全917件 (917件中 1-50件目)

第9回は西安郊外の観光、1986年7月28日(月)です。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 西安市街の南東に位置する青龍寺を発って、始皇帝陵方面へ向かう。私たちは昨夜の寝不足がたたってやや疲れていた。バスは渭水の支流を2本ばかり渡り北東へ走る。左写真は車窓から撮った2本目の支流、灞河(はが)。渡ったのは、昔、古都長安(=西安)を発つ旅人を見送る定番の場所灞橋ではないかと思う。 まもなく、まず華清池*に着いた。アーチ門の横に、ネムノキが花ざかり。ここは玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの舞台である。九竜湯という美しいハスの池と朱塗りの柱の東屋はゆったりとして心が和む(右写真、驪山(りざん)を背景に、水面の写る景色が美しい)。 が、建物の方は工事中だった。下写真は楊貴妃が入ったという温泉だが、これも工事中で手前に瓦がたくさん置いてある。 小山の斜面を利用して造られたミニチュアの庭園もあり、登ってゆくと、1936年の西安事件で蒋介石が張学良によって捕らえられた建物(五間亭または捉蒋亭)が、これまた工事中であった。 *華清池 「池」は温泉のこと。唐の9代玄宗皇帝が整備した華清宮がある。現在では観光地としてキレイに復元され、楊貴妃像も置かれている。 快晴で、ぎらぎら照りつける真夏の陽ざしが熱い。ここまで旅してきてようやく空気は乾燥してきたが、まだまだ汗が出る。華清池の頭上、おおいかぶさるようにそびえている驪山の緑が鮮やかである。中国という所はあまりに広々と平らな地面が目を奪うので、たまに山が忽然と現れるとかえってびっくりしてしまう。驪山旅游饗庁で昼食。 午後、始皇帝陵に着いた。緑の小高い丘で、青空をバックに明るい。まぶしい陽ざしの中、ふもとには土産物屋が軒を並べ、お寺の参道のような賑やかさである。Mは日焼け止めを塗りまくり、絹のスカーフ(Nとおそろい)を巻きつけたりしている。 左写真は始皇帝陵の碑。当時は陵の登り口左手にも黒っぽい古めかしい碑があって、これも撮ったが逆光で文字が写らなかった。現在は新しい立派な碑が別にあり、秦の始皇帝の巨大な像もあるようだ。どの史跡も、碑をどんどん更新し、ゆかりの人物の巨像を建設するのが当局の方針のように思われる。 右写真は土産物屋さん界隈から陵の丘を望む。人物は消したりカットしてある。 さて、陵の長い長い階段をひたすら上ってゆくと、だんだん辺りの景色が開けてゆく。斜面にはザクロが植えられ、実をつけていた。取って食べたくなったが、枝にくくりつけた板に、実を取ったら罰金1元というようなことが書いてある。たわわに実り濃緑に茂ったザクロは天辺まで一面に陵墓を覆っている。汗をぬぐいつつどんどん登る。振り返ると土産物屋や私たちのバスなど、豆粒のように小さく見える。 ついに頂上に着いた。素晴らしい眺望、一大パノラマである。緑や茶色の耕作地がきちんと区画整理され、並木や森を間に挟んで続き、はるか青くかすむ地平線から雲一つない空へとけてゆく(下写真、振り返って撮ったもの。手前はザクロの木々。登ってきた道が白く見える)。さすが中国の大地、空気も爽やかでおいしい。確かに暑くて喉も渇いたけれど、この景色はそれらを補って十分あまりあると思った。陵は歴史の教科書で見慣れたとおりの真四角で、項羽がほじくり返したのはここか、と司馬遼太郎『項羽と劉邦』を思い出しつつ感慨に浸る。 陵を下ってゆくと添乗員Wさんが土産物屋で骨董品(中国では文物という)のピアスなどを値切っている。ここの土産物売りは共産圏とは思えぬほどすさまじい。紐でいくつかつるした人形(フェルト製?)を1個1元と言いながら、なんとか売ろうとする。台の上には卵みたいな丸いまだらの玉(ギョク)の塊や、後ろに弁髪をくっつけたカラフルな帽子が並んでいる。バスのすぐ近くまで来て私は、小さな青い馬のついた飾り鎖を見つけた。他に同じ物は見当たらないし、ちょっと気に入って(元来私は馬が好き)いじっていると、店のおじさん・おばさんが数字を一面に書いた白いベニヤ板みたいな物を出してきた。言葉が通じないのでこのボードを使って売ると見える(右画像)。 覗きこむと、「40」のところを指すではないか。あまりにも暴利…とフンガイすると、「それなら幾らでなら買うか」と言うつもりらしく、こちらにボードを向けてくる。私も値切ろうと思い、「20」を指さすと、それなら鎖の飾りを一つ取ってしまうと言う(馬の他に飾りがいくつかついた鎖であった)。そこで私は飾りを減らすなら「15」だと言い放った。なかなか承知しないので品物を置いて帰るふりをしたところ、ようやく15元で売ってくれた(右写真、今では真ん中の鎖と小飾りが取れてしまっている。この鎖飾りを、私はのちにずっとGジャンのポケットにつるして着ていた)。 このやりとりで私は集合時間に遅れてしまい、大あわてでバスに駆けこんだ。落ち着いて考えると15元でも相当の暴利だったように思うが…、生まれて初めての値切り体験、まあいいとしよう。西安まだつづく
July 27, 2026
コメント(0)

暑くて頭がぼーっとしてしまう日々に合う話、長野まゆみ『レプリカキット』。私が持っているのは単行本で、後で出た文庫本には「螺子式少年」という漢字のタイトルがついています。 初期の長野まゆみワールドによくある、近未来の少年たちの物語。『天体議会』や『テレヴィジョン・シティ』を以前取り上げましたが、この本でも、少年たちは家族と離れて暮らしています。主人公百合彦、いとこの葡萄丸、友人の野茨(のばら)、相変わらず名前が個性的。 離れていれば家族から解放されているかというと、そうでもなくて、野茨は休暇で訪れていた「ママ」がサテライトへ戻るのを、「義務」あるいは「習慣」から見送りに行きます。するとママは、野茨そっくりのレプリカを連れて宇宙船に乗りこむ。それを見て、 「さすがによくできてるよな。まるで双子だろう。・・・彼(ヤツ)を見たとたん吐き気がした。・・・考えるだけで気分が悪くなる」 ――長野まゆみ『レプリカキット』 母親が息子を私物化するためにレプリカを注文したのだ、と野茨は憤る。 本当に家族(ママ)から解放されていれば、ママが何をしようが気にならないはず。でも野茨はママに私物化されたくはないけれど、自分そっくりの少年がママに私物化されているのを見ると平静ではいられないようです。少年たちは禁制のタバコを試しますが、意識がおかしくなった野茨は、自分までレプリカだと言い出したりします。 彼らの年齢は、どうも10~12歳ぐらいに思えます。いつも取り上げる、精神的自立を始めるプレ思春期の、心の揺れを、作者はとらえているのでしょう。 アイデンティティが形成される途上で、いろんな自分(自我)がせめぎ合ったり分裂したり情緒不安定になる、いわゆる疾風怒濤時代。この物語のような”もう一人の自分(アルター・エゴ)”の出現は、それをファンタジー的に表したものといえそうです。同じような考察は、内田樹の「響く声・複数の私」で読んだことがあるし、今思い出したのは、大原まり子『未来視たち』に出てくる「分裂自我」。 ドッペルゲンガーや臨死体験も、もう一人の自分を見るらしいのですが、共通するのはそういう体験をするともうじき死ぬ(かもしれない)、つまり死が近づいた時の現象だということ。 少年たちも、子どもとしての自分がもうじき”死”を迎えて大人になる、その通過儀礼を体験中なのかもしれません。 この物語にはあからさまな”死”はないけれど、舞台となる海沿いの白亜の町は、レトロで死んだように静まりかえっています。照りつける夏の強い日ざしや、沖合で発射されたロケットのきらめきなどが、まぶしくけだるく作用して、読んでいる方も頭がぼーっとして認知力が低下してしまいます。 そんな夏の午後、百合彦たちは、空き家で、そこを借りたサーカス団の軽業少年たちに出会いますが、彼らもまた野茨そっくりで、レプリカだというのです。さらに、レプリカを狩るハンターがいて、どうも学校の教師の一人もそうらしい・・・ あの先生、裏の顔があってさ、ヤクザなんだよ・・・などと、嘘っぽすぎる噂が、中学生のころ友人たちの間で面白半分に囁かれたりしたものです。そんなことを思い出しながら読み進むと、今度は、百合彦と葡萄丸の父親たち(兄弟)が彼らのもとを訪れるという報せ。何年も会っていなくて、特に葡萄丸の父は宇宙で遭難してずっと行方不明だったので、二人とも戸惑ってしまいます。 ・・・父親の顔を思い浮かべてみたが、どうもはっきりとしない。 「外見なんて不確かなものさ」 「…信じないよ。ほんとうに顔を見るまではね、」 ――同上書 おまけに野茨のママもまた訪れるというので、野茨はしばらく家出。 百合彦と葡萄丸は父たちと対面しますが、葡萄丸は自分の父はレプリカだと言い始めます; 「・・・誰かがぼくを哀れんでレプリカを寄越したんだよ。よけいなお世話だ」 ――同上書 親子の会話もなく、気まずいなあと読者も思っていると、意外にも、二組の親子は、模型作りや卓上ゲームを一緒にしながら少しずつなじんでゆきます。父親たちは、本物とレプリカの違いになぜこだわるのか、「目の前にいる人物や事実を今の時点で信頼するかどうか」が重要なのではないか、と、年長者らしくまっとうな意見を述べます。人もモノも変わってゆき、不確かであるからには、自分の信じるものを信じるしかない、という達観は、いかにも大人ですね。 そして葡萄丸は、レプリカかもしれない父と一緒に月へ行くことにします。 ここで、今度は萩尾望都『A-A'』を思い出します。事故死したヒロインの代わりに、彼女のクローンが現れたとき、恋人との関係は? というお話です。これも一種の”もう一人の自分”ですね。そしてこの話でも、恋人は「明日には愛せるかもしれない」「思い出は明日つくればいい」と考えるのです。自分に近しい人に自己分裂が起こったとき、とりあえず現実に対処するにはそれしかないのでしょう。 ラストは、百合彦にも葡萄丸にもレプリカがいるらしい、という発見で終わります。煙に巻かれたような結末ですが、大人への道をみんな踏み出していくんだなあと思えば、なるほどですね。
July 23, 2026
コメント(0)

第8回は北京から西安、1986年7月27日(日)夜~28日(月)です。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 この日はお土産用しおり(6.2元)やハンカチ(5.6元)、チョコレート(1.48元)、「维克斯(ヴィックス)」ドロップ(2.2元)などを買いこんだあと、夕食を済ませ、北京空港午後9時20分発でいよいよシルクロードの出発点西安へと飛ぶはずであった。飛行機は私が恐れていたプロペラ機ではなく、頼もしそうな代物に見えた。やがて、動き始めた機は灯りのわずかにともる飛行場をゆっくりと回り、滑走路へ向かった。夜間飛行だわ、こんな暗くても飛べるのね、伊丹じゃ9時以降は飛ばないのに、さすが広い国ねえ――滑走路も長~い。まだ走ってるわ。長――い…? さっぱりスピードを上げない飛行機に乗客たちが不安がりだした時も、私はそのうち離陸するに違いないと肘掛けにしがみついていた。 ところがとうとう飛行機は引き返して、空港の建物まで戻ってきてしまった。10時5分、中国語とたどたどしい英語とでアナウンスが入り、我々は貴重品だけ持って飛行機を降りた。一体全体なんのこっちゃ、滑走路のコンクリートと夜空しか見えない。 建物に入るとき、チケット代わりの券をくれる(左画像はチケット表と裏。結局到着先未記入のまま)。用意のよろしいこと、多分こんなハプニングがしょっちゅうあるのだろう。がらんとした椅子だけの待合室へ、私たちは戻ってきた。ジュースやお茶はおろかトイレさえ見当たらない。添乗員のWさんは忙しそうに走り回っていたけれども、私たちは腰を下ろし、ガラスの向こう、闇一色の外の様子を眺めながら待つしかなかった(あとからきくとエンジントラブルとのことだった)。 同じ待合室にいる同乗の西洋人は男も女も連ねた椅子にごろりと横になったり、賑やかに集ったり思い思いに過ごしている。ここで夜明かしになるのだろうか、大都会北京の空港で…。これから人外魔境の地シルクロードへ行こうというのに、幸先が悪すぎる。 1時間が経過した。我々はうつらうつらしたり、Yさんたちから(多分お土産の)ワインをいただいて、フィルムケースをコップがわりに飲んだりしていた。ありがたいことにWさんが息を切らして来て、飛びそうだと伝え、みなは再び飛行機に乗りこんだ。さっきもらったおしぼりが座席の下に落ちたままになっている。元気よく、機は夜の滑走路をダッシュした。…宙に浮いた時、乗客全員が力いっぱい拍手喝采した。 西安に着いたのは真夜中0時40分だった。 写真右は、中国民航の搭乗みやげの扇子。このほか、子供用だろうか、小さな地球儀のキーホルダーももらったが、その地球儀は青地に茶色い大小の水泡のような形=五つもなかったが大陸か? が落書きのように描かれただけのものだった。 28日未明にたどり着いた西安のホテルは、体育館の隣だ(陝西省体育賓館という)。真夜中だし、飛行機に預けた荷物が届かないので、なんとか歯磨きしたあとそのまま寝てしまった。お湯も出なくて、お風呂も無理。ここへ来て、辺境へ向かう実感が湧いてきた。 起きると、幸い荷物が来ていた。眠いながらも支度して出てみると、いい天気、からりと晴れている。北京の蒸し蒸し気分は一掃された! 朝8時半にバスで観光に出発。空海ゆかりの青龍寺*が第一の見学地。下りた所はなだらかな起伏のある小山の上で、すっかり田舎の風景。白く乾いてほこりっぽい細道、かたまって遊びながら行く子供、道ばたの土産物屋の老人、雑草の花まで、日本の田舎にそっくりな気がする。少し土地が高いので眼下に遠くまで広がる耕地だけが、日本との広さの違いを感じさせた。 お寺そのものは建て直したばかりということで、あまり感心しなかった。日本のお寺と同じようなつくりなのである。ただ、叩くと鐘のように鳴る石が奥に据えてあって、Mが試すと澄んだ大きな音がしたのは面白かった。実はこれが拙作『海鳴りの石』に出てくる<ひびき石>のモデルだったりする。 *青龍寺 随の時代に建てられ、空海(弘法大師)が遣唐使としてここで学んだが、長く廃れていた。1984年、青龍寺東院を恵果空海記念堂として復元し、旅行の年には真新しい記念碑などが立っていた。 次回、秦の始皇帝陵へ。
July 19, 2026
コメント(0)

第7回は北京、1986年7月27日(日)です。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 非常に蒸し暑く、霧のかかったような一日となった。 朝、郊外のホテルから北京市街へ向かうが、やたらに見かけるのが露店のスイカ売り(左写真は車窓から。山積みのスイカと、ミニスカートの現代的な現地女性とが対照的)。ほかに野菜売り、ロバ車、古めかしい石の家々などが目を引く。鉄枠だけのカートのような押し車に乗った赤ちゃんたちも居て、涼しげだった。 まず天壇公園に到着する。日曜だからか、同行の現地ガイドKさん(女性)の子供(2歳)が夫さんといっしょに来ていた。Nがアメをあげる。たいへんかわいくて愛嬌のある子だが、母親Kさんの姿が見えないと泣き叫ぶ。彼女が抱っこすると首にかじりつく。一人っ子政策で甘えん坊の子が増えたとの噂は本当なのかもしれない。 天壇祈念殿*の丸いドームはイスラム建築のようだ。釘を使わず作られたとかで、青色がとても美しい。祈念殿の外観は観光パンフレットの表紙でおなじみなので省略。右写真は内部の天井を見上げたもの。 玉座もある。彫刻だらけの四角い屏風みたいなのが背中についていて、幅広だ。このあとの故宮見物で、私たちはこの手の玉座を山ほど見ることになる。 *天壇祈念殿 明の永楽帝(15世紀)が五穀豊穣を天に祈るために建てた、いわば神殿。 Mがふと「てんだんって何?」と言ったので、予備知識ぎっしりのNは盛大にあきれていた。「私はシルクロードで神さまたちの居る天山を見たいだけなのよ~」とMは言いわけ。私もじつは、天に祈ったのが天壇、地に祈ったのが地壇と知っていただけで、こんなに大きく豪華な所だとは知らなかった。 それにしてもひどく蒸す。汗、汗、汗、そして霧。祈念殿から周囲を見回しても視界が悪く、いまいちである。今思うと、当時から北京はスモッグがひどかったのではないか。カシワの木立ちの緑もくすんでいる。 キノコのような屋根の皇穹宇を取り巻く回音壁には人がいっぱい。壁伝いに声が伝わるというので、私とMとで試したが、湿気と人混みでよく分からない。 皇帝が天の声を聞いたという大理石の圜丘(えんきゅう)は、見た目も珍しくてキレイだった。添乗員Wさんの指図で、私たちとその場の中国の人たちとで中央を円形に残して輪になり、その円の真ん中に一人ずつ行って立って、ささやいてみる(これも反響するというが、やはりよく分からない)。 11時ごろ、天安門広場にも行った。が、暑いし霧だし混雑だし、あまり印象は深くない。遠くの毛沢東さんの顔がかすんでいるばかり。 左写真は、天安門付近の街角。城門の一つと、最近できたという地下鉄の出入り口、「地铁」の表示がある。自転車のサドル後ろの箱に、子どもを乗せているのに注目。 天安門広場の近く、労働人民文化宮にあるレストランで昼食、北京ダックも食べた。 王府井(ワンフーチン)など、大通りを歩けば、白い花をつけたアカシアの大木が影を落とす。風が吹くと花吹雪だ。右写真は、巨大な看板。左端のアカシア並木を圧倒している。「道路を渡るときはまず左右を確認しましょう 北京市公安局交通管制」とある。自動車がやけに角張っている…。 書店を物色して歴史地図帳を買う(3.45元)。監修が郭沫若だ! とNが指摘。郭沫若って誰だっけ?の私とM。そういえば世界史で習ったような…、左写真はその表紙と中身(三国時代の赤壁の戦いのページ。現地の高校の教材らしく、たいへん分かりやすい) 午後2時45分、みなで故宮*へ。多くの門にいちいち立派な玉座がしつらえられ、アーチも三つあったりする。中央アーチと大通りが皇帝用で、門もひときわ大きく建物の屋根には「走獣」という九つの小さな彫刻飾りがついている。9は聖数なのだ。狛犬みたいに並ぶ立派な獅子をたくさん見たし、9匹の竜の壁画も見た。動物好きの私はそんな写真ばかり撮ったが、ここでは省略。 *故宮 紫禁城。明の永楽帝が1420年に築いた。西太后は清朝末期の人(1835-1908)。 太和門をくぐりおなじみの太和殿。中国で最大の木造建築で、皇帝が儀式を行う所。私たちは映画「西太后」でこの建物を見ていたが、旅の翌年公開された映画「ラスト・エンペラー」でも印象的な場所である。この時点で空はいよいよ曇り、視界も暗い。 城の奥に入っていくにつれ周囲の建物群は何やらブキミにそびえ立ってきた。屋根は全部黄色で、皇帝の「皇」と読みが同じだから尊い色だとか。こんな所にずっと暮らしていれば、権力闘争に熱中でもしないと気が変になるだろう。豪華ケンランの装飾と巨大な柱、高い屋根。しかし緑がほとんどない。石畳からはみ出している雑草くらいだ。 博物館内には噂にたがわぬ金銀宝石、特に玉・ヒスイのたぐいが無造作に(と私には思えた)展示してある。古い剣や衣装もある。そのあと西太后がお嫁さんをいじめ倒した井戸だとかを見た(映画のは史実とは異なるところもあるそうだが)。右写真は、最北の神武門の横手にある後宮へ続く脇道。「西太后」の最初の場面で出てきた。いや、絶望をさそうような道だ。 雨が心配だ、西安への飛行機が飛ばないのでは、などと言いつつ、てくてく歩いて、いくつもの宮やら殿やらを見、とにかく広さと豪華さだけは十分堪能した。 夜になり、心配された天気もすっかりもちなおした。ところが思わぬ伏兵が待ち構えていた!つづく
July 19, 2026
コメント(0)

第6回は北京、1986年7月26日(土)の夕方です。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 夕方6時半、突如、希望者で盧溝橋(ホテルから近く、5、6キロ)へ行くことになり、大急ぎでカメラのフィルムの入れ替えをする。この時、あやまってカメラの裏ぶたを開けてしまい、すぐに閉めたものの、しっかり光線が入りこんだ(居庸関の西夏文字の写真がオレンジ色になってしまった)。 ショックに打ちのめされつつ、Mと出かける。Nは「対日感情を考えると怖くて、旧日本軍にまつわる場所には行きたくない」と言った。盧溝橋といえば日中戦争の引き金となった1937年の軍事衝突がまず思い浮かぶのだ。 メンバーは他にSさん(最年長の猛者で、私たちは「Sのじっちゃん」と呼んだ)、高校で世界史を教えるHさんに、Yさんで、2台のタクシーに分乗した。運転手さんが筆談で「どこへ行きたいのか」と訊く(左写真、とっさに差し出した荷物のタグに書いてある)ので、私は飛行機のチケットの裏に“盧溝橋”と書いて見せる。 右写真は車窓から撮った街角の看板。そばの歩行者たちと比べれば分かるが、当局の看板は交通安全から社会主義まで、とにかく巨大。「偉大なマルクス・レーニン主義と毛沢東思想万歳!」とある。 さて、永定河にかかる盧溝橋には古い橋と新しい橋があり、タクシーを下りてしばらく写真を撮る。新橋*(左下写真)は1971年と刻まれ、車が通行できるが、旧橋は徒歩か自転車しか通れない。 *盧溝橋新橋 なんと2008年、4カ所に陥没が見つかり閉鎖、橋はのちに撤去されてしまった。新橋の方がなくなるとは! 旧橋*は、マルコ・ポーロが「東方見聞録」の中で褒め称えたアーチ橋(右下写真)。たもとにはいくつも石碑があり、一つには「全国重点文化財保護機関、万平県、1966年3月制定」などとある。もう一つの碑には、この橋が金王朝時代の大定29年(西暦1189年)に作られたことや、1937年7月7日盧溝橋事件が起こったことを伝えている。 清の乾隆帝(18世紀)直筆と伝えられる「盧溝暁月」の碑もある。立派に装飾されて、側面には、明け方の空にかかる天の川、オリオンの三つ星、ねじれた上弦の月の下、秋の気配のただよう川辺の景色を歌う漢詩も、刻まれている(右写真)。詩は、この景色を見、橋を渡り西へ行くたびに別離の思いがわく、と続く。 ここは、血なまぐさい事件の起きる前は、すばらしい景勝地として有名だったのだ、と知り、蒸し暑くぼやけた空の下、雄大な川と橋を眺める。 右写真の左端に少し写っているのは、旧橋の欄干にいちいち居る小さなかわいい獅子。全部で500余、数えるのが大変なことのたとえに言うそうだ。他に、橋を修復した康熙帝(清代)の石碑を背にのせた石の大亀の頭も手前に写っているが、残念ながら散らかるゴミも写っている。 旧橋から東側には宛平城(明代に李自成の乱から首都を防衛するため築かれた要塞。が、修復中!)が見える(左写真)。映りこんだ町の人々、特に右端の二人乗りのカップルが印象的(個人特定できそうな顔は塗りました)。 この後、1937年云々のことを書いた石碑を私たちがバチバチ撮っていると、通りすがりの中国人のお兄さんが何やらさかんに言ってくる。Nが来なかった理由を聞いた後だし、なんだか怖くなってタクシーに逃げ帰ってしまった。 しかし多くの人々が夕方のひとときを橋の上で憩い、川辺では地べたでトランプに興じていた。道にはロバや、太いゴムタイヤのついた馬車なども見られた。 *盧溝橋旧橋 現在の公式では橋のできたのは1192年となっている。また、旧橋もこの旅行のあと1986年12月から大規模に修理されたという。現在では盧溝橋は入場料が要るそうだ。 ホテルへの帰り道、途中の通りがやけに賑やかだ。色とりどりの電球を渡し、急ごしらえらしい台の上にパーカッションをのせ、ジャズバンドの演奏だろうか、人がいっぱいいた。つづく、翌日は北京市内観光
July 15, 2026
コメント(0)

