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新国立劇場 14:00〜 3階正面 オランダ人:トーマス・ヨハネス・マイヤー ゼンタ:リカルダ・メルベート ダーラント:ラファウ・シヴェク エリック:ダニエル・キルヒ 舵手:望月哲也 マリー:竹本節子 新国立劇場合唱団 東京交響楽団 指揮:飯守泰次郎 演出:マティアス・フォン・シュテークマン ケツが痛い.....<またかい 2007年初演の演出、2012年に続いての三演ということになります。 まぁ良かったっちゃぁ良かったんだけど...... 私がワーグナーを語るなんざ片腹痛いという話ではあるのですが、「さまよえるオランダ人」って実は面倒な作品ではあるのですよね。ワーグナーとしては短いし、歌手への負担も、まぁ一般的にはトリスタンや指環ほどではない。でも、作品として考えると、ある意味纏まり過ぎてる部分がある。 クプファーがやった「全部ゼンタという神経症の娘の妄想の産物でした」という演出は、トリスタンとイゾルデの「イゾルデは来なかった」演出と並んで現代ワーグナー2大妄想オチ演出なわけですが、他では散々に読み替えられている現代演出で、「オランダ人」だけはクプファーの「妄想オチ」以降あまり決定的な話が聞かれないんですよね。弄くるにはちょっとはっきりし過ぎている部分があるのか。というか、むしろ、やろうと思うと読み替えるには簡単過ぎるんでしょう。幾らでも舞台はでっち上げられる。その割に"さまよえるオランダ人"というモチーフのキャラクターが強過ぎるのかなと。「呪われた男と乙女による救済」というのはとても分かり易い。分かり易過ぎる。あの「妄想オチ」だって、妄想してる方は主観的に救済しました、という話なので、膨らみようがない。 実の所、ワーグナーの読み替え演出の可能性というのは、冗長性に起因すると思うのですよね。時間を掛けてくどくどと説明してしまう。ワグネリアンっつーかワーグナー好きの人達は、そこに音楽的必然性を見るのでしょうけれど(実際、ライトモチーフ的な手法は、モチーフを演奏する時間が必要である以上、重層的に時間が必要になって行く訳で)、舞台として観ると、これがまぁ長ったらしくて、ボケッとそのままにしておく訳にも行かなくなって、結局あれこれ弄くり始めてしまう、と言ったら怒られますかね.... で、オランダ人。その冗長性が、この作品ではあまりないんですね。無い訳では無いけれど、他に比べれば格段に低い。解釈の余地があまり多くない。無論、読み替えは出来ると思うんですが、それってどうやっても「時間と場所を変えるだけ」の読み替えになってしまう。抜本的な読み替えをするには、無理がある。だって、妄想落ちにした所で、話の骨子は変わってないし、それが何か凄いものを生み出しているのかと言われると.....という気はします。 まぁ、私の偏見かも知れないですけども。 という訳で、今回の再々演演出も、まぁそれなりに纏まっているといった風の演出。 ちょっと過去の感想を拾ってみたのですが...... 2007年 http://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/200703040000/ 2012年 1回目 http://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/201203170000/ 2回目 http://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/201203220000/ うーん。 まぁ、なんだね。我ながら、言う事ブレまくってるというか(苦笑) まぁ、ブレてる所とあんまし変わらない所とあって、我ながら面白いというか。ってーか、そんなら行かなきゃいーじゃんよ、と自分で思ってしまった.....要は嫌いなんじゃないの、という(爆) 歌唱に関しては、ゼンタが一番安定していたかなと。それと、オランダ人。あとは、まぁ、こんなもんでしょう、的な。オーケストラは、最終日でいい加減へたっていたのかも知れないけれど、管がかなりヘロってましたかね。まぁ、東響だからなぁ。 合唱は、なんともですが、数を頼りに押し切った感もあり。 敢えて指揮についていうなら、特別なものは感じなかったかなと。管のコントロール、まぁこれはしゃぁねぇわな、といった所を除けば、相応に纏まった演奏ではあったと思います。いや、こういう言い方すると、結構なダイナミズムがあって迫力のある演奏だった、みたいな反論もあるのかも知れないけれど、要は「あ、オランダ人ね」といった感じでしかないのですね。もう一歩化けるか、といえば、化けない。予想通り、計算通り。 そういう意味では、「オランダ人」って、難しいのだと思います。相応に仕上げる、そのもう一歩先で化かす、というのが、実は難しい、ってとこなのかなぁ、と。
2015年01月31日
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みなとみらいホール 19:00〜 1階右手 ピアノ:小曽根真 セットリスト: (Gat be happy) Waltz for Ronko Yellow Fever Time remembered Blues of the Prairies 〜 Test of time Sol Azteka Piano Concerto for F (Gerswine) <アンコール> Home とはいうものの当然のように遅れたのでありました。ま、平日の夜公演はそんなもんです。 みなとみらいホールでの「Super Friday!」と題されたコンサート。小曽根真のソロは久々です。プログラムはライブの態で、その場で曲目を告げて演奏、なのですが、しかし、後半、ガーシュインのへ調の協奏曲はちょっと無茶じゃないでしょうか...(笑) まぁ、ピアノ1台で協奏曲をやるというのは、無いでは無いけれど、なかなか凄いものではあります、正直。リストがベートーヴェンの交響曲をピアノ用に編曲したりはしてますけれど、ある意味ピアノ協奏曲を1台で、というのを聞かせるのは大変です。