全10件 (10件中 1-10件目)
1
今夜(6月29日)のNHK大河ドラマ「篤姫」の26回目「嵐の建白書」では、将軍継嗣の問題と米国総領事のハリスが求める通商条約の問題を巡って一橋派と紀伊派の対立が一層複雑で慌しい情況を呈していく様子が描かれていました。 紀伊の慶福(松田翔太)を推してる大奥の本寿院(高畑淳子)は、同じく慶福を推している井伊直弼(中村梅雀)と会見して慶福の継嗣実現のために協力を要請します。同じ頃、鹿児島に居る島津斉彬(高橋英樹)は幕府に建白書を提出し、外国との通商を認めることと一橋慶喜(平岳大)を将軍継嗣とすることを求めますが、その情報は井伊直弼を通じて大奥の本寿院にすぐに伝えられ、本寿院は「おのれ、正体を現わしおったな、こうなったら御台を殺して自害するとまで」と激昂します。 斉彬の建白書の件を知った篤姫(宮崎あおい)は、なぜ今になって養父の斉彬が建白書を出してきたのかと思案し、自分が斉彬から受けた使命を果たさないでいることがこのような建白書提出に繋がったのかであろうと責任を痛感させられます。そのため、家定(堺雅人)に呼ばれたとき、篤姫は「上様にお願いがございます。どうか次の将軍を慶喜様にしていただけないでしょうか」と言い、家定の「それは薩摩の父に従おうとしてのことか」との問いについ本心を隠して「違います、私の考えです」と偽りの返事をしてしまいます。それに対し、家定は「そちは前に慶富(松田翔太)が相応しいと言っていたではないか。そちだけは信ずるに値するおなごじゃと思うておったってのに」と言って立ち去ってしまいます。 しかし、久しぶりに家定が篤姫の許に「おわたり」した夜、家定は「先日はすまなかった。そちの立場を考えれば仕方のないことじゃ」と謝り、それに対し篤姫も「申し訳ないのは私の方でございます」と謝り、さらに将軍継嗣について「正直言ってどちらがいいのか分からないのです」と告白した後、「私は決めました。自分の心に従います。どちらも推すことを止めにいたします」と言うのでした。そして、家定が火鉢で焼いて勧めてくれたお餅を笑顔で食しながら、目からは自然と暖かな涙が流れ落ちるのでした。 このお餅の場面はとても印象深いものがありましたが、さらにその後の二人の会話もホロリと泣かせるものがありました。家定が「今度生まれ変わったら何になりたいか。わしは人でないものなら何でもよい。そうじゃ、鳥になって好きな場所に好きな時に飛んで行きたい」と言い、篤姫はどう思うかと質問します。そのとき彼女は「私は生まれ変わっても私のままでいたいと思います」と答えています。しかし、家定からその理由を問われると恥じらいの表情を見せて言葉を濁してしまいます。そして家定が寝入った後、小さな声で「私が私でなければ、あなた様にお会いできませんでした」とつぶやくのでした。嗚呼、これぞ純愛ですね。 さて、今夜のドラマに島津斉彬が建白書を幕府に出した話が出てきましたが、史実してはどのような情況の中で出された建白書だっのでしょうか。 高木不ニ『横井小楠と松平春嶽』(吉川弘文館、2005年5月)によりますと、一橋慶喜を将軍継嗣として早くから強く推し運動していたのは越前福井藩の松平慶永(春嶽)でしたが、阿部正弘が安政4年6月(1857年8月6日)に他界し、さらに老中堀田正睦を首班とする幕府が同年7月に徳川斉昭を海防参与から免じたため、一橋派の二人の二大チャンネルを失ってしまいます。このような情況の中で、松平慶永は橋本左内を中心に幕府への直接的働きかけを再開するとともに、同年10月には蜂須賀斉裕とともに堀田正睦に一橋慶喜を継嗣とするよう建白書を提出しています。なお同書は、福井藩の将軍継嗣運動には、幕藩制国家体制と異なる「幕藩連合国家構想」とも言うべきものがあると指摘しています。 このような松平慶永の動きに呼応して、島津斉彬も一橋慶喜の将軍継嗣実現の動きを顕在化し、安政4年12月25日(1858年2月8日)には幕府に建白書を提出しています。なお、芳即正の『鹿児島史話』((高城書店、2006年9月)の第8章「西郷隆盛と橋本左内―将軍継嗣問題の奇跡―」)には、斉彬が安政4年12月25日に幕府に出したこの建白書の大意がつぎのように紹介されています。l、 通商条約は許したが良い。2、 外国人が入り込むようになると、人心の統一が必要。そのため将軍継嗣の決定が第一で、継嗣には器量・年輩・人望のそろった一橋慶喜が適当である。