第5回は北京、1986年7月26日(土)の万里の長城観光です。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 明の十三陵から西北へ向かう。路上に野菜売りの母子?がいた(左写真)。蒸し暑い中、子供はちゃんと荷車の影にいる。大根?トウモロコシ? 何を売っているのだろう。 なだらかな丘陵地帯が去ると、やがて峨々たる山々が目前に迫り、バスはくねくねした道を猛然と上り始めた。 谷を越えた彼方に狼煙台のようなものが見え、ついで尾根に連なる長城が豆粒のように小さく目に入った(右写真)。登るにつれそれはぐんぐん間近になり、巨大な八達嶺の入り口に着いた。 先に昼食を取る。なぜか四川風で、辛いが食欲をそそる。食後に土産店を見、トイレに行こうとすると、私たちよりやや年下に見える娘さんたちが絵はがきを売りに来る。ほこりだらけの商品をつかみ出して見せながら、2組10元と言う。高いと思い行きかけると2組8元いや5元まで下げると言いだし、トイレまでついて来た。 ところでトイレは有料で1角払うとトイレ・カード(左画像、「八達嶺収費廁所」とある)とチリ紙をくれる。中は低い仕切りのある和式で、まあまあの清潔さ(??)である。出てくるとまださっきの女の子たちが待っていたが、それを振り切って店へ戻った。思った通り同じ絵はがきが1元で売っている。私はそれと、やや大型の1.5元の絵はがきを買った。 さて、蒸し暑さをものともせず長城登り*にトライする。登り口で向かって右が一般的なコース、長いが傾きはゆるやかで登りやすい。左が“老人用”といい、短いがはるかに急なコース。この「老人」とは、年取って弱った人ではなく、老練な達人のことらしい。左の方が景色が良いと聞いていたので、ツアーメンバーの中で最も若い私たちはためらわず左へ向かう。 *長城登り 現在では整備が進んで、登り口から南は男坂、北は女坂と呼ばれるらしい。私たちが登った当時は、北側のみ整備され、北行きのコースが二つあったのである。 どんどん、ひたすら登る(左写真)。Mの予想通り雨は降らず、曇っているものの見通しはきく。しかし暑い。汗が首筋をつたっている。一カ所異常にきつい登りがあって、昔日の国境警備兵の足腰の強さに思いをはせつつ、めげずに登り続ける。やがて振り返るとハッとするほど雄大な美しい光景が広がる。一般コースの右手の長城が、ジグザグにゆるく折れながら尾根をはいのぼっているのが見える(右写真)。あちらは人、人、人で混雑しているようだ。 目を移して左右の胸壁越しに彼方を眺めれば、波打つ緑である。気を取り直して最後の登りをクリアし、望楼に着く。鉄の非常階段みたいなのを登ると、楼の天辺であった。ここからはいくつもの尾根、いくつもの谷が次第に青くかすみながら彼方まで広がるのが見渡せる。確かに最適な見張り台だ。左写真は望楼から振り返った長城東側。未開放の城壁、観光バスがたまっている入り口、これまでの登りが見える。 眼下でヒバリらしい声が静まりかえった山に聞こえている。右写真は北側の山々。ここを匈奴や北方遊牧民の兵士たちがどっと攻め上ってきたのだろうか――などロマンに浸った。 望楼から先は、城壁が未修復のため立ち入り禁止だが、行っている人もちらほらいた(左写真、ツアーメンバーのTさんSさんも写っている。彼らは行けるだけ先まで行ってもう戻ってくるところだ)。私たちは冒険せず、引き返すことにした。望楼の壁の天辺に立って写真を撮ったりしている勇敢な中国人観光客を眺めやりつつ、ビクビクしながら急な坂を一歩一歩下る。膝がガクガクしてよけいに汗が出てくる。なんとか登り口まで帰り着くと、ジュース売り場に走って行った。 八達嶺からの帰り道、長城の関所の一つである居庸関に寄った。首都北京防衛の要塞だったそうだが、それよりも過街塔の雲台*のアーチ(右写真、観光地なので露店が出ている)が見所である。アーチの縁取りの彫刻はガルーダ(神鳥)をはさんでナーダ(女体の蛇)一対。仏教というよりインドの神々である。 アーチの内壁には、彫刻がびっしり。四天王(琵琶を持つ持国天の写真(省略)を撮ったが、後で調べると日本の持国天はたいてい剣を持っているが、琵琶を弾くのは中国の民間信仰の影響だそうだ)、仏像(いちめんの小さな仏を背景にしている)のほか、お経や塔の建造記録などを記した色々な文字(6種類)が彫ってある。西夏文字はどれだろう、などと騒ぎつつフラッシュをたいた。左写真はその一つ、パスパ文字。西夏文字の写真は、カメラの裏蓋をうっかり一瞬開けてしまい光が入って失敗した! *過街塔の雲台 雲台とは仏塔の台座の意味。仏塔はすでにない。西夏文字はここの内壁のレリーフから解読された。 北京市街へ戻ってきた後、日壇公園で四川料理のピリつく夕食を取った。中国の公園の例に漏れず広く美しい所で、緑ゆたかな夕暮れの散歩道でいこう人々が見え、噴水のそばでおじいさんが楽しげに胡弓を弾いていた。 バスで天安門の前などを通りホテルへ戻る。 北京、まだつづく
July 11, 2026
コメント(0)

第4回は北京、1986年7月25日(金)~26日(土)。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 北京行きの飛行機に乗る予定なのだが、上海空港に着いてみると、その飛行機はまだ北京を出ていないとか。待合室で2時間ばかり待つ。添乗員Wさんが何かの実をくれた。殻のような固いつぶつぶの外皮を剥くと、白いマスカットみたいな中身が出てきて、甘くておいしかった。鍳真号の食堂でもこの中身だけパイナップルと一緒に出たことがあった(後記、ライチである。当時は日本には出回っていなくて、初めて見たので左のような絵を描いた)。 ようやく、タラップで中国民航の国内線に乗りこむ。右画像は航空券(表と裏。裏はタイヤの広告である)と荷物券。航空券には後で私が書いたメモ(済公と盧溝橋)がある。 座席は左右3人ずつ横6人幅で、150人乗りぐらいかな、とN。アナウンスは中国語と英語。上昇すると涼しくなり、サービス精神満点で次々とモノが出てくる。“紅果汁”と書かれた紙パックのジュース。お菓子、扇子、さらに飲み物(お茶とパインジュース)。 窓の外は雲海だそうで(高所の苦手な私は常に窓から遠い席に座る)、下は雨かもしれないとのこと。空路約1時間半、午後4時ごろ北京に着いた。荷物をだいぶ待ったあと、バスでホテルへ…が、ホテルは南の郊外だという。またか!と、うなる。 空港からの直線道路は、今回も感動の大陸気分。並木は道幅拡張を見こんで三重になっており一番内側はアカシア、次にポプラ、柳。時々その間に羊の群れが見え隠れする。公団住宅的アパートがたくさん並んでいるのは、工場の周囲の労働者居住区。少し立派なアパートや戸建ての家は、外交官などの家族専用だそうだ。 北東から市街地に入り、南下して、天壇の塔を車窓にちらり。その近くの玉石工場(北京玉器廠)で夕食。それから西進し南下するうち、Mはすっかり眠りこんでいる。 ホテルは1981年にできた京豊賓館*の10階。中国におけるホテルのボロ化(劣化)速度は日本の常識の10倍である、という結論に、私たちは達した。つまりホテル内は5×10年前の様相を呈している。エレベーターの扱い方も理解できず困る。部屋からの眺めはなるほど良いが、霧がかかり、見渡す限り田畑である。 *京豊賓館 現在では、拡張した北京市街にふくまれている。 翌朝、8時にバスに集合して明の十三陵*に出発する。空はどんよりと雲が厚く、雨が心配されるが、Mいわく彼女の旅行で雨が降ったためしがないから絶対大丈夫だそう。今度は北京の北の郊外へ向かうので、昨日ガイドさんがくれた北京の地図を広げてみても、またもや“欄外から欄外への旅”。 が、ホテルから市街地に入るまでは馬車やロバの引く荷車も多く、スイカの路地売り、野菜満載のトラックなど、見るものすべて楽しい。市街地では馬車は禁止され、警笛も規制されている場所もあり、左画像のような標識が目立つ辺りは、非常に近代的で高層ビルがどんどん建っている。路もダイナミックな立体交差にロータリーで目が回りそう。日本ならタクシー料金が急上昇するだろう。市街を抜けて少しするとようやく「十三陵 33公里(km)」 という標識が見えた。 *明の十三陵 明(14~17世紀)の16人の皇帝のうち13人の陵墓が集まっている場所。 田舎道を馬車がいろいろなものを積んでゆく。野菜、山のようなワラ、おじいさんの乗ったのもある。一頭立て、二頭立て、三頭立て。馬だけの、ロバの、馬・ロバミックスで曳く車。この辺の馬は小さいのでロバとほとんど見分けがつかない。黒や茶色のが多いがたまに真っ白いの(ロバに多い)もいる。自転車も見かけるが、荷物が転げ落ちたり、チェーンが外れたりしてなかなか苦心しているようだ。 やがて大学街(学校の多い地区)にさしかかる。どの学校にも門に毛沢東の像がある。立派な自家用車らしい車も見かける。 明の十三陵に近づくにつれ、ひどいガタガタ道になってゆく。最後はロデオなみのバウンドで切り抜け(私たちも中国式運転にはや慣れた)、10時すぎに、左右に石像の建ち並ぶ参道らしき所に着いた。人物や動物の白っぽい石像が一対ずつ、整然と向かい合って並んでいる。立った象、座った象、龍か麒麟みたいなの、馬、らくだなど。ガイドブックで見たのと違い、個々に鉄の低い柵がめぐらしてあるのが残念だった(左写真、つきあたりは檽星門(リンシンメン)。現在は柵なしで、像は真っ白に塗り直されているようだ)。 十三の陵の中でただ一つ発掘されている定陵の見学にゆく。山のふもとにある立派なお墓で、形はちょっと仁徳天皇陵(大仙古墳)に似ている。仁徳陵でいう前方後円の「前方」の横辺は、拝礼場所らしい。「後円」部分は丸い丘で、被葬者である神宗万暦帝の名を彫った石碑があり、その地下にある墓室(「地宮」=地下宮殿)は撮影禁止だった。右写真は定陵の門で、アーチ下の空間を区切って見えるのは石碑である。 地宮の奥の石室に至るいくつかの扉には、盗掘を防ぐため様々な工夫を凝らしたかんぬきを創ってあり、こじあけたりダイナマイトを使ったりしてようやく石室に到達したのだ、とガイドさんが発掘の苦労を説明してくれた。 暗くて空気の悪い、とても狭い階段をぐるぐる回って下りると、地下27mに洞穴のような石室がある。皇帝、皇后それぞれの玉座と巨大な甕(かめ)のような灯火台(蝋を入れて火をつけるそうだ)のある細長い部屋を過ぎると、奥に万暦帝と二皇后の棺が並んでいる。真ん中が皇帝、右隣が皇太后、左が皇后。皇太后はもと貴妃の位だったが王子を産んだので死後、位が上がって皇帝の隣に移されたそうだ。 高い天井に反響する見物者たち(大勢だった)の声、暗い石室によどんだ地下の空気…かなり不気味だった。 発掘をしていない残りのお墓(先祖のお墓だから、むやみに暴かないのかな)を遙かに望みながらバスで西北へと出発。いよいよ万里の長城・八達嶺へ行くのである。つづく
July 9, 2026
コメント(0)

第3回は半年ぶりの上海、1986年7月24日(木)午後続き~25日(金)。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 この前行きそびれた人民公園に行く。ひたすら広い。入場料5分を払って入った人々が、ベンチに腰掛けたりカップルで歩いたりしている。そこらはプラタナスの森だ。国際飯店(旧パークホテル)の時計台が梢ごしに見えている。 左写真は池とあずまや風の休憩所。一組のカップルに、池をまたぐ橋の上で呼びとめられた。しきりに私とMの帽子(日本から持ってきた麦わら帽子)を指さす。山口百恵に似た娘さんはすらりとした美人で、Mの帽子を借りると、豫園(よえん)でも見た折れ曲がった橋の上で、女優みたいにポーズをつくった。連れの兄ちゃん(私見だが、あまりハンサムではない!)が旧型(に見える)カメラを構え、恋人を撮影。次に娘さんは私の帽子を借りて橋桁に足をかけ、凝ったポーズをつくってまた写真に収まる。帽子を返すとにっこり笑って二人は行ってしまった。 上海帽店で買ったばかりのNの麦わら帽子は、貸せと言われなかった、ザ・日本の麦わら帽子がそんなにオシャレに見えたのだろうか、それにしても美人だった、と我々はプラタナスの下を歩きつつ語り合った。 やがてツアー一行は工芸美術部に集合してジュース(サンキストレモン、2元)を飲み(Mは早くもお土産のパンダを二つ買い)、バスで玉仏寺*へ行った。おお、名の通り、つるつるの仏さんが居る。1分のお賽銭を入れて拝み、見物する。(お寺の大雄宝殿は現在も余り外観が変わらないようなので写真省略。)右写真は、仏像をのせた不気味な目つきの魚が印象的なので撮ったもの。 *玉仏寺 中国最大の禅寺。魚に乗っている仏は魚籃観音だろうか? 信者が赤い衣を着せたそうだ。 今日の日程を終え、ホテルへ…それが、空港近くの、以前泊まった新苑飯店よりさらに西(市街地から遠く)と知って、笑ってしまった。程橋賓館*という。やはり未完成のホテルである。庭は純中国風の池や渡り廊下、太鼓橋などの形がようやくできかけているところ。完成すればさぞやきれいだろうが、ただいまのところはホコリのたつ瓦礫の山が目につくばかり。 ホテルで夕食。部屋は新しくきれいだ。冷房はきいているが、洗濯物は乾きそうにない。長旅なので衣服は洗濯して着回さなければならない。私とNの心配をよそに、Mは前に杭州でガイドをしてくれたアンパンマンことCさんへ、手紙を書くと言って盛り上がっていた。 左上画像は両替伝票。1元=約90円で1万円が227元5角1分になった。 *程橋賓館 現在では、旅行サイトなどに見当たらない。 翌25日。朝食の後バスで龍華寺へ行く。快晴で暑く、郊外のガタガタ路にはホコリが舞う。左右には田畑、トウモロコシや野菜が多い。近郊農業の多毛作地帯だそうだ。たまにはビニールハウスも見える。市中へは入れない大型トラックも多く見える。 龍華寺は文革のあと建て直したとかで新しく、今日は旧暦の何か行事の日で多くの人がお参りに来ている。老人が多いのは日本と同じだろう。昨日の玉仏寺もそうだが、壁はカラシ色で明るく、仏像も極彩色だ。黒衣のお坊さんたちが私たちのすぐ隣でおつとめ(扇子で各自ばたばたあおぎながら読経!)をしていたりする。 有名な塔(五重塔どころか七層だそうだ)や千手観音などを見物した。塔は現在も同じ外観だが、下を歩く現地の人々の服装などが、当時としてもなつかしい感じだった(右写真)。 バスに乗り、上海空港のそばの西園飯店で昼食。本日2度目のスイカが出た、とメモにある。これで上海を離れ、北京へ発つ。つづく
July 7, 2026
コメント(0)
![]()
19世紀末のイギリス幻想文学の傑作、とされるジョージ・マクドナルドの長編『リリス』。ファンタジー小説のご先祖だから読んでおかなければ! と、むかし買い求めました(ちくま文庫)。 主人公の相続した屋敷の図書室に、隠し扉やそこから半分突き出た本があり、黒服の司書が出没します。あやかしのようなその司書の後をつけた主人公は、屋根裏部屋の古い鏡の向こうの、摩訶不思議な世界へ。そこでは、司書はオオガラス(raven)に変身し、みみずを土からほじり出して投げ上げるとチョウになって舞う。太陽の色はみみずの赤だという。 司書は墓守だと自己紹介し、白いシーツにくるまれて並ぶ死人たちの横で眠れと、主人公に勧める。時が満ちれば死人たちは目覚めるのだから、と・・・ 訳者の荒俣宏、解説を書いている矢川澄子両氏とも、物語をあれこれ詮索するより、めくるめくイメージ、生と死の転換、多元的な世界などに身を任せて味わうのがよい、と書いています。 で、とにかく読み進むと、短い挿話が続くなかにも、ストーリーがおぼろげに現れてきます; 主人公は頭でっかちの若者で、最初は死の眠りを拒み、異界の様相にあらがったり議論したりします。が、やがて羽ばたく蛍火を追って探索に旅立ち、戦ったり踊ったりする不気味な骸骨たち、無垢な子どもばかりの集団、「悪い巨人」、そして正体不明の美女(リリス)に出会います。 女王リリスが街を支配し、子どもに滅ぼされる予言を信じて、赤子をすべて市外へ捨てさせていたのです。その赤子が無垢な子どもたちとなって森に住んでいる。うっかり大人に育ってしまった者は悪い巨人になる。 主人公は、リリスの美や甘言にさんざん惑わされた後、無垢な子どもたちを率いて戦い、彼女をとらえます。墓守が、彼女に改心をせまります・・・ と、そこまではついて行けたのです。 しかし、墓守(つまりオオガラス、つまり司書)が、旧約聖書のアダムであると明かされると、物語の後半は、宗教的な感動に満ちた魂の遍歴みたいな語り口になってゆき、主人公が死の眠りのあと復活し「法悦」や「歓び」を体験するのに、異教徒の私はどうしても乗り遅れてしまいます。作者マクドナルドはプロテスタントの牧師さんですから、お説教くさくなるのは仕方ないのかもしれません。 ストーリー的に言えば、頑迷なリリスの魂を、生まれ変わりに至る死の眠りにまで導き、異世界には隠されていた水の流れがほとばしり出て美しい川や湖を作り、主人公はその体験を心に、現世に帰還する――ようです。 しかしそれがキリスト教的な死後の復活や天国(永遠の生命)への参入だと説かれると、何だかそらぞらしく思えてしまいます。この異界はカトリックのいう煉獄のような場所だったのでしょうか。カラスの性格(バードセルフ)を持つ司書レーヴン氏が、単なる狂言回し的老賢者ではなく、人類の父アダムだ、とはどうも私にはイメージが違いすぎて…、最後まで黒服の墓守でいてほしかったと思いました。 それに、キリスト教の神はアダムとイヴに服従を求め、イヴが戒めを破ったために楽園追放となったのです。従順なアダムに対し、彼の最初の妻といわれるリリスは(ユダヤや中世の伝承によれば)、対等であることを主張します。史上最初の女性は、史上最初の男女同権論者でもあったわけで、悪者扱いばかりする気にはなれません。なぜといって、そういうふうにリリスを創ったのは神様だったというのですから。 被造物であるリリスが、 「だれもわたくしから”わたくし自身”を奪いとることはできないわ」 「わたくし自身の考えがわたくしを作ります」 ――マクドナルド『リリス』荒俣宏訳と言い張るとき、服従するばかりでなく自立していこうとする人間性が見える気がしてしまうのですね。 作者も、リリスがやがて目覚めてすっかり改心するのか、どんな性格になるのかまでは、描いていません。 それどころか、だんだん現実世界と異世界、目覚めている時と夢見ている時が入り交じり、見分けがつかなくなります。荘氏の「胡蝶の夢」のようです。目覚めたと思っても実はそれもまた夢でした、というのがくり返され、最後にはひとりぼっちで図書室に戻るとあります。 その後の現実世界でも幻影を見たり、実はこれは夢なんじゃないか、と思ったりしながら、生命が「やがて、いやおうもなく、夢とひとつになる」(ノヴァーリスの引用)のを待ち続けている、という言葉で、長大な物語を締めくくっています。 思うに、これはマクドナルドの最晩年の作品ですから、彼は自分の生命(意識)が夢(無意識)とひとつになり、やがて天に召されることを日々感じ取り、それを物語にしたのでしょうね。 あまりにも霊的レベルが高すぎて、なかなか理解しがたいのも無理はありません。 HANNA的には、カラス男のレーヴン氏レベルで大満足です。
July 6, 2026
コメント(0)

第2回は旅の始まり、1986年7月22日(火)~24日(木)です。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 鍳真号(がんじん、中国語の表記。左画像はパンフレットより)とは一年前(1985年)、大阪-上海間または神戸-上海間を直接結んで運行を開始したフェリーの名である。むろん奈良時代にやってきた高僧鑑真にちなんでの命名なのだろうが、あまりの時代ギャップに異様な気もする。 ともあれその鍳真号に乗るべく、曇り空の大阪南港に集合。Nは上品な濃紺のワンピースを着て、この前上海で買ったネックレスなどしている。 荷物は全部、船室内に持ちこむ。乗務員は中国人で日本語・中国語・英語のチャンポンでしゃべりかけてくる。安い雑魚寝の「Eデッキ410号室」には私たち3人と、あと5、6人の女の子。 正午に大阪南港を出航。右画像は乗船券。 船の食事は並ばないといけない。昼は洋食、味は学食(大学食堂)並み。キリンビールと並んで青島(チンタオ)ビールがある。午後から晴れたが船室は冷房がきいて涼しい。 最初、海はひどく汚かったが、夕方甲板に出ると、見違えるほどきれいな藍色の外洋が広がっていた。青島ビールを3杯飲んだ夕食後、日没を見る。水平線に陽光が映る中を、船は南西に進む。 船のお風呂は湯舟が壊れているとかで使えなかったが、まァなんとかなる。愛用の東芝walkyで音楽を聴きつつ午前2時頃寝る。 翌朝7時半起床、朝食はお粥で私はパス。船がゆったりとゆりかごのように揺れ始めている。 朝の海を見にゆくと船はもう真西に進んでいる。陽の昇る方向と行く手とで海の色が違うのが感動的に美しい。すぐ眼下の泡立つ海は黒潮の深みのある濃い色。南の方角に島がある。左側が山で右の方が低く見える。この船は大隅海峡を通るはずだから、あれは種子島だろうか? 昼にはサングラスをかけてまた海を見る。快晴、青黒い水平線が広がる。 船には卓球台があったが、私たちは船室でごろごろ、トランプ、読書、落書き(左画像、『シルクロードのシ』より木原敏江の模写)、音楽などで暇をつぶす。理系のMがやおら物理の課題を取り出したので、対抗して私も単語帳を出してみたが、馬鹿らしくなってやめてしまった。 夕方また海を見る。船のまわりがぐるりと全部海で、当たり前なのだが、何ともいえず嬉しい。やがて西天に金星?が出た。上空は薄曇り、東天中空に大きな赤い星が出た。火星かな。 同室のT美大の女子たち(私たちと同じツアーではない)が夜もにぎやかだ。夜1時半ごろ就寝。 翌朝6時40分、目を覚まして愕然とした。船の揺れはすっかりおさまり、外は黄土色の水面。いつの間に揚子江に入ったのだろう。ああ、狙っていた“シナ海と揚子江の境目”を見逃してしまった。 海から上海に入る人は/船が東シナ海から揚子江に入る辺りで一様に驚く 一面の水の広がりは東シナ海の藍色と揚子江の吐き出す泥の茶色にくっきりと二分され なぜか交わることはない ――森川久美『蘇州夜曲』 がっかりして寝床に戻りフテ寝していたら、今度は知らぬうちに船が黄甫江に入ってしまった。慌てて甲板に出ると、帆を下ろしマストを棒のようにつったてた小舟が1そう目に入る。この前来た時は見られなかった“ジャンク”のようだ。わァっと喜んではみたものの、帆がないので雰囲気が出ていない。他にもないかと目をこらしたが、ジャンク禁止令でも出たのかさっぱりである。 黄甫江には以前と変わらず大小さまざまな船が行きかっている。その中を我らが鍳真号はしずしずと奥へ進んでゆく。外灘(バンド)の横手に着くと、懐かしいビルの並びはなにやらおもちゃのように小さく、私たちを迎えた。中でも和平飯店のとんがり屋根がおかしい! 妙にガタガタで足場が組んである。工事中なのだ。何とも情けない姿(右画像)。 10時に上海港着。やっと、同行のツアーメンバーに会う。老若男女(「若」は私たち)12人と添乗員のお姉さん(Wさん)。私たち以外の方々は上等の二人船室(寝台付き)に居らしたようだ。 白檀の扇子をお土産にもらって船を下りると、迎えの中国人が大勢、紙に「○○先生」などと書いてふりかざしている。何やらドラマで見る戦後の引き揚げ船のようだ。キョウチクトウの木立ちからセミの声が、日本の夏のように響いてきた。南京路の外れから見ると、時計台(税関)の向こうに見慣れぬ新しいビル。風景が変わりつつある。 全行程ガイドしてくれる中国人のメイさんを紹介された。メガネの優しそうな男性。バスで申江飯店へ行き昼食、その後午後3時半まで南京路中心にフリータイム。国際飯店からタクシーに乗り、まず友誼商店へ(タクシー代4元)。この前と売り場の配置が変わっている。上海の絵葉書(以前バラで売っていた)を捜すが、ない。 私は不足が予想される歯磨き(中国語の漢字を読むと“牙磨き”である)、Nは持参し忘れたスカーフを買って、さて外灘へ。 陽光がギラギラと照り返すなか、外灘の古いビルは妙に明るかった。前回、冬の小暗さと寒風の中で時の流れをたたえていた建物たち、それが日光にがんがん照りつけられては廃墟のよう、古びた秘密を露呈して無残である。ガーデンブリッジから振り返れば、上海大厦が黄ばんだ紙細工さながら、陽炎のごとくに立っていた。 ただ黄甫公園から黄甫江ぞいの緑地帯のプラタナスは目にしむほど鮮やかな緑で、セミしぐれが(日本の数倍やかましかったが)なじみ深く聞こえた。花壇にはとりどりの花が咲き、アイスクリーム屋が小さな手押し車を止め、人々は暑さを避けて木陰にすわりこんでいる。 南京路に戻って雑踏の中、汗を流し人いきれにむせながらハアハアと歩く。人が多い、これだけは変わらない。新華書店でMが紙に「英国威猛、Wham!」と書いて店員に見せたがやっぱり「没有(メイヨ)」と言われた(以前の旅日記参照)。 道路をわたって上海帽店に入る。筆談のすえ念願の緑の人民帽を手に入れ(左画像、値段は1.3元。裏には「鞋帽批犮部」=靴と帽子の卸売りとある。後で分かったが私には少しサイズが小さかった)、Nはピンクのかわいい麦わら帽を買う。シルクロード方面に行くには日光をさえぎる物が必須なのに彼女は忘れてきたのでスカーフや帽子を調達したのだ。帽店のお兄さんが優しかったので気分を良くしてまた歩く。国花陶器店(以前、茶碗を買った)で、Mが紫のフタのついたタッパーを買う。 道ゆく人は、チョコとバニラで色分けされたパンダの顔の形のアイスキャンディーをなめている。ジュースも売っているが、添乗員のWさんに露店の飲食物はおなかをこわすからだめだと言われていたので、涙をのむ。 真夏の上海、つづく。
July 5, 2026
コメント(0)

半年前から連載した「40年前の“聖地巡礼”――上海レトロ旅の記憶」に引き続き、私と友人2人(M&N)の若かりし頃の旅の記憶第二弾です。真冬の上海から半年後、勢いづいた私たちは再度中国旅行を決行! 記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。(下画像は二つとも私の古い落書き。右のは神坂智子のコミックスの真似)第1回はプロローグ; 沙漠を 見た 蜃気楼を 見た 砂嵐を 陽炎を オアシスを 見た 祁連(きれん)山を 見た 火州吐魯番(トルファン)を 雪の天山(テンシャン)を ゴビを 黄河を 見た 廃墟を 見た 日干煉瓦の家を 見た 石の仏を 緑の湖を 羊の群れを 見た そしてシナ海を見て 家に帰った NHKがシルクロード番組を始めたとき、私は中学生で、楼蘭で発見されたミイラを知って世間並みに驚いた。が、まさかフツーの人間が行ける所でもなかろうと思っていた。何しろ相手は中華人民共和国――共産圏である。 高校生になって英語の教科書にヘディンの旅行記が載っていた。大学受験をひかえた頃に、友人Nが神坂智子のコミックス「シルクロード・シリーズ」を勧めてくれた(左画像)。NHKで見た楼蘭のミイラをモデルにした話がある(「キャラバンの鈴」)と、彼女がうっとり語っていたのを覚えている。私たちは全員、世界史を受験の選択科目にして勉強、というより歴史ロマンにひたっていたのである。 前の旅行記に書いた通り、森川久美『南京路に花吹雪』にかぶれた私たちは、大学に入るや上海旅行を画策。冬にはそれがあっさり実現して、浮かれ気分だった。 上海から杭州日帰り旅にご一緒した国語の先生をしている男性が、自分はシルクロードも旅したと言い、「大変良かった、ぜひ行きなさい」と勧められた。地に足が着かぬまま、私たちは「よし、次はシルクロードだ!」と即決してしまった。 春になり、私たちはバイトに明け暮れ、旅行会社のパンフレットを物色して歩いた。当時、中国は改革開放路線まっただ中、日本はバブルまっただ中で、中国旅行の広告は増え始めていた。 シルクロードくんだりまで出かけるとなれば50万円はかかるだろう。お金は貯まるか? 今夏に行けるだろうか。どうせなら敦煌止まりはいやだ、奥地まで行きたい。シルクロードの出発点西安はぜひとも行く。加えて中国旅行も2度目だから首都北京も行っておくべきだ。さらに、あの上海にもう一度行きたいではないか! これを全部満たすようなツアーは、とてもあるとは思えなかった。ところが、あったのである。しかも格安の船旅。大学生協のツアー案内で見つけた日通航空の「シルクロード21日間」で、なんと38万円。上海へ船で入るということは、森川久美『蘇州夜曲』の再現だ! さあこれでめどが立った。私は井上靖『敦煌』をはじめシルクロードの旅行記をNから借りて読んだ。ほかに伴野朗『50万年の死角』『さらば黄河』など。 3週間という長期間留守にするので、バイトの調整も大変だった。特にMは大騒ぎし、当初8月5日出発に決めかけたツアーは彼女の都合で7月22日出発となった。 直前まで気の揉めることと言ったら、去年の上海行きと同様だった。まず、ツアーは20人よりとなっているが、結局12人で行くことになった。また、当初私たちは上海でフリータイムを増やし、あわよくば蘇州も再訪したいなどという途方もない計画を持っており、帰りを飛行機にしてその分滞在を延ばすと交渉したが、当然、実現しなかった。パック旅行にあまり欲を出してはいけないのである。 ともあれ、必需品――水筒にサングラス、帽子を用意。私は髪を切ってドライヤーなしでも頑張れるようにし、夏が来るのを待ちわびた。 二度目の日本脱出の夢、それも人外魔境の砂漠へ向かうとあって、私の心には奇妙な覚悟が生まれていた。新学期からまたもや慢性的倦怠感が続いていたこともあり、「砂漠で果ててもいい」、そんな気持ちが少しあった。 右上の画像が予定された行程、下の落書きは実際の旅程である。鉄道で西安から酒泉まで行く予定だったが、実際には飛行機で蘭州に一泊し黄河流域を見たあと嘉峪関へ行った。飛行機のおかげでより内容が充実したのは、円高のせいでお金が余ったおかげでは、という説もある。また、トルファンからウルムチまでは列車ではなく車でワイルドなドライブとなった。 次回はいよいよ船で上海に入ります!
July 3, 2026
コメント(0)

