研新聞ファッション担当記者が犬猿の仲、コレクションの批評をめぐってよく揉め、編集局長や社長まで登場するくらい最悪の関係でした。そこで、私からハヤチャンに関係修復の根回しを頼み、どうにか別の記者グループと接点ができ普通に記事が出るようになりました。ハヤチャンのおかげでした。シーズン立ち上がり日、都内店を回って夕方関西方面移動を計画していたら、「ちょうど明日俺も大阪支社で会議なんだよ」と連絡があり、京都で合流して前述の豆腐料理店に行くことに。その豆腐料理店で、翌日関西各店を回って福岡に行くと話したら「俺も行くよ。アラを食いに行こう」となりました。翌日、一緒に関西地区の売り場を回ってから新幹線に。途中私の秘書に電話を入れたら「変な男の人と一緒に売り場を見て回っているそうですね」、関西の店長から本社営業に報告がきていました。売り場でいちいち「こちらは繊研新聞の早川さん」と説明するのが面倒なので省略したら、彼は「変な人」にされていました。ハヤチャンとはよく飲みましたが、もちろんよく真面目に議論しました。次々日本上陸する海外SPA企業の可能性と問題点、これを迎える日本の大手アパレル企業の方向性、海外ブランドと日本ブランドのビジネス相違点、セレクトショップや駅ビルの将来性、百貨店の不動産業事業化、テキスタイル産業の未来、ファッションメディアと客観報道など、いろんなことを語り合い、時には意見対立して大きな声を張り上げたこともありました。2009年秋、小雨の寒い日でした。繊研新聞小笠原拓郎さんから電話をもらい、ハヤチャンの遺体が早朝マンション共用階段で新聞配達員に発見された、と。頻繁にジムに通い、年齢の割には筋肉マン、全く予期せぬ出来事、心臓発作だったのでしょう。翌日告別式の連絡を待っていたら、なんでも親族が上京してその日のうちに荼毘、告別式の類はいっさいなし、自宅遺品はすぐ廃棄処分業者が整理、私たち友人や会社同僚にはお別れのチャンスすら与えられませんでした。長い付き合いでハヤチャンが家族、兄弟の話を一度もしなかった理由がこのときよくわかりました。市倉の急逝には大泣きしました。しかし、早川のときは何が何だか事情が飲み込めず、通夜も告別式もなく、亡くなったという実感はなく、涙も出てきませんでした。健康そのものだった男がマンション階段で遺体で発見されるなんてどうしても受け入れられません。合掌
2022.11.05
約束の時間まで少し余裕があったので、久しぶりにブランドショップのウインドーをゆっくり見て歩来ました。クリスマス商戦突入寸前の静けさと思っていたら、平日の夕刻なのに結構ショッピングする人を見かけました。中国人観光客はまだほとんど来日していないようですが、彼らに代わって在日中国人の転売バイヤーが買い漁る姿を見かけます。中国人に超人気のバッグブランドのショッパーを10個ほど、重いからか歩道に置いて迎えの車を待つ若い中国人バイヤーが飛び切り目立っていました。コムデギャルソンのドーバーストリートマーケットは10周年オニツカタイガーも銀座中央通りに銀座4丁目の顔、和光のウインドーエルメス共々銀座に自社物件をもつシャネル銀座のこの場所に店を構えて長いフェラガモGINZA SIX敷地の一部はLVMHグループ所有数日以内に銀座中が一斉にクリスマス飾りになって通りは眩しくなります。ラグジュアリーな外資ブランドと在日中国人バイヤーに支えられるジャパンブランドはコロナ禍がウソのような復活を見せており、今年のクリスマス商戦は過去2年と違ってかなり期待できそうです。
2022.11.03
あれは何の会議だったかよく覚えていませんが、通商産業省(現・経済産業省)大会議室の隣席ネームプレートには「伊勢丹 大川委員」と表記してありました。氏名五十音順に席がセットされているので「おおかわ」の次に「おおた」、私はCFD(東京ファッションデザイナー協議会)議長として参加していました。ところが、委員会で隣席に座るのはどうやら大川さんではなく代理の方、居心地が悪かったのか毎回むっつり無表情でほとんど発言されませんでした。何回目の委員会だったか会議終了後に初めて名刺交換、「今度お食事しませんか」と誘われました。名刺にはMD統括本部婦人MD統括部長 武藤信一、のちの伊勢丹社長との出会いはこんな感じでした。故武藤信一さんそれから数日後、祖師谷大蔵駅から10分ほど歩いた割烹店で待ち合わせ。武藤さんは小田急線沿線のお住まいだからこのあたりのお店をご存知だったのでしょう。伊勢丹研究所ファッションディレクター田邊慈子さん、松屋の東京生活研究所ディレクター杉本明子さん(伊勢丹ニューヨーク時代から田邊さんとは仲良し)も合流、4人での会食でした。このとき「CFDは百貨店各店からいろんな相談を受け、新人デザイナーの発掘と売り場での育成を百貨店やパルコに期待しているけれど、取引条件が"買取"となるとみんな後ずさりするし、"取引口座"の面倒な手続きで一向に話は前に進まない。これでは日本で次世代デザイナーが育たない」と常日頃感じていることをストレートにぶつけました。さらに、「新人若手デザイナーに大きな注文はいりません、取引口座開設が必要でない程度でいいんです。自主編集自主販売の次世代デザイナー売り場をファッションに強い伊勢丹本店に作ってくれませんか」と訴えました。武藤さんは直前まで伊勢丹系列の子会社でブランド営業を経験、本社に戻って婦人服部門のMD責任者に就任したばかりだったので感じることがあったのでしょう、「この話、預からせてよ」と言ってこの日は別れました。1カ月後、武藤さんから電話が入りました。「あの話、1階のど真ん中でやるよ。小柴社長の許可とったから」、声が弾んでいました。私は「1階なんて場所が良すぎてかえって危ない。坪効率悪いと社内で批判されますよ」と言ったら、「大丈夫。これまで売り場ではなかったスペース、1年間は前年対比出ないから」。こうして現在伊勢丹新宿店1階三角形のポップアップスペースにオープンした期間限定の次世代デザイナーセレクト売り場「解放区」は誕生しました。導入デザイナーには自分も売り場に立ってお客様の声を直接聞くよう命じる、二人で考えた導入条件でした。武藤さんから担当者として任命されて現れたのが藤巻幸夫さん、のちに伊勢丹を退職して参議院議員になって急逝したあのカリスマバイヤーでした。伝説の渋谷西武「カプセル」の三島彰さんと「解放区」武藤さんとの対談解放区オープン直後の武藤さんと小柴和正社長との会食で、私は1970年代ニューヨークのヘンリベンデルがインキュベーションストアとしてどのように運営していたか(毎週金曜日は誰にもドアを開放してサンプルを見てくれた)、そしてベンデルがファッション業界で果たした役割、その波及効果を説明、伊勢丹には次世代デザイナーに門戸を開き続けて欲しいとお願いしました。武藤さんは単に売り場を作るだけでなく、自主販売売り場の運営を大幅に改善、売り場スタッフが本社倉庫から商品を移動させる場合の上司の「認印」を省略、機動的な売り場体制を指揮しました。デザイナーからは完全買い取り、伊勢丹側がリスクを負う形で始まりましたが、恐らく剛腕責任者でなければできなかったプランでしょう。どなたが考えたのか、伊勢丹のキャッチコピーは「毎日が新しいファッションの伊勢丹」になり、会社四季報の伊勢丹ページ概要欄にはこのコピーと解放区のことが記載されました。解放区の売上自体は会社全体から見れば微々たるものでしょうが、会社四季報が取り上げるくらいインパクトのある試みでした。私は東京コレクションを取材してくれるメディア関係者に情報を流し、デザイナーの推薦や説得など側面から協力、武藤さんとは頻繁に意見交換する関係になりました。ちょうどその頃、IFIビジネススクール開校のために山中鏆理事長以下主要メンバーで米国ファッション大学を視察するツアーがありました。フィラデルフィア繊維工科大学(NASAの宇宙服なども研究している繊維工学からファッションデザインまで教える総合大学)からニューヨークに戻るチャーターバス車中、後部座席は当時まだ喫煙可だったので山中さんが喫煙のために私の隣に移動、「キミは伊勢丹の武藤くんを知ってるか?」、「悪い噂を聞かないか?」とおかしな質問をされました。武藤さんが伊勢丹の新卒採用試験を受けたときの面接官は山中専務、その後山中さんは松屋、東武百貨店に移られたので個別の記憶がなかったのでしょう。武藤さんのお陰で次世代デザイナーにチャンスが与えられたこと、解放区でどんな業務改革をしたのかなどを説明、「ファッションの話を肴に私と一晩ずっと飲みあかせる唯一の百貨店マンじゃないでしょうか」と付け加えたら、「そうか、わかった」と山中さんは元の座席に戻られました。帰国後、伊勢丹から人事異動の発表があり、武藤信一さんは取締役に就任。山中さんが陰で支援する小柴社長から役員人事の報告(もしくは相談)が事前にあったからバスでおかしな質問をされたのだとわかりました。流通記者の間では、小柴社長がたびたび百貨店経営の神様に相談に行っていると噂されていましたから、山中さんは第三者の意見を求めたのでしょう。解放区以降、1階ステージは様々なブランドのポップアップに。武藤さんとは伊勢丹関係者を交えて、あるいはデザイナーとそのスタッフを交えて、そして時々二人きりでサシ飲みをしてブランド情報など意見交換しました。イッセイミヤケからプリーツプリーズが発売されたとき、「三宅さんはフランスパンを売るような空気管で販売したいと言ってる。思い切って平場提案してみたら」とアドバイス、三宅デザイン事務所小室知子副社長を紹介しました。当時新宿店3階婦人服売り場にあった平場「スライス・オブ・ライフ」で販売を開始したらたった数本のハンガーラックで記録的な売上、瞬く間にプリーツプリーズは全国区ブランドになりました。エイネット津村耕佑さんのファイナルホームがデビューしたときも、「おもしろい考え方の服が出たよ」と言ったら、翌日武藤さんは展示会に飛んで行って「全部伊勢丹で抑えてきたから」と興奮していました。「知らない仲じゃないんだけど、川久保玲さんとの席を仲介してくれないか」と頼まれて、南青山のレストランで会食をセットしたこともありました。お互い人懐っこい部類の人間でなく普段はムスッとしていますが、CFD時代はなぜか気が合ってよく話をしました。私がディレクターとして運営担当していたIFIビジネススクール初の実験講座プレスクール小売編、最終演習のテーマは「解放区の次のプランを武藤さんに提案」としました。受講生たちはグループに分かれて新たなMD案を提案しましたが、武藤さんにことごとく却下され、手厳しくやり込められました。のちの伊勢丹社長から直々に批評されたことは受講生にはきっといい思い出になっているのではないでしょうか。祖師ヶ谷大蔵のお店以来頻繁に意見交換する仲間でしたが、私がCFDを退任して松屋に転籍したら「もう会わない」と宣告されてしまいました。就任パーティーには来てくれましたが、私の同業他社入りは嫌だったのでしょう、松屋移籍から冷えた関係になりました。武藤さんは三越との合併後に病気で亡くなってしまい、再びサシで会うチャンスがなかったのが心残りです。
2022.10.29
