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May 5, 2013
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 釈尊が説いた悟りに至る道筋が「四つの尊い真理(四聖諦)」だ。

四聖諦(ししょうたい)のうち
苦諦とは、苦しみの意味の真理
集諦とは、苦しみの原因について真理
滅諦とは、(その原因に基づき明らかにされた)苦しみを滅するメカニズムについての真理
道諦とは、苦しみを滅する具体的な方法(についての真理)
である。

 この道筋に従えば、悟りを開くことができる。

 前回は、苦しみを感じる原因の真理について語った。



 次は、苦しみを滅するメカニズムについての真理(滅諦)だ。


そのために、苦しみが発生するメカニズムを考えてみることにしよう。


何かが自動的に動くためには、きっかけが要る。

あなたの中の絶対の正しさは、常にあなたに起こることをチェックしている。

あなたに起こることが、あなたの中の絶対的な正しさ、つまり
『~のときは、必ずこうすべきだ』
『~のときは、絶対にこうすべきでない』
『~は必ずこうあるべだ』
という観念に適っているかどうかをチェックし、
もし、基準から外れていたら、それを否定する思考が必ず発生することになる。

外側の出来事、状況 × 絶対的な正しさ(観念) = 感情

-X × Y =-XY
なのだから、その思考をきっかけに怒りや悲しみなどの否定的な感情が湧き起こる。

そして、その状況が継続し、意識がそこに注目している限り、
その思考は続き、感情のスイッチを押し続ける。

それによって、その否定的感情は不自然なほど続くのだ。


だが、それだけでない。

あなたは自分の中の絶対の正しさのせいで、
目の前の否定的な状況を絶対に受け入れられないので、
なんとかして状況を変えようと試みる。

それが運よくあなたのコントロール範囲内であれば、変えられるかもしれない。
あなたの絶対的な正しさの範囲に収めることかできるかもしれない。
そうすればあなたは否定的な感情を止めることができる。


 だが、問題はそれがあなたのコントロール範囲外であった場合だ。

つまり、思うがままにならないことであったら、
あなたはいつまでも否定的な感情に振り回され続けても、
あなたは、あなたの中の絶対の正しさのせいで、
感情的にその観念を変えることができない。

無駄な努力であっても、
その思うがままにならないことを思うがままにしようと試み、
その抵抗感という苦しみを味わうことになる。


 さて、この否定的感情と苦しみ発生のメカニズムを止めるにはどうしたらいいだろうか。

その答えは論理的には簡単である。

外側の出来事、状況 × 絶対的な正しさ(観念) = 感情

であって、感情の発生には二つの要素が関係している。
外側の出来事、状況が変えられないのであれば、
もうひとつの要素である絶対的な正しさ(観念)の方を変えればいいのだ。

 だが、ここで問題になるは、
『絶対』であるものは、絶対なのだから、変更はできないということだ。


 しかし、論理的に考えるときに一番根底にあるのは、
『すべては相対的である』という考えである。

私たちが認識するこの世界は必ず相対的なものでしかありえないのだ。
それは、認識するということ自体が相対的であるからだ。

つまり、
外側の出来事、状況 × 絶対的な正しさ(観念) = 感情

という式において、
ふたつめの要素である『絶対的な正しさ』は間違った考えだということだ。

 この間違いを正しく認識し直すことで、感情を変えることができるのだ。

この手法は、現在の臨床現場において、
論理療法、認知療法、認知行動療法として実践されていることだ。

 そして、実はそれだけではないのだ。

補足した人間システム、特に脳の働きを思い出して欲しい。

「認識」→『基本的観念(正しさ)』→「想念」→「意志」→「判断」

となっている。

私たちは、自分の外側の出来事や状況は、
客観的に見ても同じく起こっていると思い込みがちだ。

たとえば、病気になったときのことを考えてみよう。

『健康であるべきだ(という正しさ)』を持った人が病気になると、
『不運にも病気という不幸なことになってしまった』
というような想いを抱くのが普通だ。

そのために、病気=不幸という図式(観念)が、
基本的な観念の上に新たな観念として付け加えられる。

 このような観念は、たいていの場合、常識という形で付け加えられる。

次からは、基本的な観念を使うことなく、
この常識だけで判断をするようになり、
それを繰り返していると、病気=不幸という観念は、間違った信念へと変ってしまう。

 ここから分かることは、病気それ自体には、意味はないということ。
そして、それを受け取るあなたが、意味づけをしているのだ、ということだ。


病気 × 健康であるべき(病気は悪いこと)という式は、

外部状況である病気には程度がある。仮にレベルをつけてみよう。

健康である(0)
軽い風邪を引いた程度。(-1)
一週間寝込む。(-2)
一ヶ月の入院が必要。(-3)
一年も入院が必要。(-5)
足や胃を切断しなければ死んでしまう場合。(-6)
手の施しようがなく、余命数ヶ月の場合。(-8)
もう明日まで持たないというほどの場合。(-10)


