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一昨夜(9日)は赤い訪問者の、昨夜(10日)は黒い訪問者の、訪問を受けました。 赤い訪問者は体長が4mm程度、黒い訪問者は10mm程度と、どちらも小さな虫である。(キウイヒメヨコバイの♂) 赤い訪問者はキウイヒメヨコバイという虫。 書斎の窓の網戸の網目を容易にすり抜けることのできる体のサイズ。 パソコンの横のメモ用紙の上にとまっているのに気づきました。 勿論、名前などは分からなかったのでネットで調べたのであるが、この手の虫は、ウンカ、ヨコバイ、キジラミなどであるから、調べる手がかりがあるというもの。ということで、撮影して写真をPCに取り込んでから、名前を調べて、キウイヒメヨコバイに到達したという次第。(同上) 爪楊枝(使用済みのものを偶々メモ用紙の上に放置していた)の先にとまらせてみると、上のような写真に。その体がいかに小さいのかお分かりいただけると思うが、それだけに撮影はなかなかうまく行かず大変でした。(同上) 何とか撮れたのが、これらの写真であるが、鮮やかな紅色の翅、パンダみたいな目の部分の黒い丸、なかなか可愛らしい虫だ。 胸部背面に3対の黒い紋があるようだが、紅色の翅に隠れてよくは見えない。しかし、上の写真では、うっすらとその黒い斑紋が透けて見える。 もし、これがセミくらいのサイズだったら、子どもたちの人気を集める虫になっていたかもしれない。 この虫は、キウイの葉を吸汁する害虫らしいが、日本人が発見した新種のヨコバイだそうな。 ネットでこんな説明文を見つけたので、それを転載して置きます。東京都病害虫防除所 発生予察情報特殊報 平成7年度第2号より抜粋(1)学名:Alebrasca actinidiae HAYASHI et OKADA (2)和名:キウイヒメヨコバイ(仮称) (3)形態:成虫は体長3~4mm、雌は黄白色、雄は前翅の基方3分の2が緋紅色で日時を経て濃色になる。後翅は翅脈のみが赤い。チャノミドリヒメヨコバイに似る。幼虫は、体長1~3mm、ふ化当初は白色で後に黄白色になる。胸部背面に3対の黒色紋があり、大きくなると目立つ。 (4)生態:神奈川県病害虫防除所の調査によれば、成虫は5月から11月に見られ、年4回程度の発生経過をたどる。卵は葉裏の葉脈内に産み付けられ、ふ化した幼虫は葉裏で直ちに吸汁・食害をはじめる。幼虫は、非常に活発に運動するが、他の葉への移動は少なく、そのため幼虫が多発すると被害が激しくなる。成虫も動きは活発で、主に葉裏に寄生し吸汁加害する。落葉とともに園から見られなくなる。越冬は卵で行われ、枝の芽基部に産み付けられる。翌年4月頃から幼虫は発芽して展葉まもない葉上に現れる。 (5)寄主植物:キウイフルーツに寄生し、それ以外の植物では寄生は確認されていない。 最近は、庭でキウイフルーツの木を植えて居られるお宅もよく見かけるようになったので、この虫も増えて来ているのかもしれないが、こんな赤いヨコバイを見るのは初めてである。 普通よく見るウンカやヨコバイは黄緑色である。 キウイヒメヨコバイもメスや成熟する前のオスは薄い黄褐色だそうだが、オスは成熟するに伴って、翅がこのように濃い紅色に変色するのだという。(同上) 撮影が終わった後、何処かへ飛んで行ってしまったので、行方不明となりました。何しろ小さいので、目を離すともう行方知れずなのである。 次の黒い訪問者は、翅を持った黒いアリである。 これは、体長が10mm程度のやや大きい目のアリであるから、網戸の網目をすり抜けて部屋に侵入することは出来ないはず。どこの隙間から侵入したものか。 激しく動き回るのと、翅で飛んで行ってしまうことも懸念されたので、捕獲してティシュに包み込んで、しばらくその中の狭い空間でおとなしくしていてもらうことにする。PCでの作業を30分ほどしてから、そっとティッシュを開くと、アリさんはおとなしくなっていました。 撮影開始。(翅蟻 クロオオアリ) 白い世界に包まれて混乱したのも束の間、今はもうすっかり落ち着いたようで、ティッシュの凸凹を探りつつ、ゆっくりと動き回る。 アリも色々な種類が居るが、これはクロオオアリだろうと思う。(同上) ティッシュがいいアングルを作ってくれるので、面白い写真が撮れる。(同上) 翅があるアリは女王アリと女王アリと交尾するためのオスのアリだと思うが、オスのアリは交尾すると間もなく死ぬそうだから、これは女王アリで、何処かで新しい巣を地中に作り、卵を産むつもりで、飛び回っていたのかもしれない。(同上) うろうろ動き回るものの、翅で飛び立つ気配がないから、そろそろ卵を産める場所を探す段階に来ているのかもしれない。 しかし、ティッシュは彼女の辞書にはないだろうから、「ここは一体なんなの。」と少し慌てているのかも。(同上) 余りアリをからかうのも、いい趣味とは言えないから、撮影終了。ベランダから外に向かって、ティッシュに「フーッ」と強く息を吹きかける。 アリさんは吹き飛ばされて、暗い庭の地面へと消えて行きました。 着地した我が庭先で新居の巣を構えられても困るというものであるが、考えてみれば、左程に困るということでもないから、彼女の意のままに任せましょう(笑)。(同上) 赤い虫がオスで、黒い虫がメス。 何だか逆のような色具合でしたが、赤と黒の彼らは今頃は何処でどうしているのやら。 わが庭にはキウイの木はないのであるが、赤いキウイヒメヨコバイはオスだから、卵を産むべき木がなくても関係ないか。 クロオオアリの女王は雨で濡れた庭の土を掘り返して、地中深くに卵を産んでもいるか。 されば、アリにとってもヒトにとっても、この後、余り雨が降り過ぎないのが一番、そのことを祈りましょう。
2020.07.11
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数日前からクマゼミの声が喧しい。 こいつが鳴きだすと梅雨明けというのが、ヤカモチ気象台の見解。 そのクマゼミの鳴き声にせかされたか、大阪管区気象台も、今日、近畿が梅雨明けしたとみられると発表。 梅雨時は苔が元気であるが、キノコも元気になるのか、このところの銀輪散歩で立て続けにキノコを目撃した。(コフキサルノコシカケ)※サルノコシカケ科・Wikipedia これは、加納緑地で見かけたもの。 遠目にも、それと認められたので、近くまで行って撮影。 切り株の反対側に回ると、こちらにも同じようなキノコがあった。(同上) サルノコシカケにも色々な種類があるようですから、何とは断定できないのですが、一応コフキサルノコシカケということにして置きます。 加納緑地には、猫はいるが猿はいないので、そのサイズから言っても、ネコノコシカケと言う方が適切かも。 この切り株から少し離れたところで、しゃがんでじっと地面の草を見ている女性がいた。 何をされているのかと声を掛けると、雀の子だという。 覗き込むと、小さなサイズの一羽の雀が草の間でチュンチュンと鳴いているのが見えた。雀の幼鳥である。 彼女の話によると、石切公園近くの道路端に居たのを、車に轢かれてはいけないと、保護したのだと言う。自宅に連れ帰り、米粒やご飯粒などの餌を与えたが食べようとしない、水も飲まない、野鳥を飼うことは法で禁止されているから処置に困り、この公園の森ならと放しに来たのだと言う。 何でも最近、愛犬を癌で亡くし、所謂ペットロスで滅入って居られたようにて、この子雀を死なせてしまっては、耐えられないことになる、というような話であった。 その子雀、まだ十分には飛べないようで、ピョンピョンと草の間を跳んで移動するだけ。親鳥から巣立ちを促されたのか、その前段階で巣から転落して親鳥とはぐれてしまったのかは不明であるが、何か思いつめたような彼女に悲観的な意見を述べることは致し兼ね、「もう巣立ちをしているのだから、ここなら草の実などこぼれ落ちた餌となるものも豊富だから、何とか自力で生きていけるのではないか」と申し上げる。 その言葉で、立ち去り兼ねていた彼女も決心がついたのか、「ありがとうございました。」と言って去って行きました。子雀に「頑張って生きるんやで。」と言い残して。 その後、この子雀の姿は見ていないから、無事に生きているのかどうかは知る由もないのだが、カラスなどに突っつかれることもなく、猫や鼬などに襲われることもなく、自力で餌を食べて生き延びていることを祈るしかないのである。 さて、話が脱線しました。 もうひとつ別の場所で、立ち枯れた木に、サルノコシカケ風のキノコを目にしました。(同上) 完全に枯れてしまっているので、何の木であるかなどは分からないのであるが、上の切り株の方がクヌギかコナラのようであったのに対して、こちらはそれとは違う樹種のよう。 形はサルノコシカケのようであるが、色は黄色。キノコの子実体も成長し始めと成熟した段階では色も形も大きく変化するから、これも同じコフキサルノコシカケということにして置く。 この木の裏側にあったのも同じく成長し始めのキノコ。これも同じ種類のキノコなんだろう。(同上) キノコは素人には何とその名を特定するのが難しい。 こちらは、まだ現役の元気なケヤキの幹の根元に生えていたもの。(同上) これもサルノコシカケなんだろう。サイズ、形状から言えば「猿のお菓子」といったところか。 キノコの万葉歌は、この1首があるだけ。高松(たかまつ)の この峰(みね)も狭(せ)に 笠(かさ)立てて 盈(み)ち盛(さか)りたる 秋の香(か)のよさ (万葉集巻10-2233)(高松山のこの峰も狭くなるほど、笠を立てて満ち溢れている秋の香りの良いことよ。)(注)「高松」は「たかまと」と訓み、高円山のこととする解釈もある。 「秋の香」は、松茸の香のこと。 水走公園では、こんなキノコがありました。(オオシロカラカサタケ) 上のマツタケの万葉歌にかこつけて歌を詠めばこうなるか。水走みずはいの 草押し分けて 大白の 唐笠茸の 色の白さよ (偐家持)(同上)※オオシロカラカサタケ・Wikipedia(同上) こちらは、花園中央公園の名前不明のキノコです。(名前不明) これは今月12日の記事にて紹介したオニフスベですが、再掲載します。 同じく、花園中央公園でのものです。(オニフスベ<再掲載>)※オニフスベ・Wikipediaおにふすべ 草間にでんと 場違ひに ふわふわ白き なりのをかしさ (偐家持) 今日はきのこ散歩でありました。<参考>花関連の過去記事 花(5)・2022~ 花(4)・2020.4.~2021 花(3)・2017~2020.3. 花(2)・2012~2016 花(1)・2007~2011
2023.07.20
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ちょっと日付は前後しますが、5日と6日の銀輪散歩で見つけた白い茸と白い花を掲載することにします。 先ず、花園中央公園で見つけた白い茸ですが、名前は分りません。(雪ん子茸?) キノコというのは色も形も色々あるが、総じて何となくユーモラスな風情がある。「雨後のタケノコ」ではないが、台風の長雨の所為で、キノコも「雨後のキノコ」となったのであろうか、公園の芝生の上のをちこちにひょっこり顔を出していました。 上のキノコが一等美しく、白雪茸、雪ん子茸、なんぞと勝手な名を付けたりして居りました。(芝の上のポニョ) そして、上のキノコは、ちょっと古い喩えになりますが「崖の上のポニョ」ならぬ「芝の上のポニョ」であります。 下のキノコは一列縦隊。散歩にお出掛けであるのか、それともお引っ越しであるのか、キノコに聞いても答えてはくれませなんだ。 それはさて置き、このキノコ達は何という名?食べられるのか、それとも毒キノコなのか? (茸の散歩) 白いキノコの次は、白い花。 カラスウリと名前に「カラス」が付いているのに、花は真っ白であります。それに形が面白い。実の「瓜」の方は剽軽なイメージであるが、花は見ようによっては妖艶でもある。まあ、河童の頭に見えなくもありませんがね。(カラスウリの花)(同上)(同上) 恩智川の川辺にて白く咲く花は何かとカメラを向けたら、そこにベニシジミが止まっていました。眠り込んでいるのかカメラを近づけても逃げない。(ベニシジミのまどろみ) 花よ蝶よ、と云うけれど、花はとりどりに歌に詠まれているが、万葉集には蝶の歌は登場しない。花鳥風月と云う通り、「チョウ」は「鳥」であって「蝶」ではないのである。花札の「猪鹿蝶」とは違うのであります。 しかし、蝶が居なかった訳はないのでありまして、大伴旅人邸で催された梅花の宴で詠まれた歌32首(巻5-815~846)の序の中に「・・庭には新しき蝶舞ひ、空にはもとつ雁帰る。・・」と、蝶が登場している。(まだ寝ている) 万葉には蝶の歌はないが「シジミ」の歌ならある。と言っても「ベニシジミ」では勿論ない。住吉の粉浜の蜆の「シジミ」である。 住吉(すみのえ)の 粉浜(こはま)の四時美(しじみ) 開(あ)けも見ず 隠(こも)りてのみや 恋ひわたりなむ (巻6-997)(住吉の粉浜の蜆のように、殻を閉じて開けようともせず、ずっと心に秘めて恋い続けるのでしょうか。) ということで、偐家持はベニシジミの歌を詠んで、万葉の足らざるを補うことと致しましょう(笑)。べにしじみ 恩智の岸辺 起きもせず 眠りてのみや 恋忘れなむ (偐蝶麻呂) そう言えば、宝塚の蝶麻呂氏とはご無沙汰していますなあ。いかにかお過ごしにてあるらむ。 <追記・注>縦長写真(「茸の散歩」2枚と「ベニシジミのまどろみ」)が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月29日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.09.08
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本日は雨。 首都圏の方は大雪であったようですが、こちらは、雨。 家で終日ゴロゴロして居りましたので、書くこともありませぬ。 で、雨のすさびの言葉遊びであります。虫の駄洒落。 このような愚にもつかぬものは、 というお方は「ムシ」して下さいませ。蜻蛉五十歩百歩トンボ、トンボの散歩、飛ばぬトンボはボトンと落ちるボストンのトンボとトンブクツーのトンボに道頓堀のトンボとんでもないですととぼけるトンボボンネットに寝てるトンボはトンマなトンボトンボの楽器トロンボーン蟋蟀凍るコオロギ、オロオロコオロギコロコロ鳴きぬ「花は香炉に打薫じ、そこはかとないコオロギです」(中原虫也)松虫待つだけは待とうマツムシ煮ても焼いても食えぬマツムシ蒸してはどうか陸奥のマツムシ、コツを掴んだマツムシ、真夏のマツムシ秋待つやヤツハシは齧ってもマツムシキリギリスキルギスから来たキリギリス、イギリスからも来たキリギリスギリギリで生きてこそキリギリス(裏磐梯のキリギリス・2012年10月5日の日記掲載写真の再掲)蟷螂なまくらカマキリが鎌倉なら、締切守らぬカマキリが島倉で、腑抜けたカマキリはフマキラーハマキやるカマキリとハラマキしてるカマキリ処構わず霧吹きするな、カマキリ寝巻のまま種蒔きするな、カマキリカマキリは居らんじゃろキリマンジャロカマキリいそうじゃ石切もうこれっきりですか。いえ、カマキリです。ピンからキリまでみなカマキリ、カマボコ切るカマキリキリなくカマを掛けるからカマキリ飛蝗威張ったバッタは張っ倒せ、でしゃばったバッタはぶっ倒せ口はばったいこと言うなバッタ、ばったり出会ったのはバッタ似たり寄ったりバッタのはったり、のこったのこったバッタの突っ張りまたまた待ったか勝手なバッタ、負けても勝ったとうがったバッタでしゃばったバッタがはまったところ、縛ったところでしがないバッタ立ったバッタ頭打った「いったあ~」と言ったわっと来てさっと去った雑多なバッタ、勿体ぶったらバッタになったなんてこったバッタンキューのバッタ欲張ったバッタと頑張ったバッタはちょっと違うだけだった、バット持って振ったバッタ三振バッターアウト蝉隅に居ても蝉、墨を塗られても蝉、いつもの笑みのいつもの蝉手短に言えばセミ、蝉が2匹でセミダブル、手ぶれの写真セミだぶる (ついでに回文を一つ・・夜店の前の絵馬の蝉よ)詰まらぬ駄洒落でお目汚しでございました。では、本日はこれにて。
2013.01.14
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8月28日の日記で、コナラの木に「クヌギ」という名札が掛けられていたことを記しましたが、それがこれです。 <参考>青雲会囲碁大会・秋の気配 2016.8.28.(「クヌギ」と書かれている「コナラ」の木) 確かに、コナラとクヌギはよく似た木であるから、花園中央公園のこの名札について小生も長らく疑うということもなく来ました。 しかし、先日、見上げると実はコナラのそれであったという次第。(クヌギ)(コナラ) 花園中央公園の桜広場の一角に、コナラとクヌギが並んでいる場所がある。ホットケーキみたいな茸が生えている切株のスグそばがその場所。 こちらは、何の木とも表示はないのであるが、上の2枚の写真を見比べて戴いてもお分かりのように、殆ど区別がつきません。葉の方も下の2枚の写真のようによく似ています。クヌギの葉の方がコナラのそれよりも幾分細長く大きいのであるが、別々に見て区別できる人はそんなには居ないでしょう。 (左:コナラの葉、右:クヌギの葉) しかし、実は一目瞭然。全く違う。 友人の小万知さんは、コナラの実はベレー帽を被っている、と仰っていましたが、それに倣うなら、クヌギの実はアフロヘアーのカツラを被っていると言うべきでしょうか。 (左:コナラの実、右:クヌギの実)(コナラの実とクヌギの実) コナラもクヌギもシイタケの原木になるほか、薪炭その他様々に利用され、古来から生活に密着した樹木である。そういうこともあってか、コナラもクヌギも万葉に登場する。〇コナラの歌下野(しもつけの) 三毳(みかも)の山の 小楢(こなら)のす まぐはし兒ろは 誰(た)が笥(け)か持たむ (万葉集巻14-3424)(下野の三毳山に生えるコナラのように美しいあの子は、どんな男を夫として、その笥を持つのだろう。)〇クヌギの歌紅(くれなゐ)は 移ろふものぞ 橡(つるばみ)の 馴れにし衣(きぬ)に なほ及(し)かめやも (大伴家持 万葉集巻18-4109)(紅色は華やかだけれど、すぐに色褪せるもの。地味なつるばみ色に染めた衣にどうして及ぶことがあろう。) コナラは、若い可愛い娘の比喩として使われているのに対して、クヌギ(つるばみ)は(それで染めた衣のことであるが)、古女房の比喩として使われているところが面白い。(クヌギの実) クヌギは「国木・クニキ」の転訛だとも言われている。 (同上) クヌギの実の落ち方も、アフロヘアーのまま落ちる奴、ヘアーはそのまま残し丸坊主で、つまり「実(身)一つ」で落ちる奴とそれぞれであるが、どちらが正規の落ち方なんだろうか(笑)。上の右の写真の実は蓋の中で反転しているから、この後は丸坊主で落下するのだろう。それに対して左の写真のように蓋を付けたまま落ちている奴もいる。発芽ということで言えば、丸坊主で地面に落ちた方が有利かとも思うが、これはどちらにせよ「ドングリの背比べ」に過ぎないのかも知れない。
2016.09.10
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10日から2泊3日で富山県高岡に銀輪散歩に行ってまして、昨日帰って来ました。 今回の旅は、友人オガクニマン氏が10日からJR北陸旅で金沢方面へ行くとブログに書いて居られたのと、ネットで「富山庄川小矢部自転車線」というサイクリングロードの存在を知ったこと、天気予報を見るとお天気の好さそうなのは12日頃までで、以後は梅雨に入るようで雨が続くと見込まれたこと、などから思い立って出掛けることにしたものです。 オ氏は午後3時過ぎ京都発のサンダーバードで行くと言っておられましたが、それでは初日のサイクリングは無理なので、小生は一足早く京都9時10分発サンダーバード7号で高岡に向いました。 高岡着11時45分。高岡へは何回も来ているが、直近は2007年10月のことなので、2年半ぶりの訪問である。駅改札を出ると先ず出迎えてくれるのは大伴家持の像と「もののふの八十をとめらが汲みまがふ寺井の上のかたかごの花」の家持の歌である。(駅前の大伴家持像) 大伴家持は天平18年(746年)6月21日に越中守となり、天平勝宝3年(751年)7月17日少納言となって8月5日に京への旅に発っていますから、約5年間(29歳から34歳まで)この地に暮らしている。家持にとっては初めての地方赴任でもあり、越の国の風物に大いに刺激を受けたのでもあろう、多くの歌をこの地にのこしている。 駅前で昼食を済ませ、二上山を目指す。二上山は伏木の方からはこれまでに3回登っているが、反対の守山側からは登ったことがないので、今回はこれを行くことにする。 高岡鋳物発祥の地、金屋町の格子の家並みを通って、小矢部川を目指す。(金屋町) 石畳は自転車にはガタガタしてもひとつであるが、千本格子の家並とマッチしてなかなか風情のある景観を醸している。一角には鋳物資料館があり、ウラが緑地公園となっていて鋳物発祥の碑が建っている。 慶長14年(1609年)前田利長が高岡城築城の際に城下の産業発展のため砺波郡西部金屋に住んでいた鋳物師7人衆を呼び寄せたのが金屋町の始まりとか。この鋳物師達は河内国丹南郡狭山郷日置庄(現堺市美原区)に住んでいた鋳物師の流れを汲む鋳物師であった、ということで鋳物発祥の地、河内と繋がるのである。(金屋緑地公園)(高岡鋳物発祥地の碑) (キューポラ) (有礒八幡の鋳物関連碑)(有礒八幡宮) 金屋緑地公園を出ると小矢部川の支流、千保川。千保川沿いに行くと小矢部川に出る。(千保川)(小矢部川)(二上橋から見る二上山) 「射水川 い行き廻れる たまくしげ 二上山は 春花の 咲ける盛りに 秋の葉の 匂へるときに・・(大伴家持・巻17-3985)」と歌われている射水川はこの小矢部川のことである。小矢部川の岸辺に立って二上山を眺めると万葉の世界が彷彿として来るようでもある。 二上大橋・守山大橋を渡って二上山万葉ラインの坂道にとりかかる。登り切ると守山城(二上城)本丸跡で、頂上から越中平野が一望できる。(守山城跡から高岡市街を望む。)(守山城跡から小矢部川を望む。手前の橋が守山大橋。) 山頂で休憩しているとバスがやって来て沢山の方が降りて来られました。バスには「八幡中学3年4組同窓会」の表示。運転手さんに声を掛けると、岐阜県からとのこと。 城跡から二上山頂下の家持像までは概ね下りで一気に行ける。城跡までの登りの苦しさが嘘のような快適さ。2年半ぶりに家持殿との再会である。 (大伴家持像) 家持像の脇から山道を少し登ると二上山頂。日吉社の小さな祠がある。少し休憩して下山していると、先程、守山城跡でお目にかかったご夫婦連れにまたお会いする。 男性「この上は何かあるのですか?」 小生「小さな祠と山頂を示す標識だけです。」 男性「眺めはいいのかね?」 小生「いや、木で眺望は殆どききません。」 男性は少し躊躇って居られたが登って行かれました。小生が自転車で登って来ているので、地元の人間と思って居られたようだが、大阪からと聞いて驚いて居られました。そして、何とご夫妻は高岡の方でありました。初めて二上山に登って来たとのことですが、地元の人に大阪の人間が二上山頂の様子を教えているのだから面白い(笑)。(二上山頂、標高274米とある。) 家持像にお別れして、伏木の勝興寺へと万葉ラインを下る。この道は何度走っても爽快である。ホトトギスも鳴いている。(二上山万葉ラインから氷見市方面を望む。)(万葉歌碑) ちょっと写りが悪いが、中腹の二上山郷土資料館前の歌碑である。山頂の家持像台座裏の歌と同じ、二上山之賦の反歌である。多麻久之気 敷多我美也麻尓 鳴鳥能 許恵乃弧悲思吉 登岐波伎尓家里 玉くしげ 二上山(ふたかみやま)に 鳴く鳥の 声の恋しき ときは来にけり (巻17-3987 大伴家持) 二上山万葉ラインを下り切ると越中国庁跡の勝興寺である。現在工事中にてちょっと雰囲気を損っているが、そういうものはなるべく見ないようにすればよろしい(笑)。(勝興寺本堂) (国庁跡碑) (裏面の歌碑)安之比奇能 夜麻能許奴礼能 保与等理天 可射之都良久波 知等世保久等曽あしひきの 山の木末(こぬれ)の ほよ取りて かざしつらくは 千年(ちとせ)寿(ほ)ぐとぞ (巻18-4136 大伴家持) (つづく)
2010.06.13