3、 諸大名の奢侈を一洗、武備十分の手当を命ずること。 この斉彬の建白書で、将軍継嗣の件について原文はどのように述べているのか確かめましたら、『鹿児島県史料 斉彬公史料』第2巻のが359頁に「亜米利加官吏登営後御建言」という史料が載っており、つぎのようなことが書いてありました。「就右外夷入込侯様成行候儀ハ、人心ヲ固結イタシ候儀専要ニテ、第一ニハ/西丸 建儲之御事卜奉存候、乍然是迄 儲君不被為建人心不安二奉存候折柄故、少モ早儲君御治定被仰出候ハ、上下一同人心安堵、/皇国ノ御鎮護モ弥根剛ク相成可申、勿論/御血統御近キ御方、当然之御事ニハ御座候得共、斯ル御時節ニ御座候得ハ、少ニテモ御年増之御方、天下人心之固メニモ可相成、然レハ一橋様御事、御器量御年齢旁外ニハ被為在間敷奉存候、/御台様御入輿為在候御事故、偏ニ御出生ヲコソ可奉待儀ニ御座候得共、当時之形勢ニテハ一日モ早ク御養君被 仰出度奉存候」 これを現代語訳にしますと、つぎのような意味になると思います。「外国人が入り込むと、人心を一つに固く結びつけることが大切であり、そのためにまず西丸(将軍の世子)を決められることがなによりも重要なことであります。しかしその世継ぎの君がまだ決められていないために人心が定まらないでおります。ですから、少しでも早く世継ぎの君をお決めになられたら身分の上下を問わずみんな安心することでしょうし、皇国(天子の治める日本国)の護りもさらに強固なものとなることでしょう。勿論、世継ぎの君となられる方は現将軍との血統が近いことが好ましいことは言うまでもありませんが、現在のような厳しい情勢下にあっては少しでも年齢が高い人の方が天下の人心を一つにするのことになるのではないでしょうか。そう考えますと、一橋(慶喜)様以外には御器量、御年齢から言っても考えられません。御台所様(篤姫)が入輿されましたから、お子様の御誕生をなによりもお待ちするべきなのでしょうが、現在の情勢では一日も早く御養子をお決めになられるべきだと思います。」
2008年06月29日
コメント(0)
バルダさん、こんばんは、やまももです。 家定がハリスと会見したとき、高く積んだ畳にふんぞり返って新入りに「おい、てめえはいってえどんなことをやらかしたんだい」なんてドスをきかせる「牢名主」のように威張っていたわけではないようですね。 歴史作家の桐野作人さんのブログ「膏肓記」の「家定とハリスの会見」では、このときのことを史料に基づいてとても詳しく紹介しておられますが、ハリスの日記とともに日本側の「温恭院殿御実紀」という文献にも基づいて、将軍が「御上段へ七重の御厚畳、錦を以て之を包む」場所に坐っていたとの記述があるとしておられます。 しかし、ドラマでは山と積まれた畳の上に床机を置いて家定は坐っていました。このことについて、バルダさんは「宮崎・篤姫らしいアイディアを出すためかしら?」と書いておられますが、おそらくそうでしょうね。堺雅人演じる家定から「将軍として威厳を持って会見するにはどうすればよいか」との相談に、宮崎あおい・篤姫ならではのとんでもないアイデアをひらめせ、畳を山のようにどんと積み上げましたが、バルダさんとしては胸をドキドキされたようですね。家定が桜島か富士山のような高い場所からころげ落ちはしないかと心配されのでしょうか。しかし、堺雅人演じる家定は幸いにして高所恐怖症ではなかったようですし、それどころか篤姫のアイディアに大いにワル乗りして歌舞伎のような大見得さえも切っていますね。なかなかドラマとして楽しい演出だと思いました。 それから、「あと、ドラマの中では土足でしたが、/実際にもそうだったのでしょうか」とのご質問ですが、前に紹介しましたタウンゼント・ハリスの日記(坂田誠一訳『日本滞在記』下巻、岩波文庫、1954年10月)によりますと、「短靴」を履いたまま江戸城の謁見室に入ったそうで、そのことを同行した信濃守(下田奉行の井上清直)たちは何も言わなかったそうです。中国で起ったアヘン戦争(1840年)等の情報から、大砲を積んだ欧米の黒船の威力を知らされていた幕府側の実務者たちとしては、ハリスが江戸城に土足で入ったり、将軍に立ったまま挨拶したりすることを黙認するしかなかったのでしょうね。
2008年06月26日
コメント(0)