9月上旬に東京コレクション(Rakuten Fashion Week Tokyo)が終わった直後から都内あちらこちらで行われているデザイナーブランドの2023年春夏物展示会にお邪魔しています。今日はアンリアレイジ森永邦彦さんの新作を見てきました。森永さんはメタバースコレクションを早く取り組んだデザイナーですが、その一方でメチャクチャ手の込んだパッチワークのモノづくりもしています。服を裏返してよく見ると、いかに丁寧に職人さんが小さな布切れを縫い合わせているかがわかります。森永邦彦さんが「毎日ファッション大賞」を受賞した翌年2020年に同賞を受賞したのがビューティフルピープル熊切秀典さん。彼が独立するまで所属したデザイナー企業で私の実弟にどのように服づくりを教わったかで話が盛り上がりました。同じ白いブロードクロス、同じパターン、別熱のシャツ工場で縫製された4枚のシャツがどう違うか弟にレポート提出を求められた話、面白かったです。いまも「自分はパタンナーのつもり」と言う熊切さん、服を上からも反対に下からも着られる「サイドC」というコンセプトはますます磨きがかかっていました。10月のパリコレで春物物の受注は生産タイミング的には遅いので、サンプルには早くも秋冬素材のもの(写真下)を入れて海外バイヤーに見せたそうです。本当はメンズパリコレの6月後半に婦人服でショーをやりたい、と。気持ちわかります。(話が弾んで写真は1枚だけ撮影しました)CFD議長時代から今日まで、最も足を運んできた展示会は皆川明さんのミナペルホネンです。いつお邪魔しても独特のほんわかな空気が流れてて癒されます。今回はいつもの代官山の会場ではなく、ベルコモンズがあった場所にできたホテルが会場でした。世の中のトレンドがどう変わろうが見向きもせずわが道を突き進み、同じ機屋さんにずっと仕事を出し続けるモノづくりの姿勢、ほんとに立派です。今回も会場には機屋の職人さんの姿がありましたが、こういう構図っていいですね。皆川明さんも2006年毎日ファッション大賞を受賞しています。長かった新型コロナウイルス規制が緩和され、やっとインバウンド客が戻ってきました。都心部では来日外国人の姿をコンスタントに見かけるようになり、2023年春夏シーズンは過去2年半とは違ったビジネス環境になっているはず。日本のクリエーションが国内のお客様のみならずインバウンド客にも評価されることを願っています。みなさん、頑張ってください。
2022.10.29
先月カッシーナ・イクスシー社長の森康洋さんから携帯番号変更の案内を受け取り、なんの疑問も感じずアドレス帳を書き換えました。そして数日前、WWDジャパンが森さんの社長退任記事、こういうことだったんですね。退任理由は「一身上の都合」、詳しくは分かりません。アクタス社長からカッシーナに移って10年余、コンランショップジャパンなども傘下におさめて事業を拡大した功績は大きいです。ご苦労様でした。 上の写真は数年前に建築学生ワークショップを主宰する建築家の平沼孝啓さん(右)と森康洋さん(左)と一緒に南青山のレストランで会食したときのもの。このとき、カッシーナ青山直営店を若手デザイナーのイベントに利用させて欲しいとお願いし、ビューティフルピープル熊切秀典さんを紹介。以下の写真は熊切さんとのコラボが実現した模様、コレクションでも使った小さな粒入り服と同じクッションが予想以上に売れたと森さんは喜んでいました。私が森さんと初めて会ったのは、彼がレナウン米国法人社長だった頃でした。松屋の若手社員を連れてニューヨーク研修する際、森さんには当時レナウンが提携関係にあったJ・クルーの直営店視察をお願いし、開店時間前に大型ショップを案内してもらっていました。私の部下だった松屋ファッションディレクター関本美弥子はニューヨーク州立ファッション工科大学卒業後米国レナウンに就職、森さんは関本の上司でもあり、少なからずご縁のある方です。あれは1999年だったでしょうか、私はレナウン副社長に就任したばかりの小野寺満芳さんから突然電話をもらいました。レナウンのメインバンク住友銀行からアパレル名門企業再建に送り込まれた剛腕経営者というふれ込みでした。「レナウン再建でご相談したいことがあります」と言われ、私は明治通り沿いのレナウン本社に出かけました。「会社整理するために銀行から送り込まれたとあなたは思っていらっしゃいませんか」、これが初対面の挨拶でした。住友銀行が常務クラス以上の人材を送り込んでマツダやアサヒビールを建て直したように、レナウンを再建して来いと頭取に命じられての出向と小野寺さんからは伺いましたが、失礼ながら私は会社を整理するために送り込まれた人物だと思っていました。そして1枚のメモ書きを渡されました。そこにはレナウンが販売している全ブランドの名前が書いてあり、「今後レナウンに不要と思うブランドに印をつけてください」。私は「全部」と申し上げました。ブランドの名前しか書いていないリストを手に無責任に答えられるはずありませんから、あえて「全部」と答えたのです。続けて、私は「明日からパリコレ出張、1週間ほどで帰国しますから、それまでにリストにある全ブランドの当初想定したターゲットと現状の顧客像をまとめてくれませんか」とお願いしました。せめてそれくらいの情報がなければ求められた答えは出せませんから。さらに、私は小野寺さんにこう申し上げました。「ニューヨークにレナウンらしくない面白い男がいるじゃないですか。どうしてああいう人材を海外に駐在させているんですか。あなたが本気で改革するのであれば、ニューヨーク駐在所長のような人材を本社に集めるべき。前回ニューヨーク出張で森さんに会ったとき、米国グリーンカードを取得し、会社はゴタゴタしているので辞めて米国で転職しようか悩んでいると彼から相談されましたよ」、と。パリコレ出張から戻って再び小野寺さんを訪ねたら、もう森さんはニューヨークから呼び戻され、本社で仕事をスタートしていました。このスピード感があるならレナウンは再建できるかもしれない、小野寺さんに協力を約束し度々会って友人のファッションディレクターやデザイナーを紹介しました。森さんは当時ニューヨークで人気急上昇中の新人デザイナーブランド、レベッカテイラーとの契約締結とその日本展開が担当業務、すぐに執行役員に指名されました。小野寺さんには「レナウンの売上を展開ブランド数で割ってください。平均値はかなり小さい、つまり小さい売上規模のブランドそれぞれに多くの人材が関わっている。これでは利益は出ません。多くのブランドを大胆にスクラップ、人材と資金を集中させるべきです」、さらに「(習志野の)大型パワーセンターを処分すべき。倉庫が大きいとどんどん在庫が膨らみ、いつの間にか在庫過多が平気になります。倉庫は小さければ小さいほど良い」とも言いました。小野寺さんも副社長着任直後に東西の大型パワーセンターの視察に出かけ、あまりの在庫の多さにびっくり仰天だったとおっしゃっていましたが、アパレルメーカーの破綻の始まりは過剰在庫に鈍感な体質、そして低いプロパー消化率に社員の多くが「売上取るためには仕方ない」と慣れきっていることだと思いますが、レナウンの在庫も半端なかったようです。さらに、柱になるブランドの発掘、育成は急務、そのためには外部の人材を活用して時代に合った魅力あるブランドを1つでも2つでも作ることだと薦め、いろんな人材を紹介しました。ところが、銀行から再建を託された小野寺さんは口が悪かった。あえて強烈な言葉を発することで社員を刺激したかったとも言えます。しかし、これが原因で会社は意外な方向に向かいます。アドバイスを求められる我々の前でも覇気のなさそうな男性社員のことを「こいつらバカなんだ」、「うちにはバカしかいない」、「若い女性の方が優秀なんだ」と強烈な言葉を連発、いまならパワハラ発言に当たるキツい言い方でした。発言の裏にある愛情は確かにあったと私は思うのですが、これに耐えられない社員と組合がグループの長老やOBたちに働きかけ、小野寺さんを銀行に戻す画策を仕掛けたようです。詳しい背景は分かりませんが、結局小野寺さんはレナウンを追われ、小野寺さんに希望の光を見ていた森さんはこの動きに失望、レナウンを退職してインテリア業界に転じました。もしもあのまま小野寺副社長が大改革の指揮を取り続け、森さんたちのようなファッションビジネスに不可欠な面白い人材が手足となって動き、我々が紹介した外部のプロ人材が活かされていたら、名門企業は別の道を歩んでいたかもしれません。カッシーナの経営で手腕を発揮した森さんを見ていると、こういう人材があのまま改革に従事していたらなあ、と思います。倒産してしまったレナウンは日本のファッションビジネスの真のリーダーでした。自社のノウハウを惜しげもなく同業他社に公開、優秀な人材もたくさん在籍しました。米国人気ブランドだったペリーエリス事業、米国のホンモノよりもレナウン製のライセンス商品の方がクオリティーが高かったし、それに関わった人材はほんとに優秀、米国サイドもペリー本人以下みんながリスペクトしていました。そんな企業があっけなく消滅するんですよね。1978年のVAN倒産時、創業者石津謙介さんはレナウン中興の祖である尾上清さんに相談に行きました。再生あるいは破産、どちらを選択するべきか悩んでいた石津さんの問いに対して、「石津くん、ファッションは虚業だよ。潔く散った方が良い」と破産をアドバイスされた、と石津さんご本人から伺いました。尾上さんが指揮した名門企業も儚くも完全に消滅してしまいました。虚業なんですかね、ファッションビジネスは....。
2022.10.14
青森県黒石市で継承される津軽こけし。松屋の地域共創プロジェクト、今回は津軽こけしの未来へ向けた新しいデザインの商品化。デザインを担当したのはグラフィックデザイナー佐藤卓さんです。以下は地下ウインドー展示。
2022.10.13
そもそも私はマーチャンダイジングのプロになりたくて大学卒業後就職しないでニューヨークに渡りました。ニューヨークでの取材活動も、パーソンズ・スクール・オブ・デザイン夜間コースでバイヤー講座に参加したのも、バーニーズニューヨークのTOKYOブティック開設に協力したのも、すべてマーチャンダイジングの知見を得るためでした。 8年間いろんな仕事をしたことで米国式マーチャンダイジングを習得、そろそろ帰国しようかなと考えていたタイミングでデザイナー組織設立の話が飛び込んできました。自分がイエスと言えば、日本にもファッションデザイナーの組織ができ、短期集中型東京コレクションの自主運営が可能になるかもしれないと考え世話役を引き受けました。どのメディアや企業にも頼らず東京コレクションの自主運営が軌道に乗ったらマーチャンダイジングの仕事にと考えていましたが、なかなか退任できる状況にはなりませんでした。 しかし、CFD設立9年に盟友・市倉浩二郎の急逝で目が覚めました。今度はなにがなんでもCFDを辞めて念願の仕事をと決意、退任したい気持ちを伝えるために長文レポートをまとめ、CFD幹事団とアドバイザーや親しい友人たちに配りました。この退任決意レポートを配った友人の一人が当時松屋の東京生活研究所取締役ファッションディレクターだった杉本明子さん、ニューヨーク時代からの友人です。このことが私の人生を大きく変えました。 右から杉本明子さん、石津祥介さん、私杉本さんはまだ海外留学生が少なかった1960年代後半、英会話習得のため米国西海岸に渡りました。現地の図書館でニューヨーク州立ファッション工科大学(通称FIT)の存在を知り、入学願書を取り寄せてニューヨークに引っ越し、FIT4年制コースを卒業。就職したのが旭化成の米国法人でした。 その後一旦帰国して旭化成本社に。頭を短く刈り上げ、ポルカドットに部分染めして帰国したそうですから、当時の旭化成の社員はさぞびっくりしたことでしょう。当時はかなり目立ったと思います。職場の上司だったのがこのブログ「交友録6」で触れた原口理恵さん(旭化成のあと伊勢丹研究所に迎えられたファッションディレクター)です。 しかし、男性社会の当時の日本、米国で教育を受けた杉本さんには窮屈だったのでしょうね、ストレスから胃潰瘍になり、結局ニューヨークに戻ったと聞いています。 私が杉本さんのことを初めて知ったのは、1980年代初頭に伊勢丹がニューヨーク駐在オフィスを開いた頃です。伊勢丹のバイヤーやコーディネイターを連れてニューヨークコレクション会場でよく見かけ、ブルーミングデールズなど売り場でもたびたび遭遇しました。