ザビ神父の証言

ザビ神父の証言

2011.07.31
XML
カテゴリ: 日本史
明治政府の功績と日本資本主義の特徴 (4)

1871(明治4)年、明治政府は廃藩置県を断行しました。版籍奉還後、新政府は次なる方針が固まるまで、旧藩主を知藩事に任命して、奉還された「所領」の管理を一任していました。そのため「廃藩置県」までは、実質的には何も変っていなかったのです。

そんな中で、中央集権体制の確立という大義名分のために、「廃藩置県」を断行したのです。最初はともかく実施をということで、北海道を除く、沖縄までの諸藩を、全て県に置き換え、(そのため、1871年の施行当初は、3府302県もありました。3府は東京、大阪、京都です)そこに中央政府が任命した県令(現在の県知事です)を派遣したのです。当然旧藩主の知藩事は失職、当然藩士たちも失業です。これは大騒ぎでした。

新政府は、中央政府の方針を全国に行き渡らせることが目的ですから、県令には、少数の例外を除いて、旧藩とは関係のない人物を派遣しました。ですから、藩が県に変っただけに見えても、内部は大変革だったのです。

県の数も、次々に整理され、同年晩秋にかけて72県に整理され、その後も漸次統合されて、1876(明治9)年には35県にまで減少しました。これでは、県の範囲が広すぎると、今度はいくつか分県され、1889(明治22)年には、3府43県とほぼ現在並となったのです。

しかし、現在の地方自治を見ても、県令(県知事)だけ抑えても、それで中央の命令が地方の隅々までに届くわけではありません。広い圏域をいくつかに分け、さらに末端の村々にまで、中央政府の意向を染み渡らせるためには、さらにいくつかの工夫が必要でした。

少し遅れますが、こうして整備されたのが、187(明治11)年の郡区町村編成法と、区の多くを市に改めた1888(明治21)年の市町村制の導入でした。この制度の巧妙なところは、県令と郡長は中央政府から派遣されるのですが、市町村長については、地元の推薦に基づき地方の信望厚き名望家を、任命していることです。

即ち名望家たちに、新政府に不満を持つ地元住民たちの説得を押し付けているわけです。地元住民は、日頃世話になっている地元名士の言うこととなると、耳を傾けないわけには、行かないのです。

こうして明治政府は、「廃藩置県」の実行をもって、封建体制からはっきりと縁を切ったのです。そのことのよりはっきりした決着は、1873(明治6)年の地租改正によって果たされるのですが、その前に、もう少し触れたいことがあります。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2011.07.31 20:28:41
コメント(2) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

ザビ神父

ザビ神父

カレンダー

お気に入りブログ

『べらぼう』第45回… New! 5sayoriさん

音声入力な夜 New! kopanda06さん

渡米の目的 2つ?3… New! あみ3008さん

慣例に捕らわれない… New! 歩世亜さん

命とは「身体」その… New! G. babaさん

コメント新着

葉月 生 @ Re:ご無沙汰しました(08/15) 神父さま お帰りなさいませ。 1ヵ月に1回…
kopanda06 @ Re:石破辞任(09/09) お久しぶりです。 降雨の中、高見観音の…
吉祥天2260 @ Re:石破辞任(09/09) どの人見てもなんだかねぇ・・・ 国のこと…
わからんtin1951 @ Re:石破辞任(09/09) テレビを観ていると、総裁選のことばかり…
naomin0203 @ Re:石破辞任(09/09) 世論的には支持があった石破さん。 党内紛…

バックナンバー

・2025.11
・2025.10
2025.09
2025.08
・2025.07

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: