政治っぽい話(憲法九条とか) 0
『~へ向かう記憶』 0
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ひっさびさにアニメのブリーチを見てみれば、またオリジナルですよね?しかし、なんと、絵がめちゃくちゃきれいじゃないっすか!動きもきれいし、展開もなかなか。ちょっと見てみようかな・・・。
August 6, 2009
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ファースト終了段階では、武力による戦争根絶という、核抑止力等々につながるテーマをあえて選んだことに、懐疑と期待を抱いていた。セカンドも開始直後は特になにもなかったが、中盤以降の展開で、もしかすると面白い結末を見せてくれるかも、と、期待を膨らませていました。結果的にはもしかしなかったんですけどね^^;ひとつは、沙慈・クロスロードくんがソレスタル・ビーングに巻き込まれ、大砲だかビーム砲だかとにかく武器を前にして結局撃てなかったというシーンがあった。僕はソレスタル・ビーングの矛盾、というか刹那の葛藤の反面をあらわすキャラとしての沙慈くんに期待した。次に、ソーマ・ピーリス、改めマリー・パーファシーがもう攻撃に参加しないと宣言したこと。これもソーマとあわせて葛藤を具現化したキャラとして、期待してしまった。でもってマリナ・イスマイールの歌ですよ。GNドライブの共感作用によって、戦場の片隅で子供達と一緒に作ったこの歌がじわじわと世界に広がっていく。マリナのヒロイン的立ち位置からも、この歌が最後のキーを握るものと思いっきり期待してしまった。僕としてはGNドライブの共感作用が、結果的にソレスタル・ビーングの存在意義を否定していく展開を望んだ。ヴェーダの限界や、一人の科学者の発想の限界を超えて、そういう誰にでも出来る単純な「共感」が戦場を覆いつくしてやんわりと人類全体にささやかだけど重要な変革をもたらす・・・・というようなストーリーを望んだんだけどなぁぁぁぁぁ。なんだ最後はリボンズが悪者になって、それで何が変わったのかわからないまま、なにもメッセージのないまま、終わっちまいやがった!なんか、どうもラストに近づいていく中で話を難しくしてはならないという圧力でもかかったのだろうか?よくわからないけど、複線の引き方というか、セカンドの中盤の各キャラは実に繊細に注意深く画かれていたように思うのだが・・・ちょうどアニュが裏切るあたりからグダグダになっていくんだが、広げすぎてまとめ切れなくなったのだろうか・・・どうもグラハム・エーカーとビリー・カタギリがいろいろ邪魔だったような気もする。こいつら後半ストーリー展開の邪魔しかしてないよね。アリー・アル・サーシェスも最後は中途半端だったなぁ。生かしすぎだよね。ルイス・ハレヴィもね、ありゃなんのオマージュだ?^^;なにもかも中途半端だ。マリナはなんで宇宙に行ったんだ?なんだろう?とにかく、がっかりだ。鋼の映画とおなじくらいがっかりだ。マリナの歌には期待したんだけどなぁ。最後の戦いのクライマックスであの歌が聴こえてくるシーンを妄想してたのに。戦場のみんなが「わかりあえる」というのんを・・・
March 31, 2009
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杉田さんすげー。って、こいつめっちゃ年下じゃねーか。杉田君すげー。先週・・・先々週か、の大塚さんといい、なんか今回、声優さんすごかね。戦闘シーンの「痛い感」もいいですな。このシリーズ、ところどころアレなところ(人?)もあるけど、全体としてはええなぁ。でも、これって、最後のでっかい花火なのか?
February 13, 2009
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今週、つーか吉原編、いいんじゃないっすか!やれば出来るじゃないかぁ。やれば出来る子だって思ってたんだよ。
January 16, 2009
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もはやストーリーなんてどうでもいい!(笑すげぇっす。見ていて気持ちいい。動きが気持ちいい。表情がいい。表現もきれい。色もきれい。捨てシーン無し。今週は完璧だ。アニメって奥が深いなぁ。
November 22, 2008
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今週はまぁまぁよかったかな。うん。
November 7, 2008
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なんか、神楽がかわいくないぞ。もうダメなのか・・・
October 24, 2008
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コミックを買わねばならないのか・・・?でもなー、「哀れなアクマに魂の救済を…」と言うのは話の中心じゃないのかなぁ。アニメのラストで、アクマの進化の意味がどうのといってたが、悲しみの連鎖とかっていう面白げなプロットが薄れていってしまうのなら、コミックで追いかけてもなんだかなーと言うことになってしまうのかなぁ。完結してから考えようかなぁ。強い敵が出てきて一見話のスケールが大きくなっているようだけど、強さがあまりに前面に出ちゃうと深みがなくなってしまう。アクマ一人一人の悲しみをクローズアップしてこそ出ていた深みが・・・あの巨大合体アクマが出てきたあたりから、アクマの哀れさが薄れてしまったような気がする。うーん。コミック読みたいような、読みたくないような・・・。^^;
October 3, 2008
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書きたいことが山ほどあるが・・・真剣に突っ込みを入れるべきなのか、それはアニメですからと流した方がいいのか・・・何か書こうと思っても、すぐ皮肉になってしまう^^;。そうそう。アニメですから。所詮。ああいう状況になったときに、どういう行動に出るかなぁ、みたいな物語なんですよ。お話ですよ。童話ですよ。昼ドラですよ。それにしては、部品に使われたパーツ・・・ギアスとか帝国とかフレイアとか・・・必要以上に意味がありそうに思えるが、結局はカミナが見せてくれた希望とはくらべるべくもないしなぁ。ただ、ああいう中世的なものであれ現代的なものであれ、どういうメカニズムであっても戦争とその結果については変わりはない、ということはあってるのかな。それで核の傘の下での平和を皮肉っているのなら、あのラストはそれを忘れる人々を皮肉っているのか?(笑もっと長く書こうと思ったけどやめとこ。民主主義って、もっともっと確かな力なんだと思うんだけどなぁ。そこを書いてほしいなぁ。
September 29, 2008
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えっと。。。たぶん30話前後だったと思うけど、アレンがはじめてアクマを壊すとき、師匠のクロス元帥がいった言葉が耳に残った。性格じゃないかもしれないけど、「悲しみの連鎖をとめて来い」とかなんとか。悲しみの連鎖?まず、連想されたのが、自爆テロ。憎しみの連鎖というやつ。それと、似ているのだろうか?この言葉は、「人を殺す武器」アクマにされた魂の悲しみを、人を殺すことでしか表現できないアクマによって殺された人の遺族の悲しみが、また新たなアクマを生み出す土壌になっていく、ということを連鎖だといっている。テロに限らずですが、悲しみから憎しみがうまれ、復讐を行う、ということはよく言われます。でもアクマは、憎しみをすっぽり飛ばして、そして復讐ではなく根源的な欲求としての殺人行為を行う。現在の民族紛争的な残酷な戦いは、憎しみの連鎖と言うよりも、この悲しみの連鎖と言う言葉のほうがぴったり来る気がする。アレンがクロウリーをエクソシストに誘った時の、アクマだった彼女を壊したことを正当化するために、アクマを壊すことを仕事とするエクソシストになればいいという言葉も、似ていると思う。アクマが象徴している「悲しみ」とは一体なんだろう?そうやって抽出して対象化したマンガは他に見たことが無いように思う。ある意味ポジティブなんですよね。先が楽しみだなぁ・・・・・・って、またナルトやブリーチのように、着想部分で勝手に期待をふくらませたら・・・いや、ナルトはまだ希望があるさ。だいじょうぶだよ。ちょっと強さのインフレがジンバブエみたいになってるけど、インフレを乗る越えていけば・・・。
July 29, 2008
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D.Gray-man、おもろいな。どうしても鋼とくらべちゃう。ナルトとブリーチはもう見るの止めちゃった。どうでもいいや。ブリーチはともかく、ナルトは期待した展開から離れていってしまった。残念。ナルトはサスケが里を抜ける時の闘でサスケを止めて、そしてサスケとナルトが一緒に兄を追い、また九尾の妖狐とたたかう、という展開にでもしないとダメだったんだろうな。なんか、ナルトとサスケの行動が個人的なものなのに、まるでかれらが世界の中心にいるかのように展開するのはつまらないというか、細部の設定がリアルになればなるほど、そこが浮いてしまう。サスケはもっともっと大蛇丸に深く影響されるはずだし、ナルトは里においてもっともっと警戒されるはず。大人が無力すぎる。というか、子供の心と離れすぎている。というか、子供の世界観から見た大人でしかない。最初はそうではなかったと思うのだけど、結局、ドラゴンボール化してしまったということか・・・。といいつつ、コミックは買いつづけるつもりだけど^^;
