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中学時代の同級生である喜多麻呂君から引っ越した旨のメールを貰ったのは昨年の11月24日のこと。その時は単なる引っ越しと思っていたのだが、年賀状を書く段になって、その新住所をよく見ると介護サービス付きの高齢者向け住宅であることに気がつきました。 年が明けてからだと記憶するが、彼に電話して気候がよくなったら、銀輪散歩を兼ねて訪ねる旨を伝えていて、そのようなことをブログ記事か友人間のメールかの何処かに書いたのでもあったか、それに対してブロ友であり同じく同級生でもあるひろみちゃんから、「その折にはご一緒させていただきたいのでご一報ください。」というようなコメントを頂戴したのを記憶している。 尤も、過去記事を少し調べたが、そのような記事やコメントが発見できず、現時点では確認できていない。 それはともかく、先日彼に電話を入れ、4月19日に訪問したいが都合はどうかと尋ねたところ、OKだとのこと。 そこで、ひろみちゃんにも電話したら、彼女もOKとのことであったので、二人で彼を訪ねることとする。 ヤカモチはMTB(マウンテンバイク)かCB(クロスバイク)で銀輪散歩、彼女は車でドライブとなると、現地待ち合わせしかないこととなるので、折衷してヤカモチは軽量折りたたみ自転車のトレンクルに変更し、外環状道路六万寺交差点付近で落ち合い、そこでトレンクルを車に積み込み彼女の車で喜多麻呂君のもとへと向かうことに決定。 ということで、昨日(4月19日)は、喜多麻呂君を訪ねて来ました。 喜多麻呂君と会ったのは2022年5月16日の恩師井〇先生の墓参が最後であるから、それ以来ということで、ほぼ2年ぶりの再会になる。<参考>佐保川ウオーク 2019.3.31. 中学時代のクラスメイトと恩師墓へ 2022.5.17. 中学同期関係の過去記事はコチラ。 彼、喜多麻呂君は2019年3月の中学クラスメイトによる佐保川ウオークでも、足が痛くて長い距離は歩けないとかでウオーク後の宴席だけの参加であったのだが、22年から23年にかけて一層状況悪化が進んだようで、現在では要介護4レベルと認定される状況にあるとかで、しばらく会わないでいた間に車椅子生活となってしまっていたのでありました。 ヤカモチも最近は腰痛の所為で長距離の歩行は困難。身体のケアを怠ると要支援、要介護の状況に陥りかねないので、要注意ではあります。 それはさて置き、施設の彼の部屋に通していただき、彼とひろみちゃんとヤカモチでしばしのミニクラス会でありました。 午後1時過ぎから3時過ぎまでの2時間ほど、あれやこれやのとりとめもない雑談で旧交を温めました。 帰途は、大泉緑地を過ぎた野遠石原町交差点付近で車から降ろしていただき、ひろみちゃんとは別れてヤカモチは銀輪行に切り替えであります。 道は既に中央環状線に入っているので、これを進むだけ。道端でトレンクルを組み立て出発。 中央環状線美原ロータリーでそのまま東に直進すると外環状道路に至り、往路と同じコースを逆に辿ることとなったのだが、中央環状線は美原ロータリーで90度カーブして北向きに変わる。道なりに中央環状線を大和川まで進む。新明治橋を渡り、大和川右岸の自転車道に入り、これを上流へと走る。(大和川) 前方の橋は大正橋。橋の向こうには二上山。 新明治橋の上流側の橋が大正橋。何やら安易な名前の付け方のような気がする。もう少し近づいてみると。(同上) 大正橋から更に上流へと走ると、昭和橋、ではなく新大井橋。(同上) この新大井橋から外環状線を左に走ればいいのだが、そのまま上流へと土手道を進む。 新大井橋の上流側に橋に並行して送水管のようなパイプが2本、川に渡されていて、それが作る日陰が出来ていたので、しばらくそこで休憩。(同上) 前方には、国道旧170号が通る河内橋が見え、その向こうには、柏原市庁舎とリビエールホールの建物が見えている。 河内橋をやり過ごし直進、近鉄道明寺線の踏切を渡った先の安堂交差点脇にある、高橋虫麻呂の河内大橋の万葉歌碑に、久しぶりにご挨拶して行くことにする。(高橋虫麻呂歌碑) 安堂交差点から、近鉄安堂駅前経由、太平寺交差点から国道旧170号に入り、スーパー万代の角で西に入って恩智川沿いの、馴染みの銀輪散歩道を走ることに。 恩地の、元・喫茶ナナ、現在はスパイスなんとかというインド料理店の前を通過し、外環状線道路と合流する手前にある元パチンコ屋の敷地内でタバコ休憩。コロナ禍でパチンコ屋の倒産・廃業が増えているようで、我が家の近所でも知る限りで3店舗が姿を消しているが、このパチンコ屋さんもその類か。 タバコを喫いながらスマホを見ると、ひろみちゃんからラインメールが入っていました。自宅に到着した旨を知らせるメール。当方は未だ恩地付近である旨返信。ここから自宅までは、更に30~40分程度かかる見込み。 彼女は、その日のうちに今回の件をブログに記事アップされているので、そのリンクを貼って置きます。併せご覧ください。<参考>堺市へ中学の同級生を訪問 2024.4.19. ということで、帰路は2時間半程度の銀輪散歩を堪能できました。
2024.04.20
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昨日(4月3日)は健人会の集まり。囲碁例会と重なってしまったのだが、囲碁の方は欠席させて貰って健人会の方に出席することに。 生憎の雨であったが、大津市、石山寺近くにある料亭新月へと向かう。 いつの頃よりか、健人会の集まりは料亭・新月でというのが定番となっている。 料亭新月のJR最寄り駅は石山駅。 石山駅前に料亭からの送迎バスが来てくれるので、これを利用する参加者は11時55分までに石山駅に行けばいいという次第。 ヤカモチの場合、路線検索で調べると、自宅最寄り駅の近鉄枚岡駅10時14分発の電車に乗れば、大和西大寺駅・JR京都駅乗り換えで11時36分または11時51分に石山駅に到着できることになっている。 ところが、家人が5月3~5日に関東方面を旅行する予定があり、新幹線の切符を途中のJR京都駅で購入してくれないか、という依頼を受けたので、時間に余裕をみて、早めに家を出ることとした。 1時間半ほども早く家を出たものだから、京都駅みどりの窓口での切符購入の人々の列に並んで30~40分の時間を費やしても、石山駅到着は1時間余も早い到着となってしまった。 京阪電車側改札口近くの喫茶店に入って時間を潰すことにする。 珈琲を注文していると、平〇氏の姿が目に入る。同氏は「1時間、時間を勘違いして早く来てしまった」とのこと。 ということで、同氏と珈琲しながらの二人しての時間潰しでありましたが、あれやこれやの雑談でそれと気づかぬうちに時間は愉快に経過。 11時50分近くになったので、店を出てJR側の改札口前に向かう。 すると、参加者皆さんが既に全員到着されていて、最も早くに着いた我々二人が最も遅い集合ということになってしまったのでありました。 送迎バスで料亭新月に到着。(料亭・新月 今年3月19日記事掲載写真の再掲載) この日は本降りの雨。 上掲の写真は3月15日にJR石山駅から瀬田川・宇治川沿いにJR宇治駅まで銀輪散歩で走った時に撮影のものです。 健人会の新月での集まりは昨年10月18日以来でありましたからほぼ半年ぶりということになるが、ヤカモチは、19日前にこの新月の前を自転車で走ったばかりなのでありました。 さて、この日の参加者は、杉〇氏、只麻呂氏、平〇氏、草麻呂氏、岡〇氏、今〇氏、徳〇氏、北〇氏、竹〇氏、森〇氏、平〇Jr氏、生〇氏、正〇氏、〇庭氏とヤカモチの15名。 世話役の草麻呂氏の開会の挨拶と先頃杉〇氏の奥方がご逝去されたことからそのご冥福、哀悼の意を表しての献杯、続いて岡〇氏のご発声による乾杯で12時15分宴席開始となりました。 杉〇氏、只麻呂氏、正〇氏、今〇氏、竹〇氏などの近況その他の報告があったほか、ワイワイガヤガヤの例によって例の如くの気の置けない、いつもの宴会であります。(玉手箱?) 乾杯の後、運ばれて来たのは玉手箱・・? 女将から「石山寺のナントカカントカ」という説明があったが、よく聴いていなかったので、ヤカモチはその内容を思い出せない。 玉手箱を開けてみると・・前菜。(前菜) と、ここまで書いて、食レポは「吾事ニ非ズ」のヤカモチ。その柄でもないということに気付き、方向転換であります。 次々と運ばれて来る料理を次々と平らげ、さて、何を食ったのかも記憶が曖昧。窓の外の桜でも撮ってみるか。(瀬田川畔の桜)(同上) はい、ご覧のように外は雨、花見もままならないのでありますが、部屋の内からの、遠目の花見であります。 ほぼ五分咲き、満開前ではありますが、十分に楽しめる程度の咲きっぷりであります。 昨年10月の健人会の折に、次回会合の日が4月3日と決まったことから、その日のブログ記事で「また花の ときにぞ逢はむ 思ふどち みなすこやかに あれと願ひつ」と詠んだヤカモチでありましたが、他用でご欠席のお方も含め、多少の病気の危機も一部にはあったようですが、それも乗り越えて、皆さんそれなりにお元気で、再会を果たせたことは、めでたしめでたしでありました。桜花 咲ける盛りに 逢はむとて 雨は降るとも われ参り来し (偐家持)<参考>健人会・新月にあふみの人と過ごしける 2023.10.18. 午後3時少し前、次回の会日を8月5日と決めて散会となりました。 帰り際に、お土産として料亭から頂戴したのが、新月監修の「大納言小豆粥」。このお土産は昨年2月15日の健人会新年会の折にも新月さんから頂戴していることが、過去記事から判明しました。<参考>健人会・遅ればせの新年会 2023.2.16. その過去記事では、この小豆粥について「委細は承知せず」と記載しているのみでありましたので、今回は委細を紹介して置くこととします。(大納言小豆粥) と言っても、同封の説明パンフレットの写真を掲載するだけのこと。(同上・説明パンフレット)(同上) 写真では字が小さ過ぎて読めないというお方は、画像をクリックしていただくと、大きいサイズのフォト蔵写真が別窓で開きますので、それでお読みいただければ、と思います。 要するに龍谷大学と料亭・新月との「産学協同」によって生まれたのがこの小豆粥であるということであります。(同上) 龍谷大学農学部は瀬田川を渡った先にあるので、料亭新月とは川向のお隣さんみたいなものでありますから、お隣さん同士の協力で生まれた商品という訳であります。<参考>健人会関係過去記事はコチラ。
2024.04.04
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昨日(2月17日)は若い頃からの親友の一人である野〇氏邸を訪問して来ました。 発端は昨年12月14日の彼からの電話。 久しぶりの電話であったが、それによると肺に水がたまって呼吸困難になるという重大事態に陥り、救急車で搬送されるということがあり、それは適切な救急医療の措置により、軽快したのであるが、その際の検査で小腸から大腸への連結部にガンが見つかり、その摘出手術を受けることになったとのこと。 7時間にも及ぶ手術だったそうだが、幸いその手術もうまく行き、他への転移も今のところは認められないということで、術後の経過観察は適時に要するものの、無事に退院でき、現在は自宅に帰っているという話であった。 彼と直近に会ったのは一昨年の12月のことであったので、そんな大変なことになっていたとは露知らずで、大変驚きました。 すぐにも見舞に行くと言ったが、もう年末でもあるから、年が明けたらまたこちらから連絡するので、食事でも一緒にしようというのが、彼の言でありました。 で、年が明けて日程を調整する中で、彼が指定して来たのが昨日の2月17日であったという次第。 そして、彼のご自宅にお伺いして、一緒に鍋でも囲んで食事を、ということになったという訳である。(大阪市西区役所) 午後3時の待ち合わせであったが、早くに最寄り駅に到着してしまったので、土佐稲荷神社に立ち寄ったり、近くの喫茶店に入ったりして時間調整をして・・。(土佐稲荷神社)(同上) 思えば、一昨年の12月に彼の自宅に招かれて食事を一緒した時にも、土佐稲荷神社に立ち寄って時間調整しているのでした。<参考>囲碁例会・銀杏散る道 2022.12.7. 土佐稲荷神社 2013.6.9. 若い頃は、年に一度ヤカモチの方が彼を自宅に招き、食事をするということが続いていたが、いつの頃からかそれが途絶え、一昨年12月と今回と、ここ2回は、彼の方が自宅に招くということが続いていることになる。 さて、時間調整するも、少しくらい早くても許容される範囲だろうと、約束の時間よりも15分ほど早い時間に、彼のマンションの玄関チャイムを押すこととなりました(笑)。 迎えてくれた彼には、病やつれなどの感じはなく、お元気そうな様子であったので、先ずはひと安心です。 昔のことのあれやこれや、最近の出来事のあれやこれや、共通の友人、知人のことのあれやこれやを、酒の肴にしての、とりとめもないお喋り(と言っても下戸のヤカモチですから、アルコールは最初の乾杯の一杯だけで、後は専らウーロン茶でしたが・・)。 美味しいお料理と奥様の行き届いたおもてなしも受けて、愉快で楽しいひとときを過ごさせていただきました。ヤカモチとしては、病気見舞いのつもりでお伺いしたのであったが、まるで快気祝いみたいで、こちらが元気をもらったような感じで、時間は瞬く間に過ぎ、午後7時近くになったので、おいとまをすることとなりました。思ふどち まさきくもあれ 常磐なる 松のさ枝を 結び願はな (松家持) 野〇氏のご健勝を心からお祈りします。
2024.02.18
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嗚呼、悲しい。何と悲しいことか。 ブロ友のfurano-craftさんがお亡くなりになられました。 一昨日(10月19日)午後5時20分、furano-craftさんから電話が入りました。先般、同氏にお送りした柿のお礼のお電話かと、電話に出ると、同氏の奥様の声でした。一瞬、何やら不安な不吉な予感が走りましたが、果たして、それは「主人が亡くなりました。」という訃報でありました。葬儀も済まされ、一段落されてのお電話であったのだと思うが、「ヤカモチさんが送って下さった柿が主人が口にした最後の食べ物でした。美味しいね、と喜んでいました。」という奥様の話。 それは、9月下旬に富良野産の玉ねぎ、カボチャ、ニンニクをお送りいただいたことへのお礼にお送りした柿である。9月22日生前の同氏にそのお礼の電話を差し上げた際に柿をお礼に送るとお約束したのでした。この時は体調が悪い時もあるが、まあ元気にしています、とのことであったので、まさかの急逝であります。思えば、それが彼の声を耳にした最後であったのだ。 馴染みの果物店に発送を依頼して置いたのだが、発送されたのは10月の10日前後であったよう。果物店から「急ぎますか」と聞かれ、「早いに越したことはないが、それ程急ぐというものではない。」と答えたのであったが、もう少し遅いと間に合わなかったかもしれなかったのであった。 「そうですか。柿は間に合ったのですね。残念で悔しく悲しいけれど、それはせめてものことでした。」そんな会話はお互いどうしても涙声にならざるを得ず、声が詰まってしまうのでありました。 furano-craftさんとは、2013年3月6日からブログ上の交流が始まりましたので、10年7ヶ月余のお付き合いであったことになる。 同氏は、京都のご出身で、2008年に京都から富良野に移住。この地に工房を構え、木工作品の製作・販売のお仕事を始められました。 詳しいことは下記をご覧ください。<参考>furano-craft氏のブログはコチラ。 同氏開設の木力工房・富良野麓郷庵(富麓庵)のHPはコチラ。 ヤカモチとの交流が始まったのは2013年であるから、移住5年が経過した頃のことであったということになります。 同氏との交流の中での思い出としてエピソードを二つあげると、その一つは、今は亡き智麻呂氏に関係する、ジャガイモの話。 2015年元日、大阪では珍しい雪の降る元旦、furano-craftさんからジャガイモが宅配で送られて来ました。配達の青年が上衣もフードも降りしきる雪で真っ白になり、まるで雪だるまのような姿で届けて下さったのが印象に残っている。段ボール箱を開けると沢山のジャガイモがゴロゴロ。<参考>降る雪と共に来たれる北の芋 2015.1.2.(降る雪と共に来たれる北の芋) これの一部を智麻呂さん宅にお裾分けとしてお持ちしたことから、話が始まります。智麻呂さんがそのジャガイモを絵にされ、ヤカモチにお礼にと下さいました。<参考>第154回智麻呂絵画展 2015.1.15.(智麻呂絵画) これを額に入れて、furano-craftさんに送ると、同氏はご自分のアトリエに飾り、それをブログ記事にアップされました。<参考>ブロ友さんの「けん家持さん」から頂いた「智麻呂画伯の絵画」 2015.1.26. その智麻呂さんも昨年2月にご逝去。 その追悼記念文集を編纂していた折に、furano-craftさんからお電話をいただくということがあり、ジャガイモの縁で何か寄稿いただけないかとお願いしたら、快くお引き受け下さいました。(寄稿文) もう一つのエピソードは、よく北海道富良野に旅行される友人の岬麻呂さんが、当ブログでfurano-craftさんのことをお知りになり、同氏の工房をお訪ねになるなどして、親しくなられたことです。<参考>友人十色 2016.7.15. 岬麻呂旅便り191・木力工房、富良野、美瑛、大雪旭岳 2016.7.19. 岬麻呂旅便り193・大雪山系の紅葉とガーデン巡り 2016.10.4. 岬麻呂旅便り199・富良野 2017.1.31. 最初のご訪問は2016年7月14日のことであったということが、上の「友人十色」の記事から判明しましたが、その後、度々お訪ねになられていますから、お二人には波長の合うところがあったのでしょう。ヤカモチもいつの日にか富良野を訪ねて直接にお目にかかりたいものと思っていましたが、なかなかそういう機会もなく、とうとう直には会わぬままで、会えぬままで、furano-craftさんは逝ってしまわれました。富良野への 道は遠みか 逢へぬまま 背子は逝きにし くやしかなしも (偐家持)ありがとう 柿をうまいと 食ってくれ 逝きし友よと 面影に言ふ (偐家持) furano-craftさん、10年余のお付き合いありがとうございました。 そちらでは、智麻呂さんも居られますから、追悼寄稿文にお書きになったように、ご挨拶なさってください。やあ、やあ、と満面の笑みで迎えてくださることでしょう。 憧れて移住された北の大地で15年、本当によく頑張られました。 お疲れ様でした。 どうぞやすらかにお眠りください。<付録>偐万葉・ふらの篇(その10)麓郷の 森はや暗く なりゆきて 夕陽わづかに 木(こ)の間(ま)にこぼる (森家持)今日もまた よき日なりけり よき仕事 終へて森より 妻待つ家へ (森家持) (20201111工房から見る麓郷の夕陽)これやこの 行くも来(きた)るも コロナ禍の 難波大阪(なにはおほさか) 痛し痒しも (偐家持)コロナ禍も よしとし生きて よきどちと よき年にせむ よき人よく生く (偐武天皇)(本歌)よき人の よしとよく見て よしと言ひし 芳野よく見よ よき人よく見つ (天武天皇 万葉集巻1-27) (20210101賀正)ブログ記事 書かずにあれば 如月の 十五日(もち)もいつしか 過ぎてありけり (高橋鳥麻呂)(本歌)富士の嶺(ね)に 降り置く雪は 六月(みなづき)の 十五日(もち)に消(け)ぬれば その夜降りけり (高橋虫麻呂 万葉集巻3-320)麓郷の 森の小さき 工房も 秋には十年(ととせ) 迎へまくよしも (偐富良麻呂)(注)迎へまく=迎へむ+アク(形式体言)。迎えるであろうことはや十年(ととせ) 北の大地に 住み住みて 手ぶりも北の それとやなりぬ (偐富良麻呂)(注)手ぶり=手振り、手風。立ち居振る舞い。(本歌)しなざかる 越に五年(いつとせ) 住み住みて 立ち別れまく 惜しき夕(よひ)かも (大伴家持 万葉集巻19-4250) (20210223木力工房10th anniversarry)蜜蝋の ともし火ゆらぐ ひとりごと 疾(と)く冬支度 せよとや聞こゆ (偐家持) (20211103本格的な冬が来る前に) 木力工房創立10周年に寄せて詠める木の力(ちから) 信じ富良野に 十年(ととせ)われ 今日(けふ)までひたすら かけてぞ来(こ)しか (山部富良人(やまべのふらひと))(注)「かけて」=「駆けて」と「懸けて」を掛けている。工房は 山部(やまべ)となりて きもあらた 次の十年(ととせ)も 駆けてぞ行かむ (山部富良人)(注)「きもあらた」=「気もあらた」と「木もあらた」を掛けている。 (20211111 furano-craft) 智麻呂追悼記念文集へのふら麻呂の寄稿に寄せて詠める歌1首さやあかね むすぶえにしの ありがたく ふらのにけふも ともまろがゑみ (やかもち) (20220908ジャガイモ・さやあかね)<参考>過去の偐万葉ふらの篇はコチラから。 木力工房のホームページはコチラから。 当ブログの木力工房関連記事はコチラから。
2023.10.21
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今日は健人会の日。前回の集まりが5月末日であったので、4か月半ぶりの再会ということになる。 この会はヤカモチが勤務していた会社のOB有志の集まりであるが、滋賀県在住、滋賀県内事業所勤務経験ありなど滋賀県になんらかのゆかりのある人たちが中心となって立ちあげた集まりであるが、大阪府在住、滋賀県内事業所での勤務経験なしのヤカモチがメンバーになっているように、会員資格については四角四面なことは言わないというものであったらしく、いつの頃からか誘われてヤカモチもメンバーに名を連ねるようになっている。 最近は、石山寺近くの料亭「新月」を会場とすることが多く、今回もその例でありました。 世話役の草麻呂氏から、料亭からの送迎バス利用の方は石山駅11時45分集合でお願いします、というメールがはいっていたので、それに間に合うように路線検索で出発駅、乗換駅の発着時刻、到着駅の到着時刻などを調べて心づもりをしていたが、予定よりも10分早い電車に乗ったので、石山駅へは11時4分と早過ぎる到着となりました。 ヤカモチの場合、JR石山駅へは、近鉄・枚岡駅→大和西大寺駅・乗り換え→近鉄・京都駅・乗り換え・JR京都駅→石山駅というルートとなる。 西大寺から京都へは、木津川、宇治川、鴨川と三つの川を渡ることになるので、車窓からこれらの川を撮ってみようと思いつく。(木津川) 先ず、木津川を渡ります。(宇治川) 次に、宇治川を渡る。 この川の上流が瀬田川であり、料亭「新月」は瀬田川の畔にある。 次に渡るのが鴨川であるが、鴨川にさしかかったところでシャッターボタンを押すべきところ間違って電源ボタンを押してしまったので、シャッターチャンスを逸して撮影失敗。 近鉄・京都駅に到着。 ホームに降り立つと、向かいに特急「あをによし」が停まっていました。(観光特急・あをによし) この電車は何度か見かけているが、乗ったことはない。 京都から石山までは、4駅(山科、大津、膳所、石山)。 後の新快速よりも先に着くというので、やって来た各駅電車に乗車。(JR石山駅) 石山駅に到着。 料亭・新月と書かれた送迎バスが到着。乗車予定者も全員そろったので新月へ出発。 今回の出席者は、只麻呂氏、平〇氏、鯨麻呂氏、岡〇氏、徳〇氏、今〇氏、森〇氏、竹〇氏、正〇氏、生〇氏、北〇氏、〇庭氏、平〇Jr氏、世話役の草麻呂氏にヤカモチの15名。 美人の女将さんのご挨拶があり、草麻呂氏の司会進行で開宴。只麻呂氏のご発声で乾杯。あとは、酒とご馳走で、いつも通りのワイワイガヤガヤの昼席宴会。楽しく愉快なひと時でありました。(瀬田川・料亭「新月」2階からの眺め) 平〇氏の締めのご挨拶があり、次回は来年の4月3日に集まりましょうということが決まり、2時40分頃の散会となりました。また花の ときにぞ逢はむ 思ふどち みなすこやかに あれと願ひつ (偐家持)<参考>健人会関係過去記事はコチラ。(注)掲載写真は画像をクリックすると大きいサイズのフォト蔵写真が開くようにリンクを貼っていますが、9月21日から続いているフォト蔵のシステム不具合が未だ解消されていないため、表示されません。不具合解消までお待ち下さい。
2023.10.18
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今日は大学法学部の同窓会、青雲会の総会の日でありました。 昨年と同じく会場は、大阪新阪急ホテル。 第1部 10時30分~11時15分総会 第2部 11時20分~12時20分講演 第3部 12時30分~14時30分懇親会 というプログラム。(大阪新阪急ホテル) 直近3年はコロナの所為で、第3部の懇親会なしが続いていたので、懇親会開催を伴うフルスペックの総会は4年ぶりのことになる。 出席者は70名余。 コロナ前は100名を超える出席者があったと記憶するが、コロナが一段落したとは言え、出席者数はコロナ前の水準には戻っていないよう。 ヤカモチの同期では佐〇君だけ。それでも久々に顔を合わせる先輩、後輩諸氏との再会もあって、懐かしいことでありました。(総会、開会前風景) 定刻、第47期の坂〇氏の司会進行で開会となり、福〇会長の開会ご挨拶などの後、総会議事に入り、何れも異議なく承認可決となりました。 引き続き、第2部の講演会。講師は、大阪大学名誉教授・微研財団特任顧問の三成賢次氏(第28期)で、演題は、「大阪大学の現状と課題」という講演でありました。 講演終了後、紫の間に移動して、懇親会。(懇親会・開会前風景) 第3部の懇親会は、最長老の出席者である第5期の的〇氏のご発声による乾杯で開会となり、恒例のアトラクションのビンゴゲームなども復活し、楽しいひと時を過ごしました。 そして、中締めは「大阪締め」。この「大阪締め」方式を当総会の中締めに持ち込んだのは、第22期の山〇氏であるが、もう10年以上もこのやり方が恒例となっている。今回も、その山〇氏のご発声で、 「打ちましょう」、チョンチョン。 「もひとつせぇ~。」、チョンチョン。 「祝うて三度」、チョチョンがチョン。 ということで、総会は、めでたくお開きとなりました。 総会終了後、同期の佐〇君と喫茶店に入って暫し雑談。 そこで、「二つの天満宮」と題する彼の論考と言うか、エッセイと言うか、彼が最近に或る雑誌に寄稿したという一文のコピーを頂戴した。 帰宅して読んでみると、日宋貿易など宋との関係や、宋という国についての評価が不当に低いというようなことに着目しての一文であるが、なかなか面白い論考でありました。<参考>過去の青雲会総会関連記事 2022年青雲会総会 2022.7.16. 青雲会総会で梅田まで銀輪散歩 2021.10.3. 2019年青雲会総会 2019.7.20. 青雲会総会2018 2018.7.21. 2017青雲会総会 2017.7.15. 2016年青雲会総会 2016.7.16. 青雲会総会2015 2015.7.11. 青雲会60周年記念総会 2014.7.19. 青雲会総会2013 2013.7.13. 同窓会総会 2012.7.14. 同窓会総会 2011.7.10. 同窓会総会 2010.7.10. 同窓会総会 2009.7.11.
