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「神が求められること」 2014年10月30日昭島教会のホームページ、引っ越しました→こちらインターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年8月3日放映「キリスト教の信仰」 罪からの救いを受けるには、罪を悔い改め、ただ救い主イエス・キリストが私の罪のために死んでくださったことを信じればよいのであり、そうするなら、死の支配からいのちの支配に移ることができます。これこそ罪からの救いであり、修行や苦行は一切不要です。 「神が求められること」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、11章6節 一、人が私たちに求めること 世の人々が私たちに求めることは、「努力しなさい」「頑張りなさい」「最善を尽くしなさい」です。「頑張るとは、何かをやり遂げようと困難を耐え忍んで、一生懸命に努力する」ことです。なぜなら、この世の原理は、次のようなものだからです。 1.この世は生存競争の世界です この世では、生き残るために、あらゆることにおいて競争に勝たなければなりません。 2.この世は自己宣伝の世界です そのためこの世では、相手を蹴落としてでも自分を売り込んでいかなければなりません。 3.この世は弱肉強食の世界です その結果、この世では、強い者が弱い者を征服して、支配するのです。 世の中において仕事をして生きていくためには、「努力すること」「頑張ること」「最善を尽くすこと」は必要で、怠けていたのでは、生きていくことはできません。 仕事をするために、この三つのことは必要ですが、人格の成長のためには何の役にも立ちません。なぜなら人は、罪人であり、どんなに「努力し、頑張り、最善を尽くし」ても、罪から救われることはできないからです。 二、神が私たちに求められること これに対して神が私たちに求めておられることは、「努力すること」でも「頑張ること」でも「最善を尽くすこと」でもなく、「神を信じなさい」です(マルコ11章22節)。 聖書は、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」と教えています(ヘブル11章6節)。 キリストは、マルタに「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」と仰せられました(ヨハネ11章40節)。 キリストが宣教を開始して最初に語られたことばは、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」であり(マルコ1章15節)、パウロも、その伝道の生涯において、はっきりと主張したことは、「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」でした(使徒20章21節)。 「悔い改め」は、神に背を向け、「自分かってな道に向かって行」く(イザヤ53章6節)ことをやめて、180度、転回し、罪に背を向け、「神に向かって行く」ことです。 言い換えれば「神を信じること」を裏から見れば、神に背を向け、「自分かってな道に向かって行」くことをやめる「悔い改め」であり、表から見れば、罪に背を向け、「神に向かって行く」「信仰」なのです。 聖書は、「彼らは、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった」と記しています(黙示録16章9節)。キリストは、「信じるなら……神の栄光を見る」(ヨハネ11章40節)、すなわち「神をあがめる」と仰せられたのですから、「悔い改め」と「信仰」は、表裏一体なのです。 神は私たちに「信仰」を求めるだけで、「努力すること」「頑張ること」「最善を尽くすこと」を求められることはないのでしょうか。そうではありません。神は、人格の成長すなわち罪からの救いに関しては「努力すること」「頑張ること」「最善を尽くすこと」を求められることはありません。なぜなら人は「罪過……の中に死んでい」る(エペソ2章1節)ので、罪を犯すことしかできず、行いによって罪から救われることはできないからです。 聖書が教えている罪からの救いは、律法の行いによってではなく、「信仰によって義と認められ」、そして罪から救われた者は、「信仰によって……律法を確立する」のです(ローマ3章31節)。そのように信仰によって罪から救われた者は、神の力によって(神が力を与えてくださるので)、「すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてな」す(伝道者9章10節、口語訳)ことができるのです。次回は2014年11月6日「信仰の妨げ(1)人への恐れ」です。甲斐慎一郎の著書→説教集
2014.10.23
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「神を求めなさい」 2014年10月23日昭島教会のホームページ、引っ越しました→こちらインターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年7月23日放映「キリスト教の神髄」 「神を求めなさい」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、7章7節 「求める」とは、どのようなことでしょうか。それには、人間が生きていくために不可欠なものですが、罪の誘因になりやすい「欲望」との関係を知る必要があります。 一、求めの意味――欲望との違い 人には様々な欲望がありますが、ある人は、15の「肉の行い」(ガラテヤ5章19~21節)を分類して、最初の3つが「性欲」、次の2つが「礼拝欲」、次の8つが「社交欲」、最後の2つが「飲食欲」であると述べています。 1.