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「神の時と人の時」 2014年5月29日 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年9月23日放映「三つの声」 「神の時と人の時」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、7章1~9節 イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです」(5節)。 この御言葉の前半には神の時について、後半には人の時について記されています。ここでいう「わたしの時」とは、第一義的には、キリストが十字架につけられる時、または公にご自身を世に現す時など、「神によって定められた時」を指しています。 しかしここでは第一義的な意味を離れて、神の時は「神が考えられる時の観念」、人の時は「人が考える時の観念」として、その言葉だけを取りだし、「時の記念日」に因んで、神の時と人の時について、特に両者は、どのような違いがあるのかといことについて、聖書から学んでみましょう。 一、時の種類について 「時(時間)」には、次のような三種類の時があるのではないでしょうか。 1.時間という時(物理的な時) 私たちがこの世に生まれて最初に教えられるのは、日時や年月など、時計で計ることができる時です。 2.機会という時(社会的な時) しかし世の中には、時計では計れない大切な時というものがあります。それは、「機会を十分に生かして用いなさい」(エペソ5章16節)とあるように機会という時です。 3.神を求める時(霊的な時) 聖書は、もう一つの大切な時があることを教えています。それは、「眠りからさめるべき時」(ローマ13章11節)がもう来ており、「今は恵みの時、今は救いの日」(第二コリント6章2節)であると自覚し、「心の霊において新しくされ」(エペソ4章23節)るために神を求める時です。 二、人の時について 人が考える時の観念というものは、どのようなものでしょうか。 第一は、時間という物理的な時の大切さを身に着けることです。これは、時の流れを自覚して、何事にも時間を厳守し、また定められた期間内に物事を成し遂げることです。 第二は、機会という社会的な時の大切さを身に着けることです。これは、ただ時間を厳守し、定められた期間内に物事を成し遂げるだけでなく、社会的な情勢や状況を適切に判断して、良い機会をとらえることです。 私たちは、この二つの時の観念を身に着けることによって、多くの無駄や損失を省いて能率や効率を上げることができます。これが人の考える時の観念です。しかしこれには神を求める霊的な時の観念がないので、人間の最大の問題である罪に関しては、何の解決も救いもないことを忘れてはなりません。 三、神の時について これに対して神が考えられる時の観念とは、どのようなものでしょうか。 規則正しい天体の運行を定められた神は、私たちに時間という物理的な時の大切さを教えています。 また「機会を十分に生かして用いなさい」(エペソ5章16節)とあるように、機会という社会的な時の大切さも教えています。 しかし神は、この時間という物理的な時の大切さや、機会という社会的な時の大切さを犠牲にしてまでも、私たちが神とその救いを求める時を備えられます。 神は、能率と効率を上げることを第一とする人間の目には、全く無駄であるだけでなく、かえって損失としか見えない苦難や災いを用いてまでも、私たちが神とその救いを真剣に求めて、罪の「眠りからさめ」、「やみのわざを打ち捨て」、「キリストを着」て救われるだけでなく(ローマ13章11、12、14節)、「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」ようになり(同12章2節)、神のみこころを行う者に変えられて、神が私たちに「行わせるためにお与えになったわざを成し遂げて、地上で」神の栄光を現すことができるように働かれるのです(ヨハネ17章4節)。 次回は2014年6月5日「聖霊に満たされる秘訣」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.05.28
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「人の歩みを確かにされる主」 2014年5月22日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年9月12日放映「三つの創造」「人の歩みを確かにされる主」 甲斐慎一郎 エレミヤ書、10章23節 「主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのではなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを」(23節)。 この箇所には二回「人によるのではなく」という言葉が記されていますが、これは否定的に裏から述べたもので、これを肯定的に表から述べるなら、「主(神)による」ということです。エレミヤは、「人間の道」も「歩くこと」も「その歩みを確かにすること」も人によるのではなく、神によると告白しています。「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる」(詩篇37篇23節)、「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その歩みを確かなものにするのは主である」(箴言16章9節)とある通りです。 これは、どのような意味でしょうか。すべてのことが初めから予定され、定められていて、今さら人間の力では、どうすることもできないという「予定論」や「運命論」や「宿命論」を教えているのでしょうか。決してそうではありません。パウロが述べている次のような言葉こそ、それを解く鍵です。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです」(ローマ11章36節)。 