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後白河法皇の「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)という本の中にある言葉の紹介です。この本は、当時京都で民衆が流行り歌のように歌っていたものを集めたものです。遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さえこそ動(ゆる)がるれ人間は苦しむために生まれてきたのではない。偶然、この命に満ち溢れた太陽系第3惑星に生まれてきた。せっかくもらった縁ですから、その恩恵に感謝しつつ、おおいに人生を楽しんで生きていきましょうと言っているのです。ではどうすれば人生を楽しめるのか。一つには本能的、刹那的、刺激的、享楽的、物質的楽しみを追い求める方法があります。アドレナリンが出て、脳のエーテン神経が刺激されるのでえも言われない快楽に酔いしれることができます。これをカンフル剤として活用すると人生は楽しくなります。ギャンブル、ネットゲーム、アルコール、薬物、愛、グルメ、買い物などがあります。これの欠点は、のめりこむと金がかかる。瞬間的であり、持続性がないということです。そこに最大の価値を置くと、どんどんエスカレートしていく。薬物でいえば、少々の量では満足できなくなる。これが途絶えると、イライラして精神的な面に悪影響が出てきます。つまりこの方面の楽しみばかりを追い求めていくと、身体面、精神面の両方に悪影響が出てくる。ほどほどにすることが大切です。基本はどうするか。日々の日常生活に丁寧に取り組んでいく中で、問題や課題を見つけて、解決に向かって行動するということだと思います。物そのものになって取り組んでいると、新たな気づきや発見が湧き上がってきます。それが呼び水となって、興味や関心が高まってきます。やる気やモチベーションが高まってきます。そして次の課題や目標が見えてきます。希望や夢を持てるようになってきます。これらは基本的にお金はそんなに多くはかかりません。その余韻は長期にわたって持続します。生活も安定して豊かになります。精神状態も健康的になります。いいことづくめとなります。そのためには気分本位な行動は抑制することです。最初はイヤイヤ仕方なく行動したことが、後で振り返ってみるとあのとき一歩を踏み出してよかったと思う事が多いはずです。仕事は生活していくためにやむを得ずしている。宝くじが当たれば、すぐに辞めますという人がいます。その一方で、仕事の中に問題点、課題、改善点を見つけてなすべき目標が明確になった人は、活き活きとしています。積極的、建設的、生産的、創造的な人生を楽しんでいます。仕事は、人生の3分の1くらいは占めているわけですから、ここに焦点をあてて、できるだけ人生を実りあるものにすることは大切だと思います。良寛さんに次のような短歌があります。霞立つ 長き春日を 子供らと手まりつきつつ 今日もくらしつ良寛さんは極貧の生活でしたが、精神的には大変穏やかな心境で、人生を楽しまれていたのではないかと想像しております。物質的な豊かさよりも、先ず精神的な安定感を優先した方がよいと思います。徳川家康は、「人の一生は重き荷を負うて、遠き道を行くが如し」と言いました。徳川家康が人生を苦行と捉えていたのかどうかわかりませんが、それとは対照的に人生は子どもの遊びのように無我夢中になれるものであるという考え方もあるのです。私を振り返ってみると、神経症の克服に向かって一途に努力することを中断して、人生を楽しんで生きて行こうと方向転換した時から、新しい自分の生き方が見つかったような気がします。森田理論学習と実践によって、いくらでも人生は楽しむことができるようになります。生活の発見会の集談会は、そんな話を披露しあう場だと思っております。私は小さな楽しみを身近な生活の中でたくさん見つけて、楽しむことのできる人に魅力を感じています。
2021.07.07
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引き続き、宇野千代さんのお話です。観念優先の世界で生活している私にとっては耳の痛い言葉です。頭で考えるだけのことは、何もしないのと同じことである。私たちは頭で考えるのではなく、手で考えるのである。手を動かすことによって、考えるのである。手を素早く動かすことが、そのまま、頭を素早く動かすことになる。どんなことをするのでも、先ず頭が、その、することを伝達する。その伝達が、間、髪を容れないほど、素早いのは、手が頭の伝達を、神業のように素早く受け取るからである。私たちは、先ず、手を動かすのかと思うほど、頭の回転を素早く受け取る。頭の動きというものは省略されているのかと思うほど、手が、手だけが素早く動くのである。小説を書くのも、手が動くのである。どんな大傑作を書くのでも、手が動くのである。手が動かないものは何もない。私もときどき、頭の中で大傑作を思いつくことがあるが、それは手が考えたことではないので、さて、書こうと思うと、何であったか、まるで思い出せない。人の考えることは、その行動によって引き出されることが多い。私にとって、計画は何もない。ただ、ああしたい、こうしたい、と絶えず思い描いて、それが喩え、少々無理なことであっても構わずにやってしまう。あの、いつでも何かを追いかけていく気持ち。大袈裟に言いますと、そういうことの人生であったな、と、ふと思うのです。私はそういう気持ちに却って追いかけられ、振り回されて暮らしてきたのではないかと、今更のように考えるのです。おかしなことですが、それが自分の生活であったと気がついても、いまではただ、苦笑するばかりです。(行動することが生きることである 宇野千代 集英社文庫 12ページより引用)宇野千代さんは98歳でお亡くなりになられましたが、絶えず好奇心を大切にして、心ゆくまで人生を謳歌された方だと思います。その生き方が、優れた小説を生み出す原動力となっています。我が人生に悔いはなし。感謝の気持ちを持って旅立たれたようです。
2021.07.06
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宇野千代さんの言葉は、森田の考え方に近い。小説家だけあって、無駄のない表現方法にほれぼれする。人間のすることは、すべて現実と想像である。私たちは朝から晩まで、この二つの現象の間を往復して、巧みに生活している。誰が、生活を巧みに成し遂げるかは、この間の微妙な感覚の揺れ動く有様で決定する。どこまでも体をぶっつけて、逃げないことである。おかしな言い方ですけれど、あの時は思わずそうした、考える隙間がなかった、と思うほど早い、速力のある行動ほど、「生きていた」という感覚が強いのです。悪かったかもしれない、しかし後悔はみじんもしない、という感覚です。人間の考えていることは、いつでも、変転極まりないものです。あなたは私のことを、いつでも、思ったらとことんまでやってしまう、自由気ままな人生を送ってきたように、お考えになるようようですが、その私でも、あるときは立ち停まって、行き先を考えたことだって、たびたびありました。ただ私の場合は、その考えている間が、とても素早いのです。まるで、考えたことなぞなかったように、素早いのです。自分から進んでその中に這入っていくことによって、私は傷つかないことを覚えた。(行動することが生きることである 宇野千代 集英社文庫)この考え方は陶芸家の河井寛次郎氏と同じです。河井寛次郎氏は、「手考足考」と言いました。頭の中で構想を練るだけでは優れた陶芸作品は生まれない。手足を動かして、試行錯誤の中からこれはという作品が生まれる。行動すると、いずれにしても出来栄えという結果が出る。その結果をもとにして、工夫やアイデアが膨らんでいく。肝心なことは、手足を動かすことが先で、考えることはその後にするということだ。ここが神経質者と違う。神経質者は頭の中で、成功間違いなしという感触を優先する。しかし実際に行動に移してみると、考えた通りにならない。思わぬ壁も立ちふさがる。見込み違いが常に付きまとう。こうなりますと、急に意欲が衰えてしまう。すぐに撤退を考えて実行する。そのうち予期不安に苦しみ、手も足も出なくなる。宇野千代さんは実は結婚を4回経験されている。たびたび結婚と離婚を繰り返すことは、精神的には振幅の幅が大きすぎて、普通の人は耐えられるものではない。宇野さんは以前の夫やその家族ともつきあいは継続している。思い立ったらすぐに行動という宇野千代さんらしい生き方に驚くばかりです。宇野千代さんは、好奇心の塊のような人ですね。しかも凝り性です。書き残された文章や挑戦してこられた内容を拝見すると、「すばらしい」の一言に尽きます。神経質性格者も執着性が強く、好奇心旺盛です。あとは観念優先の態度を少なくして、「手考足考」の考え方を一部取り入れると、素晴らしい人生の幕が上がります。私たちは元々観念的なので、そちらの方は放置して、行動面に力を入れると、観念と行動のバランスが取れてくるはずです。
2021.07.05
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昨日の続きです。「ひらめき」や「気づき」は、宝が詰まった玉手箱であると認識する必要があります。でも、放置しておくと、すぐに忘却の彼方に飛び去ってしまうものであるという認識も必要になります。「ひらめき」や「気づき」を宝物として認識して、確実にチャッチするためにはどうすればよいのか。言い古されたことですが、忘れないうちにすぐにメモしておくということです。これに命を賭けて取り組んでみるという心構えが大切になります。私のやり方をご紹介します。まずいつでも書けるストラップ付きのボールペンを用意します。100均で2本100円で売っています。これをいつも首にかけておく。邪魔になる、目障りになるという人は、上ポケットに入れておく。これでいつでもメモできる態勢が整いました。次はポストイットを用意します。100均に行くと、さまざまなサイズの付箋があります。私が使っているのは7.5cm×5cmのものです。これくらいの大きさでないと、書き込むことが困難です。6cm×6cmくらいのものも使いやすいと思います。これをスマホのカバーを開いたところに取りつけています。クリアファイルを同じサイズに切り取り、両面テープで張り付けています。そこにポストイットを張り付けています。量は20枚程度です。なくなるとすぐに補充します。ポットイットは上部に弱い接着剤がありますので、ずり落ちることはありません。そこにプラスチック製の台紙挟み込んでいます。じかにポストイットが携帯画面に接触しないためと書き込んだポストイットを張り付ける台として使用しています。張り付けたポストイットは裏返しにしています。こうすると、携帯に電話がかかってきたときも、問題なく使えます。これを有効活用することで、「ひらめき」や「気づき」はかなりの部分拾えるようになります。そのためには最初のうちは意識して実行することです。そのうち習慣化してくればしめたものです。つぎにA4のノートを用意します。ノートは書くのではなく、台紙代わりとして使っています。A4サイズは、見開きA3サイズになりますので、とても使い勝手がよいと思います。これも100均で40ページのノートが100円で手に入ります。ノートの真ん中を折って、左右にそのメモをどんどん張り付けていくのです。その他貼り付ける時に、気づいたことはその都度書き込みます。私は色違いのノートを3冊用意しています。分類するためです。森田関係、趣味の関係、日常茶飯事に分けています。このノートは家に置いています。仕事から帰ってすぐにペタペタと分類して貼り付けます。あとはこの「ひらめき」や「気づき」を膨らませていかに活用させていくか。これが私の腕の見せ所だと思っています。楽しい作業が待っています。ほとんどは没になっても、10個に1つか2つを大きく育てることができたら望外の喜びになるのです。これはと思われた方は、即実行に移すことです。なお詳しいことは(1冊の「ふせんノート」で人生は、はかどる 坂下仁 フォレスト出版)という本が参考になります。興味と関心のある方は是非お読みください。
2021.06.30