からだに関しては、飲食欲や性欲など、自らの生命と、その子孫とを絶やさずに保とうとする「保存欲」です。 2.たましいに関しては、他の人や物と交わり、それを知ろうとする「社交欲」です。 3.霊に関しては、人間よりも偉大な神を崇拝し、礼賛しようとする「礼拝欲」です。 欲求(欲望)は、神によって人間に与えられたもので、これ自体は善でもなければ悪でもなく、中性です。パーカイザーは、これを自動車のエンジンにたとえて、「自動車を動かしはするが、その方向を決定するものではない」と述べています。 ◆求めなさい――求めの第一段階で、自らの願いを告白し、要求することです。 ◆捜しなさい――求めの第二段階で、口で要求を告げるだけでなく、頭と心を用いて得るまで熱心に動き回ることです。 ◆たたきなさい――求めの第三段階で、行動するだけでなく、手応えがあるまで相手に自分の願いをはっきりと伝えることです。 二、まちがった求め――貪欲(むさぼり) 私たちは、いったい何を求め(対象)、何のために求め(動機)、どのように求め(方法)ているでしょうか。貪欲(むさぼり)は、単に欲が深いというようなものではなく、次のような深い意味があります。 1.求める対象がまちがっている――求めてはならないものを求めることです(出エジプト20章17節)。 2.求める動機がまちがっている――悪い動機で求めることです(ヤコブ4章3節)。 3.求める方法がまちがっている――目的のためには手段を選ばないことです。 欲望は、その求める「対象」と「動機」と「方法」をまちがえるなら、恐ろしい罪の誘因になるだけでなく、正しいもので満たされないために、余計に心が渇いてむなしくなり、さらに貪欲の罪を犯すという悪循環に陥ってしまうのです。 三、正しい求め――神とその救いを求める これに対して私たちの心をほんとうに満たしてくれるのは、神とその救いです。 使徒パウロは、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。……神の人よ。あなたは、これらのこと(金銭を愛すること)を避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい」と勧めています(第一テモテ6章10~12節)。 「心がけないで、どんな人でも学者として有名になったり、富める者となることができないように、どんな人でも心がけないで顕著な敬虔な人になることはできません。宗教において一般的に、人は自分の意図するような者となっています。その人の持っている信仰の量も品性も、ちょうど自分が欲し、取り組んでいるものと同じです。神の聖徒であるバックスターやペーソンやエドワードのように、非凡な敬虔に到達した人々も、結局は自分が得ようと意図したものを獲得したのです。わずかな平安と慰めしか持っていない世俗的な宗教家たちも、結局は、彼らが自分で意図したような品性を得ているのです。もしこれらが真理であるとするなら「イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」(第二ペテロ3章18節)という命令が適切であることを理解することができるでしょう。そしてそれと同時に、なぜ信仰を告白している人たちの中の多くの人々が敬虔においてあのような貧弱な達成にしか届いていないかがわかるでしょう」(バーンズの注解)。次回は2014年10月30日「神が求められること」です。甲斐慎一郎の著書→説教集
2014.10.21
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「神を信じなさい」 2014年10月16日 昭島教会のホームページ、引っ越しました→こちら インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年7月10日放映「聖書に基づく確かな信仰」 「神を信じなさい」 甲斐慎一郎 使徒働き、17章16~34節 この箇所にはパウロのアテネにおける伝道が記されています。エルサレムを宗教の都、ローマを政治の都と呼ぶならば、アテネは学問の都です。このアテネにおけるパウロの説教は、学問の都にふさわしく、極めて論理的であり、巧みな導入の序論から始まり、核心を突いた説得力のある本論へ話を進め、そして決断を促す結論に至るまで、実に見事であり、模範的な説教の良い実例です。 一、パウロの説教のきっかけ(16~21節) 一足先にアテネに来て、アテネでシラスとテモテを待っていたパウロは、「町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じ」ました(16節)。「アテネの町の人の数よりも、その町の神々の数のほうが多かった」と記録している人がいるほどです。日本語に「八百万の神々」という言葉がありますが、現在の日本と非常によく似ています。この彼の憤りは罪に対する義憤ですが、それはすぐに人々に福音を語る情熱に変わっていきました。 そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと、広場ではエピクロス派とストア派の哲学者たちと論じました(17、18節)。エピクロス派の創始者は、エピクロスで、最高善は快楽であると教えました。しかしその快楽は、刹那的な享楽ではなく、全生涯にわたる幸福を追求するように説きました。これに対してストア派の創始者は、ゼノンで、最高善は徳であると教えました。すべてのものが神であるという「汎神論」的思想をもち、自然に従うことが幸福であると説きました。 彼らはパウロをアレオパゴス(裁判をするためにアテネにあった評議所)に連れて行き、パウロが語っている新しい教えを聞きたいと言い出しました(17~20節)。パウロにとっては、彼らに福音を語る絶好の機会でした。 二、パウロの説教の内容(22~31節) アテネの人たちは、多くの偶像を拝んでいましたが、それでも、拝み忘れていた神々があることを恐れて、「知られない神に」と刻んだ祭壇まで造って拝んでいました。