歴史小説が好きな爺のHP,

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2005/10/09
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順治帝に続く、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三代に清は最盛期を迎えた。康熙帝は、即位後に起こった三藩の乱を鎮圧し、鄭氏の降伏を受け入れて台湾を併合して、清の中国支配を最終的に確立させた。対外的にはロシアとネルチンスク条約を結んで東北地方の国境を確定させ、外モンゴルとチベットを服属させた。

また、このころ東トルキスタンを根拠地としてオイラト系モンゴルのジュンガル部が勃興していたが、康熙帝は外モンゴルに侵入したジュンガル部のガルダンを破った。のち乾隆帝はジュンガル部を滅ぼして東トルキスタンを支配下においた。これによって黒竜江(アムール川)から東トルキスタン(新疆)、チベットに及ぶ現代の中国の領土がほぼ確定した。

こうして少数の満州族が圧倒的に多い漢族をはじめとする多民族と広大な領土を支配することとなった清は、中国王朝の中でも特有の制度を築いた。藩部と呼ばれた内外モンゴル・東トルキスタン・チベットでは土着の支配者が取り立てられて間接統治がひかれ、理藩院に管轄された。

満州族は八旗に編成され、軍事力を担った。重要な官職には漢族と同数の満州族が採用されてバランスを取った。雍正帝の時代には皇帝直属の最高諮問機関軍機処が置かれ、皇帝独裁の完成をみた。

中国が繁栄を極めたこの時代には文化事業も盛んで、特に康熙帝の康熙字典、雍正帝の古今図書集成、乾隆帝の四庫全書の編纂は名高い。

しかし、一方で満州族の髪型である辮髪を漢族にも強制し、文字の獄や禁書の制定を繰り返して異民族支配に反抗する人々を弾圧し、凌遅刑と言われる凄惨な処刑を清が滅亡する20世紀初頭まで行い、その刑で処刑された人肉が一般家庭などで平然と食されていたりと暗い面があったことを見落としてはならない(この凌遅刑を撮影した写真が今現在でも現存している)。

出典はフリー百科辞典ウィキペィア






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最終更新日  2005/10/09 05:52:40 AM コメントを書く


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