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だびでさん、初めまして、やまももです。 先月(8月)の拙ブログに「瀬野富吉氏の『幻の宰相 小松帯刀伝』について」という拙文を書きましたが、今日(9月30日)になって、同拙文にだびでさんから「『幻の宰相 小松帯刀伝』は10月に宮帯出版社から再版されるそうです。定価は1995円だそうです」とのコメントを寄せせていただきました。貴重な情報をありがとうございました。なお、いただいたコメントに株式会社・宮帯出版社のHPのURLhttp://www.miyaobi.com/も付記して下さっていますが、そのHPの近刊案内に瀬野富吉氏の同書も紹介がされていますね。 それで、だびでさんから瀬野富吉著『幻の宰相 小松帯刀伝』に関するコメントをいただき、同書に小松帯刀と英国留学生との関係が書かれてあったことを思い出しました。なお、9月28日放映のNHK大河ドラマ「篤姫」第39回目「薩摩燃ゆ」で薩英戦争の交戦の模様と鹿児島の街を焼かれて嘆き悲しむ小松帯刀(瑛太)が描かれていましたが、実際の小松帯刀は薩英戦争後に薩摩藩の家老として藩を戦争の痛手から回復させるためにつぎつぎと手を打っていますが、その一つが留学生派遣だったのですね。それで、瀬野富吉著『幻の宰相 小松帯刀伝』に基づいて英国留学生派遣の経緯について下に要約して紹介したいと思います。 瀬野富吉著『幻の宰相 小松帯刀伝』によりますと、「薩摩藩で欧米先進国へ留学生を派遣することは、島津斉彬の構想であった」そうですが、「斉彬が急死したことで、計画は一時挫折」してしまいます。しかし、「文久三年(一八六三年)七月の薩英戦争によって、西洋の文明が進歩していて、武器も精巧であることを痛感した薩摩では、英国と和平が成立すると、彼と親交を結んで文物の輸入、科学技術を導入しようとする気運が起」ります。そんな時に、長崎にいた五代才助(後の五代友厚)が「海外留学生派遣の建言書を作成して藩庁に上申」したので、小松たちはこれを採り上げ実施に移すことになったそうです。 なお、五代才助は薩英戦争のときに英国艦船に拿捕された天佑丸の船長で、その後「自発的に英艦の捕虜となって横浜に連れ去られた」そうですが、「その後講和が成立したので、英領事より釈放され」、「江戸、熊谷など転々として隠れていたが、長崎に潜入して、川路要蔵の変名で、長崎の酒井三蔵商店という富豪に潜んで」いましたが、「このころ長崎の英国商人トーマス・グラバーと懇意になって」、そのときに留学生派遣の構想を話したことが小松帯刀の耳に入ったそうです。すなわち「たまたま家老小松帯刀が汽船購入や通商関係でグラバーに会ったので、五代の話が出る。ここで小松と五代ほ再び会うことになった。五代は小松に亡命のいきさつを話し、罪を謝するので、小松は脱藩罪赦免を藩公に許してもらうことにしたのである。/五代が抱いている留学生派遣の構想は、帯刀もグラバーに依頼していたことで、全く意見が一致したので、これを藩庁で具体化させるため、五代の意見を上申書として起草し、藩庁に上申するように勧め」たそうです。なお、「小松は造士館掛で教育の責任者であり、御改革御内用掛と御勝手方掛りで予算決定の責任者でもあるから、留学生の費用も薩藩の費用を充てることができ」たとのことです。 こうして「元治元年十一月下旬、英国留学生派遣の裁可が藩主父子よりおり」、同年3月22日に「英国留学生十九名を載せた『オースタライエン号』は羽島沖を出帆して香港に向かった」そうです。 なお、鹿児島中央駅前にこの薩摩藩英国留学生をモチーフにした「若き薩摩の群像」という像があり、五代友厚(後に大阪商工業の基礎を作る)、森有礼(初代文部大臣となり文教の発展に力を尽くす)、寺島宗則(外務卿となって外交で活躍)、村橋久成(北海道開拓使となり、サッポロビールの生みの親となる)、長沢鼎(米国に渡り、カリフォルニアで広大な葡萄園を経営し日本人ワイン王と呼ばれる)等17名の若き姿を見ることが出来ます。しかし、薩摩藩から英国に派遣された留学生は19名で、一緒に薩摩藩から派遣された高見弥一(土佐藩出身)、堀孝之(長崎県人)の両名の姿はこの群像の中に見ることは出来ません。なぜなのでしょうか。なお、「若き薩摩の群像を完成させる会」のHP中の「『若き薩摩の群像』から外された2人のプロフィール」という文章がありますが、これをご覧になってどう思われるでしょうか。鹿児島に住む関西人の私としても、ぜひこの2名の像を「若き薩摩の群像」に加えてもらいたいものだと思います。
2008年09月30日
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今夜(9月28日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第39回目のタイトルは「薩摩燃ゆ」で、今回のドラマの後半に薩英戦争の激しい交戦の様子がかなりリアルに描かれています。 大奥に将軍家茂(松田翔太)が無事に上洛したという知らせが届いたとき、本寿院(高畑淳子)は「公方様がたかだか3千の兵を率いて上洛した」ということに不満を漏らし、和宮(堀北真希)は夫の家茂の身を心配して不安を募らせますが、家茂に上洛を勧めた天璋院(宮崎あおい)は、将軍の上洛は下々にその威光を示すいい機会だとしてすっかり安心している様子でした。しかしその頃、京では長州藩などの過激な攘夷派のテロが吹き荒れていました。家茂は、孝明天皇(東儀秀樹)に直接会って攘夷の無理なことを伝えようと考えていましたが、京で家茂を迎えた将軍後見職の慶喜(平岳大)は、幕府がすでに朝廷に対して攘夷を行う約束を交わしたということを伝えます。そのために、家茂は天皇に拝謁しても自分の思いを言い出せず、それどころか攘夷決行を約束させられてしまいます。 このような当時の情況について、佐々木克『大久保利通と明治維新』(吉川弘文館、1998年8月)はつきのように解説しています。