ザビ神父の証言

ザビ神父の証言

2011.12.26
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カテゴリ: 社会風俗
新聞と広告

24日のクロニクルに、貯古齢糖(チョコレート)の発売に、新聞広告が活用されたことを記しました。そこで、ここでは新聞広告の起源について記してみます。それはフランスでのことになるのですが、お読みいただければ幸いです。

新聞の発行は17世紀頃のドイツにその起源を持っています。しかし、新聞が社会的に認知されるのは、フランス革命期のことになります。フランス革命期には、数多くの新聞が発行されますが、その全てが不定期刊行物で、発行部数も数百蕪が限度でした。

最初の本格的日刊新聞は、フランスの新聞王と称された、エミール・ド・ジラルダンが1836年7月に刊行した「ラ・プレス」紙です。「ラ・プレス」は始めて紙面に広告を掲載して販売価格を下げることに成功したのです。

料金をを安くすることで、発行部数を伸ばす戦略を採ったのです。彼はまたアレクサンドル・デュマやウジェーヌ・シューといった、売れっ子作家の小説を新聞に連載する新機軸で話題を
集めました。

こうして「ラ・プレス」紙は売上を伸ばしていったのですが、ニュースの迅速な収集がまだ困難な時代でしたから、売上の伸張にも限度がありました。1848年二月革命直前の時期で、当時発行されていた日刊紙25紙合わせての総売上は、15万部そこそこだったと記されています。

本格的な全国紙の登場は、鉄道輸送の発達によって、パリで印刷された新聞を素早く地方都市でも販売することが可能になった1860年代になってからのことです。明治維新直前の時期です。

ナポレオン3世が帝政の自由化政策(一般に自由帝政と呼びます)を採った事もあって、新聞発行も自由化された頃です。1863年創刊の「ル・プチ・ジュルナル」紙は、予約購読に基礎をおかず、街頭での販売や駅売りを基本として、値段を他紙の半値の1スー(5サンチーム、日本円にして50円くらい)にし、政治的主張には一切加担せずに、三面記事を大きく扱うといった安価な大衆情報紙を装って成功し、帝政末の69年(明治2年)には30万部を売上げ、20世紀初頭には、発行部数100万部を達成する勢いを示しました。

同紙に対抗した「ル・プチ・パリジャン」紙も1890年(明治23年)に50万部、第1次大戦直前の1913年には130万部超の発行部数を記録しました。

状況は英・米・独でも同じでした。フランスに5年程度の遅れで、ほぼ同じような道を歩きました。こうして、ラジオの登場以前の段階では、広告が伝える内容を含めて、新聞が大都市の情報を地方へ伝播する役割をになっていたのです。






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最終更新日  2011.12.26 21:05:16
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