July 24, 2008
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久々の更新。なーんとなく見始めたら、止まらなくなってしまった。アニメ版のONE PIECE。おもしろいなー。もともとONE PIECEのアニメ版には原作にないオリジナルストーリーがかなりちりばめられている。だいたいが本編に影響なく完結するエピソードとなっている。どれもまぁまぁおもしろんだけど、やっぱり登場人物の価値観ってのは原作者じゃないと維持出来ないのかなぁ?この空島編でとても気になる追加シーンがあった。178話。ちょうどガン・フォールとピエール、アイサ、ナミが大蛇のノラに飲みこまれた、お腹の中のシーン。ルフィと出会って、ルフィがようやく蛇に食べられてたと言うことに気づくお笑いシーンがあったその次。原作だと一緒に口から脱出しようとするシーンに移るんだけど、アニメ版にはガン・フォールがアイサに謝るシーンが追加されている。この話を知らない人のためにストーリを書いちゃいます。空島の話は民族対立をベースに敷いたストーリーになっています。空島は空に浮かぶ特殊な雲の上に浮かぶ、これまた特殊な雲で出来た島です。そこに400年前、海底火山の大爆発によって、地上の島がまるまる半分、そこに住んでいた人々ともども吹き飛ばされてきた。地面そのものが貴重である雲の上の人々は、これを神の贈りものとして先住民から奪い取り、かれらを追い出した。以後400年、両者は対立し続けている。ところが数年前、雷の能力を持つエネルがやってきて、神(=支配者の称号)の座を奪って、この大地を聖域化してしまった。しかし彼はこの大地を一緒に打ち上げられて来た遺跡に眠る黄金が目的で、自分の目的を完遂すると、空島を地上に落とそうとする。エネルの登場によって、はじめて共通の危機に直面した原住民と空島の人々は、ルフィーの活躍で危機が去った後、共に祝いあう。そして過去を清算していくこととになる。ルフィさんありがとう、みたいな話です。で、気になった追加シーン。アイサ(シャンディア=大地の原住民の子孫の女の子)がガン・フォール(エネルが来る前の神)を殺そうとするのをナミとルフィが止めるというところ。原作でもちょっとだけある。一こまだけ。アイサがガンフォールに武器を向けるのを、ナミが止めなさいと言うだけ。アニメ版ではごっさりとシーンが追加されていて、まず、アイサが今までの歴史からガン・フォールは許せないと、ガン・フォールが落とした槍を拾って突きつけ、殺すという。それに対してガン・フォールは、歴史的に自分達に非があることを認めながらも、もはや自分が死んで解決できない問題になっていると言いつつ、アイサに頭を下げて謝罪する。だがアイサは感情的に、悪い奴らと平和に一緒に暮らせないと否定すると、ナミが「悪いのは他の民族と共存することを拒む心よ」と諭す。それでも収まらないアイサはガン・フォールに襲い掛かる。その槍をルフィが止めて「謝ってんだからよ、命とるまでもねぇだろ」と言う。ようやくアイサが諦める、と言う感じです。何でこれを追加したんだろう?もちろん、原作に追いつきそうで時間が余ったから、ってだけだろう。それはそうなんだけど、実は原作では、ルフィたちはこの国の問題に一切口出ししてないんですよね。エネルを倒したのも仲間を守るためであったりモンブラン・クリケットのために鐘を鳴らすためだったりする。確かにごもっともなセリフなんですけど、ナミにしてもルフィにしても、どうも似合わない。ルフィも基本的に他人の喧嘩には口出ししない。ウソップならそういうかもしれないけど、ナミも自分の経験以上のことは言わない。今は喧嘩している場合じゃない、とはいっても、それ以上は言わないだろう。きっと有無を言わさず強引に収めるんだろうな。それと、個人的には、民族問題はだいたい利権問題だと思う。利権の対立から心の問題が生じるのであって、その逆じゃない。だから悪いのは心の問題じゃなくって、解決するための共通のルールが無いことだ。
July 3, 2008
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とても結論を急ぎたい。アニメ「神霊狩」を理解するために、ルイス・キャロルの「スナーク狩り」を読まなきゃと思ったのは、神霊狩にでてきたスナークが太郎に言った事が、いつまでも錘のように記憶に残ってしまったからだ。この世の中の出来事は、個人の頭の中での出来事なのだということを、否定できない部分があるということ。つまり、実際の物事はどこでどう起ころうとも、それを認識するということは、この頭の中・・・仮にその境界線がただ肉体にとどまらないにしても・・・で完結しうるということが、どうにも受け入れがたく、かつ、否定しがたかった。スナーク狩りはいわゆる、ナンセンス(意味の無い)文学と言うやつだとの事。ところが、アリスにしても、とにかく多くの人をひきつけてやまない。いかにも西洋的な物事の分解の仕方で分解された出来事が、ルイス・キャロルのセンスで再び組み立てられた、だまし絵のような物語。要は、意味の無い話。何がどうなってどうなった、なんていう脈絡のある話ではない。それが神霊狩にも言えるのだとすると、神霊狩も物語全体としては脈絡のある話ではないということでいいのだろう。スナークはブージャムだったかどうかなんてどうでもいい。だって神霊狩ではスナーク自身が消えてしまうのだから。(※「スナーク狩り」では、もしスナークがブージャムだったら、それに出会ったものは消えてしまう。スナーク狩りは実にリスキーな冒険なのだ。)とはいえ、だからといって神霊狩が全く意味の無い話なのかといえば、けしてそうではない。それはスナーク狩りにも言えること。そのパーツパーツは、時に深く、時にさらっと、時にしっとり、時にからっと、さまざまな意味を持っている。でもそれぞれに確かな連関があるかといえば、そうではない。太郎が都を助けたことと、人工生命が神霊となってあふれ出たことは、因果関係などはない。それぞれが独立した物語だ。だけど、そのほかの出来事と同じように、まったくの無関係と言うわけではない。関係はし合っている。影響しあっている。そこに因果関係を求めること、世の中は一気に頭の中の閉鎖空間にちじまってしまうんじゃなかろうか。世の中の物事を因果関係でつなげすぎると、あたかも一つの物語のようにしてしまうということは、頭の中で理解できる範囲に世界をせばめてしまうことに他ならないのだと思う。神霊狩の制作陣が、リアリティを求めたからこそ、スナーク狩りすなわちナンセンスな物語と言う帰結に至ったのだと思う。そう、この世の中は、全体としてはナンセンスなんですよ。きっと。人生は脈絡の無い小さな物語の連続で、全体としてはまったくのナンセンスなんですよ。人生に意味など無い。だけど、日常の出来事には意味がある!人生が輝きをもつということは、日常が輝きをもつということだ。オレはつい、人生は終わりよければすべて良しだと思っていた。でもそれは違った。人生の帰結もまた、多くの人生の出来事の一つに過ぎず、それは生まれて死ぬまでのストーリノー帰結としては、ナンセンスなんです。壮絶な死に方をしても、不慮の死を遂げても、生きてきた経過点のそれぞれにおいて別個の価値を見出すことが出来るだろうし、因果として人生を捉えることによって、それらを置き去りにしてしまうことも出来る。べつに、どちらかがいいというわけでもないかもしれない。どちらかがいいなどと言えば、それこそナンセンスなのかもしれない。因果宇宙の輪廻の果てを切り開く螺旋パワーとは、どこまでもナンセンスなカミナの信念と、それを正しいと感じたシモンの直感だった。意味と言う形で捉えきれないからといって、諦めてしまうことは因果にとらわれてしまうということなのか・・・。なぜ太郎は、ブージャムであるスナークに出会いながらも消えなかったのか?それどころか、スナーク自身が消えてしまった。それはやはり子供だからだとすると、ブージャムとは、観念につけ入るのだろうか。理解しようとすること、それを観念にしようとすることは、大人の理性であると同時に、物事の認識の幅を狭めている場合があるということか。子供の頃、確かに人生に意味などは無かったが、それでも無限の未来が見えていた。それはただ無知だからなのではなく、無知だからこそ見えていた全体像に近かったんだ。この考え方のほうが悲観主義よりずっと遠い。楽観的だけど、確実に明るい。そして、自由だ。「スナーク狩り」の海図のように、未来は真っ白な地図で表せれる。大切なのは日常の出来事。人生全体に意味など無い。だから目の前の人を大事にすればいい。だから明日は今日になる限りにおいて、めざす価値がある。その時間に生きる人がいるから、次世代を考える意味がある。世界に意味などは無い。意味などは無いが、価値はある。
May 2, 2008