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5月号の生活の発見誌に、健康で長生きをしている人の生活習慣についての記事があった。1、運動をする。2、適度な睡眠をとる。3、朝食をとる。4、アルコールは適量なら毎日でも可(男性)5、禁煙6、働いている。7、身だしなみに気をつけている。8、かかりつけの歯医者がいる。9、外出が好き。10、人との交流を大切にする。11、少し太っている。12、動物を飼っている。13、お金を管理している。ここにあげられたことは、私の場合ほとんど実行している。ちょっと心もとないのは、朝食はニンジンリンゴジュースとヨーグルトだけである。動物は飼っていない。以前金魚を飼っていたが2年くらいで死んでしまったので、それ後は止めた。歯は丈夫なのでかかりつけ医は持っていない。生活習慣病検診は毎年1回は受けている。自動車も同じですが、メンテナンスを怠ると重大な欠陥を放置することになると思う。私は90歳まではこのブログを続けたいと思っているので、健康には特に留意している。特に足腰の筋肉が衰えることを防止するために毎日の運動を欠かさないようにしている。これは現在マンションの管理人をしているので、通勤と勤務時間を活用している。通勤に自転車が15分、歩きが20分ある。自転車こぎも坂はよい運動になる。歩きは3分早歩きをして、3分普通歩きをすることを繰り返している。勤務先では、エレベーターは極力控えて、階段を上る。それも、1段飛ばしなどを取り入れて負荷をかけて登る。運動は毎日の生活の中で無理なく続けることが大事だと思っている。歳をとると物忘れが多くなるがこれは仕方ないと思っている。ただし認知症やボケることは何としても避けたいものだ。気を付けていることは脳の廃用性委縮現象を避けるようにしている。脳をどんどん活用するために、興味があることは何でも手を出してみる。問題点や課題が見つかると、脳を使うことになるので喜ばしいことだと思っている。そのためには、凡事徹底を心掛けて、気づきを大切にしている。気づきのストックを毎日忘れないようにメモするのが大切だと思っている。心配事が絶えないという神経質性格を逆手にとって脳を刺激しているのである。それから、趣味をたくさん持っている人は、心の張りがあると思う。好奇心、興味や関心、目標や夢や希望を持っている人は、精神的に若々しいと思う。歳だからと言って億劫がらずに、経済的に可能であれば何にでも手を出したい。最近目が悪くなってきた。特に老眼が進んできた。老眼鏡なしでは本が読めなくなった。サプリメントは飲んでいるが、どうも防ぎようがないようだ。スマホを長時間見続けることが目に悪いように思う。空き時間にいつもスマホを見るという習慣は改善していきたい。
2021.06.23
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行動できない人は、「二度あることは三度ある」という言葉を誤解している人が多いようです。「二度失敗したら、きっと次もまた失敗する。二度失敗したらずっと失敗し続けるはずだ」だから予期不安のあることは決して手をださないようにしたい。誰しもミスや失敗することは嫌なものです。特に神経質者はミスや失敗をことさら恐れています。ミスや失敗をすると他人に批判・否定される口実を与えてしまう。いたたまれない気持ちになる。ミスや失敗をすることは恥になる。なんとしてもミスや失敗を防止しなければならない。予期不安を感じたことには、絶対に近づいてはならない。チャレンジ精神はなくなり、延命が保証されればそれでよしという気持ちになる。この言葉の真意は、「二度も起こるようなことは、さらにもう一度起こる可能性があるから、慎重に行動しましょう」という意味です。行動しないのではなく、行動の方法を教えてくれているのです。この言葉を別の言葉で言い換えると、「人生には成功と失敗があるのではなく、成功と成長があるだけだ」ということです。エジソンがそうでした。電球を開発するのに何千回も失敗を積み重ねています。エジソンは失敗するたびに、「電球に向かない素材を無数に発見したのだ」「成功とは縁のないやり方がまた一つ見つかった。別のやり方を考えてみよう」と捉えていました。最後はフィラメントに竹を使うことを思いついたそうです。エジソンの成功がもとになって、今のような優れた照明器具の開発につながったのだと思います。集談会で人間は3000回のミスや失敗を経験して立派な大人になるのだと聞きました。私は、不安や恐怖、予期不安を上手にかわしながら生きてきました。人生のやりくり名人だと思っていました。嫌なことを避ける天才だったのです。それは理にかなっていると思っていましたが、大人になって苦労しました。幼児が突然社会の荒波に放り出されたようなものですから、適応不安で苦しめられるようになったのです。子どもの頃にできるだけ多くのミスや失敗、人間関係のトラブルを経験しておくことが大切になってくるのだと思います。ではそれらを回避して大人になった人に救いはないのか。私は集談会の場で、いろいろとミスや失敗の経験させてもらいました。集談会では、図書係から始まり、いろんな世話活動を経験させてもらいました。人材が足りないわけですから、世話係や幹事などの仕事はいくらでもありました。集談会では利害関係がない。基本的には責任を追及さることはありません。ミスや失敗をしても寛容な気持ちで許してもらえる。むしろ喜ばれることの方が多い。そんな中で参加者に喜んでもらえるようなことを考えて実行に移していったのです。様々な経験は、今までパスしてきたことを、遅まきながら追体験していたようなものです。集談会での数多いミスや失敗の経験は、会社での仕事に大いに活用できました。こんなことはしてはいけない、これは少々苦しくても手を抜いてはいけないことが身についてきたからだろうと思います。集談会の世話活動は、ミスや失敗の経験の場になると思います。この場を存分に活用することをお勧めいたします。最終的には、集談会単独の「心の健康セミナー」の企画から実施まで行いました。1年がかりでしたが、失敗や困難の連続でした。特に集談会の参加者の協力を取り付けること。一般の人にセミナー参加を促す広報活動は初めての経験で試行錯誤の連続でした。この目標に取り組むことで、人脈を広げる活動について貴重な体験ができました。思い通りにならないことばかりが多く、眠れない日々を過ごしました。しかし努力の甲斐があって、結果は参加申込者が100名を越えました。最初はどうしてこんな大それたイベントを引き受けたのだろうと後悔ばかりでした。しかしこの取り組みで、イベントの参加者を増やすための方法がある程度分かるようになりました。ミスや失敗を糧にして、成功のコツを掴んだなと思いました。ミスや失敗は上から下目線で非難や否定するのではなく、そこから教訓となるものを一つでも掴んで、必ず次の成功に結びつけてやるんだという気持ちの持ち方が大切だと思います。
2021.06.07
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スティーブン・R・コヴィー氏は、「7つの習慣」の7番目に心掛けることは「刃を研ぐ」事だと言われています。1、健康でスタミナのある肉体を作り上げて維持していくこと。2、安定した精神的状態を保つこと。3、自己啓発に努め、知性を高めること。4、他人の生活に貢献すること。1は、バランスのとれた食生活、適度な運動、休養や身体のケア、規則正しい生活、生活習慣病の検査、身体のメンテナンスなどに注意を払うことです。自分の身体は自分のものだから、どうゆうふうに取り扱おうがかまわないという人もいます。この考え方は如何なものでしょうか。今よりももっと健康体に作り変えたいものです、125歳が人間の寿命といわれていますから、いかにそれに近づけるか、勝負のしどころです。御身大切にする人は、他人も大切にできる人になれます。2、安定した精神状態になるためには、森田理論学習をすることが欠かせないと考えています。森田理論というのは、人生哲学として、すべての人間が学習すべき内容となっています。特に不安の役割、不安と欲望の関係。バランスや調和のとり方。変化への対応方法。今あるものを活かす方法。生の欲望の発揮とは何か。凡事徹底、規則正しい生活。人間関係の在り方。「かくあるべし」という観念優先の態度を事実本位の態度に切り替えるためにどうするか。などの意味するところを、よく学習して、人生哲学を確立することが、大切になると考えています。3は、人間は誰しも、課題や目標、夢や希望を持って生きていきたい。向上発展したい。他人に喜ばれることをしたい。他人の役に立つことをして評価されたい。物質的にも精神的にも豊かになりたい。暖かい家庭や人間関係の輪を広げて、人生を楽しみたい。それを成就するためには、その目的や目標に向かって努力することがかかせません。自己啓発、生涯学習がかかせません。それに向かって努力することが生きがいになります。そういう習慣を身につけている人は素敵な人です。森田理論学習では「生の欲望の発揮」と言います。神経症を克服する過程で、最後に行きつき先は「生の欲望の世界」ということになります。4は、森田理論では、人間関係のコツは「不即不離」と説明しています。引っ付きすぎず離れすぎず適度の距離を保った付き合いを心掛ける。必要な時に、必要に応じて、必要なだけの人間関係を心掛けて生活する。その中で、誰でも持っている自己中心性が暴走しないようにすることが肝心です。そのためには、何か他人に役に立つことはないかと注意や意識を高めて、周囲を観察することが有効です。人間関係で苦しいというのは、油をささないで歯車を回すようなものです。絶えず潤滑油が潤沢に行きわたっているような人間関係を築いていきたいものです。以上が、スティーブン・R・コヴィーが述べおられる「7つの習慣」を、私なりに森田風にアレンジして、6日間にわたり紹介してきました。1から3は行動の原則、4から6は人間関係の在り方、7はその基礎や土台となる考え方でした。確かにこのような7つの習慣を身に着けている人は、社会の中で成果を上げて、光輝いていると思います。森田理論は地下に眠っている金鉱を掘り当てるようなものです。もう少し掘り進むと豊かな金鉱に出会うとしたら、途中であきらめてしまうのは実にもったいないことです。以上、詳しく知りたい人は、「7つの習慣」 (スティーブン・R・コヴィー キングベア出版)をご参照ください。ただし500ページ近くあり、少し難解な本です。
2021.05.19
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「7つの習慣」の紹介の続きです。第一番目の習慣として、何事も主体的に取り組むというのがあります。物事に主体的に取り組む習慣をもっている人が、人生の成功者になっているというのです。これは森田先生も同じことを言っています。最初はイヤイヤ仕方なしの行動で構いませんが、そのうち一歩踏み込んで一心不乱になって取り組むことが大切です。では主体的に取り組むためにはどうすればよいのか。事実をよく観察することです。事実をよく見つめていると、問題点や改善点が見えてくることがあります。気づきや発見、アイデアが見つかるのです。興味や関心が高まります。なんとかしたいという感情が生まれて、やる気が高まってきます。これが主体的に取り組むうえでのポイントになります。第2の習慣として、目的と目標を持って取り組むというのがあります。人間は大脳が高度に発達しており、対象に働きかけて、生産的、建設的、創造的に生きていくように宿命づけられた生命体です。宿命に沿って生きていくことが大切です。目標や課題というのは、最初から存在しているものではありません。森田でいう日常茶飯事を丁寧に行い、小さな成功体験を積み重ねることで、しだいに大きな目標や課題が見えてきます。大きな夢や希望を持てた人は幸せです。目標や課題を持つということは、現実、現状、事実を正しく認識し、どんなに問題があってもそれを素直に受け入れるという態度が大切になります。「かくあるべし」を振りかざして、自分や他人を非難、否定しているとその出発点に立つことはできません。昨日から行動面での3つの習慣について説明してきました。4つ目から6つ目の習慣は、人間関係の心構えに関することです。そして7つ目の習慣は、行動面と人間関係の習慣を維持するための心構えです。これらについては明日以降投稿いたします。
2021.05.15
