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2021.12.27
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カテゴリ: 探訪
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京都と奈良を結ぶ国道24号線が通る 伏見区豊後橋町 まで出かけてきました。

宇治川に架かる橋が「観月橋」 です。
北詰の欄干 、東側には「観月橋」、西側には「うぢかは」の銘板が嵌め込まれています。

かつて指月の森と呼ばれた桃山丘陵台地の南端に陵墓「大光明寺陵」(伏見区桃山泰老長)があります。昔、この近くに北朝の持明院統の御所(伏見殿)があったと言います。伏見殿は応永8年(1401)7月、失火によって焼失し、その後再建されたそうです。しかし、戦国時代には荒廃するに至ります。
この伏見殿があった頃には 桂橋 (資料1)
手許の本によれば、 文禄年間 に豊臣秀吉は伏見城を築くとき、大友豊後守宗麟に命じて、ここに新たに橋を架けさせました。そこから 豊後橋 の名が由来するそうです。一説には、橋の北側に豊後守の屋敷があったからとも言われています。 (資料1)

江戸時代に出版された 『都名所図会』 には「 伏見 指月 豊後橋 大池 」と記し、橋と周辺の景色を挿画にしています。 (資料2)

秀吉は豊後橋の先に、巨椋池を縦断する 太閤堤(巨椋堤/小倉堤) を築き、その堤の上を 新大和街道 としました。 豊後橋が新大和街道の起点 になります。

明治6年(1873)に「観月橋」と改称 されました。 (資料3)

前回、近鉄京都線大久保駅の近くで目に止まった道標をご紹介しました。
そのとき、調べていて、この観月橋の北詰に道標があることを知ったのです。
寒いけれど天気が良かったので、午後(26日)に運動を兼ね自転車で探しに出かけてきました。


京阪電車宇治線「観月橋駅」 があります。


7163
その北西角、歩道橋の傍に、ひっそりと 道標 が立っていました。
今では意識しないと道標の存在に多分気づかないでしょう。北詰と知っておて出かけたので、どこだろうと周辺をキョロキョロ眺めていて見つけた次第です。

道標の上部に方向を示す指の形 が彫り込まれています。
道標の北面に「やまとかいどう」、西面に「きょうみち」と 刻されています。

観月橋は東側から歩道、自転車道、車道、歩道と区分されています。

これは 橋を渡って南から北を眺めた景色 。茶色の部分が自転車道です。

この橋は、 昭和11年(1936)年に架橋された鉄筋コンクリート造りの橋 です。
長さは四条大橋の2倍以上、約179mですが、道幅はせまくて12mだそうです。
交通量の増加に対応するため、 昭和50年(1975)、 東側に車両専用の高架式の新橋 が建設されました。 (資料1,2)

南を向くと、その高架下

              「 向島道路通称名称案内図 」と

       「 向島地域東西道標 」が設置されています。
       こちらは東西方向に位置する町名を並べて表記してあります。


高架下の東側の道路の反対側の角地に、 駒札 が設置されています。



駒札には、1594年(文禄3)に「豊臣秀吉が豊後国大名大友吉統 (よしむね) に命じて架橋させた」と記されています。ネット検索で調べてみますと、大友宗麟の長男、義統 (よしむね) は1576年(天正4)に父宗麟から家督を相続した(一説に79年)とのことですので、秀吉が直接命じたのは吉統(義統)という方が適切なのかもしれません。

「江戸時代には幕府直轄で管理がなされた公儀橋であったが、幕末に鳥羽伏見の戦いで焼失した。」
新橋の完成が明治6年 ということで、上記の通りこの時点で橋名が改称されました。


駒札の傍にこの板碑が建てられいます。線刻がそれほど深くなく風化が進んでいるため何が彫られているか判断しずらくなっています。最初は文字かと思っていたのですが、全体を眺めていると、ぼんやりとですが地蔵菩薩像が線刻されているのかな・・・・という気がしてきました。ご存知の方がいらっしゃればご教示ください。

再び観月橋の北詰に戻ります。
上掲道標傍の陸橋への通路の脇から歩道を少し東に行き、京阪電車の高架下を潜り抜けて、宇治川の堤側に回り込みます。観月橋の下を潜って西の欄干側に行くためです。

宇治川の堤側に行く前に、歩道から回り込む角に 地蔵堂 があります。
地蔵堂の右に見えているのは歩道橋(陸橋)への階段です。

堤防傍から西方向の眺め
一番手前に見えるのが、高架式の観月橋の新橋です。
そして、観月橋があります。宇治川の北側堤防沿いに坂道を下り、観月橋下を通過して西側に出ます。
観月橋の先には、「単純トラスト橋として、日本で最長の径間長(165m)を誇る ​近鉄澱川 (よどがわ) 橋梁​ (国登録、1928<昭和3>)が架かり、現在の宇治川の鉄道景観を代表している」のです。 (資料3)


現在の観月橋北詰、西側の傍に欄干の遺構と思えるものが一部残っています。
その右(西)側に、石標が立っています。
北面に「明治天皇御駐輦所観月橋」、東面には「明治十年二月七日 御駐輦」と 刻されています。明治6年に観月橋の新橋が完成した後、明治10年に天皇がこの橋に立ち寄られた記念碑ということでしょう。


その西側には、この 石標 が建てられています。
北面に「淀川維持区域標」、西面に「淀川 縦是下至海」と 刻されています。
素直に解釈すれば、観月橋の東側までが宇治川として維持管理され、橋の西側から淀川としての維持管理区域になるということなのでしょう。現在も生きている区域標かどうかは不詳。


すぐ傍に、この 河川名の表示板 が設置されています。この位置は、「 大阪湾から約44km 」の地点になるようです。


これは 宇治川の堤防上の東側から、西方向の宇治川と観月橋の全景を眺めた景色 です。

この後、宇治川の堤防上を利用し帰路につきました。自動車を気にせずに自転車で走れる点がメリットです。少し寒かったけれど・・・・。

ご覧いただきありがとうございます。

参照資料
1)『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂  p136-137
2) ​ 観月橋 ​  :ウィキペディア
3)『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p234
4) ​ 大友義統 ​ :「コトバンク」

補遺
大友義鎮 ​  :ウィキペディア
大友宗麟 ​  :「コトバンク」
指月 ​    :ウィキペディア
【橋梁の基礎知識 その1- 橋梁の構造と種類について】 ​ :「株式会社長野技研」

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Last updated  2021.12.27 14:54:02
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