一、すべてのことは神から発する 人間は、単なる物質でもなければ、偶然に発生した単細胞から進化してできた動物でもありません。人間は、聖書が教えているように「神のかたち(像)に似せて造られた不滅の霊と人格を持つ者」です(創世記一章26、27節、参照)。言い換えれば、人間は、「神によって、神のように、神のために造られた者」です(G・C・モルガン)。 ですから人間が真に歩むべき道は、どこにあるのかという規準や、またその道を歩むための力は、どこから来るのかという原動力や、さらに確かな歩みをするためには、どうすればよいのかという法則は、人間に属することではなく、神に属することです。神こそすべての規準を定めた方であり、万物の力の源であり、あらゆる法則を制定され方です。 「人によるのではなく、神による」ということの第一の意味は、第一原因は、神であるということを教えているのです。 二、すべてのことは神によって成る それでは第一原因である神と私たちの間に存在している様々な苦難や試練また問題や課題、いわゆる第二原因と呼ばれるものは、どのように考えればよいのでしょうか。このことに関しては、人の目には災いと悪にしか映らないことをも用いて最終的に私たちを幸いと善に導く神の摂理というものがあります。 人間の道も、歩みも、その歩みを確かにすることも、「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6章7節)という法則に支配されるとともに、それを越えた不思議な神の摂理に導かれます。 「人によるのではなく、神による」ということの第二の意味は、第二原因に関しては、神の摂理の導きというものがあることを教えているのです。 三、すべてのことは神に至る しかし現実の世界は、神の摂理では、どうしても理解することができない矛盾や不可解な出来事が数多くあります。神はすべてのことを世の終わりに公平にさばかれ、明らかにされます。これが最後の審判です。人間の道も、歩みも、その歩みを確かにすることも、この世においては、必ずしも正しい評価や正当な報いを受けるとは限らず、最後の審判を待たなければなりません。 「人によるのではなく、神による」ということの第三の意味は、最終的な結果や結末は、神による最後の審判によってのみ分かるということを私たちに教えているのです。 「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。......すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです」(ローマ11章33、36節)。次回は、2014年5月29日「神の時と人の時」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.05.21
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「耕地を開拓せよ」 2014年5月15日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年7月24日放映「神の恥と人の恥」 「耕地を開拓せよ」 甲斐慎一郎 ホセア書、10章12節 「あなたがたは耕地を開拓せよ。今が主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる」(12節)。 私たちは誰でも、個人に、家庭に、教会に、そして全地に「主が訪れて、恵みを注いでくださるように」(新共同訳)と願うのではないでしょうか。 しかし、これは結果であり、その条件や秘訣は、耕地を開拓することと、今、主を求めることであると聖書は教えています。 一、あなたがたは耕地を開拓せよ 開拓者精神(frontier spirit)ということばがあります。これは、もともとアメリカ人が国土を独力で開拓し、発展させようとする精神のことで、新しい分野や進路を切り開くことを意味しています。 インドの開拓者、ウィリアム・カーレイは、「神より大いなることを期待せよ。神のために大いなることを計画せよ」と言いました。北海道の開拓者、ウィリアム・クラークの残した「少年よ、大志を抱け」ということばは、あまりにも有名です。しかし私たちは、このことばを百度唱えても、人から何百回言われても、開拓者精神を持つことはできません。 それでは、どうすればよいのでしょうか。このホセア書の「耕地」ということばは、まだ耕されていない土地のことを指しています。聖書において土地というのは、人間の心を表しています。 「耕地」とは、耕されていない心、すなわち、自分に都合の悪いことや耳の痛い話を聞いても、また反省を促し、悔い改めを勧めることばを耳にしても、心を閉じ、自分はこれで良いのだと言い訳し、「平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている」心のことです(エレミヤ6章14節)。 私たちは、心を耕さなければなりません。耕された心とは、神の前に「砕かれた、悔いた心」です(詩篇51篇17節)。パウロは、「神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう」と述べています(第二コリント7章11節)。このような耕された心の人は、熱心さと神からのヴィジョンが与えられて、開拓者精神を持つことができるのです。 二、今が、主を求める時だ 聖書において主を求めるとは、祈りを表しています。信仰の世界において祈りは、不可欠なものであり、また人が心を耕し、開拓者精神を持ち続けるためにも、祈りは非常に大切なものです。 1.祈りは、神との正しい関係を保つ秘訣です 私たちは、神に祈る時にのみ、神の前に砕かれて、神との正しい関係を持つことができるとともに人との関係も正しくなるのです。 2.祈りは、私たちを動かすものです メソジストの創始者のジョン・ウェスレーは、「祈りの目的は......必要感と......神への絶えざる依存感を定着させ......あなたがた自身を動かすことにある」と述べています。私たちは、祈り続ける時、私たちの願望が増し加わり、意志が強くされて、実行力のある人に変えられるのです。 3.祈りは、神の御手を動かすものです 前述したジョン・ウェスレーは、「神は、祈りに対する答えとしてでなければ、何事もなさらない」と言っています。 三、ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる このように私たちは、神の前に砕かれて、耕された心をもって、主を求め続けていくなら、ついに主は、私たちの祈りに答えて訪れ、「正義」(文語訳、新改訳)と「救い」(聖書協会訳)と「恵み」(新共同訳)を雨のように注いでくださるのです。次回は2014年5月22日「人の歩みを確かにされる主」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.05.14