月、火曜日は旭化成勤務、水、木、金曜日は伊勢丹の掛け持ちとパワフルに活躍、ニューヨークのキャリアウーマンのように颯爽と歩く姿は怖そうなお姉さんそのものでした。しかも噂では男性社員を叱り飛ばすことで有名だった伊勢丹研究所のKさんを説教して泣かしたそうですから、私は常に一定の距離を保っていました。 が、ある日伊勢丹一行を連れた杉本さんが狭い日本食レストランに現れました。先に食事していた私がカウンター席を立たないと杉本さんらは奥の席に進めませんから無視することもできず、ここで初めて名刺を渡して「今度ゆっくりお食事でも」とご挨拶。その数日後に「今度っていつですか?」と連絡がありました。会食したら意外や怖そうなお姉さんではありませんでした。以来、親交を深め、杉本さんやその友人らとの情報交換の会食が増えました。伊勢丹はトップデザイナーだったカルバンクラインとライセンス契約を結んでプライベートレーベルとして国内販売、その生産をオンワード樫山が担っていました。そのカルバンクライン社からクレーム、米国ではシルクで展開している商品をどうして日本ではポリエステルに置き換えているのか、と。伊勢丹のバイヤーとオンワード樫山の責任者は恐る恐るショールームを訪ねました。このとき人気絶頂のカルバン・クライン氏に数枚の生地サンプルを差し出し、「どれがシルクか当ててください」と言ったのが杉本さん。カルバンがシルクとして選んだ生地、実はポリエステル100%でした。「日本製ポリエステルのクオリティ-は高いのよ」と杉本さんに言われたカルバンは何も言えず、恐る恐る出かけたバイヤーたちは「杉本さんのお陰で助かった」。のちのオンワード樫山T副社長から聞いた話です。私が帰国したのち、杉本さんは旭化成、伊勢丹を辞め、東海岸メイン州の海岸線をのんびり旅行、途中休憩で立ち寄った小さな島には「FOR SALE」の表記、島ごと売りに出ていたので思い切って購入したそうです。ちょうどこの頃、ニューヨーク出張に出かける松屋の山中社長(=当時)を紹介したのは。日本に戻る前夜に山中社長が杉本さんのアパートを訪ね、松屋顧問に迎えたいと言った話はこのブログ「交友録16」に書きました。1990年山中さんは東武百貨店社長に就任、そして私たちと一緒にファッション産業人材育成機構(略称IFI)の設立に尽力しました。そのとき杉本さんから、家庭の事情で帰国することになった、と連絡がありました。米国での経験豊富な杉本さんにはIFIの指導者にもなってもらいたい、山中理事長と私は同じ思いでしたが、山中さんは社長就任したばかりの東武百貨店にも欲しいと言い出しました。 一方、杉本さん自身は山中社長時代に顧問契約した松屋で仕事がしたいと意見が分かれ、結局私が間に入って1991年最終的に松屋の東京生活研究所取締役ファッションディレクターに就任しました。杉本さんが旭化成本社勤務の際に上司だった原口理恵さんが設立準備をした研究所、ご縁ですね。IFI設立後最初のファッションマーチャンダイジングのカリキュラムは、東京生活研究所杉本さん、彼女の友人で伊勢丹研究所ディレクターだった田辺慈子さんと私の3人が相談しながら作りました。そのカリキュラム、現在も私はマーチャンダイジングの基本を教える講義で使っています。杉本明子さんが東京生活研究所に入って3年後、私のCFD議長退任決意レポートは杉本さんから松屋の古屋勝彦社長(=当時)の手に渡ります。レポートを読んだ古屋社長からすぐ連絡が入り、二人きりで面談し、松屋入りを誘われました。もしも杉本さんが古屋社長に私のレポートを渡さなかったら、私は別のファッション流通業でマーチャンダイジングの仕事をやっていたかもしれません。 杉本さんは私を松屋に誘ったことで幾分気が楽になったのでしょう、妹さんが病死した後松屋のことは私に託して再びアメリカに戻りました。暑い季節はメイン州の一軒家、寒くなったらフロリダ州のマンション、なんとも優雅な暮らしをしています。(残念ながら、杉本さんの写真が手元にありません)
2022.10.11
松屋銀座7階日本デザインコミッティーが監修するデザインコレクション売り場隣接のギャラリー、現在「イームズの正体」開催中です。20世紀の工業製品のデザインに大きな影響を与えたチャールズ・イームズとその妻レイ・イーズム。入場無料です。https://designcommittee.jp/about/以下の展示はデザインコレクション売り場です。
2022.10.08
デザイナーのヨーガン・レールさんが石垣島での交通事故で亡くなってもう8年、会社ヨーガンレールはビギグループから独立し、ヨーガンさんの意志を継いだスタッフたちがそのナチュラル路線を守っています。今日は久しぶりに江東区清澄の本社での展示会にお邪魔しました。このオフィスはずっと社員の福利厚生策として社員食堂でベジタリアンランチを提供し続けていますが、展示会期間中は我々訪問客もご馳走していただけます。ヘルシーで美味しいランチをいただき、新作を拝見してきました。個人的には晩年ヨーガンご本人が力を入れていた「ババグーリ」(以下の写真すべて)にもっと伸びる可能性を感じました。あくまで会社側にビジネスを拡大する気があればの話ですが。服だけでなくリビング雑貨のバリエーションもあって、ヨーガンが確立したかったババグーリ独自の世界観が理解しやすいですよね。できれば衣食住をトータルに訴求する実験、ポップアップや他ブランドとのコラボを仕掛けてもらいたいし、このブランドにはあまり価格のことなんぞ考えずに上質素材をどんどん使って日本のちょっと贅沢で素朴な暮らしの提案をして欲しいですね。スタッフの方々には「こんなことやったらどう」と余計なことをアドバイスしてきました。
2022.10.04
8月急逝したオフクロの納骨を控え、郷里の実家から運んであった古いアルバムや大量の記念切手の整理を始めました。古い写真に混じってどういうわけか山中鏆さんの訃報記事の切り抜きが出てきました。23年前の新聞記事をご本人の命日に発見とは、あまりのタイミングにびっくりです。1994年4月に盟友イッチャン(毎日新聞編集委員の市倉浩二郎)が亡くなり、人生の短さを実感した私は「本当にやりたいことをやらずには死ねない」と、CFD(東京ファッションデザイナー協議会)退任を決意、自分の仲間やCFD関係者に伝えました。IFI(ファッション産業人材育成機構)ビジネススクールの実験講座がちょうど始まるときだったのでIFI理事長の山中さん(このときは東武百貨店社長)にも決意を伝えたら、「どこに行くか決める前に相談に来い」、「量販店だけは絶対に許さんからな」、IFIのあった両国の寿司店でそう言われました。IFIで指導するファッションマーチャンダイジングをこの手でやりたい、希望通りやらせてくれる企業を見つける前に、まず後任CFD議長を探さなくてはなりません。引き受けてくれそうな人を探しましたが、デザイナー周辺事情を熟知している人でないと後継者に余計な苦労をさせてしまうことになる。ここはCFD顧問でもある文化出版局の久田尚子さんしかない。しかも翌年彼女は定年で区切りを迎えるドンピシャのタイミング、選択肢はほかにありませんでした。(左:久田尚子さん、右:コシノヒロコさん)「ノー」と言わせない場面をどう作るか。CFD顧問でもあるファッションプロデューサー大出一博さんに「一緒に頭下げてくれませんか」と攻略作戦の協力をお願いしました。大出さんのSUNデザイン研究所葉山合宿所に久田さんを呼び出してまずは宴会、酔っぱらった頃を見計らって土下座して頼む、これが作戦でした。相手は業界有数の酒豪、半端な酒量ではなかったけれど、二人でお願いしたら最後は「わかったわよ」とどうにか了解してくれました。本人の気持ちが変わらないうちにと、文化出版局の親組織である学校法人文化学園の大沼淳理事長を訪ね、「久田さんのCFD議長就任を認めてください」とお願いしました。その場で大沼さんの承認を得て、ようやく私はCFDと東京コレクションの運営から解放され、念願だったファッションマーチャンダイジングをやらせてくれる企業を探すことができたのです。久田さんとは初対面からいろいろ行き違いがありました。デザイナー組織を新たに作る話に半信半疑で帰国した私には面倒な手続きが待っていました。まず、直前に開催された読売新聞社主催東京プレタポルテコレクションのアドバイザーだった方々との面談が待っていました。帰国して真っ先に文化出版局の久田さんを訪ね、どういう経緯で新組織を作る話に発展したのかを説明しました。「本来私たちがやらなければならないことを(海外にいる)あなたがやるわけね」と皮肉っぽく言われたので、「久田さんがおやりになってはいかがですか。わざわざ僕がニューヨークから帰ってきてやらなくてはいけないことじゃないでしょう」と正直に思いを返しました。恐らくこのセリフで久田さんはカチンときたのでしょう、年少の若造(19年の差があります)が生意気なこと言うんじゃないわよとばかり表情が険しくなり、とても協力してもらえそうな空気ではありませんでした。次に久田さんとあるパーティーで会ったときは「あなたは(帰国を勧めた)三人組の犬よね」とさらに強烈なことを言われ、「ごく最近初めて会ったばかりなので三宅一生さんのことはよくわかりません。山本耀司さんとはサシで話をしたこともありません。仲良しと言われる関係ではありませんから」と反論しました。ほかにも身に覚えのないことをたっぷり言われ、どうして自分がデザイナー新組織設立のために奔走しなくてはならないんだろうと挫けそうになりました。こんなチグハグな会話はCFD設立まで連日続き、正式発足後CFD顧問になってもらってからもしばらくは理解し合えない関係のままでした。本来自分たちが担うべき仕事を海外在住の見知らぬ男にやらせたいとデザイナー諸氏は言う。でも現時点で編集者の仕事があるのでは自分は身動き取れない。しかも何ともクソ生意気な若造が目の前に、相当悔しかったのでしょうね。 CFD発足からおよそ1年後、久田さんは出勤途中にアポなしで事務局に立ち寄り、「これからはあなたを応援するから何でも言ってちょうだい」、と思いもよらぬ優しいことをわざわざ言いに来たのです。正直言って俄に信じられない、また何か仕掛けられたのかと戸惑いました。が、今度はセリフそのままでした。以来、久田さんは親身になってあれこれ私をサポートしてくれました。住み慣れた南青山のマンションから世田谷代田の一軒家に引っ越した直後、イッチャンと私は新居に招待され、大変ご馳走になりました。まるで小料理店のようなカウンターの中には料理人の久田さん、カウンター席には私たち、次から次へと手料理とお酒が供され、切れることのないおしゃべりが続き、ディナーが終わった時点でキッチンの洗い物は完了、実に見事なプロの段取りでした。仕事一途で家事なんてしない人だと想像していましたが、とんでもなく器用に家事をこなす人でした。このとき1部屋つぶしたウォークインクローゼットに案内され、「ねーねー、見てよ。これ、私の宝物なの。パリ支局勤務のときにお給料貯めて作った最初で最後のオートクチュール、全盛期のイヴ・サンローランよ」、嬉しそうにオートクチュール服を見せる久田さんはまるで小娘が恋を語るような表情、本当にファッションとデザイナーのことが大好きな編集者なんだと改めて思いました。私が10年、そして久田さんが10年CFDと自主運営の東京コレクションを守りましたが、ここで経済産業省が東京コレクション支援を打ち出し、状況は一変しました。私は久田さんと二人だけで会食、せっかく国が支援してくれると言うんだから提案を受け入れるべきだしCFD議長退任のグッドタイミング、引き際を間違えないでください」と言いました。お互い10年ずつ組織運営で苦労した者同士だからわかり合える、久田さんは議長退任を決めました。CFD設立20周年、前列中央が久田さん久田さんは愛知県常滑市の出身、私は伊勢湾を挟んだ三重県桑名市の出身、郷里は目と鼻の先です。晩年病で倒れリハビリ介護施設に移った久田さんは残念ながらこの施設で亡くなりましたが、そこはなんと私の自宅から徒歩数分の施設、何とも不思議なご縁です。久田邸でご馳走になったとき次から次へと出てくる手料理は常滑焼きのお皿で、贈ってくださる日本酒はいつも常滑の「白老」、郷土愛が強い人でもありました。私のオヤジみたいな松尾武幸さん(繊研新聞社取締役編集局長)の名古屋大学学生寮のルームメイトが偶然にも高校時代の恩師、左翼的思想を教え子たちに注入したインテリ先生だったと久田さんから伺いました。これも不思議なご縁。一緒に飲むたび酔っ払って大声で「バッキャーロウ」を連呼しながら私たちの肩や太腿を強く引っ叩く、元気過ぎて口の悪いおばちゃんでもありました。いま頃あの世でイッチャンやシゲルさんを引っ叩きながら大酒飲んでいるでしょうね。