パウロは、偶像を見て心に憤りを感じましたが、その憤りをそのまま言葉に出すような知恵のないことはしませんでした。 かえって、「あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております」と言って、彼らの宗教心に訴え、「あなたがたが知らずに拝んでいるものを教えましょう」と偶像さえも真の神を教える材料として巧みに用いたのです(22、23節)。 パウロは、真の神はどのような方であるかということを偶像と対比させながら、次のように分かりやすく述べています。 ▽真の神は、すべてのものをお造りになった方です(24節) 人間が造ったのが偶像であるのに対して、人間をはじめすべてのものをお造りになったのが真の神です。 ▽真の神は、すべてのものをお与えになった方です(25節) 人から与えられるのが偶像であるのに対して、人にすべてのものをお与えになるのが真の神です。 ▽真の神は、すべての人をおさばきになる方です(31節) 人に品定めをされて、さばかれるのが偶像であるのに対して、すべての人をおさばきになるのが真の神です。 人は、このような「神の中に生き、動き、また存在している」(28節)にもかかわらず、そのことを知らずに、偶像を拝み、罪を犯して来ました。そこで神は、「すべての人に悔い改めを命じておられ」るのです(30節)。 三、パウロの説教の結果(32~34節) パウロの説教を聞いた人々は、どのような反応を示したでしょうか。聖書は次のような三種類の人たちがいたことを教えています。 ▽ある者たちは、死者の復活のことを聞いてあざ笑った(32節)。 ▽ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と言った(32節)。 ▽信仰にはいった人たちがいた(34節)。 この反応は、いつの時代のどの国の人々も同じです。私たちは、どうでしょうか。 次回は、2014年10月23日「神を求めなさい」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.10.14
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「聖書が教える国家の建設(10)神の国を支配される神」 2014年10月9日 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年10月8日放映「思いの霊的な教え」 「聖書が教える国家の建設(10)神の国を支配される神」 甲斐慎一郎 ヨハネの黙示録、1~22章 聖書は、キリストの御姿を教えていますが、66巻の聖書の啓示に従って順序通りに記すなら、次のような5つになります。 1.先在のキリスト――旧約聖書が教えているキリストの御姿で(箴言8章22~31節)、初めからおられた方です(過去の姿)。 2.地上のキリスト――四つの福音書が教えているキリストの御姿です(過去の姿)。 3.天上のキリスト――使徒の働きと21の手紙が教えているキリストの御姿(ローマ8章34節)です(現在の姿)。 4.内住のキリスト――使徒の働きと21の手紙が教えているキリストの御姿(コロサイ1章27節)です(現在の姿)。 5.永遠のキリスト――ヨハネの黙示録が教えているキリストの御姿です(未来の姿)。 ヨハネは、ドミティアヌス皇帝の迫害の時、「神のことばとイエスのあかしとのゆえに」捕らえられ(1章9節)、エーゲ海にある「パトモスという島」に追放されました(1章9節)。このパトモスという島においてイエス・キリストの啓示により、ヨハネが「見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしる」したのが「ヨハネの黙示録」です(1章19節)。 一、パトモスという島においてイエス・キリストの啓示を見たヨハネ(1~22章) 使徒ヨハネは、師と仰ぐバプテスマのヨハネが「世の罪を取り除く神の小羊」と言ってキリストを紹介したので、キリストについて行き、弟子になりました(ヨハネ1章29~40節)。キリストが「神の小羊」であるというバプテスマのヨハネの紹介のことばは、ヨハネに強烈な印象を与え、一生の間忘れることができなかったにちがいありません。なぜなら彼が晩年に記した「ヨハネの黙示録」の主題は、「ほふられた小羊」(5章12節)と「小羊の怒り」(6章16節)と「神と小羊との御座」(22章3節)という三つの「小羊」にまとめることもできるからです。 1.キリストの啓示によって「ほふられた小羊」を見たヨハネ(4~15章) まずヨハネは、「御座……と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た」、また「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です」と記しています(5章6、12節)。「ほふられた小羊」とは、私たちの罪のために傷を受け、十字架の上で死なれたキリストです。「傷ついたイエスは、人のために傷つかれた神を人間に対して表すものであり、また主御自身の性格が事実そのようなものであることを示すものである」(G・C・モルガン『キリストの危機』431頁)。ヨハネの目に、このようなキリストの姿が焼き付いて離れなかったのでしょう。 2.キリストの啓示によって「小羊の怒り」を見たヨハネ(6~20章) 次にヨハネは、6章から20章において、救い主としてほふられた小羊であるキリストが、今度はさばき主として激しい怒りを燃やして罪を罰している姿を鋭く描いています。 「『小羊の怒り』ということばほど驚くべきことばがほかにあるだろうか。怒りを形で表そうとすれば、『ライオンの怒り』を描くのではないだろうか。それが誤りなのだ。恐ろしいのは、小羊の怒り、心と性質が愛と優しさに満ちた方の怒りである。愛に燃やされた怒りは、最も恐ろしい炎である」(G・C・モルガン『祈りの実行』71頁)。 