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吉野山から熊野本宮大社を結ぶ大峯奥駈道は
熊野古道のひとつのルートである。
修験道の開祖・役行者によって開かれた。
大峯奥駈
道
は、ほとんど
奈良県を通るので、ここでの紹介は控える。
今日紹介したいのは、同じ役行者が開いたとされる、
葛城二十八宿である。

和歌山県と大阪府の県境を和泉山脈が横たわっている。
山脈というくらいだから、尾根伝いと言っても比較的なだらかだ。
西側は紀泉高原と呼ばれ、
近隣の小中学校の遠足に使われるハイキングコースがある。
また、それに続き、
岩湧山⑮界隈から、奈良の二上山㉖界隈にかけて
ダイヤモンドトレールと呼ばれる、
約 45km
の自然歩道もある。
歩くのが大好き、でも危険な山はちょっと、と言う人にはおすすめだ。
28か所の修験場があり、修験者はそれを辿り、修行を重ねていくのだが、
前述したように、その修験場を避けて辿ることも可能なのだ。
一方、
大峯奥駈道は、私は行ったことないので知らないが、
ネットで調べると、そうもいかない場所が多くあるという。
どうして、役行者はこのような緩やかな山並みに修験場を作ったのか?
それも
大峯奥駈道を開く、たった6年前にである。
こんなにたて続けに修験場を作るなんて、
現在で考えると、スポーツクラブが施設を増設しているように思える。
もちろん、実は役行者が開いたというが、それは格をあげるため。
というのもあるかもしれないが、私はこう考えたりする。
これは、実験であり、訓練場ではないのかと。
各修験場には小屋のようなものがあり、人が数名常駐している。
小屋間は人が50Kg程度の荷物を担いで運ぶ疲れない距離程度。
紀ノ川の河口に荷物が着くと、それを背負い具に小分けして、
人足が担いで、山中に入り、尾根伝いに奈良へ運ぶ。
それぞれが担当するのは、修験道場間で荷物を手渡すと元に戻った。
実際、葛城氏は朝鮮半島から鉄素材である鉄鋌を輸入し、
紀氏が紀ノ川河口まで運んできている。
河口から五条あたりまで水運があり、舟で運んだのかもしれない。
しかし、川の流れなどにより、簡単ではなかったようだ。
舟に縄を繋ぎ、両岸から人手で引っ張って川を遡ったとも聞く。
馬が日本に入って来たのは、5世紀中頃以降である。
このことを考えると、川の水の量により、
上述したように、人足による、バケツリレー方式による運搬が有利だと思えるのだ。
役行者が
葛城二十八宿を開いたのは、
斎明天皇
7
年(
661
)の頃である。
その頃になると、馬の使用もあったし、
水運の主流は、大和川ルートだったかもしれない。
必要とされたのはそれ以前だ。
私は思うのだが、
葛城氏-紀氏によって紀ノ川の水運が管理されていた時代。
すでに、バケツリレー方式の人足による、
宅急便ルートがあったのではないかと思う。
そう思う理由は、
葛城山と呼ばれる山が2つある。
一つは、⑨の上の和泉葛城山。
もう一つは、㉔の左側の大和葛城山。
和泉葛城山の和歌山寄りで紀ノ川近くに、紀伊国国分寺がある。
紀伊国国分寺辺りまでは川幅の広く水量も多く、舟が遡るのも容易だった。
大和葛城山の奈良側には葛城氏の本拠地がある。
両者を結ぶルートが川と山と2つあってもおかしくないのではないだろうか。
ここまで来ると、
おいおい、紀ノ川沿いに平野部を通る道があるではないか、
尾根伝いの歩きにくい道を通るのに、どんな理由があるのか。
という人もいるだろう。私もそうだ。
ただ、平野部が歩きやすいとは限らない。舗装道路があるわけではない。
それに強盗に襲われるかもしれない。
平野部だと、四方から狙われる。狙う場所も多い。
尾根伝いだと、待ち伏せにも困るし、防御しやすいと考えられる。
仮に
バケツリレー方式による
宅急便ルートがあったとしよう。
それでは役行者はわざわざ、
葛城二十八宿を何故開いたのか。
一つは、修験者を山に配置して警護に当たらせるため。
その警護の修験者の日頃の鍛錬のため。
私はさらに、本来は
、
大峯奥駈道に
バケツリレー方式による
宅急便ルートを整備したかったのだが、
大峯奥駈道は険しい紀伊山地の中にあり、
ただ、辿るだけでも大変で、鍛えてない者は危険だった。
それでまず、比較的なだらかな山でバケツリレー方式の宅急便ルートを
確立できるか実験した。
後に、 大峯奥駈道ができて、
そこに送り込む人足の訓練場として、 葛城二十八宿を用いた。
しかし、ここに大きな疑問が残る。
大峯奥駈道、
葛城二十八宿の宅急便ルートが何故必要なのか。
葛城氏が鉄の加工をしている頃は曲がりなりにも、
葛城二十八宿は利用できたかもしれない。
しかし、葛城氏は5世紀中頃に滅んでいる。
それに置き換えてかどうかは定かでないが、
飛鳥池周辺に一大工業地帯が出現する。
いわゆる飛鳥池工房遺跡である。
天武・持統天皇時代の7世紀後半から8世紀にかけての遺跡と分かっている。
思い出して欲しい、 葛城二十八宿を開いたのは、
斎明天皇
7
年(
661
)の頃である。
飛鳥池工房遺跡では、工房ごとに、金銀銅鉄などの金属加工、
ガラス・水晶・琥珀などの玉類加工などの種々の工業の加工場が配置されていた。
とある、それでは貴金属加工の材料はどこからどのように運び込んだのか。
私はその有望な原産地は、熊野本宮大社の東北東10Km地点にある
紀州鉱山だと考えている。紀州鉱山は主力の銅だけでなく、
金銀など多種の鉱石を産出する珍しい鉱山だった。
紀州鉱山の歴史は古く、
奈良時代頃に遡る。
大宝三(七〇三)年に紀伊の国から朝廷に献上された銀も、
この鉱山の楊枝産出という説があり(『紀伊続風土記』『紀伊南牟婁郡誌』)、
また東大寺の大仏を建立する際にも、大量の銅が供出されたとの記録が残っている。
じゃあ、どのようにして鉱石を運んだのか。
紀州鉱山近くの北上川を利用して舟に乗せ、川を下った。
やがて、熊野川に流れ込み、下流の熊野速玉大社に集められ、
そこからは、海用の船に乗せ換え、岸伝いに紀ノ川河口まで持ってくる。
そこからは、かつて紀氏と葛城氏の手によって運営されていた。
ルートをたどり
奈良南部に運び込まれた。
それは、前述した様に、紀ノ川を五条あたりまで遡るルートと、
葛城二十八宿のバケツリレー方式宅急便のルートがあったと思われるのだ。
やがて、
葛城二十八宿のバケツリレー方式宅急便のルートが有効なら、
大峯奥駈道ルートは舟/船を使わなくても、人だけで運ぶことが出来る。
一見、ありえないようだが、険しい山に入り過酷な修行をしていたのなら、
背負い具を担いで山歩きするくらいできそうである。
以上、初めにも言ったが、これは私個人の勝手な思い込みである。
しかし、こんな夢のような話を想像しながら、
葛城二十八宿やダイヤモンドトレールを
歩いてみるのも楽しいと思う。
葛城二十八宿を巡る 犬鳴山修験道 [ 垂井俊憲 ]
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