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とあるトレーニングに参加し、ソコでトレーナーから聴いた言葉それは、「人に伝える人は、学んだことを伝えるのではない。学んで実践していることを伝えなさい。そうすればおのずと伝わる。」 これは、とてもとてもとても納得。 知っているのと、たとえできていなくてもやろうとしているのとでは違う。 知っているだけの人は言葉で伝えるけれど、実践している人は態度・姿勢で伝える。
October 31, 2008
自分を知ることは、“自分を生きる”うえでとても基本的なことなのですが、それを知らずに人から見られている自分を長く生きてきました。人とは、親に始まり、周辺の人に広がり、挙句の果てには見ず知らずの人にまで広がっていきました。 見ず知らずの人がわたしをどう見ようと関係ないのですが、頭の世界では無関係ではなかったのです。見ず知らずの人がどう見てるかなんて気にしていないようで、他人というヒト括りの中には見ず知らずのヒトまで組み込んでいました。知らず知らずに。 自分を知るということを知り始めると、色々なことが見え始めてきます。そうすると、とてもとてもムダなことをしているのにも気づいていきます。 ムダなことだと知るとやめます。知らなければやりつづけますが、知ると止めます。やってらんないからです。 自分自身を知らずに頭の世界で理解したつもりのときは止めません。だけど、「そうか・・・」と仕組みがわかると止めます。勝手に止めます。なので、何か止められない事があるときは、頭の世界だけで不都合を感じているだけでしょう。 ※仕組みがわかるとは、自分を知って、その知った自分を十分に味わうことで自分にとって必要か不要か知ることを言います。 解れば、勝手に止めるのですから。 自分を知って味わえば。 ※知ることは、すべてを知ることではありません。ひとつずつ、ひとつずつ・・・。
October 31, 2008
昨日の朝の電話スタッフのご親族に不幸があり、「欠勤」の連絡だった。まだ20代の若い方が亡くなったとか。詳しい事情はわからないけれど、ご親族の哀しみは察しても余りある。「死は残されたものにのみ意味がある」と聞いたことがある。その言葉の意味を私なりに考えてみたことがある。それは、逝くものは、いくら若くとも、幼くとも、今生の人生をまっとうして逝くということなんだろう。いくら若くとも、幼くとも、何かの直前であれ、何かの直後であれ。なので、哀しい出来事ではあるけれど、決して哀しい人ではない。もう逢えない、聞けない、触れ合えないのが淋しく哀しいのだ。残されたものの思いが哀しいのだ。先に旅立った彼が悲しいのではなく、残された者が哀しいのだ。そこを一緒にしてしまうと哀しみは中々癒えない。わたしがそうだった。父を亡くした後の数年間、幾度父を思い出して涙したことだろうか。その度にわたしの心の中では、可哀想な父になっていた。志は半ばで逝った無念の人になっていた。けれど、それは私がそう思い込んだだけのこと。増して娘の私がそう言うんだから、他人さんは同意するだろうし。当然だけど、反論する意味もないし。意識していないものの、画して父は「志半ばで逝った無念の人」になってしまっていたのだ。そのことに気づくのに随分の時間を要した。可哀想なのは父ではなく、父に頼りきっていたわたしだったのだと。若きとて末をながきと思うなよ、無情の風は時を嫌わず ご冥福を心よりお祈りいたします。
October 29, 2008
