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【川北稔/8050問題の深層「限界家族」をどう救うか】「限界家族」という言葉を知ったのはつい最近のことだ。福祉系の仕事に就いている息子から聞いたのだ。「限界集落」という言葉は知っていたけれど「限界家族」という言葉は聞き慣れないものだった。しかもその響きは何やらリスキーで深刻さが滲んでいる。とりあえずどんなことなのか知りたいと、書店で手に取ったのがこの本だった。『8050問題の深層「限界家族」をどう救うか』という新書である。まずは8050問題(はちまるごーまるもんだい)とは何ぞや?・・・から紐解いていかねばならない。端的に言えば、80代の高齢の親が50代の子どもの面倒をみる、という世帯の抱える問題のことだ。※ここで言う50代の子どもというのは、無職あるいはひきこもり状態にある子どものことである。正直なところ私はこの新書をめくっていくにつれ、震えが止まらなくなった。これは正に、私と同世代とその親世代の問題だと確信したからだ。今でこそ付き合いが途絶えてはいるが、私の友人の一人が同じ苦悩を抱えていた。当時まだ20代だったころ、彼女(K美さん)にはひきこもり状態にある弟について、ずいぶんと神経をすり減らしていたのだ。K美さん自身は聡明で公立大を卒業していて、就職先にも恵まれ、フツーに生活するには不自由のない暮らしをしていた。一方、弟の方は確か、高校は中退してしまったが、どうにか飲食店に就職が決まった。だがその後すぐに辞めてしまったと聞いた覚えがある。どうやら人間関係に躓いたらしい。K美さんは姉として出来る限りのことはしたと思う。行政の窓口にも相談に出かけ、NPOの家族会にも足を運んだと言っていた。藁にもすがる思いだっただろう。だが、結果は惨憺たるものだったと。あれから30年近く月日が流れるが、K美さんの弟が社会復帰したかどうかは不明である。そして、もしいまだに当時の状況が継続中だとするならば、50代に突入したひきこもりの彼と、80代の両親が同じ屋根の下で暮らすという図式になるわけだ。正に、リアルタイムの8050問題ここにあり、である。『8050問題の深層』を読んで改めて知ったのは、ひきこもりの背景がどんなものであるかということだ。直接のきっかけが不登校や就活の失敗だとしても、それが長期化していくにはおそらく何らかの原因があるはずだ。たいていは性格的な問題として片付けられてしまいがちだが、単なる〝大人しい〟とか〝引っ込み思案〟という内向的な性格のせいだけでひきこもりが長引くものだろうか。昔は「慌てずにゆっくり見守ってあげましょう」的な暗黙のルールがあった。だが最近ではだいぶ変わって来ている。というのも、ひきこもりの背景に軽度の知的障害や学習障害などが関係していることがわかり始めたからだ。自閉症の一つでもあるアスペルガー症候群という社会的なコミュニケーションの困難などを特徴とするものは、知的発達の遅れや言葉の発達の遅れを伴わないため、この障害をスルーしてしまいがちなのだ。そのためそれに気付かず「生きづらさ」を感じたままひきこもっている人たちが、何百、何千人といるらしい。とは言え、ひきこもりの原因がアスペルガーだったとわかったところで、50代に突入した今になってどうしろと言うのか⁈ というのが当事者のホンネに違いない。その一方で、50代の子どもを支える80代の親世代にも何かしらの問題がありそうだ。つまり、精神医療を受けることの偏見が問題解決を遅らせる要因となっているのだ。そして最終的に老いて両親が亡くなると、一人取り残された本人の兄弟姉妹が慌てて医療機関なり行政窓口を訪れることになるというパターンが少なくないらしい。とは言え、暴力や自殺行為などが起こっていないことを理由に問題が先延ばしになっていることはやむを得ないと言えるかもしれない。(果たしてそれが正しいかどうかは別として)ひきこもる人への支援には長期的な関わりが必要となるため、そう易々と片手間に出来ることではないからだ。65歳以上のお年寄りが半数を超える集落を「限界集落」と呼ぶようになって久しい。急激に進む高齢化社会の中で、共倒れ寸前の「限界家族」を内包する問題は深刻である。昔はよく「共依存」という言葉が使われ、お互いを過剰に干渉する状態のことを言ったものだ。それが自立を妨げるからと、半ば批判的な意味合いが含まれていた。本書によれば、最近の考え方としては、「依存先を増やす」という自立支援にシフトしているようだ。依存先が家族限定にならないよう家族以外の依存先を増やし、社会からの孤立を防ぐという方法だ。8050問題を今日・明日にでも解決するという具体策はなく、支援にも決まった答えはない。周囲にそう言う事例はないからと、目を背けてばかりはいられない。私の場合、たまたま息子が福祉系の仕事に就いたことで、日本の社会福祉制度には諸問題が山積みとなっていることを知った。『8050問題の深層』は、現代日本において社会的孤立が決して他人事ではないと警鐘を鳴らす。ひきこもる人とその家族に対する支援のアプローチが掲載されているので、一つの例としてそれらを読むだけでも支援制度のあり方を知ることができる。8050問題について知っておきたい人、ぜひ手に取って欲しい。(了)『8050問題の深層「限界家族」をどう救うか』川北 稔・著 NHK出版新書★吟遊映人『読書案内』 第1弾(1~99)はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾(100~199)はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第3弾(200~ )はコチラから
2023.06.17
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【マゴリアムおじさんの不思議なおもちゃ屋】「シェイクスピアのリア王の死の場面(を知ってるかい)。たった一言“彼は死んだ”と。たったそれだけ。何のドラマも何の美辞麗句もない。歴史に名をとどめる珠玉の名作のクライマックスが・・・“彼は死んだ”。天才シェイクスピアが記した言葉は“彼は死んだ”・・・だがそれを読むたびに私は悲しみに胸をつかれる。“彼が死んだ”という言葉のせいじゃない。彼の人生が思い浮かぶからだ。」心がほんわかあったかくなるファンタジードラマ。そういうストーリーは、子ども向け大人向けという枠に囚われず、映画を愛する全ての人たちがハート・ウォーミングな気持ちになれば良い。愉快なおもちゃの世界に浸るのも良いし、役者のセリフに胸を打たれるのも良い、心地良いBGMに耳を傾けながら穏やかな時を過ごすのも良い。どんな楽しみ方をしてもこの作品からは非難の声など聞えない。万人が満面の笑みで「ああ、おもしろかった!」と賛辞を唱える映画なのだ。街の一角に建つ創業113年のおもちゃ屋は、243歳のオーナーマゴリアムおじさんと、23歳の天才ピアニストのモリー、そしてお手伝いの少年エリックで切り盛りしていた。だがマゴリアムおじさんは突然引退を宣言。モリーに跡を継いで欲しいと頼む。さらにこれまで一度として店の資産価値など割り出したことがなかったが、売り上げも含めて計算するよう会計士のヘンリーに依頼した。そんなある日、店の壁がみるみるうちに変色し始めた。どうやらマゴリアムおじさんの引退に対し、命を吹き込まれたおもちゃたちがすねて、言うことを訊かなくなってしまったのだ。ダスティン・ホフマンが死について語る場面がある。それはシェイクスピアの「リア王」の一節だ。“彼は死んだ”・・・こんなにストレートで単純な表現が、どうしてこれほどまでに後世に影響を与えるのか。“死”というものがいかに悲しい事象であっても、消えてなくなること以外のなにものでもないことを端的に表現している。魔法がこの世にあることを信じて疑わない無垢の子どもも、やがて大人への扉を開ける。 青春前期、少年少女期との決別。漠然とした喪失感に襲われる。年を経て、やがて老いを迎え、再び若かりし頃を思いめぐらす。同時に“死”に対する悲しさや、いつの間にか身についた潔い覚悟。誰もが通る同じ道。なぜだろう、この作品からは哲学的な格調高ささえ感じられた。ジーンと胸の熱くなるようなノスタルジックな気持ちと、擬人化されたおもちゃの世界に、思わず童心にかえってしまうのだ。2007年(米)、2008年(日)公開【監督】ザック・ヘルム【出演】ダスティン・ホフマン、ナタリー・ポートマン
2013.12.22
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【柳美里/潮合い(『家族シネマ』より)】◆いつか、いじめは根絶できるのか?世間ではいじめを扱った作品がはいて捨てるほどある。そのほとんどが、いわゆる青春小説というカテゴリにあり、ティーンを対象にしたドラマチックな内容となっている。これでもかこれでもかといじめ倒し、いじめる側の執拗なまでの陰湿な行為をあぶり出す一方で、読者の正義感を引き出そうという作品のねらいに、かえってしらじらしささえ感じてしまうこともある。いじめというものは、それほど簡単に根絶できるものではないからだ。社会が平和であっても戦時下であっても、いじめの質の違いこそあれ、まずこの世からなくなるものではない。 柳美里の初期の作品である「潮合い」は、転校生を徹底的にいじめ倒す内容となっている。芥川賞受賞作である『家族シネマ』の文庫を買うと、同刊に収められている。いじめには、いじめる側、いじめられる側、その双方に問題があるとか言われているが、私にとってそんなことはあまり問題ではない。当事者の抱えている家庭の事情など、どれほど辛く苦しい背景が隠されているか、ということもさして気にならない。現実は、そこにいじめが存在しているというその一点に他ならない。 「潮合い」のあらすじはこうだ。小学6年生の2学期、麻由美のクラスに一人の転校生がやって来た。その少女は安田里奈と言い、男子たちが妙にそわそわするだけのルックスをしていた。とにかく目立つのだ。目立つと言っても、表情はほとんど変わらず、一切だれともしゃべらず、ただその存在だけが目立っていた。麻由美はイラっとした。だいいち、2学期に転校して来ること自体、ヘンだと思った。あと半年もすれば卒業だからだ。きっとわがままで、前の学校では問題児だったに違いないと思った。麻由美はまず、里奈の髪につけているリボンにイラだった。ムリヤリ剥ぎ取ってやった。住んでいるところを聞くと、「わからない」と答えたため、麻由美は再びイラっとした。バカ呼ばわりし、ホームレスだと言ってやった。麻由美は数人の女子たちと里奈の服装について冷やかし、パンツを脱げと、みんなで一斉にはやしたてた。さらにはプールで泳げと命令した。びしょ濡れの里奈に気付いた担任の田中は、その場の状況をつかもうともせず、「転んで落ちたのか?」と、見当はずれのことを言った。熱血教師気取りよろしく、「先生はいじめがあったなんて信じない。先生はいじめが大っ嫌いだ」などと生徒たちに涙ながらにいじめを否定するのだった。 私はこの短篇を読んだとき、これは本物だと思った。まるでキレイゴトから唾を吐くように、リアリティのある、憂鬱でけだるい思春期を表現しているからだ。いじめをなくそうとか、いじめのない社会を、などと説教くさい意味合いはまるでない。 いじめはあります、それが何か? という突き放したようなクールな視線を感じるのだ。いじめの問題はおそらくきっと、今後も世間を騒がせるに違いない。だからと言って改善策を取らないというのも無責任な話だが、まずは子どもたちに強い心を持って欲しいというところだろう。さて、みなさんはいじめ問題をどう考えるだろうか? 『家族シネマ』より「潮合い」柳美里・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.02.21
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【マーシャル・ロー】「私が騙されていたのね」「金のせいだ。“資金で力が買える”とね。信念が力を生むんだ」「テロに資金を出したわけね?」「皮肉なもんだ」この作品には度肝を抜いた。私はてっきりアメリカ同時多発テロをモデルにして製作されたと思っていたら、なんと公開は1998年だった!テロが起きたのが2001年なので、この映画は完全なフィクションだったわけだ。恥ずかしながら私はリアルタイムで『マーシャル・ロー』を見ておらず、遅ればせながら今ごろになって目を白黒させてしまった。『マーシャル・ロー』の内容はこうだ。サウジアラビアのアメリカ海兵隊駐留基地が、爆弾テロにあった。アメリカを震撼させたその事件後、すぐさまクリントン大統領は記者会見を行う。それを傍聴していたアメリカ陸軍のウィリアム・デヴロー将軍は、その会見内容を曲解したのか、ただちに行動に移す。それは、テロの首謀者とされるシークを拉致することだった。一方、ニューヨークのブルックリンで、白昼、路線バスが何者かにバス・ジャックされてしまう。犯行声明によると、急進イスラム派の教祖であるアフメッド・ビン・タラール(シーク)を、即刻釈放しなければ、人質もろ共バスを爆破するとのこと。FBI特別捜査官アンソニー・ハバードは、人質を解放するようテロ犯に要求するが、それも虚しくバスは爆破されてしまう。その後、ハバードは、テロ犯検挙に躍起になるのだが、ある女性が現場で爆弾に関する調査をしていることに気づく。そこでハバードは、女性に尾行をつけ、よくよく調べたところ、女性はCIA諜報員で、アラブ系アメリカ人社会にコネクションを持っていることを知る。こうして過激派のテロ行為を阻止するために、FBIとCIAがそれぞれに奔走し、そこにまたさらにアメリカ陸軍が動き出すのだった。この作品では、アメリカ陸軍のデヴロー将軍役にブルース・ウィリスが扮している。ちょっとクセのありそうな軍人なのだが、こういう厳つい男たちによってニューヨークが物々しく占拠されたら、NY市民の安全と引き換えに自由が奪われてしまうと表現しているようだ。つまり、テロ撲滅のために軍部の力を借りれば、その徹底的な手段により、過激派と関係あるなしにかかわらず、アラブ系の若者たちを完全に隔離し、外部との接触を禁じることで極端な緊張が生じてしまうわけだ。このあたりの描写はとても説得力があり、国家に異常なまで傾いているブルース・ウィリスの右傾ぶりがよく表現されていたと思う。また、主人公ハバード役のデンゼル・ワシントンに至っては、完璧の一言で、この役者さんはとても自分を冷静に観察している人だと思う。立ち位置をわきまえた役者さんは、分相応のキャスティングを望み、それ以上もそれ以下も引き受けやしないのだろう。正に、デンゼル・ワシントンがその人だ。終始一貫して演技に乱れがなく、誠実で好感の持てる演出だった。最近、北アのイスラム教圏においてテロがあり、日本人技術者たちも何人か犠牲となる事件が起きてしまった。痛ましい限りである。この『マーシャル・ロー』を見ることで、世界に起きているテロ事件をさらに身近なものとして捉えるきっかけとなれば、この作品の意義はいっそう増す。対岸の火事だと油断することなく、いつも危機感を持って世界を捉えることが必要なのだと、改めて痛感した。老若男女問わず、一見の価値あり。1998年(米)、2000年(日)公開【監督】エドワード・ズウィック【出演】デンゼル・ワシントン、ブルース・ウィリス
2013.02.10
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「今少し冷静になってもらいたか。おまんさは戦になって国が潰れても良かとごわすか!?」「わいは戦をしに行くとってなかっ!!」「そんつもりでも、戦になるやもしれもはん! そん時は・・・!」「よかっ!! 国が潰れても、人が死に絶えるわけではなかっ! 人が死んで死んで、国を焼き尽くして、そん中から生き残ったもんがもう一度新しか日本国を造れば良かっ!!」「そいは暴論ごわす!!」愛読する司馬文学について少しだけ語りたい。歴史というのは、それを捉える後世の人物たちによって検証され、良くも悪くも評価される。それは、その時代背景にもよるし、作家や学者らの歴史観によってずい分異なる。動乱の幕末時、幕府側に立っていた新撰組などは、狂暴な野犬の如き人斬り集団として捉えられていたイメージを、作家司馬遼太郎は一新。動乱期に苦悩する「政治青年の群れ」として、官軍も賊軍もなく等しく描くのである。 こうして、それまでは勤王の志士たちに抵抗する反逆者、いわば賊軍でしかなかった新撰組は、幕臣意識に燃える忠義の士としてドラマの表舞台に立つようになったのだ。「翔ぶが如く」では、西郷や大久保などにスポットが当てられ、魅力あふれる人物として描かれているが、それは決して「官軍」だからと言うような安易な見識からではないことが理解できる。その点を踏まえてこのドラマを鑑賞すると、さらに司馬文学を堪能することができるのではなかろうか。総集編第二部前編は、「両雄対決」と題される。王政復古によるクーデターの後、名目上、政府は徳川幕府から朝廷へ移ったものの、中央集権国家を確立するにはいまだ難題が残されていた。それは「藩」の存在をどうするかという問題であった。そこで、現状の政局を打破するべく、西郷隆盛、大久保利通、西郷従道(隆盛の弟)、大山巌、木戸孝允、井上馨、山県有朋の薩長の7名が木戸孝允邸にて「廃藩置県」案を練った。その後、岩倉具視、板垣退助らの賛同を得て廃藩置県が制定。こうして土地と人民は明治政府の所轄するところとなったのである。明治6年になると、対朝鮮問題が浮上。これは、明治元年に李氏朝鮮が維新政府の国書受取り拒否に端を発しているが、その後、明治政府の使節を侮辱したとあって、武力行為に及ぶか否かが審議される。西郷、板垣らは武力をもって朝鮮を開国しようとする主戦派で、この主張は後に「征韓論」と呼ばれる。(しかし西郷の当初の主張としては、あくまでも出兵ではなく使節として赴くというものだった。)この主張は一度は閣議決定したものの、太政大臣の三条が急病のため岩倉具視が代行役に立ち、白紙に戻される。西郷らの朝鮮出兵は、無期限延期となった。「翔ぶが如く」もいよいよ佳境に入って来た。それまで、兄弟のように仲睦まじい西郷と大久保であったが、ここへ来て徐々に方向性の違いが明白になってくるのだ。否、方向性は必ずしも違うとは言い切れない、が、その改革におけるプロセス、方法、手段は明らかに違ってくる。しかし、それは両者のうちどちらが正しく、どちらが間違っていると白黒つけるのではなく、史実として捉えてみたらどうだろう。人間は情感に流される動物である。愛すべき登場人物に感情移入せずにはいられない場面も出て来るだろう。だが、西郷も大久保も坂本竜馬も新撰組も、皆等しく、激動の時代を生きた「志士」たちなのである。1990年TV放送【原作】司馬遼太郎【脚本】小山内美江子【出演】西田敏行、鹿賀丈史また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.11
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【刑事コロンボ 〜ホリスター将軍のコレクション〜】「彼の人柄がよくわかりますよ。ここに展示された本には、彼を狙った銃弾がめり込んでいます。危うく助かりましたが、将軍は眉ひとつ動かさなかったのです。(その一例からも)彼がどう言う人間か想像がつくでしょ? 度胸があり過ぎるんですよ。とても普通じゃありえない。私なら気絶するところです。普通の人間ならうろたえるのに、彼はどんな状況でも冷静そのものだ」私は、元夫が自律神経失調症とうつ病を患っていたこともあり、周囲の人たちが元夫のことを腫れ物でも扱うようにするのを、何度となく目撃した。もっとタチの悪いのは、妻である私自身が心の病に理解がなく、ただ指をくわえて手をこまねいていたことだ。結局、私は離婚してしまったのだが、元夫はその後、障害者手帳を取得し、福祉のお世話になったとのこと。たまに私のところへ電話をかけて来ては、「みんな俺の話なんかまともに聞かないんだよ。何でか分かるか? 精神科に通ってるからさ」とグチをこぼした。そんな元夫も亡くなって12年が経つ。今回私が見た〜ホリスター将軍のコレクション〜において、事件を目撃した女性は精神に疾患を持つ者という設定である。一番信頼に値する身近な母親でさえ、娘の心の病に辟易している有り様なのだ。この状況をたとえドラマの上でも目の当たりにすると、何とも言えない苦いものがこみ上げて来るのだ。ストーリーは次のとおり。退役軍人のホリスター将軍は、第二次世界大戦や朝鮮戦争で活躍した英雄であった。そんな彼は、事業が成功し独身貴族を謳歌していた。ある時、ホリスター邸に調達課のダットン大佐が訪ねて来る。慌てた様子のダットン大佐が言うには、海軍に会計監査が入るとのこと。実はホリスター将軍とダットン大佐は癒着し、莫大な資金を海軍から横領していたことから、ダットン大佐は狼狽を隠せないでいた。一方、ホリスター将軍はそんな一大事を聞いても、眉ひとつ動かすことなく冷静だった。ダットン大佐はこれからすぐにスイスへ飛ぶと言う。ホリスター将軍は一考する。この様子なら彼の逃亡は失敗し、いずれ自分の名前も明かされてしまうだろうと。そこでホリスター将軍は迷わずダットン大佐を射殺してしまうのだった。ホリスター邸は海辺にあり、その様子をヨット上から目撃する人物がいた。彼女はヘレンと言う女性で、離婚の痛手から心を病み、ずっと投薬とセラピーを続けているような状態だった。ヘレンはさっそく警察に通報するものの、駆け付けた警官もさることながら、傍にいた母親でさえ娘の言うことを単なる妄想としか思わなかった。今回の作品のポイントとなるのは、加害者であるホリスター将軍が国の英雄であり、誰もが尊敬するカリスマ的存在であったこと。一方、事件の目撃者であるヘレンは心の病を患っていて、定職に就いておらず、セラピーに通っているような状態なので、彼女の証言をまともに信じる人がいない。それにつけ込んだ犯人のホリスター将軍は、巧みな話術でヘレンを虜にし、結婚をチラつかせ、彼女を囲い込もうとする。やがてヘレンは恋に落ち、自分が目撃したものは、強い陽射しによる錯覚だったと証言を覆してしまうのだ。このドラマから考えさせられるのは、いかに人というものが他者を色メガネで見ているかということだ。同じ人間であることに変わりないのに、その人の持つ肩書きにコロっと騙されてしまうのだから、何とも情けない生きものではある。でもだからと言って、その人の持つ背景や人柄を無視して事実だけを知るべきなのかと問われれば、それは何とも言えない。せめて、物事には表裏があるのだと肝に銘じておきたいものだ。犯人役は『ローマの休日』にも出演したエディ・アルバートで、〜ホリスター将軍のコレクション〜においても好演している。1971年放送【監督】ジャック・スマイト【キャスト】ピーター・フォーク、エディ・アルバート
