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オーブとはわからずに撮影していた写真とは別に、撮影した写真を見た瞬間に霊界因子とも呼べるオーブだとわかる場合もあります。そのオーブであると撮影した直後にわかった初めての写真がこちらです。2008年5月24日に位山の蔵立石の写真を写したときの写真ですが、中央の蔵立石と書かれた木製の立て札に、燦然と輝く円い光が写り込んでいます。どうしてこれがすぐにオーブだとわかるかというと、太陽の位置に関係なく、フレームの中央に、しかも立て札の「蔵立石」の「蔵」の上に意図的に現れているからです。それに輝き具合が全く太陽光の乱反射とは異なります。まるでそこに丸い鏡があるかのように光っていますが、当然、そのような反射物はありません。つまり自らが光を放つ物体であることがわかるわけです。このとき私は、私とともに位山に飛べとの啓示を受けたスピリチュアリストのひめのゆめさんと喜天道さんの二人と、先に紹介した位山を開いたとされる都竹峰仙さんの息子・昭雄さんの計4人で位山に登っています。そして中腹の蔵立石のところで撮影した写真がこれだったわけです。写真を見た昭雄さんは、山から下りてきた後、金星人の精霊とチャネリングをして、このとき写り込んだオーブの意味を聞いてくれました。その時のチャネリングの内容がこちらです。質問:布施泰和さんが蔵立岩の所で写した写真に御神霊が出ていますが、これは?答え:このひかりのごしんれいわとうといこうおのみことがくらいやまでかつやくされていたときにふせわそのときのやくめでうとうのはたらきとしてはねらいんのしごとおしたのであった◇(訳)この光の御神霊は、尊いコウオノミコトが位山で活躍されていたときに、布施はそのときの役目で「うとうの働き」(神事)として羽根ラインの仕事をしたのであった。質問:位山の光岩の所で写した写真にも幾つかのオーブが写っていますが?答え:このひかりのおーぶはふせがこうとうのじだいにこのひかりいわでおいのりおしたときのえねるぎーでありそのときわふせわとうといこうおのみことのときでありうちゅうとのこうしんおここでおこなっていたそのときのめっせーじではねらいんのことおかくにんしていた◇(訳)この光のオーブは、布施が「コウトウの時代」(古代の尊い時代)にこの光岩でお祈りをしたときのエネルギーであり、そのときは、布施は尊いコウオノミコトの時であり、宇宙との交信をここで行っていた。そのときのメッセージで羽根ラインのことを確認していた。質問:今からどのくらい前の時代?答え:5000(訳)五〇〇〇年前。(続く)
2026.03.29
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私が本格的にオーブの写真を撮影できるようになったのは、2008年ですが、それ以前にオーブの写真を撮っていたことが最近わかりました。それが2007年2月27日~3月8日の台湾の旅でした。その写真がこちらです。場所は忘れましたが、おそらく航海の神様を祀る寺院の中の写真です。大小無数の半透明の光の玉が写っていますね。当時の私は、小学生のときに担任の先生がエクトプラズムの写真を見せても、「ただのゴミ」と言ったように、ただの埃かゴミが写ったのだろうくらいにしか思っていませんでした。今見ると、この写真の光の玉はオーブと呼ばれる霊界因子である可能性が非常に高いことがよくわかります。光の乱反射とは質感が全く違いますものね。もっと前に撮影したオーブも見つけました。こちらです。写真の右端にボヤっとした顔のようなものが見えなくはありませんが、それは別にして、この写真の中にも、半透明な霊的な光の玉がたくさん写っているように思われます。写っているのは私で、2001年の9・11テロがあった一週間くらい後に富山県平村の天柱石を訪ねたときに撮影しました。ずいぶん後になってから、結構オーブが身近に現れていたことが今ではわかるわけです。2010年からのオカルト人生についてのブログはこのオーブが見えるようになった話から再開することにいたしましょう。
2026.03.28
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その後私は、14年間務めた共同通信社を辞めてアメリカの大学院で勉強をすることになるのですが、ハーバード大学院でもジョンズ・ホプキンス大学院でもスポーツと勉強ができる優等生を演じ切りました。そのあたりのことは、以前書いたブログ「空白ばかりの日記帳」をご覧ください。結構細かく書いてあります。アメリカの大学院を卒業後、1999年に帰国して杉並区にあるテニス・クラブに復活すると、私の留守中にチャンピオンになっていた人を破って、シングルスのチャンピオンに返り咲きます。その後、クラブが売却されてクラブ自体が消えてしまったので、テニスの一線からは退きますが、ニューズウィーク日本版の経済ビジネス担当編集者を務めながら、遊びではテニスを続けました。それで、2008年に転機を迎え、スピリチュアルな人生へと大きく舵を切っていくのですが、その前に書き忘れていた出来事の幾つかを書き足しておきましょう。ニューズウィーク日本版の編集部は2004年4月に辞めた後、その年の8月22日に岐阜県の招待で、高山で講演をしています。そこで再会したのは、作詞家のAさん。スケジュールがタイトだったので、話はできませんでしたが、懐かしかったです。そして新しい出会いが、のちに『飛騨の霊峰位山』(今日の話題社)を書いた都竹昭雄さんでした。