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こんにちは。 今日は大田区シリーズの2回目。 近場といっても東京は広いし、高層ビルだけじゃなく、なかなか趣のある場所も多いっす。 先日、新しく買ったウォーキングガイド「東京さわやか散歩3」は、一度行ったことのある場所も、知る人ぞ知る観光スポットが隠れていることを気づかせてくれました。 その本をパラパラと眺めていて、目に留まったのが東京の最南部、六郷と言われる場所です。 多摩川をはさんで、向こう岸はもう神奈川県川崎市。 オイラにとって、ほろずっぱい、ノスタルジックな響きのある場所なのです。 もう5年近くも意図的に行っていないのですが、いずれその話題も書かなきゃいけない日がくるのかどうか。 それはともかく、ちょこっと変わった景色に出会えるのではないかと、六郷を訪れてみることにしました。 ウォーキングの基点は、JR蒲田駅です。 ガイドブックは、京急線の雑色駅でしたが、こちらのほうが家から安く行ける。 なるべく電車に乗らず、行けるところまで歩くというのがオイラの方式なのですね~。 蒲田といえば、手芸用品などで有名な「ユザワヤ」とその独特な紙袋を思い浮かべる人は多いと思いますが、オイラは映画で見た「蒲田行進曲」でしょうか。 昔、駅のそぱに「松竹キネマ蒲田撮影所」があったそうな。 と言っても、オイラが生まれる前の大正9年から昭和11年までの17年間だったそうですが…。 当時の様子を現在に伝えるものはほとんど残っていないですが、「キネマ通り商店街」というネーミングやJR蒲田駅のプラットホームでは「蒲田行進曲」のテーマが今も流れております。 さて、駅前にある大田区役所の近代的なビルを横目に、雑色駅を目指します。 途中、かつて松竹キネマ蒲田撮影所があったというアロマスクエアを通りました。 地上18階の巨大なビルと地上5階の大田区民ホール「アプリコ」からなる複合施設で、映画の汗と涙の世界からは見事に隔絶されておりました。 環八通りを越え、仲六郷商店街をひたすら南下します。 この商店街は、古きよき時代であった昭和を感じさせ、うれしくなりますね~。 お昼ちかくになっていたので、腹ごしらえをしようと思ったら、どこにもファストフードのチェーン店がな~い。 駅前のハンバーガーショップではカロリーが心配。やせるために、ウォーキングする意味がなくなってしまう。 仕方なくコンビニで、パンとウーロン茶を買いました。 昭和が良いといいながら、ファストフードがないと生きてゆけないのでは、どうしようもないっす。 コンビニの袋を抱え、雑色の商店街を歩き、東海道本線の踏切を越えて、西六郷地区に入りました。 昨日までの悪天候が嘘のように青空が広がります。 これもまた懐かしい風景だなあと思い、理由を考えてみたら高層ビルがひとつもない場所だということに気づきました。 3階建て以上の建物がない場所って、こんなに空が広く、美しく見えるものなのですね。 昭和の空は皆、こうだったなと子供時代を思い出しました。 どんどん歩き、多摩川にぷつかる手前にあるお寺が、安養寺。 この寺は、なんと和銅(710)年、行基が三尊像を安置したのが始まりだとか。そんな古い時代から、この地区は人が暮らしていたのですね。 多摩川の恵みが受けられることから、意外と現在の都心部より開けていたのかもしれませぬ。 多摩川の土手にあがってみると、緑あふれる素晴らしい眺め。 でも、日陰がどこにもないっす。 紫外線攻撃をモロに受け、撤退しました。日陰を探しつつ、次の目的地に向かいます。 宝憧院は、鎌倉時代に創建された古寺ですが、本堂がモダンな現代建築。ステンドグラスみたいな部分もありましたが、妙にしっくり周りの雰囲気にあっていたので少し驚きました。 神社仏閣は、昔ながらの木造建築が好みですが、こういう建物もまたあってよいのではないか、と。 近くの公園で、パンとウーロン茶で昼食をとったのですが、ベンチから見える青空もまた広くて、美しくて、こちらも最高のごちそう。 近代的なビルに囲まれた都心のオープンカフェテラスも悪くないけれど、空を独り占めできるような壮大な感覚はそう経験できないかもしれませんね。 エネルギーをチャージして、再び多摩川の河川敷目指して歩きます。 東海道線と京浜急行が並んで走る鉄橋と緑あふれる河川敷、そして対岸の川崎の高層ビル群の対比がまた絶妙。 ここでは、色の対比がより鮮明で、印象的な光景でした。 鉄橋の下を二本くぐりましたが、京浜急行の鉄橋の下は、運動会の障害物競走のような感じの高さ。 快速特急が轟音を響かせながら、過ぎ去る迫力を満喫しました。 八大将軍吉宗の落馬を止めたという故事から、「止め天神」とも言われる北野天神は鉄橋のそばにひっそりとあります。 道路をはさんで、旧六郷橋の鉄橋アーチが保存されていました。 なんか存在感のあるその姿にしばし見とれてしまいました。 第一京浜国道の下をくぐり抜け、多摩川六郷橋緑地の土手の上を歩きます。日差しが痛いほど照りつけるのに、日陰がまったくない。 一気に顔と手が真っ赤に日焼けするのが実感できます。 土手から降り、団地やマンションの日陰を求めながら向かったのが、六郷神社。 ここは、1057年に、源頼義、義家親子が奥州征伐に向かうとき、杉の古木に白旗をかけて戦勝祈願したのが始まりらしい。 