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再び、青山学院大学陸上競技部の原晋監督のお話です。箱根駅伝で優勝するためには、体力だけを鍛えることや、運動能力を高めることだけが指導のすべてだと思われている人が多いと思う。原監督は、それに加えて、部や個人の目標を明確にすることが欠かせないといわれる。個人の目標達成のために「目標管理シート」を取り入れている。これは、A4用紙一枚に1年間の目標と1か月ごとの目標、その下に試合や合宿ごとの具体的な目標を書き込んだものだ。ここで大切なのは、自分自身で考えて目標を決め、自分の言葉で書き込むことだ。これが、選手の自主性につながる。これには、「もう少し速く走る」といった抽象的な目標はダメで、必ず具体的な目標を書かせている。どんな小さな試合でも目標を設定させ、到達度を確認させる。原監督が目を通したあと、寮の階段の壁に貼り出している。これを見れば、普段話をしていない部員どうしでも、相手が何を考え、どういうことを実践しているかが理解できる。目標管理については、「一歩先」の目標ではなく、「半歩先」の目標を設定するように指導している。少し努力すれば実現可能な、できるだけ具体的で小さな目標を設定することだ。例えば、5000mのタイムを1分縮めるなどという目標は、妄想でしかないといわれる。ある選手は、小さな目標を8個設定していた。例えば、クロスカントリーを週3回取り入れる。体幹を鍛えるトレーニングとして2種目を週4回やる。手洗い、うがい、外出時マスクを守る。など。その結果については、月1回6~7名のグループ分けした班でミーティングを行っている。それぞれが設定した目標の進捗状態、目標を達成するための改善点や改良点を話し合っている。これは選手に任せて、自主運営させている。この考え方は、人間である限り、すべての人が取り入れる価値があると思う。自分の現在の状況をしっかりとつかんだ後は、少し努力すれば達成可能な目標設定することが大切になる。目標は人それぞれ異なる。これを、まずは日常茶飯事に取り入れてみる。小さな目標は、日々の生活の中でいくらでも頭に浮かんでくる。まずそれを忘れないようにメモすることが大切になる。これを実行可能なものや急ぐものなどから、片っ端から片づけていく。仲間の協力がいるものや期限があるものは別途メモしておく。その結果を日記などに書いておく。気を付けることは100%完全にこなそうとしない事である。60%から80%達成できれば十分だと言い聞かせることである。その結果を集談会の体験交流で発表すれば、いろいろとアドバイスがもらえるはずだ。これが軌道に乗ると、とりあえず、当面の神経症とは縁が切れると思う。
2020.10.02
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私たちの日々の生活というのは、無意識な行動が淡々と繰り返されていると言っても過言ではありません。これは習慣化された生活パターンの事を言います。これを具体的に、私の例で説明します。朝6時20分に目覚ましが鳴るとすぐに起きます。そして布団をたたみ収納します。窓を開けて、空気を入れ替えて、太陽の光を浴びます。そして、ベランダの草花に水をやります。着替え、歯磨き、シェーバーを使い、顔を洗い、トイレを済ませます。パソコンを開き今日アップされているブログの投稿原稿をコピーして、外付けのハードディスクに移します。その時間違いがあれば、すぐに修正します。明日アップする原稿の点検をします。以上で時間は10分から15分くらいです。それから1時間くらいかけて、新たなブログ原稿を作ります。テーマは前日に決めてあります。それが終わると、ドジョウ掬いとしば天踊りの練習をします。そのあとニンジン・リンゴジュースを飲みます。ヨーグルトを飲みます。基本的には朝食というのはとりません。それから忘れ物をしないようにチェックリストで確認して職場に向かいます。家を出るのは8時20分と決まっています。自転車なので途中は腹話術の口上やカラオケの練習を行っています。これらの行動はすべて習慣化されています。習慣化された行動には流れがあります。何をしようかと考えることはなく、すべて体が覚えてくれています。これらは淀みのない小川の流れのようです。会社に行っても仕事のすすめ方はほぼ習慣化されています。それに沿って、基本的には淡々と仕事をこなしているのです。そして家に帰ってからも、習慣化された生活を繰り返しながら日々暮らしているのです。こう考えますと、日常生活は習慣化された行動の積み重ねであるともいえます。意識が入り込む余地がない。無意識の行動になっています。同じ時間に同じことを繰り返しているという状態になります。パズルのパーツを埋めて一つの作品を作り上げているようなものです。生活にリズムがある事が実感できます。この習慣化された行動の数が多い人は、傍から見ているととても行動的に見えます。ある人から、そんなにせわしなく動き回っていたら、疲れるでしょう。マンネリになってイヤになることはありませんかといわれます。本人は習慣化されているので、無意識に手や足が動いているのです。決して意識しながらやっているわけではありません。だから無理がない。むしろ習慣化されたことをやらなかった方が違和感がある。物足りなさというか気持ちが落ち着かないのです。意識的だったのは、習慣化される前の事です。習慣化するまでは、多少のエネルギーを必要としました。習慣化された行動パターンが少ない人は、暇な時間が出てくるのではないかと思います。手や足が動いていないときは、瞬間的に楽ができても、そのうち退屈さを感じる。その時間にすることは、観念の世界でああでもないこうでもないと思考遊びを始めます。これは空虚で味気ないものです。そのためにコマネズミのように、意識的して自分自身に対して、行動をけしかけるような人もいます。動き回れば不安定な精神状態が改善されることがよく分かっているからです。それも一つの手ではありますが、私はよい習慣作りを最低10個から20個ぐらい作ることをお勧めします。この数は多いと思われるかもしれませんが、私が例で示したようにごく小さい習慣作りです。習慣になって日々の生活に組み込まれたら、1日があっという間に経ちます。そういう生活の中で、気づきや発見があると小さな喜びや楽しみに満ち溢れてくるのです。そのためには、小さな習慣作りから始めてみませんか。
2020.09.18
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最近、無気力、無関心、無感動な人が増えていると聞くことが多い。これは、行動するためのエネルギーが少ないか、枯渇している状態なのではないか。ガソリン車はガソリンが空になると車は動かなくなります。この場合は、ガソリン切れになる前に補給することが大切になります。大うつ病の人は、エネルギー切れを起こして、動くことが困難になる。こういう場合は、仕事や家事などは一旦休んで、薬物療法と休養をとることが大切になる。再起不能になる前にエネルギーの補給を考える必要があります。そしてエネルギーが徐々にたまってくるのを待つことが大切になります。慢性的にエネルギー不足の状態にある人は、エネルギーを補給することが必須です。せめて半分以上はため込むことが望まれます。エネルギーはリチウム電池を充電して、再び使用できるようにしているようなものです。コンセントに電源をつないで、他からエネルギーを取り込んでいるのです。携帯電話もそうです。充電しないと使い続けることはできません。人間の場合も、エネルギー切れを起こすことが予想されるときは、全部使い切る前に補給することが大切です。エネルギー切れを放置していると、エネルギーの充電装置そのものが破壊されることがあります。これは株式投資をしている人を見ているとすぐに分かります。自己資金を失った人は、再起不能になり、投資の世界から強制退場させられます。投資するための資金が枯渇してしまったのですから、どうすることもできません。生活することすら困難になり、最悪自己破産することも考えられます。だから投資をする人は、投資する前に資金管理の学習が必要になるのです。エネルギーを枯渇させないで、余力を持って運用することが大切になります。森田理論では、短期的なエネルギーの枯渇防止のために、どんなことを勧めているのか。何も手につかないときは「超低空飛行」をお勧めしています。神経症でのたうち回っていても、最低限の日常茶飯事には手を付けましょうということです。それが習慣化して、自然に行動できている人は、絶えずエネルギー補給を行っている人です。ここで肝心なことは、決して墜落させないということです。一旦墜落してしまうと、再度飛び立つためには莫大なエネルギーが必要になります。なかには、ダメージが大きく、再び飛び立つことができなくなる人も出てきます。これはエネルギーの補給に失敗して、墜落して機体を損傷してしまったようなものです。森田では、エネルギーの補給のためには、目の前の事象をよく観察しなさいと教えてくれています。見つめていると、気づきや発見があります。問題点や課題が見えてきます。興味や関心が湧いてきます。これは行動のためのエネルギーがたまってきている証拠です。事実をよく見て観察するということは、エネルギーを補給していることになります。リチウム電池が切れる前に、充電するようなものです。「みつめよ」という考え方は、「エネルギーの補給を忘れるな」という事なのです。そのエネルギーを使って、実践行動を起こすことになります。その結果、目的の達成や成功は自信となり、さらなるエネルギーの補給になります。次への、挑戦のためのエネルギーを溜める器が大きくなるのです。失敗は、どうしてうまくいかなかったのかを反省することで、エネルギーの補給をしていると解釈すべきです。停滞しているようですが、大きくジャンプするためにはタメが必要になります。腰を沈めて力をため込むことで、大きく飛び上がることができます。ミスや失敗の経験が多いほど、エネルギーが充満して、高く飛び上がることが可能となります。失敗は成功の基ということです。
2020.09.16
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今日は青山学院大学陸上部監督の原晋さんを取り上げてみたい。原さんは2004年に広島の中国電力の営業マンから転身された。営業成績は周囲が驚くほど優秀な成績をたたき出していたそうだ。広島県世羅高校では全国高校駅伝で2位になった。その時キャプテンをされている。その後、選手としては、大きな成績は残されていない。2009年青山学院大学を率いて33年ぶりに箱根駅伝に出場した。就任後6年目。その時は22位だった。それから7年経過後の成績が群を抜いている。2015年から2018年まで4年連続で箱根駅伝優勝。2019年は2位。2020年は再び箱根駅伝で5度目の総合優勝。17年間で常勝軍団を作り上げた。今は全国から有望選手が集まってくる強豪校だ。最初の頃は、出身高校や大学のつてでやっと選手を確保できる状態だった。それでも6年間で箱根駅伝に出場できるチームを作り上げたのが凄い。原さんの言動は、森田理論の学習者にとって参考になることがとても多い。本日はその一端を紹介してみたい。レースで1分1秒を気にするのに、私生活で1秒を無駄にするのはおかしい陸上での成績と、日常生活は一体化しているという考え方なのだ。成績を得るためにはまず基礎を身につける必要がある。陸上競技にとって、規則正しい生活は、数学でいえば四則計算のようなものだ。これは森田理論でいうと時間の性を尽くすということです。1分1秒でも無駄にしないで、有効に生かし切るという指導がなされている。その姿勢が、物の性を尽くす、己の性を尽くす、他人の性を尽くすに広がっていく。目標管理については次のように考えられている。しっかりと自分の軸を持って、本物を追及していけば、いつか周りが認めてくれる。本物だけが勝ち続けられる。そのために、毎月全部員が実行していることがある。ちなみに部員は50名くらいである。生活面と技術面での目標を設定しているのだ。目標は手の届かない大きなものではなく、少し努力すれば達成可能なものにしている。それが1年12個も達成できれば、達成感が自信となって積み重なっていく。各自の目標が決まると5人から6人のグループのミーティングを開く。ここでは毎回違う顔ぶれのグループを作っている。タイムの速い選手、遅い選手が学年を超えて、お互いの立場を理解し、目標や練習方法を共有する。選手がアドバイスしあうことで自ずとチームに一体感が生まれてくる。また自分の目標を自分で深く考え、客観的に見直し、人に教えることは、個々の成長につながる。この目標管理シートは、食堂に通じる壁に張り出される。目標や行動計画を常に目に触れさせていると、達成への意欲が高まる。この方法は森田理論学習でいうと、実践課題を立てて実践していくということですね。最初の頃は私もそうしていました。そのうち気の付いたことをメモしてどんどん行動・実践に移していきました。それを集談会の体験交流で発表して、参加者からアドバイスをしてもらいました。励ましや評価してもらえるとさらに意欲的になりました。また次につながる貴重なヒントもいただきました。これは一人では難しいですね。みんなで行うと、片寄った考え方も修正されますし、心の安全基地のような安心感が生まれてきます。これが症状で苦しいときに、背後で自分を支えてくれるのです。
2020.09.03
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森田先生は練習と本番は違うといわれている。練習はどうも背水の陣を引くことが難しい。失敗してもよいという気持ちが入っているので、上達が遅れる。およそ練習という事は、型であり・模擬であり・畳の上の水練である。これが実際生活から遠ざかるほど、ますます虚偽になってしまう。練習が役に立たないというのは、その方の弊害の点を強調していったままでの事で、それが全く必要ではないという意味ではない。何事も常に、実際に当面する時には、真剣になるから、多くは我ながら予想外に、うまくできるものである。(森田全集 第5巻 437ページ)この話をさらに発展させて考えてみようと思う。森田先生も基本の反復練習の必要性は認めておられる。そうしないといつまでたっても型が身につかない。型が出来上がってないと、自己流になる。いわゆる型無しである。最初から自己流では、本番で成果を出すことが難しい。しかしいったん型が出来上がった人は、本番を想定して、真剣になることが必要だといわれているのだ。一心不乱になる必要がある。普通は練習の段階で、早く型を身に着けようと一心不乱になる。型を身に着けてしまうと、いつでもどこでも練習通りできるという自信が出てくる。すると練習の時に、気を抜くようになる。これが問題なのです。これは「型崩れ」ということです。この時精神の緊張感がなくなり、弛緩状態に陥るのです。これが最も危惧されるところです。一旦型を身に着けたときに、「だいたいコツは掴めた。もう安心だ」と思って、そこに安住してしまうと、もうその後の進歩はなくなる。そのうち練習時間も短くなり、練習に飽きてくる。その程度のレベルでは、本番では「もしうまくいかなかったらどうしよう」というプレッシャーで苦しむようになる。つまり、練習通りの十分なパフォーマンスを出すことができなくなり、自己嫌悪に陥る。反対に型を身に着けたとき、「やっとスタート地点に立つことができた」と思ったらどうだろうか。そこにとどまってはいないはずだ。新たな課題や目標に向かって動き出す。成果を上げているライバルを目標にして、努力精進していくはずだ。プロ野球の選手もそう思って取り組んでいる選手しか大成できない。「守離破」という言葉があるが、この段階は「守」の段階だと思っている。この段階が最終地点ではないのだ。これからは努力精進を重ねてさらに進歩させていく。「離」の段階に進むのだ。その過程で、気づき、発見、工夫、アイデア、意欲の高まりがどんどん増えていく。改善や改良を積み重ねて、もとの型とは違ったものが出てくる。自分にぴったりと合う感覚が自然に身についてくる。これは森田理論でいう「努力即幸福」の世界です。感情も一つのことにとどまっている段階から、どんどんと勢いよく流れるようになる。神経症とは縁のない世界に入ることができるようになる。さらに弾みがついて、今までになかったような段階に到達すると「破」の段階に至る。その道の達人といわれるような域に達する。本番が大切だというのは、ますます感情を刺激して、精神の緊張状態が継続し、一心不乱になる度合いが高まることであると思う。
2020.08.28
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広島で年間18万枚のお好み焼きを焼いている市居馨さんが紹介されていた。とても人気のある店で全国からお客さんがやってくる。広島のお好み焼きは、薄い生地の上にキャベツ、豚肉、麺をのせて最後に卵で蓋をします。焼き終わったら、お好みソースをかけ、青のりを振りかけます。一般的なお好み焼きは、水で溶いたメリケン粉の中に、細かく切ったキャベツや肉などの具材をかき混ぜてそのまま焼きます。広島風お好み焼きはそれとはまったく違います。市居さんのお好みを食べたお客さんがよく口にされるのは、「おいしいね。キャベツが甘い」という言葉です。病みつきになって年間300枚も食べにくるお客さんもいるという。参考になることがありましたので、ご紹介させていただきます。お好み焼きを焼く鉄板の温度は一様ではないといわれる。一番熱いところで焼くのだという。ところが熱いところで焼くとすぐに焦げてしまう。それを避けるために、一般的には熱いところから、温度の低いところに移動させる。しかし移動させるとキャベツに熱い蒸気が行きわたらなくなるのだという。一部分が半生のような状態になってしまう。麺も十分に焼けていない。これが味を悪くする最大の原因となるそうだ。キャベツの甘さを極限まで引き出すのは、キャベツの切り方もある。その方面の研究や試行錯誤も怠らない。しかし一番大切なのは、キャベツを焦げる一歩手前までまんべんなく蒸らすことだといわれる。焼いている時、シューン、シューンという音に切り変わり、教えてくれるという。これ以上焼くと焦げてしまうという合図だという。これでキャベツがあめ色になり、独特の甘い食感と匂いが生まれてくる。市居さんの優れたところは、これを20枚同時に行うことができることだ。野菜嫌いの子どもが、市居さんが焼いたキャベツをおいしいと言って食べていたのが印象的だった。その市居さんがこんなことを言っていた。店が開店する前に、1時間かけて隅々まで丁寧に磨いていた。それを尋ねると、「アア、面倒だ、しんどい」と思うとそこで終わってしまうのです。それが仕事の粗さになってでてくるのです。最終的には、お好み焼きの味になって出てくるのです。だから手が抜けないのです。たかがお好み焼き、されどお好み焼きなのです。それから、いつまでも探究心を持って前進していきたい、ともいわれていた。ある程度繁盛してくると、もうこれくらいでよいと思いがちですが、そう思った時点で、もうすでに後退が始まっているのです。後退の坂道を転がり始めたら、どうすることもできない。精神的な面で楽な方向に向いてしまうと、お好み焼きを焼くことが苦痛になってしまう。常に研究心を失わないで、改良、改善を心掛けて取り組んでいきたい。こうした仕事に取り組む姿勢を、多くの弟子たちにも教えていきたい。この2つは、森田理論を学んでいる私たちにも、とても参考になります。
2020.08.20
