遊心六中記

遊心六中記

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

茲愉有人

茲愉有人

Calendar

Favorite Blog

まだ登録されていません
2017.10.21
XML
カテゴリ: 観照 [再録]
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​
室町時代に遡ります。最初は「室町幕府執政列」です。
先立つ武将の後に、 足利将軍を中心に三管領・四職に任ぜられていた主要氏族の武将が御傍衆として従う という行列です。
幟の後の騎馬姿の足利将軍は「赤地金襴桐文様の鎧直垂に引立烏帽子、紺糸縅の喉輪、脇楯、佩楯 (はいだて)の小具足姿」 (資料1) という出で立ちです。

後醍醐天皇による建武の新政、そして南北朝への分裂・対立も、南北朝合体ということで、三代将軍義満の頃に、足利政権も安定し、幕府の機構も整っていきます。南北朝併存・対立の時期は、守護大名が成長していく時期でもありました。
足利一門の中でも、斯波 (しば) ・細川・畠山という有力守護3氏が交替で任命されて将軍を補佐する管領となったのです。そこから三管領と総称されたのだとか。「管領は侍所 (さむらいどころ) ・政所 (まんどころ) (資料2)

室町幕府において、侍所の長官(所司)は、おおむね 山名 (やまな) ・赤松・京極・一色 (いっしき) という4氏の守護のうちから任命されていたそうで、 四職 (ししき) と称されたのです。この行列では、山名氏が侍所所司として列しています。
また、この室町幕府執政列では、 管領が細川氏、政所執事が伊勢氏、評定衆が二階堂氏 という形で 御供衆 が登場しています。評定衆というのは、所領の訴訟を審理する機能です。
余談ですが、足利将軍を支える直轄軍としての軍事力も編成整備されたようで、 奉公衆 と呼ばれていました。「奉公衆は5部隊からなり、義満のころでは3000騎を数えたという」 (資料2) のです。当時、守護が京都に連れてくる兵力が多くて200~300騎だったようです。



それに続くのが、 「室町洛中風俗列」
16世紀、室町時代後半には、京の町衆の間で、 「風流 (ふりゅう) 」(風流踊り)が盛んに 行われるようになっていきます。
「、風流傘を中心に、内側に囃子方で構成する『中踊り』、と外側に踊り手で構成する『側踊り』からなっている。当時の風流踊りは男性のみで、奇抜な仮装や妻女の派手な衣裳で着飾って参加している。」 (資料1)

室町時代は、足利義満が金閣を建て ​北山文化​ を、次の義政が銀閣を建て 東山文化 文化が大きく発展開化していった時代 でもあります。雪舟、土佐光信、狩野正信・元信、村田珠光・武野紹鷗・千利休、立阿弥・池坊専慶、一条兼良、宗祇などがそれぞれの領域で、一家・一派を確立して行った時代です。
民衆の間には、狂言がもてはやされ、曲舞 (くせまい) 、幸若舞 (こうわかまい) 、古浄瑠璃、小歌などが庶民文芸として流行していきます。 (資料2)
鞨鼓童 


囃子の列:笛吹く人々、棒ささらを奏でる人々
風流笠

その後が 「楠公上洛列」 です。
後醍醐天皇は近臣と協議し、六波羅探題を襲うという倒幕計画を立てますが、露顕します。これは正中の変 (しょうちゅうのへん) と呼ばれています。この時鎌倉幕府は近臣の日野資朝の佐渡配流だけで、天皇には問責すらしなかったようです。後醍醐天皇はその後も倒幕の意志を変えず策を練りますが、近臣の密告により再び露顕します。その結果、捕縛されて幕府により天皇は隠岐島に配流の憂き目となります。隠岐島を脱出した後醍醐天皇は伯耆に入り、船上山 (せんじょうざん) にこもります。鎌倉幕府が新田義貞の攻撃を受けて滅亡した後、伯耆より京に戻るのです。この時、一族郎党を率いた楠木正成 (くすのきまさしげ) は、後醍醐天皇を兵庫に出迎えて、先導し京に上洛したといいます。
  錦旗旗差。もう一つ、菊水紋旗旗差が先に先導しています。