そういえば、足立区にも似たような来歴の神社がありましたね。 ほかにも、都内を歩いていると、その親子の故事をいくつか聞いた記憶があります。 千年近くたっても、いまだに神社や故事が残っているとは、当時はよほどの大事件だったのでしょう。 今の時代で、千年後も残るような事件はあるのだろうかとしばし考えてしまいました。 六郷神社には、江戸時代初期に作られたユーモラスな顔の狛犬もあります。 これは、わざとこういう形に作ったのか、はたまた一生懸命作ったのに、こういう顔になってしまったのか。 眠れなくなるので、深く考えないことにしました。 また、この小さな太鼓橋は、前回登場した梶原景時が寄進したものだとか。 またしても、中尾彬の面影が浮かびましたが、信心深い人物だったのは間違いないみたい。 六郷神社から再び、焼け付くような多摩川の土手に戻り、ひたすら下流に向かって歩くと、六郷水門がありました。 この水門の存在ははじめて知ったのですが、なかなか堂々たる建造物でした。 昭和6年に、大雨のときなどに多摩川の水が逆流して浸水する被害を防止するために作られたのだとか。 水門のまわりでは、おじさんたちが魚釣りを楽しんでいました。 六郷水門から、住宅街を歩き、七つの寺が集まっている寺町に向かいます。 ここは、関東大震災後に築地から移転してきた寺が集まっている地域。 世田谷にも、練馬のほうにも、同じような理由で都心から移った寺が多いですね。 江戸時代の都心部は、今よりずっと寺が多かったのかもしれませぬ。 そんなことを考えつつ、日の出銀座商店街を抜け、環七通りを越え、新呑川にかかる天神橋を渡り、第一京浜国道へ。 国道沿いにあるのが、聖蹟梅屋敷公園。 「聖蹟」というのは、明治天皇や大正天皇が訪れたことに由来するもの。 徳川将軍も訪れたり、近くの京急線の「梅屋敷」駅の由来にもなったり、由緒ある公園ですが、実はその辺の児童公園くらいの広さしかない。 江戸時代後期に、薬の販売で財を成した人物がひらいた庭園なので、当時は広大だったのだと思います。 梅屋敷というくらいなので、今も梅の木が植えられていました。 公園よりも、オイラの心のビビビときたのが、国道をはさんで正面に立つ特徴的な建物。 これは、大田区立体育館じゃないっすか。 昔は、よくここでプロレスの試合が行われたのですね~。 一昔前のプロレス誌を見ると、数々の名勝負が行われていたのがわかるかも。 今もやっているのでしょうか。 かなり老朽化しているようだけれど、頑張って欲しいものです。 最後に向かったのが、稗田神社。 社殿は最近できたみたいですが、石造りの鳥居は1800年に作られた区内でもっとも古いものだとか。 それほど広くはない境内からは、1500年前の土器が発見されたらしい。 今はたんなる住宅地ですが、当時は先進的な場所でもあったのでしょうね。 うちに帰って風呂に入ったら、半袖シャツを着ていた部分と二の腕部分の日焼けのコントラストが見事でした。
2007年06月30日
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こんにちは。 最近、仕事が忙しくてなかなかウォーキングへ行く機会がなかったのですが、半日ばかり余裕ができたのを幸い、近場をほっつき歩くことにしました。 行ったのは、東京南部にある大田区。 一昔前までは、田んぼも結構残っていて、オイラの憩いの場所ともなっていたところです。 スタートは、JR大森駅。 駅の山王北口を出ると目の前は、池上通りで、車がじゃんじゃん行き交っています。 目的地である馬込文士村へ行こうと思ったのですが、近くに歴史好きならおそらく誰もが知っている場所があるのを思い出しました。 それは、大森貝塚。 日本考古学発祥の地とも言われるところですね。 教科書にも載っている話ですが、この貝塚を発見したのは日本人ではないのです。 それは、明治10年に来日したエドワード・モース博士。何でも、考古学者ではなく、アメリカ人の動物学者だそうな。 もちろん、このご近所に住んでいる人たちは、やけにたくさん貝殻が埋まっているな、くらいの認識はあったでしょうけど。 博士が汽車で横浜から東京へ移動中、車窓から何気に外を眺めていると、大森のあたりの崖から大量の貝が埋まっている地層が見えたのだそうな。 うぬぬ、これはもしかして、と思って調べてみたら、貝塚であった。 そしてモース博士は、生物学を教えることになった東京大学の教え子たちと大森貝塚を発掘したのですね~。 さらに、日本初の発掘報告書を出版。博士の大森貝塚の発掘は日本初の学術的発掘であり、調査報告書の発行も初めてのことだったとか。 …が、しかし。 長い年月を経て、そのモース博士が発掘した場所がどこかわからなくなってしまったそうな。 大森貝塚は現に存在しているのだから、たいした問題でもないような気がしますが、その位置がちょうど品川区と大田区との境界にあった。 なんたって、日本考古学発祥の地ですからね。 自分たちの区内にあるということであればメリットはあるはず。 で、品川区と大田区の間で、論争が一時期あったそうな。 それも、50年に以上に及ぶ論争がだったというからすごい。 今でも大森貝塚の碑は、大田区と品川区の両方あるのがその名残かも。 こちら大田区の碑。 そしてこっちが品川区の碑。 結局、決着がついたのは、モース博士の発掘から100年後でした。 