土日に、雨空のもと、朝ドラ「ばけばけ」の余韻の残る松江城や小泉八雲記念館を観光し、玉造温泉に一泊して翌朝、玉湯川の奥の玉作湯神社を訪ねました。左写真は、玉湯川にかかる宮橋で、この左の木の茂るあたりに神社の入り口があります。 玉造という地名は大阪市や、他にもいくつかありますが、どれも古代の勾玉づくりにゆかりの土地。中でも松江の玉造は、三種の神器の一つ八尺瓊(やさかに)の勾玉(一つとも八つとも。一つの場合、緑色だという)を作った所と言われているそうです。 このブログでも以前とりあげた荻原規子の古代ファンタジー「勾玉シリーズ」には、八尺瓊の勾玉のことらしい8つの勾玉が出てきます。その一つ、嬰(みどり)の勾玉の里のモデルと思われるこの地を、私は一度訪ねてみたかったのです。 奥のせばまった谷あいにまた一つ村があり、どうやらここが玉作村だった。 …[中略]… 村は…工人の村だけあって…大きな館があるので長のものかと聞くと、そうではなく工房だといわれたりする。 …[中略]… 庭はこんもり茂る森につづいている。そして森にわけいる小道の先に、小さな鳥居とほこらが建つのが見えた。 ――荻原規子『白鳥異伝』 行ってみると、ほの暗い木陰に隠れるように一の鳥居が、すぐその内側に苔むした二の鳥居があり、その奥は狭い石段が急角度に上へ続いていました(左写真)。二の鳥居の左には神社名を記した古い石碑、右には細道が木下闇へ続いています。石段横手で勾玉形のお守りを売っていました。私はもちろん緑のを買いました。売り子さん(巫女さんかしら)の話では、大和(奈良)の勾玉と形が少し違って、まるっこい素朴な形なのが出雲の勾玉だそうです。ほかに、拝殿脇の「願い石」で願掛けをするのに使う小さなパワーストーンも売っています。 出雲石という青めのうの一種(ちょっと混ざりけのあるやわらかな青緑色)があるそうですが、売っていたのはわりとキレイな緑色でした。 さて石段を登っていくと、どんどん森が深く空気も濃密になる感じ。途中に荒削りの石を積んだだけみたいな灯籠(右写真。「文久」という年号が見える)が、やはり数種類の苔に覆われてしっとりと立っていたり、付近の工房の遺跡から出土した玉や工具などを収めた古い収蔵庫が隠れ家のようにあったりします。 登り切ると、もっと精巧な灯籠や、狛犬もありましたが、そのすぐそばまで巨木の太い幹やつやつやした枝葉がせまっています。本殿のある敷地は白く平らですが、ひしひしと森の精気に取り囲まれているみたい、森林浴なんて上品なものではなく、ちょっと怖いような幽暗の世界。 重そうな屋根の拝殿は、杉の木を左右に従えていました。まつられているのは、玉造の祖神、櫛明玉(くしあかるたま)の命。おお、『白鳥異伝』に出てきた櫛明彦(くしあかひこ)ですね。征服されたとき、秘宝の嬰の勾玉の代わりに次々と偽の勾玉を献上してついに玉造師の祖先となった玉作り名人です。 右手には、吸い込まれるようにまっくろな池があり、そばには他にも色々な神様をまつる小さな社がたくさん並んでいました。古代というか自然崇拝のパワーが満ち満ちている感じです。 さらに右奥の水の湧き出すところにあるのが、「願い石」。同行の友人は教えてもらった作法にのっとって願掛けをしましたが、私はその右隣の石が気になりました。青緑色につやめいていて、勾玉の原材料である石のようです(左写真)。あとで調べたら、「御守石 碧玉・青めのう」という札が立っている写真が観光案内サイトにありました。玉造温泉の東に広がる花仙山から採れたという、碧玉混じりの青めのう「花仙石」なのでしょう。 『白鳥異伝』では、本物の嬰の勾玉は、櫛明彦の末裔に代々受け継がれてきた小さな牙のような形のお守り石でした。もしかしたら、この「御守石」のような色だったのかもしれません。 玉作湯神社の近くには、温泉の他にも、玉造り関連の遺跡や資料館、公園など見所がまだまだあるようです。機会があれば、また訪ねてみたいと思いました。
June 24, 2026
コメント(0)

6月1日から神田神保町のブックハウスカフェで開かれていた「児童文芸 出発!おはなし展2026」は8日に終了しました。 とてもたくさんの方に来ていただいたそうです。私のお友達やお世話になっている出版社銀の鈴社の社長さんも来てくださいました!! 私自身は7・8日に会場にて他の出品者さんたちのもりだくさんな作品を楽しむことができました。 イベントが終わりましたので、絵を担当してくださったしのざきまりかさんの許可を得まして、拙作「黄色いふくろは何でしょう」のイメージ画をここにご披露いたします。 子どもたちそれぞれの表情や、背景のお花の細やかさ、全体をつつむなつかしいような優しい雰囲気が素敵です。登場人物の兄妹は、自然と、私の息子と娘によく似た性格になっていき、絵を見た娘が「女の子は昔の私そっくり」と言いました(笑)。 !画像には著作権があります。無断転載はおやめください! 物語・絵ともに、私のホームページ内でご覧いただけますので、興味のある方はどうぞ下のリンクから。 「HANNA'S HOLLOW HILLS」内、自作物語のコーナー「Travellers' Tales」の目次 このページからは、一昨年のおはなし展2024の出品作「そうじきザウルス」(絵はうえすぎしんやさん)や、ずーっと以前に児童文芸絵本展に出品した創作絵本「ジュンくんの出発」(絵は井上緑さん)などもご覧いただけます。
June 10, 2026
コメント(0)

児童文芸家協会主催、童話や絵本のテキスト+イメージ絵画 の発表会「出発!おはなし展2026」が今日から神田神保町のブックハウスカフェで開かれています。 前回開催された一昨年は、創作絵本のテキストなどで出展させてもらいましたが、今年は、少しだけ長いお話(低学年部門)で出展しています。 会場には他にもたくさんの絵本があるそうです。お近くにお越しの節は、覗いてみてください! 私の作品はタイトル「黄色いふくろは何でしょう」、絵はしのざきまりかさんです。
June 1, 2026
コメント(0)
![]()
若いころ、荒俣宏の絶賛につられて読んで、ただライオンの素晴らしさにクラクラっと来ただけでした。このライオンは、発掘された遺跡の壁画で、戦車に乗った王に挑みかかっています; 大きく強くて、獰猛で、背骨のところに矢が二本ふかく食いこんでも、まだ生きている一頭だった。矢が、体の中で火のように燃えた。目がかすんでくる。血の流れが耳もとで、二輪戦車の車輪の軋む音と混じりあって、どくどくとひびく。・・・[中略]死にかけたライオンの王は跳びあがり、かれ自身を槍にさらした車輪に、くるくる回転する背の高い車輪に、しがみついた。低くうなり、額をけわしくさせて、車輪に噛みついた。しかし車輪はさらに回転して、かれを上に押しあげ、次いで闇の中に放りこんだ。 ――ラッセル・ホーバン『ボアズ・ヤキンのライオン』荒俣宏訳 後日TVのドキュメンタリー番組で、アッシリアのアッシュールバニパル王の壁画を見たとき、「このライオンだったんだ!」と興奮しました。びっくりするほど生命力に満ちあふれた浮き彫りで、とても紀元前7世紀の作だとは思えません。壁画には狩られるライオンが矢や槍を受け倒れ死ぬところもあり、生と死、それを自らの手で決定する偉大な王の力などが表されているようです。 しかし、この圧倒的なライオンが、物語の流れとどうもうまくかみ合わないような気がしてしまうのです。 世の中にはライオンが見えない人、ライオンとは無関係に生きる人(ボアズ・ヤキンの母など)もいて、彼らと、主人公の父子との対比は、意味があるように思えます。 しかし、たとえば舞台がリアルなアメリカっぽいのに、ライオンの壁画のある遺跡(イラクの乾燥地帯にあります)が近所にあるし、ドイツの描写もちらりと出てくるのです。ファンタジー要素(=ライオン)の出現するのがリアル(現実)世界であるという設定なら、なぜアメリカ的な中東や、取ってつけたようにドイツですよな表現が出てくるのか、よく分かりませんでした。 それから、ストーリーが、父と息子が生(と死)の実感を取り戻すクエストを行い、最後に共感し合うのですが、「大人向けのファンタジー」というだけあって、要所要所に女性との営みが生命の証みたいな場面があって、それ自体はいいのですが、ライオンとはどう関係あるの?と思ってしまいました。また、地図を作るということも人生の旅路の象徴のようですが、やはりライオンと結びつきにくいのです。 つまりはライオンが素晴らしすぎて、地図だの女性関係だのどうでもよく思えてしまう。 再読してもやはり、ライオンの存在感がすごすぎて、車輪(=時の流れの象徴でしょうね)に噛みつくその姿がまばゆく心に浮かびます。もしかして、ライオン(=生と死)が圧倒的であるということを表現するために、舞台設定やストーリーはどうでもよく書かれているのでしょうか!
May 10, 2026
コメント(0)

2019年に「2020東京オリンピック/中止だ中止」で映画が再上映された時は、コロナが怖くて観に行けませんでした。先日、38年ぶりに観ました、「AKIRA」(画像は1988年当時の前売り券とパンフレット)。 お正月にTVでもやってましたが、やはり映画館でのド迫力は圧巻! オープニングのドーンから、ねぶたとケチャを混ぜ合わせたハイテンポなテーマ曲へ、細胞が沸き立つような山城組のサウンドが、パワフルでショッキングな感動をよみがえらせてくれました。 原作を読んでいないので、当時「とにかくすごいらしい」というだけで観たものの、バイオレンスと悪夢、破壊に次ぐ破壊で、細部に目を凝らす余裕もなく、結構いっぱいいっぱいになったのを覚えています。サイバーパンク体験てこういうのかなあ、と。 なぜか後々まで私の心に残ったのは、数珠を手に吠えるように祈る教祖ミヤコ様と、信者が路面に大筆で書く「AKIRA」のパフォーマンスでした。人々の鬱積した不満や不安がふくれあがり、このような形で現れるのを初めて観たのです。宗教ってよそ事ではなく、こんなふうに社会に生まれてパワーアップし、人々を駆り立てる可能性もある、ということ。拙作『海鳴りの石』3巻に登場する、奇声を発する占い女はミヤコ様がモデルだったりします。 数年後にオウム真理教がニュースの話題になった時も、私はミヤコ様を思い出しました。 「AKIRA」では、ネオ東京の高層ビル群と対照的な、周囲の地べたでうごめくごちゃごちゃした歓楽街、スラム、デモ隊などが、当時から何やら懐かしさを感じさせていました。再度観て思うのは、やはり「昭和」、第二次大戦後~バブル期の歴史がにじみ出ていたのですね。 冒頭のドーン(新型爆弾)は原爆、大戦と復興は40~50年代、革命運動は60~70年代の学生運動(デモ隊の旗に「反帝」と書かれているのがいかにも古い。令和の若者は意味分かるの?)、そして飽和した金満文化の陰に世紀末の何か不穏な予兆があって(80年代)・・・と。 作者の大友克洋もその意識で描いていたと、先ほど調べていて知りました(昔のパンフレットにはそんなこと書いてなかったし)。 思えば80年代後半、「世紀末」という言葉がどんどん増殖し、次の世紀になる前に、浄化というか禊ぎというか、何らかの関門/敷居/試練/破壊を越えねばならないのだろう、みたいな終末と再生の予感が大きくなっていました。『風の谷のナウシカ』などの、核戦争後の世界を描いた創作がたくさん生まれたのも、そのせいでしょう。 夜にまばゆい高層ビル群を斜めに見上げる形で、金田くんと一緒に疾走すると、ストーリーは破壊と混乱へ突き進んでいきます。ふくらましすぎた風船が割れるように、自らのパワーの膨張で「爆発」てしまうテツオ、そして東京。人々は破壊に巻きこまれ、おしつぶされ、せめぎあい、それでも未来へ向かってもがく、そんなパワーが画面狭しとあふれています。 結局そのパワーは東京を破壊し尽くしたあと、ブラックホールのように超能力関係者を別の宇宙へと吸いこんでいき、廃墟に平穏が戻ります。水没した都市は浄化されたごとく陽光に照らされ、人々は瓦礫の中からまた歩み始めるだろう、というエンディング(映画版。原作は違うそうです)は、また第二次大戦後に戻ったかのようです。 ただ、AKIRAのパワーの源は、誰の細胞にも、いや生き物すべてに宿っている(生存・進化のパワー)とされます。この考えは他のSFにもあり、例えばスター・ウォーズのフォースとか、ファースト・ガンダムの「人の革新」とか。 そう考えると、世代や歴史を繰り返しながら生命が進化しつづけたように、変化は「もう始まっている」、止まらないのでしょうね。第二次大戦後の世界が原子力という恐るべきパワーを抱えて歩み始めたように、金田くんたちはAKIRAのパワーを抱えて歩んでいく。 と、そんな未来展望の映画だったのだなあ、と改めて思い出しました。 2020年の4K版のキャッチコピーは「時代がようやく追いついた」ですが、物語の時代設定2019年を過ぎた今、現実はどうなんだろう、と思います。自分が年を取ったこともありますが、昨今の世の中には「AKIRA」ほどの(つまり昭和時代ほどの)人的パワーがあまり感じられない気がするのです。 未来へ進むパワーはもっぱら、人間の代わりに仕事をし考えるロボットやAIの開発に、そして、現実の代わりに体験し楽しみ学ぶバーチャル世界に、注がれているように思えます。 出生率も減ったりして、人間自体のパワーは、小さくなっていくような・・・そう、『やがて人に与えられた時が満ちて…』(池澤夏樹)のように、静かでエネルギーの縮小するエンディングへ向かっているような気がするのです。それもまた、未来の再生へつながる一つの浄化であり試練であるのかもしれない、という気もしますが。 「AKIRA」時代の細胞パワーを懐かしく回顧するHANNAでした。
April 19, 2026
コメント(0)

『くまのプーさん』のA・A・ミルンの「大人のために書きあげた現代のフェアリー・テイル」(ハヤカワ文庫裏表紙より)、『ユーラリア国騒動記』(1917年)。出版当時はなかなか書店になく、長らく忘れていましたが、最近古本で入手しました。 フェアリー・テイルとあるのは、原題が「ONCE ON A TIME」(昔々~)だからでしょう。中世風の架空のユーラリア国のメリウィッグ王とヒヤシンス王女を中心に、隣国バローディアとのいさかいや魔法の引き起こしたあれこれを、軽いタッチで語り進めます。 枠構造になっていて、作者は架空の歴史家が書いた『ユーラリア王国の今昔』(全17巻!)を参照し批判しながらこの物語を書いたことになっています。 隣国との戦争の原因について、歴史家の記述(歴史というにはうそくさい、メルヘン風)を紹介したうえで、筆者は全く違う“真相”を語る――ところが、それも魔法がらみの滑稽譚なので、読者は面くらい、作者と歴史家どちらもうさんくさく思えてきます。 トールキンの『指輪物語』も、架空の歴史記録の出てくる枠構造のファンタジーですが、作者は架空の書をきちんと翻訳したことになっていて、歴史書は作者の語りにリアルさを持たせる役割。 また、以前ご紹介したジェイン・ヨーレン『光と闇の姉妹』では、架空の歴史家が本筋のファンタジー的伝説を批判しまくるという構造で、異なる視点からストーリーを考えさせ、その奥にあるだろう真実に、やはりリアルさを持たせています。 ところがこの『ユーラリア国騒動記』は、そういう枠物語自体を茶化している感じです。架空の話にしろ、真実をつきとめることに価値があるのか? と思ってしまいます。 キャラクターの性格づけもしかりで、一筋縄ではいきません。(以下ネタバレあり) メリウィッグ王は気のいいだけのお馬鹿な格好つけに描かれていますが、ヒキガエルに変えられたのにウインク一つで妖精を負かしたり、敵国王のひげを剃り落として戦争に勝利するなど、そのテンネンさが意外なパワーを発揮します。 敵国王の方も滑稽で、二人の王は戦場で豚飼いに変装してだまし合おうとしたり、あきれるばかりです(しかし、アイルランドの神話には魔術師である豚飼いが争ったり、予言をしたりする話があります。豚は豊穣の象徴だったそうです)。ところがこの敵国王は、威厳の象徴のひげをなくすや王をすっぱりとやめて、ひそかに憧れていた豚飼いになってしまうのでした。 西洋の物語では、豚飼いは王と対比されて時々出てきます。ロイド・アリグザンダーの「プリデイン物語」では主人公タランは豚飼いから最後には王になりました。王が豚飼いに身をやつすというような話もあるようです。しかし、真剣に豚飼いになりたい王とは、価値観の逆転では? と読者はびっくりです。 それから、ヒロインの王女。野心家のベルベイン伯爵夫人のもとで、王女は気の毒な立場のはずですが、やはり愚かで、伯爵夫人に丸めこまれてしまいます。無力な彼女は騎士道精神を期待して、アラビイ国のユードー王子を招来します。 読者は想像します、王子は伯爵夫人を負かし、王女と結ばれるだろうか? あるいは、王子も野心家の悪者で、王女につけこんで第二の敵となるか? ところが、どちらでもありません。伯爵夫人が先手をうって、ユードー王子に変身の魔法をかけたので、王子はウサギに似た滑稽な生き物(画像参照)になり、王女は助けてもらうどころか、 同情しているとはいえ、目をそらしたくなりました。 …[中略]伯爵夫人と王子、いまや王女はふたつの荷物を背負い込んでしまいました。 ――A・A・ミルン『ユーラリア国騒動記』相沢次子訳 ――という有様です。 ではベルベイン伯爵夫人こそは悪役かというと、自己陶酔的な夢見るオールド・ミス(もしかしたら未亡人、Countessという語には女伯爵/伯爵夫人の両義があります)で、ありもしない軍隊の経費を国庫から奪って王女をだましますが、「施し癖」があって、金貨をばらまいてしまう。ベルベインという名前は「美人」+「虚栄」で、特に男性から見るとなかなか憎みがたい魅力を持っているファム・ファタルのようです。筆者でさえ、 昨夏、わたしは…[中略]彼女(あるいは彼女の生まれ変わり)に会いました。 …[中略]彼女を見つめているうちに、何世紀もの年月が巻き戻され、彼女とわたしは、ともに、あののどかな国ユーラリアにいるのでした。 ――『ユーラリア国騒動記』と、突然センチメンタルになるほどです(ベルベイン伯爵夫人はミルンの妻がモデルだと知ると、うなずけます)。しかし彼女は悪びれもせず日記や詩作に血道をあげ、結局成敗されもせず、最後には王の愛情深い後妻におさまります。ここでも私の予想は外れました。 そしてユードー王子のダメ男ぶりは、初め変身させられたせいかと思われましたが、だんだんにもともと自己チューなおぼっちゃまでてんで役立たずだと分かってきます。ベルベイン伯爵夫人にころりと参ってしまったり。それでも最後には少し見せ場を作るのかと思いきや、大団円の輪からも弾きとばされて退場、あらあら。 というふうに、おとぎ話のお定まりを予想していると、見事に作者にまぜっかえされ、しかし最後にはハッピーエンドでちゃんとおさまる(例外はありますが)ところが、面白いです。 『くまのプーさん』のように単純なキャラ設定ではないところが、「大人のための」童話なのでしょうね。
April 11, 2026
コメント(0)

第22回は旅の6日め、1986年1月5日(日)最終日つづきです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 外灘の建物をさんざん撮った私たちだが、最後に広東路を昔の五馬路(現漢口路)と勘違いして立て札を写した(左写真)。背景は外灘3号(上海地質研究所)。建物の壁に「新年」などと落書きがある。 さて、すっかり冷えこんだので、再び和平飯店8階のレストランへ逃げこんだ。念願の窓辺の席で、ストープに手を温めながら、ぜいたくな朝食(7.3元、右写真は伝票)。しつこく炸醬麺と小籠包子を食べる。お茶は、この旅で知った銘柄「鉄観音」、淡い黄金色の上品な烏龍茶である。サントリーのウーロン茶とはまた違った色と味なので、私たちがレストランで何というお茶か尋ねたところ、この銘柄を教えてもらった。おいしいのでお土産にも買ったと記憶している。 窓からは朝日に金色に輝く黄甫江が見渡せ、旅の最終日にふさわしい感慨に浸った(左写真)。 午後の帰国までの時間をどう過ごすか、話し合った結果、ホテルにほど近い上海動物園に行くことにした。南京路を西進するバスで行ったと思う。動物園前で降りると、入り口付近の道端にパンの屋台が出ていて、買って食べた。西洋風のパンだからか、あるいは観光地値段なのか、結構高いがそれなりにおいしかったとメモしてある。 右写真は動物園の入り口、左画像はチケット。表には「公園を訪れるさいは礼儀正しく行動せよ」「ゴミを捨てないでください」。裏は時計店の広告で「上海時計 上海市時計産業貿易センター 優れた職人技と正確な時間管理」とある。入り口近くに、中国に住む動物たちのマップがあって、とにかく動物好きの私は写真を撮った(右写真、一部)。 日本の動物園と違って、桁外れにだだっ広い公園、というか原野みたいな所だった。見渡すとところどころに植えこみや塀があって、てくてく行ってみると何か動物が居る。次の動物は、と見渡して、また彼方の何か囲いまでてくてくと歩く。左下写真はペリカン池であるが、これだけで一つの公園のようだ。 パンダが何頭か居たが、広い場所で飼われていたので遠目にしか見えず、しかも地面にころげてどろんこになっていた。日本のように特別扱いせず、動物園の一員でしかないという感じ。それで私たちは写真も撮らなかった。とにかく全部へめぐるのに何時間かかるのか、心配になっていた。 右下写真は「珍しい牛の一種」とメモにある。最近調べたところ羚牛(ターキン)、四川省やチベットなどにいる希少種だった。 何とか全部見終えてバスに乗る。今度も(まだ昼間なのに)切符が全部はけているらしく、何度交渉しても車掌(服務員)さんは運賃を受け取らなかったので、タダ乗りである。 ホテルに戻るとすぐ、帰国の途に就く(私はあわただしさの中で旅行鞄の鍵をなくした)。 さらば上海―― 夢と希望と光の上海 So Long上海 さらば おまえ 外国(とつくに)の姿たもちて 波の果てに放浪(さまよ)う街よ―― (『蘇州夜曲』) (左画像は黄子満、模写です) 寒かったけれど雨には一度もあわず、ほとんどが晴天だった。心残りは上海博物館。人民公園に昼間行けなかったこと。饅頭を買えなかったこと。ジャンク船が見られなかったこと。挙げればきりがない。 けれど私たちは、それぞれ大事な物をかかえて帰った。Mは孔明先生の白羽扇(第6回参照)、司馬遼太郎『項羽と劉邦』の項羽ファンであるNは、米粉でつくった項羽人形*、そして私は馬のカルローズ(第14回参照)である(右イラスト)。 *項羽人形 最近Nに訊いたら、蘇州で買ったということだった。米粉や小麦粉を練って作る漢民族の郷土民芸品で、麺人形とか麺塑とかいう。三国志などの有名人物のものが多いが、最近では棒なしでガラスケースに入った高級品や、日本のキャラクターのもあるそうだ。 今度はJALに乗り、夕方6時に大阪に着いた。とたんに周りじゅうから耳に襲いかかってくる日本語の洪水に、めまいがしそうになる。たった四、五日でずいぶん耳も変わるものだ。 完 思ったより長くなりました。この旅に調子づいた私たちは、同1986年夏、今度はシルクロードの旅へと暴走。この顛末と古い写真も、夏ごろ連載したいと思っています。
April 3, 2026
コメント(0)

