ザビ神父の証言

ザビ神父の証言

2011.07.25
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カテゴリ: 日本史
黒船来航(40)

日本にとっての第2の幸運は、当時の世界情勢にありました。

今まで記してきたように、日本は米国を選んで、粘り強い交渉の末に、1854年に日米和親条約を、4年後の1858年に日米修好通商条約を結びました。そして、最恵国待遇を主張して、米国と同等の条約締結を要求してきた、イギリス、フランス、ロシア、オランダとも、付き合いの長いオランダのアドヴァイスを下に、同様の条約を締結しました。

1870年代に端緒を持ち、1900年前後の時期に頂点に達する帝国主義の時代には、やや早いのですが、1850年代と共に、西欧列強が植民地獲得競争の時代に入っていたことは、間違いのないところです。

そうした状況のなかで、日本はこの危機を堂々と切り抜けました。アジアで植民地化を経験しなかったのは、日本とタイだけでした。このうち日本の場合、江戸時代の経済発展が重要な意味を持ち、そこに資本主義発展の萌芽があったからこそ、明治政府の殖産興業政策がうまく機能したことは、大いに強調すべきと事柄です。

そこに、世界情勢が日本に時間的余裕を提供してくれたのです。 まず、日本と開国条約を結んだアメリカです。御存知のアメリカ社会を2分した大規模な内戦、南北戦争は1861年に始まり、4年の長きに渡って続けられました。この間は勿論、その後1880年頃まで続いた再建の時代を含めて、米国の外への膨張には、ブレーキがかけられていたのです。

次にロシアです。ロシアも米国と並んで、日本との開国条約の締結に熱心でした。そのロシアですが、日米和親条約の締結を挟む時期に、黒海から地中海への進出を目指して、オスマン帝国領への侵出を目指し、英仏両国とクリミア戦争(1853年~56年)を戦い、惨敗したのです。その結果近代化の遅れに気付いたロシアは、1861年に開始する農奴解放をはじめ、大改革と呼ばれた改革の時代に入ったのです。こうして、ロシアの体外発展にも、大きなブレーキがかかっていたのです。

オランダは元々、日本の植民地化という野心を持ちませんでしたから、残るはイギリスとフランスです。
                                    続く





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最終更新日  2011.07.25 21:07:33
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