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10月4日の夜8時半頃の話。 1週間も前の話で恐縮でありますが、今日はこの話にお付き合い願うこととします。 ノートパソコンに向かっていると、右上腕部に何かの虫が這っている感触があり、見ると、小さなハエトリグモである。 歩き回り、走り回る徘徊性の蜘蛛。 徘徊性という点ではヤカモチと相通じるものがある(笑)。 多分、体長は5mm程度。 手で追い払おうとすると、ジャンプしてテーブルの上へ。 30cm以上の大ジャンプである。 カメラを取り出し、撮影しようとすると、PCの裏側に回り込む。 カメラで追いかける。 ハエトリグモは前方側に4個、後方側に4個の眼を持っているので、どの方向から接近しても、こちらの動きはお見通しのようで、逃げてしまい、なかなか上手く撮らせてくれない。 なんとか撮れた写真がこれ。(ハエトリグモ) ハエトリグモは世界で6000種、日本でも105種と種類が多く、何という種類のハエトリグモであるのかは、この写真では特定しがたい。 体の色や体長などから、可能性が高い種として、次の三つのどれかではないか、というのがヤカモチの結論。 ミスジハエトリの雌(体長7~8mm) チャスジハエトリの雌(体長10~12mm) アダンソンハエトリの雌(6~9mm) 体長からは、アダンソンハエトリの可能性が高く、チャスジハエトリの可能性は低いことになるが、成熟した蜘蛛であるとは限らず、未だ「子ども」の蜘蛛であるということも考えられるから、体長だけで判断はできない。 上で述べたように、前後に各4個、計8個の眼を持つ蜘蛛。 その後ろ姿を撮っていたら、いつの間にか体を反転させて、コチラ向きになっている。(同上) 肉眼では分からなかったが、撮った写真をPCに取り込み、トリミングして拡大すると、ハエトリグモは、カメラに正対し、しっかりとこちらを見ているのでありました。 前方側の眼4個のうち、内側の2個は大きな眼で、外側の眼や後ろ側の眼の何倍もの大きさであるから、その分視力もよく、よく見えるのだろう。 背後の眼は天敵などを見つけ、身を守るためにいち早く逃げる、移動する、ジャンプする、そのために必要な眼に過ぎないから、映像を鮮明に見極める必要性は左程に高くはない。これに対して前方部の眼は獲物を捕らえるための眼であるから、対象物が鮮明に見えなくてはならない。対象物との距離も正確に見定めなくてはならない。そんなことで、正面の2個だけは特別に大きく発達したのだろう。 背後から接近して来たカメラ、そしてそのカメラを操っているヤカモチがたたかうべき敵なのか餌となりうる生き物なのかを見極めるため、素早く体を反転させたのであろう。 上掲の写真をご覧になればお分かりいただけるかと思いますが、完全に目が合っている感じです。 見ているつもりでいたら、逆に「見られていた」という次第。 まあ、ハエトリグモからすれば「何やら見られている気がしたので、見返してやった」というところでしょうか。 それにしては、何やら「親愛の情」が感じられる視線にて、敵意はないようです。ということは、天敵ではなく「餌」と思ったのだろうか。ご馳走を前にした人間の視線、目の表情もかくにしあるか。 しかし、空腹ではなかったようで、こちらに飛び掛かることもなく、再び体を翻すとハイジャンプ、何処かへ飛び去りました。 或いは、「何だ、さっき腕にとまってやった人間じゃないか。実に、つまらん。帰って寝よう。」とでも思ったのかも。 以上、クモをつかむような話でありました。やみくもに あれこれ書くも くもつかむ 話のごとや なりにけるかも (三匹の子蜘蛛)<参考>ハエトリグモ・Wikipedia アダンソンハエトリ・Wikipedia 虫関連の過去記事はコチラ。
2021.10.12
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昨日、今日といい天気です。 梅雨が明けた、と言ってもいい位な感じなのだが、前線の配置状態や太平洋高気圧の張り出し方など天気図的には、まだ梅雨明け宣言するのは早いというのが、今日の大阪ということでしょうか。(2020年7月18日午後3時半頃の水走公園の空) 上は、昨日の水走公園の空の写真である。 今日の空は、昨日よりも少し雲が多い印象を受けるが、青い空に白い雲という好天気にて、もう梅雨明けの空という風情である。 話が少し逸れるが、一昨日(17日)あたりから背中が重苦しく痛い感じがあって、肩でも凝っているのかと、昨日(18日)銀輪散歩で立ち寄ったこの水走公園で体を反らしたり、腕や肩をグルグル回したりの体操を、かなり入念にやってみたら、却って痛みが酷くなったようで、帰宅した夕刻からはズキズキと疼くような具合となり、咳をしたり、体をひねったりすると少し強い痛みが走るようになった。 で、ネットで「背中が痛くなる病気」で調べたら、狭心症、心筋梗塞、肺塞栓症、椎間板ヘルニア、十二指腸潰瘍、急性大動脈解離、膵炎、膵臓癌、腎炎、腎結石、尿管結石、胆嚢炎、脊髄腫瘍、骨粗鬆症による圧迫骨折、などが見つかった。 背中の痛む部位で病気は異なるが、背中の中ほどだと大動脈解離、心筋梗塞、肺塞栓症などが該当することとなる。 十数年前(2004年)に自転車の事故で背中の肋骨を5本折ったことがあった。その時の激痛は息もできない位のものであったが、そのような激しい痛みになる前の状態か幾分治癒軽快した段階の背中の痛みに感じが似ている。もし、骨折ならその部分に圧力を加えると強い痛みが走る筈だが、そういう風でもない。 こうしてPCに向かっていても、姿勢を伸ばしたり、変えたりすると背中に痛みが走る。これ以上、痛みが強くなると困るし、何か悪い病気であっても困るということで、救急医療病院でもある馴染みの病院へ電話を入れて、症状を説明の上、日曜日だが診察して貰えるかを照会すると、OKの返事。 一応、診察していただいた。問診と簡単な触診のみであったが、内臓関係の病気、動脈解離や心筋梗塞など重大な病気の可能性は低いと認められるので、筋肉の炎症の可能性が高いという診断。 明日、月曜日に整形外科を受診してみて下さい。痛みが激しくなったり、痛む場所に変化が見られるなどがあれば、すみやかに連絡して下さい、というのが医者の指示。湿布薬をもらった。が、これは貼っていない。この暑い時期に貼ると皮膚が荒れて激しい痒みに襲われるということを何度か経験しているので、使わないで様子を見ることとする。 結論は、明日以降に持ち越しであります。 さて、脱線話が長すぎました。本論に戻します。 昨日、水走公園で珍しい虫を見ました。(アオメアブ) トンボのような細長い胴体で、翅はアブやハチのような折りたたみ型という面白い姿。 調べると、ムシヒキアブ科に属するアブで、複眼が緑色なのがアオメアブといい、黒色なのがシオヤアブというらしい。 これは美しい緑色の眼球であるから、アオメアブである。(同上)<参考>アオメアブ シオヤアブ 頑強そうな逞しい脚、最強のハンターと呼ばれるそうだが、いかにもそんな風貌の虫である。(同上)(同上) この公園では、青い目の白猫にも出会いましたが、それはまた別の機会にご紹介申し上げましょう。猫は虫ではないので。 で、アオの付く蝶の写真を掲載して置きます。この蝶も水走公園の同じ広場で舞い遊んでいました。(アオスジアゲハ) 寝転がっていた木製ベンチから立ち上がって帰ろうとしていたら、こいつがのこのこやってきました。 アオクサカメムシです。アオカメムシの一種ですが、こいつも「アオ」が付くので、ここに参加する資格アリであります(笑)。(アオクサカメムシ) よく見ると、外翅の一部が欠損しています。 天敵に襲われたところを辛うじて逃げることができたということか。 カメムシの世界もなかなか過酷なようです。(同上) 右外翅は下部が欠けているだけですが、左外翅は付け根部分から全部無くなってしまっています。(同上) 外翅は、言わば翅の格納庫の扉みたいなもので、それが欠けても、生命にはすぐさまの影響はないようです。元気に動き回っています。 今日は銀輪虫散歩・青編といったところでした。<参考>虫関連の過去記事はコチラ。
2020.07.19
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ノゲシとノボロギクは、両者を並べてみると、その違いは一目瞭然なのであるが、草花というものはそう都合よく並んでは咲いていない。 多くは、別々の場所で、時を異にしてこれらの植物を目撃することになる。そして、植物にたいして特別な関心を持っている人は別として、我々は花や葉の形がどうとか、その付き方がどうとか、細部を見るのではなく、全体としての姿・形を漠と眺め、漠とした印象でこれを認識するというのが普通である。 ということで、ノゲシとノボロギクを同一の植物と見誤るということも起こりうることとなる。先般、ブロ友のふろう閑人氏がノゲシをノボロギクだと間違ってブログに掲載されるということがありました。かく言うヤカモチも、同じような間違いをしていました。過去のブログ記事の中でノボロギクをノゲシと間違って掲載していたのでした。それは2011年4月21日の古い記事であったのですが、今回のふろう閑人氏の間違い記事に関連して、自身のノゲシの記事をチェックしていたら、この記事に出くわし、間違いに気がついたという次第。(注) そもそも、ふろう閑人氏の誤解は当ブログの下記記事に関連して生じたもののようなので、ヤカモチとしても少し気になっていたのでありました。<参考>ぼろは着てても こころの錦 2020.4.8) 小生もブログを始めた頃は、草花などの知識も貧困で、名の知らぬ草花は勿論のこと、名前を間違って覚えている草花なども多くありで、ブログに花写真を掲載しては失敗が頻出で、今もそれは続いているのですが、花に詳しい友人からご指摘・ご教示をいただいたり、自身でもネット検索などで調べたりするうちに、すこしずつ名前を知る花の数も増えて来て、昔に比べればかなりその点は改善されつつあります。しかし、それ以上に知らぬ草花や近縁種などの似た植物が次々と立ち現れて来るので、相変わらずの感は拭えないというのが正直なところであります。 それはさて置き、先日、銀輪散歩で恩智川べりを走っていたら、そのノゲシとノボロギクが並んで咲いているのに出くわしました。 これは両者の違いを説明するのに丁度良い取り合わせではないかと、自転車を停止し、ただちにカメラを向けた次第。それが下掲の画像であります。 両者の違いが、イマイチよくはわからないと仰っていた、ふろう閑人氏もこの画像をご覧になったなら、容易にその区別がお出来になるのではないかと思うのですが(笑)。(ノゲシとノボロギク) 左側の大きい方がノゲシで右側の小さいのがノボロギクです。 両者は大きさも違いますが、葉の付き方や形も全然違います。 この写真ではノゲシの花はまだ蕾状態のようですが、開花するとノゲシはタンポポによく似た花を咲かせます。これに対して、ノボロギクの方は上の写真の状態で成熟した花ということになり、この形のままで推移します。普通一般の花のように開花するということがありません。(注) キク科の花は多数の花が集まって一つの花のように見えている。これを頭状花序という。花序とは枝上の花の配列状態を区分するための言葉である。一定の配列状態にある花の集団を花序という。個々の花の配列形態や咲く順序などによって色々な花序に分類される。頭状花序というのはその一つである。 頭状花序を形成している個々の花のことを小花という。小花には筒状花(管状花ともいう)と舌状花とがある。タンポポなどは舌状花の集団であるが、筒状花のみの集団やヒマワリなどのように周辺部が舌状花、中心部が筒状花という構造のものもある。 筒状花は花弁らしきものが筒状で短いため目立たない。舌状花はその文字通り、1枚の花弁が舌状に大きく発達するので1枚の花ビラというように見える。<追記/参考>タンポポの舌状花を、先ほどの銀輪散歩で撮影して来ましたので、下に掲載して置きます。 すなわち、これを要するに、ノゲシの花序は舌状花の集まりであり、ノボロギクの花序は筒状花の集まりなのだということである。 キク科の花などは、正確にはこれを花序と言うべきであるが、我々は視覚的には花序を以って一個の花と認識し、そう呼ぶのが普通であるから、当記事に於いても花序とは言わず、花と呼ぶことにする。 ノゲシの花や蕾は一部垂れているのもありますが、多くは上を向いています。これに対して、ノボロギクの方は花の多くが下向きにうなだれています。内部で種子が成長し綿毛・絮が形成される時期になるとようやく上向きになるようで、やがて弾けて綿毛(冠毛)が顔を出します。その姿が襤褸をひっかぶっているようだというのが襤褸菊という名の由来だとする説がありますが、この姿を見るとそれも頷ける気がするというもの。(ノボロギク)(同上)<参考>ノゲシ・Wikipedia ノボロギク・Wikipedia 花がうなだれるかどうかで似たもの同士を区別する草花としては、ハルジオンとヒメジョオンも同様である。(ハルジオン) 上の写真のように蕾がうなだれているのがハルジオン。 ハルジオンの茎は中が空洞になっているので蕾の重さでうなだれてしまうのでしょう。茎がしっかり成長すればそういうこともなくなるので、花が咲く頃には上を向くものも出てくることになる。中には花が咲いても下を向いたままというのもありますが。 これに対して、ヒメジョオンの茎は中に芯があるのでこういうことはなく、蕾の段階から上を向いている。 まあ、花の向きがどうのこうの言っているより、茎を一本折ってみれば簡単に区別できるので、その方が手っ取り早いということでもありますが、これは乱暴狼藉、花からすれば「おやめくだされ、ご無体な。」でしょうから、お薦めできません(笑)。 両者のその他の点での違いは、ヒメジョオンの方が草丈が高い。ハルジオンの花弁が糸状に細いのに対して、ヒメジョオンのそれは糸状ではなく少し幅のあるきわめて細長い花弁の形状をしている、などがあげられる。(スギナとハルジオン) 少しピンクかかった色の花であれば、ハルジオンと考えて間違いはないですが、花が成熟するとピンク色は消えて白色になるので、成熟した花同士では、色だけで区別は難しいことになる。 まあ、言葉で言うと、まどろっこしくわかりにくいが、上のノゲシとノボロギクのように並んで咲いている写真があれば、簡単明瞭。しかし、ヒメジョオンはハルジオンより花の時期が少し遅いので、両者が並んで咲いている写真を撮るのはそう簡単なことではない。<参考>ハルジオン・Wikipedia ヒメジョオン・Wikipedia 今日は、似た花の見分け方講座(笑)・基礎編でした。
2020.04.18
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煤逃げ第二弾の本日は、銀輪散歩・巽の犬養万葉歌碑であります。 自宅を出たのが10時28分。 本来なら偐山頭火氏と箕面市萱野2丁目にある萱野三平宅を訪ねる処であったのだが、同氏の都合が悪くなり中止となったので、忠臣蔵から万葉に切り替えて、けん家持単独行にて大阪市生野区巽西3丁目の横野神社跡にある犬養万葉歌碑を訪ねることとする。 近鉄奈良線の南側の道を西へ走り、国道479号(地下鉄千日前線の走っている通り)に出て左折、南へ。南巽駅の手前で右折、西へ。平野川分水路(城東運河)に架かる入了目橋を渡り、東大阪朝鮮中級学校を右に見て、その先二つ目の辻を右折した処に、横野神社跡の碑がある。 住宅地の小さな一角にネットフェンスで囲まれてその碑があるのだが、平成4年3月にこの地に犬養孝先生揮毫の万葉歌碑が建立されたのである。(横野神社跡碑) (横野万葉歌碑) 紫之根延横野之春野庭君乎懸管鶯名雲(注)碑文の「鶯」の字は、貝二つの下に鳥を書くのが原文だが、このブログでは使えない文字なので鶯としました。紫草(むらさき)の 根ばふ横野の 春野には 君をかけつつ うぐひす鳴くも (巻10-1825)(歌意)「紫草が根を張る横野では、あなたを心にかけて思ってウグイスが鳴いていますよ。」 横野は、むらさき草の根が太く真っ直ぐに延びる様をいったものとか、細長い野をいったものとかの説もあるが、地名説ではこの横野神社辺りのこととされている。 日本書紀仁徳天皇13年の条に「冬十月和珥池を造る。是の月に横野堤を築く。」とあり、この付近を流れていた橘川(古平野川)の氾濫を防ぐため巨大な堤防が築かれたとのこと。横野神社は、その堤の安全と河川の流れの平穏を祈って造営されたのがその始まりという。 祭神は第11代垂仁天皇と皇后日葉酢媛との間に生まれた第一皇子の五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)(古事記では「印色入日子命」)である。古来より印地之宮、又は西之宮と呼ばれた式内社であったが、明治40年の神社合祀令により、南東方向、巽南3丁目にある巽神社に合祀され、廃社となる。 さて、続古今集にも横野を詠った歌があるので、それも掲載して置きましょう。霜枯の 横野の堤 風さえて 入り汐遠く 千鳥鳴くなり 昔はこの辺りは海岸近くで、千鳥の鳴く声も聞かれたということであるのでしょうが、密集した住宅などの建物とアスファルトの道、聞こえるものは車の走る音のみである。偲ぶれど 横野の堤 影もなく 家並みぞ道は 車行き交ふ (偐家持)(平野川分水路<城東運河>。入了目橋から北を望む。) 近くにある円徳寺、念仏堂を訪ね、巽神社を回って帰途につくべく道を取ってかえす。(円徳寺)(本堂・元禄14年に再建されたものとのこと。) 円徳寺は東本願寺の末寺。 室町時代の長享2年(1488年)に、第9代将軍足利義尚配下の地侍、上場又三郎正欽が蓮如に帰依して僧となり開創した寺とのこと。(念仏堂) 巽神社に向かう頃から雨がポツリ、ポツリ。神社は中止にして、国道479号を北へと引き返す。段々と雨が本降りに。地下鉄小路駅前で道路脇の喫茶店へ雨宿りと昼食を兼ねて飛び込む。 昼食を済ませ珈琲。それでも雨は止む気配がない。仕方がないので、ザックから雨具(雨衣上下)を取り出し着込む。着込みながら店のママさんと話をしていたら、彼女も自転車で転倒事故を起こして脇腹辺りの骨を骨折していて未だ治療中とか。小生も自転車事故で骨折の体験ありなので、そんなことで話が合いましたが、長居は無用。雨対策完了で出発です。 雨はレインコート着用で問題なく走れるが、スピードを上げると顔に冷たい雨がかかってちょっと不快である。 東花園駅前の洋菓子店でショートケーキを購入。煤逃げ銀輪なので、昨日の凡鬼さんの俳句に倣って、「そっとさし出そう」という魂胆である(笑)。母はケーキは好みではないので、和菓子屋にも寄って和菓子を購入。 花園ラグビー場の前を通って帰ることに。今は高校ラグビーの第90回全国大会が開催中なので、その賑いも撮影して置こうという次第。(花園ラグビー場正面入口)(雨は少し小降りになって来たが・・)(この少年ラガーマンは東大阪市の「ゆるキャラ」マスコットである。) 試合の様子は入場しないと撮影できないのであるが、遮蔽シートの隙間から一枚だけ撮影しました。どの対戦であるかは知らない。(試合の様子) 帰宅したら午後2時。雨も殆ど止んでいました。やがて日差しも。 煤逃げの天罰か、雨の間だけ走ったことになる(笑)。 さて、この記事を以って、「偐万葉田舎家持歌集」は今年の打ち止めといたします。今年もご愛読いただき有難うございました。 皆さまどうぞ良いお正月をお迎え下さい。 新年が皆さまにとって素晴らしい年でありますようにお祈り申し上げます。 来年もよろしくお願い申し上げます。<参考>回り損ねた巽神社の写真などはコチラからどうぞ。<追記・注>写真2枚(「横野万葉歌碑」)が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月13日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2010.12.30
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このところ毎日が暑い。 昨夜、風呂上がり、パンツのままでいたら、右太腿にチクりと虫刺されの感覚。何やら黒い虫が太腿に取り付いている。手で払い落そうとして、よく見るとテントウムシ。 蚊や虻や蜂なら「刺す」のも分かるというものだが、テントウムシが刺すとはこれいかに、である。 テントウムシはアブラムシなどを捕食する肉食昆虫であるから、その口は噛む機能があるのかもしれない。或いは捕食する虫の体液を吸汁するのであるならば、蚊のような吸汁針を口に備えているのかもしれないが、そういう目でテントウムシを観察したこともないので、口の形状や機能については、いかなる知識も持たないヤカモチ、実のところは皆目分からないのでありました。刺されたのか噛まれたのかも不明であり、太腿に噛み痕も刺され痕も認められない。痒くなったり、痛くなったりの反応もないから、毒液のようなものは持っていないようである。(ナミテントウ) これがヤカモチを「刺した」テントウムシです。 ナミテントウという種類のテントウムシ。 ナナホシテントウと違って、ナミテントウは星の無い奴、色んな星模様の奴など多様な姿をしている。 ヤカモチの腿に食らいつくという無礼を働いた虫であるが、無暗な殺生は好まぬヤカモチ。手に取ってベランダから庭の闇へと放り投げて、無罪放免といたしました。天道(てんたう)も 人刺すものそ 風呂上り 腿にちくりと 刺せる児は我 (並天道(ナミテントウ))(本歌)紫は 灰指すものそ 海石榴市(つばいち)の 八十(やそ)の衢(ちまた)に 逢へる児や誰 (万葉集巻12-3101) テントウムシも人を「刺す」ことがあるということを知りましたので、この段ご報告申し上げました、という次第。
2021.06.08
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(承前) 6月1日の記事の続編です。 墓参の道の行き帰りに見かけた花と虫です。(ノビル) ノビルは春の若菜の一つで、その鱗茎と葉は食用とされた。 古事記(景行記)に、ヤマトタケルが足柄の坂本で食事をしている時に、坂の神の化身の白鹿に遭遇し、食べ残しの蒜の片端を投げてこれを打ち殺したという話が記載されているが、蒜にはその強い臭みによって神を打ち殺してしまうほどの呪力があると信じられていたのである。<参考>山河やまかはノ荒ぶる神等かみどもを平和やはし而て、還かへり上のぼり幸いでます時、足柄之坂本に到り、御粮みかりて食をす処ところ於に、其ノ坂ノ神白き鹿かに化なり而て来き立たちぬ。しかして、即ち其ノ咋くひ遺のこしたまへる蒜ひるノ片端かたはし以もちて待まち打うちたまへ者ば、其ノ目に中あたりて乃すなはち打ち殺したまひき。 (古事記・景行記) 以前の記事でも紹介したかと思うが、万葉集にもノビルの歌がある。醤酢(びしほす)に 蒜(ひる)搗(つ)き合(か)てて 鯛願ふ われにな見えそ 水葱(なぎ)の羹(あつもの) (長意吉麻呂(ながのおきまろ) 万葉集巻16-3829)<醤と酢に蒜をつき加えて、それをソースにして鯛を食べたいと願っている私に水葱のスープなんかは見えないでくれ> 長意吉麻呂さんは、宴会の席のその場で与えられた「お題」いくつかを折り込んだ即興歌を詠む名人だったようで、万葉集巻16には彼が詠んだその種の歌8首が掲載されているが、上の歌はその中の1首である。 この歌には、「酢、醤、蒜、鯛、水葱を詠みし歌」との題詞が付されているから、この五つの物を折り込んだ歌を詠め、というリクエストが宴会の同席者の誰かからあったのだろう。 即座にこのような歌が詠めるとは、大した才能である。(同上) まあ、ノビルとしては、こ花の美しさ、可憐さを詠んだ歌で万葉集にデビューしたかったのではないかと思うが、それは叶わなかったようです。 次は、またまたヒメコバンソウであります。(ヒメコバンソウ)<参考>ヒメコバンソウ・Wikipedia 先月7日の銀輪散歩(ブログ記事では5月12日)で撮影したヒメコバンソウはまだ緑色であったが、今月1日の墓参で見かけたものは、もみぢするのは少し早過ぎるような気もするが、黄色く色づいていました。<参考>銀輪花散歩・桃の小道 2024.5.12. 次は、オオキンケイギク。 これも、何度か過去記事に登場している花であるが、墓参の途中の民家の庭先に咲いていたもの。<参考>墓参&花散歩 2023.7.4. 道路からは少し奥まったところに咲いていて距離があり、遠目にはキバナコスモスかと思ってカメラを向けたのであるが、ズームで撮った写真をよく見るとオオキンケイギクであったという次第。(オオキンケイギク)<参考>オオキンケイギク・Wikipedia オオキンケイギクは、「日本の侵略的外来種ワースト100」に選定されている特定外来生物で、カワラナデシコなど在来種に悪影響を与えるとして、現在は、「特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律(外来生物法)」により、その栽培、譲渡、販売、輸出入などが、原則禁止となっているのだが、これは庭先に勝手に生えて増えてしまったということなんだろうか。 菊つながりで、次はシロタエギク。 これも地中海原産の外来植物であるが、オオキンケイギクのように生態系への悪影響を与えるおそれのある植物ではない。(シロタエギク)<参考>シロタエギク・Wikipedia そして、これはヒベルティア・スカンデンス。 こんな舌を噛みそうな名前の花は知っている筈もなく、ネットで調べて行き着いた名前であります。(ヒベルティア・スカンデンス Hibertia scandens) 覚えにくい名前であるから、「へべれけは好かんでんす。」とでも覚えて置くか(笑)。 オーストラリア、ニュージーランド原産の蔓性の樹木とのこと。 西側窓を覆う形で西日を遮蔽するグリーンカーテンとしてこの植物を利用されているようです。 次は、お馴染みのヤマボウシ。(ヤマボウシ)<参考>ヤマボウシ・Wikipedia しかし、よく見かけるヤマボウシとは雰囲気が違う。 花のサイズがやや小ぶりなこと、花の色が黄色がかっていること、葉に光沢と厚みがあり常緑樹っぽい葉であること、などが、普通に見かけるヤマボウシとは異なる印象を与えるのだろう。 園芸品種として改良が加えられたヤマボウシではないかと思う。(同上) そして、これは「花」と言うべきか、「虫」というべきかが微妙な、エノキハトガリタマフシであります。 先月の墓参の折に目にしたエノキハトガリタマフシという虫こぶですが、その時は緑色であったものが、黄色、薄茶色へと変色し始めているようであったので、再度撮影してみました。<参考>墓参・ナガサキアゲハほか虫散歩 2024.5.4. エノキトガリタマバエという蝿がエノキの葉に卵を産み付けると、その卵または卵から孵化した幼虫が放つ何らかの物質に反応して、葉の細胞がこれを包み込むように分裂成長し、このような虫こぶを形成するのだろう。 この虫こぶをエノキハトガリタマフシといい、この虫こぶ形成の原因をなした蝿をエノキトガリタマバエという。 フシにはハが付き、ハエにはハが付かない、まことにややこしい。(エノキハトガリタマフシ)<参考>森林生物・エノキトガリタマバエ 虫散歩・虫こぶと繭 2022.5.3. 次は、正真正銘の虫、ナミテントウです。 ナナホシテントウと同じくナミテントウも肉食の虫ですから、益虫。(ナミテントウ)<参考>ナミテントウ・Wikipedia 最後は、モンシロチョウ。(モンシロチョウ)<参考>モンシロチョウ・Wikipedia 以上、二日遅れの花&虫散歩記事でありました。<参考>虫関連の過去記事はコチラ。 花関連の過去記事は下記の通り。 花(5)・2022~ 花(4)・2020.4.~2021 花(3)・2017~2020.3. 花(2)・2012~2016 花(1)・2007~2011