交響曲はオーケストラだけだから、「オーケストラの代わりにどうやってピアノ1台で仕事するか」ということを考えればいいのだけれど、ピアノとオーケストラの掛け合いを聞かせる、というのがやはり重要な要素になっているピアノ協奏曲で、ピアノ1台でピアノとオーケストラの役割を兼ねる、というのは、なかなか大変です。 で、どうだったかというと、まぁ、正直苦しい(^^; それも含めて、凄く面白い(^^; 演奏自体は凄く達者です。本当に。ピアノパートの要所を押さえつつオーケストラもきっちり表現しているし、演奏自体は当然八面六臂の大活躍だから、盛り上がります。音楽としても十分楽しい。ただ、やはり、ピアノとオーケストラの対比、という所になると、なまじ原曲を知っている身としては、脳内でオーケストラとピアノの掛け合いを補正しながら聞いてる部分は、まぁ、あります。やはりそういう面では苦しいですよね。 それを承知で言えば、やはりこれはとても面白かった。いい出来でした。 最後のアンコールは、時節柄、時事ネタにも絡んで、「Home」。前半も、色々曲はあるものの、どちらかと言えば落ち着いた感じの演奏。前半と後半とのコントラスト、これはこれで面白い。小曽根真自身が直接影響されたピアニストであるオスカー・ピーターソンのBlues of the Prairiesと、曰く、ゲイリー・バートン経由で間接的に影響された(のだそうです、ご本人曰く)ピアニスト、ビル・エヴァンスのTime Remembered。この対比もまたある意味面白かったかなと。 というわけで、とても面白い一夜でありました。
2015年01月30日
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というわけで、毎年の事ですが、公式サイトがオープンしました。 http://www.lfj.jp/lfj_2015/ 有料公演プログラムの発表は2/12、ボランティアの公募は2月中旬頃発表、ということは、チケット発売開始は、最速が2月第3週か最終週、ってことですかね..... 今年のテーマは既報の通り「PASSION」ということで、今までのような音楽に直接絡むテーマではなく、より広い意味合いでテーマを捉えるそうな.....まぁ、選び方の問題だけで、あんまり変わらないような気もしますが(^^;
2015年01月26日
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東京文化会館 15:00〜 4階左手 ファルスタッフ:牧野正人 フォード:堀内康雄 フェントン:小山陽二郎 アリーチェ:大貫裕子 ナンネッタ:光岡暁恵 メグ:向野由美子 クイックリー夫人:森山京子 カイウス:川久保博史 バルドルフォ:岡坂弘毅 ピストーラ:伊東貴之 藤原歌劇団合唱部 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:アルベルト・ゼッダ 演出;粟国淳 本当は2日行くつもりだったのだけど、今日は風邪気味で断念.... まぁ、昨日よかったし、よしとするか....... ファルスタッフ。よく見掛けるようで実はあまり見てないオペラです。そうはいっても新国でも2シーズンほどやってるし、ウィーンとかでも見てる。だから、そんなにレアではないのだけど、そう思ってしまうのは、掴み倦ねてる部分が自分の中にあるからなんでしょうか。 率直に言うと、歌唱陣は決して十分とは言い難いところだとは思います。陣容からして、今の藤原だとこんなものかな、といったところかと。というより、プログラムでも改めて書かれていてそうだよなぁ、と思ったのだけれど、ファルスタッフは歌らしい歌が少ないので、ツボを押さえて聞かせるといったことが出来ないのですね。ナンネッタはそういうアリアが与えられていて、ここは光岡暁恵がちゃんと歌っていたけれど。 で、じゃぁ他は全滅かというとそうでもない。声は押さえ気味でいいから、ちゃんと歌う。アンサンブルを合わせる。そういう方向にまとめていったのだと思います。ゼッダの薫陶の賜物か。 そのゼッダの指揮は、これもとても良かった。とにかく、丁寧なのですね。よく仕上がっている。フレーズの最後の一音まで疎かにしない。小節の最後まで音符が埋まっていたら、そこまでちゃんと演奏させる。いや、これ、当たり前じゃないか?と言われそうですが、その当たり前の事が出来てない事ってあるのでして。つまり、演奏の流れ上、フレーズの最後で小節の最後の拍まで音符が書いてあっても、次のフレーズの始まりに引っ張られるんでしょうね、最後の拍が疎かになる。ほんのちょっと短くなったり、音が弱くなったり。そういうのが、ない。 当たり前なんだけれど、当たり前を丁寧にやってる演奏。これが今日の全てでしょうか。ゼッダを楽しみにしていた割にはあっさりした感想、と言われればそうなんですが、やたらと外連味を発揮したり、煽り立てたりするような演奏とは一線を画した、と言えばいいんでしょうか。聞いていて、オペラの筋立てに関係無く、顔がついにんまりとほころんでしまうような、そんな演奏。変なたとえですけど、文化会館の正面、上野駅の中にたいめいけんが入っていて、あそこのオムライス、私好きなんですけど、ああいう、物凄く特別という訳でもない、派手でもない、でもちゃんとしていて美味しくて、つい幸せな気分になる、そんな感じなんですよね。ちなみに昨日帰りにたいめいけんに行ったら長蛇の列で泣く泣く諦めて帰って来たのでした。それが唯一の心残り......というか、いいのかこういう評価で、自分(^^; 演出は粟国淳。割とオーソドックスな演出をする人ですが、今回もほぼオーソドックス。見立て上若干無理のある舞台ではあったけれど(2幕のフォード邸や3幕の森の場面は、あの構造のままだとちょっと舞台として無理があると思います)、制約のある中で上手く使っていたという意味では悪くないと思います。まぁ、ファルスタッフことウィンザーの陽気な女房達は原作も知られているし、よほど何か読み込んでやろうというのでなければ、変な事しない方がいいでしょうし。 ゼッダは7月にも来て、ランスへの旅を振るそうです。その前、4月にも、大阪で、同じくランスへの旅をやるとか。演出はペーザロのとは違うようなので、ちょっと楽しみですね。しかし、急に日本づいてきたなぁ、ゼッダ翁....