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プロフェッショナル仕事の流儀に、枕崎の鰹節職人の瀨﨑祐介さん(40歳)が紹介された。この人の仕事に対する取り組み方に感動した。年間56000本の鰹節を作っている。お父さんと従業員4人で「本枯節」という鰹節を作っている。「本枯節」というのは、高級料亭が使う鰹節である。おじいさんと息子の稜空(りく)君も時々手伝っている。この方は4年に一度開催される品評会で最高賞を獲得している。瀨﨑祐介さんの仕事ぶりを一言でいうと、一つ一つの作業をとくかく丁寧に行っている。森田でいう、凡事徹底を貫いておられるのだ。経費や効率面を考えると、無難なところで妥協した方がよいと思えるような事にも、こだわりをもって丁寧に取り組まれていた。そのことで、意地を張り、祖父や父親、従業員からは猛反発を受けて、耐えきれず転職したこともあった。転職先の福岡の会社で、家で作った鰹節を試食してもらったところ、絶大な称賛を受けた。そこで鰹節作りは、やりがいのある仕事なのだと再認識して、家に戻ったという。今では自分の考えややりたいことをきちんと伝えて人間関係も好転している。特に息子の稜空君(13歳)は、お父さんを羨望の目で見ていた。こんなに父親を尊敬している子供がいるのかと驚いた。姉さんかぶりで、時々仕事を手伝っている。カツオの三枚おろしもできるようになっていた。取材に対して、「お父さんの仕事ぶりはかっこいい」と高評価であった。よい跡継ぎになるだろうと思いました。それ以上に、瀨﨑祐介さんの子育てに感心した。鰹節作りは三枚おろしから始まる。相断ち包丁で20秒で裁く。その後熱湯に2時間漬ける。60度から65度だが、温度管理には神経を使う。手を抜くと、割れやギズものになるからだ。その後、ピンセットで骨をすべて取り除く。つぎに、カツオのすり身を使い、表面のキズを埋めていく。先端部分はカツオの皮を張り付ける。これが先端部分の割れを防ぐという。この工程は省いている人が多いところだという。瀨﨑さんは、「手間はかかるし、経費には見合わないが、いいものをつくりたい」とひと手間を惜しまない。その後、燻し作業に入る。焙乾という燻製作業のことです。ここでユニークなのは、モーツァルトのピアノソナタをかけていることだった。そして、発酵を促すためにカビを噴霧器で振りかける。この作業でうまみが凝縮されるという。「本枯れ節」は、ルビーのようなワイン色に輝くようになるという。つぎに天候を見定めて天日干しに移る。これは4か月にわたって何回も繰り返す。最後は回転ヤスリで形を整えて出荷する。どの工程も手を抜かないで、ていねいに得組むことは、私たちの目指していることと同じである。ひと手間を惜しまない取り組みが、他人に感動を与えるのだと思う。
2021.05.13
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サケは孵化した後1~2年で海に出るそうだ。夏は北のほうに移動する。冬は少し南の方へ移る。海で1年生活した後、産卵のために、再び生まれた川に回帰するという。これを母川回帰という。実に不思議な現象だ。一旦生まれ故郷を離れたのだから、どこの川で産卵してもよさそうだが、必ず生まれ故郷の川を目指す。私は退屈な田舎が嫌で、中学生の頃から都会暮らしにあこがれていた。特に農業をすることが嫌だった。田舎は刺激に乏しく楽しみがほとんどないと思っていた。また蛇が出てくるのが嫌だった。さらに隣近所の視線を強く感じていた。高校を卒業するとすぐに東京に出た。北区田端、大塚、小田急沿線の生田で暮らした。その後、仕事の関係で仙台、福岡、岡山などで暮らした。父親が早く亡くなり、農業を手伝う必要が出てきたため、30代で広島にUターンした。と言っても田舎に帰ったのではなく、マンションを購入して都会暮らしを選んだ。やはり都会暮らしの方が刺激があり暮らしやすいと思っていたのである。最近は心境の変化が起きた。サケが生まれ故郷を目指すような気持が湧き上がるようになってきたのだ。実際には井戸が枯れて住めるような状態にはないのですが、春から秋にかけては週に1回は帰省する。60キロ離れているが、マンションにいる時よりもやることが沢山ある。家の掃除。家の中に風を通す。墓の手入れをする。田んぼの草を刈る。車の洗車をする。近所の人との交流を楽しみにしている。同窓生との話も楽しみだ。家庭菜園、草花、庭木、果樹の水やりや手入れをする。たけのこ堀も楽しみだ。騒音を気にすることもなく、サックス、カラオケ、一人一芸の練習ができる。近所の道の駅やそば打ち体験をする。季節の花が咲き乱れる風景を楽しんでいる。近くの景勝地や花街道で売り出している農園、果樹園に行く。田舎では広報誌などを見ていると様々な人がいろいろと珍しいことをしている。訪ねていくと喜んでいろんなことを教えて下さいます。特に野菜つくり、加工食品作り、燻製作り、ピザの作り方、風車、水車、竹細工などを教えてもらった。草刈り機や管理機などの農機具の手入れも聞いた方が早い。できたての野菜や卵、野菜の苗をいただくこともあります。時々人を呼んでバーベキューをする。田舎の夏は涼しいので昼過ぎからは昼寝をする。石川啄木の歌に「かくかくに 渋民村は恋しかり 思い出の山 思い出の川」というのがある。私の心境も同じです。あれ程毛嫌いしていたのに、故郷のよさに目覚めてしまったのである。自給自足を中心とした森田実践ができるのも田舎があればこそだと思う。これを大いに活用して、生活を精いっぱい楽しみたいと考えるようになった。「人生の楽園」というテレビ番組に出てくる人たちは、田舎暮らしを満喫している人が多い。みんなそれぞれ活き活きと生活されている。そういう人たちの情報を得て、さらに楽しみを増やしていきたいものです。
2021.05.07
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神経質性格の人は不安にとらわれやすいという特徴を持っています。これは高性能のレーダーを標準装備しているようなものですから喜ばしいことです。ただ、あまりにも不安の種が増えすぎて、不安に振り回されて憂うつになるのも事実です。そのかわし方がありますので、早速ご紹介しましょう。否定語やネガティブ言葉を使わないようにするというものです。ダメだ、悪い、悪いのも程がある、最悪だ、困ったものだ、治しようがない、お先真っ暗だ、打開策がない、あきらめるしかない、無理だ、できない、うまくいくはずがない、きっと失敗するに違いない、難しすぎる、荷が重い、疲れた、やる気がしない、もう限界だなどというネガティブな言葉が口癖になっている人に効き目があります。ためしに、誰かにこんな言葉を使っているかどうか聞いてみてください。自分では無自覚ですが、こんな言葉を連発していることが多いのが事実です。家族や同僚、友人などとの会話を録音して後で聞いてみると、驚くほど否定語やネガティブ言葉を使っていることに気づくでしょう。これをできるだけ封印する。そして肯定語、ポジティブ語を使うように心がける。これだけのことですが、不安に振り回されことが少なくなると信じる事です。そのためには、普段から用意しておく必要があります。これはよい、出来過ぎだ、これは面白い、解決策はきっとあるはずだ、未来はある、展望が開けて来るぞ、やりがいを感じる、合格点だ、素晴らしい、よくやった、あんたは天才だ、できた、できるはずだ、きっと成功する、再度チャレンジだ、改善点があるはずだ、出直そう、興味がある、関心がある、あんたは偉い。こんなポジティブな言葉だけを使っていると、なんだか将来に希望を持てるような気がしてきます。実際はそんな心境でなくてもよいのです。それでもあえて肯定語、ポジティブ語を使うというのがポイントになります。森田では、気分はそうでなくても、形から入りましょうと言いますね。森田理論学習の要点の行動の原則10では、「外相ととのえば内相自ずから熟す」とあります。これを生活面に応用すると、こんな感じになります。否定語を使うことが習慣化している人は、大きく変われるチャンスですよ。
2021.04.27
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宮本武蔵の五輪書にある言葉である。10年くらい一つのことにわき目もふらずに取り組んでいくと、その道では誰もが容易に会得し得ない高みに到達する。そういう地点に到達した人の話は、全く違う職業を生業としている人をも「なるほどそういうことか」と得心させるだけの内容のある話ができるようになる。私は「一芸万芸に通ず」という言葉を、このように理解しています。イチローさんや王貞治さんの対談などを聞いていると、野球への取り組み方や技術論の話をされているのですが、味わいのある人生を送るために、人間はどういう心構えで生活していけばよいのかを話されているように感じる。木の棒を振り回すことに賭けた人は、実は人生の洞察力を高めておられたということです。私がこのブログを始めたのは高良武久先生のある言葉がきっかけでした。「10年間何か一つのことに真剣に取り組んでみなさい。そうすればその道のエキスパートになれます。他の人がすぐに会得できない能力や技術を身につけると、対人恐怖症の葛藤や苦悩はいつの間にかなくなるはずです」時間をかけて身につけた能力や技術はその人の器をいつの間にか大きくしている。自分はこの道では誰にも負けない。この道で生きていけると思えるようになる。請われればこのコツを人に教えることができるような知識を集積できる。一人の人間として生きる自信が芽生えてくる。それがどんどん大きくなり確信に変わってくる。少々の乗り越えることが困難や壁にぶち当たっても、乗り越えたいという意欲の方が強くなってくる。挑戦へのエネルギーがほとばしり出てくるのだ。私はこの話を聞いて、10年くらいかけて、一つのことを極めていく人生はうらやましいと思いました。また、神経症を克服するために、こんな方法があったのかと思いました。この言葉にかけて見ようと考えました。そしてこのことを自分の実践で検証してみようと思ったのです。実際にこのブログを始めて8年と4か月になりますが、原稿用紙2枚から3枚の文章を書くことが完全に習慣化しました。原稿を書くことが苦にならない。1日何も書かない日はない。書かないと気の抜けたビールを飲むような気持になる。森田理論を自分なりにどんどんと深耕していくうちに、人生についての洞察力がついてきた。それを基にして、仕事をするとはどういうことか、人間教育、社会教育、人間関係、欲望と不安の関係、欲望の暴走社会の危険性、日本の自立、外交、防衛、政治、自然と人間のかかわり方などについて自分の意見が打ち出せるようになった。対人緊張の方は死ぬまで取り除くことはできないことが分かった。また気分本位で逃げることは、自分をみじめにするばかりだと気づいた。今では、対人恐怖症は自分の個性と捉えることができるようになった。これがなくなると自分が自分でなくなるような気がする。自分の持ち味だ。現在は治す必要がない。それよりは対人恐怖症はむしろ自分の強みではないのか。対人恐怖症を目の敵にしていたのが、今では無二の親友になったような気がする。死ぬまで対人恐怖症と手を取り合って生きていきたいと考えるようになった。まだまだ森田理論の深耕の余地は残されていると思う。森田理論の深耕へのエネルギーはかなり残っているので、これから先、10年、20年、30年と努力精進してゆきたい。その途中でこの世から去ることになるかもしれない。それでもよい人生だったと納得して、感謝の気持ちをもって旅立つことができるのではないかと思っている。今の願いは、森田理論を日本中、世界中の人に分かりやすく紹介することです。森田理論の普及は、人類の将来にかかわる大切な活動になると思う。
2021.04.20
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イチローさんが王貞治さんに次のように質問している。「現役時代、選手の時に、自分のためにプレーしていましたか、それともチームのためにプレーしていましたか」これに対して、王さんは即答で次のように話している。「オレは自分のためだよ。だって、自分のためにやるからこそ、それがチームのためになるのであってチームのために、なんていうヤツは言い訳するからね。オレは監督としても、自分のためにやっている人が結果的にチームのためになると思うね。自分のためにやる人がね、一番自分に厳しいですよ。何々のためにとか言う人は、うまくいかない時の言い訳が生まれてきちゃうものだからな」この意見にイチローさんも全面的に賛成しています。(イチロー・インタビュー 石田雄太 文芸春秋 283ページ)今日はこの話をもとにして、森田の理論学習でよく言われる「人の為に尽くす」を考えてみたいと思います。なおこの言葉は森田先生は使われていません。後世の人が言い出した言葉です。神経症で苦しんでいる人は自己内省が強くなり、周りが見えなくなる。注意と感覚の悪循環が起き、神経症の蟻地獄へと落ちていく。その解決策として提案されている言葉だと理解しています。つまり、目線を自分の症状に向けるのではなく、外向きに切り替えることが大切です。その手段として、他人のために尽くすことを見つけて実践すると効果がある。積極的に「人の為に尽くす」ことを見つけて、実践しましょう。人の役に立つことを見つけて行動することはよいことだと思います。ただし注意しなければならないことがあります。「人の為に尽くす」ということを優先するあまり、自分の素直な気持ちや感情、やりたいことや欲望を抑え込んでしまうことです。我慢する、抑えるという気持ちが前面に出て、自分の気持ちや欲望を抑圧してしまう事です。他人の考えや意見に反対してはいけない。自分の考えや意見、気持ちや欲望を前面に押し出してはいけない。先ず他人の意見を忖度する。それに合わせることが大切だ。相手と自分に相違があるときは、先ず相手の方に合わせる。結果として、他人の思惑に振り回されて、自分の気持ちや考えを抑え込んでしまう。自分のアイデンティティ喪失状態に陥ります。そうなるとストレスが溜まります。精神的な葛藤や苦悩が生まれてきます。またそういうことは長続きしません。途中ですぐにイヤになります。ここで大切なことは、人の気持ちや考え方を忖度する前に、まず自分の気持ちや考え方をはっきりさせることが大事になります。それが先に来ないとストレスで苦しむことになります。まず素直に自分感情や欲望に向き合うことが大事になります。イチロー選手は次のように説明されています。「自分が打てなくてもチームが勝てればよい。自分が出場していなくてもチームが優勝すればよいなどと思っているような人はいずれ契約解除されます。クビになって路頭に迷うことになります」「自分の生活のために取り組む。自分の目標を明確にする。日々愚直に、真摯に野球に打ち込む。技術を磨き、変化に合わせて進化していくことが大切だ」これはまず自分の「生の欲望」をはっきりさせることだと思います。目標を明確にして、一心不乱に取り組んでいくことが肝心であるということです。それをとことん追求していった結果、大いに他人に役立っていた。プロ野球でいえば、大きな感動を与えることになる。間違ってもいきなり相手のことを忖度して、自分をないがしろにしてはならないということです。自分の感情や欲望を棚上げにして、いきなり「人の為に尽くす」という言葉を持ち出すことは、自分の生き方自体が曖昧になっており、体のよい言い訳として使っているということかも知れません。そういう人はまず「自分の性をつくす」というところに立ち戻ってみることが大切です。