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全22話が先週で終了しました。ちょっと今回はちょっとネタバレありです。感想を一言で言うなら「満足」です・・・が、それ以上何か書こうと思うと、なかなかまとまらない・・・。シンクロニシティ・・・いろんな出来事が偶然重なって起こったように見えても、因果関係ではないがなんらかの連関があるのではという考え方。と言う説明でいいのかな?が、この物語の進行の基本骨格になっていると思う。さらにその背景になるのが、人知を超えたものとは、単に人の知を基準にした尺度にを「超える」ということに過ぎないということ。自分達が知りうることを因果的に説明してみても、それはただ人を納得させるだけのものかもしれない。真実が人に観察されていても、それを認識しなければ人にとっては無いのと同じだ。いろんな物事が起こり、それがある一転に集約されていく。「ここで待つしかない」ラストシーンは、それを見事に描いていると思う。神霊たちが天に昇ることは、直接は太郎たちとは関係ないのかもしれない。というよりか、太郎たちは神霊については何も判断していない。ただ道男と、あと山に住んでるじっちゃんが、仲良くしろと言っただけで。研究所をめぐる物語の進展と、太郎たちが問題解決していく物語の進展が、重大な関連があるんだけど、でもその結末はけして因果的じゃないし、むしろ関係ないといってもいいくらい。もちろん、道男がアレを持ち出すことは一つのきっかけになっているけど、でももしかすると、研究所からあふれ出したアレらがあるのだから、結局は同じ結末になっていたのだろう。ただ、都救出作戦と、タイミング的にあっただけで。太郎たちは新しい世代なのだと思う。いや、社会もまた変化しているのだと思う。現在だから、信の父親がとらわれてしまったような因果(ほかの親達もそれぞれにとらわれている)を、彼らはみごとに打ち破れたのだと思う。それも偶然といえるのかもしれないし、必然といえるのかもしれない。ラストシーンの笑顔をどのように解釈するかは、アニメーションの方が、文章や実写でよりも抽象的な表現であることを利用して、ずっと幅を持たせることが可能なんだと思った。この話では、その幅の中に、見ている側が勝手に、というか必然的に生命倫理まで持ち込んでしまうことになるのだから、因果的に捕らえてしまうと彼らはまるで町を救ったヒーローになってしまう。でも太郎たちにはそんな意識はこれっぽちもない。彼らは彼らで行動しただけで、ダムに作られた生命が捨てられたのはまったく別の事情だし、台風がきたのもたまたまだし。そもそも、太郎、信、匡幸、都それぞれが抱えていた問題の関連も因果的ではない。でも、けして無関係じゃない。この関係性のありかたに、なんとも心地よさを感じた。個々人の人の生き死にと、社会全体の問題の正しい立ち位置に思いたいような気もする。ていうか、思ってしまったほうが言いと言うか、そうなっていくべきだというか。鳳先生が「なんとなく」協力したというセリフ。それまでの科学者らしい言い回しにくらべて、とても人間らしい、そっけないが心からのセリフだ。でも、科学的に図式化してわかりえないことは、いきなり人知を超えたオカルトだとしてしまわないで、わからないなりに認めていくことは、単に科学的に問題に対面する第一歩かもしれない。平田先生があらたな目標だといったように。太郎たちが神霊たちとの関係は、現実に我々の周りで起こっている個人的問題と社会的問題の関係にも適応できるのじゃないだろうかと思った。あれもこれもシンクロニシティだから、と言ってしまったならそれはもう単なるオカルトでしかないけど、一見どうにもならないような大きな社会問題や自然現象(龍は冬の間は水中に潜み、夏になると天にのぼりるという)も、その周辺に住む人々としての立ち居振る舞い方があるというか・・・よくわかんないんだけど、何もかもを因果的に考えることによって感じる閉塞感ってのもあるんだと思う。うーん。もっとうまく書ければいいのだけど・・・
April 7, 2008
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ガンダムOOが終わりました。ここまでが前半と言う位置づけでいいんですよね?実は、ずっとちょっとどうかな? と思いながら見てきた。でも25話をみて、刹那を通して「怒り」をはっきりさせたのに、後半への期待がグッと膨らんだ。刹那の刹那的な怒りをクロスロードがどういう道を見出していくのか?という話になってくれたらなぁ。^^;この監督さん、鋼の監督さんだということで、それもちょぴーり不安要素でもあった。鋼のでは原作と違うのは別にいいのですが、扉のあつかいに不満があったものだから。でも、25話の刹那の怒りで、かなり見方が変わった。刹那自身が言うように、彼らはやはり否定されるしかない存在にはちがいない。それでも刹那の怒りまでは誰も否定できないどころか、むしろ必要なものなんだと思う。それを浮き彫りにしてくれたのだろうか。怒りの矛先は、やはり漫然とした社会にじゃなく、突き詰めていけば個人に向けられる。それはまさにそうなんだろう。でもその表現方法として刹那のやりかたは問題があるのは、見ている皆が思うことだろうし、もしそれを仕方ないと思うなら、それもまた刹那の怒りの矛先になってしまう。もし、水島監督がガンダムという矛盾を通してそういう刹那の矛盾した怒りを書いているのなら、同質だけど違った形の怒りをクロスロードはどう成長させていくのかすごく楽しみになってきた。こういう楽しみを持って見たら、もうダメ人間だらけでも大丈夫さ。(笑細かいことを言えば、色々色々・・・、仕方ないですよね、ガンダムは産業だから。それで食っているいっぱいの人がいるんだもん。政治的にならざるを得ない・・・というのんのさえ駆逐してくれよ、という怒りはどうしよう。う~ん、そうか。こういう微妙な問題では、刹那の怒りは役に立たんか・・・。逆に言うと、戦争とかいった大きな問題には、やっぱり怒りか。民衆の怒り。って、そんな後半になったらいいのになぁ!!
April 1, 2008
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我が家の破壊神、ラーちゃん(仮名)2歳はカワイイ。普遍的に。なんていうのかなぁ。飼ってみたら意外に凶暴で持て余す、っていう感じ?ま、そんなアライグマのようにカワイイ彼は最近、大阪弁(※正確には神戸弁だよ)の語尾をつかえるようになった。例えば「じぃじぃ、おったなぁ」とかの「なぁ」の部分ですね。今までやと「じぃじぃ、おった」という片言感満載やったわけやけど、これで一気に会話らしくなって、なんかカワイイ。なんか、喋ることが楽しくなってきたみたいで、とにかくしゃべりまくってる。ママに「おしゃべりらーちゃん」と名づけられてしまうくらい。でも会話じゃなくって、1人でなにやらしゃべりまくってるんだけどね。とはいえ、まだまだ意思の疎通が出来るというレベルではない。というか、そもそものところで、その意思自体が会話的なレベルでやり取りできるような段階じゃないので、おそらくこちからの問いかけ直しで意志を誘導しているという面もあるし、彼が望んでいることは、もう思考と一体化した発話の中で変わっていくという、まだまだ混然とした状態。それでも、語尾がちょっと変わるだけで、ものすごく会話っぽくって。いっちょまえな感じがたまらんちん。話変わるけど、仮面ライダー電王はおもしろな。仮面ライダー電王は油断してたら泣いてまう。キンタロスに泣かされちゃうよ。というわけで、仮面ライダーキバやゴーオンジャーを通じて「頑張る」意義や未来に希望を持つことの意義をガーガくん(仮名)5歳に教えていこうと決めた。ところがキバのほうは今のところ、ワタルくんがダメ人間で・・・、彼の人間性と言うか人生観と言うか、ぜんぜん見えてこない。もしかするとワタル自身がトリックスターなのかとも思えてくるくらい。前の電王やゲキレンジャーは後半、いいシーンが多かった。今回はキバですこし対象年齢をあげて、ゴーオンジャーでは対象年齢を下げているよう感もあるのでまた違ったパターンになるのかなぁ?まぁ、後半にかけて、一緒にテレビを見ながら色々言ってやろう。
March 29, 2008