2015年01月25日
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前回はこちら。 http://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/201501220000/ 身も蓋も無く言ってしまえば、「佐村河内守」の音楽は、結局の所、コンテンツとしてではなく、文脈や物語として売れていたのでしょう。勿論、恐らく、コンテンツの出来も決してお粗末ではなかったのだと思います。ただ、コンテンツに付随する物語の部分が大半嘘だった。コンテンツ自体も、音楽自体は嘘でなくても、その曲が表現しているとされていた内容は後付けで、作曲時にはそんな表現内容は想定されていなかった。 例えば、件の交響曲第1番の場合、オーケストラ曲という事もあって、相応の演奏者が演奏していた訳で(CDの演奏は大友直人指揮東京交響楽団。日本のオケと指揮者としては一定の水準でしょう。)、当人達も一応は「こういう曲だ」という表現内容の説明に沿った演奏をしていたつもりなのでしょう。その意味では、決してまがい物とは言えない。でも、作曲者が「物語」の主役本人ではなかった、「物語」自体もかなりの部分虚実綯い交ぜ、しかも虚の方がどうもウェイトが高い、となった時点で、「偽物」になってしまった。確かに「音楽そのものを評価すればいい」という言い方は出来るし、そう言っている人もいるのですが、まぁそれはあまりに弱々しく響く。(この点に関して、前回紹介した方のブログは非常に鋭く問題点を分析しておられます。私なんぞよりよっぽど真面目に音楽を聞いておられるのだと思います。皮肉でなく。) やはり、この曲、というより「佐村河内守現象」というのは、「物語」、「文脈」にむしろ本質があった、少なくともそのように受け取っていた人達が多かった、ということなのだと思います。とはいえ、実の処クラシック音楽というのは(他の音楽だって多かれ少なかれそうだろうけど)「物語」「文脈」に依存している部分は少なくないのだと思います。別にパチモンでなくても、ショパンコンクール優勝!とか、チャイコフスキーコンクール入賞!とか、クライバーンコンクール優勝!とか言われると心が動いて「ふむふむ?」とかなったりする。権威に弱いと言って片付けてしまうにはもうちょっと複雑な事情はあると思います。 但し、通常、物語や文脈は主役じゃない筈なんですね。あくまでコンテンツが主であり、物語や文脈は従である筈。それが、メインの商品になってしまった。お客の側は、物語や文脈を買いに行ってしまった。その物語が偽物だったから、この騒動はより大きかったし、ショックも大きいのだと思います。 問題発覚前、ブログなどで佐村河内守の音楽が言及された際に、コメントが付いていたりする訳ですが、そういったものの中に、既存の権威、この音楽を認められない者を嘲笑うようなものが見受けられます。今でも見られるのですが、そこに看て取れるのは、「この世界に誇れる日本発の新音楽を私が支持する喜び」みたいなもの。(褒めた人の皆が皆、ではないですよ。)まぁ、気持ちは分からないでもないです。でも、そこに現れているのは、言わば世界に対する欲望みたいなものなのであって。つまり、コンテンツに付された物語(実は主客転倒してコンテンツを伴った物語なのだろうけれど)で音楽を受容するだけでは飽き足らずに、その物語から世界を逆解釈して自ら位置付けを決定してやろう、という欲望。物語の拡大、或いは物語の二次創作。 ですが、音楽が何かの表現だと考えるならば、或いはそもそも音楽は具体的な何かを表現しようとしている訳では無い、と考えるなら、物語や文脈に過剰に依存するのは危険だと思うのです。それは一方で世界を再構築しようとし、もう一方では音楽そのものを規定しようとするから。その物語が、少なくとも表現者の主観の中で一貫しているならばまだいいのですが、受け手の側が過剰に依存すれば、終いには物語や文脈の解釈が暴走して、音楽自体を規定し始める。それも受け手の側で勝手に。 無論、それも一つの作品受容の形とも言えるけれど、やはりそれは暴走する危険を孕んでいると思います。少なくとも、音楽が某かの表現であるかも知れない、そういう事はまだあり得る、と思っている私としては、やはり受け手が物語に過剰に依存するのは、それが表現そのものを歪めてしまう危険があると思うのです。 前回述べたように、山崎浩太郎氏は「小さな物語」にかまけて「大きな物語」から目を背けてはいけない、と仰るのですが、そもそもこの意味に於いて物語に大小などないのだと思います。私は、物語にかまけてもいいけれど、それは表現そのものではない、その意味で本質はそこにはない、という達観が出来ないといけないと思います。つまり、そんなことには意味などないのだ、というくらいの達観が。物語に遊ぶのはいいけれど、それで何かを語った気にならない、という倫理が必要なのだと思います。 無論、物語や文脈を語るのはとても楽しかったりします。私自身もそうして楽しんだことはあります。今だってそうだろうし。日々そのようにして聞いている人も少なくないだろうし。でも、やはりそこに一線は引くべきだと思うのです。 ところで、今はあまりにネガティヴ過ぎて誰もこの佐村河内守/新垣隆の音楽に触れようとはしません。著作権上の問題もあるし。ただ、今年の5月にエストニア国立交響楽団が「交響曲第1番 "HIROSHIMA"」を定期演奏会で演奏する予定だそうです。指揮はネーメ・ヤルヴィ。サイトで見る限り、なんもかんも分かった上で演奏するつもりなんでしょう。今時点ではキャンセルする気配はなさそうです。 著作権問題をクリアすれば演奏出来そうな気もしますけど、パート譜とか、今何処でどうなってるんでしょうね。 この場合、この曲は、初めて物語や文脈から自由になれたと言えるのでしょうか。それとも、今度は「問題作」という新しい物語の下で行きて行くのでしょうか。或いはただ単に消えてしまうのか。
2015年01月24日