2021.04.14
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冨山真由さんの本から、行動するときに役に立つ話を紹介します。この投稿は「めんどくさがる自分を動かす技術」 冨山真由 永岡書店を参照しています。まずデスクの上の状態は、頭の中の状態と同じです。身の回りが整理整頓されていないと、頭の中も整理整頓されていないと言われています。交通量が多くて、信号機のない交差点に進入したような状態に陥ります。我々神経質者は、発想力、創造力、分析力、鋭い感性の活用などで勝負しなければならないのに、頭の中がすっきりと整理されていないと死活問題になります。宝の持ちぐざれとなる可能性が高くなります。たとえば、机の上には他社の資料やメモ、新聞、雑誌、携帯などが雑然と置いてある。あなたはA社の企画書をまとめながらも、「○○さんにメールしなければ・・・」「経費の精算はまだだった」「この雑誌の記事、面白そう」「今日の飲み会のお店を検索して探そう」などと、余計なことを考えてしまう。集中力が途切れたところでメールの着信に気づき、返信を開始。けっきょく、企画書作りは一向に進まない・・・。机の上が整理されていない人は、バックの中、パソコンのデータ、メールの整理なども不十分の可能性が高い。家庭内でも、冷蔵庫の中、キッチン回り、洋服ダンス、押し入れ、書籍、雑誌や新聞、文房具、領収書類、請求書類、年賀状、郵便物などもきちんと整理されていないのではないでしょうか。それを放置すると、頭の中が混乱していて、必要な情報をすぐに取り出せなくなる。つまり日ごろから整理されていないので、新しいアイデア、気づき、発想力は眠ったままになることが多くなります。神経質性格をプラスに活かすことができなくなるのです。たとえば生活の発見誌ですが、過去のものが山積になっていませんか。配偶者から場所をとるので何とかしてくださいと苦言を聞くことはありませんか。貴重な記事はノートに書き写したり、切り抜いて項目別にファイルして、不要なものは処分する方がよいのではありませんか。その方が、よほど生活の発見誌を活用できるようになります。私はそのファイルを利用して、このブログに取り上げることがあります。テーマ決まれば、そのファイルを取り出して、さらに深く頭の中を活性化することができるのです。何もないところからブログの記事は投稿することはできません。今まで読んだ本や発見誌を項目別に整理して、自分なりに考える習慣を作り上げていることで可能となっているのです。資料を整理することが、頭の中を整理することにつながっていることがよく分かります。ですから、頭の中を整理整頓しようと思っている人は、身の回りを片づけて整理整頓することから始めることが大切になります。まず取り組むことは、不用品を処分することだと思います。とりあえず、もう5年以上活用していないものは、人にあげる。集談会で不用品のリストを公表する。欲しい人にあげる。あるいは交換会をする。バザーやメルカリを利用して処分する。あるいは資源ごみに出す。これらは一挙に行おうとすると、パニックになります。今月は洋服ダンス、来月は本箱、再来月は下駄箱という風に場所を決めて行う。保存しておくといつかは役に立つかもしれないと思っているもので、もう3年以上手付かずというものは、今後も放り投げたままの可能性が大です。そういうものがどんどんと溜まっていくのです。便秘を起こしているようなものです。これをとりあえず1年間かけて行ってみませんか。身の回りがすっきりと整理できた時、あなたの頭の中もきちんと整理整頓できているはずです。すると神経質性格がプラスに発揮され始めるということです。
2021.04.02
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小宮一慶さんのお話です。散歩の途中で富士山に登った人はいない。散歩の途中で、「そうだ、富士山に登ろう」と思いついて、そのまま富士山に登る人はいませんし、登れません。散歩のスタイルだとサンダルばきかもしれませんし、犬を連れているかもしれません。富士山に登るには、それなりの装備や準備が必要です。富士山の頂点に立つ人は、みな「富士山に登ろう」と思って、一歩一歩、歩いてきた人たちばかりです。でも「歩いている」という行為自体を見れば、富士山に登る人も、ぶらぶら歩いている人も、みな同じ歩き方に見えます。みな同じに見える、というところが落とし穴です。隣の人と同じように歩いているからといって、安心してはいけません。その人は富士山を登る人かもしれないのです。富士山の頂上に立つ人は「富士山に登ろう」と思って歩いているから、頂上に行けるわけであって、何も考えていなければ、たいした場所には行けません。人生も同じです。どこかに行こうと思わなければ、ただの散歩のようにぶらぶら歩いて、どこに着いたか分からないうちに、やがて死に至ります。だから目的や目標を持つことが大事なのです。(あたりまえのことをバカになってちゃんとやる 小宮一慶 サンマーク出版 114ページより引用)私は、この考え方に同感です。集談会で大きな目標を持てる人は持てばよいし、そうでない人は持たなくてもよいと聞いたことがあります。その考え方には、多少違和感がありました。人間には、他の動物や植物と違うところがあります。大脳が高度に発達しているということです。どんな人間も、生まれながら「考える力」が備わっています。問題点や課題が見えてくる。あるいは興味や関心が湧き上がると、自然に大脳が活動を始めます。問題点や課題を解消したい。興味や関心のある事に挑戦してみたいと考えるようになることは、あたりまえのことです。つまり人間は、大脳を活用し、目的や目標を持って生きることが宿命づけられている生命体であると言えます。目的や目標がなくただ生命を維持しているというのは、人間の宿命に反した生き方をしているということになります。もし人間という生命体の創造主が存在しているとしたら、今度また生命体としてどこかの惑星に生まれるチャンスを与えるとき、現在目的や目標を見失っている人に、人間のような知的生命体に生まれ変わらせるチャンスを与えるでしょうか。犬や猫、猿や蛇のような生命体として、地球のような命に満ち溢れた別の惑星に送り込んでしまおうと考えるのではないでしょうか。つまり人間は、この地球上でいかに高度に発達した大脳をフル活用しているかどうかを試されているのだと思います。ですから、生きている限り目的や目標を持ち続けることは大切だと思います。いきなり大きな目標、夢や希望を持ちなさいと言ってもそれは無理です。森田では行動の基本は、日々の日常生活に丁寧に取り組むことの中にあります。そして規則正しい生活を維持していくことです。一言でいえば「凡事徹底」です。その中で小さな気づきや発見、自信や達成感、感動や喜びをいかに多く積み重ねることができたかが勝負のしどころです。森田理論に沿った生き方を愚直に続けていきたいと考えています。
2021.04.01
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目標を達成するためには、「大数の法則」を理解して、試行錯誤を繰り返し、成功をイメージすることが有効です。では早速、「大数の法則」について説明してみましょう。たとえば、サイコロを振ると1から6までいろんな数字が出ますね。これを2000回繰り返すと、1から6までの出目の比率は16.6%に落ち着いてくるという。何を言いたいかというと、少ない回数では1から6までの出目はランダムである。ところが、数多くサイコロを振り続けると、ある瞬間から16.6%に落ちついてくる。それ以降の出目の確率はずっと16.6%を維持していくという確率の理論なのです。サイコロの場合は2000回サイコロを振り続けるということが肝心だということです。面白いと思われる方はぜひ体験してみてください。私も試しにやってみましたが、必ずそうなります。株式投資の世界では、例えばグランビルの法則というものがあります。株式投資をする多くの人が知っている単純な移動平均線の理論です。移動平均線には短期、中期、長期線がある。中期、長期線を短期線が上抜いた時を、ゴールデンクロスという。下抜く時を、デットクロスという。これを利用して、トータルで利益が出せるまで試行錯誤を繰り返していく方法があります。少ない回数では損失を出すこともありますが、トータルでは利益が出るという自分なりの方法を一つだけ見つけ出すのです。そうなると勝ち負けで一喜一憂することがなくなるのです。回数を重ねれば、最後は利益になるという安心感や自信のようなものがでてくるのです。その回数はトレードの世界では、200回の試行錯誤で大方の結果が出るという。もし200回でトータルで損失になるようなルールはやればやるほど損失が膨らむ。この場合は、そのやり方はあきらめて、別の方法で試行錯誤を繰り返す必要があります。ここでは、いきなり現金を使って勝負を急いではいけない。本番を想定したシュミレーションを繰り返すことが大切です。そうでないと、虎の子の資金をドブに捨てることになる可能性が高くなるからです。このシュミレーションは心を鬼にして取り組む必要があります。そうしないと、正確な結果が出てこないからです。本番では全く役に立たないということになります。普通好結果が出ないと、投げやりになって、すべてを投げ出してしまうことが多くなります。そして今までの努力をあきらめて、全く違う別のやり方で最初からシュミレーションする人が多い。また他人が別のやり方でうまくいっていると聞くと、そちらの方向に流されてしまう。多くの人は浮気性なのです。隣の家の芝生は、緑が色鮮やかに見えるということです。これが問題なのです。山のあなたの空遠く、幸い住むと人が言う。実際はそんなものは存在しないのについあこがれてしまう。でも、トレードの世界は、こんな浮ついた気持ちで、成果を出せるような甘い世界ではない。またこうした方法は、失敗の経験が次に活用できないで、尻切れトンボになります。それは、一からの再出発となり、知識の集積が進まなくなるからです。これでは、いつまで経っても、大数の法則を有効活用できないのです。そして失意のうちに、投資の世界からいなくなってしまう人が実に多い。ここでは、あくまでもグランピアの法則にこだわることが肝心なのです。一度くらいついたら、どこまでも執着する方がよいのです。一度噛みついたら絶対に離さないというスッポンの心意気を見習う必要があります。今までのやり方に、別の要素を加えて、また200回のシュミレーションを繰り返す。そして結果を検証する。ダメならまた別の要素を加えて、シュミレーションを繰り返す。グランビルの法則はそのままにして、別の視点を加えて微調整する。そしてまたシュミレーションを繰り返していくことです。そして、これはという自分なりのルールを見つけ出すのです。するとグランピアの法則については、他の人の追随を許さないほどの知識が集積されていく。そして、風向きが変わり、運が味方についてくると、最後にはグランピアの法則というきわめて単純なルールでも、利益が出る方法を見つけ出すことができる場合があるのです。自分なりの勝てるルールを確立したあとは、淡々と実践あるのみです。