第21回は旅の6日め、1986年1月5日(日)最終日です。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 いよいよ旅の最終日。我々は時間を惜しんで早起きし、タクシーで、ちょうど朝陽の昇る頃、外灘(バンド)の海辺に出た。 こんなに早いのに、公園では現地の人々、特にご老人たちが白い息を吐きながら、集まって太極拳をやっている。我々も端っこで少し真似してみたりした。話しかけてくるおじいさんは、日本語を達者に操る。「今朝はマイナス7度」「私は若いころ日本語習いました」などと。左写真の手前のおじいさんは手袋がでかい。木立の向こうには上海大廈。 関西育ちの我々には未体験のしびれる寒さ、さすが大陸である。しかしよく晴れて、おじいさんとの会話の間に浦東の向こうから昇った太陽が、まぶしい(右写真、当時の浦東は開発が始まったばかりで建設用クレーンがそびえるのみ)。 戦前の摩天楼群はどれも真横から日を受けてセピア色だ。左下写真は左から和平飯店南楼、中国銀行、中国工商銀行上海分庁(旧横浜正金銀行)。手前の中山東路(旧黄浦灘路)にはトロリーバスが数珠つなぎである。あちこち撮りながら、黄浦公園(旧パブリック・ガーデン)*を散歩する(右下写真)。波止場に憩う船たちの左奥には先日夜景を見たシーガル・ホテルがある。 パブリックガーデンには「犬と中国人入るべからず」って看板が出ている なんて街だ… (『蘇州夜曲』) *黄浦公園 実際には「犬と中国人入るべからず」ではなく、「外国人用である/犬と自転車は禁止」。現在では改装され英雄記念碑や博物館もあるそうだ。 左写真は公園の北西󠄁角、黄甫江の曲がり目である。ガーデンブリッジの右に、上海大廈。前にも書いたが、てっぺんはフジフイルムの大きな広告。 赤れんがの建物は、1911年に建てられた旧ロシア領事館(この時はソ連領事館。現在はまたロシア領事館として現役)。郵船埠頭と呼ばれたあたりには『南京ロード』のサンタ・クララ号みたいな?船が泊まっている(右写真)。 ガーデン・ブリッジへ写真を撮りながら進む。海に注ぐ泥色の蘇州河には、今朝もおんぼろの小舟が数艘、泊まっている。「外白渡橋 1907年」とたもとに記された橋を渡る、寒そうな人々(左写真)。 再び公園外縁の中山東路を南下しながら外灘のビルを間近で見物する。江海関(税関)の時計台は1927年建築、ビッグベンを模したとかで、今でもアジア一大きい時計台。さらに、ドームのある上海市人民政府*の入り口で、直立不動で立っている「超かっくいー」兵隊さんを「激写」する(右写真)。長銃を持っているのがものものしい。柱の看板が朝日にとんでしまったが、人民政府共産党委員会、とか書いてあったと記憶している。 *上海市人民政府 旧香港上海銀行。現在は上海浦東発展銀行。 左下の写真は外灘2号・東風飯店(旧上海(特派員)クラブビル、現ウォルドルフ・アストリアホテル)と、右隣の外灘3号・上海地質研究所(旧ユニオン・アシュランス・カンパニーズビル(有利大楼)。現ショッピングセンター)、さらに右は広東路をはさんで外灘5号・上海海運公安局・上海市航全学会(旧日清ビル=日清汽船上海市店、現在は華夏銀行)、外灘6号・長江航運管理局(旧中国通商銀行)も少し見える。手前の手すりには「請勿随地吐痰」(ところかまわず痰を吐いてはいけない)とあるし、交通標識はトラック禁止、警笛禁止など、外灘地区の美化を政府が強力に進めていることがわかる。 右写真は外灘を一望(東風飯店から中国銀行まで)。戦前のこの角度の写真には右側に天使の彫像(正式には和平の女神*)があるので、私たちは見回したが、消え失せていた。 *和平の女神 第一次大戦の戦没者追悼のために1924年建てられた(中国の解説によるとヨーロッパ戦勝記念碑、勝利の女神)。日中戦争で侵攻した日本軍により取り壊されたそうだ。鋳つぶされ武器弾薬になったと思うと悲しい。つづく、最後は動物園へ!
March 30, 2026
コメント(0)

第20回は旅の5日め、1986年1月4日(土)お買い物つづきです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 南京東路では、ばかでかい新華書店にも行った。これはあちこちにある国営本屋さんの南京路店である。一角にレコードやカセットの音楽を売るコーナーがあり、山口百恵のポスターがやたらと貼ってある。私たちは、前年(1985年)、外国ミュージシャンとして初めて中国公演を行ったWHAM!(ワム)のカセットを発見した!(右画像) ジョージ・マイケルファンのNは大興奮。カセットの表書きには大きく「英国威猛」と書いてある。この漢字でワムと読ませるようだ。ところが、このカセットは売り切れたのか、見本として置いてあるだけらしく、注文しようとしたら「没有(メイヨ)」とお決まりの応答をされてしまった。 間口の広い瀬戸物屋さん(国華磁器商店?)も物色した。冬景色の描かれた、少し蓋がいびつな中国茶を飲むカップを入手(左上画像、2.3元)。Nが底を見て「景徳鎮だ!」と言ったし、『南京ロード』で本郷さんが「支那茶は飲みにくい(ぺっぺっ)」とやっていたのを思ったのだ。中国の人々はみなこのようなカップに茶葉とお湯を入れて飲んでいる。 にぎわう南京路をうろつくうちに、暮れてきた。左写真は福建中路との交差点で、トラック禁止・警笛禁止の標識がある。右手前が「老大房」(食品店)、その向こう(西)が新新美发厅(美容院)。現在でも老大房は同じ場所にある。左の高層ビルは人民広場(旧競馬場)近くの旧上海レースクラブハウス(今は図書館)?あるいは国際飯店?。右写真は浙江中路との交差点。バスの架線と街灯が交差して見える。遠く右の塔はおそらく東亜飯店、左の塔は第十百貨店。右一番手前から南洋衫袜商店(衫袜はシャツと靴下。清代からある老舗で、現在は大型商業ビルとして健在)、協大祥綢布商店(これも老舗で現在もあるブランド)、絨毯商店、第一医薬商店などが並ぶ。 私たちは南下して「紅燈の巷、四馬路(スマロ)」へ向かった。今の名は福州路である。しかし、歓楽街だった往時とは違い、街灯もまばらで真っ暗である。 血の色の夕焼けが美しかったが、街路そのものは闇に埋もれていた。写真も何枚か撮ったが、建物は判別しがたいほど真っ黒。右写真は福州路の鉄橋から人民公園・広場の方を見たところ。テレビ塔と、右にはたぶんレースクラブハウスが夕空にそびえている。 仕方なく西へ戻り、人民広場にたどり着いた。ふり返ると一つだけ、桃の花と赤青緑のにぎやかなネオンが見え、「汗衫」の字が読めるので下着屋さんの広告板のようだった。 広大な人民公園は戦前の競馬場。「南京ロード」で黄と紅雪美(ホンシユメイ)が待ち合わせをしていたっけ、と入り口からのぞくと、今もなんとなく競馬場ぽく、見物をする斜面のような芝生(冬枯れているが)がある。はるか向こうに国際飯店(パーク・ホテル)の高層建築の上部が見えた(写真は例によって失敗)。 私たちは南京路(南京西路)に戻って帰路につくべく西進し、成都北路*の看板のところで、諸葛孔明ファンのMの記念撮影などをした(成都は蜀の都である)。この頃にはすっかり夜で、晴れていたせいかしんしんと冷え、我々はまたどこかからバスかタクシーで帰った。夕食はホテルで食べたのだろうか、焼き飯とスープ、とメモにある。 *成都北路 現在では南北に高速道路の高架が通っている。 ところで、ホテルの部屋にはテレビがあった。中国語が分からないのだが、私の印象に残ったのは何度か観た「済公」*というドラマである。勧善懲悪の時代物で、日本でいうと「水戸黄門」のような番組か。といっても、主人公の「済公」はぼろを着たひょうきんな老人で、破れうちわにひょうたんに入った酒などを持ち、放浪している。術を使って悪者をやっつけたりするが、へらりと笑って立ち去る。「巷間の聖人」という言葉がぴったりで、気に入ってしまった。 主題歌(リンクから聞けます)がまた、耳に残る。リフレインのところが、「♪なむあみホウホ、なむあみホウホ」と聞こえる。あまりに脳内でリピートされるので、カセットを見つけて買った。のだが、今さがしても見当たらない。仕方なく百度百科の画像を借りてきた(左画像、あまりよいカットではない)。このドラマは数年後に日本でも放映されたことがあり、私はVHSに録画した。実際、当時の中国ではものすごい人気ドラマだったそうだ。 ところで、百度百科やWikipediaなどを読むと分かるが、済公は実在の道済というお坊さんで、私たちが旅の初めに行った杭州・霊隠寺ゆかりの人であったと最近知った。つづく、次回から最終日!
March 28, 2026
コメント(0)

一週間ほどちょっと忙しくて更新できませんでしたが、再開します!第19回は旅の5日め、1986年1月4日(土)フランス租界のつづきです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 錦江飯店をめざして茂名南路を北上し、淮海路を越える。まず錦江クラブ*の入り口が見えてきた(左写真)。低い建物だが白く荘重な外観。門前にちょうど真っ赤な車が着いていた。トヨタかな、と言いながら通り過ぎた(現在調べると日産スタンザに似ている)。 *錦江クラブ 旧フランス・クラブ。1926年建築。戦前の上海の名士が集ったおしゃれな場所。現在は外観はこのまま、看板が「Garden Hotel Shanghai」(花園飯店中餐楼というレストラン)。すぐ北に花園飯店(ホテル)があり、ホテルオークラの系列だそうだ。 錦江クラブのすぐ東に建つのが錦江飯店(錦江ビル*)である。古さを感じさせない明るい四角い高層ビルが晴天に映える(右写真)。玄関口のあたりが、『南京ロード』1巻で外務省の秋山さんが泊まっていたホテルに似ている(ただし秋山さんのホテルは南京路に面しているという設定)。 すっかり空腹になっていた我々はずかずか入っていき、上階だったかのレストランで例によって炸醬麺と小籠包子(シャオロンパウズ)を食べた(3元)。炸醬麺は和平飯店のものよりたしか味が濃いめで、食べ比べが楽しかった。小籠包子は蔡文姫(ツァーウェンチー)の手料理の中で美味だと本郷さんがほめた料理で、これも我々は特に思い入れをこめて味わった。 「たまには家庭料理もいいものだろう」「ええ特に小籠包子が――」「彼女の自慢料理だよ」 (『南京ロード』1巻) *錦江ビル 旧キャセイ・マンション。サスーン会が1929年に建てた。上海一の高層ビルだったが、地盤沈下がひどく、1999年に大改修して現在の錦江飯店(北楼)となったようだ。 この後の記録がきちんとしていないのだが、確か茂名南路と淮海路の交差点にある「黄山茶叶店」(茶葉店)で量り売りの中国茶(烏龍茶、龍井茶)をお土産に買い、その隣の菓子店「老大昌」でバタークリームこってりのショートケーキ(左画像)を2つずつ買った。ケーキの方は、油紙の袋に入れてくれたが、我々は、ガラス戸ごしに鈴なりにつめかけて見物する現地の人々を尻目に、その場でむしゃむしゃと食べた。どこか懐かしいくどい味のケーキは、寒さと疲れをいやしてくれたが、今回も、現地の人々にはかなり贅沢品だったのか、視線がつきささるようだった。 その後、カメラのフィルムがなくなったので、(多分タクシーで)この日も友誼商店に行ってフィルム(6.1元)を買う。あとは西日の差す南京東路をショッピングしながら西へ歩いた。河南中路との交差点(右写真。道の向こうのお店には「?福皮鞋店」。市街地図には「中华皮鞋店」となっていた。手前右はゴミ箱)の、南西角で見つけた京劇の衣装を売る「上海戯劇服装用品店」(ガイドブックには上海戯劇刀槍門市支部とある)に入った。きらきらしい品物を見た後、自分用に涙形のガラスのついたイヤリングを赤と青色違いで2組、7.4元で買い求めた(左下写真は実物と伝票)。商品はピアスが多く、はさむタイプのイヤリングは見つかればラッキーである。けれどずっと後に、私は青い方のイヤリングを片方失ってしまった。 アクセサリー類を売る店は他にもあったが、租界時代のものは「文物」(工芸美術品)というシールを貼ってある。高価でない物もある。後から聞いたが、ツアー仲間のOさんは文物のブローチ(いぶし銀)をどこかで買ったそうだ。 右写真はこの店の前あたりで撮ったもので、古い建物、塔や屋上の細部が美しいので写したのだが、右が長城鐘表商店、中央が揚州飯店だろうか。ところで写真のバスの広告にある「佛手牌」とは調味料の会社で、「味の素」にヒントを得て中国版万能調味料を作った上海の老舗ブランドだそうだ(MSGというらしい)。 お買い物まだつづく
March 24, 2026
コメント(0)

第18回は旅の5日め、1986年1月4日(土)フランス租界のつづきです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 淮海路をしばらく歩いた私たちは、南へ曲がり、ゼスフィールド公園*と信じた復興公園へ向かった。旧フランス租界内で池や噴水ある広い公園だったのでそう推測したのである。 左写真は途中で撮った赤煉瓦の建物二つ。どちらかを、Nは共産党第一回全国代表大会の行われた建物だと言ったが、違うような気がする。この年の夏、私たちはツアーできちんと共産党大会の址を見学したが、灰色が基調の建物だった。 *ゼスフィールド公園 実はずっと西の中山公園。『南京ロード』の昭和初め頃はかなり郊外だったろう。 右写真は、復興公園の東、重慶南路ぞいにあった、上海市廬湾区の人民政府、共産党人民委員会、中央区全人代常務委員会、人民解放軍の廬湾区人民武?部と看板にあり、要するに官公庁。奥はいい感じの洋館らしい。なお廬湾区は2011年に黄甫区に吸収合併された。 復興公園*内を歩き回る。木々は冬枯れで人も少なく残念な感じだったが、天気は良く、広々として水辺もあり気持ちが良かった。左写真の小道と水路は修理中なのか、石が積み上げてあったりする。 右下写真は南西奥にある池。噴水口があるが冬場のためか水は出ていなかった。池の西の木立の奥に、建物やあずまやが見えた。孫文の住んだ家があるという。 *復興公園 1909年フランス人が造り、フランス公園と呼ばれた。公園内の看板によると、もともと芸術家の建物があったが入場料をとって公園を拡張し、フランス人高官のみ入場できるようにした。1928年になって一般にも開放し、戦争中には大興公園、そして解放後に復興公園と名が変わった。2008年に改修され、現在の公園はにぎわっていて設備も充実しているようだ。 左写真は公園の北西奥で、赤屋根の家並みと木々が美しくて撮ったが、中央右の木立の下に、1983年につくられたマルクス・エンゲルスの石像がある。この像は現在でもあるそうだ。 さて、公園を出ると復興中路を西へ少し進んでから曲がり、茂名南路を北上する。すすけた赤い煉瓦づくりの洋館。家々にはしゃれた煙突と、鎧戸つきの窓のある屋根裏部屋が見える。古い木戸をあけて帰ってゆくマルセル(右下画像、模写です)が、狭い玄関口で待っていた黄(ワン)に出会いそうな、プラタナスの並木道である。 右上写真は、復興中路と茂名南路のT字路だったか、お巡りさんが自転車に乗っている。手前の手すりには簡体字で「計画生育」つまり家族計画と書いてある。1979年から行われている一人っ子政策のスローガンである。この政策は2014年まで続いた。 左写真もたぶん茂名南路。煙突のある古い洋館を撮ったのだが、木でよく見えない(この辺りは現在ではショッピング街だそうだ)。歩道にはバス停、ゴミ箱。ちらほらと行き交う自転車や人。外灘(バンド)のにぎわいや威圧するようなビル群に比べ、なんと静かで時の流れをゆっくりとかみしめていることだろうか。 黒い髪の/私のチャイナボーイ/不思議な人… (『南京ロード』4巻)錦江飯店へつづく
March 17, 2026
コメント(0)

第17回は旅の5日め、1986年1月4日(土)つづきです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 私たちは旧城内を取り巻く環状道路の北の部分、人民路(旧城河浜路)までやって来た。左写真は、人民路の看板(小さくて見えないが)とアパート風建物。左手前のようなかっこいいジープもまれに通る。 環状道路の内側が城内で、『南京ロード』冒頭の旧正月シーンで見世物小屋が建ち並び、黄(ワン)がナイフ投げをしていた所である。また苦力(クーリー)*と呼ばれる中国人労働者たちの寝ぐらもあったらしい。『蘇州夜曲』の本郷さんや、『南京ロード』で追われた黄が潜伏したのは、そんな所だと思う。 爆竹・獅子舞・蛇踊り・見世物 中国人街にじき/旧正月がやってくる 新年好! 正月だ 新禧(シンシー)、新禧(おめでとう) (『南京ロード』1巻) *苦力 一般的には中国以外の国の、中国やアジア系󠄀の移民・出稼ぎ労働者をさした。上海は租界地のため国内でもこのように呼ばれたのだろう。 円形の城内の北西部に、豫園(よえん)*がある。手前の池をまたぐのはガタガタ橋(九曲橋)、お正月ゆえか大混雑(右写真)。今の中国では新旧両方のお正月を祝うのだ。橋のたもとの、上海一おいしい老舗の小籠湯包(シヤオロンンタンパオ)(小籠包子)を売る店(南翔饅頭店)付近は、さながらラッシュ・アワーだ。 列に加わって橋を渡り、入場料1角を払って園内に入ると、今日はよく晴れて、伝統的な反り返った屋根や中国風の石庭が、光と影にくっきり分かたれている。『南京ロード』の胡(フー)が跳び出てきそうな屋根や壁。欄干にもたれる大勢の人々は、冬の日に熱気をあげているようだ(豫園の石庭などは現在も変わらないと思われるので写真省略)。 *豫園 16世紀に造られた庭園。清朝末期には小刀会󠄀という結社の本拠地もあった。 豫園の周りには、うねうねとした小道をはさみ、低い軒を並べて、日用雑貨や食品や、様々な店がずらりと並ぶ。「上海の浅草」とかつては言われたそうだ。なるほど、昨日の日本人租界の下町マーケットと張り合うすさまじさ。ああ中国だなあと実感するが、落ち着いて買い物や撮影をするどころではなかった。 豫園にほど近く、初日に夕食で訪れた上海老飯店がある。あの時はタクシーで、しかも夜だったが、今度は周りの様子も見ることができた。左写真は老飯店の玄関、非常にシンプルだが、灯籠の模様など風情がある。現在では改装されて、きらびやかになっているそうだ。 人混みで疲れた私たちは、城内を抜けて旧フランス租界を見物にゆく。『南京ロード』外伝「花は辺りに雨と降り」でパリから来たマルセルが住んだような、しゃれた洋風のアパート(長屋)が今も残っている。右写真のアパートは淮海路と西蔵路の交わるあたりだったか、向こうに上海博物館の塔が見えている。 左写真は桃源路の辺りで見た赤煉瓦の中学校。手前に写り込んでしまった帽子のおじさんのシルエットが不気味だが、なかなか風情がある。 淮海路*に出た。(少なくとも)私は「准」の字と混同して「じゅんかいろ」と呼んでいたが、本当はわいかいろ、ワイハイルーである。広くてきれいな通りで、あちこちに警笛禁止の交通標識がある。ぶらぶらと西へ行く。右写真は淮海中路の交差点で、並木は枯れ枝ばかりだが、たいへんにぎわっている。おしゃれな店というより地元の店舗が並ぶ感じ。写真中央の店には林海果実店とある)。 *淮海路 フランス租界時代は霞飛路(ジョフレ通り)と言った。 やがて「淡水路」の看板を見つけて、ウケた我々は看板を写真に収めた。「寄るな、淡水!」などと言いながら。これは当時『南京ロード』と同じLaLa誌に連載されていた『日出処の天子』(山岸凉子)の中の台詞である。左写真の標識の所に並んだ着ぶくれた子供たちがかわいい。背景の古い建物を利用した店には、「貿易商行」(=商社。店名の上に£(ポンド)の印がついている)、「修理」などと読める。旧フランス租界、つづく
March 11, 2026
コメント(0)
![]()
ドイツ文学のお家芸といえばメルヘン、ロマン主義、ビルドゥングスロマン(自己形成小説)などですが、ハンス・ベンマン『石と笛』(原書は1983年)はそれらをまとめたファンタジー長編。私は単行本4冊をある人に昔いただきましたが、文庫本では安彦良和が表紙を描いています(右画像、この日記のために検索して発見!)。 単行本の表紙は異なっていて、西洋写実風の絵。悪くはないけど親しみにくい。そしてこのお話が、思いきり長くて古風で真面目で堅くて、いかにもドイツ!なものですから、はっきり言って、とっつきにくい。 西洋のファンタジーというと王国には権力争いや姫君、辺境には田園とドラゴン、敵対する隣国、みたいな構図がありがちなのに、この物語の舞台は中世ドイツに似て、王国はおろか領主もほとんどいません。職能集団の自治都市、牧草地、あとは森や山岳や湖沼などの大自然です。この自然描写が細やかで美しいのですが、いや、早く先が知りたい時にかぎって長い描写が! それから、東の方は広大なステップで、モンゴル系と思われる人々(左右に弁髪を垂らしている)が異文化圏を成し、その名も「掠騎族」つまり掠奪する騎馬民族として西の人々に恐れられている・・・現在なら人種差別的とか批判も出そうな設定ですが、ヨーロッパ大陸の人々にとっては歴史を通じてモンゴルが攻めてくる恐怖は骨身に刻みつけられているのでしょうね。 主人公は「聞き耳」という名で、生い立ちからきっちり始まり、17歳で親元を離れて一人旅に出、狼の跋扈する森に入り、試練にあう、お定まりです。彼は若さゆえに自信家で浅はかで他人を敬わず残酷ですが、これが古さを感じてしまいます。昔はこういうタイプが多かったように思いますが、日本に限って言いますと、昨今の主人公たちは、素直で繊細で自分に自信がなく、他人に対して消極的で落ちこみやすいタイプが主流に思えます。いや、実は聞き耳くんも、そういう内面を持ってはいるのですが、それを自認できずつっぱって?いるようです。 そしてこのオールド・タイプの聞き耳くんが、妖女ギザに惑わされて(本当は無実の)バルロの舌を切らせてしまう。バルロは言葉にならない叫びをあげながら追ってくる、恐ろしい展開(第1巻)。日本の昔話にも舌切り雀というのがありますが、昔話やメルヘンだったら残酷展開もさくさく進んでそれほどリアリティがない。しかし、この物語は近代小説なみに聞き耳の心情が描きこまれているので、かなり迫力があります。 そう、長大な物語は、聞き耳の一生をたどる大河小説であると同時に、さしはさまれるたくさんの寓話や夢などの“お話”(メルヘン)の集合体でもあり、それらをうまく組み立てて構成されているのがだんだんとわかってきます。作者、凄腕です。 ただ、第2・3巻は特に、時間軸を行きつ戻りつ、舞台もあちこちとぶので、全体を把握しながらついていくのはなかなか大変です。訳者は親切に登場人物やあらすじを書いてくれていますし、最終巻末には解説や系図などもあります。けれど個々の場面や挿話にとらわれていると、全体の物語の流れの動きを見失いそうになります。 第2巻では鷹乙女ナルチアへの恋慕に血迷った聞き耳が、やはり思い上がって愚行を重ねますが、私はエンデの『はてしない物語』後半を思い出しました。 『はてしない物語』では主人公が、醜いと嘆くイモムシたちを笑いのたえない蛾に変えてやりますが、蛾たちは、虫時代に作った銀細工の塔を壊しては大笑いするようになります。同じように、『石と笛』の聞き耳くんも掠騎族の馬に対して力をふるい、掠奪に行くのを拒むように仕向けますが、その結果、掠騎族は窮乏し没落し、やがて残酷な復讐へとつき進むことになります。 良かれと思って力をふるったのに、裏目に出てしまう。読者は「言わんこっちゃない」と思うのですが、もっと後の方で、この“裏目”が再度ひっくり返って良い面も出てきます。“禍福はあざなえる縄のごとし”というわけです。ちょっとお仕着せがましい感じもしますけどね。 エンデもメルヘンや寓話を取り入れて主人公の冒険行を描いていますが、こちらはすっきりと分かりやすいのは、各エピソードを深追いせずに、「それはまた別の話」と打ち切って先へ進むからでしょう。想像力をかき立てられるけれど、大人の読者にはちょっと物足りない。その点、『石と笛』では伏線回収というか、一度退場したかに見えた人物や事物もまた出てきて物語をまとめていきます。 第3巻になると、聞き耳くんはさすがに試練の痛手をうけて自信をなくし、引きこもりになりますが、ここでたくさん出てきて彼の友となる動物たちが、私には好みでした。彼らの関心は食べ物のことばかりですが、人間の虚勢や欲得ではなくシンプルに生きるということを、聞き耳に教えてくれるのです。 その後、聞き耳の人生は、大人になって性格が良くなったわりに苦難が続きます。しかし今度はサクサクと語られ、読者をこれ以上うんざりさせないかわりに、少し物足りなさを感じさせます。エピソードの舞台も以前出てきた場所が多く、新たな登場人物は少なく、やっと取り戻したお宝も、譲り渡す。それで気づくのは、ああ、これは現実の人生の後半と同じだ、ということ。疾風怒濤の若い時期を終えて、苦しみ悲しみがあろうと時はたんたんと過ぎていく。そうして聞き耳はいわば苦難から”解脱”して人生を終えます。 先ははるかに遠く、まだまだ、すべてではない ――ハンス・ベンマン『石と笛』3巻 平井吉夫訳 軽々と坂を駆け上がる聞き耳が聞く、この最後の言葉は、ルイス「ナルニア国ものがたり」の最後、天国の描写を思い出させます;「さらに高く、さらに奥へ」、登場人物たちは息も切れず疲れもせず天国を疾走するのです。こういうのが、キリスト教的大団円なのでしょうね。 そう言えば、『石と笛』には、ナルニアの『さいごの戦い』で異教徒ながら善行をつんで天国へ到達する若者に似た、掠騎族の若きリーダーも出てきますし、『ホビット』『指輪物語』のゴクリ(ゴラム)に似た、地下の生き物も出てきます。メルヘンやファンタジーの要所要所をしっかり押さえている感じです。
March 8, 2026
コメント(0)