2023.07.15
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今日は健人会の集まりで、石山寺近くにある料亭・新月へ。 JR石山駅前での料亭の送迎バスが11時55分発なので、それに間に合うように駅前に集合という案内であったが、路線検索によって予定していた電車よりも早い電車に乗ったものだから、11時6分に到着。 改札を出ようとしたところで、同じく早い到着の杉〇氏と会い、改札を出たところで、既に到着の草麻呂氏が待って居られて、合流。 京阪電車の石山駅との連絡橋の広場にある芭蕉さんの像に久しぶりのご挨拶をして行く。(松尾芭蕉像) この像は当ブログ過去記事で紹介済みであるが、久々なので再掲載して置きます。<参考>健人会2015年夏 2015.9.2.(同上副碑) 副碑に記載の、義仲寺、幻住庵、石山寺境内芭蕉庵などは、当ブログ過去記事でも紹介していますので、下記<参考>をご参照ください。<参考>行く夏も近江の人と惜しむべき(続) 2012.8.30. 義仲寺余聞-木曽殿と背中合せの暑さかな 2012.8.31. 幻住庵へ(上) 2013.9.6. 幻住庵へ(下) 2013.9.7. 石山寺散策(続) 2015.9.4. 雑談をしているうちに、徳〇氏、〇庭氏、平〇氏、平〇J氏、竹〇氏、生〇氏、北〇氏、只麻呂氏が来られ、最後に森〇氏が到着して、バス組12名が全員集合。(JR石山駅北口・・料亭のバス車内から撮影) 駅北口に待機の料亭のマイクロバスに乗り込み、出発。 料亭・新月に着くと、別ルートで到着済みの岡〇氏と鯨麻呂氏が、既に部屋に入って居られました。 ということで、この日の参加者はヤカモチを含み全14名。 欠席は、正〇氏と今〇氏の2名。 5人組ウオークのメンバーでもある鯨麻呂氏とは、同ウオークも長らく休止していたこともあり、同氏が健人会も直近連続して欠席されたこともあって、久々の再会。お元気そうなお顔を拝見できて、嬉しいことでした。 平〇氏の乾杯のご発声で、いつもながらの楽しいお喋りとご馳走の会が始まりました。 杉〇氏、只麻呂氏、鯨麻呂氏からの近況報告のあと、各自が順番に近況報告。それぞれに愉快な野次も飛んで、楽しいひと時でありました。 朝の間は雲の多い空模様でありましたが、会が終わる頃には青空が広がるお天気となっていました。瀬田川の 青葉の風や 思ふどち い群れて居れば うれしくもあるか (偐家持)(料亭・新月から望む瀬田川)(同上) 次回の集まりは10月18日(水)とするということを決めて、散会となりました。(料亭・新月) JR石山駅前までマイクロバスで送って頂き、草津、近江八幡方面帰宅組の皆さんとは石山駅で別れ、京都、大阪、神戸方面帰宅組の皆さんと一緒に電車に。徳〇氏と竹〇氏とヤカモチの3人は同乗の皆さんと別れて、京都駅で下車。何処へやら立ち寄るという竹〇氏とは京都駅改札を出たところで別れ、徳〇氏とヤカモチは近鉄特急であれやこれやを語らいつつ大和西大寺駅へ。 西大寺駅で奈良線に乗り換え、学園前駅で同駅下車の徳〇氏と別れ、自宅に帰着したのは午後5時半頃になっていただろうか。 かつては、愛車のトレンクル持参で参加し、京都駅から自宅まで自転車で帰るというようなこともしていたヤカモチであるが、このところは、そういうことをしなくなっているのは、年齢の所為で気力・体力が衰えているということでもあるか。<参考>健人会関係過去記事はコチラ。
2023.05.31
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昨日(5月18日)は、友人のオガクニマン氏と大阪南港、咲洲のインテックス大阪へ。 最寄り駅の近鉄枚岡駅から生駒駅に行き、そこで地下鉄中央線・コスモスクエア行きに乗り換え、コスモスクエア駅でニュートラム住之江公園行きに乗り換えて、中ふ頭駅で下車というのがこの日のルート。 11時48分ニュートラムの中ふ頭駅着の電車で行くことにすると前日に電話連絡し、駅近くで待ち合わせということにしたが、オ氏の姿がない。 待ち合わせ時刻は12時であったので、未だ到着していないということも考えられるが、早くに着いていて何処かで待っているということも考えられるので、早速に電話をしてみた。 すると、既に到着していて、インテックス大阪3号館の前の喫煙所に居るとのこと。そちらへ向かう。(インテックス大阪) と言っても、インテックス大阪は1号館から6号館まである広い場所なので、入り口を入ってスグのところにある案内所で喫煙所の場所を教えて貰ってから其処に向かう。 上の写真の正面建物を通り抜けた先の中庭の向かい側が3号館で、その右手に喫煙所があるという。 喫煙所に入ろうとしたところで、オ氏からの着信。後ろを振り返れとの指示、振り返るとオ氏が手を挙げていた。 何やら列を作っている人が並ぶ中にオ氏が居た。お弁当を買い求める人の列であった。で、ヤカモチも並ぶこととし、特製焼肉弁当なるものとお茶をゲット。中庭のベンチで先ず腹ごしらえ。 ここにやって来た理由は、第3回サステナブルマテリアル展を見学するため。というか、この展示会のVIP招待券なるものを姪の夫であるH君から貰っていたからである。どんな様子なのか見学に来たという次第。 オ氏とご一緒することとなった経緯は、5月5日の記事で少し触れているので省略しますが、オ氏から電話がありこの展示会を見に行くというので、ヤカモチも同行することにしたもの。(第3回サステナブルマテリアル展会場風景)(同上) ところで、H君は姪の夫であるから甥ということになるのか。 血縁の関係ではないから、義理の甥(nephew in law)ということになるが、妻の甥も義理の甥ということになるから、「義理の甥」と表現するよりも、姪の夫(husband of my niece)と表現するのが適切であるか。(同上)(同上) 多数の企業が出展していて、来場者も多数。それぞれの出展ブースでの真剣な熱いやりとり。 ご隠居ヤカモチが当の昔に忘れてしまっている「熱気」が行き交っていました。(同上) H君が経営する会社も出展企業の一つで、彼も自身のブースで、ひっきりなしの訪問者の応対や説明に奮闘。 初日の17日は昼ごはんも食べられないほどに多忙であったとか。 それがどれほどのビズネスチャンスに結び付くのかは知らないが、結構なことである。 そんな様子なので、彼とは短い立ち話で切り上げることに。 商談の貴重な時間を潰しては申し訳ないことになるというものである。(同上) これは、他のブースの人達に対しても言えることで、これは何であるかなどの質問も、招かれざる客であるヤカモチが口をさしはさんで彼の時間を奪うことは一種の営業妨害、慎むべきこと、差し控えるべきことと思った次第である。(同上) それに、こういう人が沢山写り込む写真というのは、その顔を消し込むなどの修正を加える必要があるので、作業が大変、花や野の景色や歌碑を相手にしている方が、ブログ的には楽である。(同上)(同上) ということで、見学もそこそこに会場を後にすることとしました。 どこかで珈琲休憩でも、と思ったが、レストランの入口も人の列。 こんなに多くの来場者では、先ほどの昼食のお弁当を買い求める人の列といい、ゆっくり珈琲を、という店もあるまいと、始めの喫煙所に立ち寄ってタバコを一服するだけで済ませました。 ヤカモチの友人もタバコをやめた人が増えているが、オ氏は数少なくなった喫煙派の友人の一人なので、気楽に付き合える面があると言えるのかもしれない(笑)。 オ氏とはあれこれ雑談を交わしながら地下鉄本町駅までご一緒し、そこで地下鉄御堂筋線に乗り換える彼と別れる。ヤカモチは往路と同じ経路を逆に辿っての帰宅でありました。
2023.05.19
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今日(5月5日)午後、石川県珠洲市付近を震源とするかなり強い地震があったようですが、大きな被害が出ていないことを祈ります。 能登半島の先端にある珠洲市はヤカモチは未だ訪ねたことがない土地であるが、その名は大伴家持の歌によって夙に承知している町である。珠洲すずの海に 朝開あさびらきして 漕こぎ来くれば 長浜の浦に 月照りにけり (大伴家持 万葉集巻17-4029)(珠洲の海に、朝船出して漕いで来ると、長浜湾に月が照っている。) 昨日(5月4日)は、大阪市内、大江橋北詰近くの喫茶店・なかおかで友人のオガクニマン氏と会って来た。 姪の夫のH君を紹介するのが、一応の用向き。オ氏とは電話で時々話をしているので、長らく会っていないという気はしなかったのであるが、コロナ禍になってからは直には会っていないので、何年かぶりの再会であった。 H君を交えて三人でしばし雑談でありました。少し早くに着いたので、中之島公園をぶらりしてから待ち合わせの喫茶店に向かいました。(中之島まつり) 中之島中央公会堂の方に向かうと、屋台が沢山並んでいた。 中之島まつり、というイベントであるらしい。(同上) 映画祭も開催されていたり、子どもむけの「手作り迷路」や「紙芝居コーナー」もあったりと、賑やかなことです。(同上) 何やら場違いなところに紛れ込んだ気分もあって、難波橋北詰近くの堂島川沿いの遊歩道の日陰になっている場所へと人混みから退避。 イベント会場からはかなり離れているので、そこで暫く休憩。 そこから、対岸の中之島公園の方向を見やると、バラ園の先の建物の屋上に大きな青りんごのオブジェ。(屋上の青りんご) 少し早いが、と待ち合わせ場所の喫茶店へと向かう。 この喫茶店は、何年か前まで大学の同窓会・青雲会の交流センターがあったビルの近くにあるので、そこで月1回開催される囲碁の例会に参加する時には、よく昼食場所とした店である。 現在は青雲会交流センターは無くなって、同窓会の囲碁サークル例会の会場は泉の広場近くにある梅田囲碁センターに変更されているので、ここからは遠い。 また、昨年2月から7月まで大阪第一検察審査会の審査員に選任されていたので、月に2回開催される審査会の日には、裁判所から近いこともあって、決まってここで昼食をとったのである。 喫茶店に入ろうとしていると、店の前でオ氏と出くわす。 しばらくオ氏と旧交を温めていると、時間調整をしてやって来たのであろう、H君が定刻直前に店に入って来た。 オ氏は色々と顔も広いので、H君のビジネスにとっても有用な紹介をいただけるのではないかと、顔つなぎと言うかお引き合わせしたという次第。 そして、今日(5月5日)は、生駒市在住の叔母宅を訪問。 これは、知り合いからメロンが送られて来たので、そのお裾分けをするから取りに来い、という叔母からの一昨日の電話に応じての訪問である。 生駒へ向かうべく、最寄り駅の枚岡駅前までやって来ると、踏切の先に太鼓台。一昨日の墓参の記事で触れた小太鼓まつりの太鼓台のようです。(小太鼓まつり) この踏切をこちら側に渡り、更に坂道を上った先で左折、枚岡神社へと向かうのであるが、小太鼓まつりなるものをヤカモチは未だ見たことがないので、どんな様子なのかは存ぜずであります。 今回も、往路も、復路も枚岡神社の方へは回らなかったので委細は知らずのままであります。 生駒駅前で昼食を済ませ、叔母への手土産を近鉄百貨店で買って、ブラブラと叔母宅への坂道を上って行く。 叔母は今年90歳であるが、元気に一人暮らしをしている。 一時は碁に興味を持って習い始めたりして、時々相手をさせられたりしたものだが、最近は見切りをつけたのか興味を失ったのか、碁をしようとは言い出さなくなっている。 このところ叔母宅はご無沙汰していたので、しばし、叔母のご機嫌伺いでありました。 先日、ブロ友の龍の森氏が庭に咲いたタツナミソウの写真を記事にアップされていましたが、叔母宅の庭の片隅にもタツナミソウが咲いていました。(タツナミソウ)(同上)
2023.05.05
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昨日15日は健人会の新年会で、大津市石山まで出かけて参りました。 本来は1月25日開催であったのだが、この日はうっかりして他の予定を入れてしまってダブルブッキングとなってしまい、欠席する旨の返信を返していました。ところが、この日は大雪で運休など交通も乱れたようで、開催を延期することとなり、3週間遅れの2月15日開催となった旨のメールが世話役の草麻呂氏からあり、ヤカモチも出席できることとなった次第。 昼食会の宴会なので、12時開会ということで、JR石山駅前11時30分集合、いつもの会場、料亭・新月の送迎マイクロバスに同乗して、新月に向かうという段取り。 刻限までに石山駅に到着するにはとネットで調べると、最寄り駅の近鉄・枚岡駅発9時56分の電車に乗ればいいということが分かり、そのつもりでいたところ、9時47分発の一つ早い電車に間に合う時刻に枚岡駅に到着してしまった。(近鉄・枚岡駅) 上掲の写真は、昨日撮影のものではなく昨年5月に撮影のものです。 昨日は、やって来た電車に慌てて飛び乗り、駅を撮るヒマがなかったので、古い写真で代用です。駅の眺めは左程に違いもないから、問題なかろうという次第。 で、車内に乗り込んで目に飛び込んで来たのは、これ。(鹿仕様の電車) これは、若草山山頂付近での鹿と少女のイラストが描かれたドア内側であります。どういう趣旨のラッピングカーなのか存じ上げないが、奈良公園の鹿だらけの車内風景でありました。(同上・つり革にも鹿がいる。) つり革にも、鹿が取り付けられていて、面白い眺め。 何日か前に、娘が通勤の電車内で撮影したスマホ写真で、このつり革のことは知っていたので、「ああ、これが娘の言っていた電車か」と思った次第。(同上・座席の背もたれは鹿の子マダラ) 車内全体の雰囲気はこんな感じ。(同上・車内全体の眺め) 大和西大寺駅で、京都行き特急に乗り換え。 京都でJR線に乗り換え、石山駅には11時20分頃の到着。 徳島から参加の只麻呂氏の到着を待ち、同氏到着で、料亭・新月から徒歩圏内にご在住の岡〇氏を除く14名全員が揃い、送迎のマイクロバスにて、新月へ。 この日も寒く、時々雪が舞うお天気。 料亭・新月に到着。 2階の部屋に上がり、上着を脱いでハンガーに掛けようとしている時に、右手上腕から手先にかけて、ズ~ンという感じの重たい痺れが発生。 昨年の年末近くあたりから、右手や右足に時々「痺れ」が生じて不快なのであるが、痺れが2~3分程度の短い時間で収まることや手指を折り曲げたりする運動機能に変調は生じていないので、脳梗塞によるものではなく、頚椎から来ているものだろうと思われる。一応、整形外科には受診しているのであるが、今のところ軽快はみられない。 さて、この日の出席者は、世話役の草麻呂氏、杉〇氏、只麻呂氏、平〇氏、岡〇氏、今〇氏、竹〇氏、森〇氏、徳〇氏、正〇氏、〇庭氏、生〇氏、北〇氏、平〇J氏とヤカモチの15名。 草麻呂氏の挨拶に続き、平〇氏の発声で乾杯、いつもながらの無礼講宴会と相成りました。 草麻呂氏からの指名で、平〇氏、只麻呂氏、竹〇氏とヤカモチによる近況報告のスピーチなどもありましたが、気の置けない仲間うちの集まり、てんでにワイワイガヤガヤであります。あらたしき 年の初めに 思ふどち い群れて居れば 嬉しくもあるか (道祖王 万葉集巻19-4284) 午後3時散会。(瀬田川) 上掲の写真は、新月の2階の部屋から、散会直前に撮影した瀬田川。 右手前の車は、新月の送迎バス。 料亭・新月からのお土産。(小豆粥) 新月監修による「小豆粥」のようですが、委細は承知せずであります。(同上) 送迎バスで石山駅前へ。 ヤカモチは、一つ早い電車に乗り遅れた正〇氏、森〇氏、生〇氏と京都駅まで同乗し、京都駅で皆さんと別れる。 ところが、京都駅のホームに降り立ったところで、右足に重たい痺れ。何とか歩けるが、とても不快な症状。 で、直接の帰宅を取り止め、生駒駅で乗り換えて、新石切駅へ。石切生喜病院へ直行です。病院に着く頃には痺れがかなり収まっていたが、念のためMRI検査を所望し、検査の予約を取ってもらう。医者は頚椎のレントゲン写真から、痺れは頚椎に起因する可能性が高いという意見であり、痺れを抑える薬リリカOD錠とビタミン12を補う薬メチコバール錠の処方を受ける。 ということで、今日、午後7時半にMRI検査を受けに行くことになっています。<参考>健人会関連の過去記事はコチラ。
2023.02.16
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元部下であった相〇君からメールがあり、何年かぶりで彼と会うことになった。彼は千葉県在住。この9月に会社を定年退職したので、関西方面を旅行するついでに時間が許せばお会いしたいという内容。 彼と会うのは、多分10年以上、ひょっとすると20年以上も前以来かもしれない。 ということで、大阪駅前の新阪急ホテルのロビーで待ち合わせることとし、どこかでランチでもということになる。 彼はヤカモチより9歳年下、新入社員として入社した最初の直属の上司がヤカモチであったということで、連絡をくれたのだろうと思う。 何年か一緒に仕事をした後、支店、営業所の総務担当として転出し、一時期、他の会社に勤務した後、再び当社に戻って来たという、ちょっと変わった経歴の持ち主でもあるが、無事会社人生を全うして、めでたく定年退職を迎えたという次第。 天気もよしで、ヤカモチ・スタイル、CB(クロスバイク)で大阪へ。 囲碁例会と同じコース取りで、大阪城公園経由梅田スカイビルまで。 大阪城公園を通り抜ける際に、こんなものが目に入りました。(横手雪まつり 巨大なカマクラ 右手奥が大阪城ホール) 秋田県横手市の人たちの手で造られたカマクラが大阪城公園に出現。 どういう趣旨のものか存じ上げないが、「横手雪まつり」という表示もあり、横手焼きそばなど、横手市関連のものを販売するテント張りの店が並んでいました。(雪だるま) 向かい側には雪だるまも。 横手から雪を運んで来たのか、それとも人工降雪機で雪を作ったのかは存じ上げないが、滅多に雪の降らぬ大阪に、大量の雪であります。 ざっと眺めて、退散。 銀杏並木にさしかかったところで、パラパラと細かい雨。 天泣とも言うそうだが、お天気雨、狐の嫁入り、である。 少し様子を見ようと、木陰で雨宿り。 見上げるとモミジバフウの木の下にいたのでありました。(大阪城公園のモミジバフウ) 濡れるほどではなく、すぐに止む。 再び、CBを走らせる。 天満橋を渡り、滝川公園、大阪天満宮、梅新交差点、桜橋交差点、出入橋交差点を経て、梅田スカイビルへ。 新阪急ホテルと梅田スカイビルとは少し距離があるが、勝手知ったる梅田スカイビルの駐輪場ということで、ここに駐輪することに。 徒歩で新阪急ホテルに向かう。10時40分、サントルとかいうロビーラウンジで珈琲を飲みながら待っていると、相〇君がやって来て、そこで暫く歓談。若い頃に比べて少し顔がふっくらした感じの相〇君でありました。 阪急三番街に移動して昼食、喫茶店に移動して珈琲。2時間余を共にしたアト、家の宗教が真言宗なので東寺に立ち寄ってから帰るという彼と別れて、梅田スカイビルに戻り、CBでヤカモチも帰宅の途に就く。 有朋自遠方来、不亦楽乎 友あり遠方より来たる、また楽しからずや、でありました。
2022.12.11
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先月29日、馴染みの喫茶店「ペリカンの家」でほんわかかなさんのハーモニカコンサートがあり、参加して来ました。 詳細は、下記のYouTubeでご覧のなれますのでどうぞ。 ※ペリカンの家ハーモニカライブ(ほんわかかなさんのハーモニカコンサート)<参考>ペリカンの家関係記事はコチラ。
2022.11.01
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今日、久しぶりに喫茶・ペリカンの家に立ち寄り、ランチ。 すると、こんなチラシを頂戴した。来月10月29日にハーモニカのコンサートをペリカンの家で開催するとのこと。ヤカモチの来月の予定表を確認すると、この日は特段の予定なし、ということでヤカモチも参加させていただくべしで、一応予約しました。(和みのハーモニカアーティストほんわかかなLIVE&お楽しみ会) 店主のももの郎女さんのお話では、偐山頭火さんやひろみの郎女さんにも来ていただきたいので、お誘いくださいとのことのようでしたが、ブログ記事にアップすれば、自ずとご両名の目にも止まるだろうと記事にする次第。 収容人員に制限があるので、予約制になっているようです。 ご参加ご希望のお方は、下記へお電話にてご予約ください。 喫茶・ペリカンの家 電話:072-988-6681 2022年10月29日(土)15:00開場、15:30開演(ペリカンの家略地図) ペリカンの家も久しぶりだが、MTB(マウンテンバイク)で走るのも久しぶりでありました。 このところは、CB(クロスバイク)で走ることが殆どなので、MTBの出番がなかったのだが、今日はMTBで出かけてみたのでした。 ペリカンの家を出て、少し走ったところで、カチャッと何かが落下した乾いた音がした。振り返ると後方にライトが落ちている。ハンドルに取り付けるプラスチックのグリップが割れて、外れ落ちたのでした。 馴染みの自転車屋さんに立ち寄り、新しいライトを購入、取り付けてもらいました。この自転車屋さんには先日から我がトレンクルが入院しているのであるが、メーカーから届いたという部品を見せていただいた。破損したのは連結部の台座だけなのだが、ハンドルそのものも取り換えになるようで、ハンドルの形をしたそれを見せられた。 トレンクル君の退院も近いようです。<参考>ペリカンの家関係過去記事はコチラ。
2022.09.15
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友人のご子息がお亡くなりになった。 今夜が通夜で明日が告別式。 何と悲しく、心痛きことか。 友人の心に寄り添いて・・。わが背子が 乗れる船かも 西空に 弓張月の 渡り行く見ゆ (偐家持) 今夜は半月。上弦の月。弓張月である。 小夜更けて、西空にかかっているのが見えました。(弓張月・2022年9月5日夜) 掛ける言葉も見つかりませんが、衷心よりお悔やみ申し上げますとともに、ご子息のご冥福をお祈り申し上げます。 ご遺族の皆さまに、神のご加護と慰めのありますように。
2022.09.05
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今日は、健人会の納涼昼食会。 今年1月19日の新年会以来の参加なので、皆さんとは7ヶ月ぶりの再会である。会場は、その新年会と同じで、大津市・石山寺の近くの料亭「新月」で、正午開会。 JR石山駅前での送迎バス発車時刻11時35分という案内に合わせて、家を出る。今回もトレンクルによる銀輪散歩はなしで、電車での往復である。<参考>健人会新年会 2022.1.21. JR石山駅に到着すると、2階改札前の通路に既に数名の方が集まって居られました。地元の岡〇氏は料亭「新月」の徒歩圏内にお住まいなので、彼を除く出席予定者全員が揃ったところで、送迎バスに移動。(JR石山駅) JR石山駅の南口側、京阪・石山駅との連絡橋広場に芭蕉像があるが、送迎バスは北口側に駐車しているので、芭蕉さんにはご挨拶せぬままにバスに乗り込みました。(帰りは南口で送迎バス降ろしていただいたので、その気であれば、芭蕉さんにご挨拶可能であったが、彼のことは忘れてしまっていました。)<参考>石山駅前の芭蕉像の写真掲載記事は下記です。 またも唐橋 2013.1.17. 石山寺散策(続々) 2015.9.5. 今日の出席者は、只麻呂氏、平〇氏、岡〇氏、徳〇氏、今〇氏、草麻呂氏、森〇氏、竹〇氏、平〇J氏、正〇氏、〇庭氏、生〇氏、北〇氏とヤカモチの14名。 地元の岡〇氏が最後に来場されて全員集合。世話役の草麻呂氏による開会の挨拶の後、平〇氏の発声で乾杯。アトは例の通り、いつもの通りのワイワイガヤガヤの宴会。(瀬田川) 料亭「新月」の部屋からの眺めです。 左側が上流・琵琶湖方向、右側が下流・宇治方向。<参考>瀬田川・宇治川の銀輪散歩記事は下記参照。瀬田川・宇治川銀輪散歩(獺の祭見て来よ瀬田の奥) 2014.3.12.瀬田川・宇治川銀輪散歩(わが庵は都のたつみ) 2014.3.13.瀬田川・宇治川銀輪散歩(もののふの八十宇治川の) 2014.3.14.瀬田川・宇治川銀輪散歩(秋の野のみ草刈り葺き) 2014.3.15.(同上・上流、琵琶湖・唐橋方向) この会が終わり次第、米子へ友人とゴルフをするための3泊4日の旅に立つという正〇氏の都合に合わせた訳でもないのだろうが、いつもより早い2時半での中締めとなりました。 今回出席の最年長者只麻呂氏による締めの挨拶でお開きとなり、送迎バスで石山駅へ。 京都駅で皆と別れて近鉄に乗り換え、大和西大寺へ。 大和西大寺駅は、先月(7月)の8日以来。7月8日と言えば、安倍元首相が銃撃によってこの駅前で殺害された日。<参考>鈴木清方展 2022.7.8. 西大寺駅の改札前通路(2階)からは、その場所が一望である。(近鉄大和西大寺駅北口、安倍元首相が銃撃された場所) 来月27日に安倍さんの国葬をすることになっているが、今日閣議で予備費から2億5千万円をあてることが決定されたとのこと。 国葬についての根拠法もなく、国葬とは何であるのかが曖昧。国民にも反対意見や疑問視する意見の方が多くなりつつある。何故、政府・自民党葬ではなく国葬とする必要があるのか。銃弾に倒れたことや最長の在任期間であったということだけではその理由にならない。政治家としての評価も分かれている。桜の会やモリカケ問題・公文書改竄事件なども誤魔化してウヤムヤにしたまま逃げたとかアベノマスクなどの愚策もあった。アベノミクスも成果を上げたのかどうか、国民にとってどうであったのかは評価もイマイチ。要は、決して国民的尊敬を集めた政治家とは言えない。加えて、国葬決定に至るプロセスも説明も適切を欠く。ヤカモチは反対ですな。と言うより頗る不快である。(枚岡神社) 最寄り駅の近鉄・枚岡駅で下車して、枚岡神社の前を通ると、参道にずらりと提灯の列。 何があるのだろうと思ったら、燈明祭だそうな。毎年8月の第4日曜日に行われる行事とのこと。ということは、今年は28日(日)である。 今日の健人会で、平〇氏が越中八尾の風の盆のことを話されていたが、十数年前、この枚岡神社で「おわら風の盆」の踊りが奉納されるというので、見に行ったことがあったことを思い出した。 あれは、この燈明祭に奉納されたものであったのか。今年も同じく「おわら風の盆」踊りなんだろうか。その後、この燈明祭を見ていないので、その辺のところは不明である。<参考>おわら風の盆がやって来た。 2008.8.24.<参考>健人会関連の過去記事はコチラ。We stand with Ukrainians.(STOP PUTIN STOP WAR)