2023.04.15
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今年の昭和の日は土曜日と重なり、なんだか祝日を1日だけ損したような気分ですね(笑)朝からどんより曇っていて、予報によれば夕方から崩れる見込み。ならばと思って渋る息子を誘って神社のお参りに出かけました。静岡県遠州地域には歴史と伝統のある神社・仏閣が数多くありますが、つい見逃していた神社がありました。というのも、ガイドブックや観光マップなどに掲載されていなかったので、ずっとスルーしていたのです。ところが昨年、浜松は台風15号という未曾有の天災に見まわれ、大惨事に遭いました。その影響で浜松市浜北区尾野にある高根山の斜面が崩れてしまったのです。その高根山の中腹に立つ高根神社は、歴史も古いのですが(1502年建立)、台風15号による崖崩れで倒壊の可能性があると、県内ニュースで大きく報じられました。皮肉なことではありますが、その報道によって初めて歴史的価値のある神社がまだまだ浜松にあることを知ったのです。「これは一度行ってみなくちゃ」と、ずっと思っていたものの、なにしろ電車・バスなどが付近まで通っていないので、足代わりになってくれる息子のご機嫌によることが大きかったのです。(私はペーパードライバーなので)前置きが長くなりましたが、そんなこんなでやっと私の望みが叶ったのが、4月29日(土)のことだったわけです。高根神社へ向かう途中、高根山の東側でしょうか、『金刀比羅神社』の看板を目にします。鳥居をくぐって境内まで続く長い階段を見上げたとき、「ここでお参りしたい」と息子にお願いしました。駐車場は金刀比羅神社の拝殿の傍にあるため、いったん車を停めたあと、わざわざ階段を下り、一の鳥居をくぐるところから再び歩き始めました。何段ぐらいあるのか、最初のうちは数えていたのに、途中から息が切れてきて数えるのを忘れてしまいました(汗)苔むした階段、うっそうと生い茂る樹木、まるで効果音のように聴こえてくるウグイスの鳴き声がのどかで、まるで昭和に逆戻りしたような心地がしました。(正に、昭和の日というだけありました)境内にある建造物はどれも古くて、歴史的価値のあるものばかりなのはよくわかるのですが、私自身はあまり興味がなく、ただ雰囲気とか空間を楽しみたい派なので、ろくな情報も提供できず、ざっくりとした記事でご勘弁ください。お祀りしている神様は、大物主命、白峯大神、金山彦命とのこと。社務所は無人のため、ご朱印ガールの方々にはムダ足になってしまうかもしれませんので、ご注意を。さて、本命のはずだった高根神社ですが、金刀比羅神社から運動がてらてくてく行くつもりでした。落ち葉に埋もれた山道を数百メートル歩いたところ、そこは昨年さんざん報道された崖崩れの現場があり、いまだブルーシートで覆われていました。さて、高根山の斜面に細く急な階段があり、そこが高根神社へと続く参道となっていました。息子が気を利かせてその階段を数段ほど上ってみたところで、「あ、ここはヤバい。上りはいいとしても、下りるのがヤバい。やめた方がいいんじゃね?」と注意してくれました。空模様もあやしくなり、いつ降り出してもおかしくはないような雲行きだったので、息子の判断は正しかったと思います。しかも運動不足の私が気軽に上れるようなゆるい階段ではなく、私も素直に息子のアドバイスに従いました。こうして高根神社への参拝は断念しましたが、今回は金刀比羅神社に詣でることができ、本当に嬉しかったです。それにしてもこちらのような歴史的にも価値のある古い神社が、なぜ観光マップやガイドブックに掲載されていないのか、不思議でたまりません。ぜひとも浜松市の観光課に頑張ってもらい、全国のご朱印ガールを呼び寄せるぐらいのパワースポットとして紹介して欲しいものです。限定のお守りなど、可愛く、映える(?)やつを製作してみたらどうでしょうか?(あと、おみくじとか)なんなら筆の達者なシルバーさんに、ご朱印係をお願いして、日当¥5000ぐらいで雇用するという方法はどうでしょうか?冗談はさておき、付近には静岡県立森林公園もあるので、レジャーの道中に安全と無事を祈願するのにもおすすめです。〜おまけ〜お参りの帰りは小腹も空いたことなので、星乃珈琲店に寄りました!春と言えばイチゴ。星乃ではストロベリーフェアを実施中です。私は苺たっぶりスフレパンケーキ(シングル)を注文しました。パンケーキの真ん中にピスタチオアイスが乗っかっているのですが、パッと見は抹茶アイスかな?と思いました。いや〜メチャクチャ美味しかったです。なぜシングルにしてしまったのか、後悔するぐらいでした。(なんならダブルを注文して、食べ切れなかったら息子にあげれば良かった)苺たっぷりスフレパンケーキ(シングル)は、¥900(ドリンク付¥1250)です。ちなみに息子はスタンダードな窯焼きスフレパンケーキのダブルを注文。美味しそうにパクパク食べていました。本日は息子のBirthday 。しがない親子のひとときでした。
2023.05.20
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【宮本輝/焚火の終わり(上・下)】『焚火の終わり 上・下巻』宮本輝・著※ご参考まで宮本輝著『錦繍』はこちらから(^^)/★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2017.10.01
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【神奈川新聞 照明灯】秋空に誘われて、かねて行きたいと思っていたお宅に足を向けた。小田急線鶴川駅から鶴川街道沿いに徒歩15分ほど。閑静な竹林に囲まれて、その旧家は建っている。 武相荘。吉田茂首相の側近として連合国軍総司令部(GHQ)と渡り合い、新憲法制定に深く関わった白洲次郎と正子夫妻の旧邸が保存、開放されている。読み方は「ぶあいそう」。武蔵と相模の国の境にある地にちなんだ命名で、「無愛想」を掛けている。反骨の人・白洲次郎らしい。 次郎は南多摩郡鶴川村能ケ谷(現・町田市能ケ谷)の農家を買い、1943年に引っ越した。41年12月に太平洋戦争が始まったが、次郎は早くから日本の敗戦、空襲を見抜き、この地に移り住んだという。邸内には次郎にあてた吉田茂の書簡や「葬式無用、戒名不要」と簡潔に記した次郎の遺言書などが展示されている。 次郎は、吉田の三女の結婚相手に九州の炭鉱王の子息・麻生太賀吉を紹介した。2人は結婚、生まれたのが現在の麻生太郎副総理だ。 戦前、日本がナチスドイツに急接近したころ、駐英大使を務めていた吉田は大のナチス嫌いで、日独伊三国軍事同盟に強く反対した。その孫が、憲法改正に関して「ナチスの手口を学んだら」などと言う。祖父の心、孫知らず…。(10月11日)~~~~~~~~実にタイムリーな指摘である。もちろん照明灯ではない。同日の日本経済新聞のコラム「春秋」である。「言葉尻だけを捉えるのはつまらない話です」政治家の言葉をやり玉にあげるマスコミに、6年前に死去した作家の城山三郎がくぎを刺した。日経の春秋氏は、別に照明灯氏を戒めたわけではなく、自戒の念から城山三郎氏を引いたのだが、その妙なる間に思わず唸ってしまった。照明灯の『言葉尻』はここだ。『憲法改正に関して「ナチスの手口を学んだら」などと言う。』まずもって神奈川新聞の論説(社論)は『祖父の心、孫知らず…。』に尽きる。それを踏まえると『言葉尻』は核心の一言であり効果はあったと思う。だがしかし・・・、それはないでしょう照明灯さん。そしておおいに気になるのは、なぜ今頃?、ということだ。『言葉尻』を捉えたように『蒸し返し』てその効果を高めているようで、新聞コラムとしてとても違和感を覚えたのだ。朝日新聞が事実歪曲のそしりをまぬかれぬ事になった『麻生氏のナチス発言』は、はるか8月1日の記事である。よもや台風前の残暑につられ真夏の一件を持ち出したのではあるまいが。新記録を樹立した季節はずれの残暑は、人々を興ざめの渦に巻き込んだが、照明灯も残暑同様おおいに興ざめなのだ。何を今さらと言われそうだが、あらためて『麻生氏のナチス発言』をおさらいする。ことは7月29日に都内で開催された「ニッポン日本再建への道」と題したシンポジュームでのことだ。安倍首相が日本再生のひとつに憲法改正を掲げているにも関わらず、補佐役の副総理たる麻生氏は、いわゆる左よりで護憲的な立場をとっている。シンポジュームでは憲法改正の気炎があがった。その中で護憲派の麻生氏は何度も言ったそうだ。『(憲法改正を)喧騒の中で決めないでほしい』改憲派の多い中で、麻生氏はいわば孤軍奮闘したのだが、その中で不用意にも麻生氏は以下を述べたわけだ。『ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気がつかないでかわった。あの手口を学んだらどうかね?』百歩譲り麻生氏特有の皮肉と認めたとして、それでも総理大臣経験者であり現在副総理たる麻生氏の発言としてはあまりに軽率極まりない。とはいえ、シンポジュームは大人の集団だったようで麻生発言を糾弾することもなく、苦笑(嘲笑か?)で過ごしたそうだ。翌日以降の国外の反応を受け、3日が過ぎてから朝日新聞はその言葉尻をつくように記事にしたわけだ。8月1日のことである。後日出た櫻井よしこ氏の論文「歪曲された麻生発言」にはこうある。「『憲法改正なんていう話は熱狂の中に決めてもらっては困ります。ワァワァ騒いでその中で決まったなんていう話は最も危ない』『しつこいようだが(憲法改正を)ウワァーとなった中で、狂騒の中で、騒々しい中で決めてほしくない』という具合に、(麻生)氏は同趣旨の主張を5度、繰り返した。」これが事実でる。ちなみに櫻井氏は同シンポジュームへの参加者であり、麻生氏の発言に対しては「『ワイマール体制の崩壊に至った過程からその失敗を学べ』という反語的意味だと私は受け止めた。」という感想を抱いたそうだ。そういった事実を前に、朝日新聞は『事実を歪曲』(櫻井氏論文から)して、「護憲派はナチス支持者である」「麻生副総理はナチス支持者である」という論陣をはり、それに追随する新聞社があり終戦の日を前に話題として盛り上がったという次第だ。そしてすっかり忘却の彼方となった今になり『言葉尻』が出てきたわけだ。これは『蒸し返す』と思われてもしょうがないでしょう、照明灯さん。新聞に作意的(どちらかというと悪意)なものを感じるのはやりきれない。それが実感である。照明灯氏には、謹んで再度 城山さんの金言をお伝えする。「言葉尻だけを捉えるのはつまらない話です」
2013.10.18
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【 カズオ・イシグロ / わたしを離さないで 】夏に叔母が亡くなった。秋になって従姉も亡くなった。2人とも心不全だった。心臓の機能が著しく低下し、やがて生命としての役割を終えたのだ。近しい人が忽然と亡くなると、ふだんは考えもしないことを妄想してみたりする。例えば日本のどこかで誰かが交通事故に遭い、脳死状態になったとする。私の従姉がたまたまそのドナーから臓器提供を受け、一命を取り留めたとしたら・・・?あきらめていた人生を取り戻せるなんて、起死回生の術を施されたに等しいものだ。だが叔母も従姉も臓器提供のシステムには消極的で、寿命に逆らわず、延命措置も施さず、ロウソクの火がスッと消えるように亡くなったのである。私はそれで充分だと思った。確かに亡くなったことは悲しい。できることならもっと長く生きて欲しかった。だけど助かりたい一心で誰かの死を望み、臓器移植の日を今か今かと待ち構えるような立場にはなりたくないとも思う。いや、それは私の偏見だ。世の中には想像もつかないような身の上の方々がいる。だから物事の一面だけを見て、臓器移植のことを批難したくないし、無責任なことは言うべきではないとも思う。この問題は本当に難しくて、答えを容易に見つけられないことに軽い苛立ちすら覚えてしまう。何が正解なのかはわからないけれど、事実を事実として受け入れる強さと、流れに身を任せられるしなやかさを持ち合わせていたいと思った。そんな折、私はBOOKOFFで買ったカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を読んだ。あらすじは次のとおり。ヘールシャムという特殊な環境でキャシーは生活していた。物心ついたときから両親という存在はなく、代わりに保護官により様々な教育を施されて来た。そこで仲の良い友だちとつるんで遊んだり、ケンカしたり、また仲直りするという繰り返しだった。キャシーがとくに仲良くしていたのはルースで、気が強く、誰にも負けていない激しい性格をしていた。一方、癇癪持ちのトミーは、その滑稽な振る舞いからイジメの対象となっていて、皆がトミーのモノマネなどしてからかう中で、キャシーだけはそこから一歩引いているのだった。キャシーとトミーはグループの輪からこっそり抜けて、2人きりで過ごすことがあった。2人は、皆の前では話せないような突飛なことを真剣に話したりする中で、特別な友人関係が作り上げられた。16歳になると、キャシーの周辺は性交についてとても混乱した意見が飛び交った。保護官のタテマエとしては、「肉体の欲求を尊重する」とのことだったが、実際には、女子寮から男子寮を訪問することは禁止されていて、またその逆も禁止されていたからだ。普通の人にとっての性交とは、子どもを作るための行為だが、提供者であるキャシーたちには子どもができないのだ。だが、仲間内では、性交しておかないと、将来、よい提供者になれないという意見がまことしやかに言われていた。腎臓やすい臓が正常に機能するには、人並みの性交が必要なのだと・・・さらには、深く愛し合う2人ならば、提供者となるまでにしばらくの猶予期間を与えられるという噂が流れた。そんな折、ルースはトミーとカップルになって、もちろん性交もした。ルースはトミーとだけでなく、他の男子とも性交した。その後しばらくして2人は破局したが、キャシーの仲裁により、復縁した。だが周囲の友人たちは皆、トミーはキャシーとカップルになるのだと思っていた。ルースとトミーは長くは続かないだろうと思っていたのだった。著者のカズオ・イシグロは日本人の両親のもとに生まれ、5歳のときにイギリスに移住した。すでにイギリス国籍を取得しているため、イギリス人である。代表作に『日の名残り』があり、英国最高の文学賞とされるブッカー賞を受賞している。映画化もされており、名優アンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソンの出演により、数々の映画賞を受賞し、話題を呼んだ。2017年には、ノーベル文学賞を受賞した。こんなに華々しい経歴の作家が描く世界なんて、凡人の私には理解できるはずなどない、そう思っていた。どうせ何か社会風刺を効かせた、いわゆる反体制的な作品なのでは・・・?と。だがそれは大いなる誤解だった。いや、少なくとも『わたしを離さないで』においては、そういう胡散臭い類のものではないことは確かである。イギリスのどこか田舎の某所に、ひっそりとたたずむヘールシャム施設。そこではクローン人間が将来良き提供者となるため、一般人のように教育を施され、友情を育み、青春を謳歌する。物心ついたときから自分の臓器が誰かに移植されることを知っていて、それほど長くは生きられないことも何となく理解している。恋を知っても愛する誰かと生涯を共にすることは叶わず、子どもはできない。そんなクローン人間も、傷付けば涙は出るし、生(性)への欲望もある。物語はさも実在のことのように淡々と綴られていく。SF小説のようでありながら、淡い恋愛小説のようでもあり、実は若者向けの青春小説なのかもしれないとも思える。絵画でシュールレアリズムという世界観を表現するダリやマグリットのような、精神の均衡を脅かされるような恐怖感もある。とにかくスゴいと思った。私小説とは対極のところにあるジャンルなのに、どの場面を切り取っても真実に見えてしまうのだから不思議だ。この作品は、私がこれまで読了した本の中でも、生涯で忘れられない小説となるのは間違いない。『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ・著~ご参考~★吟遊映人『読書案内』 第1弾(1~99)はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾(100~199)はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第3弾(200~ )はコチラから
2023.11.25
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【村上龍/愛と幻想のファシズム(上・下巻)】自然が弱者を淘汰し、強者だけが種として生きながらえるのだ『国民のみなさん、プライドを持って下さい、卑屈になってはいけません、日本は二千数百年の歴史を持ち、高い文化水準と優れた伝統を持つ独立国です、敗戦を体験しても、そこから這い上がり、奇蹟といわれる復興を成し遂げました、今こそ、胸を張らねばなりません、思い出して下さい、1945年の5月から8月15日まで、日本は一国で全世界を相手に戦い抜いたのです、そして、日本は世界で唯一の、核戦争を生き抜いた国なのです』久しぶりのブログ更新で不思議な新鮮さを味わっている。すでに何年も前に読了した本を再び手に取るという、普段はしないようなことをしたせいかもしれない。もう一度、過去の漲るような熱い記憶を取り戻したいと思ったからである。 私は村上龍の『愛と幻想のファシズム』を読んだ。この作品は1984年1月~1986年3月までの間、「週刊現代」に連載された小説である。当然、私はリアルタイムで読んだわけではなく、平成の時代に突入してから友人にお借りしたのがきっかけで、ハマってしまった。ジャンルとしては、ウィキペディアによれば、政治経済小説というくくりになっているが、SF小説と捉えても問題はないと思う。 村上龍の作品は何冊も読んで、深い感銘も受けたし、若いときは素直に「カッコイイ」と思った。とんがった物の見方・考え方は、頭のカタい大人たちをせせら笑ってやるほどのパワーがある。そこには、何もかも破壊し、木っ端みじんにして新しく再生することへの挑戦とか欲望とか、若さだけでは成し得ないエネルギッシュな光を見た気がしたのだ。ところがどうしたことか。アラヒフとなった私が、この長編小説を再読した今感じるのは、言いようもない孤独と喪失である。人間に残された最後の砦である宗教さえ真っ向から否定し、しょせん人間なんて孤独の中を生き抜いていくしかないのだと言ってるようにしか思えない。だがそれが真実で、疑いようもない現実なのだ。 ストーリーはこうだ。80年代後半、鈴原冬二(トウジ)はカナダで相田剣介(ゼロ)と出会った。世界経済が停滞から恐慌へと移行し、本物のパニックが始まった時、二人は出会うべくして出会ったのである。トウジの中にカリスマ性を見たゼロは、大手の広告代理店と組み、トウジと打ち立てた政治結社“狩猟社”のテレビCFをうった。狩猟家としてのトウジは、人間が地球の生態系の一部であり宇宙のリズムに身をゆだねていると主張する。いにしえより人は狩猟をして食物を確保し、生存の欲求を満たしてきた。すなわち、狩猟の技術がない者は生きる資格がなかった。自然が弱者を淘汰したのである。ところが農耕社会が始まると、それまで生きながらえることのできなかった弱者が、奴隷として復活した。奴隷(農民)となり、主人の言いなりに生きて、この世にはびこった。それが現代では徒党を組んで要求する、あたかも正当な権利であるかのように。だがしょせん、弱者は弱者であり、淘汰されるべき立場なのである。狩猟社はそういう弱者を排除し、強者だけの世界を作りたいと考えた。その後、この考えに賛同した官僚・実業家・弁護士・医師・テロリストらが集結し、狩猟社はあっという間に大規模な組織へと成長してゆく。 私がこの小説の中に見たのは「孤独」とか「恐怖」あるいは「喪失」である。それこそヘタなホラー小説を読むより、絶望的な描写がふんだんに出て来る。だから気の弱い人にはおすすめできない。注目すべきは、日本という国の世界から見た立ち位置を、驚くほど冷静で客観的に捉えている点である。 『核攻撃を受けて日本という国が消滅しても、困る国は、どこにもないということだ』 そうなのだ、この一文にすべてが凝縮されている。我々の隣国を思い浮かべていただきたい。核保有をチラつかせて圧倒的な優位に立とうとしている国家があるではないか。有事の際、アメリカが日本を本当に死守してくれるのだろうか?日本という国は、幸か不幸か侵略された経験がない。大陸の人々は、痛めつけられて来た遺伝子を持っているせいで、裏切りや理不尽な苛めに対する免疫がある。他国に対する猜疑心もあるから、そうそう簡単に折れはしない。ところが日本はそのことに最も無知な民族だ。アメリカを無邪気に信じる日本人は、世界から見たら、どのように映っているのだろう? 『愛と幻想のファシズム』は、平和を謳歌する日本人に一石を投じるものである。そもそも日本は先進国と言われて久しいが、強い国家なのか?実は脆くて息もたえだえで、借金ばかりが増え、倒れる寸前なのではなかろうか?・・・と不安になるのは私だけであろうか? 『愛と幻想のファシズム 上・下巻』 村上龍・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2018.03.18