第16回は旅の5日め、1986年1月4日(土)です。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 新苑飯店では朝食に、お粥の他に長細い揚げパンが出て、これがおいしい。「学校給食の味だ」などと言いながら、今朝も腹ごしらえ。 ホテルで追加の一万円を兌換券に両替し、155元ちょっとになった(右下写真は伝票)。この日は市街の南の方、旧城内*(中国人街)と旧フランス租界を見て歩くことにした。 *城内 県城内とも。上海は明代には、倭寇を防ぐ城壁と堀を持った小さな町だったが、この城壁と堀が環状道路となって囲む古い地区。戦前には、租界(外国人居留地)近くだが中国人が住んだ。 今日もやっぱり、市街へバスで出なければならない。昨日と同じ57番のバスで静安寺へ。左上写真は、静安寺付近の南京西路交差点。古いアパート?の建物がお店になっている。右にある空中の丸い小空間には警官が詰めている、つまり交番のようなものか。 この日は街路名の看板を撮りまくった。写真左は、静安寺の少し西の通りである烏魯木斉(ウルムチ)北路で見かけた外車。検索したらベントレーみたいだが、不明。奥では洋館を修理中。 右写真も付近の延安中路で、アパート前の掲示板と電柱の間に大きなタオルなどが干してあるのが印象的。中央で「自転車がアウトサイダーしている」と当時のメモにある。「アウトサイダー」は1983年のコッポラの青春映画で、ポスターは横一列でたたずむ数人の若者(トム・クルーズ等)。この構図をアウトサイダーする、と言った。 バスを乗り換えて今日は48番のバスで延安東路を通り、四川中路と延安東路の交差点まで行った。これだけ乗っても7分(0.07元)である。延安東路は、現在では頭上を高速道路が通っているらしいが、戦前はエドワード七世路、ジョーたちの最初のアジトがあった所だ。 「どこだ? アジトは」 「共同租界のエドワード路/無駄ですよ/今頃はもぬけのカラでしょう」 (『南京ロード』1巻) 上記で共同租界とあるが、この道は外灘や共同租界の南境で、これより南はフランス租界だった。国境をまたいで暗躍するジョーたちにふさわしい場所かもしれない。 私たちは城内に行く前に、延安東路と河南南路の交差点にある上海博物館*を見学したいと思っていた。ところがお正月休みなのか、閉まっていた。無念! 外観だけ撮影(左写真、人物は消しました)。立派な塔のこの建物は旧中匯(ちゅうかい)銀行ビル(1934年建設)。中匯銀行は『南京ロード』にも出る秘密結社青幇(チンパン)の、頭目杜月笙(杜月生)がつくった銀行で、アヘンや賭博の資金も扱っていたとか。現在は中匯大廈と呼ばれ、93年に改築されてややいかつい外観になり、北京銀行が入っている。 *上海博物館 1952年旧競馬場ビルにできたが、59年にこの中匯銀行ビルに移転。その後96年に人民広場に分館が新築されたそうだ。 右上写真は博物館の向かいから撮ったもので、市場や商業ビル(「総合貿易信?服?公司」と読める)がありにぎわっている。右下写真は商業ビルの東隣にあった戦前ぽいビル、丸屋根の塔がかわいい。その右奥には例の現代風の上海電信ビル(まだ建設中)。 旧城内へ向かって河南南路を南下していくと、金陵東路にさしかかる。この道は旧フランス租界の大通り、法大馬路である。青幇の暗躍したアヘン窟などがあり、それらを取り締まる工部局もあったそうだ(共同租界の工部局は九江路(南京路の一本南の通り)にあった)。左写真では、大きな看板に「大豊土特産食品分店」、柱の横には「たばこ、お茶、地方のお酒」。右奥のビルのバルコニーには細かい透かし彫りの赤茶けた柵がありいい感じだが、改修するのか支柱が見える。手前に止まっている車は日産だろうか? いかにも80年代の日本車だ。 もう一筋南の人民路(旧城河浜路)は、旧城内を取り巻く環状道路の北の部分である。右写真のすてきな洋館は歯医者さんというか、「南市区歯科疾患予防治療センター」と書いてあるようだ。検索したところこの建物は人民路565号ラジオ管理事務所新館(1929年建造)かもしれないと思う。つづく、もうじき城内、豫園(よえん)。
March 2, 2026
コメント(0)

第15回は旅の4日め、1986年1月3日(金)つづきです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 友誼商店を出ると、外はすっかり暗くなっている。木枯らしが、南京路のプラタナス並木の枯れ葉を舞いあげ、明かりが少なく亡霊のように立つ高層ビルの谷間を吹き抜ける。けれど薄暗い通りに、人々のざわめきが絶えることなく満ちていた。 この日の夕食は「焼きそばと卵スープ」とメモってあるのだが、どこで食べたのだったか。 私たちの次なる目標は外灘(バンド)全体の夜景である。初日にも夜の南京路を歩いたが、ぜひとも高いところから眺めたい。となるとやはり、上海大廈(たいか)*にのぼるしかない。左下写真はパンフレットにあった戦前の夜景写真(『蘇州夜曲』の冒頭ページそっくり)、上海大廈の上から撮ったのかなと思う。 *上海大廈(ブロードウェー・マンション) 1935年にできたアール・デコ風摩天楼。19階建てで、かつてはアジア一の高層ビルだった。縁起を担いで末広がりの「八」の形だとか。第二次上海事変(1937年8月)以降は日本軍が占拠。戦後は国共内戦の舞台ともなったあと、ホテルとして営業中。 ガーデンブリッジを渡る。下方、闇にのまれる蘇州河には、時の流れに置き去りにされたような小舟が数隻。北岸にそびえる上海大廈はかつて租界の象徴だった巨大建築だが、今では、その屋上に「FUJI FILM」の広告ネオンがきらめいていた。右写真はパンフレットにあったもので、左手前はソ連(ロシア)大使館。 我々はミッションを遂行せんと、無謀にも泊まり客を装って上海大廈に入りこみ、エレベーターで、18階だったと思うが、行けるだけ高い階に行った。が、そこは最高級のディナールームだった。ディナーを食べなければ窓の側には近寄れない。それではと、非常階段を見つけて忍びこんだ。踊り場に狭い窓があり、わずかに美しいネオンの遠景が見えただけ。おまけに1階分下るとフロアに出るドアが開かない。 すったもんだで下りてきた私たちは、フロントへ行ってカタコトの英語で夜景が見たいと訴えた。「屋上は修理中です」と、にべもない。しかし、実は優しいフロントさん、「近くのシーガル・ホテル*へ行け」と教えてくれた。 上海大廈しか頭になかった私たちは、かなりうろついた挙げ句、黄色い屋根の海鷗飯店(シーガル・ホテル)を発見。今度は最上階に上って、ついに窓から夜景を堪能したのであった。 ところが、その時の写真をふくめ、夜に撮った写真のほとんどが、プリントサービス店で現像してもらえなかった。わずかに仕上がって来たのも、ほとんど真っ黒である。私たちの持っている押すだけカメラだと、普通のフィルム「ISO100」では夜景の撮影は無理とわかった。「ISO400」が必要だったのだ。 *シーガル・ホテル 12階?建て。1984年にできた、新しいホテルだった。現在は改築されシーガル・ホテル・オンザ・バンドという。 帰路は、今から思えばシーガル・ホテルでタクシーを頼めば良かったのかもしれない。しかしそそくさと南京路に戻った私たちは、またバスに乗ろうとした。しかし、南京東路から西へ向かうトローリーバス*はどれも、着ぶくれた現地の人で満員である。乗降口にぶらさがるようにして無理矢理乗りこむ人、窓から上半身こぼれ出そうな人などが見え、とてもそこへ参加する気にはなれない。 *トローリーバス 戦前は路面電車だった(1908年~)。黄(ワン)が連れの有田さん(左画像、模写です)を振り切った電車である; 「黄が?」「すいません、電車に乗るスキに…」 (『南京ロード』2巻) 旅行当時は、同様に張り巡らした架線から電気をとるバスが街を縦横無尽に走っていた(地下鉄はまだない!)。世界最古の路線(1914年~)だそうで、たいてい2両連結されている。そのため街角の写真を撮るとどこかに写りこみ、撮りたい建物の前に割りこんだり、そうでなくても架線は必ず写ってしまう。現在は姿を消しつつあるそうだ。 仕方なく我々は西へ向けて南京路を歩きに歩いた。不安と疲れを吹き飛ばそうと、闇夜に冗談を言いあいながら。大学で習いたてのドイツ語の活用「ゲーベン、ガープ、ゲゲーベン」だの「ゲゲーベン・ハッテン」だの、『蘇州夜曲』に出てきた「上海ゴロ」という言葉を、「いもむしごろごろ」みたいに「上海ゴーロごろ」と歌ったり。 「旅費だって?/かせいだ金は全部飲んじまってるぜあいつ」 「上海ゴロ……か」「君もああならないよう気をつけたまえ」 (『蘇州夜曲』) 人民公園の西の端まで来て、人通りも街灯もめっきり減ってさびしい感じがしてきた。公園の木立ちが黒々と道ぞいにしげり、阮明(ルワンミン)が黄を見つけた(『南京ロード』2巻)のはこのあたりではと思う。 上海雑技団の曲技場の建物が見えた。まだまだホテルまでは遠いと思うと絶望的。だが、我々が立ち尽くしていると、西行きのバスがやってきた。上海では工場など三交代制で深夜も通勤客があるため、バスがちゃんと走っているらしい。 まだ結構混んでいたが、今度は突撃して乗りこんだ。人をかきわけて車掌のお姉さんの座る所までたどり着き、カタコトや筆談やで目的地を告げ、切符を買おうとしたが、「メイヨ」と言われる。お金を見せても首を振って、メイヨ、と言うばかり。メイヨ(没有)は、ありませんという意味。今回の旅、お店で何かを買おうとしても、メイヨ、と言われることが結構あった。 押し問答して悟ったのは、時間が遅かったせいか、切符が売り切れなのだった。でも乗ってしまったものを、運賃を取らなくてよいのか。我々だってちゃんと払っておきたい。しかし、車掌さんは服務員(公務員)で、予定の切符以上のお金を取っても儲けにはならないのである。計画経済ゆえ余分の切符は支給されておらず、手書きの領収証を書くとか、そういう発想もないようだ。 さらに、車掌さんも店員さんも、きりりと胸を張ってずばずばものを言う。日本のように笑顔でお辞儀して接客したりしない(例外は外国人向けの特快や友誼商店、ホテルの従業員さん)。大げさだが、ここに共産主義の原理を見たという気がした。 バスは途中で乗り継いだように思う。車掌さんはおっかなかったが、きちんと乗り継ぎ方を教えてくれた。 こうして我々は西の果て新苑飯店に無事帰り着き、大冒険の長い一日が終わった。つづく。
February 27, 2026
コメント(0)

第14回は旅の4日め、1986年1月3日(金)黄浦江遊覧つづきです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れなどを修正しています。 Uターンした船は、蘇州河を過ぎ、黄浦江北岸へ。国際客運埠頭を過ぎる。ここは上海の海の玄関口、昔も船が着いた楊樹浦(やんじっぽ)*である。なんと鍳真(がんじん)号が停泊中だった(左写真の右側)。この年の夏、我々はこの船で上海を再訪することとなる。 浦東*の工場群や倉庫の列を見ながら、船は広々とした港湾風景の中をゆっくりと進み、黄浦江を北へと下る。船室では背広姿のマジシャンが手品を見せていたが、私たちはお茶のサービスをしてくれた服務員のお姉さん達と、ろくに通じないおしゃべりを楽しんだ。たいへんおいしいお茶だった。それぞれ自分の名前の中国読みを教えてもらう。私のはサン・クヮオ・フォア。 *楊樹浦 黄浦江の北岸。租界時代には船着き場や倉庫、日本の綿紡績工場があった所。『蘇州夜曲』に出てくる「淮山(わいざん)埠頭」(=匯山埠頭)とはこの辺り(楊樹浦路18号)にあった日本郵船淮山埠頭のことで、金子光晴『どくろ杯』によると、長崎からの連絡船「上海丸」(または「長崎丸」)が着く所だった。上海丸は当時、26時間の航海の後、午後4時にこの埠頭に着いたそうだ。なお『蘇州夜曲』にはルビが「えいざんふとう」となっているが、誤りだと思う。日本語読みをすれば「かいざん」である。 「長崎から船で一日半/きのうの夜着いて酒場へ直行」(『蘇州夜曲』) 「淮山埠頭の対岸ですよ/取引の場所は」(同) *浦東 この頃の浦東はまだ開発前で高層建築もなく、地図によると黄浦江沿岸に工場と住宅団地があった。 船は平らな水の上をゆき、長江(揚子江)に出た。黄浦江でさえ広いのに、視界の果てまで水が広がり、まるで海だ。しかし曇天の下でも水が褐色でなるほど河と知れる。世界的大河。本当の海まではまだまだ遠いのだ。 長江との合流地点(呉淞口)でUターンして戻る。戻りには空がやや晴れて、また写真をたくさん撮る。右写真は国際客運埠頭とさらに北東の岸壁で、「浙温?」(浙江省と温州のことか)などと書かれた何かの運搬船が横を通った。左奥にたぶん旧日本領事館があるはずなのだが。 往復3時間の船旅は、ほっと一息つくと同時に、中国の広さを実感するひとときでもあった。 遊覧船から下りると、私たちはすぐ近くにある友誼商店(左は旅行パンフレットより)へ向かった。兌換(だかん)券*を使う海外旅行者向けに、お土産をわんさか売っている所で、英語は通じるが日本語はあまり通じない。私たちの第一目的はカメラのフィルムを買うことだった。空港の手荷物検査でフィルムが感光してしまうだとか、そういう噂があったため、最低限しか持ってこなかったのである。 *兌換券 外国通貨と交換可能なお金(右写真)。絵柄も美しい自然風景など。中国人の使う紙幣(人民元)やコインは別にあり、出国時に両替できない。こちらの紙幣には労働者たちやダムなどの絵柄がついていて興味深い。 さっそく6.1元でFujiのフィルムを買う。支払いは手書きの伝票を切り、計算はそろばんで行う。中国のそろばんは珠の数が日本とは違う。梁と呼ばれる仕切りの横棒の上に2つ、下に5つの珠がある。珠もまん丸ででかい。これは日本のそろばんのルーツらしい。 さて、あとは好きなものやお土産を買い回った。3人おそろいで買った蝶のブローチ(「銀蝶針」10元、左写真)の他、私が買ったのは普洱(プーアル)茶(1.6元)、絵はがき(2.4元)。そしてたくさん居る中から表情をえり抜いて買った野性的な馬の人形(12元)。汗血馬だろうか、ポージングも決まっている。 この馬は、リアル動物好きな私の心をつかんだのだが、面白いのは、馬の鼻部分に固い黒いプラスチックがはめられていることだ。よく、クマのぬいぐるみでは鼻先だけ黒いプラスチックだったりするが、馬でしかも鼻と口全体を覆うプラスチックとは初めて見た。そのため鼻がとても目立って見え、NかMかが、『南京ロード』の台詞を引いて、「鼻がこーんな…」と言った。敵方のかぎ鼻の西洋人カルロのことである。 「どんな男だ?」「グレーの髪で 大男で 鼻がこんな…」 「カルロか!? ジョーの部下の…!?」 (『南京ロード』3巻)』 大いにウケた我々は、この馬にカルローズという名前をつけてしまった(なぜズがついたのかは不明)。帰国後も長いこと、この馬は「鼻がこーんなカルローズ」と呼ばれた。左写真は鼻の方から写したカルローズ(鼻が強調されている。本物はもっとスリムでかっこいい)とそのレシート(「馬」の字がなんだか疾駆しているようで良い)。このレシートの日付の欄には「1月」と書いてあるが、「元月」と書く店員さんもいた。 友誼商店は広く、紫檀や螺鈿の家具だの玉(ぎょく)の彫刻だの大きなもの、高価なものを売る上階エリアは、人も少なく独特の香りに満ちていた。そんな一角で、私は刺繍をたっぷりほどこしたチャイナ服(「旗袍」右写真、一部)を見つけ、『蘇州夜曲』の上海リリーとばかりに思い切って買い求めた。今回の旅行でも71元は破格の高値である。サイズが合うかどうか、売り子のお姉さんに身振りで訊くと、大丈夫とのことだったが、ホテルに戻って着てみると、ボディコンシャスな形のため、あちこち相当キツい。特にカラー(立ち襟)のところは苦しくてホックがはまらない。上海リリーになるのは並大抵ではない。ちなみに、私よりはるかに細身のMが試着したらちゃんと着られて、すっきりと美しかった。この日はまだつづく!
February 21, 2026
コメント(0)

第13回は旅の4日め、1986年1月3日(金)上海、外灘と黄甫江遊覧です。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れなどを修正しています。 「宝山路54号」が見つからなくて失意の私たちは、冷えこみ疲れ切り、上海駅前から南京東路までバスに乗った(運賃5分=1元の20分の1)。さきほど呉淞(ウースン)路をそのまま南下していれば行き着いた場所へ戻ったわけだ。今度は外灘(バンド)のビルの真下へ行き、『南京ロード』2巻の名台詞、「外灘のビルの下に立つたび/こいつらが嘲笑(あざわら)ってるような気がする/おまえに何ができる…」の気分をぜひとも味わおうという魂胆である。 初日に宵闇の南京路を見たが、今日は裏通りへ入った。どんよりとした空の下、古いビルの谷間に立つ。左写真は和平飯店の裏、滇池路で撮ったもので、右奥が和平飯店北楼(旧キャセイ・ホテル=サスーンハウス)、左奥が中国銀行ビル。ビルかげの暗がりを、荷車を引く自転車が通る。こういう自転車リアカーは、横丁などでよく見かけた。右写真は、中国銀行ビルの裏、というか横手。古めかしい四角張ったリムジンが居た。 右下画像は『南京ロード』4巻の、ジョーの本拠地シンガー銀行ビルである。中国銀行下に立つと、暗闇にそびえ立つ摩天楼を襲撃する本郷さんの気分にひたれる。 その後、和平飯店8階のレストランで昼食にする。ちょっと身なりのよい中国人や観光客賑わっている。真っ白なテーブルクロスをかけた円卓が並ぶが、さほど高級感はなく、シンプルな合皮を貼ったパイプ椅子である。眺望が良いとのことだが、窓際の席はすでに埋まっていた。2.7元の炸醬麺(ジャジャーメン)*を食べる。ついに本場の炸醬麺である! 「ここは炸醬麺が美味(うま)いですよ」「じゃあそれ」 (『南京ロード』1巻) 「ここは前に本郷さんと来たことがあるんだ/店のにぎわいは変わらないのに/あれはいつのことだったろうか…」 (『南京ロード』3巻) *炸醬麺 肉味噌がのった汁なし麺。現在は日本でもおなじみだが、当時は中華料理店でしか食べられず、我々も『南京ロード』を読むまで知らなかった。日本の中華料理店では、キュウリやタケノコの千切りや白髪ネギのトッピングがあったし、『南京ロード』1巻の絵でもそれらしい物が描かれている。が、中国で食べるとたいてい肉味噌だけだった。五馬路(ウーマールー、現在の広東路)の天山楼(黄が食べた店)では、トッピングがあったのだろうか… さて午前中で「足が棒ですよ」(『蘇州夜曲』)だったので、午後は黄浦江の遊覧船に乗ることにした。ちょうど和平飯店のすぐ北東の岸壁が乗り場である。揚子江との合流点まで往復3時間のコース。当時はこのコースしかなかったと思う(現在は、揚子江まで行かずに約1時間で戻るものが多く、ナイトクルーズもある)。 左画像はチケット(表)。半券には「上海市内水運局 浦江遊覧 ファーストクラス追加チケット特別2元 このチケットはファーストクラスの客室乗務員の航空券と一緒に発行され使用されます。一度使用し、半券を切り取ると無効です」などと書いてある。裏には「1.身長1.0m未満の子供は無料ですが一人につき1名のみ同伴可能 2.販売されたチケットは払い戻し又は交換できません 3.時間通りに船に乗り込み、指定された座席にお座りください 4.乗船場所:外灘 北京東路」と懇切丁寧な注意書き。 冬空はいよいよ薄暗く、寒風吹きすさぶ。それでも私たちは「春江号」の甲板から、霧に包まれて遠ざかる外灘の景色を眺めて盛り上がった。右写真は甲板から撮った外灘風景だが、一つだけ現代的な高層ビルが中央左に目立っている。当時まだ完成前だった上海電信ビルである。あとは外灘1号から順に戦前の建物が並ぶが、戦前とは使っている団体が違うので名まえも違う。例えばいちばん左の外灘1号(白っぽい低い建物)は、旧アジアビルまたはマクベインビルだが、1986年当時は上海冶金設計研究院。そして現在は、Wikipediaによれば、中國太平洋保險公司である。 下写真は中央にガーデン・ブリッジ、その奥の小さな時計台は郵便局。右は巨大な上海大廈と手前シーガル・ホテルに挟まれて、低い赤い屋根の建物が旧ロシア大使館(1916年より。当時はソ連領事館だったが閉鎖中。この年の間に再開したそうだ)。 船はいったん外灘を南の方まで行ったあと引き返して北上する。見通しが悪い中、新しく建った長方形のビルの輪郭が二、三見える(右写真、一番右のビルがさっきの上海電信ビル)。クレーンがいくつも立ち、工事の様子もうかがわれ、港の景色は変わりつつあるようだった。 黄甫江クルーズ、つづく
February 16, 2026
コメント(0)
![]()
スタニスワフ・レムのSF古典『ソラリスの陽のもとに』(1961年)は、2度の映画化(1972年、2002年)などで、名前だけは知っていた作品でしたが、コミックス化(森泉岳土)されたというので読んでみました。 難しい内容は置いといて、まず圧倒されるのは、物語の主題となる、惑星ソラリスのゼリー状の「海」の絵の質量感です。この海が次々形成する理解不能の形態、建築物のようだったり複雑な生命機構のようだったりする、その規則性があるようなないようなごちゃごちゃさ加減を、墨絵のような柔らかさでごってりと描きこんでいます。 作者レムはこの作品で、知性があるかもと推測されるソラリスの海と、人間との、コンタクトの超絶的な難しさ(あるいは不可能さ)を描いたということです。そんなにも計り知れない海を、絵として描く(または映像にする)というのは、それだけですごい試みのように思います。 海、といっても仮にそう名づけただけで、地球の海とはまるで違う、そんな名前で呼ぶことさえまったく的外れかもしれない。それでも、名前をつけ、観察し実験し理解しようとつとめるのは、人間のさがなのでしょうか。 「なあ…あいつはなんて名前だ?/人間は宇宙の端から端まで名前をつけまくった/ ひょっとしたら自分の名前をすでに持っているかもしれないってのに…」 ――『ソラリス』沼野充義監修 いや別に、名前を持っていてもいなくても、人間は人間の使う名前をつけて構わないと思うのですが。広大で人知を超えたソラリスの海の上に浮かぶちっぽけな基地の中で、孤独な研究者たちは色々考えにふけります。 海はまた、研究者たちの心の奥底にあるトラウマのような物を察知して個別に模倣し、それを基地へ送りこんできます。主人公のもとへは、10年前に自殺した恋人がやってくる。 このエピソード、だいぶ既視感があります。ハリー・ポッターのボガートとか『葬送のフリーレン』で死者の幻影を見せる魔物とか。 前半、ソラリスの海は「脳みそである」という仮説が出てくると、なるほど! と思いました。 こちらからの刺激に対して毎回、異なる海の反応。共通項があるようですべて異なる形成物。それは、私たちの脳の投影のように思えます。同じ刺激を受けても、外的環境や、体調・精神状態、それまでの経験などによって、私たちの感じ方・考え方はその都度、異なるでしょうから。熟睡していて無反応な時もあるでしょう。 対称形の形成物は、主体的な「思考」かもしれません。非対称体は「感情」かもしれない。それらは、脳内の電気信号や神経伝達物質(アドレナリンとか)の伝達パターンだということですが、もし3D的にそれらが投影されたら、ソラリスの海のような活動になるのでは? 巨大な形成物はすぐに消える物もあれば、複雑な過程をへて爆発したり霧散したりする場合もある。それはさまざまな思考や感情が脳内で生まれては消える様子のように思えます。 主人公のところへは死んだ恋人のそっくりさんが現れるし、別の研究者のところへは子ども?が現れる、というふうに、海は複数の人間の脳内活動を投影することができるようです。集合的無意識とか、心の鏡のような存在なのかもしれません。 などと思いながら、下巻へと読み進むと、海の質感はますます迫力を増し、対して研究者や基地などは一定の細く頼りない線でのみ描かれていて、その対照がきわだってきます。 もしかして――、ソラリスの海が人間の脳内活動を投影しているのではなく、線画された研究者たちこそが、海の活動の投影にすぎないんじゃないか。だって、消えたり現れたりする死んだ恋人の姿と同じ線で、主人公も描かれているのです。 実在するのはソラリスで、人間はソラリスの見る夢なのかもしれない。だから直接コンタクトすることができないんだ… 最後の方で、巨大な海の形成物の上に降り立って歩き回る、ちっぽけで頼りなげで、でも少しの希望を持ち続ける主人公を見て、ふとそう思いました。
February 16, 2026
コメント(0)

第12回は旅の4日め、1986年1月3日(金)上海、日本租界探検続きです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れなどを修正しています。 呉淞(ウースン)路のマーケットを南へ抜けた所には、古くて立派な、風情ある建物があちこちに見られた(左写真)。てっぺんに天使の羽みたいな装飾があったり、しゃれたバルコニーがついていたりする。右写真は、1917年建築の虹口消防署。二階に洗濯物が干してありアパートに見えるが、現役の消防署だという。曲線を描く建物の前には、モスグリーンの制服と防寒コートを着込んだ交通整理の警官が立っていた。警官さんたちは休日や非番でもこの服を着用しているらしく、町なかや店で普通に家族と歩いていたりもする。勤務中はいかめしい顔の人が多く、カッコイイのであった。 この辺で、疲れた私たちは小さい洋風のケーキを買って道端で食べた、と当時のメモにある。ケーキはたいへん高価なものらしく、我々の周りにどっと人だかりができて、衆人環視という言葉がぴったりだった。 消防署の北隣に上海毎日新聞社の旧社屋ビルがあった。この時は本郷さんの勤め先と思って撮った(左写真)。5階建ての社屋の一部に、2階分継ぎ足されている。手前にはトローリーバス(満員!)や標識があるが、左に工事現場のようなガサガサした一角がある一方、右では購入した家電の箱をこれ見よがしに地べたに置いて、身なりのよい若い紳士たちがいるのが面白い。 上海の、特に南京路の百貨店付近などでは、若い男女が大きな家電製品の箱を二人で運んでいる光景をよく見かけた。洗濯機とかそういう大きさの物を、雑踏の中で大変な苦労をして歩いて運ぶから目立つ。けれど何となく彼らはそれが嬉しそう、誇らしそうなのだった。 私たちは呉淞路から西へ戻り、四川北路よりさらに西の宝山路へ出て北へ引き返した。本郷さんたちの活動した特務機関「宝山路54号*」の場所を探すためである。 「宝山路54号か/日本租界内だな」「おそらく厳重な警戒態勢を/敷いているでしょう」 (『南京ロード』2巻) 曇天の下かなり歩いたが、宝山路の南端は上海駅*あたりで、道路沿いは駅前大通り商店街といった風情(右写真)。 寒さにたえ、番地を確かめながら北進したが、56号と57号は見つかったもの、54号はついに見つからなかった。「54号はジョーに襲撃・破壊されたあと、お店になってしまった」と、M。しょせん架空の住所への萌えとはいえ、がっかりである。 *宝山路54号 抗日運動を粛正した実在の特務機関「ゼスフィールド路76号」がモデルだと思われる。数字も76→54と続けてあるのは作者(森川久美)の遊び心だろう。内部のつくりや予算なども、76号を参考にして設定されている。 宿舎/会議室/倉庫/留置場までついている… 「すげえ家ですな本郷さん」「特別の改造をほどこした防諜邸――/ここが俺たちの本拠だ」 (『南京ロード』2巻) *上海駅 戦前は「北站」と呼ばれた。租界の北にある。 左絵は北站で宋(スン)先生を見送った後、「六月の牡丹は血の色になりそうですね…」の黄(ワン)と本郷さん(模写、色も適当)。 つづく。
February 11, 2026
コメント(0)