2024.06.03
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(承前) 裏磐梯銀輪散歩も前回で終りました。今回は9月30日の帰途の記録です。猪苗代から会津若松経由磐越西線を利用して新潟に戻り、空路伊丹へと帰ります。(朝寝、朝酒、朝霧の磐梯山) ホテルの部屋からは磐梯山が見える筈なのであるが、朝霧というか、朝雲の中。 雲居の月、という言葉があるが、風流士は雲に隠れた月をこう呼んで、それをも歌にして楽しんだのであれば、雲居の山、雲居の磐梯山も、よしと眺めるのが風流というものなのかも知れない(笑)。朝雲に 隠(こも)れる山の 磐梯も よしと見つつや 吾(あ)は帰らなむ (偐家持) 額田王なら、こう歌いますかな。磐梯の 山を隠すか 雲だにも こころあらなむ 隠さふべしや (偐額田姫王)(お見送りの虫、クダマキモドキ) 昨夕、ホテルに帰って来たら、先ず出迎えてくれたのは、ホテル玄関口脇の外壁に止まっていたキリギリスの仲間、ヤブキリの雌であったが、今朝、チェックアウトして路線バスに乗るべしで、出て来た小生を車寄せの脇の庭石の上で待っていてくれたのは、これまたキリギリスの仲間のクダマキモドキの雄であった。 モドキとは似非と同義。偐家持とは親和性のある言葉でありますから、この虫が見送ってくれるのも理に叶っている。 それにしても「クダマキ」とは酷い名を貰ったものだ。くだを巻くのは酔いどれと決まっていますが、下戸のヤカモチ、酒を飲めばクダを巻く前に眠ってしまう・・だからクダマキモドキか。益々、理に叶っているではないか(笑)。ならぬことは なりませぬとは 思ほえど なるよになると われきりぎりす (蟻麻呂) 8時57分、ホテル前発のバスで猪苗代駅へ向かう。乗客は途中乗車の方も含めて、小生の他に数名。9時30分猪苗代駅前着。10時27分発会津若松行きの乗車時間まで57分もある。さりとて猪苗代湖まで行って帰って来るのは可能ではあるが慌しくて中途半端な時間。駅前でまたブラブラして時間潰しである。(アメリカセンダングサ) 駅前の小さな公園の溝にアメリカセンダングサ。勲章草とか言って種が弾ける前のこの花実を服に付けて遊んだのは、いつの日か・・であります。弾けた実はセーターなどに付くとなかなか取れなくて、困る、やっかいな「ひっつき虫」でもある。(同上) ところで、猪苗代の地名の由来であるが、駅の説明板によると、アイヌ語由来説もあるが定説を見ない、一説には、荒地が多く開墾に難渋していた処、磐崎明神の霊験にて、猪が現れ苗代田を作り上げた、人々はそこに種籾を撒いて稲作を始めた、それで猪苗代と呼ぶようになった、というのだそうだ。(猪苗代駅と磐梯山) 今日は、駅からも磐梯山がよく見える。こちらから見ると主峰と櫛ヶ峰が逆になっている。(猪苗代駅) 電車がやって来た。 車窓からも磐梯山はよく見える。猪苗代湖も一瞬見える場所があったのだが、写真に撮れるような具合ではない。(磐梯山)会津嶺(あひづね)を 越えてまた来(こ)む 磐梯の 奥に玉なす 水沼(みぬま)の道は (偐家持) 会津若松着10時57分。 ここで新潟行きに乗り換え。同駅発11時01分。 山都などの駅名はひろろさんのブログで知り、記憶にある名前。 喜多方はラーメンとセットで記憶する駅名。 今度は、津川から山越え銀輪で会津に入ってみるか、などと思いつつ車窓からの景色を楽しんでいると、津川の手前であったか、徳沢(だったかと思うが)駅で対向車を待つとのアナウンス。車窓から眺めていて線路脇の田圃や野道にカメラを設置している人影がやたらと目立つようになっていたので、これはSLに違いないと、一両目の運転手席の隣に直ぐさま移動。運転手さんに確認すると、やはりSLだという。そこで、前方窓にカメラを向けてSLの現れるのをじっと待つ。 やって来ました。鉄道ファンという訳ではないが、そうそうにはお目にかかれないので、2枚撮影しました。連写する程の熱意はないヤカモチであります。(磐越西線、SL列車) 運転手さんの話では、土日にSLはこの線を走るのだとのこと。(同上) 新潟着13時36分。駅構内の「日本海庄や」で少し遅い昼食。隣の喫茶店で珈琲し、書店で少し時間を潰してから空港に向かう。後は9月28日の日記に書いた通りです。 これにて、裏磐梯銀輪散歩完結であります。最後まで懲りずにお付き合い下さった方々には心から感謝です。<完>
2012.10.06
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本日は1日に続いて今月2度目の墓参。 墓へと向かう坂道で今年初めてツクツクボウシの鳴く声を耳にしました。立秋を過ぎればこの蝉も鳴き出す、というのが小生の季節感であるが、猛暑は夏のそれなれど、蝉の声や咲く花などに「秋」の気配は無きにしも非ず、であります。 わが家の墓は墓石背面に刻まれた処によると昭和10年建立である。祖父とその弟達(祖父は男ばかりの6人兄弟の長男であった。)の名が建主として刻まれていて、横左面には曾祖父梅吉・曾祖母ノブの名が刻まれている。曽祖父の梅吉さんは昭和10年に亡くなったということであるのだろう。梅吉さんは小生が生まれるはるか前に亡くなって居られるので如何なる記憶も存しないが、曾祖母のノブさんは、小生が3~4歳の頃まで生存され同居していたこともあって、ぼんやりとその面影を記憶している。 ということで、この墓に入っている方は、曽祖父母、祖父母、父、父の妹(この女性は小生が5~6歳の頃、若くして亡くなっている。)、小生の妹(小学1年で水の事故で死亡)、小生の長女(生後6か月で死亡)の8名ということになる。まあ、彼らは千の風になって吹き渡って居り、「其処にわたしは居ません。」と言っているのかも知れませんが、小生が彼らを偲ぶ場所はやはり此処ということになる。 墓参恒例の今日の言葉は、月替わりのようですから、1日の墓参で見たのと同じにつき省略です。ということで、墓参の行き帰り恒例の花散歩と致します。(ハナトラノオ) 先ず目にしたのはハナトラノオ。ハナトラノオの「オ」は「尾」であるが、「ハナ」は「花」であって「鼻」ではない(笑)。 近くにはカラスウリが実を付けていました。秋が深まると赤く熟すのであるが、今は葉の陰にてその準備に余念がないといった処か。一つ目の秋の気配発見です。(カラスウリ) カンナの色も鮮やかな黄色にて、1日に目にした赤い燃えるようなカンナと比ぶれば、何やらやさしくふくよかな感じがして、こちらも秋支度といった風情に感じられなくもない。(カンナ)やはらかき カンナの花は 夢うつつ 揺れて咲きたり 風立つ秋に (眩家持)(ノブドウ)「おっ、ヤブガラシ」とその花と実から一瞬思ったが葉が異なる。ノブドウでした。これにも実が既に生っている。秋には青や紫など複雑な色に色付き目を楽しませてくれるのでもある。二つ目の秋の気配です。 (左:ノブドウ、右:ヤブガラシ) つる草と来れば、ヘクソカズラも健在。沢山の花が咲き出しています。(ヘクソカズラ)(ツユクサ) 可憐なツユクサも忘れないで撮って置きましょう。つき草の 移ろひやすく 思へかも わが思ふ人の 言も告げ来ぬ (坂上大嬢 万葉集巻4-583)(同上) そして、ブロ友のビッグジョン氏が畑の邪魔者とされるスベリヒユです。こちらでも畑から追い出されたのでしょうか、アスファルトの割れ目から芽を出して広がり始めています。黄色の小さな花を咲かせるが、これは未だ若造にて花を付ける余裕がないのだろうか。(スベリヒユ) この畑の嫌われ者のスベリヒユも実は万葉花なのである。万葉集の東歌に出て来る「いはゐつら」がこれだという説がある。入間路(いりまぢ)の 大家(おほや)が原の いはゐ蔓(つら) 引かばぬるぬる 吾(わ)にな絶えそね (万葉集巻14-3378)上野(かみつけの) 可保夜(かほや)が沼の いはゐ蔓 引かばぬれつつ 吾(あ)をな絶えそね (同巻14-3416)(クサギ・臭木) クサギもその独特の花を付けていました。しかし、葉などには触れずに置きましょう。その名の通り臭いのである。 さて、秋の気配と言えばやはりこれでしょう。三つ目の秋の気配です。(尾花)人皆は 萩を秋と云ふ よしわれは 尾花が末(うれ)を 秋とは言はむ (万葉集巻10-2110) 尾花が既に秋を演出していますが、ヨウシュヤマゴボウの方は未だ「支度中」のようです。カタバミは我関せずとニュートラル、秋でも夏でもいいと言って居ります。 (ヨウシュヤマゴボウ) (カタバミ) こちらは「アメリカで囲碁」ではなく、アメリカデイゴです。 コチラは「夏」に限ると言っているようですな。(アメリカで囲碁ではなく、アメリカデイゴ)(同上) そして、最後はヒョウタン。 自宅近くまで帰って来ると目に飛び込んで来たのがこれ。瓢箪も ぶらりお盆の 朝の風 何の糸瓜と 人の世渡る (瓢箪家持)(瓢箪もぶらりお盆の朝の風)
2015.08.11
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先日から気になっている花の話です。 6月16日の記事と同17日の記事で、恩智川畔で見掛けた正体不明の花として、下の写真を掲載いたしました。蕾が花開き、咲いたところを写真に収めて、何んという名の花か調べる手掛かりにしようという心算でいました。 (名前不詳の花・再掲) ところが、23日午後に再訪してみると、既に花は萎んでいて、下のような状態。他に咲いている花はない。この花は夕刻か朝方かに咲いて、日が昇ると萎んでしまうマツヨイグサのような花なのかも知れないと、今日24日朝に現地に行ってみることとしました。 しかし、花は見当たらず。小生が花の蕾と思っていたのは、花が咲き終わった後の実、種苞である疑いが濃くなって来ました。 してみると、この後、待っても花を見ることは叶わないということになる。花の時期は過ぎにけらしや、である。正体解明は来年まで待たなければならない、という気の長い話になってしまった。 しかも、ここは河原である。河川の流水を円滑にするため、河原の草などは河川管理者によって刈り取られる可能性もあり、来年またここでこの草に逢えるという保証はない。迷宮入りかも知れませぬ(笑)。 (同上) で、収穫ナシで帰るのも、と河原を歩くとハゼランが見つかりました。よく見るとあちらこちらに生えている。(ハゼラン)<参考>ハゼラン・Wikipedia しかし、ピンクの花がどれも咲いていなくて、咲いているのを撮影するには出直すことが必要かと考えたのが昨日23日のこと。 (同上) (同上・葉はこんな感じです。) で、本日24日朝、上の正体不明の花の写真が駄目なら、ハゼランの咲いているのを写そうと考えたのでしたが、下の通り、花開いているものは一つもない。 (同上)(同上) 「ハゼランよ、お前もか」である。(ハゼランの花<Wikipediaから転載>) ハゼランの生態の詳しいことは存じ上げないので、咲く時間帯などがあるのだとしても、それは知らぬこと。それにしても、つぼんだ奴ばかりで、アトは実というか種子のようなものばかりというのはどういうことなんでしょう。どの株も同じ状況である。これもまた空振りに終わりました。上の転載写真のような花を撮影する心算であったのでしたが、「恩智の川の流れとハゼランの花はままにならぬものよのう!」であります(笑)。 Wikipediaの説明を読むと「午後の2~3時間しか花を開かないので三時花などとも呼ばれる」とあるから、朝ではなく、むしろ午後3時頃に見に行くべきなのでした。(同上) とても小さな実であるが、写真に撮ると「茨の実」のようにも見える。勿論、ずっと小さいので、肉眼ではそんな感じは少しもしないのではあるが。 秋の景色のようにも見えて何やら面白いのでもありました。 (同上) もう一つ目を惹いたのはメハジキ。これは万葉植物でもある。 と言うのは万葉集に登場する「ツチハリ(土針)」は、メハジキのこととされているからである。勿論、異説もあって、ツクバネソウ説、エンレイソウ説、ゲンゲ(レンゲソウ)説などもある。わが屋前(やど)に生(お)ふる土針(つちはり)心ゆも思はぬ人の衣(きぬ)に摺(す)らすな (万葉集巻7-1338)(我が家の庭に生えている土針よ。心にも思っていない人の着物を染めるために使われないようになさい。)(注)土針は女性の比喩として使用。 わが娘よ心に染まない結婚はするな、という母が娘を諭す歌である。 (メハジキ)<参考>メハジキ・松江の花図鑑 メハジキ・季節の花300 (同上)(同上) 下の写真の土針には、よく見ると虫が付いていますな。 母としては、「悪い虫」が付くのも心配なことでしょうな(笑)。わが屋前に生ふる土針心せよ 寄りつく虫にわろきもあれば (菊針家持) (同上) 万葉集の花と言えば、何んと言っても萩。 一番多く詠われている花は萩である。 その萩がもう咲いている。(萩)<参考>ハギ・Wikipedia (同上) 萩の歌が多くある中で小生が好きな歌1首となると、やはりこれですかな。高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人無しに (笠金村 万葉集巻2-231) (同上) 萩の近くには木苺が熟れていました。 (木苺)<参考>キイチゴ属・Wikipedia 河原には草だけでなく、木も生えている。種が流れ着いたのか、散って来たのか。センダンやナンキンハゼの若木が目に付く。 (ナンキンハゼ) 恩智川は川幅が左程に広くない川。このような木が成長するに任せるほどの余裕はないから、或る段階で、これらの木は伐採されてしまうのであろう。 そうとは知らず元気に花穂をつけて青葉を風にそよがせている。 (同上)(同上)<参考>ナンキンハゼ・Wikipedia (同上)(同上) (アカバナユウゲショウ)<参考>ユウゲショウ・Wikipedia アカバナユウゲショウやマンネングサは前の記事で紹介したように随所に見られる。彼らはしぶとく生き残ることだろう。 小万知さんがご覧になった白花のユウゲショウは恩智川の河原には見当たらない。残念。 さて、アカバナユウゲショウの本来の名は単に「ユウゲショウ」で、オシロイバナの通称がユウゲショウと同名であるため、これと区別するため「アカバナユウゲショウ」という別名を以って呼ばれることが多いということのようです。ならば、白い花のそれは、「白花のユウゲショウ」でいいことになるが、オシロイバナにも白い花のがあるから、それと区別するためには「白花のアカバナユウゲショウ」と呼ばなくてはならないという次第。ここは、オシロイバナの通称を夕化粧ではなく朝化粧に変えるべきだろう、と薄化粧のアツゲショウが言って居ります。(メキシコマンネングサ )<参考>マンネングサ属・Wikipedia コモチマンネングサ・Wikipedia コゴメマンネングサ・Wikipedia メキシコマンネングサ・Wikipedia マンネングサは花の時期がもう過ぎたのかと思っていたが、このように咲いているのもある。まあ、名前が万年草なんだから、こうでなくてはならないというもの。 この草、以前の記事ではコゴメマンネングサと表記していましたが、今回、Wikipediaの記事でよく調べると、コゴメマンネングサは九州南部から沖縄に分布とあるから、これではなく、違う種類のマンネングサのよう。道端などでよく見かけるのはコモチマンネングサとあるが、感じが異なる。外来のメキシコマンネングサのようです。(同上) こんな小さな株のものもありました。今年芽を出したばかりの株でしょうか。根こそぎ堀り出して、小さな鉢植えにしたら、部屋のインテリアとしても使えそうな可愛らしさである。(同上) 次はランタナ。これは恩智川畔ではなく、野崎観音近くで見たもの。 (ランタナ)<参考>ランタナ・Wikipedia ランタナは七変化とも呼ばれるように、花が黄色からピンクに赤にと変化して行くがこれはどうなんだろう。と言うのはこの花の隣にあったのは白い花のランタナであったからである。(白花のランタナ) 白花のランタナはどう見ても花の色が変化するとは思えない。ランタナではないみたいである。しかし、ミントか何かのハーブのようなあの独特の葉の香りや葉の形からランタナであることに間違いはない。先日、ブロ友のひろみちゃん8021さんが黄色いランタナの写真を掲載されていましたが、ランタナにも色々な種類があるようですね。 (同上)(同上) そして、次の青い花も、恩智川ではなく、自宅近くの民家の庭先に置いてあった鉢植えの花である。青い花というのがそもそも珍しいので、何んという名の花だろうと思ったのであるが、調べても分からなかったので放置していました。すると、先日ブログ管理ページの広告欄に表示された花の広告の中に、この花の写真が混じっていたのでした。 ムギセンノウやオルレア・ホワイトレースも同様の形でその名を知ったのであるが、どうしてこのようにタイムリーに広告が届くのでありましょうか。まるで、こちらのマイ・ピクチャの中身を見透かしたかのようなタイミングであります。(ルリトウワタ) ルリトウワタ(瑠璃唐綿)です。 (同上)<参考>ルリトウワタ・Wikipedia 冒頭の正体不明の花の葉は、この花の葉のように細長い葉である。ルリトウワタの葉の周囲を鋸のようなギザギザで縁どったら、正体不明植物の葉に似たものになるのだが、ということで、再び冒頭の花に話題が戻るという仕掛け。 しかし、問題のそれは、トウワタとは関係無さそうな植物であるから、無意味な仕掛けでありました(笑)。
2017.06.24
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今日は虫の話。 昨日の墓参の道で、こんなものを見かけました。(エノキハトガリタマフシ) エノキの木の葉に実のようなものが沢山出来ています。 虫こぶであることはすぐに分かりましたが、何の虫こぶであるかは分かりません。ネットで色々検索して、エノキトガリタマバエによる虫こぶ、エノキハトガリタマフシであることが分かりました。<参考>森林生物・エノキトガリタマバエ(同上) この虫こぶの中に一匹ずつ幼虫が入っているとのこと。 虫こぶの中で幼虫は安全に成長する。 虫こぶは成熟すると地上に落下する。 その状態で、幼虫は次の年の春まで成長し蛹となり、3~4月頃に羽化するということです。成虫となったエノキトガリタマバエはエノキの若葉に産卵して生涯を終える。 エノキトガリタマバエの成虫はどんな姿なのかと調べてみましたが、よく分かりません。ウィキぺディアに掲載のタマバエの写真を参考までに掲載して置きます。蝿と言うよりは蚊に近い虫です。(タマバエの一種・Wikipediaより転載) タマバエの仲間は4600種以上もいるらしいですから、エノキトガリタマバエの姿がこれに似ているのかどうかも不明です。(エノキハトガリタマフシとマミジロハエトリグモ) エノキトガリタマバエの虫こぶと並んでいるハエトリグモ。 蝿の虫こぶの傍にハエトリグモですから、まあこれは自然なトリ合わせでありますかな(笑)。 「縁の木」としてエノキを縁結びの神木としている神社があったり、悪縁を絶つというエノキがあったりもするが、「エノキはヨノキ(嘉樹)とも呼ばれ、めでたい木を意味した(柳田国男「神樹篇」)」ように、エノキには霊力があると信じられて来た。 万葉集にも1首、エノキの歌がある。尤も、万葉集の「榎(え)」は、エノキだけでなくムクノキなども含む神木の総称であるとのことだから、エノキの歌と言い切ってしまうと、ムクノキがむくれると言うものではある。わが門かどの 榎えの実もり喫はむ 百千鳥ももちどり 千鳥は来くれど 君そ来きまさぬ (万葉集巻16-3872) 榎の実が赤く熟して、小鳥たちがこれをついばみにやって来る頃には、これらの虫こぶはすべて地に落ちていて、小鳥たちが実と間違って虫こぶをついばむということはないのであろう。 自然の営みの妙という奴である。 さて、蜘蛛と言えば、昨年12月の墓参で見かけたジョロウグモの写真があるので、便乗掲載です。(ジョロウグモ) ハエトリグモは蜘蛛にしては愛嬌があって可愛いが、こちらジョロウグモは威厳があって近寄り難い(笑)。 次は、蛾の繭です。 花園中央公園の便所の外壁で見つけたもの。(オビカレハの繭) 少し離れた処に、もう一つありました。(同上)※オビカレハ・Wikipedia こちらの方が少し小さい。 繭は終齢幼虫が糸を吐いて、自身が隠れるマイホームを形成したもの。この中で蛹となり羽化の時まで過ごすのである。 その幼虫が近くに何匹もいました。(オビカレハの幼虫) 下の幼虫は、ひょっとすると繭を作る準備をしているのかもしれない。(同上) オビカレハの成虫の姿は、タマバエ同様にウィキぺディアの写真をお借りすることとします。(オビカレハの成虫 Wikipediaより転載) オビカレハは色々な木に産卵するが、桜もその一つ。このトイレの周囲は桜の木だらけであるから、オビカレハにとっては格好の生活の場、繁殖の場ということであるのだろう。 「こんな姿ですが、私は毒を持っていませんのでご安心ください。」とオビカレハ君は申して居ります。<参考>虫関連の過去記事はコチラ。
2022.05.03
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本日、トレンクル退院。 昨日、自転車屋さんから電話があり、トレンクルの修理が完了したとのことであったので、今日、引き取りに行って来ました。 9月10日の入院でしたから、9日間の入院でありました。 入院治療費は3万5千円でした。<参考>トレンクル入院 2022.9.11.(退院して来たトレンクル) 故障部位は、ハンドルの折りたたみ部位の台座でありましたが、台座だけの交換というのではなく、ハンドルそのものの取り換えということになりました。台座、連結部ストッパー金具、ハンドルは一つのセットになっているようで、ハンドルの交換という「治療」になったようです。(故障部位) 〇印部が故障部位。ストッパー金具を下げてハンドルを折りたたむと台座が現れます(下掲写真)。ご覧のように新しい台座に交換されています。(台座部分) 写真では、台座側面にひび割れのような黒い筋がありますが、これは左側が少し高くなっている関係でその影が光線の具合で黒い筋のように写り込んだもので、ここにひび割れがある訳ではありません。<参考>自転車関連の過去記事はコチラ。We stand with Ukrainians.
2022.09.19
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昨日の記事で、ハシドイという木の名前を知ったことを書きましたが、ライラックの和名がムラサキハシドイであるということも知りました。 となると、ライラックの実はハシドイのそれと似ているのかどうか気になるではないか。 近くの花園中央公園の一角にライラックの木があるので、今日それを見に出掛けました。 日本では、ライラックは春(4~5月)に咲くのに対して、ハシドイは夏(6~7月)に咲くとのこと。ということは、実のなる時期もライラックはハシドイよりも2ヶ月ほど早いことになる。 ということで、花園中央公園のライラックの実は、もう青い実ではなく、茶褐色になっていて、中央で弾けていました。 従って、見た感じの印象が余りにも違い過ぎていて、両者の実が似ているという印象ではなかったのですが、弾ける前の青い実の状態を想像で描いてみて、それと比べると似ているとも言えると思ったりもしましたが、下の写真を見て、皆さんはどんな印象を持たれますでしょうか。 なお、フォト蔵がメンテナンス完了直後(と言っても既に3時間以上は経過しているのだが)の所為か、写真のフォト蔵へのアップロードが全然できない状態(多分、アップロードが集中して、混み合ってしまっているのでしょう。)なので、フォト蔵の大きいサイズの写真とのリンクは、後日にさせていただきます。<追記:2019.9.22.>フォト蔵への写真アップが完了しましたので、写真をフォト蔵写真とリンクさせる修正を行いました。(ライラックの実) もう少しアップで撮ると。(同上 極小のハエがとまっていますな。) ハシドイの実も10月後半から11月には、こんな風に真ん中で二つに割れて、中から種子が現れるのだろうと思います。 ハシドイの種子は翼を持った翼果だとのことでしたが、試しにライラックの実から種子を取り出してみました。すると、下の写真のように種子は翼状の袋に包まれていることが分かりました。両者が同じ仲間の植物であることが納得されるとともに、ライラックの和名がムラサキハシドイであるということにも納得でありました。(ライラックの種子) 中央の茶褐色の部分が種子。周囲の色の薄い部分が翼です。翼部分が種子を包む袋となって種子を保護しています。風で飛ばされやすくする機能に加えて種子を保護する機能も兼ね備えているのでしょう。 ハシドイの実よりもライラックのそれはかなり小さいものです。半分以下のサイズかと思います。 以上、昨日のハシドイに関連しての参考情報ということで、ライラックの実と種子についての情報を提供させていただきました。
2019.09.21
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(承前) 本日は、山部赤人歌碑を訪ねての第3弾、滋賀県東近江市の山部神社・赤人寺を訪ねての銀輪散歩でありました。 東近江市下麻生町にある山部神社・赤人寺へ行くこととしました。現地のスポット天気予報では曇り。降雪はなさそう。雪がどの程度積もって、消え残っているかが多少気がかりではあったが、幹線道路など舗装された車の往来する道は雪も消えて自転車での走行も可能だろうと読んで、トレンクル持参で出掛けました。 JRで近江八幡駅まで出る。此処からバスで行く方法(麻生口下車)と近江電鉄(八日市経由朝日野下車)で行く方法とがあるが、近江八幡駅南口のバス乗り場に行くとバスは出たばかり、バスの運行は1時間に1本。次のバスの発車時刻まで1時間近くある。近江電鉄の乗り場に行くと発車間際。飛び乗る。(八日市駅を出て行く近江八幡行き電車。) 八日市駅まで19分で到着。ここで本線に乗り換えて朝日野に向かう。待ち時間29分。 近江電鉄本線は米原駅・彦根駅から貴生川駅を結んでいる。八日市駅で西に分岐する八日市線は八日市駅と近江八幡駅を結んでいる。(八日市駅、彦根、米原駅方面) 貴生川行きの電車が入って来ました。かなりの人がこの駅で降りましたが、中に一人のご婦人がママチャリをそのままの状態で乗って居られて、それを手押ししながら下車されてホームを改札の方へと行かれました。 どうやら、この線は自転車をそのまま持ち込めるようです。 (近江鉄道の車内。桜川駅朝日大塚駅間) 電車は2両編成のワンマンカー。八日市駅を出た時には10人余の乗客が居たかと思いますが、いつの間にやら乗客は小生一人になっていました。 朝日大塚駅に着く少し前にそれに気付き、上の写真を撮ったのですが、撮り終わって網棚を見ると何やらビニール袋に入った大きな忘れ物。運転手さんにそのことをお知らせして、朝日野駅で下車。一面の雪景色である。 それでも舗装道路は雪がとけて走れる状態。トレンクルを組み立てて、いざ出発である。高木神社、旭野神社・法雲寺などを経由して約30分で目的の山部神社・赤人寺に到着。 それは雪の消え残る、静かな集落の中にこじんまりとありました。(山部神社 鳥居左側が折りたたみ自転車のトレンクルです。)(同上)(山部神社縁起と山部赤人伝説) 山部神社と赤人寺は隣接してある。山部赤人は若い頃に観音様から「汝は我が生まれ変わり也」との夢のお告げを受けて、田子の浦から一寸八分の如意輪観音を念持仏として迎え、歌道に霊験を得た。壮年におよんで蒲生野を訪れた折に、桜の木に掛けた冠がはずれなくなってこの地で一夜を過ごすということがあった。その夜の夢に「この地こそ仏法興隆の勝地なり。(如意輪観音を)この地に安置すべし。」とのお告げを受けた。そこで、赤人はこの地に寺を創建する。元正天皇より「養老山」の勅額を賜り、「赤人寺」と名づけられ、赤人は観音様を護持してこの地で生涯を閉じたと言い伝えられているとのこと。この地の神社は、松の木を神木とする産土神を祀る神社で「小松宮」と呼ばれていたようだが、江戸時代には「小松大明神」と称され、明治元年に「赤人廟碑」が建立された。その碑文には、赤人寺は山部赤人の創建であり、小松社は赤人の廟にあたり、近くには赤人の墓や赤人桜があった等が記されている。 明治9年に山部赤人を祭神とする山部神社に改称されて今日に至る、という。(山部赤人歌碑) 昭和42年建立とのことだが、随分古びた様にて、文字の判読も容易ではないが、境内の説明板では歌碑の歌は万葉集のそれとあり、境内に備置されたリーフレットでは新古今集、百人一首のそれとある。どちらなのか、碑の写真を見てもよくはわからない。当然に万葉集のそれと思い込んでいたので、現地でよく見ていなかったので迂闊ヤカモチの本領発揮でありました(笑)。田児の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける (山部赤人 万葉集巻3-318)田児の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ (山辺赤人 新古今集675 小倉百人一首4)(赤人廟碑)(赤人歌碑) 赤人廟碑の前にある歌碑は明治12年(1879年)建立であるが、こちらも殆ど判読不能である。前記リーフレットには、以下のようにある。 山部宿禰赤人 春野に 寿すみれ摘 みにとこし我そ野を なつかしみ一夜寝 仁計る 正八位渡忠秋謹書春の野に すみれ摘みにと 来しわれそ 野をなつかしみ 一夜寝にける (山部赤人 万葉集巻8ー1424)(赤人寺)(赤人寺縁起) 隣接の赤人寺。手前に小さな地蔵堂。地蔵堂の扉には紙で作った花が沢山取り付けられていました。本堂の中には勿論入れませんが、ガラス戸越しに内部を撮影してみました。鎮座ましますのは赤人が念持仏とした如意輪観音像でしょうか。(同上・堂内の様子) 本堂の裏に回ると、赤人の供養塔とされる石造七重塔があり、その傍らに墓石とも供養塔とも思しき石塔がある。(同上・お堂裏の石造七重塔、通称:赤人塔) (同上・説明板)(同上・お堂裏の供養塔)朝日野ゆ わが恋ひ来れば 真白にぞ 赤人墓は 雪に埋もれつ (偐家持)
2016.01.21
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自宅近くの公園にヤカモチお気に入りの場所がある。その一角にエゴノキが生えている。五月には可憐な白い花をつけていたのが、今は薄緑色の実をつけている。実も可愛い。万葉では「ちさ」(知佐・白苣)という。『…ちさの花 咲ける盛りに はしきよし その妻の児と…』(巻18-4106 大伴家持)の如く、花は「ちさの花の盛りのように可憐で美しい妻」と歌われているが、その実も可憐なれば、偐家持はこれを妹にぞ喩へむ。ちさの実の はしき妹はも 蝉しぐれ 思ひは益せど 直には逢はず
2007.08.11
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本日は若草読書会の新年会。出席者は智麻呂・恒郎女ご夫妻、凡鬼・景郎女ご夫妻、景郎女さんの姉上の敦郎女さん、謙麻呂氏、小万知さん、祥麻呂氏、香代女さん、槇麻呂氏、和麻呂氏、和郎女さん、リチ女さん、偐家持の14名。常連で最近は連絡係もやって下さっている偐山頭火氏は急な都合で欠席でありましたが、ほぼフルメンバーで盛会でありました。 新年会は、いつの頃よりか偐家持が万葉の話をするというのが恒例になっていて、今回もそういうことに。主資料は昨日のナナ万葉の会での講義資料のタイトル「わが園に梅の花散る」を「あは雪のほどろほどろに降りしけば」に変えただけのものを使用。 ナナのそれは観梅の宴の歌を中心にしたのに対して、こちらは「讃酒歌13首」としました。河内旅人風または偐家持風に現代語訳を付けてみました。験(しるし)なき 物を思はずは 一坏(ひとつき)の 濁れる酒を 飲むべくあるらし(3-338)<どうなるやわからんことをあれこれ思うよりも一杯の安酒を飲むほうがましやで。>酒の名を 聖(ひじり)と負ほせし 古(いにしへ)の 大き聖の 言(こと)の宜しさ(3-339)<酒の名を「聖人」と付けた昔の御仁の言葉、ピッタしやねえ。>古(いにしへ)の 七(なな)の賢(さか)しき 人たちも 欲(ほ)りせし物は 酒にしあるらし(3-340)<昔のかの七賢人はんらも欲しがったのは酒やと言うやおまへんか。>賢(さか)しみと 物言ふよりは 酒飲みて 酔(ゑ)ひ泣きするし まさりたるらし(3-341)<かしこぶって物言うより酒呑んで酔うて泣く方がなんぼかええんとちゃいまっか。>言はむすべ 為むすべ知らず 極りて 貴き物は 酒にしあるらし(3-342)<何と言うても、どうしょうもなく、最高にええのはやっぱり酒やね。>中々に 人とあらずは 酒壺に なりにてしかも 酒に染(し)みなむ(3-343)<なにも無理して人間でいるよりは酒壺になって酒びたりで居たいわ。>あな醜(みにく) 賢(さか)しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似む(3-344)<ああ、見てられんわ。かしこぶって酒を飲まん奴というのは、よう見たら猿に似てるやおまへんか。>価(あたひ)なき 宝といふとも 一坏(ひとつき)の 濁れる酒に 豈(あに)まさめやも(3-345)<値も付けられんほどの宝でも一杯の濁り酒にはそらかないまへんわなあ。>夜光る 玉といふとも 酒飲みて 心を遣るに 豈しかめやも(3-346)<隋侯の珠でっか。そんな玉がなんぼのもんでんネン。酒飲んで気晴らしする方がずっとええ。>世間(よのなか)の 遊びの道に 楽しきは 酔ひ泣きするに あるべかるらし(3-347)<この世での遊びは色々あるけど、楽しいのは酔っ払って泣くことやねえ。>この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫に鳥にも 我はなりなむ(3-348)<この世で楽し楽しで居れたら、来世は虫でも鳥でもかまいまへんわ。>生者(いけるもの) 遂にも死ぬる ものにあれば 今ある間(ほど)は 楽しくをあらな(3-349)<生まれたら後は死ぬだけと決まってるんやから、今の間だけでも楽しんで居たいわ。>黙然(もだ)居りて 賢(さか)しらするは 酒飲みて 酔ひ泣きするに なほ及(し)かずけり(3-350)<むっつりして、賢そうにしてるより、酒飲んで酔っ払って泣く方がエエに決まっとる。> 下戸の家持的には「何ぬかす」という気もしないではない歌もありますが、妻を亡くし、政治的には思いを寄せていた長屋王が死に追いやられ、自身も大病を患い、そう長くもない命という予感のうちに、大和から遠く離れた大宰府に居るという境遇の中で詠まれた歌であることを思えば、これらの歌の背後にある、無常感・寂寥感、悲しみといったものも理解できるので、まあ、よしと致しましょう。酔ひ泣きを するはよかれど 踏む足を 君なはづしそ 渡る石橋 (下戸家持) 講義の後は乾杯・宴会。一段落した処で、持ち寄られた歌や俳句の品評会。そして、アトラクションの歌留多会。これには、偐家持にて「偐家持賞」の景品を用意。 各6人ずつABの二組に分れて、一人余る偐家持が詠み手となって、字札を取り合いました。智麻呂さんは審判員といった処。楽しそうに勝負の推移をご覧になって居られました。結果は、A組一位は景郎女さん、B組一位は凡鬼さん。本来ならこのお二人のどちらかに「賞」が贈られることになるのだが、偐家持賞はそういう単純なものではなく、一位者に与えられる権利は、1~100番の数字の書かれた紙片の入った袋から1枚の札を引く権利だけ。じゃんけんの結果札を引く権利は景郎女さんに。彼女が引いた札は82番。つまり、百人一首の82番の歌の字札を取っている人が当選権利者となるというもの。82.おもひわび さても命は あるものを うきにたへぬは 涙なりけり (道因法師) 一位者はより多くの札を取っているので、当たる確率が高くなるが、一回きりの勝負では高確率の者が当たるとは限らない処、果たして、景郎女さんの取り札にも凡鬼さんのそれにも82番の歌の札は無く、その札を取っていたのはA組では祥麻呂さん、B組ではリチ女さんでした。お二人が取っていた札の枚数は17枚と16枚で、リチ女さんが1枚上回っていました。事前に決めたルールで、この場合は多く札を取っている方を当選者とするというものであったので、リチ女さんが偐家持賞に輝きました。取りおはり 札は手元に 多かれど 籤に当らぬ 札にありけり (偐道因)おもはぬに さても最後の 一枚を 取りて当たりぬ われにありけり(偐道女) 凡鬼さん、景郎女さんのケースが上の歌でしょうね。下の歌はリチ女さんのケース。<追記2015.2.2.9:35>また、恒例の和郎女さん作製の押し絵などの可愛い作品のプレゼントがあり、抽選によって皆にこれを分配するという楽しいプログラムもありました。和郎女作品展は長らく開催して居りませんが、本日(2日)これらの作品をご紹介すべく、当ブログ内第15回展を開催する予定でありますので、どうぞお運び下さいませ。 まあ、そんなこんなで楽しい新年会となりました。 最後は、God be with you till we meet again(神ともにいまして)の讃美歌を皆で歌って、解散しました。
2015.02.01
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このところ銀輪散歩も毎度の近隣コースを走るばかりで、これと言った目ぼしい気付き・発見もありませぬ。 ということで、銀輪散歩その他で見掛け撮影した花などの写真を並べてみることとしました。(花はマサキに似たれども) この花は、鹽竈神社(宮城県)の境内で見たものであるが、マサキであろうと撮影したもの。 帰宅して、以前のブログ記事に掲載したマサキの写真と比べてみたら、ちょっと雰囲気が違う。花の姿はよく似ているが、花の付き方が、こちらは葉の付け根部分に密集してかたまるように咲いているのに対して、マサキの方は花柄が長く伸び、そこに花を咲かせているので、このような塊状の咲き方ではなく、すっきりとした姿で咲いている。 また、花もよく見ると、中心部の蕊の部分が、こちらは丸型なのに対して、マサキの方は角型である。 そして、決定的に違うのは、葉が全縁であること。つまり鋸葉ではないのである。マサキの葉はギザギザのある鋸葉である。また、葉の形もマサキの方はやや丸みを帯びた形であるのに対して、こちらは細長い形をしている。(同上)(同上) 言葉で説明しても理解され難いでしょうからマサキの花と葉の写真を掲載します。比べていただければ一目瞭然。 なんで、これをマサキと間違うかなあ、と思われるかも知れませんが、それはこのように並べて見るから言えることで、別々に目にすると、このような細部の違いを意識してはいないもので、間違いやすいものです。(マサキ 2017年7月30日記事に掲載の写真の再掲載)それ花は正木に似るも葉は全縁 正木に非ずその名知らずも (な告りそ家持)(本歌)大船の津守が占に告らむとはまさしに知りて吾がふたり寝し (大津皇子 万葉集巻2-109) マサキなら鋸葉なり鹽竈の 神の宮にし逢へる木やナニ (木石家持)(本歌)紫は灰さすものそ海石榴市の八十の衢に逢へる児や誰 (万葉集巻12-3101)<追記>マサキに似た上の木はモチノキである と友人の小万知さんから教えていただ きました。 次は、カヤツリグサの仲間。名前は存じ上げぬ。 サンカクイという名前が脳裏に浮かび、ネットで参照してみたが、ちょっと感じが違う。(カヤツリグサの仲間) これがサンカクイ(三角藺)なら、万葉集に「知草(しりくさ)」という名で登場している植物がサンカクイだという説もあるから、偐万葉的にはまことに好都合ということになるのであるが(笑)。(同上)湊(みなと)葦(あし)に交じれる草のしり草の人皆知りぬわが下思(も)ひは (万葉集巻11-2468)(河口の葦にまじっている草のしり草のように、人皆が知ってしまった、私の心の中の思いを。)(注)しり草(知草)=不詳であるが、サンカクイとする説がある。<追記>小万知さんからテンツキに似ているという コメントを頂戴しましたが、確かに似てい ますので、テンツキということにして置き ます。 名前不詳の植物が続きましたので、次は名の知れたものを。 これはニワトコだろうと思います。真っ赤な実が美しい。 上の万葉歌につなげて言えば、こちらは「しのぶれど色に出にけり」と言う奴で、真っ赤です。(ニワトコ) よく見ると、密集した赤い実の中央部に何やら虫が居ます。蝶か蛾の幼虫ようですが、その種の虫は苦手というお方は余り見つめすぎないで下さい。(同上) このニワトコ(庭常)も万葉植物なのであります。 「やまたづ(山多豆・山多頭)」という名で登場します。君が行き日(け)長くなりぬ山たづの迎へを往かむ待つには待たじ (衣通王 万葉集巻2-90)(あなたが行ってしまって日も経ちました。やまたづのように迎えに行きましょう。待っているだけなんてしてないで。) この歌は、ニワトコの葉に注目しての歌。ニワトコの葉は対生である。枝の左右に向き合って(正対して)葉がつく。つまり対面しているのであるから、そんな風に対面すべく迎えに参りましょう、と言っているのである。 そして、対面できたなら彼女(衣通王)はこの真っ赤な実のように、満面こぼれんばかりの笑みを彼(軽太子)に向けるのでもあるか。 赤い実つながりで、次はヒョウタンボク。(ヒョウタンボク) ヒョウタンボクは友人の小万知さんから教えていただいた名前。 二個ずつ背中合わせに実が生るというので、それが瓢箪の形に見えるというところからの命名であるか。人もなき国もあらぬか我妹子(わぎもこ)と携(たづさ)ひ行きてたぐひて居(を)らむ (大伴家持巻4-728)(人の無い国が無いものか。貴女と手をつないで行って、二人一緒に居たいものだ。) この実には、こんな歌が似合いだろうか(笑)。(同上) 花散歩と言いながら、花らしき花が登場しないのでは、不当表示という誹りも受けかねませんので、何処からも文句の出ない花を掲載して置きます。 この時期には似合いの花、ホタルブクロです。(ホタルブクロ)(同上) この花は、下から覗き込むようにして撮影しないといけないから、少し面倒。 その労を省くと下の写真のように花の裏側を撮っているだけで、些か寝呆けたような写真になるのであります。まあ、蛍の寝袋ですから、寝呆けていてもいいのではあるが。(同上) 次は睡蓮。ヒツジグサ(未草)とも呼ぶようだが、こちらは上を向いて咲いている。しかし、池の中に咲いているので、真上から覗き込んでこれを写すというのは無理である。(睡蓮・未草) 最後は、ヒメヒオウギ。 これは、銀輪散歩ではなく、智麻呂邸の若草ホールで花瓶に挿してあるのを撮ったのであり、このように周囲をぼかす加工をする前の写真を既に掲載したことがあるので、番外編特別参加ということで。(ヒメヒオウギ) 以上、とりとめもない花散歩記事でありました。
2018.06.28
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ぼろは着てても こころの錦どんな花より きれいだぜ・・・ こんな歌があった筈と調べたら、「いっぽんどっこの唄」というタイトルの水前寺清子の歌(作詞:星野哲郎、作曲:安藤実親)でした。 この歌詞を想起させるのがこの花。ノボロギク(野襤褸菊)。(ノボロギク)(同上) この花は筒状花または管状花と言って、蕾のようなつぼんだ状態のままで推移する花である。 野襤褸菊という余り有り難くない名を頂戴しているのは、その花姿、綿毛となって弾けた姿がボロをまとっているように見えるからである。 もともとボロギク(襤褸菊)というのは、サワギク(沢菊)の別名としてあり、サワギクが水辺など湿地に生えるのに対して、こちらは野に生えるということで、野襤褸菊という名になったようである。 サワギクの写真の持ち合わせがないので、Wikipediaの写真を借用して参考までに下に掲載して置きます。(サワギク・Wikipedia 別名:ボロギク) 本家ボロギクは普通に花が開いて咲くし、上を向いて咲く。 これに対してノボロギクは花がつぼんだままで、うなだれているものが多い。 襤褸を着てても心は錦、という言葉はご本家ボロギクの方にこそ相応しいのかもしれないが、うなだれているノボロギクに対しては、これを応援・励ましの言葉とさせていただこう。 しかし、「どんな花よりきれいだぜ」とまで言うと、それは言い過ぎ、褒め殺しになるというものではある。 (同上)<参考>ノボロギク・Wikipedia 襤褸のことを古語では「かがふ、かかふ」というが、この言葉を覚えたのは多分、万葉集の「風まじり 雨降る夜の 雨まじり 雪降る夜は・・」で始まる、山上憶良の貧窮問答歌(巻5-892)によってだろうと思う。 それには「海松のごと わわけさがれる かかふのみ 肩に打ち懸け・・」とある。「かかふ」は万葉仮名では「可々布」と表記されている。ぼろ布のことである。「海藻のミルのように裂けてぼろぼろになった布を肩に羽織って・・」という意味である。 さて、このノボロギクも種類が色々あるようで、花が赤いのがベニバナボロギク、葉に深い切れ込みがないのがダンドボロギクだとか。<参考>ベニバナボロギク・Wikipedia ダンドボロギク・Wikipedia それで遠目ながら葉に切れ込みが見られないようなので、ダンドボロギクではないかと思ったのが次の花であるが、違うようでもあり、何ともよくは分からないのであります。(ダンドボロギク?)(同上) このノボロギクに似た花にノゲシ(野芥子)がある。 ノボロギクに比べて一回りも二回りも大きい草花で、花も普通の通りに咲くので、両者を見間違えることはないのであるが、似ている花である。 今回は、白花のそれを見つけたので撮影したのであるが、普通に見かけるのはタンポポに似た黄色の花である。(ノゲシ<白花>※白花はウスジロノゲシともいうようです。)(同上) ノゲシにも大型のオニノゲシというのがあり、両者の区別も必ずしも容易ではない。オニノゲシも成長段階では普通のノゲシと変わらぬ、或いはそれ以下のサイズのこともあるからである。 あと、秋に咲くアキノノゲシというのがあるが、これはまた別である。<参考>ノゲシ・Wikipedia オニノゲシ・Wikipedia アキノノゲシ・Wikipedia 黄色の花のノゲシの写真は過去のブログ記事に掲載の筈と探すと以下のものが見つかりました。(ノゲシ<黄花>)※下記記事掲載写真からの転載 銀輪散歩・花は盛りを見るべかりける 2017.4.10.(同上)※下記記事掲載写真からの転載 墓参・立夏・花散歩 2018.5.9. ノボロギクは明治初期に帰化したそうだから、万葉集に登場しないのは当然として、ノゲシは有史前帰化植物と言うから、万葉時代には我が国にもあったことになり、万葉集に登場していてもいい花である。しかし、万葉集にこの花は登場しない。結構目立つ花だと思うのだが、万葉人の関心を引く花ではなかったということか。まあ、現代人にもこの花に心惹かれるなどという人はいそうにもないから当然であるか。道の辺の 野芥子の花の かなしかり 咲けど見る人 詠む人なかり (偐野芥子麻呂) ということで、ヤカモチが、おざなりにではありますが、一応詠んであげました(笑)。 今日は、ノボロギクとノゲシでありました。
2020.04.08
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(承前) 前頁記事の続きです。この日(4月23日)は、白山公園から信濃川沿いにふるさと村へと銀輪散歩であります。 白山公園で見かけたカラタチの花の写真から始めます。(カラタチ) カラタチの万葉歌と言えば・・。 「忌部首いむべのおびとの、数種くさぐさの物を詠みし歌一首」という題詞が付された、この歌が1首あるのみ。枳(からたち)の 茨(うばら)刈り除(そ)け 倉建てむ 屎(くそ)遠くまれ 櫛(くし)造る刀自(とじ) (忌部首 万葉集巻16-3832) 「カラタチの原を刈り上げて倉を建てよう。糞は遠くでなされよ、櫛造りのおかみさん」というナンセンスな戯れ歌であるが、これで万葉植物の仲間入りを果たしたカラタチとしては複雑な心境でしょうな(笑)。(同上) このように棘のある植物には邪を払う呪力があると考えられていたこともあり、かつては生垣などによく利用されたのだが、最近は殆ど見かけなくなった。(カラスノエンドウ) こちらは、何処にでも見かけるカラスノエンドウであるが、気の所為か大阪で目にするものより花が大きく色も濃いようです。(同上) 信濃川べりの、やすらぎ堤と呼ばれている土手道に上がると、チューリップとサトザクラが花の時期。(やすらぎ堤のサトザクラ) ソメイヨシノは散ってしまった後だが、八重のサトザクラが丁度満開の見頃である。(同上・サトザクラとチューリップ)(同上・チューリップ) こちらのチューリップの奥に見えている並木がソメイヨシノのそれであるが、ご覧の通り、咲き遅れた花がわずかにあるのみで、遠目では葉が目立つだけ。(同上)(同上)(同上・カモ) 信濃川の川面に居たカモ2羽が連れだって飛び立ち、こちら岸の緑地の中ほどに着陸。そこからヒョコヒョコと歩いてチューリップが植えられている近くまでやって来た。何かをついばんでいる。 驚かせないように気配を殺してゆっくりと接近すると・・。(同上) ミミナグサか何か、草を盛んについばんでいます。 カモは水草などを食べているのかと思っていましたが、陸上の植物なども食べるのですな。 しばらくすると、1羽のカラスが飛来。 その気配をいち早く察知、カモ2羽は川面へと避難。 カラスのカモにされてはかなわん、ということか。 サギのカモになっているヒトが多いこの頃、ヒトもカモを見習うべし。(JR越後線) やすらぎ堤から越後線白山駅の方へと渡れる、線路に沿った陸橋の道があったので、そちら方向へ寄り道。 すると、白山駅を出た列車がやって来たので、去って行く列車を追っかけ撮影。すぐにカメラを取り出したのだが、シャッターを押せた時には走り去って行く列車の後ろ姿になっていました。 列車は、間もなく信濃川に架かる鉄橋を渡り新潟駅に行くのだろう。 白山駅の手前にはヤマザクラでしょうか、桜が咲いていました。(白山駅近くの線路沿いの桜)(同上) そしてサツキツツジも満開。(白山駅近くのツツジ) やすらぎ堤に戻り、ふるさと村へと向かうことに。 信濃川左岸の道は、本川大橋のところで、関屋分水路に架かる関屋大橋に回り込み、これを渡って、上流へというのがそのルートになる。(関屋大橋の上から信濃川上流を望む。) 画像の右手が左岸。 左岸の土手道を上流へと向かうと、ふるさと村である。 画像の左手方向が水門を備えた本川大橋で、信濃川本流は左手へと流れて海へと至る。画像の手前側が関屋分水路で、信濃川の水量が増大した場合などは水門を閉じて、この関屋分水路により、ショートカットで海へと川水を逃がすのであろう。 さて、ふるさと村までは大した距離ではないので、すぐに到着である。 丁度、チューリップの季節とあって、ふるさと村の花壇はチューリップ一色でありました。(ふるさと村のチューリップ)<参考>道の駅・新潟ふるさと村(同上) 奥に見える青屋根の建物が野菜や果物、海産物など新潟の物産を販売する店や食事処のある施設である。(同上)(同上)(同上) ふるさと村を出て、来た道を引き返します。 チューリップの花を見過ぎた目には、このような葦の色彩に乏しい景色が却って好ましいものに見える。(やすらぎ堤の葦) 翌4月24日は雨で銀輪散歩はお休み。 25日は竹内式部めぐりの銀輪散歩でありましたが、これは前頁記事で紹介済みです。 ということで、新潟銀輪散歩終了。26日空路で帰阪です。 帰路の飛行機でウトウトしていたら、急降下があったのか、ガクンというかバタンというか大きな衝撃があって目が覚めました。 窓の外を見やると雲の中にて何も見えず。 やがて雲の下へと降下して、奈良盆地上空に入ったようで、眼下に見覚えのある箸墓古墳が見えて来ました。(上空から箸墓古墳 左下部) 左下部に写っている大きな古墳が箸墓古墳。 その上部左手中ほどから右下隅にかけて流れている川が大和川。 上流部分は三輪川、初瀬川(泊瀬川)などとも呼ばれる。 そして、金剛山と葛城山。(上空から金剛山<奥>と葛城山<手前>) 生駒山系高安山上空から大阪府上空に入り、さらに高度を下げて、大阪城公園付近の上空へとさしかかる。(上空から大阪城公園) はい、間もなく伊丹空港に着陸です。(完)<参考>銀輪万葉・新潟県・長野県篇
2024.04.30
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本日見かけた花と虫であります。(ホタルブクロ)<参考>ホタルブクロ・Wikipedia キキョウ科ホタルブクロ属の多年草。 子どもがこの袋状の花に蛍を入れて遊んだことから蛍袋という名になったらしいが、別名ではツリガネソウ、アメフリバナとも。 ホタルが登場する万葉歌は1首だけある。防人の妻が詠んだ歌とされる。 過去記事でも取り上げているが、再掲すると・・。この月は 君来きまさむと 大船おほぶねの 思ひ頼みて いつしかと 我あが待ち居をれば 黄葉もみちばの 過ぎて去いにきと 玉梓たまづさの 使ひの言へば 蛍なす ほのかに聞きて 大地おほつちを 炎ほのほと踏みて 立ちて居ゐて 行くへも知らず 朝霧の 思ひ迷まとひて 丈つゑ足らず 八尺やさかの嘆き 嘆けども 験しるしをなみと いづくにか 君がまさむと 天雲あまくもの 行ゆきのまにまに 射いゆ鹿猪ししの 行ゆきも死なむと 思へども 道の知らねば ひとり居て 君に恋ふるに 音ねのみし泣かゆ (万葉集巻13-3344)<今月は君が帰って来られると、(大船の)頼みに思って、いつかいつかと私が待っていると、(黄葉の)はかなく死んでしまったと、(玉梓の)使いの者が来て言うので、(蛍なす)ほのかにそれを聞いて、大地を炎の上を踏むように跳び上がり踏んで、立ったり座ったり、何処へ行けばいいかもわからず、(朝霧の)思い迷って、(丈足らず)八尺にも及ぶ長いため息をつき嘆いても、何の甲斐もないので、何処に君が居られるのだろうと、(天雲の)行くあとについて(射ゆ鹿猪の)行って死のうと思うけれど、道が分からないので、ひとり居て君を恋慕っていると、声に出して泣けてくる。><参考>墓参・虫も色々 2019.6.10.(同上) で、ホタルの写真と行きたいところであるが、上掲参考記事の時と同じく、手持ちの写真は今回もありません。 その代役でも勤めようとやって来たのか、セボシジョウカイボンが目の前に舞い降りて来ました。(セボシジョウカイボン)<参考>ジョウカイボン科・Wikipedia ジョウカイボン・Wikipedia ジョウカイボンという虫は、ホタル上科ジョウカイボン科の昆虫。 ホタルのように光らないが、ホタルの縁戚と言ってもよい虫であるから、まあ、ホタルの代役にならないこともないという次第。 ジョウカイボンというのは、漢字では「浄海坊」と書く。 浄海というのは、平清盛の戒名。 清盛は熱病で死ぬが、それは、このジョウカイボンとそっくりなカミキリモドキという虫の毒(カンタリジン)によるという説があったようで、カミキリモドキと取り違えて浄海坊という名がこの虫に付けられたということらしい。<参考>カミキリモドキ・Wikipedia 以上、虫と花と万葉集のお話でした。<参考>虫関連の過去記事はコチラ。 花関連の過去記事は下記の通り。 花(5)・2022~ 花(4)・2020.4.~2021 花(3)・2017~2020.3. 花(2)・2012~2016 花(1)・2007~2011 万葉関連の過去記事はコチラ。
2024.06.09
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28日、29日と裏磐梯を銀輪散歩して来ました。(この記事は日付を遡って作成。実際の記入日は10月1日です。) 27日、空路新潟に入り、28日朝7時過ぎの高速バスで新潟から会津若松へ。会津若松からJRで猪苗代へ。猪苗代から乗合いバスで裏磐梯ロイヤルホテルへ。11時過ぎにホテル到着。宅配便で送って置いたトレンクルをフロントで受け取り、早速に銀輪散歩へ。 初日は五色沼、小野川湖など。2日目(29日)は桧原湖一周。3日目(30日)は台風17号の心配もあったので猪苗代湖銀輪散歩は取り止め早目に新潟まで帰って来ました。しかし、大阪の天候が荒れていて前便の大阪行き飛行機は途中で引き返して来て、新潟空港にて待機中。小生の予約していた最終便も天候調査中で飛ぶかどうかは分らないという。5時頃になって、待機中の前便が6時半に出発することになった、というので、それに便変更して貰って、無事伊丹に午後7時4~50分頃に帰って来ることが出来ました。 ということで、裏磐梯銀輪散歩のレポート、本日より何回かに分けて掲載することと致します。(富士山) 往きの飛行機の窓から遠く富士山が見えました。(猫と鴉) 朝のバス待ちの時間に、新潟駅前の小さな公園に立ち寄ると、猫とカラスが・・微妙な距離で。新潟駅前朝7時15分発のバスで会津若松へ。 会津藩は教育水準も高く、文武両面での藩士の士気も高く、幕末期に於いては「宝石のような藩」であった、というようなことを、司馬遼太郎氏が何かの本で書いて居られたかと思いますが、そのことがこの藩の悲劇ともなったと言うべきか、悲劇がその宝石の輝きを際立たせることともなった、と言うべきか。 しかし、今回はそういう記憶の散りばめられた会津若松はやり過ごして、猪苗代から磐梯山の裏手の「宝石のような」五色沼など、自然探勝の銀輪散歩なのである。これも、ブログ友の画家、ひろろさんがそのブログに於いて絵画や写真などでご紹介下さっている風光に誘われての、フラリ思い付きの旅なのであります。瑠璃色の 風も吹くらむ 磐梯の 湖沼の秋の 道をたづねな (偐家持) (会津若松駅にて) 電車には、会津の郷土玩具「赤べこ」をゆるキャラ風にした「あかべぇ」が表示されていました。会津ライナー2号で会津若松から猪苗代へ。(磐越西線、会津若松方向)(磐越西線、郡山方向。猪苗代駅)(猪苗代駅)(野口英世三体像) 野口英世は猪苗代町の出身。野口英世記念館も近くにあるようだが、今回は立ち寄らぬままとなりました。 桧原湖方面へのバス待ちの時間を、ガランとした駅前周辺をブラブラ。(野口英世三体像説明板。クリックして拡大画像でお読みください。)(マンホールの蓋)(磐梯山は雲の中。駅前の広場から。) 銀輪万葉とは言え、会津の万葉歌は1首あるのみ。会津嶺(あひづね)の 国をさ遠み 逢はなはば 偲(しの)ひにせもと 紐結ばさね (巻14-3426)(会津の山々に隔てられ遠くに離れているので逢えないなら、せめても 偲ぶよすがに衣の紐を結んで下さいな) この歌で連想するのは、人麻呂の次の歌。淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す (柿本人麻呂 万葉集巻3-251) 紐を結ぶという行為は、結びの呪力への信仰に基づくもので、親しい男女が無事の再会への祈りを込めて行ったもの。旅の安全を祈るものであるとともに、妻や恋人を偲ぶよすがでもあった。 眉が痒くなったり、蜘蛛が巣を張ると、恋しい人の訪れがあると考えたり、衣の紐を結ぶことによって再会を祈ったりと古代人は物事に色々な意味付けをしていたのである。現代の我々が何でもないと見過ごすものも切実な意味を持っていた、ということで言えば、とても色彩豊かな世界が広がっていたということでもあると言えるでしょうか。(裏磐梯ロイヤルホテル) 猪苗代駅前からバスで30分弱。国道459号線でひたすら坂道を上って、磐梯山の裏側、桧原湖と秋元湖の中間位、五色沼入口の近くにある裏磐梯ロイヤルホテルに11時過ぎに到着。これより五色沼探勝に出掛けますが、続きは次回です。(つづく)
2012.09.28
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(承前) 昨日(11月7日)の続きです。 会津若松駅前のホテルで一泊しての翌日が今日(11月8日)ということになりますので、以下単に「今日」ということで記事を書きます。 今日は朝、会津若松駅発7時41分の列車で会津柳津へと向かいます。 今回の旅の目的の一つは、大伴家持に因む伝説のある、福満虚空蔵菩薩霊厳山圓蔵寺を訪ねることにありました。(会津若松駅・4番ホーム・只見線)<参考>会津若松駅・Wikipedia 会津若松駅4番ホームが只見線。反対側の5番ホームが会津鉄道会津線の列車が乗り入れるホームになっているようです。 向かいの3番ホームが磐越西線のようです。 向かいホームに喜多方行きの普通列車が入って来ました。(同上・3番ホーム・磐越西線喜多方行きの列車) 7時18分、会津川口行き7時41分発の列車が入って来ました。(同上・只見線7時41分発会津川口行き列車) 乗車して、磐梯山が見える側の席は左か右か頭の中の地図と照合して、右側と判断して右側の座席に座る。(同上・5番ホーム・会津鉄道の列車) 少し遅れて会津鉄道の車両が入って来ました。 5番ホームであるが、「JR2」という表示。これはどういう意味なんでしょう。(同上) さて、わが列車の会津柳津までの各駅発車時刻表は次の通り。(会津若松発7:41普通列車の各駅発車時刻)<参考>七日町駅・Wikipedia 西若松駅・Wikipedia 会津若松から西若松までは南向きに列車は走るので、会津若松駅の南方向に西若松駅がある。その位置関係からは「南若松」という方が適切かと思うが、この「西若松」という名称は、会津若松駅から見てというものではなく、鶴ヶ城のほぼ西にあたるということで、お城から見ての名称のようです。 西若松駅を出ると列車は右にカーブし、西向きになって阿賀川を渡る。 列車の乗客は、昨夕と同じで、通学の高校生たちが多数。(阿賀川・西若松~会津本郷間)<参考>会津本郷駅・Wikipedia 会津高田駅で多くの高校生が下車したが、地図を見ると会津西陵高校というのが駅の南方にあるから、その学校の生徒たちなんだろう。 この先、会津坂下駅前に会津農林高校というのがあるが、会津坂下駅着が8時19分であり、この高校に通う生徒もこの列車で間に合うから、まだ車内にいる高校生は会津農林高校の生徒ということになる。 会津高田駅まではほぼ西方向に走るが、会津高田駅を過ぎると線路は北向きにカーブする。 かくして右窓は東窓となり、東方向にある磐梯山が見えて来る筈。(ススキと磐梯山・会津高田~根岸間)<参考>会津高田駅・Wikipedia 根岸駅(福島県)・Wikipedia 磐梯山が見えて来ましたが、山頂は雲の中であります。 この先、会津坂下駅の手前で線路が西向きにカーブするまでは磐梯山が車窓に見えるのだが、雲が晴れる気配はなく、往路はずっとこんな風に山頂は雲に隠れたままでありました。 新鶴駅、若宮駅と過ぎ、線路が西向きに変わって磐梯山が見えなくなると、会津坂下駅である。<参考>新鶴駅・Wikipedia 若宮駅・Wikipedia 会津坂下駅・Wikipedia 会津坂下駅からは上り坂となり、塔寺駅を過ぎトンネルを越えた辺りから下り坂となる。<参考>塔寺駅・Wikipedia 会津坂本駅・Wikipedia 会津坂本駅付近から只見川沿いを走ることになるが、川からは少し距離があり、右手、川と線路の間には国道252号(沼田街道)が通っているので、川沿いを走っているという感じはなく、国道沿いを走っている感じ。 そして、左にカーブして列車が南向きに走ったところで目的地の会津柳津駅である。8時41分着。<参考>会津柳津駅・Wikipedia 会津柳津駅の駅舎は、現在改築工事中で、工事用仮囲いシートに覆われていて、その姿は見えない。仮の通用口からの出入りとなる。 会津坂本駅を出てしばらくは隣の国道252号と線路はほぼ同じ高さにあったが、左にカーブする辺りから国道は線路よりもかなり低いところを通るようになるので、駅舎は国道よりも高い位置になる。従って、駅前の道も国道よりも高く、南に向かって下り坂になっている。この道は「赤べこ通り」と呼ばれているようだ。 その坂道を圓蔵寺目指して下って行く。(福満虚空蔵尊境内案内図) 坂の中ほどに圓蔵寺の山門への参道があった。北山門である。 これは、裏山門。表山門(南山門)は坂道を下り切ったところにある。 裏から入るのがヤカモチ流であるから、ここから入ることとする。(圓蔵寺・裏参道と北山門)(同上・北山門) 北山門を入って振り返ると、山門の向こうに只見川に架かる国道252号の柳津橋が見えている。 正面には大きなお堂。圓蔵寺の本堂、福満虚空蔵尊菊光堂である。 本堂の正面に回ろうとするが、表に回る通路がない。 本堂外縁の回廊に上がり、回廊を回って建物正面に出るというのが、裏から入って直接本堂にやって来た参拝者の、唯一の参拝ルートである。 北山門を入ってすぐの処で左に道をとり、ぐるりと大回りして本堂正面に出るというルートがあるので、本来はこのルートで行くのが裏から入った者のマナーであるのだろうが、そういう遠回りをする参拝者は居ないだろう。 目の前に大きなお堂が見えているのだから、足は自然にその方向に向かうというもの。 しかし、本堂の裏階段からお堂外縁回廊に昇って表に回っていいものかどうか迷う人もいるのだろう。お堂の壁面に「参拝者の皆さまへ。階段を上がり正面にお回りください。」と記された案内板が貼られている。(本堂回廊からの眺め。只見川と観月橋<手前>と瑞光寺橋) 回廊からの眺めは素晴らしい。 手前の橋が観月橋。奥の赤い橋が国道252号の瑞光寺橋。 観月橋の左詰にあるのがきよひめ公園。 この公園から川沿いに下りる階段があって、それを下りると川沿いに小さな赤い橋・きよひめ橋が架かっている。その付近が天然記念物ウグイが生息する淵となっているようで、ウグイ生息地の碑が建てられている。また、その隣には竹久夢二記念碑もある。後刻立ち寄ってみる予定。(圓蔵寺本堂・菊光堂)(霊厳山圓蔵寺縁起)<参考>福満虚空蔵菩薩霊厳山圓蔵寺 上掲の縁起によると、大同2年(807年)徳一大師開創とあり、本尊の福満虚空蔵菩薩は弘法大師の作とある。 ここで、大伴家持とは時代が合わないことに気が付く。 大伴家持が、本尊仏は行基作の尊い仏像であるから33年毎に開帳するように進言したという伝説があるのは、宮城県登米市にある柳津虚空蔵尊のことであったことを知る。<参考>柳津虚空蔵尊(登米市)・Wikipedia まあ、いかにも偐家持らしい間違いであります。 寺の開創も大伴家持の死後、弘法大師も大伴氏の支族である佐伯氏の出自ではあるが家持よりはずっと後世の人。とあれば、大伴家持が出る幕はないのである。(本堂前の紅葉)(撫で牛) 撫で牛というと天神さんの専売特許かと思っていたが、虚空蔵菩薩は丑・寅年生まれの人の守り本尊ということで、撫で牛がこの寺にも鎮座しているのか。 今から400年ほど前、会津で大きな地震があり、圓蔵寺本堂を再建するに当たり、何処からともなく赤牛の群れが現れ、巨大な木材を運び活躍し、工事が完成すると忽然と姿を消したという赤べこ伝説が生まれ、この地が「赤べこ伝説発祥の地」とされている。 虎も工事のお手伝いをしていたら、撫で牛と並んで撫で虎も鎮座することになったのだろうが、虎は甲子園球場の応援に忙しくて、会津まで手が回らなかったので、撫で虎になるチャンスも黄トラ伝説を作るチャンスも逃したという次第。 ということで、本堂前、鐘楼脇に赤べこがいます。(赤べこ・母、満子)(鐘楼) 鐘楼脇の赤べこと撫で牛がいる付近から階段道を上ってゆくと、美しい紅葉がありました。(本堂脇から一段上った場所の紅葉) 更に上ったところが、霊寶堂や圓蔵寺会館などがあるエリア。(左から水子地蔵尊、霊寶堂、圓蔵寺会館)(奥の院への案内板) 奥の院へと向かう。 鐘楼の南側まで戻り、庫裡の塀に沿った道を南へと進む。(圓蔵寺境内から見る柳津の家並み) 散り紅葉が降り積む道をサクサクと行く。(圓蔵寺・庫裡) 庫裡を過ぎると、道は七曲り(実際は3度曲がるだけのS字またはZ字)の下り坂となる。 表山門(南山門・仁王門)へと下る道は、赤べこがいた付近にあったようだが、「赤べこ」や「撫で牛」に気を取られていた所為で見過ごしたものと思われる。坂を下り切って出た広い道を右に進み、赤べこ通りに出る。 奥の院よりも先に、表門である南山門を撮影しようと、赤べこ通りを駅方向に少し戻ることにするが、本記事はここまでとし、続きはページを改めることにします。(つづく)<参考>銀輪万葉・その他篇
2023.11.14
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本日(1月6日)、邂逅展に行って来ました。 今年も銀輪散歩を兼ねての邂逅展でありましたので、トレンクル持参であります。銀輪事始めということになります。 近鉄奈良線の新大宮駅で下車。トレンクルを組み立て、会場の「アートスペース上三条」へと向かう。(アートスペース上三条・邂逅展会場) 1階は喫茶店になっていて、展示会場は2階になっている。 2階に上がる。 入り口前に展示されていたのは、家近健二氏の作品「空」と小林和弘氏の作品「輝」。(家近健二氏「空」)(小林和弘氏「輝」) 受付で記帳を済ませて展示室へ。(展示風景1・家近健二氏のコーナー) 毎年、友人の家近氏からご案内を頂戴するので、見学させていただくのが、最近のヤカモチの年初お決まりの行動パターンとなっている。 何名かで共同開催されているので、他の方の作品もざっと拝見。(展示風景2)(展示風景3) 生憎と家近氏はご不在でご挨拶は叶いませんでしたが、上記の展示室には小林氏が居られたので、少し言葉を交わしました。(展示風景4)(展示風景5)(展示風景6)(展示風景7) 1階の喫茶店に入って、珈琲休憩とする。 店内では、森澤麗子氏の草木染め作品が展示されていました。 同氏も来られていましたので、昨年の邂逅展でお聞きした石のカラト古墳と万葉の小径を訪ねたことなどを彼女とお話しました。<参考>2023年邂逅展 2023.1.7. 石のカラト古墳&万葉の小径 2023.6.17.(草木染め・森澤麗子氏作品)(同上)(同上) 邂逅展の後、昨年は中学時代の恩師井〇先生のお墓参りをしたのだが、今年は、平城宮趾公園に立ち寄ったのみで、大和西大寺駅から電車で帰宅でありました。(平城宮趾・大極殿) 大極殿の北西側、道路を挟んだ位置に佐紀池というかなり大きい池があるのだが、そこに十数羽の鴨が群れていました。 その群れの中に、3羽が一列になって水面を嘴ですくうようにして移動するユーモラスな三人組、いや三羽組を見かけました。(佐紀池のカモ) ピッタリくっついて一列になって泳いでいる。(同上)<参考>ハシビロガモ・Wikipedia 他のカモたちには目もくれず、ひたすらどこまでも3羽一列で移動してゆく。他の群れにぶつかっても、隊列を崩さず突っ切ってゆく姿が愉快。(同上) メスを真ん中にオスが前後にいるから、これは繁殖行動の一種であるのかもしれない。とすれば、一列ではあるが三角関係ということになり、言わば緊張関係、厳しい戦いの場ということになる。 近鉄・枚岡駅から自宅までは再びトレンクルであります。遠回りして枚岡梅林に立ち寄って来ましたが、梅はまだ蕾が固いようでした。(枚岡梅林)<参考>家近健二展関連の過去記事はコチラ。 鳥関連の過去記事はコチラ。
2024.01.06
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友人、岬麻呂氏からの旅便りが届きました。 今回は、「日南・南郷のジャカランダの森が目的の一人旅」とのこと。(旅・岬巡り報告330・宮崎)※画像をクリックするとフォト蔵の大きいサイズの写真画面が別窓で開きます。 文字などが小さ過ぎて読みづらい時は、フォト蔵写真でご覧下さい。(同上・添付写真集1)(同上2)(同上3)(同上4) 岬麻呂氏のご自宅庭にはジャカランダの庭木が3本もあり、このように花を咲かせているとのこと。(岬麻呂邸ご自宅庭のジャカランダ) その他に鉢植えのジャカランダが5鉢もあるそうですから、氏のこの花への愛着は特別なもののようです。(同上) では、我々もジャカランダの森への旅にご同行させて頂きましょう。6月4日関西空港→宮崎空港→レンタカー→青島熱帯植物園→青島温泉ホテル(3連泊) 午後便で宮崎空港着。 レンタカーで旅を始めます。 先ずは、青島熱帯植物園のジャカランダにご挨拶であります。(青島熱帯植物園のジャカランダ) デイゴの花にもご挨拶。(デイゴと青島) 奥に見えるのは青島。 夕されば潮満ち来らむ、で鬼の洗濯板も海面下に沈み・・。青島に 潮満ち来れば 潟を無み 洗濯板の 形もなくあり (海辺青鬼)(本歌)若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る (山部赤人 万葉集巻6-919) 岬麻呂氏も青島温泉さして・・、ホテル到着であります。(青島・ホテルの窓から撮影) これまで何度もこのホテルに宿泊されていて、大女将さんとはご昵懇なんでしょう。学生時代の「宮崎の旅」のお話が大女将さんのお気に召したのかどうかはともかく、同ホテルの創業50周年記念ということでもあるか、彼女からは、「みなひとの得がてにすとふ」レアなお酒・芋焼酎「百年の孤独」1本をプレゼントしていただいたとのこと。 下戸のヤカモチすらもその名前だけは夙に存じ上げているお酒。 岬麻呂氏の「大感激」も分からぬではないが、やっぱり本当には分からんというのが正直なところであるか(笑)。6月5日堀切峠→ジャカランダの森→マンゴー生産農家の高山さん宅→都井岬灯台→かのやばら園→都城経由→ホテル帰着 旅の二日目の夜が明けます。(青島の日の出・ホテルの窓から撮影) 朝開きして、先ず向かうのは堀切峠。(堀切峠) 鬼の洗濯板を横目にジャカランダの森へ直行であります。(ジャカランダの森・国道入口付近) 今年は例年になく花の付きがよいらしく、ジャカランダの森は「今盛りなり」の圧巻の眺め。(同上) 多島海の青を背景に咲き誇るジャカランダの森。 素晴らしい眺めです。(同上・R448海側の丘)空の青 海の青にも 負けじとや 今か咲くらむ ジャカランダの花 (ジャカ麻呂) さて、今回もマンホールの写真を数枚送って下さいました。 先ずは、串間市のマンホール。(串間市のマンホール) これは、ポケットモンスターのデザイン。 「ポケふた」と呼ばれるマンホールです。 これより都井岬へと向かいます。(都井岬灯台・灯塔) 都井岬灯台に到着です。 青空の広がる好いお天気。 空の青さに誘われたか、久しぶりに灯塔を登られたとか。 ヤカモチは見上げているだけにして置きます(笑)。(同上・全景) 都井岬と言えば、御崎馬ですな。(御崎馬と都井岬南灯台) このサイズの写真では馬の後方奥に写っている灯台の判別は難しいかもしれません。 画像をクリックして大きいサイズの写真でご覧下さい。 都井岬南灯台が写っています。 県境を越えて、鹿児島県は、鹿屋市のかのやばら園まで足をのばします。(かのやばら園)(同上・イングリッシュガーデン) バラもさることながら、この時期はアジサイが見頃であったとか。 橘諸兄の歌にこんなのがある。紫陽花の八重咲く如くやつ代にをいませわが背子見つつしのはむ (万葉集巻20-4448) 鹿屋市と言うと思い浮かぶのが、大学同期の親友・八〇君。 彼は鹿屋高校の出身である。 そんなことで、かのやばら園のアジサイということから、上の万葉歌と共に彼のことを思い出したりもしたヤカモチであります。(同上・入口付近の赤い郵便ポスト) 上は、かのやばら園で見かけた郵便ポストですが、7日には黄色いポストと青いポストも撮影されているので、下に並べて置きます。 赤、黄、青で交通信号であります。(青島の黄色の郵便ポスト)(宮崎県総合農業試験場亜熱帯作物支場の青い郵便ポスト)6月6日人吉城址→山江村→相良村→五木村→多良木町→湯前町→西米良村・純木造橋→一ツ瀬ダム→西都原古墳群→ホテル帰着 旅の3日目は、県境を越えて熊本県へ。 人吉城址へと向かいます。(人吉城址) 山江村、相良村を経て五木村へ。(山江村のマンホール)(相良村のマンホール) 五木村です。(五木村と川辺川) 五木村は川辺ダム建設工事に伴い、村全体が高台に移転。真新しい家並みとなっている。(五木村のマンホール) 多良木町、湯前町を経て西米良村へ。(多良木町のマンホール)(湯前町のマンホール)(西米良村のマンホール) 西米良村の一ツ瀬川に架かる純木造のこの橋は記憶にあるものの名前が思い出せない。 過去記事を遡って調べると「かりこぼうず大橋」という名であることが判明しました。(西米良村の純木造の橋・かりこぼうず大橋)<参考>岬麻呂旅便り301・宮崎、熊本 2022.11.21. 一ツ瀬川沿いに下流方向へ。西都原古墳群を経て、青島のホテルへと戻りますが、途中では大雨に見舞われたとか。(西都原古墳群) ホテルに戻り、夕食。夕食後は大女将さんと民謡談義。宮崎民謡「いもがらぼくと」で盛り上がったとか。<参考>いもがらぼくと宮崎県民謡・村上三絃道6月7日道の駅・フェニックス→鵜戸神宮→飫肥城址→ジャカランダの森・トロピカルドーム→宮崎空港→関西空港 旅の最終日は、道の駅フェニックスでデイゴの花とジャカランダの花を愛で、鵜戸神宮へ。(鵜戸神宮)(日南市のマンホール<消火栓>) そして飫肥城址に立ち寄ります。(飫肥城址) 仕上げは、ジャカランダの森を再訪でありましたが、同森にあるトロピカルドームでは「お目当ての真紅のトケイソウは枯れて無し」であったそうで、いささか詰めの甘い仕上げとなったようであります(笑)。 それはともあれ、全739kmのロングドライブ旅、お疲れ様でした。<参考> 過去の岬麻呂旅便り記事はコチラ。 フォト蔵アルバム・岬麻呂写真集はコチラ。
2024.06.15
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(承前) 前頁の名前不詳の沼から始めます。(名前不詳の沼) 小生の記憶違いでなければ、「星の雫」とかいう宿泊施設の南側にあったかと。余呉湖が琵琶湖の雫なら、この沼は桧原湖の雫かも・・。(同上)ぬなは生(お)ふ 水沼(みぬま)にあれば 名は知らね 桧原の湖(うみ)の 雫(しづく)と呼ばむ (偐家持) (注)ぬなは=沼縄。ジュンサイの古名。(同上)(同上) 名前不詳の沼に関わり過ぎました(笑)。先へ進みます。 道端に小さな蛇を発見。蛙の次は蛇でした。蛇の道はへびですが、銀輪の道もヘビとは知らなんだ。(蛇) ヘビを暫しからかって少し行くと、トンネル。トンネルには入らず、右に迂回路があるので、それを行く。(野鳥の森トンネル)(迂回路は森の中) (迂回路の森) (細野山国有林) やがて、桧原宿跡(と言ってもそれは湖底なのであるが)に到着。明治の磐梯山の大爆発によって、集落51戸は桧原湖に沈んでしまったのだそうですが、詳しいことは下の説明板をクリックして拡大画面でお読み下さい。(桧原宿)(五輪塔)(同上)(桧原宿跡)(この辺りの湖底に集落が沈んでいるのでもあるか。)(県道64号線)(会津米澤街道桧原歴史館) 12時50分、会津米澤街道桧原歴史館に到着。建物の左半分が歴史館の展示室。右半分がラーメン屋さん。ここで遅い昼食とする。結構お客さんが居ました。展示室は100円を投入して入室見学できるのであるが、小生の他には誰も入らない。皆さんラーメンが目当てなのですな。 展示室は撮影禁止の上、内容が「いまいち」でした、と言うよりは小生の関心を呼ぶものがなかった、ということですな。 昼食が済んだ処で、字数制限ほぼ一杯。続きは次回です。 (つづく)
2012.10.03
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「ぬばたま・の」・・・ぬばたまは、射干(ヒアフギ)の実であって、其色は、極めて黒いものだから、くろの枕詞とした。それが轉じて夜・月・夢・寝(い)・樞(クル)などにもつづける。(折口信夫「萬葉集辞典」より)ヒオウギが咲いていた。この花の実が「ぬばたま」である。 万葉集から「ぬばたま」の出てくる歌を拾い出すと・・・居明かして 君をば待たむ ぬばたまの 我が黒髪に 霜は降るとも (巻2-89 磐姫皇后)あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の 隠らく惜しも(巻2-169 柿本人麻呂) 子らが家道 やや間遠きを ぬばたまの 夜渡る月に 競ひあへむかも(巻3-302 阿倍廣庭)ぬばたまの その夜の梅を た忘れて 折らず来にけり 思ひしものを(巻3-392 大伴百代) 佐保川の 小石踏み渡り ぬばたまの 黒馬の来る夜は 年にもあらぬか(巻4-525 大伴坂上郎女)ぬばたまの 黒髪変り 白けても 痛き恋には 逢ふ時ありけり(巻4-573 大伴旅人)我が背子が かく恋ふれこそ ぬばたまの 夢に見えつつ 寐ねらえずけれ(巻4-639)ぬばたまの その夜の月夜 今日までに 我れは忘れず 間なくし思へば(巻4-702 河内百枝娘子)ぬばたまの 昨夜は帰しつ 今夜さへ 我れを帰すな 道の長手を(巻4-781 大伴家持) うつつには 逢ふよしもなし ぬばたまの 夜の夢にを 継ぎて見えこそ(巻5-807 大伴旅人) ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く(巻6-925 山部赤人)ぬばたまの 夜霧の立ちて おほほしく 照れる月夜の 見れば悲しさ(巻6-982 大伴坂上郎女) ぬばたまの 夜渡る月を 留めむに 西の山辺に 関もあらぬかも(巻7-1077)ぬばたまの 夜渡る月を おもしろみ 我が居る袖に 露ぞ置きにける(巻7-1081)ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の 川音高しも あらしかも疾き(巻7-1101 柿本人麻呂)ぬばたまの 我が黒髪に 降りなづむ 天の露霜 取れば消につつ(巻7-1116)ぬばたまの 黒髪山を 朝越えて 山下露に 濡れにけるかも(巻7-1241) ぬばたまの 今夜の雪に いざ濡れな 明けむ朝に 消なば惜しけむ(巻8-1646 小治田東麻呂) ぬばたまの 夜霧は立ちぬ 衣手を 高屋の上に たなびくまでに(巻9-1706 舎人皇子)天の原 雲なき宵に ぬばたまの 夜渡る月の 入らまく惜しも(巻9-1712)いにしへに 妹と我が見し ぬばたまの 黒牛潟を 見れば寂しも(巻9-1798) ぬばたまの 夜霧に隠り 遠くとも 妹が伝へは 早く告げこそ(巻10-2008)年にありて 今か巻くらむ ぬばたまの 夜霧隠れる 遠妻の手を(巻10-2035)天の川 瀬を早みかも ぬばたまの 夜は更けにつつ 逢はぬ彦星(巻10-2076)ぬばたまの 夜渡る雁は おほほしく 幾夜を経てか おのが名を告る(巻10-2139) ぬばたまの この夜な明けそ 赤らひく 朝行く君を 待たば苦しも(巻11-2389)ぬばたまの 黒髪山の 山菅に 小雨降りしき しくしく思ほゆ(巻11-2456)おほならば 誰が見むとかも ぬばたまの 我が黒髪を 靡けて居らむ(巻11-2532)ぬばたまの 妹が黒髪 今夜もか 我がなき床に 靡けて寝らむ(巻11-2564)思ふらむ その人なれや ぬばたまの 夜ごとに君が 夢にし見ゆる(巻11-2569)相思はず 君はあるらし ぬばたまの 夢にも見えず うけひて寝れど(巻11-2589)ぬばたまの 我が黒髪を 引きぬらし 乱れてさらに 恋ひわたるかも(巻11-2610)ぬばたまの 黒髪敷きて 長き夜を 手枕の上に 妹待つらむか(巻11-2631)ぬばたまの 夜渡る月の ゆつりなば さらにや妹に 我が恋ひ居らむ(巻11-2673) ぬばたまの その夢にだに 見え継ぐや 袖干る日なく 我れは恋ふるを(巻12-2849)ぬばたまの 寐ねてし宵の 物思ひに 裂けにし胸は やむ時もなし(巻12-2878)ぬばたまの 夜を長みかも 我が背子が 夢に夢にし 見えかへるらむ(巻12-2890)思ひつつ 居れば苦しも ぬばたまの 夜に至らば 我れこそ行かめ(巻12-2931)あらたまの 年月かねて ぬばたまの 夢に見えけり 君が姿は(巻12-2956)白栲の 袖離れて寝る ぬばたまの 今夜は早も 明けば明けなむ(巻12-2962)ぬばたまの 夜渡る月の さやけくは よく見てましを 君が姿を(巻12-3007)うつせみの 人目繁くは ぬばたまの 夜の夢にを 継ぎて見えこそ(巻12-3108) 帰りにし 人を思ふと ぬばたまの その夜は我れ も寐も寝かねてき(巻13-3269)川の瀬の 石踏み渡り ぬばたまの 黒馬の来る夜は 常にあらぬかも(巻13-3313) ぬばたまの 夜は明けぬらし 玉の浦に あさりする鶴 鳴き渡るなり(巻15-3598)我妹子が いかに思へか ぬばたまの 一夜もおちず 夢にし見ゆる(巻15-3647)ぬばたまの 夜渡る月は 早も出でぬかも 海原の 八十島の上ゆ 妹があたり見む(巻15-3651)ぬばたまの 夜渡る月に あらませば 家なる妹に 逢ひて来ましを(巻15-3671)ぬばたまの 妹が干すべく あらなくに 我が衣手を 濡れていかにせむ(巻15-3712)ぬばたまの 夜明かしも船は 漕ぎ行かな 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ(巻15-3721)あかねさす 昼は物思ひ ぬばたまの 夜はすがらに 音のみし泣かゆ(巻15-3732 中臣宅守)思ひつつ 寝ればかもとな ぬばたまの 一夜もおちず 夢にし見ゆる(巻15-3738 中臣宅守)ぬばたまの 夜見し君を 明くる朝 逢はずまにして 今ぞ悔しき(巻15-3769 狭野茅上娘子) ぬばたまの 黒髪濡れて 沫雪の 降るにや来ます ここだ恋ふれば(巻16-3805)ぬばたまの 斐太の大黒 見るごとに 巨勢の小黒し 思ほゆるかも(巻16-3844) かくのみや 我が恋ひ居らむ ぬばたまの 夜の紐だに 解き放けずして(巻17-3938 平群女郎)ぬばたまの 夜は更けぬらし 玉櫛笥 二上山に 月かたぶきぬ(巻17-3955 土師道良)ぬばたまの 夢にはもとな 相見れど 直にあらねば 恋ひ止まずけり(巻17-3980 大伴家持)ぬばたまの 月に向ひて ほととぎす 鳴く音遥けし 里遠みかも(巻17-3988 大伴家持) ぬばたまの 夜渡る月を 幾夜経と 数みつつ妹は 吾待つらむぞ(巻18-4072 大伴家持) あかねさす 昼は田賜びて ぬばたまの 夜のいとまに 摘める芹これ(巻20-4455 葛城王)うち靡く 春を近みか ぬばたまの 今夜の月夜 霞みたるらむ(巻20-4489 甘南備伊香眞人) こんなにも「ぬばたま」という語を使った歌があるのに、すべて枕詞として使われていて、ぬばたま(ヒオウギ)そのものを歌った歌がない。可憐で美しい花だと思うのだが、万葉人は、この花そのものを、どうして歌わなかったのでしょうね。
2008.08.27
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(承前) 昨日の記事の続きです。 大山守皇子墓から一条通りへ戻り、平城宮趾公園へと向かいます。思えば平城宮趾公園も久しぶりである。ブログ過去記事で調てみると、昨年の8月29日以来だからほぼ1年ぶりということになる。<参考>叡尊墓と北山十八間戸へ 2017.8.29. 例によって、裏口から入ることとする。東院庭園の裏にある法華寺旧境内阿弥陀浄土院跡から公園に入ることとする。(大山守皇子墓から平城宮趾公園への走行コース)(法華寺旧境内・阿弥陀浄土院跡)(同上・説明板) 説明板に記載されている「地上に見える花崗岩の大きな立石」というのはこれのことか。(田圃の中の大きな石) 白洲正子「十一面観音巡礼」(講談社文芸文庫)の第3章の「幻の寺」という項で「神社のそばの田圃の中に、動かすと祟りがあるという大きな石が遺っているが、もしかすると、お堂はそこにあったのではないか。」(50頁)と記載されている石も多分これであるのだろう。 同書によると、法華寺には本尊の十一面観音のほかにもう一体の十一面観音像があり、その光背裏面に、 桜梅天神十一面観音 延宝五年丁巳二月□日 御本地堂後光基座 願主 法華寺高慶という銘があり、御本地堂から法華寺本堂に引っ越して来られたものらしい。そして、この御本地堂は、宇奈多理神社の境内に明治の頃まで建っていたらしいが、この石のある辺りに建っていたのではないかと推理されている訳である。「十一面観音巡礼」単行本(新潮社)は昭和50年(1975年)12月刊行だから、2000年の発掘調査でそれが裏付けられる25年前のことである。 ということで、ついでにその宇奈多理神社にも立ち寄って行くこととする。その正式な名称は宇奈多理坐高御魂神社である。(宇奈多理坐高御魂神社)<参考>宇奈多理坐高御魂神社 この神社には何度か来ているが、門が閉まっていることが多く、中に入ったという記憶が余りない。この日は門が開いていました。(同上)(同上・由緒)(同上・境内)(同上・櫻梅神社の銘ある燈籠) この神社は江戸時代には桜梅天神、桜梅神社とも呼ばれたようだが、その名残が境内の燈籠の銘に見られる。これは「楊梅」の誤りだろうと考えられる。 平城天皇の陵を「楊梅陵(やまもものみささぎ)」と呼ぶことや、孝謙(称徳)天皇や光仁天皇の時代に「楊梅宮」と呼ばれたのは東院のことと解されているところ、その東院庭園がこの神社に隣接して存在していることなどを考えれば、「御所の神社」と言う意味で、これを「楊梅神社」と呼んだものと見るのが自然であろう。その「ようばい」が訛って「おうばい」となり、「楊梅」が「桜梅」と誤記されるに至ったという訳である。(同上・本殿) 宇奈多理神社と東院庭園との間の細道、即ち、楊梅神社と楊梅宮との間の細道から平城宮趾公園に進入であります。<参考>第一次大極殿跡付近から見た宇奈多理神社の杜の写真掲載記事 奈良銀輪逍遥 2010.4.9. 大極殿のあるブロックへと向かう途中、ナラガシワの木陰にベンチがあったので、其処でしばし休憩です。(楢柏の木陰で・・) 大極殿の方を見やると手前に工事仮設の構造物が高々と。 築地回廊や門の復元工事が行われているようですが、これは、南側の朝堂院ブロックとの間を隔てる閤門を築造するためのものであるのだろうか。(大極殿まわりの復元工事) 北側の県道104号から大極殿を撮影。これはうしろ姿ということになりますかな。(大極殿) 平城宮趾公園を出て、県道104号を西へ。 近鉄奈良線大和西大寺駅前を通り過ぎて駅西側の踏切を渡り、南へ。西大寺の北側の細道を西へと行きます。(史蹟・西大寺境内伝称徳天皇山荘跡●印) 上の地図では西大寺の表示がされていませんが、護国院とある場所の周囲全体が西大寺境内です。<参考>西大寺については下記記事をご覧下さい。 大和西大寺駅から矢田寺経由富雄駅まで 2010.3.5. 西大寺の北側の細道を西へ入って行くと、西大寺奥之院たる体性院がある。ここは、西大寺中興の祖、叡尊の墓があるというので、昨年の8月29日に訪れていることでもあり、今回はスルーして、その北側にある飛び地の境内地へと向かう。<参考>叡尊と北山十八間戸へ 2018.8.29. 伝称徳天皇山荘跡というのは、どのような典拠、根拠があってのものかは存じ上げないが、西大寺に関するウィキペディアの記述から知ったのである。しかし、場所が西大寺宝ヶ丘と表示されているだけで、正確な位置が不明。自衛隊官舎のある付近ではないかと見当をつけて行ったら、ドンピシャ正解でした。(史跡 西大寺境内、伝称徳天皇山荘跡) されど、其処はご覧のように何もない草地と言うか雑木林と言うか、陰気な空き地なのでありました。あるのはこの石碑のみ。 称徳天皇山荘跡という表示も関連の説明表示もないので、此処がそうだという確証はないのであるが、宝ヶ丘という地名からして此処であることは先ず間違いないものと思う。それ此処はまことみかどの跡なるや わが見る限り何とてもなし(偐家持)夏草の継ぎて生ひ敷くこの原に 置きしわぎへを如何にか偲ばむ(孝偐天皇) (本歌)この里は継ぎて霜や置く夏の野にわが見し草はもみちたりけり (孝謙天皇 万葉集巻19-4268) 以上で、15日午後の銀輪散歩完結です。 何んとも尻切れトンボの結末でしたが、戯れ歌で誤魔化して置きます。 これより西大寺駅前に戻り、近鉄線で帰途につきます。 お付き合いどうもありがとうございました。(完)<参考>銀輪万葉・奈良県篇はコチラ
2018.08.17
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謹賀新年降る雪を 腰になづみて 参り来こし 験しるしもあるか 年の初めに (大伴家持 万葉集巻19-4230)新年がみなさまに どうぞよき年でありますように(石切神社絵馬)旧年中のご厚誼感謝申し上げますとともに本年もよろしくお願い申し上げます令和6年元旦偐万葉田舎家持歌集けん家持(瓢箪山稲荷神社絵馬)偐万葉田舎家持歌集(にせまんよう いなかやかもち かしゅう)目次それぞれの項目をクリックするとその項目の記事をまとめて見ることができます。下記目次はアメブロ版偐万葉田舎家持歌集により作成しています。銀輪万葉シリーズ大阪府篇(その1)、大阪府篇(その2)奈良県篇(その1)、奈良県篇(その2)京都府・滋賀県篇(その1)、京都府・滋賀県篇(その2)兵庫県篇、和歌山県・三重県篇、北陸篇、関東篇新潟県・長野県篇、中国四国篇、九州篇、その他篇近隣散歩近隣散歩(その1)、近隣散歩(その2)智麻呂絵画展第1回展~第100回展、第101回展~第200回展、第201回展~第217回展偐万葉シリーズひろろ篇、若草篇、ビッグジョン篇、英坊篇、オガクニ篇ふぁみキャンパー篇、閑人篇、LAVIEN篇、幸達篇ひろみ篇、あすかのそら篇、もも篇、龍の森篇、MoMo太郎篇その他(どち篇&雑詠篇)松風篇、木の花桜篇、るるら篇、真澄篇、nanasugu篇カコちゃん08篇、大和はまほろば篇、童子森の母篇半兵衛篇、くまんパパ篇、カマトポチ篇、ふらの篇ビターc篇、マダムゴージャス篇、アメキヨ篇ウーテイス篇、ローリングウェスト篇和郎女作品展絵画家近健二展関連、近江鯨麻呂絵画展、その他の絵画花花(1)、花(2)、花(3)、花(4)、花(5) 万葉短歌・俳句・詩・戯れ歌言葉遊び若草読書会岬麻呂旅便り囲碁関係囲碁関係(その1)、囲碁関係(その2)マンホール友人関係5人組ウオーク関係、健人会関係中学同期関係、夕々の会関係、ナナ万葉の会関係ペリカンの家関係、木力工房関連、その他虫、鳥、犬、猫など墓参関係その他カテゴリー自転車、能・狂言、ブログの歩み、未分類 当ブログの昨年の年間アクセス件数は312762件でありました。 ご訪問下さった皆さまに心よりお礼申し上げます。 一昨年10月半ば以降アクセス数が急減し、昨年もその状況が継続しましたので、前年比ほぼ半減の数字にとどまりました。<参考>過去10年間の年間アクセス数(括弧内は年末時点のアクセス累計総数) 2014年 78308件( 318177) 2015年 250713件( 568890) 2016年 501049件(1069939) 2017年 383827件(1453766) 2018年 455523件(1909289) 2019年 553926件(2463215) 2020年 586955件(3050170) 2021年 562272件(3612442) 2022年 562320件(4174762) 2023年 312762件(4487524)<参考>カテゴリ「ブログの歩み」関連の過去記事はコチラ。
2024.01.01
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一昨日(6/18)ひろろさんの個展に行って参りました。(「磐梯(春)」) ひろろさんとは2009年5月以来のブロ友であるから、15年余のブログ上でのお付き合いになる。 どういういきさつでひろろさんのブログを知ることとなったのかは記憶が曖昧で定かではないが、2009年5月6日にひろろさんのブログにコメントを記入したことで、ブログでのお付き合いが始まったのだろう思う。 そのコメントに添えて、万葉歌の物真似のような歌を作って記入したりもしたものだが、そのような歌もいつのまにか340首を超えるに到っています。<参考> 偐万葉・ひろろ篇はコチラからどうぞ。 ひろろdecさんのブログはコチラからどうぞ。 そもそも、今回の個展のことを知ったのは下掲のブログ記事によってでありました。<参考>個展のおしらせ☆ June 9,2024 たまたま、近くに出掛ける予定があり、「おついでがありましたら、どうぞ・・」という同記事のお誘いの文言に該当することになりますので、「では、行かねばなるまい」という訳にて、個展にお邪魔したという次第であります。(個展風景1)(同上2) ブログ掲載の写真によって、ひろろさんの絵は多くを拝見していますが、その絵を直接に拝見するのは、2011年4月のネコちゃんの絵が最初で、それ以来のこととなり、このようにまとまった数の作品を一堂にして拝見させていただくのは初めてのことであります。<参考>越後・会津銀輪散歩 2011.4.23.(同上3) ブログで拝見した懐かしい絵もあり、「やあ・・!」という感じも。 素敵な絵を見させていただき、ありがとうございました。(同上4)(鈴善漆器店)<参考>会津若松:鈴善漆器問屋 文化遺産・鈴善店舗 個展会場となっているのは、鈴善漆器店の催事蔵建物。 下掲写真の一番奥の白壁の建物になります。(同上) ブロ友に過ぎませんので、これまで直接にお会いする機会もなく、お顔は存じ上げないのでありますが、もし会場にいらっしゃれば、千載一遇の機会ということになった筈のところ、県展か何か別用でひろろさんはご不在というようなことを係の人が仰っていました。というようなことで、ご尊顔を拝することは叶いませんでしたが、ひろろさんのご健勝と益々のご活躍をお祈り申し上げる次第であります。 この日は、生憎の雨であったので、銀輪散歩は諦め、付近を少しばかり散策して帰途につきました。
2024.06.20
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ムシヒキアブと4年ぶりの再会。 前回のムシヒキアブは眼が緑色であったので、ムシヒキアブ科のアオメアブであったが、今回のそれは眼の色が黒いのでムシヒキアブ科のシオヤアブでありました。<参考>ムシヒキアブ・トンボとアブの中間みたいなアブ 2020.7.19.(シオヤアブ)<参考>ムシヒキアブ・Wikipedia シオヤアブ・Wikipedia シオヤアブ (同上) ムシヒキアブにも色々な種類があるが、シオヤアブやアオメアブは、スズメバチやオニヤンマを襲うこともあると言うから、昆虫界最強のハンターと言えるのかもしれない。 スズメバチやオニヤンマが相手では、逆襲にあって自分が食べられてしまう危険があるから背後から奇襲して背中に取り付くのだろうか。口針を一突き、獲物の体液を吸い取ってしまうということなんだろうが、そういう大きな獲物を襲う瞬間を一度見てみたいものである。(同上) ゆっくりと慎重に近づき撮影したが、不用意に手を動かした所為か、あっという間に飛び去ってしまった。どちら方向に飛び去ったのかも分からぬ忍者の如き早わざにて、一瞬のうちに姿がかき消えたのでありました。(同上) 参考までにアオメアブの写真も掲載して置きます。<参考1>シオヤアブと同じムシヒキアブの仲間のアオメアブの写真(アオメアブ 2020年7月19日記事掲載写真の再掲)<参考2>アオメアブ アオメアブ・緑色の目を持つ草地のハンター 今日は、ムシヒキアブ科のシオヤアブ(+アオメアブ)の記事でありました。<参考>虫関連の過去記事はコチラ。
2024.06.22
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本日は9月第1回目の囲碁例会の日。 銀輪散歩も兼ねてMTBで梅田へ。 天気も好し。日差しは未だ夏の名残りがあるものの、木陰や建物の陰を走ると風がひんやりして心地良く、いよいよ銀輪の秋も到来のようである。 相変わらず膝の調子がもひとつなので、大阪城公園はNHKへの坂道を回避し北に迂回し桃園の方へ回る道を行く。(大阪ビジネスパークの高層ビル群) 上のようなビル街が現代の大阪であるが、昔を偲ばせる古い建物も脇道に入るとあちらこちらにあるのも大阪らしくていい。(天満橋近くの民家) 今日は11時45分頃にアポロカフェに到着。昼食を済ませてから梅田スカイビル21階の部屋へ。小生が一番乗りでした。 本日の参加者は竹◎氏、福◎氏、村◎氏、平◎氏、荒◎氏と小生の6名。小生の次に会場にやって来たのは荒◎氏。先ず荒◎氏と1局お手合わせ。2目の差で小生の勝ち。次に村◎氏と打って数目差で負け、最後に福◎氏と打って、これは小生の勝ち。2勝1敗。これで、今年に入ってからの勝敗は23勝24敗となり、ようやく借金1まで漕ぎ着けました。5割まであと一息です(笑)。 午後4時半に、未だ熱戦を繰り広げている村◎氏と平◎氏を会場に残し、我々は帰途に。電車でお帰りになる他の方とはスカイビルの前で別れ、小生は再び銀輪散歩である。 熊野九十九王子の一番目の窪津王子は八軒家浜船着き場の付近にあったとかということなので、そちらに回ってみる。(八軒家浜船着き場) 現在は水上バスの乗り場になっているようであるが、窪津王子の手掛かりとなるものが何かないかと探すが見当りません。下調べもせずに来たので、見つからないのも当然ですな(笑)。 上は広重画のようであるが、江戸時代の八軒家浜の様子を描いたもの。説明板の文章の隣にこの絵が掲示されている。 江戸時代の大阪は水の都。京都から大阪への物資の輸送は水運によっていたのであり、鴨川・桂川から枚方経由、この大川(旧淀川)の八軒家浜が終着場であったのですな。 明治になって鉄道が開通すると、その役割は終焉し、今は観光用の水上バスの発着場として細々と存在している。 少し川下に下った処に「渡辺の津記念碑」というのがあった。熊野古道の出発点である八軒家浜・窪津王子はこの辺りにあったのでもあるか。(渡辺津記念碑) 渡辺の津。もう少し下流に行くと渡辺橋があるが、この「渡辺」は、大江山の酒呑童子退治で有名な源頼光の家来の渡辺綱(わたなべのつな、渡辺氏の始祖)に由来するものであると、何かで読んだか、誰かに聞いたかした記憶があるが、詳しいことは知らない、というか忘れたというか、今は書くべき何ものも思い浮かばない(笑)。 小生の友人の一人に摂津源氏の末裔の御仁、多田麻呂殿が居られるが、そんなことも思いながら、渡辺の津を後にいたしました。
2011.09.07
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(承前) 雨晴海岸にやって来たのも久しぶり。自転車のタイヤに不安はあるが、何とか高岡駅前まで持ってくれれば、と走り始める。 先ずは義経岩に立ち寄る。義経にまつわる伝説は下の説明板をご参照下さい。偐家持としては、大伴家持が愛したこの海岸の眺めを堪能すれば、それでよしつねなのであります。馬並(な)めて いざ打ち行かな 渋谿(しぶたに)の 清き磯廻(いそみ)に 寄する波見に (大伴家持 万葉集巻17-3954)(義経雨晴岩) 義経岩の前にはホタルブクロの白い花が咲いていました。蛍が雨宿りするという花が義経らの雨宿りの岩の前に咲いているのも、何やら駄洒落っぽい。(ホタルブクロ)雨隠(あまごも)り 蛍もすなる 花なれば 添ひて咲くらし 義経岩に (偐家持) 義経岩の傍らには小さな祠がり、義経社とあった。(義経社)(同上) この後、伏木方面など万葉歌碑を廻る予定であったが、越中国分駅への国道415号線の坂を登っている最中にまたしても後輪の空気がプシュプシュと抜けてしまい、走行不能に。この先は 後(のち)にせよとか 雨晴(あまはらし) タイヤの割れて 徒歩歩(トホホ)なりけり (徒歩麻呂) 不安的中。自転車を押しながらの徒歩。まさにトホホのお手上げであります。越中国分駅までともかくも歩いて行く。 事前の調査では越中国分駅の近くの高みに万葉歌碑があるとのことであったので、それだけは見て行くこととする。 国分駅前の道路を渡り、ゆるやかに右に上って行く坂道を行く。道端で草刈りをして居られたご婦人に歌碑の在り処を尋ねると「山道ですよ」と言いつつ教えて下さった。教えていただかねば見落としてしまう山道への入口である。「家持山石雲寺・・」と刻された石碑のある処から細い坂道を草掻き分けながら上って行くと、ありました。(石雲寺跡万葉歌碑)・・海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍 大君の 辺(へ)にこそ死なめ 顧みは せじと言立(ことだ)て・・ (大伴家持 万葉集巻18-4094) この歌は、大仏造営のために大量の金を必要とする中で陸奥国にて金が発見され、それを喜んだ聖武天皇が「出金詔書」を発するのであるが、それを受けて大伴家持が作ったものである。金の産出を祝うと共に、天皇が詔書に於いて「大伴氏は古来よく忠誠を尽くしてくれた」として、大伴氏の言立てにも言及したことに感激して作った歌である。その長歌の一部が軍歌となってしまって、多くの人が記憶してくれたのは良いが・・と家持殿も複雑な心境でしょうな。まあ、GHQも大伴家持までは戦犯とは致しかねたようですが。(同上) 家持歌碑への往復でひと汗かいて、越中国分駅まで戻って来た。「大君の辺にこそ死なめ」ではないが、「この駅の辺にこそ終(を)へめ」であります。銀輪散歩はこれにて終了。高岡駅まで忍者ハットリ君電車で戻り、サンダーバードで帰阪することと致します。(越中国分駅) こんな無人駅でのお別れとなりましたが、どちら様もお気をつけてお帰り下さいませ。最後まで高岡銀輪散歩にお付き合い賜り有難うございました。次はタイヤ交換をして、かかる頓挫のなきよう相努めまする。<完><参考>銀輪万葉・北陸篇
2012.06.29
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(承前) 裏磐梯ロイヤルホテルのフロントで宅配便で送って置いた自転車・トレンクルを受け取り、代りに荷物を預け、銀輪散歩開始。ホテルは五色沼入口と国道459号線を挟んでほぼ向き合っているので、五色沼散策には丁度良い。それと、路線バスのバス停がこのホテルの玄関前ということもあって、ホテルを此処と決めたもの。五色沼自然探勝路は少し先の裏磐梯ビジターセンターの前から入ってゆくようだが、ホテルの前からも入る道があるので、それを行くことに。毘沙門沼の前に土産物店併設の食堂があったので、自転車を駐車場の片隅に駐輪し、先ず腹ごしらえとする。 昼食を済ませて、毘沙門沼に向かう。右手に石碑がある。表に回って見ると、水原秋桜子の句碑であった。(秋桜子句碑) 水漬きつつ新樹の楊ましろなり この句は、秋桜子の句集「蘆刈」所収の句。この句碑は昭和13年10月建立のものにて、秋桜子の句碑としては第1号の石碑であるとのこと。 雪解けの春のネコヤナギの白い芽吹き・・ちょっと今の季節には合わないが、それを言っても始まらない(笑)。秋桜(こすもす)の 花は咲けども 毘沙門の 木々のもみつは しましぞ待たな (偐家持)(毘沙門沼)(同上)(同上)(アキノキリンソウと野菊) 句碑は秋桜子でありましたが、咲いていたのは秋桜ではなく、アキノキリンソウと野菊でありました。 毘沙門沼から五色沼自然探勝路は始まっている。銀輪の散歩も時に徒歩(かち)ありき、であります。自転車乗り入れ禁止とあって、徒歩にて行くことに。(毘沙門沼の鯉) 毘沙門沼は五色沼の中では最大のものにて、ボート乗り場もあり、鯉も居る。幸せを呼ぶ鯉とかで、ハート型模様のある鯉に出会うと幸運があるとか、入口の売店に書いてありましたが、探勝路の水際に沢山泳いでいて、その中からこれを探すのはかなり大変。とても探す気にはならない。 この中には、ひろろさんの絵のモデルになった鯉もいるのでは、なんぞと思いながら行く。若いカップルが鯉を写真に撮っていたが、幸運は彼らに譲ることとし、小生は先へと・・であります(まあ、それでもブログの構成上、1枚だけは写真に撮りました)。(アケボノソウ) そして、アケボノソウの花。この花は「アケボノ草」よりも「アケボノ荘」という字が浮かんでしまい、下町の学生下宿なんかを連想してしまうヤカモチなのであるが、花の風情は、安アパートとは無縁の楚々とした美しさを漂わせているのでありますな(笑)。 しかし、ご覧のように蝶の姿は見えず、蟻たちが屯している処を見ると、やはり「アケボノ荘」でもあるのかも、であります。(毘沙門沼)(同上) 五色沼探勝路はウイークデイであるにも拘わらず結構人が歩いている。歩き易い手頃な距離で変化に富んだ景色が楽しめるということであるからだろう。エメラルドグリーンと言うのか、翡翠色と言うのか、瑠璃色と言うのか、水の色が何とも美しく、「見れども飽かず」であります。 まだ紅葉の季節ではないので、見上げると、さみどりのトンネルなのであるが、秋が深くなると、葉が「もみたひ」、紅葉と水面の色とが妙なるコントラストをなして、一層景色は映えることとなるのでしょうな。(同上) 毘沙門天とは四天王の一人、北方の守護神、多聞天のことであり、四天王の中でも最強とされる戦の神様。そのようないかめしい武人姿の神の名を持つ毘沙門沼であるが、沼の佇まい、水面の色はどこまでもやさしく、女性的な感じも受ける。その他の沼に比べれば、男性的で力強いイメージがあるということでもあるか。或いは冬の雪景色の中に置いてみると男性的な力強い姿を見せるのでもあるか。(ミズヒキ) 五色沼のとっかかりで、早や字数制限です。続きは次回とします。 (つづく)
2012.09.29
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(承前) 歴史館と言うか「ラーメン屋さん」と言うかは人それぞれに任せるとして、そこから4~500m程行くと左に入る道がある。米澤街道である。(米澤街道) さらに800mほど進むと、左手に「小谷山城跡」という案内表示板。城跡まで700mとある。山道を上ってみることに。九十九折りの坂道、カサカサと落葉を踏みつつ上って行く。上り坂の所為か思ったよりも遠い。 詳しくは下の説明板をクリック、拡大画面でお読み戴くとして、小谷山城は天正13年(1585年)伊達政宗の築城とのこと。米澤街道を東側から見下ろす位置にあり、西側の戸山城とで、監視をしていたのでもあるか。(小谷山城跡<桧原城跡>) 程なく山頂に到着。何も無い。「城」ではなく「城跡」であるのだから、それで何の不思議も無いのであるが、肩すかしを喰らった気がしないでもない。(山頂)(曲輪跡)(申し訳程度に置いてある説明板) 早々に、山を下る。上りには気付かなかったが大きな茸が其処此処にある。ソフトタイプのサルノコシカケ?サルノソファーですな。(怪しげなキノコ) 幹に生々しい傷跡のある木。熊が引っ掻いたものか。そう言えば「熊出没注意」の表示があったような(笑)。 熊との遭遇もなく県道に無事帰還。 (熊の爪跡?) (トリカブト) そして、トリカブト。何かと珍しいものに遭遇する銀輪散歩だ。 やがて県道64号線は県道2号線とぶつかる。右折して2号線へと入る。ここからは桧原湖の東岸を走ることとなる。琵琶湖で言えば、湖西を走破し、湖東の長浜か彦根辺りまで来たことになるか。(桧原湖の島が岸と繋がっている。) 桧原編「珍島物語」ですな。 湖が割れるのよ 道ができるのよ 岸と島とが つながるの こちら桧原から あちら珍島まで 湖の神様 カムサハムニダ (唄 桧原よしみ 作詞・作曲 中磐梯三郎)(再び桧原湖)(さざ波) 遠くを船が行く。やがて美しい縞模様が湖面に現出する。沖つ辺(へ)を 白き船行く 寄す波の 織りなす縞(しま)に 楫(かぢ)の音(と)も絶え (偐家持) 楫の音も絶え、静寂が戻った処で、続きは明日に。(つづく)
2012.10.04
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本日は若草読書会の例会でありました。参加者は、智麻呂・恒郎女ご夫妻、凡鬼さん、小万知さん、祥麻呂さん、偐家持の6名といつになく少人数となりました。 課題図書は、今年のノーベル文学賞受賞作家カズオ・イシグロの「日の名残り」(ハヤカワ文庫)でありました。発表者は祥麻呂氏。 祥麻呂氏から、著者の生い立ちやその他作品のことなども含め、この小説についての感想をお話いただいた後、この主人公の人物像や執事という仕事のことや品格や英国のことや日本人の働き方やその他各人が思い付くままの色々なことについての雑談となりました。 この小説は、本当の執事は英国にしかいない、他国の執事は単なる召使いにしか過ぎない、と考える英国の執事・スティ―ブンスという男の物語、本物の執事とは何か、執事の品格とはいかなるものかなどを問い続け、自身の私生活の全てを犠牲にして、完全無欠の執事になろうと努めた男の物語である。 自身が執事を務めるお屋敷を旧主ダーリントン卿から買い求めてお屋敷の新しい主となったアメリカ人・ファラディ氏から、休暇ドライブ旅行を勧められ、その主人の車で出掛けた旅(それは自分の下で働いていた元女中頭のミス・ケントンを訪ねる旅でもあったのだが)の6日間の記録で構成された小説である。その旅で出会う英国の田舎の温かい善意溢れる人々との出会いや「品格ある」風景との出会いの描写と自身の執事として過ごしてきた過去への回想や自身の執事としての信念の吐露とを織り交ぜながら、恰も英国の田園風景のように、ゆったりとしたテンポで展開して行く小説である。 彼の旅行は1956年の8月か9月ということになっている。この時期はスエズ運河をめぐるエジプトと英仏両国とが対立、米ソ冷戦の中で、中東をめぐって複雑な外交の駆け引き・思惑が交錯していた時期。事件はやがてナセルがスエズ運河を一方的に国有化するという挙に出たことから、それの権益と航行の自由を守らんとする英・仏にイスラエルも加わってスエズ戦争と呼ばれる武力衝突に発展するのであるが、英国の期待に反して米国が英仏の武力侵攻に反対の立場を取り、米ソや国連の介入によって、英仏は戦争には勝ちながら、撤退を余儀なくされ、外交的には敗北することとなるという、大英帝国の外交が挫折し、その威信が地に落ち、国際舞台に於ける米国の圧倒的優位が国際社会に於いて明白になる、その転換点とも言えるのがこのスエズ危機、スエズ戦争である。 大英帝国時代の古きよき昔に何かと思いをはせる主人公の姿(執事としてはそれが自然な姿と言うべきだが)に重ね合わせると、作者が主人公の旅をこの時期に設定したのも偶然のことではなく、意図的なものではないかと思われたりもする。 (「日の名残り」) 課題図書についての話が一段落した処で、恒郎女さんのご要望により、凡鬼氏が「月刊俳句界」に自作俳句と一文を寄せられたことに関連して、その経緯や当該俳句にまつわるお話をいただくこととなる。 (月刊俳句界) そのアトは、これも恒郎女さんの企画であるが、ご用意下さった下ごしらえでお好み焼きを焼いて皆で食べるという、「お好み焼きパーティ」と相成りました。焼くのは専ら凡鬼さんで、我々は焼き上がったものを食べるだけという楽な役回り。飲んで、食って、喋って、また食って、飲んで・・、凡鬼さんだけは、この飲んで、食って、喋っての他に「焼いて」というのがあった訳ですが、ともかくも、皆それぞれに楽しい時間を過ごしたのでありました。 そして、次回は来年1月27日(土)新年会ということに決めて、午後5時半頃の解散となりました。
2017.11.25
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書斎に枯れ葉が舞い込んで来た。 と言っても、枯れ葉みたいな蛾、アケビコノハである。 虫の姿も殆ど見かけなくなった、この寒い夜に、何処から入り込んだのか、バタバタと部屋の電灯の周りを、比較的大型の蛾と思しき虫が飛び回ったのでありました。フェイスタオルを手にして、その飛び回る闖入者をはたき落としてみた。 (アケビコノハ)<参考>アケビコノハ・Wikipedia 木の葉そっくりの蛾。 少しピントが甘かったようなのが残念であるが、この見事な擬態を楽しんでいただきましょう。 撮影後は、ティッシュでそっと覆い、極力、翅を傷めないように注意を払いながら、包み込むようにして、これを捕獲。ベランダから外の闇へ、ティッシュを開いて、打ち捨ててやりました。もうそんなに長くはない命なんだろうが、我が家の庭の片隅でか、隣家の庭へと移動してかは知らねども、生きられるだけ生きよ、という次第。 本日は、ブログ記事を書く心算もなかったのであるが、妙な木の葉が舞い込んで来たので、急遽、記事アップすることとしました。<追記> 今朝(12/12)庭に降り立つと、昨夜の蛾が居ました。2階のベランダから投げ捨てた位置の直下の地面にじっとしています。 もう一度撮影させていただく。 真横からも。 正面からも。人相、いや「蛾相」や如何に。 掌に乗せてみると、肢を微かに動かしている。 寒いから身体を動かせないのであろう。 「凍て蝶」ならぬ「凍て蛾」である。 石の上に寝かせて撮影してみる。 顔の部分をアップで。 石の上では寒かろうと、柔らかな草の茂みの中へ入れて上げましたが、ほぼ冬眠状態にて、肢を微かに動かすだけ。既にして枯れ葉になっているこの蛾であるが、命尽きる時が近づいているようです。
2017.12.11
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新型コロナ感染者数が急増していて、何とも心配なこの頃でありますが、昨日22日の新規感染者数は、わが地元の大阪が東京の391人を抜いて490人と全国1位となりました。「負けたらあかんで、東京に♪」という訳でもないのでしょうが、東京に勝ってしまったのであります。 こういうことは勝つものではないから、「喝!」でありますな。 ヤカモチのブログも、旅記事となる「銀輪万葉」カテゴリや人との交流が契機となる「友人ほか」などのカテゴリの記事が減って、「花」カテゴリなど、人との接触のない記事が今年は多くなっています。 まあ、銀輪散歩は人混みを避けて、ソロで田舎道を走ることが多いですから、コロナ禍にあっても問題のない行動かと思いますが、近頃の近隣銀輪散歩は草木や花でお茶を濁すというのがお決まりのパターン。 ということで、今日もそんなパターンで、このところの銀輪散歩で見かけた紅葉と草木の実でもご紹介することといたします。 ようやくに関西も紅葉が美しくなってきましたが、先ずはカエデの紅葉の写真から始めましょう。(紅葉)わが屋戸に 黄変(もみ)つ鶏冠木(かへるで) 見るごとに 妹を懸けつつ 恋ひぬ日は無し (田村大嬢 万葉集巻8-1623) この歌は田村大嬢が妹の坂上大嬢に贈った歌であるが、赤く色づいたカエデを見て、妹にも見せたいものと思ったのでしょう。 カエデは「蛙手(かへるで)」で、その葉の形からの命名であるが、モミジは葉が色づくことを「もみつ」と言ったことから、もみちたる葉を「もみぢ」と呼んだことによる。万葉では「紅葉」ではなく「黄葉」と書く方が多いが、黄も赤も紅も明(アカ)るい色として捉えていて、今日的な区別はなかったのであろう。 紅の「くれなゐ」は「呉の藍」が語源らしいが、「暮れない」と語呂が合うから語感としても「明るい」イメージがあったのではないかなどと素人考えをして居ります。 モミジと言えばカエデの代名詞となり、単にモミジと言えば「カエデ」のことを指すようになり、紅葉していないカエデのことを「青紅葉」という漢字的には意味のおかしな言葉で言うようにもなったようだが、その結果、カエデの「モミジ」ではないということを示すために「蔦紅葉」とか「草紅葉」などという言葉も生まれることになったのでしょう。(蔦紅葉) 見上げるカエデの紅葉もいいが、このようにさりげなくあるこじんまりした紅葉も、そこはかとなき風情にていいものである。 池のへりの浅い部分の水底に沈んでいる落ち葉も味がありました。(水底の落ち葉)水底(みなそこ)に しづくわくら葉 誰にかも 心つくして もみたひにける (偐家持) 草紅葉の適当な写真がありませんので、これで代用とします。 メリケンカルカヤです。(メリケンカルカヤ)(同上) カルカヤ(刈萱)のことかどうかは分からぬが、万葉集のこの歌を思い出します。大名児(おほなこ)を 彼方野辺(をちかたのへ)に 刈(か)る草(かや)の 束(つか)の間(あひだ)も われ忘れめや (草壁皇子 万葉集巻2-110) この歌は、大津皇子と張り合って、皇太子であった草壁皇子が石川女郎に贈った歌であるが、彼女からの返歌は万葉集には残っていない。 大津は、石川女郎とのことで「我が二人寝し」と詠っているから、彼女は大津皇子を選んだようで、この恋では草壁は大津に敗北している。 カヤは、チガヤ、ススキなどイネ科の植物の総称であるから、カルカヤ(メガルカヤ、オガルカヤ)のことであってもいいだろう。 カヤと言えばススキであるが、オギの写真を。 尤も、オギとススキとは遠目には判別しにくいので、オギではなくススキの可能性もあるが、花穂の感じと川辺という生息域からオギと判断しました。間違っていたら「ゴメンナサイ」であります。(オギ)(同上)葦辺なる 荻の葉さやぎ 秋風の 吹き来るなへに 雁鳴き渡る (万葉集巻10-2134)白銀に 光る荻の穂 銀輪の 道は早くも 日は傾きぬ (偐家持) ナンキンハゼの紅葉もついでに。(ナンキンハゼの紅葉) ナンキンハゼは街路樹としてもよく見かける木であるが、葉をすっかり落とした後も実が長く枝にとどまっていることが多く、実の目立つ木でもある。この日は実を撮らずに通り過ぎたので、実の写真はありません。 既に落ちた実も多くあるようで、落ち葉散り敷く道を銀輪で走り抜けると、タイヤが実を砕く音であるのだろう、プチプチプチと小気味よい音のするのが何やら気持ちいいのでありました。 秋は、紅葉の季節であるとともに「実」の季節でもある。 ナンキンハゼの実は撮り忘れたが、他の実の写真ならある。 と言っても、食べられる実は滅多に登場しないのがヤカモチの記事。 先ずは、名前不明の赤い実。(赤い実・名前不明) 直径1cm程度の小さな赤い実がいっぱいになっている。(同上) ヒメリンゴ(イヌリンゴ)とかサンザシとかウメモドキとかいう名が思い浮かんだが、どれとも違うようです。(同上) アップで撮るとリンゴそっくりであるが、イヌリンゴの実は先っぽがへこんでいないと言うから、へこんでいるこれはイヌリンゴではないということになる。何にしても小鳥たちが好みそうな実である。 赤い実の次は黒い実。(ネズミモチの実) 上は、黒い実と言うよりは、黒くなりかけている実です。(同上) 黒い実の次は白い実です。 ヤツデの実です。(ヤツデの実) アップでもう1枚。 正直に言うと、実なのか花の蕾なのかはよく分からないのですが、見た感じで「実」と断じた次第。(同上)(ヤツデの花) 先っぽのこれは間違いなく花ですから、この後、各花が下のような形に成長するなら、下のものは実であるが、下の形のものが弾けて上のような花を咲かせるのであれば、実ではなく花の蕾ということになる。 その場で割って見れば実か蕾かすぐにわかるものであるのだが、そういう無粋なことはしないというのがヤカモチ流なのであります(笑)。(ホウセンカの実) ついでにホウセンカの実も。(同上) ホウセンカの実は先月(10月)半ばに、銀輪散歩で立ち寄った喫茶店「ペリカンの家」の前庭に置かれていた鉢植えを撮影したものでありますから、これまでの写真と趣きが異なりますが、銀輪散歩の途中に違いはないので、記事の趣旨を外れてはいないかと。(同上) 最後に立ち寄った公園ではケヤキの木が自身が散らした葉の上に影を落とし、日は更に傾いて・・そろそろこの銀輪散歩も打ち切る頃となってまいりました。(欅の影) 「落陽は慈愛の色の金の色」が中也なら、ヤカモチは「落葉は悲哀の色の薄茶色」であります。 そして、帰宅したら、空には三日月が・・。(三日月) まあ、欅の影の長さと言い、三日月と言い、最後はいい加減な作り話でありますれば、実のない話。 「実のある実のない話」というのが落ちであります。 では、どちら様もコロナ対策には十分にご留意され、お元気にお過ごしになられますように。
2020.11.23
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sakamoto morita119さんのブログ「KAZU119」の2月4日の記事に許麻神社の「鬼追い式」の動画が掲載されていました。許麻神社というのは存じ上げなかったが、地図で調べると、久宝寺緑地から少し東に入った処にある神社であることを知りました。 わが母校の八尾高校にも近い。 ということで、本日はこの神社を訪ねて銀輪散歩することとしました。朝10時5分に自宅を出発。花園中央公園の前を通り、近鉄奈良線に沿った道を西へ、瓜生堂西交差点で中央環状道路に入って、これを南へ。久宝寺緑地の先、神武町交差点で左折、東へ。1kmほど行った処を左に入ると許麻神社である。神社到着が10時52分であるから、所要時間47分という近さ。(許麻神社)(同上・由緒) この神社は渡来系氏族の大狛連がその祖神を祀ったことに始まるとのこと。<参考>許麻神社 大狛百枝・Wikipedia(同上・正面鳥居) 上の大鳥居の傍らに居られる自転車の男性。この後、立ち寄った顕証寺の門前でも出会いましたので、小生と同じルートを巡って居られたよう。声掛けはしなかったので、詳細は不明。(同上・拝殿)(同上・本殿)(同上・境内) この後、顕証寺、念仏寺、大信寺と巡りますが、そのルートを示せば下掲地図の通りです。中央環状道路の神武町交差点から府道5号線をやって来ましたが、許麻神社から脇道を進みましたので、母校の八尾高校の前は通らずでした。八尾高校の東側を流れている川が長瀬川です。 高校時代の通学路は下の地図の右上隅にわずかに見えている線が近鉄大阪線で、当時の駅(近鉄八尾駅)はこの付近にありましたので、通学路とは無関係。学校よりも西方向に行くということはなく、許麻神社も顕証寺もその存在は知らずに来ました。(周辺地図)(A:許麻神社、b:大信寺) 許麻神社の正面鳥居の東側、鳥居と向き合う形にあるのが、許麻橋地蔵。(許麻橋地蔵)(同上・説明碑)<参考>許麻橋地蔵・八尾市観光データベース 地蔵堂の後ろに久宝寺寺内町の説明案内看板がありました。(久宝寺寺内町案内図)<参考>久宝寺寺内町公式ページ 今は、堀は見当たらないが、少し高くなっている遊歩道は土塁の跡のよう。顕聖寺の南側に沿って行ってみる。(顕証寺裏の遊歩道)(顕証寺)(同上)<参考>顕証寺(八尾市)・Wikipedia 久宝寺寺内町は奈良の今井町や富田林の寺内町などに比べると、昔の町並みは殆ど遺っていないのであるが、所々に往時の雰囲気を伝える建物もある。(久宝寺寺内町) 許麻神社境内の説明碑に記してあった、久宝寺観音院の本尊・十一面観音像が安置されているという念仏寺も覗いてみることとする。(念仏寺)(同上)(同上) そして、大信寺(八尾御坊)に向かう。<参考>大信寺(八尾御坊)・八尾市観光データベース 真宗大谷派八尾別院大信寺・Wikipedia この寺はわが母校の八尾高校と関係のある寺である。 八尾高校の前身は大阪府立第三中学校であり、明治28年(1895年)創立である。 創立当初、大信寺・八尾御坊の対面所建物を仮校舎として授業を始めた、ということであるから、この地は八尾高校発祥の地ということになる。このことは、以前から知識としてはあったのだが、大信寺を訪ねるのは初めてである。(大信寺・八尾御坊) 写真を撮っていると、この寺の方と見られるご婦人がやって来られました。ご挨拶申し上げると、本堂の中もご自由にお参り下さい、とのお言葉。(同上・本堂)(同上・本堂内部)(同上・由緒)(同上・お逮夜市の碑) 芭蕉の門人の宝井其角の句碑が本堂前にありました。(其角句碑) 河州八尾娶そしり(頭注) うすら氷やわつかに咲る芹の花 其角 本堂の北側に河内県庁跡の碑がありました。 河内県庁も対面所建物を仮庁舎としたようだから、対面所建物は此処に建っていたようだ。(同上・河内県庁跡) そして、説明碑を見ると、対面所のことも八尾高校のことも記されているではないか。 八尾高校発祥に関連する碑文などは無いものと思っていたが、河内県庁跡碑の説明のついでのような形であれ、これに言及したものが存在したことは何やら嬉しいことではありました。(同上・説明碑)<参考>河内県・Wikipedia 大阪府立八尾高等学校・Wikipedia 大信寺を出て、近鉄久宝寺口駅前から中央環状道路に戻り、来たルートを逆にたどって帰途につく。(近鉄久宝寺口駅) 上の写真が11時45分の撮影。 花園中央公園から恩智川沿いに北へ走り、水走交差点手前の喫茶店「ペリカンの家」到着が12時25分。40分かかったが、昼食には丁度いい時間帯の到着となりました。 ももの郎女さんと越の郎女さんの笑顔に迎えられての昼食でありました。食後の珈琲が出て来るまでの時間を利用して、店の表のベンチ(喫煙用)へ。其処では、お隣のリハビリ病院にご入院中の男性が先客で居られて煙草をくゆらせていらっしゃいました。この方とは先日このベンチで初めてご一緒になり、言葉を交わしたので、もう知り合いのようなもの。しばし雑談。 店内に戻ると珈琲が出て来ました。 秋に、ももの郎女さんが計画されている明日香方面のサイクリングの件、昨日、利麻呂氏にそのことを話したら、彼も参加したいと仰っていた旨申し上げると、彼女は大層喜んで居られました。 午後1時過ぎに「ペリカンの家」をおいとまし、「ヤカモチの家」へ。 以上で本日の少し軽めの銀輪散歩終了でありました。