今夜(6月22日) のNHK大河ドラマ「篤姫」第25回「母の愛憎」は、家定(堺雅人)がめまいを起こして倒れたことから、彼の母親の本寿院(高畑淳子)が篤姫(宮崎あおい)を遠ざけようと画策する話がメインでした。 めまいを起こして倒れた家定でしたが、すぐに元気を取り戻し、再び篤姫の許に「おわり」しょうとします。しかし、篤姫が一橋慶喜を推していると知った本寿院は、家定に御台は具合が悪いと偽りを伝えて二人を会わそうとしません。そのことを知った篤姫は、直接本寿院の許に赴き、慶喜を推していたことを隠していたこと謝罪するとともに、「妻として上様を思う気持ちに嘘はありません。会いたいのです」と自分が心から家定を慕っていることを伝えます。これには本寿院もかなり心を動かされ、後で「私がまるで嫁いびりをしているようてはないか」とつぶやいていますが、それでもなお二人を会わそうとはしません。そのため、家定とずっと会えないでいる篤姫は、幾島(松坂慶子)に「妻としてでなく、一人の女として会いたい」と心情を吐露しています。 篤姫に会えなくなった家定の方も、本寿院が嘘をついていることを見抜き、彼女の前で「御台はどこじや」と訊ね、「嫌じゃ、嫌じいゃ!」とまるで子どもが駄々をこねるように騒ぎ出し、そのまま卒倒してしまいます。しかしこれは家定のお芝居だったようで、目をあけた彼は布団から起き上がり、本寿院に向かって「これまでご養育下さり、誠にありがとうございました」と礼を言い、「他の兄弟がみんな死んでしまったのに自分だけが生き残って来れたのも母上様のお陰です」と感謝するとともに、「しかし、今や私は大人になりました。これからは、私が母上の心配をする番にございます」と自立宣言をし、そのまま篤姫の許に赴きます。 そして、久しぶりに再会した篤姫に家定は「そちがおらぬと面白うない。まるでこの世から色が消えてしまったようじゃ」と声を掛け、篤姫も「私もでございます」と応えています。本寿院が二人を引き裂こうとしたことは、結果として二人の心の結びつきを一層強める結果となったようですね。
2008年06月22日
コメント(0)
今夜(6月15日)のNHK大河ドラマ「篤姫」24回目のメインは、将軍の家定(堺雅人)と米国総領事タウンゼント・ハリス(ブレイク・クロフォード)との会見です。 家定と篤姫(宮崎あおい)との婚礼があった日から10ヶ月ほど過ぎたある夜、家定は篤姫の許に「おわたり」し、彼女にハリスとの会見についての不安を打ち明け、「将軍として威厳を持って会見するにはどうすればよいか、何か思いついたら教えよ」と相談を持ちかけます。篤姫に心を許し信頼しての相談でしょう。彼女はとても嬉しくなり、将軍として相応しいハリスとの対面方法を考案せねばと張り切ります。 篤姫は、ハリスが平伏して将軍に謁見するのではなく、立ったままで会おうとしていることを知り、老中首座の堀田正睦(辰巳琢郎)に命じてハリスの背丈を調べさせます。その結果、ハリスの身長が6尺(約1.8メートル)ほどと分かり、大奥の女中たちに謁見室へ大量の畳を運び込ませます。家定が坐る位置に畳を何枚も重ねれば、背の高いハリスを見下ろし、将軍としての威厳を示すことできると考えたのです。 会見当日、ハリスは靴をは履いたまま謁見室に入り、立ったまま将軍に挨拶しますが、家定は10数枚重ねられた畳に据えられた床机に座ってハリスを迎えます。そして、ハリスの挨拶を受けた後、家定はすっくと立ち上がり、まるで歌舞伎役者が大見得を切るような仕草をして返礼の言葉を述べます。後で彼が篤姫に語った話によると、ハリスの挨拶を聞いているとムラムラして来て、ついいつものように「うつけ」の振りをしてしまったとのことです。さて、ハリスはそれを見てどう思ったことでしょうかね。 なお、史実としては、将軍・家定は安政4年10月21日(1857年12月7日)に米国総領事タウンゼント・ハリスと江戸城で会見していますが、この会見の模様について、ハリスは自らの日記(坂田誠一訳『日本滞在記』下巻、岩波文庫、1954年10月) でつぎのように記録しています。 江戸城内の大謁見室で「沢山の彫像のように静座している気の毒な大名たち」の傍を通って単独の謁見室に入り、一人の侍従の高声な「アメリカ使節!」との声を聞いた後、西洋式の礼法に則って2回頭を下げて大君(将軍のこと)の前に進み出て、「陛下よ。合衆国大統領よりの私の信任状を呈するにあたり、私は陛下の健康と幸福を、また陛下の領土の繁栄を、大統領が切に希望していることを陛下に述べるように命ぜられた。