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ちゃおっす。ダメ少年の元にやってきた不思議な・・・なんだあれ?なんていうの、えっと、ペットと家庭教師?ネコ型ロボットと赤ん坊?方や小学生、方や中学生と言う違いはあるけど、だめっぷりはほぼどうレベルの野比のび太と沢田綱吉。でもって彼らの元にはある突然、不思議なお助けマンがやってきた。と言うところまではよく似た構図だけど、彼らの元にやってきた不思議なお助けマンは全くタイプが違う。そこに時代の変遷を感じてみちゃうってのが今日のテーマです。ドラえもんは、よくご存知ですよね。不思議なポッケからいろんな道具を出してのび太をサポートしてくれる。その道具にはものっすごい細やかなバリエーションがあって、ほぼ問題を解決できるピンポイントにニーズにあった道具を出してくれる。でものび太はさらにだめっぷりを発揮して、その道具を使いこなせず失敗するというオチがほとんど。方やリボーン。こっちは知らない人もいるだろうから説明しますと、只今少年ジャンプで連載中&アニメ放映中でございまして、「家庭教師ヒットマンREBORN! 」(これで“かてきょーヒットマンリボーン”と読む)というタイトルでございます。アニメの方しか見てないので、あしからず。リボーンちゃんは赤ん坊の姿をした赤ん坊。いや、イタリアのマフィアのボスが最も信頼する、凄腕の赤ん坊です。ヒットマンと言うくらいなので、ヒットマンです。あ? わけわかんねーだと?るっせー。そういう設定なんだよ。ここは飲み込んでくれ。何で彼がツナのところに来たかと言うとですねぇ、ツナの父親が実はイタリアのマフィアと関係があって、ツナをマフィアの後継者にするために、英才教育をする家庭教師として派遣された、ということなんです。で、リボーンは何をしてくれるかって言うと、特殊弾という不思議な弾丸を持ってまして、「死ぬ気弾」に打たれた人は一定時間死ぬ気で頑張るようになる。スーパーマリオのキノコみたいな、時間限定のドーピング効果があるわけですね。その間は超ポジティブで超やる気になるので、色々問題をクリアー出来るというわけです。その時リボーンは問題に直接は関わらない。戦いのシーンになっても「やべぇぞ」とか言ってほったらかし。もし手助けをするにしても、他の効果のある特殊弾を撃つくらいで、問題解決はツナが自分でしないといけない。ここです。ここがドラえもんと正反対のところなんですよね。ドラえもんは、問題解決可能な道具を出すけど、のび太はたいてい使いこなせずに失敗するというオチでしょ。でもリボーンはやる気と、多少の手助けはするけど、ツナは自分で痛い目をしながらも最後は問題をクリアーするんです。(ツナだけ泣いて、周りは助かるというようなオチは多いけど。^^;)のび太は結局道具では解決できない。自分で頑張ってどうにかしなくっちゃという話もあるけど、当初は・・・コミックで持ってた1~10何巻までのなかでは、ドラえもんが未来に帰っちゃう話くらいじゃないのかな?ある意味、ドラえもんの方は楽天的で、リボーンの方が切実だ。話の背景として、未来の家族のためだというのと、マフィアのファミリーのためだという立場の違いもあるだろうけど、一番大きい差は社会の未来像だと思う。ドラえもんがやってくる22世紀は、1970年代のまま科学技術だけが進歩したような世界だ。でもここ数年で、現実はそうはならないことがはっきりしてきた。70年後半から80年にかけては、まさになにやらいい未来が必ず待っているような予感があった。オイルショックをはさんではいても、科学技術の進歩に対する期待は大きかったんだと思うし、精神やら何やらよりもずっと大きな期待が向けられていたと思う。でもいま、教育基本法が改正されたり、世の中が温故知新といいながら右傾化していったり、テロとの戦争と言う国家と国家じゃない組織との戦争と言うわけの分らないものが出てきたり、空港で指紋を取ったり、道路のいたるところに監視カメラがあったり、核兵器をもってもいいという人が知事に当選したり。なにやら科学技術で解決できない沢山な不安が噴出してきた。冷戦の緊張感よりも、テロの恐怖の方がリアルに感じられるのは、単に物心付いた頃には80~90年という冷戦終結の時代だったからかもしれない。それともうひとつは、規制緩和等もあり、経済が成熟してこともあって、家族主義からいよいよ個人主義へって、これは単純にはいえないことだし、西洋の個人主義とはかなり意味が違うと思うんだけど、それでも個々人の人権が全体よりも尊重される風潮にはなってきていると思う。それは自由主義経済の下での平等・・・資本が分散して、機会が均等になっていくためにはその道しかないんだろうと思うのですが、個々人がクローズアップされて、個々人に権利があり、そして責任があるというふうに変わって言ってるんだと思うんです。でも、ここは日本。個人の権利や責任は西洋とはかなり違う。でね、でね、ここが面白いというか、ドラえもんの場合は、のび太の母は怒るじゃない。勉強しなさいって。でも、父は道を示さない。たまには勉強しなさい、とは言っても。これは狙いなのかどうかわからないけど、リボーンでは全く逆で、ツナの母はツナを全肯定して怒らない、そして父はツナにばっつり道を示す。何かこれって、家長制度そのものっぽいでしょ。日本では個人の権利、責任については発展途上、というか日本風にその考えを吸収して行っている途上だと思う。このリボーンの設定は、その微妙なところにちょうど乗っかっているように思うんですよ。リボーンはツナに自分で決めて行動して、自分で解決することをいつも迫る。そして決められないときは背中をドンと押してやる。そして、それを事情を知らないままに全肯定している母親がいて、さらにレールをひいている父親がいる・・・。ビミョーでしょ。(笑でも、このビミョーさは、今の日本のビミョーさをよく表しているような気がする。ツナのファミリー(仲間)達はけして日本的な結びつきじゃない。仲介者のリボーンがそうだからかもしれないけど、合理主義的というか、みんな自己責任で集まってきている。家族的な馴れ合いはないし、それぞれがそれぞれの意思を持って行動している。それを導いているのがリボーンだったり。そしてツナは違った考えを持った人にとっても公平なんですよね。許せないことは許せないという強い意思も見せるし、許してしまえばもうわだかまりはないという、ダメ人間のくせに超大物の素質を持っている。この、価値観が多様なグローバル化社会では、自分の価値基準を持ちつつも、違う価値観を持った人をそのまま受け入れる、というのはとても重要なこと。というわけで、こういうアニメが人気出るのも、時代の養成かなと思ったりしとすという話でした。
March 14, 2008
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神霊狩での平田先生のリアクションをみて、自分ならアレに積極的に興味を持つことは可能だろうかと想像してみた。想像だにしていないような怪奇な現象に出会ったとき、それを現実のものとして受け入れることが出来るだろうか?例えば今これを読んでいる人。自分の足元に、上のイラストのようなものがいたとしたらどうだろう。あの話を見てから時々、怪しいものが見えはしないかと周りを見渡したりしてみるのだけど、どうもこの思考回路はすでに異分子を排除しきっているようで、怪しいという雰囲気さえキャッチできない。とすると、もし平田先生のように見えてしまったとき、どれだけ冷静でいられるだろう。叫び声をあげるくらいのことはしてしまいそうだ。平田先生はこの拒否しがたい現実から遠ざかることで正気を保とうとしているけど、少年達は何の疑いもなくそれに立ち向かっていく。この差はいったいどこにあるんだろう。何故大人は、それをそこまでかたくなに否定しなくっちゃならないのか?精神状態の平穏を保つためだとすると、ではなぜそれらはそんなにも精神をかき乱すのだろう。どうしてこのココロは、もしかすると興奮して踊り出したくなるくらいのこの素敵な出会いを、狂気の向こうに追いやって扉を閉ざすのだろうか。そこまでしなくてもいいんじゃないか。あぁ、見えちゃったよぉ、くらいにならないもんかなぁ。でもなー、暗闇で猫が飛び出してきただけでもビックリするもんなー。街灯をつけて、生活空間から暗闇をなくして、そして理解できないもから名前を奪うことでその存在を消し去って、暗闇をどこまでも遠ざけてしまった。悪しきものもそうでないものも一緒くたに。そしていつの間にか、暗闇からは悪しきものしか出てこなくなってしまったのかな。でも暗いトンネルの向こうは、悪しきものだけじゃなかったはず。と言うわけで、イメージトレーニング。わけのわからないものを見かけたら、とにかく認めよう。そしてその出会いを大切にしよう。危険だという警戒心は持っておくにしても、好奇心まで捨てないように。
March 13, 2008
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平田先生を愛でると(ココロの)健康にいいらしいので、描いて見ようと思ったなれば・・・一応自分なりに、それなりに3Dでイメージしてから描く。ゲンミツにじゃなくって、それなりに。で、だ。この頭。解析不能。まず、髪質がわからない。どう見ても腰の弱そうな、細そうなイメージ。の、わりに、すそがぴょんと跳ねてる。クセげではないとしたら、これはおしゃれだろうか?それと、たこ八郎風の前髪たらり。たらりというか、ぺっちょりというか、これは最初は整えていたけど落ちてきたものなのか、それとも最初からこうセットされたものなのか。分け目らしきものがあるところから、基本は七三なんだと思う。でも、七三わけでこの生え際とでこチンの境界線の丸さはなんだ?謎多き髪型だ・・・。
March 12, 2008