2022.08.26
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今日は大学の同窓会の総会。 例年だと第一部総会、第二部講演、第三部懇親会の三部構成なのだが、コロナ禍ということで、今年も昨年に続き、懇親会は取りやめとなり、総会と講演のみ。 会場は、大阪駅前の新阪急ホテルの「花の間」。10時30分開会。 昨年は、銀輪散歩を兼ねての自宅から梅田まで自転車移動であったが、今日は雨が降るかもということで、電車で移動。(青雲会総会・新阪急ホテル「花の間」) 出席者は50名程度。通常は少なくても100名を超える出席があるのだが、懇親会がないということで、昨年同様に出席者は少ない。 会長の開会の挨拶、活動報告、決算承認、予算承認などの議事が滞りなく終了。 ヤカモチはもう20年以上、毎年総会には出席している。ヤカモチが同窓会の会長をやらされたのは2007年4月から2009年3月までであるから、もう13年前のことになる。会長の任期は2年なので、現会長は、ヤカモチの後任会長から数えて7人目の会長になる。年月の歩みは速いものである。 ヤカモチの同期では佐〇君が出席。同期会も長らく休会となっているので、佐〇君と顔を合わせるのも久しぶりである。(同上・第二部講演) 第二部は、「コロナ対策を振り返る」と題して、大阪大学感染症総合教育研究拠点特任教授の大竹文雄氏による講演。 同氏は行動経済学・労働経済学の専門家。コロナの専門家会議にも行動経済学の専門家として参画されて来たお立場も踏まえての興味深いお話を拝聴することができました。 講演終了後、「う~ちましょ、チョンチョン。もひとつせ、チョンチョン。祝うて三度、チョチョンがチョン」の「大阪締め」で締めて散会となりました。青雲会総会の懇親会の中締めでこの「大阪締め」を持ち込んだのは某氏。何年前であったか、当時の副会長の某氏がこれで締めたのが最初で、以来、この「大阪締め」で締めるのが習いとなっている。 散会後、同期の佐〇君と近くの居酒屋に移動して昼食。 佐〇君は、昨年11月に宇佐神宮を訪ねたことから、道鏡事件などに関連した小論を或る会報に掲載することとなったとして、その全文を打ち出したものを手渡し、ヤカモチの感想を聞かせて欲しいとの仰せ。 まだ、読んでいないが、称徳天皇も道鏡も大伴家持の同時代人。 その論考とあれば、ヤカモチもなにがしかの感想を述べなくてはならないのだろう。という訳で、宿題を貰ってしまった今日の総会でありました。
2022.07.16
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今日、5月17日は中学時代の恩師・井〇先生の命日。 先生がお亡くなりになったのは2003年であるから、もう19年も前のことになる。 昨日(16日)は、中学時代の同級生、喜麻呂君、谷麻呂君、ひろみの郎女さんたちと恩師のお墓参りをして来ました。 クラスメイトと一緒にお墓参りをするのは3年ぶりである。 毎年5月に集まってお墓参りをするのが恒例になっていたが、コロナ禍で集まりは中止となり、お墓参りも休止となっていました。 尤も、ヤカモチは、今年1月早々にお墓参りをしているので4ヶ月ぶりに過ぎないのではある。<参考>恩師17回忌・墓参 2019.5.12. 2022邂逅展と恩師のお墓参り 2022.1.6.(恩師墓)(同上) 墓参の後は、ひろみの郎女さんが予約して置いて下さった、ピザ・レストランのアルナッジョでランチ&ミニクラス会でありました。 ひろみの郎女さんとは、若草読書会その他何だかんだで顔を合わせることも多いのであるが、喜麻呂君、谷麻呂君とは久しぶりの顔合わせで、旧交を温めました。(アルナッジョ) ランチを済ませて、恩師宅へと向かいましたが、お留守にて奥様とお目にかかることはできませんでした。 仕方なく生駒駅で解散となりました。<参考>中学同期関係の過去記事はコチラ。 ひろみの郎女さんのブログの関連記事はコチラ。We stand with Ukrainians.(STOP PUTIN STOP WAR)
2022.05.17
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今日は、友人、故・山〇君の追悼記念式、しのぶ会に出席して来ました。 山〇君はヤカモチの高校時代の後輩であると共に、会社時代には長年にわたって一緒に仕事をした仕事仲間であり、個人的には、彼の結婚式ではヤカモチが仲人を務めさせていただいたというような関係でもある。 昨年2月28日に急逝。その召天1周年の追悼記念式がヒルトンホテル大阪の4階・真珠の間で執り行われました。 彼のご葬儀のことは当ブログでも記事にしておりますので、ご記憶のお方も居られるかも知れませんが、早くも1年が過ぎたのでありました。<参考>till we meet again 2021.3.5. 奥様より、過日、ご案内を頂戴し、出席させていただくことといたしました。 12時半開式ということで、大阪駅前のヒルトンホテル大阪まで出かけてまいりました。 式は、告別式と同様、奥様が所属されている岡山市のキリスト教会の牧師さんの司式で執り行われました。(山〇君召天1周年追悼記念式)(同上・式次第)(同上・式次第) 最後は、列席者が順に遺影の前に献花。(献花) そして、山〇君の奥様の叔郎女さんからのご挨拶。 追悼式の後は食事会。 叔郎女さんからは事前に食事会でスピーチをお願いできないかという打診を受けていて、一応その準備もして来たのだが、食事の途中で行うのかと思いきや、料理が運ばれて来る前にスピーチでありました。勿論、この方がスピーチする側としては、ゆっくり食事に集中できるので有難い。 ところが、最初のスピーチがヤカモチでありました。 山〇君との出会いのことや会社での彼の活躍ぶり、そして仲人を引き受けた時のエピソードなどを紹介し、「出会いは人(生)を豊かにし、別れは人(生)を深くする」という、通りかかった寺の門前で何年か前に目にした言葉や「会者定離ありとはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりけり」という親鸞の歌にかこつけた話の後、いつものヤカモチ式スピーチで「うつそみの人なる我や明日よりは二上山をいろせと我が見む」という大伯皇女の歌を犬養節で朗誦して、「人それぞれに山〇君との思い出に関連したもの、彼の思い出のよすがとなるものがおありになるのではないかと思いますが、それがその人の二上山ということになります。それが何であれ、それを彼と思い、それをよすがとして、こののちも彼のことを忘れないでいようではありませんか。」という締めくくりで、無事スピーチを終えることができました。 ヤカモチの後、外人のアナリストのA氏が流ちょうな日本語で、山〇君のIR(Investor Relations)活動が極めて懇切で質の高いものであったことや彼との交流のあれこれをユーモアを交えてご紹介され、続いて高校同期の友人たち9名(彼らも亦ヤカモチの後輩ということになるが、そのうちのお一人は、ヤカモチが仲人を務めた彼の結婚式の時に司会を務めさせていただいた旨をお話されたのは愉快でありました。)が短く彼の思い出をスピーチされました。 最後にもう一人の外人B氏がスピーチの途中で感極まって声を詰まらせられたのには心を打たれました。 そして、ご馳走が運ばれて来て食事会。 食事がそこそこ進んだ頃に、女性お三人による歌。(花は 花は 花は咲く 女性三人コーラス) 歌は、全部で4曲。美しい声に聞き惚れました。 このうち両サイドの女性は、ヤカモチと同じテーブルでありましたので、親しくお話させていただきました。いずれも岡山のキリスト教会のお仲間だとのことでありました。(歌詞1)(歌詞2)(歌詞3) 続いて、ヴァイオリンの演奏。 最後に、叔郎女さんからお礼のご挨拶。 とても素敵な、いい「しのぶ会」でありました。 山〇君の霊の安からんことを、奥様の叔郎女さんやご子息の善麻呂君に神のご加護と豊かな恵みのあらんことを祈ります。
2022.03.26
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一昨日(19日)は健人会の新年会でありました。 健人会の新年会は一昨年(2020年1月22日)以来のこととなる。 コロナ禍で中止となっていて、皆さんと顔を合わせるのは2年ぶりということになる。 世話役の草麻呂氏から「コロナ感染がやや落ち着いた状態となりましたことを受け会員の中から、新年会開催の要望が出てまいりました。」として、新年会の案内メールを頂戴したのが昨年の11月25日のこと。 この頃はそんな空気であったので、迷わずに出席する旨を返事。 ところが、年明け後オミクロン株による感染急拡大で状況は一変。 再度、出欠の可否を問うメールが入り、どうするか迷ったが、出席することとしたもの。 今回は18名への案内で、出席者は、杉〇氏、只麻呂氏、平〇氏、岡〇氏、徳〇氏、森〇氏、竹〇氏、正〇氏、生〇氏、北〇氏、平〇J氏、草麻呂氏にヤカモチの13名、鯨麻呂氏、木〇氏、今〇氏、川〇氏、〇庭氏の5名は欠席。 新年会は、夜の時間帯に大阪市内の店で、というのがこれまでの通例であったが、今回は、コロナのことも配慮して、夏の納涼昼食会の恒例の場所となっている石山寺近くの料亭・新月での昼食会という形で開催。 新月での昼食会の場合は、愛車の軽量折りたたみ自転車・トレンクル持参で参加し、その前後を銀輪散歩にあてるというのがヤカモチの習慣になっているが、今回はトレンクルは持参せずの参加でありました。 料亭の送迎バスがJR・石山駅前北口広場11時35分発車という案内であったので、それに間に合うように家を出る。 石山駅到着が11時13分。一つ早い電車での到着でありました(当初予定の電車は11時28分着)。 直接に料亭に出向く人2名を除き、全員集合したので、マイクロバスに乗り込む。(瀬田の唐橋の前を過ぎて・・) 会場の料亭・新月は、瀬田川沿い、京阪電車・石山寺駅から石山寺方向に少し行ったところにある。(京懐石・新月)(新月の前から琵琶湖方向<北方面>を望む)(同上・石山寺方向<南方面>を望む) 検温、アルコール消毒を済ませて部屋へ。12時開会。(健人会新年会) 世話役の草麻呂氏の挨拶と昨年暮れに急逝された田〇氏への献杯で開会となりました。<参考>友人の訃報 2021.12.26. 話をする時はマスク着用、互いに酌をしたりはしない、時々窓を開けて換気をするなど感染対策に気を付けての宴会でありましたが、そんなに厳密には守れないのが酒席というもの。やがては・・でありましたが、いつもよりは静かな宴会であったかと。 それはさて置き、どなたともヤカモチは2年ぶりの再会で、懐かしく、楽しく、愉快。 こういう集まりは久々のことであり、まことに心地よい時間を過ごすことができたのでありました。 換気の折に窓の外を眺めると瀬田川。(瀬田川) 左が上流で琵琶湖から流れ出し、右が下流で、京都府に入った何処かで宇治川と名前を変え、石清水八幡宮付近で木津川、桂川と合流して淀川となって大阪湾に注ぐ。 以前、瀬田川沿いを宇治まで銀輪散歩したことがあるので、その記事を参考までに貼り付けて置きます。<参考>瀬田川・宇治川銀輪散歩(獺の祭見て来よ瀬田の奥) 2014.3.12.瀬田川・宇治川銀輪散歩(わが庵は都のたつみ) 2014.3.13.瀬田川・宇治川銀輪散歩(もののふの八十宇治川の) 2014.3.14.瀬田川・宇治川銀輪散歩(秋の野のみ草刈り葺き) 2014.3.15. 獺の祭見て来よ瀬田のおく (芭蕉) と芭蕉が詠んだ瀬田川である。 七十二候の一つが「獺祭魚」で、1月16日から20日までの5日間がこれに当たる。まあ、旧暦の日付であるから、現在の暦の日付では2月半ば頃の5日間ということになるが、それを敢えて無視して日付の表面だけの一致に着目すれば、1月19日のこの日に、獺祭の候の句を取り上げても、的外れということにはならないだろう(笑)。 カワウソは獲った魚を岸に並べる習性があり、それを祖先の祀りに見なして「獺の祭」と呼んだ。 瀬田川はこの奥(下流)、南郷洗堰の先の黒津で大戸川(別名:田上川、信楽川)を合流している。その付近のことを「瀬田のおく」と言っているのであるか。それとも大戸川の上流の甲賀山中のことを言っているのか。 この句は、元禄3年芭蕉47歳の作。「膳所へ行く人に」という前詞に続けてこの句がある。 膳所から伊賀まで芭蕉を訪ねて来た門下の俳人、浜田(治助)洒堂が膳所に帰るに際して、彼への餞別として、彼の帰路のことを思いやって詠んだ句と考えられている。 伊賀から御斎(おとぎ)越えで膳所に帰るとすると、御斎峠から信楽に入り、大戸川上流に出て、田上盆地を経て瀬田川に出るというコースになるか。 句の意味は「折しも獺祭の候である。瀬田の奥で獺の祭を見て行かれるがよろしかろう。」というもの。 目を左に転じると、遠く比良山系の山々が雪化粧した姿を見せていた。(雪化粧の比良の山々) 芭蕉のもとを辞した洒堂が、「瀬田のおく」で「獺の祭」を目にしたかどうかはともかく、この付近まで帰って来て、雪化粧した比良の山々を目にしたことは大いにあり得るかと。膳所はここからはもう目と鼻の先なのである。 獺の祭のあとの比良の雪 (偐洒堂) 午後3時過ぎ、お開き。そろそろ帰宅である。 二次会をという人達ほかを残し、杉〇氏、只麻呂氏、草麻呂氏、竹〇氏、ヤカモチの5名は送迎のバスでJR石山駅へ。 家路が反対方向の草麻呂氏と只麻呂氏とは石山駅で別れ、杉〇氏と竹〇氏とは京都駅で別れ、大和西大寺駅経由で枚岡駅到着午後5時過ぎ。 あべのハルカスの方角に真っ赤な夕日が沈もうとしているところでありました。 昨日(20日)、草麻呂氏から、今後の予定として次のようなメールが入っていました。健人会はまたしばらくは休眠か。 4月上旬の水曜日(桜の時期)<ただし、今年度の開催は難しいかも> 11月上旬の水曜日(紅葉の時期)<新月にて昼食会> 今後の懇親会は、これまでとは異なり、4月と11月に開催とのこと。 また会う日まで、皆々、お元気であれ。<参考>健人会関連の過去記事はコチラ。
2022.01.21
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健人会のメンバーの田〇氏が昨日午前2時半にご逝去されたとの訃報メールが世話役の草麻呂氏から昨夕に入りました。 同氏はヤカモチの会社時代の先輩。ずっと営業部門を歩まれた方で、同じ部署で一緒に仕事をしたということはなかったが、比較的親しくさせていただいたお方であり、退職後は健人会で年2回お会いするというお付き合いでありました。健人会については、ヤカモチは新年会と納涼昼食会だけに参加しているので、同氏とお会いするのも年に2回という次第。 しかし、コロナ禍で健人会の新年会も夏の納涼昼食会も、昨年1月22日の新年会を最後に休止となっているので、同氏とお会いしたのはその新年会が最後ということになる。<参考>健人会の新年会 2020.1.23. 健人会関係の記事はコチラ。 来年1月19日には健人会新年会が予定されていて、同氏とも久しぶりにお会いできるかと楽しみにしていましたが、それは叶わぬこととなりました。 何とも悲しいことであります。 ご葬儀は家族葬で執り行われるとのことで、お別れに出向くことはできませんが、同氏の優しいまなざし、温和な語り口などを思い出しつつ、ご冥福をお祈り申し上げます。 当ブログでは、健人会関係の記事で「田〇氏」として登場されているが、2013年2月20日の記事でご紹介した「パンドラの丘」のことを知ったのは同氏からの情報でした。<参考>パンドラの丘 2013.2.20.パンドラの 丘を知るやと 言ひしきみの 訃報届きぬ クリスマスの日 (偐家持)わが背子の 旅立ちの日ぞ こころあらば いたくな吹きそ 武庫の山風 (偐家持)(God be with you) 同氏からの便りは、下掲の今年の年賀状が最後ということになりました。(田〇氏からの今年の年賀状) こんなことになるとは夢にも思わなかったので、来年元旦に届くであろう同氏宛てのヤカモチの年賀状は既に投函済みである。しかし、彼がそれを目にすることはないのである。合掌。
2021.12.26
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ブロ友のfurano-craft氏から虎と鯛が届きました。 同氏からのプレゼントです。 「虎は強靭な生命力のシンボルでもあり、家運隆盛のシンボル、そして魔除けとのことで2頭に仕上げました。」とのこと。 トラは来年の干支、鯛は目出度いのタイということでありますから、来年のお正月に向けての、心温まる手作り作品の贈り物であります。(跳ぶ虎・右向き面)(同上・反対面<左向き面>) OSB合板を電動糸鋸盤で切り抜いて作成されたシルエット作品。 様々な木材破片を強力接着剤で圧力を加えて固めた集成材がOSB合板ですから、合板表面の模様は様々。同じ型の作品でも表面と裏面とでその表情は異なった印象を与えます。 また、シルエットなので、OSB合板の何やら抽象画のような模様と相まって、色々な想像力も働き、面白い作品になっています。<参考>OSB合板・Wikipedia どちらが表、裏というものでもないでしょうから、その人が気に入った方の面がオモテということになるのでしょうか。ここでは表裏の別をこれとは定めず、右向き面・左向き面と表現することにしました。 虎は、四神獣の一つ、白虎として西を守る神獣でありますが、一日に千里も走るという動物。24時間で4000km走るということは、時速166.7kmの高速で24時間走り続けるというのだから凄い(笑)。 虎の威を仮る狐が出て来るのも無理のないところと言うべきか。(坐る虎・右向き面)(同上・反対面<左向き面>) こちらは、坐る虎。 雌伏する虎ですな。 この言い方に倣うなら、上の跳ぶ虎は「雄飛する虎」である。 跳ぶ虎はオスの虎で、坐る虎はメスの虎ということになるか。 雄飛と雌伏。 ジェンダー平等の観点から言えば、不適切な用語法で、いづれは死語となるのかもしれないと思ったりも。 furano-craft氏は「阿吽」をイメージして、この2頭の虎を切り抜かれたようでありますから、上の「跳ぶ虎」が「阿形虎」で、この「坐る虎」が「吽形虎」ということになるのかもしれません。 「危うきこと虎の尾を踏むが如し」などと、非常に危険なことを冒すことの喩えとして、虎の尾を使いますが、君子危うきに近寄らず、でありますから、虎の尾は踏まないように気をつけましょう。 まあ、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」派のお人はどうぞご自由に。(鯛・右向き面)(同上・反対面<右向き面>) はい、目出度い鯛であります。 鯛焼きでも、泳げたいやきくん、でもありません。 昔々、「タイでエビを養殖」という新聞記事の見出しを目にして、「鯛で海老を養殖」では採算が合わないだろうと一瞬思って、すぐに「タイ国でエビを養殖」の意味だと気づいて苦笑、ということがありましたが、この鯛が天然ものか養殖ものかは存じ上げぬところであります。 以上、furano-craft氏へのお礼も兼ねて記事アップさせていただきました。furano-craftさん、どうもありがとうございました。<参考>furano-craft氏のブログはコチラ。 木力工房関連記事はコチラ。 偐万葉・ふらの篇はコチラ。 フォト蔵アルバム・木力工房関係はコチラ。
2021.12.14
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(承前) 一昨日(6日)、柏原市の問屋場亭で、久しぶりに凡鬼・景郎女ご夫妻にお会いしたことは、前ページ記事に記載の通りですが、その際に、景郎女さんから頂戴したのが次のチラシ。「12人の絵本作家が描く おうえんカレンダー2022 カレンダー原画展」のチラシであります。 (カレンダー原画展のチラシ)※画像をクリックするとフォト蔵の大きいサイズの画面が新しい窓で開きますので、それでお読みください。この場合、PR画像が画面を覆ってしまうことがありますので、当該PR画面の左上または右下の×印をクリックしてPR画面を消去することによって、正常画面を見ることができます。 景郎女さんは、野の花文庫や子どもたちへの絵本の読み聞かせなどの活動を長年にわたってやって居られるが、そのような活動のつながりで、このカレンダー原画展の活動にも関与されているのであるか、「こんなのが開催されるので、PRしてね。」との趣旨で手渡されたものである。 当ブログに記事として取り上げても、いかほどのPRになるのか、心もとない限りであるが、一応ご紹介申し上げます。<参考>(社)応援カレンダープロジェクトの公式サイト 今年は全国7箇所で開催とのことで、10月1日~14日の東京会場での開催を皮切りに大阪市北区、京都向日町と続き4番目の開催が景郎女さんのご在住地の高槻市となっていて、下記の通り開催されるとのこと。 会期:11月12日(金)~14日(日)10:00~16:00 会場:高槻市立中央図書館 (JR高槻駅南口、阪急高槻市駅から徒歩8分) 高槻市桃園町2-1 電話080-1456-8515(角所) 主催:高槻文庫連絡会 ご興味のあるお方、お近くのお方は、どうぞお出かけください。
2021.11.08
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大阪府の柏原市では、毎年11月に、KASHIWARA芸術祭(柏原ビエンナーレ)というのが催される。昨年はコロナの所為で中止になったのではないかと思うが、今年は例年通りに開催された。 パンフレットには「第9回柏原ビエンナーレ」とあるから、10年前から継続開催されているのだろう。 今年の会期は10月30日(土)~11月7日(日)であるから、今日が最終日である。 友人の画家・家近氏は柏原市ご在住ということもあってか、これに作品を出展されている。 一昨年(2019年10月)家近氏から案内のハガキを頂戴して、この催しのことを初めて知り、銀輪散歩を兼ねて出かけたのが最初で、今回は2回目の見学であります。<参考>俳句と絵画 2019.10.25. 家近健二の気まぐれ絵画作品展 2019.11.7. 5日(土)午後に、自宅をマイCB(クロスバイク)で出発、銀輪散歩を兼ねて会場の問屋場亭を訪ねました。 帰宅してメールを開くと、前日に入っていたメールの中に、友人・凡鬼さんからのメールがあり、「6日(土)に家近さんの作品を見に行くがどなたかにお会い出来たら嬉しい。」との文言。このメールに気が付いていれば、5日ではなく6日にしたものを、と思いましたが、元々、銀輪散歩を兼ねての訪問であるから、もう一度銀輪散歩を兼ねて出かけるのに何の不都合もなく、早速に凡鬼さんに電話して、午前11時現地にて会いましょう、と決め昨日6日にも出かけることとしました。 ということで、5日、6日の銀輪散歩を合体させて記事アップとさせていただきます。 5日(金)は、昼食を済ませてからの出発。 会場の問屋場亭は近鉄大阪線河内国分駅の東方にある。 自宅からだと国道旧170号を走るか外環状道路(国道170号)を恩智まで走り、そこから、恩智川沿いの道に入り、旧170号に出るかして、近鉄安堂駅前経由、大和川に至り、少し上流の国豊橋で川を渡り、というコースが近道になるが、車が煩わしいので、近鉄・瓢箪山駅の西付近から柏原市まで恩智川沿いの道を走るというのが、銀輪散歩としての定番コースとなる。 5日も6日もこのコースでしたが、5日は花園中央公園に先ず立ち寄りましたので、花園ラグビー場、東花園駅前経由で恩智川沿いの道に入りました。 恩智川沿いの道では池島遊水池公園の池島弥生橋を通過することになるが、この橋の上から遊水池に飛来する鳥を狙って望遠レンズを付けたカメラを構えている人の姿をよく見かける。(池島遊水池公園のススキの群れ) これを過ぎると、東大阪市域から八尾市域に入る。(鴨と亀) 恩智川を覗くと、中洲のような場所に、鴨と亀が仲良く日向ぼっこ。 水中には大きな鯉も群れ泳いでいる。 問屋場亭到着は午後2時頃。 この日は、家近氏の姿は見えずで、受付当番のご婦人と大阪教育大彫刻ゼミの男子学生さんの二人だけ。家近さんの作品とこの学生さんの作品を写真に収めて退出でした。(家近健二氏作品と松枝道政氏作品)(森嵐氏の作品「水牛」) 学生さんは森嵐というお名前のよう。作品の説明を受けながら少しばかり言葉を交わす。(同上・「ワニの口」) これも同氏の作品。 マチカネワニのことなどを思い出す。(大教大彫刻ゼミのメッセージ) 同じく、大教大彫刻ゼミの宇田昴史の作品がこれ。 「外と中がある作品です。ぜひのぞいてみてください。」とあるが、森君がミニライトで空洞の中を照らしてくださり、中を覗いてみると、何やら幻想的な光景。(宇田昴史氏作品・「空洞」) ヤカモチは、翌6日には、早速この受け売りで、ウェストポーチに入れていた自転車のテールランプ用のライトで空洞の中を照らし、景郎女さん(凡鬼さんの奥方)に同じような説明をしているのでありました(笑)。 会場を退出して帰途へ。 石神社経由でカタシモワイナリー会場を覗いて行く。(カタシモワイナリー会場) ここでは古着や端切れの布を使ったクレイジーキルトの作品が展示されていましたが、写真には撮らず。ここで頂戴したのは折り紙によるこんな爪楊枝入れ。これはよく見かけるが、馴染みの喫茶店であるペリカンの家でもこのパターンの爪楊枝入れですから、それを思い出しました。