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恐竜境に果てぬ第1章第1節その1


恐竜境に果てぬ第1章第1節その2


恐竜境に果てぬ第1章第1節その3


恐竜境に果てぬ第1章第2節その1


恐竜境に果てぬ第1章第2節その2


恐竜境に果てぬ第1章第2節その3


恐竜境に果てぬ第1章第3節その1


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2003.12.16
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又も山本夏彦氏のコラムを引用して始めるが、「出社したらつぶれていた」という題名一見して興味そそられるものがある。その会社に勤める社員なら、経営の危うきを知っていて、又はうすうす感づいていて当然だと思うのは、我らが当人ではなく他人だからということである。

自分を見る者は常にひいき目で、見れども見えない。現に事前に社内預金をおろす者がいない。倒産前々日、管理職は人と会ってパーティーし、常の如く談笑して怪しいところはなかった。翌々日倒産するなど思ってもいない様子である。

会社が苦しいのは薄々知っていた。だが去年もおととしも苦しかったが、担当の重役が手形が不渡りになるかも知れぬと狂奔するのは毎月のことで、そのたび何とか切り抜けて来たのだから今回もそうだろうと、経理もあてにするのみで、知らなかったはずだ。

お話変わって、我が塾のことである。零細小塾の如きは、昭和61年開塾以来、いっときも気の休まることはなかった。経営上手の塾と違って、宣伝手段を知らぬから、新規生徒入学時に合わせて広告チラシを新聞に入れてもらうのが気休めだった。果たして、三月、四月になっても依頼のないこと毎年だった。ただ時流に救われて、正味十一年間は健在だった。

本物の日記帳には、毎年今年こそはダメかも知れぬと嘆く文がつづってあるばかりだ。我が塾は別名「駆け込み寺」と自ら称していた。にわかに活況を呈するのは初夏からである。高校生専門塾と銘打ったから、高校数学で痛い目にあった若者が陸続と入塾するのを待って、そろそろ始めるのだ。これによって平均年収が前年並みに復旧するが、それもつかの間、突如去る者もいるからそのたび一喜一憂した。
ハッキリ危ないことを肌に感じ出したのは、平成九年からだ。月収がそれまでの半額に減った。頭の中でストップウォッチを押し始めたのは、平成十二年からである。

同時に家庭教師登録をやり直して、万事に備えた。こうして五年間、開店休業に等しい状態を耐え、廃業を計画して、20代半ばから30代半ばまで駆けずり回った家庭教師を再開して、併営状態となった。
だから私の場合、学習塾廃業は、自ら行なったもので、偉そうに言うと承知・覚悟して廃業した。来年のタウンページから小塾の名は失せる。

さて、更にお話変わって、タイトルに書いた本題である。月刊誌「文藝春秋」をパラパラとめくっていたら、「ガンの芽はほぼ毎日すべての人の人体に出現し、その都度体内に迎撃軍が出動してこれを退治し、その繰りかえしである」とあった。

一億二千万余のすべての人に等しく現われる現象で、これはやむことなき戦闘の繰りかえしだそうだ。

そのうちのただ一つが迎撃隊の包囲網をかいくぐって、首尾よく(?)芽から細胞化し、言い換えれば正常細胞を駆逐してめでたくガン細胞になってから、いよいよその人体のどこかにガンが発生する。これが目に見えるまでに増殖した頃、自覚症状が現われて、検査の結果、おだぶつか手術で食い止められる限り食い止めるかの分かれ目となる。

死神というのは言葉はあっても、実物がいるかどうかは誰にもわからない。もし、死病にとりつかれた人の目に、死神が見えたとしたらと想像した。
通勤の電車で、ある朝風体異様な者を見かける。死神である。他の乗客には見えぬ。本人だけが見える。会社へ行く気がするかどうか。

無事何も見ぬまま会社にたどり着き、付き合い慣れた社員とあいさつ交わして、階段を上り始めたところで、踊り場にツッと立つ異様な者の姿を見かけたとしたら、己れが何らかの死病にとりつかれた事実を知らせる姿にほかならない。
次に同僚と会う時は、顔色が変わっている。「どうしたんだ、元気ないぞ。医者にでも診てもらったほうがいいかな。ハハハッ」と、同僚は冗談交じりに言って去ってゆくが、冗談ではない。

昼休みの路上にも死神は立っていることがある。人は死病だけで死ぬとは決まっていない。不慮の事故で命を落とすこともある。それを警告ではなく、明らかに予言すべく姿を見せるのだ。果たして、昼ごはんを食べに出た路上のどこかで、車にはねられて死ぬ、通り魔に刺されて死ぬ。
冷酷非情な死神は、正しく死ぬ運命の者の眼前に現われること、老若男女の区別はない。

団地の何階かに住むよちよち歩きの童子の前にも現われるはずだが、幼子の目には何だかわからない。若い母親は、例えば風呂を洗っているさいちゅう、又は風呂の残り湯を使って懸命に洗濯のさいちゅうで、このかん、母と子はつかの間親子の縁を切っている。
一段落して母親が戻った時、子供の姿が見えない。あわててベランダの手すりに寄ると、数階下の路上に我が子が落下して既におびただしい血が流れ出しているのを目撃する。

無論、実際死神は見えない。一寸先は闇である。昼日中(ひるひなか)でもそれは真っ暗闇である。明るい風景は見えても、己れのそして己れの身内に迫る危機は見えぬ。


あすもきょうに変わらずあると思う。しかしないかも知れぬ。新車のオートバイを予約してある。まもなく納車になるはずである。しかも今度のは更なる大排気量バイクにあらず、遂にあすを考えて少しでも出費を減らそうと、車検のない250ccバイクにかえたから、いくらかお金が返って来る。
だがそのバイクに乗れないかも知れぬ。それでもなお乗るつもりでいる。いくらかの金が返ることをひそかな預金計画と期し、ついでに久しぶりの250ccは昔と比べてどうだろうなどと想像して、まんざら期待がないでもない。まだ欲の皮が突っ張っている証拠である。

とりあえず犯罪を犯していないから、知らぬが仏でいられるが、既に最高裁で死刑確定の囚人にはその時から絶えず死神がつきまとっている。鉄格子の狭い部屋で心中いかばかりか。今更判決は覆る道理もないから、せいぜい皇族など上つ方(うえつかた)に幸・不幸あって、恩赦に預かり減刑となるを期待するかというと、恐らくそんなチャンスは望むべくもなかろう。

唯一死神がとりついている例である。では私は目に見えぬ死神以外に何を想像するかというと、貧乏神である。あれは裕福又は糊口足りている明るい家庭には訪れぬものだと聞いた。ならば我が家は貧乏神が住み着く恰好の場所である。

塾経営に危機迫るある時期、シンとなった教室でパソコンに向かう私の耳に、マッチ棒を折るようなパキッ、パキッという音が毎晩聞こえた。母か誰かが用事があって教室へ上がって来ると、その音はピタリやんだ。これは調べずとも私の趣味領域だから知っている。ラップ現象である。ラップとは「叩音(こうおん)」、たたく音の意で、心霊用語である。


再び言う。一寸先は闇がいい。あすの運命を知るすべがないから、我々は明日の将来のあるを信じて、様々のことに奔走して明け暮れるのである。







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最終更新日  2003.12.16 13:56:51
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