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形外会での鈴木知準さんの発言です。私はあまり静かだと勉強ができないという体験を、今夏初めてやりました。帝大の寮が山中湖にあって、80人ばかり収容のできる大きな家に、私はただ2人でいたのです。あまりシーンとしていて、いたずらに空想ばかりが頭を駆け回り、何も勉強できませんでした。今度は、他の家へ引っ越しました。するとそのところは、ラグビー選手の宿泊所で、ダンスはやる、レコードはかける、実にうるさいところでしたが、不思議にドンドン勉強がはかどりました。いろいろの事が、クルクル頭の中を駆け回るときは、勉強も楽にでき口笛なども思わず出たりする時である。この間その事を叔母に話したら、叔母は心配して、それは頭が、どうかしているのだ、時々静養しなければいけないと注意してくれました。友人は、また僕の勉強ぶりを見て、「君は立ったり・座ったり・口笛を吹いたり。歌ったり、それで一体勉強ができるのか」というから、「僕はこの時が、一番よく能率の上がるときだ」といったら、「君は異常者だ」と狂人扱いにされました。(森田全集 第5巻 410ページ)森田理論を学習すると、精神が緊張状態にあって、あれもこれも神経が行きわたっている時に、仕事や勉強がよくできる。また、気づきや発見、興味や関心、新しい発想やアイデアが泉のように湧き出てくるといいます。反対に「退屈だな。何か面白いことはないかな」などと思っているようなときは、感性は鈍化している。感情が停滞して、気づきや発見、興味や関心、新しい発想やアイデアなどは沸き起こってこない。たとえ沸き起こったとしてもありきたりで貧弱である。変化の激しいところに身を置いていると、感情が刺激を受けて緊張状態に変化してくる。また最初はイヤイヤ仕方なしに手を付けることで、感情が発生して、どんどん膨らんでくる。そして感情が変化していく。このことが分かっている人は、積極的に変化の激しいところに出ていく。人前に出ていく。なすべき課題をたくさん持っていて、次々と手掛けていく。弾みがついて、精神が緊張状態に入り、好循環が始まる。一日が終わった時、心地よい疲労感とともに、すがすがしい充実感を味わうことができる。反対にゴロゴロと昼寝をしたり、テレビなどを見て過ごした人は、「しまった。今日も無為の一日を過ごしてしまった」と感じることになる。後の祭りである。
2020.08.08
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形外会で森田先生が入院患者の日記を紹介されている。夜、「事実唯真」の彫刻をする。興味が起こらず、居眠りを催す。小刀を動かすだけで、時間のくるのを待つに過ぎない。困ったものなり。入院10日目。寝床に束縛を感じたが、思い切って起きた。一日、熱のない仕事ぶり、他の人がやっているから、やるというに過ぎぬ。これに対して森田先生は、「それでよし。当然のこと」「それで上等。これを従順という」と赤字でコメントされている。(森田全集第5巻 396ページ)この入院患者の人は、さあやろうという風に気持ちを高ぶらせて、しかる後に行動しなければ、取り組んだ結果はでたらめになる。頭で考えているような結果になることはない。兎に角、やる気を出して、しかる後に行動すべきであると考えている。取り組む前からそう決めつけている。穿って考えると、実践や行動しないための言い訳として、このような考え方に固執しているとも考えられる。失敗するのが分かっている。成功することは夢のまた夢だ。このような考え方をしていると、取り組んでいることに集中できない。失敗やミスすることを心のどこかで期待しているところがある。そうすると、案の定失敗やミスが現実となる。やはり自分の思った通りのことが起きた。自分で自分を納得させている。そして、不安や恐怖を感じることは、今後一切手を出さないという固い決意を抱いてしまう。森田先生は次のようにコメントされている。昼間一日働いて、夜疲れて、眠くなり、彫刻しても身が入らない。それはその時と場合とにおける心の状況であって、腹のへらないときに、食が進まないと同様である。何ともしかたがない。こんな時に、身を入れてやらなければと自分を叱咤激励すると、強迫観念となる。仕事に熱が入らない。興味が起こらない時には、ただ規則に示された通りに、他人の真似なり、仕事のふりをしていてればよい。そのうちツイツイ身が入ってくるものである。入院中の患者が、初めは仕事がいやでも、その心のままに、これを否定・抑圧しようとせずに、ボツボツやっておれば、心は自然に、外向きに流転して、いつの間にか、仕事三昧になるのである。行動というのは、最初から意欲満々で取り組むことはまれである。イヤイヤ仕方なしに取り掛かっているうちに、興味や関心、気づきや発見、アイデアなどが生まれてくる。心身ともに弾みがついてくるものである。軌道に乗るまでは誰でも苦労しているのである。その苦労を惜しむという考えでは、自信や楽しみはいつまでたっても味わうことはできない。
2020.08.05
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森田先生が次のように言われている。ここで入院中に、誰か、僕から、何か教えられた事があるか、思い出して御覧なさい。黒川大尉そのほかの人で、「ここで何物をも得なかった」という事を、よく告白することがありますが、それは少しも教えられた事がないからである。(森田全集第5巻 355ページ)普通は高い診察料や入院費を負担している人は、入院しているだけで神経症は克服できると思います。ところが、入院してみると炊事、掃除、洗濯をさせられる。ニワトリやウサギの餌を野菜市場で集めてくるように言われる。下肥の汲み取り作業もさせられる。プライドの高い人たちにとっては、どうして高額のお金を支払っているのに、こんなつまらない家事をしなければならないのか。情けなくて、悔しくて涙が出てきたというのです。どうして神経症を治すための森田理論を系統立てて教えてくれないのか。詐欺師のような医者である。実際にそう判定した人もいたようである。1919年に森田理論は確立されており、森田理論を叩きこんで、その後実行や実践をさせるという方法も可能であったのです。森田先生はその方法はとられなかったということです。あくまでも実行や実践を優先させた。実行や実践ができるようになると、理論的なことは分からなくても全治者として退院させたということです。これは驚くべきことです。理論の裏付けは形外会という元入院者の交流会兼勉強会でされていた。ここでも、系統立てた森田理論をシリーズ化して講話するというものではなかった。集まった人たちの話の中から、森田理論のポイントをその都度お話しするというスタイルだった。もっと言えば、自分の生活をありのままに見せることで、その後ろ姿を見て森田理論を理解させるという方法をとられていた。それを実際に理論化されたのは高良武久先生だったというべきであろう。こうしてみると森田先生は根っからの臨床医であったということです。東北大学の丸井先生のような学者タイプではなかったということです。これは私たちの森田理論学習のすすめ方の問題提起をされていると思う。私たちが集談会に集いやっていることは、主に森田理論学習を深化することです。このやり方で問題ありませんかということです。森田理論のことは隅から隅まで理解しているが、「今落ち込んでいます」「深夜までネットゲームをたのしんでいます」「パチンコが唯一の趣味です」「毎日暇をもてあましています」などと言う話が出ていることをどう理解すればよいのか。これは学習と実行が完全に分断されているという事ではないか。あまりにも観念的になっているのではないか。理論と行動は車の両輪といわれますが、理論のほうにおおきな車輪がついて、実行、実践、行動の車輪があまりにも小さすぎる。すると行動の周りを理論の車がいつまでも回り続けている。これでは自己分裂を起こして、森田理論とかかわらない時のほうがよかったという事になる。森田先生が教えていることは、理論があまりにも肥大化している状態では、理論学習は中止して、実行、実践、行動にエネルギーの大半を投入しなさい。そして将来的には、理論と行動の車輪の大きさを整えなさいという事だと思います。そうしないと前進できない。葛藤や苦悩が増悪していく。それを解消するために、益々森田理論学習の深耕に拍車をかける。悪循環になっているのです。実践や行動が習慣化されたときに、後付けで森田理論で補強できると鬼に金棒となる。本当の意味で森田理論が役に立つのである。
2020.08.02
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私は森田理論学習に取り組む人は3年計画をお勧めしている。この3年間は寝食を惜しむぐらいに取り組んでいけば、素晴らしい宝物を手にすることができる。1年目は基礎編、2年目は応用編、そして3年目は実践編へと進む。今日はその中の実践編の内容のあらましを紹介してみたい。1、実践力、行動力を身につける。2、「無所住心」態度を身につける。3、リズム感のある生活を作り上げる。4、ものそのものになりきる態度を身につける。5、変化対応力を身につける。6、「生の欲望の発揮」を優先する態度を身につける。7、自分、他人、物、時間、お金の価値を最大限に引き出す。8、最初に湧き上がってきた感情、いわゆる「純な心」から出発する。9、不安と欲望の調和。バランスを身につける。10、事実、現実、現状を受け入れる態度を養成する。11、ありのままの自分から出発する。自分にも他人にも「かくあるべし」を押し付けない。12、他人の仕打ち、他人の欠点、弱点、ミス、失敗を許す。13、森田の達人の観察して、自分の生活に取り入れる。私はこれらを深耕して1冊の本としてまとめています。こんなに取り組む課題があるのかとびっくりされるかもしれませんが、最初から全部に取り組むことは、お勧めしていません。またその必要もありません。1つか2つを選択することです。そして選択したことを徹底していくことが効果を高めます。富士登山には、吉田口、御殿場口、富士宮口、砂走口の4つのルートあります。それぞれ往復距離、登山時間、混雑度合い、疲労度が違います。しかし注目していただきたいのは、どこコースを選択しようが、あきらめないで登山を続けると誰でも富士山頂にたどり着くということです。富士山頂にたどり着き、達成感と自信をつかむことが大切です。私が尊敬している学習仲間は4と7を選択しました。どんな小さなことでも「ものそのものになりきり」心を込めて取り組めば、無限の楽しみがあるということが分かります。7は「物の性を尽くす」ということです。この2つに取り組むことで、「森田の達人」の域にまで到達されました。とても魅力のある生き方をされており、周囲の人に与える影響度合いが高い人です。私は1から入りました。その中でも「一人一芸」に注目して取り組みました。アルトサックス、ドジョウ掬い、腹話術、浪曲奇術、獅子舞、しば天踊り、カラオケなどです。そのおかげで忌憚のない人間関係が大きく広がりました。また老人ホームの慰問や地域のイベントなどで引っ張りだこになりました。ただ現在はコロナウィルスの関係で自粛中です。行動に弾みがつき、生きていく自信のようなものが生まれてきました。気が付くと神経症に関わっている時間がとても少なくなりました。つまり神経症を克服することができたのです。
2020.07.26
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定年退職する時、自分のやって見たいことを20個ぐらいは用意しておくことが大切だと聞いたことがあります。そうしないと、退屈だ、暇だなと感じるようになる。そうなった時点で、規則正しい生活が失われている。精神は緊張状態から、弛緩状態に変化しており、これを立て直そうとすることは難しくなる。それを防止するために、定年後に取り組むべき趣味のようなものを20個程度は用意しておくことが不可欠だというものだ。今日はこの問題を考えてみた。私は定年を迎えたとき、規則正しい生活を維持したいと思った。そのためには、仕事をすることがよいのではないかと思った。マンションの管理人の仕事を選んだ。この仕事は残業がない。階段を上り下りして運動になる。自分で仕事の段取りができる。多少の収入にはなる。冷暖房完備でトイレ付きの部屋が使用できる。受付時間は自由なことがある程度できる。一人でやる仕事なので人間関係のわずらわしさがない。そして、この仕事のおかげで生活のリズムができたことが大きい。土日祝日を除いて、毎日芯になる活動を持っていることは大変重要だと思っている。私の場合はそれが仕事だったわけだ。生活にゆとりがある人は、別に仕事でなくても構わないと思う。例えば主婦の人は、3度の食事の準備、洗濯、掃除、整理整頓、ペットの世話、観葉植物の手入れ、家庭菜園の世話などが毎日決まった時間に行われているとすれば、芯を持っているということになる。男性でも、曜日ごとに違ってもよいが、その日ごとに芯になる行動を確立しているということが極めて大切になる。それを持っていると、迷いがなくなり精神が安定してくる。そういう生活が3か月なり、1年続くということが、緊張感のある生活につながる。要は、毎日行き当たりばったりで、気の向くまま、風の吹くまま、根無し草のような生活を繰り返しているとすれば問題が出てくる。ある釣り好きの人が定年退職して、毎日磯釣りを楽しんでいた。ところが、3か月もすると、飽きてしまって興味を失った。ゴルフが何よりも楽しみだと言っていた人が、そればかりできるようになると、ポカリと心の中に穴が開いたようだという。これらは余暇で楽しんでいるうちは、生活の活性化に役立っていたのだが、それが主役になると、途端に興味や関心がなくなるということだと思う。毎日芯になる仕事や行動を確立しておくことは、生活のリズムを作り、精神を活性化させるために欠かせない。そのうえで、人生を彩るのは、興味や関心のあるものをいくつ持っているかという事だと思う。これらをたくさん持っていれば、人生の楽しみはいくらでも出てくる。今の私でいえば、読書、株式投資の研究、カラオケ、家庭菜園、サックスの練習、一人一芸の練習、老人ホームの慰問活動、このブログへの投稿、草花の手入れなどである。これらはメインではないが、生活のアクセントとして大いに役立っている。料理でいえば、隠し味、スパイスとして絶妙な味を引き出してくれているようなものだ。そういう態度を持って生活することが肝心だと思う。
2020.07.18
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森田の合宿学習会に参加された方が紹介されている言葉である。合宿学習会のなかで、周囲の状況に気が回らずぼんやりしている時など、「神経質が足りない」という言葉が、冗談めかして飛び交っていた。「気にするな」「神経質になるな」とさんざん言われ、自分でもそう思ってきた私にとっては、実に新鮮に響き、励ましの言葉と受けとめた。この言葉は、「生の欲望」の強い神経質的資質を肯定的に捉えている。だからネガティブな方面ばかりでなくポジティブな方面へ、内面的、部分的なものだけではなく、外部の環境を含め全体に神経を働かせよと、言っているのだ。確かに日常的な行為・行動の際に、全体的な視点から目配りをすることで、自らの小さな「とらわれ」を離れ、他者への思いやりが生じてくる。(生活の発見誌 6月号 15ページより引用)神経質性格が持っているプラスの側面を意識して、それを大切にして活用していきましょうということである。普通は神経質性格は発揚性気質の人と比較すると、劣っていると思っている。神経質性格を忌み嫌い、少しでも発揚性気質に性格改造したいなどと考える。そういう思いを断ち切り、持って生まれた神経質性格のままで生きていこうと決意を固めることは、かなりハードルが高いのである。この認識の誤りを自覚するためには、森田理論学習が役立つ。「神経質性格の特徴」という単元の学習をすると、性格にはプラスとマイナス面があるということが分かる。マイナス面はそのままにして、プラス面に光をあてて生活していく方が賢明な生き方であると理解することができる。こういう見方ができようになることのメリットは計り知れない。森田とかかわりがないと、いつまでも神経質性格を忌み嫌うことになる。特に小さいことによく気が付く、感性が豊かである。失敗に学ぶことができる。粘り強い。意欲的である。これらを認識して、活用法を開発していくと、素晴らしい人生になることが分かる。そのノウハウは先輩会員や森田理論が懇切丁寧に教えてくれている。最初はモノマネから入るとよいと思う。弾みがついてくると、自分独自のやり方も付け加えて、どんどん発展させていけばよいのである。その過程で問題点、課題、夢、希望が生まれてくる。そういうものを一つでもつかまえた人の人生は光り輝いている。人生90年時代、自信を持って悔いのない人生を全うできると思う。森田に関わった人はすべてそうあってほしいものだ。
2020.07.16
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職業の数は約12000種類ほどあると聞いた。選択の幅が無限にあるという事だ。これだけあると、できるだけ自分の興味のあるものや得意な分野の職業に就きたいと思うのが人情である。しかし選択肢が無限であるために、ああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返しているうちに、ついに定職につかなかったという人も増えている。アルバイトや派遣社員で食いつないで、そのうちやりたいことが見つかったら、それを生涯をかけた仕事にしたいという気持ちが強いのである。しかし現実にはそんな仕事が見つからない。あっても技術や資格が障害となって今一歩踏み出せない。森田先生は仕事の選択についてどう考えておられたのだろうか。興味は実行により、得意は熟練し、成功することにより、しだいに後から分かってくるものであるといわれている。興味があるもの、得意なものを選んでいるうちは、何をやってもたいしたことはできない。また、仕事は周囲の状況から運命によって決まることが多いともいわれている。つまり最初から完璧に職業を決めることはできないといわれている。興味、関心、課題、目標、やる気、意欲などは、一心不乱に仕事に打ち込むことによって自然に生まれてくる。得意分野、才能、自信、工夫、改善は小さな成功体験を積み重ねるうちに、自然に獲得できるものである。最初からあるものではなく、実行によって生まれてくるものである。これらから言えることは、頭の中で取捨選択に時間を費やしているのはもったいないという事になる。ヨーロッパなどでは、モラトリアムと言って学校を卒業した後、いろんな職業体験をする期間が社会的に認知されているという。そのうち興味があるものが見つかると、その方面に進むことになる。有名な一流企業に入る、安定した公務員になるなどを最終目標にすると、いったん採用されてしまうと、やれやれ第一目標を達成したという気持ちになり、その後の伸びしろはなくなってしまうのではなかろうか。プロ野球の選手を見ていると、ドラフトにかかる事を最大の目標にしていると、大成することは難しい。反対にドラフトにかかることは、プロとして生活するための出発点にやっと立つことができた。これからはライバルたちを押しのけて、絶対に1軍メンバーに入り、レギラーをとると決意して、努力精進した人は大成する。それでもごく一部の人ではあるが。こうしてみると職業選択は、向き不向きも確かにある。好き嫌いも確かにある。だから慎重に見極めるのも納得できる。そうすべきである。しかし基本的には、生まれた時代、生まれた国、家庭の状況、社会状況に左右されることが多い。という事は、頭の中でシュミレーションを繰り返すのではなく、ある程度のところで妥協して早く仕事を始めた方がよいと思う。間違っていても途中で軌道修正は可能なのだから。肝心なことは、仮に選択した仕事にどれだけ心を入れ込んで取り組むかにかかっている。イヤイヤ仕方なく始めた仕事であっても、そのうち興味や関心が持てて、さらに意欲がみなぎってくるかどうかが問題である。そうなれば、自分の仕事に愛着が生まれ、人の役にも立ち、生きがいを持てるようになる。職業選択に力を入れる割合を3ぐらいにして、残りの7は、選択した仕事にいかに情熱を傾けるかにシフトした方が賢明であると思う。
2020.07.08