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【宮部みゆき/理由】◆分相応な生活の奨励と物質至上主義への警鐘本格ルポルタージュ、ノンフィクション小説と言えば、佐野眞一の『東電OL殺人事件』であり、沢木耕太郎の『テロルの決算』である。宮部みゆきの『理由』という作品があくまでフィクションにもかかわらず、作品のそこかしこから重厚なリアリズムを感じるのはなぜか?あれこれ考えたのだが、この、ルポ形式を取っている作風が成功したのではなかろうか? 著者がその事件を追うルポライターとしての役目を担い、事件の一部始終を語り尽くすのだ。『理由』はあくまでもフィクションであり、宮部みゆきの創作ミステリーであるはずなのに、これほどまでに読者を惹きつけて止まない魅力に溢れているとは、やっぱりスゴイ。著者のプロフィールなどを読むと、法律事務所に勤務していた経験もあるとのこと。特殊な事情を抱えたクライアントの悩みを小耳に挟むうちに、めくるめく創作意欲が湧いたのかもしれない。作中の事件が決してウソっぽくなく、リアリティーに溢れていることから言っても、宮部みゆきの作家としての技巧的な能力以上に、事実から着想を得た(かもしれない)ことは有利に働いていると思われる。『理由』は、ルポライターが「荒川の一家四人殺し」の真相に迫るために、当事者やそれにまつわる親族らに取材し、事件の一部始終を記事にした、という形式を取っている。事件は雨の晩に起きる。荒川区にある高層マンションのヴァンダール千住北ニューシティ・二〇二五号室で、3人の惨殺死体とベランダから転落した1人を合わせ4人の遺体が発見された。二〇二五号室の入居者は、小糸信治とその妻、それに小学生の息子であるはずなのだが、捜査の結果、殺された4人は小糸一家ではないことが判明。小糸一家はマンションのローンが支払えず、部屋は競売にかけられており、すでに夜逃げ同然に他へ引っ越していた。では、殺された4人は一体どこの誰なのか?事件の真相を追っていくうちに、意外なことが次々と明らかになっていくのだった。私はこれまで、都会の高層マンション(億ション)と言えば、富裕層に与えられた特権的な象徴のように捉えていた。だが、世の中には身の丈以上の物へのあこがれからか、低所得者でも何十年ものローンを組んで購入しようとする人がいることを知った。さらに、その行為によって自らの首を絞めることとなり、ローン返済も頓挫し、いかがわしい不動産屋との共謀で犯罪にまで手を染めてしまう例もあるようだ。そこからは、物質至上主義がいかに虚しいものであるかが窺える。著者はこの作品を通して、大切なのは「分相応」であることなのだと言おうとしているに違いない。その一方で、低所得者に対する同情的な眼差しを向けているのも否めない。お金がないということは、ここまで人間を荒んだ生きものにしてしまうのだという警鐘にも思えるし、そんな低所得者を生み出したのは、この歪んだ社会なのだと痛罵しているようにも捉えられる。ところで、この小説のタイトルにもなっている「理由」だが、殺人を犯したその理由は一体何だったのだろう?とはいえ、読後はいかなる理由があろうとも、殺人など犯してはならないのだと痛感する。ベストセラー小説の名に相応しい一冊である。『理由』宮部みゆき・著 〔直木賞受賞作品〕☆次回(読書案内No.70)は大岡昇平の『花影』を予定しています。コチラ
2013.05.18
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【高村薫/マークスの山】ミステリー小説が好きな方は、必ず一度は手にするのが高村薫ではなかろうか。松本清張にも似て社会派で、森村誠一のようにドラマチックなところは、年齢性別問わず評価されるゆえんであろう。『マークスの山』は1993年に早川書房より単行本として刊行されたものだが、その後、文庫本化もされており、100万部を超える大ベストセラーとなった。(ウィキペディア参照) 高村薫は大阪出身で、国際基督教大学卒。言わずと知れた直木賞作家で、超の付く売れっ子女流作家である。どれもこれも売れているので代表作はほとんど全てだが、『レディ・ジョーカー』は中でも第一級の逸作だ。 『マークスの山』は映画化、テレビドラマ化されており、原作を読んでいなくても内容は知っているという方々も多いのではなかろうか。どんな感想を持つかは人それぞれだが、私個人としては『レディ・ジョーカー』の方が数段おもしろかったように思える。とは言え、警視庁警部補である合田雄一郎を主人公としたシリーズの第一作に当たるので、まずは『マークスの山』を読んで手ごたえを感じなくてはなるまい。 あらすじは次のとおり。岩田幸平は学もなく、手に職もなく、中学を出て上京すると山谷をうろついたあと、土木建設会社の作業員となった。二度目の女房に逃げられてからは、南アルプスの作業小屋に寝泊まりするようになった。酒浸りの日々で、脳の機能がおかしくなるのは当然のことで、晩秋の南アルプスの夜、小屋にやって来た登山者を熊か何かと間違え殴り殺してしまうのだった。一方、そのころ南アルプス夜叉神峠付近の路肩で、一家心中する神奈川ナンバーの乗用車が発見された。排気ガスを引き込んだ車内で男女は絶命していたが、現場から離れたところで九死に一生を得た子どもが見つかった。だが、その子ども、水沢裕之は一酸化炭素中毒のために重度の統合失調症を患うこととなる。水沢はそんな精神疾患のために入退院を繰り返した。一時は遠縁の豆腐屋夫妻の養子となり、社会生活を送っていたものの、やはり病気が病気なだけにうまくいかず、養子縁組も解消してしまう。定期的に精神に変調を来す水沢は、まともな医師や看護師のいない病院でベッドに手足を拘束され、自分の排泄物にまみれ、唸り声を発して暴れていた。とくに、山崎という看護師は最低の男で、暴れる患者を手あたりしだいに殴って歩くのだった。水沢の中のもう一人の人格である「マークス」が、そんな山崎を許すはずがなく、殺害に至る。こうして水沢は「マークス」の意思なのか、それとも本当の自分の意思なのか、絶望と葛藤を繰り返し、殺人を繰り返すようになる。 ざっくり言ってしまえば、様々な人物がそれぞれの思惑から引き起こす殺人と、その動機と証拠をかき集めて犯人を追う合田雄一郎ら刑事部捜査一課の面々、とでも説明しておこう。ウィキペディアによれば、最初に単行本として刊行されたときと、文庫本化されたあとではかなり内容に相違があるらしい。著者による加筆や修正が入ったのだと思われる。私が読了したのは初版なので、文庫本化されたあとのものと読み比べて、どこがどう変わっているのか知りたい。刑事らが、血と汗と涙を流しながら捜査を進めていくプロセスは、驚くほどの臨場感に溢れていて見事である。まるでドラマを見ているように東京のビル群がそびえ立ち、スクランブル交差点を行き交う人々が脳裏に映し出される。喧噪と騒音の最中、犯人の抱く得体の知れない闇を突き付けられる思いだ。ただ残念なのは、ディテールにこだわりすぎて間延びしてしまっていることだ。(もしかしたら、そのあたりはすでに修正されているのかもしれない。) 『マークスの山』は長編ということもあるので、GWのような長期の連休を利用し、くつろぎながら読みたい作品である。手に汗を握る本格ミステリー小説を、ぜひとも多くの方々に楽しんでもらいたいものだ。 『マークスの山』 高村薫・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2018.04.08
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「この子・・・死体の解剖が必要よ。原因を調べなくては」「言っただろ? この子は溺死だ」「疑わしいわ。開いて中を見ないと・・・」「そんな必要ない」「疑う理由があるの」「それなら教えてくれ」「・・・細菌の感染があるかも・・・」シリーズ3作目ともなると、すでにエイリアンという凶悪な宇宙生物に対しても、ある程度の免疫(?)が出来たような気がする。なので、ストーリー展開も「うん、やっぱりこうなったか」といった、予測可能な構成になっていた。とはいえ、この作品では重要な役割を担うクレメンス医師が、まさかまさかの結果に。 惑星そのものが刑務所の役割を果たす囚人だらけの流刑地にあって、リプリーと同じインテリのクレメンスは、きっと最後まで重要なポジションにいるに違いないと思い込んでいたのだが・・・残念。さらに気になったのは、エイリアンの軍事利用をもくろむ企業として“ウェイランド湯谷”という日系企業であることが前面に押し出されていることだ。もちろん、この企業名は前作にも出て来たが、今回の3作目ほど強調されてはいなかった。この演出はいかがなものかと思う。宇宙船や基地の施工主が日系企業と言うなら大いに納得するところだが、軍事利用のため生物兵器の開発を推し進めるのが日系企業だなんて。もうこの辺りからして3作目の評価は個人的にも低い。リプリー、ニュート、ヒックスを乗せた非常救命艇は、惑星フィオリーナ161に不時着した。その惑星は、染色体異常の凶悪犯罪者の収容される刑務所になっていた。睡眠カプセルの中で眠っているうちに、何らかのトラブルに巻き込まれ、ニュートもヒックスも死亡し、生き残ったのはリプリー一人だけだった。医師のクレメンスに手当てを受けたリプリーは、快復間もなくクレメンスにニュートの死体解剖を懇願する。リプリーは「コレラの危険性がある」とウソをつくのだが、実は、エイリアンの寄生を疑うのだった。この『エイリアン3』を手掛けたのは、今や飛ぶ鳥を落とす勢いのあるデヴィッド・フィンチャー監督だ。代表作に『セブン』『ソーシャル・ネットワーク』などがある。そんなフィンチャー監督も、『エイリアン3』を手掛けた時はまだ駆け出しで、多くの映画評論家たちから酷評され、興行的にも伸び悩んだようだ。ところがその後の活躍により名声を手に入れたフィンチャー監督の評価は上がり、『エイリアン3』の評価も好転した。(2005年に『エイリアン3』の未公開シーンを追加した完全版が公開されたことによる。※ウィキペディア参照)『エイリアン3』の完全版は未見だが、いずれにしてもこのシリーズは1作目と2作目が良すぎたため、3作目はキビしい世間の評価にさらされることになったのは仕方がない。可もなく不可もなくと言った作品だ。1992年公開 【監督】デヴィッド・フィンチャー 【出演】シガニー・ウィーバー ★シリーズ1作目「エイリアン」はコチラから。★シリーズ2作目「エイリアン2」はコチラから。★シリーズ4作目「エイリアン4」はコチラから。また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2012.07.29
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【宮本輝/流転の海 第一部】◆戦後の混乱期を生きる日本人の底力を見よ!井上靖の『しろばんば』が、作者本人の幼年期~少年期までを描いた自叙伝だとすると、こちらの『流転の海』は、宮本輝の父親を主人公にした物語だ。だから、ご本人はやっとハイハイが出来るようになったぐらいの赤子としての登場だ。肉親を描く時の作家の心情とはいかなるものなのか、ちょっと興味をそそられる。なにしろ一番身近な存在ほど主観的になりがちで、下手をしたら家族愛の小説(自慢話の寄せ集め)に成り下がってしまうからだ。だがそんな心配は不要だ。さすがは芥川賞作家の宮本だけあって、息子の立場から描き出している箇所はどこにも見受けられない。驚くほど客観性に富んだ作品なのだ。主人公の松坂熊吾という商人が、大阪を舞台に、敗戦の痛手からたくましく立ち直っていくプロセスを克明に描いているのだが、それがまた物凄い強烈な個性の持ち主であり、底知れぬパワーを感じさせるものだ。この熊吾は好色で、ずいぶん遊んでいるようなのだが、どうにも子宝に恵まれない。ところが4人目の妻・房江との間にやっと念願の子に恵まれる。その子が何を隠そう、宮本輝というわけだ。(作中では伸仁という名前)この時、熊吾は44歳、房江が30歳だった。愛媛県出身の熊吾が大阪に出て、それこそ血眼になって働く姿に、日本人のルーツを感じる。我武者羅に働く男の勇姿は、それこそを日本男子の美徳とする大和魂を覚えるからだ。戦前は自動車部品を中国に輸出する事業を手掛けていたこともあり、中国人とも格別の付き合いがあった。だが戦争によってその交際も絶たれ、会社のビルも空襲で焼け野原になってしまった。そんな逆境の中で、熊吾は酷く日本人を嫌う。「熊吾は日本人でありながら、日本人が嫌いだった。不思議な民族のような気がするのであった。姑息で貧弱で残虐だ。そして思想というものを持っていない。武士道だとか軍国主義などは思想ではない。哲学でもない」これはおそらく、宮本輝自身の呟きでもあるはずだ。父・熊吾の声を借りて、平然と「わしは、日本人が嫌いじゃ」と言い放つセリフに嘘は感じられない。だが作者が言いたいのは単なる自己否定などではなく、戦争体験者の生の声を正確に記録しておくべく、いかに戦争というものが残虐非道であるか、日本を占領したアメリカがどれほどの悪行をはたらいたかを、物語のあらゆる場面に散りばめているわけなのだ。そんな仕事人間の熊吾が、後半に差し掛かってくると、にわかに、一人息子を溺愛する父親として描かれている。病弱な息子がなんとか丈夫な体になって欲しいと、切に願い、思い切って会社のある大阪の一等地を売り払い、空気の良い愛媛の田舎に引き上げる決心をするくだりは、ホロリとする。父とはおそらく、こういうものなのだ。『流転の海』は、作家・宮本輝をこの世に生み出した両親について、しっかりとした輪郭と表情を持った人物像として鮮やかに浮かび上がらせている。単なる自叙伝ではない壮大なドラマに、夜の更けるのも忘れてページをめくってしまう。これほど深みのあるストーリーテラーは、宮本輝以外に存在しない。万人におすすめだ。『流転の海 第一部』宮本輝・著☆次回(読書案内No.25)は岩井志麻子の『ぼっけぇ、きょうてい』を予定しています。~読書案内~ その他■No. 1取り替え子/大江健三郎 伊丹十三の自死の真相を突き止めよ■No. 2複雑な彼/三島由紀夫 正統派、青春恋愛小説!■No. 3雁の寺/水上勉 犯人の出自が殺人の動機?!■No. 4完璧な病室/小川洋子 本物の孤独は精神世界へ到達する■No. 5青春の蹉跌/石川達三 他人は皆敵だ、人生の勝利者になるのだ■No. 6しろばんば/井上靖 一途な愛情が文豪を育てる■No. 7白河夜船/吉本ばなな 孤独な闇が人々を癒す■No. 8ミステリーの系譜/松本清張 人は気付かぬうちに誰かを傷つけている■No. 9女生徒/太宰治 新感覚でヴィヴィッドな小説■No.10或る女/有島武郎 国木田独歩の最初の妻がモデル■No.11東京奇譚集/村上春樹 どんな形であれ、あなたにもきっと不思議な体験があるはず■No.12お目出たき人/武者小路実篤 片思いが片思いでない人■No.13レディ・ジョーカー/高村薫 この社会に、本当の平等は存在するのか?■No.14山の音/川端康成 戦後日本の中流家庭を描く■No.15佐藤春夫/この三つのもの細君譲渡事件の真相が語られる■No.16角田光代/幸福な遊戯 男二人と女一人の奇妙な同居生活を描く■No.17室生犀星/杏っ子 愛娘に対する限りない情愛■No.18織田作之助/夫婦善哉 大阪を舞台にした男と女の人情話■No.19谷崎潤一郎/痴人の愛 この人物の右に出る者なし。日本の誇る最高の文士。■No.20車谷長吉/赤目四十八瀧心中未遂 生への執着は、性への執着でもあるのか■No.21松尾スズキ/クワイエットルームにようこそ 平成に新しい文学が登場■No.22川上弘美/神様 現代における女性版カフカ?!■No.23丸谷才一/鈍感な青年 男女の営みは滑稽なもの◆番外篇.1新潮日本文学アルバム/太宰 治 パンドラの匣を開け走れメロスを見る! ◆番外篇.2菊池寛、選挙に出る! 読書階級の人は菊池寛氏を選べ
2012.12.12
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【村上龍/限りなく透明に近いブルー】◆70年代の若者の、無謀で刺激的な風俗描写この作品は著者本人の半自伝的小説になっている。だから読めば読むほど村上龍という人物に対し、懐疑的になるし、敬遠したくもなる。だが読者にそう思わせたら著者の思うつぼだ。それだけどっぷり作品にのめり込ませるのに成功したからだ。読者の中には、こういう作風を気に入っておられる方もたくさんいるに違いない。無謀で刺激的な風俗描写は、官能的でもあるので。私はこの作品を青春小説の一つとして、他者と比較する上では大きな意味があると思っている。だが、好きかそうでないかは自分でもよく分からない。単に好きな小説なら同著者の『インザ・ミソスープ』の方がよっぽど好きだし。それでもあえておすすめしたいのは、昭和を舞台にした様々な青春小説がある中で、これほど渇いた若者文化の描写があっただろうか、と思ったからだ。ありがちなのは、学生同士の論争だったり、不特定多数との性交渉、望まない妊娠、身近な人物の自殺、と言ったところだ。さらに、そういう感傷的なところから生じる苦悩など、青春小説ではそれがある種の若者文化の象徴的なものとして扱われている。ところが『限りなく』はどうだ。そういう類とは全く異なるのだ。酒とくすりとセイ行為にまみれ、そこに理屈は存在しない。例えばこんな文章、あなたはどう思うか?『ボブの巨大な●●●(楽天のケンエツに通りません・汗)をケイは喉の奥までくわえ込んだ。誰のが一番でかいか比べるわ。犬のように絨毯を這い転がって一人一人くわえて回る』他にはこんな文章も。『注射器の中に●●●●(楽天のケンエツに通りません・汗)を吸い込むたびに思うよ、俺はもうだめさ。からだが腐ってるからなぁ。見ろよ、頭の肉がこんなにブヨブヨになって、もうすぐきっと死ぬよ。いつ死んでも平気さ、どうってことないよ、何も後悔なんか何もしてないしな』こういう渇いた記述が淡々と続いていくのだから、読んでいるうちにどうにかなってしまいそうだ。登場人物たちが、酒とドラッグで頭が半分イカレてしまっているのは分かる。無軌道で猥雑で投げやりな一連の行為に、一体どんな意味があるのか?だが私は大切なことを見落としていた。文学に意味を求めて何になろうか? ただあるがままを、作家の凄まじい観察能力で文章に綴った風俗史として楽しむのがベストであろう。村上龍の渇いた描写は、ノンフィクションにも似たリアリズムに溢れ、余りな乱交ぶりに嘔吐さえ催す。これは、怖いもの見たさに興味を持った方と、もともと村上龍の作風が好きな方のみに限定されるかもしれない。汚物とセイエキと汗の描写にうんざりするのを覚悟での一読をおすすめしたい。『限りなく透明に近いブルー』村上龍・著☆次回(読書案内No.63)は山田太一の『異人たちとの夏』を予定しています。コチラ
2013.04.24
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【島崎藤村/新生】◆実の姪を妊娠させて傷心の渡仏、帰国後再び関係を持つ男私もこれまで女性週刊誌のゴシップ記事やらタレントの暴露本まで、ありとあらゆる私的で低俗な小説を嬉々として読んで来た。だが、島崎藤村の『新生』を越える私小説には、まだ出合っていない。お断りしておきたいのは、島崎藤村が、『ダディ』を書いた郷ひろみや、『ふたり』を書いた唐沢寿明のようなタレントではなく、れっきとした文士であることから、いくらジャンル的には同じ私小説とはいえ文学性において当然差はある。それにしても島崎藤村の思い切った告白には、何とも言いようのない、不愉快極まりないものを感じてしまう。というのも、藤村はあろうことか、実の姪と関係を持ってしまい、妊娠までさせているのだ。その辺の経緯をつらつらと語っているのだが、どう読んでも自己弁護を超えるものではない。そこから贖罪の気持ちなど微塵も感じられないのだから、読者はますます憂鬱にさせられる。このようなタブーをあえて公にすることに、どれだけの意味があったのだろうか?とはいえ、後世の我々が、ああだこうだと野次を飛ばしながらも読まずにはいられないほどの吸引力があるのだから、充分に意味のある作品なのだが・・・。話はこうだ。作家で、男やもめの岸本は、幼い子どもたちの世話や家事を、姪の節子に頼っていた。妻はすでに病死していたのだ。最初は節子の姉・輝子と二人に面倒を見てもらっていたのだが、じきに姉の方は嫁ぐことになり、節子のみになった。岸本は、毎日顔を合わせているうちに、己の寂しさやら欲望から節子と関係を持ってしまう。その後、節子が妊娠してしまう。岸本は、実兄(節子の父)に合わせる顔がなく、フランスへの留学を決める。面と向かって真実を話すこともできず、結局、渡航中に手紙を書いて、節子のことを詫びた。数年後、ほとぼりが冷めたころ帰国。しばらくは兄の宅へ居候の身となるものの、何かと節子が不機嫌なのが気にかかる。ある時、思い余って岸本は節子に接吻を与えてしまい、再び二人のヨリは戻ってしまうのだった。『新生』は、当時の朝日新聞に掲載された連載小説なのだが、藤村の子どもらがそれらを目にして受けたショックなどを考えると、胸が痛む。まさか自分たちの母親代わりになってくれていた、従姉の“お節ちゃん”が、父親(藤村)と近親そうかんだったなんて!しかも自分たちとは母親の異なる弟までいるとは!藤村は、自分の実子らがこの先どれほどの苦悩を抱えるかなんて、さほど考えもしなかったのであろうか?貧しい一族の中で、ただ一人、作家として成功した藤村にのしかかる負担は大きかったかもしれない。経済的な面で、一族がどれだけ藤村一人を頼ったことか知れない。だが、それを慮ってみたとしても、道徳上のタブーは決して犯してはならないはずだ。 『新生』を読んだ芥川龍之介は、次のように述べている。「『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出会つたことはなかつた」様々な見解があるだろうが、やはり私も芥川に同感だ。この作品は、私小説に偏見を持たない方におすすめかもしれない。『新生』島崎藤村・著☆次回(読書案内No.76)は辺見庸の『もの食う人びと』を予定しています。コチラ
2013.06.08
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【田中慎弥/切れた鎖】◆究極の孤独の中に見出される独創性芥川賞受賞会見でのあの不敵な態度には、マスコミも一瞬ざわついた。だが次の瞬間には「おもしろいヤツが出て来たぞ」的な好奇心に変わっていた。2012年に『共喰い』で芥川賞を受賞した田中慎弥は、私より一つ年下で今年42歳。山口県出身の高卒。(工業高校卒)作品の傾向としては、自己を破壊的に表現する技法を採用しているような気がする。(あくまでも私個人の感想だが。)その点、解説に書かれていた田中慎弥についての分析が的確だと思うので、ここに引用しておく。 「通常であれば、誰もが目を背けてしまうであろう自己の奥底に秘められた“おそましきもの”に田中は向き合」っていると。 実力作家のことだけはあり、これまでの受賞歴は華々しい。新潮新人賞を皮切りに、川端康成賞、さらには三島由紀夫賞も受賞している。すごい。とはいえ、純文学としてはなかなか購買部数が伸び悩むのも否めない。曖昧で読み辛い作風は、玄人受けはするかもしれないが、一般読者にはいびつなイメージしか残らないからだ。 『切れた鎖』は、表題作の他に「不意の償い」「蛹」がおさめられた短編集である。私が一番好きなのは「蛹」で、この作品には同世代として迷わず共感できる。私たちバブル世代がその末期に味わった閉塞した環境や、漠然とした不安がそこかしこから漂っている。 「蛹」のあらすじはこうだ。一匹のカブトムシの雄が、やっと出会った雌と交尾に成功し、やがて死んでゆく。雌が死の直前に産み落とした卵からは、幼虫が生まれる。だがその幼虫がたまたま見たものは、自分を産んでくれた母親の残骸だった。幼虫はひたすら食べ、理由のわからない肥大に初めて体の重さを感じ、惨めに思った。ところがそのうち、食べる量が減り、やがて空腹も覚えなくなった。それから幼虫は、自分に力を与えられたような気がして、上を見てみると角が輝いていた。そうして初めて、幼虫はちょっと前まで自分が幼虫と呼ばれる状態であることを知った。 私はこの小説に、本物の純文学を見たような気がした。究極の孤独の中に見出される独創性を、この短いカブトムシの一生に投影させているのだ。父の不在、母の死、子の自立、現実を超えたカブトムシの社会に、本能的で生臭く、醜い交尾の後、人知れず訪れる静かな死。この物語に冷酷な表現者の視線を感じる。田中慎弥は、これからも“売れる小説”を書いてはならない。誰にも理解されることのない自己満足と孤独の中に、真のオリジナリティーを追求せよ!心から健闘を祈る。 『切れた鎖』田中慎弥・著☆次回(読書案内No.129)は古井由吉の「杳子」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.06.07
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【阿部和重/グランド・フィナーレ】◆行き過ぎた少女性愛と愛娘に対する異常なまでの執着たいてい小説というものは、読者が作中の主人公に共鳴することで成り立つ娯楽と言えるだろう。それはたとえば、主人公の持つ弱さや脆さであったり、あるいは正義感や勇気に読者自身が内包する共通のものを感じ取るという具合である。ところがその主人公に、どうやっても感情移入できなかったり、不信感や違和感を抱いてしまったら、その小説の役目はどうなってしまうのだろうか?『グランド・フィナーレ』は、そういう意味で全く共鳴できない小説だった。それなのに、なんでだろう?ものすごく気になる作品なのだ。 著者の阿部和重は、山形県出身の今年46歳。代表作に長編小説『シンセミア』などがある。経歴をたどってみると、『グランド・フィナーレ』以前に数々の小説を発表し、いくつもの文学賞を受賞している。芥川賞というものは、新人に贈られるものだと思っていたのだが、どうやらこの阿部のようにイレギュラーなことも起こり得るらしい。 それはともかく、『グランド・フィナーレ』のあらすじはこうだ。「わたし」は都内の教育映画製作会社に所属していたが、現在は無職の身である。「わたし」は妻と愛娘・ちーちゃんと3人で暮らしていたが、「わたし」の大変なしくじりのせいで、その幸せな家庭を壊すはめになってしまった。というのも、「わたし」は写真に執着し過ぎた余り、妻にポータブルストレージを没収されそうになり、妻を突き飛ばしてしまったのだ。「わたし」がそこに収めていた写真の被写体は、ちーちゃんだけではなく、10年間に撮り続けて来た大勢の子どもたちの肢体が写し出されていた。「わたし」のそんなロリコン趣味を、潔癖症の妻は許すはずもなく、離婚調停を突き付けられた。もちろん、愛娘・ちーちゃんに対しても近づかないでくれと言い渡され、「わたし」の全てを拒絶されるに至った。 主人公は沢見という37歳の男だが、「わたし」という一人称形式で物語はすすめられていく。この沢見は、少女ヌード雑誌のスチール写真撮影という、半ば自分のフェチシズムを満足させるような仕事も請け負っていた。ある時、本業である教育映画のオーディションにやって来た美江という小学5年生の少女と懇意になり、やがて肉体関係さえ結ぶのだが、そのあたりの沢見の勝手な思い込みとか、線の細い性質などがものすごく気になるのだ。(これは、私が、女性ならではの嫌悪感かもしれない。)それはおそらく、男性サイドから見た一方的な性愛であって、女児の秘められた羞恥心や恐怖心が、これっぽっちも表現されておらず、一体この主人公はどうしたいと言うのだろうと、私は歯がゆさに耐えられなかった。人には言えないような変わった性癖があることは、今さらどうすることもできない。百歩譲って、仕方ないとする。しかし、それもこれもボーダーラインというものがあって、その一線を越えてしまったらアウトというものがある。そのラインが“法”であろう。小説の中で、そのタブーは簡単に破られてしまうものだが、ちゃんとフォローがあって、読者は溜飲を下げる。ところがこの『グランド・フィナーレ』は、そういうものがない。後半に至っては、主人公のロリコン趣味における自省の念とか、行き過ぎたフェチシズムの述懐などまるで皆無で、完全に別のストーリーに切り替わっているのも気になる。 私のような本好きは、たいていの小説に長所を見つけては楽しめるものだと思うが、この小説に限っては、複雑な心境に陥ってしまった。そんなわけで、みなさんにもこの小説の一読をおすすめして、それぞれの感想をご友人などと話し合ってみてはどうかと思ったしだいである。ちょっとした話題づくりには向いている一冊かもしれない。 『グランド・フィナーレ』阿部和重・著 (芥川賞受賞作品)☆次回(読書案内No.132)は新田次郎/武田信玄~風の巻~を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.06.28
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「7年・・・7年間、君は週1回僕に会いに来てくれている」「会いに来ないと死ぬって言うから」「何で同じ夢をみるんだろう。僕たちがもう会えなくなるのは、僕の死刑が執行された時以外ありえないと思ってた。まさか、君が先に死ぬなんて・・・」ドル箱作品を生み出すハリウッド映画に押されぎみの日本映画界も、最近はすばらしい作品がめじろ押しだ。CG技術などハリウッドには到底及ばない特撮にも果敢に挑み、日本ならではの行間を重視した叙情的な作品を次々と打ち出している。本作でも、サスペンス物にはありがちな、結末の分かり易いストーリー展開を避け、視聴者を飽きさせない構成を取っている。そのため、二転三転するストーリー展開に、年甲斐もなくワクワクさせられた。主人公である宇佐木玲子役を演じたのは米倉涼子であるが、いつのまにこれほどの演技力を身につけたのであろうか。米倉涼子と言えば、もともと国民的美少女コンテストにおいて特別賞を受賞しており、その後、モデルとしてデビューをした女優さんなのだ。最近では松本清張作品に出演していて、めっきり悪女役が板についてしまったと思われたのだが・・・。そんなワンパターンを見事に払拭し、本作では格好良い警視庁の交渉人として登場する。 ある日、羽田空港近くのショッピングモールで、人質約50名を取る立てこもり事件が発生した。事件発生から12時間が経過し、交渉人である宇佐木玲子が犯人側と交渉に入るが、いきなり電話交渉が中断される。 その後、警視総監命令を受けたSAT部隊に現場は引き継がれるが、なんといきなり店が大爆発。結局、犯人である御堂啓一郎は逮捕されるのだが、事件はそれで終わらなかった。この作品の見どころは、やっぱり上空10000mでの緊迫した機内のシーンであろう。 犯人が2人と思っていたら3人、3人と思っていたら4人という具合に、実行犯が次々に浮かび上がるところなど見ものだ。さらに、黒幕が予期せぬ人物であったことなど、大どんでん返しが楽しめる。脇を固める役者陣も、津川雅彦や橋爪功など錚々たる顔ぶれで、見事な演技だった。本作はTVドラマの延長としても、単独のサスペンス物としても、多いに楽しめる作品なのだ。2010年公開【監督】松田秀和【出演】米倉涼子、筧利夫、陣内孝則また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2010.09.01
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【山の音/川端康成】◆戦後日本の中流家庭を描く川端康成という作家は稀にみるナショナリストで、こよなく日本を愛する文豪だ。ノーベル文学賞受賞作である『雪国』も、東北のひなびた温泉宿における芸者との淡い恋心を描いたものだし、『伊豆の踊子』も伊豆で出会った旅芸人の踊子に、苦悩を抱える旧制高校の男子が癒されていく話だ。この『山の音』でさえ、日本の「家」を舞台にした二世帯同居家族と、出戻りの娘に翻弄させられる父の姿があったりする。戦後、お茶の間を賑わせたホームドラマとは全く趣が違い、主人公の息子の嫁に対するほのかな恋心や、息子が浮気をしていることへの怒りなどを盛り込みながらも、老いへの恐れ、若さへの憧憬、生きることへの疲労感など、実に文学性の高い作品に仕上げられている。「家」という日本独特の家族のあり方から生じる苦悩は、おそらく西欧社会にはなかなか受け入れられにくいデリケートな問題なのではなかろうか?そんな中、川端康成は果敢に「日本」を描いていこうとする姿勢が窺える。それは孤高でさえあり、他の作家を寄せ付けない品格に溢れている。さて『山の音』だが、この小説はあまりにも有名で、様々な文芸評論家から高い評価を得ている。私自身、川端作品の中でこの小説が一番好きかもしれない。とりわけグッと来るのは、主人公が、息子の浮気に耐え忍ぶ健気な嫁に声をかけるところだ。「菊子は修一に別れたら、お茶の師匠にでもなろうかなんて、今日、友だちに会って考えたんだろう?」慈童の菊子はうなずいた。「別れても、お父さまのところにいて、お茶でもしてゆきたいと思いますわ」長年連れ添った古女房なんかより、長男の嫁の方が若いし綺麗だし、何より意地らしい。息子の浮気が原因で離婚してしまったら、そんな恋しい嫁とも別れて暮らすことになってしまうのかと思うと、内心、平常ではいられない。このあたりの心理描写は、さすが川端だ。嫁との関係はあくまでも潔癖なものだが、ほのかに漂う恋の調べが、耳もとで聴こえて来そうな気配なのだ。また、主人公の夢の中で、顔のない女を犯しかけるくだりは、一気に読ませる。本当なら嫁の菊子を愛したいのに、夢でさえ良心の呵責をごまかすため、顔のない女の乳房を触るのだから。『山の音』に関しては、皆が口を揃えて傑作と評価している。もちろん私も異論はない。 平成の世となった昨今、これほどの最高峰を登り詰める作家がどうも見当たらない。ぜひとも、何とかして、ポスト川端康成が登場してはくれまいか? 平成の川端を待ち望んでやまない、今日このごろなのだ。『山の音』川端康成・著~読書案内~ その他■No. 1取り替え子/大江健三郎 伊丹十三の自死の真相を突き止めよ■No. 2複雑な彼/三島由紀夫 正統派、青春恋愛小説!■No. 3雁の寺/水上勉 犯人の出自が殺人の動機?!■No. 4完璧な病室/小川洋子 本物の孤独は精神世界へ到達する■No. 5青春の蹉跌/石川達三 他人は皆敵だ、人生の勝利者になるのだ■No. 6しろばんば/井上靖 一途な愛情が文豪を育てる■No. 7白河夜船/吉本ばなな 孤独な闇が人々を癒す■No. 8ミステリーの系譜/松本清張 人は気付かぬうちに誰かを傷つけている■No. 9女生徒/太宰治 新感覚でヴィヴィッドな小説■No.10或る女/有島武郎 国木田独歩の最初の妻がモデル■No.11東京奇譚集/村上春樹 どんな形であれ、あなたにもきっと不思議な体験があるはず■No.12お目出たき人/武者小路実篤 片思いが片思いでない人■No.13レディ・ジョーカー/高村薫 この社会に、本当の平等は存在するのか?◆番外篇.1新潮日本文学アルバム/太宰 治 パンドラの匣を開け走れメロスを見る!
2012.11.07
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老ゆるもの子に従ひて尊けれ信濃の寺に遠く来ませり 島木赤彦賢父母に合掌(-人-)観世音菩薩は、三十三身をもって示現し、もって教化し賜ふものなり。 吟遊映人
2012.08.13
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「わしもおぬしも侍に生まれた。理由などわからぬ・・・いや要らぬ! その運命に従うまで」「おぬしが我らの仲間であらば・・・いや、せめて明石の家臣でなければどれほど事の成就がたやすいことか」「言うな! やせても枯れても、この鬼頭半兵衛は侍。むざむざ主君の首を差し出すと思うてか!? 新左、行きたければわしを殺して行け」本作は、海外での上映を意識してのことだろうか、セリフに“サムライ”という言葉が頻繁に使われている。サムライとはどうだこうだとか、自分はサムライであるからうんぬんとか・・・、とにかく四の五の言う。セリフも実にストレートだ。監督の意向なのか、それとも脚本家のポリシーなのか不明だが、言葉に奥行が感じられない。演技派が揃ったのだから、あまりセリフに頼らない方が重厚な武士道精神を垣間見せることに成功したのではなかろうか。メガホンを取ったのは三池崇史監督で、代表作に「着信アリ」や「クローズZERO」シリーズなどがある。ホラーにも定評があるが、何と言ってもバイオレンスを得意とするような作風が感じられる。江戸時代が間もなく終えんを迎えようとしている頃、一大事が発生。明石藩江戸家老・間宮図書が、老中・土井家門前で切腹して果てた。間宮の行為は、狂信的な残虐性を帯びた藩主・松平斉韶の横暴を諫めるための自害であった。当の明石藩主・松平斉韶の傍若無人と言ったらこの上もなく、その残虐さゆえ、尾張藩の木曽上松御陣屋詰の牧野の嫡男とその嫁を陵辱した上、殺害。さらには言われなき百姓の娘の両腕両足を切断し、その舌まで切り落とすという非道を犯したのであった。先行きを憂いた老中・土井は、信頼の置ける配下である御目付役・島田新左衛門に、ある密命を下したのだ。本作「十三人の刺客」で目を見張ったのは、両腕両足を切断された娘の役を演じた茂手木桜子という役者さんだ。ほんのチョイ役だが、このようなあられもない役柄を演じるのに、全身全霊を注いでいるのがひしひしと伝わって来た。素っ裸で、ヨダレを垂らし、血の涙さえ浮かべた表情は、実に見事だった。主人公・島田新左衛門に扮したのは、ベテラン俳優である役所広司だ。演技そのものに問題はなく、むしろ素晴らしい演出だったと思う。が、しかし一部気になるセリフがあった。松平斉韶の首がそれほどまでに欲しいかと問われた時、間髪入れずに「欲しい!」と答えたそのセリフ。いかがなものなのだろうか。ある意味、モダンな時代劇と言えるかもしれない。抽象さを排除し、明瞭にして分かり易いストーリー展開。“新しい”というのは、実はこういう映画のことなのかもしれない。邦画好きには必見の作品だ。2010年(日)、2011年(英)公開【監督】三池崇史【出演】役所広司、市村正親、稲垣吾郎また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.06.10
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【山本周五郎/青べか物語】◆浦粕町時代を懐かしむ「私」の回想記平成の今どきの小説は親しみやすく、身近なものに感じるが、やはり昭和の大作には作者の並々ならぬ緊迫感や切実感に溢れていて、時々はその深淵を覗いてみたくなる。大衆作家として知名度を誇る山本周五郎の作品は、どれも面白く読み易い。キャラクターにはそれぞれ存在感があり、背景には説得力がある。くさくさしてしている時に読めば、人間なんて皆、五十歩百歩であることを教えてもらえるし、ひと時のドラマに没入させてもらえる。とにかく、いついかなる時も読者を裏切らない。巧緻な文体である。生涯、次々とヒット作をたたき出した山本周五郎だが、直木賞を辞退している。代表作はありすぎて、どれも有名だが、中でも『樅ノ木は残った』が白眉だろう。『青べか物語』は、時代小説を多く手がけた山本周五郎の作品の中では珍しく現代小説である。しかも、ご本人の体験に基づいた小説のようだ。しかし、解説を読むと、私小説と捉えるべきではないとの助言もあるため、あくまでも“蒸気河岸の先生”の体験談として読む方が良いのかもしれない。とはいえ、年譜と照らし合わせても、著者の浦安時代とピッタリ重なるので、読者はどうしても著者自身の回想記と捉えてしまっても、致し方ないのではなかろうか。『青べか物語』は、浦粕町(架空の町名となっているが、おそらく浦安のこと)という猟師町が舞台となっている。「私」は町の人たちから“蒸気河岸の先生”と呼ばれ、3年あまりそこに住みつくことになる。住人は貧しいながらも、したたかで、狡猾である。無防備な「私」は、住人である老人から「いい舟だから買わないか」と騙され、“青べか”を買わされてしまうのだ。「私」は、釣舟宿の三男坊である小学三年生の「長」と仲良しで、その土地のあれやこれやを教わる。“青べか”がいかにぶっくれ舟であるかも、「私」に舟を買わせた老人が、そら耳を使う油断のならない人物であるかも教わった。一方、浦粕町の開放的な風俗にも「私」は驚かされる。というのも、この土地では「どこのかみさんが誰と寝た」などという話は、日常茶飯事のことだからだ。「浦粕では娘も女房も野放しだ」というのが、常識としてまかり通っていたのである。 『青べか物語』は、正統派の昭和の小説である。贅沢からは程遠いが、その日暮らしを楽しんでさえいる素朴な住人たちの息遣いさえ感じられる。あけすけで常識はずれでも、人肌のぬくもりを味わえるのだ。興味深いのは、最終章で〈三十年後〉の浦粕町を、著者が二人の同伴者を連れて訪れるくだりだ。懐かしさやら何やら、様々な想いが去来しつつも、著者は当時をしのび、都会化して変わり果てた浦粕町を見据える。戦後、国を復興させるためとはいえ、「日本人は自分の手で国土をぶち壊し、汚濁させ廃滅させている」のだと、著者は嘆く。失われた自然の景観を絶望的な眼差しで眺めている様子が、怒りに満ちた文体から伝わって来る。私たちは、常に進化していくテクノロジーと、情報化社会の波を流離っている。今さら昭和を懐かしむほどセンチメンタルにはならないが、少しは立ち止まってのんびりしたくもなる。そんな時、『青べか物語』は戦前の泥臭い日本の風土を、滑稽で方言たっぷりに描き出していて、その時代を知りもしないのに私にはとても心地良い。「ああ、私は日本人なんだ」と、改めて気付かされる瞬間でもある。昔、私が買った『青べか物語』の表紙は、安野光雄のイラストだったが、現在はどうなんだろうか?山本周五郎の世界観を、たかだか文庫本の表紙一つから表現する安野光雄の装画も、併せておすすめしたい一冊である。『青べか物語』山本周五郎・著☆次回(読書案内No.107)は円地文子の「女坂」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.01.04