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「イエスを仰ぎ見なさい(2)」 2014年5月8日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年7月15日放映「世を愛された神」 「イエスを仰ぎ見なさい(2)」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、12章1~14節 先回は、「イエスを仰ぎ見なさい(1)」の第一回目として、イエスを仰ぎ見ることを妨げる「自分と他の人」から目を離さず、「自分と他の人のこと」を考え、「自分と他の人」に期待し、求めることについて学びましたが、今回は、どのようなイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、求めるかについて考えてみましょう。 一、信仰の創始者であるイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、求める 神は、「万物の創造者」また「万物の創始者」です。さらに「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下」ります(ヤコブ1章17節)。そして神は、私たちの「うちに良い働きを始められた方」です(ピリピ1章6節)。 「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、またいろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」(ヘブル1章1節)。神は、御子イエスによって私たちに語られたということを信じるのが信仰であり、イエスは、私たちが信仰を持つことができるようにしてくださる「信仰の創始者」(2節)です。 私たちは、「十字架の上で、私たちの罪をその身に負」う(第一ペテロ2章24節)ために生まれてくださった信仰の創始者であるイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、祈り求めて、「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(1節)。 二、信仰の導き手であるイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、求める ヘブル人への手紙の12章2節の日本聖書協会の口語訳は、イエスは「信仰の導き手」であると訳されています。神は、良い働きを始められた方で、信仰の創始者ですが、完成するまでには、アブラハムとサラのように、「さまざまの試練の中で、悲しまなければなら」ず、「信仰の試練」を受けます(第一ペテロ1章6、7節)。 このように信仰は、紆余曲折を経て完成していくのですが、イエスは、信仰の試練を受けている私たちの「信仰がなくならないように」祈ってくださる方であり(ルカ22章32節)、私たちの信仰を正しく導いてくださる「信仰の導き手」(2節、口語訳)です。 私たちは、「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍」ばれた(2節)信仰の導き手であるイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、祈り求めて、「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(1節)。 三、信仰の完成者であるイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、求める 神は、天と地を「完成された」方で(創世記2章1節)、「終わりの事を初めから告げ......望む事をすべて成し遂げる」と仰せられる(イザヤ46章10節)「万物の完成者」です。そして、私たちの「うちに良い働きを始められた」ことを「完成させてくださる」方です(ピリピ1章6節)。 神は、さまざまな信仰の試練を受けている私たちを正しく導いて、私たちが終わりの日に「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイ25章21節)と、神からお誉めのことばを受けるまで、私たちの信仰を完成してくださる「信仰の完成者」です(2節)。 私たちは、「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれ」た(ヘブル1章3節、12章2節を参照)信仰の完成者であるイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、祈り求めて、「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(1節)。次回は、2014年5月15日「耕地を開拓せよ」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.05.07
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