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4月号の生活の発見誌に次のような記事がありました。再下鈍の者も、12年を経れば必ず1験を得 (最澄)どんなに愚鈍の人でも、1つのことを12年続けていれば、必ず何かの結果が出てくると、天台宗の開祖である最澄は述べている。一つのことを休まずに続けていくことは難しい。ましてや、結果の見通しの立たないものは、心に弾みがつかない。しかしやり通さなければ技術も知識も身につかない。継続は力なりである。この話はとても大切なことを言われていると思う。仕事、趣味、資格試験、スポーツ、楽器の演奏、ブログ、日記でも何でも構わない。これはと思ったことを、継続していくと、とんでもない成果を上げるというのである。日々の実践はたいしたことがなくても、積み重ねるとすごいことになる。例えば、金利が7パーセントの時、10年間100万円を複利で金融機関に預けていると、10年後には200万円に増えていた。こんなイメージだ。着想はよいのだが、すべて長続きしないというのは、神経質の執着性を活かしているとはいいがたい。この話を聞いて思い出すことが3つある。一つは1992年6月号の生活の発見誌の記事である。ある板前さんで、奥さんからお父さんは政治や経済に関しては何も知らない。カラオケで歌を歌えば音程がでたらめ。麻雀をすればみんなのカモになる。ゴルフも人並みにはできないので、お荷物といわれている。その板前さんが悠々と人様の笑いものになっていられるのは、料理にかけては誰にも負けないという聖域を持っているからだという。その板前さんは相当な努力をされているのだろう。一つだけでよい。平凡なもので構わない。そういうものを持っているかどうか。そういうものを持っていると自信が生まれてくる。情熱や意欲が湧いてくる。その自信が思い通りに事が運ばないときに、強力にその人を支えてくれるという事だ。劣等感、自己嫌悪、自己否定に陥るのを防止してくれるというのだ。経営者の稲盛和夫氏は次のように言われる。私は化学の専門家です。セラミックについては誰にも負けまいと努力を重ねてきました。すると、この分野では世界中のどの研究者や専門家も太刀打ちできないところまできた。セラミックのことは稲盛に聞けという事になってきた。経営者というのは、そういう得意技を持つ必要がある。それは柔道で一本背負いが得意な人が、相手がどんなに警戒していても、決めるときにはきちんと成果を出す。そのために普段から切れと技術を鍛えていないといざというときに役に立たない。経営者はそういう努力精進を重ねることが必要なのです。高良武久先生は、世の中で役に立つ知識や技術を身につけなさい。10年ぐらい一つのことに取り組めば、その道のエキスパートになれる。そうなれば人が集まり、人間関係がうまくいくようになる。対人恐怖症の私は、この言葉に触発されて、このブログに毎日取り組んでいるのです。今8年半になります。この段階でも、始めたころと比べると、確かに高良先生の言われることは正しかったというのが実感です。
2020.06.26
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医師で小説家の帚木蓬生さんは、「よい習慣は才能を超える」といわれている。小説は毎朝2時間、原稿用紙4枚程度書いているといわれる。これを30年間続けてきた。そうすると1か月120枚。1年で1500枚程度になる。30年間では45000枚になる。これはプロでもなかなか達成困難な数字だ。プロの小説家は一日中机の前に座って仕事をしている。それに対してパートタイムの小説家だといわれている。それでも良い作品ができて、様々な賞をいただいておられるのだ。ちなみに「1万時間の法則」の法則の話もされていた。一日3時間、1週間21時間一つのことを深めていくと10年で1万時間になるという。これが達成できると、その道の達人の域に達するといわれる。魅力的な話である。ただ途方もない努力が必要になる。自分の場合を振り返ってみた。日記をつけ始めて14年になる。その日の天気、食事の内容は必ず書いている。その日の出来事、実践や行動。問題点や課題などを書いている。夕食後は日記を書くことが習慣になっている。書かないと気持ちが悪い。1年が終わると主な出来事を整理している。日記をつけることで役に立つことは、以前の日記から行動のきっかけがつかめることぐらいか。多くを書こうとすると頓挫する可能性が高いと思う。集談会に参加して34年になる。単純計算で400回以上だ。それ以外にも出かけることがあったので実際にはそれ以上だ。1年365日だから、1年間は毎日集談会に参加してきた勘定になる。これを続けたおかげで貴重な友人がたくさんできた。また森田理論の学習によって、神経質者としての人生観を確立することができた。途中参加することが嫌になることもあった。私は世話活動に加わっていたのでやめることはなかった。それから集談会のあとの懇親会の楽しみが長続きする原因になっていた。このブログは8年間続いている。投稿に要する時間は朝の1時間のみである。ただし原稿の内容は前日のうちに決めている。最初は学習した内容を投稿するのが精いっぱいだった。今では日常の生活の中から、こういう場合、森田先生ならどう考えられるだろうと考えながら書いている。よく続けられますねという話をされる方がおられますが、私にとっては習慣化していて、朝飯前のことなのです。今では一生続けていきたいと思うようになった。この分野なら人の役立つ足跡を残せるのではないかと感じています。この習慣は自分の成長につながるのでやる気が出てくるのです。
2020.06.11
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循環論理ということについて森田先生の説明を見てみよう。「困った」という事と、「どうしよう」という事とは、大と非小とのように同一のことです。この困った、どうしようの二つの間をさ迷っているのを循環論理といって、いつまでも到達点はなく、限りない事になる。すなわちいつまでも、窮することはない。ただそのどれでも、その一つを見つめていれば、困ったことに対して、自ら道が開けてくる。また一方のどうしようという事を、右か左かやって見さえすれば、必ずその結果が現われる。とにかく推理なり実行なりを進めていきさえすれば、循環理論はなくなるのである。(森田全集第5巻 289ページより引用)「腹が立ってしかたがない」「不安で居ても立ってもおられない」「はずかい」という気持ちになった時、頭の中で「どうしよう、どうしよう」と考えてばかりでは物事は一向に解決しない。それどころか精神交互作用によって、注意や意識は、そのことにのみ向けられるようになり、葛藤や苦しみはどんどん強くなる。そして最後には自分一人の力ではどうすることもできなくなる。心配ごとや困りごとで頭がいっぱいになり、目の前のなすべきことを放りだしてしまう。循環論理に陥ってしまう人は、実生活の悪循環も招き寄せているのです。循環論理に陥らないようにする方法は、集談会の森田理論学習で学びました。これは現在の最新の学習の要点には載っていません。私が30年前に学習を始めたころの、学習の要点に載っています。これを少しアレンジして説明してみましょう。困難に直面して、不安を感じ、迷った時のチェックポイントは何か。1、問題は何か。困っていることは何か。腹が立っている原因は何か。不安や恐怖を感じていることはどんなことか。違和感や不快感はどんなことか。これらを具体的に書き出してみることです。感情は横に置いて、客観的な事実を詳細に書いて明らかにするのです。2、つぎに、原因を明らかにするのです。その際、相手に一方的に非があると決めつけるのではなく、客観的に両面観で原因を探っていくことです。問題は相手の相互関係の中で起きているのですから、自分の対応にも反省点がないかと自己内省することが大切です。これで原因を一方的に決めつけることがなくなります。また、原因を探るにあたっては、森田理論学習で学んだことを活用したいものです。不安や恐怖については、「不安と欲望」「認識の誤り」の単元で学んだことを踏まえて原因を探っていくことが大切です。また人間関係の面では、感情の法則、神経質性格の特徴、不即不離の考え方をもとにして原因を探っていくと客観的な原因がつかめます。さらに自分一人ではつかめないという人は、信頼できる先輩などに相談に乗ってもらうことも必要になります。その時は素直に謙虚になることです。3、原因が分かったら、問題解決のためにどうすればよいのか書き出してみましよう。一つだけではなく思いつくままにたくさん書き出してみましょう。紙に書きだすことによって、物事が客観的にみえるようになり、考えがまとまってきます。4、書き出した多くの解決方法の中から一つだけを選び出しましょう。自分にはできそうもない解決方法は除外します。そして優先順位の高いものから選んでいく。頭の中で試行錯誤を繰り返すのではなく、書き出すことによって、解決方法がまとまり、選択しやすくなります。5、選び出したら、ただちに実行に移す。ここでやっと循環論理から抜け出すことができるのです。循環論理に陥っている人はぜひ試してみてください。
2020.06.05
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森田全集第5巻の251ページからの引用です。今日、患者が、鋸で木を切っているところを見たが、ここの患者は、鋸の種類を選ばないうえに、いくら鋸が切れなくても、平気でひいている。鋸の切れ味などは全く無頓着である。職人は、道具を大事にして、常にこれを研いでいる。素人は、その研ぐ時間で、少しでも、木をひいた方が、その時間に、余計に能率があがると思っている。これは大きな思い違いである。先日も材木屋で、木挽を見たが、鋸の目立てを、1日に3回ばかりもやり、1回に40分ぐらいもかかるという事である。素人が考えて、無駄な時間が、実は最も大切な時間であるのである。これは草刈り機も同じである。使っているうちに刃がちびてくる。切れ味の悪い草刈り機は、それをエンジンの回転数でカバーしようとするので燃料が余計にかかる。そして草に対して草刈り機を強く当てて引きちぎるようにして刈るので、人間のほうもしんどい。エンジンもめいっぱい吹かすので終いには焼け付いて煙が出てくる。田舎に帰ると近所の人はみんなグラインダーのついた研ぎ機を持っている。切れが悪いと感じると、みんな刃を研いで使っている。ところがある人が言うには、そんな面倒なことはしなくてもよいという。ホームセンターに行けば1000円ぐらいで新品が手に入る。よく切れる刃が欲しかったら農協で買えば3000円ぐらいで長持ちする替刃が手に入るという。使い物にならなくなったらすぐ廃棄するというのだ。研げば新品同様になるのに、なんとも割り切れない。でもそれが効率的だという。第一グラインダーを買うお金がもったいないという。妙に納得させられるような話だった。しかし物の性を尽くすとはいえない。森田先生の話を考えてみると、まず木が切れないという事に無頓着であるのが問題であると思う。刃がちびたり欠けた鋸は確かに切れ味が悪い。切っている途中で鋸が曲がったりする。スムーズに切れないとイライラしてやる気がしなくなる。そういう不快な感情に気が付かないというのはどうしたことなのか。この場合は、木が切れないという事実に向き合っていない。それは木を切るという事に真剣に取り組んでいない。そんなことはどうでもいいではないかという気持ちなのだと思う。それよりは、神経症を克服することを考えた方が得だ。先生に言われたことを素直にやっているのに、文句を言われるような筋合いはない。そういう気持ちでは、鋸が切れようが切れまいが関係ないという事になる。ここで気づきがないというのは、森田では救いようがないと思う。森田では行動実践によって、豊かで鋭い感情が泉のごとく、こんこんと湧き出ることを前提としているのである。そこが森田の出発点であるともいえる。原点ともいえる。森田先生は「見つめよ」といわれる。見つめながら、ちょっと気に留めていれば、何らかの感情が湧き出てくる。これが大事なところです。私たち神経質者は他の性格と比べると、感性が鋭く豊かであるという特徴があります。それなのにどうして豊かな感情が湧き出てこないのでしょうか。それは目の前のことに目を向けていないからだと思われます。森田では「無所住心」といって一つのことに集中してはいけないといいます。アンテナを広げてあらゆる刺激に敏感になって、緊張感のある生活をお勧めしています。その時の注意や意識は外向きになっています。決して内向的にはなっていません。鋸の例では、ほぼ100パーセント近く内省的になっているのだろうと思われます。しかも、ネガティブで悲観的、自己嫌悪、自己否定に傾いています。そういう状態では豊かな感情が発生してこないのです。元々感性は鋭いものを持っているのですが、強い内省性によって抑圧されているのです。ダムで水がせき止められているような状態です。豊かな感情を発生させるためには、自己内省一辺倒の生活を外向きに転換させてあげることが重要になると思われます。そのためには「凡事徹底」に取り組むことだと思われます。
2020.05.26
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森田先生のお話です。全く無意味のようなことでも、実際に当たってみると、そこに大きな人生の意味がある。極めて些細な家庭の仕事の内にも、人生の意味の発見があり、私のところでは、この意味で神経質が全治し、あるいは悟りの境涯にも達することができるのである。我々の知識の進歩・真理の発見には、まず疑問・懐疑というところから出発する。疑問があってこそ、初めて研究心が起こるのである。我々は先入観や伝統や独断やで、そのままに決めてしまって、少しも疑わない時には、ただの凡人である。リンゴが落ちる事を真剣に疑問としてこそ、初めてニュートンが、引力を発見したのである。人間の指は、切りそろえたように、一様ではなくて、なに故に長短が不ぞろいであるか、といえば、強迫観念ならば、正に詮索・疑問恐怖となるべきところである。しかるに深くこれを研究・考察する時に、誠にこれは掌中に、球をつかむに、ピッタリと適応するようになっている。猿の親指は、人間のように、他の指と相対向せずに、同じ方向に向かい、枝に飛びつくにはよいが、物をつかむには不適当にできているのである。(森田全集第5巻 270ページから271ページ要旨引用)これは日常生活の心得について説明されている部分である。イヤイヤ仕方なしに手掛けていくなかに、関心、興味、疑問、懐疑、気づき、発見が生まれてくることが肝心なのである。先生に言われたから仕方なくやっているのでは、興味や関心などは生まれてこない。こういうのはお使い根性の仕事だといわれている。また神経症の克服のための実践や行動は、心が常に神経症の克服に向いている。物事本位にはなっていないので、関心や興味を持とうとしても無理なのである。最初は気が向かない、さぼって楽をしたいと思っても構わない。その自然な感情をそのままに感じ取ればよいのです。でも放っておくこともできないので、しぶしぶ手をつける。仕方なく起床して会社に行くための準備を始める。すると停滞していた感情が、行動に促されて少しずつ動き出していくのです。ここが肝心なのです。行動が呼び水となって精神が緊張モードに入っていくのです。最初は他人から強制されたことでも、神経症を治すという実践・行動でも構わないのです。イヤイヤしぶしぶでも全く問題ない。観念中心の世界から、行動の世界へと方向転換するという事が肝心なのです。行動していくと、ついそちらのほうに気を取られて、症状のことは気にも留めていなかったという状況がしばしば現れるようになります。その先に関心、興味、疑問、懐疑、気づき、発見が生まれてくるのです。行動に弾みがついてくると、もう大丈夫です。このことを森田理論学習で学び取り、実生活に応用できるようになると、第一段階の神経症の克服は達成できるのです。またこの段階をきちんと踏んで、基礎固めを行わないと、次の本丸の第二段階の神経症克服には向かうことができません。無理に進むと砂上の楼閣を築くようなものです。混乱して、いつの間にか破綻します。ちなみに本丸は「かくあるべし」を減少させて、事実本位の生活態度を身に着けることです。そして生の欲望そのものになり切れば、森田の達人の域に達することができます。ここまでくれば、よくぞ人間に生まれたりと感謝できるようになります。
2020.05.25
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森田理論では、行動するにあたっては、気分本位であってはならないといわれています。どんなに気分が行動することを拒否しても、イヤイヤ仕方なしに、日常茶飯事、仕事や勉強などに手を付けなくてはいけない。行動することが呼び水となって、気分そのものが変化してくることを忘れないようにしなければいけない。行動することで、将来の明るい見通しが立ってくる。しかし行動することは不安も大きい。エネルギーも使います。考え違いしやすいのは、やりたいという気分が出てきたら行動しようと思うことです。やりたいという気持ちが湧きおこらない限り、行動はしないと決めつけている。こういう考えだと、基本的生活習慣、規則正しい生活、取り組むべき日常茶飯事、仕事や勉強などは気分本位になります。行動を恣意的に選択しているので、規則性が保てない。基本的に他人に依存して、自分みずから手掛けることが少なくなります。またやる気のないままに行動すると、軽はずみな見切り発車となり、目指していた結果が得られないという不安もあります。納得するまで考え抜いて、これなら成功間違いないという確信を得たときに行動しようと考えるようになります。こういう考えだと、シュミレーションした通りにならないとすぐに挫折する。こんなはずではないと思うと、軌道修正するとか態勢を立て直すという事は考えなくなる。自分には無理だ、自分は何をやってもミスや失敗ばかりすると自己否定するようになります。あるいは、無理やり自分を叱咤激励して行動に追い立てることも起こります。自分の気持ちとは反対のことに取り組むのですから、苦痛そのものです。これは自分を「かくあるべし」で追い込んでいるのです。その一方で、暇な時間を持て余すようになる。それをいかにして穴埋めしようかと無意識的に考えるようになる。刹那的な刺激を与えていかないと、生きているという充実感が持てない。自分で何かを手掛けていく楽しみよりは、人から与えられる楽しみを期待して生きていくようになります。本能的な快楽を追い求めるばかりで、人間としては堕落していくのです。反対に、気分がよいときはやりすぎになります。そして疲れてしまう。次の行動への弾みがついてくるどころか、もう二度と行動する気持ちになれなくなる。家の中は散らかし放題、仕事はさぼり放題になりやすい。当然気分はイライラして、生きていくことがつらくなります。このように考えると、行動のとっかかりはイヤイヤ仕方なしという事が多い。それでいいのです。その気持ちのままに手を出し足を出していく。気分本位でやらない方法を選ぶと後悔ばかりが残ります。気分本位を押しのけて行動していくのが正解という事になります。その途中は一本調子で目的にたどり着くことはめったにない。山あり谷あり、問題だらけで、時にくじけて撤退や逃避したくなる。一時的に撤退や逃避してもよいが、態勢を整えて、再び行動するのが肝心です。行動して目的が達成できれば小さな幸せを感じることができる。自信もついてくる。それが次への行動の呼び水につながっていく。観念中心の人は成果が上がらない。自信が生まれない。他人に依存しないと生きていけない。自立できない。内省的になり、自己嫌悪、自己否定で苦しむようになる。人間に生まれてこないほうがよかったと考えるようになる。そうならないためには、森田理論の「行動の原則」を学んで、実践に移してもらいたい。
2020.05.22