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貝原直人と石田雨竜は似てる気がする。雨竜のメガネをかけさせてみたりしてみたり。「神霊狩 Ghost hound」はProduction I.G20周年記念として制作されたアニメで、士郎正宗が原作となっている。でもHPをみるとあくまで原案と言うことで、ストーリー展開はアニメスッタフによるものだそうです。ちなみ、スッタフというのはスタッフの打ち間違いですが、忌々しいのでそのままさらしてやることにしました。まいったかスッタフめ。監督は中村隆太郎、脚本は小中千昭。神霊狩 Ghost houndのホームページhttp://anime.goo.ne.jp/special/ghosthound/全22話ということで、あと4話ですか。ちょっとややこしいパーツが一杯あるアニメなので、説明するのが難しい。というわけでこれまた公式HPの「Intoroduction」のページから引用しますと・・・------------------------うつし世はゆめ よるの夢こそまことこの世界<現世>(うつしよ)には、電脳が発達するより遙か昔から、違う世界が重なっている。日本の原風景の面影を残す、地方の小さな町に住む3人の中学生、古森太郎、大神 信、中嶋匡幸。彼らは、それぞれ、消し去ることのできない過去を持っていた。だから、なのか、また違う理由があるのか、3人は<現世>とは異なる世界、<幽世>(かくりよ)へ魂(たま)抜けすることで、行き来することが出来るようになる。少年たちは、<幽世>を冒険するうちに、そこがどこにつながっているのかを知る――。少年の心を持った大人たちに捧ぐ永遠のスピリチュアル少年譚今秋 ついに開幕!!------------------------だそうです。少年の心を持つ大人と言うことは、基本的にはお兄さんorオッサン向けアニメと言うことか?(笑少年の心を持ったお姉さんorオバハンってどれくらいいるんだろう?って、つまんないことを言ってる場合じゃないくらい、いろいろ面白エッセンス満載なアニメっす。前の日記で書いた「ちょっぴりいけない思考に陥ってしまった」と言うのは、脳の位置づけについて、ちょっぴり悲観的なイメージを持ってしまった。ストーリーと直接は関係ないけど、世界のリセットボタンを押しちゃえよと思うことエラーとして扱うのじゃなく、正常な思考として考えても良いのなら嫌だなと思ったんです。オレもそこにはそれほど楽観的じゃないみたい。「核兵器をのスイッチを押せるのが人間だ」みたいな肯定をしてもいいことになっちゃうと、「もう勝手に滅んでしまえばいいんだ、そういう愚かな生き物は。」と言うことさえ出来なくなっちゃうような気がする。言っても言わなくてもそれは人の価値判断であって、また生物としての価値判断であって、真理とかなんとかは、それらを説明するための便宜でしかない、などと思っちゃう。ほら、よくSFでコンピューターが人こそ悪だと判断するという奴、あれを否定できなくなっちゃう。でも、ふと思った。そういうことを「バカ」と怒ってくれる太母や老賢人がいるんじゃないだろうか。もし人、というか生命とは、そういうプログラムとして理解しなきゃならないようならいいのに。というか、そう考えても良いんじゃなかろうか、とうすぼんやり思って、思考再開。さて、この「神霊狩」。いまのところ、かな~り面白いです。脚本の小中さんも上のHPの中で「今回のシリーズは、ファンタジーというよりは、かなりリアルな少年記を目指しています。」と言ってるように、リアルです。リアルといっても、発生する事象がリアルと言うのではなく、それらの事象に対する彼らのリアクションがリアルなんです。ストーリーについては詳しくは書きませんが、ていうか、まだ最後がさっぱり見えませんのでなんともいえませんが、部分部分の描写だけでもかなり面白いですよ。麹づくりのシーンの描写とかも面白かった。太郎くんがそこから生命の躍動を感じるのも。日本酒と言うのは相当にややこしい作り方をします。アルコールは糖分から作られますが、日本酒の原材料は米と水。どちらの糖分は含まれません。そこで麹やら酵母でデンプンから糖分を造り、さらに同時に糖分からアルコールを作るという、よくこんな複雑な工程を江戸時代に確立させたもんや、と言うほどややこしい工程で作ります。その過程で、麹菌やら酵母やらたくさんの微生物が活躍するわけですけど、幽世のアレらがその微生物の誕生を祝福しているという太郎君の解釈にはついつい心を奪われてしまった。いちど説明用のホームページを作る時に色々資料を見たけど忘れましたけど、ほんとうに生命の神秘と言うのにふさわしいですよ。もっとも、大手酒造メーカーの酒造りはぜんぜん味気ないですけど。ひどいのになると糖分やらなにやら添加してますし。そういえば、太郎くんが生命の誕生についてなにいい感じの思い付きを得ていくのと引き換えに、平田先生に混乱が生じてくるような感じなのも面白い。ですよねぇ。もし仮に自分が幽体離脱したら、どうしようかなぁ。えっとぉ・・・ぐ。ぐふ。ぐふふふ。ぬぉっ!いかんいかん。頭が煩悩に占拠されそうになっちゃった。あやうく妄想の世界に入り込むところだった。あぁ。いいなぁ。魂抜けしたいなぁ。
March 11, 2008
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もののけ姫の話。さっき、家に帰ってくる途中、歩きながらふと思った。シシ神が「生と死」をつかさどるとしても、元通りに再生しないのはなぜだろう?確かに神殺し、なのだろうか。それとも。もっともっと長いサイクルの、とりあえずの終わりと、始まりなのだろうか。でも人とて、自然のうちのひとつだろう。いや、ていうか、あの森はやはり、人とは相容れないのかもしれない。それが人の本質なのかも。シシ神は具現化してしまったときから、その運命は決まっていたのかも。そして、もう二度と・・・
January 25, 2008
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『これは水島監督の意向です。現代と時間的に繋がった世界観の中で描かれるいろいろな事象は、観ていただく方にもよりリアルに感じられるのではないでしょうか。』アニメイトのHPのインタビューで、『“西暦”という現実の延長にあるリアルな世界を舞台にした理由は何でしょうか?』と言う質問にプロデューサーの人がそう答えてた。元ネタページhttp://www.animate.tv/special/gandam00.phpガンダムOO(ダブル・オー)の世界は西暦2307年。300年後です。ちなみに最初のガンダムでは宇宙世紀という架空の年号が使われてました。なぜ300年後か?それはたぶん、化石燃料が枯渇した、という設定のためでしょうか。どういう試算があるのか詳しくは知らないですが。300年先にどうなっているかなんて、誰にもわからないのだけど、このアニメで描かれている世界はかなり暗いイメージを持っている。どうも社会制度や人権意識が現在とほとんど変わってないということ。この300年・・・1700年以降ですよね、の、変化の大きさに比べると、なんとも絶望的なシナリオです。いま現在が人の人権意識の限界だとでも言うのだろうか?もっとも、ソレスタル・ビーングが活躍している背景は現代のものそのものだというのは、もともと扱いたいテーマが現代的なのだから仕方ないとは思う。アニメにそういうリアリティを求めなくてもいいのかもしれないけど、結局この矛盾の源はガンダムの名前を使いたかっただけじゃないか。というのが、アニメのテーマそのものよりも現代の病巣をはっきり示しているという、あーいやらしい、版権ビジネス。^^;こまったもんだねぇ。作り手もやる気がでんだろうに・・・。もしインタビューのようにリアリティというのなら、やっぱり情報と人権についてもっともっとリアリティを求めてもらわないと。情報に関する技術もとても300年後のものとは思えない。ほとんどが数年~数十年後のものと言うのもあなぁ。いっそのことパラレルワールドにしたらいいのに。と、まぁ、設定に不満はあるものの、戦争そのものがテーマだっていうのは面白い。国家勢力間の利害関係も今ひとつ明確じゃない・・・というか、国内事情がいまひとつリアリティにかけるというか、民主主義は今よりも交代しているような気さえするし、あ~、いかんいかん。300年後と言うのは忘れるんだ。そこさえ忘れたら大丈夫。よし。アニメとしてはよく出来ているとしかいいようがない。CGもキレイし。キャラもよう動くし。絵もキレイし。色もキレイし。さすが、予算がい派~いついとるんやろね。一話一話のストーリーの構成もしっかりしとるし。ビックリするようなシーンも、ぶるぶるっと来るような見せ方もないけど。メカのデザインも萌えへんけど。あれ?オレっていつからこんなこと言う人になったんだろう?なんか、坂道を転げ落ちとるなぁ・・・。楽天ブログ始めたのは失敗だったか?^^;問題はストーリーの展開だけだなぁ。ちょっと右より保守系のニオイがしないでもないんだけど、それは気のせいなのかなぁ。右より保守+ビジネス優先ってのはトレンドなのかな?思ったんだけど、技術革新ってのは、本当に人類にとって平和をもたらすのかもね。このガンダムを見ていると全くそうじゃないけど、それは社会制度を変えるような技術を描いていないからなんですよね。逆に言うと、社会制度を変えるような技術がない限りは、今と大して変わんないって事なのかな。インターネットの行く末がどうなのか、これは10年、20年で大きな答えを出してくると思う。世界中の誰もが同じ情報を共有できる社会は、いまだかつて出現したことがないんだから。情報の共有といえば、逆襲のシャーで最後にアムロがしたことも、もっと抽象的で一過的な共感だったけど、そうなんだと思う。富野さんがニュータイプで言いたかったことは、ほんとうに理解度だけの問題なのか?、と言うことだと思う。人は分かり合えさえすれば?ガンダムで一番重要なのは、このニュータイプとはなにかって事ですよね。ニュータイプは人の革新だという設定は、もし仮にその点さえクリアされたら人は変われるのかどうか、と言うことだったと思うんです。でもガンダムOOは富野さんじゃないし。かんけーないか。あーあ。あれ、もしかしてこれは富野さんしか書いちゃいけないテーマなのかな?