第11回は旅の4日め、1986年1月3日(金)上海、日本租界探検続きです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れなどを修正しています。 四川北路を南下する私たちは、長春路との交差点にやってきた。左写真の左半分は古い英国風アパートで、租界時代は日本人が住んでいたそうだ。本郷さんのアパートかもしれない!? 2012年にNHK「世界ふれあい街歩き」で紹介されたが、建物はそのままで現地の人が住んでいた。現在では歴史的建物として保存対象になっているそうだ。写真の、道に渡した横断幕には「長春路農産物・副産物市場」とある。お正月だからか、たいへんにぎわっていた。 右写真は、長春路近くで古いビルを撮ったもの。これの方が、南京ロードに出てくる陸戦隊本部の建物に似ている気がする。手前には「四川北路」の看板と、たばこ・酒の店があるが、煙の字が簡体字でないのが古めかしい。右手の壁に交通安全とか色々標語が書かれている。 黄甫江に注ぐ小さな流れ(俞泾浦*)をまたぐ横浜橋*まで来た。周囲は、私たちには凄まじく見えるほど古くせせこましい町並みで、「裏町」「場末」という言葉が浮かぶ。横丁(左下写真)には、黄子満(ワンツーマン)が住んでいたような長屋(里弄)も見えた。物干し竿がずらりと突き出ているのが生活感。タオルがきちんと干してある。左端にあるのは公衆電話ボックス。カメラの紐がレンズの前に写り込んでしまっている。 上海の街路は/網の目のように/張りめぐらされ/四方八方に抜けていく―― (『蘇州夜曲』) *俞泾浦 昔は横浜川と呼ばれたそうだ。現在は検索するとほかに玉京埔(ユジンプー)、玉井埔などの表記が出る。汚泥と悪臭がひどかったが現在は水質改良した、とある。 *横浜橋 日本の横浜とは無関係らしい。昔は魯迅がたたずんでいたという。 橋の上からは、これまたヤバい(当時、私たちは「スルドイ」という言葉を連発した)、うらぶれた長屋や船が見える(右写真)。見るからに汚泥がたまっていそうである。 現在調べてみると、この辺りは海軍のいわゆる慰安所があった所だそうだ。なるほど、そんなたたずまいに見えなくもない。そして第一次上海事変(1932年)の折には海軍陸戦隊と中国軍が衝突し多くの戦死者が出た場所だそうだ。 横浜橋を渡った後、2本東の呉淞(ウースン)路へ移動して南下を続けた。この通りに「日日新聞」の旧社屋があると、調べをつけていたからだ。が、後に分かったのは、これは上海毎日新聞のことで、この新聞社は、本郷さんが二番目に勤めた東京日日新聞上海支局とは別の、独立した邦字紙だった(1924年から1943年まで存続)。ほかに上海日日新聞という邦字紙もあり、住所は梧州路10号(呉淞路より2本東の道路)。また、本郷さんが初めに勤めた上海日報は、検索で古い紙面などを見ると、古くは虹口文路5号や礼査路=現黄浦路。のちには白保羅路3,4号(=新郷路、四川北路と川公路の合流点の北付近を西へ入る小路、現在はなくなっている)にあったらしい(印刷所の住所かもしれないが)。 さて、呉淞路に入ってみると、そこは古い洋館の軒から差し掛けた店が並び、地元の人々が買い物をする、にぎやかなマーケットであった(左写真)。日本でも戦後の闇市なんかはこんなふうであったかと思う。当時のメモに、「とにかくスルドイ下町で、道端には汚れた布を垂れ幕に、洋服屋や野菜売り、薬草屋などがずらり。洋服屋の天幕の下には、古着のようなジャージがぎっしりと並んでいる。地べたに伏せた籠の中で生きたニワトリも売られていた。リヤカーや荷車、買い物籠のおばさんが行き交う。うーん、うさんくさいというか、すさまじいというか。私たちはめげずに路地を歩いたが、すこし怖かった」とある。 戦前のこのあたりは虹口市場(三角マーケット)と呼ばれ買い物をする日本人でにぎわっていたそうだが、そのにぎわいが甦って私たちの眼前にあった。現在、ここには高層ビルが立ち、昔の面影はなくなっているらしい。南下、つづく。
February 8, 2026
コメント(0)

第10回は旅の4日め、1986年1月3日(金)上海、日本租界探検続きです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れなどを修正しています。 虹口公園(現魯迅公園)のすぐ東を南北に通る道路が、海軍陸戦隊本部のあった四川北路。昔は「北四川路」といったその道を、公園から南下する。戦前ぽい建物や、南京ロードに出てきそうな風景があれば、とにかく写真を撮る私たち。それを尻目に、現地の人々は厚着して忙しそうに行き交っている。 左写真は公園のすぐ南あたりにあった建物で、本郷さんたちの本拠地「五十四号」にちょっと似ている(?)と思うのだが、詳細不明。右写真は、四川北路と多倫路との交差点。道端で写真を撮ると、ちょうどバスがやって来て視界をふさぐことがよくあり、私たちは「またバスを呼んでしまった」と言い合った。この写真も、4台ものバスを「呼んで」いるが、奥の建物は、「多倫路250号 孔公館(旧知恩院)」ある。1924年に建てられ、現存。多倫路は魯迅、郭沫若や金子光晴などの住んだ界隈で内山書店などもあった場所だが、当時は普通の街角で観光案内もなく、私たちは通り過ぎてしまった。1998年に「文化名人街」として観光整備され、今はレトロを模した店が並ぶという。 同じ交差点の、街路表示のある所で記念撮影もした(左写真)。背景の建物も窓の形や、観音開きの窓枠が薄青いなど趣があり、『南京ロード』3巻の「誰か…/この魂のために/祈ってくれないか…」の見開きページみたいな雰囲気! と思ったのだ(全然違うといえば違うのだが)。 やがて「銃痕の残る」とされる旧海軍陸戦隊本部ビル*を発見(右写真)。住所は四川北路2131号(旧東江湾路1号、現在は北站黄渡路)、東江湾路との交差点にある(『蘇州夜曲』や『南京ロード』に描かれた建物とは異なっている! 森川久美がモデルにしたのは違う建物らしい)。右の方にお店の看板なども見えたが、近づいてみると、1階壁に大書された文字は漆喰で塗りつぶされ、ちょっと怖い雰囲気(下左写真)。ここは撮りまくるのも何だか気が引けて、銃痕を探せずにそそくさと立ち去る。おかげで裏手?にあったらしい史跡の説明板に、我々は気づかなかった。 「海軍さんなら船にでものってろ」/「上海陸戦隊勤務だ」 ――――『蘇州夜曲』 *海軍陸戦隊本部 正式には上海海軍特別陸戦隊本部。海軍第三艦隊所属。1932年に設置され、2000人規模だったそうだ。現在この建物は茶色になった上、1階にはレストランなどお店がたくさん入っているらしい。 四川北路の西側辺りで、年配の中国人のおじさんが、日本語で話しかけてきた。「昔は日本人がたくさん住んでいた」というようなことを語る。若輩者のこちらは、どう返していいか、わからないのだった。 右写真は、何かのお役所だろう、国旗が立っているし塀の外にポスターの掲示がずらりとある。北四川路、まだつづく。
February 6, 2026
コメント(0)
![]()
先月「天空のアトラス展」を観たつながりで、この冬は、古めかしい星空案内『星三百六十五夜』や『星の民俗学』を読み返して過ごしました。どちらも、明治~昭和の星の研究家野尻抱影の本です。この人は文学者ですが、天文学者顔負けの星の観察から、古今東西の星にまつわる神話伝説、文学作品、民間伝承などを収集・紹介する一生を送った人だそうです。 『星三百六十五夜』は短いエッセイ集で、星にまつわる広範囲な知識と愛が詰まっていて、ためになるばかりでなく、心が洗われる感じがします。古典教養から昭和のお芝居、登山の話まで、そして一等星を宝石や花にたとえてみるなど遊び心も満載です。 知らない時代の話もあります。関東大震災の夜、余震にふるえながら見た空には、 赤く爛(ただ)れた火雲…〔中略〕…そこの雲から、急に一団の星が吐き出された。一と目ですばるだと判ったが、六つの星の一つ一つが火雲のいきれで妖しいまでにぎらぎら光り、かつ、雲の動く錯覚から一方へ流れているように見えた。私はあんなに不気味な、そして美しいすばるを見たことはない。 ――――野尻抱影『星三百六十五夜』9月3日 また、大陸や南方など戦地で見た星や、星の現地名の聞き書き。日本各地の漁村農村で古老から聞いた、海での目印として、あるいは農作業の目安となる暦として、独特の名で呼ばれた星の話や俚謡。当時でさえ忘れられかけたそれら伝承は、作者の記録以外には、今ではすっかり失われているでしょう。 私は子ども時代は視力が良くて、都会の空でも星座を見つけたりしていましたが、近眼・乱視そして最近は老眼で、金星さえぼやけています。おまけに家の前にLEDの街灯ができ、安全上はとてもありがたいのですが、星は探せなくなりました。 『星三百六十五夜』では、日々、夜空を楽しむ作者の様子から、昭和の頃は東京郊外でもすばるや、暗い星座がたくさん見えたことがわかります。「ぼくたちの文明が奪った夜空の光」というSEKAI NO OWARIの歌詞が思い起こされました。 さて表題の「カッカブ・ビル」です。さそり座の一等星アンタレスのことを、古代バビロニアではこう呼んだというのです。アッカド語?で「真紅の星」という意味。『星の民俗学』にはほかに、中国、インド、ペルシャ、マヤでの呼び名が紹介されていますが、「カッカブ・ビル」のところで私は、あれっと目がとまったのです。どこかで見なかったか、この名前。 そうです、カッカブ・ビール。スペース・オペラ『ノービットの冒険』(パット・マーフイー)に出てくる、大亀裂星雲(天の川の暗黒星雲)付近の一大勢力で、黒と赤のサソリをシンボルマークとしています。ああ、「狂信的」と形容される彼らは、古代バビロニアゆかりの勢力だったのでしょうか! 今のところ、「カッカブ・ビ(ー)ル」で検索しても出てこないほどマイナーな言葉ですが、1978年の『星の民俗学』と1999年のアメリカのスペース・オペラとがつながってしまいました。なんだか、感動です。
February 4, 2026
コメント(0)

第9回は旅の4日め、1986年1月3日(金)上海、日本租界探検 です。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れなどを修正しています。 今日はいよいよ我々だけで上海市街の探検。前の晩遅くまでNと議論して、まずは旧日本租界*からと決めた(Mは早くに寝ていた)。蘇州河(呉淞(ウースン)江)の北、本郷さん(左画像、模写です)のアパートもあった虹口(ホンキュウ)地区である。最初の目的地はわかりやすい虹口公園*にした。 *日本租界 正式には共同租界(英米の租借地)の一角だが、虹口地区は日本人が多く、こう呼ばれたそうだ。 *虹口公園 現在は魯迅公園と名が変わっている。 朝、ホテル前のバス停から57番のバスに乗って延安西路(旧静安寺路)を東へ向かい、静安寺*というバス停まで行く。料金は1角。右画像はバスのチケット。静安寺路は『南京ロード』で宋(スン)先生が二度目に襲われた所である。 「取り引き先へ行く途中/静安寺路を通りかかったら/大騒ぎでしてね またいつものテロかと思ったら」 ――『南京ロード』1巻 *静安寺 この名のお寺は文革で破壊され、この頃は再建工事中だったらしい。我々も見ていない。 そこから歩いて常徳路へ出る。途中にあった、人民法院(裁判所、現在は立て替えられている)の古めかしい建物(左写真)や、路地裏(右写真)を見ると、タイムスリップした感じがする。上海の路地裏には水場があり、向かいの建物との間に洗濯ロープが渡してあるのが定番のようである。長屋というか、里弄(上海のれんが造りの集合住宅コミュニティ)というか、『蘇州夜曲』で黄(ワン)が住んでいたアパートもこういうのだった。 常徳路で21番のバスに乗り、北東の虹口公園まで行く。料金1角3分(1分=0.1角=0.01元)。日中旅行社が支給してくれた中国語の市街地図「上海遊覧交通図」(左画像、一部)には、道路上に赤や緑の線でバス路線が書いてあり、起点・終点も分かるようになっていて、役立った。 バスには運転手さんのほか車掌さんが居て、乗ってから切符を買う。中国語は話せなくても、目的地を漢字で書けば通じた。しかし、切符は下りる時も回収されないので、正しく料金を徴収できるのか、そのシステムがよく分からなかった。 寒風吹きすさぶ、広々とした虹口公園は入場料5分が必要。道端でりんごを買って丸かじりしながら、あちこち見物して回った。公園内には美しい池や太鼓橋もある(現在は背後に高層ビルが借景になっているが当時はもちろんなかった)。魯迅先生の座像や墓石が有名らしいが、見たのだったか、写真は撮っていない。 葉ボタンの植え込みで囲んだ、巨大な石碑があったのでこれは撮影した(左写真、一部。人物を消してあります)のだが、石に刻まれた巨大な文字(「中民党・・・・展」?みたいな)がうまく写らず、今となっては何の碑だったのか分からない。現在は撤去されたらしく、検索しても、このような石碑は見当たらない。 時計のついた記念碑もあり、中日青年世代友好、と刻んである(右写真)。真ん中の時計はSEIKOである。この時計と台の部分だけが現在も残っていて、「紀念鐘」というそうだ。 公園内にある魯迅記念館を見学。玄関を入った所には巨大な魯迅の横顔のレリーフ(左写真)。胸像もあり、横に立って記念写真を撮る。これらは現在ないのか、撮影禁止になったのか、検索しても出てこない。この横顔は昔の魯迅の著作の表紙などに見かける。 さて、我々は公園を出て南の方へ、『蘇州夜曲』『南京ロード』に出てくる日本租界の夢の跡を探しに行く。つづく。
January 29, 2026
コメント(0)

第8回は旅の3日め、1986年1月2日の日帰り蘇州旅つづき です。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れなどを修正しています。現在もほぼ同じである観光地の写真は、割愛しました。 寒山寺で、鐘つきのあと、「楓橋夜泊」の石碑*のある「碑亭」という展示館へ入る。最も有名な俞樾(ゆえつ、清代)の筆による石碑と、そのかたわらに元祖だという碑もある。元祖というなら8世紀のものなのか?? 写真に撮った(左画像)が、刻まれた字は判読しがたい。説明書きも撮っておくべきだった… 境内には本屋さん兼お土産屋さんもあり、「姑蘇書画店」という名が風流だ(右写真)。「姑蘇城外寒山寺」と「楓橋夜泊」に詠まれているが、姑蘇とは蘇州の古名。写っているのは中国人観光客。左の新しそうな看板には「風景名勝区管理暫行条例」、これは国立公園的な環境保護の取り組みだそうだ。 *「楓橋夜泊」の石碑 現在、俞樾の石碑は屋外に展示されているようだ。元祖と聞いた石碑は、11世紀のものを近年「集字復刻」したもの? あるいは明代の文徴明という書家のものかも。 さて、このオプショナルツアーは蘇州特産物をメインにしたいらしく、次に行ったのは玉(ぎょく、ヒスイなどの美石)の工場だった。一通り見学して、(ちょっとほこりっぽい)お土産店に案内される。見事な細工物だが、たいてい大きくて高価すぎる。邸宅とか高級中華料理店に置くような物ばかり。ここでは何も買わなかった。 それから、虎丘へ。ここは春秋時代の呉王闔閭(こうりょ)*の宮および墓所で、埋葬の3日後、白い虎が現れたという。その一帯は寺院(ここも黄色い壁)、剣池(闔閭が三千本の剣とともに眠るという)、千人岩、雲岩寺塔(虎塔)など伝説にいろどられた見所を順にめぐる。虎塔は、丘全体を虎の姿に見立てる(かなりこじつけである)と、しっぽに当たる所に立っている斜塔。ピサの斜塔は4度ほどだが、これは15度も傾いているとか、見るからに危なっかしい様子。杭州でも斜塔があったが、日本と違って大陸では塔をよく見かけるなあと感じた。 記念写真を撮った。後で見ると、ガイドのYさんは長い前髪を横分けにし、黒コートを袖を通さず背の高い両肩にひっかけて、クールにポーズを決めている(写真省略)。 *闔閭(こうりょ) 最盛期の呉王で、越との戦いに明け暮れ、死後、息子の夫差が「臥薪」したという話は有名。 次に行ったのが白檀工場。蘇州では白檀や紫檀の加工も盛んだそうだ。ここで白檀の扇子(左写真、10元)としおり(5元)を購入。扇子に同封されていた説明の紙(左写真)に「如意牌」の字が見えるが、これはブランド名らしい。当時の国営工場は現在「蘇州如意白檀扇風機有限公司」となり、技術はいわゆる無形文化財として保護されているそうだ。 夕方になってきたので、私たちは有名な庭園に一つでも行きたい(そして「あなたも私もエトランゼ」と『蘇州夜曲』ごっこをしたい!)と、Yさんに訴えた。すると報恩寺*に連れて行ってくれたのだが、閉園時間を過ぎていて入れない。がっかりだが、有名な北寺塔*(また塔!)は外からでも眺められ、寺の山門ともども写真を撮ることはできた(写真省略)。もっと早く頼めばよかったと後悔も遅く、拙政園も行かずじまい。 しかし友誼商店は開いていて、私たちはまたまたお買い物をすることになった。ここには手頃な品がたくさんあり、両面刺繍*(12.6元)や切手(1.8元)、ハンカチ(14元)、陶器の細い腕輪(12元)、櫛(1.3元)、Yさんへのプレゼント(何だったか記録がないが4元とある)まで買った。 *報恩寺と北寺塔 三国志で有名な呉の孫権が母のために建てた館。塔の上からは蘇州の町が一望できたらしい。現在は塔には登れないそうだ。 *両面刺繍 両方から鑑賞できる蘇州名物のシルクの細かい刺繍。伝統的なものではなく、最近の技術だそうだ。 友誼商店近くの王四酒家*という老舗レストランで夕食をとった。多分ご当地浙江料理をいただいたと思う。店名の入ったハンカチ(右画像はその一部)をお土産にもらった。虎塔が描かれているが、「上海ハンカチ工場No1製」とある。「双魚」のロゴのシールも貼ってあった。双魚は中国では縁起のよいモチーフだそうだ。 我々が無理に頼んだので、Yさんは食後に、小さな刺繍工芸店が連なる小路(買い物伝票によると緑葭巷(りょくかこう)あたり)に徒歩で連れて行ってくれた。すっかり暗くなったがまだ店々は開いていて、路上にたくさん刺繍を出して売っている。ここで私は飾り枠に入った金魚の図柄の両面刺繍をお土産に購入(あげてしまったので写真がないが、30元だった)。 駅へ戻って蘇州に別れを告げる。マイクロバスの移動ばかりで町の風情を余り楽しめなかったのが残念だ。もらった絵はがきを眺めるしかない。これは12枚セットで、バス路線図を記した観光絵地図もついて0.85元とある。絵地図のウラには中国語、英語、仏語、日本語で町の紹介文もある。 もう一度ゆっくりと訪ねたい町、蘇州。再び「普快」の軟座で上海へ戻った。 *王四酒家 蘇州3大レストランの一つ、1887年創業。住所は現在も同じ。 余談。Mはホテルに戻るとさっそく、買ってきたチャイナドレスに着替え、新苑飯店の真新しい白い廊下で写真を撮った。それを、帰国後、推しであった杭州のガイドのCさんに手紙とともに送った。私は「罪作り~」などと冷やかしたものだ。つづく。
January 26, 2026
コメント(0)

第7回は旅の3日め、1986年1月2日の日帰り蘇州旅 です。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れや顔部分を修正しています。現在もほぼ同じである観光地の写真は、割愛しました。 オプショナル・ツアー第二弾、蘇州。行くのは私たち3人と、昨日も一緒だったおばさま。昨日ほど早起きせず、昨日暗くてよく分からなかった上海駅を、少しは観察できた。 まずタクシーは直接目的のプラットホーム横に到着。改札の内と外の線引きがないようだ。辺りでは、山積みのひまわりの種などを売っている。車内のおやつに最適なのだろう。食べている人も見かけたが、種をひとつかみ口へ放りこみ、ものすごく器用にカラだけを出す。 今回は「普快」列車で昨日の特快よりは遅いが、席はやはり軟座で、田園地帯(見たところ日本の田舎によく似ている)を約1時間の旅である。向かい合わせ座席の壁から張り出した小卓に、植木鉢が置いてある。『蘇州夜曲』のワンシーン(右画像、模写です)にあった通りなので、驚喜した私たちはさっそく、本郷さんと同じひじをついたポーズでかわるがわる写真を撮った(左画像)。 何が麗しの蘇州だ/何が楽しい蘇州の過し方だ! 観光案内記事だって…!?/人をバカにしやがって… (『蘇州夜曲』) 服務員さんがお茶を入れてくれる。縁がレースの真っ白いテーブルかけに、美味な支那茶。アナクロ気分満喫。 蘇州駅に着く。左写真のように、当時の駅はでかいがシンプルで、柱の所にある獅子や、右奥の奇岩?などが、そこはかとなくチャイナである。駅はこのあと二度改築され、現在は巨大なステーションビルになっているという。 現地ガイドのYさんが現れた。長身に黒のナウいロングコート、ちょっと斜に構えカッコつけたお兄さんだ。マイクロバスで蘇州飯店*に行き、昼食。その後、絹工場の見学。この日も、どこを見物するかは決められてる。資料も写真もなく今となっては記憶があやふやだが、絹製品の販売もしていた。どれも美しくクラシカルで、高級品。Mはたぶんここで、光沢のある織り柄の朱色のチャイナドレスを買った。私はたぶんここで、寒山寺と「楓橋夜泊」のついたピンクのシルクスカーフを買った。これを風呂敷代わりに後年、旅行のたびに使っていたら、すっかりよれよれになってしまった(右写真)。 *蘇州飯店 十全街にあったが現在は閉店。 その寒山寺*へ行く。お寺のすぐ前にある運河(上塘河)の太鼓橋江村橋で『蘇州夜曲』の上海リリイの言う「東洋のヴェニス」の風情を味わった。左写真は、江村橋と赤ちゃんを抱いたパパさん(通行人!)である。冬晴れの薄青い空や裸の木々の枝を映して、運河の水は静かだ。漢詩で有名な楓橋は少し離れた所にあるとて、行けなかった。 寒山寺の名前の入ったカラシ色の壁がひどく目立つ。「楓橋路」と道路の名前も「楓橋夜泊」を意識している。中に入るとお寺の屋根はやはり反り返っていて、かわいい。昨日の西湖ほどではないが、内外の見物客にぎわっていた。 カラシ色と反り屋根の鐘撞き堂で、順番に鐘をつかせてもらう(右写真)。日本のお寺で鐘をついた経験からいうと、これは結構小さい鐘で、つきやすい。漢字(「佛日増輝」などと、大般若経の文句?)や記号が赤く刻んである。1906年に作られた鐘だそうだ。 現在のお寺は1911年5回目の再建をされたもので、1933年ごろに訪れた本郷さんが「こんな荒れ寺とはびっくり」と言ったのは、金子光晴が『どくろ杯』に「ひどい荒れかた」「吊鐘は、大きなひび割れ」などと書いたのを受けているのだろう。そんなに手入れが行き届いていなかったのかと驚く。 「月落ち烏鳴いて霜天に満つ/江風の漁火愁眠に対す」「なあにそれ?」「故蘇城外寒山寺/夜半の鐘声客船に至る/有名な詩ですよ/もっともその寺が/こんな荒れ寺とはびっくりだが」(『蘇州夜曲』) *寒山寺 6世紀に建てられた臨済宗のお寺。「寒山拾得」の故事の寒山が住んだという。張継の有名な漢詩「楓橋夜泊」(8世紀)は、現在では場所はここではないという説がある。我々の訪ねた翌年(1986年)と、2005年にも改修され鐘も新しく大きくなったそうだ。調べたところ、現在の鐘には赤い文字等はない。つづく
January 20, 2026
コメント(0)

第6回は旅の2日め、1986年元旦の日帰り杭州旅つづき です。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れや顔部分を修正しています。現在もほぼ同じである観光地の写真は、割愛しました。 霊隠寺の次の見物は、湖の少し南、銭塘江*のほとりに立つ六和塔。五代十国時代の970年にこの川の大逆流を鎮めるために建てられ、灯台にもなったという。高さ59.9m、微妙に傾いているようだ。ふもとには「浄宇江天」(きよらかなお寺と川と空)と乾隆帝が書いた言葉が掲げられ、よそゆきらしい真っ赤なコートの女性など中国人の観光客が多く出入りしている。 13層(清代に増築)に見えるが中は7階建てで、我々は上まで登った。塔の上からは冬枯れの木々ごしに銭塘江大橋(1453m)が雄大である。 *銭塘江 浙江省随一の河、その下流の名。浙江とはこの河の別名。隋代の大運河(京杭大運河)は、北京から南下し最後は杭州で銭塘江と結んでいた。河口付近つまり杭州あたりで、秋には逆流現象(いわゆる海嘯、「銭塘の秋濤」)を起こす。 天香楼というレストランで地元杭州風の昼食(この店は西湖の北東に現在でもあるようだ)。同行の国語教師のおじさんが、メニューを見てすっぽんと草魚を注文し、すっぽんは姿のまんま煮るか蒸すかされて、食卓中央にどーんと出てきた。西湖名物の草魚も、大皿のを皆で取り分けた。日中旅行社からは中華料理の中国語日本語対照表をもらっていたが、そこにはちゃんとすっぽんのうま煮や草魚の煮物が載っている。写真を撮っていないのが残念である。友人MもNも退いていたが、私は興味津々でたくさん食べた。どちらも淡泊で白くてやわらかく、たいへんおいしかった。 午後は西湖*を見物。湖を分かつ蘇堤という長い堤防を通って湖を南から北へ。これは蘇東坡(蘇軾)が(杭州知事時代に)作らせたのだとガイドのCさんが教えてくれる。映波橋を初め所々で橋になっている。真冬で景色は寒々しいが、遊歩道から枯れた葦?や小舟の浮かぶ美しい湖面を見渡せる。 湖北西部の陸続きの島、孤山の中山公園に到着。女性革命家秋瑾の真っ白な立像(ウィキペディアにも掲載)があり、当時、誰かも分からず記念写真を撮る。彼女は孫文とも知り合いのフェミニストで、1907年に斬首刑になったという烈女だそうだ。 公園で私の目にとまったのが、左写真、小さい獅子の形の「果皮箱」だ。口を大きく開けた姿が超キュートで、あちこちにある。文字通り果物の皮を入れる箱つまりゴミ箱である。日本の公園のゴミ箱に比べると、あまりにもチャイナな可愛さ! 観光地特有のゴミ箱らしく、パンダや狛犬やカエルや、色んなバージョンがあるそうだ。 *西湖 2011年に世界遺産に。旅行当時の私はガイドブックからか、伝説を書き写している;「天河の東の玉竜と西の金鳳が、銀河の仙島で見つけた白い宝玉、その光の及ぶところ、山紫水明、風光明媚。この玉を天宮の西王母が奪い、取り返さんとした玉竜と金鳳が西王母に襲いかかった時、玉は下界へ落ちた。これこそ西湖である。玉竜は玉皇山、金鳳は鳳凰山となり、今も西湖を見守る」。 この湖は傾国の美女西施が入水した伝説がある。私は芭蕉の象潟の句「雨に西施がねぶの花」を知っていたのみだが、蘇東坡の詩も書き写している;「水光瀲灔(れんえん)晴方(まさ)に好し/山色空濛雨また奇なり/若し西湖を杷へて西子(=西施)に比すれば/淡粧濃抹両ながら相宜(あひよろ)し」 さて、遊覧船に乗る。竜の形のや、きらびやかな御殿の形の船も浮かんでいるが、我々のは古代の船遊び用の御座船という趣で、色合いも装飾も派手すぎず、いい感じである。我々は「みやび船だー!」と大喜びした。右写真に写っているのは船の女性ガイドさんである。 お天気が曇ってきたが、漠々たる霧でいっそう風情が増した。すっかり水墨画や漢詩の世界である。ただたいへんに寒くて甲板では身をすくめていた。 甲板から湖岸を眺めていた時、Cさんが「西湖の岸には政府高官の別荘なんかが多いんですよ」とひっそり言った、それで湖岸の写真(左)を撮った、とメモしてある。しかしそれは古代の話なのか革命前清朝の話なのか、社会主義化した今の話なのか、分からなかったし訊けなかった。 船は途中で三潭(さんたん)印月(小瀛(えい)洲)*という湖中の島に上陸。島の中に池を造り、直角に曲がった回廊をめぐらしてある。中国各地から観光客が来ているのか、民族衣装の人もいて、にぎわっていた。右写真は、チベットだろうか、民族衣装の兄ちゃんたち 気が引けたので後ろ姿を撮った。お正月なので晴れ着で観光に来たのだろうか。三者三様の帽子、特に右端の兄ちゃんはカウボーイハットなのが気になるが…。遠くの人たちはよく見かける青い人民服である。 ちょうど霧が晴れた。柳など、冬枯れの枝々でさえ、鏡のような水面に映る倒影で美しさ二倍である。柳が芽吹く「江南の春」には、さぞや。 島では他にも写真を撮ったあと、船で湖南端の花港公園「花港観魚」に到着した。 *三潭印月 三潭(さんたん)は西湖の中央付近に頭を覗かせている3つの灯籠、印月は、それにともした灯と月が水面に映るさまだそうだ。杭州絵はがきセット(10枚入って0.8元)によると、小瀛洲の英訳は「Lesser Fairy Island」。調べると、瀛1字では沼沢みたいな意味だが、瀛洲となると、仙人の住む不老不死の楽園(東方三神山の一つ)だそうだ。なるほど。 その後、この手の旅行ではお定まりといえるお土産屋さん(友誼商店)に行った。ここで確かMは、白羽扇(びゃくうせん、どちらかというと、うちわだ)を買ったはずだ。当時彼女の推しであった、TVアニメ版三国志(おそらく1985年3月水曜ロードショーで放映されたもの)の諸葛孔明様のアイテムだからである。当時、人形劇(川本喜八郎作)の孔明も、アニメの孔明も、横山コミックスも、白羽扇はほんとに真っ白だった(左写真)。 私は友人に扇子(4.8元)やパンダのぬいぐるみ(12元)を買い求めた。 もう一カ所どこだったか、寄ってから駅に戻り、夕方また特快に乗って上海へ戻った。 Mはホテルの部屋に戻ると、ベッドのシーツを剥ぎ取ってまとい、白羽扇を掲げてアニメ版三国志の、赤壁の戦いの風を呼ぶ名場面の名台詞、「どう見る」などを再現(右写真)。コスプレという言葉がまだ全く浸透していなかった時代に、我々は盛り上がっていた。 ところでこの日の夕食はどうしたのだったか。ホテルで食べたのだろうか、記録がない。つづく
January 17, 2026
コメント(0)