私は陛下の宮廷において、合衆国の全権大使たる高く且つ重い地位を占めるために選ばれたことを、大なる光栄と考える。そして私の熱誠な願いは、永続的な友誼の紐によって、より親密に両国を結ばんとするにある。よって、その幸福な目的の達成のために、私は不断の努力をそそぐであろう」と挨拶を行います。 ハリスの挨拶が終わると、「短い沈黙ののち、大君は自分の頭を、その左肩をこえて、後方へぐいと反らしはじめた。同時に右足をふみ鳴らした。これが三、四回くりかえされた。それから彼は、よく聞こえる、気持ちのよい、しっかりした声で、次のような意味のことを言った。/『遠方の国から、使節をもって送られた書翰に満足する。同じく、使節の口上に満足する。両国の交際は、永久につづくであろう』」。 また、ハリスの通弁官として江戸城に同行したヘンリー・ヒュースケンは、彼の日本見聞記(青木枝朗訳『ヒュースケン日本日記』、岩波文庫、1989年7月)の中で、会見した将軍にいてつぎのように記録しています。「奥に、国王陛下、すなわち日本の大君が床几のようなものに坐っていた。しかしそのあたりは暗い上に離れているので、ほとんど姿が見えない。天井から垂れ下がったカーテンが顔を隠している。ひざまずいている人たちにはよく見えるが、直立しているわれわれには無理である」としています。そして、ハリスの挨拶に対し、「大君は三度床を踏み鳴らし、そして日本語で答えた」そうですが、通訳森山多吉郎のオランダ語の訳によると「はるか遠国より使節に托して寄せられた書簡をうれしく思う。また、使節の口上もよろこはしく聴いた.末永く交誼を保ちたいものである」ということであっとしています。 今回のドラマに描かれたように、家定が何枚もの畳を重ねた上に坐ってハリスたちと会見したわけではないようですね。また立ち上がって芝居がかった大袈裟な身振りで返礼の言葉を述べたとも書いていません。おそら家定は、緊張して自然と首や足が動いてしまったのでしょうね。 さて、今夜の篤姫ドラマでは、紀伊の慶富(松田翔太)を推す近江彦根藩の井伊直弼(中村梅雀)らと一橋慶喜(平岳大)を推す越前福井藩主の松平慶永(矢島健一)らの争いが激しくなり、そんな状況下、幾島(松坂慶子)に島津斉彬(高橋英樹)から慶喜を家定に合わせるようにせよとの密書が届きます。それで、家定が篤姫の考案した畳積み重ねの会見方式のアイデアを非常に気に入り、「礼をしよう。ほしいものは何なりと申せ」と言ったとき、彼女は家定にハリスとの会見の場に慶喜を同席させてほしいと頼み込み、承諾してもらっています。この家定の優しい配慮に篤姫を思わず涙ぐんでしまいます。 しかし、家定は会見の後で篤姫に「ますます慶喜が好きでなくなった」と言い、今後もしかしたら国内が開国派と攘夷派に分裂するかもしれず、そんな日本国の未来や徳川宗家のことを慶喜は真剣に考える人間とは思えないと言っています。 また、慶喜が会見の場に同席していることを知った本寿院(高畑淳子)が、「御台所が仕組んだに違いない」と怒り出し、廊下ですれ違った篤姫に掴みかかっています。いよいよ将軍継嗣を巡っての対立は激しさを増すようです。
2008年06月15日
コメント(3)
バルダさん、こんばんは、やまももです。 史実では、将軍継嗣問題についての篤姫の真意はどこにあったのでしょうか。当時の大奥では、当時大きな影響力を持っていた本寿院、歌橋等の主流派はみな「水戸嫌い」だったため水戸家出身の一橋慶喜への反感も強かったようです。ですから、篤姫が「勢力争いに疲れて、なんとなく流されてしまう…」ような女性だったとしたら、大奥に入輿したばかりということもあり、大奥主流派に迎合してあっさりと紀州の慶福を支持したことと思います。 しかし、篤姫はなによりも自分の価値観・道徳観を重んじ、それに忠実に生きようとした理念型の女性のような気がします。そんな彼女は、養父の島津斉彬に対しては、「孝」を尽くすためにその意思に忠実に従おうと思ったでしょうし、夫の徳川家定に対しては「婦人は別に主君なし。夫を誠に主君と思ひて,敬ひ慎しみで事(つか)ふべし」ということで、やはりその意思に忠実に従おうとしたと思います。 それで、次期継嗣の候補として島津斉彬と徳川家定の考えが一致しておればなんら問題はなかったのですが、斉彬は慶喜を推し、家定は慶喜を嫌って慶福を候補と考えていたようですから、平重盛が後白河法皇への「忠」と父親の平清盛への「孝」のいずれかで迷い、「忠ならんとすれば孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず」と言って悩んだように、彼女も養父の島津斉彬と夫の徳川家定の両者の意思のはざまで大いに苦悩したことと思います。