「どこの国でもみられることだが、ある時期に熱狂や情念が異常な力を発揮して、理性を圧倒してしまうことがある。このころの京都の政局がまさにそれであった。攘夷という熱気が、狂気の季節を生み出していたのであった。 諸国から尊攘派の志士たちが、京都に集まってきた。尊攘激派のテロはますます過激になり、文久三年(一八六三)一月二十二日には、かつて朝廷内に力をもった儒者の池内大学を殺して、首をさらした。そこには姦吏に通じた裏切り者の国賊であるとはり紙がなされ、さらに耳が切り取られて、公武合体派とみられていた中山忠能と正親町三条実愛の邸に投げ込まれた。関白の近衛忠照は、ふるえあがって辞表を出すしまつであった。 一月五日に将軍後見職一橋慶喜が、二十五日に前土佐藩主山内容堂、そして二月四日に政事総裁職松平慶永が上京したが、なすすべがなかった。そうしたなかの三月四日、家光いらい二二八年ぶりに将軍が上洛し、七日にその家茂が参内、天皇の引見がなされた。 その際における家茂の宮中席次であるが、最上位が関白鷹司輔照、以下左大臣一条忠香右大臣二条斉敬↓内大臣久我建通とつづき、次が家茂であった。三代将軍家光の参内のときの席次が、関白より上の最上位であったことをふりかえると、今次の参内は将軍、幕府にとっては屈辱的ともいえるあつかいであった。」 そして文久3年3月11日(1863年4月28日)には、孝明天皇による攘夷祈願のための賀茂神社への行幸が行なわれ、関白以下10数人の公家に家茂以下、毛利定広(長州)、池田慶徳(鳥取)、佐竹義尭(秋田)、上杉斉憲(米沢)、徳川慶篤(水戸)、池田茂政(岡山)、伊達宗城(宇和島)、細川慶順(熊本)ら12人の大名が付き従いました。このような孝明天皇による賀茂神社行幸の歴史的意味について、佐々木克の同上書はつぎのように書いています。「幕府権力にとりこまれて、行幸さえ自由にならなかった天皇が、将軍以下、多数の武家を従えて、その力を誇示するかのように、御所の外に出現したのである。いまや天皇と将軍、朝廷と幕府との位置関係が逆転したことが、誰の目にもあきらかとなった。 この行幸は、長州藩の献策を朝廷が受け入れてなされたもので、長州藩そして急進的尊攘派の勢いはますます増大した。こうした状況下の京都に、慶永や容堂との約束から、久光が三月十四日に着京したが、もとより何もできず、滞京三日にして帰国の途につき、慶永も二十一日、また容堂も二十六日に帰国していった。こうして京都は、長州藩と急進的尊攘派志士・公家の天下となったのである。 そして将軍家茂は、四月二十日ついに、強硬な急進的尊攘派の圧力に屈して、攘夷実行の期日を、きたる五月十日とすると答えた。五月十日、長州藩が下関でアメリカ商船を砲撃したのは、この決定にもとづいた攘夷の決行であった。」 さて篤姫ドラマでは、家茂の身を案じていた天璋院が、京に攘夷決行のための人質同然となって留め置かれていた家茂がさらに身体も壊したことを知り、和宮に会って彼女から天皇に将軍を江戸に帰すよう伝えてもらいたいと頼みます。しかし、和宮も夫の家茂の身を心配しながらも、攘夷実行を望む大奥の御所方の意向に配慮して天璋院の頼みを断り、「公方さんを江戸に押し出されたのは大御台さんではあらしゃいませんか」と冷たく言い放つのでした。しかし苦悩する和宮の様子を見た母親の観行院(若村麻由美)は、自分の思いに背いてはなりませんと彼女に優しく諭します。そのため、和宮は兄の孝明天皇に家茂の江戸帰還を頼み、やっと家茂は江戸城に戻ることが出来ます。 ところで、天璋院は和宮から京の天皇への頼みを断られたとき、病に伏している家茂のもとに彼の相談相手として勝海舟(北大路欣也)を派遣しています。大坂城で家茂に面会した勝海舟は、いまは攘夷など実行しても「ころりと負けます」と明言するとともに、まずは攘夷を唱えるものにそれをやらせ、「日本国全体が攘夷なとできぬことを理解させるのです」と言うのでしたた。このような攘夷決行の見通しを勝海舟から聞いて、攘夷決行のことで苦悩していた家茂は精神的にいささか開放された様でした。 さて、攘夷決行の日は文久3年5月10日(1862年6月7日)とされ、長州藩が下関で航行中のアメリカ商船に対して砲撃を加えます。しかしそれに対し、すぐにアメリカにフランスが加わっての反撃がなされ、長州は屈辱的大敗を喫します。薩摩の島津久光(山口祐一郎)は、この長州の米仏軍艦による敗北の知らせを聞きますが、英国艦隊が薩摩に襲来し、生麦事件の賠償金支払いと英国人殺傷の下手人を差し出せとの要求に対し、「降りかかる火の粉は振り払わねばならぬ」と言って小松帯刀(瑛太)に英国との戦いは避けられないことを告げ、帯刀にこの戦で指揮を執るように命じます。 6月27日に英国艦船は鹿児島の錦江湾に侵入し、3日間の交渉の後、7月2日に英国艦船が薩摩藩の汽船3隻を拿捕したことから、薩摩藩側で英国艦船に砲撃を開始し、こうして3日間に渡る交戦が行われました。しかし7月4日になって、英国艦船は薩摩から立ち去りました。 ところで、この薩英戦争時の薩摩側の本陣跡が常盤町1018(西田小学校裏の田の神のすぐ近く)にあります。私がこの本陣跡の存在を知ったのは、クマタツさんが運営しておられるブログの「常盤散歩」にその貴重な史跡の記事と写真が載ったことからでした。それでクマタツさんにお願いして薩英戦争本陣跡の記事と写真を拙ブログに転載させてもらえないかとお願いしましたところ、快諾して下さり、個人のお宅の外側に残された「薩英戦争本陣跡の石碑と表示板」の写真をあらためてアップしてくださいましたので、上に紹介させてもらいます。 千眼寺跡(薩英戦争本陣跡)の写真は本当に貴重なものですね。実は、薩摩藩の藩主の島津茂久(後に忠義と改名)と国父の島津久光が現在の常盤の千眼寺跡に本営を移していたことを私はクマタツさんのブログ記事で初めて知りました。それで西山正徳著『薩英戦争』(高城書房、1999年1月) であらためて読み直してみましたら、確かにそのことがつぎのように書かれていました。