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夫が姑(夫の実父)と喧嘩をした。どうも、何かの話から貯蓄やらの話になって、貯蓄が少ないことに姑が腹をたてたらしい。人生計画が出来ていない。転職なんかして、親戚縁者はじめ周囲に恥をさらして生きている。話は以前からもめていた話やら、かつて決着した話にまで及び、よくも男同士の電話でここまで、と思うほど、長い時間、もめていた。が、結果だけ言えば、夫は全ての言葉を飲みこんで電話を切った。もし、子どもがいなかったら。ブチ切れて、30代の自分たちの価値観だけをまくしたてて電話を切り、老夫婦が寂しくなってきて折れてくるまで存在を忘れ、好き放題に暮らすことだって可能だろう。事実、夫の兄夫婦は、瑣末なことで喧嘩して2年、音信不通、嫁は電話にも出ない、という抗議行動に出て、結局、大人側が折れて、今もハレ物に触るように気を使っている。が、子どもがいれば、自分の親は、子どもにとってはおじいちゃん、おばあちゃんだ。『大好きなおじいちゃん、おばあちゃん』がいるということが、どれだけ大切なことかは、子どもの反応や成長で一目で分かる。そして、私はまた妊娠している。実家が終わっている以上、夫の実家の助けなしに出産、育児をすることは、なるべくなら避けたいと考えてしまうのだろう。そして、事は2段階構えになる。もし、娘が障碍児でなかったら。自分たちだって、夫の実家と同じように、人生計画を綿密にたてれば、イレギュラーなことにも対応できる、つまり、予測の範囲を超えない程度の出来事しか人生には起こらない、と信じて生きていたと思うし、転職、それも、ステップダウンと思えるような転職など考えも及ばなかったと思う。そもそも、こんなに出費がかかるようなこともなかったかもしれないのだ。「わしも人間や。人生思ったようにいかんこともある、それは分かる。だからこその計画やろ。備えやろ。」人生を60年以上。それも真剣に、真面目に生きてきて、困難にもいくつもぶつかった、そんな彼の人生経験をもってしても、測りしれない人生がある、それが今の私たちなんだ。電話を切ってからも怒り冷めやらぬ夫を見ながら、私はぼんやりと、その重みみたいなものを感じていた。「障碍児の父も大変だね…」自分自身につぶやくように言った夫に、「そのしんどさを、ご両親に分かってもらいたいんだね。」と、私は口をはさんだ。障碍児の親の気持ちは、実の親でも分かってもらうのは難しいんだよ、彼らは障碍児を育てた経験はないんだから、ね。腹立ちを紛らわしようもなくイラだっている彼を見ながらも、私は自分が一人ぼっちではなく、彼とがっちり肩を組んで歩いているような気持ちになって、こっそり、幸せを感じていた。
2006.06.30
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「いよいよ、ぼくたちの第3章がはじまるね」と、夫が言った。そうか、第3章か。良いことを言う。序章、二人は出会い。1章で結婚、二人だけの生活。2章で障碍児を授かり、人生観を修正し。そして、舞台は第3章へ。この第3章は、どのような内容になるのだろう。またまた人生勉強をさせてもらうような、流産や早産という形になるのか。授かった子どもに、またもや障碍があるのか。障碍がなくても、とんでもない子どもを授かるのか。驚くほど非個性的な親バカ幸せ育児ライフを経験させてもらえるのか。今は、まだ分からない。ただ、祈るだけだ。どうか、何があっても私の心が潰れてしまいませんように。モニターの中の小さな影の、そのまた小さな早鐘のように打ち続ける心臓と一緒に、私の心拍も高まり続けている。順調なら予定日は2月上旬だ。
2006.06.22