プロのトレーダーの、勝率は20%から30%といわれている。プロのトレーダーでも70%から80%のトレードは損失を出している。それでは自己資金がどんどん減少しているのではないかという疑問が出てくる。心配はご無用です。そういう人は、損小利大で利益が出るという、自分なりの勝てるルールを確立している。その努力は、計り知れないものがあります。成功に至るまでに、数多くの失敗のシュミレーションを繰り返していることを忘れてはいけない。自分なりに勝てるというルールを見つけ出したとしても、トレードの世界は非情である。続けて大きく負けることも日常茶飯事です。貴重な資金かマイナスになることもある。普通の人なら前後不覚となって、慌てふためく。しかし、プロの投資家は、大数の法則を信じて、決して途中であきらめない。シュミレーションの結果を信じて、愚直に淡々と取り組んでいる。勝っても有頂天にならない。負けてもそんなに落ち込まない。仕事をするように、自分の信じた道を淡々と進んでいくだけという感じです。これはもはやギャンブルとは言わない。確率論に基づいた核心的なトレードなのです。予測不能ではあるが、データーに裏打ちされた確率論の世界に身を置いて、その結果をあらかじめ見通している人なのです。こういう人をその道の達人というのでしょう。以上は株式投資の世界で成功しているトレーダーのお話でした。私は大数の法則を森田理論の行動の原則に適応したいと考えています。大数の法則は、数多くのミスや失敗の実践や行動を積み重ねていくと、成功のためのコツが自然に身についてくるということだと思います。イヤだと思っても手を付けなければならないことが分かってきます。また手出し無用なことも分かってきます。無駄がなくなり効率がよくなってきます。私たちは小さなことが気になるという神経質性格を持っています。その小さな気づきを忘れないようにすぐにメモする。忘れてしまうということはなんとか避けたいところです。そしてその気づきを行動に移して、小さな成功体験を積み重ねていく。数多くの成功体験を積み重ねるというところがポイントとなります。その小さな成功体験が増えてくると、自信がついてくる。自信がついてくると、今まで気分本位で逃げ回っていたことに、踏ん張れるようになる。また他人の思惑に振り回されて、我慢や耐える行動ばかりの生活から、ある程度は自己主張できるように変化してくる。このように雑多な経験から得られるものは計り知れないということです。
2021.03.31
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小宮一慶さんの「ABC理論」というお話です。A・・・あたりのことB・・・バカになることC・・・ちゃんとやることものを片付け、ごみを拾い、汚れをふく。それが掃除です。つまり人間にとっては、やってあたりまえのことです。それをいい加減な気持ちで、ただ型どおりにこなすのか。それとも、心をこめて、バカになって、とことんていねいにやるのか。この小さな違いが、その人の人生の質と幅を見事なまでに決めていくのです。たとえば、皿を洗う、コピーをとる、電話をとる、食事をつくる・・・。自分にとってあたりまえの日々の単純作業を、型どおりにこなしているだけでは、ただ時間を消費しているだけで、何も見えてきませんし、何かが生まれてくることもありません。でも、真剣に、バカになって、ちゃんとやることで、ふつうなら気づけないことに気づき、他の人には見えていないことも見えてくる。そして、人生そのものがどこかいい方向へ進んでいくように思えてならないのです。(あたりまえのことをバカになってちゃんとやる 小宮一慶 サンマルク出版 4ページより引用)雑事を雑にやるのではなく、ていねいにやる。そうすることで、それは雑事ではなくなるのです。雑事を雑にやっている人は、結局、雑な生き方しかできない人になります。(同書 71ページより引用)これは森田理論でいう「凡事徹底」のことです。神経症で苦しんでいるときは、仕事、家事、育児などの日常茶飯事が「雑」になっています。あるいは、やるべき日常茶飯事がそのまま放置してあります。雑事に精魂込めて取り組む態度が、神経症の克服に役立ちます。雑事のプロフェッショナルを目指すことで、普通なら気づかないことに気づき、感情が発生して少しずつ流れ始めるのです。谷あいの小川を勢いよく流れゆく水のごとくです。不安や恐怖は気になりますが、それ以上に目の前のやるべきことに注意や意識が向いているのです。これは森田理論の実践・行動の原点となります。この段階は神経症の根治を10とすると、どの段階だと思われますか。私の体験ではいきなり5ぐらいだと思っています。神経症の人が「はい分かりました」といってすぐに習慣化されるようなものでないのです。二歩前進一歩後退のらせん階段を上るようなものです。くじけて以前の状態に戻ってしまう事もあります。私は集談会の仲間に助けられながら、なんとか身についてきたというのが実感です。ロケットでも地球の重力圏を抜けるのは莫大な燃料を消費します。しかし10分ほど上昇すると、重力圏を抜けてきます。その時は神経症から解放されて、生きる喜びを味わうことができるようになるのです。
2021.03.30
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イエローハット創業者の鍵山秀三郎さんがこんな話をされている。頭は臆病。でも、手は臆病ではない。つまり、手を動かさないかぎり、物事は何も動かないし、変わらない。机の上をふくと、おもしろいことが分かります。半分きれいにすると、残り半分の汚れがものすごくよく分かるのです。そこを全部きれいにすると、今度は机の表面の汚れやべとつきに気づきます。だから、心を込めてふく。すると、もっと別の汚れに気づくようになる。そこで何が起こると思いますか。気づきが深くなるのです。どういうことかというと、誰も気づかないようなちょっとした変化に気づけるようになる。感度がどんどん磨かれていくのです。その結果、思考がどんどん深まってきます。たんに漠然と片づけていたのではダメです。何かに気づくまで、徹底してやらなければいけません。そうでないと、ただ机の上をふいているだけで人生は終わってしまうのです。(あたりまえのことをバカになってちゃんとやる 小宮一慶 サンマーク出版 75ページより引用)森田理論そのものの考え方だと思います。まず日常生活に真剣に取り組む。凡事徹底のことです。すると感情が動き出す。様々なことに気づいてくる。精神活動が活性化してくる。緊張感が高まってくるのです。一つの行動が呼び水となり、どんどん意欲的、創造的、行動的になる。次々と問題点や課題が見えてくるようになる。実践や行動がさらにステップアップされていくのです。大きな夢や希望や目標を持つ人も出てくる。小さな課題に真剣に取り組んでいく中で人生は活性化していくのです。最終的には、人間に生まれてきて本当によかったと思えるようになる。このような日常生活の好循環を作り上げ、習慣化することが森田理論学習の目標です。森田でいう「努力即幸福」を満喫できるようになれるのです。
2021.03.29
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2020年11月14日発売の週刊現代に、65歳を過ぎた夫と妻の「やってはいけないこととやめるべきことの」特集記事があった。この記事をヒントにして、「やってはいけないこと」を、私なりに整理してみました。健康面・病院に通うのが日課になっている。・サプリや健康食品を手あたり次第買い込む習慣がある。・朝起きて今日は何をしようか考える。・昼間1時間以上昼寝をしている。・起きている時、いつも横になる癖がある。・お茶、コーヒー、お菓子は欠かせないという状態である。・テレビはほぼつけっぱなしである。・パソコンはほぼ一日見ている。・移動はバイク、自動車、バス、電車を利用している。・まず歩かない。運動しない、ストレッチをしない。嚥下防止体操をしていない。・家から出るのは、買い物をするときだけ。・家族以外の人と会話することがほとんどない。・晩酌を心ゆくまで楽しんでいる。経済面・医療保険以外にも、生命保険に入っている。・年金で株式投資をしている。・パチンコ、競馬、競艇などのギャンブルが大好きである。・パソコンゲームに時間を忘れるほど夢中になっている。・お金をためることばかり考えている。節約志向で、使うことを考えない。・子供や孫に言われるがままにお金の援助をしている。人間関係・配偶者と一日中一緒の行動をしている。・配偶者と3食共にしている。・毎日配偶者につきあって買い出しに行っている。・お互いの欠点を指摘しあう。・嫁の悪口を言う。・近所の人、親戚、友人たちのよくない噂話をして盛り上がっている。・孫のしつけや教育に口を出すことがある。ここにあげたことが当てはまるといって腹立たしく思われる方がおられましたら、お許しください。非難しているわけではありません。長生きするために問題提起しているのです。また程度の問題であり、そこそこの場合はかえって健康維持に役立つと考えています。さて、私は健康面では、マンションの管理人をしている。規則正しい生活になっている。仕事で階段の上り下りをして足腰を鍛えている。毎日7000歩から8000歩ぐらいは歩いている。通勤は速歩を取り入れている。3分間の速歩きをしたのち、3分間ゆっくり歩くことを繰り返す歩き方のことである。足が衰えると、同時に脳も衰えると考えている。1年に1回は生活習慣病診断をしている。がん検診をしている。多少の異常値は出ているが、決定的なものは出ていない。検査は欠かせないと考えている。ガンになって手遅れという人は、検査嫌いの人が多いようだ。仕事をしてある程度の収入があるので精神的なゆとりがある。パチンコなどのギャンブルはしない。ネット麻雀を少しだけやる。1週間に2回程度。時間は30分ぐらい。株式投資は余裕資金でやっている。楽しみになっている。生命保険はやめた。掛け捨ての医療保険にだけは入っている。子供や孫には定期的なお金の援助はしていない。お金よりもお米や自家用野菜などを送っている。入学や卒業の時、お祝いはしている。妻とは趣味も考え方も違うので、普段は別々の行動をとっている。夕食、休みのときの買い出し、田舎での野菜つくりだけは共同で行っている。妻は車の免許を持っていないからだ。妻は「亭主元気で留守がよい」などと言う。ママさんコーラスが息抜きになっているようだ。私もその方が精神的に楽だ。口喧嘩は大いにしているが、別に仲が悪いというわけではない。相手のやっていることを干渉し過ぎないという考えだ。お互いに多彩な人間関係を築いており、妻もイベントがあるたびによく出かけている。それぞれがやりたいこと、やるべきこと、やらなければいけないことを淡々とこなしている。こういう方針でこれからもやっていきたい。そしてともに90歳まで、できれば100歳まで人生を楽しみたいなどと話している。果たしてどうなることやら。
2021.03.24
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青山学院大学陸上部監督の原晋さんは、陸上競技部の基礎となるものは「規則正しい生活」と「適切な栄養補給」だといわれています。青学陸上競技部の場合、朝5時起床、門限22時、消灯22時15分が基本です。また、朝食と夕食は栄養を管理した寮の食事をとり、寮内の自室はもちろん、食堂や廊下などの共用部分はみんなで掃除する。この生活を4年間続けるのです。かなりハードルが高いと思われませんか。修行僧のような感じです。朝毎日5時起きはつらい。週一回もきつい。私は6時20分に起きることにしています。このブログの投稿があるので何とかその時間には必ず起床しています。夜10時15分消灯というのは難しいです。どうしても12時くらいになる。また、いつもは早寝早起きをしていても、土日、祝日は崩れてしまうことがあります。そんな事をして何の意味があるのですか。規則でがんじがらめで息苦しい。楽しみがなくなる。ストレスになる。そんな気持ちが少しでも頭をよぎるようだと、絵に描いた餅になってしまいます。習慣化して継続することは難しい。言うは易く行うは難しということです。でもこの規則正しい生活を維持することは、森田理論が強くお勧めしていることです。生活の土台ができていないうちに、症状を取り上げて克服したいというのは虫がよすぎるのではないかということです。原監督就任当時は朝の練習に遅れる選手が何人もいたそうです。練習場までの800mさえ走らず、コンビニに立ち寄る選手もいました。寮を抜け出して、コンビニで漫画を立ち読みしていたり、外泊する選手もいました。こういう当たり前の生活習慣を定着させるのに3~5年くらいかかったそうです。それくらい習慣化することは難しい。でも、規則正しい生活が欠けていると箱根駅伝優勝という目標は夢のまた夢となってしまう。規則正しい生活の重要性は、高校時代の体験があったからだそうです。1年先輩は1500m、5000mの高校記録保持者がいました。そのために全国高校駅伝競走大会の優勝候補の筆頭といわれていました。ところが結果は惨敗だったそうです。その原因は一体感のなさと乱れた生活にあったと分析されています。成績に胡坐をかいて、選手同士が切磋琢磨して、刺激を与えあうチームではなかったのです。原さんが最終学年でキャプテンになったとき、それを反面教師にしました。同じ時間に起き、みんなで練習し、食事に気を使って、同じ時間に寝る。それを繰り返していくことで、チームには一体感が生まれました。全国的にも注目度が低く、監督からは駄馬軍団と言われていましたが、結果は準優勝でした。能力的には1年上の先輩たちがはるかに上だったのですが、結果は私たちのほうが上回ったのです。早寝早起きの規則正しい生活の重要性が身にしみてわかっていたのです。私たちも心を鬼にして「規則正しい生活」を習慣化していきたいものです。神経症を治すということは、その基礎ができた人に挑戦権が与えられるということです。この投稿は、「フツーの会社員だった僕が青山学院大学を箱根駅伝優勝に導いた47の言葉」を参照しています。