「(七月一日)午後四時頃、本営は西田千眼寺(西田小学校西側)に移され、諸役も下町下会所から移動、軍役方は柿本寺に転営した。 千眼寺は、藩主島津重豪の時代に創建された禅寺で、前々代藩主斉興の天保年間中頃に堂宇を大きくして御座所を設け、数百人の兵も収容できるようにしてあった。 後方の常盤山の中腹には遠望台があり、眼下に鹿児島湾を一望に見渡せた。」 本営を西田千眼寺にしたのは、英国戦艦が搭載しているアームストロング砲(当時最新最強の大砲といわれ、射程距離が4Km近くもありました)の情報が入っており、実力の程はまだ把握していませんでしたが(芳即正『島津久光と明治維新』、新人物往来社、2002年12月)、大事を取って錦江湾沖から遠く離れた内陸部のこの地なら大丈夫と判断したからなのでしょうね。 クマタツさんからいただいた薩英戦争本陣跡の案内板にも、千眼寺に本陣を置いた理由として「鶴丸城が海岸に近く敵弾が飛来するおそれがあったので、久光、忠義(第29代藩主)父子はこの寺に本陣を置いて総指揮をとった」」との解説が書かれてありました。 さて、今回のドラマのナレーションでは、鹿児島の城下はこの戦争で「焦土と化した」と言っていますが、実際にはどうだったのでしょうか。平凡社の『世界大百科事典』によると、この3日間に渡って戦われた薩英戦争の結果、イギリス側では「旗艦ユーリアラス号艦長ジョスリング大佐、副長ウィルモット中佐をはじめ戦死13名、負傷者50名の損害」を出したのに対し、「薩摩藩側は戦死5名,負傷者十数名にすぎなかった」そうです。しかし、「イギリス艦の用いたアームストロング砲の射程は薩摩藩砲台の4倍の火力」があり、薩摩藩側が錦江港に築いた砲台の大半が破壊されただけでなく、先代の薩摩藩主・島津斉彬が莫大な資金と労力を投入して吉野の磯という場所に作った日本最初の洋式産業群も徹底的に破壊され、鹿児島の城下町もその1割を焼失してしまいました。その他、薩摩藩が購入していた汽船3隻,琉球船2隻なども焼亡するなど物的損害は大きかったそうです。この薩英戦争の歴史的意義について、同上書はつぎのように解説しています。「薩摩藩人に無謀の攘夷の非を手痛く反省させた。そこで大久保利通らを遣わしてイギリスと和を結んだが、この戦いによりイギリスは薩摩藩の実力を評価し、薩摩藩は西洋文明の優秀さを深く悟り、これに学ばんとして以後急速に薩英の連携が成り立った。65年(慶応1)3月には渡英留学生19人の派遣を実施し,またイギリス商人グラバーの艦船・兵器斡旋等,幕末の政局に大きな影響をもつに至った。」
2008年09月28日
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今夜(9月21日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第38回目のタイトルは「嫁の心 姑の心」でした。帝(みかど)から幕府に勅使が派遣されたことを知った家茂(松田翔太)が、勅使が将軍の彼に求めることは上洛と攘夷であろう察知し、そのことを天璋院(宮崎あおい)に相談した上で、上洛して攘夷の困難さを帝に直接伝えようと決心します。しかし、家茂が上洛することを知った和宮(堀北真希)は京での彼の身を案じます。そして家茂が天璋院の後押しを受けて上洛を決意したと聞き、直接天璋院の部屋に行って、「私はあの方の妻です。母とは違うのです。都で何かがあったら……。私は大御台さんをお恨みもうしあげます」となじるのでした。 さて、今夜のドラマにおいて、大奥で起った細かい出来事は省かせてもらい、いよいよ長州藩の動きもこのドラマのなかに描かれるようになりましたので、当時の主要な攘夷論を紹介したいと思います。 なお、薩摩藩の島津久光(山口祐一郎)は、初めての上洛後に江戸に赴いて一橋慶喜(平岳大)の後見職、松平慶永(矢島健一)の政事職を実現させますが、その後さらに京都に向かう途中の生麦村で、久光の行列を乱した英国人を薩摩藩士が殺傷するという事件が起こってしまいます。この事件を当時の人々は薩摩藩が攘夷を実行した行為と勝手に解釈したようです。しかし、この生麦事件は全くの偶発的事件であり、当時の島津久光は無謀な攘夷など全く考えておらず、それどころか開国やむなしとさえ考えていました。 そんな久光が江戸から京都に到着したとき、京の町は過激な攘夷テロが横行しており、攘夷を唱える長州藩が朝廷内にも影響力を拡大し、そのため朝廷は攘夷一色となっていました。そのような状況の中、久光は歯軋りしながら「長州め、このままではすまさぬぞ」と言いながらも薩摩に帰らざるを得ませんでした。 ところで、佐々木克『大久保利通と明治維新』(吉川弘文館、1998年8月)によりますと、その頃、攘夷を巡ってつぎの3つの立場が存在していたそうです。(1)長州藩や久坂玄瑞、真木和泉に代表される尊撰急進派で、「武力の行使を覚悟のうえで、勅許の得ていない条約を破棄すべきである」と主張しています。なお、長州は尊皇攘夷運動(条約破棄、決戦の覚悟)を文久2年7月6日(1862年8月1日)に藩論として決定しています。(2)政事総裁職となった松平慶永などは「日米修好通商条約などは、外国の圧力の下で調印された不平等条約であり、かつ勅許も得られないものであったから、列強と交渉して、一度条約の廃棄を実現する、そのうえで、挙国一致の体制でわが国より開国する」ことを主張しました。彼等は外国列強との正面からの武力対決は避けながら平和的交渉で条約を破棄したいと考えていたのですね。(3)薩摩藩の島津久光、大久保利通や将軍後見職となった一橋慶喜は「破約壊夷に正面切って反対を主張しないが、破約壊夷などほとんど可能性がない」と思っていたそうす。また「勝海舟のような積極的開国論者がいないわけではないが、天誅テロが危険でうっかりものをいえない、そういう時代状況なのである」とも書いています。 なお、佐々木克の同上書によりますと、松平慶永などの(2)の立場は、「破約擾夷は将来の目標の一つではあるが、当面するもっとも重要なことは、朝廷と幕府が協調し、さらに諸藩が力をあわせて挙国一致の体制を築く、すなわち『公武合体』の実現こそが、いまなすべきことであると主張する」としており、このいわゆる公武合体派に島津久光や一橋慶喜などの(3)の立場の者たちも協力したとしています。
2008年09月21日
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9月14日放映の篤姫ドラマのラストに文久2年8月21日(1862年9月14日)に薩摩藩士が起こした英国人殺害(生麦事件)のことが描かれていましたね。 この生麦事件とは、島津久光が江戸で幕政改革の三箇条の勅諚を基本的に達成したため、その後、大原勅使に先発して行列を仕立てて京都に向かう途中に起ったもので、神奈川の生麦で英国人のリチャードソンたち4人が乗馬したまま久光の行列を乱したことから、それを怒った薩摩藩士の奈良原喜左衛門がリチャードソンにまず切りかかり、逃げるところをさらに久木村治休が抜き打ちに斬って致命傷を与えた偶発的事件です。この事件が原因で、約1年後に薩英戦争が起っていますね。 ところで、9月14日の篤姫ドラマでは、生麦事件の騒ぎが起ったとき、島津久光は駕籠の中でうつらうつらしていた様に描かれていましたね。しかし、島津久光を「ひどい権力欲」の持ち主として描き、彼の上洛を「お山の大将になりたかっただけのことである」と切って捨てた司馬遼太郎の小説「きつね馬」では、生麦事件のときに久光が奈良原に「殺(や)れ」と命じたとしています。また同じ司馬遼太郎の代表作『龍馬はゆく』でも、「一説では、島津久光が、駕籠の引き戸をひらき、/『斬れ、斬れ』/といって顔をひっこめた、という」と書いています。ただし、「一説では」のその「一説」がどのような史料に書いてあるのかは、小説ですから司馬遼太郎は明らかにしていません。 しかし、島津久光自身はそのような説を否定しているようですよ。桃源選書に八木昇編『幕末動乱の記録 「史談会」速記録』(桃源社、1965年8月)という本があります。この本の編者によると、同書は「歴史的価値が極めて高い、『史談会速記録』四百有余冊より採り出した精華十二編」を収めたとのことです。その12編のなかに明治になって島津家の家記編纂掛をしていた市来四郎の「生麦英人殺害事件の実況」も載っており、市来四郎が久光から生麦事件当日のことを聞いた話が紹介されています。それによりますと、当時の久光は「無謀の捷夷はよろしくない、後々は兎角開港せねばならぬという腹」であったが、その頃の攘夷説流行には正面から抗することはできないでいたとのことで、久光のそんな心理を市来はまずつぎの様に述べています。「三ケ条の勅命も奉ぜらるることになって、首尾よく朝意の行われたと、ひと先ず安心して、八月二十一日高輪の藩邸を出発致しまして、帰京でなく久光のところは帰国というものでござりまして、直ぐに帰国するつもりで出立致しました。復命は大原卿の御責任でござりますから、久光は直ちに帰国のつもりでござりました。当時久光は種々な風説を受けて、全く覇権を握うとの策略から此に至ったと言い囃されましたのみならず、久光が初度上京致した建言に、無謀の攘夷はよろしくござりませぬという主義でござりました。けれども久光の心中というものは、故斉彬こは開港論者でござりますから、どこまでもその意を継紹致しまして、無謀の捷夷はよろしくない、後々は兎角開港せねばならぬという腹でござりましたけれども、時勢奈何せん攘夷説流行の時でござりますから、開港という説などいい出しては人心を殞(うしな)います。或は国中も捷夷家が沢山おりますから、かれこれその辺を斟酌致し、なかにも朝廷に建言致すに就ては、大勢奈何ともなしがたく、無謀撰夷は不可なりという文字を以て建言致したそうでござります。その含むところは到底開港論で時勢を俟(ま)って開港ということを申すつもりであったそうです。各藩共壊夷論の大勢であるから、捷夷不可なりとも言われぬ、言葉にも出されぬ程のことであったと申しました。この話が生麦の挙動、心ならぬことであったと申す序言でござります。」 さらに市来四郎は、生麦事件そのものについてはつぎのように語っています。「久光の話されますことに、高輪邸を出立致して、大原卿も同日にお立ちになりました。久光は生麦で昼休みを致すつもりでござりましたそうです。生麦の立場近く行列を立ててやって行くところに、供頭の奈良原喜左衛門という者が、駕籠側におりましたが、/『異人か』/というひと声掛けて先供の方に駈け出して行ったから、/定めて外国人がやって来るから行列をちぢめるかどうかであろう>と何心なく聞いていた。然るに程なく駕籠の行くを止めた。/<さては外国人が行列に踏込みて来たか>と思った。そうすると駕籠側供方の者が前後左右に集った様子で、/<如何さま失礼でも致したか>と考えて、左右の者に、/『何事か』と尋ねたけれでも一向わからぬ。/『異人が参るそうでございます』と言った。/<それで行列にさわったか知れず、喧嘩をせねばよいが、小事を以って大事を過(あやま)るようではいけない>/と心配を致した。」 久光はこのように外国人と喧嘩にならねばよいがと心配したそうですが、しばらくすると「異国人を斬りましたそうです」との報告が入り、「ずんずんやって行くから駕籠の中から路傍に気をつけたところが死骸は見えぬ。ただ路傍に血を流しているままであった。死骸はないから、<さだめて傷つけられてどこえか行ったであろう>と思って、程なく生麦の立場に着いて、茶一盃飲んでいるところに、側役の谷川次郎兵衛という者が出て来て、/「まことに大変なことを致しました。異国人が御行列にさわりましたから斬り棄てました」/と、こういうことを届けて出た」そうです。久光は「さても困った事を致したと、小事を以て大事を惹き出したと心配を起した。そういうことで小事を以て一両人殺して何にもならぬことである。天下の大変を惹き出し国難も惹き出した。と思ったけども、そこでそういうことを言えば、人心にも関するから黙して答えなかった」そうです。しかし、この事件の後、薩摩藩内では攘夷の声が高まり、久光も「戦争の準備もせねばならぬという覚悟を致した」そうです。 ですから、市来四郎は、「久光が下知致したことでは素よりござりません。なかには下知致したようにいうたものもござりますけれども、決してそうでござりません。表面の形によりて言うたもので、久光の心中は時機を察して、斉彬が趣旨通り開国論を発する胸算でありたと申しました。実に行きがかりの小事より卒然に起ったことでござります」としています。