2022.09.30
今月17日、日本衣料管理協会50周年記念行事のひとつとして同協会中国支部が開催するセミナーで講演させていただきました。会場の児島市民交流センターに入る前、幹事役の吉村恒夫さん(元ビッグジョン)の案内で畳縁専業メーカーの高田織物とデニムのキャピタルを訪問しました。高田織物は明治25年(1892年)創業の老舗メーカー。畳のある暮らしがどんどん減っていく中で畳縁(タタミヘリ)を専門に織っている会社なんですが、その織物を畳に合わせるだけでなくバッグやリビング雑貨などいろんな用途に活用しています。訪問した土曜日の午前中、本社敷地内ショップには多くの買い物客がいらっしゃいました。畳の生活自体は減少傾向でも、畳縁の新たな展開で元気な会社、素晴らしいです。一方のキャピタル(KAPITAL)は昭和60年(1985年)創業の比較的新しい会社。ジーンズ発祥の地アメリカでもいまこんな空気感のこだわりジーンズショップは少ないのではないでしょうか。ジーンズマニアには欲しいものがいっぱい見つかるショップでしょうね。商品それぞれにひとひねりありましたが、中でもこの深緑藍染デニムが私には魅力的でした。カイハラのデニム工場見学のとき、染料プールから綿糸を出したときの深緑色(時間の経過とともに藍色に変色する)がなんとも印象的でしたが、それをふと思い出しました。いい色していますよね。児島地区のある倉敷市はもともと繊維産業で栄えたエリア。学生服やユニホーム、そしてジーンズの製造産地であり、ジーンズショップが建ち並ぶジーンズストリートもあります。ゆっくり街を歩くといろんな発見がありそうです。
2022.09.29
現在六本木ヒルズ森タワーがある場所はヒルズ再開発前までは一般住宅が建ち並ぶ居住地区、その一画の古い一軒家にファッションショー演出家の草分け的存在だったシゲルこと木村茂さんは住んでいました。毎年ゴールデンウイーク寸前にはシゲルお誕生会が開かれていました。1994年4月も恒例のお誕生会が予定されていました。そこに飛び込んだシゲルさんとも仲良しだった毎日新聞編集委員市倉浩二郎さんの訃報、シゲルさんから「キャンセルすべきよね」と電話が入りました。イッチャンは中止なんて望んでないから予定通り開催すべきと私は返し、シゲルお誕生会は決行されました。当日お酒が進むうち、私は酔っぱらってシゲルさんの頭を叩きながら「なんで市倉が死ななきゃいけないんだ」と泣き叫び、出席者をびっくりさせてしまったようです。その後どうやって帰宅したのかは覚えていませんが、読売新聞ファッション担当記者だった宮智泉さんがタクシーで送ってくださったことだけはうっすら覚えています。そして翌日、私は人生で最も酷い二日酔い、イッチャンのお通夜はその翌日だったので助かりました。木村茂さんの存在を知ったのは1985年東京ファッションデザイナー協議会設立時。当時デザイナーのファッションショー演出を担当しているプロデューサーたちに協議会設立の背景と今後の東京コレクション運営を説明して協力を求めて歩いたときでした。当時はまだ珍しい「おねえ言葉」のとてもおしゃれな方でした。協議会が正式に発足し、代々木体育館の団体バス駐車場に特設大型テントを建てることが決まった時点でショー演出関係の皆さんに集まってもらい、テント内に設置するランウェイの基本形を決める会議をセットしました。基本形のステージ幅と長さを決めないことには建築申請の図面が引けませんから、皆さんのご意見を集約しようと会議を招集したのです。しかし、その場である演出家から、「どんな覚悟であなたは協議会を引き受けたのか」と、米国から帰国以来これまで何度も答えてきたことを再び質問されました。事前に演出家の皆さんには協議会設立の経緯や目的を何度も説明してあり、質問された方にも個別に十分説明済み、どうして再びここで説明しなきゃいけないのと思った私は、「嫌になったらニューヨークに戻りますから」とぶっきらぼうに返しました。この態度が紛糾の原因でした。「そんな姿勢なら協力できない」と言い出す演出家まで現れ、ランウェイの基本形を決めるどころではなくなりました。そのとき助け舟を出してくれた一人がシゲルさんでした。「太田さんが決めたらいいのよ。私たちはそれをもとに演出を考えればいいんだから」、この一言でどうにか基本形の幅と長さは事務局サイドで決めることになりました。シゲルさんは学生時代からファッション業界に足を踏み入れ、ファッションブランドや小売店にクリエーションのサポートをしてきた不思議な人。日本大学の普通の学部(芸術ではない)を卒業して新宿高野にスタイリストとして就職、販促のためのファッションショーをたくさん手掛け、新宿2丁目の飲み屋街でファッションや芸能界の人脈を広げていったようです。私もイッチャンと共によく2丁目のバーに連れていってもらい、テレビでよく見かける歌手たちを紹介されました。AFP通信のインタビューでシゲルさんはこんな発言をしています。ディレクターの要件は、ファッションについて自分の中にブレないポリシーをもっていることだが、デザイナーの得手不得手をつかんで歩み寄ること、時代の背景にアジャストさせる努力が欠かせない。人と人が出会って、その付き合いの中で何かが分かり、何かを作っていくこと。それがアタシの仕事。シゲルさんが演出を担当するブランドには共通点がありました。代々木体育館駐車場に建てた特設テント脇には私たちが常駐する事務局用プレハブがありましたが、木村茂演出のブランドチームがテント入りするとまずデザイナーがちゃんと事務局に「お世話になります」と挨拶にきました。ショー終了後にはこれまたキチンと楽屋や客席の清掃を済ませ、「お世話になりました」と挨拶。シゲルさんが厳しいからでしょう、これが徹底していました。当時搬入の際にろくに挨拶しないメゾンもあれば、ショー終了後客席を綺麗に清掃せず搬出してしまうメゾンもあり、ろくに清掃しないで自分たちの打ち上げパーティーに行ってしまう最悪ケースもありました。協議会事務局はコレクション期間中だけ多くのアルバイト学生を採用しますが、彼らの目にも礼儀正しいブランド企業や演出チームのことはわかりますから、シゲルさん自身とそのサポートを受けるデザイナーたちはアルバイト学生の評価は高かったです。話は少しそれますが、アルバイト学生や事務局スタッフの間でこんな話もありました。ある若手デザイナー企業、リハーサルと本番の合間の遅いランチに彼らが目撃したのは、デザイナー本人だけが豪華なお弁当でメゾンのスタッフや楽屋フィッターさんには駅弁のような小さな弁当。トップデザイナーでさえこんなことはしないので、この若手デザイナーへの評価は一気に下がりました。こういう話、いまならSNSで拡散されていますよね。企業デザイナー歴の長かったセブレの大田記久さん(1988年度毎日ファッション大賞新人賞)やローズイズアローズの比嘉京子さん(1990年度新人賞)をまるで我が子のように、時には厳しく時には優しくシゲルさんは教えていましたが、ショーの演出以上にものづくりの姿勢やショーのお客様に観ていただく姿勢をうるさくアドバイスしていたのが印象的でした。演出家にはファッションの知見、音楽や空間演出のセンスが必要でしょうが、それ以前に人間としての礼儀も大切、そのことを演出するメゾンの関係者に指導して欲しいです。長くフリーランスで活躍していたシゲルさんの若手指導に着目したSUNデザイン研究所の大出一博さんは同業者のシゲルさんに声をかけ、自社に幹部として迎え入れました。人材育成が狙いだったと思います。シゲルさんは若手の演出家たちを引き連れて新宿2丁目によく現れ、自身の仕事の哲学や過去のユニークな経験を堅苦しくならないように伝えていました。2014年11月、シゲルさんは癌で亡くなりました。享年70歳、もう少し長生きして後進の指導をして欲しかった人です。
2022.09.24
9月20日、大手町三井ホールにて第40回毎日ファッション大賞の授賞式が行われました。本年度各部門の受賞者は次の通り、皆さんおめでとうございます。<敬称略>毎日ファッション大賞 NIGO® (KENZO)新人賞・資生堂奨励賞 田中文江(FUMIE -TANAKA)鯨岡阿美子賞 北村道子話題賞 デニム de ミライ 〜Denim Project〜話題賞 松任谷由美(ユーミン)今年も選考委員をさせていただきました。控室で他の選考委員の方から、私がずっと選考委員を務めているので過去の受賞者に詳しいと言われましたが、40年の歴史の半分以下ですと答えたら大変驚いていらっしゃいました。私は第6回の1988年から第12回の1994年までの7年間選考委員でした。設立時の選考委員長だった鯨岡阿美子さんが急逝する半年前「あとは頼んだわよ」と言われ、担当編集委員だった市倉浩二郎さんから「クジラさんの遺言と思ってやれよ」説得され引き受けました。1995年4月にCFD議長を退任、一般企業に転職したので賞の公平性のために選考委員を辞任しました。そして、第31回の2013年に再び選考委員に復帰。なので毎日ファッション大賞40年の歴史の中で合計16年間お手伝いしてきました。自分が委員として選考委員会の議論に加わった年は、自分が推した人や企業が受賞できなくても結果に対しては連帯責任ありと思っています。選考委員会で他の委員の方々のご意見を伺いながら、自分の推薦を下したことはこれまで度々ありましたが、毎回委員会は勉強になります。今年も納得の結果です。詳細は毎日ファッション大賞のサイトをご覧ください。https://macs.mainichi.co.jp/fashion/win40/index.html
2022.09.23