詳しい話は多分次の本に出てきますので、そちらをお待ちください。2004年11月21日に日本徐福会主催の文化論講演『徐福論――なぜ今“徐福”なのか』を聴きに行っていますね。始皇帝がご先祖であるとする秦氏の方々も多く出席されており、中には元首相の羽田孜氏もいらっしゃいました。第73世武内宿禰こと竹内睦泰氏が継承した『帝皇日嗣(帝紀)』によると、徐福の末裔がナガスネヒコですから、徐福の末裔が日本建国に絡んでいた可能性が極めて強いのではないかと思います。まあ、それが講演会のテーマの答えでしょうか。2005年6月11日には、日本サイ科学会主催の「清田益章講演会」に出席、初めて”念力”のよるスプーン切断を目の前で見ました。講演会後に取材のアポを取り付け、2005年8月に出版した『不思議な世界の歩き方』(成甲書房刊)に一章分入れていますね。2006年5月14日、ホテルマンから農業に転職した小学校時代の同級生の招待で、彼が福島・白河に作った農場開きに立ち合いました。アイヌの巫女であるアシリ・レラさんを呼んで土地を清めるアイヌの儀式があり、それに参加。結構面白い体験をさせてもらいました。同じ年の10月28日には、日本サイ科学会の「オーブとは何か」という総会に出席しています。この時初めて、オーブと会話をする人がいるということを知らされます。その話は2010年に出版した『異次元ワールドとの遭遇』(成甲書房刊)に詳しいのでご覧ください。また同年11月27日発売の「週刊プレイボーイ」の超古代文明の特集で、私のコメントが掲載されました。翌2007年2月27日~3月8日は、台湾に取材旅行に出かけています。その時撮影した写真にオーブが写り込んでいる写真を見つけましたので、次回はほかの怪しげな写真とともに、ご紹介できればと思っています。(続く)
2026.03.27
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大学でのことはもう省きましょう。基本的には「勉強も運動もできる優等生」という「世を忍ぶ仮の姿」は大学時代も貫きました。ほとんどの人は私がオカルティスト(神秘現象を体験し、それを研究する人)であるとは思わなかったはずです。むしろ頭の固い学者タイプの学生だったと思っていたのではないかと思われます。共同通信社の記者をやっていた時も、仕事を黙々とこなすまじめな記者と思われていたはずです。ただ時々、「古代日本にピラミッドがあった」とか「立山でUFO観測会」などの記事を書いていましたので、変わったやつだと思われていた節もあります。浦和支局時代の1987年には秋山眞人氏が編集長を務めていた『ボストンクラブ』にも、実名でオカルト現象について原稿を書いていましたから、知る人ぞ知るオカルトライターではありました。それでも本社の経済部に入って、旧大蔵省の財政研究会(記者クラブの名称)でサブキャップまでやらせてもらったということは、経済部の中ではまずまずの出世コースを歩んでいたといえると思います。前にも書きましたが、社内の部対抗軟式野球大会ではダブルヘッダー2試合を完投勝ちして、途中9連続三振まで奪っていましたから、一時期経済部ではヒーロー扱いされてもいました。もっとも社内部対抗野球の決勝戦が、私が会員となっている、杉並区のスポーツクラブのテニス大会の決勝戦(私がディフェンディングチャンピオンでした)と重なってしまったので、社内野球大会の決勝戦は投げられないと告げると、「裏切り者」とか、「テニスに魂を売った卑怯者」とか言われて罵られたうえに、実際に経済部が決勝戦で社会部に負けると「戦犯扱い」されたことを覚えています。この「裏切り行為」が、もしかしたら出世の妨げになっていたかもしれませんが、私は全く気にしていませんでした。肝心のテニスの決勝戦のほうは、別の杉並区のテニス・クラブで優勝したばかりの人と戦って何とか勝って優勝したのですが、非常に苦戦しました。というのも、一週間前の社内野球大会でダブルヘッダーを一人で完投したときに、普段使っていない左太ももの筋肉を酷使したせいで軽い肉離れを引き起こしてしまったんですね。肉離れを経験したのも人生で初めて。太ももを触ると、確かに筋肉の繊維が何本か切れて凹んでいるのがわかりました。その後、一週間運動をせずにいましたが、痛みが引かないまま決勝戦当日を迎えます。なるべく痛みが顔に出ないように努めて、ポーカーフェイスで試合に臨みましたが、だましだましのテニスで、まさに薄氷を踏む思いでなんとか勝ったというのが実情でした。大会二連覇――。この後、米国に行く前までに3連勝、つまり五連覇(1991~1995年)しましたから、テニスの強い新聞記者として、クラブでは名が知れることになりました。このクラブに、映画監督の長谷川和彦氏や亜細亜大学学長の衞藤瀋吉(えとう・しんきち)氏がいたわけです。前者がテニスのライバルで、後者が私のテニス・パートナーでした。(続く)
2026.03.25