2008年09月16日
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今夜(9月14日)のNHK大河ドラマ「篤姫」の第37回目のタイトルは「友情と決別」でした。今回のドラマでの「友情」とは天璋院(宮崎あおい)と小松帯刀(瑛太)の友情を指し、「決別」とは久光(山口祐一郎)が実権を掌握している薩摩藩に対する天璋院の決別を指しています。 島津久光は、幕政改革の三箇条の勅諚を携えた大原勅使(木村元)の随従を名目に500人ほどの兵士を率いて江戸に入ってきました。なお、この三箇条の勅諚の内容は、実際は島津久光の意見を採り入れて作成された幕政改革案で、鹿児島市で開催された「天璋院篤姫展」でも「幕府への勅諚三箇条写」が展示されており、また同展示会場で販売されていました図録の付録「天璋院 篤姫展 釈文一覧」にもそれが活字化されていましたので、下に転載しておきます。第一大樹早ク諸大名ヲ率ヒ/上洛アツテ、/朝廷二オイテ相共二国家ノ/治乎ヲ計議シ、万人ノ疑/ヲ散セシメ、/皇国一和ノ正気トナシ、速/二蛮夷ノ患難ヲ攘ヒ、上ハ/祖宗ノ 神叡ヲ慰慰メ、下ハ/義臣ノ帰嚮二従ヒ、万民/ヲ化育シ、天下ヲ泰山ノ安/二比セラレ度事、第二豊臣ノ故事二ヨリ沿海五/ヶ国ノ大藩ヲ以テ五大老ト/シ、国政ヲ諮決シ、夷戎ヲ防/禦スルノ所置ヲ為シメハ、環海/ノ武備堅固確然トシテ、必夷/戎ヲ掃攘スルノ功アラント/思召候事、第三一橋刑部卿ヲ後見トシ、越/前前中将ヲ大老トシテ、幕/府ヲ扶ケ政事ヲ計ラシメハ、/戎虜ノ慢ヲ受スシテ衆人/ノ望二協フヘクト/思召候事、 すなわち、(1)大樹(将軍)の上洛と朝廷での国是の討議 (2)沿海五ヶ国による五大老の新設 (3)一橋刑部卿(一橋慶喜)を将軍後見職、越前の前中将(松平春嶽)を大老に就任させること、以上のことを実現させようと島津久光は江戸にやって来たのです。 しかし、大原勅使と会見した幕府老中たちは朝廷の要求をのらりくらりと拒み続けます。特に慶喜の将軍後見職就任の件については、この職はもう廃された言って認めようとはしませ。このことにいらだった久光は、大久保(原田泰造)に「今度はそちが出向き、どのような手を使っても構わぬから、わしがどれほどの覚悟で江戸に来たかを示してやれ」と命じます。大久保は大原勅使と幕府老中が会談している隣の部屋に薩摩藩士を控えさせ、鯉口(刀の鞘口)を切らせる音を老中たちに聞かせ、さらに「ここからお帰りになれぬことになるかも……」と脅かします。このような脅迫めいた行為に老中たちは動揺し、こうして一橋慶喜が将軍後見職に就き、松平春嶽は政事総裁職に就くことになります。 大久保は暴力団まがいの随分乱暴なやり方を取って幕府に薩摩藩の要求を認めさせたものですね。あまりにも乱暴なやり方なので、かえって吉本新喜劇のあちゃらか芝居を見ているような気分になって私はつい大笑いしてしまいましたが、でもこれに近いことは実際にあったようですよ。佐々木克『大久保利通と明治維新』(吉川弘文館、1998年8月)にはつぎのようなことが書いてありました。「ようやく五月二十二日、大原勅使と久光が大久保をはじめ手兵を率いて出発。六月十日登城して将軍家茂に朝旨を伝達した。当時の老中は、松平信義(亀岡藩主)、水野忠精(山形藩主)、板倉勝静(備中松山準王)、脇坂安宅(竜野藩主)で、井伊が倒れていらいの安藤信睦、久世広周にかわって、脇坂と板倉が実権派であった。/さて勅使と幕府の交渉であるが、勅使の到着前に、幕府は将軍上洛の方針を内定していた。また五大老の設置は、朝廷側でも実現性が薄いとみていた。そこで問題は久光が主張する第三事ということになる。松平慶永はすでに幕政参与となっていたから、大老は無理としても、妥協の余地はあった。しかし慶喜に関しては、幕府は久光にたいする反感もあって、他から容喙されて要職を任命することに強く難色をしめしたのである。/久光の側面からの工作と、再三にわたる交渉のあと、二十六日、大原勅使は伝奏屋敷に老中を招いて交渉することになったが、ここで大久保は、もし老中が要求をあくまでも拒否するならば『閣老を返し申しまじく(刺殺する)決心』であることを大原に告げた(『日記』)。ずいぶん乱暴な話であるが、それだけの決意で交渉せよという、大久保の大原にたいする強い激励であり、自分たちもそれくらいの覚悟なのだということを伝えたものであろう。/硬骨漢の大原は、ここで奮い立ったらしい。交渉破裂の場合は帰らないとまで言って登城した二十九日、ついに幕府は折れた。かくて七月六日、慶喜は将軍後見職に、九日、松平慶永は政事総裁職に任ぜられて、まずは勅使の使命は達成されたのであった。」 今夜のドラマでは、天璋院が力づくで自分たちの要求を呑ませようとする薩摩藩のやり方に非常に憤りを感じ、家定の命日の寛永寺への墓参を利用して同寺で久光と会見し、朝廷の威を借りて自分たちの要求を実現しょうとするやり方を批判しますが、幕府も同じようなことをしていると反論されてしまいます。そんななかで天璋院は、「私は薩摩に誇りを持ってきた。薩摩にだけは間違った道を進んでほしくなかった」と言うとともに、「私は徳川の大御台所として徳川家とこの国を守りぬく覚悟である」とも言い、今後一切薩摩からは指図は受けぬと決別宣言をしています。 なお、久光に随行して寛永寺にやって来た小松帯刀(瑛太)の姿を見た天璋院は、家茂(松田翔太)の許しを得て大奥で彼と会うことにします。天璋院が碁を打ちながら小松帯刀に薩摩の今和泉家の近況などを質問しているなかで、二人は自然と昔の篤姫と肝付尚五郎に戻ります。そんな静かな語り合いの中、小松帯刀は現在の薩摩藩が力で人を動かそうとする強引なやり方は間違っていると思うと天璋院に語り、その言葉を聞いた天璋院は「私も薩摩を捨てたなどと言いましたが、それは自分の心に嘘をついていたのです」と言い、「私はこの大奥で徳川を守ります。あなたは私が愛する故郷(ふるさと)の薩摩を守ってください」と彼に頼むのでした。この天璋院と小松帯刀の再会の場面は、これまで何度か繰り返されて来ましたが、自然と心を通わすことのできる者同士が碁を打ちながら静かに語りあう場面はこれまでで一番良かったように思います。
2008年09月14日
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2008年NHK大河ドラマ特別展「天璋院篤姫展」が東京展(2月19日~4月6日:江戸東京博物館)、大阪展(大阪歴史博物館:4月19日~6月1日)と開かれていましたが、私の住む鹿児島でも9月6日から10月17日まで鹿児島県歴史資料センター黎明館で開催されることになり、喜び勇んで見学に出かけました。 同展示会は「篤姫と彼女をとりまく人々ゆかりの品、江戸城大奥の華麗な調度、幕末の騒乱を伝える歴史史料などで構成」されており、主として徳川記念財団所蔵の貴重な品物や史料が展示されていましたが、特に私が見たかったのは天璋院が慶応4年7月9日(1868年8月26日)に輪王寺宮公現法親王宛に出したという書状でした。 この書状のことは、2008年3月21日の「南日本新聞」の文化欄に載った東京展の紹介記事で知ったのですが、同記事によりますと、天璋院が輪王寺宮に「幼い天皇をだまして戦争を続ける薩長の逆賊を『御征伐』してほしいと、『徳川家再興の一心』から訴えている」内容の書状が展示されているというのです。なお、天璋院がこの書状を送った相手の輪王寺宮は伏見宮邦家親王の第九子で、江戸無血開城と徳川慶喜の処遇に不満を抱いた旧幕臣たちが彰義隊を結成して上野の山に立て籠もったときに寛永寺の山主をしており、彰義隊から盟主にかつがれています。さらに上野戦争で彰義隊が新政府軍に敗れたときには、彼は東北に逃れて仙台藩に身を寄せ、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されています。 天璋院がそんな人物にどのような内容の書状簡を送ったのか、大いに興味を持ちましたので鹿児島展で展示されているこの書状の実物(ただし「天璋院書状写」とのことで、現在は仙台市博物館が所蔵しているそうで)を確認することにいたしました。また書かれている内容につきましては、同展示会で販売されていました図録の付録「天璋院 篤姫展 釈文一覧」に活字化されていた「天璋院書状写 輪王寺宮公現法親王宛 慶応四年七月九日」の重要部分を家に帰ってから辞書を引いて調べることにしました。それで、今回はその慶応4年7月9日(1868年8月26日)に出されました「天璋院書状写 輪王寺宮公現法親王宛」の重要部分を紹介したいと思います。「(前略)扨(さて)上野一条乃儀ハ追々承り候処、第一勅額も御座候中堂山門を初、其外江炮発致御本坊迄焼払ひ候段、薩州ハ勿論其他諸家二至迄官軍と相唱候者ニ有之間敷振舞、何共可申様御座無、悪逆不法の事ニ御座候、右二付私事女儀とハ乍(ながら)申、何分黙止居かたく候まゝ委細書取を以江府大総督汀品々申立候処、取扱候役々兎角に差止メ、如何様申談候ても更ニ相貫き不申、扨々(さてさて)誰あって理非を相糺し候者も無之と只々落涙のミに御座候、右之次第故徳川家之義ハ高七拾万石被下候へとも、此末の処先以如何成行可申哉も難計、夫ニ付候ても北国筋諸侯の義ハ実々忠義之程頼母敷感し入候事二御座候、何卒天の御恵ミ神仏の御助力を以銘々忠節之本意相貫き、徳川家再興相成候様昼夜夫のミ祈念致居候、右二付而ハ先頃上野御一条と申其外種々不法の事のミ相募り候折柄、容易に戦争も相鎮り不申、薩長を初かゝる逆意を働き候も畢竟天子之御幼冲を侮り、銘々私慾をほしひまゝに致候より大乱と成行候事ニ付、迚(とて)も右逆賊を相手二致居候てハ、際限も有之間敷と被存候間、乍恐其御所様思召を以会津・仙台両家等江鎮撫の職掌をも被仰付候様二者相成間敷哉、左候上ハ右両家へ属服致候者ハ相ゆるし、逆意を張り妨等致候向ハ御征伐被為仰候様御叡断之程、偏(ひとえ)ニ希度(ねがいたく)存候、ヶ様之義、申上候も憚多く御座候へとも、只々徳川家再興之一心より思召之程も不顧申上候、(後略)」< 上の天璋院の書状を私なりに要約しますと次のようになると思います。 彰義隊が新政府軍と戦った上野戦争では勅額が掲げられていた寛永寺の中堂山門や本坊に砲撃が加えられて焼き払われましたが、その行為は薩摩藩やその他の藩によるものであり、とても自らを官軍と唱える者たちの振る舞いと言えるものではなく、悪逆不法の行いと言えます。この件について、私は女ではありますが黙視できず、詳細を文書にして江戸の大総督に訴えましたが、管轄の役人達がなにかと邪魔をして意見が通らず、理非を正してくれる者など誰もいないと涙を流しておりました。このような情況のなか、徳川家は70万石となり、これでは将来どうなることかと不安に思っておりました。しかし、北国筋諸侯は実際に忠義を守っておられ、頼もしく感じました。どうか天のお恵み、神仏のご助力によって各自が忠節の本来の目的を達成され、徳川家再興が実現できますようにと昼夜祈念いたしております。このことにつきましては、この前の上野戦争やそれ以外にもいろいろ不法のことが増えている情況のなか、容易に戦争は収まらず、薩長を始め謀反を企む連中は結局は天子が幼いと馬鹿にして各自が勝手に私欲をほしいままにすることから大乱となっておりまして、とてもこのような逆賊を相手にしていましても際限がないと思いますが、あなた様(輪王寺宮)が会津、仙台両藩等に鎮撫の役目をもし与えられ、これら両藩へ服属するものは許し、謀反の心を起こして抵抗するものは罰することをご決断されますことを偏(ひとえ)にお願いいたします。