昨年11月、元文化出版局編集者の市倉美登子さんが介護施設で亡くなりました。私の親友だったイッチャン、毎日新聞社編集委員市倉浩二郎さん(1994年に逝去。52歳)の奥様です。美登子さんが編集長をしていたこともある雑誌ミセスが廃刊になると聞いて、昨年春私はミセス最終号を介護施設に送りました。姪御さんによれば、私が送ったミセス4月号を見ているときはキリッとした編集者の目をされたそうです。(高田賢三さんと市倉美登子さん。2017年撮影) 市倉編集委員が関わった毎日ファッション大賞、今年も明日授賞式が行われます。初期の選考委員長だった鯨岡阿美子さんの名前を後世に残そうと、二人で鯨岡阿美子賞の新設に奔走したことを思い出します。授賞式で配布される図録、昨年まで介護施設の市倉夫人に届けてきましたが、今年はもう送れません。ちょっと寂しいな。 イッチャンは元社会部の硬派記者でした。ロッキード事件で田中角栄元総理大臣が逮捕され、後継者の三木武夫総理を引き摺り下ろそうと自民党各派が「三木おろし」を画策していたとき、彼はホテルの一室での密談を記事にしたそうです。そのことが大きな波紋となり、その直後にイッチャンは社会部から外されたと本人から聞きました。 市倉さんがファッションも担当する編集委員として私の前に現れたのはCFD発足から1年経過した1986年秋だったと思います。何のショーだったかは忘れましたが、文化服装学院遠藤記念館でのファッションショー終了後に名刺を交換、「今度一杯付き合ってください」と言われ、数日後に四ツ谷荒木町の大衆居酒屋で会いました。 このときどういうわけかイッチャンは自分が離婚経験者だと突然言い出したことを覚えています。初対面の私になぜそんなことを言い出したのかはわかりませんが、二人でかなりの酒量、酔っ払って気を許したのかもしれません。美登子夫人によれば、「イッチャンはあなたと本当に気が合ったのね。今晩は太田と飲むぞと出かけると決まってグデングデンに酔っ払って帰ってきたわ」。はい、私もイッチャンとの飲み会は毎回グデングデンでした。右から市倉浩二郎さん、久田尚子さん、私当時CFDがオフィスとして借りていた南青山の賃貸物件は、玄関と勝手口の2箇所ドアがありました。毎日新聞社編集委員として取材にくるとき、市倉さんは事前にアポを取って玄関チャイムを鳴らして入ってきました。しかし、友人イッチャンはいつも勝手口からノーチャイムで入ってきてオフィスの冷蔵庫を勝手にゴソゴソ、ときにはレアな日本酒を持って「おい、飲むか」、と。公と私をしっかり分けて接してくれた友でした。 1994年3月のパリコレ出張直前、市倉編集委員はいつものようにアポを取って取材に。このとき「今シーズンでパリコレは最後にする。パリコレ取材は誰かに任せて、俺はデザイナーの背後にいる技術者たちのドキュメントを書きたい。おまえ、手伝え」。彼はワイン、スコッチ、日本酒など醸造現場を取材し、お酒にはかなりの知見がありました。が、自分はお酒のプロではないからと遠慮して一冊の本も書かなかったんですが、やっとファッションデザイナーを支える技術者や機屋のことを本にするぞと言い出したのです。 パリコレから帰国して東京コレクションが開幕、初日最後のショーだったユキトリイの直前、私は通りかかったカフェで一服する市倉夫妻、帽子デザイナー平田暁夫夫妻らを見つけ、皆さんと雑談。このときの会話は健康維持のためのドリンク、でもイッチャンは「あんな不味いもの飲めるか」と無視でした。 みんなでユキトリイのショーに出かけ、その後別れました。ショー終了後、イッチャンは「気分が悪い」と鳥居さんの打ち上げパーティーをパスして帰宅、翌日救急搬送されました。その後3週間救急治療室で意識不明のまま、結局私たちの目の前で息を引き取りました。救急治療室の控室で「イッチャンがいつも言ってたわ。太田は本当にやりたいことが別にあるんだって」と美登子さんから言われ、「もしも旦那が亡くなったら、僕は辞表を出します」、そんな会話をしながら毎日快復を待ちました。人の死に目に立ち会ったのも、遺骨を拾ったのも、私には初めての経験、大親友の死に大泣きしました。そして、1冊の本を書く時間もなかった友人の急逝に、「人生は短い」と実感しました。やりたいことをやらずに死ねない、イッチャンの告別式直後に私はCFD議長退任を申し出ました。(ご自宅は昔のまま残っていました) イッチャンが亡くなって数ヶ月後、美登子夫人から電話をいただきました。シャンパンのモエエシャンドン創業250年祭で市倉さんが前年にフランスから持ち帰った籐の籠に入った記念マグナム、これは私が譲り受けるべき、と。後年モエエシャンドン関係者に聞いた話では、この記念マグナムは3人の日本人(他に有名なソムリエと洋酒メーカー経営者)に手渡された貴重なボトル、それを奥様からいただきました。 故人が大切にしていたシャンパンだから有効活用しなくてはバチが当たります。10年間CFD責任者としてお世話になった東京コレクションの施工業者幹部を集め、後継議長の久田尚子さんを紹介する宴席でこれを開けました。いくらマグナムでも10人で飲んだらあっという間になくなり、近所の高級スーパーでモエの上級ブランドであるドンペリのマグナムを調達しましたが、ドンペリよりもモエ記念ボトルははるかに美味しかった。いまもわが生涯一のスペシャルなシャンパンです。 (鍵屋の煮やっこ)イッチャンが救急搬送される前に食べた最後の晩餐、それはシンプルな「煮やっこ」でした。お酒の飲めない美登子さんをイッチャンが初めてデートに誘ったお店は、鶯谷の歴史ある居酒屋「鍵屋」、酒飲みには喜ばれるかもしれませんが、初めて女性を招待するようなお店ではありません。冷やっこ、煮やっこ、味噌田楽、豆の煮物くらいしかおつまみがない、男くさい殺風景な居酒屋なのです。二人には思い出深い鍵屋風シンプルな煮やっこ、これが最後に美登子夫人が作った手料理になってしまったそうです。虫の知らせなのでしょうか。いまごろあの世で夫人の作る煮やっこでイッチャンは一杯やってるでしょう。
2022.09.19
バーニーズニューヨーク2代目社長フレッド・プレスマン氏の長男ジーンに呼び出され、日本のデザイナーブランド買い付け協力を頼まれたのが1981年秋冬パリコレ直後でした。ミュグレーやモンタナのビッグショルダー逆三角形シルエットがこの頃のファッショントレンド、バーニーズのバイヤーはパリ、ミラノで買い付け予算を消化しきれず帰国しました。発注減ですからこのままでは秋冬シーズンの売上増は見込めない、早急に新たなリソースを見つけなければなりませんでした。 その前年、カンサイヤマモトのアニマル柄ニットがニューヨークの百貨店やセレクトショップで爆発的にヒットしたことも大きな要因でしょうが、「日本にはイッセイミヤケやカンサイヤマモト以外にも優れたデザイナーがいるのではないか」、ジーンはヨーロッパの発注不足分を日本で補えるかどうかを私に質問したのです。そして4月上旬、ジーン・プレスマン副社長とメンズ、ウイメンズのバイヤーと一緒に私は東京を訪れました。 このときいくつかファッションショーを視察できましたが、どの会社も展示会はショー後3週間ほど先の開催、すぐに発注できないことがわかって一旦ニューヨークに戻りました。ショーそのものも調整機関がないから5月後半まで約2ヶ月に渡って日程はバラバラ、これでは東京が世界とビジネスすることはできません。ショーの短期集中開催、ショーの翌日から発注ができる体制を早く作ることが日本の課題、と思いました。これが、1985年のCFD(東京ファッションデザイナー協議会)設立の伏線でもあります。 4月下旬再び来日したバーニーズ、でもスムーズに発注できたわけではありません。当時ほとんどのブランド企業はバーニーズニューヨークの存在を知りません。まずバーニーズがどういうポジションの小売店なのか、どこにお店があるのか、現在どういう欧米ブランドを扱っているのかを詳しく説明しないと発注にたどり着けません。 次にL/C決済(レター・オブ・クレジット)がいかにブランド側に安全なのかを説明しました。あの頃L/C決済のことも対米繊維製品輸出のクオータがあることもみなさんご存知なかったので。上代表記(欧米の展示会では下代表記)のどれくらいの掛け率で取引するかも交渉せねばならず、東京でのバイイングはものすごく時間がかかる、1日に4ブランド程度しか回れずストレスが溜まりました。(長く私の部屋に飾っていたYohji Yamamoto)いくつかのブランド企業を回ってワイズ(まだこの頃はヨウジヤマモトではなかった)の展示会に立ち寄りました。サンプルを見ていざ発注しようとしたところ、接客してくれた林五一専務は「パリの展示会でシャリバリに独占販売を約束したので今シーズンは注文を受けらない」。ワイズは3月にパリで受注会を開催し、バーニーズにとっては最大のライバルだったセレクトショップに1シーズンだけニューヨークエリアの独占販売権を渡したと言うのです。私たちはワイズの発注を諦めました。 翌82年春夏シーズン、再び東京に買い付けに来たバーニーズはワイズの展示会に。このとき海外向け商品は確か「ワイズ・ヨウジヤマモト」の表記になっていたと思います。そして別のハンガーラックには国内市場向けの「ワイズ」のサンプルがありました。ジーンとバイヤーは海外向け商品に加えて国内向けワイズも発注したいと言い出しました。 ところが、国内向けワイズは既にシャリバリに独占販売を約束したのでニューヨークの他店に売ることはできない、と林専務が言うのです。またかよ、当然ながらジーンやバイヤーは不機嫌になりました。シャリバリのおよそ3倍の買い付け予算を提示しても林さんは全く興味を示さない、私たちは国内向けワイズを諦めて引き上げました。 次の展示会場に行く道中、私はジーンにこう言いました。(店舗の規模から言って)大量発注したとは思えないシャリバリとの約束を守るなんて馬鹿げているけれど、見方を変えれば林さんは律儀で信用できる男じゃないか、味方につけると頼もしい、と。不機嫌だったジーンは「確かに」と納得でした。 米国ファッションビジネスでは、口約束は守らないのが当たり前、納品された商品の代金だって簡単には支払ってくれません。特に市場でのポジショニングが高い有力店ほどあれこれ理由をつけてなかなか払わない。独占販売の口約束を破棄する例はいくつもあります。悪く言えば「騙し合い」が普通の世界なんです。シャリバリとの独占販売を生真面目に守る林さんの姿勢、米国ユダヤ系ビジネスマンには想定外だったかもしれません。1985年4月読売新聞社主催の東京プレタポルテ・コレクション前夜祭の夜、会場(現在の都庁の場所に建てられた大型特設テント)すぐ近くの中華レストランで御三家デザイナーと食事をすることになりました。そのとき林さんも一緒でした。話は東京にもパリやニューヨークのようにデザイナー組織を作って東京コレクションを自主運営しようとなりましたが、林さんは黙ってみんなの意見を聞いていました。私もびっくりしましたが、同席した林さんもまさかこんな話が出るとは思いもしなかったでしょう。そして5月、新組織発足に向けて動き出したとき、林さんから電話をもらいました。「みんな仲が良いわけではないからね。そこは頭に入れておいた方がいいよ」、とそれまでニューヨークにいて日本の業界事情を知らない私にアドバイスしてくれました。 7月に発足した新組織CFD、そのオフィス探しを担当してくれた林五一さんと三宅デザイン事務所小室知子さんは、会社の業務そっちのけで物凄い数の物件をリサーチしてくれました。その献身的な姿勢に、シャリバリとの約束を守った人らしいなとしみじみ思いました。 林五一さんは小学校高学年から慶應義塾大学卒業までずっと山本耀司さんの同級生。慶應卒業後スカンジナビア航空に就職しましたが、成田空港開業を機に営業所が羽田から成田に移転と決まり、幼馴染の山本さんの誘いを受けて畑違いのファッションの世界に転職。転職当時は予想したほどに個性的な商品は売れず、山本さんのクリエーションとは別の売りやすい商品を「ワイズ・ドール」(確かこんなブランド名だったと聞いたことあります。私は見たことありませんが)として販売したそうです。幼馴染だから創業デザイナーに言えた施策、普通のビジネスパートナーなら喧嘩になっていたでしょうね。 こうしてワイズは徐々に国内市場で地盤を固め、1981年ついに海外セリングをスタート、当初ブランド名の「ワイズ」が「ワイズ・ヨウジヤマモト」になり、さらに現在の「ヨウジヤマモト」となり、「黒の衝撃」でコムデギャルソンと共に一躍世界的ブランドになりました。(ワイズフォーリビング)その後林さんはヨウジヤマモトとは距離をおいて「ワイズフォーリビング」を起し、現在もその経営をなさっています。
2022.09.15
