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2007年10月07日
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カテゴリ: クラシック
 紀尾井ホール  15:00~
 1階後方

 ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第2番/第6番/第14番

 我ながらよくもまぁ、と思うほどですが、何故生演奏に足繁く通うか、というと、そこにはいくつかの理由がありますが、大きな理由の一つに「生で聞かないと分かりにくい部分がある」というのがあります。
 別に私は生演奏絶対論者でも、至上主義者でもありません。ただ、私は音楽的素養があるわけではなく、故に世間一般に言う意味で楽譜は読めません。見ても、それで音楽が浮かんで来る、というわけではないのです。レファレンスとして持ってはいますけど。で、そういう人間にとって、音楽は実際に音として出て来ないと理解出来ないのですね。だから、音としてどう聞こえるか、は、大変重要なポイントになります。
 「だから、ある演奏家が実際にどういう音を出すか大いに興味がある」ということかというと、まぁそういう側面もあるにはありますが、その他にも例えば、時間的・空間的にどう聞こえるのか、ということがあります。非常にプリミティヴなレベルで言うとですね、そもそもCDで幾ら聞いても、やっぱり空間的にどう聞こえるかは、音楽的素養の低い身の哀しさ、ある程度生のイメージが無いとピンと来ない面があるのです。加えて、CDの場合、どうしても実演とでは時間の流れ方が違うのです。それは楽章と楽章の合間、ということから、その音楽がある一定の空間で聞かれる際、そのような環境下でどの程度の時間的密度を以て感じられるか、といった問題にまで及びます。
 と言葉で書くとなんだか大袈裟ですが、要は「え、実演で聞くとこんななんだ」というアレです。私は基本的に鈍いので、このへん、ある程度コンスタントに生で聞かないと勘がすぐ鈍るのです。
 その結果、聞いてびっくり玉手箱、なんてことも少なくないですが。

 で、フェルメール弦楽四重奏団の演奏会。今年解散を決めたこの団体のフェアウェル・コンサートツィクルスの最終回、という演奏会になります。私はこの団体を生で聞くのは初めてですが、さてどうなるか..........そういや、最初で最後と言えば、スメタナQの時もそうだったよな.......と20年近く前を懐かしく思い出しつつ。ベートーヴェン弦楽四重奏曲全曲演奏会の最終回、ということで、当然オール・ベートーヴェン・プロ。


 いい演奏ではあった。でも、私は、この後、止むに止まれず急遽コンサートのハシゴをすることに決定。理由は、「足りない」から。身体が音楽が足りないと主張しました。
 で、冒頭の話に関係するのです。

 私は、よくよく考えてみると、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏を生で聞いたことはあまりありません。私の性向もあるけれど、ベートーヴェンを取り上げる公演はそれほど行かないし、行ってもラズモフスキー・セットだったり。
 フェルメール四重奏団の演奏は、言ってみれば清潔な演奏です。それは、今日のプログラムに一貫して変わらない性質。前期と呼ぶべき、より古典主義色の強い2番や6番がそうであるのはそれほど不思議ではないと思いますが、実は後期の作品である14番でもこの傾向は変わらなかった。ザッハリッヒカイトな演奏ですが、それに清潔感が伴うというのは、まぁいい。特に前半は。
 でも、後期は?

 ベートーヴェンの後半生は、殆どロマン派の作曲家ではないのか、という見解は決して異色ではないと思います。いかにもロマン派的なフレーズや展開とは言えないにせよ、古典的手法・展開からの逸脱、例えばピアノ・ソナタでの、中期に於ける形式の混乱とそれ以上に明白な旋律の劇的性格、或いは後期での大幅な逸脱、第9は言うまでもない、交響曲第5番以降の劇性は、古典から大きく逸脱したという点で、やはりロマン派的と言わざるを得ません。
 正直言うと、私は、同じ文脈で弦楽四重奏曲も眺めていたのですね。特に後期。古典的音楽からの逸脱、という点ばかり見て、CDでなんとなく聞いていた。それはそれで決して間違いではないとは思うのですが、しかし、本当にそうだったのか?

 このフェルメール四重奏団による14番の演奏を説明するなら、いや、或いはそもそも14番自体がそういう音楽だったのかも知れないのですが、擬古典主義、だったのです。いや、擬前古典主義、なのか。そう思わざるを得ないのです。即物主義、というのとはちょっと違うかも知れないけれど、感情を抑制したような演奏で、つい「何かを表現したかったに違いない」という耳で聞いてしまいそうなこちらを突き放すように淡々と進められたように感じられたのです。そうした演奏の中で置かれたフーガは、確かにフーガなのですが、「古典派以降の文脈に持ち込まれたフーガ」というよりは「本来それがあった古典派以前の音楽の文脈に置かれたフーガ」であるように感じたのです。
 思えば、大雑把にはハイドン以降確立されたと言われる弦楽四重奏というジャンルも、その少し前には、J・S・バッハの子供達の世代で確立された前古典派、或いは古典派前期と言うべき時期のシンフォニアなどに於けるソナタ形式の確立があって初めて完成した訳です。
 であれば、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏も、或いは擬前古典主義的に、古典派より前の、多楽章制のバロック組曲の流れを汲む、と考えることも出来るのではないか?と思ったりしたのです。或いはそれがこの曲の真の姿やも。

 しかし。

 それには、冒頭で触れた「どのような音楽であるか理解する」ということと関係があります。確かに、この演奏におかしい所は無い。その結果このように聞こえるとすれば、それがこの曲の真の姿の一つであることは疑いが無い。ロマン派への潮流を内在したような音楽には聞こえないじゃないか、と。そのように、確かに私は説得されたのだと思います。

 しかし、その結果、私は物凄い欲求不満を抱えた訳です(笑)
 それは、この演奏が気に入らない、というより、聞き、理解した結果、殆ど自分と別世界で完結した音楽のように聞こえてしまったわけです。理解して置き去りにされた、ってところでしょうか。

 うーん。自分で書いてても、上手く説明出来てませんね。結論だけもう一度言いましょう。
 いい演奏だったと思います。その結果、私は、特に後期弦楽四重奏に関して新たな見解を得た。けれど、音楽的に、私はもっと違う音楽を渇望した。こういうところでしょうか。



 その後私が如何なる行動をとったかは、また後日.......








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最終更新日  2007年10月07日 23時22分30秒
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