このようなことを申し上げますことは憚り多いことと思いますが、これもただただ徳川家再興を願う一心からあなた様のお考えを顧みずに申し上げるのでございます。 輪王寺宮に宛てたこのような天璋院の書状は、西郷隆盛に徳川家存続のための嘆願書を出してから4ヵ月ほど後に出したものであり、慶応4年4月11日(1868年5月3日)に江戸城が無血開城されてからは3ヶ月と23日後経った後に書かれたものですが、その間にどのようなことがあったのでしょうか。4月29日(1868年5月21日)には田安亀之助による徳川家宗家の相続が認められています。しかし、5月15日(1868年7月4日)の上野戦争では徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であった上野の寛永寺が新政府の軍によって焼き払われています。この寛永寺には天璋院の亡き夫である13代将軍・家定徳川家定も祀られていたのです。さらに5月24日(1868年7月13日)に明らかにされた徳川宗家の石高は500万石近くあったものを70万石に大減封するというものでした。前田の102万石、島津の77万石にも及ばないものであり、しかも封土は駿河に移すというものでした。 天璋院は、上野戦争での新政府軍による徳川家菩提寺の寛永寺に対する「悪逆不法」の振舞に対してのみならず、新政府の徳川宗家に対する「此末の処先以如何成行可申哉も難計」ような処遇に非常な不安と憤りを感じたようです。江戸の大総督に訴えても埒が明かず途方に暮れていた天璋院でしたが、東北に逃れて会津、仙台等の「北国筋諸侯」の盟主となって新政府軍との抵抗を続ける輪王寺宮の消息を知り、藁にもすがるような思いで輪王寺宮宛に「天子之御幼冲を侮り、銘々私慾をほしひまゝに」している逆賊を鎮撫し、徳川家を再興してもらいたいとの願いを書き送ったのです。しかし、天璋院の期待も空しく、東北諸藩はつぎつぎと新政府軍に敗れ、慶応4年9月22日(1868年11月6日)には会津若松の鶴ヶ城も降伏開城し、そのときに輪王寺宮も謝罪嘆願書を提出しています。
2008年09月13日
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今夜(9月7日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第36回目のタイトルは「薩摩か徳川か」でした。薩摩の島津久光(山口祐一郎)が大砲や鉄砲で武装した多数の兵を引き連れて京に上り、幕政改革を唱えて岩倉具視(片岡鶴太郎)を通じて朝廷に松平春嶽(矢島健一)と一橋慶喜(平岳大)をそれぞれ幕府の大老と将軍後見職に就かせることを建白したため、江戸城内では薩摩出身の天璋院(宮崎あおい)がこの薩摩の久光の行動と密かに繋がっているのではないかとの懐疑の眼が向けられることになります。 篤姫ドラマの原作とされている宮尾登美子『天璋院篤姫』では、「久光の動きについて、篤姫が背後から推し進めているように周囲に見られるのはこの際、迷惑だと思われる」等の短い記述がいくつかあるだけだったこともあり、私は薩摩の久光の率兵上洛が江戸城大奥にいる天璋院の立場を悪くし苦境に陥いるなんてことはほとんど考えてもいませんでした。しかし、彼女が先代の薩摩藩主の斉彬から要請を受けて一橋慶喜を将軍継嗣に推していたことはおそらく江戸城内では周知の事実だったでしょうから、今回の篤姫ドラマで詳細に描かれたように、久光の上洛の動きが天璋院と裏で繋がっているとする疑惑が浮上し、そのために天璋院が大いに苦悩したことも実際にあったかもしれませんね。 ですから、今回のドラマにおいて、これまで信頼を寄せてくれていた家茂(松田翔太)からも疑いの言葉を投げかけられたため、その心を深く傷つけられた天璋院が庭に薩摩の品々を持ち出してつぎつぎと火にくべ出し、慌てて駆けつけて疑ったことを謝罪する家茂に彼女が「私は徳川の人間です。徳川のことだけを考えて生きる。薩摩など知らぬ。これはその証(あかし)です」と涙ながらに訴える場面には視ている私も自然と目頭が熱くなってきました。天璋院が徳川の人間として必死に生きようとした姿を考察する場合、当時の女性に求められた道徳観だけで理解するのではなく、今回のドラマに描かれたように、幕末という時代に大奥の大御台所となり、そのために薩摩出身の人間としての複雑で困難な状況に立たされた女性の一つの身の処し方として見ることもまた必要なのではないかと思いました。 さて今回のドラマでは、京都所司代の殺害を計画した有馬新七(的場浩司)たち薩摩藩士9名が同じ薩摩の藩士たちから上意討ちされた寺田屋事件の惨劇がこれまでの篤姫ドラマとは非常に異なるリアルなタッチで描かれていましたが、久光がどのような考えから寺田屋の事件に対処したのかを史実に基づいてちょっと検討してみたいと思います。 桜田門外の変で幕府大老の井伊直弼が殺害されてから以降、尊皇攘夷派の過激分子によるテロ活動は全国で猛威を振うようになります。万延元年12月5日(1861年1月15日)には薩摩藩士の伊牟田尚平らがアメリカ公使館員のヒユースケンを襲って殺害しており、翌年の文久元年5月28日(1861年7月5日)には水戸浪士が江戸東禅寺のイギリス公使館を襲撃しています。さらに文久2年1月15日(1862年2月13日)には幕府老中の安藤信正が水戸浪士の平山兵介らの襲撃をうけています(坂下門外の変)。 このように尊攘派のテロの嵐が吹き荒れるなか、坂下門外の変に恐怖した摂家の近衛忠房から島津久光に上洛要請の書簡が届き、久光はついに文久2年3月16日(1862年4月14日)に鹿児島を出発して率兵上洛の行動を開始します。ところがなんと、この久光の上洛計画に対し尊皇攘夷派の過激分子たちが自分たちの目指しているものと重なると勝手に夢想し、大いに期待を寄せたのでした。そのことについて、佐々木克『大久保利通と明治維新』(吉川弘文館、1998年8月)にはつぎのように解説しています。