英国エリザベス女王のご遺体がバッキンガム宮殿を出るときの隊列シーン、厳かで素晴らしかったですね。沿道に集まった一般市民、忘れがたき光景を目に焼き付けたでしょう。女王陛下の戴冠式は1953年に行われました。このとき頭上のティアラから、服、バッグは英国製でしたが、どういうわけか靴だけはフランス製、フランス人靴デザイナーのRoger Vivier(ロジェ・ヴィヴィエ 1907年〜1998年)のものだったそうです。なぜ靴だけフランス人デザイナーのものが選ばれたのかはわかりません。出棺のニュース映像を観ながら、そのことを思い出しました。
2022.09.15
故郷の高齢者介護施設でお世話になっていたオフクロがコロナウイルス感染で亡くなってから1カ月、先日実家やお墓のことで弟・太田秀之とスパイラルカフェで打ち合わせ。昔はよく近所の南青山の蕎麦屋で兄弟ランチをしたものです。オヤジが2001年に、妹が2018年、今夏母親と逝き、残るは兄弟二人だけになりました。紺屋の息子だったオヤジはインパール作戦から無事帰還すると百貨店勤務を経てテーラーを開業、ほかに毛芯メーカーや百貨店の納入業者、東京の紳士服アパレルメーカー顧問デザイナーを務めるなど事業を拡大、出入りの生地屋さんには息子を二人とも継がせると話していたそうです。私はオヤジが戦前に通っていた西新宿の日本洋服専門学校夜間コースに入れられダブルスクール、夏休みはパタンナーのプロに個人指導を受け、大学卒業後ロンドンのサビルロー修行を予定していたので英会話レッスン、とワンマンオヤジの構想通りでした。地元の大学に行く弟も同じ、無理やり大学の夜間コースに変更させられ、日中はうちの職人さんたちと共にオヤジの指導を受けて服づくり、普通の大学生のように遊び回る時間はなかったようです。ところが、私は家業継承のためにロンドンで修行ではなく、自分のやりたいマーチャンダイジングを習得するためニューヨーク行きを主張、長男ながら「分家」となってテーラーを継がないことに。オヤジの期待は弟に向けられます。しかも手術時の輸血が原因で肝炎、肝硬変、肝臓癌になったオヤジは無理ができず、弟の助けが必要でした。最晩年、弟のお陰で仕事を続けられ、長生きできたとオヤジは弟に大変感謝していました。1982年春、一時帰国した私を訪ねてオヤジが上京。高級テーラーの将来性をどう思う、と質問されました。弟を無理やり夜間大学に入れて家業を継がせ、いまさらこの質問はないでしょう、私はブチ切れました。それまで父親に「オヤジ」と言ったことが一度もなかった私は生まれて初めて、「オヤジ、今日からお前はうちの家長ではない。秀之のことは俺が秀之と相談して決める」と宣言しました。将来家業の継承で苦労をさせたくない、私はすぐ故郷に帰って弟に上京を勧め、オヤジには一代限りでテーラーを廃業するつもりで仕事を続けてくれ、と頼みました。弟はこのとき28歳、テーラー修行10年でした。(わが弟)弟は大学1年から紳士服づくりを実践で学び、パターンメーキングも習得しています。私がバーニーズニューヨークの買い付け出張で知り合った東京のブランド企業にお願いするか、あるいはファッション専門学校に入って勉強をやり直すか、いろんな進路を考えましたが、結局デザイナー企業C社のお世話になることに。C社を選んだ理由はとてもシンプル。他社がオーナーデザイナーのことを「先生」と呼び、我々外部の人間に対して「先生は外出なさっています」「先生はまだいらっしゃっておりません」と言いますが、C社だけは普通の企業のように「社長は外出しております」でした。ファッション業界は奇抜な服を扱っていても特殊な世界ではなく、午後出社しても「おはようございます」の業界ではありません。我々は一般生活の中で着る服をお客様に提供するビジネス、商品は個性的であっても職場はごく当たり前であって欲しいと考えてきました。だから、商品は奇抜でも会社は普通なC社にお願いしたのです。後年オーナーデザイナーから「理由はそれだけ?」と訊かれたことがありますが、その通りなのです。入社直後、オーナーデザイナーから「太田くんは完璧に縫えるので助かる」と言われたことがありますが、オヤジと職人たちにしごかれた高級テーラーのプロなのです、腕がいいのは当たり前でした。その生真面目な性格もあって生産工場では指導力を発揮、工場の人々に効率の良い縫い方、効率の良い生産システムを丁寧に教えてきたようです。大手商社マンが私に教えてくれました。「弟さんはプロ。縫製工場に行って作業しているスタッフを前から見る人はいますが、後ろからじっと眺めて工場長にラインの組み換えをアドバイスするのは弟さんしかしませんよ」と。生産ラインの修正、縫い方の指導をして1日当たりの生産性を上げ、その上で縫製工場と工賃交渉をしてきたようです。C社がメンズの新ブランドを立ちあげた直後、弟は会社のパターンとサンプルを実家に持ち込み、パタンナーとして一流だったオヤジに相談してパターン修正をしていました。二人は実家のテーラー用の大きな裁断台に生地を広げ、パターンの微調整と縫製仕様の修正をやっていましたが、このときのオヤジの幸せそうな表情は忘れられません。家業はすでに廃業していましたが、息子が所属する会社のより良きものづくりのために一緒に作業する喜びをオヤジは感じていたのでしょう。私にはマネのできない親孝行でした。一度東京駅の新幹線ホームで弟と遭遇したことがあります。三重県に行くというのでてっきり実家かと思ったら、「腕の良い縫製工場が松阪にあるのでこれから交渉に行くんや」。2年前に福島県のクオリティーに定評ある縫製工場と仕事を始めたばかり、なのに手仕事比率が高くもっとグレードの高い縫製工場を探し当て、交渉に出かけるという。さすがプロだと思いました。私もいろんな場面で「C社の太田さん」の話を聞きました。C社から巣立って行った若きデザイナーや商社の繊維部隊の人々から「弟さんからものづくりを教わりました」とよく言われます。同じ世界で働いているのでお互い兄弟のことを他者から聞く場面は少なくありませんが、弟の評判を聞くたび私は嬉しかったですね。子供の頃から私はぶきっちょ、弟はコツコツ型でした。テーラーの職場から多数の糸巻きが出ますが、それを使っておもちゃに仕上げるときに弟は上手くできるのに私は下手くそ、おもちゃにはなりませんでした。私がプラモデルを作れば必ず部品が数ピース余ってしまう、私以上に弟はオヤジの血をひいています。その弟が引退すると聞いて私はすぐにコンタクト、再建途上のブランド企業Y社の社長を助けてやってくれないかと頼みました。C社とよく比較されるデザイナー企業、一度経営破綻しましたが、若き社長が外部の資本家たちの支持を得て一生懸命再建、その様子を見て私は陰ながら応援してきました。「お前が手伝ったらきっと原価率は大幅に改善されるだろうから」と社長に紹介、Y社のお手伝いをすることになったのです。Y社で7年間どれだけ貢献できたのかは知りませんが、今春弟は「そろそろ引退するわ」、そして先月オフクロの急逝と同じタイミングでファッション業界から完全に手を引きました。弟の息子は私のススメでIFIビジネススクール全日制を卒業、インターンシップでチャンスをもらったデザイナーMさんの会社に就職しました。弟とは仕事の領域が違いますが、甥っ子が父親のように業界関係者から早く信頼されるよう期待しています。
2022.09.12
クールジャパンの関係で初めてマレーシアの首都クアラルンプールを訪問したのは2014年でした。ペトロナスツインタワーの真ん前のホテルに宿泊、この写真はホテルの部屋から撮影したものです。迫力ある高層ビルを見上げながら、すごいもの建てるんだなあ、と思いました。市内には日本のコンテンツが溢れ、日本食レストランも多く、中にはハラル対応のラーメンも。伊勢丹は4店舗も運営していたので、最も古い店舗を全館クールジャパンの館にしてみませんか、当時の三越伊勢丹大西洋社長に提案しました。これからASEANの時代が来る、そんな予感がありました。
2022.09.11
これまで何回かスイスのチューリッヒに行ったことがあります。市内を走るトラムに乗っていたら、見慣れた顔がカフェに。なんと長くFIFA(国際サッカー連盟)会長だったゼップ・ブラッター氏ではありませんか。で、思い出しました、チューリッヒにはFIFA本部とサッカーミュージアムがあることを。ちょうどいま、今秋中東のカタールで開催されるワールドカップのプロモーションに各国を回っている優勝トロフィー、ガラス張りケースの中にありました。今年これを手にすることができるのはどの国のキャプテンでしょうか。直近のFIFAランキングではブラジルが第1位ですが、個人的には第2位ベルギーの初優勝を見てみたいです。澤穂希さんのアップ写真、なでしこジャパンのイラストがデカデカと展示されていました。優勝すると女子でもこの扱い、日本人としては大変誇りに思います。が、日本の男子チームがこういう扱いをしてもらえる日はいつくるのでしょう。生きている間に見たいものですが、ちょっと無理かな。自分がサッカーの練習に明け暮れた青春時代、憧れのチームは西ドイツでした。皇帝フランツ・ベッケンバウアーと爆撃機ゲルト・ミュラー、大好きでしたね。ベッケンバウアーの華麗な身のこなしと冷静なパス回し、背が低いミュラーのぶっとい太腿が繰り出す泥臭いシュート、いまもはっきり覚えています。現代サッカーの基本形となったとも言われる1974年ワールドカップ決勝オランダ戦は疑いなくサッカー史上のベストマッチでしょう。1970年メキシコ大会、高校生だった私はNHKラジオ放送を聴いてた記憶がありますから、当時まだ国際実況中継はなかったのかもしれません。メキシコで晩年のペレが活躍、ブラジルは三度目の優勝を果たし、トロフィー「ジュメール・リメ杯」を永久保存する権限が与えられました。神様ペレは凄いんですが、私は泥臭いゲルト・ミュラー派です。
2022.09.09
今シーズンの東京コレクション(Rakuten Fashion Week Tokyo)はなかなか見応えがあったのではないでしょうか。CFD設立以来ずっと新人若手のインキュベーションを掲げて来ましたが、伸びそうな新人デザイナーが複数同時に登場すると嬉しいですよね。今回は久しぶりにそんなシーズンでした。今日は記憶に残るベストコレクションの話。(実際のショー写真がないのは残念)私はこれまでいろんな立場でデザイナーのコレクションに関わってきました。取材する側に始まり、小売店側、発表するブランド側、CFDやJFWのようなコレクション主催者側もありました。長く業界で働いているのでかなりの本数のコレクションを観てきましたが、ショーの演出やコレクションそのものの完成度に感動して終了後に席をすぐ立てなかったショー、感動のあまり背中ゾクゾク涙が出そうになったショーは何度も経験あります。 ニューヨークで取材活動をしていたとき、これまで見たことあるようなないような不思議なノスタルジックなコレクション、決してニューファッションではないのに鳥肌が立ったことがあります。1980年代初頭だったでしょうか、ラルフローレンが初めてサンタフェスタイルをズラリ並べたコレクションを披露したのは。アメリカンインディアンの生活文化をモチーフにしてはいますが、インディアンが実際にこんな格好をしていたとは考えられないスタイリングでした。個人的にアメトラの世界はあまり好きではなかったのに、このときのラルフローレンのショーは感動してすぐ席を立てなかったことを覚えています。さらにその翌々年だったでしょうか、モロにアメトラの1930年代プレッピースタイルでまとめたコレクションも、まるで古き良き時代の映画を観ているような感動がありました。サンタフェもプレッピーも新しいスタイルではないんですが、ラルフローレンがプロデュースする世界観は魅力的でした。