主将・楠木正成の騎馬姿
「紫末濃 (むらさきすそご) の大鎧、兵庫鎖太刀 (ひょうごくさりのたち) に豹の鞘 (さや) 、正季は逆沢瀉縅 (さかおもだかおどし) の大鎧に革包太刀、蛭巻太刀 (ひるまきのたち) を重ねて着け」るという装いです。 (資料1)
また侍大将が先導し、副将・楠木正季が騎馬で続きます。兵士、法螺貝を吹く貝役なども列に連なります。腹巻、胴丸の着装、華麗な甲冑や武具などが結構見て楽しめる行列です。

そして、 「中世婦人列」 です。この辺りになると時代のスパンが遙かに広くとられて行列が編成されています。


京の周辺の女性が、京の町に土地の産物を売りに出歩く風習がありました。
その中でも洛北大原から、薪や炭を頭上に載せて売り歩いた 「大原女」 (上)、桂川で獲れた鮎や飴を売り歩いたという 「桂女」 (下)が良く知られています。室町頃の 小袖に「桂包 (かつらつつみ) 」という特徴のある姿 です。


時代は豊太閤の時代まで飛び、 淀君 の登場です。淺井長政の娘の一人で、秀吉の側室となった茶々。伏見・淀城を居城としたことから淀君と称された女性。そして秀吉の最晩年に秀頼を産みます。それが豊臣秀次とその一族の運命を激変させる結果に・・・・。ここでの 淀君は桃山時代の華麗な衣裳の外出姿 です。侍女が続きます。

「虫垂れぎぬ姿」の壺装束 は、鎌倉までの遠路の旅路を行く 阿仏尼 です。
藤原為家の室であった彼女が、鎌倉まで東下りを決意したのは、所領訴訟問題の決着をつけたいがため。 阿仏尼の書き残したのが『十六夜 (いざよい) 日記』です。
今風に言えば、東京の本省に押しかけて直談判しようとするようなもの。すごい気力を要したことでしょう。

静御前 が舞装束と水干という 白拍子姿 で列に連なります。
室町初・中期に成立したとされる『義経記』を見ると、巻四の「土佐坊義経の討手に上る事」という条に静御前が登場します。義経が「腰越申状」を頼朝宛に記した後のことです。頼朝が土佐坊正尊に京に上って義経を討ち取れと命じたという話を語るところです。「その頃判官は静といふ遊者 (あそびもの) を置かれたり。賢々 (さかさか) しき者にて・・・」(その頃判官は、静という遊女を側近く置かれていた。よく機転のきく女で、・・・・)と出て来ます。頭注には「当時の白拍子は、舞姫であるとともに遊女を兼ねていた」と記されています。併せて、その当時静が「白拍子舞いの名手として知られ、判官義経の寵あつき女性として後年頼朝の追及を受け、その面前で大胆な義経思慕の舞を舞って人々の胆を奪う」 (資料3) ということも。
あの時代の特筆すべき女性の一人だったのでしょう。


「城南流流鏑馬 (やぶさめ) 列」
流鏑馬は「鎌倉時代の武技の一つ。射手が馬を走らせながら三か所に立てた的を鏑矢 (かぶらや) で順に射るもの。室町以降は儀式としてのみ残る」 (日本語大辞典・講談社) 「平安末から鎌倉時代にかけて盛んに行われ、しばしば神社に奉納された」というものです。

馬上の射手武士は、 綾藺笠 (あやいがさ) をかぶり、 狩装束姿 です。
直垂 (ひたたれ) を着け、背には矢をさした箙 (えびら) を負い、弓を射るときのにつける皮の手袋である弽 (ゆがけ) をはめ、左手には、射籠手 (いごて) を着けています。腰下には鹿皮の行縢 (むかばき) をつけて、物射沓 (ものいくつ) を履いています。そして、太刀、腰刀、鞭を帯に手挟んでいます。

「承久3年(西暦1221年)5月、後鳥羽上皇は朝廷の威信回復をはかられ、流鏑馬に託して城南離宮に近畿10余国の武士1700余人を召し集められ、華美を競い武具を飾って盛大に行われたと伝えられています。」 (資料1)

藤原時代、つまり平安時代に遡ります。


最初は「藤原公卿参朝列」です 。随身の先導で、馬上の公卿が続き、再び随身の武官が従います。騎馬の公卿には文官、武官が列し、殿上人もまた騎馬で進みます。
平安末期には、国風文化が成熟していき、衣裳も唐様式から変化します。宮中で用いられる公卿装束もケースバイケースでいくつかの形態や着法が確立して行きます。
この行列では、公卿の文官・武官の夏の正装姿が着用されているそうです。