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今更蒸し返すなと、お叱りもあるのでしょうけれど、そろそろ問題発覚から1年になる、佐村河内守さんと新垣隆さんの事について、今更ながら書いてみようと思います。 いや実の処、もうこんな話はほぼ忘れていたのですが、こないだの年末、珍しく何かの拍子にTVを観ていたら、2014年お騒がせニュース、みたいな、まぁいい加減な番組をやっていて、そこに件のゴーストライターをやっていた新垣隆さんが出ていた訳ですね。「なるほど、これは今年の話だったか...しかしまぁ、こんなところにまだ引っ張り出されて....」と思っていたら、実は最近になってあちこちでじわじわとこの件に関する話とか新垣さんとか見掛けることが、 で、もうある程度ほとぼりも冷めた頃だし、あれやこれやネットで見てみようか、と思っていろいろ見ているうちに、ちょっと思う所がありまして、書いてみようと思った訳です。中には不愉快に思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、そろそろ冷静に見られるということもあるだろうし、ま、どうせここは過疎ってるし、ね。 あの当時、私は"「現代音楽村」の悲鳴" という題でこんな記事を書いていました。 http://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/201402130000/ あの頃、新垣さんの記者会見での暴露直後、物凄い勢いでネットで溢れたものの内、どうにもこれは「?」という記事が伊東乾さんという人が書いたものであったので。上記の記事の中にリンクがありますが、もう全文は掲載先の会員でないと読めなくなってます。ただ、あの時書いた趣旨は、上記で読み取って頂けるかと。平たく言えば「ゴーストライターとして書いた曲が多くの人に聞かれるのは嬉しかった、というのは新垣さんという「現代作曲家」の率直な本音の吐露ではないのか」という事なのですが。 とはいうものの、正直言って、私は佐村河内守/新垣隆の作品をほぼ全く聞いていません。事件発覚前は素通りだったし、事件後もわざわざ聞く気はしなかったし。但し、これも上記の記事に書いたのだけど、私が「佐村河内守の音楽」を素通りしたのは、先見の明がある訳でもなんでもなくて、むしろ酷い偏見と勘違いと偶然の産物に過ぎない。つまり、いきなり「佐村河内守」という名前を最初に目にして「"サムラ カワチノカミ"?何この巫山戯た芸名」と、件の人物のよりによって数少ない本当の事、つまり本名を勘違いして読んで、その勘違いから頭っから「碌でもないパチモン」と決めつけて素通りしただけのこと。 でも、今回色々見てみると、この人の交響曲第1番「HIROSHIMA」とかいう曲は、秋山和慶とか大友直人とかが振って、東響だの日フィルだのが演奏していたと。つまり、何かの拍子にまず曲から聞いていたことも十分あり得て、そうしたら「これは凄い」くらいのことは言っていた可能性は十分ある訳です。少なくとも「これはゴーストライターが書いたんだろ」なんて見抜く訳も無い。所詮そんなもんです。 で、今回、わざわざこの話を蒸し返したのは、一般、セミプロ、プロと、いろんな人の書かれている事を、発覚前、発覚後、いろいろ見ている中で、引っ掛かった事があるからです。 それを書こうと思うのですが、その前に、あるプロの方のサイトから。 山崎浩太郎のはんぶるオンライン http://www.saturn.dti.ne.jp/~arakicho/ これは、山崎浩太郎という(ご存知の方も多いでしょうが)音楽評論家、ご本人は「演奏史譚」とも称しておられますが、この方のサイト。ここの、「可変日記」というところの2014年2月の項目。ここで、問題発覚時にこの件について綴っておられるのですが、氏は、かつて佐村河内守の交響曲第1番を聞いて感銘を受け、レコード芸術誌に紹介記事を書いたりされたそうで、その事に触れながら、この件を振り返っておられます。冒頭ではなくて、2月19日のところ。 氏は、自ら自分は「音楽などの芸術を楽しむ上で物語性を重視する立場だ。」と、無批判であってはいけないとしながらも、物語をそこに見る事に肯定的な立場で居ます。そして、この曲に最初に魅了された当時(2010年のことだそうです)、"作曲者"の苦境と、それにも関わらず斯様な作品が生み出されたことに、個人的な安易な共感、「小さな物語」を見、そのままそこに止まってしまった、それは過ちだった、としています。その後、商業ベースに乗り、TVで紹介され、「大きな物語」に乗っていった事から目を背けてしまった、と。最後に、「小さな物語にかまけて大きな物語から目を背けてはいけない」ということを終生教訓とする、として結んでいます。 まぁ、物凄く端折って、こちらの論旨に都合良くまとめているので、原文を参照して下さい。 で、私は、これはまずい、と思うんですね。 公平に言うと、山崎氏は、数多ある一般、セミプロ、プロがこの件で書かれた中で、物凄く率直且つ誠実にこの件に向き合って書かれた(まぁ韜晦しているように見えもするのですが)ものだと思います。これに比べれば、従前佐村河内/新垣作品を支持していたプロ達の各種コメントからはもう全く抜きん出た真摯さと言ってもいいように思います。(意地悪く...発覚後とっても饒舌に語った作曲家さんとか、CDショップのサイトの記事だし仕方ないとはいえ数ヶ月経って関連しない題名で陳述した評論家さんとか....他にもたくさん。ただ、この件の問題の本質に最も肉薄しているのは、見た中では山崎氏かなと思います。実は、一般の方ではこの方のが秀逸だと思います。一般の方なので論評はしませんが、とてもいい。ただ、私とは、最後の最後、考えが違うかなとは思いますが。) ただ、氏は、結局物語を断念する事はしない訳です。 私は、はっきり言えば、全面的にと言わずとも、物語を断念する事を考えるべきではないかと思うのです。 今にして思えば、あの「佐村河内守の音楽」というのは、多かれ少なかれ、音楽そのものよりも付随する物語で支持されていたのだ、というのは、もう完全な後出しじゃんけんですが、かなりのケースで当たっているのだろうと思う訳です。で、この点について、多くの人が指摘しているのが、でも、物語抜きで音楽なんて聞けるのか、という事です。例えば、作家の乙武洋匡氏などは"今は「コンテンツからコンテクストへ」という流れがあるらしい"として、文脈、これがつまり物語と言える訳ですが、人が文脈に惹かれていくのが今の状況だという前提で話をされています。その他多くの方が「物語で売れている、物語で聞いている」ということを指摘していたりします。 まぁ、これって、詰まる所マーケティング理論なんですよね。つまり、売る為の技術。ところが、それによって、売り物自体がコンテンツではなくコンテクストに移行している気がするのです。問題は、コンテクストは暴走するということです。 物語=文脈=コンテクストというのは、芸術作品に於いては、実は解釈の方法を意味します。つまり、作品そのものに対し、作品外の視点から、作品を世界の中でどのように位置付けるかを規定するという形で機能します。これは、物語が、作品と世界とを関係付ける、ということでもあります。すると、もし、秀逸な物語を伴って定義すれば、その作品は世界に於いて高い位置付けを得られるのではないか?例えば、現代のベートーヴェンという文脈で置く事が出来るなら.....? 恐らく否定はされると思うのですが、これは、一種の世界の逆解釈だと思うのです。一般的には世界に予めある文脈の中で芸術作品を位置付けようとしていくのに対し、芸術作品の位置付けを行う文脈を世界に持ち込む事で、極端に言えば世界を再定義しようとしてしまう。 長過ぎるので、いっぺんここまで…続きは次回…
2015年01月22日