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高校二年の時には卒業式の日に在校生総代として送辞を任され、卒業生に言葉を贈っています。私を選んでくれた先生の話によると、純粋に成績で選ばれたわけではなく、卒業生総代が女性だったため、在校生総代は男性がやることになったのだとか。当時のうちの学校では、勉強の成績は女高男低で、純粋に成績だけで選ぶと、女性同士が総代になってしまうのだとその先生は説明します。「でも君は男子ではトップだから(頑張って)」と言って、励ましてくれました。こうして、私が小学校高学年か中学生になるころに設定した「世を忍ぶ仮の姿」作戦は、中学、高校時代とまあまあ機能したことになりますね。もちろんオカルティストだということは公にしませんでしたから、「オカルト野郎」とか「カルト小僧」とか「変態オタク」などと呼ばれて馬鹿にされることもなく、表向きは「運動もできる優等生」として無事に過ごせたわけです。その一方で、受験勉強はあまりうまくいきませんでした。三年生の夏休みに夏風邪で二週間をふいにしてしまったのをはじめ、国立大学の入試用に日本史と世界史を選択したものの、どっちつかずで、結論からいえば私立大学では日本史を選ぶと落ちて、世界史を選ぶとたまたま受かるという変な現象が起きました。実は世界史は三年の春に教科書を読みこんだだけで、ほとんど勉強してなかったのですが、そのときだけなぜか世界史を選択し、たまたま知っている世界史が出たため合格したというのが実情です。また最後まで意地を張って予備校に通わずにいたのも、失敗の素でした。予備校に通って各大学の過去問を徹底的にやっていれば、こんなに苦戦しなかったかもしれません。入学試験は一校一校本当に癖がありますよね。でも、そのような不器用な受験下手を助けてくれたのは、ICU(国際基督教大学)でした。受験会場の下見にいったときに、こんなにも武蔵野の豊かな自然が残る場所に大学があることに本当に驚き、一目で好きになってしまいました。都会の喧騒嫌いの私には、まさにうってつけの大学です。前にも書いたと思いますが、ICUには普通の受験勉強は通用しません。人文科学、社会科学、自然科学など異なる種類の論文を読んで理解し、それを解釈するという能力が試されます。こういう問題はオカルト的な能力を持つ人にはかなり有利です。知らないテーマでも「未来の自分」がヒントをくれますからね。特に気に入った問題は、空間(三次元)座標における放物線の方程式の求め方を記した論文を読むものでした。三次元座標の放物線の方程式なんて、高校では学びませんものね。でも私は、こういう未知の問題が大好きなんですね。「こんなに面白い問題はない!」と思いながら、たぶん喜々として解答していったと思います。結局、私立大学は、ICU、上智、慶応を受けて、受かったのはICUと慶応だけ。私の叔父が国際関係論の教授を務める上智には、受験科目に日本史を選択したため?受かりませんでした。国立大学の入試では、時間切れで過去問すらやらなかった京大に敢え無く粉砕。東京外語大学も一次は受かりましたが、二次で砕け散りました。入試を受けた大学の数でいうと、奇しくも私の公式戦における高校時代の投手成績と同じ2勝3敗で終わりました。(続く)
2026.03.24
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かくして高校二年生の秋に、「仮の姿」の二本柱のうち「スポーツ」はまずまずの成績を残して、その役目を終えました。では、もう一本の柱である「勉強」はどうだったかというと、実は隠していたオカルトの能力を結構ふんだんに使っていたことが後からわかります。中学のころの成績は、英語と数学と体育は、不思議なことにあまり努力をしなくても、ほぼ常に「5」を取っていました(多分、昔の過去世で取った杵柄です)。歴史など暗記しなければならない社会科系はちょっと苦手で、日本史で学年最高点を取って「5」を取るときがあるかと思えば、3プラスなど平凡な成績のときもあり、良かったり悪かったり。概して理系の科目の方が得意でした。高校になって、野球部の理不尽な練習で時間をとられましたが、一学期目は数学と英語と体育など五教科は5、その他の科目もかろうじて4を取り、優等生の成績を維持します。私は文系コースを取りましたが、その後も理系の科目にも強く、化学以外は4か5を取っていました。生物の遺伝の期末試験では、最後の応用問題を見事に解いて、学年最高点(確か96点)まで取ったこともありました。問題は、この生物の期末試験で学年最高点を取ったときの「閃き」です。実は非常にオカルト的でした。というのも、最後の応用問題は、生物のS先生はクラスではあえて触れていない問題だったのです。だけれども私は、先生の授業中の説明を聞いたときに、「あっ、これは応用問題に使えそうだ」とすでに閃いていました。案の定、期末試験には最後の応用問題に、そのときのテーマが登場します。それと別の日の説明を加味して応用問題二つを合わせて紐解くと、答えが出てきます。おそらくその最後の問題を完璧に最後まで答えられたのは、私だけだったのかもしれません。S先生はその答案を返す時に、わざわざ私の席のそばまで来て、学年最高点が何点だったかを伝えながら、「あの応用問題が最後まで解けるとは思わなかった」というような趣旨の発言をしていましたから。当時私は、難問を解けたのは、ただ勘がよかったからだけだと思ったのですが、今から思い返すと、授業中に応用問題に出てきそうだと閃いたのには、未来の私と共鳴したからではないかと最近思うようになってきました。つまり、期末試験を受けている「未来の自分」がいて、これはあの時の説明と別の時の説明を合わせて解かなければいけないのだという想念を無意識のうちに、授業中の「過去の自分」に送っていた。それを受け取った授業中の「過去の自分」は、「これはきっと期末試験の応用問題に出るに違いない」と気が付き、そのときだけ説明をしっかりと聞いて、「未来の自分」が期末試験でも十分に覚えておけるように手助けしたというわけです。