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明け方だったのか、もう朝だったのか。あるいは夢の中だったのかもしれない。夫の実家に滞在中、一人、広い客間の中央に布団を敷いて寝ていたのだが、襖を引き開ける音が聞こえた。力のない者が襖に負けないように引くような、軋んだ微かな音。 …もしかして… と、見遣ると娘が入ってきた。 「(娘の名前)?」 と呼んでも答えもせず、でも、ためらいなく真っ直ぐ私の元へ歩みより、布団へ滑り込んだ。 横向きに体を折り、コの字になった私の空間に、ピッタリと背中を向けて娘がはまった。きっと、世界中、どこを探しても、これ以上私のパズルにはまるピースは見当たらないだろう。 娘の髪が私の鼻をくすぐる。私は髪の中に顔をうずめた。シャンプーとかぎ慣れた汗の香り。 そうだ。昨晩は私が最後にお風呂に入れたんだった…記憶がよみがえる。 滞在中。おじいちゃんに水遊びを一日に何度もさせてもらっていた。 体と頭も洗っておいた。 と言うので任せていたら、3日もしないうちに生え際や背中に汗疹が吹き出し、頭も臭った。 せっかくの好意だし、自尊心を折るとすぐに気を悪くする人だから、最後の水遊びの終わりには私も入る真似をして娘をガシガシと洗った。昨日は特に痒かったらしく、自分から洗ってくれ、と珍しくせがんできたのだった。 娘がクルリとこちらを向いた。体を伸ばして私のオデコに自分のオデコをくっつけて、 「…ママ…」 と優しい声を出した。 「…ママ…すき…」 私の中で何かが音を立てた。大きな大きな歯車がグワリと回ったような音だった。 私は100%の人間じゃない。それでも娘はこうやって私を見上げて、私の隙間にピタリとはまって、好きだと言ってくれる。 滞在中、初日からおじいちゃんおばあちゃんと一緒に寝ていた彼女が、こんな風に私の所へ来た日は一日だってなかった。昨日のことを彼女は彼女なりに気にしていたのかもしれない。いや、もしかしたら、私のことを心配して見にきたのかもしれない。多分、そっちなのだろう。 娘は、つと立ち上がり、 「おじいちゃんおばあちゃんと一緒に寝てくるね」と言って、また同じように部屋を出ていった。…いや、そんな風に言ったように聞こえた。 私が100%の人間ではないのと同じように、彼らだって100%の人間ではない。 そして、恐らくは世の中に100%の人間はいないのだろう。 それでも、人は人と付き合っていく。 実両親と距離を置いたとしても、義理の両親を疎んだとしても、近所、娘の保育園、知人、友人、夫、と私の人間関係は絶えることがないのだ。それも、一生。 相手が100%になるわけでもない。自分が100%になるわけもない。 だったら、笑顔で暮らした方が人に好かれ、ひいては家族が幸せになれるのではないだろうか。 相手が悪くて自分が正しい、と思っていることを丸飲みすることは損しているような気もする。 負けているような気もする。 逃げているような気もする。 でも、損して得とれ、負けるが勝ち、とも言うではないか。 娘のためになり、生活費がかからない上に、人を許せる気持ちが育ち、忍耐力、辛抱が得られるのであれば、万々歳。 そういうことなのだろう。 無論、娘のためになれば、ではあるが。
2006.08.20
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夫の実家に滞在して10日間。そろそろ限界になってきた。 滞在初日から止まらないアレルギー性鼻炎に便秘と下痢の往復、ここ2、3日にはジンマシンまで体部に表れた。これら全てがストレスからきてるのか、と思うと、ストレスという病原体の力の強さ、恐ろしさを改めて実感してしまう。 このようなことを予見していないわけでもなかった。口が達者の河内女と典型的な一世代前の偏屈男と。もちろん、義理の両親に持つならもっともっともっと劣悪な一族がいることは、実両親のおかげで身に染みてはいるのだが、それでもしんどいものはしんどい。ツワリで思うように遊んであげられない上に夫の8月長期出張が決まり、義両親からの催促は日一日毎に波の高さを増してきた上に、娘も、新幹線に乗っておじいちゃんおばあちゃんのうちに行きたい、と、こちらの波も高まる一方。娘の発達の刺激になるだろうし、ツワリと闘いながら食事をこさえることから解放されるしな、と、下心も顔を出して来たのだった。 ここまで長期滞在したのは初めてであるが、滞在もここまで長いと徐々に遠慮がなくなってくる。最初こそ、緊張してトイレにも行けなかった娘だが、すぐに我がもの顔で家中をカッポしはじめた。そして、家の主、義理の両親も、である。私サイドも次第に物のある場所やら日常生活のしきたりやらが見えてはくるが、そう簡単にお客さんから抜け出しようがない。が、義父母は住み慣れた家で過ごし慣れた日常生活を遠慮なく送りはじめたようだった。 私が何かを作っても「うわ、これ大丈夫か?腐ってないか?」食器を洗っても「これ、大丈夫やなぁ?ちゃあんと洗ったよなぁ?」と念を押され、義父には「お母さん」と呼ばれて少しでも反応が遅いと「なんや!そんなのも聞こえへんのか!」とがなられ、ちょっと昔の嫁気分を味わっていた。 でも、だ。 これは覚悟の上だった。滞在期間が長いことの弊害まで考慮に入れてなかったのは失敗ではあったが、それでも、これまでの経験から推測しての許容範囲であるし、そもそも、この滞在は誰に強要されたのでもない、私から言い出したものなのだ。 それなのに、このストレスはどこから来るのか、と言えば、娘、だ。 娘は義父と義母に可愛がってもらい、甘え放題やりたい放題の御姫様状態で暮らしていた。普段、通院や療育で辛抱することも多いし、私が抑圧させていたから、まさに、私が望んでいたのは、こうやってノビノビと親以外の人からの愛情をいっぱいに浴びさせてあげることであった。 が、義父母の溺愛ぶりは想像以上だった。そして、滞在期間の長さから来る弊害もあった。二人は次第に、私が娘に食事をあげるあげ方にも口を出し、「そんな強迫みたいにして食べさせて可哀想やん、私はそんなんは嫌いや」行儀の悪さを叱っても「怒らんでもええやないか、ワシがええって言うてるんやから」「ママ怖いね~舌巻いて怒っとるよ~コルァ(真似して)やて。あ~コワイコワイ」 私は口を出すのがしんどくなってきた。同居しているわけではない。暫定的な期間だし、せっかくだから娘から離れて読書でもさせてもらおう、と、ずっと読みたかったけど今更読む気になれなかった、村上春樹の『海辺のカフカ』と『ねじまき鳥クロニクル』を一気に読みあげて、溜飲を下げていた。 そして今日。 娘に「ママ嫌い」と言われたのだ。 初めて、ではない。むしろ、頻繁に言われている。が、いつもと違うのは、いつものように「ママ、嫌いて言われて悲しいな。嫌いて言うならママも嫌い。」と言っても「いいもん」とソッポを向く。なんだかカチンときて、「だったらママ、もうお父さんのとこに帰る。(娘の名前)は、おじいちゃんおばあちゃんの家の方がいいんでしょ」と言ったら「うん」と頷いた。私は本当に悲しくなって、大人げなく娘に「だったらもう、ママに話しかけないでっ」と部屋を出て行ってしまった。 食事は好きな物ばかり与えて、ゴチソウサマもイタダキマスの挨拶も無しでウヨウヨと歩き食べで。 着替えも自分でせず。 人目を気にして補聴器もさせず。 その人たちは、お前を授かった最初の一言に「うちの家系にそんなのはいないのに」て言ったんだよ。 難聴を疑って検査しようとした時、「あんたの気のせいや、そんなヘンな検査やらして、今よりもっとヘンになったらどないするの」て言ったんだよ。 食事を必要摂取カロリー取れない障害でも、ただの根性と努力不足と何度も何度もなじったんだよ。 お前を未完で「可哀想」としか思ってないんだよ。 昔、お前がコミュニケーションを取ろうと手話で懸命に話しかけたのに、「あんなんせんと話せへんのか」て気味の悪い物でも見たような顔して言ったんだよ。 今回だって、近所の人が来ると、上手くは伝わらないけど精一杯の言葉で挨拶しても、相手が反応する前に「言葉がな、まだヘンやけどな、治しとんねんな」て防御壁はっただろう、あれはお前を恥ずかしいと思って自分を守ってるんだよ。お前だって「ヘン」て言われて少し悲しそうな顔してただろう? それでも、おじいちゃんおばあちゃんがいいの。 ママが嫌いなの。 だったら、おじいちゃんおばあちゃんに育ててもらったらいい。 ママも、お前のことは忘れて自分をリセットすることにするよ。そして、お前を授かる前の世界へ生まれかわって、一生、疑うことなく村上春樹の世界に埋没して何かを悟ることなく高飛車に人生を終えることにする。 誰かに卑屈になることなく。 誰かに感謝することなく。
2006.08.19
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『うさぎ』をきっかけに落ち着いた、と思ったのも束の間。6月に入ると、また、新たな噂が私の耳に届きはじめた。どうも、娘が、保育園の『障碍児めぐり』をしているらしい、というのだ。園には障碍児が娘の他に4人いる。2人は1つ下の2歳児クラスのダウン症児。1人は、0歳児からずっとこの園にいて、園生活途中に障碍児判定を受けた、年長の知的障害男児。原因は何も分からず、社会性には問題がないのだが、何故か、言葉が出ず、手先も不器用で、運動能力もゆっくりで、年長の今でも、まだ、トイレトレーニング中である。そして、最後の1人が今年から入った年中の軽度の自閉症男児。娘は、この4人を巡ぐりにめぐっているらしい。『うさぎ』以来、2人のダウン症児に対しては、姉ぶった態度をとり、面倒をみたり、それは可愛がっていた。が、2人の年中、年長の男の子2人に対しては、どうも、悪さをしているみたいなのだ。年長児には強く出ているらしくて、物を取り上げたり、1つ下のダウン症児にしていたみたいに、首根っこを締めるような抱きつきを、嫌がっても止めないらしい。が、さすがに体格差もあるし、声の大きさも年少の、それも発達のゆっくりな女の子と彼とでは差がある。また、社会性には問題がないため、こういった接触も彼にとっては、なんだか絡んでくる女の子がいるなぁ、程度の認識らしく、本人が問題にしていることはない。それどころか、私がお迎えに行くと、私の手を引っ張って、娘の場所を教えてくれるようになった。きっと、彼は彼で、困った妹の面倒をみている、そんな気分なのだろう。私が心を痛めていたのは、年中の自閉症の男の子、好太(仮名)君であった。彼には、もっと、困ることを仕掛けていた。彼の「こだわり」に手を出してしまうのだ。好太くんは、慣れない保育園生活で自分を落ち着ける遊びを見出した。レゴで家を作ることだ。設計図でもあるのではないか、と思われるような、それは見事で美しい家をレゴで作り、出来上がったそれを持って、食事の場所に移動して食事をしたりする。娘は、その、彼の安定剤を壊してしまう、というのだ。それも、家が欲しくて壊れてしまう、と言った反応ではないらしい。「その家を壊すと、どういうことになるか分かっていて、わざとやっている」っぽいのだ。それも、ただ壊すだけではない。壊したパーツからレゴを1つ抜きとり、隠してしまう、という念の入れよう。当然、彼はパニックになり、家を作りなおす。が、レゴが足りなくて完成しない。娘がレゴを返さないので、教室から保育士がレゴを持ってきて渡すのだが、同じ色にも関わらず、これではない、と言って、更にパニックになる。そんなことが何度かあった、というのだ。「きっとさ、△△(娘の名前)ちゃんは私たちと一緒なんだよ。心を許しやすいんじゃないかな。」好太くんの母と、そのお宅にお邪魔して一緒に夕食をした際、謝った答えに、こう言われて、はっとした。一年間。同じクラスの子どもともコミュニケーションが取れなかった娘が、まず最初に心を開き、ヒドイ方法ながらもコミュニケーションを取ろうとしはじめた相手は、障碍児だった。それは、まず最初に出来たママ友が障碍児のママたちだった自分と、なんら変わらないのだ。「それに、好太(仮名)だって、それも人間関係の良い刺激だからさ。」そんな話をしている私たちの横で、リビング狭しと走り回っている二人と、好太くんの妹の計3人がいる。一緒に遊んでいるようにはとても見えないが、でも、お互いの存在は許しているように見えた。そうやって、何度か交流しながら過ごしていたある日。通院のため、早めに保育園にお迎えに行くと、娘がまたちょっかい出している場面に出くわした。思わず、駆け寄って止めさせようと思ったが、別のクラスの中、担任の保育士もいるため、一瞬、躊躇したとき、好太(仮名)くんが怒って大声で言った。「んもおぉっ!△△(娘の名前)ちゃん、止めてくださいっ!」隣にいた好太くんの担任の保育士が、えっ…と声をあげた。「今、△△(娘の名前)ちゃんって言った?」今まで、ブロックが壊された事実にパニックになっていた好太君が、こんな風に相手に怒っていくのをはじめて見た、という。はじめて自閉症児の担任になった彼女の横顔が、安堵した表情に見えた。1つ下のダウン症児に手をあげていた期間もそうだったが、次の『障碍児めぐり』の段階でも、保育園から、娘を問題視するようなお話は一切なかった。いずれも自分が見たり、世間話で耳にしたり、他の子どもから教えてもらったりして、こちらから担任の保育士に聞いて知った話である。聞くたびに、方々で頭を下げ、迷惑をかけたクラスにも謝りに出向いていたのだが、その度に、「気にしないで、お母さん。△△(娘の名前)ちゃんも、どうしていいか分からないだけなのよ」「どうやったら△△(娘の名前)ちゃんが上手に気持ちを出せるか、みんなで話しているからね、大丈夫よ」と、言ってもらった。娘の摂食障害も、給食室まで職員会議に参加して、娘のための対策を考えてくれた保育園である。素直に任せようと思ったし、きっと私ではどうしようも出来なかっただろう。「子ども同士から学ぶこともあるのよ」と言われたら、私はきっと不安になっていただろう。それは、障碍のない子ども同士の話だ。ハンディのある子どもには、過保護なほど導いてあげてこそ、ようやく成果が出ることが多い、ということを、誰よりも、その母である自分が分かっていたからだ。そして、8月になった今。下のダウン症児二人に対して、特別な行動は何もなくなった。乱暴もそうだが、特別に可愛がったりすることもなくなった。年長の男の子の方は、あちらの方が気になるようで、娘がいると飛んできて握手をしたりするが、娘の方は「あぁ」みたいな対応で、特別な関心を寄せてはいないようだ。そして、その後、好太くんへの仕打ちも耳に入らなくなっていった。こんな『障碍児めぐり』の間にも、一年間、ほとんど交流していなかった同じクラスの子どもとの関係にも、少しづつだが兆しが見えはじめた、と、感じる出来事が、また幾つもあった。次は、これも書き残しておきたいと思う。
2006.08.08
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最近、娘の顔を、朝、拭いてあげることが私の楽しみになっている。朝食と一緒に、冷たく濡らしたガーゼも用意して、食事が終わると、顔と、手をクルリと拭う。娘は気持ちの良さそうな顔をして、たまに、「プハー」なんて声をあげたりする。手を拭くときは、ガーゼで手を包んで、と要求することもある。『大きなかぶ』というお話をご存知だろうか?あれを真似して、何やらフシをつけて歌って、よいしょーっと引き抜く。娘は笑顔で椅子から転げ落ちるフリをして、私も同じように身体を反らして、それに応える。それはそれは可愛い。そして、拭いた後の娘の匂いをかいで、綺麗になったことを確認する、これがまた、幸せなのである。お気づきだろうか。私が娘の顔や手を拭いてあげたことがなかった、ということを。4年間。入院中、蒸らしタオルを看護師が持ってきてくれたときは別だが、自分で用意して拭いてあげたことなどなかった。こんなこと、みんな生まれてすぐからやっている。育児書や育児雑誌などをちょっとでも読んでいれば顔の拭き方など書いてあることだし、そもそも、そんなこと、育児書なんか読んでなくたって、本能で分かるだろう。事実、私もそうだった。暑くなってきて、娘の額にあせもが浮かびだした。パジャマも汗がびっしょりで、目やにもついている。あぁ、気持ち悪そうだな…そう思って、冷たいタオルで、額やら首筋やらを拭いたのだ。経管栄養の頃など、娘を入浴させることさえも嫌いだった。チューブはお湯に落ちるし、邪魔だし、チューブを固定するテープも、汗や湯気で剥がれてきて、張りなおすならまだしも、それがきっかけで、うっかり、チューブが抜けてしまうこともあった。そうなると、イライラはピークに達し、もう、何が悪くて、何がどうで、どうなってこうなって、今どうなっていて何が大事で、という理屈自体が分からなくなってしまい、その矛先は全て娘に向いてしまった。冬場なら、一日おきが、二日おき。入院生活みたいに身体を拭けばいいか、と、低きに低きに流れていっていた。娘は汚くて臭い生き物だった。鼻の矯正具には常に流動食がこびりつき、オムツは常に汚れていて、今よりも、もっともっと、汚くて臭い生き物だった。ただ私に、汚くて気持ち悪いね、このままだと痒くなっちゃうね、と、思いやってあげる優しさと愛がなかったのだ。今日も朝、娘は『大きなかぶ』のように手を引き抜いて、笑顔を見せた。私も、娘に合わせて、笑顔でそれに応えた。過去を泣いて子どもに詫びるより、そういった瞬間を積み重ねることが子どもと自分のためになる。そう言ってくれた、ここで出会った先輩母の言葉を信じて、明日もきっと、私は娘の顔を拭くだろう。
2006.08.06
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