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文化村 ル・シネマ 監督・編集・録音:フレデリック・ワイズマン よせばいいのに、つい出来心で、東フィルが終わった後、上の階のル・シネマに行ってみたのが運の尽き......日曜夜の最終回は安いので、つい買ってしまいました。3時間以上掛かるのに。 いや実際上映時間181分ってなってますし。 ロンドン・トラファルガー広場に面して建つナショナル・ギャラリー。実はあまり行った事ありません。いや、何度か行ってるんですが、少なくとも私がイングランドに居た頃は、ナショナル・ポートレート・ギャラリーと隣接していて、リチャード三世やヘンリー八世の絵があったりするポートレートの方に足を運ぶ事が多かったもので。ロンドンに居た訳じゃないからそんなに行けないし。 とはいえ何度か行ってはいるので、見てみようと思ったのですが、しかし、考えてみると美術館の映画って珍妙ですよね。ル・シネマだと、ベジャール亡き後のローザンヌのドキュメンタリーとか、パリ・オペラ座のすべてとかいうから観に行ったらバレエだけじゃん!何処が全てやねん!みたいなのとかありましたけど、これはまぁバレエという動きのあるものを見せるから、まだ分かる。しかし、美術館の映画とは? まぁ、正直、3時間は長いです。最初の1時間は、ナショナル・ギャラリーに行きたくなる。次の2時間目で、それもお腹いっぱいになってくる。最後の3時間目はケツが痛い.....まぁ、絵が好きな人でないと厳しいでしょうね。でも、思いの外退屈しなかった。 実は、3時間ありますが、みっちりと絵を見せてくれるという感じでもない。見せてくれますけどね。 館内の情景、様々なワークショップやレクチャーの様子、スタッフの作業の様子や会議の様子、最後にはちょっとしたものもあるけれど(折角なので内緒)、なんというか、ドラマもハプニングも無い。じゃぁ何が面白いかというと、レクチャーの様子は面白い。普段、この手の美術館のオーディオガイドとか、まぁいいや、と思っているのだけど、このナショナル・ギャラリーのレクチャーは確かに面白い。 もう一つ、思いの外面白いのが、来館者が鑑賞中に見せる表情。本当に、絵に負けず劣らずよく撮られているのが来館者達。彼らの表情がとても面白い。なんとなく、美術館で絵を見ている人の表情なんて、仏頂面とまではいかないまでも大して面白くもあるまい、と思うのだけれど、実は結構表情豊かだったりする。それをきちんと撮って見せるという、このへんはやっぱり映画だなぁ、と思います。 正直、思ってたのとは微妙にずれた路線ではあったけれど、これはこれでとても面白かった。まぁ、もう一度観るか?と言われたら、美術館に行く方がいいです(苦笑)
2015年01月19日
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オーチャードホール 15:00〜 3階正面 シューマン:ピアノ協奏曲 ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」 ピアノ:仲道郁代 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:阪哲朗 東フィルも調べたらここで書くのは2年振り.....いや、そこそこ聞いてたんですけどね..... 曲目的にはベタな名曲シリーズ的な内容。 指揮者の阪哲朗という人、今はレーゲンスブルクの歌劇場の音楽監督だそうですが、レーゲンスブルク、ねぇ....といったところでしょうか。偶々、2008年末のフォルクスオーパーでこの人が振ったこうもりを聞いていたのですが、正直、その時はそれほどいいとは思わなかった。悪くはなかったけれど、格別よくもなかった、てな感じだったかなと。その後もずっと向こうでやっていたのですね。日本でも一度くらい何かの客演で聞いた気はするけれど。時々日本でも振っているようではあるのですが。 で、どうだったか?うん、良かった。 瞠目するようなタイプの良さではないんですね。そう言っちゃぁなんですが、これは凄い!ブラヴォー!みたいな演奏ではない。失礼ながら、指揮姿もそれほど見映えするタイプではないし。それに、曲目も曲目ですからね。「田園」は好きな曲ではあるけれど、こう、盛り上がってわーっと終わる曲ではないし。オペラシティとサントリーでは7番だったらしいけど、どうだったのかな? で、「田園」というと、ある意味特徴がはっきりし過ぎる分、扱いが難しい部分もあって、描写や表現に傾き過ぎることがあるのだけれど、そういうこともなく、とてもバランスのいい演奏を展開していました。抑制された、けれど的確な表現。構成もしっかりしている。 それと、音。曲のせいもあるにせよ、日本のオーケストラにありがちなテンション掛け過ぎのとは違う、豊かな弦の響き。むしろこれを一番に挙げるべきだったか。もうこれだけで私は高評価なのですが。 地味と言えば地味ですが、外連味のない、安定感のあるいい演奏。それでいって決して退屈などではない。かつての、いい響き、音を獲得していた頃の東フィルの響きを彷彿とさせる音でした。なんだ、やりゃ出来るじゃん.....とはいえ、これはやはり指揮者のせいなのでしょう。 仲道郁代独奏のシューマンも、同じ意味合いで、良かった。シューマンも似たような所がある曲で、そういう意味では、ちょっと失礼ながら、仲道郁代もやはりそういう傾向のある演奏家だと思います。本当はシューマンは結構外連味のある曲も書いているのですが、ピアノ協奏曲の場合は、数多あるロマン派系の協奏曲の中では、むしろ地味めとも言える曲かと。その分音楽的には十分充実しているのですが。要は音符が多くて、聞かせようと思えば幾らでも聞かせられる。仲道郁代が、これまた華が無いわけでもないのだけど、意外と地味目の音楽が好き、というか得意だったりする、という。 そういう意味では、結構ツボを突いた選曲・組み合わせだったのやも。いい意味で堅実な演奏。 普段、定期演奏会とかでアンコールは期待しないのに慣れているのだけど、今日はちょっと勿体無いなー、と思うくらい、充実した演奏だったかと。 阪哲朗、もうちょっといい扱いしてもいいと思いますけどね。少なくとも、新日の上岡よりはいい指揮者じゃないかと思いますよ。うん。格はあっちが上とかあるのかも知れないけど。私はこっちのがいいなぁ。
2015年01月18日
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みなとみらいホール 13:00〜 1階右手 モーツァルト:ロンド ニ長調 K.485 ブラームス:パガニーニの主題による変奏曲 op.35 リスト:メフィスト・ワルツ第1番「村の居酒屋での踊り」 コンソレーション第3番 ワーグナー/リスト:イゾルデの愛の死 リスト/ホロヴィッツ:ラコッツィ行進曲 サン=サーンス/リスト/ホロヴィッツ:死の舞踏 リスト:巡礼の年報第2年補遺「ヴェネツィアとナポリ」〜タランテッラ <アンコール> ショパン:練習曲 op.25-7 R=コルサコフ/シフラー:熊蜂の飛行 ショパン:ノクターン op.27-2 メンデルスゾーン/ヴォロドス:結婚行進曲 ピアノ:アレクサンダー・ガヴリリュク 今日一番音楽的にいいと思ったのは、アンコールのショパンのノクターン。決してショパンは好きではないけれど、決して嫌味ではないのです。ただ、それが不幸と言えば不幸なのか、とも思わなくはないけれど。 ガヴリリュクの名前は前から目にしてはいたけれど、あちこちのコンサートで結構チラシを見掛けるので、これは売れてないんかなぁ、と思ったら、案の定安売りチケットが御目見得....というわけで、申し訳ないけれどそれで押さえたのでした。 今日はN響と被っていて、ノセダも良かったのでどうするかとも思ったけれど、やはり先週N響で出たガヴリリュクが、プロコフィエフの協奏曲以上に、アンコールのショパン(今日最初に弾いた練習曲op.25-7)が結構良かったので、こちらにしようかと。 結果、その判断自体は良かったんですけどね... みなとみらいは一応フルオーケストラ用のホールなのだけど、1階を見る限りでは6割、よく言って7割足らずの入りかと。2階には人は居たし、裏にも入っていたので、まぁ全体としては5割くらいなのか。1,000人居たかな?ということでしょうね。まぁ、このクラスの人なら、今時、文句は言えない程度の人の入りかと。加えて13時開始というのはどうなんでしょうね。実はこの日はこのホールはダブルヘッダー。樫本大進とエリック・ル・サージュのデュオが17時からの予定というもの。で、どちらもジャパン・アーツ。なので、興行的には、早めの時間にこのリサイタル入れちゃえ、ということなんでしょう。まぁ、悪くない判断と言うか、見様によっては樫本大進かわいそう....って言われかねない、という.... ガヴリリュクはヴィルトゥオーゾという触れ込みで、プログラムも、最初の挨拶代わり?のモーツァルトを除けば、ブラームスの技巧的な曲とオール・リスト・プログラム。チラシで幾ら音楽性を謳おうが、売り方としては技巧派です。 で、当然お客もそういうものとして来ている。口の悪い言い方をするなら、凄いものを期待するお客が多かったんでしょうね。その結果が、最初のモーツァルトが終わった時の物凄くおざなりな反応。もうなんというか「え?何?」みたいな感じ。拍手もまばら。これが、前半最後のブラームス、後半のリストと進んで行くに連れてブラボーやら何やら飛ぶようになる。まぁ、そういうものを売るよと言われてそういうものを買いに来ている訳だから当然ですね。 で、実の処どうだったか? 正直言うと、私は超絶技巧にはまぁ人並み程度の興味しかないし、その耳で聞いても、ガヴリリュクの腕は、確かに凄いけれど、別に100年に一人とか言う訳でもないと思います。実際今日だってミスタッチあったし、死の舞踏とか、ちょっとゲシュタルト崩壊起こしそうになってたし。中村紘子がかつて浜松のコンクールの時、20世紀後半最高の16歳って言ったそうだけど、50年で一人、しかも16歳の限定付き....まぁ、妥当ですよね。 でも、ガヴリリュクの演奏がいいのは、むしろそういうことではないと思います。腕がいいのは事実だけれど、それが音楽を作る方に向いている、少なくとも向けようとする感覚がある、そういう意味で指だけのピアニストではない、そういう可能性があると思います。 そういう意味で、今日一番良かったのは、アンコールで弾いたショパンのノクターン。技巧が要らない曲ではないけれど、プログラムの路線とはまるで違って、しかし、旋律の歌わせ方、バランス、表情、いずれも音楽としてとてもしっかりしていて、堂々たるもの。同じ事がプログラムで言えば「イゾルデの愛の死」にも言える。この曲、現実には超絶技巧曲のように扱われている部分があるけれど、リストの時代には、容易に聞けるものではないオペラを紹介し、あるいはその記憶を呼び覚ます為のものであったので、そう考えると、これは原曲では将に弦合奏を如何に歌わせるかが勝負。それをピアノで表現する、これはただ指が回ればどうにかなるものではない。そういう曲を見事に歌ってみせた、というのがガヴリリュクの演奏。そういう意味では、モーツァルトのロンドだっていい演奏なんですよ。 でもねぇ、お客は、超絶技巧、なんですよね。 まぁ、無理はないと思います。そういう風にラベルに書いてあるんだから。他のリストだって悪くはないんだし。でも、ねぇ..... アンコールの最後、メンデルスゾーンの結婚行進曲の編曲ものを聞きながら、かわいそうだなぁと思ってしまいました。商売ですからね。売れるものを弾く。でも、その前に、あんなに見事なショパンを聞かせておきながら、こんな、ある意味雑な音楽を弾く、というのもどうなんだ、と。まぁ、当人本当はこういうのが好き、という事かも知れないし、こういう惹句だからこそまだしもこれだけ客が入るということなんだろうし。でも、N響とのプロコフィエフの後もアンコールがショパンだった、というところに、この人少なくとも超絶技巧だけでやってく気はないんだろうな、と思わせるものがあると思うだけに、この売られ方、お客の聞き方はちょっとどうなんだろうな、と思わなくはないのです。
2015年01月17日
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1/6 サントリーホール 19:00〜 1/10 茅ヶ崎市民文化会館 14:00〜 ヨハン・シュトラウスII世:オペレッタ「インディゴと40人の盗賊」序曲 ワルツ「春の声」 ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ・マズルカ「とんぼ」 ヨハン・シュトラウスII世:ニコ・ポルカ ツィーラー:ポルカ・シュネル「人生は喜び」 オッフェンバッハ:オペレッタ「天国と地獄」〜カンカン ワルトトイフェル:スケーターズ・ワルツ ヨハン・シュトラウスI世:ジプシーのギャロップ ヨハン・シュトラウスII世:ワルツ「シトロンの花咲く所」 オペレッタ「こうもり」カドリール ランナー:ワルツ「求婚者」 ヨーゼフ・シュトラウス:ジョッキー・ポルカ <アンコール> ヨハン・シュトラウスII世:オペラ「騎士バズマン」〜チャールダーシュ トリッチ・トラッチ・ポルカ (1/6のみ) ワルツ「美しき青きドナウ」 ヨハン・シュトラウスI世:ラデツキー行進曲 ウィーン・リング・アンサンブル ニューイヤーコンサートと銘打ったコンサートはあちこちでいろんな団体が入り乱れてやるようになってる訳ですが、これは草分け的且つ由緒正しい?コンサート。何しろウィーンフィルのコンマスであるライナー・キュッヒル以下、全員ウィーンフィルのメンバーなので、まぁある意味本家の一部というわけ。 毎年来るので、ここ最近は毎年行ってる気がします。 とはいえ二度も行くとはどんだけ好きなんだ、とか言われそうですが、この人達、取り敢えず安心して聞いていられるんですよね。上手い下手とかじゃないんですよねこういうのは。語り口というか、ツボというか、そういうものが(半ばルーティン化してるのかも知れないけれど)外さない。選曲も絶妙で、程よくバランスを取ってくれる。 いや、正直言うと、何せ9人でやってる団体なので、どうしても音は少ないんですよね。弦は5人しか居ない訳だし。ただ、そうなると、低弦が相対的に強いので、音が少ないなりに下の方が落ち着くので、それはそれで安心して聞いていられる。何より危なげないので、気楽に聞いていられるというか。2時間難しいこと考えずに楽しめる、といったところ。 まぁ、そういう楽しみ方もお正月くらいいいんじゃないかなと。キュッヒルとかクラリネットのペーダー・シュミードルとか、もう結構なお歳ですが、まだまだ頑張ってもらいたいものです。