(折り紙の爪楊枝入れ) 帰途、安堂駅前から少し北へ行ったところで十字架のある建物屋根が眼に入ったので、キリスト教の礼拝堂があるのかと辻を入って行くと、果たしてその通りでした。(グレース宣教会柏原チャペル) 何度も往復している道であるが、今まで此処に教会があることに気が付きませんでした。 花園ラグビー場まで帰って来たところで、喫煙エリアで一休み。(花園ラグビー場前の喫煙エリア) 花園中央公園では一本の木だけハナミズキが綺麗に紅葉していたので撮影しました。ハナミズキは黒ずんだ色になったり、枯れた感じになってしまうことが多く、余り美しく紅葉しないという印象を持っているが、この木だけは日当たりなどの環境条件が良かったのか、美しく紅葉していました。(花園中央公園のハナミズキ) さて、翌6日、凡鬼さんとは午前11時の約束なので、余裕を見て午前9時過ぎに家を出ればいいかと思っていたが、外出の準備もできてしまったので、少し早いがと8時30分か40分頃、自転車・CBを引き出そうとしているところへ、凡鬼さんから電話があり、「家近さんから電話があって、午前中は会場に居ないので午後からの方がいい、ということで午後1時に変更することになった」という話。 なら、アト2~3時間ほど家に居てもいいことになるが、もう「銀輪散歩モード」に入ってしまっているヤカモチ、元々が銀輪散歩のつもりであるから、出かける時刻が早過ぎても問題はない。そのまま家を出てしまいました。 恩智川沿いを走る定番コースで、先ず立ち寄ったのが柏原市太平寺の石神社境内。(石神社の大楠) この付近には、七堂伽藍を備えた大寺・智識寺というのが昔あって、聖武天皇がこの寺の大仏をご覧になって、奈良の都に大仏を造立することを思いつかれたという言い伝えが残されているが、石神社の境内には、その智識寺の東塔心礎と推定される石が鳥居脇に置かれている。(同上・拝殿) 境内の片隅の枇杷の小木が花を付けていて、未だ固い蕾であったが一つだけ、咲きほころび始めていました。(枇杷の花) 藤棚の下で休憩していると、幼い女の子を連れたお母さんが通りかかりました。「おはようございます。」、女の子はビニール袋を手に地面の何かを探す様子。もみぢ葉かドングリでも拾うつもりであるか。 石神社を出て、大和川畔へ。 川沿いの道・国道25号沿いにある柏原市役所の庁舎は、旧庁舎の隣に建設中であった新庁舎も完成したようで、移転も完了、新庁舎での業務が始まっている。 市庁舎前を過ぎ、国道を大和川沿いに南東(上流側)に進むと、これまで何度か利用したことがある喫茶店「マロン」がある。前日(5日)にも帰途に珈琲休憩をした店であるが、「今日(6日)はこの喫茶店で昼食にするか。」と決める。 しかし、時刻は未だ早いので、下流側の人道橋で大和川を渡り、石川自転車道に入ることとする。(石川・臥龍橋の上から下流側を望む。左下は石川自転車道。) 石川自転車道を暫しサイクリング。上流へと走る。 途中で引き返し、臥龍橋で左岸から右岸に渡り、玉手橋まで戻り、玉手橋で再び左岸に移り、柏原市庁舎の前を通って喫茶マロンへ。少し早いが昼食とする。(玉手橋)(玉手橋東詰にある「石川流域の歴史と文化」説明碑) 昼食後、国豊橋へとむかう。 途中、国道25号から脇道に入る。近鉄大阪線の下を潜って、再び国道に出ると、国豊橋である。(近鉄大阪線の下を潜って・・) 国豊橋の手前で、国道25号は、信号待ちの具合で車が渋滞することが多く、この区間だけ歩道が途切れているので、歩道に回避できない。よって、この裏道を抜けて・・というのがヤカモチの常套手段。(大和川河川敷公園 正面の橋が国豊橋 上流側の高みから撮影) 上掲の写真で記述すると、右から左に渡って、河内国分駅である。 この写真は、問屋場亭から更に坂を上って高い場所から後刻に撮影したもので、記述上のヤカモチの現在位置は、国豊橋を右から左に渡っている状況であります。よって、現在のヤカモチさんは写真奥の橋の上から河川敷公園を眺めているということになります。 そして、河内国分駅です。とりあえず駅を駅前の陸橋の上から撮影。(近鉄大阪線・河内国分駅) 駅前から北東、国豊橋の方に戻った辻に地蔵堂がある。(西町地蔵堂) この地蔵堂の裏の道が奈良街道である。尤も、奈良街道は色々あって、ヤカモチの地元の暗峠越えの道も奈良街道である。奈良に通じている道という意味であるから、幾つあってもいいのである。(西町地蔵堂の傍らにある奈良街道の説明碑) この奈良街道を東に進むと、会場の問屋場亭である。 まだ、早いので、問屋場亭の前を通過、急な坂道をCBで駆け上り、奈良街道を少し奥まで進み、迷路のような脇道に入ったりして「徘徊」を楽しむこととする(笑)。(奈良街道の道標) 古びて摩耗が進み、文字が読みづらいと言うか、判読が困難な石の道標がありました。(同上・説明碑) そして、引き返し、問屋場亭に到着であります。(問屋場亭・黒い自転車はヤカモチのマイCB)(問屋場亭説明文) この日は、家近氏のお出迎え。 午後1時きっかりに凡鬼・景郎女ご夫妻到着。(家近健二氏、新よし子氏、松枝道政各氏の作品) 作品を見せていただいた後、家近氏、凡鬼・景郎女ご夫妻、ヤカモチで暫し雑談。 この日は前日と違って、大阪教育大の女子学生さん二人が来て居られてましたが、景郎女さんは彼女たちが製作されたイヤリングやブローチなどの小物作品に興味を示され、幾つかを買い求めるとともに、彼女たちや当番のご婦人と何やら楽しそうに会話されていました。 そして退出。 家近氏とは会場前で別れ、凡鬼・景郎女ご夫妻とヤカモチは近鉄・国分駅へと向かう。ヤカモチもCBを手押ししながらの歩きです。 駅前の喫茶店に入り、珈琲しながらしばし歓談の後、凡鬼ご夫妻とは喫茶店を出たところでお別れし、恒郎女さん宅へと向かいました。 凡鬼さんは家庭菜園で野菜を栽培されていますが、そこでこの日の朝に収穫した里芋を恒郎女さんにお届けしてくれとのご依頼による寄り道であります。恩智川沿いを走るコースだと、別名若草ホールの恒郎女さん宅のすぐそばを通るので、造作もないことであります。まあ、ヤカモチも冬瓜を頂戴いたしましたが(笑)。 そんなことで、友人の絵画に導かれての二日連続の銀輪散歩終了です。 なお、長らく休止の若草読書会でしたが、来年から再開することとし、恒郎女さんと相談の上、1月29日新年会から再開ということに決め、夜遅くにメンバーにメールでその旨お知らせしました。(つづく)<参考>家近健二展関連過去記事はコチラ。
2021.11.07
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昨日(16日)は、大学同期の友人・堀〇君からのお声掛けに応えて、「IRカジノSTOP!10・16市民集会」に参加して来ました。 会場は、阪急宝塚線曽根駅から徒歩5分の豊中市立文化芸術センターの多目的室。午後6時半開会~8時半閉会ということなので、少し早めに行って、曽根駅近くの東光院・萩の寺を訪ね、その後、何処かで夕食を済ませてから、会場に入ろうと考えていましたが、ネットで東光院を検索すると、コロナ対策で同寺の拝観時間は午前10時から午後4時までとなっていることを知る。 午後4時過ぎに寺を訪ね、5時半頃に夕食、6時過ぎ会場入りという当初目論見の修正を余儀なくされました。 ということで、出発を午後1時過ぎに早める。曽根駅到着が午後2時過ぎ。 しかし、さすがに早く来過ぎたようで、時間を持て余す羽目に。 東光院訪問の後、付近を徘徊、豊島(てしま)公園散策、「喫煙処」という札が掛かっている喫茶店で珈琲休憩、会場の市立文化芸術センター向かいのヴァイキングビルの喫茶店で早い夕食。(ヴァイキングビル) 早食いのヤカモチであるが、意識的にゆっくり食べ、食後の珈琲もゆっくり味わいましたが・・。 それでも時間が余り、市立文化芸術センターには午後5時16分に到着してしまった。まあ、道路1本を挟んでいるだけですから、当然ではありますが(笑)。(豊中市立文化芸術センター) 館内をブラブラしていたが、2階のミーテイングルームに何人かの人が入って行くのを見て、主催の「大阪カジノに反対する市民の会」の人たちだろうと見当をつけ行ってみると、果たしてその通りで、堀〇君やその仲間の皆さんが集会参加者に配布するチラシなど各種ペーパーをセットされていた。 で、堀〇君に挨拶するついでに、小生もそれに加わって、少しばかりお手伝い。 定刻に開会。 入場の際にいただいたペーパーセットの中に入っていたのは、こんな手作りのストラップ。(カジノNO) 裏側(まあ、どちらが裏でどちらが表かは分からぬが)は、こんな感じ。(同上)(会場・開会前)(集会のリーフレット) 前半は、カジノ反対団体リレートーク、全国カジノ反対団体からのメーセージ紹介、立憲民主党・日本共産党・れいわ新選組など政党代表の挨拶。 後半は熊谷貞俊氏(大阪大学名誉教授)と桜田照雄氏(阪南大学教授)の対談。 カジノ誘致撤回に成功した、横浜カジノ誘致反対横浜連絡会からのメッセージ紹介では、横浜から贈られた50本の傘が披露されました。(カジノ誘致反対横浜連絡会からのメッセージ)(横浜からの50本の傘) この会主催の集会に参加するのは3回目。 前2回は一昨年のことであるから、2年ぶりのことになる。<参考>〇カジノはあかん!という市民集会に 2019.3.23.〇大阪カジノに反対する市民の会結成1周年記念集会 2019.9.15. さて、おまけの話。 市立文化芸術センターの館内をブラブラしていて、地階から1階へと上がる壁面にマチカネワニの骨格のレプリカが展示されているのに気づきましたので、ついでの掲載です。(マチカネワニ)(同上・少し角度を変えて撮影)(同上・説明プレート)(同上・説明プレート英語版) マチカネワニは大阪大学豊中キャンパス構内で発掘された45万年前のワニの全身骨格化石。 大阪大学の公式マスコットキャラクター「ワニ博士」や豊中市のキャラクター「マチカネくん」となって親しまれている。 豊中市のマンホールもマチカネくんの図柄である。<参考>マチカネワニ・Wikipedia 銀輪散歩・マンホール(その11) 2018.8.5.(ワニ博士)(マチカネくん) 東光院や豊島公園は別途ページをあらためて後日紹介します。 本日は、これまで。
2021.10.17
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ああ、悲しい。 今日は友人山〇君の告別式でした。 奥様からお電話を頂いたのは3月1日。 そのお電話は、彼が逝去したことを告げるもの。告別式を5日午後1時からとり行うので参列いただけるか、というものでありました。 思いもしなかった彼の訃報、わが耳を疑いましたが、それは悪い夢ではなく、悲しい現実。 今年に入って、新型コロナに感染していることが判明し、入院。持病があったことで症状が重症化、ついに帰らぬ人となってしまわれたとのこと。 彼は、ヤカモチと同じ高校の卒業生で、6年後輩になる。 ヤカモチが本社総務部の法務関係の仕事で会社の顧問弁護士事務所に出入りしていた頃、彼は学生アルバイトで同事務所の事務員をしていて、面識を得て親しくなった。卒業を控えて当社を受験するというので、合格したら総務部に迎えたいと思っていたところ、果たしてその通りの成り行きとなり、以来、ヤカモチが退職するまで、ずっと一緒に仕事をして来た仲である。 ある時期からは、広報関係を担当して貰い、総務部を総務部・法務部・秘書部・広報部に分割した際には初代広報部長に就任、大いに手腕を発揮していただいた。 個人的な関係では、彼が結婚するという時に「頼まれ仲人」を務めさせていただいたが、ヤカモチが仲人を務めた最初のカップルが彼ら夫婦であったということで、特によく覚えている。この折のエピソードは以前のブログ記事でも紹介したことがある。 彼と最後に会ったのは一昨年(2019年)の1月13日である。<参考>あらたしき年の始めに 2019.1.14. その年の7月にも友人4人での会食の機会があり、そのうちの一人が彼であったのだが、何やら他用と重なり彼は欠席となったので、会えず仕舞いであったのは、今となっては残念と言うほかない。<参考>旧友との昼食会で難波まで銀輪散歩 2019.7.18. そして昨年はコロナ騒動で、友人との会食は全てアウトで、彼とも会う機会がないままに、今日に至ったという次第。 こんなことになるのなら、もう一度会って話をして置きたかった、という思いが痛切である。かからむと かねてそ知らば いまいちど 君としあひて かたりしものを (偐家持)梅の花 今を盛りと 咲きぬれど 悲しけさびし 君しあらねば (偐家持)(梅田の里山の紅梅<3月3日撮影>)讃美歌の また会ふ日まで 歌ひつつ 哭のみし泣かゆ 遺影の君に (偐家持)(告別式祭壇) 告別式はキリスト教式で行われました。 奥様は岡山のキリスト教会の教会員であるのでしょう。その岡山の教会の牧師さんが司式を務められました。(告別式・式次第)(同上) 密葬は既に済まされていて、彼は既にご遺骨になっている。 従って、出棺前のお別れというのはなく、祭壇に献花するのがお別れの最後の儀式である。 献花は、参列者が讃美歌405番を合唱する中で、順々に。 また会う日まで また会う日まで 神の守り 汝が身を離れざれ (Till we meet,till we meet, God be with you till we meet again.) この歌を歌っているうちに悲しみが一気にこみあげて来て、身体がうちふるえ、涙がとめどなく溢れ、歌も絶句、ただひたすらに悲しいのでありました。 山〇君。病に倒れ、さぞ悔しかったことだろう。 無念だったことだろう。 君とのあれやこれやを思い出しながら、 僕らは、今日、君の死を悲しみ、傷みました。 今は、どうぞ安らかにお眠り下さい。 僕らは君のこと忘れません。 そして、ご家族の皆さまに神のご加護と慰めがありますように。<追記注:2021.3.15.> フォト蔵写真の表示不具合で、ブログ写真とフォト蔵写真とのリンクを貼っていませんでしたが、このほどフォト蔵写真の表示が正常化しましたので、リンクを貼りました。
2021.03.05
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(承前) 前頁記事の続きです。 昼食場所としたのは、東古御香町公園という小さな公園。 3本のケヤキの木が印象に残る公園でありました。 古御香町という名前が気になって帰宅後に調べると、豊臣秀吉が伏見城築城に際して、城内鬼門除けの神として、御香宮をこの付近に移転させたことに関係していることが分かりました。 秀吉没後に、徳川家康によって、神社は元の地である現在地に戻されるのであるが、地元の人たちはこちらの神社を古御香宮と呼んだという。その古御香宮は、御香宮神社のお旅所として今も守られているとのこと。(御香宮神社御旅所<古御香宮>とコース略図) その古御香宮の位置を示すと上の地図の通りです。 黒田長政下屋敷跡参考地から八科峠道標、仏国寺前、東古御香町公園という道を進みましたので、その存在に気がつかぬままであったという次第。 上の地図で、実際に我々が歩いたコース(多分)を青線で記入してみました。少し道に迷って、無駄な歩きをしていることが見てとれるかと思いますが、これもご愛敬であります(笑)。 さて、前頁では東古御香町公園での昼食で終わっていますので、昼食後から記事を始めます。 いよいよ、大岩山展望所・大岩神社への坂道に取り掛かります。(大岩山展望所への道) 険しく、細い山道の先行きを予感させる竹林の道へと入って行くが、竹林を抜けると、予想に反して、道幅もしっかりあり、車が通行できる、眺望の開けた普通の道でありました。さすがに、簡易舗装が所々破砕したデコボコの少し荒れた道ではありましたが・・。(同上) 展望所まで600m、墨染通りまで750mという道標があり、先が急な坂道になっている。 ヤカモチにとってはこの展望所と大岩神社が今回のウオークのメイン・ポイントであるから、それなりに期待が高まる。 坂道を上り切って、左にカーブすると緩やかな下りに入る。 すると、視界が一気に開け、そこに大岩山展望所のデッキが現れたのでありました。ちょっと拍子抜けな感じも。(大岩山展望所) なるほど、感動するほどではないが、なかなかの眺望です(笑)。(大岩山展望所からの眺望・パノラマ撮影) 左手には、先ほどお邪魔した伏見桃山城が見える。(展望所からの眺望・南寄り) 左手奥に見えるのは大阪市内のビル街。(同上・正面) 北寄りにはJR京都駅、京都タワーも見えるが、展望デッキからだと右手の林が邪魔をして見えない。(同上・北寄り) 上の写真(北寄り)では、右手の木々の間に、京都タワーとJR京都駅ビルが、左手には愛宕山が写っています。 展望所から少し下ったところにあるのが大岩神社。(大岩神社) 大岩神社については、下掲の説明碑の写真をご覧下さい。(同上・説明碑)※写真をクリックしてフォト蔵の大きいサイズの写真でお読みください。(同上・本殿) 我々は、展望所から下って来た舗装道路から境内に入ったので、本殿よりも少し高い位置から横入りしたことになる。 本殿から麓に続く参道があるが、倒れた鳥居がそのままになっていたり、何やら荒れている雰囲気なので、舗装道路に引き返して、山を下ることにしました。参道を下ると途中には堂本印象寄贈のユニークな鳥居などがあるそうだが、見ないままに山を下りてしまいましたので、それらは、下記<参考>のサイトでご覧下さい。<参考>LINEトラベル・山中に異世界への門!?「大岩神社」の謎の鳥居とは? 舗装道を下った方が楽だろうという考えで、正規の参道を避けて下山したのであるが、これが正解であったかどうかは何とも言えない。 というのは、かなり急な勾配の坂道であったので、足の指先が靴先内側に何度も強く当たることを繰り返しているうちに、爪先が痛くなって、時々、後ろ向きに歩いて、爪先への圧迫を回避するということをしないでは居られないという有様でありましたから。 そんなこんなで府道35号に出て、ようやく急坂の「爪先責め」から解放されたのでありました。 府道35号に出て左折、西へ。 程なく正規の参道入口の鳥居が左手に見えて来ました。 参道を下るコースだとこちらに出て来るのでした。(同上・参道入口) ※上掲の説明碑はこの入口の鳥居脇にあったものです。 どこかで珈琲休憩をと、喫茶店はないかときょろきょろしながら、緩やかな坂道を下って行く。 ローソンが道路左手にあり、その前方右手、道路の向かい側に菓子舗があり、喫茶コーナーもあるよう。店内に入ってみたが、「只今、3組のお客様がお待ちです。」という表示が店の奥の喫茶コーナー入口に表示されていて、名前を記入するノートが置いてある。 待合空間のソファーなどに数名の入店待ちの男女の姿。随分と盛況のようだが、コロナ対策で入店者数を制限している関係があっての「待ち」客の群れであるとも考えられるので、正確には「盛況」と言うのは当たっていないのかもしれない。 いずれにせよ、待ってまで珈琲は飲むべからず、のヤカモチ。早々に退散であります。まあ、蝶麻呂氏にとっては丁度良いトイレ休憩にはなったようですから、無駄足ではなかったということにはなる。 更に、坂道を下って行くと、見覚えのある辻に出る。 仁明天皇陵への道である。 ここから先は、2018年7月に友人の偐山頭火氏と銀輪散歩したコースと概ね同じ道となる筈である。<参考>深草北陵銀輪散歩 2018.7.23.(仁明天皇陵) 仁明天皇は深草天皇とも呼ばれるが、第54代天皇である。 嵯峨天皇(第52代)の第1皇子であり、母は橘嘉智子。 即位した時には、先帝の淳和天皇(第53代)の皇子、恒貞親王が皇太子に立てられたが、嵯峨、淳和両上皇が没すると、恒貞親王を奉じた伴健岑、橘逸勢らが謀反の罪で処分され、恒貞親王が廃太子となり、代って、仁明天皇の皇子、道康親王(後の第55代文徳天皇)が皇太子となる。 いわゆる「承和の変」である。 道康親王は、藤原良房の娘・順子が産んだ子である。これによって良房は天皇の外祖父として大きな権力を手にすることとなり、藤原氏による摂関政治へと道を開くこととなることから、承和の変は良房の謀略であったと考えられる。まあ、このような政治的転換点の時期の天皇が仁明天皇でありました。 また、宮廷文化が唐風から和風に変わるターニングポイントとなったのもこの天皇の時代だと言われる。 小野小町や在原業平など、この時期の歌人の名を挙げれば、この時代の雰囲気が分るというものではある。 小野小町は仁明天皇の更衣であったという説や百日通いの深草少将は仁明天皇がモデルだという説などがあったりもするが、彼は、深草少将よろしく41歳の若さで急死している。 そして、後を継いだ文徳天皇、清和天皇の時代に摂関政治の定着を見ることになる。因みに、文徳は32歳で病死、清和は31歳で没している。 文徳については、良房による暗殺説もあったりするが、真相や如何にである。 仁明天皇深草陵は、名神高速道路の南側の住宅街の中に目立たずひっそりとある。 御陵を出て、名神高速道路の北側の道に。次の目的地である、嘉祥寺、深草北陵へと向かう。(コース地図・その2) ※ー線:予定コース ー線:実際に歩いたコース はい、嘉祥寺に到着。 2018年7月以来の再訪であるが、記憶では無人の荒れ寺という印象であったが、今回はそんな風ではなかったのは、記憶違いであるか。(嘉祥寺<深草聖天>)(嘉祥寺説明碑) 嘉祥寺というのは、嘉祥3年(850年)に宮中で突然に倒れ急死した仁明天皇の菩提を弔うため、息子の文徳天皇が「嘉祥4年(851年)2月に・・その陵の傍らに清涼殿の建物を移して寺とし」とあるから、元々は、先ほど訪ねた仁明天皇陵の傍らにあった大きな寺であったのでしょうが、室町時代に戦乱で焼亡。 江戸時代・寛文年間(1661~1673年)に深草十二帝陵を管理する安楽行院を再興する際に、その境内に聖天(歓喜天)を祀り、嘉祥寺の名も再興されたとのことだが、それは名前を承継したに過ぎず、仁明天皇の菩提を弔う寺という実体を伴った嘉祥寺ではなかったということであるか。 一般には深草聖天と呼ばれているようだが、道路側入り口の石碑には「日本最初歓喜天」と刻まれているから、わが国最古の聖天寺院ということなんだろう。 聖天さんは全国各地にあるが、江戸時代寛文年間に初めて聖天を祀ったということが事実なら、そんなに古いものではないから、わが国最古というのは大変疑わしい。それとも、聖天信仰は江戸時代になってから流行り出した新しい信仰なんだろうか。 日本三大聖天については、諸説あるとのことだが、 東京都台東区の待乳山聖天(本龍院)と、 奈良県生駒市の生駒聖天(宝山寺)の、二つについては、諸説一致して異論がなく、三つ目については次の四つの聖天が張り合っているらしい。 埼玉県熊谷市の妻沼聖天(歓喜院) 静岡県小山町の足柄聖天(足柄山聖天堂) 三重県桑名市の桑名聖天(大福田寺) 兵庫県豊岡市の豊岡聖天(東楽寺)(深草聖天縁起) 嘉祥寺の西隣が深草北陵である。北朝系の天皇12帝の遺骨が納められていることから深草十二帝陵とも呼ばれるらしい。(深草北陵<深草十二帝陵>) 制札に記載された天皇の名は次の12帝である。 第89代 後深草天皇 第92代 伏見天皇 第93代 後伏見天皇 北朝4代 後光厳天皇 北朝5代 後円融天皇 第100代 後小松天皇 第101代 称光天皇 第103代 後土御門天皇 第104代 後柏原天皇 第105代 後奈良天皇 第106代 正親町天皇 第107代 後陽成天皇 これに、北朝3代の崇光天皇の皇子・栄仁親王の名も末尾に併記されている。 大河ドラマ「麒麟が来る」で登場している正親町天皇の名も見える。 ところで、北朝の天皇というのは、後深草天皇の血筋(持明院統)の天皇のことであり、南朝の天皇というのは、亀山天皇の血筋(大覚寺統)の天皇のことである。 南北朝合一は、第99代後亀山天皇が、北朝6代目の天皇であった後小松天皇に譲位し、後小松が第100代天皇となったことによって、成立するのであるが、以後、北朝・持明院統の血筋が、皇位を継承して行くことになる。 しかし、明治政府が皇位継承の正当性は南朝側にあるとしたことから、北朝初代の光厳天皇から北朝5代の後円融天皇までの5人は歴代天皇を数える際には除外される。 持明院統の血筋が今上天皇まで続いているのであるから、北朝の皇位継承で歴代を数えるなら、今上天皇は第128代天皇ということになるが、歴代の数え方は南朝の皇位継承を正当とするので、第126代天皇ということになる。 ここで、気になるのは、第89代後深草天皇から第107代後陽成天皇までの間の持明院統の天皇で、この深草北陵に名を連ねていない天皇4名の御陵はどうなっているのかということだが、次のようになっています。 北朝初代の光厳天皇と第102代の後花園天皇 京都市右京区京北井戸町丸山の常照皇寺境内の山國陵 北朝2代目の光明天皇と北朝3代目の崇光天皇 京都市伏見区の大光明寺陵 深草北陵から伏見稲荷大社へ。 いよいよウオークも終盤である。(寶塔寺) 寶塔寺の門前を通り過ぎ、JR稲荷駅の前、伏見稲荷大社の大鳥居前に到着しました。 結局、珈琲休憩をする喫茶店に出会うこともなく終着点に来てしまったという次第。(伏見稲荷大社) 蝶麻呂氏は伏見稲荷大社にもお参りをするというので、ヤカモチは駅前の喫茶店で、珈琲休憩をしながら待つこととする。多分、社務所でお札を貰うというのがその目的なんだろう。 ヤカモチはこれまで何度も伏見稲荷大社には来ているので、ブログ記事に取り上げるまでもないと判断してパスしたのであるが、過去記事を調べてみると、意外や意外、伏見稲荷大社の記事はないのでありました。 そういうことなら、少し境内を歩き回ってもよかったかと後悔しましたが、これも亦後の祭りであります。 待つこと20分位であったろうか、蝶麻呂氏が喫茶店に帰って来ました。ヤカモチは2杯目の珈琲を注文し、彼の珈琲にお付き合いしつつ、とりとめもないお喋り。 珈琲を飲み干したところで、店を出て、JR稲荷駅からJR京都駅へ。 京都駅で蝶麻呂氏と別れ、ヤカモチは近鉄線で帰途に。帰宅すると5時半位になっていました。 スマホの歩数計は25985歩。かくて、「蝶に誘われ26000歩」という記事タイトルになったという次第。 つまらぬ男二人の「徘徊」ウオークにお付き合い下さり、どちら様も、有難うございました。これにて完結です。(完)
2021.01.20
