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何を今更、と笑われるだろうが、我が家では年賀状作りが今、佳境に入っている。夫の職業上、欠かせないため、我が家では400枚近くの年賀状を、自腹で出す。400枚。住所録をパソコンで管理し、印刷し。表もあらかじめ印刷に出しておき、ぽいっと投函すれば大した数字ではない。が。それでは、せっかく自腹を切って出しているのに、思いが伝わらないのでは。我が家では我が家の味を出そうね。まだ結婚したてで子供もなかったため、こんな暇なことを思いついてしまった。今年の干支と、家族の似顔絵を絡めたイラストを書き、それをプリントごっこで印刷する。出来上がったものに、一言、手で近況を書く。途中、スキャナを使用して簡略化しよう、と試みたが能力が足りなくて果たせず。今年も一枚、一枚。インクでハガキに手刷りして、一枚、一枚、重ならないように家中に配置して乾かす。狭い我が家は、あっという間に年賀状に占領され、安心出来る場所はトイレだけになる。当初。年賀状のための住所録は、夫の仕事関係と友人関係しかなかった。私個人には年賀状を書く、という習慣はなかった。私には…というか、実家には年賀状を書くという風習はなかった。毎正月、家に届いたわずかばかりの父親宛の年賀状の返事を書くのは私の役目だった。新年の挨拶らしき行書のスタンプを黒いインクを付けて押し、訳分からない短くて小さいスタンプを赤で押す。あとは父親の名前の入ったスタンプを黒で押して、届いた年賀状を見ながら表書きをする。正月が来る度にこれを繰り返し、自分宛のほんのわずかな年賀状に返事を書く。これが私の年賀状だった。夫と結婚して。せっかく印刷した年賀状が余ると、自分のために使ってみた。そうして、一枚、また一枚、と、自分のための年賀状も予定数に入れるようになった。今までの自分の風習、考え方を変えるのは難しい。『年賀状を出さない』という事実を当時は、自らの価値観でチョイスした自分の中の『粋』だと思っていた。そんな風習は必要ないから自分の中で淘汰したのだ、と信じていた。が、そうではない、と今は思う。年賀状、という常識、古くからの慣習を慣行することに価値があるかも、と心のどこかで思っていたのだが、幼少児よりしていなかったため、その習慣を身につけさせるのが今更大層だし、いきなり今からでは、キリが悪い気もするし、家中がやっていない中、遂行するのはエネルギーがいる。そんな中、自然と、自分で自分を守るための言い訳にしてきたのだ、と、思う。プリントごっこでの印刷。今年も、去年と同じように、また娘が寝てからの作業になるだろう。が、いつか。娘がこの輪に加わることになろう。私の分の年賀状も作って欲しい、と、言い出すか。もしかしたら、自分のイラストを使って欲しい、と、下克上が起こるかもしれない。そんな常識、慣例を、当たり前のように彼女に残してあげられるとしたら、私のやっていることの意味は大きいと思う。その上で、彼女が年賀状という年中行事を、古いもの、いらないもの、として淘汰するのだとすれば、それは立派な説得力を持った価値観になっているだろう。…って、また、娘に期待しすぎてしまった…。とりあえず、目の前の住所録を早く片付けてしまわなければ…。まだまだ先は長い。
2004.12.27
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クリスマスの夜。学生時代からの友人が送ってくれたシャンパンの栓を開けた。冷蔵庫から出して食卓へ。特別に揺らした記憶もないのだが、栓を飛ばした瞬間、品の良いピンクベージュの液体が少し、大きくて軽い泡に包まれて押し零れた。舌にほんの少し刺激を残した後、その甘い色彩からは想像出来ないようなキリっとした、しかし繊細な味。こんなに美味しいシャンパンを飲んだのは初めてだ、と思った瞬間、もう10年以上も前のことを思い出した。こんなに美味しいワインを飲んだのは初めてだ、と、その時は思った。あれもクリスマスの夜。場所は、このシャンパンを送ってくれた友人の家だった。18歳の頃。私は飢えた虎のように獰猛で、身勝手だった。自分ほどの人物は世の中にいない、と、うぬぼれていた。そんな根拠の薄い自尊心で周囲の心を切り裂いていた、と、今では薄ら寒くなるときがある。そんな頃、出会ったのが彼女であった。一言で言えば、彼女は私より賢かった。ただ、賢いだけではなく、ハングリーさを兼ね備えていた。彼女は、都心、山手線内の某所とんでもないところに、ドラマのセットのような家に住んでいた。両親、ともにエリートだった。そこで両親を尊敬し、愛しまれて育った。そんな恵まれて育った人にはハングリーさなどない、と、当時の私は思い込んでいた。そんな人の持っているハングリーさなどに、私が石にかじりつき血をすすって生きてきた飢餓心が負けるわけない、と。そんな、つまらない考えを木っ端微塵にしてくれたのが彼女だった。彼女にとって私にどんな魅力があったのか分からないが、私たちは友人となり、最初のクリスマスを彼女の家で過ごした。そこで、彼女が父親の棚から出したワイン。当時、よく飲んでいたシャブリと同じ銘柄だったから、すぐに記憶に残った。が、目にしたことがないクラシックゴールドの重厚なラベルだった。その味はもう忘れてしまったが、その感動だけは今でも忘れることが出来ない。美味しくて美味しくて、全て飲んでしまった。そして、こいつには一生勝てない、と、何か嬉しくなった記憶がある。もちろん、今回のシャンパンも全て飲んでしまったのだが…。お礼に、と、どんな高価な物を贈っても、きっと彼女はそれ以上のものを手に入れているし、真の価値も私より分かっていると思う。何より、そんなことを望んで贈ってくれたのではないだろう。だから、せめて、これ以上、彼女に心配をかけなくて済むように、私は私のことを頑張ろう。この境遇にいる自分に誇りを持ち、自らの力に変えられるようになろう。それが、彼女への一番のお礼になるのではないか、と。…と言っても、いつも彼女が何かにつけて私に言ってくれる、『何も力になってあげられなくてごめん、仕方がないので、こちらで自分の仕事に力を入れるね。』という言葉の受け売りなんだけどね。やっぱり彼女には一生勝てない。