2015年01月13日
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NHKホール 18:00〜 3階右手 フォーレ:組曲「ペレアスとメリザンド」 プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番 <独奏アンコール> ショパン:練習曲 op.25-7 嬰ハ短調 ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」 ピアノ:アレクサンダー・ガヴリリュク NHK交響楽団 指揮:ジャナンドレア・ノセダ 前にN響の記事書いたのいつだっけ?と思って調べたら、2年以上書いてなかった.... いや、あの、毎月まではいかないと思うけど、実は結構行ってたんですが........... という訳で久々のエントリー。 ノセダ、確かにN響で何度か振ってる筈ですが、あまり記憶に無い。フィルハーモニー誌で堀内修が書いていたのだけれど、確かに、この数年でのノセダの存在感の増し方はなかなかのものだと思います。以前はN響振りに来る、と言われても、それほどピンとは来なかったような。 結論から言うと、「運命」が面白かった。いや、ベタなまでに定番チックな演奏なんですね。丁度これまた解説で(これは堀内修じゃない)「昨今は既存のスタイルから離れた、爽やかな演奏がどうのこうの」みたいな事を書いていたのだけれど、そういう「既存のスタイル」からの逸脱を期待した向きにはズッコケそうなまでの定番スタイル。但し、第一楽章はとんでもない快速だし、その後もかなり速いテンポで、そういう意味では決してオーソドックスとは言えない。 で、これが面白い。いいか悪いか、と訊かれると、多分2度聞きたいとは思わない、という程度の演奏と言えなくもないけれど、第四楽章なんてもう指揮棒振り回して大変。時々バチッという音がしたのは、あれは指揮棒が台に当たってたのではないかな?一応譜面は、ミニスコアじゃないの?という感じのコンパクトなのを置いて、見ている風ではあるけれど、あんなに振り回してたら見てる暇無いと思うんだけれど。 ただ、それが、例えば叫びまくりの大仰な演奏かというとそうでもなくて、見た目以上に存外クールな演奏なのが面白い。だから、こちらも辟易するという訳では無い。是非もう一度聞きたい、とは思わないけれど、これはこれで面白い。そんな演奏ですかね。 前半は、フォレも悪くなかったけれど、一般的には売りはプロコフィエフなのでしょうね。これも悪くはなかった。ただ、プロコフィエフは、なんというか、聞いて楽しい音楽家と言われると.... まぁ、それもあって、後半の印象が強い演奏会だったかなと。
2015年01月10日
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【MUZAニューイヤーコンサート2015】 ミューザ川崎シンフォニーホール 14:00〜 1階左手 モーツァルト:アイネ・クライネ・ナハトムジーク K.525 ヴァイオリン協奏曲第5番 K.219 「トルコ風」 音楽の冗談 K.522 交響曲第29番イ長調 K.201 <アンコール> アイネ・クライネ・"ニヒト"ムジーク 東京交響楽団室内合奏団 コンサートマスター (ヴァイオリン独奏) :水谷晃 新年はまずこっから。 ニューイヤーコンサートとか言いながらオール・モーツァルト・プロというのも面白そうだな、という理由で。まぁ、勿論ウィンナ・ワルツとか嫌いじゃない、むしろ年末年始に聞くくらいなら好きな部類ではありますが、そればっかりってのもねぇ。と言いつつ最初がこれなのは、「お節なんてねぇ」とか言って最初っからお節料理食べないようなものではありますが。 まぁ、曲目的にはポピュラー名曲集みたいなノリではありますが、構成としてはそれほど悪くはない。室内合奏団、実態は弦五部にホルンとオーボエだけの編成なので、演目が限られる中では上手く組んだと思います。音楽の冗談とか、今更聞かされても、とも言えるけど、こんな時でもなきゃ聞く機会も無いし、とも言えるし。 演奏は?まぁ、公平に言って、悪くはないと思います。ただ、結局これまたちゃんと書いてないけれど、大晦日にフォルクスオーパー響(やっぱあれは管だと思うのだが)のジルベスターを聞いたのだけれど、響きが違うんですよね。音が。で、その音が耳に残っているこちらとしては、潤いが無いというか硬いというか.....ウィンナ・ワルツとモーツァルトの差?いや、音、響きは、やはりそう変わるものでもないので.... まぁ、楽しむには楽しみました。特にこの後の事を思うと..... 【第58回NHKニューイヤーオペラコンサート】 ムソルグスキー:「ボリス・ゴドゥノフ」〜戴冠式の場 プッチーニ:「トゥーランドット」〜誰も寝てはならぬ(西村悟) レハール:「ジュディッタ」〜熱き口づけ(中島彰子、アルテ イ ソレラ舞踊団) プッチーニ:「ボエーム」〜冷たい手を(望月哲也)、私の名はミミ(砂川涼子) グノー:「ファウスト」〜金の子牛の歌(妻屋秀和)、終幕三重唱(小川里美、山本耕平) ヘンデル:「リナルド」〜前奏曲、風よ、旋風よ(藤木大地)、涙流るるままに(臼木あい) 私は戦いを挑み(山下牧子) 鈴木雅明指揮、バッハ・コレギウム・ジャパン レオンカヴァッロ:「道化師」〜鐘の歌、衣装をつけろ(村上敏明) マスカーニ:「カヴァレリア・ルスティカーナ」〜乾杯の歌(与儀巧、鳥木弥生) バーバー:「ヴァネッサ」〜冬はすぐそこまで(林美智子) ストラヴィンスキー:「放蕩者のなりゆき」〜夜よ、ひそかに(田村麻子) ヴェルディ:「リゴレット」〜慕わしい人の名は(幸田浩子)、女心の歌(福井敬)、 第4幕四重唱(上江隼人、鳥木弥生) ベッリーニ:「清教徒」〜命をかけて(堀内康雄) マイヤベーア:「ディノラ」〜影の歌(森麻季) ドニゼッティ:「愛の妙薬」〜人知れぬ涙(錦織健) チャイコフスキー:「ジャンヌ・ダルク」〜森よ、さようなら(藤村実穂子) ヴェルディ:「椿姫」〜乾杯の歌 新国立劇場合唱団、二期会合唱団、藤原歌劇団合唱部 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:広上淳一 大体このコンサートというか公開生放送は行くと後悔して帰って来るのが定番ではあります。 