(Ralph Lauren)シーズンを重ねるたびに人気は急上昇、デビューしてあっと言う間にカルバンクライン、ラルフローレンと並ぶニューヨークデザイナーのビッグ3になったペリーエリス、映画「炎のランナー」をデザインリソースにした1981年秋冬はアイリッシュツイードをフルに使った圧巻のコレクションでした。フィナーレ時には背中に電気が走りました。このとき私はランウェイで撮影していましたが、感動のあまりモータードライブのシャッターは押しっぱなし、物凄い枚数の写真を撮ってしまいました。これ以外のシーズンでも魅力的なコレクションを次々発表、ついつい原稿が長くなってしまうデザイナーでした。(Stephen Sprouse)まるでロックンロールのライブハウスにいるような雰囲気の中、派手なオレンジやピンクのネオンカラーの服を着たモデルが現れたスティーブンスプラウスの1984年秋冬コレクション、これも忘れがたいショーのひとつ。マーク・ジェイコブス時代ルイヴィトンの落書きペイントのバッグで知っている方も多いでしょうが、スプラウスはほんの3年ほどコレクション制作をしていたファッションデザイナーです。マークがルイヴィトンで起用したことで業界人の多くがその存在を思い出しました。いまも記憶に残るデザイナー、非常にインパクトあるコレクションでした。1983年3月、繊研新聞ファッション担当記者の織田晃さんにお願いして初めてパリコレに出かけました。ちょうどコムデギャルソンがボロルックで世界を驚かせ、欧米ジャーナリズムで賛否両論真っ二つに評価が分かれた後のシーズン、足速に大股でステージを歩くモデルたちはポルカドットにボックスプリーツのスカート、穴はどこにも開いていないし、袖はちゃんと両袖ついてました。パリコレデビュー時に服を解体して新しい服の概念を見せつけたコムデギャルソン、解体した後だからこその成熟した美しさと言うのでしょうか、その夜は興奮して眠れませんでした。感動のあまり川久保さんに手紙を書いて現地ショールームで手渡ししたくらいです。同じ1983年秋冬シーズン、イッセイミヤケのボディーワークスがパリコレステージでも披露され、「こういう服もありなんだ。美しいなあ」と素直に感動しました。織物や編み物だけが服じゃない、原材料が金属だってシリコンだって服に使えるということを初めて知った「目から鱗」ショーでした。のちにイッセイミヤケは和紙、工業用ポリエステル、ペットボトル再生繊維など新素材を次々と服に登用しますが、このとき三宅一生さんのモノづくりの哲学に触れた喜びのようなものを感じました。二度目のパリコレは1985年秋冬、初めて観たアライアが強烈な印象。ショーにつきものの音楽はない、モデルはかつてのオートクチュール時代のように番号札を持ってステージを歩く、しかもその表情に笑みはない、一見つまらないクラシックな演出でした。しかしながら、アライア特有のボディコンシャスなニットはなんとも言えぬ魅力がありました。自分たちはショーの音楽、照明、舞台美術、意表を突くメイクなどトータルでコレクションを評価しがちですが、アライアはまさに服だけの一本勝負、その潔さに感服でした。この1985年3月のパリコレから数ヶ月後、CFDが設立され、私は東京コレクションを運営する側になってしまいました。当初はコムデギャルソン、ヨウジヤマモト、イッセイミヤケはパリコレのあと東京コレクションでもショーを開催、代々木競技場の特設テント前には長蛇の列でした。この頃が東京コレクションは最も華やかでしたね。毛利臣男さんこの中で最も印象に残っているショーは、なんと言っても三宅一生さんの片腕だった毛利臣男さん演出のイッセイミヤケ1986年秋冬です。1985年秋、初めてCFD主催東京コレクションの後、毛利さんはテントと舞台美術業者に次シーズンの演出のために大型テントを改良できないか直接相談していました。毛利さんの構想は、ステージ左右のサイドパネルがショーの最中徐々に開いていき、最後にパネルが全開したところで背後に現れる大きな布が一瞬にして消え、その後にテントが緞帳のようにまくれ上がってテントの外からモデルが中に入ってくる。とんでもなく手間もお金もかかる演出プランでした。テントを組み立てるのに10トンのクレーン車2台必要ですが、一旦張ったテントの一面をめくり上げるには風の抵抗もあって大きな建設用20トンクレーン車が必要です。しかもテントそのものはジッパーをつけ、本番前にはジッパーを開けなくてはなりません。この構想を現場責任者から聞いたとき、断るべきか、受けるべきか、責任者として悩みました。業者は物理的には可能と言う、面白いから許可しようと決断しました。ただし、雨天の場合はバックステージが濡れるので被害を弁償という条件でした。ところが、ショー前夜のテント開け閉めのリハーサル中、会場視察にきた三宅さんが「太田さん、こんなことをして良いんですか」。三宅さんはCFD代表幹事、公平にCFDを運営すべき立場なので自社だけが特別なことをやってはいけない、「中止」と言い出しました。毛利さんは「絶対にやりたい」と言いますし、私は「やっても良いけど経費は全額負担してください」と意見は分かれました。テント脇の事務局プレハブで三人が「やってはいけない」、「やりたい」、「やったらいいじゃない」と大声で議論、現場スタッフは作業を中止して結論を待っていました。最終的に毛利さんの演出プランは決行に。観客席でショーを観ていると、サイドパネルが徐々に開き(楽屋は着用済みの服を全部屋外に出して空間を作る大作業)、パネル全開のあとに大きな布が天井から落ち、次の瞬間テントがゆっくりと緞帳のように上がり、その外には風にそよぐ巨大な布がまるで砂漠のように波打ち、やがて同じ布のドレスを纏ったモデルたちが屋外からテントの中に歩いてきました。まるで映画「E.T」のワンシーンのような幻想的なシーン。しかも偶然ですが、開いたテントの先にはくっきり黄色いお月様、あたかもオペラかミュージカルを観ているような感動を観客は味わったはず。私にとっても、人生で最も印象に残るコレクション演出でした。毛利臣男さんは自分が演出したショーの美しさに演出席で涙を流していました。写真をここでご紹介できないのがほんとに残念。しかし、毛利さんが東京コレクションの演出をしたのはこれが最後でした。事務局プレハブで大声を張り上げて議論したとき、私にもっと調整能力があったらこんな結果にはなっていなかったかもしれない、と責任を感じます。毛利さんはその後歌舞伎の3代目市川猿之助さんとのお仕事などで活躍、文化服装学院などで後進の指導にも当たられたと聞いています。もう一度、毛利さん演出の面白いファッションショーが見てみたい。<追記>2022年10月9日毛利臣男さんが亡くなったそうです。残念です。もう再び毛利演出のショーは見られません。ご冥福をお祈りします。
2022.09.08
1964年海外旅行が自由化されると、高田賢三さんはのちにニコルを創業する松田光弘さんと一緒にパリに旅行します。二人は文化服装学院「花の9期生」同窓生、二人が働いていた婦人服専門店チェーン「三愛」に長期休暇を申請、運賃の安い船で南仏マルセーユに辿り着いたそうです。そして、パリ2区ギャラリーヴィヴィエンヌに小さなブティックをオープンします。場所は確保したものの潤沢な資金があるわけではありませんから、学生時代ペンキ屋でアルバイトした経験を活かして大好きなアンリ・ルソーのジャングルの絵をブティックの壁面に描き、「ジャングル・ジャップ」とショップ名をつけました。写真は開店準備に向けてルソーの絵を描いている賢三さん、2枚目がルソーの原画「夢」(ニューヨーク近代美術館蔵)です。このときの賢三さん、本当にハッピーな表情してますよね。2008年日本人のブラジル移民100年を記念する「サンパウロ・ファッションウイーク」セミナーで賢三さんのスピーチから、店名ジャングルジャップの由来、その後中南米の日系移民から「ジャップ」は差別用語と指摘されてショップ名を「ケンゾー」にしたことを知りました。セミナーで日系ブラジル人に「申し訳ありませんでした」と改めて詫びている姿が印象的でした。サンパウロでは5日間連日ディナーをご一緒してたくさんの話をしました。その後も帰国されるたびにお会いしてお話しする機会がありました。母校文化服装学院に「実践・高田賢三講座」を作って学生たちが仮想アシスタントとなってデザインするプログラムをセットし、学生や若い日本のデザイナーたちがチャレンジする高田賢三の世界を展覧会形式で見せる構想を提案、文化学園の大沼淳理事長に私が説明に伺ったこともありました。しかし、まさかの新型コロナウイルス感染で2020年賢三さんは急逝、直後には大沼さんも亡くなりました。構想を実現できず、私はモヤモヤをずっと抱えたままです。(2013年@大石一男さん鯨岡阿美子賞受賞記念パーティー)(2016年@セブン&アイとの提携レセプション)(2017年@FEC賞授賞式)(2018年@葉山文化園)(2019年@長年の広報担当鈴木三月さんのパーティー)(逝去後に配信されたもの)
2022.09.07
人気マンガ「ONE PIECE(ワンピース)」の新作劇場版アニメの興行収入が129億円を突破、観客動員929万人を超え、今夏話題になったトム・クルーズ主演「トップガン マーヴェリック」の記録を上回るそうです。恐るべし日本アニメ、凄いですねえ。しっかり収益上げて、制作現場で働く若者たちの収入も上げてください。いつまでもアニメ制作現場がブラックのままでいいわけありませんから。
2022.09.06
先週末、JFW(日本ファッションウイーク推進機構)が主催する2023年春夏東京コレクション(正式名称Rakuten Fashion Week Tokyo)が終了しました。東コレ開幕前日広島県での「建築学生ワークショップ2022宮島」から新幹線で東京に戻ったのが深夜0時、長時間板の間に座っての協議で足腰あちこちが痛いまま開幕を迎えました。正直、腰痛のままショー会場の固いベンチは辛かった。しかし、今シーズンは元気な新人デザイナーのコレクションにいくつも出会え、中堅デザイナーの個性的新作を満喫することもでき、例年以上に収穫は大きいシーズン、視察する側としてはハッピーでした。冠スポンサーのRakutenをはじめ多くの協賛企業のバックアップがあっての東コレ、事務局スタッフやショーの運営に関わった多くの関係者への感謝を忘れてはなりません。短期集中型の東コレは1985年11月に始まりました。前半の20年間40シーズンがCFD(東京ファッションデザイナー協議会)の主催、2005年10月から17年間がJFWの主催、この短期集中形式はすっかり定着しました。昨日、懐かしい写真が出てきました。国立代々木競技場の敷地に建てた東コレ特設テント前で撮影してもらったもの、どなたが撮影してくださったのかは不明です。恐らく1987年頃、当時のことをあれこれ思い出しました。1985年7月CFD設立、事務局を預かる私はオフィス探しと11月の東コレ会場探しを急がねばなりませんでした。8年間ニューヨーク暮らし、東京の不動産事情には明るくありません。そのとき助けてくださったのが発起人デザイナー企業のナンバー2の方々。オフィス探しは三宅デザイン事務所小室知子副社長とワイズ林五一専務、特設テントを建てる土地所有者の根回しはニコル甲賀正治専務が担当でした。CFDメンバーのデザイナーの多くは一般社会でも知名度の高い人、出入りする場面を目撃されやすい表通りの物件はNG。CFDに潤沢な資金があるわけではないので保証金の高い事務所物件はNG、住居用賃貸マンションでもできれば家賃を抑えたい。小室さんと林さんは港区や渋谷区の物件を斡旋する不動産屋を当たり、現地視察して良さそうな物件があれば私を電話で呼び出しました。二人が見て回ってくれた賃貸マンションは百以上、最終的に南青山5丁目のマンションに落ち着きました。