所用で近くのショッピングモールに出かけた。用事を済ませてふと目に止まったのは「占」ちょっと、見てもらっちゃおっと。1件、1,000円也-。占いの先生 「まずは、何について聞きたいですか?」 わたし「特に何についてはないのですが、イイですか?」占いの先生「では全般的に見ていきましょう」わたし「よろしくお願いします」占いの先生「あー、食べ物にうるさいですねー。美味しいもの大好きでしょ。コダワルし」わたし「あー、そうです。そうですね。」占いの先生「しっかりしてるし、パワフルだし、仕事してるでしょ。いいね、いいね。」なんせ制限時間が10分。なので、彼女の言うままに聞いてるのももったいない。で、こちらから聞くことにした。何を聞いたかと言えば「わたしという人間を見てではなく、この生年月日の人を占ってくださいと言われたらどんな人物像が浮かんできますか?」と聞いてみた。 すると、一瞬顔色が変ったが、あーで、こーでと説明してくれ、最後に「当ってますか?」と聞いてきた。「どうでしょう」と言うと、私の顔色を探るような目に変った。わたしは「今までのことについては、おおむね当ってると思います」と言うとホッとした笑顔になった。 当たり前だけど、占い師さんも職業なんだと感じた。ソレらしきことをどれだけ言えるか・・・。悩みもない、聞きたいことのテーマもない、一つ一つに相槌打つでもなく、あなたもプロなら見立てて喋れといわれたらやりにくかったんだろう。 嫌なお客だったかな。
October 24, 2008
久しぶりのアイツからの電話。そう・・・アイツと呼べるのは高校時代からの同志のような彼だから。恋愛感情はただの一度も感じたことはないが、相談には乗った。いつも話はかんたんで、なにやら頼みごとらしい。「あなたが言うなら聞くよ」と内容を聞く前に返事するわたし。「わかってる。オマエならそう言ってくれると思って電話した。だけど、とりあえず話は聞いてくれよ」と笑いながらのアイツ。志半ばで逝った共通の友人の追悼式をやることになったので、それにあたって追悼集を作ることになったので、寄稿して欲しいとのコト。やっぱりね。そんなことだと思ったよ。人のために何かをやるからちょっと手伝えってことね。 50歳も少し出たばかりで逝った彼を私も忘れてはいない。優しくて、温かくて、ちょっとはにかんだ気のイイ彼の笑顔を忘れてはいない。紺のワゴンを見るとハッとすることがあるから。彼の愛用していた車だったよね。何を書こうか・・・。天国から「おいおい!」と飛んでくるような笑えるのがいいなーと思っている。
October 22, 2008
一通のメールがココロの隅っこに引っかかった。他愛もない内容なのだ。ひつかかる理由を探しても、気にするほどのことではないと笑って済むようなことなのだ。けれど、ひっかかった。 けれど、ひっかかった理由を相手に探す必要はない。そこに踏み込んでも自分を正当化するわたしがいるだけだろう。そんなトコ見たいわけじゃない。じゃ、ドコ? 引っかかったときにわたしの内側で何が起こっているのかを丁寧に、責めることなく、追い詰めることなく見ていく。すると、引っかかったのはそう言うことか・・・とわかる。 わたしは、わたしを責めないで見ることにしよう。わたしは、わたしに丁寧に接してみよう。わたしは、わたしを追い詰めないで聞いてみよう。 すると、内面のわたしが安心するのだろうか。ちゃんと答えをくれるのだ。それも相手のせいという感情的な答えではない。わたしの中にしかない、わたしだから答えられる答えなのだ。そして、それは納得感があり、誰も責めない答えなのだから素晴らしい。
October 21, 2008

娘を駅まで送った帰り道、空を見上げたら秋の臭いがたっぷりの入ってきた。 群れからはずれた途切れ途切れの雲がぷわぷわと漂って、陽射しは、もう夏は終わったのを実感させるかのようになま温かい。 春には隆盛を誇る桜の木も、今は秋の風情で他の庭木に混じって静かにたたずんでいた。季節は知らず知らずのうちに移り変わっていくのだと感じる。一軒おいて隣の○○ちゃんが可愛い盛りのボクちゃんと玄関先で遊んでる。私が通りかかって笑顔で挨拶してくれると、その脇のボクちゃんも同じように笑顔で挨拶してくれる。 ○○ちゃんは小学校の頃にうちの娘とよく喧嘩していた子。娘もたいがいに気が強くて、お互いに譲らず。ただ、親の欲目で○○ちゃんは気の強さだけが印象に残るような愛想のない子に見えていた。その彼女も3児の母となり、自然にこぼれる爽やかな笑顔で挨拶してくれる。「いいママしてるじゃないー」と思わず声をかけたあとで、通り過ぎる風を見送りながら思っていたのは、たかだか10歳そこらで受けた印象を今の今まで引きずっているわたしの感覚が可笑しいわって。考えてみれば、喧嘩した相手の母親に愛想良くなんてしないわな。その人がそうしているにはそうしている理由があるってことを再度思い出すことになった。勝手な思い込みは自分を狭くする。そのようにしか見えないから。 秋風が心地よいのも、私の心次第かもしれない。
October 18, 2008
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秋になると食べたくなるもののひとつに栗ご飯がある。 炊き立てのご飯の中から、一つつまみ出してホクホクの栗をはふはふ言いながら頬張るのが好き。 私が炊いたのだから、つまみ食いしても誰にとがめられることはないのだけれど、キョロキョロと辺りを見回してからササッと炊飯器の蓋を開けて一つまみするのはちょっとドキドキして楽しい。 栗ごはん、乾燥したくちなしの実で少し黄色く色づけて、塩味で炊き上げるのが好み。 そして苦労する栗ムキはこちらを愛用中♪ とっても簡単にムケます。そろそろ食べたくなってきたな~~
October 17, 2008
わたしは、時々思い立って自分の身体のチェックをする。何をするのかと言うと、どこが疲れているか、どこが強張っているか、どこが弱っているか、などなどと見ていくと、思わぬことにも気づく。知らぬ間に青あざが出来てたり、気づかない間に擦り傷があったり肩こりかと思っていたけれど、腕だったり、腰痛だと思っていたら、腹筋の方がヘロヘロだったり・・症状が出ているところに意識が行くもので、ついついソコが患部だと思ってしまう。だけど、ソコが痛むには、ソコが痛む理由があるのだ。水面下の忍耐があり、耐え切れなくなったところで症状となって現われる。症状となって出てくるまでに、どこかに些細な原因があり、そこに負荷がかかり、その負荷にソコが耐えられなくなると別のところで支えるなんてことがよくあるから。自分のからだを探っていくと、本当に興味深いものだと気づく。わたしは刻々と代わる私の体のことをどれだけわかっているのだろうか?体感できる身体でさえこんな有様なのだから、心や思考となると・・もぉ。。湧き起こっている表面的な見えやすい部分に翻弄されてしまっているのかもしれないと思った。いま湧き起こる感情はどこから来たのか?何を起源として湧き起こったのか?いま考えていることは、何から誘発されたのか?湧き起こる感情や、思考に対応すべく知恵も工夫も寄せ集めるけれど、いわゆる対処すること(前に進めること)はするけれど、それが現われた源を探ることはあまりしていない。いや、自分の中のことなのに、そんなことすら意識していないことに気づく。出てきたもの、見えるところに囚われやすいものだと思った。そうなっているのには、そうなっている理由(わけ)があるのだ。その理由(わけ)を知ることで、自分の思い込みや信じ込みを解放することにもなる。思い込んでいることも信じ込んでいることは疑うことすら思いつかないことが多いのだから。
October 15, 2008
■日時 11月2日 (日) ・10:30~ ・13:30~ ・15:30~ ・17:30~■場所 アトリエチャーム 横浜・元町中華街駅下車徒歩5分■セッションメニュー ボッダー式 マニュアル・リンパ・ドレナージュ(MLD)■セラピスト Kotaroありのままをそのままに受け入れるセラピーが身上。からだの状態はそのまま心の状態とも言えます。硬い身体にやわらかく想像性豊な心が住めるかどうか・・・それが答えではないでしょうか。からだを治すのではなく、元々のところに戻すだけでこわばりも過緊張も解きほぐされます。そして、リンパドレナージュの触れるか触れないかのソフトタッチが、からだ中の余分な力みも気負いもすべて解放してくれるのを体感できるでしょう。※ MLD(マニュアル・リンパドレナージュ)とはフランスで1930年代にエミール・ヴォッダー博士によって開発された、身体機能や美容効果を高める、特殊な手技療法です。