January 18, 2008
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いや、だって、こなたの好きな声の人が主人公の声やってるって言うもんだから・・・「涼宮ハルヒの憂鬱」見ちゃった。なんかまたダメな一線を越えてしまったような気がするのはなぜだろう?なんて言うのかなぁ。少女漫画を買うときの抵抗感に似たものがあるよね。このボーダーはほかならぬ自分で引いたものだろうけど、全く根拠の無いものでもないだろう。これで今度はゲームでもやり始めた日にゃ・・・。おぢさん、そういうの一度卒業しているから。な~んでまたやらにゃーなんないの?あ~、怖いなぁ。ゲームやりすぎて気がついたらジジィになってたとか。うん。ゲームはだめだぞぉ。スパイダソリティアで我慢するんだぁ。ゲームは闇の支配者が若者を自堕落にし、いたずらに時間を浪費させ、そして断面的な価値観しか持てない様にするために流布している悪魔のツールなんだ。そしてアニメとか漫画とか小説とかタイアップとかメディアミックスとかイイっぽい感じの名前でごっちゃ混ぜにしているけど、それも奴等の作戦なんだから。あ、この原作面白いからゲームしてみよーっとか。そうやってダメ人間がどんどん増えていくんだよ。PSPとかDSとか、どこでもゲームできるようにしてみたり。携帯電話でネットゲームとか、いつでも誰とでもできるようにしてみたり。ゲームする時間がどんどん増えていくんだ。あぁ。恐ろしい。恐ろしいなぁ。ゲームはおそろしいぃよぉぉ。あぁ。ゲームしたいなぁ。。。。
January 16, 2008
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完璧ですね!すばらしい作品です。これは子供に絶対見てもらいたい。感想は後日、もう一度見てから書きます。それと、一つ気づいたのですが、もののけ、ハウルとあわせて見ても、宮崎さんは結果よりも過程がはるかにはるかに重要だと考えているのじゃなかろうか。そう考えると、もののけのラストも、ハウルのラストも、そして千と千尋のラストも。このことについてはもっとゆっくり考えてみます。とにかく、見ず嫌いだった千と千尋の神隠し。素晴らしいです。あ、あと、内緒だけど、らき☆すたのこなたのお母さんの話で泣きました。子供ができてからと言うもの、親子ネタは完璧ツボになってしまった。
January 11, 2008
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年末に録画していたのを見ていると、やっぱりガーガくんは笑い飯でウケる。昨夜ひっさびさに、懐かしのYahoo掲示板にトピを復活させた。yahoo!掲示板は最初にネットにはまった場所ですからとても思い入れ深い所なので、ついついつくっちゃった。※こことはハンドル違うよ。おなかすいたけどお昼にならないので、まだ御飯食べてない。ものすごく、ジブリのゲド戦記のダメダメネタを書きたい。でも多分いろんなところでかかれているだろうから自粛。もののけ姫以降はジブリの商業性が強まっているような気がする。やっぱりオレとしてはナウシカ・ラピュタ・トトロ・魔女・豚の5作だなぁ。うん。あれ、ナウシカってジブリじゃなかったんだっけ?ジブリって言うか、宮崎駿監督かな。もののけ姫を当時、どうしても見る気がしなかったのは、そういう商売っ気を嫌ったからの様な気がしてきた。ゲド戦記にいたってはもう・・・。宮崎駿といえばマンガの方のナウシカ。あれを映画化してほしいなぁ。「影」についての描写とか、ル・グインの原作の方のゲド戦記とは違った意味で面白いんですよ。あの腐海の謎とか、それに対する森の人やナウシカのアプローチとか、なかなか素敵なんですよ。って、前にも書いたかな。わすれちゃった。あ~それにしても、ゲド戦記は・・・って結局かくんかい^^;・・・アレは単に自分が偉大すぎる父親を持ったって言う部分だけが妙にリアルにかけていたと思うよ。(笑だったら、ゲド戦記を使うなよ。こんちくしょー。だいたい、テルーの存在が全く意味不明じゃないか。とても大事な部分なのに・・・。影とは何か・・・竜とは何か・・・ファンタジーとは何か・・・ル・グイン渾身のメッセージはどこにいっちまったんだ?あ、また読みたくなってきた。ゲド戦記。帰って読もう。
January 8, 2008
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そういえば、こないだ、はじめて「もののけ姫」を見た。森と人の間に壁があるとするなら、それと同じものが人と人との間にもあろうと思う。そして森は長い長いサイクルで見れば、なんの必然性も持っていない。我々の理の一切通用しないのが自然で、人は自然を愛することが出来ても、自然から愛されることは無い。その狭間に様々な「もののけ」が産まれるのだと思う。生と死は(たとえ人類がやがて生命を生み出そうとも、永遠の命を手に入れようと)永遠に人の手の届かないところにあるもので、その意味で自然とは我々と常に対等なんだ。で、問題はシシ神だ。シシ神がなぜ森を作り変えてしまったのか?シシ神が生と死を司る以上、人を否定することは無い。人の愚かさはそれは、人や「もののけ」にとってということであって、シシ神にとっては同じことだろう。お前達がそうするなら、そうすれば良いと言わんばかりだ。「もののけ」に加担するわけじゃないし、かといって人と対立するわけでもない。その点はいいんですが、どうも気になるのが、アシタカとサンの行く末だ。もやもやもやもや。「もののけ」と人の事情でいくと、そこにはふかーい対立軸が残されたままだと思う。でも人は結局同じ方法論を持ってして、彼らを小さく、そして言葉がわからない存在にしてしまった。なぜ彼らがそうなっていくのかについて、もっと言及があってもいいのじゃないだろうか。もうひとつは、アシタカの村だ。アシタカの村は単に滅び行く存在なのだろうか。「もののけ」は本当に無力になったのだろうか。オレは実はかつてよりもさらに力を持ち、そして雄弁になり、様々な姿かたちで現在も生きていると思う。だけどそれ以上に、あらゆる手段を講じて自然の営みを人なりに理解しようとすればするほどそれらを感覚することが出来なくなって、彼らとのコミュニケーションの手段を失っていってしまっている。それでもシシ神は何も示さないだろうから、人は自ら、自らのためにならないことをしてもわからなくなってしまう。アシタカやサン、アシタカの村ではそれらがまだ残っているというのに、それらの存在をもっとラストで見せて欲しかったように思う・・・。
January 7, 2008
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みなさん。メッサーラをご存知でしょうか?Zガンダムの敵メカです。藤田一己さんがデザインをしました。オージェって知ってます?エルガイムの敵メカです。永野護さんががデザインをしました。↑これです。左がオージェ、右がメッサーラ。80年代なかば、お子様だった赤さんをどこまでも魅了したメカです。実は私、ずっとメッサーラは永野デザインだと思い込んでいた。マニアックな話ですが、Zガンダムのメカデザインは一部を永野さんが担当している。それに、小説版Zガンダムのカバーのイラストを長野さんが描いてた。というのもあって、ずっとそうだと信じてた。で、このブログを書こうと思って調べてみると、メッサーラは藤田さんのデザインだったのだぁ。藤田さんすげー。興味のない人には、なに、ただのロボットじゃん?って感じだと思うけど、どちらもローティーン赤にとってはショックだった。全部この時期ですけど、この永野譲とエイリアンのギーガとバンパイアハンターDの天野喜孝にとにかくずぎゅーんときちゃったわけです。そのままイラストレータを目指せばよかったのにね。そうはならなかったわけだけど。それはともかく、この二つはメカは色々アレンジして描きまくった記憶がある。暇があればオージェのかたつむり(かたのもっこりユニット)を落書きしてた時期もあったな。なんでこれを思い出したかっていうと、某所で徐々に奇妙な冒険なんていってたもんだから、大阪弁でものすごいって言う意味で「めっちゃ」とか「めっさ」とかいうのんから、ついメッサーラを思い出したって言う、それだけです。はい。弾丸ジャッキー。というわけで、まー、頑張っていかなあかんなー言うてるんですけど、僕ねー若手若手言いながらもういつの間にかオッサンですわ。石の上にも三年なんていいますけど、ウェブデザイナーやりだしてもう8年ですか。もう8年になるんですよ。ほんまに、早いもんですねぇ。モデムでねぇ、ぴ~ひょろろろろろ、言いながらね、夜中にネットするんですよ。電話代が安いからね。ISDNはじめちゃーんとかね。あったねぇ。あれ、どう考えてもNTTはひどいよね。ISDNをあんだけひっぱっとって、それで東京めたりっく通信が先駆けてADSLで頑張ってやっとシェアを伸ばしてきたとこへ、いきなりADSLの安いプランをボーンと出してね。東京めたりっく通信が、もうちょっとで採算取れる会員になるって手前で(たしかもう一期だけでも融資がうけれたら黒字化できるというような感じだったと思う)つぶれてしもてね。それをソフトバンクが買収してヤフーBBになるんよね。あの時にISDNをひっぱってキャンペーンするんですよ。もう時代はADSLだってわかってたのに。それでISDNで契約しちゃった人とかいるしね。ISDNっていうのは専用線なのでADSLにするときにはもういとど普通線の契約をしないといけないなんていう理不尽なことがおこる。そして、むりくりISDNのキャンペーンコマーシャルとかもバンバンやってて、いきなりADSLですよ。ソフトバンクはその辺を見てるから、ヤフーBBで躍起なって会員数を増やしたんやろね。そしてそのとおり一応成功したから、たいしたもんなんだけど、やっぱり好きになれないな。って、何の話や?