次いで 「平安時代婦人列」 が続きます。

その先頭を進むのは巴御前 。木曽義仲の寵愛を受け、武勇にも優れた女性です。幼いころから義仲とともに育った人だったそうで、義仲挙兵後も女武将として参戦し、倶利伽羅峠の合戦では、義仲軍の一隊の大将として活躍したことが、「源平盛衰記」に語られているようです。近江国粟津ケ原における義仲の最後の戦いにおいても、巴御前は勇敢に戦ったとか。 (資料4)

『平家物語』には「木曽の最後の事」という条があります。その冒頭を引用します。
「木曽は信濃を出でしより、巴・山吹とて、二人の美女を具せられたり。山吹は労 (いたは) りあつて都に留まりぬ。巴は色白う髪長く、容顔まことに美麗なり。究竟の荒馬乗の悪所落し、弓矢打物取っては、いかなる鬼にも神にもあふと云ふ一人当千の兵なり。されば、軍と云ふ時は、札 (さね) よき鎧着せ、強弓 (つよゆみ) ・大太刀持たせて、一方の大将に向けられるに、度々の高名肩を並べる者なし。されば、今度も、多くの者落ち失せ、討たれる中に、七騎が中までも、巴は討たれざりけり」
また、 義仲の最後の戦いは 、上記の 粟津ケ原 になります。京の六条河原の戦いから、大津の打出の浜に逃れてきた時、義仲軍は300騎ほど。その後の戦いで徐々に敗退し、粟津ケ原の手前では主従5騎になるのです。義仲は「義仲が最後の軍に、女を具したりなど云はれん事、くちおしかるべし」として、巴御前に落ち延びよと言います。そこで、巴は最後の軍をしてみせようと言い、30騎ばかりで現れた中に破け入り、武蔵国の住人、御田八郎師重という大力の剛の者に戦いを挑むのです。「先づ御田八郎におし竝べ、むずと組んで引き落とし、我が乗つたりける鞍の前輪に押し付けて、ちつとも働かさず、首ねじ切って捨ててんげり。その後物の具脱ぎ棄て、東国の方へぞ落行きける。」 (資料5)
語り物の平家物語ですから、誇張があるとはいえ、巴は美人で女傑だったのでしょうね。


横笛、子供を連れた常盤御前が続きます 。横笛を撮るチャンスを逃しました。
常盤御前 は源義朝の夫人。保元の乱の後、後白河上皇が院政を始めますが、近臣間の対立が激しくなり、藤原信頼に味方した羲朝は敗戦し、東国に逃れる途中で討たれます。平治の乱です。義朝亡き後、平清盛に許し・助命嘆願に六波羅密に名乗り出ます。その時の姿を模しているとか。

その後には、平安時代の女流文学者ほかの女性陣が続きます。


清少納言と紫式部。同じ山車に前後して並んでいるのだから、おもしろい。

清少納言 は随筆『枕草子』の著者。一条天皇の皇后藤原定子(976~1000)に仕えた人。一方、紫式部は長編小説となる『源氏物語』の著者。藤原道長の娘で、同じく一条天皇の中宮彰子(988~1074)に仕えた人。それぞれの文芸サロンで名を馳せたのですが、宮中に出仕した時期はずれていました。紫式部が彰子に仕え始めたのは、定子が亡くなり清少納言が宮中を去ってから五、六年のちのことなのです。しかし、人の記憶を考えると、紫式部にとって清少納言の声望はライバルともいえる存在だった局面があったかもしれません。宮中を去った清少納言からみれば、宮中とは距離ができていたでしょうから、相対的に意識化する情報は少なかったかも知れません。一方で、清少納言も意識しなかったとは言えない気もします。なにせ狭い世界だっでしょうから。