正式名は、「DR.Vodder Manuelle Lymph Drainage」ヴォッダー式マニュアル・リンパ・ドレナージュMLD(マニュアル・リンパドレナージュ)は筋肉やツボにアプローチする手技とはまったく異なり、直接皮下にあるリンパ管にアプローチすることにより、リンパの働きを高めからだの中の老廃物を排出させ、新陳代謝をよくすることを目的としたセラピーです。血行促進ではなく、リンパの流れだけを促進させる手技であり、MLD独特のテクニックが大変重要です。基本的には、オイル、パウダーは使用しません。ところで、夕方になると足がむくんだりしませんか?足がむくみやすいのは女性特有?コレ、どうも本当らしいです。デスクに向かっての作業、パソコン三昧、また反対にずっと立ち続ける仕事だったり、脚の適度な動きが不足して静脈やリンパ管の動きが悪くなり、むくみが生じている可能性が高いのです。女性がむくみやすい要因としては、1.低血圧があります。低血圧だと心臓からの血液を押し出す力が弱く、心臓へ送り返されるはずの血液が滞ってしまいむくんでしまうことが多い。2.脚の筋肉が鍛えられていないので体液を押し上げる力も弱い。3.適度な運動が不足して静脈やリンパ管への刺激が少ないためによる機能低下。足がむくんでいるということは、皮膚組織内に水分や老廃物が停滞していてリンパ管や血管にうまく流れ込んでいかず、蓄積されているということですから。もちろん、お肌にも大敵です。そして、話題の『detox』デトックス知らず知らずのうちに体にためこんでしまったモノを解毒・排出することで、からだに備わっている力を取り戻すことはとても重要です。単に美肌やむくみ対策の意味だけではなく、からだの機能を正常に戻し、健康なからだを取り戻すこと、それが『デトックス』です。その意味でも、リンパ管の弁膜にやさしく触れるようなタッチで皮膚をマッサージし、心と身体をリラックスさせた状態で本来のリンパの流れを取り戻していきます。自分の身体に意識をむけ、健康なからだ、健康なこころで美しく☆
October 7, 2008
日曜日の朝ゆっくりと目覚めて朝ごはん。日曜の朝は遅めの朝食にする。トーストと半熟のゆで卵、きゅうり、トマト、チーズ、キャベツの千切り、カリカリベーコン、ゆでたてウィンナーをサックリと合えたパンサラダそれとミルクを少し少なめにしたカフェオーレ。これ我が家の定番。そして、お昼ご飯頂き物の丹波栗。むきやすいように昨夜から水につけておいたのを取り出してさてさて栗ご飯にしましょうか。栗をむくのには、毎年苦労していたけれど、昨年教えてもらって買った専用の栗むきバサミがあるから便利~。それから・・・夏に大活躍してくれたそうめんもあと数束残っていた。食べてしまいたいところなので、鯛のアラを買ってきたので、お出汁をとって鯛にゅうめん。夫の好物の筑前煮も作りましょう。(ココがミソ)お休みの日は半日は台所に立つ。夫と子どもたちの胃袋を満たすために。美味しいものがあるとしあわせな顔をしている。その顔を見るのが好きだから、セッセと作れるのだろう。そして、何よりみんなの顔が優しさに溢れているのだ。湯気の向こうに笑顔が見えると表現したらいいのだったっけ?そんな感じ。誰言うとなしに片付けは、わたし以外の誰かがし始める。別の誰かがコーヒーの準備を始める。うぅ~ん、いいタイミングね。祖母は言った。「美味しいもん作って、にっこり笑ろてたら、男はんはな、せえだい働いて、よそ見もせぇへんもんやし」と。偉大なるかな祖母の知恵。
October 5, 2008