2021.03.21
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今日は課題や目標について考えてみたいと思います。人間は問題や課題を抱えて、それを何とかして乗り越えようとする宿命を持った生き物だと思います。大脳が高度に発達した人間は、その宿命に沿った生き方を目指すことが求められているのだと思います。課題や目標、夢や希望を持って挑戦していく中に、生きる意味は存在しているのではないでしょうか。ですから課題や目標のない生き方は、もはや人間とは言えない。表面的には人間ではあっても、大脳が発達していない動物と同じだと言えます。目標と言えば、いきなり大きな目標を考える人がいます。たとえば山に登るのに、いきなりエベレスト、モンブラン、デナリ、マッターホルン、キリマンジャロ、アコンカグアを目指すと宣言するようなものです。日本百名山の10座も踏破したこともないのに、いきなりは無理です。小さい目標を達成した後で、徐々に目標を上げていくことが大切です。近くの山、日本百名山でも近くまで乗り物で行ける山、富士山、剣岳のような登頂困難な山、夏山から冬山を踏破した後に大目標を設定するべきです。私たちの場合は日常生活の中で小さな課題や目標を見つけていくことが大切だと思います。そのためには、まず規則正しい生活を心掛ける。つぎに「凡事徹底」を生活信条として、なにごとも丁寧にこなしていくことです。規則正しい生活、凡事徹底の当たり前の生活の中から、夢や目標を育てていきたいものです。そのように心掛けていると、仕事に追われるのではなく、仕事を追っていけるようになります。投げやりで惰性に流される生活から、普段の生活の中で、小さな楽しみをたくさん見つけることもできるようになります。人生を大いに楽しむことができるようになるのです。小さな課題や目標を持って生活できるようになったとき、できればもう少し大きな目標を設定してみましょう。会社でいえば、中期計画、長期計画に当たるものです。私たちの場合でいえば、1か月の実践目標、あるいは1年計画というのはどうでしょうか。神経症で真っただ中という人は、神経症と格闘して日常生活はほったらかしという場合が多いのではないでしょうか。私もそうでした。集談会では、対人恐怖症の直接的な乗り越え方は教えてもらえませんでした。そのかわり、毎日実践課題を5個ぐらい作って取り組んでみるようにアドバイスされました。藁をもつかむような苦しさでしたので、愚直に取り組んでみました。今は当たり前にできている、布団上げ、靴磨き、食器洗い、部屋の掃除、風呂の掃除、トイレの掃除、挨拶をする、洗車をするなどでした。毎日の実践を日記に書いて、まとめを1か月に1回の集談会で報告していました。これで当面の神経症を乗り越えてきました。つぎに、生活の発見会の集談会で次のように聞きました。1年経過したときに、この点は1年前と比べて明らかに変わった点がある人は、神経症はいつの間にか治っていく。そのためには、1年間の目標を持つことが有効になります。一つでもよいと思います。なんでもよいと思います。たとえば、1年間はよほどのことがない限り、集談会に出席する。森田全集第5巻を1年かけて読む。生活の発見誌を欠かさずに読む。できれば感想文を書く。その中から、気に入った記事を一つだけ選んで、集談会の場で発表する。少し努力すれば達成可能な目標にすることが大切です。目標は具体的であることが肝心です。できれば数値目標を立てておくことが励みになります。たとえば、森田全集は774ページありますから、1か月あたりでは64ページになります。1日あたりでは2ページくらいです。これを1年間続けたあなたはきっと自信がついていると思います。つまり人間として成長したということです。そしてできれば10年先、20年先の目標も立てておくことがよいと思います。私の目標はこのブログをあと20年続けて、1000万アクセスを達成することです。1年間40万アクセスを続けることができれば達成可能となります。そのために、速歩運動、嚥下防止、読書、趣味のボランティア、自家用菜園、加工食品作りを継続していこうと思っています。最終的にはピンピンコロリを目指しています。目標というものは、その途中は苦しいことがつきものです。それで途中で放り投げてしまう人もいます。そして、根無し草のようになってしまうのです。私は大学時代神奈川県の丹沢山系で沢登りをしていたことがあります。20メートルぐらいの岩場を登るスポーツです。登っている最中に少しでも下を見ると怖くて登れなくなる経験をしました。登っているときは手や足をかける場所を探して、常に3点確保に集中しないと大変なことになるのです。もちろん命綱があり死ぬことはありませんが、恐怖心は残ったままです。下を見るというのは、森田でいえば理想の立場に自分を置いて、理想とは程遠い自分を眺めて叱咤激励しているようなものだと思います。常に今に集中して、一歩また一歩と上を目指すしか道はないのです。それが人間に生まれた私たちの宿命だと思っています。
2021.03.17
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森田先生のお話です。私は昨日、古閑君の祝賀会で、雅叙園に行くのに、あの激しい風雨であったので、もし出かけて、身体に障りはしないかと心配して、行こうか・やめようかと迷った。それで、「迷い」というのは、行こうか・行くまいかかと、ただ二途にのみ思いが循環して・限りのない事である。もしどちらか一方に仮定して、例えば行くと決めれば、行く事ができるかどうかの疑問ということになって、そこで行くについての種々の条件をいちいち考究して行けば、必ず解決の結果に到達する。すなわち迷いには果てしがないが、疑問には解決があるのである。(森田全集 第5巻 659ページから660ページ)この話を身近な話でしてみよう。誰でも結婚適齢期になれば、「あんな人と結婚すれば毎日楽しいだろうな」と思うような人が現れる。そして積極的に話しかけて、なんとか相手の気を引こうとする。うまく交際に発展すれば、望外の喜びとなる。しかし神経質者に多いのは、積極的な行動をとらずに、遠巻きに眺めている。相手の方から言い寄ってくれないかなと、淡い期待を持って待っている。相手もまんざらではなさそうなので、ひょっとすると、という気持ちを持っているのだ。しかし、まわりからけしかけられていても、何も行動を起こさない。この状態は、近づきたいという気持ちともし拒否されたらどうしようという気持ちが頭の中を循環して果てしがない。やるせないわだかまりの気持ちで勉強などが手につかなくなる。そのうち好意を寄せていた相手が、他の人と仲良くなり、「二人は結婚するらしい」という話が飛び交うようになる。相手も何も行動を起こさない自分に愛想が尽きたのだ。その時初めて後悔する。失ったものの大きさに気づく。でもすでに後の祭りである。そして積極的に行動しなかった自分を責めるようになる人もいる。これは私の大学時代の苦い経験である。こういう傾向の人は、やろうかやめようかと迷った時、行動への選択を先延ばしにする。そして観念上の言葉遊びを始める。それを延々と続けるのです。その時は行動した時のデメリットをいくらでも思いつく。行動に移して、もし失敗して恥をかいたらどうしよう。みんなにそれ見たことかと笑いものにされてしまうに違いない。それだけは何としても避けなければならない。どう見てもそうなる可能性が高い。などなど。遂に手も足も出なくなるということになります。森田理論では、やろうかやめようかと迷った時は、できるかどうかとは無関係に「まずイエス」と答えて引き受けなさいと言われる。これに対しては反論もある。それはあまりにも無謀だ。できるという自信がある人ならいいが、自信もないのに安請負するのは、あまりにも軽はずみな人のすることだ。また神経質者は石橋を叩いても渡らないような人が多い。そんな無茶なことを煽って行動を鼓舞するのは如何なものか。ここで森田理論が言いたいのは、観念上の言葉遊びを延々と続けることはやめませんかということです。欲望が発生すれば、それを何としても成就したいと思うのが人間です。その過程では必ず障害物が存在しています。それに怖れをなして、おめおめと欲望をあきらめてしまうというのは、人間の本来性を無視することになります。森田理論はこのことを声を大にして言いたいのです。欲望はあきらめてはいけない。生の欲望を発揮していくのが本来の人間の在り方です。障害物や壁があれば、それを乗り越えて、欲望を達成するために、どうしようか考えるのが人間ですよ。最初の話に戻りましょう。迷った時にどう行動すればよかったのか。自分独りではどうにもならなかったのですから、彼女のいる友達に相談する。どうすればよいのか智恵を借りるのだ。そして今度のデートの時に同行させてもらう。それぐらいだったら声掛けができたかもしれない。ダメならきっぱりとあきらめることもできる。いきなり大きなことはできないが、できることから手をつける事から始めれば、その後の展開はまた違っていたのかもしれない。それをいつまでも観念上の言葉遊びで満足していたのだから、お人好しな人だったと言わざるを得ない。
2021.03.16
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青山学院大学陸上部監督の原晋さんのお話です。2015年5月、関東インカレのハーフマラソンでうちの部のI君が優勝しました。実は彼は、それまでは本番にとても弱い子でした。真面目で、本番が近づくと試合の練習から緊張するタイプです。(我々と同じ神経質性格だったようです。)そこで原監督は、彼に「彼女、できたか」「最近、面白い事はないのか」などと陸上に関係のない話題で緊張をほぐそうとしましたが、なかなかうまくいきませんでした。そんな彼が本番で結果を出したのです。この優勝を引き寄せたのは、その1か月前に行われた小さな大会での優勝でした。私はその時中継車から彼の走る姿を見ていましたが、実に素晴らしいフォームでした。彼は、たった1回のこの優勝で、次の大きな大会で結果を出せるほどの自信をつけたのです。原監督は少し努力すれば手が届く「半歩先の目標」を持って小さな成功体験を積み重ねていくと自信がついてくる。どんな小さな目標でも、達成すると嬉しいものです。嬉しいことはもう一度味わってみたいと思うのが人間ですから、次のステップへと行動するようになります。原監督はこの半歩先の目標をクリアしていく方法を「柿の実作戦」と名づけています。「半歩先」が柿の実に手を伸ばすのに似ているからです。柿の実を取るときは、いきなり一番上の柿を取ろうとはしません。まず少し手を伸ばせば届く実から取るはずです。そして取った実がうまいとわかれば、さらに上の実に手を伸ばす。手が届かないようであれば、工夫するでしょう。石を投げたり、棒でつついたり、通販で高枝切りバサミを買ったり、気づけば、一番上の実を取るためにどうしようかとあれこれ考えるようになります。小さな成功体験が、呼び水となって、どんどん意欲を高めて、生産的、積極的、建設的、創造的な行動につながっていくのです。私たちが学習している「改訂版 森田理論学習の要点」のテキストには「理想は高く、実行はこきざみに、小さな成功体験を積み重ねること」とあります。これらが日常生活や仕事の面で実行できるようになることが大変重要になります。この方法で小さな成功体験の数をどんどん増やして、自信をつけていきましょう。(フツーの会社員だった僕が、青山学院大学を箱根駅伝優勝に導いた47の言葉 原晋 アスコム 118ページより要旨引用)
2021.03.12