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しばらくブログを休んでいましたが、再開です。 先週の木曜日、14日に友人の蝶麻呂氏から電話があり、京都一周トレイルの深草コースを歩いてみようと思うが、一緒にどうかというお誘い。 緊急事態宣言下ということで外出を控え気味にしていたヤカモチでありましたが、このようなお誘いには無抵抗、二つ返事のOKを即座に出しているのでありました(笑)。 その場で実施日を18日(月曜日)と決めたものの、待ち合わせ場所・時刻については追って連絡の筈が、連絡ないままに17日(日)を迎えたので、こちらから催促して、18日・桃山御陵前駅9時41分集合と決まった次第。ということで、昨日テクテク歩きをしてまいりましたので、そのご報告であります。 コースは、桃山御陵前駅→御香宮神社→乃木神社→明治天皇・昭憲皇后陵→伏見桃山城・伏見北堀公園→大岩山展望所→大岩神社→仁明天皇陵→嘉祥寺・深草北陵(十二帝陵)→伏見稲荷大社・JR稲荷駅、というもの。(近鉄・桃山御陵前駅) 路線検索で調べると、桃山御陵前駅9時37分着の電車を利用するには、枚岡駅8時37分発に乗車する必要があることが分かったので、そのつもりでいたが、実際に乗車したのは8時26分発の一つ早い電車。 従って、桃山御陵前駅到着は予定よりも14分早い9時23分。 蝶麻呂氏の到着予定は9時41分なので、18分の待ち時間となる。 駅前の開店準備中の店が並ぶ路地などをぶらぶら。(桃山御陵前駅の駅前の路地 奥正面が駅です。) 蝶麻呂氏の到着を待つ間に、コース地図を紹介して置きましょう。(コース地図・その1 仁明天皇陵まで)※ー線 当初ヤカモチが想定していたコース ー線 実際に歩いたコース 今回のコースで、ヤカモチが未訪問なのは、大岩山展望所と大岩神社のみで、その他は何度か訪れている場所ばかりであるが、蝶麻呂氏は何れも初訪問であるらしい。 その蝶麻呂氏の案内での道行きという心許ない歩きであったが、途中で少し道に迷ってまごつくこともあったものの、概ね順調にコースを辿ることができたのは幸いでした。 定刻に蝶麻呂氏到着。 大手通りを東へ。先ず、御香宮神社。 神社の表門の手前にこんな碑がありました。(「黒田節」誕生の地碑)呑み取りの 槍は惜しめど 返らざる 後の祭りの 酔ひし勢ひ (偐正則) この後、伏見北堀公園を抜けて住宅地に突き当たった処で、黒田長政下屋敷跡らしき場所に出くわすので、ここでこの碑に目が向いたのは、その予兆であったと言うべきか。(御香宮神社・表門) 神社の門らしからぬ姿。 伏見城の大手門が移築されたものだそうだが、いかにも城門の雰囲気である。<参考>御香宮神社 御香宮神社は当ブログでも何度かとり上げていますので、それらもご参照下さい。<参考>伏見散策(乃木神社、大光明寺陵、御香宮神社) 2012.9.21.伏見散策(御香宮神社、伏見奉行所、宇治川) 2012.9.22.夕々の会・伏見散策 2015.11.27.(同上・本殿) 次は乃木神社。 これも、下記<参考>の過去記事を併せご参照下さい。<参考>伏見散策(明治天皇・皇后陵、乃木神社) 2012.9.20.伏見散策(乃木神社、大光明寺陵、御香宮神社) 2012.9.21.(乃木神社・本殿) 乃木神社は、乃木希典を神として祀っているのであるが、そういう側面よりも、学習院の院長時代の胸像や子どもの頃の長州でのわび住まいを再現した旧乃木邸や、乃木希典の生涯を絵解きした何とかという展示館などが境内にあって、人間としての乃木希典を偲ぶという色彩が強く、言わば乃木希典記念館という感じの神社である。(同上・乃木希典胸像)(長府乃木邸)(同上)(同上・説明碑) わが蝶麻呂氏は、神社のお札を収集し始めたのか、先の御香宮神社でもこちらの乃木神社でも、お札を頂戴して居られました。 そういう信仰も趣味もないヤカモチには「御札御朱印吾事ニ非ズ」で何の関心もないのであるが、お札の値段は300円だとか。 京都一周トレイル深草コースでは、乃木神社の後、桓武天皇陵・伏見桃山城方向へと道を北上するのであるが、乃木神社の次は明治天皇陵だろうと、桃山御陵へと向かう。 まあ、ヤカモチとしては、桃山御陵初訪問の蝶麻呂氏なれば、是非にもあの長大な階段を上って戴きたいという親切心であります(笑)。(明治天皇桃山陵の正面階段) これがその階段。 まあ、見ただけでもう上る気が失せるというものであるが、今回は上らなければ、先へとつながらないのである。 息を切らせながら上ると、目の前に明治天皇陵である。(明治天皇陵) 東側の少し低い地に昭憲皇后陵があるので、そちらにもご挨拶申し上げてから、先へと進むことにする。(昭憲皇后陵)<参考>昭憲皇太后・Wikipedia 皇后陵から天皇陵へと戻り、次の伏見桃山城のある公園へと向かう。だらだらの下り坂になっている参道を下って行くと、桓武天皇参道という石標のある道に出る。乃木神社から真っ直ぐに北上する京都一周トレイル深草コースに戻ったことになる。 この道に入る。先を歩いて居られた一人歩きの女性がクスノキの巨木に近づくと、これに抱きつくようにして顔を幹に寄せられました。「大きな木ですね。」と声をお掛けすると、散歩でよく出会うお方がよくされるので、それを真似てみました、というお答え。 伏見桃山城への道に出る。京都一周トレイル深草コースはここで右折し、お城のある公園を通り抜けるようである。 右折せず、直進すると桓武天皇陵であるが、公園へと向かう。 後で聞くと、蝶麻呂氏は桓武天皇陵も未踏であったらしく、立ち寄ってみたかったと仰っていましたが、後の祭り。桓武天皇陵は下記<参考>の過去記事でご覧戴くこととしましょう。<参考>深草北陵銀輪散歩 2018.7.23.京都南部銀輪散歩・白河・桓武天皇陵から大枝神社まで 2012.3.24.伏見散策(桓武天皇陵・伏見桃山城) 2012.9.19. 公園に入り、伏見桃山城を眺めつつ行く。 伏見桃山城も眺めるだけでパス。(伏見桃山城) このお城は、秀吉が建てた伏見城とは無関係。歴史的建造物とは関係のない「城型建物」に過ぎないということの所為か、カメラを向ける意欲がイマイチ湧かないこともあって、もっといいアングルがあったのにこれを撮らずにやり過ごし、いよいよ見えなくなるという段階になって、ブログ記事の構成上のこともあるかと、カメラを向けましたので、手前に無粋なコードが垂れ下がり、立ち木が邪魔をしている景色になってしまったという次第。上の<参考>の2012年9月19日記事には、もう少しましな写真が掲載されています(笑)。 公園を抜けて、一般道に出て、東へと進んだところで、出くわしたのが、黒田長政下屋敷跡参考地という碑。(伏見城武家地・黒田長政下屋敷跡参考地碑) ここで、冒頭の「黒田節」誕生地の碑とつながるのであるが、秀吉が伏見城を営んでいた時期には、この辺りは武家屋敷が立ち並び、黒田長政の屋敷がこの地にあったと考えられているのだろう。参考地とあるから、まだ確定した説にはなっていないということか。 日の本一の槍を手に入れた母里太兵衛の屋敷はどの辺りにあったのだろうか。 ここで右折して南に進むと、すぐに道が二股に分岐する地点に出る。 分岐点の道脇にあるのが八科峠の道標。(八科峠の道標) 八科峠道標を右手に見て左の道を行くと下り坂。下りきって、仏国寺の前で左折、今度は坂道を上ることになる。 坂を上り切った処に小さな公園。東古御香町公園という名の公園であったかと記憶する。 正午を過ぎていたので、この公園で昼食タイム。 ということで、お昼休みとします。 昼食後、大岩山展望所への坂道を上りますが、続きは明日以降の記事とさせて戴きます。(つづく)
2021.01.19
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少しばかり前(先月28日のこと)の話になりますが、享仙(KYOUSEN)さんというお方から、2018年11月3日の当方の記事「オギ(荻)にノギ(芒)なし」にコメントを頂戴し、同記事に掲載の写真を「フォト俳句」用に拝借したい、というものでした。 当方に異論はなく、すぐに快諾の旨お返事申し上げたところ、このような形で、フォト俳句にされていました。(享仙さんのフォト俳句 同氏ブログ記事より転載)吹く風に 葦の穂絮の 靡きかな (享仙) ヤカモチ、脇句をつけてもみむと、いづちや雲の 流れ行くまま (偐家持) もう少し早くに気づけばよかったのですが、すっかり忘れてしまっていて、そう言えば、そんなことがあったと思い出し、今日、同氏のブログを拝見させていただくと、10月4日の記事に、このフォト俳句が掲載されていることを発見したという次第。 同氏は96歳のご高齢にして、フォト俳句を日々の記事に添えて居られるようであります。いつまでもお元気にお続けいただきたいものであります。<参考> 同氏のブログはコチラ。 本件フォト俳句掲載の記事はコチラ。 当方記事に掲載の元写真は下掲の通りです。(元画像) 同氏がフォト俳句に転用された写真は、元写真を左右逆転させた画像になっていますが、これは句を画像に挿入する関係で、左右逆転した方が、収まりがいい、構図のバランスがいいというご判断によるものでしょう。 ヤカモチの写真が、何であれ他人様のお役に立てたということは、それだけで嬉しいことです。 このようなご縁をいただいたことに感謝しつつ、遅まきながらそのご縁を紹介申し上げるとともに、KYOUSEN(享仙)氏のますますのご健勝をお祈り申し上げるものであります。
2020.10.20
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今日10月1日は中秋の名月である。 と言っても、ススキや萩や里芋やお団子を供えてのお月見をするということはない。ヤカモチの子供時代にはそんな風習も残っていて、庭にそのような設えをして月の出を待ったものであるが、今はベランダからお義理程度に月を眺めるだけにて、情緒も何もあったものではない。 旧暦では7月、8月、9月が秋である。7月は初秋、8月は仲秋、9月は晩秋になる。8月仲秋の真ん中の15日が中秋の名月となる。実際の月の満ち欠けと暦とは一致しないので、中秋の名月が満月とは限らない。今年の名月もそのようです。 中秋の名月は芋を供えることから「芋名月」とも呼ばれる。 もう一つ、名月がある。旧暦9月13日の月である。 中秋の名月が単に「十五夜」と呼ばれることもあるように、この名月は単に「十三夜」とも呼ばれる。また、栗や枝豆を供えることから、「栗名月」または「豆名月」とも呼ばれる。 今年の十三夜は10月29日になるので、今夜お月見をされたお方は、忘れずに十三夜のお月見もなさって下さい。どちらか一方だけの月見は、片見月または片月見と言って縁起が悪いとされていますので。もっとも、これは江戸時代の遊里での話ですから、令和の今どき「縁起が悪い」なんてことを思う人はいないでしょうが(笑)。 お月見についての詳しいことは、下記<参考>をご参照下さい。<参考>月見・Wikipedia 中秋の名月 2013.9.19. さて、十五夜、十三夜の「お月見コンビ」ではないですが、KKコンビのお話であります。 妹からケンとカエデの写真が数枚送られて来た。 カナダ在住の、彼女の娘(即ち、ヤカモチにとっては姪)Mの子どもたちである。 カエデもケンも当ブログに以前に登場済みであるが、2年ぶりにて見違えるように大きくなった姿にほっこりでありました。<参考>カエデとケンの写真掲載記事は下記。 ケンとカエデがやって来た 2018.4.9. 墓参・ザクロとマルバルコウソウ 2017.9.2. コロナの所為で来日は出来ないから、当分は再会叶わぬとて、写真を送ってくれたのであろう。(カエデとケン) カエデとケンが来日したのは一昨年の4月のこと。 二人とも随分大きくなりました(笑)。 上の写真は、ケン3歳の誕生日のもの。(カエデ) お姉ちゃんのカエデは勿論、楓の意であるが、カナダでは、カエデでも楓でもなくKaedeである。 万葉では蛙手であるなんぞということは、彼女には教えない方がいいだろうと思う(笑)。 随分と女の子らしくなりました。(ケン) ケンも大きくなりました。 ケンは、Kenseiで、Kenはヤカモチの名の漢字・ケンを頂戴した、とは姪Mの弁であるが、漢字圏ではないカナダであるから、KenseiのKenを漢字で表記する機会はないことだろう。 それにしても、上の写真のポーズなかなか決まっているではないか。 吾輩の「ケン」を名乗るだけのことはある(笑)。 コロナが収まって、二人にまた会えることを楽しみにしています。
2020.10.01
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昨日(15日)、北海道は富良野のブロ友、furano-craft氏から贈り物が届きました。 これまでにも、同氏からは色々な木工作品を頂戴していますが、今回、「槐の勾玉を作りましたのでご笑納下さいませ。」として送られて来たのは、こんな作品でした。(槐の勾玉のストラップ furano-craft氏作)富良野より コロナのまがを 祓へとか ここだうれしき 勾玉届く勾玉を 魔除け槐の 木でなすは 君が祈りか ありがたかりき (同上) 槐(えんじゅ)の木も勾玉も邪を払う魔除けの霊力があるとされているから、この両者が手を結んだ、槐の勾玉は、二倍の効力、霊験あらたかなものと言うべきでしょう。コロナに負けるな、コロナに打ち勝てという同氏からのエールであり、心強いメッセージでもあります。 furano-craftさん、どうもありがとうございました。<参考> furano-craft氏のブログはコチラ。 木力工房のホームページはコチラ。 フォト蔵のマイアルバム「木力工房関係」写真はコチラ。 偐万葉・ふらの篇はコチラ。 また、何日か前に、友人の利麻呂氏からは、「新型コロナに負けずに頑張りましょう。終息後に再会できる日を楽しみにしています。」というような文面の絵葉書が届いています。(南條亮ジオラマ記念館の絵葉書) それにしても、何故「南條亮ジオラマ記念館」の絵葉書なのか。 利麻呂氏は、この今は亡き人形作家・南條亮氏のファンである、或いは同氏を応援されていたというようなことなんだろうか。 大阪方式による制限解除の第一段階は、博物館、美術館、図書館などの施設の営業再開のようですから、この記念館も営業再開となるのかも知れないが、自宅から泉佐野までの正味の銀輪散歩はかなりハードになるから、そう簡単には出かけ兼ねるというものではある。<参考>南條亮ジオラマ記念館・facebook 入場無料!人形が語る懐かしの昭和-大阪「ジオラマ記念館」 囲碁の会も休会で、利麻呂氏とも長らく顔を合わせていない。その他の囲碁仲間とも同様である。 年2回開催の大学同期会・夕々の会の5月例会も中止、7月の同窓会総会も11月に延期の件が検討されていて、その方向で決まる見込み。若草読書会も暫く休会。 あれやこれやの友人との交流も同様に「自粛モード」である。 そんな中で、電話であれ、メールであれ、手紙や葉書であれ、このような便りが届くというのは、元気でいます、ということの証しでもあるから、嬉しいことであります。 そして、今朝は大学同期の油〇君から電話。夕々の会の今月の開催はないのかという問い合わせの電話であった。彼はこのところ会には欠席続きで長らく顔を合わせていないのであったが、このような問い合わせをして来たということは、コロナ自粛などで人との接触が何かと希薄になっている昨今、人恋しい気持ちになったということであるのかも知れない。 コロナ下の 自粛堪へてそ また逢はな わが思(も)ふ人の みな幸(さ)きくあれ (偐家持)
2020.05.16
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先日、ブロ友のももの郎女さん(ブログのハンドルネームは☆もも☆どんぶらこ☆さん、喫茶ペリカンの家の店主)が「愛ちゃんから貰った貝殻」として貝の写真をブログにアップされていました。<参考>宮古島の貝 2020.4.3. 愛ちゃんというのは、ももの郎女さんのご友人で喫茶・ペリカンの家に時々アルバイトの形でお手伝いに来られている女性、薫郎女(かほりのいらつめ)さんのお嬢さんで、今年から小学1年生という女の子。 ヤ・カ・モ・チさ~ん、と小生にもなついてくれている女の子であるから、ヤカモチにとっては一番若いガールフレンドということになるだろうか。偐万葉風には愛媛(めごひめ)と呼ばせて頂くことにしよう(笑)。 さて、その愛媛殿からはヤカモチも貝殻を頂戴していたのでありました。ならば、遅ればせではあるが、ももの郎女さんに倣って、ヤカモチもこれをブログにアップさせていただかねばなるまいと思った次第。 宮古島へ家族旅行をされた折に、浜辺で拾ってきた貝殻だそうだが、沢山の中からそのいくつかを、ヤカモチにもお土産としてプレゼントしていただいたのでありました。(宮古島の貝)(同上・親子タイプ?) 貝で思い浮かぶ万葉歌はこれ。今日今日と わが待つ君は 石川の 貝に<一云、谷に>交(まじ)りて ありといはずやも (依羅娘子 万葉集巻2-224)(訳) 今日か今日かとお帰りをお待ちしているわが夫は、石川の貝に<一説に、谷に>まじっているというではありませんか。※石川については、島根県の江の川、その支流の女良谷川、高津川(益田市)、浜田川や大阪府の石川など諸説がある。 この歌は、柿本人麻呂が死んだ時に、妻の依羅娘子が詠んだ歌2首のうちの1首。「かひ」を「貝」と考える説と「峡」と考える説とがある。 人麻呂の死については色んな説、論考があるが、それについて述べるのは手に余ることなので今は省きます。下の戯れ歌へのつなぎとして話題にしただけでありますので。貝貝と わがめご比売は 宮古島の 旅づとなりと くれにしわれに (貝家持) 愛媛殿の貝よりも先に頂戴したのが、下掲のネズミのストラップ。 こちらは、坂郎女(さかのいらつめ)さんから頂戴したもの。 坂郎女さんも喫茶・ペリカンの家にアルバイトとして来られている女性であるが、このストラップは彼女のご友人がお作りになったものだそうである。(ネズミ図柄のガマ口のストラップ) ネズミのストラップというのは正確な表現ではなく、正しくはネズミ図柄のガマ口のストラップである。 微小のビーズを貼り合わせて、今年の干支のネズミと赤と青の花が図柄として描き出されたガマ口になっている。 ネズミの万葉歌というのは思い浮かばないので、芭蕉の句でも。雀子(すずめご)と 声鳴(なき)かはす 鼠の巣(訳)子雀と巣の中の子鼠とが鳴きかわすように鳴いている。花にねぬ 此(これ)もたぐいか 鼠の巣(訳)巣に落ち着かず暴れまわる鼠は、花を寝所としない春の鳥と同類なのか。 ネズミではないが、干支の子に因んだ歌ならこれがある。初春(はつはる)の 初子(はつね)の今日の 玉箒(たまばはき) 手に取るからに ゆらく玉の緒 (大伴家持 万葉集巻20-4493)(訳)初春の初子の今日の玉箒は、手に取るだけで揺れて音がする玉飾りの緒だ。 この歌は年賀状にも使える歌として紹介したこともあるかと思うが、天平宝字2年(758年)春正月三日、孝謙天皇が初子の宴を開催、内相・藤原仲麻呂を通じて発された勅には「諸王卿よ、歌でも詩でも自分にできるものを詠作せよ。」とあったので、家持卿もこれに応えるべく上の歌を作って準備したようだ。しかし、左注には「但し、大蔵の政に依りてこれを奏するに堪へざるなり。」とあり、仕事が忙しく宴席への参列が叶わず、日の目を見ない歌のままに終わったことが覗える。 初子の日には、天皇は親しく農耕に携わる意を示すため辛鋤(からすき)を、皇后は養蚕に携わる意を示すため箒を飾り、宴を催すというのが宮中の習わしであったようだが、孝謙天皇の時代には、天皇から参加者に玉飾りのついた箒を下賜するというのが恒例となっていたのだろう。家持としてはその玉箒を褒めた歌を準備したわけである。 玉箒(たまばはき)で連想する戯れ歌がある。玉掃(たまははき) 刈り来(こ)鎌麻呂 室(むろ)の木と 棗(なつめ)が本(もと)と かき掃かむため (長意吉麻呂 万葉集巻16-3830)(訳)玉箒を刈って来なさいよ鎌麻呂さん、むろの木と棗の木の下を掃除するために。 この歌の「たまははき」はキク科の植物コウヤボウキ(高野箒)のこととされる。高野箒という名は、高野山ではこの木の枝から箒を作ったことに由来するらしいが、万葉時代に箒に利用した植物は色々あったことだろうから、このコウヤボウキだと断定はできないわけで、色々な異説がある。メドハギ、ホウキギ、ヤハズソウ、クサネムなどである。 意吉麻呂(おきまろ)さんは即興・戯れ歌の名手。 この歌は、玉箒、鎌、むろ、棗を詠み込めというお題の即興歌のようだが、宴席で同席の鎌麻呂さんを揶揄った歌と考えることもできる。もし、そうだと仮定すると、鎌麻呂さんからの気の利いた返しの歌がのこっていないのは、鎌麻呂さんが余り歌が得意ではなかったので返せなかったということになる。或いは、鎌麻呂さんだけに「かまわん方が無難」とやり過ごしたということも考えられる(笑)。 ヤカモチが返歌を代作して差し上げましょう。玉箒 長過ぎたれば 刈るを得ず 掃除はしばし 放って置き麻呂 ちょっと話が脱線していますが、この歌をここに持って来たのは、ここに詠まれている「むろの木」がヒノキ科のネズミサシのこととされているからである。勿論、これにも異説があってモミとかナツメとかの説もある。まあ、ヤカモチとしてはこういう論争はミズ掛け論ならぬネズミ掛け論として、どれにも組しないのである。 まあ、何であれ、大伴家持さんが万葉集にネズミの歌を収録してくれなかったお陰で、ネの日だのネズミサシだのと、今日のヤカモチは無駄なあがきをしているという次第。<追記・参考>過去のペリカンの家関係記事はコチラ。
2020.04.05
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昨日は、健人会の新年会でありました。 健人会というのは、昔の職場の仲間の任意の集まりである。所属部署は色々であるが、気の合う者が集まって、年4回のゴルフと1月の新年会・7月の納涼懇親会とで旧交を温めている。小生は、ゴルフは止めたので、新年会と夏の納涼懇親会のみ参加している。 最長老が木〇氏で小生より11歳年長である。今回の出席者17名のうち小生より年長の方が7名であるから、中間よりもやや年長組に近いというのが小生の年齢的位置付けになる。 出席者を記録に残すという意味で以下にそれを記して置くと、 木〇氏、杉〇氏、只麻呂氏、田〇氏、平〇氏、鯨麻呂氏、岡〇氏、徳〇氏、森〇氏、今〇氏、草麻呂氏、正〇氏、平〇J氏、北〇氏、生〇氏、〇庭氏とヤカモチの17名。 会場は、例年通り、淀屋橋の「小ぼけ」という店。 午後6時開宴である。(淀屋橋から北浜方面に向かう) 店の前まで来て、時計を見ると、午後5時を少し回った程度。早過ぎるので、中之島公園を少し散策してからということにする。(小ぼけ) 一つ先の信号から栴檀木橋を渡って中之島公園に入る。 暮れなずむ中之島公園。正面が中央公会堂である。(大阪市中央公会堂) 公会堂の前の広場から、先ほど渡って来た栴檀木橋を眺めると、こんな感じです。(土佐堀川と栴檀木橋) 写真の右、橋の北詰めにセンダンの木がある。 センダンの木があるから栴檀木橋なのか、栴檀木橋なのでセンダンの木を植えたのか、どちらかは存じ上げぬが、鈴生りにセンダンの実をつけていました。 センダンは万葉では「楝(あふち)」である。 大伴旅人が妻を亡くした時に、旅人の気持ちになって山上憶良が詠んだ歌がある。詠われるのは実ではなく花の方である。ホトトギスが鳴き始める初夏に美しい花を咲かせる。妹が見し 楝(あふち)の花は 散りぬべし わが泣く涙 いまだ干(ひ)なくに (山上憶良 万葉集巻5-798)(妻の見た栴檀の花は散ってしまうようである。悲しみのわが涙も未だ乾かないのに。) 若くして亡くなった大伴家持の弟、大伴書持にも楝を詠んだ歌がある。 こちらはホトトギスとセットで詠っている。珠(たま)に貫(ぬ)く 楝(あふち)を家に 植ゑたらば 山霍公鳥(やまほととぎす) 離(か)れず来(こ)むかも (大伴書持 万葉集巻10-1973)(ホトトギスが珠として貫く栴檀の花を家に植えたら山ホトトギスはいつも来るかなあ。)(堂島川と桙流橋) 堂島川の方に何やら美しい色のものが見えたので行ってみると。 鉾流橋が虹色にライトアップされているのでした。 天神祭の鉾流神事がこの橋のたもとで行われることからの命名だという。 <参考>鉾流神事・天神祭NAVI 「鉾を納める」というと「戦いをやめる」意味であるが、これは一時休戦といった感じか。「鉾を流す」は、武器である鉾を流して捨てる訳であるから「戦争放棄・武力不保持」で、日本国憲法第9条と同じ理念・理想を体現している橋の名前ではないか、などと思ったりもしたが、天神祭の神事に由来する名前にて戦争放棄とは無関係(笑)。 対岸も美しいイルミネーション。(堂島川) 次の日曜日(26日)は、中之島公園も大阪国際女子マラソンのコースになっているので、車の通行などが制限されるようで、その旨の看板が道路脇に立て掛けてありました。 そろそろ時間の方もいいかと、店の方に戻ることにする。 店の前まで来ると、木〇氏が反対方向からやって来られたので、ご一緒に店に入る。 部屋に案内されると、既に、世話役の草麻呂氏が来て居られて、平〇J氏と二人で会費徴収係を務めて居られました。 部屋の奥には先に到着の只麻呂氏と北〇氏が着席して何やら話をされている。我々もその隣に着席する。 というのは、奥が「喫煙席」なのである。 17名中7名が喫煙者にて、この会の喫煙者率は通常の集まりに比して極めて高率となっている。この点はヤカモチにとってはまことに心強い限りなのである(笑)。 続々と参加者が来られ、定刻前に全員集合と相成りました。 杉〇氏の発声で乾杯、開宴となり、飲んで食って談笑という毎度お決まりの流れである。 隣の徳〇氏が「老人は過去の話ばかりするね。何故?」と言うので「老人には今と過去はあるが未来はないからねえ」と答えたら、妙に納得していたのは愉快であった。そもそもこの会が過去の絆を核として成立しているのであるから、各々に多くの共有し合う過去がある。してみれば、酒の肴の話題が過去のあれこれに及ぶのは極めて自然なことであり、老人ならずともではある。(健人会・2020年新年会) 午後8時半、木〇氏の中締めにて解散となりました。<参考>過去の健人会関係の記事はコチラ。