大森貝塚発掘当時の文書が、東京都公文書館で発見されたそうなんですよ。 そして、そこに記された発掘地の住所が、現在の品川区の大森貝塚遺跡庭園の位置にあたることがわかったとのこと。 モース博士は、大森貝塚なのに品川区を発掘していたのですか。 品川区の遺跡公園が立派なのに対し、大田区側の史跡の周辺がなんともうらぶれた風情なのが哀しい。 その辺りの事情について、以前会ったことのある品川区の教育委員会の人が鼻高々に話していたのを思い出します。 さて、再び、大森駅方面に戻り、池上通りを右折してジャーマン通りを歩きます。 なぜ、ジャーマン通りというのかわかりませぬ。 ジャーマンスープレックスホールドで一世を風靡したカール・ゴッチと関係あるのかな、と想像を逞しくしながら歩き、次に向かったのが山王草堂記念館。 ここは、明治から昭和初期にかけて活躍したジャーナリスト、徳富蘇峰の住居だったところです。 ちなみに、世田谷に徳富蘆花の住居跡に作られた公園がありますが、蘇峰は蘆花の実兄ですよ。 今は、公園みたいになっていますが、入り口の石段に当時の豪邸の面影がしのばれます。 蘇峰は、日本最初の総合雑誌「国民之友」を発刊したり、現在の東京新聞の前身である「国民新聞」を創刊したりした人だとか。 しかし、なんと言っても、「近世日本国民史」全百巻の著者として有名ですね。 この長大な作品は、ギネスブックにも記載されたことがあるそうな。 しかも、56歳からはじめて、34年間かけて完成させたところは中高年にも勇気を与えてくれそう。 やはり人間は、大きな目的を持って生きるのが、健康で長生きできる秘訣なのかもしれません。 草堂記念館の中は、蘇峰が「近世日本国民史」を執筆した二階の書斎部分が移築、復元されておりました。 畳敷きの広い部屋が二間続いていて、仕事がしやすいように机の配置も工夫が凝らされています。 記念館のまわりは、起伏に富み、緑深い庭園になっていて、執筆に疲れた蘇峰がよく歩いたのでしょうね。 山王草堂記念館を出て、これから馬込文士村と呼ばれる文士たちの文学碑をたどって歩くことにしました。 最初は、記念館のそばにある尾崎士郎の文学碑。 ちなみに昨日新聞を読んでいたら、尾崎士郎の旧宅跡を大田区が買い取って記念館を建設することになったそうなんですよ。 いよいよ、大田区の逆襲が始まったか、と思いました。品川区がどういう対抗策を打ち出すか、見ものかも。 ところで、士郎は、「人生劇場」の著者として有名ですが、この作品が世に出た当時はあまり評判にならなかったらしい。 注目されたきっかけは、川端康成が読売新聞の文芸欄で絶賛されてからだとか。 それはともかく、尾崎士郎と川端康成が同時代の作家だということに驚きました。 川端康成がノーベル賞を取ったときのことや自殺したときのテレビ番組を良く覚えているのですが、尾崎士郎自身のリアルな記憶はないですから。 この馬込の近辺が、文士村と呼ばれるようになったのは、尾崎士郎の働きかけによるところが大きかったらしい。 大正から昭和初期に、この馬込周辺に住んだ作家は、尾崎士郎とその妻の宇野千代、川端康成、萩原朔太郎、室生犀星、北原白秋、広津和郎、山本周五郎などそうそうたるメンバー。 これらの人たちの中には、相撲好きな人が多く、「大森相撲協会」なるものを立ち上げ、大真面目に練習をしていたそうですね。 中でも尾崎士郎は、太って強くなりたいために、インシュリンの注射を打ち、泡をふいて倒れたこともあったとか。 当時の文士たちの力士姿の写真が残っていますが、皆真剣な顔で土俵入りを披露しているシーンが印象的でした。 尾崎士郎の文学碑から、地図をたよりに住宅街を右往左往しながら向かったのが、北原白秋の文学碑。 詩人としてあまりにも有名ですが、彼もまた馬込の緑ヶ丘と呼ばれる高台に住んでいたらしい。 当時は、眺めがとても美しく、丘陵の尾根が見え、夜景がとてもきれいな場所だった。 その高台にある赤い屋根の洋館。中には、洋風の書斎で、白秋はとても気に入っていたとか。 今、その文学碑は、児童公園の入り口に立っていましたが、高低差は確認できるものの、眺望は損なわれていて残念でした。 次に行ったのは、山本周五郎の文学碑。 こちらも、小奇麗な児童公園の前に立っていました。 「もみの木は残った」「赤ひげ診療譚」「青べか物語」など今でも多くの人たちに読まれていますね。 文学碑には、直木賞を辞退するなど、かなり偏屈な人物みたいに書かれていましたが、その孤高の文体からもなんとなくわかるような気がしました。 このあたりはお屋敷が多いためか、緑が豊かです。 個人の所有なので中には入れませんでしたが、馬込の自然林が残っている場所を塀越しに眺めました。 巨木が生い茂ってすごい迫力っす。 暑かったので、汗を拭き吹き住宅街をテクテク歩き、大きなお寺の前に出ました。 ここは万福寺。 この寺を開基した人はしぶいですよ。 なんとあの梶原景時。 タッキー主演の大河ドラマ「義経」で、中尾彬が演じていた記憶があります。義経の悪口を源頼朝に伝えたとか、不運な最後からも分かるとおり、あくの強い人物だったみたいですが、鎌倉幕府の設立に大きな力を果たした人物であることは間違いないでしょうね。 寺には、景時の墓がひっそりと立っておりました。 万福寺の境内には、室生犀星の句碑もありました。そして寺を出て、少し歩くと、室生犀星の文学碑も。 室生犀星の名前は知っていましたが、俳人であり、詩人であり、小説家でもあったのですか。 文士の三冠王みたい。 文学碑のうしろのマンションが、「室生マンション」というのはそのものズバリですね。 当時は、この辺も畑ばかりだったのでしょう。 同じ道筋に、日本画の巨匠、小林古径の文学碑もありました。 そして最後に向かったのが、大田区立郷土資料館。 言い忘れましたが、さきほどの山王草堂記念館と同じく、こちらも入館無料なのがうれしい。 大田区は、羽田空港や京浜工業地帯といった雰囲気が濃厚ですが、多摩川の近くを中心に古墳が多い場所としても知られていますね。 しばらくお散歩ネタは、大田区を密着取材する予定です。