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実行して成功間違いなしと思えることだけに取り組む。少しでも失敗の可能性がある事には、決して手を出さないという人がいます。自信が持てることだけに取り組む。自信のないことは、まず頭の中で思考錯誤を繰り返し、何とかなるという確証を作りあげてから、初めて行動に移そうと考えるのです。いわゆるシュミレーションです。自分が納得できるシュミレーションができると、やっと行動に移ることになります。でも、少しでもシュミレーションから外れてくるとすぐに中止してしまいます。こういうマイナス体験が積み重なると、きっと次も失敗するに違いないと考えるようになります。しだいに予期不安に支配されるようになります。こういう考え方で凝り固まると、経験のない事や不安を感じることには手も足も出なくなります。行動しないで、動かなくなると、しだいに覇気がなくなります。暇を持て余すようになり、必然的に自己内省的になります。ネガティブで悲観的なことばかり考えるようになります。その心の味気なさを埋めるために、本能的、刹那的、刺激的な快楽を追い求めるようになります。確かに、実行や行動が少なくなりますので、失敗することは少なくなります。対人関係を避けるようになりますので、嫌な思いをしたり、対立することも少なくなります。そういう生き方でよいと考えている人は、何も問題は起きません。しかし神経質性格者は、生の欲望が強いという特徴を持っていますので、そのような生き方で満足できる人は少ないと思います。興味や関心のあること、問題点や課題、目的や目標、夢や希望を持って、人生を謳歌したいと考えている人にとっては、地獄の苦しみを背負うようなものです。自信というものは最初から存在しているものではありません。自信は今まで未経験なものに取り組んで、目的や目標を達成した後に生まれてくるものです。自信が生まれると、さらに新たな興味や関心が生まれて、次の課題や目標への足がかりが生まれてきます。実践や行動に弾みがついてくるのです。最初のうちは、自信があろうがなかろうが、実践や行動に取り組んでいく態度を持ち合わせているかどうかが肝心です。陶芸家の河井寛次郎氏は、「手考足考」といわれていました。観念の世界での試行錯誤よりも、実践や行動の中での試行錯誤に意味があるといわれているのです。その方がよりよい作品に仕上がっていくのです。実行や行動の中で気づきや発見、疑問や問題点が数多く生まれてくるような生活が大切なのだと思います。集談会で人生は最低でも3000回の失敗を経験していないと、変化に臨機応変に対応できる人間にはなれないと聞いたことがあります。ミスや失敗は誰でも嫌なものです。ましてやそのことで他人に非難や軽蔑されることは、対人恐怖症の人には耐えがたいことです。でも実行や行動の中で、様々で雑多な経験が積み重なり、それが自分という人間の器を大きくしてくれているのだということだと思います。そういう経験が乏しいということになると、砂上の楼閣のようなもので、ちょっとした波で、自己アイデンティティが、もろくも崩れ去ってしまうということを忘れないようにしたいものです。
2021.02.27
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森田理論は実際の生活面に応用することが大切だと思います。そうしないと宝の持ち腐れとなります。それだけは何としても避けたいです。では、森田理論のどこをどのように応用すればよいのか、思いつくままにあげてみたいと思います。1、規則正しい生活を継続する。基本的には、同じ時間に同じことをする。これはリズムのある生活のことであり、身体と精神の健康に欠かせないものです。2、日常生活や仕事などに対して、「凡事徹底」をスローガンとして、物そのものになって一心不乱に取り組む。3、変化が起きたときに、自分の意思を押し通すことを抑制して、積極的に変化についていく。分かりやすく言えば、サーフィンをするようなものです。高い波の動きを予測して、確実に波に乗りさっそうと波乗りを楽しむようなものです。意地を張るよりも、変化を見極めることに力を入れる。変化に対応することを優先する。4、精神拮抗作用を学んで、不即不離の生活態度を心掛ける。精神拮抗作用というのは、簡単に言うと、ある考えが頭の中に浮かんでくると、それを否定する考えも同時に浮かんでくるということです。不即不離というのは、その両方の考えを同時に大切に扱うということです。バランスや調和を心掛けることです。これを無視すると将来間違いなく自滅すると心得ること。そのために机の上にヤジロベイを置いておくことが意識づけとなります。5、無所住心の態度で常に心を外向きに持っていく。昼間活動しているときは、心はいつも緊張状態に置いておく。興味や関心、好奇心を大切にして大きく育てていく。6、生の欲望を大切にして、運命を切り開いていく。なすべき日常茶飯事を大切にし、課題や目標、夢や希望を持ってチャレンジしていく。7、不安に対しては2つの方法で取り組む。一つは、不安は安心のための用心ということです。不安を放置することで、将来不安が増大することや他人に迷惑をかけることが予想されることは、積極的に対策を立てて行動する。2つ目は、神経症的な不安に対しては、不安と共存する態度をとる。さらに不安に学んで、欲望が暴走しそうになったときに、抑止力として活用する。不安の取り扱い方は、相反する二つの対応方法があるということです。8、どんなに不都合な現実、現状、事実であっても、それらを認めて、受け入れていく。事実に寄り添っていくということです。つまり「かくあるべし」という態度は封印する。事実に寄り添うことは、自分の心の中に家の土台となる基礎を作り上げるようなものです。そこにどんなに強い圧力がかかっても、それ以上事態が悪化することなく、むしろ圧力がかかればかかるほど反発力が増大します。つまり事実本位という態度は、「逆転人生」の始まりとなると心得ることです。事実に基礎をおかないと、自己否定、他人否定ばかりで葛藤や苦悩の人生が続きます。9、物の性を尽くす。物、自分自身、他人、財産、お金、時間の持っている潜在能力を見つけだして、おおいに光を当てて評価する。ないものねだりを止めて、自分の存在価値、自分が持っているもの、能力、技術、潜在能力などに光をあててさらに磨きをかけていく。弱点、欠点をなくすることにフォーカスするより、自分の強みや長所をさらに成長させて、はぐくむことの方に精力を傾ける。以上9点あげました。まだあるかもしれません。これは私が生きていく指針としているものばかりです。森田先生が声を大にして訴えられていることになります。理解できないと思われる人は、森田理論学習を深めていただきたいです。詳細はこのブログでも繰り返し説明しております。ご自分の場合は、100点満点で採点すると、それぞれ何点くらいになりますか。ただし、全部の分野で100点取る必要はないと思います。富士登山には5つの登山口がありますが、どの道を選んでも富士山頂に到達できます。1つか2項目は、60点を超えている状態が好ましいと考えています。現在ない人は、これから60点を目指して新たに作りあげることが肝心です。私の参加している集談会で2と9だけに特化して、森田実践に取り組んでいる人がいます。この2つは100点満点に近い点数をたたき出しておられます。話が具体的で、奥が深いのです。味わい深い。それを森田理論で自分の生活をもとにして分かりやすく説明されています。森田理論を学習した私から見ると、とてつもないオーラを醸し出しておられます。多分森田を学習したことのない人から見ると、とりたてて評価すべき点はないと思われるかもしれません。あまりにもあたりまえのことしか言われないし、実行されていないからです。どちらかというと地味なのです。ご本人もそういわれています。私はそういう謙虚な姿勢を高く評価しています。私はその人の話を聞くことが楽しみです。そしてつくづく「森田の達人」の域に達している人だと評価しています。こんな人と巡り会えた私は幸せ者です。できればその人にあやかりたい。いつの日か、私もオーラを醸し出して、「森田の達人」の域に近づいていきたい。そのためにはどんな困難なことにも取り組んでいきたいと考えています。そうなれば、この世に生まれてきたかいがあったというものです。もし私たち人間の創造主がいるとすれば、そういう人を高く評価してくれるに違いないと信じているのです。今度もし生まれ変わるときがあれば、より能力の高い知的生命体として生まれ変わるチャンスを与えられるのではないかと考えています。もっとも死後の世界があるのかないのか分からないので勝手な想像ですが・・・。
2021.02.18
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渡り鳥は冬になると、日本を経由して南方に移動します。日本人が親切心を発揮して、餌を与えるようにするとどうなるか。渡り鳥は喜ぶと思います。一日中餌を求めて動き回る事を免除されるからです。そのために行動している時間は、一日の生活時間の6割ぐらいを占めるのです。しんどいことから解放されて、自由の身になれるのですから、こんなにうれしいことはないでしょう。味をしめた渡り鳥は、本来の生活パターンを放棄してしまいます。しかしその反動はすぐにやってきます。身体を動かさなくなるうえに、人間の与える餌をたらふく食べていると、ブクブクと太ってきます。そのうち体重オーバーで飛び立つことができなくなります。これでは渡り鳥という自分の存在意義がなくなってしまいます。また自分の生活が豊かになると、身体も精神も同時に弛緩状態になります。人間にすり寄ってきて、媚を売り、見世物としてしか生きていけなくなるのです。たとえば、本来の渡り鳥は大人になると、例外なく子孫を残すための活動を始めます。ところが、自分たちの生活が豊かになると、最初こそ繁殖意欲が強くなりますが、そのうちどんどん数が減っていきます。今だけ、自分だけ、餌だけという気持ちになると、繁殖や子育ては煩わしくて面倒な行動に思えてくるようになるというのです。今の何不自由ない生活を維持して楽しむことだけに専念するようになるのです。この現象は動物園などにいるアフリカなどからやってきた動物も同じです。一旦人間に飼いならされてしまうと、いざアフリカのサバンナに戻されると、獰猛な肉食獣でさえも、簡単に他の動物の餌食になってしまうということが起きるのです。つまり、普段の生きるための必死の活動が、自分と家族の生命の安全と精神の安定をもたらせていたということが分かります。これを人間に置き換えてみるとどういうことになるでしょうか。高額宝くじに当たる。商売で莫大な利益を手にする。株で大儲けする。キャンブルで大金を手にする。地価の高い土地が売れる。親から多額の遺産を引き継いだ。多額な立ち退き料や生命保険金、損害賠償金などを手にした。これらは夢のような話ですが、時々そんな人を目にします。すると生活のためにしんどい思いをして働かなくても、何とか生活できるようになります。こうなりますと、一般的には仕事から足を洗うでしょう。夢のような生活、自由自在で勝手気ままな生活を手にしたのですから当然です。今まではやりたくても、先立つものがなかったために我慢していたことに手を出すようになります。お金と暇な自由時間が有り余るほどあるわけですから、刹那的、刺激的な本能的な欲望を追い求めるようになります。刺激や快楽を追い求めていかないと、精神の安定は保てなくなるのです。そうなると、すぐに今までの生活パターンは破壊されます。リズム感を持って時間で動くことがなくなります。基本的生活習慣はなくなります。起床、身支度、食生活、仕事をする、風呂に入る、決まった時間に寝るという生活が崩れてしまいます。昼過ぎまで寝る。パジャマのままうろつく。歯を磨かない。洗濯をしない。風呂に入らない。シャワーで済ます。食器を洗わない。片づけない。テレビやパソコンは一日中スイッチオンにしている。ほとんど家に閉じこもっている。外食に片寄る。ファーストフードを好む。カップラーメン、清涼飲料水、スナップ菓子をつまむ。観劇、スポーツ観戦、ネットゲーム、動画配信、ギャンブル、飲酒、グルメ、買い物依存、風俗、恋愛ゲーム、旅行、習い事、資格試験への挑戦などで癒しを求める行動に邁進するようになる。刹那的、刺激的、本能的、快楽追及の生活を追い求める生活パターンにどっぷりとはまり込むのです。そうしないと、身体も精神状態も不安に陥り、イライラもやもやして欲求不満に陥るのです。そして最後には自滅していくのです。こうした生活は本来の人間の在り方からすれば、横道にずれてしまっていると思います。自分の与えられた境遇の中で、日常茶飯事に丁寧に取り組む。そして自分に与えられた課題や目標に向かって努力精進していく。これは人間に生まれた人すべてに求められていることだと思われます。一見簡単なことのように見えますが、実践は難しいのです。基本から外れることは仕方ありませんが、また基本に戻れる態度は身に着けておきたいものです。このことをしつこいくらいに説明しているのが森田理論なのです。