紫式部 日記の中で、和泉式部・赤染衛門・清少納言の三才女批判を書き残している のです。
「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、必ず見劣りし、行末うたてのみ侍るは。艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかよく侍らむ。」
山本淳子先生の訳を引用させていただきましょう。「それにつけても清少納言ときたら、得意顔でとんでもない人だったようでございますね。あそこまで利巧ぶって漢字を書き散らしていますけれど、その学識の程度ときたら、よく見ればまだまだ足りない点だらけです。彼女のように、人との違い、つまり個性ばかりに奔りたがる人は、やがて必ず見劣りし、行く末はただ『変』というだけになってしまうものです。例えば風流という点ですと、それを気取り切った人は、人と違っていようとするあまり、寒々しくて風流とはほど遠いような折にまでも『ああ』と感動し『素敵』とときめく事を見逃さず拾い集めます。でもそうこうするうちに自然に現実とのギャップが広がって、傍目からは『そんなはずはない』『上っ面だけの嘘』と見えるものになるでしょう。その『上っ面だけの嘘』になってしまった人のなれの果ては、どうして良いものでございましょう。」 (資料6)

清少納言がただ変という過去の人にならなかった点は、紫式部の批評が外れたなと感じるところです。そこまで批評することで、己の立ち位置を自ら鼓舞していたのでしょうか。
時代祭の編成を一貫して歴史の時間軸を遡及する形で構成するのなら、ここも紫式部が前に出て、清少納言が後に退く座り方がその順序になりますよね。このあたり誰が最初にセッティングしたのでしょう?


その後に、 紀貫之の娘、小野小町、和気広虫 が続きます。
紀貫之の娘を撮るチャンスを逃したようです。左が小町、右が広虫になります。

記録を整理していて、なぜ紀貫之の娘や和気広虫が出てくるのか? 気になりました。

紀貫之は平安前期の歌人であり、三十六歌仙の一人。『古今和歌集』という勅撰集の撰者の一人で、「仮名序」も著しています。宮中と関わりが深いのですが、その娘さんのことは、何も知りません。この行列には、「十世紀半ばの若い未婚女性の平素の姿」 (資料1) で登場しているようです。なぜ、紀貫之の娘になるの・・・・・不思議!

もう一人の広虫さん。辞書をまず引いてみると、載っています!
和気広虫 とは、「奈良末期の女官。清麻呂の姉。孝謙上皇に仕え、上皇の出家に従い自らも出家。道鏡事件で備後に配流。道鏡失脚後召還され、桓武天皇のもとで栄進した。」 (日本語大辞典・講談社) 「法均尼の俗称」 (大辞林・三省堂)
法均尼 とは、「奈良末期の女官。俗名、和気広虫。清麻呂の姉。弟清麻呂の宇佐八幡神託事件に連座したが、のちに赦され、孤児の養育などに携わった。」 (大辞林・三省堂)
​和気清麻呂が宇佐八幡宮の神託を持ち帰り、道鏡が天皇になるのを否定する結果となった​ ということは、歴史を学び記憶の隅にありました。しかし、 広虫という姉 が居て、ウィキペディアの記載では、その広虫が勅使に任じられるところを、病弱を理由に 弟の清麻呂に代行させた という点で、神託事件に連座することになったのは、知りませんでした。 (資料6)

ここで新たな疑問が・・・・。和気広虫がかつて女官であり、その後出家した(後に還俗)人とするなら、なぜ、「唐風を色濃く残した規定外の平服姿」 (資料1) でこの「平安時代婦人列」に加えているのだろうか、という点です。
手近な情報によれば、奈良時代末期に生きた人であり、没年は確かに平安時代のまさに入口あたりですから、ぎりぎり平安時代にカウントできるのかもしれません。一方、出家以降、配流から召還された後に還俗していたとはいうものの、宮中に関わる中で栄進しているようですから、 「慈悲深くわが国孤児院の起源をなした女性」 (資料1) である側面を捕らえても、衣裳のマッチングについては、フシギさを感じます。


この列の最後に進むのが、「百済明信」です。
以前、時代祭を見ていますが、意識していませんでした。「百済明信(王敬福の曾孫で右大臣藤原継縄 (つぐただ) 夫人。)は桓武天皇の信頼厚く、尚侍( ないしのかみ 女官長)として天皇を陰からささえた女性」 (資料1) だそうです。
百済明信の衣裳は、当時の女官の礼服姿 といいます。清少納言や紫式部の国風文化が成熟している時代とは明らかに違いがあり、 唐風を受け入れた盛時のあり様 を感じます。