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私たち神経質者は、主体的に生きていきたい、後悔しない生き方をしたい。積極的に生きていきたい。夢や目標を追い求めて生きていきたいと願っています。ところが多くの人の現実は、対人的な不安や恐怖が発生して、積極的な生き方に抑止力がかかっている。自分の思いや願いとは反対の結果に終わっているのが現状です。その原因として考えられることは、他人から拒否、無視、批判、否定されることを気にしている。プライド、自尊心、誇り、人格、存在を脅かされることに我慢がならないのです。他人が自分をどう扱うのか絶えず神経を研ぎ澄ましている。専守防衛的な生き方になっているのです。何よりも社会的な死を恐れているのです。ある意味実際に命を落とすことよりも怖いと思っています。結婚したい。子供をもうけて暖かい家庭を作りたいという夢や希望は誰でも持っています。お眼鏡にかなう彼氏や彼女がいても、もし拒否されたらどうしようという気持ちが湧いてきます。もしそんなことになればみじめだ。そうだ。なにもしなければみじめな気持ちは味わうことは避けられる。ここは夢や希望は我慢して、現状維持で我慢しよう。独身というのも案外楽しいものだと、自分を納得させてしまう。私は書籍の訪問販売の仕事をしていました。断られることが多い仕事です。断られると自尊心がものすごく傷つくのです。その結果、仕事をさぼるようになりました。営業成績を上げて同僚や上司から評価されたいという気持ちは強いのですが、自尊心が傷つくことが恐ろしくて、逃げ回る事しかできないのです。仕事で成果を出さないという事は分かっていますが、金縛りにあったようで身動きができないのです。私は対人的な不安や恐怖は取り除くことはできないと思っています。また逃げ回ると後で後悔するという事もよくわかっております。それでも、夢や目標はあきらめきれない。あきらめてはいけないと思います。ではどうすればよいのか。自分一人ではどうすることもできないと白旗掲げることです。事実を認めたうえで、目標をしっかりと視野に入れていれば何とかなります。私の場合は人の力を借りることが有効だと思いました。自分一人ではすぐに仕事をさぼる方向に向いてしまいます。ところが二人一組の営業活動になりますと、相手の目がありますので、すぐにさぼるわけにはいかない。何とか仕事にしがみつくことになります。また断りを受けても、自尊心が傷つく割合が低くなることも経験しました。二人でやると成果が上がらないように思いますが、さぼっているよりはましでした。ただいつもそういう相手が見つからないというのが難しかった。結婚したい人は自分一人で考えていてもどうにもならないと思います。行動としては逃げ腰になっています。自分を信頼してはいけません。こういう場合も他人の援助を受けることです。友だち、親戚、職場の先輩、同級生、趣味の仲間などに幅広く声をかけておくことです。そうすると誰でもそういえばあの人がいいのではないかという人は1人や2人は思い浮かぶものです。そしていろんな集まりに参加しておくことです。縁というのは不思議なもので突然にやってくるものです。対人的な不安を抱えていても、それを認めて受け入れ、夢や希望を追い求めている限り必ず実現します。そのためには幅広く薄い人間関係を広げておくことが有効です。
2020.05.17
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4月号の生活の発見誌に神経質者の行動の傾向についての投稿があった。今日はそのことについて考えてみたい。いつも不安にこだわる。自分の不安のほうにまず目が向いてしまう。不安に限らず、恐怖、違和感、不快感などもあります。私はそれらにとらわれてしまう特性はなくならないと思います。問題は不安にとらわれやすい特性を価値判断することだと思います。そういう特性は悪い。生活するうえでマイナスに作用している。だからそういう悪い特性は無くしてしまうほうがよい。修正しなければならない。少々の不安材料はあっけらかんと笑い飛ばしてしまうような性格改造をすることが望ましい。イケイケどんどんの人を見ては、その人にあこがれ、自己嫌悪に陥る。私は不安には大いにこだわるほうがよいという考えです。森田理論で欲望の強い人ほど不安を感じるという事を学んだからです。普通の人が気が付かないという事まで不安を感じる。これは私たちの最大の長所として再評価する必要があると思います。普通の発想ではないと思われるかもしれませんが、森田理論学習によって信念に代わりました。ただこれを長所として生かすためにはちょっとしたコツがあります。頭に浮かんだ不安を確実にチャッチしておく必要があるのです。そうしないと、不安で苦しむだけで、むしろ自分を否定する道具になってしまうのです。気づいた不安がすぐに忘却の彼方に飛び去ってしまうと、せっかくの宝物が自分の手からスルッとこぼれ落ちてしまうのです。それを防止するためには、確実にキャッチする習慣を作り上げることです。以前の生活の発見誌に「紙切れ法」を紹介している人がいました。気づいたことを紙切れにすぐ書き留めていくことを実践している人でした。これだけは心を鬼にして実践している人でした。その紙切れを数多く集めることが実践目標になっていたのです。そして仕事の合間、家に帰ってからその紙切れを机の上に並べて整理するのです。すぐできること、取り組みやすいもの、納期が指定されているもの、時間がかかるもの、人の協力が必要なもの、今の自分では解決困難なものなどに仕分けするのです。そしてすぐにできるものから行動に移していくのです。片が付いたらその紙切れは処分するのです。不安にとらわれやすい神経質性格者だからこそ実現可能なことです。そのうち川柳、俳句、ユーモア小話のネタなども思いつくようになります。これを仮に1か月、3か月、1年と期間を決めて徹底してとり組んでみてください。生活が活性化し、周りの人からも評価されるようになると思います。そして仕事に追われていた自分が、反対に仕事を追っていくように変化してきます。不安はあればあるほど課題をたくさん抱えているという事になります。不安があるからこそ生きがいを感じることができるという事になります。だから不安は大いに自分の生活の中で活かしていくことが大事になるのです。
2020.05.16
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私は神経症で苦しんでいる人の中に、ビールを飲むことが好きな人がいたら、神経症との格闘は棚上げにして、いかにしておいしくビールを飲むかという課題に取り組むことを提案したい。目標としては350ミリのビールをおいしく飲むことです。それでは物足りないという人は500ミリまでである。飲む時間は晩酌である。昼間に飲むことはお勧めしない。底抜けに飲み放題の目標設定はお勧めしない。二日酔いや飲みすぎは百害あって一利なしである。そのための方法を紹介していこう。昼間はガブガブと飲料水を飲まないようにする。昼間は体をよく動かす。エレベーターなどは使わないで、階段を上る。ウォーキングなどの運動を心掛ける。家の中に一日中いて、晩酌でおいしいビールを味わいたというのは虫がよすぎる。これを心掛けるだけで、十分においしいビールを味わうことができる。次にさらにおいしくビールを飲む方法をご紹介したい。ビールは夏は4度から8度に冷やす。冬場は10度がよいそうだ。冷やしすぎると泡が立ちにくくなる。ビールは泡でうまみや風味を閉じ込めるので大変重要なのである。ビールを注ぐコップは冷凍庫で冷やすのではなく、氷を入れて冷やす。次にビールの注ぎ方に注意を払う。まず勢いよくグラスいっぱいに注ぐ。一分ほどでビールと泡が1:1になる。そしたら2回目のビールを泡の真ん中に注ぐ。泡が4、ビールが6の割合になるまで待つ。最後にゆっくりと注いで泡立てる。これでサーバーで入れたような、豊かな泡のあるビールが完成する。機が熟すまで待つことが肝心だ。興味がある方は各ビール会社が工場見学を行っている。もちろん試飲もできる。社会見学になる。ぜひお勧めしたい。私は大阪に単身赴任していた時に、サントリー京都工場を見学した。この近くにはサントリー山崎工場もあり、ここではシングルモルトの試飲ができた。ほろ酔い加減になったころ、近くの京都競馬場に立ち寄り競馬を楽しんだ思い出がある。最後は京阪電車で大阪市内に戻り、天満天神商店街のなじみのすし屋で寿司を食べるのが息抜きとなっていた。遠くの友達にも紹介して、都合3回もツアーを実施した。当然みんなに感謝された。「たかがビール、されどビール」関心や興味があれば、工夫次第で無限の楽しみを見つけることができる。この件に関して2017年7月2日にも投稿していますのでご覧ください。
2020.05.13
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高良武久先生はジョンという犬を飼っておられたそうです。雑種で、毛が長くて汚れていて、連れて歩くのも恥ずかしいような犬です。夕方になると、私の顔を見て、散歩に連れて行くように吠え立てる。それを見ると、連れて行かないわけにはいかないような気持になる。汚らしい犬だけれども、長年それを世話していると、それに対する愛情が湧いてくる。人に対しても、物に対しても、動物に対しても、植物に対しても、自分の周りにあるものを世話していく。りっぱに育てていく。そういう自分の愛するものを自分の周りにたくさん持っておく。これが豊かな生活につながるものだと思います。自己中心から解放された、「日々是好日」というような、豊かな生活というものは、そういう世話をするものをどれだけ身の回りに集めているのかに尽きると思うのであります。私もそう思います。神経症で悩んでいる人は、世話の必要なものを持つことが有効です。私の経験を話してみたいと思います。私は草花を育てることが好きです。ベランダでは、季節の花が咲き乱れています。特に福助作りをしてからは、菊を育てることに興味が出てきました。毎日調子を見て水をやります。菊などは水やりを怠るとすぐしおれます。田舎では時期になるとスイセン、チュウリップ、アジサイ、コスモスなどが咲き乱れます。これらは一度植えておけば手がかかりません。そのほかシャクナゲなども立派な花を咲かせて楽しませてくれます。庭木もたくさん植えてあります。庭木は元気よく育つものと、すぐに枯れてしまうものがあります。カイズカイブキ、マキ、シャクナゲ、ユズリハなどは大きく育ちました。金木犀、レットロビン、山茶花、千両、万両などは残念ながら枯れてしまいました。楽しみがあるので田舎にはよく足を運びます。近所の人は、ヤギやニワトリ、烏骨鶏などを飼っている人もいます。田舎では自家用野菜に取り組んでいます。このブログでも何度も紹介しました。これからはジャガイモ、トマト、ナス、ピーマン、キュウリ、キャベツ、カリフラワーなどを植えます。イノシシがいるので先日は柵を作りました。発酵鶏糞をまいたり、輪作を考えたり、畝を立てたり、支柱を立てたりと手間がかかりますが、収穫できた時の喜びは何物にも代えがたいものがあります。沢山出来るとおすそ分けしています。昨年はキャベツと白菜などはほとんど虫に食われたのでも今年は虫よけをしました。松の盆栽が好きなので管理していましたが、水をたくさんやってはいけないというのにとらわれて枯れてしまいました。金魚も飼っていましたが、3年ほどで死んでしまいました。本来は10年近く生きるそうです。これらは育て名人に指導してもらわないとうまくいかないと思います。私の周りには犬や猫や鳥を飼っている人が多いです。家族の一員と思って世話をしておられるようです。糞尿の始末、部屋の中の掃除、食事の準備、運動、病気の予防と世話をすることがたくさんあります。動物を飼い始めると、自分の行動がある程度制限されます。その分親身になって世話をするので、愛情が深まるのだと思います。自分の周りに世話の必要なものがあると、症状のみに振り回されことがなくなります。注意や意識を分散させるという効果があります。神経症と格闘している人は、世話の必要なものを身の周りに集めることに取り組んでみてはいかがでしょうか。
2020.05.11
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トヨタ自動車の豊田章男社長はグランドホッケーの選手だそうだ。敵味方11人で、スティックを使い、相手ゴールにボールを打ち込むスポーツだそうだ。豊田社長のポジションはフォワードです。サッカーでいうPK戦のようなものがある。その時フォワードの選手は防御に回る。ここからが面白いのですが、じっと構えてゴールを死守するのは駄目だといわれている。相手と距離をもって防御することは危険が増す。打たれたボールが加速度を増し、浮き上がってくる。そのボールが自分の体に当たってけがをすることがある。それを防ぐためには、相手に近づくことが必須だといわれている。近づくとボールの威力は小さくなる。痛いのは痛いがそれが軽減される。だから危険に速く近づくことが、結果として安全を確保することにつながる。一般的には危険が迫った時、身に危険が及ばないように、安全を確保して、遠巻きに見守るという人が多い。一見安全なように見えるが、それは一時的なものだ。事態は深刻になり、ある限界点を超えてしまうと、もはや打つ手がないところに至る。危険を察知したらすぐに逃げるという人が多い。命にかかわる場合はそうするべきだと思う。延命するためにできる限りのことをするのが、すべての動物に課せられた宿命である。しかし不安、恐怖、違和感、不快感に耐えきれなくなって、すぐに逃げ出すという習慣の人は、いつまでも心身ともに危険にさらすということになると思う。対人恐怖の人が、相手のやり方が問題だと思っても、相手の仕返しを恐れて言いたいことも言えない。我慢する。耐える。これでは問題は解決しない。相手に対する不平や不満はどんどん増悪する。自分にはストレスがたまる。そして何かをきっかけにしてダムが決壊するような大惨事を招いてしまう。会社内でそのことがうわさになって居づらくなり、ついには退職する。家族の生活を支えるという最大の目的が果たせなくなって後悔することになる。最悪のシナリオですが、過去にこういう人をたくさん見てきた。自分も退職までは追い込まれなかったが、似たり寄ったりであった。相手と考え方や行動の違いを感じたときはどうすればよいのだろうか。まず相手の考えや行動をよく見る。いったん相手の立場になって理解する。すぐに是非善悪の価値判断を持ち出すと、争いになる。戦うことが目的になる。「かくあるべし」で相手を遣り込めることは、百害あって一利なしである。次に自分の考えややりたいことを相手に伝える。この時私メッセージを活用する。そして、双方の考え方や行動の違いを白日の下にさらけ出す。どうにもならない溝が横たわっていることをお互いに確認しあう。次は自分が譲ってもいい部分と相手に譲歩してもらいたい部分を話し合う。100%相手に譲歩してもらう事は不可能である。仮にそうであっても敵に塩を送る気持ちは持っておいた方がよい。いつもシナリオ通りに進行することはない。しかし森田理論学習で対人関係のコツを学習していたという事は大きい。対人関係のコツは、問題が小さいうちにこそ解決のヒントがある事が分かっている。限界点を超えると解決に向かって努力することはかなりハードルが高くなる。問題が小さいうちにこの法則を活用する習慣を身に着けておくと、いざという時に役立つケースが生まれてくる。
2020.05.08
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森田全集第5巻の中に高浦先生が次のような話をされている。昨日は慈恵医大の講義にお供して、その帰りに、その帰りに、少し散歩をされたが、路傍で、クズ屋の持っている自動車のゴムのきれを見付けられた。それが1貫目4銭とのことである。それを何になさるかと思ったら、先生はそれをテーブルや椅子やの足の底にお張りになるのである。100匁にも足らぬものを10銭ももらえば、クズ屋も大もうかりであり、先生も廃物利用で、大きな得になる。(森田全集第5巻 228ページ)森田先生は普段、椅子が板の間にこすれて傷つくことを気にかけておられたのだろう。何か解決法はないものだろうかと思案しておられたのです。普通考えられることといえば、椅子の下に何か敷物を敷くことが考えられます。絨毯のようなものを敷くと、確かに床は傷まなくなります。ところが絨毯は高価です。しかも飲み物をこぼしたりするとシミになります。ほこりが隙間に入り込むと不衛生になる。掃除に時間がかかる。帯に短し、襷に長しでどうも名案とはいいがたい。その気持ちをそのまま持っておられたからこそ、クズ屋でゴムの切れ端を見つけたときにこれだとひらめいたのです。神経質者はこのように小さな問題点によく気が付くのが大きな特徴です。心配性な神経質性格を忌み嫌う人も多いのですが、小さなことによく気づくことは、感性が鋭いという長所でもあります。この特徴を普段の生活の中で大いに活用していくことが大切だと思います。この気づきをメモなどして忘れないようにする習慣を身に着けて、実際に行動に移していくことが大切です。だから小さな気づきは宝物なのです。生活の活性化は、その手のストックを普段からいくつ持っているかが鍵になります。そうすれば意識や注意が外向きになり、生活の改善に結びつきます。人の役にも立ちますし、神経症とは無縁になります。神経症を克服した人は、そういう習慣を確実に身に着けているのです。独創的なアイデア、仕事の改善や提案、新しい試みなどを打ち出す人を見ると、普段の生活が活き活きしています。程よい緊張感の中で過ごしています。目の前のなすべき課題に一心不乱に取り組んでいます。そういう状況の中で、気づき、発見、独創的なアイデアは生まれているのです。のんびりと満ち足りた生活を楽しむという気持ちを優先している状態では、どんなに頑張ってもどだい無理なのです。「退屈だ、何か楽しいことはないかな、今日一日どうやって時間をつぶそうか」などという気もちが出てきたら危険です。そういう時は森田の基本である「凡事徹底」に立ち戻ることが大切になります。そうすれば、砂を噛むような空虚な気持ちはなくなります。
2020.05.03