一昨年から昨年にかけて開かれた同窓会などで、その話を披露したところ、「それはチート(不正行為)だ!」「カンニングだ!」「だから布施は成績が良かったのだ」と非難の嵐を浴びます。そういう反応は予想外でしたが、一応そうした批判や非難に対しては次のように反論することにしています。「未来の自分に答えを聞こうと、過去の自分や、現在の自分に答えを聞こうと、それは自分自身で問題を解いたことに変わりはない。チートということであれば、それは先生を含め他者が言ったことを丸暗記して、それを答案用紙にただ書くことではないか。なぜなら自分で本当に考えて解答したわけではないからだ」と。別に丸暗記して成績が良かった人を非難しているわけではありません。私自身もよく丸暗記して苦手科目の期末試験を乗り切っていましたから。丸暗記は、社会生活に適応するのにはある程度必要な処世術の一つです。一方で、信じられないかもしれませんが、誰もが私のように常に「未来の自分」からメッセージを受け取っているはずなのです。ただ自分のそうした能力に気づかないか、オカルトを馬鹿にして信じないから、受け取っていないと思い込んでいるだけです。「直感は未来の自分の声である」という、私に降りてきた“啓示”を、試しに信じてみてください。(続く)
2026.03.23
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捨てる神あれば拾う神あり。肩を壊して使い物にならなくなった私に目をつけたのが、ラグビー部でした。中学3年生のときに野球部からの借り物(猫の手?)としてラグビーを一か月ほどやって、公式戦に5、6試合出場しただけですが、その豪快に走るその能力が高く評価されて、「肩が悪くても走れるだろう」と高校二年の秋、先輩のラグビー部主将からスカウトされます。例によって試合の一週間くらい前からラグビー部(部室には「楽美部」と書かれていた)の練習に参加、左のウィングとして公式戦に出させてもらいました。ラグビー部のレベルはかなり高く、レギュラー選手には中学時代に日本代表だった選手が四人くらいいたはずです。その中でいきなり試合に出させてくれたのは、非常に光栄なことでした。ただいかんせん、走るのは一流でもラグビーの技術や知識は乏しかったのが惜しまれます。そして、もう一つの懸念材料が私の乱視と近視でした。特に夕方や曇天の日にはボールがよく見えずに苦労しました。詳しくは覚えていませんが、一回戦では誰もがトライできるチャンスボールをもらって一トライし、二回戦では自陣の中央付近でボールをもらって、初速の速さと軽いステップを入れたコース取りの良さでディフェンス陣を切り裂き、中央に独走トライをした記憶があります。一応、私の走力と勘は高校レベルの試合でも十分に通用したわけですね。さて問題は、多分準々決勝だった三回戦です。相手は強敵、本郷高校。記憶はあいまいですが、前半は本郷高校が優位に試合を進め、なかなか攻め手がない状態が続きました。私の所に来る前にディフェンスに止められてしまうんですね。向こうの出足がいいようです。後半、ようやく私のところにチャンスボールが回ってきました。中央付近の自陣のライン際でボールをもらうと、まず初速で対面のディフェンスを置き去りにして、そのままライン際を爆走します。30メートル、40メートルと独走。もう少しでゴールラインです。その時です。私の右手から最後の砦である相手のフルバックが私に向かって突進してくるのが見えます。ここでもし私の視力が良ければ、周りを見渡してスピードを落として、ステップを切ってフルバックを抜くこともできたかもしれません。しかし私の視力では、周りを見ても誰が味方で誰が敵かを瞬間的に判別することもできません。選択肢は一つ。ライン際に突っ込むことです。実際、非常に微妙なタイミングでした。私は確かにゴールラインの内側20センチくらいのところにボールを地面に着地させたのですが、同時にゴールラインのフラッグにも触れてしまいました。その時は忘れていましたが、体が先にフラッグに当たると、トライが認められず、サイドラインを割ったことになってしまうんですね。判定もそのようになりました。あとで先輩の主将に怒られます。「ああいうときは、一度相手にぶつかって押し出されないようにしてトライするのだ」と。後の祭りです。でも感心したのは、そのときラインジャッジをしていたのは、ラグビー部の先輩で、当時京都大学でラグビーをしていたSさんだったことです。敵味方関係なく、際どいプレイだったにも関わらず、自分で信じた通りフラッグへのタッチが先だったと判断しからです。Sさんは後から、「主審からは(ほとんど同時だったから)トライと判定しても認めてあげたのにと言われた」と話していました。味方に有利な判定をしなかったのが、スポーツマンだなと思いました。試合は結局、20点差くらいで負けました。私の目の悪さと技術力のなさのせいで、トライを一本損したともいえるため、ラグビー部には悪いことをしたな、と今でも思います。結局、これでラグビー部も引退。眼鏡を付けないでするスポーツも今後断念する決意をして、大学では老後の健康を念頭にテニス部に入るわけです。テニスなら迷惑かけないで済みますからね。(続く)
2026.03.22