第5回は旅の2日め、1986年元旦の記憶、日帰り杭州旅 です。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れや顔部分を修正しています。現在もほぼ同じである観光地の写真は、割愛しました。 そもそもツアーの出発が1日遅れたせいか、オプショナル・ツアーの杭州行きは、元旦(中国でも新暦を採用している)の早朝4時起きから始まった。メンバーは私たち3人と、国語教師のおじさん、親戚と一緒に来た元気なおばさまの5人。上海駅へ送ってもらい特快*に乗りこんで上海から南へ。 車両の向かい合わせの座席には壁から小卓が突き出ていて、瀬戸物の茶器に入れた中国茶のサービスがある(右写真)。窓の外はまだ真っ暗だが、カーテンが可愛い。ファブリックはぱりっと清潔で真っ白か、座席の背もたれにかけた布などは淡い模様が入っていた。小卓は折りたたみではなく、テーブルクロスもあって豪華である。パン?も写っているが、多分私たちがホテルから持って行ったのだろう。 私たちは、紺色のきりりとした制服の、シャイな男女の乗務員さんたち(中国のサービス関係の人は全員公務員で、服務員さんという)の写真を撮ったり、パンダのパペットの車内販売を眺めたりした。 *特快 特急のこと。中国の鉄道では最も速い。左画像は切符(行きと帰り、表と裏)で、軟座とは上等の座席(普通座席は硬座)、12.5元とある。懐かしい、パンチの切り込みが入っている。裏には、座席番号を書いた薄紙がノリで貼られている。 杭州に着くと夜が明けていた。『南京ロード』的には思い入れのない土地だが、高校の世界史(3人とも共通1次試験で世界史を受けた)で「江浙実れば天下足る」と習った豊かな地方である。「上有天堂、下有蘇杭(上に天国あり、地上に蘇州と杭州あり)」という言葉も知った。日本語では同音の有名な「広州」と区別して、私たちは「くい(杭)の杭州」と呼んだ。 杭州駅は伝統的な建築で立派だった(右写真)。現在は、特徴的な巨大ビルらしい。ウィキペディアによると20世紀初めには西洋建築の駅舎だったが、戦時中日本軍の爆撃で破壊されたそうだ。残念。 現地でのガイドさんはCさんという穏やかそうな丸い顔の青年で、私たちはひそかに「アンパンマン」と呼んだ。日本人と変わらぬほど日本語が達者で、友人Mはすっかり熱を上げた。 杭州駅の西側に有名な西湖がある。マイクロバスで行ったのだったか、西湖の西北岸にある高級感あふれる西洋風ホテル杭州飯店*に案内され、朝食(6元)を食べた。当時は食事を撮影する習慣がなく、何を食べたのだったか忘れてしまった。西洋風朝食や中華風朝食など充実のメニュー(左写真、ほんの一部)は、持ち帰った。中国語表記と英語表記を見比べると面白い。兌換券のみ使えるとあるから、外国人専用のメニューである。 朝まだき、杭州のシンボル西湖はいちめんの霧に沈み、大小の島、建物の屋根、橋などをぼんやりと浮かび上がらせ、漠々と広がって見えた。 *杭州飯店 現在このホテルは地図で見つけることができない。他にも、昔と名前が異なる地名や建物が結構ある。 朝食後、ガイドのCさんに従って湖の西方にある霊隠寺*へ。入り口向かいに飛来峰という岩山があり、古めかしい石塔(理公の塔)が立つ。私は無学で「道端の塔」とメモしたが、実は寺を開いたインドの慧理を記念する塔。背後の岩山には洞窟や磨崖仏があったはずだが、覚えていない。慧理はこの岩山を見て、須弥山がここへ飛んできたのか!? と言ったので飛来峰と呼ばれるらしい。 元旦なので中国人の観光客・参拝者で賑わっている。よそゆきを着ているのか、人民服は余り見られず、寒いのでダウンジャケットやコートの人が多い。 お寺へ入る。看板に326年創建とあるから、ものすごく古い。我々は初めて中国のお寺というのを見たが、反り返った屋根が日本の寺とは違う。赤い壁と相まって、何だかかわいらしい。 いろいろ見物したと思うが、今となっては思い出のよすがは、0.7元で買った絵はがきセット。禅寺とは思えない極彩色の魁偉な天王や韋駄天など。1979年3月第1版、1984年12月第5版とあり、英語と中国語で寺の説明がびっしり書かれていて、超お得である。 *霊隠寺 杭州で最も大きな寺院。南宋のころ禅宗五山の一つとされた。後で出てくる済公が出家した寺だそうで、国内で人気なのもうなずける。
January 14, 2026
コメント(0)

昨年の大阪万博は、暑さと脚力が不安で行かなかったHANNAですが、イタリア館のアトラス像の素晴らしさは、噂に聞いていました。そして先日、大阪市立美術館の「天空のアトラス展」で実物を見ることができました(誘ってくれた息子よ、ありがとう!)。右画像は、たまたまキレイに撮れた、後ろから見たアトラスの天球部分です。 この像は、私が小学生のころ、以前にもご紹介した『星座と伝説』という本で見て以来、忘れられないものでした。なぜといって、彼の上には、星座の描かれたまるい天球が乗っているからです。地球は天球の内側にあるわけで、つまり、アトラスは、地球ばかりか天球よりも、でかいのです!! 私が星座以前に親しんでいた「ギリシャ神話」に出てくるアトラスは、タイタン(巨人族)の一人として、ゼウスとの覇権争いに敗れ、天を背負わされています。最終的にはペルセウスが、退治したメズーサの首を見せて彼を石にしたため、アトラス山脈となっていまだに天を支えていると。 天を支えるという発想がすでにすごいと思うのですが、のちになって、世界の神話には、たとえば中国の不周山(天を支える柱)とか、沖縄の天人(アマンチュ、天を押し上げた巨人)とか、天空を支える伝説があると知りました。 しかし、普通に考えるとそれは、家の柱のように、水平な地面と天井(天空)の間に鉛直に立って支える、というイメージだと思うのです。だからアトラスも、天と地の間に在って垂直に支えていると思っていました(そういう絵画もあるようです)。 でも、この像(そして多くの他の像や絵画)では、アトラスは世界、いや宇宙の外に在って、まるい天球を肩と首に乗せています。今で言う光速の壁つまり銀河系や恒星の世界の限界を突破した、“外”からの視点で天球とアトラスをえがいているのです。 今回、展示を見て、天球に黄道や赤道、経線がほぼ正確に引かれているだけでなく、描かれたたくさんの星座が、整然と鏡像になっているのに驚きました。たとえば上右画像ではペガサス座やアンドロメダ座が見えますが、ふつうの星座図と比べると、上下(南北)は一緒ですが左右(東西)は反転しています。これは天球を、私たち地上の者のように内側から見上げるのではなく、外から見ているためですね。 2世紀に造られたというこの像は、もっと古い物のコピーだそうですが、そのおおもとのアトラスと天球をつくった彫刻家が、紀元前2世紀の時点ですでに、自らの視点を宇宙の外に置いたというわけです! ちょっと考えても頭が混乱する反転星図を、こんなにも正確に美しく造ったとは、古代ギリシャ人すごすぎです。 そして鑑賞する人は、古代ギリシャから我々まで、宇宙の外から巨神と天球(閉じた宇宙)を眺めるのです。何だかやっぱり頭がくらくらします。
January 12, 2026
コメント(0)

第4回は旅の初日、1985年大晦日の記憶のつづき、南京ロードで日が暮れて です。前回同様、『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。また記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 南京東路を東へ歩く私たちは、ネオンもまぶしい新雅粤(しんがえつ)菜館の向かいを通った(左写真)。ニクソン米大統領も食べたという老舗レストランで、粤は広東地方のこと。『どくろ杯』に金子光晴がこの名の店に行ったとあるのでちょっと興奮したが、これは虹口にあった最初の店のことらしい(現在は南京路店が本店で規模も拡大)。 この店ようなネオンはまばらで、街灯も暗め。写りこんだ通行人さんは人民服を着ている(顔は消してあります)。 外灘(バンド)に着くころには真っ暗になってしまい、夜景を撮ったたくさんの写真は、帰国後、現像してもらえなかった。「ISO100」のフィルムだったし、うっかりフラッシュをたいたりして、失敗続きだ。 ガーデンブリッジ(外泊渡橋)を渡り、時計台(税関)の文字盤が丸く光っているのを遠くから眺めた。黄甫江や浦東(当時は開発中でビルは一つもない)の港の明かりは少なめでかすんでいて、西洋人が闊歩した戦前よりはきっとずいぶん暗いのだろうと思う。しかしその暗がりを大勢の中国人が歩き、寒さの中にもその生活力が伝わるようだった。 6時になったので、三角屋根の和平飯店へ行って「タクシープリーズ」と言うと、長らくしてタクシーが来、6時半予約の夕食へ。 我々が通されたのは、上海老飯店の二階、外国人向けの席らしい。いよいよカニ料理! と待ち受けた。しかし、現地の物価(お給料が30元ぐらい)を考えれば途方もない一人25元の予算も、珍味上海ガニには及ばずだったのか、あるいはKさんの書いてくれた中国語メモの内容によるのか、ほぐしたカニ身のあんかけが出たものの、カニの姿蒸しは出なかった。 上海ガニは『南京ロード』の後日譚である『Shang-hai1945』に出てくる。もと仲間の水上さんが仲直りのために本郷さん宅へ持って行く場面(右画像は1巻197・200ページ)。大戦末期だがこのたくさんの上海ガニ! きっと今よりずっと安価だったに違いない。 我々の食べたカニは、ほぐし身とはいえ、大皿いっぱいたっぷりあった。他にウナギ、豚肉、エビ(これが特に美味だった)、八宝菜、鶏カラ、野菜炒め、お魚と、これぞ中華料理という味付けの料理が10皿ほども出て、さらにお椀の2倍ほどの高さの山盛りご飯(外地米なのでパラパラだが、これはこれでおいしい)も出て、死ぬほど満腹になった。 中国のお箸は先細でなく、均一な太さで長いと初めて知った。上写真は老飯店のレシート。 給仕してくれたおばさんたちは皆、人なつこくて親切だった。イマドキの日本人が珍しかったのだろうか。特に我々が持って行った筒型のおしぼりウエッティが興味と賞賛の的となった。どうぞ試してみてと身振りで言うと、驚いた表情でいじり回してしゃべっていた。我々は他に、京都みやげによくある小さなシオリをプレゼントした。 長くかかったように思えたが、ほぼ約束通り1時間余で食べ終えて、タクシーで准海路を通ってホテルへ帰った(代金は9.1元)。 この夜はホテルで家に国際電話もかけた(3分で18.6元。すごく高い)。ジュースもどこかで飲んだらしく、3.5元と記録してある。興奮のうちに、旅の初日が終わった。明日は新年である。 つづく
January 11, 2026
コメント(0)

年が明けてから娘の絵を入手しました。水彩の手書き年賀状です。左が引退した競馬馬、右が子馬の写真を参考にしたとのこと。馬の脚を描くのは難しい! と言ってましたが、ほんとにそう思います。 ところで12年前のお正月に、物語に出てくる馬を挙げていたのですが、読み返してみると、書き漏らしていた名馬があることに気づきました。黒馬好きな私が、特に推したい、シートン動物記『跑く足のマスタング』(『ペーシング・マスタング』とか『ペイサー』という訳のタイトルもあります)です。 マスタングとは、自動車の方ではなくて、北米大陸の半野生馬。当時(19世紀終わり)は、牧草地を荒らし飼い馬を誘い出してしまう害獣だったそうです。 だく足(ペース)とは、「同じ側の前後の足を同時に動かして走る駆け方である」(E・T・シートン『私が知っている野生動物』藤原英司訳)。 シートンは、生まれつきだく足で驚異的な身体能力を誇る黒い雄馬を目にして、その野性のすばらしさに惹かれます。「狼王ロボ」の物語やほかのシートンの作品にも共通していますが、殺す側の人間(ハンター)は、殺そうとしながらも、獲物の野性的な力強さや美しさにはっと魅了される瞬間があって、それは、ただの殺戮者ではない、真のハンターの到達する境地であるというふうに描いています。 そして、ロボもペイサーも、狩人たちが追いまくるだけではどうしても捕らえることができません; 馬は八頭死に、五人の男はくたくたにまいった。だが、あの無敵の黒馬は、いまだに無傷で自由でいる ――『私が知っている野生動物』 しかし、最後に経験の知恵というか、よく観察して弱点をつかんだ老練な狩人が、勝利をおさめます。ロボもペイサーも、真のヒーローであるがゆえに、女性いや雌のために生命を落とすのです。子孫をつなぐ本能なのでしょうが、これがロマンチックな悲劇を生むのですねえ。 かくてペイサーは捕らえられますが、すぐに暴れ回って自ら断崖から転落していきます。死すとも自由を貫いた、というわけです。シートンは淡々と事実を語り終えていますが、子どもの頃はペイサーがかわいそうすぎて、私はこの物語があまり好きではなかったほどです。 大人になって、馬を狩る人間たちの描写にも注意して読むと、人間の側にもいろんな性格や人生模様が見えるし、人間と野生動物との関係性なんかも考えさせられます。
January 7, 2026
コメント(0)

第3回は旅の初日、1985年大晦日の記憶のつづき、上海のホテル到着後 です。前回同様、『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。また記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 ツアーメンバーの大半が、上海に知人がいるなど縁やゆかりのある人で、行動予定が決まっているようだった。改革開放中国への観光旅行が流行りはじめの頃で、フリーツアーには生半可な客はまだ少なかったのだろう。 「生半可な客」である我々は、今日のうちに、本郷さんが昼間から銃撃戦をした憧れの南京路、高層ビルを見上げて歯がみした外灘(バンド)を、一目見なければならぬ、夕食も食べねば、とはやるばかり。このホテルは市街地から遠いので、タクシーに乗ろうとだけ決め、添乗員のKさんの部屋へぞろぞろと行って助けを求めた。 Kさんは気さくな人で、生理用品を中国で買ったらひどくゴワゴワで分厚かった、というような話をいきなりする。彼女は受話器を取りあげるや、早口の流暢な中国語(広東語?)で、旧・城内の豫園(よえん)近くの有名老舗レストラン、上海老飯店(ラオはんてん)に予約を入れてくれた。私たちはガイドブックにかぶれて「上海ガニが食べたい」などと注文をした。 次は両替だ。ホテルのカウンターで、あっさり断られてしまった。午後のこと、おまけに未完のホテルとて、兌換券のストックが尽きているらしい。途方に暮れて、確かまたKさんの助言を求めた結果、ホテル付きのタクシーに、まずどこか両替できそうな大きなホテルまで連れて行ってもらうことになった。運転手さんに見せるメモと、レストランで見せるメモ(左画像)と、Kさんに中国語で書いてもらったのを持ち、いざや出発。 タクシーは見慣れた日本車だった。のちに上海町なかでいろいろ眺めたが、映画で見る戦前みたいな(と我々は感じた)古めかしい大きな箱形のタクシーも走っていた。それは中国の国産車だということだ。 我々の運転手さんは、気の毒に風邪を引いていた。たいへん親切な、ニコニコと内気そうに笑う人で、私たちを乗せひたすら東へ走った。延安西路→新華路→番禺路→南京西路、そして国際飯店*の前で止まった。そこで 謝々(シエシエ)と言って別れるものと思っていたが、彼は車を降り、私たちを連れてホテルの中へ入っていく。手続きをしてくれようというのだ。ところがここでも兌換券がないらしい。運転手さんは風邪で苦しそうな様子のまま、歩いてホテルを出る。びくびくしながらついて行くと、2軒ほど先の華僑飯店*に入ってゆく。幸いここで両替することができた。一人1万円札1枚ずつ、計3万円出して458元になった。運転手さんが手続きを全部してくれ、私がサインだけした。 *国際飯店 (左写真中央。塔の広告板は「東芝」。ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代だった。)1934年にできた老舗ホテル。英名パークホテル。人民公園(旧競馬場)を見おろす場所にあり、かつてはアジア一の高層ホテルだった。 *華僑飯店 (左写真右の細い塔)超老舗ホテル。英名パシフィック・ホテル。1926年にできたイタリア・ルネッサンス式の建物は華安大楼といったが、戦時中に香港華僑に貸されて金門飯店となり、解放後華僑飯店と改名。現在は金門大酒店に戻っている。 お金ができたので運転手さんに支払いをした。よく考えてみると運転手さんとしても、我々が兌換券を入手してはじめて支払ってもらえるのだった。タクシー伝票には運転手さんの性格を表すような、まめまめしい字が書いてある(右上写真)。16:05から16:40まで、新苑(飯店)から南京路まで乗って7.2元(およそ472円)。中国のレシート紙は総じて、黄ばんでカサカサした紙で、ボールペンのインクが裏まで通ってしまうほど薄い。 運転手さんにお礼を言って別れた。ほんとに優しい人で、我々はすっかり感激した。 いよいよ南京路をその足で踏んだ我々は、夕闇迫るなか、東へそぞろ歩いた。まずは西蔵中路との交差点近くの陸橋にのぼって東西を眺め、感慨に浸る。このあたりが南京東路と南京西路の境目らしい。上写真は陸橋から西を撮ったもので、左側の樹木は人民公園(旧競馬場)の木々。その上に突き出しているのはテレビ局の電波塔である。 右写真は、同じ陸橋から東を撮ったもの。現在は歩行者道路の南京路も、旅行当時は『南京ロード』の戦前と同様、上海一の目抜き通りだった。写真手前のトロリーバスのほか、車が詰まって道を渡る人々があふれている。「冠心葯房」という薬局の看板や、華僑商店(旧永安公司新館、「七重天」)が見える。中央の塔は市第十百貨商店(現在の永安百貨店󠄀)か。左の塔のある建物は時装商店かもしれない。 時の流れをたたえた石造りの建築と錯綜する架線との下、行き交う大勢の現地の人々の生き生きとしたエネルギッシュな動きに、我々は感心した。 つづく。
January 6, 2026
コメント(0)

第2回は旅の初日、1985年大晦日の記憶です。前回同様、『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。また記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 朝、Mのお父さまの車で大阪空港(伊丹)へ送ってもらう。関空はまだ無い時代である。 添乗員Kさんは元気なおばさん。ツアーメンバーには年配の人、家族連れ、一人旅の人も。関東から来た人もいた。長く待って、ようやく乗るべき飛行機を眺めたとき、私たちは明るい興奮に包まれた。とうとう国外逃亡――せまい日本にゃ住み飽きた(『蘇州夜曲』・『どくろ杯』)、である。 騒ぎながらボーディング・ブリッジを歩いていると、一人旅のお姉さん(Oさん)が話しかけてきた。なぜ上海へ出かけるのか? 戦前の上海に興味がある、と答えると、「たとえば森川久美とか…?」と見抜かれて、私たちは爆笑。彼女も「LaLa」誌の読者だったのだ。 中華民航*の機内では、お土産に漢字のついたカレンダーをくれた。12時5分発。晴れて機内は快適。食事が出て、非常に荒削りな爪楊枝などが珍しい。肉汁のかかったご飯(私たちは「ぶっかけ飯」と呼んだ)、パンにジャムもある。おいしい中国茶も出た。服務員さんという呼び方が似合うCAさんは、たどたどしい日本語でアナウンスした後、私たちには耳慣れぬ中国語で繰り返している。 *中華民航 中国民用航空のこと。国営ではなく独占全国企業だった。この旅の2年後に分割され、さらに統合されたりして、現在では中国国際航空。 2時間もすると、もう到着。中央の席で景色は見えなかった。 がらんとした広い空港*には、くすんだ緑色の制服・制帽(帽子には赤い帯)をつけた警備員が直立不動の姿勢で立っている。軍隊みたいな実用的かつシブイ身なりで、非常にかっこいい。だが、四方からじろじろ見られる感じで、どことなく怖い。 現地のガイドさんが来ていた。すらりとした若い女性で、パーマの短髪、色白の堂々たる美人。 ホテル「新苑飯店」の迎えのバスに乗りこんで出発。上海の中心市街からは遠いが、空港からは、住所が同じ「虹橋路」だから近いはずだ。 *空港 虹橋空港。当時、上海で唯一の空港。浦東国際空港ができてからは、中国国内線が多く発着しているそうだ。 空港前はアスファルト、向こうに木が見える。日本と植生は同じだな、と思う。しかし、その木々の向こうが見えない――つまり何もない。 バスが空港を出ると、道がまっすぐひたすら続いているのにびっくりする。彼方は地平線なのだった。空港の周囲は四方ぐるりと荒野らしい。並木のある直線の道は何物にも遮られることなく続く。さすがは大陸、国土のスケールが違う。 バスはひた走る。なかなかのガタ道でローリング&バウンディング、砂ぼこり。並木の外側で人々が道に沿って溝を掘っている。シャベルのみが道具の、人海戦術の道路工事らしい。掘った土が山になって堤を成している。こういう工事風景は、ごく幼い頃(昭和40年前半)見た覚えがあり、少しばかりなつかしい。建物らしい建物は見えない。溝の向こうにバラックのような小屋があるほかは。 永遠に直進かと思う頃、ついにバスはガックンと揺れて急カーブを切った。そのひょうしに、右手の窓から一本の立て札が土の山の上に斜めに突き刺してあるのが目に入る:「新苑飯店」。木切れに棒を打ちつけ、ペンキで赤く書きなぐってある、その荒れすさんだ様子に度肝をぬかれたとたん、バスはものすごいバウンドとともに道をそれ、溝をまたぐ折れそうな木切れの上を通り抜け、きしみと砂塵をあげつつ、まだ踏み固められてもいない黒土の上を、ウサギのように跳躍しながら進んでいく。私たちはおそれおののき、本気で寝る場所の心配をし始めた。 しかし、ブルドーザーさながらに辺りの物を踏みにじるバスの行く手には、真新しく立派な玄関が見え、たいへんホテルらしい建物が忽然と現れて、我々を安心させてくれた。 下車して玄関をくぐると、正面ロビーとおぼしき空間に、大きな「煙のような」クリスマスツリーが飾ってあった。煙、と我々が言い合ったのは、明るさに欠けるというか、雪が積もったふうな装飾が亡霊じみていたからで、しかし精いっぱいのもてなしと思えた。旅の間に唯一見たツリーである。 ここで現地ガイドからKさんを通じて、重大な情報がもたらされた。「新苑飯店はあと一週間で完成予定である」。よく見ればなるほど、ロビーの左手に暗くぽっかり空いた洞窟はエレベーターになるらしいし、廊下や階段の踊り場では、ピカピカ新品の床に材木が積んである。こんな状態でも客を入れるとは、よほど観光客が多いのだろう。 泊まる部屋(445号室)に案内されると、窓のすぐ外に瓦礫と掘り返した土の山が見えていて、これは中庭らしかった。なかなか凄まじい景色だが、室内は西洋風で広く美しい。我々は3人なので、じゃんけんの結果、Nが一人旅のOさんと同室ということになった。Oさんは中国の文物(アンティーク)を求めて来たとのこと、もはやツウの域である。
January 2, 2026
コメント(0)

今年は丙午、暦が還ったHannaです。 近年、「今年もなんとか続くかどうか」という感じで更新してきましたが、今年は少しリキを入れてみようと思います。 まずは昨年大晦日から、ちょうど40年前の中国・上海旅行ふり返りで、当時のメモや現在の感慨などを書きつづっていきます。よかったら、セピアでレトロな青春推し旅をお読みくださいませ。 夏には、同じく中国・シルクロード旅のふり返りも、してみようと思っています。 ともあれ、平和で災害のない年になりますように。
January 1, 2026
コメント(0)