2007年06月24日
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こんにちは。 先週、ようやく、脳卒中の本の改訂原稿を出版社さんにお送りすることができました~♪ これで、ひとつの大きな山を越えたという感じです。 改訂作業は、思ったより大変でした。 放り出して逃亡を企てようかという、プロジェクトX的なシーンもあったりして。 なんとか形にできたのは、温かいコメントをお寄せくださった楽天ブログの方たちのおかげと、感謝してやみません。 実はこの脳卒中の原稿は、二年ほど前に書いたものですが、実際の医療現場では治療方法が大きく変わっている部分もあったのですよ。 IT業界は、成長の早さから、ドッグイヤーなんてことを申しますが、それ以上に最新医療の現場は、成長速度が早いということを実感しました。 最近の傾向としては、なるべく患者さんの体に負担をかけないで結果を出す治療法が主流になっているみたい。 それはもちろん素晴らしいことですよね。 でも、結果的に最新治療や従来の方法などがカオス的混合をきたしていると言えなくもない。 それぞれメリット、デメリットがあったりして、一般の患者さんは迷ってしまう部分があるかもしれません。 患者さんやご家族の方にとって、病気や治療についての知識はあったほうがいいと切に感じました。 ブログのほうは、前後関係が変わってしまうので、従来の原稿で続けさせていただく予定ですが、あらたに加筆した部分もあります。 それは、最新の脳研究における「脳細胞をどんどん増やす法」についての記述。 従来は脳細胞の数が決まっていて、年をとると減る一方だと思われていたそうな。 それが、研究によって、年をとっても脳細胞が増えるということがわかってきたとのこと。増えるものなら増やしたいのが脳細胞ですよね。 その方法について、いろいろ文献を調べ、AYAちゃんと先生に面白く会話してもらいました~ 現在、脳卒中の本は、出版社さんの元で編集作業が行われております。 脳卒中の本は、そう遠くない未来に、姿を現すことになりそうです。 オイラ以上に、出版社の方たちは思い入れを持ってこの原稿に取り組んでいただいていますので、編集方針はすべてお任せすることにしました。 さて、どんな本になるのか。 期待に胸を膨らませております。 …ということで、「脳の病気シリーズ」です。 この「脳の病気シリーズ」。 ほぼ月一回のペースでお送りしています。 前回は「脳こうそくの外科的治療ってどんなことするの?」という話題を取り上げました。 今日が始めての方、この記事に興味のある方は、先に前回、前々回の記事をお読みいただければ幸いです。 2006-08-13 脳こうそくの診断の強い味方って、何? 医師と女子高生の会話から 2006-09-03 脳こうそくの診断は首も診るって、ホント? 医師と女子高生の会話から 2006-10-01 脳出血の治療って、どんなことするの? 医師と女子高生の会話から 2006-11-05 脳出血の手術って、どんなことするの? 医師と女子高生の会話から 2006-12-10 クモ膜下出血の治療って、どんなことするの? 医師と女子高生の会話から 2007-02-08 クモ膜下出血の治療って、どんなことするの? 医師と女子高生の会話から 2007-03-10 脳こうそくの治療はどんなことするの? 医師と女子高生の会話から 2007-04-07 脳こうそくの内科的治療って、どんなことするの? 医師と女子高生の会話から 2007-05-13 脳こうそくの外科的治療ってどんなことするの? 医師と女子高生の会話から 今日はその続きです。 登場人物は、脳外科のベテラン医師と現役女子高生のAYAちゃん(松戸あや)の二人。 AYAちゃんは、おじいさんが脳神経外科病院へ入院したことで、毎日お見舞いに通ってくる元気な女子高生。 将来、看護師になることを夢見て、おじいさんの担当医師から脳卒中のことを勉強しているという設定でしたね。 前回、「脳こうそくの外科的治療法」について勉強したAYAちゃん。 今日も、前回に引き続き、「脳こうそくの外科的治療法」が話題になります。 それでは…< 脳こうそくの手術ってどんなことするの? 医師と女子高生の会話から >● AYAちゃん「ふーん。ほかにも脳への血液の流れを改善させる手術ってあるんですか?」 あるよ。以前、『抜け道』、『回り道』の話をしたよね。脳血栓のように脳の血管が徐々に狭くなってくる場合は、脳の血管が詰まっても別のルートが発達して大きな血管が2~3本詰まっても脳こうそくの症状が出ない人がいるって話…。● AYAちゃん「覚えていますよ。それがどうかしたんですかぁ。先生の話っていつも『回り道』へそれるからなぁ」(少しムッとして)いつも横道へそれるのはそっちじゃない。それに『回り道』じゃないよ。要は脳こうそくになっても『抜け道』、『回り道』があればいいってこと。だったら、『抜け道』、『回り道』みたいなバイパスを人工的に作ってやればいいわけでしょ。● AYAちゃん「なるほど、今の話は『回り道』じゃないですね。ところでそれはどんな手術なんですか?」 脳の動脈にバイパスを作る方法だから、いろいろなやり方があるんだよ。もっとも多く行われているのは、こめかみの皮膚の下にある動脈を脳の表面にある動脈につなぐ手術だね。● AYAちゃん「ん? こめかみの皮膚の下にある動脈って、頸動脈みたいに脳に血液を送る動脈とは別ルートなんですか?」 そうだよ。難しい言葉で、『浅側頭動脈』って言うんだけど、これは頭皮に血液を送るものなんだ。バイパスを作って脳に血液が流れるようにしたあとの頭皮には、別の血管から血液が送られるから血流不足になることはないんだけどね。● AYAちゃん「なるほど。別のルートなら、脳へ向かう4本の幹線道路に障害が起きたときのバイパスになりますね。ところで頭皮へ行く血管ということは、頭の骨に穴を開ける必要があるんだ」 手術の方法は、全身麻酔をしてから、こめかみの辺りを切り開いて、まず浅側頭動脈をはがすことから始める。それからその傍の頭蓋骨に穴を開け、その穴に浅側頭動脈を引き入れて、脳の表面を走る中大脳動脈とつなぐんだ。● AYAちゃん「難しそうな手術ですね」 手術用顕微鏡を使った高度な技術が要求されるけど、脳の専門医からすれば難しい手術じゃない。安全だといっていいんじゃないかな。ただこの手術を行うかどうかは、有効性の面で他の治療法と比べながら、いろいろ検討してみる必要があるね。● AYAちゃん「詰まった血管の中のアカを削り取ったり、頭に穴を開けてバイパスを作ったり、すごく効果がありそうですね。だけどちょっと首や頭に傷をつけるのは抵抗があるなぁ」 最近では管を動脈に入れ、狭くなった部分を風船で広げて血のかたまりを押しつぶし、血管の中を広げる方法もある。それからその広がった部分にステントと呼ばれる材料を入れて広がったままにするとか、切らないですむ治療法も出てきたね。● AYAちゃん「クモ膜下出血の治療法で聞いたコブの中にコイルを詰めて破裂しないようにする方法に似ていますね」 脳の血管内治療という点ではどちらも同じだね。方法は、太ももの付け根に局所麻酔の注射をしてから、そこを流れる動脈にカテーテルと呼ばれる細い管を挿入して、脳や首まで推し進めるんだ。 そして脳の透視画像を見ながら、カテーテルの先につけた風船を膨らませたり、ステントを入れたり、動脈瘤の中にコイルを詰めたりするんだよ。● AYAちゃん「私が手術をするんだったらやっぱり、こっちのほうがいいなぁ。でも、できないケースもあるんですよね」 前にも言ったけど、技術がどんどん進歩しているから、今後は頭を開けない手術が主流になっていくと思うよ。外国ではこちらの血管内治療が主流になりつつあるからね。● AYAちゃん「それにしても脳卒中にはいろいろな治療法があるんですね。先生、どれが一番いいんですか? シェフのお勧めの一品は?」 アドバイスはもちろんたっぷりさせていただきますけど、残念ながら『シェフのおまかせコース』はございません。薬を中心とした内科的治療、手術をする外科的治療、それぞれ一長一短がある。医師ができるのは、可能な治療の方法とそれらの治療成績をきちんと説明するということだよ。 あくまでも治療をどれにするか、最終的に決めるのは本人とご家族だからね。● AYAちゃん「そう言われてみればそうですよね。でも、そのときになったら迷うだろうなぁ。脳みそはひとつしかないし。私なんかユニクロへ行って、どの色のTシャツを買うか、30分も迷うことがありますから」 だからしっかり脳卒中の勉強をしなくちゃね。● AYAちゃん「そのためには、まずネットで『脳卒中』『治療法』のキーワードで検索を…と。(先生のノートパソコンを横目で見る)」 ちょっと待った。あぶない…あぶない。(先生、ノートパソコンを自分の後ろに隠す) その手は桑名の焼きハマグリ…と。● AYAちゃん「(く~、見破られた)」 ( 約一ヵ月後に続きます )
2007年06月16日
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こんにちは。 最近、パソコンで仕事をすることが増えているのですよ。 長い間画面を見続けていると、ホント目が疲れます。 文章を書くのは嫌いではないので、ずっとキーを打ち続けていて、あっという間に1~2時間も経ってしまうことがある。 気がつくと、画面以外はぼんやりと霧の摩周湖状態。 さすがにそうなると、机に突っ伏して十数分間も、仮死状態に陥らざるを得ないのです。 でも、何も考えずにただ休憩を取るよりは、その間、好きな音楽を聴いていたほうが、フリーズ状態から早く立ち直るのを知りました。 …ということで、休憩時間を利用して、いろんな音楽を聴いているんですよ。 っていうか、仕事中もですけど。 前は、図書館で、CDを借りてきてはパソコンに取り込んで聴いているってブログに書きました。 その頃借りたのは、男性アイドルでは俊ちゃんやマッチ、西城秀樹に郷ひろみ、野口五郎など。 女性では、山口百恵に浅田美代子、松田聖子、森高千里といった一昔前のアイドルでしょうか。 それにしても、NHK大河の「風林火山」を毎回見ていて、ひ~ふ~美代ちゃんこと浅田美代子の姿に、時代の流れを感じるのはオイラだけでしょうか。 真理ちゃんよりはいいけど。 オイラの中学校時代の友人たちは、皆、透明な下敷きの中に、雑誌のグラビアを切り抜いて入れてましたね~。 当時、今のような状況を想像していた人はいなかったかも。 今、彼らは何を想い、何を心の支えにして生きているのか、すごく気になったりして。 風吹ジュンは、うまく年をとっているように見えるのだけれど、その違いってどこにあるのだろうと感じる今日この頃です。 当時は、浅田美代子のファンで、それほど風吹ジュンのファンではなかったということも影響しているのかもしれませんが…。 もちろん、昔のアイドル以外にもいろいろ聴いていますよ。 トワ・エ・モアとか、チューリップとか、かぐや姫とか。 でも演歌は、内山田洋とクールファイブか、テレサ・テン、ぴんからトリオの「女のみち」以外はあまり聴かないですね。 一般的に、オイラと同世代の友人たちも、演歌をあまり聴かないみたい。 でも、ちょっと上の世代から団塊の世代以上になると、演歌が主流。 昔、銀行時代の上司たちとカラオケに行ったとき、「なぜ、演歌を歌わないのだ!」と延々と説教された経験があるのです。 「演歌以外は歌ではない」と極論する上司もいましたっけ。 このあたりの世代間ギャップを、文化人類学的に考察してみれば面白いかも、と考えるのですが、どなたか教えていただければ助かります。 しかし、どれも歌謡曲の枠をこえられないところがオイラの限界なのかも。 ジャズやクラシックを聴いています、と書ければかっこいいのだけれど…。 ああ、ちょい悪のいけてるオヤジになりた~い。 でも、言っておきますが、オイラは古い歌ばかりを聴いて、過ぎ去った若き日を懐かしんでいるばかりじゃありませんよ。 パソコンのハードディスクの入っている新しめの歌手をアトランダムにあげてみますと、以下の通り。 福山雅治、サザン、倉木麻衣、平原綾香、夏川りみ、宇多田ヒカル、パフィー、松浦亜弥、ELTにチャゲアス、ミスチル、SPEED、そしてモー娘。だって入っているのだ。 モー娘のあとに「。」をつけなければならないことも知っているし、最近、リーダーがミキティから愛ちゃんに代わった理由もつかんでおりまする。 それから、ZARDも入っていて、よく聴いているのです。 事件をはじめて知ったのは、ヤフーのネット記事でしたが、ちょうどそのとき、「負けないで」が終わって、「揺れる想い」を聴き始めたところだったので、二重にびっくりしました。 ZARDの歌には、よく励まされたので、哀しいっす。「君がいない」のはすごく残念ですが、これからも長く聴き続けていきたいと思っています。 話は変わりますが、最近、パソコンで音楽をダウンロードすることを覚えました。 最近の曲は、図書館やレンタルショップで借りたり、最悪の場合?自腹でCDを購入したりできます。 ただ、古い曲を店頭で探すのは面倒くさい、というか、ない。 ということで、ダウンロードでは、小学校や中学、高校時代に聴いたポップスをよく購入しています。 今やほとんど聴くことのできないような曲もあったりして、ネットの威力はすごいと感じますね。 それに昔聴いたときと比べ、今聴くと新たな発見があったりする。 たとえば、フィンガー5。 以前は、当時のオイラと同じくらいの子供がサングラスかけてよくやるよ、くらいにしか思っていなかった。 「個人授業」なんか、今聴いても、すごい迫力あるサウンド。 オイラは音楽的才能のまったくない人間ですが、フィンガー5って、こんなすごいアーチストだったの?と認識を新たにしました。 とくに、ボーカルのアキラのハイトーンボイス、ド迫力の歌唱力が秀逸。 昔よく真似して、たいしたことないじゃんなんて、生意気なことを言っていたオイラが恥ずかしいっす。 今からでも謝りたいぐらい。 そして、昨日ダウンロードしたのが、小坂明子の名曲「あなた」でした。 いろんなネットショップを探してみてもなくて、たまたま楽天からダウンロードできることを知ったのです。 まさに、灯台下暗し。 ライヴバージョンでしたが、210円で、こんな素晴らしい曲がゲッツできるなんて、今の時代に生きていることの喜びを実感しました。 もう何十年も聴いていなかったので、当時のことを思い出しながら何十回も聴き返しています。 今日も、十回以上聴いてしまいました。 この曲を最初に聴いたのは、確かラジオだったと思います。あるラジオ番組の主題歌だったような。 けだるい感じのイントロ部分から、サビの熱唱、そしてまた静かな中盤を経て、ラストの「あなた、あなた」の叫ぶような心に響く歌声、そして旋律の美しさに一瞬で魅了されたといいますか。 この、静と動、スローとハイスピードとの対比が絶妙。 この若々しく、清楚な歌声は、いったいどんな美しい女性が歌っているのだろう。 当時、ラジオをずっと聴きまくって、想像をふくらませて、ふくらませて、自分の中で偶像崇拝ともいうべきものを作り上げて行き、その数ヵ月後、歌が大ヒットして、小坂明子がテレビに出るという情報をつかんだ。 そして、正座したまま、テレビを見た~ おお~ 倉本聡 的な 「間」。 しかし、だからと言って、この歌の素晴らしさが、色あせることはありませんでした。 でも、そのあと、ダイエットして、スリムな女性に生まれ変わったと聞きましたが。 この歌は、小坂明子さんが高校時代の授業中に作った歌だったらしい。 よっぽど面白くない授業だったのかどうかはさておき、当時人気絶頂だったガロに会いたい一心で、昭和48年にヤマハポピューラーソングコンテストに応募したのだとか。 そして、グランプリ大会ではグランプリを受賞。そして同じ年の第4回世界歌謡祭では最優秀グランプリに輝く。 「あなた」は、発売1ヶ月で100万枚を突破。3ヶ月で165万枚を売り上げ、ポップス界の歴史的ヒットとなる。 そして、各新人賞を総なめにして、次の年にはNHKの紅白歌合戦に出演。 現在では200万枚以上を売り上げているそうな。 普通の高校生の作った歌が、こんなすごいことになったのは、なんと言ってもこの歌の魅力からですね。 当時は、穢れなき夢見る少女が、将来幸せな家庭を築きたいという願望を歌った歌だと思っていたんですよ。 でも、今聴いてみると、ちょっと違う印象がありました。 「夢だった」「望みだった」という過去形のあとに、「いとしいあなたは、今どこに」ですか。 恋人が逃げてしまったか、失踪されてしまった女性が、彼と築くはずであった理想の家庭を夢見つつ、一人、レースを編む。 これは、失恋した女性の寂しい心象風景を描いた歌だったのでしょうか。 高校二年生の少女が、授業中、こんなことを考えていたのですかね。 最初の、理想の「家」の記述も、こう考えていくといろいろな暗示がこめられていそう。 それもまた、モナリザの微笑みたいなミステリアスな魅力がありますね。
2007年06月09日
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こんにちは。 今日は、ゴールデンウィークに訪れた二つ目の場所です。 行ったのは、今、何かと話題の甲斐の国。 東京モノにとって、神奈川や千葉、埼玉は身近な存在ですが、山梨となるとちょっと遠い感じがするのはオイラだけでしょうか。 若い頃から今まで、いろんなところをほっつき歩いてきたオイラですが、意外と山梨に足を踏み入れたことは数えるほどしかない。 中央本線って、JRで電車賃も高いような気がしますし。 でも、先日、山手線の駅で、すぐれもののガイドブックを手に入れたんですよ。 その名は、「甲州古道ウォーキング 相模湖駅~甲斐大和駅」。 古道をウォーキングなんて、いかにもオイラ好みのネーミング。 さっそく、ネットの乗り換え案内で、所要時間と料金を調べてみました~♪ なんと、意外と山梨って近いし、安く行けるんじゃないっすか。 オイラがたまに私鉄を使って行く、群馬や栃木、茨城より安い。 もちろん、裏技があるのですが。 それは、新宿から中央線に乗るのではなく、高尾まで京王線に乗り、そこで中央線に乗り換えること。 電車賃節約のコツは、いかに目的地のそばまで私鉄で行けるかということでしょうか。 さて、そうやってせこいルートを乗り継ぎ、オイラは中央線の鳥沢駅にたどり着いたのでした。 でも、京王線の急行に乗ったので、それほど時間のロスは感じませんでしたが。 鳥沢駅周辺は、かつて鳥沢宿という宿場町でにぎわったところらしい。 富士講の名残など、かつては旅籠や下駄屋、お茶屋などの街並だった面影が味わえるとか。 古道というより、国道の車の往来が激しくて、せわしない雰囲気がありましたけど。 でも、歩いてゆくと昔ながらの宿場町の面影のある古い家がところどころに残っておりました。 これらの古い家は、出桁軒裏造りといって庇が長いのが特徴だとか。二階の窓に設置された手すり部分は、それぞれデザインが異なり、なかなか凝っていますな。 国道20号を歩き、大月方面を目指します。 行った日は、雲ひとつないいいお天気でした。いい形の山があったりして、見とれながらの快調なウォーキング。 国道を折れ、細い小道に入ってしばらく行くと、中央本線の複線化以前に使用した橋台がありました。 ちょうど、深い谷越しに向かい合う形で、石組みの立派な橋台が残っています。草木が生い茂り、一昔前にここを列車が走ったなんてとても思えない。 SLが煙を上げながら轟然と鉄橋をわたるシーンを想像しました。 ふたたび、国道に戻り、今度は猿橋めざして歩きます。 なんとなく、猿橋という名前の橋があることは知っていましたが、こんな近くにあるとは思っていませんでした。 名前だけ知っていたのは、おそらく「日本三奇橋」のひとつだから耳に入ったのでしょうね。 ちなみに、あとの二つは、「岩国の錦帯橋」「木曽の棧(かけはし)」。 有名ですが、どちらも行ったことがございませぬ。まだまだ日本中、行ったことない場所だらけだから、老後の楽しみが増えそう。 それはともかく、実際目で見ると、やはり変わった橋ではありました。 長さ31m、幅3.3mだそうなので、さほど大きくはない。この独特なフォルムは、谷が深くて橋脚が立てられないため、橋脚を使わず、両岸から張り出した四層のはね木によって橋を支えているところからくるみたい。 7世紀に、猿が互いに体を支えあって橋を作ったのを見て造られたと言う伝説があるそうですな。なるほどそう言われてみると、両岸から張り出した四層のはね木が重なっている猿にまったく見えなくはない。ちょっと苦しいですが。 それにしても、猿橋の欄干から下を見ると、かなり谷が深いっす。 水面からの高さが31メートルですか。しかも、まわりの緑との調和も見事。自然の景観との調和が素晴らしいということで、国の名勝に指定されたのも納得が行きました。 江戸時代の浮世絵師、安藤広重の「甲陽猿橋の図」も有名らしいですね。江戸時代からもその絶景が話題になっていたのですか。 猿橋を去り、これがホントの「去る橋」なのじゃ~と久しぶりに納得のいく駄洒落を思いつきました。 でも、こういう駄洒落は、絶対どこかのオヤジがかまして著作権を申請しているでしょうね。 参考文献みたいに出展を明らかにしないと訴えられるかも。 猿橋近隣公園の深い緑を堪能しつつ、大月市郷土資料館にたどりつきました。 小さな資料館でしたが、100円を支払って入館。郷土資料はそれほど目を引くものはなかったですが、特別展で白旗史朗の写真展をやっていました。 富士山を撮り続けた写真家として有名らしいですね。 行った日も、富士山を写した白幡史朗や地元のアマチュアカメラマンの作品が展示されていました。 あらためて、富士山がいろんな顔を持っていることを確認しました。富士山といえば、東海道というイメージがありましたが、大月市もまた絶景ポイントがたくさんあるのですね。 さて、郷土資料館を出て、大月市の市内を流れる桂川につかず離れず歩いてゆくと、前方に妙な形の山が見えてきました。 高さはそれほどでもないけど、山の中腹から頂上にかけて垂直に切り立った岩盤がドームのように見えるっす。 これがあの岩殿山城ですか。 こここそ、あの「風林火山」にも登場する中世・武田氏の家臣、小山田氏の居城のあった場所。小山田氏は武田24将の一人として有名ですね。 「風林火山」当時の小山田家当主は、小山田信有。 確か、田辺誠一が演じていたような。 小山田氏が岩殿山を本格的な居城となしたのは天文元年(1532)といわれ、武田信玄の躑躅ヶ崎城の境目の城として、重要な押さえとなっていたとか。 話には聞いていたけど、実際近くで見ると、その迫力がすごいっす。 岩殿山は、その名の通り海抜635mの岩山。まわりには、東に葛野川、南に桂川を配し、頂上近くの垂直の岩盤は、まさに天険の要害ですな。 眼前に立ちはだかる岸壁を前にして、あとに引くことはできませぬ。 ガイドブックのコースにはないのですが、その要害を落とすべく、城攻めを開始しました。 よく整備された階段をのぼってゆくと、やがて中世の城の遺構を思わせる建築物が。 ここは、岩殿山ふれあいの館。 岩殿山中腹に建ち、外見からは信じられないですが、なんと中にプラネタリウムもあるとか。 小山田氏が城主だった当時は、やはりこんな建築物もあったのでしょうか。 さて、そこから先もコンクリートの階段が延々と続いておりました。やはり、城攻めは楽じゃないっす。朝から、歩き詰めだし。 でも、苦しさに反比例して、標高がぐんぐんあがり、市内を眼下に望む見晴らしが良くなる。 そしてようやく、岩殿山城の揚木戸門跡が見えてきました。巨大な岩がすごいっすね。 横に巨大な岩があるため、読んで字のごとく、門は上に引き上げる形式だったらしい。 そこからすぐ上にあがったところにあるのが、番所跡。それほど広いスペースはないですが、門番の詰め所かなんかがあったのでしょうか。 そしてようやく頂上近くの尾根に到着。 そこからの眺めはさすがに素晴らしかったです。さっき、山の下から見えた垂直に切り立った岸壁がこの下にあるのですね~。 尾根の部分に、本丸や二の丸、三の丸、馬場などがあるのでしょうけど、それぞれそれほど広くはないし、かなり削られた部分もあるようで、これぞ城跡の遺構というものは感じられませんでした。 あえて言えば、帯郭下にある亀ヶ池と馬洗い池ですかね。山城は、水の確保が最重要課題ですから、小さいとはいえ今も枯れることがない水源があるのは心強かったでしょう。 それにしても、ゴールデンウィークでよかったと、去年行った城跡で、大量の蚊のじゅうたん爆撃にさらされたオイラは切に思ったのでした。 せっかくだから、山の頂上にある本丸へ行ってみました。 もともとせまいスペースなのに、電波塔様が我が物顔で居座っていらっしゃいました。 今の城主は、電波塔様なのですね。 本丸のまわりに空堀が残っていて喜んだはずみに、空堀に転落してしまいました。 戦国時代だったら、上から矢を射掛けられて戦死していたかも。 城攻めを果たし、晴れて岩殿山から降りてきたのですが、そのときが一番大変でした。 道に、細かい石がたくさんあって、トレッキング用のシューズではなかったので滑る、滑る。 山道で、ヘッドスライディングみたいに派手な転び方を何度もしました。 高校時代の体育で習った柔道の受身が、こんなところで役に立つとは思いませんでしたね。 そういえば、今での短くない人生において、蒲田行進曲の階段落ちに匹敵する転倒を何度も経験しました。 JR渋谷駅の一番上の階段から、踊り場まで転げ落ちるとか。 そのたびに、ディフェンスのうまさで九死に一生を得てきたのです。 若いうちに、いろいろ習い事をするのもいいですが、受身だけは勉強より役に立つかもしれません。 倉本聡的 「間」 転ばない方法を考えろと、誰か突っ込みいれてくれぇぇぇぇぇぇ~
2007年06月02日
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