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この高校二年の夏に、私の人生における大きな転機が訪れます。一年生部員の“反乱”が起きるわけです。もっともそれは、理に適った反乱でもありました。学生生活を進めるうえでの高校の野球部の欠陥は、実は期末試験中に試合があることです。通常、期末試験期間中およびその一週間前の部活動は休止となるのですが、大会があるときは例外扱いされて、一週間前であろうと期末試験中であろうと、毎日練習が続きます。当然のことながら、「勉強も運動もできる布施君」という「世を忍ぶ仮の姿」を演じきっている私にも、勉強と運動部の両立はかなり負担になって襲ってきます。一年生の時などは期末試験の直前、練習中に過労で倒れて、救急車で病院に運ばれたことがあったくらいです。過労で練習中に倒れるなどということは初めての体験でしたから、自分でも驚いたわけですが、コーチ陣や監督はもっと心配して顔が引きつっていたと思います。一人は「部活動中に野球部員が過労死」という新聞の見出しが浮かんで、冷や汗をかいたと話していました。翌年、そのことを知っている下級生たちは監督に直訴して、期末試験一週間前から期末試験期間中まで練習をボイコットすることを認めさせたんですね。しかも一年生だけという特例で。一年生の中にも一人か二人レギュラーの選手はいたはずです。ところが彼らも練習に出てこないで、我々二年生(確か8人)と三年生の2人のみがその期間中も練習を毎日続けました。これでうまくいくはずがありませんね。私の中では、それまで封印していた首脳陣に対する不信感が芽生えます。そこに追い打ちをかけるようなことが起こります。期末試験が終わった翌日か二日目に夏の大会の一回戦があり、半ば理不尽に対する「怒り」を原動力にして、相手を三安打の一失点に抑える快投を演じて、3対1で都立の高校を破りました。いつものように9回を一人で投げ切りましたから、150球くらいは投げたと思います。期末試験もあり、体力的にも精神的にもへとへとになっていましたから、「これでようやく家に帰って休める」と思っていた私に、監督が「さあ、これからグラウンドに戻って練習だ!」というわけです。「練習?」――一体何を言っているのか。今必要なのは休息であって、練習ではないという怒りがふつふつと沸き上がります。この監督の言葉で私はブチギレました。だから「ベンチがあほやから、野球がでけへん」といった江本選手の気持ちは、ある意味よくわかります。試合後、グラウンドに戻って練習が始まると、沸騰点を明らかに超えていた私は、すでに150球以上投げていたにも関わらず、これ見よがしに全力でキャッチャーめがけてボールを投げ込みました。何球投げたかはもう覚えていません。それを見かねた三年生の先輩が「おい、布施。もうやめろ、投げるな。投げたふりだけしておけ」と諭しに来ます。でも、時すでに遅し。その時までに私の肩は壊れておりました。次の試合は惨敗します。もう十分、理不尽さは味わい尽くしました。その夏を最後に、私は野球部とは決別します。その理不尽さの犠牲になったのは、私だけではありません。二人いる先輩のうちの一人が進学できず留年、私の隣のクラスに落ちてきました。我々の代も一人が留年し三年生をもう一度やり直し、もう一人は卒業もできませんでした。まあ、社会に出ればこのくらいの理不尽はそこら中にあるでしょうから、いい予行練習だったとみるべきでしょう。少なくとも今はそう考えております。(続く)
2026.03.21
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中学、高校時代の「世を忍ぶ仮の姿」としては、野球、ラグビー、陸上で活躍しました。中学の野球部では当初、三塁手だったのですが、二年生のときにはうちの三年生エースが、ストライクが入らなくなるというピンチになると、リリーフとして登板し、結構抑えるようになりました。世田谷区の大会では、準々決勝で私が逆転満塁ホームランを放つなど全得点の5点を挙げて、ベスト4まで進んだこともありました。その後も基本的には私がサードを守って、別の同級生がエースナンバーを持っていたのですが、いかんせんコントロールが悪かったので、三年生の途中からは私がエースで四番となり、試合を作りました。私はそのころ4割打者でしたが、それでも強豪とは競ることはできても勝てませんでした。足がめっぽう速かったので陸上部とラグビー部にも借り出されました。陸上部員ではなかったこともあり、普通の運動靴で陸上競技大会(多分世田谷区の私立中学の大会)に出ようとしたら止められて、陸上部の顧問から借りた“纏足スパイク”を履かされても、200メートル走で優勝してしまったくらいですから、中学生、高校生のレベルではかなり足が速かったです。ほとんど練習をしたことがない走り幅跳びでも最終跳躍の前まで一位(結果は最後に抜かれて二位)でしたから、走ったり跳んだりする陸上競技の能力には優れておりました。でも、一番面白かったのはラグビー。試合の3日か4日前に初めてラグビーなるスポーツを知って、ルールもほとんど知らずに公式試合に参加。自陣から60~70メートルくらい独走トライをして、ラグビー部関係者を驚かせました。その後も何試合か出場して活躍したのですが、中学卒業約二週間前の最後の試合で腰を痛めてしまい、ドクターストップ。中学から高校にかけての3月上旬から5月上旬にかけて二か月間運動ができなくなりました。それによって、“本業の野球”では高校で軟式野球から硬式野球に変わったことにより、硬式球に慣れるのに、一か月半遅れるというハンディキャップを背負うことになります。硬式球を使うようになって一か月して初めて試合で投げたのですが、硬式球は滑るので軟式球のようには投げられず、思うようにストライクが入りません。