「京、大坂に集まってきていた、このような尊撰急進派の志士たちは、久光の率兵上京を自分らが夢想する『義挙』とむすびつけて考えていた。藩主ではなく、藩主の父であるにすぎない久光が、多数の兵を率いて上京するのは、たんに参府のためなのではなく、自分らの意志と通いあうような、なにか他に重要な目的があるのだとみて、久光の上京に期待をかけたのである。/彼らが考えた義挙とは、たとえば平野国臣の『回天三策』によれば、久光に勅命を下し、京、大坂の幕吏を退け、幕譴をうけた中川宮朝彦親王の幽閉を解き、大坂に行幸して幕府の罪を間うというもので、この策を実現させるために、志士の決起があるというものである。幕府批判ということでは久光と通じる面があるが、ことの成否とその後の見通しに関していえば、かつての大久保らの突出計画と大差のないものだった。」 ところが、島津久光は薩摩から上洛する直前の文久2年3月10日(1862年4月8日)につぎのような内容の諭書を藩内に出し、「尊王壊夷を名とし、懐慨激烈之説を以って四方ニ交を結ひ、不容易企をいたし」ている連中とひそかに関係を持っようなことがあってはならないとしていたのでした。この久光の諭書は佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年10月)に紹介されています。「去ル午年、外夷通商御免許以来、天下之人心致紛乱、各国有志と相唱候者共、尊王壊夷を名とし、懐慨激烈之説を以て四方ニ交を結ひ、不容易企をいたし候哉二相聞得候、当国ニも右之者共と私二相交、書簡往復等致候者有之哉二候、畢竟勤王之志ニ感激いたし候処より、右次第二及候者筈ニ候得共、浪人軽卒之所業ニ致同意候而は、当国之禍害ハ勿論皇国一統之騒乱を醸出し、終ニは群雄割拠之形勢二至り却而外夷術中二陥り、不忠不孝無此上義二而、別而不軽事と存候、拙者ニも公武之御為聊所存之趣有之候付、以来当国之面々右様之者共と一切不相交、命令二徒ひ周旋有之度事ニ候、若又私之義を重んし絶交いたし難き者共有筋ニ申出候は、其訳ニ応し何様共可致所置候、尤此節之道中筋、且江戸滞留中、右体之者共致推参候共、私二面会致間敷、乍然無拠訳二依り致応接候共敢て不致議論、其筋之江談判いたし候様返答可致、乍此上不不勘弁之族於有之は、天下国家之為実以不可然事候条、無遠慮罪科可申付候事」 久光はこの「諭書」で、尊王壊夷を名目にして大変な企てをしている浪人たちがいるようであるが、薩摩藩の人間がもし彼等の軽率な行為に同調するならば、薩摩藩の禍となるだけでなく日本国全体のまとまりを失わせてて騒乱を生み出し群雄割拠状態にしてしまうであろうとし、それは外国の思う壺となり、不忠不孝この上もないことであるとしています。そして、彼等と交わることを一切禁じるとともに、今度の旅の道中や江戸滞在中に止むをえず彼等と接触せざるを得ないときは、議論せずに藩のその筋の者と談判してもらいたいと返答するようにせよと指示しているのです。 ですから、薩摩藩士の有馬新七、柴山愛次郎たちが久留米藩士の真木和泉らと伏見の薩摩藩船宿の寺田屋に集まり、京都所司代を襲撃して「義挙」のさきがけをなそうと準備していたことは、久光のこの「諭書」に反する不忠不孝の行為とみなされたのは当然のことでした。 さらに前掲の佐々木克『大久保利通と明治維新』によりますと、文久2年4月16日(1862年5月14日)、久光に対して孝明天皇から不穏の企てのある浪士の鎮静にあたるようにとの勅諚が伝達されており、尊攘派の過激分子のテロ活動に激しい嫌悪感を示していた孝明天皇の信頼を得るためにも断固たる措置を取らねばならなかったようです。そのことについて佐々木克の同書はつぎのように解説しています。「十六日昼、久光が近衛邸に参上、権大納言近衛忠房と中山忠能(議奏)、正親町三条実愛(議奏)に面会して、『公武合体』など国事周旋のために上京したことを告げ、あわせて朝威振興、幕政改革について建白した。/両議奏はそれを孝明天皇に執奏した。その結果、同日夕、久光に滞京して、不穏の企てのある浪士の鎮静にあたるようにとの勅諚が、両議奏より伝達された。これで久光の京都での運動が、公的に許可されたことになる。翌日、久光は京都の藩邸に移る。こうして寺田屋の変が起こされる背景が準備されていったのである。」 ところで、今夜の篤姫ドラマでは、有馬新七が誠忠組に宛てた遺書を残しており、久光が彼等に対して断固たる処罰を行うことを見越しており、そのことによって久光が朝廷の信頼を得ることを期待しての覚悟の挙兵を行おうとしたことが書かれてあったとしています。勿論、そんな遺書などは実際に存在していないと思いますが、有馬たちがそれに近い考えで挙兵の計画を行ったとする説はあったようです。 芳即正『島津久光と明治維新』(新人物往来社、2002年12月)によりますと、有馬新七、田中謙助、柴山愛次郎、橋口壮助、田中河内介、小河一敏が、寺田屋で挙兵の計画を話し合った時の模様が小河の『王政復古義挙録』につぎのように記されているそうです。「いまは普通のやり方で悪役人を除くことはむずかしい。だから兵を挙げて殿上(九条関白)と所司代を除くほかはない。いまの時代非常のことをしなければ、尊王壊夷の道は立たない。ここで和泉殿(久光)の命を待たないで奸賊を倒せば、それをきっかけにきっと和泉殿が『大処置』をされるに違いない。この挙は和泉殿の意に背くようだけれども、実際はこの挙を実行してこそ和泉殿の『功業』も大いにあがること間違いなし。だから和泉殿への忠節もこれ以外にない。」 うーん、寺田屋に集結して挙兵を計画した連中の意図は、久光の上洛後の行動を助けることにあったというのですが、本当にそうだったのでしょうか。もし彼等の計画が実行に移されたら、薩摩藩は幕府から厳しいお咎めを受けるだけでなく、天皇の信頼も完全に失い、久光の上洛計画は完全に失敗に終わったことと思うのですが、みなさんはどう思われますか。
2008年09月07日
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