2020.01.23
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昨年の暮れに高校の同級生の津〇君から電話が入り、現在保有している賃貸建物が老朽化して来ているので、これを賃貸マンションか賃貸アパートに建て替えたいと思っているが、相談に乗ってくれないか、という話。 ともかく話だけは聞いてみようと、今日、近鉄・小阪駅前、午後2時の待ち合わせで、出かけてまいりました。 卒業後に同期会などで1~2度は顔を合せているかと思うが、久々の再会でありました。中学や高校や大学の同期の友人というのは面白いもので、どんなに長くご無沙汰していても、顔を合せると忽ち昔の感じに帰って、俺・お前の関係に戻れるというのがいい。 駅前の喫茶店で話を聞くつもりでいたが、自宅に来いと言い張るので、仕方なく彼の自宅にお邪魔することとなり、奥方様(勿論、小生は初対面である。)のお手を煩わせることになったのは恐縮でした。 用向きの話の傍ら、今〇君、泉〇君、藤〇K君、藤〇W君、梶〇君、横〇君など懐かしい友人のことなども話題に出て、二人だけの同窓会気分でありました(笑)。 聞くところによると、今〇君、泉〇君、藤〇W君、横〇君などは津〇君の自宅に集まったりしたこともよくあったらしい。 自宅から小阪駅前までは自転車で30分程度。 ということで、今日もMTBで銀輪散歩を兼ねて出掛けたのでありましたが、津〇君は小生が自転車族であることを誰かから聞き及んでいたらしく、銀輪散歩で近くに来たら自宅に立ち寄ってくれたらいい、とも。 それはともかく、少し早く着き過ぎたので、駅前の有料駐輪場にMTBを駐輪して、駅前をブラブラ散策。 駅の南側はこんな眺め。(近鉄・小阪駅前南側) この本通り商店街に入ってすぐの処、右側には「湖月」という喫茶店があって、高校時代から通い出した日本基督教団小阪教会がこの駅から徒歩数分の場所にあった関係で、教会の仲間とよく利用したものであったが、今はもう存在しない。湖月堂という菓子舗があるようだが、昔の喫茶店が菓子舗に変わっているということなのか。 この前の道は今も自転車で大阪市内へと走る折にはよく走るのであるが、単に通過するだけで、駅前から眺めるということが余りないこともあって、商店街の入口アーケードに「司馬遼太郎記念館」と表示されていることに、初めて気が付きました。 司馬遼太郎記念館は、この商店街を抜けた辺りを左に折れて、少し東へ行った処にあるから、まあ、これはこれでいいのでしょう。 駅の北側はこんな眺め。(近鉄・小阪駅前南側) 北側の両サイドの店は、入口左側の店を覗き、全部シャッターが降りている。近寄ってみると、建物が老朽化したため、取り壊されることになったようである。 いつであったか、新潟のブロ友・ふぁみり~キャンパーさんが、出張で大阪に立ち寄られた際に、この一画にある「お好み焼き屋」で食事をされて、それを記事にして居られたのを記憶しているが、その店も無くなることになる(笑)。 調べてみると、店の名は「ゆり家」でした。<参考>河内女の手染めの・・ 2014.2.24. 三つ目の橋・・・(何処でしょう?) 2013.4.30.たれをかも しる人にせむ 高砂の 松もむかしの 友ならなくに (藤原興風 古今集909 小倉百人一首34)
2020.01.10
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ブログ更新をサボっていましたが、1週間ぶりの更新です。 友人の健麻呂氏から旅便りが届いたので、更新を思い立った次第。 12月1日~11日の間留守にするというメールが先月届いていましたので、さてはまたハノイかと思ったものでしたが、予想通りにご夫妻でベトナムはハノイへのご旅行であったようです。 ハノイへはこれが11回目のご旅行らしい。余程にハノイがお気に入りのようです。ヤカモチは河内生まれの河内育ちであるが、ハノイ(河内)へは行ったことがないので、ちんぷんかんぷんであり、毎年のお便りで、さにあるか、と垣間見ているに過ぎぬ次第。 よって、下掲の旅便りをご覧いただくのほか是なく候、であります。 写真をクリックして大きいサイズのものでお読み下さい。(ハノイ便りfrom健麻呂)<参考>文廟(ヴァン・ミウ ‐ クォック・トゥー・ザーム)・ベトナムナビハノイの世界遺産「タンロン遺跡」・LINEトラベルハノイ大教会・ベトナム最新情報ブログホアンキエム湖・Wikipediaタイ湖・ベトナムナビ健麻呂氏の昨年のハノイ旅行の記事はコチラ。
2019.12.20
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先日、友人のオガクニマン氏から電話があり、或る集まりに顔を出さないか、とのお誘い。 何でも、ヤカモチが勤務していた会社の法人営業部と海外事業部のOB有志の集まりだという。ヤカモチは総務・法務部門であったので、会の趣旨からは外れる部外者であるが、笠〇氏や竹〇J氏(囲碁の会でご一緒する竹〇氏とは別人なので「竹〇J」氏と表記します。)など懐かしい方もご出席になるというので、出席OKの返事をしたもの。 その集まりが昨日(7日)にありました。 会場の店は、福島の「花くじら歩店」。 ネット地図で場所を確認すると、JR大阪環状線の福島駅の数百メートル南側にある。福島天満宮の近くである。 午後6時開始だという。(おでん「花くじら歩店」位置図) この付近は、囲碁例会などの折の銀輪散歩でもよく走っているので、地理感はあるが、「花くじら」という店は、広い通り・なにわ筋から路地を少し入ったところにあるので、知らない店である。 すぐ近くにある福島天満宮は知っているので、それを目印として行く。 福島天満宮の境内を通って行く。(福島天満宮・社殿) JR大阪環状線に乗った頃は、未だ明るくて、車窓から眺める西の空は美しい茜色の波。見事な夕焼けであったが、福島駅に着いた頃は、すっかり暮れていて夕焼けも消滅。美しい夕焼けを撮り損ねたと残念な気持ちで「花くじら」へと向かったのでした。 福島天満宮の鳥居を出た脇にあるのが「花くじら本店」。 「花くじら歩店」は本店の前の路地を南に入ったところにある。 本店の前にも、歩店の前にも、「何だコレは」という長蛇の列。 どちらも数十人の長い列。店の周りを取り囲むようにして二列縦隊で長々と行儀よく並んで居られる。 こちらは、予約なので並ぶ必要はない。 店に入ると1階のテーブル席、カウンター席も満員。 予約の旨告げると、3階の部屋に案内された。2階と3階が個室・座敷になっているようだ。 外に並んでいる大勢の人たちは、この1階の席が空くのを待っているのだろうが、相当な待ち時間になるだろう。ヤカモチの辞書にはこのようなことまでして食事をするという「文字」は存在しないので、彼らの行動は不可解というか、理解不能というか、想像の外である。 部屋に通されたが、ヤカモチが一番乗り。どなたの姿もない。(花くじら歩店) 席の設えから、今日の参加者は10名であることを知る。 間もなく、鍋の具が運び込まれて準備が始まる。 そこへ、笠〇氏が来られる。ヤカモチが会社を辞めて間もなく14年になるが、笠〇氏はヤカモチより少し先輩になる。従って10数年ぶりの再会になるかと思う。笠〇氏と雑談していると、山〇氏が登場。彼はヤカモチと入社同期である。続いて女性が二人。一人は法人営業部でもう一人が海外事業部に居た元女子社員とのことだが、顔も名前も思い出せないので初対面のような感じ。話をしているうちに何となく記憶があるような気もしてきましたが・・。 オガクニマン氏が現れ、東〇氏、生〇氏も来られる。 東〇氏は囲碁の会に一度だけ出席されたが、その後お見えになって居ないので、それ以来の再会。最近は近所の碁会所で打っていて梅田スカイビルまで出掛けるのが億劫で欠席が続いているとのこと。 生〇氏は健人会のメンバーでもあり、毎年2回は顔を合わせているので、「やあ」という感じ。今年7月の健人会でも会っているから4ヶ月余ぶりに過ぎない。どうやら、彼もヤカモチと同じ部外者で、オガクニマン氏から電話で誘われての、今回が初参加らしい。 どうやら、出席者に欠員が生じたので、その補充ということでオ氏から声がかかった、というのが事の真相のようである(笑)。 まあ、何であれ、懐かしい面々とお会いできるのは嬉しいことである。 最後に、竹〇J氏ともう一人存じ上げぬ女性が来られた。 竹〇J氏は元海外事業部。海外事業部が組織として独立する前は総務部の海外事業担当グループという形であったので、当初は同じ部に属していたこともあり、親しい関係でありました。同氏は英語が堪能。株主宛てに送付する全ての書面について、株式や外貨建転換社債を海外に上場している関係で、その発送の都度これを全文英訳して、アメリカ、ドイツ、スイスに郵送しなければならないのであったが、その英訳では同氏に随分お世話になったものであった。同氏とも十数年ぶりの再会である。ヤカモチは直ぐに同氏であることを認識して、挨拶を交わしたつもりであったが、同氏はヤカモチであるとは気付かずに会釈を返されていたようで、ヤカモチであることを名乗った時に初めてそれと気がつかれたと見えて、随分驚かれていたのは愉快でありました。 もう一人の女性は、正真正銘の初対面の女性で、笠〇氏が退職後に立ち上げられたご自身の会社の女子事務員だとのこと。モンゴル出身の女性でしたが、日本語は堪能。モンゴル風のそのお名前は覚えられぬままでした。 以上、10名による楽しい「忘年会」、午後8時過ぎまで愉快に過ごさせていただきました。 この会、長きにわたって、年1回、毎年12月に開催されているそうな。 年月の経過とともに、物故者も出るなどのほか、その他事情で参加できない人も出て来るなどもあって、会が寂しくなってはいけないということで、「ヤカモチも山の賑わい」とオ氏からのお誘いがあっての参加でしたが、今後も「補充」の必要が生じ、こちらの日程も合うようならば、喜んで参加させていただきましょう(笑)。 因みに、会を終えて店の外に出ると、入店した時と変わらぬ位の人数の人の列がまだ続いていました。 さて、今日は、師走8日。今年も残すところ今日を含めてもアト24日であります。昨日きそといひ 今日けふとくらして あすか河 流れてはやき 月日なりけり (春道列樹はるみちのつらき 古今集巻6-341) これは、一昨年・2017年の大晦日の当ブログ記事に引用した古今和歌集所載の歌であるが、年末近くになるとこの歌が思い浮かぶ。 ところで、流れてはやきと言えば、今日12月8日は「ニイタカヤマノボレ1208」の日でもある。 1941年12月8日、この暗号電報の送信を受けて、ハワイ・オアフ島の真珠湾を日本軍が攻撃。戦艦アリゾナなど11隻を撃沈。暗号電報「トラトラトラ」を打電、攻撃の成功を知らせ、かくして日米開戦となった日である。 太平洋戦争開戦の日。1941を「ひくがよいのに仲間入り」と覚えたものだが、「ひくにひかれず」であったか「ひくをしらず」であったかはいざ知らず、1945年8月15日終戦までの3年8ヶ月余にわたる太平洋戦争(第二次世界大戦)へと日本が突入して行ったのは、もう78年も前の今日のことであります。
2019.12.08
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昨日(15日)は、大学入学同期の会「夕々の会」の例会の日。 会場は、例年通り、がんこ梅田OS店。 開会は午後5時半。(阪急東通り商店街 入口左手の地下に店がある。) 出席者は、中〇君、古〇君、佐〇君、黒〇君、深〇君、広〇君、西〇君、小〇君、堀〇君、岡〇君、道麻呂君、楽老君、前〇君、豊〇君、蝶〇君、谷〇君、ヤカモチの17名。(下線は非在阪組・遠路参加者である。) 谷〇君が連絡係で各位に案内メールを発信、出欠管理などをしてくれている。 在阪組を中心に連絡のつく30数名(同期総数100名)に案内・声掛けをしているが、これまでの最多出席者数は20名。 店の予約手配はいつも守〇君がやってくれていて、今回も彼が手配してくれたのだが、急遽カナダへと出かける所用が発生、15日の便しか予約できなかったということで欠席。当初予定の18名出席から17名出席に変更となった。これまでの最多出席人数の20名や前回の19名には及ばなかったが、まずまずの出席人数である。 会場の「がんこ梅田OS店」に行くと、福井の鯖江から参加の中〇君が既に来て居られました。彼と雑談しているうちに、幹事役の谷〇君が到着。その後、順々に皆さんが到着。 定刻近くになったので、未到着の豊〇君に電話を入れると、未だ車中で甲子園駅辺り、少し遅れるとのこと。取り敢えず始めて置くよ、と彼に伝えて開会とする。 この会の司会・進行はいつの頃よりか守〇君が担当するのが恒例となっていたが、今回欠席となり、前日に谷〇君からその代役を頼むとの依頼メールがヤカモチに入っていました。 そんなことで、この「夕々の会」の始まりから今日までの経緯を、当ブログの過去記事から調べてみたので、以下に記載して置く。 同期会の全てを記事にしている訳ではないので、正確なことは不分明なのであるが、この会は2008年か2009年かに始まっているようである。 そもそもは、楽老君が大阪に転勤して来て、まだ現役であった頃のヤカモチに連絡をくれて、共に飯を食ったことに始まる。 2007年4月から2009年3月までヤカモチが同窓会(青雲会)の会長を引き受けさせられたことなどもその契機となったかと思うが、2007年5月に楽老君、道麻呂君、黒〇君、仲〇君、原〇君、田〇君とヤカモチの7名が会食をして居り、その折に、東京では「よいの会」という同期の集まりを持っているとの話が楽老君よりあり、大阪でもそのような集まりを持ちたいものだという話になる。 しかし、具体的な進展はなく、2008年か2009年頃になって守〇君が参加、その後、谷〇君が参加してくれて、現在のような案内体制ができあがり、定期に同期会を開催するようになった。 2010年5月の同期会で年2回(5月と11月)に開催するように決まる。 2012年11月の例会で守〇君より、会の名称を東京の「よいの会」に倣って「よいよいの会」にしようという提案があり、これを採択「よいよいの会」となる。 翌2013年5月の例会で、ヤカモチが「夕々の会」という表記にしてはどうかと提案、「夕々の会」に改称される。 「よいよい」は、「良い良い」、「酔い酔い」、「宵々」なら問題ないが、「ヨイヨイ」は歩くのも覚束ない老人をイメージさせなくもないこと、「夕」は「よい」(旧仮名遣いでは「よひ」)とも読むこと、音読みすれば「ゆうゆう」で「悠々自適」の「悠々」にも通じ、「遊々」や「雄々」、「友々」とも通じること、などが改称の趣旨であった。 この時のブログ記事を見ると、5月は百合の花が咲く頃、11月は紅葉の時期、ということで、ヤカモチは「百合の花 咲ける夕(よひ)にも もみぢ葉の 匂へる夕(よひ)も 継ぎてぞ逢はな」という歌を作っている。 年2回開催という現在の形が成立したのが2010年5月であるから、今回で丸10年、丁度20回目の例会ということになる。 上記のようなこの会の始まり、契機のことなどを紹介して開会宣言とした次第。 そして、この会成立のキッカケを作ってくれた「仕掛け人」楽老君が前回に続いて今回も、遠路・横浜から参加して下さっっていることに敬意と謝意を表して、同君の発声で乾杯。開宴となりました。 あとは、飲んで、喋ってのいつもの通りの懇親である。 暫くして、豊〇君が到着。あらためて、同君の発声で再度「乾杯」。 賑やかに、和やかに、旧交を温める愉快な時は過ぎて・・。(宴会風景) 遠路参加の中〇君と古〇君は午後7時過ぎに中座、帰路に。 ご両人をお見送りして、残り15名の宴会は、なお暫し続行。 最後に、谷〇君のカメラで記念写真を皆で撮って、午後8時過ぎに散会となりました。 散会後、楽老君、道麻呂君と近くの喫茶店で9時過ぎまで談笑。 淀屋橋駅近くにホテルをとっているという楽老君とは地下鉄改札前で別れ、道麻呂君とは環状線京橋駅で別れ、ヤカモチは鶴橋駅まで。 帰宅は10時過ぎ。 楽しく愉快な夕べを過ごさせていただきました。 次回の例会は、来年5月22日(金)。 それまで、友よ皆、恙無くあれ。<参考>夕々の会関連の過去記事はコチラ。
2019.11.16
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昨日は、大阪カジノに反対する市民の会結成1周年記念集会に参加して参りました。 午前中は所用があったのだが、午後2時開会ということなので、大学同期の友人H君の要請に応えて出席させていただいた次第。 会場は、阪急宝塚線・豊中駅前のエトレ5階・豊中市立男女共同参画センターの「すてっぷホール」。 この会による集会に参加するのはこれが2回目。今回は会の総会も兼ねての集会でありました。H君はこの会の事務局長という立場。<参考>カジノはあかん!という市民集会に 2019.3.23.(会場風景)(講演) 総会の議事終了後、高橋敏信弁護士による講演「カジノ解禁の法的問題点」があり、4時半閉会。 講演内容(目次のみ) 第1 民間賭博は違法とされてきた 1 賭博は犯罪とされてきた(刑事) 2 賭博を犯罪とする根拠(判例 最高裁昭和25年11月22日判決から) 3 民間賭博違法を前提とした民事上の判断 4 既存ギャンブルの存在 5 公営ギャンブルの違法性阻却の説明(8要件) →カジノ解禁は上記要件を満たしていないのではないか。 6 IRカジノの違法性阻却についての説明 第2 ギャンブル被害の状況 1 ギャンブル依存症の現状 2 ギャンブル被害は、本人だけの問題ではない 3 ギャンブル依存症対策の動き 第3 今回のカジノ実施法の問題点 1 手続きの流れ 2 手続きの流れ 国も法のプロセスをゆがめている。 3 ギャンブル依存症対策が不十分 4 他の懸念への対策は大丈夫か 5 実施協定の内容は大丈夫か 第4 住民意思反映欠如の問題点 1 法は住民意思の反映を求めている。 2 法が想定する開業までのプロセス 3 大阪府市の住民へのアプローチ →住民の具体的な意見を聞かず、進めているのではないか。 第5 最後に 民間賭博を解禁する必要などないし、違法性阻却事由もない。 カジノ解禁による弊害の除去などできていない。 これ以上損が拡大しないうちに撤回すべき。(カジノ設置に関するQ&A・日本弁護士連合会作成パンフレット)(同上)<参考>10月にはこんな集会も予定されています。(カジノあかん!10.22.市民集会チラシ)
2019.09.15
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今日、ニンニク聯隊がやって来ました。 アヒル艦隊の次はニンニク聯隊でありました。 このニンニク聯隊は、北海道は富良野のfurano-craft氏から派遣されたもの。昨年も頂戴したかと思いますが、今年もはるばる北海道から我が家へ、でありました。furano-craftさん、立派なニンニク、いつもありがとうございます。 furano-craft氏は、2013年3月6日に楽天プロフィール(追記注:楽天プロフィールは廃止され現在は存在しない。)に投稿の同日付当ブログ記事にナイスしていただき、同氏ブログに返礼訪問させていただいたことからブログ交流が始まったという、ブログ友だちでありますが、まだ直接にお会いしたことはありません。 わが友人の岬麻呂氏は、よく富良野方面にご旅行されることもあって、小生のブロ友であるということから、同氏を表敬訪問され、すっかり親しくなられたようで、富良野方面ご旅行の都度、お会いになって居られるというようなこの頃であります。(ニンニクfrom富良野) 偐万葉・ふらの篇(その1)の記事(2014.1.6.)を開くと、同氏に贈った最初のヤカモチ歌は次の2首であったようです。富良野まだ 雪にしあれど 大粒の 雪にしあれば 春は近しも富良野には 雪は降りつつ しかすがに 野辺の光に 春はきざすも この歌も懐かしいが、雪と言えば、2015年の元旦、大阪では珍しい大雪となったその元旦に、同氏からのジャガイモが届いた、というのが印象深く、懐かしい思い出になっています(笑)。<参考>降る雪と共に来たれる北の芋 2015.1.2. ジャガイモは降る雪と共にやって来ましたが、今回のニンニクは降る雨と共にやって来ました。というのも、今日は昼前からそこそこの雨となったからです。 こちらは、furano-craft氏のアトリエの写真。 同氏が撮影され、メールで当方に贈られて来たものです。 撮影日時を見ると今年の1月29日。 その日は、奇しくもヤカモチ1301歳の誕生日でもありました。(furano-craft氏のアトリエ) furano-craftさんのご健勝と益々のご活躍をお祈り申し上げます。<参考>furano-craftさんのブログはコチラ 偐万葉・ふらの篇はコチラ
2019.08.23
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本日はSS会の集まり。 午後6時開会。 会場はJR大阪駅のルクアの10階にある店「なかの家」。(JR大阪駅2F) 囲碁例会の日が雨などで電車で出掛ける場合は、このエスカレーターで3Fから2F、1Fと降りて、徒歩で梅田スカイビルへと向かうのであるが、両サイドにビル入口のあるルクアに入ったことはない。(ルクア<LUCUA>3F入口) JR大阪駅ホームから、エスカレーターで改札口に上がると、そこは3Fになっている。本日は、3Fのルクア入口から入る。入ってスグの処にあるエレベーターで10Fへ。(なかの家<ルクア10F>) 10Fでエレベーターを降りて右手を見ると、「なかの家」がありました。 少し早いので、喫煙室に行って、タバコを一服。 喫煙室を出て、「なかの家」の前に行くと、この会の世話役の福麻呂氏が店の前の待合席の椅子に座って居られました。 並んで座り、雑談するうちに、川〇氏、草麻呂氏、石〇氏、松〇氏、古〇氏の順で来られて、暫く待合席で待って店に入る。続いて、中〇氏、福〇氏、山〇氏、早〇氏がお見えになり、全員集合。辻〇氏のみが今回は欠席。 何名かはこの会から「引退」をされているが、現在時点でのフルメンバーは12名であるから、12名中11名が出席という次第。 福麻呂氏は囲碁の会で、草麻呂氏は健人会でご一緒するのだが、他の8名のお方は、この会でお会いするのが今は唯一の接点となっている。この会は夏と新年との年2回の開催であるから、半年ぶりの再会である。中〇氏は久々のご参加なので、1年半か2年ぶり位の再会か。 皆さん、お元気で何より。それぞれに飲んで、食って、お喋りしての、何という事もない「いつも通りの」成り行きであるが、楽しい2時間余を過ごさせていただきました。 どうぞ、皆さん、いつまでもご健勝にてあらせられますように。よき友を よしとよく見て よき時を よしと過ぐさな よき友よく見つ (偐家持)(本歌)よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見つ (天武天皇 万葉集巻1-27)
2019.08.19