2018.02.08
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第74回智麻呂絵画展 今日は朝から雨になりました。こういう日は智麻呂絵画でも眺めながら家でゆっくりおくつろぎ下さいませ。朝の内にこう書いて下書保存して居りましたが、朝の雨はいつしか止んで、午後からはお日様も出て参りました。まあ、好いお天気です。しかあれど、本日は智麻呂絵画展でお楽しみ下さいませ(笑)。 第74回展の開催であります。多数のご来場お待ち申し上げます。(明日香のスミレA) このスミレは和郎女さんが先日智麻呂邸にお持ち下さったものです。 一昨年の11月に若草読書会で明日香旅行をいたしましたが(下記「明日香小旅行」参照)、その折に明日香の野辺で和郎女さん達はスミレを採取されたようです。その野のスミレを和郎女さんはご自宅に持ち帰り、鉢植えにて大事に育てられていらしたとのこと。昨年の春は花をつけなかったのかどうかは存じ上げませぬが、今年は見事に花を咲かせたということで、その鉢植えを智麻呂邸にお持ち下さった、という次第。 昨日、智麻呂邸で小生もその可憐なスミレの実物(下記写真「明日香のスミレB」)を拝見し、春野の気を感じると共に、一昨年の明日香小旅行のことも懐かしく思い出されたものでありました。 <参考>明日香小旅行(2009年11月29日) (続)明日香小旅行(2009年11月30日) 明日香小旅行下見(2009年11月24日)(明日香のスミレB) 和郎女さんがお持ち下さった「明日香の菫」の実物写真。大きな鉢に植えられています。フラッシュをたいてしまったので、花の色が薄くなってしまいました。 智麻呂画伯も春野のすみれ、いたくお気に召したようにて3枚も描かれていました。明日香野の すみれ描(か)かむと せしわれぞ 花なつかしみ 三枚(みひら)も描(か)けり (山部智人(やまべのともひと))(明日香のスミレC) 上の「山部智人」さんの歌は、勿論山部赤人のかの有名な次の歌のパロディであります(笑)。春の野に すみれ摘みにと 来(こ)しわれそ 野をなつかしみ 一夜(ひとよ)寝にける (巻8ー1424)(明日香のスミレD) すみれの万葉歌というと赤人の上の歌が先ず思い浮かぶのですが、さらに2首ご紹介して置きましょう。山吹の 咲きたる野辺の つぼすみれ この春の雨に 盛りなりけり (高田女王(たかだのおほきみ) 巻8ー1444)茅花(ちばな)抜く 浅茅(あさぢ)が原の つぼすみれ いま盛りなり わが恋ふらくは (田村大嬢(たむらのおほをとめ) 巻8ー1449)(苺A) 苺たちが何やら顔寄せ合って相談している風でもありますが・・さて、何を相談しているのでありましょうか。 ルターの宗教改革「一語否(いちごいな)」(1517年)と覚えたことなども思い出されました(笑)。ジャスミン革命ならぬイチゴ革命であります。(苺B)(伊予柑) この伊予柑は恒郎女さんの大学時代のご友人からの贈り物とか。彼女は恒郎女さんよりも学年が下の後輩で、とても勉強の出来た方で、そうでもない(失礼。恒郎女さんご自身のお言葉でありますので<笑>。)恒郎女さんと何故か気が合い、親しくお付き合いされ、それが今に続いているという。現在は或る外国語大学の先生をなさっているらしいのですが、郷里が伊予松山なので、よく伊予柑を贈って来て下さるらしい。坂の上の雲、ならぬ「坂の上の蜜柑」であります(笑)。 さて、この伊予柑、先日のバレンタインチョコのSちゃんにもお裾分けなさったようですが、何故かヤカモチもお裾分けの栄に浴しましたな(笑)。とても大きくて甘い蜜柑でありました。(桃) すみれの花が赤人なら、桃の花は家持です。春の苑(その) 紅(くれなゐ)にほふ 桃の花 下(した)照(で)る道に 出で立つ少女(をとめ) (大伴家持 巻19ー4139)(ショートケーキ) このショートケーキは前回訪問の際のけん家持が手土産にお持ちしたものの一部。その日は木曜日でありましたが、木曜日は智麻呂さんのリハビリ支援のためにトレーナーの理学療法士のTさんが午後からご訪問下さる日でもある。何度か智麻呂邸で顔を合せているうちに親しくなったTさん、なかなかの好青年である。彼ならケーキがよかろうといつもの和菓子を洋菓子に変更したのでありました。智麻呂さんが絵に描きたいと指定されたものを除いてティータイムに皆で一緒に戴きました(笑)。そして、除外されたケーキは、本日このような美味しそうな絵に。ご馳走様です(笑)。ひろろさんが仰るように2倍美味しいのでありますな。<参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ <追記・注>「明日香のスミレA」「明日香のスミレC」「苺A」の写真が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月8日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.03.07
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(承前) ハマナスの咲いていたハマナス公園の辺りの海岸線は和田の浜と呼ばれ、戦国時代の古戦場であったとのこと。(和田の浜 右手がハマナス公園) 海沿いに400mほど南西に行くと左手に神社。 櫟原神社である。 <参考>檪原(いちはら)神社 当地の東方1.5km柳原地区にも檪原神社があり、どちらを本宮とするかで争いがあったらしい。(社殿) 檪原神社から200mほど進むと「芭蕉翁おくのほそ道宿泊のまち」と刻まれた碑があった。曽良旅日記の(元禄2年<1689年>)7月13日の記事には、「昼過、雨為降晴。申ノ下尅、滑河ニ着、宿。暑気甚シ。」とあるが、この宿が当地にあった旅籠・川瀬屋であったらしい。わせの香や分入(わけいる)右は有磯海(ありそうみ) (芭蕉「おくのほそ道」) この説明文で、徳城寺が何処にあるのかと探してみるが見つけられず、句碑は見ること叶わずでありました。帰宅してから調べると200mほど内陸に入った処にありましたが、時既に遅しであります。 芭蕉の頃は防波堤もなく稲田の道を行くと荒磯の海が右手はるかに見えたのでありますな。芭蕉と曽良も歩いたのであろう、荒町のほそ道をヤカモチは銀輪で行くのでありました。(荒町の町並) 荒町を過ぎて小さな水路を渡ると、地元の人が万里の長城と呼ぶらしい巨大な防潮堤が続く小路に入る。小路を出た処に立山大岩道しるべ。立山に信仰登山する人々への道案内の道標とのこと。この先の加積雪嶋神社の境内にも2基あるとのことであったが、見落としました。(大岩道しるべ)(加積雪嶋神社・社標)(同上) 神社の境内は祭の準備中のようでしたが、地元の方のブログで偶然その祭の様子などが紹介されているのを見つけましたので、リンクして置きます。<参考>防潮堤に祭の絵 露店にウキウキする 子供たちがやって来る 神輿の一行が帰ってきたらしい 神輿の登場 神輿の車輪 神社に戻った神輿 加積雪嶋神社を出て暫く行くと、加島町か領家町かどちらの町域になるのか知らぬが諏訪神社という小さな祠があった。何やら祭のようなので覗いてみると、神輿から神様が祠にお帰りになられた処のよう。モオオオ~という声でそれと分かったので、お邪魔をしてはいけないと鳥居の陰から見ていると、村人のお一人が手招きをされ、「こちらに来い。」という仕草。それで小生も参列させて戴いた。写真は無事に神様が祠にお入りになって片づけが始まった処です。 この先の加茂神社でも境内に露店が出ていたから、この地域はこの土日に一斉に祭となるようだ。来るのが一日早かったかな。道脇の家々には祭礼の飾り付けがしてある。飾りは3本と決まっているようだ。(格子に祭飾りと提灯が似合う。) 祭礼の一部にも参加させて戴き、愉快な気分で先へと進む。(上市川) 上市川を渡って2分ほど行くと富山市に入る。更に8分ほど行くと広い河口に出た。常願寺川かと思ったが、行き合った地元の人に聞くと、白岩川で、常願寺川は未だ先とのこと。(白岩川) 奥の橋を渡った処で上流を撮ったのが下1枚目の写真。 下2枚目はこの道を左に曲った処にある常夜灯の写真。(水橋港はしけ場跡) 常願寺川まであと300mほどの地点までやってまいりましたが、本日はここまでとします。(その3)で完結する予定でしたが、(その4)までかかることとなりました。<関連記事>魚津から富山へ銀輪万葉 (その1) (その2) (その4)<追記・注>「加積雪嶋神社・社標」の写真が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月2日これを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.05.23
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(承前) 毘沙門沼から更に上って行くと次に姿を現すのは赤沼。(赤沼) 赤沼の名の由来は、水辺に生える葦などの草木の根元が、沈着・沈殿した酸化鉄の所為で赤味がかって見えることによるというが、ちょっと無理がある命名ですかな。(同上)(みどろ沼) 深泥沼という名は京都の深泥ヶ池の名を想起させる。翡翠色の水面と葦の草の色、その根元の赤味がかった色とが美しく調和して、やさしい佇まい。もの静かな女性を思わせる沼でもある。(みどろ沼から竜沼、弁天沼への道<五色沼自然探勝路>)(同上) 探勝路の道は、沼から流れ出す水が小川となって道の脇を流れていたりもして、心地良い歩きが楽しめる。緑のトンネル。水の音。虫の声。さやかに風も吹いている。湿気が多い所為かひんやりした湿った空気が肌に触れて行き、時として鍾乳洞の洞窟の道を歩いているような錯覚さえ覚えるのである。(同上)(同上) 草木に立ち混じって目立つのは巨大な羊歯である。空気が常に湿っているから、このように見事なシダの群生が可能となるのであろう。 竜沼は木立の間から辛うじて見えるのみにて、撮影ポイントを求めて歩いているうちに全く見えなくなってしまいましたので、写真はありません。竜の沼にしあれば、森深く隠れていていいのである(弁解沼)。(羊歯の群生) 森が開けて、明るい沼に出る。弁天沼である。 赤沼、深泥沼、竜沼と森に包まれた小さな沼を見て来た目には、急に開けた明るい景色がひと際印象的で、何やらほっとする感じもあって、対岸の景色に向かって叫んでみたくなったりも(笑)しないではない、清澄な明るさなのである。(弁天沼) 対岸の森の姿を水面に映す様もなかなかによろしい。真澄鏡(「まそかがみ」又は「ますかがみ」)という言葉が自ずと浮かぶ。まそかがみ、まそかがみ、と呟いてみるが、歌は出て来ない・・(笑)。(同上)(同上)真澄鏡(まそかがみ) 手には取らえぬ 弁天の 水沼(みぬま)の葦の 風とならまし (偐家持)(同上) 弁天沼の次は瑠璃沼。ビューポイントのベンチで先客の若い女性二人連れが楽しそうに自動シャッターを設定して記念写真を撮っていましたが、小生は、水際に大きなヒキガエルを発見。彼女たちに負けずに蛙さんのポートレート撮影に精を出す(笑)。(ヒキガエル)(同上) 少し前に回って、しつこくもう1枚。 全然、動じない。さすがガマである。ガマンしている訳ではない。 汗の一つもかいてはいない。いと涼しげなる顔をしている。(同上)瑠璃沼の ルリダなるらむ ヒキガエル 微塵も揺るがず あるは羨(とも)しも (ケロ麻呂) 本日はここまで。続きは次回です。(つづく)
2012.09.30
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(承前) さて、今日からの日記は9月29日の桧原湖一周銀輪散歩の記事となります。朝8時58分裏磐梯ロイヤルホテル前出発。桧原湖へと向かう。自転車は車と同じに左側通行なので、湖を周回する時は時計と反対に回る方が眺めが良い。逆に島を廻る時は時計回りに回る方がいい。これが鉄則なのであるが、コースとしては前半に厳しい上り坂のある「時計回り」の方が楽であろうと、敢えて鉄則とは逆回りで走ることとする。(磐梯吾妻レークライン入口) 磐梯吾妻レークラインへの入口を右に見て国道459号を行く。県道2号との三叉路を左に459号を道なりに進むと、磐梯山噴火記念館がある。ネットの地図で桧原湖周回の道を下調べしていた時は、文字が小さかった所為もあるが、「噴」を「頭」と読み違えていて、磐梯にも山頭火記念館があるのだと思い込み、これは立ち寄らねばと思ったものであるが、直ぐに噴火記念館であるということに気付き、我ながら苦笑。 「山◎火」とあると「◎」は「頭」という先入観で読んでしまうのは、友人の偐山頭火氏の所為でしょうな。(磐梯山噴火記念館)(磐梯山登山口) 裏磐梯猫魔ホテルと裏磐梯高原ホテルの間を通り、磐梯山登山口を過ぎた辺りから坂道に入る。この坂道の途中に「磐梯山ゴールドラインへようこそ」の看板があり、既にゴールドラインに入ってしまったと勘違い、何処かで右に入る道を見落としたかと引き返すが、猫魔ホテルまで引き返すも、そのような道はない。地図を引っ張り出して、漸く手前で引き返してしまったことに気付き、再び坂道に挑戦。もう少し視力が良ければ前方の分岐の標識が見えたのであろうが、願わくば「ようこそ」の看板はこの「分岐」の標識と同じ場所に設置して置いて欲しいものでありますな(笑)。(磐梯山ゴールドライン入口への坂)(左:磐梯山ゴールドライン料金所、右:国道459号線) 坂を上り切ると道は右へと。直進するとゴールドラインに入り会津若松へ逆戻りでありますが、多分途中で息が切れて「行き倒れ」でしょうな(笑)。 なおも道はうねうねと続き、漸くにして桧原湖が見えて来るのでありました。(桧原湖)(同上)(同上) この辺りは、もう下り坂に入って居り、右に桧原湖の景色を愛でつつ、軽快・爽快に延々と下って行くのであります。時計と反対回りの自転車族と時にすれ違うのでありますが、あちらは上り、同じ景色を見ても感じが異なるのでは・・などと思ったりも。 そうこうしているうちに、道の駅・裏磐梯に到着。ここでトイレ&タバコ休憩であります。時計を見ると10時40分。途中でウロウロのロスタイムもありましたが、既に2時間近く走ったことになる。(道の駅「裏磐梯」) 昼食には時間が早いので、こんにゃくの味噌田楽を1本食す。美味。 ここで、国道459号は湖から離れて行く。湖岸沿いの道は県道64号となる。地図上では、国道より狭い道を想像していたが、逆で、舗装も新しく、国道よりも道幅も広い。それに車の通行も殆どなく、自転車の走行には最高であります。 県道に入って程なく、左手に風情のある沼のあるのが目に入る。地図には無かった沼である。(名前不詳の沼) 沼には、スイレンだかジュンサイだかの葉がびっしりとあって沼の水面のかなりの部分を覆っている。 ジュンサイは万葉では「ぬなは・沼縄」である。()吾が情(こころ) ゆたにたゆたに 浮(うき)ぬなは 辺(へ)にも沖にも 寄りかつましじ (万葉集巻7-1352)(睡蓮) 暫し、水辺で景色を撮ったりしつつ、水草と戯れる。岸辺と見えても「浮島」になっている処もあるようにて、気を付けないと足元が沈んで行く。(つづく)
2012.10.02
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アヤメ、カキツバタ、ハナショウブ、この辺の違いがよく分からない。花の目模様とか、葉の真ん中の葉脈が盛り上がっているか否か、花弁が垂れ下がっているか否か、などで区別されるようだが、実物を見るとそういう区別も余りうまくできないのが現実。交雑種も多いから、現実にはこの辺の境目は曖昧になってきているのではないだろうか。 万葉で「あやめぐさ(菖蒲草)」というのはショウブ(菖蒲)のことで、これはサトイモ科で、ここで言うアヤメとは別の植物である。 さて、アヤメ科のアヤメ(菖蒲)、カキツバタ(杜若)、ハナショウブ(花菖蒲)であるが、ヤカモチ散歩コースの定番の花園公園では、今これらの花が見ごろとなっている。杜若 衣に摺りつけ 大夫(ますらを)の 着襲(きそ)ひ狩する 月は来にけり(大伴家持 巻17-3921)われのみや 斯(か)く恋すらむ 杜若 丹(に)つらふ妹は 如何にかあらむ(作者不詳 巻10-1986)をみなへし 佐紀沢に生ふる 花勝見 かつても知らぬ 恋をするかも(中臣女郎 巻4-675) 万葉の「かきつばた」は、例によって、カキツバタ、ノハナショウブ、アオノクマタケランと諸説がある。また、「はなかつみ」も、アヤメ、ノハナショウブ、ヒメシャガ、マコモ、アシノハナ、カタバミ、デンジソウなどの諸説がある。という訳で、ヤカモチの頭の中はもうこんがらがっているのだ。
2008.06.10
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9月16~19日と佐渡に行って来ました。先般、村上市沖合の粟島を走った時に、次は佐渡と思っていたこともあっての佐渡銀輪行。久しぶりの佐渡です。かなり以前に金北山に登り、下山の際に林道に迷い込み、折角下って来た道を、かなり疲れた足でまた登り、元の場所に引き返すという苦い経験もした佐渡ですが、今回は自転車持参で走ってみようというもの。しかし、佐渡は広い。特段の準備も計画もなく漠然とやって来たので、道もよく分からない。アバウトな地図を頼りの行きあたりばったりの自転車旅、とても全部は回れませんな。今回は両津、真野、小木、佐和田、相川など国中と小佐渡の一部を走っただけ。トレンクルでは距離がはかどりませんな。北の大佐渡の方は次回の楽しみと致しましょう。 両津港でロードバイクの男性から、「トレンクルですか。僕も持っているんですが、最近ずっと乗っていなくて・・」と声を掛けられましたが、長距離をトレンクルで走ろうというのは、やはり邪道なのかも(笑)。でも、疲れたら、折りたたんで、バスでもタクシーでも乗れてしまうという処が安心である。 新潟空港から佐渡汽船乗り場までタクシーで。新潟港からはジェットフォイルで1時間、カーフェリーで2時間半。船旅はフェリーの方が趣があっていいのだが、今回はジェットフォイルで。途中で、30分先に出たフェリーを追い抜き、フェリーより1時間先に到着とあっては、勝負あったようなもの。 では、佐渡銀輪行、何回かに分けてご紹介することと致しましょう。(ジェットフォイル・・小生が乗船したのとは別のものです。)(新潟港)(新潟港・入船タワー)(両津港)(両津港バス停) さて、どちらへ行くか。取り敢えず真野方向に走ることにする。既に午後2時を回っているので、途中までバスを使うことに。新穂で下車。(加茂湖)(土田麦僊・杏村記念碑) 新穂バス停から少し西へ行くと、土田麦僊・杏村記念碑があった。土田麦僊は日本画の画家、弟の杏村は哲学者。このお二人のことはよくは知らぬが、ここ新穂村の出身とあっては、この地から銀輪行を始める偐家持としては、ひとまず敬意を表して置く。 記念碑の先の日吉神社の前で左折すると真野方面への道。 清水寺(せいすいじ)を訪ねることに。清水寺(きよみずでら)を模した舞台があるとかで、それを見てみようと、ゆっくりした坂道を山の方へと向かう。道の両脇は黄金なす稲田が広がっていて、美しい眺め、と言うか、心和む懐かしい景色である。(日吉神社)(清水寺への道-稲田)(清水寺への道-彼岸花)(清水寺山門)(清水寺・救世殿) <参考>佐渡清水寺 清水寺から下って来ると根本寺という大きな看板。立ち寄ってみる。 <参考>根本寺ホームページ 日蓮が流された当時、この地には塚原の三昧堂が建っていて、死人の捨て場になっていたとか。日蓮はこの三昧堂に入って、佐渡での生活を送ったのである。その跡地に建てられたのが根本寺である。(根本寺本堂と日蓮像)(仁王門)(太鼓堂)(祖師堂)(味方家墓地・・相川金山の領主、味方但馬の墓) <参考>味方但馬守(芭蕉句碑) 佐渡にある芭蕉句碑では、最も古い句碑と説明書きがあったのは記憶しているが、肝心の句は思い出せない(笑)。 この後真野へと向かいますが、続きは明日です。ブログアップは自転車で走るよりくたびれる(笑)。 上の芭蕉の句、思い出しました。「春もやや 景色ととのふ 梅と月」でした。
2009.09.20
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伏見散策レポートが7回連載となってしまい、掲載が遅れましたが、去る22日に若い頃からの友人(と言っても小生よりは少し年長でいらっしゃるのでありますれば、敬友とか畏友とか申し上げるべき)である、画家の家近健二氏の絵画展に行って参りましたので、それをご紹介して置きます。(殉展・案内ハガキ) 家近氏と(小生は存じ上げない方でありますが)井上直氏、岩谷はる子氏との3人展で、近鉄小阪駅南の日本キリスト教団小阪教会を会場に開催されていたものであります(会期9月17日~22日)。最終日に滑り込みで拝見させていただきました。聖書の世界をテーマにした絵画の井上作品は、礼拝堂の雰囲気とマッチして、清浄な雰囲気を醸していました。家近作品はどれも素晴らしいものでありましたが、小生が魅かれたのは、タイトルは忘れましたが(「街角にて」だったか。)アコーディオンを弾いている逞しい男の肖像でした。残念ながら、廊下に展示してあり、角度や明るさの関係で、うまく写真には撮れませんでしたが・・。岩谷氏の絵はやさしい風景画で心和むものがありました。 井上、岩谷両氏は存じ上げない方なので、作品の撮影は自粛しましたが、家近氏の作品は少しだけ写真に撮りました。室内なので、コンパクトカメラの自動撮影ではフラッシュが光ってしまい、その反射で絵がうまく撮れません。その辺はご容赦戴くとして・・。(聖書に題材を取ったものかと思いますが、タイトルは忘れました。)(「ピリピ」) この作品には、家近氏の筆跡で次の聖書の文言が書かれた紙が絵の前に置かれていました。「真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。ところが突然、大地震が起って、獄の土台が揺れ動き、戸は全部たちまち開いて、みんなの者の鎖が解けてしまった。」(使徒行伝第16章25~26節) この絵は、地震の夜が明けて行く監獄の風景でしょうか。この建物の中では、監獄の長官がパウロとシラスの処にやって来て、二人に詫び、今まさにこれを釈放しようとしているのでもあるか。それとも、何やら飛び散っているものがありますから、地震の最中の絵ですかな。 次々と来場者があり、その応接に忙しい家近氏。ゆっくりのお話もままならず、立ち話程度でお暇致しました。(会場の小阪教会) 小阪教会を後にして、自宅方向へ走る。今日もMTBで銀輪散歩を兼ねてやって来ていたのでありました(笑)。 自宅から、教会まで30分程度で来れてしまう。東へと住宅街を走っていると、弥栄神社の祭礼の幟がをちこちに。弥栄神社に立ち寄って行くことにする。 キリスト教会からの帰りに神社というのも変なのであるが(笑)。(弥栄神社)(同上)(同上・拝殿)(同上・本殿) 弥栄神社については、下記をご参照下さい。 牛頭天皇とか祭神が須佐之男命であることなど、京都祇園の八坂神社と同じ系列の神社でありますな。 木村重成がこの神社の場所から大阪城炎上を遠望したというのは今回初めて知りました。 弥栄神社から少し北に行き右折、東に行くと司馬遼太郎記念館。今日は入場者に団扇を配ってでもいるのか、受付口付近で数個の団扇を手にした男性二人が立って居られましたが、男二人では、入り難いから女性に変えた方がいいのでは、等と思いつつ通り過ぎる。 近鉄若江岩田駅の少し西側にある石田神社に立ち寄る。 八幡神社のようです。(石田神社)(同上・由緒略記) 当神社の北70余mの水田に東西2基の塚があり両者を結ぶ形に船形の大磐石が埋まっていたらしい。大昔に航行していて沈没した石船だとか。かつて此処を開拓しようとした者があったが、暴風がたちまちに起こって彼はその場で気絶してしまったとか。このような伝承があったようだが、その効力も消失したのか、今は住宅地になってしまって、塚は存在しないようだ。住宅会社の前には「祟り神」も形無しであったということでありますかな(笑)。(同上・本殿)<参考>中之島の後、心斎橋ー油絵個展 2009.5.25. ガリラヤの風 2011.11.30.
2012.09.26
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