それでも懲りずに行くのは、良くも悪くも今出てる日本人歌手総見みたいなことになるので。言い換えれば、この日聞いとけば、取り敢えず日本人歌手一通り聞いてる事になるので。まぁ、ぶっちゃけて言えば、安いバイキング料理みたいなもんで、大体みんなまずいんだけど、中には食べられるものもあるし、といったような。そんなんで評価するなよ、という話もあるけれど。 しかし、メンツがしょぼいなぁ..... 結論から言えば、ある意味名前を挙げるに足るのは、3人かと。砂川涼子、山下牧子、堀内康雄。それに、錦織健も、まぁ入れてもいいかな。ここまで。後は..... 歌になってないとか、全然合ってないもの歌ってるとか、何したいのか訳分かんないとか、まぁ一応歌にはなってるけどね、とか...... 堀内康雄とかね、歌は地味なんだけれど、やっぱり歌としてはまともな訳です。そこいくと、後半の名前のある人達の不安定さと言ったら.....藤村実穂子とか、紫綬褒章の御褒美なんでしょうけれど、そもそも歌えるものが限られ過ぎです。それで事欠いてチャイコフスキーなんでしょうけれど、わざわざ選んで来た割には、骨組がしっかりしてないから聞いていて何したいのやら..... キャスティングも悪過ぎる。福井敬にマントヴァ公爵とか、誰得だよ、みたいなね。 一方、お客はお客で、高いとこ出てりゃいい、知ってる曲歌ってくれりゃいい、みたいな、ねぇ。がっくりしますよ。こういうお客が新国とかに溢れる訳でしょ。そりゃ、地盤沈下が止まらない訳だわさ.... まぁ、元々そういうコンサートなんだから、分かってて行く方が悪いんですけどね。 新年早々こんなかよ、という話ではありますが..... でもねぇ。別に私は舶来物信奉者のつもりは無いけれど、やっぱり、日本人がやる音楽と、欧州に出自を持ってやる音楽とでは、根本的に出発点が違うんだろうな、という気がします。これは多分正月だからそういう発想になってるんだと思いますが(笑)、ひょっとすると、日本人のやる音楽は、限りなく駅伝チックな発想に基づいてるんじゃないだろうか、と。ストイックで、真面目で、作り上げるべきもの、目標があって、そこに達成するべく努力する。それこそが美しい、的な。 無論、だからといって、お気楽に楽しくやってりゃいい、というものでもないんですけどね。ただ、ハイレベルなものを作る、その基本のきに、楽しい、というのがあるんだろうな、と思うんですよね。そこが根本的な問題だと思うんだけど.....なんで日本人がやる音楽って、がむばっちゃうのかしらね。そこが基点にあるから、美味しくない料理の羅列になる。そのくせ、ダシの取り方とか、根本的に間違ってる、みたいな.....何の話だ..... ともあれ、お気楽な消費者としては、いや、それ、なんかちがう....と思ってしまうのではあります。
2015年01月05日
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ま、今更ですが、明けましておめでとうございます。 本年も宜しく御願い致します。 っていうほど見てる人も居ないとは思いますが.....(苦笑) 結局大晦日はサントリーホールでのフォルクスオーパー響(管でなくて響というのは凄く奇妙な感じですがね)で年越しだったのだけれど、アンドレア・ロストが風邪でキャンセルで、天羽明恵になって曲目も変わるという微妙な内容に..... なので書かない。まぁ、今日になってみれば、それでもやっぱりああいうオケは響きっつーか音がいいんだよねぇ、音楽として面白いんだよねぇ、と思わずにはいられないのであります。 去年はあまり真面目に書かなかったのですが、多分今年も似たようなものでしょう。 まぁ、基本苦言を呈する内容が多いので、それもあって読む方以上に書く方も結構やる気が出ないのではありますが、こんなところで思う所と違う事を書いたってしょうがないですからねぇ。 ただ、行く回数が減ってきているのも確かではあります。まぁ前が多過ぎるってのもありますが、一昨年に比べると昨年は明らかに少なくなった。で、どう思うかというと、正直、今年から来年に掛けては、やっぱり減らす方向かな、というのが率直に思う所で..... というのも、やっぱり、国内外を問わず、面白い、いいと思う演奏家が減っている気がするんですよね。特に声楽関係は。 まず、オペラ系で言えば、敢えて聞きに行きたいと思わせる人が本当に減ってしまった。何せ、ヨナス・カウフマンがトップクラス扱いだって言うじゃないですか。来日公演は2万円超えで、一番安い所で1万4千円とか。個人的には、1万円余計に乗せてるとしか思えません。というか、カウフマンの声、精々そんなもんでしょ。他に居ないからあちこちに出てるけれど。他の、ネトレプコやバルトリあたりは、まぁ分からんでも無いけれど、ネトレプコとか、かつてフレーニやコトルバスが現役だった頃だったら、ドサ廻りの二流扱いなんじゃないかと。いや、それって精々25年くらい前の話ですよ。25年、確かに長いけれど、でも、それほど昔でもない。その頃は、その二人は流石にもう衰えていたけれど、バトルだのなんだのとまだまだ色々居ましたし、何よりグルベローヴァが全盛期を越えたくらいだったし。そういう時代からすれば、ねぇ。 歌曲系だと、一見人材は豊富そうにも見えますが、こちらは、むしろ市場が萎んでしまったように見受けられます。そのせいか、平日の都心の小さ目ホールでの公演、それもトッパンホールだの紀尾井ホールだの、まためんどくさいホールでの公演が増えたようで。小さく、高いチケットを売ってどうにかしよう、といったやり方。まぁ、迷惑っちゃ迷惑です。それなら呼ぶな、とちょっと思わなくもない。でも、確かに、ドイツ歌曲なんて流行らないんでしょうね。 まぁ、その分ピアニストとかはそれなりに人材は供給され続けているのかとは思うし、他の楽しみを求めればいいのではありますが、それにしても、ね。 あと、日本のオケ。さすがに本気で減らそうかどうしようか考え中。まぁ、今回の更新はやるでしょうけれど、でも、見ていて、これ以上いい目を見られそうな気がしません、最近。 この間、音楽なんてあまり聞かない友人が曰く、この間N響のチケット貰って聞きに行ったら面白かった。もうちょっと色々聞いてみようかと思うけど、何聞けばいい?と訊かれて、思わず答えるに、「N響のオーチャード定期に行け」ですからね。もう、ちょっと他のオケは人に勧め辛い。といってN響のサントリー定期は、買えない。じゃ、オーチャード定期しかないじゃん、という.... 新年早々愚痴っぽくなってるのは、きっと歳のせいでしょう。でも、そんな訳で、きっと行く回数は控え目になるのかなぁ、と。 ま、そんなこんなですが、宜しくお願いします。
2015年01月03日
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