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今日は健人会の納涼懇親会。 この会は本来はゴルフをする会なのであるが、ゴルフをしなくなったヤカモチは、新年会と夏の納涼懇親会のみ参加させていただいている。 最近は、夏の懇親会は石山寺近くの料亭「新月」が会場というのが定番になっていて、今年も同様でありました。 正午開会という昼の宴会というのも当初からの恒例。 ヤカモチは雨の場合は別として、自転車持参で参加するのが恒例となっていて、懐かしい友人たちとの再会も楽しみなのであるが、それ以上に、近辺の旧跡などを自転車で廻るという楽しみもあって、毎年この会に参加するのを楽しみにしている次第。 昨年は、前日に草津駅前のホテルに宿をとり、大池寺などを銀輪散歩するということをしましたが、今年はそこまでの入れ込みはせず、朝、少し早めに家を出て、近くを少しばかり走るという、軽いメニューとしました。<参考>昨年の健人会関連の記事 大池寺銀輪散歩 2018.7.24. 健人会2018夏 2018.7.25. 先ず、訪ねたのが、功臣塚と将軍塚。壬申の乱の際の近江朝廷側の将兵が葬られているという塚である。 石山駅前で持参の小型折りたたみ自転車・トレンクルを組立て、出発。 功臣塚は、JR石山駅前から国道1号線に出て、少し北西に走った1号線沿いの東レ滋賀事業場の敷地内にある。非公開というのは承知していたが、駄目元と東レ滋賀事業場の受付に見学を申し出た。「入場は駄目」と予想通りの返事。 仕方がないので、国道に架かる陸橋の上から撮影。丁度、功臣塚の正面に陸橋があるのである。(功臣塚) 説明碑も丁度こちらを向いているので、ズームアップで撮ると、少し手振れで滲んでしまったが、十分読める程度には写りました。(同上・説明碑) 東レの前から、国道1号線を京都方向に少し行くと別保二丁目交差点がある。ここで左に入って二つ目の辻を右に入り、そこから一つ目の辻を右に入ると、住宅が建て込む中にあるのが将軍塚。(将軍塚)(同上・説明碑) 塚の上には小さな祠が建てられている。(同上・祠) 祠と向き合う形に、石室の蓋のような石が奥に見えている。(同上・奥に見える石) 夏草に覆われているのは、この時期としては仕方のないことである。 この近辺には、大友皇子に所縁の遺跡や寺社が多い。<参考>大津歌碑散歩(その4) 2013.1.10. 大津歌碑散歩(その5) 2013.1.11. このアト、晴嵐小学校近くにあるという、近江国分寺跡(国昌寺跡)を目指すが、晴嵐小学校までは行き着いたものの、それらしきものに出会えず、諦める。時計を見ると既に11時を少し回っている。 計画では、石山寺門前の喫茶店に入り、かき氷を食べて、汗を引かせ、洗面所をお借りして、濡れタオルで汗を拭い、新しいシャツに着替える、という段取りなので、石山寺へと向かう。 毎年、門前の喫茶店でかき氷、というのがヤカモチの習慣となっているから、今年もこのパターンは守らなければならないのである(笑)。 喫茶店に入ると、先客は夫婦と思しき年配の男女が一組。やはり、かき氷を召し上がって居られました。 かき氷は熱く火照った身体をたちまちに涼しくしてくれる。夏の銀輪にはかき氷は欠かせない(笑)。 十分に涼しくなったところで、洗面所で着替えである。 11時30分になったので、店を出て、会場の料亭「新月」へと向かう。 料亭の前でタバコを一服していると、岡〇氏がやって来られた。彼はこの近くにご在住なので、ご自宅からブラブラと徒歩で、という訳である。 彼と一緒に料亭に入ると、美人の女将さんに出迎えられる。 既に鯨麻呂氏が来て居られました。 トレンクルは折りたたんで収納バッグに収納して、料亭の事務所に預かっていただく。(料亭・新月) 部屋に入ると、こんな風でした。いつもの部屋である。 本日の参加者は17名。 上記2名とヤカモチ以外では、杉〇氏、只麻呂氏、田〇氏、平〇氏、今〇氏、草麻呂氏、徳〇氏、森〇氏、竹〇氏、正〇氏、平〇J氏、北〇氏、生〇氏、川〇氏の14名である。 全員が揃ったところで、世話役の草麻呂氏の開会宣言、杉〇氏だったか只麻呂氏だったか、記憶が定かではないが、乾杯の発声で、アトはもういつもの通りのグジャグジャの、食って、呑んで、喋っての宴会。(宴会風景) 今回は、各自が近況報告のショートスピーチが終盤にありましたが、それぞれに、その人らしい愉快なスピーチでした。 最後に世話役の草麻呂氏の無茶振りで、中締めがヤカモチに回って来るというハプニングがあって、お開きとなりました。 料亭のマイクロバスに全員(徒歩の岡〇氏を除く)乗り込み、石山駅で解散。大阪方面に帰る面々とは京都駅までご一緒し、ヤカモチは京都駅下車、再びトレンクルを組立て、鴨川へと向かう。 一昨年と同様に自宅までトレンクルで帰ろうという目論見。 JR奈良線の鉄橋が架かる南側から鴨川右岸の河川敷の道に入る。 東山橋を越えた付近で写真を1枚撮影。(鴨川右岸) この辺りは右岸を走っているが、鴨川は右側から流れて来る桂川と合流するので、いつまでも右岸の道を走っていては行き止まりである。水鶏橋で左岸に移ることとなる。(鴨川左岸) トレンクルには変速ギアが付いていないので、速度は余り出ない。 クロスバイクやマウンテンバイクの自転車族に簡単に追い抜かれてしまうのである。彼らがひと漕ぎすればコチラは3回か4回漕がなければ同じ速度が保てないのであるから「どうぞお先に」である。 鴨川は、右から流れ込む西高瀬川と合流し、その下流の羽束師橋の手前で桂川に流れ込んでお終い。気が付けば桂川左岸の道に変わっているという次第。 河川敷の道から堤防の道へと移る坂道を上がった処で、水分補給をしていると、はるか後方から接近しつつあったマウンテンバイクの白人青年が追い抜いて行った。目が合って笑顔で会釈。 やがて、三川(桂川、宇治川、木津川)合流地点が見えて来る。(さくらであい館と展望塔) 三川合流点の目印は、右手の天王山、左手の石清水八幡宮のある男山と「さくらであい館」の展望塔である。 木津川を下って来た場合は淀川自転車道へと入るのは簡単であるが、桂川を下って来た場合は、いったん橋の下を潜り抜けて下流側へ行き、V字ターンして反対側から橋のたもとに出ることになるので、少し戸惑うことになるのが常である。 さくらであい館の道向かいの公園でトイレ休憩してから道路に出ると、さくらであい館から道路を渡ってこちら側に向かって来る、先ほどの白人青年が目にとまる。やあ~!であったかハ~イ!であったかは定かではないが、互いに手を上げて挨拶を交わす。 御幸橋を渡り、淀川自転車道に入る。 途中で左足の膝に軽い痛みが走るようになる。昔々に山登りで痛めた左膝であるが、時々こういうことが起こる。こういう時は、自転車から降りて暫く歩くことにしている。別の動きをすることによって、痛みを感じている膝を「誤魔化す」のである。数分歩いて再び自転車に。もう痛みは消えている。 上半身裸で自転車で走っている男性が居た。見事な赤銅色に日焼けした背中。以前にもこの男性を見掛けた記憶がある。 前を行く彼に追いつき追い越しざま「見事ないい色に焼けてますね。」と声を掛けて行く。すぐに彼が追い付いて来て暫く並走しながら話をする。 彼は京橋付近に住んでいて、週に2~3回は淀川べりを走っているのだという。穂谷川を過ぎた辺りで、彼はギアを上げて先へと行く、トレンクルではとても追いつけないスピードであるから、再び単独走に。(淀川自転車道) やがて、枚方大橋が見えてくる。 手前の郵便屋さんの渡しの石碑のある信号で淀川とお別れし、京阪電車に沿った南側の道に出る。香里園駅前から外環状道路に出て、暮れかかる道を家へと急ぐ。帰宅は午後7時40分。京都駅到着時に確認した時刻は午後3時35分であったと記憶するから、4時間5分を要したことになる。見込みでは3時間半位と踏んでいたが、途中で電話が入ったりしたことや少し歩いたり速度を落としたりしたことによるロスタイムが積もってしまったよう。まあ、スピードの出ないトレンクルでは致し方のないことである。(枚方大橋)<参考>健人会・琵琶湖畔銀輪散歩そして京都駅から自宅まで(前編) 健人会・琵琶湖畔銀輪散歩そして京都駅から自宅まで(後編)
2019.07.24
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今日は大学の同窓会、青雲会の総会に出席。 会場は昨年と同じく都島区網島町の太閤園、ゴールデンホール。 この付近は、小生の銀輪散歩コースの一つであるので、自宅からMTB(自転車)でという選択肢もあったが、汗だくで顔を出すのも如何かと自重し、電車で向かいました。(太閤園位置図) 午前10時30分開会で、次のような三部構成となっている。 総 会:10:30~11:15 講演会:11:20~12:20 懇親会:12:30~14:30 小生が青雲会の会長を務めさせていただいたのは2007年4月から2009年3月までの2年間であるから、退任して早くも10年余が経過していることになる。会長の任期は2年であるから、その後5人の会長を経て、今年から片〇氏が新会長を務めて居られる。(開会前の会場) 定刻に総会は始まり、会長挨拶、名誉会長祝辞、2018年度決算報告・会計監査報告・同承認、2019年度予算報告・同承認、新幹事選任の承認、新年度役員紹介、大学からの報告と議事が全て終了し、第2部の講演会となる。(講演会) 講演会は、「A.I. ロボットと法律について~なぜ法律がA.I.やロボットに関わるのか?~」という演題で、弁護士・小林正啓氏(大阪弁護士会)からご講演いただいた。 人工知能が我々の生活の様々な分野に浸透して行く中で起こり得る事故その他の諸事象について、我々はこれをどのように法的解釈をするのが適切であるか、という新しい法的問題に直面することとなる。A.I.はシステムであり、グローバルなものであるから、全世界が共通のルールによって動くのでなければ、つまり、各国の法制がバラバラで相反するものであるようなことでは、A.I.の開発、実用化、普及を阻害することとなる。例えば、自動運転の車の問題を例にあげれば、自動運転自動車が事故を起こした場合、誰が法的責任を負うべきかという問題である。 また、アンドロイドなどは人間の感情に深く関わる側面を有するから、その制作や破壊についての、倫理的・法的議論を深め、基本原則が社会的に確立されなければならないだろう。 この分野にお詳しい同氏の興味深いお話、問題提起には、隠遁者ヤカモチも大いに知的刺激を受けました(笑)。 第3部は懇親パーティー。(懇親会会場) 今年の出席者は全91名で、例年よりかなり少な目。 わが同期も、黒〇君と佐〇君と小生の3名のみ。 それでも、青〇氏、植〇氏、安〇氏などの先輩や山〇氏、松〇氏、松◎氏、三〇氏、西〇氏などの後輩と顔見知りも多く、懐かしい面々との楽しいひと時でありました。 このところ、恒例になっているビンゴゲームでは、今年は大学が海外からのお客様へのお土産品の一つにしているという法学研究科(ロースクール)特製の風呂敷を賞品として頂戴しました。(ビンゴゲーム風景) 順番が後先になってしまいましたが、現役の学生諸君も何名かが出席してくれていて、懇親会の早い段階で、その紹介がありました。(現役学生出席者の紹介) 会終了後、同期の黒〇君、佐〇君と太閤園近くの喫茶店、去年も入った白いシェパード犬(小雪という名前)の居る喫茶店に入って、暫し歓談してから帰途に。 京阪京橋駅で京都に帰る佐〇君と別れ、JR京橋駅で池田市に帰る黒〇君と別れ、小生は鶴橋方面へ。 スマホを見ると、馴染みの自転車屋さんからの着信通知。電話を入れると、先日、修理に出したトレンクル(小型折りたたみ自転車)の修理が完了したとのこと。 近鉄奈良線・瓢箪山駅で途中下車、自転車屋さんに立ち寄ることに。修理代4580円を支払って、トレンクルを受け取り、自宅までそれで銀輪散歩の帰路となりました(笑)。
2019.07.20
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昨日(7月17日)は、友人の西〇氏、平〇氏との昼食会で難波まで銀輪散歩でした。両氏共に20代の頃からの古い友人。西〇氏とは年に一度か二度、今回のような形でお会いしている仲であるが、平〇氏とは10年以上ぶりの再会である。彼とは若い頃から一緒に仕事をした仲間であるが、小生が早々と退職したこともあって、退職以来会うこともなく10年以上の年月が流れてしまっていたのでした。そんなことで、彼との再会は、とても懐かしく、一緒に時間を過ごせたのは嬉しいことでありました。 難波へ銀輪(MTB)で行く場合は、近鉄奈良線に沿って南側の道を適当に行き、JR鶴橋駅の先で千日前通りに出て・・というコースを走るのが通例。この日も同様でした。 難波に到着した頃にスマホを取り出してみると、恒郎女さんからの着信記録。自転車で走っていて着信に気が付かなかったのでした。折り返しの電話を入れると、智麻呂氏の絵が5点完成しているので、近いうちに撮影にご来駕願いたいというのがその用件でした。「昼食会が終わり次第、帰りにお立寄りします。」とお伝えして電話を切る。 小生の心づもりでは、昼食会終了後、ひろみの郎女さんに電話を入れ、喫茶ペリカンの家に立ち寄るので、岬麻呂氏から届いているマンホールカード(前ページの「岬麻呂旅便り241」の記事参照)を渡したいと思うが、都合は如何か、もし都合が悪ければ、同喫茶店のママ、ももの郎女さんにお預けして置くから、都合のいい時に立ち寄って受け取って欲しい、と伝えるべしであったのですが、智麻呂邸に立ち寄ることに予定変更となったので、マンホールカードの受け渡しの件は後日とすることにしました。 昼食会を終えて、午後1時50分頃に両氏と別れて、智麻呂邸へとMTBを走らせる。智麻呂邸にお伺いすると、枇杷の実、朝顔、ホオズキ、ヒマワリ、ネジバナ、グラジオラスの絵、5点ではなく6点が完成していました。 これらは、既に撮影済み待機中の絵画6点と合わせて全12点、追って智麻呂絵画展にてご紹介申し上げますので、暫時お待ち下さい。 で、マンホールカードの件ですが、これは本日(18日)、午後1時半に喫茶・ペリカンの家待ち合わせにて、ひろみの郎女さんにお引き渡し申し上げました。 喫茶店のママ、ももの郎女さん曰く「オガクニマンさんの著書『俺の履歴書』にサインが欲しいので、その旨を伝えて欲しい。」また、「アト2冊を追加で購入したい。」とも。 その旨を、先ほどオ氏に電話で伝えると、25日にオ氏がサインするためにコチラに出向いていただけることとなり、小生もお付き合いで、彼と同日正午の待ち合わせにて、ペリカンの家で昼食することに決まりました。 勿論、小生は彼にサインなどを求める気は更にもありません(笑)。 以上、友人の西〇氏、平〇氏、恒郎女さん、智麻呂氏、ひろみの郎女さん、ももの郎女さん、オガクニマン氏という 友人にまつわる話題でありました。 関連の写真が無いというのも寂しいので、昨日の銀輪コースにある二三のものを撮影した写真が手許にあり、これを掲載して置きます。 先ずは、生国魂神社境内でのもの。 芭蕉の句碑です。(芭蕉句碑) 菊に出て 奈良と難波は 宵月夜 (芭蕉) この句は、元禄7年芭蕉最後の旅での作。 元禄7年9月9日、重陽の節句の日の朝に奈良を発ち、暗峠を越えて大坂に入って、前日に続いての美しい宵月を堪能して詠んだ句。「生玉の辺より日を暮して」という題詞がある。この直前の句が「菊の香にくらがり登る節句かな」で、これには「くらがり峠にて」という題詞が添えられているが、こちらの句については、わが自宅の近くにある枚岡公園にその句碑が建てられている。<参考>暗(くらがり)峠 2009.1.29. 直越えのこの道にして・南生駒まで 2013.6.29. 直越えのこの道にして・南生駒まで(続) 2013.6.30.。(同上) 生国魂神社は何度も訪れているが、この芭蕉の句碑は、これまで見落としていたようで、気付きませんでした。 芭蕉の句碑は小さなもので、見落としも考えられますが、こちらの織田作之助の銅像は、見落としようもないものであるが、今回初めて目にしたように思うので、建立はいつかと見ると、2013年10月26日とある。 ということは、この一角には6年近くも足を踏み入れていなかったということか。(織田作之助像)<参考>織田作之助・Wikipedia 間もなく天神祭であるが、天神祭の祭提灯は天神橋の真ん中までしか飾られない。南半分には飾られないのである。 この理由は、天神橋の中央で神社の領域が分かれていて、北半分が大阪天満宮の領域、南半分は生国魂神社の領域となっているからである。 従って、天神祭に先立つ生国魂神社の祭の際は、天神橋の南半分まで生国魂神社の幟が立てられることになるという次第。 ということは、天神祭の折の船渡御の船の航行も北半分で行われるということなんだろうか。船渡御そのものを実際に目にしたことがないので、その辺の処は存じ上げぬことにて候(笑)。 次は、国立文楽劇場の前にある二ツ井戸。(旧跡二ツ井戸)(同上・説明碑) こちらは、2012年4月設置のようですから、7年余になります。何度も前を通っている筈なのに、気付かないものなんですな。
2019.07.18
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昨日(5/24)は、大学同期の会・夕々の会(よひよひの会)の例会でした。この会は毎年5月と11月に開催することになっている。 今回は、守〇君、谷〇君、中〇君、古〇君、西〇君、広〇君、蝶〇君、永〇君、枦〇君、岡〇君、深〇君、豊〇君、道〇君、佐〇君、前〇君、出〇君、楽老君、城〇君とヤカモチの19名が出席。 場所は、前回同様に「がんこ梅田OS店」。 城〇君は今回が初参加。同君とはまだ若い頃に同期有志の集まりで会ったこともあるほか、犬養万葉顕彰会や犬養万葉記念館(副館長)など万葉関連の催しで顔を合わせたりもしているので、この会へは初参加で卒業以来という向きも多かったようですが、小生には比較的顔なじみの人物。 また、楽老君ははるばる横浜からの参加ということで、皆さん大歓迎でありました。小生は先月16日に友人の家近氏の銀座での個展をご一緒するなどでお会いしているので、「その節はどうも・・」という程度の再会でありましたが(笑)。 定刻の午後5時半には全員が集合、幹事の守〇君の発声で乾杯、開会となりました。 この会が始まったのはいつからだろうと調べてみたが、正確なことはブログ過去記事を調べてもよく分からない。 2010年5月30日の記事がこの会の記事としては最初のものになるが、記憶では、これよりも前に1~2回集まりを持った筈であること、2007年の同期会関連の記事から推測すると、2007年段階では、まだこのような会を持っていなかったようなので、2008年か2009年かに定期的に同期の集まりを持とうということになったようである。 この会の発端は、楽老君がまだ現役で大阪勤務だった頃、同じく現役だった小生の勤務先に訪ねて来て、交流が始まったことを契機として、連絡のつく同期に声掛けをして飲み会を持つようになったことにある。守〇君が参加するようになって、彼が店の手配をしてくれるようになったことが次のステップへと進む状況が生まれたのではないかと思う。 次に、東京勤務だった谷〇君が定年退職してこの会に参加してくれることとなり、彼が会開催の連絡メールを手配してくれるようになって、今日の「夕々の会」の形が出来上がったという次第。 その意味では、楽老君、守〇君、谷〇君が夕々の会の生みの親ということになるかと思う。黒〇君、道〇君にヤカモチは当初からこれに参加しているから、会の成立にいささかの寄与はしているということになるか(笑)。<参考>夕々の会関連過去記事はコチラ。(夕々の会風景)(同上) 同期生は全100名。 この会は、開催場所が大阪市内なので、関西在住者が中心となるが、岡山や福井などから参加してくれる常連組もあるほか、今回の楽老君のように時に東京方面からの参加者もありで、このような人達にも案内メールを出しているので、登録メンバーは30名を超える。 この会が益々盛会となりますように、そして皆さんがいつまでもお元気でありますように。 最後に、幹事の守〇君から、令和最初の夕々の会ということで、令和に因んだ話で締めの挨拶をお願いしたい、という無茶振りの矢がヤカモチに飛んで来ました。 ご承知のように、令和は天平2年(730年)正月13日に大宰府の長官(帥)であった大伴旅人の屋敷に集っての宴会で、参列者が詠んだ観梅の歌32首(万葉集巻5-815~46)の序文の中の「初春令月、気淑風和」からのもの。 大伴旅人が大宰府長官となってこの時期に都を離れていたことの経緯や長屋王の変との関連などをお話してお茶を濁して置きました。 今から思えば、この時に大伴旅人が詠んだ歌を替え歌にして即興で戯れ歌でも詠んで締めればよかったのですが、突然のことにてそこまで気が回らず、まだまだ精進が足りぬようです。わが園に梅の花散るひさかたの 天より雪の流れ来るかも(大伴旅人 巻5-822) この会の生みの親でもある楽老君が久々に遠路横浜からこの会に参加してくれたことを感謝して、こんな戯れ歌にすればよかったのだが・・(笑)。我が園に楽老来たる久しぶり 浜よりこよひ流れ来たるか (偐家持) まあ、とにもかくにも楽しいひとときを過ごさせていただきました。 次回は11月15日開催ということで、午後7時45分頃に散会。<追記>太宰府銀輪散歩(4)・大野山霧立ちわたる 2015.1.17.
2019.05.25
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今日は中学時代の友人と一緒に恩師のお墓にお参りして来ました。 今回は、参加者が少なく、喜麻呂君、嶌郎女さん、ひろみの郎女さん、ヤカモチの4人だけ。 近鉄奈良線・生駒駅午前10時待ち合わせ。 少し早めに行って、お供えのお菓子でも買ってと、家を出たものだから、生駒駅到着が9時15分頃と、早過ぎる到着。 そして、迂闊なことに買い物をしようとした店が近鉄百貨店であったのだが、10時開店ということに気が回らなかったのでした。(生駒駅前) 仕方がないので、周辺をウロウロしたり、喫煙所でタバコしたりして時間を潰していると、嶌郎女さんがやって来られた。 暫くして、ひろみの郎女さんがその愛車で到着。お二人は車の中でお待ちいただくこととし、ヤカモチは生駒駅の改札口前に移動。喜麻呂君に電話を入れると「今、枚岡駅。間に合います。」との返事。生駒駅10時到着の電車の車内のよう。これをも「間に合う。」と言うか、であるが、まあ、そういうことはどうでもよろしい。 電車が生駒駅に到着と同時に百貨店が開店。両方一緒にはお迎えできないので、百貨店を優先。買い物を済ませることに。すると、喜麻呂君からの電話着信、「今、百貨店の中だから、そこで待っていてくれ。」と伝えて、支払いを済ませて、百貨店を出る。 嶌、ひろみ両郎女さんが待つ車へと向かい、我々もこれに同乗、霊山寺霊園へ。 墓の草引きをし、花を供え、線香を手向け、各自お参り。(恩師墓) 墓参を済ませた後、「山の音」という名のうどん屋さんで昼食。 我々が店に入った時は、一番乗りで他に客は無かったが、注文したのが出て来る頃には、店は満席に近くなっていました。どうやら、人気の店らしい。 昼食を済ませてもまだ11時半。何処かで珈琲でもと喫茶店で時間調整をすることに。 というのは、恩師の奥様から「今日が恩師の17回忌で、その法要を自宅で行うので、列席して欲しい」という話があって、12時半頃にご自宅に寄せていただく予定となっていたからでありました。 12時40分頃に恩師宅前に到着。 恩師にはお嬢様お二人、MちゃんとYちゃんがいらして、そのお二人とお二人の旦那さん、それにお孫さんらが来て居られました。 MちゃんもYちゃんも、二人がまだ小学生くらいの頃の面影しか記憶にないので・・実際はもう少し大きくなられてからも、また恩師のお葬式などでも顔を合わせているのだろうが、そういうのは記憶の外になっていて・・何とも久しぶりの再会という感じで、懐かしいことでした。 午後2時過ぎに恩師邸を辞し、生駒駅で皆と別れ、先般、脊柱管狭窄症の手術を受け、無事退院し自宅に戻っている叔母を訪ねる。 元気そうにしていて、ひと安心。午後4時半頃に叔母宅を辞し、午後5時半頃帰宅。 本日は、このようにして日が暮れました。
2019.05.12
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昨日(30日)は、中学時代のクラスメート男女8名によるミニクラス会・佐保川ウオークでありました。 参加者は、男が木麻呂、谷麻呂、喜麻呂君と小生の4名、女が嶌郎女、大郎女、堀郎女、塩郎女さんの4名、計8名である。但し、喜麻呂君と塩郎女さんはウオーク不参加で昼食会のみの参加。 ウオーク組は午前10時近鉄奈良線新大宮駅前集合。 小生は少し早めにと9時40分頃に到着の電車に乗ったが、既に木麻呂君と大郎女さんが来て居られました。嶌郎女さんが続いて来られ、谷麻呂君、堀郎女さんの順で到着。定刻の午前10時出発。(新大宮駅前) 今回のコースは2月24日に下見をし、それをブログ記事にしているので、当該記事も参考にご覧下さい。(尤も、下見の折は自転車であり、奈良駅から先に北山十八間戸に寄り、佐保川沿いを新大宮駅へと、本番とは逆コースを走っていますので、順序が逆になっていますが。)<参考>中学同窓との第2回ウオーク下見 2019.2.24. コースを地図で示せば下掲の通り。(コース地図 ――が往路、――が復路 昼食会の場所が南蛮亭) 駅前の道を北に進み、佐保川に出る。佐保川沿いの道を東へと歩く。(佐保川沿いの道) 奈良は2、3日前に開花宣言したばかりで、まだ三分咲きか五分咲き程度であるが、木によっては、そこそこ見頃のものもある。 桜まつり、が開催されているようで、佐保川小学校の前の佐保川河川敷ではこんな光景が。(桜まつり) 対岸の人の群れよりも多い群れがこちら側にも。その群れの中を進む。人の群れが途切れたところで、先頭を歩いていた小生が振り返ると、木麻呂君の姿があるだけ。他の4人が見当たらない。 小学生のブラスバンドの演奏が始まったので、これを道端から拝聴しようと人々にまじって立ち止まっている4名。谷麻呂君などはガードレールに凭れてじっくり落ち着いて聴こうというスタイル。 予定の行程では北山十八間戸到着11時半、昼食会の南蛮亭到着12時20分なので、予定外の場所で時間を潰されてしまうと、ちとまずいのである(笑)。呼びに戻って出発を促す。 JR奈良線の踏切を渡ると、大伴坂上郎女と大伴家持の歌碑がある。 (坂上郎女歌碑) (大伴家持歌碑) 歌碑は2月24日記事に掲載のものの再掲載です。 ここで、少し歌の説明などをする。 人道橋を渡って左岸から右岸に移動。 人道橋から下流、上流を眺めた写真を撮る。同じアングルで2月24日にも撮影しているので、これと対比するためである。 わが目論みとしては、満開近い状態の写真を掲載、こんなにも咲きました、という記事仕立てにするべしであったのだが、花の盛りはままならぬもの。こんな程度でアテがはずれました(笑)。(下流側の眺め)(同上、2月24日の状態)(上流側の眺め)(同上、2月24日の状態) 山桜など満開になっているのものもありましたが・・。(これなどは満開です。) 右岸側にも坂上郎女と大伴家持の歌碑がある。 こちらの坂上郎女歌碑は、犬養孝先生の揮毫による歌碑。所謂「犬養万葉歌碑」である。 (坂上郎女歌碑) (大伴家持歌碑) そして、大仏鉄道記念公園の枝垂れ桜です。 この桜は、ヤカモチの狙い通りの対比となりました。(大仏鉄道記念公園)(同上、2月24日の状態) ここでも、長屋王の万葉歌が併記された石碑があるので、その説明などをしましたが、丁度、その石碑の前のベンチに若いカップルが座って仲良くおやつを食べていました。 そのため、我々が彼らを取り囲むような無粋な形になってしまいました。それで、その場を取り繕うため、カップルの男性に対して長屋王の歌や長屋王のことを説明するという感じの話しぶりにし、不自然でない状況を作出することにしました。すると、その男性もなかなか気の利く奴で、「そうですか。」とか「ここに長屋王の歌が刻まれているのですか。」とか反応してくれて、恰も彼ら二人を含めたグループが一時的に成立ということになって、互いに気まずいことにならなかったのは幸いでした。 まあ、それにしても無粋なオジサン、オバサンたちであったことには違いありません(笑)。お二人にお邪魔したことを詫びて、先へと進む。 更に、東へ。奈良女子大の裏手で長慶橋という名の佐保川に架かる小さな橋を渡って、北へ方向転換。(長慶橋) 長慶、と言うと、思い浮かぶのは南朝の天皇である長慶天皇と、現役の頃の部下の女子社員が一字違いの似たような姓であったこと位。同行の大郎女さんが「主人から耳にした話」としてこの橋の由来のことを「~であったような気がする。」と仰っていましたが、帰宅されて、歴史好きのご主人に確認されたのか、或はご自身でお調べになったのか、彼女からメールが来た。それによると、「先にお話したのは私の思い違い、この橋は、明治時代の市会議員で、吉村長慶という人物が寄付したもの」だとのことでありました。 一条通りに出て右折、東へ。聖武天皇陵・光明皇后陵に立ち寄る。(聖武天皇・光明皇后陵 2月24日記事からの転載) 聖武天皇と光明皇后の下記万葉歌をいくつか取り上げる。妹に恋ひ 吾(あが)の松原 見渡せば 潮干の潟に 鶴(たづ)鳴き渡る(聖武天皇 巻6-1030)(あの子を恋しく思って、逢える日はいつかと待つ―その「吾(あ)が待つ」に因む吾(あが)のの松原を見渡すと、潮の退いた干潟を鶴が鳴き渡ってゆく。)秋の田の 穂田を雁がね 暗けくに 夜のほどろにも 鳴き渡るかも(聖武天皇 巻8-1539)(穂の出た秋の田を、雁がまだ夜の明けきらない暗いなかにも鳴き渡ってゆくなあ。)橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝(え)に霜降れど いや常葉(とこは)の木(聖武天皇 巻6-1009)(橘は実までも、花までも、その葉までも、枝に霜が降ることがあっても、枯れるどころかますます栄える常緑の木である。)我が背子と 二人見ませば いくばくか この降る雪の 嬉しからまし(光明皇后 巻8-1658)(あなたと二人で見たとしたら、どれほどこの降る雪が嬉しく思えたことでしょうか。) 転害門経由で北山十八間戸へ。(転害門 2月24日記事からの転載) 約束の時間より15分遅れの11時45分に、三角屋さんに到着。 三角屋さんはお好み焼き屋のお店。県から委嘱を受けて、北山十八間戸の鍵の管理などをされている。 女将さん(小生は「吉備郎女」さんと勝手名で呼ばせていただいている。)にお声がけして、北山十八間戸の開錠と案内をお願いする。<参考>三角屋さんの写真はコチラ 北山十八間戸は一昨年の8月に一人で訪問している。その折の記事をご参照いただくこととし、詳細は省略です。<参考>叡尊墓と北山十八間戸へ 2017.8.29. 北山十八間戸の写真はコチラ 前回と違って、同行者が5名も居たからか、吉備郎女さんは、施設について詳しくご説明下さいました。(忍性上人画像) 忍性は鎌倉の極楽寺で没していて、そこに墓があるが、この近くでは、生駒の竹林寺にも分骨墓がある。<参考>竹林寺・行基墓&忍性墓 2017.7.29. 此処、北山十八間戸では忍性の命日、7月何日とか仰っていたと記憶するが、その日に般若寺の僧侶などによる供養がこの画像の前で営まれるらしい。(同上の部屋から戸外を見る) 前庭に立って、南を見ると大仏殿が見える。(左手に若草山、正面に大仏殿が見える) 吉備郎女さんにお礼申し上げて、おいとまする。 昼食場所の南蛮亭へ向かおうとしたが、旧奈良少年刑務所建物を見て置きたいという人もいたので、少し足を延ばして坂道を上る。<参考>奈良少年刑務所、奈良豆比古神社、夕日地蔵 2017.8.30. 昼食場所の南蛮亭は法蓮中町交差点のバス停の西側にある。今いる場所からは、来た道を引き返し、聖武天皇陵から更に西へ一条通りを進むことになる。徒歩23~4分位だろう。刑務所前の坂道を下っている時に、塩郎女さんから電話がある。今、南蛮亭に着いたがどの辺りに居るのか、とのこと。刑務所の前なので、12時30分までには着けると思うと返事、南蛮亭へと急ぐ。 はい、南蛮亭に到着である。 この店は、塩郎女さんに予約していただいたもの。(南蛮亭) 塩郎女さん、喜麻呂君両名に迎えられ、全8名勢揃いとなり、昼食会となりました。 まあ、あとは毎度お決まりの、とりとめもない雑談ですが、気心の知れた仲なので、自然体。ゆっくりと食事と会話を楽しみました。 予定では、2時か2時半頃の解散でしたが、店を出たのは午後3時5分でした。奈良駅まで歩き、生駒駅で皆と別れ、生駒駅近くの病院に入院している叔母(父の妹)を見舞う。 26日に脊柱管狭窄症の手術をしたばかり。幸い、手術はうまくいったよう。昨日から本格的なリハビリを開始していて、表情も明るくなっているので安心である。そんなことで、今月10日以降、毎日のように病院通いをしているヤカモチである。<参考>中学同期関係の関連記事はコチラ
2019.03.31
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本日は、大学同期の友人H君が中心メンバーとなっている大阪カジノに反対する市民の会が主催する市民集会に参加して来ました。 会場は、阪急宝塚線曽根駅下車東へ徒歩3分程度のところにある豊中アクア文化ホール。午後2時開会ですが、H君よりスタッフとしてのお手伝いも頼まれていたので、12時50分現地集合ということで出掛けました。(阪急宝塚線・曽根駅)(アクア文化ホール、左手前が中央公民館、右が文化芸術センター) 駅前で昼食を済ませてからアクア文化センターに向かう。(アクア文化ホール、北西側から)(同上、正面) スタッフの方達も順次集合、12時55分、会場ロビーにプログラムほかの書類などを搬入、スタッフの役割分担の確認などの打ち合わせ。13時30分から入場・受付開始。(入場開始後開会前の会場内) 14時開会O氏の司会進行で、主催者代表のN氏からの開会の挨拶。 続いて、カジノ実施法の国会審議で参考人証言をされた山口美和子氏からギャンブル被害者の立場からの報告。カジノに反対している下記8団体の代表からひと言ずつのご挨拶。 あかんカジノ女性アピール 大阪いちょうの会 大阪を知り・考える市民の会 カジノに反対する大阪連絡会 カジノ問題を考える大阪ネットワーク ギャンブルオンブズマン 市民のための行政を求める会 どないする大阪の未来ネット 次に議員さんや次の統一地方選挙への立候補予定者さん達が登壇して短くご挨拶。 立憲民主党からは6名、日本共産党からは8名、自由党、社会民主党からは各2名、新社会党、緑の党、無所属から各1名、計21名が登壇。 あったかファミリーによる10分程度の寸劇の後、落語家の笑福亭竹林さんが登場し、カジノなどギャンブルに関連する小話で会場を笑わせて、聴衆の肩を適度にほぐしたところで、講演2題。〇「国際カジノ企業の大阪進出の意図」 国学院大学名誉教授 横山実氏 1.カジノ導入に一番積極的なのは、日本維新の会です。 2.最後は、大阪市民と大阪府民が決めます。 3.カジノ事業者の適正な選定は困難です。 4.カジノ導入の目的である「滞在型訪日観光客の増加」は、夢洲で実現できません。 5.国際カジノ企業がターゲットにしているのは、日本人です。〇「カジノができたら、誰が得するの?誰が被害を被るの?」 大谷大学社会学部教授 滝口直子氏 ・ギャンブルにハマった人がもたらす不幸な結末 ・ギャンブルをしない多くの人が苦しむ ・ギャンブルの治療プログラムは効果があるの? ・なぜ回復の場に登場しないの? ・ギャンブルにハマるなんて、ギャンブラーが「悪い」? ・ギャンブル産業は何も害低減対策を取らないの? ・情報の提供以外にはどのような対策を産業はとっているの? ・実効性のあるギャンブル害の低減策はある ・なぜ産業は実効性のある害の低減策を実施しないの? ・問題ギャンブルの社会的コストは高い ・税金は期待できるの?雇用は期待できるの? ・誰がカジノの恩恵を受けるの? 最後に、主催者側からのお願いとしてH君からのスピーチ(西澤信善著「カジノ戦争」の紹介、署名、入会、カンパなど)があって、大阪大学名誉教授の熊谷貞俊氏の閉会のご挨拶で幕となりました。16時30分。
2019.03.23
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(承前) 昨日の記事の続篇です。 船町渡船場の入口は道路から奥まった場所にあり、アプローチの通路は両サイドに車がズラリと駐車していることが多く、うっかりしていると見落として通り過ぎてしまう。 船町渡船場に到着。(船町渡船場・入口)(同上・説明碑)(同上・渡船と木津川運河) 船町渡船場は、川幅75mの木津川運河にある渡船場。「航路」が最も短い渡船場である。木津川運河は、木津川と尻無川とを連絡するため昭和4年(1929年)に開設されたという。運河の北側の地区が鶴町、南側の地区が船町。鶴町の道路が細かくあるのに対して、船町の道路は広い道が通っているだけで路地などはない。道の両側は広大な工場である。 この船町地区には、伊丹空港の前身である木津川空港などがあったとのこと。空港跡地が大規模工場の敷地に転用されたため、細かい道路を造る必要がなかったのでしょう。(船町渡船場から木津川渡船場への道) 船町渡船場から木津川渡船場までの道の両サイドは、ずっと大規模工場である。上の写真の道路左側はラサ工業の工場、手前の道路右側は中山製鋼のそれが続く。 なお、余談ですが、鶴町の名が田辺福麻呂の万葉歌1064番に因んだものであるのと同様、この「船町」という町名は、その一つ手前の万葉歌1063番に因んだものとのこと。あり通ふ 難波の宮は 海近み 海人をとめらが 乗れる船見ゆ (田辺福麻呂 万葉集巻6-1063)(天皇が通い続ける難波の宮は海に近いので、海人おとめたちが乗っている船が見える。)船町は 難波の宮に 遠みかも 工場のみにて をとめは見えず (偐家持)(木津川渡船場・アプローチ道路) 木津川渡船場への入口前到着。 渡船乗り場はこの奥、300m余先であるから、乗り場到着までは、まだ3、4分はかかる。(同上) ここの渡船にはベンチと言うか、座れる場所が船首側にある。 乗船者は我々5人だけ。 初めて「貸切状態」となりました。 他の4人は早速に並んで「着席」。大人4人が座れる程度の「椅子」の長さである。(同上・説明碑) 男4人が並んでお行儀よく坐っている様が何となくユーモラスな感じ。船尾側から立って見ていたヤカモチさんはパチリ1枚撮りましたが、これはブログには掲載できません。 カメラの向きを船外へずらして撮った写真。新木津川大橋の写真でも掲載して置くこととしましょう。(新木津川大橋) 木津川渡船場で対岸に渡ると住之江区である。 木津川はここでは、大正区と住之江区の行政区画を分かつ境界の役割を果たしている。 渡船場で下船して南へ500m位行くと東西に走る道路・南港通りに出くわす筈、これを左折して東へ、というのが事前の地図を見つつの図上作戦でありましたが、行けどもそのような道路はない。やがて正平橋まで来てしまい、間違いに気づき引き返す。何のことはない、南港通りは高架になっていて、階段を使って、これに上がらねばならないのであった。平面交差しているという思い込みによる、間違いでした。図上作戦の盲点は「頭上」にあったという次第。 南港通りの柴谷2丁目交差点で左折、木津川に並行して走る道路を北上する。やがて見覚えのある景色が現れる。道路際の擁壁だか塀だかに楽しい絵が描かれている場所である。今回、この絵の写真は撮っていないので、ご覧になりたいお方は、下記<参考>の記事をご覧下さい。<参考>銀輪渡船場巡り 2016.8.25. 前回の2016年の銀輪渡船巡りでは、木津川渡船場の後、正平橋を渡り南下、大和川畔まで行き、大和川沿いの道から住吉大社など経由するという大回りをして、北加賀屋公園からこの絵のある場所にやって来たので、今回の歩きコースのこの部分は通っていない。2006年12月の偐山頭火氏との銀輪行でも似たような大回りをしたので同様である。従って、今回の歩きコースのうちこの部分のみが未踏。その未踏部分に「頭上」問題が潜んでいたとは、「盲点」を突かれたと言うほかない(笑)。(千本松渡船場) ともかくも千本松渡船場に到着。(同上)(川口千本松の説明碑) この千本松という名は、江戸幕府が天保3年(1832年)に港湾整備のためここに石堤を築造し、堤上に多くの松を植えたことに由来するという。 千本松は、天橋立、美保の松原と並び称されるほどの美観であったというが、今はそれを偲ばせるものは、この「千本松」という名のほかに、何とても無かりき、である。 千本松渡船場を出て、木津川沿い右岸の道を北上し、突き当りを右に入ると、落合下渡船場である。 落合下渡船場に到着。 この辺りでは、木津川は大正区と西成区との境界になっている。(落合下渡船場) 乗船待ちをしているママチャリのオジサンに話しかけて少し雑談。 桜島から徒歩で渡船場巡りをしている処で、次の落合上渡船場でこちら岸に渡り返し、大正駅まで歩いて解散だ、と申し上げると、感心して居られたが、この方も自転車でいくつかの渡船場を渡って来られたと見えて、ガラ携を取り出して、船町渡船場や甚兵衛渡船場などの撮った写真を見せて下さいました。 この後、落合上渡船場を渡るのかとお尋ねすると、「対岸に渡ったら、そのまま新今宮まで帰る」のだと仰っていました。(同上・説明碑) 最後の渡船場、落合上渡船場到着は午後5時少し前。 計画段階での想定よりも2時間程度遅い到着である。(落合上渡船場) 対岸に見える公団マンションの向こう側の道路が大正通り。 この大正通りを右(北)に行けば、解散場所のJR大正駅である。(木津川水門) 船上から木津川水門にカメラでご挨拶申し上げ、今回の渡船場めぐりウオークへの「お別れ」とする。また誰といつの日か来む押し照るや 浪速水都の渡船場めぐり (偐家持) 千島公園と公団マンションの間の通路を通って大正通りへ。大正通りを北上。途中で目にとまったレストランで珈琲休憩、本日のウオークの総括。次回のウオークは10月下旬か11月上旬の金曜日に実施することとし、山の辺の道を「距離短めにして歩く」ということに決定。 帰宅したら、スマホの万歩計では3万3千歩余になっていたから、5人組ウオークとしては過去最多の歩数となったのではないか。「距離短めに」という意見が出るのもむべなるかなであります(笑)。 以上で、「5人組ウオーク・大阪渡船場めぐり」完結であります。 5人組の3万3千余歩に最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。=完=<参考>5人組ウオーク関連の過去記事はコチラ。
2019.03.10
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昨日(3月8日)は、友人の鯨麻呂氏、草麻呂氏、蝶麻呂氏、健麻呂氏との5人組ウオークで、大阪市内の渡船場めぐりをして来ました。 5人組ウオークは、当初は不定期であったが、最近は春と秋、年2回実施することになっている。 大阪市内には渡船場が8ヶ所ある。大阪市交通局の管理・運営にて乗船料は不要。無料である。小生は、2006年12月23日には偐山頭火氏と二人で、2016年8月23日には単独で、これをめぐっているので3回目の渡船めぐりとなる。尤も、前二回は自転車で廻っているので、徒歩では初めてになる。<参考>銀輪渡船場巡り 2016.8.25. 当初は、蝶麻呂氏からこのコースの提案があり、彼と二人で銀輪渡船めぐりをする計画であったのだが、具体的な実施打ち合わせの段階になって、蝶麻呂氏から「ウオークに切り換えないか」との修正提案があり、それなら「鯨麻呂氏など他の5人組ウオークのメンバーに声掛けをして、5人組ウオークの春例会にしたらどうか」というヤカモチからの逆提案によって、今回のウオークとなった次第。 午前10時半JR桜島駅集合・出発、渡船場全8ヶ所をめぐって、JR環状線・大正駅解散の計画。 小生は、環状線・森ノ宮駅で健麻呂氏と合流、桜島駅に10時27分到着。改札前には鯨麻呂・草麻呂・蝶麻呂の3氏が既に来て居られて、全員集合。予定通りの出発となりました。(JR桜島駅)(同上・左隣はユニバーサル・スタジオ・ジャパン) USJの西側を通り、天保山渡船場へ。 その前に、コース全体略図を掲載して置きましょう。(コース全体図)※(1)天保山渡船場 (2)甚兵衛渡船場 (3)千歳渡船場 (4)船町渡船場 (5)木津川渡船場 (6)千本松渡船場 (7)落合下渡船場 (8)落合上渡船場(天保山渡船場入口付近の案内標識) 天保山渡船場に到着。 「渡船めぐり」開始であります。(天保山渡船場 背後は5号湾岸線の天保山大橋) 渡船場待合室に掲示されている運航時刻表によると、次の運航は11時。 しかし、11時直前になっても船は対岸にとまったまま。 よく見ると、対岸を出発する時刻であると注記されている。 その記載の通り、11時になると対岸の船が動き出した。(同上 こちらに向かって来る渡船・海桜号) 乗船、出発。 乗客は、我々5人組の他に自転車の人が3人ばかり。 目の前を、遊覧船のサンタマリア号が通過。 上掲の案内標識に記載のあった、ユニバーサルスタジオ前の「船のりば」に向かっているのであろう。(サンタマリア号)(同上) サンタマリア号が行き過ぎると、大阪府警・水上警察のパトロール船(巡視艇と呼ぶのか警備艇と呼ぶのか、正式名は存じ上げぬ)が間に分け入って来た。(大阪府警の船 「なにわ・東京」という船尾の表示は何であるか) 対岸の天保山に到着。3分程度の船旅でありました。 天保山公園を通り抜け、観覧車の下を南へ。地下鉄大阪港駅方向へとブラブラ歩き。 時刻は既に11時半を過ぎていたので、少し早いが目にとまった北京園という中華食堂で昼食とする。(大観覧車) 昼食後、ウオーク再開。 最初に出会ったのはクラシックカーが前庭に並び置かれている赤レンガの建物。(GLION MUSEUM)(同上) 入館はしなかったが、前庭の車などを見て行く。<参考>GLION MUSEUM・施設紹介 同上・展示車両(同上) ミュージアムはそこそこに、南東へと進む。 難波津橋、日和橋を渡り、新福崎橋へ。(新福崎橋 下は天保山運河) 新福崎橋を渡って、北東へ直進。突き当りの住吉神社の前で右折すると、突き当りに甚兵衛渡船場がある。(住吉神社) 甚兵衛渡船場に到着。(甚兵衛渡船場)(同上 川は尻無川) 甚兵衛渡船場で尻無川を渡ると、川沿いに南西に河口へと進む。 次は、千歳渡船場である。(千歳渡船場) しかし、次の運航時間までかなりの間がある。 こういう待ち時間は、計算に入れてなかったので、想定した時刻よりも、かなり遅れ気味となっている。 待合室に居ると船が通過してゆく。 大正内港へと入港するのであろう。(渡船場の前を通過して行く船) やがて渡船が対岸の人を乗せて到着。(同上) 乗船。 右舷側を、タグボートに曳航された運搬船がゆっくりと進んで行く。 白村江の戦いで、百済・倭連合軍を壊滅させた唐・新羅連合軍の軍船のような姿ではないか、などと勝手な想像をめぐらす。(タグボートに曳航されて行く運搬船) 左舷遠くを、カラフルな船が行く。(行き交う船) 下船すると、折り返してコチラ岸の人が乗り込む。 (千歳渡船場と千歳橋)(千歳渡船場説明碑) この地の町名は「鶴町」であるが、これは下記の万葉歌から名付けられたという。潮干(ふ)れば 葦辺に騒ぐ 白鶴(あしたづ)の 妻呼ぶ声は 宮もとどろに (田辺福麻呂 万葉集巻6-1064)(潮が引くと、葦辺に群れ騒ぐ鶴の妻を呼ぶ声は、宮も鳴り響くほどだ。)(注)「白鶴」は百鶴の誤りとする賀茂真淵の説に従い、「百鶴(ももたづ)」とする本もある。 この歌は1062番長歌の反歌2首のうちの1首。 1062番の歌には「・・難波の宮は いさなとり 海片付きて・・(難波の宮は海に面していて・・)」と、海の枕詞として「いさな(鯨)とり」という言葉が使われている。 今回は鯨麻呂氏もご同行であるが、上記にこじつけて言えば、この歌は同氏とも少しばかり縁のある歌と言える(笑)。 下船して、少し行った処に、千歳橋の碑があった。(千歳橋の碑)<参考>千歳橋(大阪市)・Wikipedia 鶴町小学校の東通用門の前を過ぎ、突き当りを左折、この辺りかと思われる辻を右に入ると船町渡船場である。 まだ、渡船場を三つクリアしただけであるが、本日はここまでとし、つづきは明日にさせていただきます。(つづく)
2019.03.09
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昨日(24日)は、昼食後、智麻呂邸を訪問。 新作絵画4点を仕入れてまいりました。 アト3~4点の新作が入手できましたら、智麻呂絵画展でご紹介申し上げますので、暫時お待ち下さいませ。 併せ、次回の若草読書会の講義資料とすべきヤカモチ撰の「万葉集から聞こえて来る音100選」の万葉歌100首を書き出したレジメと今年1月5日の記事「こもりのみ居ればいぶせみ」を印刷に打ち出したものを各13部お届けして置きました。出席人数がヤカモチを含めて全14名と確定したからであります。 この100首の中から適当に何首か選んで当日の講話の対象とする所存ですが、どんな構成にするかは、これからぼちぼちと検討しますので、どんな話になるのかはヤカモチ本人にも未だ分かっては居ません。 音の話だけに、どんな風になるのか、はたまた「音を上げて」まとまりのない話になるのかは、予断を許さない、というのが現時点での状況であります(笑)ので、とても「乞うご期待」とは言えません。「乞うお赦しを」とならぬよう努める所存ではありますが。 智麻呂邸の若草ホールでご夫妻と暫し歓談しておいとま。 その後、少し遠回りしてブロ友の「ももの郎女」さんこと「☆もも☆どんぶらこ☆」さんが経営されている喫茶店「ペリカンの家」に立ち寄りました。 (喫茶「ペリカンの家」) (同上・店の前から向かいの病院側<入院病棟>を望む。) 上の写真2枚は共に、今回撮影のものではなく、去る11日に立ち寄った際に撮影のものですが、参考までに掲載して置きます。 今年に入って、このように3本の旗を店先に立てるようにされましたが、この旗によって店の存在をそれと気付く人も増えたと見えて、お客様の数は従来より増加しているとのことで、まことに喜ばしいことではあります(笑)。 「昨日(23日)は、ひろみさんがお立寄り下さいました。」とは、ももの郎女さんの弁。ヤカモチの中学時代の同級生でもあり、ブロ友でもある「ひろみの郎女」さんもこの店のお馴染み客。ヤカモチとは一日違いのすれ違いであったようです。 前回、11日に立ち寄った際に「キジバトがまた巣作りしようとしているみたい」と聞かされていましたが、既に卵を産んでいて温めているとのこと。確かに店先のシマトネリコの木の前回の巣にキジバトが1羽鎮座して居りました。 山鳩はまたも巣なすか間なくだに 遠慮知らなむ巣をなすべしや(石切王) (本歌)三輪山をしかも隠すか雲だにも こころあらなむ隠さふべしや (額田王 万葉集巻1-18) 前回のヒナの巣立ちは昨年12月4日のことであるから、それから未だ1ヶ月余にしかならない。同じキジバト夫婦なんだろうか。そうなら、そんなに頻繁に繁殖されては大家さんの「ペリカンの家」としても想定外にて、些か迷惑なことである。ヤマバトならぬジャマバトになってしまうというものではなかろうか。仏の顔も三度、ペリカンの顔だって同じ。 今回で最後にしなければ「ハタ迷惑」ならぬ「ハト迷惑」となることを鳩君も弁えるべきでありますな。 (参照:ももさんのブログ記事「巣立ちました」) ペリカンの家を後にして、少しばかり近隣を銀輪散歩したる後に帰宅。 スマホに北海道のブロ友・furano-craft氏から写メールの着信があることに気が付く。(下掲左) そして、今朝(25日)、もう1枚の写真(下掲右)が送信されて来ました。 (木工旋盤で加工中のお皿 furano-craft氏撮影) こういうものについての知識が殆ど無いヤカモチには、よくは分からないのであるが、同氏の説明によると、タモの輪切り板を皿へと製作加工している途中の写真だそうな。右の写真は完成した皿でしょうか。創作の舞台裏公開という訳であります。<追記> furano-craftさんのメールをよく読むと、右のお皿はイタヤカエデで作られたもので、左のタモ材とは別の作品でありました。(注)タモ=トネリコ、アオダモ、ヤチダモなどの別称。北の地の木地師にあれや我背子のつくる富良野の木の皿よしも (惟喬偐王) 「文徳天皇の第一皇子の惟喬親王は、当然皇太子に立つべきところ、弟の惟仁親王(清和天皇)に先を越され、無常を感じてこの山中(六ヶ畑)に籠居された。・・杣人に木を切らせ、親王みずからろくろを引くことを教えた。これがろくろのはじまりで、木地師の起源となったという。」(白洲正子「かくれ里」講談社文芸文庫139~140頁)という文章を連想したりもした次第(笑)。 本日は、若草ホールからペリカンの家へ、そして一気に富良野へと高飛びの日記でありました。
2019.01.25
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昨日は健人会の新年会でした。 この処の健人会の新年会は淀屋橋の「小ぼけ」という店がお決まりとなっている。 ブログ記事を遡って調べてみると2016年の新年会からこの店になっているから、今回で4年連続ということになる。(小ぼけ 右手前ビルの2階) 午後6時開会。午後5時半頃に店に着いた。少し早過ぎるかと思ったが、既に数名が来て居られました。 出席者は、木〇氏、杉〇氏、只麻呂氏、鯨麻呂氏、田〇氏、平〇氏、岡〇氏、今〇氏、徳〇氏、森〇氏、草麻呂氏、正〇氏、〇庭氏、生〇氏、竹〇氏、平〇J氏、宮〇氏、北〇氏とヤカモチの19名。 このうち、宮〇氏と北〇氏は今回が初参加。宮〇氏は存じ上げているが、北〇氏は多分初対面で存じ上げない方でありました。川〇氏、近〇氏、小〇氏は欠席。あらたしき どち迎へたり 健人会 またあらたしき 年を始めな (偐家持) 全員が揃ったところで、鯨麻呂氏の開会の辞と乾杯のご発声で開宴。 新加入の宮〇氏、北〇氏のスピーチ。 飲み食い、歓談。いつもの通りである。 午後8時半を過ぎた頃、平〇氏による手締めで閉会。 幹事の草麻呂氏から新年度の活動日程表が配布されましたが、それによると、 4月3日(水)ゴルフ 5月22日(水)ゴルフ 7月24日(水)納涼懇親会・料亭「新月」 10月2日(水)ゴルフ 11月20日(水)ゴルフ 1月22日(水)新年会・「小ぼけ」であるから、小生は7月24日と来年1月22日のみの参加である。 最長老の木〇氏は、夏の暑い盛りはノーサンキューで新年会のみ参加されている。従って、同氏については、また来年の新年会まで、草麻呂・鯨麻呂両氏とは次回5人組ウオークの時まで、他のお方については、7月の納涼懇親会まで、God be with you till we meet again、である。<参考>過去の健人会関係の記事はコチラから。
2019.01.24
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