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誰でも仕事に追われるというのは嫌なものです。やることがたくさんあって、どこから手をつけていればよいのかという気持ちになると、取り組む前からイヤになります。ブラック企業といわれる会社では、その人のキャパを大幅に超えたノルマを与えて、長時間労働に追い込んでいる場合があります。管理職の肩書を与えて残業代を支払わないケースもあります。「こんなにできません」というと、「辞めてもらってもいいんだよ」とか、「仕事のやり方が間違っているのではないのか」などと言い返されることもあるでしょう。こういう場合は、仕事の量を見直してもらうなどの交渉が必要になると思います。今日問題にしたいのは、神経質性格を活かした仕事の取り組みのことです。神経質性格の人はまじめで責任感が強いという特徴があります。また、細かいことによく気がつく。その性格を仕事に活かすとどうなるのか。言葉が悪いのですが、雑仕事、雑事などをよく思いつくという特徴を活かすとよいと思います。それを、宝物のように温めて、きちんと処理するように心がける。野球でいえば、私たちはもともとホームランを打てるような選手ではない。バントや内野ゴロでも足が速くてかろうじて間一髪セーフになるような選手をめざす。私が以前やっていた仕事を紹介します。インテリアの卸会社でメーカーへの支払い業務をしていました。得意先に販売した商品は、売上金額と同時に、仕入れ金額が確定されてコンピーターに打ち込まれます。私の仕事は、その仕入元帳と各メーカーから送られてきた請求書を突合してメーカーへの支払い金額を確定することでした。メーカーは100件ぐらいありました。仕入先元帳と請求金額が一致していればそのまま支払いに出せますので、こんなに楽な仕事はありません。ところが現実には90%一致しないのです。それは得意先の値引き要請に対応して、営業マンがメーカーの了解をとらずに、勝手に仕入れ金額を減額しているケースが多発していたのです。交渉していても、メーカーが値引き伝票を発行していないのです。営業マンにしてみれば、後で交渉すればなんとでもなるという安易な考え方を持っていたのです。それ以外にも欠陥品の返品交換やキャンセルもありました。ひとつの商品に赤黒伝票、さらに単価訂正が加わるととても厄介です。しかもそれらが別々の日付で送られてくるのです。いきさつなどは全く記載されていません。それらが複雑に絡み合っていて、直接得意先とやり取りしていないものにとっては訳が分からないのです。釣り糸が複雑に絡まって、イライラして、解きほぐすのを止めて、はさみで切ってしまうようなことも起きるのです。支払の確定をするためには、まずどこに差異が生じているのか見極める必要があります。メインのメーカーからは1か月に500件から1000件の仕入れがありますので、突合作業はとても骨がおれました。差異は営業マンに確認して一つ一つ解決していきました。営業マンがメーカーと交渉してくれないときは、私が営業マンになり替わって交渉することもありました。月をまたいでいるので、交渉は容易ではありません。メーカーが値引き交渉に応じてくれないケースも多発しました。その場合は弊社の仕入れ金額を修正するしかありません。勝手にはできないので、修正伝票に営業マンや所長の承認印をもらう必要があります。中には原価割れを起こすものもありますので、すぐに承認印がもらえるわけではありません。私は板挟みになるのです。しかし放っておくことは命取りになります。これらを処理するのに神経質性格を活かすのです。まずメーカーから納品書は、日付毎にきちんとファイルしておきます。それとは別に売り上げ伝票もきちんとファイルしておきます。つまり、伝票をお金と同じような感覚で大切に取り扱うということなのです。これらの細かい仕事をきちんとしているかどうか、その後の展開が大きく違ってくるのです。同様の仕事をしている人で、照合が終わった伝票を大きな段ボールに無造作に投げ込んでいる人もいました。そういう人は、問題が起きたときにひっくり返して探すのでとても時間がかかります。私が1分ぐらいで見つけるところを、30分ぐらいも格闘している場合があるのです。時間の無駄をしているのです。仕事の能率が上がる訳はありません。「時間の性を尽くす」ことから見ると真反対のことです。メーカーへの支払いは、それらの違算を差し引いて翌月に支払います。メーカーは請求通りに支払ってもらえないと、腹立たしくその理由を聞いてきます。違算明細書を作って事前に説明しておくことが有効でした。もう一つ大切なことは、その違算を翌月中にはすべて解消させておくことでした。相手が譲ってくれればよいのですが、不可能なら弊社で損失分を処理する。欠陥品は相手に返品しないと赤伝票はいつまで経っても入ってきません。つまり違算を翌々月に繰り越すことになります。それが違算処理をますます困難にしていくのです。当月処理することは、どんなに億劫であっても必ず当月のうちに処理しておく。営業マンはノルマを達成することに忙しくて、返品のことなどあまり頭にないのです。それを得意先に依頼して、最終確認をするのも私の大切な仕事でした。それも月半ばまでに手掛けないと、メーカーからの赤伝票は入ってこないのです。これらは地味な細かい仕事ばかりなんです。森田先生の言う発揚性気質の人が最も不得意とするところです。たぶん自分には向いていなというでしょう。反対に神経質性格の人は、性格を活かすことを意識していればできる可能性があります。思っていても実行しなければ、発揚性気質の人と結果は同じです。これらをきちんとこなすと仕事の能率が格段に上がるのです。仕事にゆとりが生まれて、仕事を追っていく時間も生まれてきます。仲間や上司の評価も上がります。また、細かいことをきちんとこなしていると、メーカーや営業マンが協力的になります。こいつはいい加減なことをしていると後でうっとうしいから、もめないようにあらかじめ処理しておこうと手を打つようになる。あるいはいきさつを報告してくれるようになるのです。つまり意思疎通が図られて、協力的な人間関係が作られるのです。神経質性格を存分に活かして仕事に取り組むと好循環が生まれてくるのです。そうなりますと仕事がとても面白くなります。この仕事は自分の天職だったと思えるようになります。
2020.04.14
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新型コロナウイルスの感染防止のために家の中で過ごすことが多くなりました。普段外で活動的な人で、手持ち無沙汰になって、イライラされている人はいませんか。家の中でやるべきことをたくさん抱えている人は、「退屈だな」と感じることは少ないのではないかと感じています。食事の準備、新作料理への挑戦、掃除、拭き掃除、片づけ、整理整頓、ペットの世話、観葉植物の手入れ、家庭菜園、介護、一人一芸の練習、ストレッチ、you tubeによるカラオケの練習、録画したテレビ番組の視聴、好きな音楽を聴く、書類の整理、読書など家の中で取り組む課題はいっぱいあります。気を付けたいのは、だらだらとテレビを一日中つけて見ることです。また、ゴロゴロと気分本位の生活で時間を浪費してしまうことです。私は昨日は断捨離に挑戦しました。まず、本の整理、書類の整理、CDやMDの整理、領収書や請求書の整理、使用説明書の整理です。もう二度と読まないだろうと思った本はすべて処分することにしました。これで3割ぐらい減りました。そしてジャンル別に並べ替えました。書類も不要なものはすべて処分することにしました。領収書や請求書類は田舎に持って帰り焼却することにしました。使用説明書なども不要なものがたくさんありました。新しいものを持ち込んだ時、古いものを処分していかないとたまるばかりになります。次に衣類の整理に取り組みました。もう何年も来たことのない衣類は思い切って資源ごみに出すことにしました。メルカリなどでほしい人にあげてもいいのですが、やり方がいまいちわかりません。もしかしたらいつか着るかもしれないと思っても、現実は眠ったままになります。これで3割は減らしましただいぶすっきりとしました。残ったものは活用頻度を増やして大切に取り扱いたいと思います。普段は外に出ていることが多いので、外出を控えている土曜日は貴重な断捨離の機会となりました。
2020.04.13
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森田先生はとにかく理屈を言わないで、私の指導に従って実践しなさい。イヤイヤ仕方なし、反発してもよいが、私の言うことを信じて素直に従って実践しなさいとくどいぐらいに言われています。ところが、一方で森田療法を「盲信」してはいけないといわれている。我々は常に疑い、絶えず自由に体験し、決して盲信してはならない。物を疑うのは、我々の心の当然の事実だから絶えず疑い試みねばならぬ。そのような人がますます立派な人であり学者・知者などであるのであります。自分も自分の治療法を絶えず疑いつつ進歩しているのである。(森田全集第5巻 148ページより引用)水谷先生が入院していた時、「私の前で3回ぐるぐる回って、ワンと言ってみなさい」といわれた。水谷先生は言われた通りのことをした。森田先生は、「それがいけない。先生や他の人の前でそんな恥ずかしいことは、と頭でも掻いていればよいのだ。君はすぐに私の云うことに盲従することがある」といわれた。一方では素直に実践しなさいと言いながら、他方では盲従してはならないといわれる。どちらが正しいのか疑問に思う人もいるかもしれない。これは正誤の判定をするような問題ではないと思う。森田先生が盲従はいけないといわれている真意をくみ取ることが大事であると思う。盲従の反対は、疑うということである。森田先生はそうは言われているけれども、心の底から納得はできない。疑いを持ちながら、イヤイヤ仕方なしに森田先生の指導通りに従う。正しい治療法かどうか検証してみようという気概のほうがよいといわれている。盲従していないと、その疑いを正しいのか間違いなのかを確かめようとする。確かめるためには現地に行って実際に自分の目で確認する。あるいは、言われたことが正しいのか間違いなのか自ら実験をして確かめようとする。人から聞いたことを間違いはずだとうのみにしてはいけない。自ら事実を確認して、事実の裏付けをとったものを大事にするという態度だ。事実の確認が取れてから、次の対策を打ち出すことが大事なのです。先入観や最初から決めつけてしまう態度は、森田的ではない。それをうのみにして間違っていた場合は、自己責任でしょうと言われるのが関の山です。そういった人が責任を取ってくれません。自分は悔やんでも悔やみ切れないという事になります。森田の考え方で大切なことは、どこまでも何があっても事実に服従するという態度を身に着けることである。その点から考えると、盲従というのは、事実を甚だしく軽く扱っているということになるのである。先入観や決めつけではなく、あくまでも事実を確かめるという姿勢を持ち続けることが、森田の基本をなす態度なのである。事実唯真の説明をするために、盲信の弊害について話をされているのである。
2020.04.06
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形外会で早川さんが、「暗い夜の道の方が、昼間歩くより疲れないのはどうしてでしょうか」と森田先生に聞いた。森田先生曰く。夜の道はただ下ばかり見て、一心に歩くよりほかに、何の迷いもない。「現在になりきる」ことが多いからである。「現在になりきる」とは、気のないままに、現在の仕事なり読書なりに、ぶつかって、その境遇に服従して、ただボツボツやっていさえすれば、必ずいつとはなしに「前に謀らず、後に慮らず」という心境が現れてくるのであります。最も簡単に言えば、何でもよい。その現在の境遇から逃げる考えを起こしさえしなければ、よいのであります。「現在になる」とは、息が切れれば静かに歩き、上を見れば、また歩く気になり、山下を眺めれば、またその景色に眺め入るという風に、その時々の周囲の状況に応じて、心の動くことである。周囲に対して、何の感じも連想も起こさず、強いて自分の意見を頑張るのが、思想の矛盾であるのであります。(森田全集 第5巻 141ページより要旨引用)森田では、「なりきる」という言葉がよく出てくる。この意味は2つある。一つは、不安、恐怖、違和感、不快感などに対して、やりくりをしない。それらをあるがままに認める。受け入れる態度のことをいう。つまり不安などと一体化するということです。イヤな感情の事実に対して、闘うことをしないので、葛藤や苦悩は発生しません。森田でいう「事実本位」の生活態度のことです。もう一つは、「現在になりきる」ということです。目の前の手掛けていることに一心不乱になって取り組んでいる状態のことです。お使い根性で取り組むのではなく、主体的にかかわっていくということです。森田先生は体調が悪いのに、富士山や筑波山に登られた。元気のよい人には先に行ってもらい、自分は一歩一歩と上を向いて上り、下は見ないといわれている。上りながら、その時の心と力とのベストを実行している。これを大きく言えば、我々は人生の欲望に対して、常に念がけ、あこがれながら、その目的を見失わず、その現在の力の及ぶ限りのベストを尽くしている。「現在になりきる」とどんなことが起きるのか。感情が発生して動いてくる。小川を流れる水のように感情が流れ始めるのである。弾みがついてくると勢いが出てくる。関心や興味、気づきや発見がでてくる。工夫やアイデアが生まれ、意欲的になる。次第に精神が緊張状態に転換してくる。森田理論は感情の理論だという人もいる。感情が一点に留まるのではなく、常に流動変化の波の中に身を任せることができるようになる。それは、今この瞬間においても、高速で流動変化している宇宙の動きに調和した自然な生き方になるということなのです。自然に逆らうよりも、自然に調和した生き方のほうが無理がないのです。
2020.04.03
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森田全集第5巻の中に早川さんの話がある。早川さんは、昭和5年1月から2か月ぐらい入院した人だ。入院中、観念的で理屈ばかり考えることが多く、実践・行動が不足がちであった。そのうち入院していることが苦しくなって、退院すれば楽になると思って退院した。退院の時、森田先生から、「現在たとえ治らなくとも、家の人には治ったといって、普通のように働き、学校へも行かなければいけない」」といわれた。最初はその言葉に従った。しかしその後、自分が全治していないということがしだいに苦になりだして、ついに森田先生の言葉に背いて、「自分はまだ治っていない」ということを家人に告げた。その後6月からは、学校を休校した。家では掃除もしないで散らかし放題。あらゆることが癪に触って、当たり散らしていた。母からはまるできちがいのようだといわれていた。(森田全集第5巻 143ページより要旨引用)早川さんは頭のいい人で、着眼点がよく森田先生によく褒められている。ところが、それに酔ったようなところがあって、実践や行動が進まなかった人だ。その早川さんが強いて退院するとき、森田先生は家人に嘘をつきなさいといわれたのだ。それが「現在たとえ治らなくとも、家の人には治ったと言え」という言葉だ。嘘をつくのは許せないという「かくあるべし」を持っている人にとっては、聞きずてならない言葉かもしれない。医者のくせに神経症を治すことができないで放りだすとはなにごとかと。森田先生の真意はどこにあるのだろう。早川さんには、森田理論を観念的に納得できるまで理解して、深耕させていくやり方はまずい。観念中心の生活態度を益々助長することになってしまう。これでは森田の目指しているところから離れていく。それよりは、規則正しい生活を取り戻す。日常茶飯事に丁寧に取り組み、毎日きちんと学校にも行く。形を整えることに重点を置くことを忠告されているのだと思う。「外相整えば、内相おのずから整う」という言葉があるが、まさにそのことを言われていると思う。森田理論は理論学習と実践・行動が同じ比率で進行していかないといずれ問題が出てくるのだ。これは見落としがちだが、大きな問題なのです。むしろ森田理論を知らない時の方が、まだ苦悩や煩悶が少なくてすむ。私たちの森田理論の学習は、ともすれば理論ばかりに偏っており、実践は各自に任されている。誰も指導してくれる人はいない。それをいいことにして、学習のみにのめりこみ、実践力、行動面、生活面に見るべきものがないという人は問題である。理論面がよく理解できた人は、森田理論学習よりも、むしろ体験、体得学習に軸足を移していく必要があるのである。そして森田理論の理解と実践・行動のバランス具合を検証していくことが肝心である。
2020.04.02
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形外会での中島氏の発言です。私は入院中、兎の箱の制作をある患者から受け継ぎました。先生から中島にやらせるようにとの事であったそうです。私は今まで、全く鉋や鋸を持ったことがなく、父からも人からも、全く無器用なものと承認され、私も全くできないものと、決めておりました。しかし、今度は、行きがかり上、思い切って請け合ってしまいました。どうしてよいか見当がつかないで、2時間ばかりも、じっと見つめておりました。それからやってみると、案外上手に出来上がって、我ながら感心しました。後に先生からも、よくできたといってほめられ、自分は、やれば何でもできるものであるという事を体験したであろうといわれました。これは実に私が、一生の生きる道の基礎を体得したものと感謝している次第であります。(森田全集第5巻 126ページより引用)中島氏は、それまで鉋や鋸を使って物を作った経験がなかった。自分はそんなことはできるはずはないと決めつけていたのです。ところが、指示されて手をつけてみると、予想外の出来栄えに自分でも驚いた。先生からも評価されて、一つの自信になった。ここで掴んだことは、今まではやる前から先入観で、「そんなことやったこともないのにできるはずはない」「挑戦することは無謀としか言いようがない」などと決めつけていたのです。これは中島氏に限らず、頭でっかちな神経質性格者の特徴です。石橋を叩いて安全だと分かったとしても、「万が一」の不安が払しょくされなければ手をつけない。やらない口実、やれない理由を次々と思いついて、言い訳ばかりするようになるのです。手をつけなければ、煩わしいことをしなくて済みますから、やれやれと一瞬ほっとします。ところが、そのうち暇を持て余すようになります。時間をどうやってつぶそうかと考えるようになると、緊張感がなくなり、精神状態は弛緩状態に陥ってしまいます。やるべきことがない、問題や課題がないのは、楽な生き方のように見えますが、精神状態はボロボロになります。人間本来の生き方を放棄しているからです。赤ちゃんは歩けるようになるまでは、何回も試行錯誤を繰り返しています。立っては倒れ、立っては転んでいます。でも、立って歩けるようになるはずがないと決めつけている赤ちゃんはいません。失敗しても、立って歩けるようになるまで、何度でも挑戦しています。まずつたえ歩きができるようになります。そのうちだれでも立って歩けるようになっていくのです。何度失敗を繰り返していても、立って歩けるようになりたいという欲望の方が強いのです。すぐにあきらめてしまっては、いつまでも経っても歩けるようにはならない。失敗しても挑戦し続ける態度は、元々すべての人間に遺伝子として組み込まれているのだと思います。関心や興味のあること、問題点や課題、夢や希望に向かって行動することが人間に宿命づけられているのです。ところが、知恵がついてくるにしたがって、観念でできるかできないかを判断するようになったのです。予期不安があるものは、安易にできないほうに分類しているのです。やった方がよいことでも、難しいこと、やっても無駄骨を折るだけのこと、手間暇がかかりめんどくさいものなどは、気分本位になってやらないほうに分類しています。その結果、自分が元々持っているできる意欲や能力は眠ったままになります。手をつけないとその能力を鍛えて高めていくことはできません。小さな成功体験が積み重なっていかないと、生きる自信は生まれてきません。すべての苦を排除して、楽ばかりを追い求めるようになると、もはや人間とはいいがたい。人間の堕落が始まるのです。先入観や決めつけでやらない方を選択するのではなく、「ダメでもともと、うまくいけば儲けもの」という気持ちで、フットワークよく身体を動かして生活しましょうというのが森田だと思います。その姿勢を維持すること以外に、明るい未来はやってこないようになっているのです。
2020.03.31