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【わが母の記】「雨がやんだ。校庭には沢山の水たまりが出来ている。太平洋 地中海 日本海 喜望峰 遊動円木の陰。だけどぼくの一番好きなのは、地球のどこにもない小さな新しい海峡。おかあさんと渡る海峡。だけどぼくの一番好きなのは、地球のどこにもない小さな海峡。おかあさんと渡る海峡、、、」この映画を心行くまで堪能するには、やはり何と言っても井上靖の『しろばんば』を一読しておいた方が良さそうな気がする。『しろばんば』というのは、井上靖自身の幼少年時代を描いた自伝小説で、その中に登場する“おぬいばあちゃ”という存在が、映画『わが母の記』にも名前だけ度々登場する。この“おぬいばあちゃ”という存在が、井上靖にとって、あるいは井上靖の実母にとって、どのような位置関係にあり、どのような感情を注いで来た人物であるのかを読み解いておくと、『わが母の記』は一段と深みを増しておもしろく感じられる。(当ブログの【読書案内】にも『しろばんば』の感想と簡単なあらすじを寄せているので、興味のある方は参考にご覧下さい。※コチラから) 井上靖の実母が暮らした伊豆湯ヶ島は、自然美にあふれ、山の匂いと、川のせせらぎと、みなぎるお日様の陽射しの下、ゆっくりと時が刻まれている。清らかで混じりけがなく、誰かの不実の行為を詰るものではなく、淡々としていて、それなのに、押し寄せるような感情の波に視聴者は一気に呑み込まれていくに違いない。 作品のストーリーはこうだ。舞台は、静岡県伊豆湯ヶ島。作家の伊上洪作は、病床の父を見舞うため、東京から湯ヶ島の郷里へやって来た。1959年のことだ。父の病状が落ち着いているため、いったん東京の自宅へ帰ることにした洪作だが、帰り際、実母の奇妙な行動に唖然とする。東京の本宅では、家族総出で検印作業に精を出していた。その晩、湯ヶ島の実家から父の訃報が伝えられる。洪作は、妻と3人の娘をつれ帰郷。湯ヶ島で葬儀一切を済ませたものの、実家で母の面倒をみている妹の志賀子から、母のひどい物忘れや言動に手をやいているという愚痴を聞かされる。洪作は幼少年時代、自分は母から捨てられたのだという苦い記憶があるため、なかなか素直になれずにいるのだが、加齢による認知症の母を前に、少しずつ気持ちに変化が現れるのだった。 この作品の見どころは、改めて言うまでもないが、やはり何と言っても洪作の母・八重に扮した樹木希林の演技であろう。コメディ・ドラマでは度々老け役を演じて来た樹木なので、違和感はまるでなく、むしろハマリ役として圧倒的な存在感を誇っていた。2000年代に入ってからの出演作に、『東京タワー~オカンとボクと時々オトン~』があるが、この時も見事な母親役で恐れ入った。樹木希林は文学座出身で、その個性的なキャラは芸能界でも有名だ。常に偽善を憎み、見せかけの憐れみや優しさ、歯の浮くようなおべっかを軽蔑している。ウィキペディアによれば、樹木希林は熱心な法華経徒であり、希心会の信徒でもあるとのこと。年を経て、ますます演技に狂信的なリアリティーを増したように思えるのは、私だけだろうか?一方、ほんのチョイ役で三国連太郎が病床の父に扮して登場するのだが、これまたスゴイ。セリフはなく、ただ、主役の役所広司の手を握り、雰囲気で何かを感じさせるだけの役どころだが、さすがの貫録。残念ながら、三国はこれが正真正銘の遺作となってしまった。 邦画のあるべき姿が全て凝縮された『わが母の記』は、間違いなく2012年の大ヒット作品だ。 2012年公開 【監督】原田眞人 【出演】役所広司、樹木希林、宮崎あおい読書案内『しろばんば/井上靖』はコチラから
2014.05.25
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【プライドと偏見】「彼が高慢で不愉快なことは皆知っているよ。おまえが好きだというなら問題ないが・・・」「好きなの。彼を愛してます。私が間違ってたの。彼をすっかり誤解してた。パパも知らないのよ、本当の彼を・・・」元同僚の息子さん(26歳)が、今年の秋に結婚とのこと。晩婚化が進んでいる昨今では、珍しく早めだ。とはいえ、男子26歳では少しばかり早すぎはしまいかと思いきや、「男ばかり3人の息子らなので、長男が片付かないと下がつかえていけない」とのこと。そんなもんなのかと、母親としての心境を傾聴した。「やっぱり男は結婚して一人前なのよ。あなたもそのうちわかるわよ」私にも一人息子がいるせいだろう、元同僚は説得力のある口ぶりでそう言った。深い意味はないとしても、その考えが一般社会の常識と見て間違いはない。確かに、いい年したシングルの男性と接したとき、どことなく居心地の悪さというか、幼さとか不安定さを感じてしまうことがある。おそらく結婚によって、人間が成熟するということなのだろう。(無論、それだけがすべてではないけれど。) 今回はTSUTAYAで『プライドと偏見』を借りた。これはイギリスの女流作家ジェイン・オースティンの小説が原作となっている。驚くのは18世紀に女性がこれだけの作品を執筆していたということだ。(日本はまだ江戸時代。女性の地位は低く、読み書きできるのはほんの一握りという時代である。)『プライドと偏見』をラブ・ストーリーとして分類してしまうのは早計だ。ざっくり言ってしまうと、恋愛ドラマというより英国中流家庭のホームドラマである。もう少し丁寧に言えば、女性が結婚に至るまでのプロセスを冷静で客観的な視点から描いている。ストーリーはこうだ。舞台は18世紀末のイギリス、ハーフォードシャー州ロングボーン村。ベネット夫妻には5人の娘たちがいた。美人の長女ジェイン、聡明な二女エリザベス、三女のメアリー、四女のキャサリン、そして五女のリディアである。この時代、女性には一切の相続権がなく、万が一、父親が亡くなれば遠縁の男子が相続する決まりとなっていた。そんなわけで、ベネット夫人はなんとか娘たちを資産家と結婚させようと躍起になっていた。ある日、年収5千ポンドの独身男性ビングリー氏が近所に引っ越して来た。ベネット家の娘たちは、期待感と好奇心でワクワクするのだった。舞踏会の催される晩、ビングリー氏は妹のキャロラインと親友のダーシー氏をつれてやって来た。ビングリー氏はすぐにジェインの美貌に心を奪われ、ダンスを申し込む。一方、ダーシー氏はどこかとっつきにくく、プライドばかり高そうな人物に見えた。ベネット家の娘たちに対しても見下しているような素振りさえ感じられた。エリザベスはそんなダーシー氏に反感を抱き、しだいに嫌悪感を募らせていくのだった。 惚れたはれたの恋愛小説ではないので、原作の方はもっと淡々と描かれている。相手の年収がいくらだとか、どれほどの資産を所有しているかとか、うるさい小姑がいるかいないかなど、女性の婚活は現代よりもっとシビアでハードなものだったかもしれない?! 主人公エリザベスに扮したのは英国人女優のキーラ・ナイトレイだ。代表作に『つぐない』『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズなどがある。ものすごい美貌の持主なので、正直、美人の長女という設定であるジェインが二女のエリザベス役のキーラに呑まれているようにも思えた。この作品がおもしろいのは、結婚を意識する女性たちに虚飾がないからだ。さらには、この当時の中流家庭の日常を巧みに再現し表現しているところが興味深いのだ。恋に落ちるまでの男女の波瀾万丈を描いたストーリーはいくらでもあるけれど、お見合い結婚から恋愛結婚への意識改革を計ったような作品は珍しいのではなかろうか。『いつか晴れた日に』も併せて、女性のみなさんにお勧めしたいイギリス映画である。 2005年(英)、2006年(日)公開【監督】ジョー・ライト【出演】キーラ・ナイトレイ、マシュー・マクファデイン
2017.05.07
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第一回 田舎の素朴な僧侶である父は「金閣ほど美しいものはこの世にない」と私に教えた。リアルな金閣を知らない私にとっては、父の語る金閣こそが最高のものであった。 近くに適当な中学校がなかった私は親元を離れ、叔父の家に預けられた。そこから東舞鶴中学校(現・京都府立東舞鶴高校)へ通った。私は体も弱く、吃りがあり、さらにはお寺の子だと言うので毎度イジメを受けた。 近所に有為子と言う美しい娘がいた。女学校を出たばかりで舞鶴海軍病院の特志看護婦である。私は度々有為子の体を思ってそれに触れるときの指の熱さ、弾力、匂いを思った。 ある晩、その空想に耽ってろくに眠ることのできなかった私は外へ出た。そして、とある欅の木陰に身を隠す。有為子がここを自転車で通勤するのを知っていたからだ。 私は有為子の自転車の前へ走り出た。自転車は急停車をした。 言葉こそがこの場を救うただ一つの方法であるのに、私の口からは言葉が出ない。「何よ、へんな真似をして。吃りのくせに」 有為子は石を避けるように私を避けて迂回した。その晩、有為子の告口で私は叔父から酷く叱責された。私は有為子を呪い、その死を願うようになり、数ヶ月後にはこの呪いが成就した。 と言うのも有為子は憲兵に捕まったのである。海軍病院で親しくなった脱走兵と男女の間柄となり、妊娠し、病院を追い出されたのだ。 その脱走兵の隠れ家を吐かせるため、憲兵らは有為子に詰め寄った。微動だにせず押し黙っている彼女は拒否に溢れた顔をしていたが、突然変わった。有為子は鹿原の金剛院を指差したのだ。憲兵は有為をおとりに脱走兵を捕まえようとした。有為子は御堂に潜む男に何かを語りかけた。男はそれを合図に手にしていた拳銃を撃った。有為子の背中へ何発か撃ち、今度は自身のこめかみに当てて発射したのである。有為子は憲兵らの詰問に負け、男を裏切ったかに思われたが、結局は一人の男のための女に身を落としてしまったに過ぎない。 父の死後、その遺言通り私は金閣寺の徒弟になった。「金閣よ。やっとあなたのそばへ来て住むようになったよ」と私は呟いた。日に何度となく金閣を眺めにゆき、朋輩の徒弟たちから笑われるほどだった。 私は東舞鶴中学校を中退して、臨済学院中学へ転校したのだが、そこで鶴川と言う少年と出会う。鶴川の家は東京近郊の裕福な寺で、ただ徒弟の修業を味わわせるために金閣寺に預けられていた。東京の言葉を話す鶴川はすでに私を怖気づかせ、私の口は言葉を失った。ところが鶴川は初めて会ってから今まで一度も私の吃りをからかおうとしない。「なんで」と私は詰問した。私は同情より、嘲笑や侮蔑の方がずっと気に入っている。鶴川は「そんなことはちっとも気にならない」と答えた。私は驚いた。この種の優しさを知らなかったからだ。それまでの私と言えば、吃りであることを無視されたら、すなわち私と言う存在を抹殺されることだと信じ込んでいた。 終戦までの一年間は、私が金閣の美に溺れた時期である。私を焼き滅ぼす火は金閣をも焼き滅ぼすだろうと言う考えは、私を酔わせた。昭和19年11月に東京でB29の爆撃があった時、京都も空襲を受けるかと思われた。だが、待てども待てども京都の上には澄んだ空が広がるだけであった。 父の一周忌、母は父の位牌を持って上洛した。父の旧友である田山道詮和尚に、ほんの数分でも読経を上げてもらおうと考えたのだ。「ありがたいこっちゃな」 まともにお布施の用意もままならない母は、ただ和尚のお情けにすがったに過ぎない。母が言うには寺の権利は人に譲り、田畑も処分し、父の療養費の借金を完済したと。今後自身は伯父の家へ身を寄せるべくすでに話をつけてあるとのこと。 私の帰るべき寺はなくなった! 私の顔に、解放感が浮かんだ。「ええか。もうお前の寺はないのやぜ。先はもう、ここの金閣寺の住職様になるほかないのやぜ」 私は動転して母の顔を見返した。しかし怖ろしくて正視できなかった。 戦争が終わった。敗戦の衝撃、民族的悲哀などと言うものから、金閣は超絶していた。とうとう空襲に焼かれなかったのである。「金閣と私との関係は絶たれたんだ」と私は考えた。敗戦は絶望の体験に他ならなかった。私には金もなく、自由もなく、解放もなかった。せいぜい老師に巧く取り入って、いつか金閣を手に入れよう、老師を毒殺してそのあとに私が居座ってやろうといった他愛もない夢ぐらいしかなかった。 日曜の朝、私は泥酔した米兵の案内を頼まれた。私は鶴川より英語はよくできたし、不思議なことに英語となると吃らなかったからだ。米兵は女をつれていた。女は外人兵相手の娼婦で、酷く酔っていた。私は型通りに金閣を案内した。そのうち男女の間に口論が起こった。激しいやりとりだったが私には一語も聴き取れなかった。女は米兵の頬を思い切り平手打ちにした。駆け出した女に米兵はすぐに追いつくと、女の胸ぐらを掴み、突き倒した。女は雪の上に仰向けに倒れた。「踏め。踏むんだ」 米兵が英語で言った。私は何のことかすぐには理解できないでいたが、やがて命じられるがまま、春泥のような柔らかな女の腹を踏んだ。女は目を瞑って呻いていた。「もっと踏むんだ。もっとだ」 私は踏んだ。私の肉体は興奮していた。米兵は「サンキュー」と言って私にチップをくれようとしたが、私は断り、代わりにタバコを2カートン受け取った。私は命ぜられ、強いられてやったに過ぎない。もし反抗したらどんな目に遭っていたかしれないのである。その後、私はタバコ好きの老師に2カートンのチェスターフィールドを差し出した。老師はこの贈り物の意味を何も知らずに受け取った。「お前をな大谷大学へやろうと思ってる」 退がろうとする私を引き止めて老師が言った。 後でそのことを知った鶴川は、私の肩を叩いて喜んでくれた。(彼は家の費用で大谷大学へ行かしてもらうことになっている。) しかしこの進学については一波乱ある。大谷大学の予科へ入った時だ。皆の態度が常と異なるものを感じた私は、渋る鶴川に詰問した。するとこうだ。大谷大学進学の許しが出て一週間後、例の外人兵向の娼婦が寺を訪れたと言う。住職と面会した女は、私が女の腹を踏みにじったくだりを具に話し、あげく流産したとのこと。幾ばくかの金をくれなければ鹿苑寺を訴えると言ったのだと。鶴川は涙ぐんで私の手を取り、「本当に君はそんなことをやったのか?」と聞いた。私は公然とこの友に嘘をつく快楽を知った。「何もせえへんで」 鶴川の正義感は高じて私のために老師に釈明してやるとまで息巻いた。だが私はこれを止めた。老師はすでに見抜いていたかもしれない。私の自発的な懺悔を待ち、大学進学の餌を与え、それと私の懺悔を引き換えにしたのかもしれない。すべてを老師が不問に附したことは、かえって私のこの推測を裏書きしている。 こんな経緯がありながら、結局、私は大谷大学へ進んだ。鶴川には新しい友が増える一方で、吃りの私はいまだ独りだった。私以外にも皆から一人離れる厭人的な学生がいた。柏木と言う男で、両足が内飜足であった。入学当初から彼の不具が私を安心させた。私は思い切って柏木に吃り吃り話しかけた。講義で分からないところを教えてもらおうと思ったのだ。「君が俺に何故話しかけてくるか、ちゃんとわかっているんだぞ」 柏木は二の句を継げずにいる私に向かって「吃れ!吃れ!」と面白そうに言う。「君はやっと安心して吃れる相手にぶつかったんだ。そうだろう? 人間はみんなそうやって相棒を探すもんさ。それはそうと、君はまだ童貞かい?」 私は頷いた。すると柏木は不具の自分がどうやって童貞を脱却したかを話し出した。 柏木は自分の村に住む老いた寡婦に目をつけた。臨済宗の禅寺の息子である柏木は父親の代理でその老婆のところへ経をあげに行った。読経が済んで茶をご馳走になった時、折しも夏、水浴びをさせてもらいたいと頼んだ。柏木の心には企みが浮かんだのだ。水浴びを済ませて体を拭いている際、それらしいことを語り始めた。「俺が生まれた時、母の夢に仏が現じて、この子が成人した暁、この子の足を心から拝んだ女は極楽往生すると言うお告げがあった」 信心深い寡婦は数珠を手に柏木の目を見つめて聴いていたのだ。柏木は裸のまま仰向けに横たわり、目を閉じ、口だけは経を唱えていた。笑いをこらえながら。 老婆は経を唱えながら柏木の足をしきりに拝んでいる。この醜悪な礼拝の最中に、柏木は興奮し、起き上がり、老婆をいきなり突き倒した。それが柏木の童貞を破った顛末だった。私は柏木についてもっと知りたいと思った。初めて午後の講義を怠けたのである。 その後、私は柏木が言う「内飜足の男を好きになる女」と言うものを知った。世の中にはそう言う趣味のある女がいて、柏木にはそれがカンで分かるのだそうだ。実際、柏木は自分の不具を利用し、女に一芝居打って自身に惚れさせるという現場を、私は目の当たりにした。 鶴川はそんな私と柏木との付き合いを快く思っていなかった。友情に充ちた忠告をして来た鶴川を拒絶したことで、彼の目に悲しみの色が浮かんだ。 5月、柏木と私は平日に学校を休み、嵐山へ出かけた。彼は令嬢を伴い、私のためには下宿の娘を連れて来た。二人とも柏木と体の関係のある女だが。 途中、男女ペアに分かれた。もちろん私の方には「下宿の娘」がついて来た。私たちは花陰に腰をおろし、長い接吻をした。ずいぶん夢見ていたはずのものでありながら、現実感は稀薄だった。その時、私の前に金閣が現れた。金閣自らが化身して私の人生への渇望の虚しさを知らせに来たのだと思った。 そんな惨めな遊山の後、老師宛に訃報が届いた。鶴川が事故で死んだのだ。柏木と付き合うようになり疎遠になっていた私だが、失って分かるのは私と明るい世界とを繋ぐ一縷の糸が、その死によって絶たれてしまったことである。私は泣いた。そして孤独になった。私は鶴川の喪に一年近くも服していた。孤独には慣れていて努力は不要だった。生への焦燥もなく死んだ毎日は快かった。 私は金閣の傍らに咲くカキツバタを2、3本盗んだ。それは柏木から貰った尺八の礼であった。金のかかる礼はいらないが、せっかくだからと柏木が私に小さな盗みを示唆したのである。柏木はカキツバタを器用に活けた。どこで習ったのかを聞くと、「近所の生花の女師匠だ」と言う。柏木と女師匠は付き合っているのだが、自分はもう飽きたから私にくれてやると言うのだ。しかし私にはその女師匠については過去の記憶があった。3年前、鶴川と二人で南禅寺を散策していた時のことである。天授庵の一室で女と若い陸軍士官が対坐していた。女は男の前に茶を勧めた。ややあって女は乳房の片方を取り出し、男は茶碗を捧げ持った。女はその茶の中へ乳を搾ったのである。私はその女の面影に有為子を見たのだ。その女こそ柏木から捨てられる予定の女師匠なのだ。 さて、女はやって来て、柏木から「もう、あんたに教わることは何もない。もう用はない」と、こっぴどく捨てられた。女は錯乱し、柏木から平手打ちをくらい、部屋を駆け出して行った。「さぁ、追っかけて行くんだ」と子どもっぽい微笑を浮かべた柏木に押され、私は女を追った。 女の愚痴を聞いただけで大した慰めもしたわけではないが、女は帯を解いた。私の前に乳房を露わにしたのである。だがそれは私にとって肉そのものであり、一個の物質に過ぎなかった。するとそこにまた金閣が出現した。と言うよりは乳房が金閣に変貌したのである。私は女と関係することなく寺へ帰った。金閣は頼みもしないのに私を護ろうとする。何故か私を人生から隔てようとするのだった。 昭和24年正月、私は映画を見た帰りに新京極を歩いた。その雑沓の中で見知った顔に行き当たった。明らかに芸妓と分かる女と歩いていたのは、他ならぬ老師であった。私にはやましいことはなかったが、老師のおしのびの目撃者となることを避けたかった。たまたま雑沓に紛れて歩く野良犬に気付いた私は、その犬に導かれるように歩いた。 こうして私は暗い電車通りの歩道へ出た。すると目の前に一台のハイヤーが止まった。思わずその方を見ると、女に続いて乗ろうとしている男に気付いた。老師であった。老師はそこに立ちすくんだ。私は動転した。吃りのせいもあって言葉が出ない。すると私は自分でも思いがけず、老師に向かって笑いかけてしまったのである。老師は顔色を変えた。「バカ者! わしをつける気か」老師は、私が嘲笑ったのだと誤解した。 翌日、私は老師からの呼び出しを待った。だが、娼婦の腹を踏んだあの事件のときと同様に、老師の無言による拷問が始まったのだ。 その年の11月、私は突然出奔した。直接の動機は、その前日、老師から「お前をゆくゆくは後継にしようと心づもりしていたこともあったが、今ははっきりそういう気持がないことを言うて置く」と明言されたことによる。私はその時、自分の周りにあるすべてのものから暫くでも遠ざかりたいと思った。柏木に三千円の借金を申し込んだ。「何に使う金なんだ」「どこかへ、ぶらっと旅に出たいんだ」「何から逃れたいんだ」「自分のまわりのものすべてから逃げ出したい」「金閣からもか」「そうだよ。金閣からもだ」 敦賀行きは京都駅を午前6時55分に発つ。あまり混んでいない三等の客車で、私は死者たちを追憶していた。有為子、父、そして鶴川の思い出は私の中に優しさを呼びさました。 舞鶴湾。それは正しく裏日本の海。私のあらゆる不幸と暗い思想の源泉。醜さと力との源泉だった。海は荒れていた。突然、私に想念が浮かんだ。「金閣を焼かねばならぬ」 明治30年代に国宝に指定された金閣を焼けば、それは取り返しのつかない破滅である。一見、金閣は不滅と思われがちだが、実は消滅させることができるのだ。どうして人はそこに気がつかぬのだろう、と思った。 その後、三日に渡る出奔は打ち切られた。一歩も宿から出ない私を怪しみ、通報されたのである。私は警官の尋問に答え、学生証も見せ、宿料も支払った。私は私服警官に送られ、鹿苑寺まで帰ることとなった。 それから私が悩まされたのは、柏木からの再三の督促であった。利子を加えた額を提示し、私を口汚なく責め立てた。だが私は黙っていた。世界の破局を前にして借金を返す必要があるのだろうかと思ったからだ。しびれを切らした柏木は、結局、老師に告口をしたのである。 老師から呼び出された私は、「もう寺には置かれんから」と言われた。代わりに柏木には利子を差し引かれた元金のみが老師によって返済された。 柏木は郷里へ帰る前日、鶴川からの4、5通の手紙を見せてよこした。鶴川は私の知らないところで柏木と親しくしていたのだ。彼は私には一通も寄越さなかったが、柏木には書き送っていた。私と柏木との交遊を非難しながら、自分は死の直前まで密な付き合いをしていたのである。手紙を読み進むにつれて私は泣いた。鶴川は、親の許さぬ相手との不幸な世間知らずの恋に苦悩していたのだ。私は泣きながら、それに呆れてしまった。鶴川の死は事故などではなく、自殺だったのである。私は怒りに吃りながら「君は返事を書いたんだろうな」と聞いた。「死ぬなと書いた。それだけだ」 私は黙った。 柏木とのことがあって五日後、私は老師から授業料等550円を手渡された。まさかその金をくれるとは思いもしなかったのだが。 私はその金を持って北新地へ出かけた。金閣を焼こうとしていることは死の準備にも似ていた。自殺を決意した童貞の男が廓へ行くように、私も決行の前に廓へ行った。 その日が来た。昭和25年7月1日である。私は最後の別れを告げるつもりで金閣の方を眺めた。 私は火をつけた。火はこまやかに四方へ伝わった。渦巻いている煙とおびただしい火の粉が飛んでいるのを見た。事前に用意していた(ポケットの中の)カルモチンや短刀のことを忘れていて、突発的にこの火に包まれて死んでしまおうと思った。だが死場所と考えた三階の究竟頂の扉が開かない。鍵が堅固にかかっていたのだ。私は拒まれているという意識が起こった。身を翻して駆けた。左大文字山の頂まで来ていた。ここから金閣の形は見えないが、爆竹のような音が響くとともに空には金砂子を撒いたような光景が見えた。私は短刀とカルモチンの瓶を谷底めがけて投げ捨て、一服した。生きようと思った。(了)
2021.02.23
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【 村上春樹 / ノルウェイの森 】ハルキストたちを差し置いて、私のような五十代のオバちゃんが今さら『ノルウェイの森』について語るのも、おこがましい話である。なので今回は本当にざっくりとだけ、感想めいたものを語ることにする。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~私がこの小説と出合ったのは、すでに30年以上も前のことだ。あれから何度となく読み返しているけれど、ポイントとなるのは、主人公のワタナベとか、その周辺の人物たちは、ある一定の経済力のある家庭を背景にした、中流ないし上流に所属する部類であるということ。そんなこと特に関係ないと思われるかもしれないが、この経済的バックボーンを知らないと、そのオシャレな会話の意味するところも流れる音楽の雰囲気も、まるでつまらないものになってしまうからだ。度々、成り行きのように交接するシーンが出て来るが、それだって、貧乏人が他にやることがなくて、街で引っ掛けた年増の女を貪るような低俗な行為とは違う。やることは同じでも、そこにある種のドラマ(?)があるのだから驚く。でも決して愛情ゆえの繋がりではない。村上作品の中に出て来る交接のどれもに当てはまるが、ものすごく孤独めいていて、共鳴を深めたいとする男女の儀式的なものなのだ。快楽を求めるだけではない代わりに、愛とか恋とか、そういう幻想なども含まれない。経済的に不自由はなくても、満たされない精神の均衡を交接によって、かろうじて保っているという危うさ。種の継続のための生殖行為ではない交接の在り方を示すような、そういうシーンに完成されているのだ。『ノルウェイの森』を官能小説といっしょにするな! と、怒られてしまいそうだが、あえて言わせて欲しい。村上作品の交接の在り方は、思うに、〝儀式〟なのである。ここまで言っておきながらも私は村上ファンなので、たいていの作品は読了済みである。短編集『女のいない男たち』は秀逸。オススメだ。~ご案内~●本●著者「村上春樹」●著者ロゴ●著書「ノルウェイの森」タイトルロゴ『ノルウェイの森』村上春樹・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾(1~99)はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾(100~199)はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第3弾(200~ )はコチラから
2024.03.02
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「教えて下さい。聞きづらいのですが・・・あなたの娘さんは23年前に亡くなりました。でもあなたはここにいる。部屋も当時のままです。・・・どうしてなんですか? 私の家内も5ヶ月前に・・・。でも泣けません。変ですよね・・・」「刑事さんは知りたいのね、なぜ私がこうやって生きてるのか・・・。でも自分でも分からないの」この作品の冒頭では、幼児性愛の性癖を持つ二人の男が、いかがわしい8ミリフィルムを見ているシーンから始まる。もうすでにこの冒頭部からして、かなり深刻なドラマを想像させるのだから、作品としての完成度は高い。事件は、人っ子一人いない真昼の麦畑で犯行に及ぶ。静寂とした空間で、聞こえてくるのは被害者少女のバタバタともがく音、うめき声。これがまた一層残酷さを際立たせるのだ。この作品はおおむね孤独をテーマにしたものだとは思うが、犯罪の質が特殊で、いたいけな少女が犠牲者となっているプロットを考えると、視聴者を選ぶ内容になっている、と思われる。(決して過激な映像があるわけではないのだが・・・)23年前、ゾマーとティモは、赤い車に乗って田舎道をドライブしていた。その途中、自転車に乗る11歳の少女ピアを見かける。ゾマーは、麦畑の人気のないところまで自転車を追いかけると、ピアを押し倒し、暴行に及ぶ。ところが必死で抵抗するピアに思い余って、ゾマーは石で殴り殺してしまうのだった。 車内で一部始終を傍観していたティモは、恐怖に脅え、ゾマーのもとを去ることにした。 その後、ティモは結婚して姓を変え、建築デザイナーとして成功し、家庭も持っていた。 そんな悪夢も風化して久しい23年後、全く同じ場所の同じ日付で、13歳の少女ジニカが失踪する事件が起こった。事件をテレビのニュースで知ったティモは、ひどく動揺するのだった。この作品に登場する様々なキャラクターの持つ背景は、かなり興味深いと思った。まず、事件を担当するダーヴィッドという刑事だが、5ヶ月前に妻を亡くしていて少し神経を病んでいる状態だ。また、この事件を23年前に担当し、定年を迎えたクリシャンという元刑事が、被害者の母親と仲良くなり男女の間柄になる。さらに、ダーヴィッドの同僚である女性刑事ヤナは、臨月近い妊婦で、歩くだけでも難儀な状態。だがそんな身重の体で、目撃された犯人の乗る車種の割り出しのために、一軒一軒聞き込みに回るのだ。こういう登場人物が、様々な思惑と絡み合って物語が重厚さを増していく一方で、今一つの感も否めない。ドイツ映画であることを考慮してみても、可もなく不可もなくと言ったところだ。2010年(独)公開 ※日本では劇場未公開【監督】バラン・ボー・オダー【出演】ウルリク・トムセン、ヴォーダン・ヴィルケ・メーリングまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.11.13
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【万葉集/新潮古典文学アルバム】歌わずにはいられない気持ちをストレートに表現する暑い暑いと言っていたら、ここのところ急に朝夕涼しくなってきた。コオロギの声も聴くようになり、いよいよ秋らしくその気配をひしひしと感じるようになった。いにしえの人なら、さしあたり萩の花などを愛でた歌などをひねったかもしれない。たとえば次のようにだ。 『秋萩の 咲きたる野辺は さ男鹿そ 露を分けつつ 妻問ひしける』 これは万葉集からの引用だが、季節の花と鳥獣とを組み合わせている。後世の、季語を一つだけ使った俳句とはだいぶ趣きが違う。 今回は、新潮古典文学アルバムの2巻を手に取ってみた。『万葉集』である。目を引くのは、巻頭のエッセイを俵万智が手掛けているところだ。俵万智と言えば、『サラダ記念日』で一世を風靡したベストセラー歌人である。“恋多き女”とも呼ばれ、ある意味職業と私生活が上手い具合にコラボして、今の立ち位置を確立した凄腕の人物だ。現代人には取っつきにくい『万葉集』だが、この俵万智のエッセイを読むだけでもちょっとだけ短歌への興味がそそられるのだから不思議だ。 一つ勉強になったのは、 相聞歌(そうもんか)⇒「あなたのことが好きです」挽歌(ばんか) ⇒「あなたが死んで悲しい」 これを高校時代の古典の授業で、これほどシンプルに先生から教えてもらっていたら良かったのに。俵万智は「あらっぽい言い方かもしれない」と前置きしながらも、万葉歌を突き詰めた形で解説してくれる。西欧のポエムにも通じるものがあるが、もともとは心から伝えたいこと、自然を謳歌する気持ちなどをストレートに表現するところから始まったのである。ものすごく単純で、おおらかで、「見るからにそれだけのこと」でしかない歌。 私は長野の善光寺に詣でた際、門前町のお土産物屋さんでカタクリの花が刻まれた印鑑ケースを買った。カタクリの花なんて見たこともなかったので、ただただ珍しさだけで買ってしまったのである。この古典文学アルバムをめくっていると、万葉歌は植物について歌われているものも多々あり、その一つとしてカタクリの花(かたかごの花)の写真が掲載されている。見ると、可愛らしいけれど地味な花である。大伴家持が次のように歌っている。 『もののふの 八十をとめらが 汲みまがふ 寺井の上の かたかごの花』 なんだか奥行も何もない感じだが、本当にそのままストレートな歌である。単純で素朴ながらも、その光景が目に浮かぶ。私は好きだ。俵万智も、おそらく万葉集の手を加えていない素朴の持つ新鮮さとか力強さに惹かれたに違いない。その証拠に「とれたての野菜は、塩をかけただけでおいしい」と述べている。 最近の若い人はラブレターなんて書かない、だろう。ましてや好きな人に想いを込めて歌に詠むことなど、皆無に違いない。我々の先祖がどれほどの情熱を持ち、奔放な愛を歌いあげたかを知るには『万葉集』が一番かもしれない。その入門としてこの古典文学アルバムをおすすめしたいと思う。 新潮古典文学アルバム2『万葉集』 森淳司◆俵万智コチラ★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.10.16
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【枡野浩一/結婚失格】◆ある日突然、離婚を突きつけられた夫の心境を激白著者本人が「書評小説」というカテゴリを生み出し、小説でありながら実在する本の書評がくみ込まれているのは、斬新な発想だと思った。さらに内容はほとんど私小説に近く、かろうじて登場人物の職業などを変えることにより、「これはあくまでも作り事」であるかのように見せかけている。枡野浩一は、現代短歌の歌人であり、それこそが本業であるにもかかわらず、小説家としても見事な自己暴露を果たして成功している。そこには自己防衛や虚飾などは微塵も感じられず、あるがままのネガティヴ思考をきちんと肯定し受け入れているから、かえって潔く感じてしまう。この作品は正しくタイトル通り、結婚そのものに向いていなかった、あるいは不適格者扱いを受けた自身を、自虐的に、だが決して納得はしていない男性の視点で率直に語った話である。ある日突然、理由も分からず妻から離婚を突きつけられた夫の気持ち。とりあえずお互いを冷静に見つめ直すために別居してみたところ、妻への連絡は全て弁護士経由となってしまった現実に唖然。空腹なのに何も食べたくないから、みるみるうちに夫は痩せ細っていき、184cmという長身にもかかわらず、ピーク時には54kgまで体重が落ちてしまうというしまつ。妻の雇った女性弁護士は、身に覚えのない非難を書きつらねたFAXを、人の出入りの激しい夫の仕事場へ平気で送りつけて来るという無神経さ。愛する子どもたちとの面会も拒否され、夫側は事態をよく把握できないまま暗澹たる気持ちになる。結局、夫は鬱の症状が出始め、精神のバランスを崩してしまう・・・。著者がいくつか本の紹介をする中で、私も興味を持った一冊があった。それは松久淳の『ヤング晩年』というたぶんエッセイのようなものだと思うのだが、その抜粋に目を留めた。〔たとえば演劇やってる友人、というものほど困ったものはないですけど、友だちだったら我慢してお金払ってその芝居を観に行って、あぜんとするほどつまらなくても「面白かったよ」と言ってあげるものです。それを「つまんねーよ」と正直に言ってあげることが愛情だなんてことを言う人がいますけど、当人にしてみれば友だち「にまで」そんなことは言われたくないに決まってるじゃありませんか。〕これを引いて著者はハッキリと明確に、その考えは「ない」と答えている。そこには、嘘なんかつけないと自分を肯定している自己愛が見え隠れするのだ。おそらく著者は、漫画家である妻(作中では脚本家という設定になっている)に対して、おもしろいものとつまらないものを正しく伝えて来たに違いない。それが果たして正解だったかどうかは分からない。(結果、離婚にまで発展してしまったのだから、やはり嘘でも妻をおだててやるべきだったのだろう)作品そのものはおもしろかったのに、一つだけ気になることがあった。それは巻末にある解説が、徹底的に著者を非難する、驚くべき悪意に満ちたものだったことだ。本来、解説は中立な立場で作者紹介をすべきであるのに・・・。こんな解説を掲載するのをあえて了承した枡野浩一の自虐ぶりにも驚きだが、それ以上に気分の悪くなる解説(というより批判)だった。この本は、漠然と別れたがっている女性の皆さんにおすすめの一冊かもしれない。離婚したい理由を相手にちゃんと伝えられないのは、もしかしたら単なる女性のワガママかもしれないのだから。『結婚失格』枡野浩一・著☆次回(読書案内No.88)は佐伯一麦の『鉄塔家族』を予定しています。コチラ
2013.08.24
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【宮本輝/錦繍】元夫婦が年を経てお互いの生き様を認め合うプロセス私は幼いころより手紙を書くのが大好きだった。学生時代には、雑誌の文通コーナーで知り合った相手と長らく文通もしていた。今思えば内容なんてつまらないものだ。ひいきにしているミュージシャンの話とか、映画の批評とか、くだらない芸能情報などをつらつらと飽きもせず書いていたに過ぎない。あのころはパソコンもスマホもない時代なので、友だちと連絡を取る手段といえば、自宅の固定電話の他に、交換日記をしたり、手紙のやりとりをすることであり、それは決して珍しいことではなかった。大人になってからも、私は文通を続けていた。四十代も半ばになった今となっては、さすがにそれも叶わなくなってしまったが、、、 宮本輝の『錦繍』は、元夫婦だった男女が、年を経て偶然出くわし、手紙のやりとりが始まるという書簡体の体裁を取る小説である。リアルの世界ではここまで細かくはつづらないであろうと思われる内容も、手紙という形で表現されている。読んでいるうちに「これはもしや復縁する展開か?」と推理するのだが、見事にはずれた。ラストはハッピーエンドではない。宮本輝がこの小説で一体何を表現したかったのか?私は私なりに考えてみたが、いつものようにしたり顔では言えないのが残念。 話の流れは次のとおり。亜紀は、脳性麻痺の8歳の息子をつれて、蔵王に旅行に出かけたところ、元夫である靖明とばったり出くわす。それは十数年ぶりの再会で、あまりにも偶然で意外すぎて、お互いろくに会話することもなく別れる。亜紀はすでに再婚し、一児をもうけながらも、靖明のことが忘れられず、人づてに住所を聞き、長い手紙を出すことにした。二人の離婚の原因は、靖明の浮気と心中騒ぎであった。靖明は、中学2年のときから想いを寄せていた女とねんごろな関係になったところ、女はだんだん靖明に本気になっていった。一方、靖明の方は女を愛する気持ちに変わりはないが、家庭を壊す気はなく、不倫関係を続けていく気でいた。そんなある日、二人はいつもの逢引き宿で逢瀬を楽しんだあと、女が寝ている靖明に斬りつけ、女自身も自らを突き刺し、自殺するのだった。このとき女は死に、靖明は一命を取り留めた。結局、そのことが原因で亜紀と靖明は別れることになった。亜紀は、靖明への未練からなかなか立ち直れないでいたが、父の勧めもあり、大学の助教授をしている男と再婚することとなった。そしてその男との間にできたのが脳性麻痺の息子・清高であった。一方、靖明にも長らく同棲している女がいた。地味だが愛嬌があり、ろくに働かない靖明によく尽す女であった。靖明は亜紀から届く長い手紙を読んで、自分の心境を語ることにした。その返事もまた長いものとなるのだった。 作中、靖明が中学2年生のとき両親を亡くしたことで、舞鶴に住む親戚に引き取られる場面が出て来る。この舞鶴という地は、京都の北端にあり、日本海に面した町なのだが、驚くほど的を射た表現である。 「初めて東舞鶴の駅に降り立った際の、心が縮んでいくような烈しい寂寥感です。東舞鶴は、私には不思議な暗さと淋しさを持つ町に見えました。冷たい潮風の漂う、うらぶれた辺境の地に思えたのでした」 私はこの舞鶴にほんの数カ月もの間、住んでいたことがある。あのときの私の気持ちを代弁するかのような表現で、たまらなくなって泣きそうになった。三島由紀夫の『金閣寺』にも東舞鶴の場面が出て来るが、太平洋側に住む者にとって、ちょっと形容しがたい物哀しさを感じるのである。 『錦繍』を読むと、どんな辛い目にあおうとも、生きていることが重要なのだと気づかせてくれる。ある意味、死ぬことも生きることも大差ないのだとも言える。ただ、人間はつまらないことで道を踏み外すけれども、なんとかなるものだと思わせるくだりもあり、勇気づけられる。過去を振り返ってばかりでは前に進めない。今を大事にし、未来への一歩を踏み出すことの大切さを教えてくれる。・・・これは当たり障りのない大雑把な感想だが、本当はもっと違うところに意味があるのかもしれない。読者を選ぶ小説である。 『錦繍』宮本輝・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.12.17
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【吉田修一/横道世之介】◆大人の幻想を押し付けない青春小説文庫本の帯にある“青春小説の金字塔!”というキャッチコピーがやけに目を惹いた。 どれだけ優れた作品なのかと興味は持ったものの、時間を割いて読むほどのものなのか迷った。前回ご紹介した白石一文にしても初めて読んだ作家だったが、今回の吉田修一も初めてなので、海のものとも山のものとも知れない。とはいえ、『横道世之介』という作品で柴田錬三郎賞を受賞しており、さらには本屋大賞の3位にも選ばれている。これは読むしかないと、手に取ったわけだ。著者の吉田修一は法政大学経営学部卒で、もともとは純文学小説でデビューしているようだ。(『最後の息子』が芥川賞候補作となり、その後、『パーク・ライフ』で芥川賞を受賞)昨年の集英社文庫ナツイチ(夏の一冊)では、同著者の『初恋温泉』がエントリーされており、さらには『空の冒険』もエントリーされている。どうやら売れっ子作家のようで、それを知らなかった不勉強な自分が、今さらながら恥ずかしい、、、『横道世之介』は映画化もされており、昨年の2月に公開された話題作でもある。一読して思ったのは、大学進学のため上京する人、またはその親の立場である人にぜひともおすすめしたい一冊だということ。もちろん、主人公である横道世之介が大学進学のため長崎から上京したという設定なので、同じような境遇にある人が読んだ方が入り込めるのではと思ったのもある。だが、私としては、そういう息子、あるいは娘を持つ親御さんが読んでみるのも一興ではないかと思うわけだ。あらすじはこうだ。大学進学のために上京した横道世之介は、入学式の際、人懐っこくてマイペースな倉持一平と出会う。各サークルの新入生勧誘で賑わうキャンパスで、倉持がサンバサークルに入ることとなり、なりゆきで世之介も入ることになった。さらには、二人の傍に立っていた世之介のクラスメートである阿久津唯も入ることになった。その後、倉持と唯はひょんなことから付き合うこととなり、そのうち、サンバサークルには参加しなくなっていく。一方、世之介は友だちと表参道のカフェで話し込んでいると、ちょっと気の強そうな美人に一目惚れしてしまう。その美人は片瀬千春と言い、突然世之介に、男と別れるための小細工として「弟のふりをしてくれ」と頼む。結局、世之介は引き受けてしまうのだが、千春の魅力にどっぷりと浸かってしまうのだった。世之介は寝ても覚めても千春のことが忘れられず、誰かに話したくて仕方がない。たまたま教室で一人残っていた加藤に声をかけ、一緒に昼飯を食べることにした。そしてこの際だとばかりに、世之介は初対面の加藤に千春とのことをあれこれ打ち明ける。そんなことがきっかけで、無愛想だが根は悪くない加藤のクーラー付きのアパートに、世之介は入り浸ることになる。そんな折、倉持と唯は局面を迎えていた。なんと唯が妊娠し、二人とも大学を中退することになってしまったのだ。最近の小説の傾向としてよく見受けられるのは、場面があちこちに切り替わり、それはまるでドラマや映画などの手法にも似て、読者が退屈してしまうのを回避するというテクニックである。一昔前に流行したのは、主人公の回想によって話が進められていくタイプだったが、あの手法はもう時代遅れかもしれない。今や単調な場面の連続を極力避け、いくらか話が飛んでしまうのが気にはなるものの、スピード感のある場面の切り替えなのだ。そういういくつもの異なった物語が、やがて一つのドラマへと完結していくプロセスは、さながら映画でも見ているような錯覚さえする。『横道世之介』についても、楽しい大学生活の様々なエピソードが連続しているわけではなく、途中、世之介と関係のあった友人たちのその後の物語が挿入されている。それはすでに40歳となった友人たちが、日々の生活を送りながら、共に過ごした青春時代の思い出に、いつも明るく笑っている世之介を偲ぶ姿を映し出している。青春の苦悩とか、どうしようもない焦りや不安などは、意識的なのか描写せず、もっとフワリとした感覚的な世界観を描いているように思えた。この著者はいろんな意味でプロだ。読者の質とか、求めているテイストを充分に心得ているからだ。なので、この小説が評価され、売れに売れた理由が分かる。大人の幻想を押し付けることのない青春小説で、前のめりになって楽しめる一冊だった。 『横道世之介』吉田修一・著〈柴田錬三郎賞受賞作〉☆次回(読書案内No.111)は瀬尾まいこの「幸福な食卓」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.02.01
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【谷崎潤一郎/痴人の愛】◆この人物の右に出る者なし。日本の誇る最高の文士、大谷崎。友人がおもしろいことを言った。「谷崎の作品を好むのは、ある種の宗教だ」と。なるほど、さしあたり私などは谷崎教の信者だろう。谷崎潤一郎の小説は何冊か読んで、その中でも群を抜いているのが『細雪』だ。毎日出版賞も受賞している。長編であるにもかかわらず、何度も読み返してしまうほど、私にとってのお気に入りだ。だが谷崎の作品に限って言えば、『卍』『鍵』『瘋癲老人日記』のような、妖艶にして異常な性を描く世界観さえじっくり堪能することに、いささかの迷いもない。推理作家・江戸川乱歩も私と同様、谷崎教の信者(?)で、谷崎作品を愛読して止まなかったそうだ。売れっ子となった乱歩は、どうにかして谷崎との対談を実現させたいと骨を折り、やっとアポを取り付けたのであろう。そのへんの経緯が谷崎の書簡に残っているようだ。ところがこの対談は中止となる。お互いの健康上の都合によるものだが、乱歩が亡くなってまもなく谷崎も逝去している。今となっては残念で仕方がない。当時の売れっ子作家同士の顔合わせが叶わなかったのだから。さて、『痴人の愛』について。この小説に登場する毒婦・ナオミこそ、谷崎夫人の実妹・せい子をモデルにしたものだ。このせい子は、数え年15歳で谷崎と同衾している。西洋人とのハーフのような容姿に恵まれ、手足が白くてほっそりとし、大谷崎を魅了した。その代わり料理なんか作らないし、洗濯なんかもってのほか。家事一切は女中のする仕事として、ナオミ自身は谷崎に足を舐めさせたり、風呂場で自分の身体を隅々まで洗わせている。まるで谷崎を下僕のように扱っているからスゴイ女だ。終いにはナオミの鼻水まで谷崎が拭いてやっているし。ナオミが「あれが欲しい、これが欲しい」と言うに任せて、三越や白木屋(今の東急百貨店)などに連れて行き、買い物を存分にさせている。一体こんな女のどこがいいんだ?!と呆れ果てて、本を放り投げてしまう者もいるかもしれない。だがそんなことをしたら読者の負けである。逆に読んでいるうちに益々谷崎の異常なフェチに共鳴できたら勝ちというわけだ。一方この時期、谷崎夫人・千代は貞淑な妻でありながら、その生真面目さを夫から煙たがられ、邪険にされていた。酷い時は、谷崎がステッキで千代を殴りつけるなどして暴力に及んでいる。思い余った千代は、谷崎の親友・佐藤春夫に相談するのだ。こうして谷崎の身辺では、後世に残るドラマが生まれるのだ。谷崎潤一郎の小説は、どれもブルジョワ的でしみったれたところがない。倫理を重んじていないし、道徳的なことなどこれっぽっちも書かれていない。だから戦前、戦中は軍部の弾圧で、幾度となく苦汁をなめたに違いない。(新聞の連載小説の中断も、そこらへんの事情が大きい)あるいは一部の主義・主張にこだわるプロレタリア派から非難も受けた。だが大谷崎はそんなことをものともせず、我が道をゆく精神を貫いた。そんな谷崎潤一郎こそ、日本の誇る最高の文士であり、この人物の右に出る者は、今後現れることはないだろう。『痴人の愛』谷崎潤一郎・著☆次回(読書案内No.20)は車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』を予定しています。~読書案内~ その他■No. 1取り替え子/大江健三郎 伊丹十三の自死の真相を突き止めよ■No. 2複雑な彼/三島由紀夫 正統派、青春恋愛小説!■No. 3雁の寺/水上勉 犯人の出自が殺人の動機?!■No. 4完璧な病室/小川洋子 本物の孤独は精神世界へ到達する■No. 5青春の蹉跌/石川達三 他人は皆敵だ、人生の勝利者になるのだ■No. 6しろばんば/井上靖 一途な愛情が文豪を育てる■No. 7白河夜船/吉本ばなな 孤独な闇が人々を癒す■No. 8ミステリーの系譜/松本清張 人は気付かぬうちに誰かを傷つけている■No. 9女生徒/太宰治 新感覚でヴィヴィッドな小説■No.10或る女/有島武郎 国木田独歩の最初の妻がモデル■No.11東京奇譚集/村上春樹 どんな形であれ、あなたにもきっと不思議な体験があるはず■No.12お目出たき人/武者小路実篤 片思いが片思いでない人■No.13レディ・ジョーカー/高村薫 この社会に、本当の平等は存在するのか?■No.14山の音/川端康成 戦後日本の中流家庭を描く■No.15佐藤春夫/この三つのもの細君譲渡事件の真相が語られる■No.16角田光代/幸福な遊戯 男二人と女一人の奇妙な同居生活を描く■No.17室生犀星/杏っ子 愛娘に対する限りない情愛■No.18織田作之助/夫婦善哉 大阪を舞台にした男と女の人情話◆番外篇.1新潮日本文学アルバム/太宰 治 パンドラの匣を開け走れメロスを見る!
2012.11.24
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柿の実の 熟れたる汁に ぬれそぼつ指の先より 冬は来にけり谷崎潤一郎
2011.11.12
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【 笹沢左保 / 愛と孤独と 】六十代の女性が美容院などで愛読する雑誌に『素敵なあの人』がある。(五十代の私なんかもわりと読んでいるけれど)その雑誌に連載している冨士眞奈美(※敬称略)のエッセイは白眉である。(わずか1頁の記事だけど)内容としては、著名な俳人の句と冨士眞奈美本人の作った句を取り上げて、日常のあれやこれやを語るのである。女優・冨士眞奈美は作家としての一面も持ち合わせ、その才能は多岐にわたる。私の卒業した高校の先輩であり、卒業生皆の憧れの的と言っても過言ではない。ところで今回なぜ冨士眞奈美の話題を冒頭から導入したかと言えば、『愛と孤独と』に登場するヒロイン光瀬亜沙子のモデルとなった御仁だからである。つまり、『愛と孤独と』は著者である笹沢左保の私小説なのだ。だが残念なことに、巻末の解説によると「(笹沢左保がこの告白小説を)書いていること自体が苦痛になって連載を途中で打ち切ってしまった」とのこと。私としては短編小説として捉えていたため、何ら違和感は覚えなかったけれど、本来なら続きがあるのだと言われれば、素直にその先を読んでみたい気もするーー内容はこうだ。作家の「ぼく」は、六本木のバーで売れっ子女優の光瀬亜沙子と半年ぶりに再会した。亜沙子は裏表のないサッパリとした性格で、知的な女性だった。自分とは十歳ぐらいの歳の差があるが、人見知りのぼくは、不思議と亜沙子の前では自然体になれた。その場限りの付き合いである知人なら何百人といるが、亜沙子とはそうではなかった。ウマが合うーーと言ってしまえばそれだけなのかもしれないが、ぼくと亜沙子の場合、それ以上の何かがあったことは確かだ。しかし忘れてならないのは、ぼくにはすでに妻も子もいるという現実なのだ。もちろん、2人の息子はかわいい。だが妻とはギクシャクしていて家庭内別居をして久しい。さらに、ぼくには宗方悦子という存在もあった。デザイナーであり、自立した女性だが、愛人と呼んでよいものか、男女の関係を長いこと続けている。この先、亜沙子との関係がどうなっていくかは別としても、宗方悦子とは遅かれ早かれ精算しなくてはならない。そんな折、亜沙子が長期の海外旅行(取材旅行)に出発することになった。それは数ヶ月にもわたるのだ。これまでのように、ぼくらは気軽に会うことはできなくなってしまう。週刊誌の記者から、亜沙子との密会をすっぱ抜かれ、追いかけられる日々の中で、自分はただただ小説を書くことに没入するしかなかったのである。笹沢左保と言えば売れっ子作家で、時代小説・ミステリー小説が何百本もTVドラマ化されるなど、その名を知らない人はいないと思われる。代表作に『木枯し紋次郎』シリーズ、『ドライバー探偵夜明日出夫の事件簿』シリーズなど多数ある。晩年のいかりや長介が出演し、主役に扮した刑事ドラマシリーズ『取調室』も、笹沢左保の原作である。それほどの売れっ子作家ともなれば、そりゃもう女性は放っておかないだろう。浮いた話がいくつもあって当然。大人の恋愛なので、誰も文句は言えまい。それにしてもモテる。ご本人は決して自慢のつもりではないだろう。週刊誌の記者から追い回されて、辟易しているのは文章から伝わってくる。苦悩の日々を送っていることもよく分かる。そうは言っても、、、モテる男の自慢話にしか思えないのは私だけだろうか?もしかしたら笹沢左保本人も、自分を客観的に捉えたとき、そこに気付いてしまったのかもしれない。だからこそ打ち切りという形でこの私小説にピリオドを打ったのであろう、、、などと私は想像してしまう。それにしても笹沢左保の受けた打撃は相当なもののようであった。スキャンダルとしてマスコミに騒ぎ立てられたことにより、食べ物が喉を通らなくなり、不眠症に陥ってしまった。酷い精神的苦痛を強いられたことにより、仕事にも支障をきたすようになったのである。昭和という時代性もあり、芸能人に人権なんてあってないような扱いだったのは、なんとなく私にも覚えがある。とは言え、その後の笹沢左保の残した多くの作品や精力的な活動を見れば、人生のどん底も一つの過程として上手く昇華していたことが理解できる。『愛と孤独と』は笹沢左保の中ではイレギュラーなタイプではあるが、作家の素顔が垣間見られて興味深い内容となっている。日頃、偏った読書傾向のある方など、純文学の箸休めにでもいかがだろうか?『愛と孤独と』笹沢左保・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾(1~99)はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾(100~199)はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第3弾(200~ )はコチラから
2023.09.02
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「君はもう自由だ。我々の所へ戻って来い。」「(戻ったところで)何がある。友達はここで死に・・・おれの心も死んだ。」「間違った戦争だったが国を憎むな。」「憎む? (おれは)命を捧げます。」「では何が望みだ。」「彼らが・・・望んだことです。彼らはこの土地へ来て戦いに身を投じながら一つのことを願った。国への想いが報われることです。・・・おれも同じだ。」これほどまで主人公のセリフが少ないシリーズも珍しい。だがスタローンは自己分析の長けている知的な俳優なので、「ロッキー」シリーズにしろ「ランボー」シリーズにしろその作品が何をメインとしているのかをよく認識している。「ランボー」にストーリーなんかいらない。いかに強くたくましい勇者であるかをスクリーンに映し出す、それがこの作品のメインなのだから。そしてスタローンは“ランボー”という強い男のイメージを、そっくりそのまま我がものにすることに成功した。どんなに過酷な状況でも屈することなく、やがて己の足で立ち上がってリベンジする精神力。この打たれ強さ、忍耐力は、日本人の眠れる魂を揺さぶるのかもしれない。その証拠に80年代の日本では、「ランボー」が大ヒット。名実ともに“ランボー”イコール“スタローン”という図式ができ上がったのだ。服役中のランボーのもとに、ベトナム戦争時代の元上官であるトラウトマン大佐が訪れる。ランボーにしかできない極秘任務の依頼のためだった。それは、ベトナムの捕虜収容所付近に潜入し、いまだ囚われの身となっている戦争捕虜の姿を証拠写真として撮影して帰ることだった。任務を承諾したランボーは、タイの米軍基地から軍用ヘリでベトナムへ潜入。決死の覚悟で収容所に到着すると、その凄まじい劣悪な環境にがく然とする。檻の中でアメリカ兵たちはやせ細り、マラリアにかかって熱にうなされ、あるいは化膿した傷口をねずみがかじっているという驚愕の惨状だったのだ。任務はあくまで“証拠写真の撮影のみ”で、決して捕虜の救出ではなかったが、ランボーは命令を無視して囚われの身となっている全てのアメリカ兵を助け出すことを決意する。印象に残るのは、ランボーが泥に同化して目だけがギョロリと動き、次の瞬間敵を容易く倒して、たった一人でゲリラ戦を続けていくシーン。ランボー一人に対し、敵は何百、何千人体制で交戦するのだから、いかにランボーが屈強であるかお分かりであろう。そんな人間兵器“ランボー”は、肩の力を入れずに勧善懲悪のアクション映画として多いに楽しみたい作品なのだ。1985年公開【監督】ジョージ・P・コスマトス【出演】シルヴェスター・スタローンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.05.03
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「外は敵で満ちている! だがここは我らが生まれ育った土地だ。何も恐れることはない。敵の本陣まで一気に走り抜き、高虎を討つことのみ考えろ。倒れた仲間は見捨てろ。たとえそれが身内であってもだ。よいな!」「(兵士たち一斉に)おう!」本作は、アニメの「クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶ、アッパレ!戦国大合戦」を原作とし、実写化したものである。子ども向けのアニメが原作なのかと単純に決め付けないでいただきたい。もともとの「嵐を呼ぶ、アッパレ!戦国大合戦」のラストシーンなどは、黒澤監督の「乱」がモチーフになっているかと思われる大作だからだ。だとすれば、子ども向けどころか充分大人にも何らかの影響力を与える、格調高いアニメ映画と言えるだろう。そんなクレヨンしんちゃんをさらに完成度の高い実写化に成功したのだから、つまらない訳がない。現代から戦国時代へとタイムトラベルするという奇抜な発想も、ファンタジックでロマン溢れる歴史ドラマになっている。臆病で、苦手なものから目を背け、逃げてばかりいる自分にコンプレックスを抱く小学生の川上真一。真一は、ふとしたことから天正二年の戦国時代にタイムスリップしてしまう。時代は正に合戦の最中。真一は一体自分がどうしていいものか分からない。一方、真一の出現により、侍大将の井尻又兵衛は危ういところ難を逃れる。又兵衛は、着るものや言葉遣いの違う、未来から来たという真一を不思議に思いつつも、面倒をみるのだった。本作「BALLAD」で目を見張るような演技を披露してくれるのは、やはりなんと言っても草なぎ剛であろう。セリフの間の取り方、さり気ない視線の投げ方、腹に力を入れた語気の強さなど、一点の曇りもない実に見事な演技力であった。脇を固める役者陣も錚々たる人物ばかりで、アイドル草なぎ剛が一体どんな役の幅を見せてくれるのだろうかと半信半疑であったが、そんなものは不要だった。存在感と演技力が見事に融合して、物語はヒューマンドラマにまで高められているほどである。草なぎ剛の白眉たる作品なのだ。2009年公開【監督】山崎貴【出演】草なぎ剛、新垣結衣、筒井道隆また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2010.06.25
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【三浦綾子/氷点】◆汝の敵を愛することは可能か?予定しておりました村松友視の『幸田文のマッチ箱』は、こちらの都合で後日の公開とさせていただきます。予定を変更しまして、たいへん恐縮です。 久しぶりの読書案内です。どうぞお付き合い下さい。 ファッションにしろ音楽にしろ、その時代に流行する傾向みたいなものがある。どうしてそういうタイプが流行るのか、その都度、大衆にアンケートでも取ってみなければ分からないことだが、後年になって当時の流行の理由みたいなものがおぼろげながら判明したりする。 三浦綾子の『氷点』も、当時は大ベストセラーとなった作品である。昭和39年に、朝日新聞が一千万円懸賞小説の募集をしたところ、入選したのがこの『氷点』なのだ。著者の三浦綾子は北海道旭川市出身で、最終学歴は市内の女学校である。(北大医学部を休学のままに至る)代表作に『塩狩峠』『道ありき』などがある。『氷点』は一口に言ってしまうと、何やら壮大なヒューマンドラマにも思えるし、サスペンスドラマとしても捉えられる。とにかくドラマの中のドラマと言ってしまっても過言ではない。私が幼いころ、山口百恵・三浦友和のゴールデンコンビで出演していたテレビドラマなどを彷彿とさせる。(宇津井健なんかも出演していた記憶がある。)今よりもずっと娯楽の少なかったこの時代、これぐらいドキドキハラハラさせられるストーリー展開は、大衆にとってつかの間の刺激であり、渇いた心への潤いであったに違いない。時代が求めていたのは、正に、『氷点』のような作品だったのだ。 その『氷点』のあらすじはこうだ。 旭川市郊外で、辻口病院長を務める辻口啓造宅で、妻の夏枝と、辻口病院の眼科医である村井が差し向かいで座っていた。村井は夏枝が人妻であるという立場も忘れ、自分の想いを告げ、迫っていた。そこへ、夏枝の3歳になる娘・ルリ子が割って入って来た。ルリ子は遊んで欲しかったのだ。夏枝は村井の熱情をきっぱり拒もうと思えばできたのに、それができず、ルリ子に「外で遊んでいらっしゃい」と言ってしまう。夏枝はもうしばらく村井と二人きりでいたかったのだ。村井は自分の感情を抑えることができず、夏枝の唇を奪おうとしたが、夏枝がそれを拒み、結局、夏枝の頬をかすめただけに終わった。村井が出て行ってしまった後、まるで入れ替わるようにして夫の啓造が帰宅した。時計が5時半であることに気付いた夏枝は、ルリ子が遊びに行ったきり帰って来ないのが心配になった。あちこちルリ子が行きそうなところを捜してみたものの、見つからない。警察にも届けを出したが、結局見つかったのは翌日のことで、しかも川原で他殺体となって発見されたのだ。父である啓造は、愛娘を殺された悔しさから、歯をくいしばって声を押し殺して泣いた。同時に、夏枝と村井との間にあったことを疑わずにはいられなかった。自分が不在の時、ルリ子を外に出しておきながら夏枝と村井は一体何をやっていたのだろうか?啓造は疑心暗鬼に陥るのだった。 『氷点』がおもしろくなるのは、亡くなったルリ子の身代わりとして乳児院から女の子をもらい、育てるところからだ。その女の子は陽子と名付けられるのだが、なんとルリ子を殺した犯人の子であるといういわくつきなのだ。また、夏枝に迫っていた村井も肺結核を患い、サナトリウムで療養することになり、病院を去る。さらには成長した陽子がそれはそれは清純で美しく、兄妹として育ったのにもかかわらず、兄の徹が陽子を異性として愛し始めてしまうのもドラマチックだ。とにかく次から次へと絡み合う人間模様から目を離せない。 この作品からは様々なテーマが投げかけられているように思えるが、中でも印象的なのは“汝の敵を愛せよ”という聖句である。敵を愛するというのは非常に難しい。そんなことすんなりできるわけがない、キレイゴトに過ぎない、と思ってしまう。クリスチャンである三浦綾子は、そのことに対しとても謙虚な姿勢で、作品を通して向き合っている。 内容的には時代性を感じさせるものの、この長編小説を読むことで、甘美な恋愛の情緒と同時に、人間の暗さ、罪の深ささえ気づかせてくれる。生涯に一度は読んでみたい作品なのだ。 『氷点』三浦綾子・著☆次回(読書案内No.146)は内田春菊の「キオミ」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.10.26
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【遥かなる山の呼び声】「橋の下に首をつってぶら下がってる父さんを下ろして、リヤカーに乗せて、菰をかぶせて、兄さんと二人で引っ張って帰るんだけど、町の人がいっぱい見に来てな・・・おじさん悲しくて泣き出しそうになるんだけど、兄さんが小さな声で『泣くな、みっともないから泣くな』、そう言うんだ。だからおじさん必死になって我慢して、歯をくいしばって、涙こらえて歩いたんだ」「ほんとに泣かなかったの?」「ああ、泣かなかった。男が生きていくには・・・我慢しなくちゃならないことがいっぱいあるんだ」この映画の魅力の一つとして、牧場を切り盛りする母と小学生の男児の健気な姿を描いているところだ。今で言う“シングル・マザー”だが、いやもう倍賞千恵子と吉岡秀隆のコンビネーションが絶妙なのだ。まるで本物の親子だ。夫を病気で亡くし、女手一つで息子を育て上げねばという気負いや、他人様に舐められてたまるかという意地のようなものが、演技の一つ一つに感じられる。一方、小学生の息子も、北海道の大自然を背景にすくすくと育っていて、母を助けてあげたいという健気な姿勢がやんわりと伝わって来るのだ。また、注目したいのは、罪を犯して警察に追われている主人公が、母子と知り合い、少しずつ閉ざされた心を開いていくプロセスだ。人は誰しも、一生懸命暮らしている姿に、心を動かされない者はいないのだ。『遥かなる山の呼び声』のストーリーはこうだ。北海道東部にある酪農の町が舞台。風見民子は夫に先立たれ、まだ小学生の武志を育てながら牧場を切り盛りしている。ある春の嵐の晩、見知らぬ男が民子の家を訪れた。どうやら道に迷って難儀しているらしく、雨風しのぎに軒下でも貸して欲しいと言う。 民子は警戒しながらも、納屋を提供し、晩御飯を出してやるのだった。その晩遅く、牛のお産があり、男はまめまめしく手伝う。翌朝、男は礼を言って立ち去るが、夏になると再び男が現れ、働かせて欲しいと頭を下げる。民子は貧乏で、大して賃金を支払える立場ではなかったが、男手が不足しているため、思い切って雇うことにした。こうして田島耕作と名乗る男を納屋に寝泊りさせ、どうにかこうにか牧場を切り盛りしていくのだった。この作品に出演している役者さんの顔ぶれと言ったらスゴイ。チョイ役だが、渥美清とか武田鉄矢、それにムツゴロウさん(畑正憲)まで登場する。邦画の良さは、ハリウッド物にはない、滲むような味わいがある。それは、気骨のある役者の演技だったり、あからさまではない心に残るセリフだったり、ゆっくりと流れる時間だったり、いろいろだ。こういう作品をたくさん鑑賞して、改めて自分が日本人であることに感謝するのも良いし、しみじみ感慨に耽るのも良いだろう。きっと豊饒なひとときを過ごせるに違いない。1980年公開【監督】山田洋次【出演】高倉健、倍賞千恵子
2013.03.24
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「スカイ・ピープルは言ってる。“欲しいものをもらう”“邪魔をするな”と。奴らに返事をしよう。風に乗って飛び立とう。他の部族を集めるのだ。“トルーク・マクトが呼んでる”と。俺と一緒に飛び立とう! 兄弟よ! 姉妹よ! スカイ・ピープルに言おう。“勝手な真似は許さない!”“この星は俺たちのものだ!”と」本作は余りにも話題になりすぎて、内容よりも“3D”という視覚効果の言葉が一人歩きしてしまったような感がある。メガホンを取ったのは、言うまでもなく、ジェームズ・キャメロン監督であるが、この人物の凄いのは常に映画を進化させている点である。映画史上最大のヒットを記録した(後に「アバター」に記録を更新される)「タイタニック」では、大勢の人々を乗せた豪華客船が、一夜にして海の底へ沈没していくというリアルには表現しにくい大掛かりなシーンを成功させたのも、記憶に新しい。あるいは「ターミネーター2」で完成された液体金属の描写。あれは衝撃的だった。ワンカットで液体金属が自在に変化し、別人になりすますという設定なのだ。それもこれも、やはりCG技術の画期的な発展に寄るものであろう。キャメロン監督は、その時代の流れを巧みに利用し、映画製作をよりリアルで完成度の高いものへと成長させたのである。西暦2154年、衛星パンドラが舞台。パンドラは密林に覆われた未開の星で、青い皮膚と長い尻尾を持つナヴィという種族が生存していた。パンドラには稀少鉱物であるオンオブタニウムが眠っており、地球人は虎視眈々と採掘することを狙っていた。人間はパンドラの大気を呼吸することが出来ない。そこで、人間とナヴィの遺伝子の組み合わせによって作り上げられたアバターという肉体にリンクし、活動するのだった。本作を観てつくづく感じたのは、やっぱりキャメロン監督は強い女性が好きなのだということである。強い女性の代名詞とも言えるのが、「エイリアン」シリーズのリプリー役を演じたシガニー・ウィーバー。今回は科学者として登場しているが、なかなかどうして、屈強な男性の皮肉めいた言動にも怖気づかない。その他、女性陣はとにかく強い。メソメソした潮らしいシーンなど皆無に等しい。「アバター」は、その話題性からもアカデミー賞は堅いとされていたが、9部門にノミネートされるも、「ハート・ロッカー」に敗れている。奇しくも、メガホンを取ったのはキャメロン監督の元妻であった。とは言え、「アバター」のおもしろさは、超現実的な世界観と、まるで我が事のように体感できる浮遊感ではなかろうか。ゴージャスで繊細な特殊効果を駆使した逸品なのだ。2009年公開【監督】ジェームズ・キャメロン【出演】サム・ワーシントン、シガニー・ウィーバーまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2010.05.05
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「私なら母乳が出るからこの子を連れてきたのね。この子のことだけ考え、私の子がどうなったか聞きもしない。」「(・・・そうだな)確かに。(俺は)最低だった。」「いいの。悪いのは私よ。ママが言ってたとおり。“卵は石と踊ると割れてしまう。”」 とにかく深い意味なんてない。万人の楽しめる痛快娯楽映画というものがある。「SHOOT’EM UP」が、それだ。ちまちました人間関係にうんざりしている人、上司の説教に納得のいかない人、気分転換したい人などストレスを抱えている人には持って来いの作品だ。銃撃戦の連続で、死体が山のように積み重ねられていくのだが、死んだはずのエキストラの方々も中には小刻みに呼吸していたりするから、なかなかハードな動きに息が乱れたのだろうなどと同情してしまったりする。内容と言っても、手っ取り早く言わせてもらえば“赤ちゃん救出劇”みたいなものだ。 廃墟で妊婦を襲う物騒な連中。 ↓バキュン!バキュン!バキュン! ↓とっさに妊婦を助けるスミス。 ↓バキュン!バキュン!バキュン! ↓さらに物騒な連中がなだれ込む。 ↓バキュン!バキュン!バキュン! ↓妊婦、陣痛でヘロヘロ。 ↓バキュン!バキュン!バキュン! ↓スミス、敵から銃を奪って応戦しながら妊婦の出産を手伝う。 ↓バキュン!バキュン!バキュン! ↓妊婦、無事に出産するものの逃げる途中で撃たれて絶命。 ↓バキュン!バキュン!バキュン! ↓スミス、赤ちゃん抱っこして大急ぎで売春宿へ直行。 ↓バキュン!バキュン!バキュン! ↓赤ちゃんプレイ専門店なので母乳の出る娼婦に預けようとするが、一度は拒否される。 ↓バキュン!バキュン!バキュン! 以上のように、流れとしては銃撃戦の合い間はスミスが赤ちゃんを抱っこして逃走しているシーンが主である。驚いたのは、赤ちゃんに飲ませるミルクのために、赤ちゃんプレイ専門の娼婦を連れて逃走するくだり。さらに、ホテルではスミスがムラムラして娼婦と性○為に及んでいる最中、突然の敵の襲撃を受けながらもしっかりフィニッシュしているというその道のプロ技(?)を披露!最初から最後まで笑いが込み上げて止まらない作品なのだ。※あくまでアクション映画であり、コメディ映画ではないのであしからず。2008年公開【監督】マイケル・ディヴィス【出演】クライヴ・オーウェン、モニカ・ベルッチまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.11.13
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私はすでに高校生のときから花粉症と付き合っています。あのころはよく分からず、単なる鼻炎かと思って、市販の薬局で薬を買ってはどうにか乗り越えていました。それがきちんと花粉症だと分かったのは社会人になってからです。それからはお花見も控え、自然の多いところにも行くのはなるべく避けるようになりました。だからこれまで、春は心浮かれるような季節であるにもかかわらず、憂うつでしかありませんでした。ところが加齢とともに、いろんな過ごし方があるのだと気づき始めるのです。「オレは花より団子だなぁ〜」と、テレビの開花情報を見ながらつぶやく息子。「わざわざ混雑したところに行って、花見もクソもないんじゃね?」ふむ、それはそうだろう。しかし、世の中にはそういう賑やかなところが好きな人はいっぱいいて、そこで露店とかを商う人たちは、一年分の生活費を稼ぐものなのだと諭すと、やっと納得してくれました。「じゃあさ、オレも経済を回す一員として、旨いもの食いたい」咲き誇る桜を愛でる人たちが大勢いることは認める。だが自分に必要なのは、眺めるだけで完結してしまう花ではなく、己の腹を満たしてくれる美味しいスイーツなのだ、と息子は言いました。私は久しぶりにデパ地下へ行って来ました。平日にもかかわらず、あの熱気!コロナで閉塞感を味わった人々が、春の陽気に誘われて、気も緩むし財布の紐も緩みます。化粧品のコーナーではクリニークが人気で、フレッシュマンらしき女性に、メイクのコツを伝授していました。ロクシタンの店先には、ハンドクリームやらオーデコロンの匂いをクンクン嗅いでいる若い女性の後ろ姿が何とも可愛らしい。何かお好みの一品が見つかると良いのですが。年齢を重ねたご婦人に定評があるのは、やっぱり資生堂。洗練されたマダムを相手に、親子ほど年の違いそうな美容部員が、朗らかに対応していました。こう言う活気のあるフロアは本当に居心地が良いものです。買うのは食品と決めていたので、化粧品には手を出しませんが、私のような存在は、ある意味、良き〝サクラ〟になったのでは?と思われます(笑)さて、目指すは地下の食品売り場!いや〜驚きましたよ、はい。ものすごい人・人・人!!経済がきちんと回っているのだと実感するワンシーンです。今回は本当に悩みました、どこのお店で買ったら良いのかと。まずは創業明治4年の又一庵。本店は静岡県磐田市にあり、特にきんつばで有名な和菓子店です。この時期は、桜きんつばが飛ぶように売れているのです。(春季限定)他に桜餅、うぐいす餅などがショーケースに並んでいました。次に浜松文明堂。こちらも歴史は古いのですが、もともとの長崎文明堂から横浜へ本店を移し、さらに昭和に入ってから静岡県磐田市にある工場へのれん分け(?)のような形で設立されたのが、浜松文明堂とのこと。この時期イチオシなのが、いちごカステラです。正に「春めく気分のカステラ」で、色味がピンクで本当に可愛い!もちろん期間限定なので、今が買い時です。他に〝ちゃころん〟という商品もあります。これは一般的に〝鈴カステラ〟と呼ばれるお菓子ですが、一風違うのは、静岡茶が練り込まれているせいか、色がうぐいす色をしているのです。一口サイズだし、甘さ控えめとあって、これはあとを引きます。一個二個食べただけでは止まらないので困ります(笑)そして大本命は春華堂。創業明治20年の老舗で、うなぎパイが有名です。春華堂はいつ行っても大人気!!地元民から愛されている証拠です。和菓子・洋菓子どちらも好評で、何を選んでもまず間違いはないのですが、やっぱり桜の季節なので、「季節の妙」を堪能したくなるのです。悩んだ末、春華堂に決めました!購入したのは桜餅¥162(税込み)「これ、本当におもち⁈」と思うぐらい、クレープみたいな薄い皮にこし餡が包まれています。いまどきの餡は、本当に甘さが控えられていて、昔みたいな甘ったるさがまるでないのです。巻いてある桜葉も、塩味がきいていて、きちんと主役としての存在をアピールしていました。さらに私は、二色団子も購入しました。¥162(税込み)これも春めいていて、ショーケースの中で輝いていました。桜色の団子には白餡、よもぎ団子の方には粒餡が入っていました。この彩りが何とも上品で美しい。もちろん、美味しいに決まっています。これらの美味しいスイーツは、おそらく皆さんの地元にあるデパ地下や和菓子店で、様々な工夫を凝らした商品としてショーケースに並んでいることでしょう。どうか、コロナ解禁のお祝い(?)として、季節のお菓子をお求めください。そしてご堪能ください。日本人に生まれて本当に良かったと、実感せずにはいられませんから!ちなみに上記の2点の和菓子以外に、うなぎサブレチョコ(6枚入)¥810(税込み)も購入しました。※筆頭管理人より筆者はウナギのエキスを期待したようですが、その効用や如何に⁈なお、春のお菓子でご満悦の筆者ですが、筆頭管理人へはお裾分けの一つもありませんでした、嗚呼(>_<)
2023.03.18
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【 リト@葉っぱ切り絵展 】晩秋の候。少しブログの更新をサボっていたら、もうこんな季節になってしまいました。来月は年の瀬。令和6年も幕を閉じようとしています。ふだん、趣味らしい趣味のない私は、近所のショッピングモール内にあるスタバで、まったりするぐらいがつかの間の癒しですが、皆さんはどんな趣味をお持ちでしょうか?日頃、溜め込んだストレスは、どうやって発散させているのでしょうか?職場の同僚(N子さん)が一枚のチラシをくれました。どうやら切り絵展が開催されるというチラシで、N子さんは鼻息を荒くしてと力説してきました。作者はリトさんという男性で、葉っぱを切り絵にした作風が注目を集め、メディアに取り上げられたのだとか。こんな機会はめったにないので、騙されたと思って行ってみてください、とまで言われ、無料券もいただいてしまい行かないわけにもいかず、この企画展に出向いてみることにしました。少しだけ作者のことを調べてみたところ、1986年生まれでまだ私よりだいぶ若い!!葉っぱを切り絵にするという創作スタイルは、2020年からとのことなので、年数的には短いようです。特筆すべきはこの作者、「自身のADHDによる偏った集中力やこだわりを前向きに生かすため」に制作を始めたと。作品を見れば一目瞭然なのですが、とにかく緻密です。驚くほど繊細で作者の世界観が鮮やかに表現されているのです。一つの切り絵から始まるドラマ、物語が、見る者の心を鷲掴みにするというのは、なかなかありません。私が好きなのは『森のピザ職人』や『朝のきのこのスープ』ですが、森に棲む生きものたちが腕をふるってピザやスープを作るという夢のある空間が何とも言えません。どれもこれも可愛いし、ユニークで抱きしめたくなるような作品の数々でした。〝癒し〟というにはあまりにも拙い表現で恐縮ですが、つかの間のいやしと安寧をいただくことができました。葉っぱの切り絵が紡ぐ森の動物たちの世界は、渇いた心を潤すようなオアシスでした。ちなみに私は、作者ご本人がサイン会をされているリアルタイムに行くことができ、購入した作品集にサインをいただくことができました。(ちゃっかりご一緒に写メも撮ってもらいました!)緊張して何を話したのか忘れてしまいましたが、ふんわりとした笑顔で、優しそうな方でした。余談ですが、私の購入した『いつでも君のそばにいる』という作品集の帯を見て欲しい!なんとその帯は、一流コピーライターの糸井重里氏の文言が!!私、それを見てこの作品集(¥1300税別)を買ったと言っても過言ではありません(笑)小さな葉っぱは、どんなに大きくても小さな葉っぱ。そこから、いつまでも終わらない物語がはじまっていく。ーー糸井重里
2024.11.23
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【大崎善生/聖の青春】◆師匠にパンツを洗わせた棋士の怪童大崎善生の作品がおもしろいと聞いたのは、もう10年ぐらい前の話だ。だがその時は、彼の『パイロットフィッシュ』や『アジアンタムブルー』は最高だから読んでみるようにとのことだった。確かに読み易く、読後はスッキリとした味わいに文句のつけようはなかった。とはいえ、村上春樹に傾倒していた私は、大崎善生の作風は何となく村上を意識したものに感じて、二番煎じは否めないと思っていた。あれからどういうきっかけで大崎善生を再び手に取る気になったのかは忘れてしまった。だが大崎のデビュー作である『聖の青春』は一読してみたいと、常々思っていた。というのも『聖の青春』は、重いネフローゼを患い、それを生涯の持病として抱えながら棋士として生き抜いた村山聖について語られた、ノンフィクション作品との書評を目にしたからだ。 享年29歳、志半ばにしてこの世を去る無念さは、いかばかりだったか。将棋界の最高峰A級に在籍したまま、名人への夢まであと一歩のところで命の灯をけさなくてはならない辛さ。 私は将棋についてはまるで無知だが、この著書を読了したことで、プロというものがいかに命懸けであるかを知った。いや、知ったようなつもりになっただけかもしれない。それぐらい過酷で壮絶で、常人の想像を超える世界なのである。※左から村山聖・谷川浩司・羽生善治 あらすじはこうだ。昭和44年、広島にて村山聖が誕生した。上に兄と姉のいる3人目の末っ子だった。3歳のある晩、聖は高熱を出した。近所の医者に診てもらったところ、「風邪」だと誤診されたのが命取りだった。なかなか容体が改善されず、両親は思い切って広島市民病院の小児科にかかったところ、重いネフローゼであることが判明した。両親は聖に対し、罪悪感を持ち続けた。もっと早く体調の異常に気付いてやれなかったことへの罪の意識。せめて、可哀そうで気の毒な聖には好きなことをさせてやろうと、何でも欲しがるものを与え、甘やかした。聖は暴れては発熱、少し休んではまた暴れて発熱を繰り返した。常に死と隣り合わせの環境だった。そんな中、父親は6歳になった聖に、将棋盤と駒を買い与えてやった。少しでも気晴らしになればと思ったからだ。すると聖は、持ち前の集中力と好奇心でメキメキと腕をあげていった。あいかわらず入退院を繰り返す聖は、どうしようもないほどの癇癪持ちになっていた。家では狂ったように暴れ、ありったけの力でドアを叩き壊し、母の三面鏡を粉々にしてしまった。ひどいときは、野球バットで家の外壁を殴り、大きな穴を開けてしまうほどの始末だった。両親はすべてを許した。どうしようもない宿命を背負った聖が、不憫で仕方なかったからだ。そんな生活をしていても、聖は将棋に没頭し、小学生となって小学生将棋名人戦にも出場することとなった。中学生になってからは、いよいよ「プロになりたい」と言い出した。「大阪に行って、奨励会に入りそしてプロになる」目標は、名人・谷川浩司を倒すことだったのだ。 東の天才・羽生善治、西の怪童・村山聖。村山聖が生きたこの当時は、若き俊英たちが揃いに揃った時代でもあった。なにしろ将棋界の勢力地図を塗り替えてしまうほどの天才・羽生が現われたことに、ベテラン棋士たちが度胆を抜いたのだ。さすがの聖も羽生には初戦で敗けている。しかし聖は羽生に対し、尊敬の念を忘れることなく、「いつかきっと」という思いで精進する。 村山聖という類まれなる棋士の、想像を絶するような闘病と同時進行の棋士人生に、私たちは圧倒される。師匠は彼の下着まで洗い、彼をサポートした。自分は絶対に将棋界の頂点に立つと信じ、また周囲も、何とかしてコイツを名人にさせてやりたい、という情熱に漲っている。この熱い生き様に思わず胸を焦がさずにはいられない。 何か夢中になれるものが欲しいと思っているあなた、この作品を読んでもらいたい。命を懸けて夢中になるということが、どういうものなのかをまざまざと実感するに違いないからだ。 『聖の青春』大崎善生・著 (新潮学芸賞受賞作品)~ご参考まで~吟遊映人の過去記事『パイロットフィッシュ』はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2015.10.11
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