またさらに篤姫が島津斉彬宛に出した書状につぎのように書いているように、斉彬が慶喜を推していることを家定が知って怒り出したというのですから、篤姫は身の細る思いだったことでしょう。「家定様のお考えはどうかと思い、本寿院様に相談して話してもらったところ、家定様はことのほかお腹立ちになり、どうして大名がそのようなことを言い出すのか。自分は一橋は嫌だし、大奥の皆も嫌っているのだから、このことは叶えることはできない(中略)なおまた斉彬までそんなことを言い出すということは、娘を御台所に入れたのに斉彬は将軍を侮っているのか、いったい何を考えているのかときつくきつくお腹立ちで、さっそく篤姫に申しつけて、このことは相成らぬと(斉彬へ)伝えるようにせよというのを、本寿院様が止められ、斉彬は篤姫を入興させたがゆえにこのように一大事のこと(世継ぎのこと)を深く徳川家のためを思われて申し上げているのです。いずれ老中・堀田正睦が帰ったら相談してくださいと……」(原口泉『篤姫 わたくしこと一命にかけ』、株式会社グラフ社、2008年1月) この手紙の後段で篤姫は、「このように大事な使命を受けておきながら、なんの結果も出せず、残念で、悔しくてたまりません。父上のお役に立てずにこのように手紙を父上に書いていて面目ない限りです」としていますが、夫の家定の慶喜嫌いのために篤姫は身動きできなくなり、結局は養父の斉彬から受けた使命を果たすことができなかったのでしょう。
2008年06月09日
コメント(0)
これまでのNHK大河ドラマ「篤姫」では、福山藩主で老中首座の安部正弘(草刈正雄)、薩摩藩主の島津斉彬(高橋英樹)、越前福井藩主の松平慶永(矢島健一)、伊予宇和島藩主の伊達宗城(森田順平)が一橋慶喜(平岳大)を次期将軍にするために慶喜の実父・徳川斉昭(江守徹)を交えていろいろ密議する様子が描かれていました。 そして前回22回目では、島津斉彬が安部正弘と一緒に一橋慶喜と面会し、彼に次期将軍の話を持ち出していましたが、それに対る慶喜の反応は驚くほど冷ややかなものでした。彼は、煙草をぷかぷか吹かしながら「火中の栗を拾えというのですか」と言い、外にはアメリカ等の諸外国が迫り、内には譜代大名と外様大名との不和があり、幕府は今後抜き差しならぬことになるであろうと冷静に分析し、「天下を獲ることほど骨の折れることないし、もし仮に天下を獲ったとしても上手く治められないなら、むしろ獲らずにいるほうがずっとよい」と言います。 後で安部正弘の屋敷に戻ったとき、斉彬は隣の間で控えている西郷隆盛(小澤征悦)に慶喜についての感想を聞きますが、そのとき西郷価は、評判通りの利発な人物とは思うが、頼りなく感じたとし、「無闇に自信ばかりが透けて見えました」と述べています。西郷の感想を聞いて、島津斉彬もうなずき、「いささか慢心ぎみにも見える。もう少し慎み深い御人であればよいのやもしれぬ」と発言しています。 なお、芳即正『島津斉彬』(吉川弘文館、1993年3月)によりますと、斉彬が安政4年(1857年)に福井藩主の松平慶永に送った手紙の中で、「水戸老公の評判は散々」であると徳川斉昭の悪評を心配しながらも、その息子の一橋慶喜については、安政4年3月27日(1857年4月21日)に彼と「ゆっくり会談しました」として、そのときの感想として「早く世子と仰ぎたい御人物です。しかし『御慢心(おごりたかぶる心)の処を折角(せっかく)御つつしみ』なさるようにお話しになったら如何でしょう」とその欠点も指摘しています また、芳即正『鹿児島史話』(高城書店、2006年9月)の第8章「西郷隆盛と橋本左内―将軍継嗣問題の奇跡―」によりますと、嘉永6年6月(1853年7月)に12代将軍・徳川家慶が死去し、家定が将軍職を継ぎますが、ぺリー来航以降の難局に対処するために有能な継嗣(あとつぎ)を内定し、将軍を補佐するこが幕政上の緊急課題となったとき、一橋慶喜を将軍継嗣に推して積極的に動き出したのが福井藩主の松平慶永だったそうです。しかし、一橋慶喜は自分を将軍継嗣として松平慶永が推している動きを知って、嘉永6年8月12日(1853年9月14日)に実父の徳川斉昭に書簡を出し、「この節、私を御養君にとのうわさがあると聞きました。