December 8, 2007
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翼は目に見えないひとすじの道
November 14, 2007
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つながりの向こうに再び立ち上がる
November 10, 2007
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熱望を切望する花咲き乱れる丘で
November 9, 2007
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火は目に見える
November 8, 2007
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小さな魔法で生まれ変わる
November 7, 2007
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つくづく、永野護はすごいなぁ。(Zガンダムのメカデザインをしたひと。耽美的なメカを描かせたら右に出る人はいない。エルガイムの時にはまった。いまだに大好き。)OOでもそこからは出られないんだもんね。また永野さんがデザインしてくれたらいいのになぁ。ターンAでの富野さんの試みは好きですよ。(海外のデザイナーにメカデザインを依頼した。)背中が光るくらい、エヴァンゲリオンだって光ってるし、Vだって光ってるし。ま、そんなことはどうでもいいです。メカデザインはもう商業のためのものなんだろう。OOでは非常に面白い設定があるんですよ。それは公式サイトのストーリーより---------------------------------------------------------------西暦2307年。化石燃料は枯渇したが、人類はそれに代わる新たなエネルギーを手に入れていた。3本の巨大な軌道エレベーターと、それに伴う大規模な太陽光発電システム。しかし、このシステムの恩恵を得られるのは、一部の大国とその同盟国だけだった。3つの軌道エレベーターを所有する3つの超大国群。アメリカ合衆国を中心とした『ユニオン』。中国、ロシア、インドを中心とした『人類革新連盟』。ヨーロッパを中心とした『AEU』。各超大国群は己の威信と繁栄のため、大いなるゼロサム・ゲームを続ける。そう、24世紀になっても、人類は未だ一つになりきれずにいたのだ……。そんな終わりのない戦いの世界で、「武力による戦争の根絶」を掲げる私設武装組織が現れる。モビルスーツ「ガンダム」を所有する彼らの名は、ソレスタルビーイング。ガンダムによる全戦争行為への武力介入がはじまる。------------------------------------------------------------http://www.gundam00.net/story/index.htmlというわけで、ガンダム達は紛争がおきると出動して、その双方を破壊するんですね。今のところ、なんかの特殊な技術でガンダムが他の兵器よりも圧倒的に強い、と言うことでそれが可能になっているんだけど、その先はどうなることやら。もちろん、そんなことで戦争はなくなるのかっていうのは話の中でも出てくるし、戦争の当事者であるそれぞれの陣営も黙っちゃいない。武力で戦争解決は出来ないというのは当たり前の話だ。この話ではガンダムはテロリストといってもいいわけだ。おそらく、テロとの闘いなんていうわけのわからない言葉がテレビや新聞で頻出する今日この頃だから出てきたストーリーだとは思う。さて、この設定。一体ここからどう展開していくのか?デスノートもそうかもしんないけど、具体的なイメージを見ているほうに強いる。勧善懲悪への皮肉。デスノートの場合とちがって、ガンダムは最後に負けるわけにはいかないだろう・・・って、カミーユの例があるか・・・。^^;ま、でも、そういうストーリーを今の時代に子供向けのアニメでする。これもまた、時代的な要求なのだろうけど、一抹の不安はある。期待もある。いったいどんな結末を見せてくれるのか。
November 3, 2007
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おじさんがさぁ、子供の頃やってたガンダムはさぁ、味方といえどもブッサイクなやつがいっぱいおったのになぁ。今やってる最新作のガンダムはもう、美男美女ばっかりなのね。敵も味方も。いつからこんなことになっちまったのかねぇ。ていうか、これは一体なんだ?なんか、理由があるよね。たぶん、商業的な理由だろうね。いろんな商品に展開する時にその方がいいってことなんだろうね。最近さ、子供がいるからおもちゃコーナーによく行くんだけど、ガンダムの面積おっきいのなんの。ガンプラブームの頃はまだ夢があったなぁ。商業のニオイあまりしなかったもんなぁ。この最新作なんて、もう、CGもばっちんばっちんだもんね。しかもハイビジョンクオリティだよ。銀さんにもっと予算あげてよ、サンライズゥ。
November 2, 2007
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エヴァファンのコアさ加減に、批判的な意見を書くのを躊躇しているチキン野郎の赤です。おはようございます。今日は少し寒いですね。さて、エヴァンゲリオン。これで4回連続エヴァンゲリオン。エヴァンゲリオンのキャラってみんな14歳前後の潔癖なセックス観を持ってると思いません?えっと、ミサトさんやゲンドウさんに至るまで。逆に言うと、「愛」に対する普通一般の信頼をまだ持っていない人たちばっかり。唯一そこから外れるのがシャマル・・・じゃないや、加持くんくらいかなぁ。ストーリー全般は壮大なお話ですけど、キャラクターのバリエーションはかなり偏っているでしょ。おそらくは意図的に絞ったんでしょうね。主要キャラが抱えるトラウマや人間関係上のアンハッピー加減も、一つの心象・・・自他の別を肯定するってとこらへんに集約されちゃうわけだから、そのためのバリエーションってことなんすかね。96年・・・てことは神戸の震災やオウムの次の年ですね。人と人とのつながりかたに不安、疑問をもっていく。社会のありかたがかわっていくなかで、この作品はうまれたんだろう。自他の別を肯定するのに、一旦全人類を滅ぼすほどの想像をしてみないといけないのかどうか分らないけど、旧来の価値観のままではすんなり肯定できない、かつての通過儀礼がすっかり無意味になっちゃったような現代においては、この作品くらいの純度で書かなきゃならないのかもしれないっすね。そして、それから10年経って、カミナやシモンが生まれたことは、彼らの再生が成功したってことだと思いたいな。でも、オレ達オトナはそこから全体主義的な妄想が生まれないように気をつけないとね。シンジたちが漠然と抱いた不安や喪失感は、10年経った今も依然としてなくなっていない。むしろよりはっきりしてきていると思う。シンジやシモンのような葛藤をショートカットして社会を肯定すると、どうも全体主義的な妄想に陥ってしまうようなイメージがわいてきちゃうんだよね。その、自分の「存在意義」を社会にすっぽり依存してしまうっていう・・・。だから、現在の通過儀礼として、エヴァンゲリオンの様な、価値観を全部溶かして融合するような葛藤は十代に必要なんだと思う。んだけど・・・。子供向けのね、今やってるのは、ゲキレンジャーと仮面ライダー電王っすか。あれなんてね、価値観を共有するって言うイメージが薄いんだよね。前やってたアニメの、デジモンとか、どれみちゃんとか、よく考えられてたと思うんだけどなぁ・・・。one for all のほうが強調されのは、どうもねぇ。あれ?アルコール依存症ってタイトル何だっけ?あ、そうだ。ミサトさんは飲みすぎ、ってところから書き始めようと思ったんだ。ま、いっか。
November 2, 2007
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ほんとうはぁ、仕事しなくっちゃいけないんだけどぉ、やる気が出ないんだもーん。シンジ並に、やる気でないよ。死海文書ってことは、もしかすると、原罪はないのかもしれない。あ、解説サイト見てたら原罪云々かいとるわ・・・。ていうか、すげぇファンがいるんだなぁ。あそうか。せかんどいんぱくとから14年で、14歳か。。。ふ~ん。でもなぁ、絶対神って言うものがもっとはっきり出てきてもよかったのにね。アスカあたりがトラウマじゃなくて信仰心から葛藤すれば面白かったのに。って、仕事せな・・・。
November 1, 2007
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一気に見ちゃいました。眠いです。アニメスパイラルです。ジャンプスパイラルよりたち悪いかも・・・。なかなか予想とは違ったトーンの作品で、楽しめました。まぁ、むつかしいっすわね。解説書がいるわ。あれ?なんで14歳じゃないとだめなんだっけ?ま、それはそれとして、補完計画はやっぱりカルト的だよね。原罪の事を言ってるのか?信仰心を試さないなら、神は必要ない。するってぇと、生命は生命そのもの以上でも以下でもない。だから、ココロの隙間はそれこそあなたの心そのものであって、最初っから問題は無いことになってしまって、補完計画そのものが無意味ってことになってしまう。でも、究極の信仰・・・神への回帰というか、人の魂の本質(は神に属するという)の具現化、もしくは絶対化、永遠化、だとすると、それはやっぱりキリスト教っぽい信仰心なんだと思う。もしくは、シンジの最後の判断は人権の一つの形だすれば、補完計画は全体的ってことだとしてもいいのかな。それから10年。カミナは個と全体のありかたを示す。そしてシモンは、それを受け継ぎ、受け渡していくことを示す。十代で見ていたらもっと違った感想を持てたのかもしれませんけど、エヴァンゲリオンのひとつの答えの方向をグレンラガンに見ることが出来るのかなぁ、などとおもいつつ、それでまとめれるのかなぁ。もうチョイ考えたいな。もうちょっと書きたいけど、仕事しまする。
November 1, 2007
