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フランケンベリー・キャンプ、クリアベリー・リング、ソールズベリー大聖堂、オールド・セイラム、ストーンヘンジと続く古代測量ライン「オールド・セイラム・レイ」は、その後どこへ続くかというと、依然ちょっと紹介したオールドベリー・キャッスルに至ります。これがそのイラスト。エイヴベリーの遺跡の南西にある鉄器時代のヒル・フォートです。以前紹介したのは、こちら。左の丘の上にあるのがオールドベリー・キャッスルです。非常に目立つ場所に測量点・拠点を作ったことがこの絵からもよくわかりますね。まさに丘と丘を結ぶタカミムスビを古代人たちは実践していたのです。
2018.05.19
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オールド・セイラムがストーンヘンジを建造した人たちと同じ人たちが加工した丘であることは、間違いありません。その根拠は、ストーンヘンジとオールド・セイラム、それにクリアベリー・リング、フランケンベリー・キャンプといったヒル・フォートが一直線上に並んでいることです。明らかに狼煙の直線ルートです。既に説明したように、ヒル・フォートは鉄器時代構造物ですが、それ以前の新石器時代から丘が加工されて使用されていた可能性が高いわけです。それが約5000年前。彼らはおそらく、遠くからでも目立つ丘の上にさらに小山を築いたりして、その加工丘を測量点並びに光通信の拠点として使ったのだと思われます。私も2014年の5月にオールド・セイラムを訪れました。5000年の歴史があると書かれていますね。実に見事な環状構造物です。砦の中はこうなっています。さらに内側に砦がありますから、二重構造になっているわけですね。その最も内側の砦の中は次のようになっています。ここに古代ブリトン人の狼煙台があったはずです。最後はオールド・セイラムの遠景。この丘から、ストーンヘンジ、フィッグスベリー・リング、クリアベリー・リング、フランケンベリー・キャンプへと狼煙通信が行われいたのではないでしょうか。ちなみに13世紀に建てられたソールズベリー大聖堂もこの直線上にあります。後世の人々も、このラインの重要性に気づいていたわけですね。
2018.05.17
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ステュークリーが描いたオールド・セイラムの見取り図です。まさに要塞という感じがしますね。この丘は紀元前3000年ごろから拠点として使われ、鉄器時代にはヒル・フォートに変身。その後、ローマ軍の拠点となり、11世紀のノルマン王朝時代には、丘を加工利用して城塞を築く「モット・アンド・ベイリー」の城が建造されました。すなわち、「マーリンの丘」ことマールボロの丘とほぼ同じ変遷をたどったわけです。しかしながら、マーリンの丘と同様に、この丘を最初に測量点兼重要拠点として利用したのは、ストーンヘンジを築いた、5000年前のブリトン人でした。その根拠を次に説明いたしましょう。
2018.05.16
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ステュークリーが描いたオールド・セイラム。左奥にあるのが、ソールズベリーから三キロ北にある鉄器時代のヒル・フォート(丘を加工した砦)「オールド・セイラム」です。尖塔(ソールズベリー大聖堂)があるのがソールズベリーで、オールド・セイラムの手前の村がストラットフォード。ご覧のように、非常に目立つ丘です。間違いなく測量点であるわけです。
2018.05.15
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ステュークリーが描いた、新石器時代の周壁遺構とみられるフィッグスベリー・リングは、私も2014年5月27日に訪問しました。そのときの写真です。左奥に見える土手がフィッグスベリー・リングです。近づくと、このような感じです。ステュークリーのイラストにも描かれていた、土手の切れ目が見えますね。土手に上ってリングの中を撮影します。内側にはもう一つのリング状の溝があります。土手からオールド・セイラムの方角を見ると・・・中央奥にオールド・セイラムの城壁である土手が見えます。アップで見てみましょう。このようにオールド・セイラムは、遠くからでも目立つ拠点であったことがわかるわけです。次はオールド・セイラムのイラストを紹介しましょう。
2018.05.13
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ウィルトシャー州の南にあるフィッグスベリー・リングスです。オールド・セイラムの東4キロほどのところにある鉄器時代のヒル・フォートですが、おそらくそれ以前から周壁遺構として存在していたのではないかとみられています。右奥にあるBが、同じく鉄器時代のヒル・フォートであるオールド・セイラム。ここにも新石器時代から人が暮らしていたことがわかっています。中央奥のCがニュー・セイラムです。このステュークリーのイラストからも、ヒル・フォート同士で狼煙などをあげて連絡を取り合っていたことが偲ばれますね。
2018.05.11
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聖エドモンドの丘の人工マウンドが、なぜ人工だとわかるかというと、冬至の朝、グラストンベリーー・トールに朝日が昇るのをまさに観測できる場所であったことだけが根拠ではありません。実はこの丘が観測点であると同時に、測量点であったことが次の事実によってわかるからです。グラストンベリー・トールから南東に約23キロ離れた場所にあるカドベリー・キャッスルが、そのもう一つの証拠となります。まずは、ステュークリーが描いたカドベリー・キャッスルをご覧ください。まるでデコレーション・ケーキのように何重にも人工の土手が張り巡らされていることがわかります。主に鉄器時代に造られた環状遺構ですが、新石器時代からこの丘が重要な拠点として利用されていたことがわかっています。後にローマ軍や中世の時代にも城や砦として使われました。ステュークリーのイラストには「キャメロット城」と記されていることからもわかるようにアーサー王の宮廷があったところではないかという伝説のある城塞跡でもあります。で、重要な点は、聖エドモンドの丘のマウンドとグラストンベリー・トールの頂上を結んだ直線が、誤差なくこのカドベリー・キャッスルの上を通っていることです。間違いなく、古代測量集団が一直線上に配置した遺構であることがわかります。当然、聖エドモンドの丘のマウンドも人工的に造られた「動かぬ証拠」になるわけですね。