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夫が転職した。この5月から新しい会社で働いている。と、同時に、前の会社の借り上げマンションを出て、新しいマンションでブログを復活させた。新しい会社でも職種は変わらない。給料や福利厚生などは今までよりも良い。が、会社の規模は変わる。全国規模の会社から、主にこの地方と東京だけの会社へ。娘のことを告げてからの転職。おそらく、転勤の可能性は、建前だけのものとなろう。娘は大きな病院に2つ通っている。そして、その両方で、まだ何回かの手術が残っており、当然、そのための通院は数えきれないほどあろう。転勤のたびに病院が変わるより、人間関係を築きづらい娘が安定した集団をこさえられるように、この地に腰を据えた方がいいのではないか。都会に行けば行くほど、街の規模は広がる。通勤時間や、通院時間も増えるだろう。また、便の良い土地や、環境の良い土地に居を構えるにも、都会であればコストが高くなる。十分な医療が受けられ、規模の適当なこの街が私たちには住みやすいのではないか。こんな話がではじめたのは、もう2年も前からだった。それが急激に、転職希望先の都合で、去年の秋深まった頃から具体化しはじめ、あれよあれよという間に、今に至った。これでよかったのだろうか。転職から1ヶ月。引越しの荷物を片付けながら、ふと手が止まり考える。助けてくれる親戚、縁者のいないこの土地でよかったのだろうか。娘のためには、いっぱい甘えさせてくれる、おじいちゃん、おばあちゃん、親類の側で暮らしたほうが良かったのではないか。まだ10代の頃。出会った彼は、その頃から、今の職種に就きたい、と語っていた。就職に失敗すると、親に頭を下げて就職浪人し、予備校に通ってまで、前の会社に入った。そんな彼の夢を奪ってしまったことにはならないのだろうか。三人でスローに生きよう。そういってくれた彼の笑顔の、そんな真心の、そんな優しさの、その裏の裏の裏の裏が気になってしまう。
2006.06.08
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書き込んでくださった方々の書き込みを拝見し、感じたことをお返事しているうちに考えたことがある。実は、例のクラス懇談会の夜。私は久しぶりに夫の前で号泣してしまった。こんなに大号泣したのは、保育園入園のゴタゴタで壁にぶつかっていたとき以来かもしれない。が、この涙の原因はクラス懇談会で発言した彼女ではない。娘の障碍でもない。その話を何気なく聞いていた夫の発言がきっかけだった。「だからって、どうしようもないでしょう。一体どうして欲しかったの。」そう。どうしようもない。その場で叫べば自体は変わっただろうが、その後の始末や責任は自分に降りかかってくる。叫ばなければ、自分の中で、その湧き出る感情を処理することになる。それは、何も障碍の有無に関係ない。個人と個人が寄り集まっている社会においては、避けられない話なのだ。一体どうして欲しかったのか。そう。娘とその母である自分を特別扱いにされれば、他の人と同じでいいのに、と憤慨し、娘を他の子どもと同じ扱いにされる場面に出くわせば、そんなに乱暴に扱わないで、うちの子はハンディがあるんだから、と、不安に思う。そして、他の子どもの母と同じような場=クラス懇談会に出席すれば、自分をないがしろにするな、と、すねてみる。一体どうして欲しかったのか、自分でも分からないのだ。が、一つだけ思う。私は、『配慮』してほしかったのだ。クラス懇談会では、私という存在を『配慮』して欲しかった。病院の話になったら、「△△(娘の名前)ちゃんはいっぱい入院しているから、母は何かノウハウがある?」妊娠中の話になったら、「△△(娘の名前)ちゃんの母は妊娠中に障碍が分かったんでしょ?そのときどうだった?」娘に障碍があること、私がその障碍児を孕み、産んだこと。その事実を臭いものとして触れないのではなく、当たり前のように接して欲しかった。その当たり前というのは、『障碍がない普通の子どもとして接する』のではない。『障碍がある娘とその母である私』を当たり前のものとして接して欲しかったのだ。『配慮してもらう』ということは『認めてもらう』ことにつながるのではないか。そして、夫にも『配慮して欲しかった』『認めて欲しかった』答えが欲しかったんじゃない。答えなど、出るわけのないイバラの路を、私が歩いているんだ、ということを。知って欲しかったのだ。そういえば、クラス懇談会で涙した妊娠中の彼女が夫と喧嘩した、と言っていた。「パパが言った言葉に傷ついて、その発言を一生後悔させてやるために、自殺しようとさえ思った」と。もしかしたら、それも『配慮』の無さだったのかもしれない。
2006.06.02
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