天下を取るほど骨の折れる事はありません。骨折るから嫌という訳ではありませんが、天下をとってし損じるよりは、天下を取らないほうがずっとよいと思います。もしお聞きになる事がありましたなら、必ずお止め下さい」と申し送ったとのことです。 さて、今夜(6月8日)のNHK大河ドラマ「篤姫」23回目「器量くらべ」では、篤姫(宮崎あおい)の許に家定(堺雅人)の「おわたり」があった夜、篤姫は家定(堺雅人)に慶喜(平岳大)が嫌いな理由を質問します。それに対し、家定は逆に篤姫に慶喜と会ったことがあるのかと訊き、彼女があったことがないと返事すると、「あったこともない人物を薦めるとはあきれた話だな」と言います。それで篤姫は、家定に慶喜と会えるよう計らってもらいたいとお願いし、その願いは聞き入れられます。 しかし篤姫と対面した慶喜には全く覇気が感じられません。彼女からアメリカ総領事のハリスのことや我が国とアメリカとの関係について質問されても、「私が如き者が考えるごとではございません」と言い、また「自分は未熟者ゆえ、諸侯の期待に応える器量などございません」と言うだけで、とりつく島がありません。こんな慶喜と会って、篤姫はなぜ斉彬(高橋英樹)が慶喜に肩入れするのかと疑念を抱くことになります。 それで篤姫は「一方を聞いて沙汰するな」という母の言葉を思い出し、もう一人の将軍継嗣候補の紀伊家の慶福((松田翔太)とも会うことにし、菊見の宴に招きます。慶福は立ち振る舞いのりりしい若者で、勧められた御菓子が傷んでいると知ったときには、大奥の年寄たちが毒味役にそれを食べさせようとすることに対し、それは毒味役に不憫であり、「上に立つ者のすることではない」とたしなめます。 継嗣候補二人と面談した篤姫は、家定から二人の印象を聞かれ、「人の上に立つ器量を持っているのは慶福様だと思います」と正直に答えます。そのため、家定から「本心を隠さす、何でも正直に話す」と感心されます。家定は、そんな篤姫の真っ直ぐな心に勇気付けられ、将軍に面会を求めているハリスと会うことを決意することになります。
2008年06月08日
コメント(2)
masaさん、こんばんは、やまももです。 前回のNHK大河ドラマ「篤姫」では、家定(堺雅人)が篤姫の対して自分が「うつけ」のふりをしていたことを明らかにしましたね。同ドラマ公式サイトの「あらすじ」のページを見ますと、次回6月8日の23回目は「器量くらべ」だそうで、篤姫が次期将軍候補の慶喜(平岳大)と慶福(松田翔太)の両方に会い、自分の目で二人の器量を確かめようとするようですね。 ところで、masaさんはNHKの「土曜スタジオパークからこんにちは」をご覧になり、そこに出演していた「堺雅人氏が、家定の資料はアメリカの資料を参考にして、役作りを考えた」との発言を聞かれたそうですね。そのような地道な役作りの成果があらわれているのでしょうか、家定の陰影に富んだ人間像が描き出されており、多くの視聴者の心をひき付けていますね。 ところで、今年の8月の2・3日に鹿児島に行きれる予定なんですね。おそらく前にメールで書いておられた場所にも行かれ、いろいろ確かめられること思いますが、差し支えなければ私にも判明した事実を教えてくださいね。 それから、「ドルフィンポートの篤姫館には行ってみたいと、/妻と子供が言ってました」「やまももさんは、行かれましたか?/感想など教えていただければと思います」と書いておられますね。 私は今年の2月頃に篤姫館に見学に行っています。その頃、大河ドラマ「篤姫」では菊本の自害の話が放映されており、篤姫館の展示物の一つに菊本の遺書がありました。勿論、本物ではなく、展示されていたのはドラマの小道具として作られたものでした。そのことでも分かりますように、ドルフィンポートの篤姫館の展示物は、大河ドラマ「篤姫」で使用された衣装や小道具の展示や出演者の写真、ビデオによる紹介などがメインです。 NHK大河ドラマ「篤姫」は全国的に人気を博しており、その篤姫効果によって鹿児島へやって来る観光客も増えているそうで、ドルフィンポートの篤姫館の見学者も多く、今日のテレビの地元ニュースによると同館入館者が20万人に達したそうです。なお、5月16日から展示内容がリニューアルされたそうです。 しかし、篤姫関連の歴史資料を期待して見学に訪れた人は当てが外れると思います。
2008年06月06日
コメント(1)
バルダさん、こんばんは、やまももです。 バルダさんは、「高畑淳子さんの本寿院は、イメージ通り!という感じがします」と書いておられますが、息子の家定(堺雅人)の心中に隠された葛藤と苦悩などに全く気付くこともなく、彼に世継ぎが生まれることをただひたすら期待し、その他のことなどにはほとんど関心もなく、ただのほほんと暮らしている能天気なおばさんという感じですね。 イメー通りといえば、水戸の徳川斉昭を江守徹が演じていますが、去年2月末に脳梗塞のために倒れた後遺症でしょうか、いささか呂律が回らなくなった口調でいらただしげに過激な攘夷論を唱えている頑迷固陋な姿を見ていますと、実際の水戸烈公の斉昭もかくあらんと思わされます。また好色な狒々親爺の雰囲気も漂わせおり、大奥のみんなが水戸のトド様を嫌ったのもよく分かるような気がしますね。 ところで、昨日紹介しました「南日本新聞」6月3日掲載の「薩摩より御台所 篤姫さまお目見え」第5回目の見出しは「次期将軍に慶喜を 大奥の工作実らず」というものでしたが、次期将軍に慶喜を推す島津斉彬に対し、大奥に入輿した篤姫が複雑な動きをしているという興味深い事実が載っています。 同記事によりますと、「御台所となった篤姫は、養父で薩摩藩主・島津斉彬からの指示通り、一橋慶喜を将軍継嗣に決めるよう夫の徳川家定に働きかける。だが大奥が嫌う水戸家出身の慶喜に同意する声は大きくならなかった。事態は進展せず、ついに篤姫は慶喜の世継ぎを邪魔する行動をとったことが知られている」としています。「篤姫は慶喜の世継ぎを邪魔する行動をとった」というのはつぎのようなことを指します。島津斉彬が慶喜を将軍継嗣とするための大奥工作がなかなか進展しないと判断し、そのために幕府への建白書を提出して慶喜擁立の動きを表面化させるのですが、さらに陰で朝廷工作も展開させ、「京都の公家で篤姫の養父・忠煕に、継嗣に慶喜とする内勅の降下を依頼」したそうです。ところが、篤姫はそのとき近衛忠煕に手紙を出して、なんと内勅が出ないように依頼したそうです。江戸東京博物館の畑尚子学芸員によりますと、「篤姫はこの時期までに、継嗣は家茂がいいと考えを変えた」としており、東京大学史料編纂所の山本博文教授も同意見だそうです。 篤姫は明らかに斉彬の意に反する行為をしているのですが、畑尚子学芸員は「篤姫は家定と話し、慶喜や家茂と実際に会った上で、自分の判断で家茂に決めた」とみているそうです。また、明治に入り、当時の状況を語った大奥女中も「天璋院様が紀州をよいとしておられました」と証言しているそうです(旧事諮問録」) しかし、鹿児島県歴史資料センター「黎明館」の崎山健文学芸員は「この書状は篤姫の真意ではない」としており、篤姫の近衛忠煕宛手紙の2日後に幾島が「手紙は歌橋の願いで書いたもので篤姫の意見ではない」と弁明する手紙を忠煕に書いているそうです。崎山学芸員は「手紙は歌橋を欺くためのもの。面従腹背の戦術で、大奥での厳しい攻防がわかる」とみているそうです。 うーん、篤姫は将軍継嗣問題について複雑な動きをしており、それに対し歴史研究者の見解も分かれているようですね。大河ドラマ「篤姫」ではどのように描かれるのでしょうか。とっても興味深いですね。。
2008年06月04日
コメント(1)
6月2日の大河ドラマ「篤姫」22回目では、篤姫が家定に次期将軍のことで一橋慶喜(平岳大))の名前を持ち出していましたが、翌日3日の「南日本新聞」に掲載されたシリーズ記事「薩摩より御台所 篤姫さまお目見え」の第5回目は「次期将軍に慶喜を 大奥の工作実らず」というものでした。 同記事によりますと、篤姫が大奥に入った当時、そこで主導権を握っていたのは家定の生母の本寿院だったそうで、また女中としては歌橋が威勢をふるっていたそうです。歌橋は家定の乳母として彼を養育しており、当時は上臈御年寄という地位にありました。そして、彼女たちはいずれも次期将軍に紀州家の徳川家茂を推していたそうです。 なお、紀州の家茂とともに有力な次期将軍候補とみなされていたのが一橋慶喜でしたが、この慶喜は前水戸藩主の徳川斉昭の七男として生まれており、後に御三卿一橋家を相続した人物です。ですから彼の実父は水戸の徳川斉昭なんですが、南日本新聞の前掲記事によりますと、「大奥の女中はこぞって『水戸嫌い』だった」そうです。すなわち徳川斉昭を嫌っていたそうで、そのことについてつぎのようなことを紹介しています。「多くの歴史家らは、質素倹約を掲げる水戸家生まれの将軍を迎えることで、大奥が贅沢な暮らしぶりに口を出されることを嫌ったと指摘する。前水戸藩主の徳川斉昭が大奥の費用が多すぎるとして、予算削減を進言していた経緯もある。 もう一つの要因に、黎明館の崎山健文学芸専門員は水戸家の"女性問題”を挙げる。 一八五六(安政三)年、水戸藩主・徳川慶篤の正室緑姫(いとひめ)が自害する事件が起き、斉昭が息子の嫁に横恋慕したためだと、大奥でうわさになった。 線姫は有栖川宮家の娘で美しかったという。五〇(嘉永三)年、慶篤に輿入れする際、当時の大奥上臈御年寄・姉小路の目にとまり、将軍世子だった家定の正室にしようとしたものの、斉昭の反対で流れた。 さらに斉昭には『慶篤の妾に手を出した』『兄に嫁いだ姫に供をしてきた大奥女中に手を付けた』などの世評もあり、斉彬も『大不評判頓(とん)と致しかた之なく候』と嘆いている。崎山学芸専門員は『真偽は別として、大奥でうわさになっただけで意味が大きい。間違いなく水戸家の評判を落とした』とみる。」 徳川斉昭にこのような悪評が立ったのは、やはりそれなりの根拠があったようです。山内昌之・中村明彰『黒船以降』(中央公論社、2006年1月)で、山内昌之はこの人物について「人間として忌避される嫌みな個性があった」「執拗で偏執的な独裁者の風情がある」と評し、中村明彰は「女性関係がひどい。精力絶倫です。側室が少なくとも九人いて、二十二男十五女、つまり子どもを三十七人も生ませた。オットセイ将軍といわれた十一将軍・家斉といい勝負です」と言っています。 オットセイ将軍といい勝負というのですから、水戸の殿様だっ徳川斉昭は水戸のトド様だったようですね。
2008年06月03日
コメント(1)
今夜(6月1日)のNHK大河ドラマ「篤姫」22回目では、幕府の老中首座の安部正弘(草刈正雄)が突然に病死してしまいます。若くして老中となり長年に渡って幕府の実力者として大きな役割を発揮して来た彼の死は、その後の政局に非常な影響を与え、次期将軍を巡っての紀州派と一橋派との抗争も激化させます。このような情況の中で、篤姫(宮崎あおい)も島津斉彬(高橋英樹)の密命をよいよ実行せねばならなくなります。彼女は斉彬から一橋慶喜(平岳大)を次期将軍として家定(堺雅人)に推す様にとの密命を受けていたのです。今回の篤姫ドラマでは、前回の少女コミック調からシリアスモードにガラッと切り換えられていましたが、篤姫と家定との第4回目の対面でも篤姫のみならず家定も彼女の質問をはぐらかすことなく自分の心情を赤裸々に語り、そこで彼がなぜ「うつけ」のふりをしていたのかも明らかにしています。 家定と対面した篤姫は、真の夫婦となるためには、自らが本心を明らかにすべきだと思い、自分は一橋慶喜を次期将軍に推すという密命を受けていることを家定に告白します。彼女の告白に対し、家定は真顔で対応し、そんな彼女の使命も安部の死で不利になったなと言い、さらに幕府の政治を任せていた安部が死んだため、「自分はいつまでもうつけのままではおられぬようになってしまった」と言い出します。 そんな彼は、慶喜のことについては、「一橋は好かぬ。好かぬものは好かぬ」と嫌悪感をあらわにし、また外国から開国を迫られている厳しい情況の中で、一橋がその国難を乗り切る力などはないであろうとし、さらに結局は幕府は滅亡するのは避けられぬ運命であろうとまで言い出します。 将軍の地位にありながら、為政者としてではなくまるで評論家のようなことを言う家定に対し、篤姫は「上様は身勝手だと存じます!」となじります。それに対し家定は、自分はこれまで度々毒を盛られて来たために身体を壊してしまい、もう長くは生きられないであろうと言い、さらに「うつけのふりをして己の運命をわらってやりたかったのじゃ! わし一人をこの世に残して将軍にしたところで、この国はどうにもならぬ! そのことを天にも解らせてやりたかったのじゃ!!」と自暴自棄的な心情を吐露します。家定は言い終わると篤姫に背を向けて眠ろうとしますが、そんな家定の孤独な心情を知った篤姫は、「私がお助けいたします。上様を支える所存でございます」と思わず声を掛けます。しかし、その言葉に振り返った家定は、冷たい目を篤姫に向けて「もう誰も信じない」と言い切るのでした。
2008年06月01日
コメント(0)
全10件 (10件中 1-10件目)
1
![]()

![]()