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昨日の投稿記事に、「神経症が治るには、修養を積んで、その時機に達して起きることで、その準備がなくて起こるものではない」とある。まず「修養」という言葉について森田先生は次のように説明されている。実行によって精神の働きや動きを体得することである。修養はともかくも実行である。私に接近し、私の気合いに触れねばならぬ。この感化を受けることを薫陶といいます。この気合で神経質が治るのであります。(森田全集第5巻 191ページ)修養ということは、実行の復習であって、思想の規定でない。撃剣のようなもので考えると、最もわかりやすい。これは相手の隙間に打ち込み、受け止めるには、こうするとか思想判断する余地は少しもない。打つもはずすも、そこに間一髪もない。いわゆる電光石火の機がそれであります。つまり思考を排し、直覚と実行とから出発するのである。(森田全集第5巻 70ページ)これで修養の意味がはっきりと分かります。観念の世界で「なるほど、そうだったのか」と理解して納得することではないのです。現在、集談会などで森田理論を学習しています。これは体得とは言わない。神経症の成り立ち、感情の法則、神経質の性格特徴、不安の役割、不安と欲望の関係、生の欲望の発揮、「かくあるべし」の弊害、事実本位などを学んでいます。これを頭で理解したので、森田から離れるといった人がいますが、実にもったいない。この状態は、畳の上でクロールの練習をするようなものです。手足の動きを完全にマスターしても、実際にすぐにプールで泳げるようになるのか。全く役に立たない。むしろ理論を知っているために、それにとらわれてますますぎこちない泳ぎになってしまいます。理論は何も知らない子供たちが、直接プールに入り足をバタバタさせているうちに、何日か経つとそれなりにクロールができるようになっている。実行・実践が先で、後で理論を応用して精度を高めていけば鬼に金棒となります。これはスキー、テニス、野球、サッカーでも同じことが言えます。森田先生の指導は、まず実行・実践させることなのです。その後で、あるいは同時並行的に理論の裏付けをされているのです。森田理論が先で、その後で実践・実行ではないということです。私たちのやり方は、とにかく森田理論をより深く、哲学的、学問的に納得して高めていく方向に偏りがちになっています。これはいかにもやり方がまずい。学習レベルは大学卒業レベルなのに、慢性のうつ状態になる人がいます。そういう人が集談会にやって来て、最近落ち込んでいますなどと発言される。学習レベルから見ると、もはやつまずきようのない人がもがき苦しんでいるのです。そういう人の実行や実践力を見ると、ほとんど見るべきものがないのが実態です。そうなると、高度に精練された森田理論が、自分を攻撃する武器に変化しているのです。森田を知らないときの方が、付き合いやすかったといわれるようになるのです。私が大きな影響を受けた人がいます。その方は、「物の性を尽くす」「ものそのものになる」という2点に絞って、生活の中にいかに根付かせようかと努力を惜しまなかったひとです。このブログでもその内容を紹介しています。集談会の場でも、生活森田・応用森田の生活ぶりが、楽しく様々に語られます。例えば、雑草取り、おいしいビールの飲み方、カラオケの練習法、タイのあら炊き、相撲の見方、盆栽の見方、茶碗の洗い方、夫婦の人間関係などなどです。体験に裏打ちされた森田理論が、分かりやすく、しかも説得力をもって、やさしく語りかけてくるのです。いつの間にか森田の神髄を的確に説明されているのです。こういう人が森田の世界では多大な功績を残す人となるのです。私たちは理論学習から入りました。それはそれでもいいと思います。しかし、次に実行・実践に入ることが欠かせません。必須科目となるのです。理論学習と体験学習が同じ大きさの車輪で、前に向かって進んでいる状態を作り上げることが重要なのです。もし理論の車輪がとてつもなく大きくなり、実践・行動の車輪が小さいままだと、前進はしません。実践・行動の車輪が基点となり、理論の車輪がその周りを勢いよく空回りするようになります。バランスが悪いと、せっかくの森田理論が自分を責める道具になり、神経症は益々悪化するようになるのです。これは実践や行動を軽視した当然の報いなのです。お互いに注意したいものです。
2020.03.29
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森田全集第5巻99ページからの引用です。最近、朝日新聞に、五重奏ということがでていた。それは本を読みながら会話をし、字を書き、計算をするとか、同時に5種類のことをするということです。聖徳太子は一度に8人の訴えを聞かれたとのこと、すなわち八重奏である。私共も平常、2つや3つの仕事は同時にやっている。例えば病院などでも、患者の家族に面会しながら机上の雑誌を読み、一方には看護婦に用事を命令するとかいうようなものである。三重奏である。我々の日常は、誰でも同時にいくつもの方面の事を考えているのが普通のことである。強迫観念でも、苦しみながら何でもできるものである。神経質の人の考え方の特徴として、それを自分でできない事と、理論的に独断してしまうのである。これを分かりやすい話でいえば、食事をしながら配偶者と話をする。子供と会話を楽しむ。子供の食べている姿を見ている。テレビのニュース番組などを見る。新聞を見る。手紙やダイレクトメールなどを見ている。今日の予定を確認している。部屋の温度調整をしている。電子レンジのチンを待っている。風呂が沸く時間を気にしている。お湯が湧くのを待っている。料理が出来上がるのを待っている。実にたくさんのことを気にかけている。いくつもの事が同時並行的に進行しているのである。いくつものプロジェクトが同時並行で処理されているのだ。そういう状態では精神状態が緊張状態にあり、変化対応力がある。ひとつのことにのみ意識や注意が固定しているわけではない。次から次へと意識や注意の向かう方向が切り替わっている。神経症の蟻地獄に陥っている人は、食事をしていても、意識や注意の大半は、症状のことに固定されている。目の前で起こっていることには無関心、無頓着である。精神状態は緊張感が失われて、うつろである。変化にとっさに反応することはできない。本来外に向かうべき注意が自己内省へと向かう。それもネガティブで否定的なことばかり考えている。神経症を克服した人は、興味や関心、気づきや発見、アイデア、問題点や改善点、課題や目標が泉のようにコンコンと湧き出ている。森田先生のところから退院した人は、今まで気づかなかったこまごましたことによく気がつくようになったといわれている。停滞していた淀みに、勢いよく水が流れ込んで、異臭を放つ芥が一挙になくなっていくようなイメージである。もし雑念恐怖、集中力について、意識や注意を一点に集中、固定することと考えておられるならば、それは認識の誤りであると森田理論は教えてくれている。そうすればすぐに神経症を発症する。様々なことに大いにとらわれる。しかしとらわれることが多くて、以前にとらわれたことは、メモしていないとすぐに忘れてしまう状態が私たちが目指しているところです。
2020.03.25
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森田先生は数学の嫌いな子供に対して、1日に3回でも5回でも何回でもよい。2分間でも5分間でも簡単に言えば、1から9までの数字を何回でも、丁寧に繰り返し書かせる。すなわち本人が、苦痛や骨折りを感じないような、容易な問題を与えて、楽にやらせる。(森田全集第5巻 78ページ)普通数学が嫌いな子供は、基礎ができていないので、まず公式を徹底して教える。次にその公式を使った応用問題を数多く解かせる。こんなふうに考えて指導するとよかろうと考えがちだ。森田先生はこんなことを子どもに押し付けていると、ますます数学嫌いな子供になってしまう。最初のとっかかりは、簡単なことから始めるとよい。そうするべきだといわれている。つまり、実践・行動に関しては、前もって頭で納得してから動きだすのではないのだ。何も考えず、尻軽く簡単なことから始める。すると次第に弾みがついてくるという。森田先生が原稿を書くときは、初めの3、4行が最も骨が折れ、3枚目ぐらいまでは思想がまとまらないでなかなか苦しい。5枚6枚となれば、もはや調子に乗って思想が湧きだしていくらでも書けるようになる。この面白い心持を覚えているから、初めの3行の難産の苦しみを耐えて骨を折ることができるのである。(森田全集第5巻 63ページ)私たち神経質者はやる前にうまくいくだろうか。うまくいかなかったらどうしようと考えすぎる。やるべきことがどんどんと魔物のように膨らんできて、そのうち手も足も出なくなることがある。やってみれば難しそうに思えたことが案外やさしかったと思うこともある。その反対ももちろんある。河井寛次郎氏の言葉に「手考足考」という言葉がある。やりながら考えるということです。簡単なこと、容易なこと、手をつけやすいことを見つけて、すぐに行動する癖をつけることが肝心なのです。すると精神状態が高揚してくる。感情が動きだすのである。数学嫌いの子供に、1から9までの数字を書かせることに何の意味があるのだろう、と思われる人がいるかもしれない。それは井戸水を汲みあげるときに、呼び水を入れることと同じだ。呼び水を入れることがきっかけとなって、次の行動につながっていくのだ。呼び水を入れないといつまで経っても、水は出てこない。最初は億劫でもよい。イヤイヤ仕方なしでもよい。尻軽い行動が弾みとなって、次第に活動的になってくることを忘れないようにしたい。森田では生活に必要なことを、最初はイヤイヤ仕方なしに取り組むことをお勧めしている。
2020.03.22
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森田先生は「目的本位」に行動しなさいと、この言葉自体を取り上げて説明されている部分はありません。この言葉は、高良武久先生が言われ始めたと聞いたことがあります。そのために「目的本位」は軽視してしまう人がいます。なかには、この厳しい世の中、「目的本位」に努力しても報われないケースが多い。そうなれば、挫折して自己嫌悪、自己否定するようになるじゃありませんか。実践・行動はその時々で気のついたことを、コツコツとやればいいのです。目的や目標を持つことは、百害あって一利なしです。目的や目標が「かくあるべし」になっては、それが自分を攻撃するようになるのです。持てる人はそうすればよい。なければなくても構わない。そういうものを持たないほうが、むしろ自然ではないですか。妙に納得させられる話のように思いますが、何か割り切れないものもあります。それは人間は、欲望を持ち努力精進することを宿命づけられた生き物だからだと思います。欲望を達成したいという気持ちを持っていない人は、別に人間に生まれてこなくてもよかったのではないでしょうか。第一覇気がなくなります。そしてその時の気分に流されてしまいます。人間はその宿命に従って、いつも小さくてもいいので、目的や目標を持つ必要があると思います。森田全集5巻の中に次のような話があります。たとえば、川にかかった丸木橋を渡るとき、丸木橋の先の目標物をしっかり見つめていないと川に落ちてしまうことがある。キャッチボールをするときに、相手がグローブを構えたところをしっかりと見つめていないと、暴投してしまうことが多い。薪割をするとき、薪をしっかり見つめて、斧を振り下ろさないと薪にはヒットしない。丸木橋の話では、もし足を踏み外して川に転落したら、大変なことになるという不安や恐怖が出てくる。その不安や恐怖心が強くなると、障害を乗り越えて丸木橋を渡ろうという気持ちはなくなるだろう。目的を見失い、気分本位に流されてしまうと、生きる意味を見失い、自己否定するようになる。それに打ち勝つためには、何しても向こう岸にわたって、目的を達成したいという強い欲望が必要になります。キャッチボールの話では、力を抜いて相手のグローブをしっかり見つめていることが大切である。その時、自分の腕の動きや身体の状態などを気にしているようだと、益々動作がぎこちなくなってしまう。意識や注意は目的物に向いていることが大切である。その結果当然に暴投を招いてしまう。薪割も同じことだ。ボーリングでも一番ピンをしっかり見つめて、力を抜いて投げないと、すぐに外してしまう。低い点数の人は、それを無視して力いっぱい投げれば、ストライクが取れるだろうなどと考える。目的物よりは、爽快感を味わいたいという気持ちの方が強い。投げる姿勢が正面の1番ピンに向いていない。むしろ自分の投げる姿を、仲間はどのように感じているだろうか。人より悪いスコアだと恥ずかしい。人に馬鹿にされるかもしれない。おかしな投げ方になってはいないだろうかなどと考えている。どこに行くのかはボールに聞いてくれという感じだ。ストライクになるときは、それは見事だが、1本でも残るとスペアがとれない。100点以下しか出せない人は、たまにストライクはあるが、ほとんどスペアがとれていない。そして、たまにガーターをだしてしまうという傾向がある。これはしっかりと目的物を捉えていないから起こる現象である。私たちの実践・行動は、正しい目的を持って、それにチャレンジするという気持ちを強く持つことが大切です。そしてその実現に向かって実践・行動することが大切です。エベレストに登頂を果たす。甲子園で優勝する。オリンピックで金メタルを獲得する自分の得意分野でノーベル賞をもらう。芥川賞や直木賞をもらえる小説家になる。芸能の分野でテレビに取り上げてもらえるような有名人になる。このような大それた目標をいきなり口にする人がいる。失敗や挫折をする確率がとても高くなる。気分本位に陥る可能性が出てくる。いきなりはるか遠い目的や目標よりは、目の前の小さな目的や目標を設定したほうがよい。少し努力すれば実現可能な目的、目標を設定して生活することが大切です。日常茶飯事、家事、育児、仕事、勉強、趣味などで小さな目的を明確にすることです。小さな目的は達成が容易なものばかりです。達成できると気分がよくなります。自信がついて、行動に弾みがついてきます。その延長線上に大きな目標や夢への足がかりが作られるのです。そのためには、メモを活用して、頭に一瞬浮かんだ目的、目標を逃さないことが大切です。ストックを絶えずため込んでいくという姿勢を持ち続けることが重要になります。生き生きした生活をしている人はみんな、意識はしていませんが、「目的本位」の生活になっているということを忘れないようにしたいものです。
2020.03.18
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「自己嫌悪、自己否定する自分を責めてはいけない」などと、自分に別の「かくあるべし」を押し付けている人はいませんか。このやり方では、自己嫌悪、自己否定はなくなりません。その理由は、「自分を責めてはならない」ということが、新たな「かくあるべし」になるからです。問題のある考え方を、別の合理性を持った考え方で納得させようとすると、事態が収束するどころかますます悪化してきます。これは、「不安と格闘してはならない」「生の欲望を発揮しなければならない」というのも同じことです。これらは森田の核心部分ですが、これが「かくあるべし」になってはまずいのです。「・・・しなければならない」「・・・してはならない」などで言い表されるものは、いくらまともな考え方でも、「かくあるべし」から出発しているので、楽にはならないのです。むしろ、取り組めば取り組むほど苦しくなるものなのです。それでは自己嫌悪、自己否定は解消できないではないですかという声が聞こえてきそうです。もっともなことです。結論から言えば、解消することは可能です。ただし、別の方法で取り組むことによって可能となります。ではどうすればよいのか。まずそれを観念の世界でこねくり回すことをやめることです。つぎに観念中心の世界から抜けだして、身体を使う行動へとチェンジしていくことです。目の前の日常茶飯事、仕事、家事、育児、介護、運動、趣味、社会活動、課題や夢などに取り組んでいくことです。なんだそんなことかと思われるかもしれません。拍子抜けされるかもしれません。でもこういう切り替えができれば、その瞬間は「自己嫌悪、自己否定」のことを、頭の中でこねくり回さなくて済みます。考えてみてください。カラオケの好きな人が、カラオケを楽しんでいるとき自己否定していますか。料理が好きな人が、新作料理に真剣に取り組んでいるときに、自己嫌悪感が出てきますか。釣りが好きな人が、夢中で魚釣りを楽しんでいるときに、自己否定感がありますか。自分の興味や関心のあることに取り組んでいると、時間がたつのを忘れています。精神が緊張状態にあり、いきいきしています。新たな気づきや発見もどんどん浮かんできます。そこから意欲ややる気が高まり好循環が生まれてきます。失敗すれば、つぎにうまくいくように工夫や改善をします。達成や成功の経験をすれば、それが大きな自信になります。さらに弾みがついて、新たな目標も見えてきます。生活の中で、小さな楽しみのかけらをいくつも見つけることができるようになると、「自己嫌悪、自己否定」のことは忘れていたという時間が増えてくると思います。そういう状態は、結果として少なからず自己肯定の好循環に入っているのです。自分の存在を受け入れられるようになっているのです。自己否定はたまには出てくるが、特段生活には支障がなくなります。そんなことを考える時間がなくなったということになります。「自己嫌悪、自己否定」で頭の中がいっぱいという人は、今一度「凡事徹底」の生活になっているのかどうか振り返ってみる必要がありそうです。人間は、「閑居して不善をなす」といわれますが、まさにこのことです。
2020.03.17
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森田理論の感情の法則の3の活用について考えてみたい。感情は同一の感覚に慣れるに従ってにぶくなり不感となるものである。具体的な例で説明してみましょう。寒い冬場に風呂の湯船に浸かることを考えてみてもらいたい。最初はちょっと熱いなと思う。外で緩めのお湯で体を慣らす。中には、水で熱さを加減してから入る人もいるかもしれない。よい気持ちでしばらく暖まっていると、今度はちょっと温るいと感じるようになる。そこで今度は熱湯を入れて、お湯の温度を上げようとする。つまり湯船に浸かっているうちに、体が最初のお湯の熱さに慣れてきたといえる。最初は少し熱いようだと感じても、少し我慢していれば、その環境に慣れてきて、熱さを感じなくなる。これはプールに入る時にも同じことが言えます。プールに入る時は、反対に飛び上がるほど冷たい感じがする。身震いします。何ともいえない不快な感じがします。ところがしばらく泳いでいると、慣れてきてちょうどよい水温と感じる。体が水温に適応して、不快感が跡形もなく消え去ったのである。そのうち、このプールの水温は、やけに熱苦しいと感じることもある。不快感に抵抗しなければ、そのうち慣れて、その不快感は快感へと変化してくるということである。このように慣れるとその反対の感情さえ湧いてくるのである。不快感がなくなるということは、不快感を取り除こうという意欲は湧いてこなくなる。つまり刺激がなくなり、無意識状態に変化するということでもある。慣れてくると精神は緊張状態から弛緩状態に変わってくるのである。精神の弛緩状態というのは、日常生活の中では注意しなければならないと森田理論は教えてくれている。この感情の特徴を理解したら、ぜひとも生活の中で活用していきたい。どうすればよいのかを考えてみましょう。ところで神経質性格の人は、もともと感性が強い。他の人が気づかないような小さなこともよく気がつく。人も気持ちもよく思いやることができる。神経質性格者は他の性格特徴には見られない優れた特徴を持っている。その神経質性格をプラスとして認識し、生活の中に活かしていくためには、最初にハッとした感情に慣れてしまっては元もこうもない。これこそが宝物と認識することが大切なのである。無意識状態になると、応用や活用ができなくなる。実にもったいないということになる。最初の気づきをきちんとキャッチして風化させないことが大切になる。そうしないと、最初の気づきはしばらく経つと、すぐに忘却の彼方へと飛び去ってしまう。そうしないためには、今すぐにできることや時間のかからないものはすぐに手をつける。億劫だ、気が進まないなどと言っていると、慣れてしまって、せっかくの気づきという宝物が存在したことさえ思いだせなくなってしまう。今すぐにできないことは、忘れないようにすぐにメモしておく。日記に書いておく。そして時々メモの内容を確認する。このストックをたくさん溜めていくことだ。神経症からいち早く立ち治っていく人は、ほとんどこのメモを大事にしている。これが自分の人生が花開いていく第一歩となっている。この法則を実施するだけでも神経症を治すという第一段階は達成可能となります。
2020.03.10