2004.12.25
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結婚していない実妹が妊娠した、と聞いて、とるものもとりあえず、故郷へ帰った。今月初旬の出来事だった。バイト時間を急遽変更させ、彼と実妹を緊急召集してみたものの、そこで見たのは、案外、落ち着き払った二人だった。既に、つわりがはじまってダルそうに椅子に腰かける実妹を、心配そうに気遣う彼。そんな二人の様子は、とても、予定外の妊娠にオロオロしている風には見えなかった。付き合ってる期間が短い。30になろうというのにフリーター。離婚暦があり、前の奥さんへの慰謝料もまだ払い終えていない。彼への想いの深さや、彼の人柄を彼女から聞いてはいた。実際、自分も会ってみて、そんな二人の様子も見てとれたし、彼も悪い子ではないな、との感想を持った。それなのに、私は、こういう側面から彼を切り取ろうとした。そんな私に対し、彼女は少し、ほんの少し、不満そうにイラついたような態度をした。そして、彼に気遣ったような眼差しを送った。6歳下の実妹。私と彼女の関係は、ただの姉妹ではなかった。一緒に生き抜く同士であった。劣悪な環境の中で、自分の中でうずまく感情を、真っ直ぐ前に向けた推進力だけに変換してこられたのも、一重に、彼女の存在のおかげ、だった。私は、彼女を守ることで、生きてこられたのだと思う。もう、彼女自身が誰かを守る存在になり、彼女を守る役目も、もう自分ではないんだな。私はそう悟った。私の故郷は誰もが知っていると思われる温泉街にある。いきなり帰省して気楽に泊まれる場所が故郷にはないから、繁華街の中の安い温泉宿に一泊した。地元だから知っている、とかではない、縁もゆかりの評判も知らない温泉宿だったが、そこで出会った仲居は知人だった。早朝、目覚めたので散歩に出てみた。街はまだ暗かったが、繁華街の夜を担う人々の帰宅や、旅館の朝を支える人々の出勤など、人通りは多かった。どこもかしこも変わっていた。うっそうとした木々が屋上から顔を覗かせていた低い並びのテナントビルは、全く異なった、大きなお洒落なレストランに建て替わっていた。昔、よく遊んだ公園は、ただ、その広さだけを残して、遊具は全て撤去されていた。そういえば、最近、よくここで、催し物をやる会場になっている、と風の便りで聞いた。夏に冬に、何度も花火大会を興行して観光客を誘致するので、そんなときにも、この海辺の公園は重宝するのだろう。角のスナックが、店構えはそのままで、名前が、元の女名前から別の女名前に変わっているのを発見したときは、その節操の無さに思わず苦笑してしまった。変わっていないな、と思った。子供の頃から。こうやって、くるくるくるくる、街並が変わっていく、そんな街だった。お洒落な文房具屋も。パリパリとした生地が好きだったクレープ屋も。ようやく仲良くなった友達も。なんの前置きもなく、あっという間に消えてしまう、非日常が詰まった観光地。そんな温泉街の底辺で燻る不安定な家庭で育った姉妹。周囲が明るくなっても、私は、変わらないことを確認するために、街の変わった場所を探しながら歩き続けていた。
2004.12.24
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保育所の申し込みを終え、一段落つきました。遅れに遅れていたお返事もさせていただきましたので、読んでくださると嬉しく思います。保育所における『措置』問題。知的障害児通園施設における『措置』問題。障害児と保育所の問題。娘の進路。何一つ、解決されてはいないのですが、これを提出して気持ちにすっきりしたものはあります。厄介払い出来てせいせいした、という類のものではありません。スポーツ選手がコメントする、「悔いはありません」に似ている気がします。私は以前、この言葉に共感できませんでした。一日の大半、自分の価値観、判断基準の全てを捧げて費やしてきて、それで効果や結果が出なかったのに、「悔いがない」訳がない、と。負け惜しみ、か、格好をつけて、のコメントだ、と思っていました。でも、今回。この感覚を学べた気がします。保育園や通園施設、幼児教室を回り、娘の良い所を見せなければと気を張り、傷つき。児童福祉法を紐解き、民法をかじり、大学に出向き、役所に出向き。保育所の『保育に欠ける要件』を何度も何度も読み直して穴を探して、研究して、添付書類を集めて、申込書を丁寧に書き上げて。私が出来ることは全てやった、と自負も出来ます。これで入れなかったとしたら、きっと頭にはくるし、娘の進路に困りもするけれど、悔いはない、と思います。今まで生きてきて、自分なりに、これ以上ないくらい必死にやってきたことだってありました。でも、こんな感覚にならなかった、ということは、その必死さもバッタもんだったと思うと笑えてきます。きっと、娘を授からなければ、一生分からなかっただろう、と、思います。また一つ、娘に感謝したいことが増えました。そして、見守ってくださった方々に、深く深く感謝いたします。これからもよろしくお願いいたします。
2004.12.23
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