正しさの観念にもレベルがある。
絶対に病気になってはいけない、健康でなければならないを10とする。

正しさのレベルを下げて、「健康であるほうがいいが治れば良い」変えると
観念の方のレベルもたとえば、5に下がる。

もし同じように一年入院する病気になっても
-5 × 10 = -50

-5 × 5 = -25
と半分になる。


良寛の
「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。
死ぬ時節には死ぬがよく候。
これはこれ災難をのがるる妙法にて候」
のように、
病気も死をもあるがままに受け容れると
否定する条件が0になるので、

-5 × 0 = 0
-10 × 0 = 0

となり、病気になっても、死が確実になっても
否定的感情に振り回されることもなくなる。
もちろん、あるがままを受け容れて、外側を変えようとしないのだから、
思い通りに変えようとしないのだから苦しみもなくなるのだ。

 こまではいいだろうか。理解したかな?

さて、この説明には方便があったのだが、あなたは気がついただろか。
もし、この方便がすぐに見えているようなら、あなたは悟っているだろう。

-10 × 0 = 0
という式は、ウソである。

 さきほど正しさのレベルを10から5に下げて苦しみを減らすことができた。

このように自分の正しさ、言い換えると
外側を変えようとする期待値を下げることで
苦しみを減らそうとする手法がプラス思考だ。

 期待値を下げているということは、
相変わらず外側の状況に同じレベルをつけているということになる。

その観念の中には、相変わらず『病気=不幸』という観念が存在している。
それは意識の奥には、外側を変えたいのに変えられないという苦しみがあるということだ。
自分の外側に苦しみの状況が見えているということなのだ。

それは苦しみから逃れているだけで、
苦しみは自分の内側にも、外側にも存在している。
苦しみは、滅せられていない。

そのようなあなたのために、仮に
-10 × 0 = 0
という説明をしたのだ。

だが、考えて欲しい。
あるがままを受け容れるということは、無条件の受容である。
無条件に受け容れるということは、否定する基準が無いということだから、
すべての受容ということと同じである。

すべてに差がなくなるのだ。
だからこそすべてを受け容れることができる。
健康でも、もうすぐ死にそうでも、同じレベルなのだ。
レベル0なのだ。

つまり、本当は
-10 × 0 = 0
ではなく、
0 × 0 = 0
というのが真実だ。

悟りを開くと外側の見え方が変るのだ。
このような状態を無分別という。


 それは、自分の思い込みで脚色せずに、
あるがままを正しく見るということなのだ。


認知行動療法では、絶対的な正しさは間違いだから、普通の正しさに変える。
ここで普通に回復したことになる。
たしかに普通である。
だが、それは自然ではない。

 悟りでは、普通の正しさでさえ、いったん手放す。

0 × 0 = 0
の状態にする。
これが自然な状態なのだ。

そこには変えようとする意志も、変えるべき状況も消滅している。

これが滅諦である。


 だが、このままだと感情がない人になってしまう。

実は
「そこには変えようとする意志も、変えるべき状況も消滅している」
というのも方便なのだ。

悟りとは、感情がなくなることだろうか。
そうではない。
自然な感情になることなのだ。


初転法輪(しょてんぽうりん)のときの釈尊のことを考えてみてほしい。
釈尊は「コンダンニャはさとった!」と喜んだではないか。
その後も、感情に振り回されることはなかったが、自然な感情を示していた。

また、悟りを開いた釈尊は苦しみの中にいる人を悟りへ導くために、
その一生を捧げた。
人々を変えようとしていたではないか。

0 × 0 = 0
の真理を悟ったとき、その状態を腑に落とすことになる。

その状態を残したまま、その瞬間の自分の正しさを選び続けるのだ。
すべてが0であることを知りつつ、正しく考え、正しい選択をするのだ。

それによって、自然な感情が生まれてくる。

そして、自然な想いも湧いてくる。
「そこには変えようとする意志も、変えるべき状況も消滅している」
というのは、間違いではないが、正確でもない。

そこには
「変えようとする意志も、変えるべき状況も消滅している」
が、代わりに
「変えたいという意志が生まれ、変えたい状況が生じてくる」
のだ。
そこには、苦しみはない。

そこには、
正しさは、相対的なもので、目的によって変る。
目的は意志ごとにある。
意志はひとりひとりにある。
という気付きがある。
つまり、
『本来正しさは、自分だけの正しさなのだ』
という観念に置き換わっているのだ。


 これが本当の滅諦である。


                        さんた ひかる






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最終更新日  May 5, 2013 12:46:41 PM
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