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森田の学習の中に、「外相ととのえば内相自ずから熟す」という言葉があります。私がこの言葉を聞いてすぐに思いだすことがあります。「靴がそろえば、心がそろう」という言葉です。集談会に参加していた女性から聞きました。とても分かりやすいと思いました。目の前のなすべきことにイヤイヤでも取り組んでいくと、神経症的な悩みや葛藤は少なくなるということです。森田を学習する前は、心の問題なのに、どうしてそこにメスを入れないのか。全然関係のないようなことを押し付けて、自分の悩みを聞いてくれない。腹が立つという人もいました。それで集談会には参加しないという人も数えきれないくらいいました。実は、私がそうだったのです。藁をもすがる思いで参加したのに、この会は傷をなめあう会なのかと思いました。でも他に行くところもなく、仕方なしに参加していたのです。そのうちその意味がよく分かりました。神経症は直接症状に切りこんでいっても治らない。治らないどころか、ますます悪化していく。神経症を治すためには、「急がば回れ」ではないのですが、回り道を選択したほうが目的に近づくということだったのです。そのための具体的な方法が「凡事徹底」だったのです。日常茶飯事、仕事などに丁寧に取り組むということだったのです。するといろんなメリットが出てきます。一番のメリットは、症状に固定していた感情が流れ出すということだと思います。鴨長明の方丈記に、「流れに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて留まるためしなし」とありますが、症状を克服するためには、感情を動かし、速やかに流すという事が欠かせないのだということがよく分かりました。治った人はすべてこの関所を通過しているのです。そして実践行動面に比重が移ってくるにしたがって弾みがついてくる。生活内容が好転するころには、神経症はあるにはあるが、生活に支障はない。神経症を持っていたほうが人間味があってよいのではないかと考えるようになります。神経症があったおかげで、森田理論学習に出合えた。人生をより深く考えるようになった。神経症に悩んだことは幸運だった。などと心の底から思えるようになるのです。外相を整えるという点では、もう一つ重要な視点があります。外相をととのえる実践行動には、必ず目的があるということです。例えば、食べるという行動は、エネルギーを補給して、命をつないでいくという目的があります。仕事をするという行動は、収入を得て、必要な生活物資を調達して、日常生活を維持していくという目的があります。目的が存在することで、モチュベーションが上がってくるのです。これと反対の生活態度は「気分本位」です。気分本位の行動には目的はありません。目の前に現れてくる出来事や刺激に対して、本能で反射的に反応しているだけのものです。目的がないので、湧き上がってくる感情や本能、欲望のおもむくままに行動してしまうのです。この行動は、苦を避けて楽を追い求め、刹那的快楽、一時しのぎ、気休め、怠惰な生活に振り回されるようになります。一時的には楽で楽しいかもしれませんが、最後にはやるせなさ、あじけなさ、むなしさだけが残ります。ですから外相を整えるためには、その時その場の必要に応じて、つまり生活を豊かにし、前進させるという目的の基に取り組むことが大切となります。そのような目的がない行動はほとんど意味をなしません。症状を治すための行動は、本来の目的から外れているので、症状を治すという目的はいつまで経っても達成できません。むしろ悪化の一途をたどってしまうのです。以上行動実践のための参考にしてください。
2020.03.09
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多くの人間は、できない理由はいくらでも探し出す。そういう人は、問題解決のためにどんなことをすればよいかよいかについては、ほとんど気づかない。暇を持て余し、失意と後悔の多い人生に愛想をつかしてしまう。二度と人間に生まれ変わりたいとは思わなくなる。今日はこの問題を考えてみたい。赤ちゃんだったころは誰でも好奇心いっぱいだった。何度失敗しても出来るようになるまでチャレンジしていた。そうです。人間はもともと前向きで活動的な生き物だったのです。だれでも、日常茶飯事、仕事、勉強、家事、子育て、問題や課題、夢や希望に向かって情熱を燃やして生きたいと思っている生き物なのです。実際そういう人はいます。生き生きと生活されています。ところが一般的には成長するにつれてしんどいことはやりたくない。エネルギーの無駄遣いは極力抑えたい。お金で済むことなら、何でも人様のお世話になればよい。煩わしいことは考えないで、楽しく過ごすことだけを考えて、こころゆくまで楽しみたい。やらなければいけないことはたくさんあるが、できるだけ手を抜いて楽な方に流されていく。「さぼりたい、楽しみたい、人が見ていなければさぼりたい」いつの間にか、自ら何かを手掛ける中で小さな喜びや幸せを見つけるよりも、他人から与えられる幸せを追求していく生き物に変化している。その相反する気持ちが絶えず綱引きをしています。そして多くの人は実践や行動することを放棄して、楽な方に流されてしまう。怠惰な悪魔のささやきに同調して、堕落の道へと落ちていくのです。楽な方向に流されると、その瞬間は楽をして得をしたような気持ちになります。後で振り返ってみると、どうしてこんなに味気ないことになってしまったのか。自分の人生は一体何だったのかと後悔するようになるのです。こうした考え方に流されていると、それがその人の気質となり、体質が変化してしまっているのです。実践・行動するよりも、やらなくて済むほうに重心がかかっているのです。当然どうしたら出来るかという考え方はしたくてもできないのです。反対にできない理由を次から次へと思いついて、できないことを正当化しようとするのです。無気力、無関心、無感動の人にやる気を出せといっても無理な話です。馬を水のみ場に連れて行っても、無理やり水を飲ますことはできないのです。そういう人は観念的になっています。頭の中で考えたことを、現実に適応させようとするので、無理が生じます。現実が自分の理想としていることから乖離している。現実を無理やり理想に合わせようとするので、葛藤や苦悩が生まれてくるのです。反対に何でも興味や関心を持って取り組んでいる人は人生を楽しんでいます。少々の障害物は乗り越えていきます。乗り越えるたびに自信をつけて、一回り大きな人間へと成長しているのです。さらに大きな夢や目標にチャレンジする意欲がみなぎってくるのです。そうなれば、また機会があれば人間に生まれ変わってみたいと思うようになります。もし神様がおられれば、きっとそういう人にチャンスを与えられるだろうと思います。両者の差は最初はほとんどなかったのです。森田に、「毫釐の誤り千里の差を生ず」という言葉があります。どこをどう間違ったのか、歳をとるたびにその差はどんどんと開いていくばかりです。そうならないためには、まず「凡事徹底」、普段の日常生活に精魂を込めて取り組むことだと思います。森田がいつも言っていることですが、今一度この言葉の意味を考えてみたいと思います。
2020.03.05
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学校や塾の勉強が好きになりどんどん成績を伸ばしている人がいます。そういう人も最初から勉強が好きだったわけではないようです。何か勉強が好きになったきっかけがあったのだと思います。今日はそれを考えてみたいと思います。まず親が読書が好き、学習する楽しみを持っている。習慣になっている。子どもたちは、そんな親の姿をよく見ている。親と同じことをしながら成長していくのです。親がものそのものになりきって生きている生きざまが自分の子供に伝染していくのです。ある女性の人が言っていました。私は結婚する前は、「お父さんのような酒飲みで、家庭を顧みないで自分勝手な人とは絶対に結婚しないように気を付けよう」と思っていたそうです。でも実際に結婚した人を見ると、父親とそっくりな人を選んでいたのです。父親と性格や行動スタイルが似ている人に、知らず知らずのうちに引き寄せられてしまうのでしょうか。自分では気づかないうちに、親と同じような考え方や行動をとっているということだと思います。つぎに勉強が好きになった人は、小さな成功体験、達成感、喜びを積み重ねている。これは重要だと思います。・教科書やテキストに書いてあることが理解できた。・一冊のテキストをやり終えた。・公式を使って応用問題を解くことができた。・たくさんのことをほぼ完璧に記憶することができた。・試験の成績がよかった。・順位が上がった。・親、先生、友達から評価された。・資格試験に合格した。志望校に合格した。こういう様々な成功体験を持っている人は、その快感を脳に刻みこんでいる。そしてその快感をまた何度でも味わいたいという気持ちを持っている。つまり向上心が生まれている。自信が生まれている。自己肯定感を持っている。そして弾みがついてくる。興味や関心の範囲が拡がってくる。プラスの好循環が生まれてきたのだ。こういう人はどんどん成長する。最初は決して動かないと思っていた岩が少しずつ動きだして、坂道を転がっていくようなものだ。小さな喜びや成功体験がない人は、最初から勉強することは苦しい。興味や関心が出てきたら勉強に取り組もうと思っている。自分には勉強は向かないと思っている。あきらめている。益々勉強を敬遠するようになる。勉強する前から先入観と決めつけで、決して超えることのできない壁が立ちはだかっていると思っている。それは小さな成功体験がないか、積み重なっていないので、挑戦して再び達成感や喜びを味わいたいという前向きな気持ちにならないのだ。その壁を志望校や資格試験に合格した人はどう見ているのか。超えてしまえば比較的楽に乗り越えることができる壁だった。大変難しい資格や志望校に合格したのに大したことはなかったと思っている。自信をつけて、もう次の目標に向かっている。今度はどんな資格試験に挑戦しようか。あるいはどの方面の勉強に進もうかなどと思っている。そして将来どんな仕事をしたいかを比較的早くイメージできている。ですから、小さいうちはいろんなことに挑戦して、小さな成功体験を積み重ねることがとても大切なのです。そういう習慣を作り上げている人がさらに成長することができるのです。それが意欲的、生産的、創造的、建設的な人間に成長するために欠かせないと思います。親が子供を支援するということは、このような習慣を子供に身に着けさせることだと思います。
2020.03.01
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森田理論では不安から気分本位になってすぐに逃げることを戒めています。私の人生を振り返ってみると、対人恐怖症でしなければならない仕事から逃避してきました。定年退職してから、そんな場面が次から次へと夢の中に現れて、後悔で苦しんでいます。自分はなんと無為の人生を送ってきたことかと自己嫌悪しています。ところが株式投資(スイングトレード)で少なからず成果を上げている人が次のような話をされました。尚、投資とトレードは全く違うそうですが、ここでは厳密に区別していません。短期の株式トレードの世界で一番重要なことは、思惑が外れた場合に、すぐに手じまいをすることだ。つまり、ある程度の損を確定させて資金を引きげることだ。つまり、なりふり構わずに、ある程度の損失を確定させてすぐに逃げることだ。株をやっている人は、誰でも損切りをすることは嫌なものです。そこで、手じまいしないでそのまま持ち続ける人がいる。そういう人のほうが多い。そのうち状況が変わり、自分の思惑通りに好転することを期待しているのである。たしかに、好転してくることもある。でも、全部がそうなるとは限らない。そんな戦略だと、仮に1回でも大きく下げ続けたら、命取りになることがある。たとえば100万円の資金が50万円以上に目減りしたら、取り返すことができますか。身動きできなくなり、世間でいう塩漬け株の所有者となってしまうのである。一般の人でもこの塩漬け株をいつまでも持ち続けている人が実に多い。これが仮にいつもマイナス2万の損切りができる人は、必要経費を支払ったという感覚になれる。短期のトレードでは、まず失敗した時に勇気を持って撤退する習慣を身に着けることである。90%の人が株式投資で失敗をして、撤退を余儀なくされているのは、自分の失敗を認めて、すぐに逃げるという行動を起こさないからだといっても過言ではない。そういえば古代中国の兵法の中に、「三十六計、逃げるに如かず」ということわざがあります。不利な状況になったら、すぐに逃げるという方法が最も大切であるという意味です。安全なところまで逃げて、体制をととのえ、対策を練りなおして、再度攻めていくということです。逃げてはいけないと自分や味方を鼓舞し続けることは、時として再起不能に陥ることもあるのです。私たちはあまりにも気分本位になってやるべきことから逃げるとダメだと思っていないでしょうか。気分本位で逃避するのはダメだという「かくあるべし」を自分に押し付けているようなものです。その方向は益々自分を、後悔、自己嫌悪、自己否定の道へと追いやります。ですからすべての面で機械的に逃避することはだめだと決めつけてしまうことは問題なのです。逃げることと逃げないで立ち向かうことは、その時、その場の状況に応じて臨機応変に対応することが大切であるということだと思います。そして両方を使い分ける知恵を身に着けることです。身体に危険が迫っている。財産が危険にさらされている。津波や土砂災害の危険性がある。二次災害が起こるかもしれない。と感じたら、着の身着のままで逃げなくてはならない。逃げないで傍観していると、たちまち身の破滅を招いてしまう。後悔してもしきれない状況に追い込まれます。仕事や勉強はどうか。これらは最初から好きでやっている人はいない。でも、生きていくうえで、イヤイヤ仕方なしにでも取り組まなければいけないものである。気分本位で、手をつけないこともできるが、そうすると将来に明るい見通しが立たない。また、イヤイヤ仕方なしに取り組んでいると、弾みがついて、生きがいが生まれてくるという側面を無視してはならないと思う。最後に日常茶飯事はどうか。これはスボラをこいて、手を抜いてはならない部分である。自分のできることを、安易に他人に依存していると、生きがいや精気まですべてを奪い取られてしまう。森田でも日常茶飯事だけは、気分本位に陥ってはならないと指摘している。こうしてみてくると、すぐに逃げなくてはいけないのに、逃げずに傍観し続けている人がいる。また、逃げてはいけないのに、気分本位になって、逃げることが習慣になっている人もいる。あべこべになっているのである。この習慣はすぐに是正していかなくてはならないと思う。
2020.02.19
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森田先生が土佐へ犬神憑の調査に出張したのは、ある日、呉先生が、「今教室に、60円ばかり旅費が残っている。誰か行きたいものはないか」と聞かれたことがきっかけだった。ニコニコしながら先生の顔を見ていると、「森田君、どうです」と言われた。「待ってました」とばかりに、「もしさしつかえない事なら、ぜひお願いしたいものです」と答えた。もちろんその時には、私にはどこへ行って何を調べるかということは見当はつかない。まずその機会を取り込んでおいて、しかる後にユルユル考案するつもりである。これがもし、自分が何を調査し、その金をいかに使うかということを考えて、しかる後にイエスと答えようとするから、最寄り間に合うはずもなく、後になって、あの時に、引き受けておけばよかったと残念がるのである。(森田全集第5巻 535ページより要旨引用)チャンスの神様は前髪はあるが、後ろ髪はない。チャンスというのは前から掴まえないと、捕まえることはできないのである。イエスかノーか迷ったときは、断然イエスと答えること。断然イエスと引き受けた後には、もはやのっびきならぬ、背水の陣です。運命を切り開く心がけのある人は、自分でこの境遇を作りださなければならない。そうすれば必ずできない事もでき、無理が通って、道理も引っ込むようになります。中国の思想家である列子は、「時を得るものは栄え、時を失うものは滅ぶ」言っています。今がチャンスだと思ったら、機敏に行動するほうが得策である。チャンスにすぐに動くことができないと、自分の身を滅ぼしてしまうことになるといっているのです。列子はそこまで言っているのです。つまりいつまで経っても、生きがいなんて持つことができない。チャンスを逃さないために必要なものは何でしょうか。3000m級の山を越えていく渡り鳥が参考になります。こんな高い山を越えることは、自力だけでは無理です。うまく上昇気流を捉えて、その気流に乗って山を越えていくのです。ところが、渡り鳥にとって都合のよい上昇気流が、いつも吹いているわけではありません。その間、上昇気流が吹きだすのを、じっと待っているわけではありません。自分の力で高い山を超えようとしては失敗し、また試みては失敗するといったことを何度も繰り返しているのです。試行錯誤を繰り返しているうちに、あるとき急に思っても見ないチャンスが巡ってくるのです。そのチャンスを上手にとらえて、一気に山を越えていくのです。渡り鳥は普段からチャンスを鵜の目鷹の目で観察しているのです。そしてチャンスがくれば、躊躇しないで確実にものにしている。過去に山越えをした経験があるのか、あるいは成功するという確かな信念があるのか、何度失敗してもひるみません。最初から、先入観で考えると、こんなことはとても無理だと判断してしまうかもしれません。でもグズグスしていると、すぐにそのチャンスは通り過ぎてしまうのです。次のチャンスは二度と訪れることはないといったことも十分にあり得ることです。森田先生は、のっぴきならない状況に自分を追い込んでしまう。背水の陣を作りだして、そこから目線を上にあげて行動を開始することの重要性を説明されているのだと思います。自分で作りだしたチャンスには、前進する力が次々に湧いてくるようになるのだと思います。
2020.02.18
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樹木希林さんは次のような持論があるといわれています。女の適性というものがあるとすれば、やっぱり身体を目いっぱい動かすと、女の嫌なものが出ないで済むなと、考えているの。私の場合、子育ての時に、仕事で忙しかったので、女の嫌なものを出す暇がなかったというのはありがたいことだった。ゆとりのある人は、いやな醜い面が出ますよ。私の子育ては、とにかく、どんなに忙しくても、「手ずくりのご飯だけはきちんと食べさせる」ことだったの。子供をこういうふうに育てなければということを考えるゆとりがないのよ。娘になにかを買ってあげたという記憶もないのよ。基本的に女というのは、余計なことを考える時間があると、余計なことをしてしまうと思うの。生きるのに精いっぱいという人が、だいたい見事な人生を送りますね。(一切なりゆき 樹木希林 文藝春秋 149ページより引用)これを見るとゆとりある生活は理想のように思えますが、あまりにも短絡的かもしれません。専業主婦というのはよほど注意する必要がありそうですね。でもこれは別に女性だけではないと思います。男性もそうです。特に定年退職して一日中テレビのモリをしているような人は要注意です。「小人閑居して不善をなす」ということです。普通の人は、日常茶飯事、勉強や仕事、趣味、夢や目標、他人との付き合い、地域活動などで忙しいのです。それらに真剣に取り組んでいないとどうなるか。まず、注意や意識が自分の言動の方に向けられてきます。本来外向き、物事本位になるべき注意や意識が、自分を厳しく監視して、批判するようになるのです。そして自己嫌悪、自己否定に陥ってしまいます。次に、子どもや他人の言動に向けられます。やるべきことに手をつけていないと、言葉を使って観念優先の世界に入り込んでしまいます。現実、現状、事実を軽視して、「かくあるべし」で価値判断して、その考えを子どもに押し付けることになってしまいます。過保護、過干渉、挙句の果ては無関心、放任状態になります。そうならないためには、まずは日常茶飯事に真剣に取り組むことだと思います。これが基本となる必要があります。毎日同じ時間に同じことを無意識にこなしている状態です。規則正しい生活のことです。さらに、これをものそのものになって行うことです。毎日の繰り返しの中で、小さな気づきや発見、喜びやうれしさが生まれてくればしめたものです。ものそのものになって行動していると、自然発生的に出てくるものです。私は、これを「凡事徹底」という言葉にして大切にしています。