いつものブログと趣向を変えて、連載を始めてみます; これは、私と友人2人(M&N)の若かりし頃の旅の記憶。戦前の上海を舞台にした森川久美のコミックス『蘇州夜曲』(1981年)と『南京路(ナンキン・ロード)に花吹雪』全4巻(1982~83年)の聖地巡礼。以降では『南京路に花吹雪』を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。また記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 昭和初年 広大な中国大陸をうしろにひかえ 国際都市として繁栄する――上海 そこは各国スパイが暗躍し 犯罪シンジケートがしのぎをけずる――東洋の魔都 (『蘇州夜曲』) 初め、「LaLa」誌上に連載中の「南京ロード」をめくっても、ストーリーが理解できなかった。「登場人物がいつも暗い顔で髪振り乱して走ってる」と、私は公言し、「ぱふ」誌のキャラ人気投票で載った、主人公の黄子満(ワンツーマン)も、ミソクソにけなしていたように記憶している。(右絵は当時、定期入れにはさんでいた黄子満の模写) 連載最後で「黄(ワン)が死んだ」「いや死なない」の論争が、他の友人から聞こえてきた。半年後、番外編「花は辺りに雨と降り」(昭和58年11月号)に感動したNが全巻を買いそろえ、私も借りてみた。高校2年の三学期だった。 私は前日譚『蘇州夜曲』もふくめ5冊(内容が密なのでコンパクトといえる巻数だ)を熟読して今度は理解し、すっかりこのシリーズを愛してしまった。物語の舞台・上海をも、すぐさま愛するに至ったのは、森川久美が、上海という都市そのものを主人公として愛し、描いたからだと思える。 高3になってMにも私やNの熱狂が伝染。夏、私は誕生日に5冊を贈ってもらい、一種の中毒に陥って、何度も読み続けた。 多分この頃、誰かがふと「上海に行きたい」と言い出したのではないか。気づいた時には受験を控えウツウツとした日々の中で、口癖のように「いつか上海に行きたいね」「(大学に)うかったら行こう」と言い合っていた。シャンハイ――夢の街。そこへ行けば物語の黄や本郷さんが本当にいるのだ、路(みち)を駆け回っているのだ、という空想。 チェリッシュ・ギャラリー(イラスト集)『森川久美の世界』、イメージLP「南京路に花吹雪」*が出、やがて春。幸い三人とも大学生になった。三人三様アルバイトを始め、上海は急に、手を伸ばせば届くかもしれない夢に変わった。Mの誕生日には、私の時と同様、「南京ロード」が贈られた。 しかし、具体的な上海行きを提案したのはいつで、誰だったのか。あとから私たちがどんなに頭をしぼっても、わからなかった――上海の不思議な魔力である。 *このLPはNが貸しレコード屋から借りたのだと思う。翌年に彼女が大学生協で取り寄せようとしたが廃盤になっていた。曲のタイトルも写し忘れたとかで、定かでない。現在は、YouTubeで数曲聞けるのを発見した。 夏休みごろ話は具体化して「来年春、いや、もっと早く」。9月の学期末試験のさなかに、我々は「冬休み」と結論し、試験が終わるや、うちそろって旅行会社の広告を求めに出かけた。新聞で見つけた「鍳真(がんじん)号」の船旅も、「南京ロード」と同じく、海から上海へ入れるので魅力的だったが、日数がかかるので冬休みでは無理だ。上海の街は自由に歩きたかったので、パックツアーの場合は何とか交渉して自由行動を勝ち取らねばならない、と我々は気勢を上げた。 国鉄大阪駅の地下街、旅行会社が軒を連ねる界隈を、我々はさまよった。無難なコースは日本交通の“上海・蘇州4日間”、しかし少しさみしい気がする。と、その時、見つけた。“中国自由遊覧、上海6日間”、蘇州・杭州の日帰りオプショナルツアーつき、日中旅行社*。歓喜し、うますぎる話に不安も覚えながら、腹ごしらえにナビオ阪急5階の「青冥」で炸醬麺(ジヤージヤーメン)*を食べたと思う。 *日中旅行社 中国旅行専門。2005年の反日デモの影響を受け2006年トップツアーの子会社となる。2008年業績不振で子会社としても解散。 *炸醬麺 「南京ロード」に、本郷さんと黄がこの料理を食べる場面があるので、我々はあちこちの中華料理店でこれを食べ比べた。 ツアーに空きがあり予約可能と分かった。黄、本郷さん、ジョーたちの走った道、見上げた建物を私たちも見られると思うと、もう興奮である。日中旅行社の関西支社(西本町)を訪ね、申込金(3万円)を払った。パスポートを取り、残金15万1千円を払い込む。出発日は12月30日。オプショナル・ツアーは、蘇州・寒山寺の除夜の鐘が混み合うのを恐れて、31日に杭州、1日に蘇州と決めた。 私の大学生活は、このころ精神的にキツくなっていた。授業は休講も多く、私も風邪を引いたりしてぶらぶら過ごし、ひたすら上海行きを待った。上海行きは、『蘇州夜曲』の冒頭のように、脱出行の様相を呈し、私は毎日毎日を大きな息をつきながら通り抜けていった。 12月18日に旅行の日程表や上海の地図が届いた。地図は中国語で、それを観るだけでも感動だ。Nは地図に使われている紙が「中国の匂い、大陸の香り」だと言った。 Nは「地球の歩き方中国編」や上海グルメの本などを入手。Mは、戦前の上海地図を調べようというので、大学の史学科研究室へ乗りこんで、お茶の接待を受けた末、「秘扱」と印刷された「すごい古地図」のコピーを入手した(右画像)。私は梅田・三番街の古本市で戦前のガイドブック『支那案内』*の復刻版を購入した(2000円)ほか、金子光晴『どくろ杯』(イラスト集収録の“南京路裏話”に出てくる)や「夜想」*12号(上海)などを買いあさった。 *『支那案内』は大正8年版で復刻は昭和49年。上海のページには租界時代の地図、ホテル、公園、病院などの情報が載っている。 *「夜想」ペョトル工房 23日になって滞在するホテルが知らされた。当初、上海賓館のはずだったが、空港近くの聞いたこともない「新苑飯店」*になっていた。私たちは街中心部への遠さを考えてガクゼンとしたが、のちのちこのホテルにはもっとガクゼンとすることになる。 *新苑飯店 XIN YUAN HOTEL。住所は上海市虹橋路1900号。翌年、シルクロードツアーで泊まった時には新苑賓館と名を変え、現在もその名で同じ住所で営業している(現在はさらに大規模になっているようだ) フリーツアーなので、どこに行くか計画するにあたり、古地図を使って「南京ロード」に出てくる地名を片っ端から位置確認。インターネットのない時代は、こうした資料探索をするしかなかったのだ。よくやった、昔の私たち! 南京路はもちろん、パレス・ホテルや四馬路、五馬路、海軍陸戦隊本部は見つかった。 しかしそのほかがうまくない。ゼスフィールド公園*は当時分からなかったし、エドワード路*、南海路(ナンハイルー)*や血の雨横町(ブラディ・レーン)*も不明。本郷さんの勤めた上海日報*や東京日日新聞上海支局*の場所も、探せなかった。 *ゼスフィールド公園 現在は中山公園という。市街地の西郊外なので、入手した古地図には載っていなかった。実は、泊まった新苑飯店からはさほど遠くなかったのだが。 *エドワード路 エドワード七世通り(愛多亜路)のこと。現在の延安東路。共同租界とフランス租界の境界。外灘の南境でもある。現在ではこの通りの南側も新外灘というそうだ。 *南海路 上海市街のかなり北、長江ぞいの劉河地区にこの名の通りがあるようだ。 *血の雨横町 現在検索すると堀田善衛『上海にて』の目次に「死刑執行」の次に「腰巻き横町・裂け目横町・血の雨横町」とあるのが見つかった。*上海日報 1904年~39年(戦時下で「大陸新報」に吸収)に上海で最も人気のあった邦字新聞3社のひとつ。他の2社は上海日日新聞と上海毎日新聞。*(東京)日日新聞上海支局 虹口に支局があったとしか分からない。 さて、旅行社から電話があり、飛行機の都合で出発が一日延びるという。これにはびっくりし、不安がったり憤慨したりもしたが、中国旅行では結構あるようだ。ホテルに関しても全部中国側の指定で、こちらからは文句が言えない。 私は「南京ロード」LPの曲♪「ふらふらと上海」を聞きながら、旅行鞄を買った。くじ引きで分担を決めた『南京ロード』1・2巻をかかえ、5万円ほどの小遣いとともに、――私は寒い大晦日、ついに上海へと“逃げ出した”。 つづく!
December 31, 2025
コメント(0)
![]()
年末年始にぴったりの物語。1943年マルシャーク作、旧ソ連の子どものための戯曲ですが、日本でも毎年この季節に上演されているようです。私は、残念ながら舞台は観ていないのですが、子どものころ岩波文庫で覚えるほど読みました。今でも同じ訳で出ています(左画像、表紙は少し変わりました)。訳者さんがあとがきで述べているように、タイトルは直訳の「十二月」だと弱いので(おまけに1年のうち12月だけかと誤解されそう)、日本語でつけ直し、これが好評だったとのこと。しかし、私は子供心に、「森は生きている」だなんて、自然観察本みたいだな、と思ったのをおぼえています。 今では『十二の月たち』という絵本(右画像)などもあります(作者が違いますが、こちらは脚本でなくて語り直しなのでしょうね)。 ストーリーは、1月から12月までの12人の精霊が大晦日に一堂に会すというスラブ民族の民話をもとに、主人公の「継むすめ」とその対極としての若い女王を描いています。 継むすめ じゃつまり、女王さまも、みなしごなのね? 兵士 みなしご、ということになるな。 継むすめ かわいそうね! 兵士 かわいそういだとも! だれもあのひとに、智恵や分別を教えてあげることはできないんだ。 ――マルシャーク『森は生きている』湯浅芳子訳 貧乏でも、労働と生活の中で智恵や分別を身につけている継むすめと、富と権力があるばかりにわがままで世間知らずな女王。この見事な対比と、「人にものを頼む」ことなどの大切さについては、すでにいろいろ考察があるようです。 私はというと、この物語のキー・アイテムの一つ、「指輪」に注目です。これは継むすめが大晦日に出会った12人のうち四月の精に「記念に」もらった「婚約の指輪」です。婚約の、と訳されていますが、おそらく「約束(エンゲージ)の指輪」という意味でしょうか。 継むすめが困った時は、指輪を地面か水の中か雪のふきだまりかに投げて、決まった言葉を唱えれば、12人の精霊たちが助けに行く、という約束です。その言葉というのが、 ころがれ、ころがれ、指輪よ 春の玄関口へ 夏の軒ばへ 秋のたかどのへ そして、冬のじゅうたんのうえを 新しい年の焚火をさして! ――『森は生きている』 という詩です。 意味の深い詩ですね。円い指輪が、春夏秋冬、一年の季節の巡りを、文字通り「ころがれ=めぐれ」と、言っているのです。つまりこれは魔法の指輪で、円の形は季節の巡りを表しています。 トールキンの『指輪物語』の考察でむかし書いたのですが、サウロンの「一つの指輪」は支配する力を持つ金の指輪です。これをはめると支配する力をふるうことができる。それが原題の示す「The Lord of the Ring」つまり指輪の王(あるじ)です。 『森は生きている』では、ト書きにははっきり書いていませんが、四月の精は継むすめの指にはめてあげたのでしょうね。季節季節に森に来て働き、森の恵み受け尊重してきた継むすめは、今や季節のめぐりの指輪をもらったことで、季節を支配する力つまり12の月の精霊を呼び出す力を授かったのです。 指輪を取り上げてしまった継むすめの義理の姉が、指輪をはめようとしたのに指に入らない、というところからも、常人ではなく継むすめだけに与えられた特権であることがわかります。 しかし、トールキンの描くサウロンの指輪と違うのは、支配力をふるうには指輪をはめるのではなく、指輪を外して地面や水中や雪中(つまりもとの自然界)に返さなければならないのです。そうして詩を唱えれば、指輪はころがり=季節はめぐり、救い手となって現れる。 よく考えると、トールキンの指輪では、指にはめて固定してしまえば、それは束縛という形の支配力を象徴しています(結婚指輪もそんな側面がなきにしもあらずですね)。そして、トールキンの主人公たち(ビルボやフロド)は、そのような魔法の指輪を外して手放すことで、救済されました。 『森は生きている』の継むすめも、女王に指輪を投げ捨てるぞと脅された瀬戸際で、指輪を所有することに固執せず、「投げてください!」と手放します。そして救われるのです。 四月 きみがこれを惜しがらなかったのはよかった。(中略)それをはめていれば、きみは…(中略)…ふるえるような寒さにも、吹雪にも、秋の霧にもあわない。 ――『森は生きている』と、あるように、手放したことで指輪はめぐって再び彼女のもとへ戻り、彼女を季節季節のあるじにしてくれ、祝福をもたらすのです。 トールキンでもこの物語でも、指輪を金銭欲や権力欲の束縛の象徴として使うのではなく、手放してめぐらせること、それは季節のめぐり、時のめぐりとそれのもたらす恵みを理解する、心豊かな賢者になることを意味しています。継むすめも、最後には「女主人」と呼ばれていますが、そう、彼女は「季節のめぐりの指輪のあるじ」、ビルボやフロドと同様、真のThe Lord of the Ringなのです。
December 23, 2025
コメント(0)

4Kリマスター版が期間限定上映!と、友人Nさんから誘われて、先日初めて観ました「サウンド・オブ・ミュージック」。約3時間の大作ですが、圧倒的な山岳美と圧倒的な歌の魅力で、長さを感じません。さすが往年の傑作。 じつは私の母が映画公開当時(1965年)にアメリカで観て、サウンド・トラックLP(画像)まで購入しているのです。ニューヨークの映画館では、ヒロインたちがナチスを逃れてスイスへと山越えする最後の場面で、観客から喝采と激励の叫びが沸き起こり、びっくりしたとか。当時の人気がうかがえます。 私はサウンド・トラックは何度も聞いて歌は知っていましたが、映像とストーリーをようやく堪能することができました。 まず、アルプスの雄大な景色とそのふところにいだかれたザルツブルグの町がすばらしいです。60年も前の映像とは思えませんでした(「4Kリマスターの威力だよ」と友人)。その中で文字通り跳んだりはねたり走り回るヒロインや子どもたちの、のびのびと豊かな様子が、もうまるで異世界です。 そう思ってみると、ザルツブルグという舞台そのものが都会を離れ、巨大なサイズ感でそびえる山を間近にして、異世界のようですし、その中でヒロインのマリアの居る修道院は、俗世と隔絶されてやはり異世界です。そして二重の異世界の中、ハイジのように、山々を愛し一人歌うマリアは、ほとんど人間離れして天然。 このテンネンなヒロインが、絵に描いたような軍人(ツンデレのスパダリ!)のところへ、子どもたちの家庭教師として行く。そして持ち前のピュアなパワーと歌の力で道をきりひらき、恋の苦悩をのりこえて幸せをつかむ。令和でも人気の玉の輿系王道恋愛漫画の、ルーツをみる思いです。 7人の子どもたちもテンネンで、妖精のようです。実母の死後、父の軍隊式教育にもめげず健やかなのは、兄弟が多いおかげでしょう。一人っ子だったら絶対心を病んでいそうですが、彼らは助け合って父に対抗してきました。マリアという味方を得て、とうとう父の頑なな心を癒やすことに成功します。 そこへお定まりのライバル女性登場。ウィーンの富裕な未亡人です。彼女もいい味を出しています。洗練されたファッションと物腰で、決して嫌がらせやえげつない嫌みなんか言いません。それでいてしっかりライバルしています。脇に配された、楽団をプロデュースする叔父さんも素敵なディレッタント(好事家、趣味人)で、最後にはきちんとヒロインたちを助けてくれます。 ナチスや愛国心がからんだストーリーの後半は、当時のオーストリアの史実とは異なるそうですが、それにしても、政治や戦争が人々の心を分断し困難と悲劇を生むという構図は、遠くのこと・過去のこととは思えない一面もありました。 歌に関しては言わずもがなでしたが、一つ一つの歌がそれぞれ違う場面で複数回歌われたり言及されるのが良かったです。たとえば「私のお気にいり」は最初、雷雨の恐怖を忘れるために歌われますが、ナチスから隠れてちぢこまる時に「歌ではどうにもならない時もある」と説明されます。「すべての山を登れ」は、恋の悩みを克服する激励として歌われた後、最後に本当に山越に向かう時に歌われます。 そして、このラスト・シーンで、青空と雪峰の美しさが印象的でした。それまでは、町なかの場面では特に、美しい景色でも背後の空は曇っていることが多かったですが、これはもしかして時代の暗雲を示していたのかもしれません。そしてスイスへ向かう最後の空が青く晴れ渡っているのが、ゆくての希望と自由を表しているように思えました。 エンディングでは、満員の観客から拍手が沸き起こっていました。おお、日本の映画館でも(インド映画鑑賞時は別として?)感動の拍手が。そのことにさらに感動してしまいました。
November 25, 2025
コメント(0)

1985年ごろ、私は買ったばかりのビデオデッキで深夜の映画番組を録画しました。なかみはフランスのSFアニメ。ヤマトとガンダムしか知らなかった私に、不思議な深い印象を与えてくれた「時の支配者(The Timemasters)」です。ただし当時観たのは英語版の日本語字幕でした。 先日、その作品を某配信サービスで見つけ、懐かしさのあまり一気見してしまいました。ルネ・ラルー監督「Les Maîtres du temps」(1982年)。リマスター版が最近できて日本でも上映されていたそう(ただし映像が所々乱れたり、音声がズレたりしています)。 深い独特の色合いでシンプル・シュールに描かれた異星の風景、流れるテクノポップ。それらは、奇妙な夢を見ているような浮遊感を生みます。キャラクターは、欧米のコミックス(フランスだからバンド・デシネですね)風。どこか懐かしいような、斬新なような、幻惑的な雰囲気。 今観ると、SFがまだサブカルであった頃のあの斬新さは、レトロに感じられます。 ストーリーもシンプル(以下ネタバレ)。輸送業者ジャファーの宇宙船に、ペルディド星の友人から救難信号が入る。友人夫妻は死に、1人取り残された幼い息子ピエールが通信機「マイク」を持っている。亡命する王子・王女とお宝を乗せているジャファーは行く先を変更し、救出に向かう。途中でペルディドに詳しい老人シルバードと小妖精2人が加わる。 ジャファーたちはかわるがわるマイクを通じてピエールに話しかけますが、中でもシルバードは幼い少年に歌を聞かせます。 この歌がなぜか私の耳にずっと残っていて、SFらしからぬバンジョーのフォークソングなんですが、昔観た英語版では、サビで「♪Another Robinhood~」などと歌っていたのが、もとのフランス語では大酒飲みの放浪者の歌詞になっていました。お国柄で歌詞も変わるのですねえ。 邪心を起こした王子が出奔し、彼と彼を追うジャファーはガンマ星に不時着。のっぺらぼうの白い天使の姿をした集団につかまります。彼らは炎のような思想体に操られて個性を失っています。この天使のビジュアルも強烈で、あとから読んだミヒャエル・エンデ『鏡の中の鏡』に、彼の父の描いた絵とともに「天使」が出てきた時、私はこの映画の天使が頭から離れませんでした。 天使たちが(英語版では)「ユーニティ(統一)! ユーーニティ!」という叫びの中でジャファーたちを炎に投げ込もうとする儀式の場面には、うすら寒い恐怖を覚えました。が、ここで王子は改心して自ら炎に飛びこみ、統一を拒み憎むという強固な意志によって炎の思想体を打ち破り、自らも果てていきます。 おお、こんなところに「マビノギオン」のエヴニシエン伝説が出てきました! 人間を不死の奴隷に変える大釜に自ら飛びこみ、釜を破壊して果てるクセ強のウェールズ王子のエピソード(以前「オレンジ党」シリーズで出てきました)。 さて、ようやくペルディド星に近づくジャファーたちの宇宙船。ところが突然、時空の歪みに突入して全員失神してしまいます(これも既視感、「クラッシャー・ジョウ」映画版(安彦良和、1983年)で、宇宙船が突入したワープ空間が不意に歪められる場面。この時代の流行だったのかも。そういえばジャファーはクラッシャー的だし、ほかにもスペースオペラの要素がいっぱいです)。そして、時の支配者なるエイリアンに、ペルディド星を植民化するにあたり60年過去に戻したと教えられます。 Wikipediaなどによると、ストーリーのこの部分は原作(なんと1958年の小説)を改変していて、原作では光速によるウラシマ効果によってペルディド星と宇宙船乗組員とに時間のズレが生じるのに対し、映画では時間を操るエイリアンを登場させています。 結局ジャファーたちはピエールを救出できませんでしたが、実はピエールは惑星ごと60年過去に連れ去られ、危ういところを別の宇宙船に救助されていました。そして…、60年後、少年はシルバード老人となったのでした。シルバードはピエール(過去の自分)とマイクを通じて交流したものの、出会うことはなかったのです。タイム・パラドックスは生じませんでした。 昔の私はこの最後のタイムリープに煙に巻かれた気分になり、説明不足だと感じました。今思えばエイリアンは、過去の自分自身と出会ってしまうというタブーを避け、しかもピエールを救うために、過去へ連れ去り、ちょうど間に合う60年前の別の宇宙船に救助させた、のかもしれません。 こうして映画はエイリアンと時間の不思議、宇宙の神秘みたいな感じのシュールな演出で謎めいたまま終わっていきます。ジャファーと王女は結ばれるようだけど。 さまざまな典型的要素を詰めこんだストーリーを前衛的な映像と音楽で表現した、当時のトガった作品に、今となってはノスタルジーを感じるのが、新しい快感です。
October 15, 2025
コメント(0)

注意! 虫ネタです。 ようやく少し涼しくなって、夏の間ジャングルのようになった庭の木を刈り込もうとしたところ、ヒイラギに大きな青虫というかイモムシが何匹もついていました。キレイな緑色に細い毛をまばらに生やし、すごいスピードで這い回り、棘のある葉をむしゃむしゃと食べています。 ヒイラギの葉を食べる虫なんているのかしら、けれどそういえば数年前からヒイラギの葉に時々いかにも食べられたような痕がありましたっけ。 スマホで調べたら、どうやらシマケンモンという蛾の幼虫のようでした。「縞剣紋」と書きます、キレイでスピーディーなイモムシにしてはいかめしい名前。と思ったら、縞模様や剣の模様のあるのは、成虫の蛾で、それはそれはいかめしい、木の幹みたいな保護色の(はっきりいって超地味な)羽を持っているのでした。 シマトネリコの木(こちらの名前は縞ではなく「島」とねりこ)にもつくそうですが、我が家のシマトネリコの幼木は無事でした。南方産のものが、温暖化で北進し、今では西日本で普通に見られるそうです。といっても、成虫の方はそのへんにとまっていても気づかないほど保護色です(成虫を知りたい方は検索してください)。
October 12, 2025
コメント(0)

ディズニーの「アラジン」はアニメ版も実写版も、ペルシャやイスラム圏の景色や装束(と思われるもの)が美しくあふれています。砂漠や回教寺院のような建築物や、精霊(ジン)、絨毯etc…(画像はブルーレイ表紙) 本の「アラビアンナイト(千夜一夜物語)」も、絵本や児童書(やなせたかしのが最近は再注目ですかね)から、岩波のガラン版(ヨーロッパのものでは最古とされる)とディクソン版(右画像)、角川のバートン版など大人向けの訳本までありますが、どれもヨーロッパで流布した物語からの訳です(平凡社の東洋文庫にはアラビア語からの訳本が(何巻も!)あるようですが、私は未読です)。 それらを読むと、「アラジンと魔法のランプ」の話の舞台が「支那=中国」となっていて、まずびっくりします。アラビア世界から見て東方の未知の国として、魔法や不思議な話の舞台とされたのか? しかしそれなら、話に出る「支那」の風俗がまるっきりアラビア風なのは妙ですね。アラビアでアラビア風の国の話を語っても異国の雰囲気は出ないでしょう。 と思ったら、そもそも大もとのアラブの説話集には「アラジン」の話はなかったと解説にあります(「アリババと盗賊」「船乗りシンドバッド」もないそうです)。これにもびっくりです。フランス人ガランが、タイトルの千一夜に足りないので(?)、シリアで現地のキリスト教徒から聞いたお話を付け加えたのだとか。 アラブ世界に住むキリスト教徒からだと、アラビアも中国も異文化という点では同じだったのでしょうか。 少なくとも、中世から近代までのヨーロッパから見れば、そんなもんでしょう。純アラビア風な支那の国が描かれている「アラビアンナイト」は、ヨーロッパ人の憧れる夢のオリエントだったわけです。角川文庫に収録された英語圏の児童書の挿絵には、サルタンの服装や帽子が中国(清朝)風で、日本人からすると文化がごちゃごちゃ、違和感がすごくあります。 一方、悪い魔法使いはマグリブ人(モーロ人とも。北アフリカやスペインのイスラム教徒)で、シリアやヨーロッパのキリスト教徒から見れば西・南方という、対比があるように思われます。 アラジンの話の元になる説話や伝説は他にはないのかしらと思っていましたが、そっくりな話は見つかっていないようです。ただ、手持ちの『子どもに語るアジアの昔話1』(松岡享子訳)収録のアフガニスタンの説話「大工の息子」が少し似ています。 アラジンは仕立屋の息子ですが、こちらは大工の息子で、どちらも貧しい職人の父を亡くし、母は困窮。大工の息子は犬や猫を得たり、願いをかなえるアイテムがランプでなく蛇王の魔法のルビーだったりするところは違いますが、王女の婿になるくだりや、王女がだまされて宝を奪われ、宮殿ごと僻地に追いやられるところは同じです。大工の息子は犬猫の助けを借りて敵を追い払い、王女と宮殿をもとに戻します。 この話ではイスラム的脚色がなく、ランプや指輪の精霊の代わりに動物が助けとなるところが、素朴な感じがします。 イスラム的ということでは、アーヴィングの『アルハンブラ物語』に、スペインで語られる伝説として、「モーロ人の埋めた宝」を紹介し、 [モーロ人が建てた]塔の礎石の下に埋められているイスラム教徒の黄金伝承…[中略]…隠匿された財宝には必ず呪文がかけられていて、魔法や魔よけによって守られている。 ――アーヴィング『アルハンブラ物語』平沼孝之訳などとあります。アラジンのランプが隠されていた穴が、輪のはまった平たい岩の下にあるというのを、思い出します。 おそらく、オリエンタルな情緒で素朴な昔話を肉付けし、アラジンの物語ができたのでしょうねえ。 そしてディズニーがそこへ個性的なキャラクターを肉付けしました。ランプの精や邪悪な魔法使い、ジャスミン姫も(名前も違いますが)、没個性な昔話とは違って、「個人」として生き生きしています。このようにして起源の分からない説話が、各時代独特のいろどりに飾られながら語り継がれていくと考えると、興味がつきません。
September 30, 2025
コメント(0)
全917件 (917件中 1-50件目)
![]()
![]()