さらには19失点という滅多打ちに遭ったことを覚えています。確か投球数は250球を超えてしまいました。今では考えられない肩の酷使ですよね。それでも投手としての中学時代の実績を買ってくれたコーチのおかげで、1年生の夏の大会でも先発投手に選ばれました。なんとエースで四番です。公式野球を始めてまだ二か月ほどの新人投手でしたが、相手を4点に抑えて完投しました。試合は残念ながら2対4で負けました。本業の野球は、その後秋の新人戦で強豪・創価高校を破って初勝利を記録。次の試合は負けましたが、このころからピッチングのコツがつかめてきます。そして、硬球を使うようになって一年経った高校2年の5月、その日がやってきます。直球が目に見えて速くなったんですね。キャッチャーミットに響く音が「ストン」から「バシーン」に変わるような感じです。その月か6月の練習試合では、その直球を武器に9回を完投して3失点の快投を演じます。しかも四番で2本のホームランを打つというおまけつきで、5対3で勝利しました。その試合の対戦相手だった大森工業は、翌年の夏に東東京でベスト4に入った赤丸急上昇中の高校でしたから、当時の我々も結構強かったのかなと思います。(続く)
2026.03.20
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世を忍ぶ仮の姿で生きようと決めてからの人生は結構大変でした。つまり「本当の自分」は隠して、ある意味「仮の自分」の人生を生きるわけですから、周りから理解を得られるはずもなく、私自身も裏切られて、自分のせいでもあるのに、人間不信に陥りました。そのせいで、円形脱毛症を発症するは生きるのは苦しいはで、中学時代は本当に辛い目に遭いました。人間関係に疲れ果ててしまった感じでしょうか。そのような、心身ともにボロボロになった私を救ってくれたのは、実は鏡でした。ちょっと意外でしょう?ある日、鏡に映した出された自分の顔が醜く歪んでいることに気づいたんですね。左右の対称性は崩れ、片方の目だけがつり上がり、変な皺もあり、人相がとても悪くなっていた。「これは大変なことになった!」と自分自身の顔に驚く一方、不思議なことにそれぞれの顔の歪みに思い当たる節があることにも気づきました。「ああ、あの時の嫉妬心がここに出ている」とか「あのときの恨み、つらみ、猜疑心が顔のこの辺に出ている」とか、ありとあらゆる負の感情が醜い顔を作り上げていることに、幸いなことに気が付いたわけです。この作業はある意味、「過去の自分」との対話であったように今では思います。過去と現在と未来の自分は、常に連絡し合っているのです。顔が醜く変形した原因が分かったわけですから、あとは簡単ですね。それ以降、同じようなシチュエーションになったときに、嫉妬、怒り、恨み、つらみ、猜疑心、傲慢といった負の感情を持たないようにして、流してしまえばいいわけです。言い換えると、相手のせいにして批判したり罵ったりせずに、自分が正しいと信じるものだけを淡々とこなしていくことが何よりも大切であるということでもあります。神道には「御鏡御拝之行法」といって、自分自身を変えるきっかけを作る道具として鏡を使う修行法があることをかなり後になって知りますが、これに非常によく似ていますね。「かがみ」から「が(我)」を無くした時に無私の気持ちを持った「かみ(神)」になる行法とか。まさに私がやったこともこれに近いものであったと思われます。そして思った通り、後頭部の円形脱毛症はなくなり、顔の歪みも消え去りました。中学二年生の時のことだったと記憶しています。(続く)
2026.03.19
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2010年からのオカルト人生の続きを語る前に、ここまでのおさらいをしておきましょう。私が小学生のときに体験したオカルトは三種類あります。一つは、自分の未来の意識と共鳴するという現象を何度も体験したこと。二つ目は、じゃんけんをするときに、相手の頭の斜め上に漫画の吹き出しのように相手がこれから出すものがセピア色の映像として見えたこと。三つ目は、エクトプラズムが写り込んだ写真を撮ったことです。そして、親やきょうだい、先生、友達にそのことを話しても誰も信じてくれず、結局「未来の自分」(当時は守護霊か何かだと思っていた)と相談して、同じような体験をした人以外には一切オカルト的なことを語らないことに決めたことも、オカルトといえばオカルトです。「未来の自分」は、じゃんけんの映像を見る際に、どのような心の状態に自分を保たなければよいかを教えてくれた存在でもあります。いずれにせよ、この時空を超えた「未来会議」の方針決定によって、「まじめで勉強も運動もできる布施君」という表向きの自分(世を忍ぶ仮の姿)が設定されました。当然、オカルトなどの怪しい現象は否定する堅物であると、クラス・メイトも思ったはずです。オカルトかどうかわからないという現象にはもう一つあって、目をつぶるとよく見えてくる(目を開けていても見える)無数の二次元粒子も不思議な現象です。二次元の膜に密集して均等に浮かぶ、あるいは二次元の膜に敷き詰められたような円い粒子群は、お互い、他の粒子との距離は自分の直径分(1ミリ?くらい)離れており、私のすぐ目の前(あるいは目の奥)に浮かぶ、縦、横、斜めの二次元平面を一斉に同じ方角へと動きます。そして文字通り、私の目の前を行ったり来たりします。速度が速いと一斉に赤くなり、速度が弱まると青くなります。方角を変える時間は、3秒くらいの時もあれば、0・5秒くらいの時もあります。