2020.02.16
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ダイコンはこれで終わりです。畑に置いているといつでも収穫できました。大根おろしとおでんが最高でした。ニンジンは小さいものしか取れませんでした。これはニンジンリンゴジュースとして使います。ニンジンやホウレンソウは発芽が悪いようです。現在はタマネギ、イチゴ、キャベツがすくすくと育っています。3月の下旬は、ジャガイモ、ダイコンを植えます。昨日は発酵鶏糞をたくさん撒いて管理機で耕してきました。チューリップの球根もたくさん植えたのでこれから先楽しみです。近所の人に聞くとイノシシが野菜畑を荒らしまわっているそうです。我が家の畑はまだ目をつけていないのでしょう。そのうち防護柵が必要になるかもしれません。
2020.02.12
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今日も野口健さんのお話です。2005年1月にケニアの国立公園に行かれたそうです。アフリカの野生動物は弱肉強食の世界に生きている。音にもにおいにも敏感。厳しい目をして必死に生きていた。帰国すると、我が家の飼い猫が、おなかをさらけ出しゴロゴロとノドを鳴らして全く緊張感がない。「お前、違うだろう」と怒ってみたものの、その本能を失った猫殿と山を下り緊張感のない私の姿が重なって見えた。ヒマラヤは感覚の世界だ。登山中にいちいち理屈で物事を考えていたら遭難してしまう。1ヵ月間もヒマラヤにいると、雪崩や落石、氷河などの崩壊の危険に絶えずさらされているためか、音に敏感になる。また湿度や温度など、微妙な変化まで全身の毛穴や肺胞で感じとれる。厳しい環境の中で生き延びるために五感が研ぎ澄まされていく。どれも危険を素早く察知するためだ。ヒマラヤにいる時の自分の表情を写真で見て、その眼光の鋭さに驚いたことがある。まさしくアフリカで見た野生動物と同じ目をしていた。人はなぜ、あえて危険な冒険に魅せられるのか。時に五感をフルに働かせ、生き延びることだけに必死になりたいのかもしれない。人間も動物だって同じことだ。(自然と国家と人間と 野口健 日経プレミアシリーズ 16ページより引用)ガスの元栓、玄関の鍵、エアコンなどの切り忘れなどの確認行為で苦しむ人たちは、自分の五感が信頼できないといわれます。五感よりも理屈で納得しなければ落ち着かない。気が狂いそうになるということだと思います。五感よりも、頭で納得する体質が頑固に身についてしまっているのです。野口さんによると、そういう人は緊張感のない生活をされているということになります。精神が弛緩状態に陥って、本能的で気分本位の怠惰な生活を送っている可能性がある。自分では決してそんなことはないと思っても、ヒマラヤに行けば実感として分かるそうだ。またその日食いつなぐことに必死に生きている開発途上国の人たちを見ていると、第一目つきが違う。眼光鋭く、うつろで憔悴した目つきをした人はいない。それはその人の置かれた境遇や環境によるものです。身の危険を感じることがない。食べることに困らない。安心・安全で不安やストレスのない世界に身を置いていると誰でも五感は鈍化してきます。感性や感受性が廃用性萎縮現象を起こしてしまうのである。有り余る時間を、刹那的で刺激的な快楽の追及で穴埋めしようとしている現代人は、緊張感がなくなり、五感は正常に機能しなくなっているのだろう。それを理屈で納得させてすっきりさせる手もあるのだが、ちょっと無理があると思う。いったん納得しても、またそれを打ち消すような不安が生まれてくるからである。そうかといって、我々はヒマラヤで登山をするわけにはいかない。開発途上国で暮らすことなど考えられない。ではどうするのか。それは森田理論が教えてくれている。それは、今この瞬間に集中して、ものそのものになって生活することである。日常生活に丁寧に取り組むことだ。まずは食べること。食材を自分で作る。買いだしをする。下ごしらえをする。料理をする。味わう。後片付けをする。加工食品を作る。あとは洗濯、清掃、整理整頓などである。凡事徹底に取り組む。そんな生活の中から、興味や関心、工夫や発見が見つかり、ささやかな幸せを感じる。つまり感性が活性化される。特に神経質者の場合は顕著であると思う。何だそんなことかと思われる人がおられるかもしれない。それより理屈で納得させてくれと言われるかもしれない。それも大切だが、それよりも緊張感のある生活を取り戻すことがより効果があると思います。すると五感が再び活動を開始してくれるようになるでしょう。森田理論の学習でも、納得ができるまで深耕しようとするその態度は立派であるが、理論の生活への応用や活用とのバランスが崩れている人は要注意であると考えている。
2020.02.02
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2015年にアメリカ・フロリダ州立大学のアダム・ハンリー博士が非常に興味深い研究発表を行いました。みんなが嫌うはずの「皿洗い」に、著しいストレス解消効果があることが分かったというのです。だだし、気持ちを集中させ、フロー状態になってやるのがポイントです。不承不承ではダメなのです。博士は、51人のグループを2つに分け、一方のグループには「皿洗いの手順だけを書いた手順書」を、もう一方のグループには「気持ちを込めて皿洗いをするための指導書」をそれぞれ読ませてから皿洗いをさせました。後者が読んだ指導書にはこんな内容のことが書いてありました。「皿洗いなんてつまらないと思わず、自分が皿洗いをしていることをしっかり意識し続けること。立って皿を洗う自分は素晴らしい。自分の呼吸、存在、行動を感じよう。すると、自分がふわふわと周囲に流されている存在ではないと思えるはずだ」そして、皿洗いの前後の気分の変化を測定すると、後者にのみ「いらだち」の感情が軽減する効果が見られたというのです。このことから博士は、皿洗いなどの単純作業でも、はっきりした目的意識を持って臨めば精神的にいい効果があり、幸福感や満足感が得られることがわかったと報告しています。(自律神経が整えば休まなくても絶好調 小林弘幸 ベスト新書 131ページより引用)これは最初はイヤイヤ始めたことでも、そのうち少しだけ「ものそのもの」になって取り組むと、気づきや発見、興味や関心が生まれて、弾みがついてくることだと思います。そうなれば、創意工夫も生まれてきやすくなります。この時点でイヤイヤ取り組むという気分から解放されて、楽しみ、課題、目標も芽生えてきて俄然やる気が芽生えてきます。人間は対象に働きかけて、自分の考えたことに近づていきたいという宿命を持った生き物です。その線に沿って一心不乱に行動している状態が、努力即幸福ということになるのです。不安から解放されて自信が生まれ、生きている自分を認めることができるようになります。「ものそのもになりきる」という投稿記事では、2013年1月27日の記事も合わせてご覧ください。集談会の仲間が庭の雑草取りに応用した実例です。私はこの話題になるといつもこの話を思いだします。そしていつも勇気をもらっています。
2020.01.28
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「心のチキンスープ 愛の奇跡の物語」(ダイヤモンド社)という本に次のような話が載っているそうだ。ある時、カナダのバリーという町が竜巻に襲われて、数十人が亡くなり、数百万ドルの被害が出たそうです。その時、テレビディアという放送会社のボブ・テンプルトンがその町を通りかかり、被害のひどさを目の当たりにし、一つの計画を思いつきました。それは、バリーの被災者を救済するために、3日以内に準備をし、3時間以内に300万ドルをあつめる、という計画でした。そして、テンプルトンは、その計画をテレビ局の重役会議で提案しました。すると、一人が言いました。「本気か?そんなことできるわけがないだろう?」テンプルトンはいいました。「僕は、できるとか、しなければいけないとか、そういうことは言っていない。ただ、皆がやってみたいかどうかを聞いているんだ」「もちろん、やってみたいさ」と皆が言いました。すると、テンプルトンは、黒板にアルファベットのTの字を書き、その右側に「なぜできないか?」、左側に「どうしたらできるか?」と書きこむと、さらに右側の「なぜできないか?」という文字に大きく×印をつけました。そしてテンプルトンは言いました。僕は「なぜできないか?」なんてことを議論する気はないんだ。時間の浪費にすぎないからね。「どうしたらできるか?」だけを議論したいんだ。その結果、3日以内である翌週の火曜日にはラジオマラソンが始まりました。カナダ全域の50のラジオ放送局が協力し、著名な司会者の協力も得て、3時間で300万ドルを集めてしまいました。(人を動かす質問力 谷原誠 角川新書 200ページより引用)この話はとても参考になります。私たちも大きな目標を人から提示されたとき、「そんなこと無理ですよ。出来るはずがない。あまりにも無謀だ」と簡単に退けてしまいます。あるいはできない理由をこじつけて説明しようとします。そういうときは、この話を参考にしてT字を書いてできない理由とできる理由を書く。そして、できない理由に×印をつける。そしてどうしたら出来るかに絞って考える。あるいは議論する。一人ではなく、みんなを巻き込んでどんどん思いついたことを書きだしてみる。すると突破口が見つかるかもしれません。その気持ちがあれば多分見つかるでしょう森田理論でいえば、事実、現状。現実を受け入れて、事態の打開に向かって考えて行動を起こすということなのです。ぜひ試してみましょう。
2020.01.22
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今日は集中するということについて投稿してみたい。仕事などでミスをすると、もっと集中して仕事に取り組みなさいと叱責されることがある。そういわれればあの時彼女のことを考えていた。子供のことを考えていた。遊びや趣味のことを考えていた。仕事以外のことを考えていた自分を自己否定することがある。一般的には、集中しないとよい仕事はできない。勉強ははかどらないという先入観を持っている。たしかにプロ野球の選手を見ていると、打つ瞬間、投げる瞬間は、そのことに集中しているから成果を上げることができるともいえる。しかしいつまでも目の前の一点に集中することが可能なのだろうか。一点に集中するということは、ことさらひとつのことにとらわれて、感情の自然の流れをあえて阻止しているとも言える。普通目の前の状況は、時間の経過とともに刻々と変化していく。その変化の波に乗って、次から次へと気になることに瞬間的にとらわれていく。生きるということは、その時々の状況に瞬間的にとらわれ続けることである。時間が経てば、前にとらわれていたことが、たとえ解決できなくても、そのままにしておくしかない。神経症で苦しんでいる人は、そのままにしておくということを苦手としている。今すぐにすっきりと解決したいと思って、かかわっているうちに、変化の波に乗り損ねてしまう。山あいの谷を勢いよく流れる小川は、雑菌などとは無縁なきれいな水である。飲み水として使える。それをお城のお堀に引き入れて、流れを引き留めてしまうと、途端に藻が生え、雑菌が繁殖し、汚い水に変わってしまう。とても飲めるような代物ではない。そういうときは忘れないようにメモしておくだけにする。それに取り組むにしてもすぐには手をつけない。後ろ髪を引かれる思いが湧いてきても、次にとらわれたことに対応していく。解決できることだけを処理して、また次のとらわれていることに対応していく。とらわれの状況にどんどん乗っかっていくという生活態度が精神の健康を保つ。過度に集中していると、周りのことが見えなくなってしまう。自然界の動物は一点に集中している状態だと簡単に命を落とす。たとえば、アフリカの草原で、川に行って一心に水を飲んでいるとすぐに肉食獣の餌食になる。仲間と協力しながら、四方八方に神経を張り巡らせて、一点集中を避けることが重要なのだ。「一点集中」の対語は、「拡散集中」である。複数のものに同時にとらわれている状態である。森田理論ではこの方法をお勧めしている。森田先生が大学で講義しているとき、講義の内容には当然注意が向いている。しかし、その時でも机の上に置いてある資料や文房具が気になる。コップがひっくり返らないか気になる。退屈そうに聞いている学生が気になる。遅れて入ってきた学生のことも気になる。時間も気になる。校舎の外から聞こえてくる騒音も気になる。喘息の咳のことも気になる。いろんなことにとらわれながら、また講義内容に注意が戻っていく。「拡散集中」は、湧き起こってくる感情のままに、変化の波に上手に乗っている状態である。やってくるものはそのまま素直に受け入れ、去っていくものはあえて深追いはしないのである。
2020.01.15
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「無気力」「無関心」「無感動」という言葉はよく耳にするが、「無」のつく言葉は20ほどあるという。「無気力」「無反応」「無関心」「無感動」「無作法」「無目的」「無表情」「無常識」「無責任」「無自覚」「無抵抗」「無意識」「無批判」「無能力」「無学力」「無教養」「無節制」「無定見」「無思想」「無プロセス」である。この中で、感じる力が衰えたことで発生するものが幾つかある。「無気力」「無反応」「無関心」「無感動」「無目的」「無表情」「無自覚」「無抵抗」「無意識」「無批判」などである。自分の場合を振り返ってみると、対人恐怖症で苦しんでいた時は、他人の思惑に振り回されていた。症状については、ちょっとした他人の言動に対してとても敏感になっていた。対人関係では、過剰に感じる力が湧いてくる。問題は、感じる力がその1点に凝縮されていたということだ。その時、日常茶飯事、仕事に対しての感じる力は湧いてこなかった。掃除には無頓着で、部屋は散らかし放題。食べることは外食やファーストフード中心。仕事はミスや失敗の連続。困難な仕事からは逃げてさぼっていた。他人への思いやりはほとんどなく、自己中心であった。対人関係はいつも防衛的で、生きることがつらく投げやりであった。今考えると感性はとても強いのだが、偏りすぎていた。森田理論を学習する中で、「無所住心」という言葉に出合った。昆虫がピリピリと触覚を動かして、緊張感を持って動きまわっているような状態のことである。家事や仕事や趣味などにものそのものになって取り組みなさいと言うことだった。最初は実践課題を立てて取り組んだ。そのうち気のついたことをメモするようになった。それを一つ一つ丁寧にこなしていくことを心がけた。対人恐怖の苦しみは依然として続いていたが、普段の生活は一変した。やればできる。成果も上がる。すると上司などから評価されるようになった。特に集談会での世話活動は社会生活のミニチュア版のようなもので、取り組めば取り組むほど自分の成長につながっていった。これなら会社でもやっていけるという自信が出てきた。そのうち元々持っていた好奇心が泉にように湧き出てきた。趣味なども手あたり次第取り組むようになった。そして弾みがついていった。私たちは粘り強いという面があるので、今でも取り組んでいるものがたくさんある。その後「無気力」「無反応」「無関心」「無感動」「無目的」「無表情」「無自覚」「無抵抗」「無意識」「無批判」といわれるものはどうなったのか。今では、好奇心に弾みがついて、やりたいことが山のようにある。毎日涙を流して感動するようなことがある。人生を楽しみたいと考えるようになった。もっともっと仲間とともに人生を楽しみたい。「目的本位」「努力即幸福」「気力充実」「感性豊か」「感動あり」「生き生き」「他者への思いやり」の言葉の方が現在の心境に近い。すべて森田学習と実践のおかげであると思っている。元々人間は「無」とは無縁なのだと思う。幼児を見ればそのことがよく分かる。それがいつの間にか自分の身にまとわりついたのだ。コールタールのようにまとわりついたものを取り除いてやれば、誰でも抜け出せるのだと思う。
2020.01.13
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「サケトカメ」という言葉があります。酒と亀ではありません。出かけるときに忘れ物はないか確かめる言葉です。「さ」は財布。以下携帯電話、時計、玄関のカギ、名刺だそうです。これを玄関ドアに貼っておいて出かけるときに、声掛け呼称するのです。ほとんどの人はいろんなところ、場面で活用されていると思います。私は出かけるときは、ハンカチ、ティッシュ、本、パスピー、健康保険証、録音機、スピーカー、眼鏡、車やバイクのカギも付け加えています。勤め先では、部屋を出るときは、カギ、部屋とトイレの電気、行き先表示版、名札、帽子止めなどを入口に貼っています。これによって時間の短縮、不安の解消につながっていると思います。慰問活動ではチンドン屋、獅子舞、浪曲奇術、腹話術、どじょう掬いごとに用意するものが違います。必需品を一つでも忘れるととりに帰らないといけなくなります。遠方に出かけたときは引き返すことができません。すると演目構成に穴をあけることになり、他の人に迷惑をかけます。私は演目ごとに用意するものを忘備録として作っています。これで忘れ物をすることは滅多にありません。たとえば、チンドン屋では、楽譜、譜面台、ストラップ、リード、練習棒、アルトサックス、チューナー、コルクグリス、付箋、ホカロン、靴ベラ、タオル、ハンカチ、ティッシュ、扇子、鏡、スマホ、財布、ボールペン、スケジュール表、家のカギ、車のカギ、名刺、眼鏡、衣装として帽子、洋装、ワイシャツ、胸につける花、蝶ネクタイ、白のズボン、白い靴、白の靴下などです。たかだかチンドン屋のアルトサックスの演奏ですが、準備事項はこんなにあるのです。興業の前日にはこのリスト表を見て準備を整えておきます。これは今までの失敗の経験を経て作り上げたもので、無用な心配をしなくて済みます。集談会ではガスの元栓、テレビ、エアコン、電気の切り忘れ、水道の出しっぱなしを気にして引き返すことにとらわれている人がいます。そういう人に「忘備録」は作っていますかと聞くと、それは頭に入っているから大丈夫ですと言われる方がいます。これは問題だと思います。そういう人は忘れものでいつか大きな問題を起こす可能性が大です。携帯を充電していて、持って出るのを忘れることだってあります。これだけでも困ったことになります。つまり自分が気になることには、過度の注意が向いていますが、他の面では注意散漫になっているということではありませんか。仮に自分の気になることはきちんと確認できたとしても、他の面で物忘れをすることが起こるのではないでしょうか。実際には物忘れがなくても、大いに気にはなると思います。ガスの元栓の締め忘れが気になる人は、意識や注意を他に向けるやり方をとるという方法も考えられたら如何でしょうか。数多い確認リストの中にガス、電気、水道、玄関の鍵、窓の開閉も入っていて、呼称確認で一つ一つ確認をするのです。その他外出するときの持ち物も入れます。確認事項が多いいと一つのことにとらわれることが少なくなるかもしれません。すべてOKということになると、心置きなく出かけることができるかもしれません。これを森田理論で理詰めで納得させようとすると、ますます注意や意識を引き付けてしまうということが考えられませんでしょうか。理論として知っておくとともに、忘備録を作って必ず呼称確認を行ってもらいたいと思います。これらは社会生活の基本事項なので、何だと思われる方はスルーしてください。
2020.01.10
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