2018.05.09
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グラストンベリー・トールの七段の階段構造の謎に迫ったニコラス・マンの本がこちらです。この表紙の写真を見てもわかるように、グラストンベリー・トールは見事な階段構造になっています。そして、マン氏が主張する、その階段構造の理由がこちらです。これは冬至の日の朝、聖エドモンドの丘にある、人工物とみられるマウンドからグラストンベリー・トールを見たイラストです。太陽がまさに、七段の斜面を順々に昇っていく様が描かれています。マン氏によると、現在の太陽は、このイラストよりも少しだけ高い放物線を描きますが、紀元前2000年には、太陽はもちょっと低い放物線を描き、ちょうど階段の段差のところで顔を出すように設計されていたのだと言います。太陽が丘の麓に現れてから、頂上まで登りきるまで約30分。約1・1キロ離れた聖エドモンドの丘の「人工マウンド」に登った古代の人々は、冬至の日の出と共に始まる、見事で神秘的な天体ショーに感嘆の声を上げたのではないでしょうか。次はこの聖エドモンドの丘の「人工マウンド」について説明しましょう。
2018.05.08
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ステュークリーもイラストで取り上げたグラストンベリー・トールの秘密を説明いたしましょう。皆さんもご存知のように、グラストンベリー・トールの丘には中心軸があります。その中心軸が、いわゆる聖マイケルラインと名付けられたレイ・ラインと一致するわけですね。それを示したのが、下の図です。拙著『竹内文書と平安京の謎』の221ページから借用しました。もちろん元の下書きは、私が描いたイラストです。聖マイケル・ラインがグラストンベリー・トールと、そこから17・3キロ離れたバロー・マンプという二つの加工丘の中心軸を見事に貫いていることがわかりますね。ですから、バロー・マンプの丘の上からグラストンベリー・トールを見ると、綺麗な三角形の山に見えるわけです。こちらがその写真です。で、面白いのは、グラストンベリー・トールに施された七段の階段構造にあります。これは実に人工的に造れた階段構造であることがわかっているんですね。なぜ、そのような階段構造が造られたのかも、地元の研究家ニコラス・マン氏の研究でわかってきました。次はそのことを説明しましょう。
2018.05.07
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ステュークリーが描いた聖地グラストンベリー・トールとグラストンベリー大寺院です。グラストンベリーは、キリストの死体を墓に葬ったとされるアリマタヤのヨセフが海を渡ってやって来て、イギリスで最初の教会を建てたという伝説がある場所です。なんでもヨセフが杖を大地に突き刺したところ、その杖が大きなサンザシの木に育ったとか。アーサー王の伝説の地としても有名です。イギリスのパワースポット中のパワースポットと言われています。ここにも古代の人々が作った面白い仕掛けがあるんですね。それを次にご紹介しましょう。
2018.05.06
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ステュークリーの時代にはできなかったことですが、現在は衛星写真という文明の利器を使って遺跡の配列がどのようになっているかが、手に取るようにわかります。デヴィルズ・アローズの三本の立石の配置も同様です。この配置には意味があったことがわかっています。そのことを、私が2013年のムー五月号で書いた記事を引用しながら説明しましょう。まずはこちらをご覧ください。これは私が作図したものを、ムーの編集部に頼んで綺麗に作ってもらったものです。ちょっとわかりづらいと思いますので、拡大して見ましょう。まず左下の部分。上の図は、デヴィルズ・アローズの立石の並び具合を描いたものです。それぞれの立石には1、2、3と数字が振ってあります。実は、三本の列石は完全な直線ではなく、微妙にずれているんですね。でもそのずれに意味があるのです。それを示したのが次の図です。ずれた二本の直線の先には、二つ以上のヘンジ(土塁と溝からなる環状構造物)が連なっていることを示しています。特にソーンボロー・ヘンジ群の三つのヘンジの並び方を示したのが、右上の図です。この550メートル間隔で並ぶ三つのヘンジも完全な直線ではなく微妙にずれているのですが、ヘンジ(北)とヘンジ(中央)の中心を結んだ直線はカナ・ヘンジに、ヘンジ(北)とヘンジ(南)の中心を結んだ直線はデヴィルズ・アローズに至るわけです。このように古代ブリトン人は、10~20キロという距離などものともせず、大地に正確に直線を描くことができたことが、ここからもわかるわけですね。
2018.05.05
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ステュークリーが描いたデヴィルズ・アローズが実際にどのような巨石遺構なのかを写真で紹介しましょう。デヴィルズ・アローズの三本の立石は南南東から北北西に一列に並んでいます。で、これが一番南にある立石です。今は木立の中にそそり立っており、高さは約6・9メートルもあります。残りの2本の立石はこちら。右の立石が真ん中の立石で、これも高さが約6・7メートルと高いです。一番北にある立石が、左の木の下にあるもので、この高さは約5・5メートルあります。で、真ん中の立石付近から一番南の立石を見るとこうなります。左が真ん中の立石で、右の木立の中に南の立石が立っているのが見えます。ステュークリーのスケッチが、かなりコンパクトにデフォルメされていることがわかりますね。彼のスケッチでは10~20メートル間隔で立石が並んでいるかのように描かれています。ですが、実際は南の一本目から真ん中の二本目までの距離が約116メートル。二本目から北の三本目までの距離が約70メートルあります。ありのままに普通のキャンバスに描いたら、三本の立石は米粒ほどに小さく描かなくてはいけませんから、致し方のないことであったと思います。特徴を捉えてスケッチをするために、ちょっと漫画チックになってしまうというわけですね。
2018.05.02
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