延暦武官行進列
平安京遷都があってから3年後、延暦16年(797)に 坂上田村麻呂が征夷大将軍に 任ぜられて東征します。そして、 延暦20年(801)に平安京に凱旋してくる のです。この時代の装束を様々な遺品や出土品から考証研究して、復元された姿だとか。
画像は京に凱旋してきた一行の中の 副将が騎馬で進む場面 です。
まさに、後世の鎧兜の原型がこのあたりにあるのかな、という感じがします。当時は身体の防護もかなりシンプルだったのだなと感じる次第です。


延暦文官参朝列
「延暦15年(796)、文官が朝賀の儀式のため参朝する様を表している」 (資料1) とか。馬上の文官が着ているのは 朝服 といい、「 朝廷に出仕するときに着用する正服 」であり、「役人の階級・種別によりその形式・色彩が異なる」 (日本語大辞典・講談社) という仕組みができていたのです。
 位階と服色は次のような関係になるようです。養老令の中に衣服令という規定があり、また延喜式の服色の決まりもあったのです。 (資料7)
 一位(深紫)、二位・三位(浅紫)、四位(深緋)、五位(浅緋)
 六位(深緑)、七位(浅緑)、八位(深縹)、初位(浅縹)  という決まりです。

騎馬の文官は二位か三位の人とわかります。文官の傍で捧げ持たれているのが 「錦蓋」 です。その後に、四~六位の文官が続きます。
時代祭行列はここまでのようです。


そして、その後に 「神饌講社列」 が続きます。この時代祭当日の神饌物を奉献する役目を担った人々の行列です。

前列 神幸列の前を歩く行列です。
御賢木 (おんさかぎ) を先頭にして、楽人や踊人などが続きます。少年二人が、迦陵頻伽 (かりょうびんが) 、胡蝶 (こちょう) の舞人となっています。
荷鉦鼓 が担がれていきます。
神幸列

祭神の乗る御輿は 御鳳輦 (ごほうれん) と称されます。この御鳳輦が神幸の本列なのです。

その後を 錦蓋 が続きます。


白川女献花列
先の行列に、大原女、桂女が加わっていましたが、 白川女 も比叡山を源流とする白川の流域に住み、季節の花を京の町中に売り歩く女性たちがいたのです。この行列では、 神前に献花する花を頭に載せて 、列になって歩みます。

弓箭組列
弓箭組 は桓武天皇の平安遷都の際には、その行列の警護に当たったという伝えがあり、 明治維新の際には、弓箭組が編成され、山陰鎮撫に加わったという伝えもあるとか
この時代祭では、 御祭神の警護役 を担っているのです。 (資料1)


弓箭組列の後尾にパトカーが随行し、 約2キロの行列模様 もエンディングとなります。

ご一読ありがとうございます。

参照資料
1) ​ 行列の概要 ​  :「平安神宮」公式サイト
2) 『詳説 日本史研究』 五味・高埜・鳥海 共著  山川出版社
3) 『義経記』 日本古典文学全集 梶原正昭校注・訳 小学館 p215
4) ​ 巴御前 ​  :「小矢部市 義仲と巴」
5) 『平家物語 下巻』 佐藤謙三校注  角川文庫ソフィア p64-67
6) 『紫式部日記』 紫式部  山本淳子編 角川ソフィア文庫 p191-198
7) ​ 和気広虫 ​   :ウィキペディア
8))​ <位階と服色 差異表示 男性> 差異表示の為の位階と服色の変遷 ​  :「日本の服の歴史」

【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
風流踊 ​  :ウィキペディア
京都「時代祭」風流踊り 2013 ​  :YouTube
ささら ​  :ウィキペディア
簓 ササラ ​ :「コトバンク」
「多久神社ささら舞」 ​短編(出雲市多久町 多久神社のささら舞保持者会) :YouTube
百済王敬福 ​ :ウィキペディア
平安初期文官朝服 ​ :「風俗博物館」
平安初期女官朝服 ​  :「風俗博物館」
服制の歴史 ​  :「綺陽装束研究所」
第十九 衣服令 全14条 ​  [現代語訳「養老令」全三十編]
衣服令 延喜式の位階服色

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

観照 [再録] 京都 時代祭・Y2015 -1 明治維新時代(維新勤王隊)~安土桃山時代(織田公上洛)へ
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2017.10.21 14:40:16
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: