虚

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あれから人目を避けて町を出、今は踏みしめる雪さえ半ば凍っている山の中を歩いている。
空には高く令色の月。
地上の純白はその令色の蒼に染まっている。
美しい。
吐く息は白く凍る。
けれどもう慣れたもので、この冬の山を往き慣れない者にとっては極寒の地獄でも、あまり寒さは感じない。
何より、禁足地の結界が近い。
その山の結界と連動している自分には、この山の極寒は脅威ではない。
その代わり瞳に熱が籠もるのを氷翠王【シャナオウ】は自覚した。

もう限界らしい。
だから瞳にかかる少し雪に穢された黒髪を後ろに梳き上げて立ち止まり、獅吼【シコウ】を呼び止めた。
瞳の熱感を受けて少し声が低く掠れる。
けれど妙に美しく突き抜けて透るその声が獅吼に届いたようだ。
獅吼はいつもの人を食ったような視線を氷翠王に返した。
「どうしたんだ、先生?」
ふざけた様なその呼び名に無意識に反応しながら、氷翠王はその瞳を向ける。
「ああ、もう切れちまったのか。」
氷翠王の瞳を見、思い出したように近づいて来て獅吼は慣れたように氷翠王の顎を掬い上げた。
屈み見るでもなくそのまま背筋を伸ばしたままで氷翠王の瞳を上から観察するように見てくるので、思わず氷翠王は首が攣りそうになる。
そのまま文句も言わず、ただ撥ね返るような視線を獅吼に据えると、ニヤついた獅吼の瞳が目に映った。

反射的に身構えたくなった。
「言っただろ、色々と役に立つって。」
そう言って不敵な面構えを物騒に笑ませる。
時々こういう眼をする、と氷翠王は思う。
喰らい付くような眼だ。

待ち合わせた場所で、獅吼の冗談への切り口上に、居なくてもそれほど不自由はしていないと切り返した事を言っているらしい。
「何だ、根に持ってるのか?」
不意の逆襲に、氷翠王は少し肩を揺らして笑った。
氷翠王の瞳に和やかで優しい光が戻るのを見、獅吼もその瞳を穏やかに笑ませた。
「口が減らねぇな、あんたは。」
思わず獅吼は苦笑する。
こんな風に時々妙に素直に氷翠王は笑うからたちが悪い。
しかもほとんど無意識ときてる。
始めは気づかなかったこういう些細なことも今は分かる様になっている。
誰も占めることの無かった心の内を、何かが入り込んで、何かが動く。
確実に変化していく。
夜通し帰ることの無かった自分の屋敷に毎日帰り、午前中から起きて、今はこうやって相手と共に帰路についている。
この相手が居るということ。
それだけで習慣さえが変わっている。
(・・・・・・・・・なんかもう、逝って来い、ってな感じだな。)
もう変更のきかない感情を一端後回しにして、獅吼は氷翠王の瞳に再び目を戻した。
「痛てぇか?」
大分、氷翠王の瞳に溢れる気の流れが荒くなっている。
心なしか目尻が紅い。
獅吼が施してやった符術が綻んできているようだった。
「・・・・・・いや、痛みは無い。」
「そうか・・・・・、だがもう町から大分離れたし解いても構わねえだろ。」
冷えた水の入った竹筒の中に解の符を溶かし込み、それを氷翠王に手渡す。
氷翠王は何のためらいも無く、飲み干した。
変化は、劇的だった。
凄まじいほど清麗な気が、氷翠王の身に柔らかく風が吹くように満ち満ちる。
漆黒の髪が更に深みを増して、月闇の色に代わる。
黄金の光輝を流し込んだような琥珀の獅子色の瞳は、まろやかな艶を帯びた朱金の色に代わる。
符で抑圧されていた色と魂気が元の姿を取り戻して行く様を、氷翠王は瞳を閉じて追いかける。
このままの姿では町へ下りる事ができないし、自分の気が周囲に影響を与えすぎると分かってはいるが、気と色を抑圧されるのは結構辛い。
自然な形に完全に解放されたのを感じ、氷翠王は知らず、ふうっと息をついた。
ゆっくりと瞳を開ける。
瞳は直ぐに月の令色に染まる雪景色を切り取って映した。
生き返った心地がする。
渇いた咽喉に冷えたおいしい水を注ぎ込まれたように。
思わず息をつく。
「よっぽど疲れてたみてえだな。」
獅吼は少し姿勢を崩し、煙管に火を点けながら心底面白げに笑った。
それに氷翠王はゆるく微笑を返し、無難な言葉を選び更に瞳を艶やかに笑ませて歌うように言った。
「多少は。」
「・・・・・・・やっぱり口が減らねぇぜ。あんた。」
俺の符術に文句つける気かい、先生?と獅吼も切り返してくる。
妙に男の色気のある声音に凄味が混じるいつもと同じ口調。
だが煙管を吹かしながらも逸らされない視線に、氷翠王は少し瞳を細めて聞いた。
「何だ?」
「あんたを見てる。」
問うた疑問はすぐさま簡潔な言葉になって返される。
氷翠王は呆れた様にゆるく笑った。
けれどその笑みは柔らかい。
「見て楽しいのか?」
呆れたようなけれど和やかな口調のまま、手の中に未だ少しの水の残る竹筒に眼を移しながら氷翠王は聞く。
「楽しいぜ?」
と、笑って返し、
「あんた酒はどんだけいけるんだ?」
と、ふいに思い付いた事を口にして聞いた。
そう言えば今更だが、氷翠王と酒を飲んだことが無いことに気がつく。
思わず氷翠王に視線を向けると映るのは研磨された気とそれ以上にその性質を表したような綺麗な姿勢とまなざし。
他も・・・・・・・美の極致と言ったところか。
キリリと引き締まった線の小気味良くしなる身体に、灼熱の太陽よりはるかに激烈な光を宿す朱金の瞳が合わさって、返って妙に艶かしい。
女の纏う色香ではない、そんな生ぬるい代物ではなかった。
一目で他とは違うとわかる瞳の強さと華(ソンザイカン)。
己の誇りに真摯に報いようとするその態度は同性である女よりむしろ“牡”を刺激する。
・・・・・・・そうでなくともかなりの眼福である。
月などを愛でながら酒を飲むより、この相手を見ながら飲み交わしたほうが楽しいような気さえする。
「?それほど弱くは無いと思うが。」
それがどうかしたのか、と唐突な問いに、けれど氷翠王は答えを返す。
「今度また酒でも一緒に飲もうぜ、先生。」
不思議そうに、けれど弱くは無いと言い切る望み通りの返事を頂いたので。
笑みつつ、否とは言わせぬ口調で切り込む。
「構わない。」
それに応と答え、氷翠王は顔を上げて獅吼と視線を合わせた。
・・・・・・・・何か、いや、かなり楽しそうだ。
と、思わず氷翠王は頭の中で反復する。
(・・・・・・早まったか?)
思わずこう考えたのも、無理も無い話しである。





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最終更新日  2005年12月09日 21時40分52秒
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