法則性はいまだわかっていません。とても数え切れませんが、知覚できる範囲で粒子の数は、1億個は優にあると思われます。これらの粒子群の流れは眼球のレンズを通してみるのではなく、自分の意識によって見ることができるものです。自分の意識をそこに当てないと見えないとも言えます(その点でちょっとオーブやオーラの見方に似ています)。それらの粒子群が一番よく見える場所は第三の目があるとされる眉間のあたりで、眼球をどこに向けようと、目を開けていようと閉じていようと、そこにあるのが意識の映像を使って見ることができます。当然、そのようなことを言っても誰も信じてくれません。母親などは「そんなものを見ようとするから近視になるのよ。やめなさい」という始末。実際、中学3年生になるころには漫画と教科書の読みすぎで近視と乱視になり、眼鏡が必要(キャッチャーのサインが見えなくなった)になってしまいました。でも今から思うと、その二次元粒子群は意識で見ていたわけですから、視力とは関係ありませんね。実際に現在、老眼になって近くの小さい字が見えなくなっても、粒子群だけは自分の目よりも近い“至近距離”でもはっきりと見ることができます。目の物理的な視力とは違う意識の目で見ていることがこのことからもわかりますね。(続く)
2026.03.17
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もうすっかりお忘れでしょうが、2024年の3月21日まで私はこのブログを備忘録として自分のオカルト人生を振り返っておりました。生まれてからこの方、どのようなオカルト的な人生を送ってきたかを思い出すままに綴ってきました。二年前のブログでは、ようやく2010年の話を書いていたわけです。おさらいをすると、次のような話でした。2010年5月31日の朝方、スコットランドの農場に泊まっていた私は、見渡す限りの草原が象徴する悠久の時間の中に立つ巨石は「時の楔」であるという、ある種の啓示を受けたわけですね。私は寝ていませんでしたから、夢ではなく、そういう映像と言葉が降りてきたわけです。この時の示唆により、イギリスの巨石群がなぜ建造されたのかが、何となくわかるようになってきました。その後、次々と巨石群の配置が綿密に測量された結果であることが明らかになり、2015年出版の『竹内文書と平安京の謎』に生かされ、まだ告示する段階ではありませんが、今回の次の本でも結実します。 2010年当時は、私は次のようにも書いています。 イギリス巨石めぐりを終えたところで、ストーンサークルなどイギリスの巨石群が誰によって何の目的で造られたか、私の感想を記しておこうと思います。目的のひとつは、天体観測ですね。場所によって月の観測に特化したストーンサークルもあったようですが、基本的に太陽と月、星の運行を精密に観測する装置であったといえそうです。つまり古代版のカレンダーであったわけですね。私が旅の途中で見た「夢」(啓示)では、ストーンサークルは時空間に何かをする道具、すなわち「時の楔」として現れました。その後、帰国してから浮かんできた言葉は、「空の灯台」でした。エイヴベリーで見たシルベリーヒルなど山やマウンドと巨石群を、気球(天空浮船)から見て方角と位置を知るために「空の灯台」として利用したのではないかという考えが浮かんできました。私が現地に行って感じた巨石群は広大な複合施設であるというのは、そういう意味もあるんですね。折りしも昨日(7月27日)の朝日新聞には、イギリスのストーンヘンジのそば、およそ900メートル離れた場所に新たに直径約25メートルの円状の溝と柱を立てていたとみられる円状の穴があることがわかったとの記事が載っていました。それを調べた英バーミンガム大学を中心とする調査チームは朝日新聞の取材に対して「ストーンヘンジはポツンと孤立した遺跡と思われていたが、ほかにあった可能性が高まった。ストーンヘンジの役割に関する研究も進む可能性がある」と述べています。私の印象でも、ストーンヘンジは他のヘンジや小山などと関連のある複合施設です。30キロ離れたエイヴベリーの巨石群やシルベリーヒルまでを含めた複合施設であると考える必要があるように思われます。空から見ると、こうした遺跡群がどのように映るのか。幸い現在はグーグルアースを使うと空から見た巨石群の配置がよくわかるんですね。それを見ると、エイヴベリーのストーンサークル、欧州最大の人工マウンドであるシルベリーヒル、長塚型墳墓の巨石群「ウエスト・ケネット・ロング・ハロー」がほぼ南北一直線上に並んでおり、さらに30キロ離れたほぼ経線上にストーンヘンジがあることがよくわかります。ついでにこの経線をずっと北のピーク・ディストリクトへと延ばしていくと、そこに北のストーンヘンジと呼ばれたアーバー・ロウが位置することに気付きます。実はこの南北線は非常に重要な意味があります。なぜなら、これより東はストーンサークルが少なく、ヘンジ(円形の堀と土手で囲われた遺跡)のみの場合が多く、これより西はヘンジのないストーンサークルだけの遺跡が多いからです。そして、この中央線ともいえる南北ライン上に、ストーンサークルもヘンジもある混合遺跡が三つ並んでいることになるんですね。つまり、この巨石群を造った人たちは、明確にこの南北線を意識していた可能性があるのです。日本の羽根ラインもそうですが、そうした空からの目印となる目標物を経線上に配置することにより、空の灯台の役目を果たすだけでなく、イギリス全土を測量して地図を作るという作業にも役立てることができたわけです。ここまで考えると、なぜ北の果てのルイス島の立石で出会い、その後も街中でバッタリ出くわしたイギリス人の老紳士が「灯台、灯台」と私たちに灯台に行くように告げたのかの「理由」がわかってきます。巨石群が天空浮船の灯台の役割をしたのであることを、無意識のうちに図らずも知らせようとしていたとも考えられますね。ストーンサークル、およびその複合遺跡は、空を飛ぶ人たちが造った空の灯台(あるいは港)でもあった――と私には思えるのです。空の灯台?以上が2010年7月28日の私のブログです。必ずしも当たっているとは限りませんが、非常にいい線を行っています。その理由は次の本で明らかになります。 ということで、しばらくは2010年ごろからの私のオカルト人生のブログを再開しようと思っています。