3.キリストの啓示によって「神と小羊との御座」を見たヨハネ(21~22章) 最後にヨハネは、すべての審判が終わり、「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとな」り、「神と小羊との御座が都の中にあ」り、「主は永遠に支配される」という栄光に輝く神の国のことを述べています。「なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです」(11章15節、22章3節、17章14節)。 二、神の国を永遠に支配される神 「キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになり」(第一コリント15章24節)、神は、永遠に神の国を支配されます。アーメン。次回は、2014年9月18日「神を信じなさい」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2014.10.06
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「聖書が教えている奇蹟、その2」 2014年10月2日 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年9月24日放映「御霊による思いと肉の思い」 「聖書が教えている奇蹟、その2」 甲斐慎一郎 三、父と子と聖霊なる三位一体の神の漸進的啓示と奇蹟について 旧新約聖書の三位一体の神についての漸進的啓示には次のような特徴があります。 1.旧約時代――父なる神が天から「しるしと不思議」を示して、ご自身を現された時代であり、最も初歩的な段階です。 イスラエル人は多くの「しるしや不思議」を見ても、その信仰は長続きせず、神に逆らい、つぶやき、そして滅ぼされました。 奇蹟が頻繁に行われたのは危機の時代や邪悪な時代であり、かえって奇蹟が行われなかった時の方が良い時代です。ヘブル人への手紙11章の「信仰偉人列伝」に記されている前半の「信仰の勇者たち」(4~28節)が奇蹟を行っていないことは注目すべきことです。 2.キリスト在世時代――子なる神が地上に降り、人となってご自身を現された時代であり、第二の段階です。 イエスは多くの奇蹟を行われました。しかし「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」(ヨハネ4章48節)とか「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています」(マタイ12章39節)とかと言われ、「しるしや不思議」を求めるのは、悪い時代であり、不信仰であることを強調されたのです。 3.五旬節以後の時代――聖霊なる神が人の心に内住して、ご自身を現された時代であり、完成した最終的な段階です。 確かにペテロやパウロは、「使徒の働き」において、多くの「奇蹟と不思議と力あるわざ」を行っています。しかしそれは、「使徒としてのしるし」(第二コリント12章12節)のために行ったのであり、聖書は、このようなパウロでさえ絶えず奇蹟を行ったのではないことを教えています(同11章24~33節)。 「ローマ人への手紙」以後の書簡においても、確かに「奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者……異言を語る者」について記されています(第一コリント12章28節)。しかしパウロは、このような「いやしや異言」よりも大事なもの、いや最も大切で、これがなければ何の値打ちもなく、何の役にも立たないもの、すなわち「愛」(同13章1~13節)について教えているのです。 最も大切なことは、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれ」ることです(ローマ5章5節)。言い換えれば聖霊によって私たちの中にキリストがおられ(コロサイ1章27節)、私たちの「うちにキリストが形造られ」て(ガラテヤ4章19節)、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(同5章22、23節)という御霊の実を結ぶことこそ何よりも重要なことなのです。 四、病の癒しより人の癒し、そして国いや全世界の癒しについて 「中国のことわざに『上医は国を癒し、中医は人を癒し、下医は病を癒す』というのがある。病気のことだけを見ているのは薮医者、病気のもとである心を癒して元気にさせるのがまともな医者、皆が元気を失うような社会の常識や価値観、ひいては社会のシステムまで本来化するように、と心を尽くすのが本当の名医だという意味であろう」(朝日新聞 1996年6月6日夕刊、経済気象台より抜粋)。 「使徒の働き」の3章には、まず1~10節に生まれつき足の不自由な男が歩いたという病の癒しが記されいます。しかしペテロは、その後の説教(11~26節)において病の癒しを強調したのではなく、キリストの十字架の救いについて述べ(13~18節)、「この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださる」(26節)という人の癒しについて語っています。そして彼は、この説教において「あの万物の改まる時」(21節)、言い換えれば「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由に入れられ」る(ローマ8章21節)という国いや全世界や全宇宙の癒しについて述べているのです。 次回は、2014年10月9日「聖書が教える国家の建設(10)神の国を支配される神」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.10.01
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