わたしとても弱いものなのだと思う。そして、とても強くもなれるのだとも思う。一人でいるわたしはとても弱くなることがある。何もなくてもそうなることがある。人恋しくて、淋しくて、ひとりでいることがもの哀しくてうすら怖くて誰か~と声に出して叫びたくなることがある。かと言ってそれが延々と続くわけではないのだけれど、何もないからそうなるとも言える。そして、何かわたしがしなければならないことが起こるとわたしは俄然元気になり、強くパワフルになる。誰もいなくてもバリバリやるし、ひとりでもちゃっちゃか動くし、何でもほいほいこなすし、無理もゴリ押しで押し込むくらいの勢いがある。それもそんな状態が延々続く訳でもない。そんな状態が延々と続くなんてのも恐ろしいものだけど。そんなことを繰り返しているのに気づくと、ふと、わたしは自分のために元気をわかせることが出来ていないのかと思う。わたしのために強くあることが出来ていないのかと思う。何かの出来事に寄りかかることでしかそうあることが出来ないのだろうか?そんなことをつらつらと考えていたら、どこからともなく金木犀の匂いがしてきた。風に乗って香ってきたのだ。ひと息ついて思ったことはそれが私なのかもしれないということ。
October 4, 2008
最近のお気に入りの歌がある。気に入りすぎて、携帯の着うたにまでしてしまったほどなのだ。それは、ご存知ユーミンの作詞作曲で、Bread & Butterが歌った30年も前の曲になるが、いまだに新鮮に心に響いてくるのだから不思議。そして、つい最近舞台にもなったとも聞く。今の時代だからこそ、“そらさないでおくれ その瞳を 人は自分を 生きてゆくのだから”“幸せ形に こだわらずに 人は自分を 生きてゆくのだから”のフレーズが響いてくるのだろうか?http://jp.youtube.com/watch?v=FUOslvA6uTs “あの頃のまま”(作詞・作曲 呉田 軽穂、編曲 川村 栄二)6時のタ-ミナルで 振り向いた君は 板に付いた 紺色のス-ツ今でも気まぐれに 街をゆくぼくは 変わらないよ ああ あの頃のままさ去りゆく若い時間を ひとり止めているようで羨ましいやつだよと 初めて笑ってくれたFor yourself For yourselfそらさないでおくれ その瞳を 人は自分を 生きてゆくのだから ネクタイ少しゆるめ 寂しげな君が 馴染みの店に 腰すえる夜は陽焼けした両足を 投げ出してぼくも ”Simon and Garfunke”ああ 久し振りに聴く人生のひとふしまだ 卒業したくないぼくとたあいない夢なんか とっくに切り捨てた君For myself For myself幸せ形に こだわらずに 人は自分を 生きてゆくのだからFor myself For myself
October 2, 2008
病院の待ち時間に娘と入った喫茶店。この間も来たから今日は二度目。娘は遅めのお昼をいただきながら、わたしは白玉アイスをいただきながら“人間観察論”そんな自由な時間を楽しんでいたら、その店の主の小粋な女性から声をかけられた。「お嬢さんおいくつですか?」「20歳です」「とてもいい関係の親子さんだなーとこの間からみてました。」「そうですか。ありがとうございます。」「お二人の関係がイイですね。親子と言うよりも 人と人としてお互いに尊重しあっているというか、 認め合ってる関係がとても素敵で羨ましいなぁ…と思って。」 そんな会話だった。最近、異口同音そんな言葉を知らない人からかけられることが多い。知らない人から見てもそう見えるならうれしいこと。何故なら、そのように関係性を作ってきたから。それぞれを認めて、それぞれの想いを聞こうと意識してきた。もし、もしわたしが子育てについて語れることがあるとするならば我が子も私自身も一般論や代名詞に当てはめなかったこと。普通こうだからみたいな一般論で図ることや、子どもはこうあるべき、小学生は、中学生は、男は、女は…と当てはめたところで、誰も責任を取ってくれないし、そこに実体はないから。それは彼が幼い頃から心がけてきたと言える。ひとりひとり違うのだから。今もそれは変わらない。だから認め合えるんだと思う。わたしは私の考えや希望を彼らに押し付けないから、彼らは自分の道を自分で選ばざるを得ない。そこには自由と責任が同時に存在している。それを応援するのみだと思っている。
October 1, 2008
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