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食べず嫌いで見たことなかったんだけど、ついに見ようかなぁーなんて、おもいつつ、4話まで見た。第一感想は、10年前のアニメですよねぇ。いろんな意味で。もうちょっとメカや政治情勢設定がリアルなアニメかと思ってた。まだ何もわかんない。お楽しみはこれからですよね。
October 31, 2007
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グレンラガンのなかでも、地上に出る描写・・・シモンたちがはじめてでる時と、ロシウ達がはじめて出る時と・・・は、すばらしい。不安を好奇心を超克するとき、世界は晴れた荒野のようだろう。その景色に恐れをなして、再び不安が勝ってしまったなら、元の知っている世界に戻るしかない。好奇心?なぜ、人は好奇心を持っているのだろう?それが人の進化に、いったいどんなプラスをもたらせてきたのだろう?そしてなぜ、時に好奇心は抑制されるのだろう?そのことは人の進化に、どう影響してきたのだろう?いつか読んだ本にこんなことが書いてあった。人は他の条件さえ整っていれば、したい事をすることがその人の能力をもっとも引き出すと。本当に自分がやりたいことってなんだろう?本当に、というのを知るのは、案外に難しい。でも、それはきっと、彼らが地上に出た風景と、その新たな不安の狭間に答えはある。答えは用意されていない。でも、新たに生み出していくわけでもない。あらたに気づいていく。好奇心で探して、そして好奇心を抑制して発見する。なんにせよ、まず扉を開かなくてはならない。飛び込まなくてはならない。一歩前に進まなくてはならない。そこに答えはある。
October 29, 2007
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全27話、日曜日で最終回だった。それはアニメの話。この人類においても、そうだとしんじられるかい?なんて誰かが言ったとしても、もうみんなはその問いに「それはお前の限界だ」とでもいうのだろう。それにしても、ドリルの着想はどうだろう。穴掘りシモンのドリルは天を突くドリルだ。もしかしたらグレンラガンは全27話使ってこの言葉を説明していくのだけど、イメージの世界で限界が無いのなら、人には限界など無いのかもしれない。もし、オレが何か限界を感じるとしても、それは「オレではないお前の限界」だということだ。イメージの限界はいつでもそのどって腹にドリルで穴を開けることが出来る。ただ、ニアもシモンも、神話の住民としていかねばならなかったのはなぜなんだろう。そしてその方が納得が出来るのはなぜなのだろう。なぜ人は神話を必要とするのだろうか?固定化できないイメージの無限を語るには、そういう形式しかありえないからだろうか。それとも、われわれの実体は限界的だからだろうか。限界的な実体が無限を求める時、ファンタージェンは輝くのだろうか。でもそれは、受け継がれていく物語。生き続ける神話。また誰かがドリルで穴を開ける。人類の困難のほとんど唯一の答えなんだろう。滅びるか、突き進むか。本当の希望とは何か?「それはお前の限界だ」という言葉の中にそれがこめられていると思う。ニア・・・実体なのかどうか、あやふやなままなのかなと思ってたけど・・・でも、彼女はやはり、行かなくてはならなかったのだと思う。棺おけから生まれて、そして祝福の中、無に帰すなんて、まるで生命の逆転じゃないか。
October 1, 2007
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どうもグレンラガンのことを書くまで、他のアニメ、漫画のことを書く気になれない。でもずっと終わらなければいいのになんておもったり、思わなかったり、少年ッスわ。楽して稼ぐ作戦は、わりといい感じでいけそうな予感はしているんだけど、実際的な諸問題がこれあり、実績を得てから思い切った行動にでたいのだけど、実績を得るためにはまず行動に出る必要が会ったりなかったり。PCも新しくなったし。安もんやけど、会社のDELLより速いし。ハマーを描こうってずっと思ってるんだけど、手元に資料がなくて、家に帰ると忘れて手の繰り返し・・・。12時になったからお昼だ。化学チックじゃないものが食べたいなぁ。って、なぜかカップヌードルが思い浮かぶ。だめだ。化学まみれのハッピーランチだ。たとえばオニギリ、カップヌードル、デザートにゼリーとかってすると、それぞれに違う化学物質満載で、品種を増やせば増やすほど摂取する化学物質も増えるらしい。さ、コンビニへれっつらゴー。
September 19, 2007
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ううう、涙、涙でございます。
September 18, 2007
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萌。
August 31, 2007
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薬ちゃいますよ。↑これなんすけどね、「スターザンS」いや、べつに、どうってことないんですけどね、とあるブログで気になって調べたら出てきただけなんですけどね、なんか、普通調べてでてきたらすっきりするもんだけど、なんつーか、その、覚えているのか覚えていないのかはっきりしなくて、おもっきりモヤモヤしてきた。なんかみたことあるんだよなー、その顔。でも、ターザンだっけ?そんなん全く覚えがない、というか、あるというか。ま、そいでね、ようつべにオープニングとエンディングがあった。そうだ。歌とか聴けば思い出すかも。おーぷにんぐえんでぃんぐぬおぉぉぉ。メカがでてくるんかいぃぃぃぃぃ!!あ~、だめだ。余計わからなくなってきた。でも、この主人公、たしかに見覚えがあるんだけどなぁ。。。なんだっけ、これ?これ、なんだよ?なんだよぉよぉよぉよぉ。。。。
August 28, 2007
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「オレを誰だと思っている!」天元突破グレンラガンの決め台詞の一部です。俺がロボットアニメを見てたのは1980~90年に集中するので、その後はよく知らない。だから俺的には10数年ぶりのロボットアニメなわけだけど、グレンラガンは俺様ランキングでロボットアニメ部門のみならず、アニメやマンガを入れてもここしばらく連続1位ですよ。まだ終わってないけど、おそらくラストも期待を裏切らないだろうし。もちろん、こういうアニメがでてくるのには、時代背景ってのもあると思う。ガンダムの頃にやってもぴんとこなかったかもしれない。いろいろなことが飽和してしまっているように感じる今日へのメッセージなんだろう。希望の持ち方を忘れそうになる今日だからこそ。グレンラガンはロボットアニメだけど、でも、ガンメン(ガンメンは主人公が載るロボットや敵のロボットの総称。)は普通のロボットじゃないと思う。後半でてくるムメンやグラパールは普通のロボットだけど。この物語をすごさを構成する要素は色々あると思うけど、その重要な一つがそこにあると思う。ガンメンは人間・・・もしくは生き物の性のある部分を具象化したものであろうし、人々がずっと闘ってきたものでもあるし、ずっと求めてきたものでもあると思う。それは悪夢でもあるし希望でもある。このロボットの性質は、形は違うしそれほど積極的じゃないけど、宮崎アニメで見たことがある。ナウシカの巨神兵、ラピュタのロボット兵・・・。主人公たちはそれぞれに、要は使いようだろ、というところをもう一歩超えた何かを示してくれているように思う。要は愛し方だろ、要は喜び方だろ、要は楽しみ方だろ・・・要は生き方だろ。肯定の仕方にも色々あると思うんだけど、人の性というものをより深いところで肯定したほうがより希望に近くなる、と言っているように思う。その最たるセリフ。俺を誰だと思っている!何度も何度も繰り返されるんですけど、だんだんとその言葉が確かな重みを持ってくるんですよね。こういうストーリー展開をよく構成できたもんだと思う。監督さんがすごいのか・・・。そんな深い(単純に深い^^;)自己肯定に、いつしか誰もが何かを期待したくなる、してしまっている。息子に見せたいアニメです。子供向けロボットアニメと思って油断してると泣きますよ。
August 28, 2007
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ネットに落ちてるので追っかけてたのだけど、8話がない。で、1話飛ばして9話を見ると、カ、カミナが・・・かなりショック。最後まで2人で行くもんだと信じきっていた・・・。ていうか、よくあの存在感をつくれたもんだ。思いや願いを具現化するっていう主題そのものだからかもしれないけど、見てるこっちまで喪失感がある。その後、ロージェノムが死ぬまでがほとんど無くて、7年後から、今さっき21話を見たけど、シモンとヴィラル、かっこええわぁ。オレを誰だと思ってる?か。DVD欲しいな・・・。
August 25, 2007
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ここに日記を書き出して着実に精神年齢が低下しとる。多分今10歳くらい。またもや、おもろいアニメを発見してしまった!(くろぬこさんとこで)4話まで見た。天元突破グレンラガン!ロボットアニメ!合体するで!プラモほしーわー。まー、おいちゃんが思春期から青年期にかけて見たロボットアニメと比べると、重大な部分で、気持ちのいい割り切り方をしている。どうしてそんな形になるの?それ、どんな素材?鉄かゴムか?質量保存されとる?っていうのを、おもっきり無視して楽しんでるとしか思えないメカっぷり。昔はタイムボカンシリーズでさえ、楽しんでいるというよりも遠慮がちだったんだけど、この割りきりが気持ちイー。出るはずのないところからドリルが出るし、大体気合で何とかなるんだけど、空腹だけはごまかせないし。はじめは昔やってた、超力ロボガラットのノリに近いのかと思ったけど、そうでもないみたい。ていいますか、ガラットのストーリー忘れた。ストーリーはしっかりしてそうな予感があるし、マンガ原作みたいにだらだらいくことはないだろうし。
August 9, 2007
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