11月の東京コレクションの会場探しも大変でした。CFD正式発足からコレクション開催時期まで4ヶ月足らず、すでに都内の主要な貸しホールは予約で埋まっており、大型特設テントを建てる以外に道はありません。候補地として最初に上がったのは北青山の絵画館前の広場、早速甲賀さんが明治神宮の関係者にコンタクトをとり、交渉ルートを確保しました。ところが、絵画館前の広場で施工から撤去まで3週間も特設テントを張るとなると土地使用料が半端ない金額、とてもCFDの資金では払えません。相場と私の手元から出せる上限とでは一桁違いました。せっかく甲賀さんにしっかり根回ししてもらったのに私の交渉力では前進できませんでした。途方にくれていたら、コムデギャルソン武田千賀子取締役から代々木体育館のある国立代々木競技場でかつてテントを建ててショーを開いたことがあると教えてもらい、私は体育館内の事務所に出かけました。面談に現れた体育会系短パン姿の男性が「ファッションショーですか。うちは体育の施設ですから」と断られそうになりました。が、自分たち新組織の設立趣旨や目的を丁寧に説明するうちに、話せばわかってもらえるかもしれないと期待を持ち、その日は帰りました。そして何度も通ううちにCFDの資金でもなんとかなる低料金で3週間借りられることに。文部省管轄の国有地だから安かったようです。次に特設テントと会場設営の施工業者を選ばねばなりません。デザイナー企業からの会費と会場使用量だけが収入、とにかく安く協力してくれる会社を探すしか方法はありません。大型テントで有名な会社やファッションショー用テントで実績ある会社は値段が高い、できればテントでは新興の小さな施工業者をと千葉県富里町の稲垣興業に相場の半値で発注できました。会場設営もファッションショーではあまり実績のなかったスポーツイベントや野外コンサートのシミズ舞台工芸に、これまた相場の半値でお願いしました。「将来必ずお返しできる日が来る、ついてきてください」図々しくもこれが殺し文句でした。大型テントを建てる場所が渋谷区役所前の広場、区役所への建築申請、保健所、消防署の届けなどは渋谷に本部があるパルコに協力をお願いしました。三宅デザイン事務所小室さんと旧知のパルコ大成正樹さんの協力がなければ、大型テントでの開催は無理だったと思います。私はそれまでファッションショーは座って観る側の人間、ショーの現場で何が必要でどんな届けをしなければならないのか無知。舞台美術担当者から「電源はどこから取りますか」と質問され、「コンセントに差し込むのではダメなの」と答えたら、「そのコンセントにどこから電気をひくつもりですか」と言われました。こんな事務局責任者、皆さんの支援がなければ発足4ヶ月後の東コレはとても開催できませんでした。いま振り返ってみれば、CFD発足と東コレ開催は奇跡的出来事でした。1985年3月パリコレ寸前、ニューヨークから東京経由でパリコレに行こうと思って一時帰国した私は三宅一生さんから連絡をもらい、会食に誘われました。西麻布にあった「さぶ」という割烹店でした。次にパリコレ会場特設テント前でバッタリ三宅さんと遭遇、ブリストルホテルのバーで一杯付き合うことに。そのとき読売新聞社創刊110周年記念「東京プレタポルテ・コレクション」のことを告げられ、私は4月中旬ノコノコと東京に出かけたのです。読売新聞社のイベントは日本で多くのファッションデザイナーが集まる初めてのコレクションでした。その前夜祭レセプションを引き上げ、新宿センチュリーハイアットホテル中華料理店でトップデザイナー3人と会食、突然日本にもデザイナー組織を作って自主運営の東京コレクションを開催すべきという話が持ち上がりました。ニューヨーク在住の私はアウェイ感覚、よそごとのようにこの話を聞いていました。このときまさか自分がその渦に巻き込まれるとは全く想像していませんでした。読売コレクションを半分で切り上げてニューヨークに戻り、ニューヨークコレクションをいつも通りに取材してセミナーのために再び帰国した私を待っていたのがCFD 設立準備でした。ちょうどこのとき三宅さんは海外旅行中、「うちの小室と話してください」と国際電話で指示され、三宅デザイン事務所を訪ねました。小室知子さん(自分の住まいを三宅デザイン事務所として会社登記した創業者)とは初対面、「正直言って、あなたがどういう方なのか私にはさっぱりわかりません」と言われ、一瞬私は言葉を失いました。(手前右から二人目が小室知子さん)でも、「三宅はよく変な人を連れてきます。なかなか面白い人が多いので人を見る目は信じています。だからあなたのことも信じてみます」、と。この日以来、小室さんは何度も私の危機を救ってくれた大恩人、この人に出会わなかったら私はさっさとニューヨークに戻っていたかもしれません。黎明期の東コレを陰で支えてくれた人と言っても過言ではありませんが、いろんな方のサポートがあって東コレは37年間も続いています。Rakuten Fashion Week Tokyoが終了した翌日、どういうわけか懐かしい写真が出てきたので東コレ出発点のことを書きました。
2022.09.06
クールジャパン機構時代、ちょっと風変わりな訪問者がオフィスを訪ねてきました。ベネチア建築ビエンナーレで会場エントランスに柱のないガラス建築をセットすることになっていた大阪在住の建築家平沼孝啓さん。ビエンナーレ首脳陣に評価されたものの大型ガラスの移送費用が半端なく、これを捻出する方法はないものかとの相談でした。クールジャパン機構は官民投資ファンド、いくら素晴らしいクリエーションでも投資した資金が将来回収できない事業には出資できません。これは投資の話ではなく何かの補助金を探す以外にないのではと助言し、サポートしてくれそうな役所を紹介しました。しかし補助金が足りず、結局この面白いプランはベネチアでは実現しませんでした。平沼さんは新国立競技場のデザインで話題となった世界的建築家ザハ・ハディッド女史が教鞭をとっていたAAスクール(英国建築協会附属建築学校)出身、近隣セントラルセントマーチンズ校のアレキサンダー・マックイーンたちと交流があり、彼らの卒業ファッションショーの舞台美術は平沼さんらAAスクールの学生が担当したことから、ファッションデザインにも関心が高い建築家です。その平沼さんが面倒を見ているNPO法人AAF(アートアンドアーキテクトフェスタ)が実にユニークな団体なのです。基本的には各種イベントを運営するのは大学生、大手代理店のサポートは一切ありません。若手建築家のコンペ「U-35」や安藤忠雄さんら有名建築家のレクチャーシリーズ、建築を学ぶ大学生や大学院生のコンペ「建築学生ワークショップ」、これらは全てAAFの学生たちが仕切っています。大手代理店でもここまでスムーズにイベントを仕切れるのかと毎回感心しますが、これを平沼さんら建築家や建築関連大学の先生たちが背後から支えています。「建築学生ワークショップ」では、先生たちが学生の中に入って一緒に作業したり、技術的アドバイスしたり、学生プレゼンには厳しい表現ながら温かい講評をされます。先生たちの熱血指導のほかにも、大手ゼネコンや地元施工会社の皆さんが技術アドバイザーとして学生の作業をサポート、作品づくりを手伝い、まさに実学そのものです。比叡山延暦寺や高野山金剛峯寺など「聖地」との交渉は平沼さんがマメに通い、その情熱の前に聖地の関係者はつい協力を約束するという構図です。今年も8月末「建築ワークショップ2022宮島」に参加してきました。平沼さんに声をかけられて4年前の伊勢神宮大会から私も参加し、出雲大社、東大寺、明治神宮と続いて今回は広島県宮島の厳島神社でした。例年全国から参加を申し込んだ建築を学ぶ学生が8グループに分かれ開催地に相応しいフォリーを建てますが、今回は申し込みが多かったのか10グループ、宮島の歴史や生活文化などを調査してフォリーのミニチュアをまず作り、7月の中間講評で審査されて修正を加え、現地合宿してフォリーを制作します。講評者は厳島神社界隈のフォリーを見て回り、次にプレゼン会場で各グループとの質疑応答、その後採点します。ワークショップ冒頭の講評者紹介で「美しいものにはワケがある」という視点で採点させていただきます、と宣言した私は10グループの中から4つを選び、最後に3グループ(全員3グループにのみ加点がルール)に点数を入れました。最後の最後まで悩んだグループは、建築の世界では珍しい材料と言える蝋燭を溶かしてバームクーヘンのような柱を何本も作ったフォリーでした。発想は面白い、材料は建築資材としてはレア、朱色の厳島神社に真っ白な蝋は目立ちますから「美しいものにはワケがある」に該当します。しかし、眩しい夏の太陽の熱で果たして自立できるのかどうか疑問を感じ、最終的に小さな建築として役割を果たせないと判断、私は加点対象から外しました。ところが、このグループのフォリーが最優秀賞に選ばれたのです。建築家や構造のプロの方々のお眼鏡に適ったということでしょう。私は建築分野の門外漢ですから、採点の視点が違っていたのかもしれません。(最優秀賞フォリー)でも、表彰式の後、挨拶に立った湯崎英彦広島県知事のコメントを聞いて驚きました。我々が各グループのプレゼンを受けている間に県知事は10箇所のフォリーを見て回ったそうですが、蝋燭フォリーは残念ながらすでに倒れていたとか。壊れたフォリーが最優秀賞だったので県知事もびっくりされた様子でした。ファッションコンテストに例えるなら、グランプリを獲得した服をモデルが着た瞬間生地が破れてしまった、あるいは袖がとれてしまったということでしょうか。デザイン画のコンテストなら最優秀賞でも良いでしょうが、実際に服を作って見せるファッションコンテストであれば、生地がすぐに敗れる、袖がすぐとれるようなら減点対象でしょう。この蝋燭フォリー、建築や構造の門外漢である私たちが「カッコいいね」と最高点数をつけるのはありかもしれませんが、門外漢の私が最後まで悩んだフォリーを建築専門家の先生たちが高く評価したのです。意外な気がします。東京大学の腰原幹雄さんや佐藤淳さんら毎回熱血指導してきた構造家のプロたちはどのように評価したのか、素朴にご意見を伺ってみたいと思って平沼さんにメールを送りました。構造家の先生たちが「いいんです」とおっしゃるなら、蝋燭フォリーを外した私の採点基準は間違い、来年の京都・仁和寺大会で(講評者に指名されるならば)考え方を変えねばなりません。(第2位)(第3位)学生さんはこれからプロを目指すのですから、現時点で発想や創造力を重視、作品の機能性、耐久性は度外視して採点してもいいのかもしれません。ファッションで言うなら、クリエーションが全てであって、学生のうちは素材、パターンメーキング、機能性はつべこべ言わないという採点もありなのかもしれませんね。感性、創造性を評価するのはとても難しい、過去5年間建築学生ワークショップに参加して毎回感じることです。そしてまた、平沼さんら建築家や大学の建築学科の教授たちの熱い指導(毎回厳しい講評をなさる構造家の佐藤淳さんは今年暑い中で早朝作業を手伝ってくたくたで発言が控えめでした)、施工会社の皆さんの献身的な協力を目の当たりにして、ファッションの世界でもこのような学校の枠を超えた業界全体がバックアップする実学ワークショップができないものかと思いました。こういう人材育成プログラムが実現できるなら、日本のファッションデザイン界は人材の宝庫になると確信しています。ちなみに、建築界のノーベル賞とも言われる「プリツカー賞」、日本人建築家の受賞は突出して多いんです。建築学生ワークショップから将来のプリツカー賞受賞者がでるかもしれません。
2022.09.06
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