2026.03.15
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雲です。何か文字のような変わった形をしていますね。こちらもちょっと変わった雲。確定申告もようやく終わり、今は2月に出版社に送ったのとは別の本の原稿を書き始めています。ただ、前が詰まっているようなので、出版は遅れるかも。少しペースダウンして、大空に浮かぶ雲のように、ゆったりと原稿を書きましょう。
2026.03.12
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昨日は寒かったですが、比較的花粉の量も少なく、快適でした。雲が多めでしたが、結構遠くまではっきりと見えておりました。光の柱。寒さに負けず、外に出た甲斐がありました。
2026.03.11
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陰影が織りなす夕景です。富士山は、全部は見えておりませんが、矢倉岳が見えています。その手前は湘南平から真鶴半島にかけての山並みです。陰影によって浮かび上がる山々の並びが素晴らしいですね。
2026.03.10
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昨日もきれいに出ておりました。何がでていたかというと、こちらです。太陽の周りに出ている花粉光環ですね。同心円状に虹色の層があるように見えます。きれいですが、これが花粉によるものだとわかると、複雑な気もちになります。今回のように雲に隠れたり、地平線に沈もうとしたりするときに撮影できます。得したような、しないような。面白い現象ではありますね。
2026.03.09
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花粉と黄砂が飛ぶ中、必死で撮影した一枚です。この日もきれいな夕景でした。
2026.03.08
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夕日が雲に隠れるところですね。たなびく雲の形が面白いです。
2026.03.07
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こちらはゴーストのない夕陽。このぐらい夕陽の光が柔らかくなると、乱反射で生じるゴーストを気にしないで撮影できます。
2026.03.06
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最近スマホでよく夕陽を撮影しますが、太陽がこのくらいの高度だと、どうしても写り込んでしまうのが太陽光の乱反射です。上の写真にも夕陽の真上に小さな丸い光が写り込んでいますね。イメージセンサーとレンズの間の乱反射によって、中央に太陽を置くと、その上下に出やすくなります。こちらの写真も同様です。夕日の斜め右上に写り込んでいる星のような光は、カメラ内部の夕陽の乱反射によって生じたものです。太陽を左下に置くと、右上に反射光が現れますね。こうしたカメラの癖を知っておくと、「本物」との見分けがつくようになるわけです。
2026.03.05
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春らしくなりました。花粉の多さには驚かされますが、非常に過ごしやすくなりました。ちょっと明るい兆しが見えてきた感じです。
2026.03.04
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今日は生憎の雨で、皆既月食どころではなかったですね。ということで、二日前の月です。梢の先のほぼ満月。ちょっとした芸術作品のようですね。小枝が月に絡まっているように見えます。これも食ですかね。
2026.03.03
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今日から三月。3月3日のひな祭りの夜には皆既月食が予定されていますね。東の空で18時50分に欠け始め、20時04分に皆既食となるとのことです。皆既食は約1時間続き、やがて部分食となり22時18分に終わります。晴れてさえいれば、日本全国で見られます。次に日本全国で皆既月食が見られるのは、2029年1月1日、つまり元日の夜だそうですから、良くも悪くも、ぞろ目のシンクロゾーンに入った可能性があります。
2026.03.01
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