2021.02.17
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小出義雄氏のお話です。人間の体はどんなに鍛えた筋肉も1週間も使わなかったら2分の1まで衰えてしまう。鍛え上げた心肺機能も刺激を与えなければ、2週間で何もやっていないのと同じ状態になってしまう。トップアスリートだって、1か月も運動しなければ「ただの人」になります。(マラソンは毎日走っても完走できない 小出義雄 角川新書 41ぺージ)練習を積み重ねて、マラソンを完走できるための、足の筋力をつけ、心肺機能を鍛えることは1年ぐらいはかかります。ところがその後練習を怠ると、2週間ほどで元に戻ってしまう。今度再びマラソンに挑戦したいと思った場合は、一から体づくりを始めないといけないということになります。実にもったいないことになります。これはマラソンだけに限りません。他のどんなスポーツにもいえることです。あるいは楽器の演奏なども、程度の差はあれ、同じようなことが起きます。普通の人でも骨折や大病で寝たきりの生活を余儀なることがあります。その間に足の筋肉は見るも無残にやせ衰えています。あるいは宇宙飛行士が重力のない宇宙空間で6か月ぐらい生活して、地球に帰還した時にわかに立ち上がれない状態になっています。一旦鍛え上げて実用可能な状態になった後は、それを維持するという努力が欠かせない。そしないといとも簡単に廃用性委縮現象が起きてしまうということだと思います。「継続は力なり」ということがよく分かります。私たちでいえば、毎日家に閉じこもっていてはいけない。出前や宅配に頼っていてはいけないということです。掃除、洗濯、料理などもすべて配偶者まかせで、上げ膳下げ膳ではではダメです。外出する時も自動車で移動するだけは足の筋肉は衰えてきます。集談会で聞いた話ですが、父親が定年退職後、外出しないようになった。するとあんなに頭脳明晰だった父親が、物忘れが激しくなり、ついにボケてきたそうです。脚力の衰えは、認知症などの脳の衰えも進行させるということだと思います。このような状態で人生の最後を迎えるということは大変残念なことです。普段の日常生活に真摯に取り組む中で、足の筋肉や心肺機能を無理なく鍛えることが欠かせないと言えます。そのためには凡事徹底、規則正しい生活を継続することだと思います。小出氏はなるべく歩いて買い物に行き、用事の時も自転車や徒歩を勧めておられます。人間が1キロ歩いたときにかかる時間はだいたい15分だそうです。早歩きをすると11分から12分に縮まるそうです。早歩きをすると自分の体に刺激を与えることになります。足に多少の負荷をかけることになります。これが足腰の筋肉を鍛え、心肺機能を向上させるというのです。10分普通に歩く。そのあと早歩きで10分歩く。それを繰り返すのです。この刺激が筋力維持に役立つのです。簡単な方法です。私は仕事に行くときにこの方法で歩いています。またマンションの管理人をしていますが。棟の巡回時にもこの方法をとっています。さらにエレベータは極力使わないで、階段を使っています。たまには2段飛びで登ります。だいたい毎日7000歩から8000歩ぐらいです。仕事の中で行っていることですから、無理がありません。心身ともに無理をしないで、足の筋力を鍛え、認知症の予防を行っていきたいと考えています。
2021.02.09
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私の友人に競馬を10年以上もやっている人がいる。私は今まで競馬にはほとんど興味がなかった。大阪に単身赴任していた時に、京都競馬場に行ったことがあるくらいだ。何しろどのようにして馬券を買うのか分からないので、全く興味が湧かなかったのだ。彼に「教えてくれ」と頼んだら、実技を含めて懇切丁寧に指導してくれた。ちなみに、森田も実技を含めて、直接詳しい人から教えてもらうことは大変有効です。さて、その一端をご紹介してみよう。ただし、競馬を推奨しているのではない。競馬は周りから見ているよりも奥が深いことを知ってもらいたいのである。基礎編として馬券の買い方はどのようになっているのか。単勝・・・1着に入る馬を当てる。配当は比較的低い。複勝・・・1着から3着に入る馬を1頭でも当てる。配当は単勝よりもさらに低い。枠連・・・16頭立ての場合、いくつかの枠に区分けされている。その枠で1着と2着に入る枠を当てる。馬連・・・1着と2着に入る馬を当てる。1着と2着は逆になっても当たりである。馬単・・・1着と2着に入る馬を当てる。これは逆になるとはずれになる。ワイド・・・1着から3着以内に入る馬を2頭当てる。配当は比較的少ない。3連複・・・1着、2着、3着に入る馬を当てる。順不同に入っても当たりとなる。3連単・・・1着、2着、3着に入る馬を当てる。その通りの着順で入らないとはずれになる。買い方は指導員がいるので聞くとすぐにマスターできる。またネットでも簡単に買えるようになっている。私はそのすべてを彼から教わった。私の師匠は、多くのレースを買っていた。しかし1レースで使う金額は多くても400円から500円くらいだった。一つの組み合わせに対して100円という基本原則は厳守しているそうだ。1日でいえば4000円から5000円程度であった。その日は3連複とワイドをそれぞれ1つずつ的中させてほぼプラスマイナス0ぐらいとなった。彼は、開催日になると近くのコンビニでデイリースポーツを買う。別にどの新聞でもよいのだが、昔からこの新聞が気に入っているようだった。この新聞には、全レースの詳細なデーが載っている。彼が注目するのは、人気順(オッズ)、騎手、信頼している予想屋のつけた◎〇△印などである。特に彼が重視しているのは、人気順である。これなしでは馬券は買えないという。彼が言うには、競馬は確率に賭ける遊びだという。でも宝くじよりは確率が高い。そこで彼は過去1年間にわたって、全レースの人気順と着順のデータを調査したという。傍から見ていると適当に買っているだけにしか見えないが、途方もない研究をしていることが分かった。そこから導き出された結果は、馬券を買うためには必要不可欠なものであったという。それによると、1番人気の馬が1着になる確率は約40%にのぼったという。思った以上の確率である。反対に言えば60%は予想が外れている。戦略を立てる上で無視できないデータとなる。これは予想が外れるから競馬が成り立っているということでもある。「この馬は絶対に勝つと思う」ことは全く事実認識が甘いということになる。16頭の馬が出走して、その中で1着の馬を当てることは容易ではない。それはだれにも分かることだ。彼は、自分の独自の確率を信じて淡々と買っていた。だからあきらめも早い。それに固執するより、すぐにつぎのレースに向いている。ちなみに、3連複や3連単のもとになる3着までに入着する確率は、1番人気の馬は70%を超えるという。さらに、馬連や馬単のもとになる2着までに入着する確率は、1番人気の馬は60%くらいになる。軽々しく無視できないデータがあるという。こうしたデータを1番人気から7番人気くらいの馬まで詳細に調べ上げていたのである。こんなことは、普通の競馬ファンはしていないと思われる。森田で事実本位に徹するためには、目の前の出来事を先入観やきめつけではなく、徹底した事実観察から始めることが大切だと言われています。彼はそれを競馬の世界で実践していたのです。私からすれば、森田の「も」の字も知らないのに、驚くべき事象だったわけです。彼の馬券の買い方は確率論に基づいている。それに沿ってできるだけ勝率と配当を上げるために様々な工夫をしている。買い方は、馬連、馬単、3連複、3連単、ワイドを使い分けている。3連単は8頭立てのレースの場合のみ採用しているようだ。確率がとても低くなるからだ。たとえば3連複はどのように考えているのか。1番人気、2番人気、3番人気の馬をチェックする。その中から、彼独自の視点から、1頭ないし2頭を選択する。確率を重視しているのである。1番人気、2番人気、3番人気の馬をそのまま買えば、確率は高くなるが、配当は少なくなる。配当が少ないと、予想が的中しても、むなしくなるばかりだという。せめて3000円から5000円程度の配当をねらって勝負をかけてみたいのだという。ここにも彼独自のこだわりがあったが、ここでは割愛する。そしてつぎに2番手、3番手の馬を決めていく。2頭流し(2頭を確率論で選ぶ)の場合は、まず2頭が固定される。3頭目を自由に4頭買う。400円での勝負となる。1頭流しの場合は、1頭だけが固定される。あとの2頭はいろんな組み合わせになる。この場合は仮に4頭を選択すると、組み合わせが6通りになる。5頭に印をつけると、10通りの組み合わせとなり、1000円の元手か必要になる。こうなると、自分の決めたルールからは外れるので、手をださない。「2頭流し」か「1頭流し」の場合は3頭までで勝負をかける。つまり300円以内に抑える。自分の決めたルールを厳格に守り、日々の研究を怠らず、競馬を楽しんでいるのである。私はこれを株式投資でも応用できないかと考えている。ちなみに彼は私のカラオケの師匠でもある。採点機能を起動させれば、90点超えを連発する。少なくても5曲から6曲は90点を確実に超える。特に音程が抜群で正確である。ブレがなく安定感の得点が高い。私の素人判断では90点超えはセミプロに近い。95点超えはプロの世界だと思う。彼に指摘されていることに気を付けているうちに、私も1曲だけは90点を超えてきた。あとの曲も、得意な曲に限れば、90点まであと少しまで近づいてきた。毎日の声帯のストレッチと腹式呼吸、ビデオに撮った音程が表示された画面に合わせて歌唱練習を欠かさないことを厳命されている。現在1日30分毎日練習している。80点以下を連発して、音痴と言われて久しい自分がここまできたかと感慨深い。こんなことに付き合ってくれる彼には頭が下がる思いである。こんな人はめったにいない人だと思う。彼のおかげといつも感謝している次第です。
2021.02.08
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篠田桃紅さんは次のように語られています。なにか夢中になっているときは、ほかのことを忘れられますし、言い換えれば、一つなにか自分が夢中になれるものを持つと、生きていて、人は救われるのだろうと思います。仕事に夢中になったり、趣味に夢中になったり。宗教などに夢中になるのもそうだろうと思います。(103歳になって分かったこと 篠田桃紅 幻冬舎 69ページ)篠田さんは墨絵による抽象画の第一人者です。現在107歳だそうである。その人の言われていることは、経験に基づいていて味わい深い。篠田さんの指摘されていることは、森田理論でもその通りだと思います。夢中になるものを持っていることは、生きがいを持っているということになろうかと思います。でも歳をとると、夢中になって取り組むものをやめてしまう人がいます。また若い人でも、仕事や勉強には夢中になれない。趣味などに取り組む余裕がないという人もいます。これらは、夢中になれるものは、そこらに転がっているものではないと考えているのではないでしょうか。何か壮大な夢を想定されているのかもしれません。あるいは、エネルギーが枯渇して、生命を維持している状態で満足されているのかもしれません。残念なことです。作家の宇野千代さんは、「幸福のかけらは身近なところにいくらでも転がっている。ただそれを見つめることが上手な人とそうでない人がいる」と言いました。普段の生活の中で小さな夢や楽しみを数多く見つけることが大切なのではないでしょうか。生活の発見会の集談会などの自己紹介では、小さな楽しみをみんなにおすそ分けするという気持ちで発言している人がいます。とても好感が持てます。役に立ちます。・生活の発見誌で見つけた素敵な記事の紹介。例えば、12月号でいえば、「雑草は踏まれても何をされても種を残すという最終ゴールを決して見失わない」・最近挑戦した男の料理の紹介。カボチャマフィンの作り方。・家庭菜園で会得した野菜つくりのコツ。・犬のしつけで心掛けていること。・暑さや寒さをやわらげる方法。・音痴の人のカラオケ上達法。・安くておいしい酒のつまみ。大きな夢や目標というのは元々あるものではありません。日々の生活に懸命に取り組んでいく中で、問題点、改善点、課題などに気づくことから始まります。それらを何とかしたいと思って、頭で考え、実際に行動することでしだいに膨らんでくるものです。夢や目標を持つに至るには、いくつかの段階があるということです。規則正しい生活、凡事徹底の当たり前の生活の中から、夢や目標を育てていきたいものです。そして人生を大いに楽しみたいものです。
2021.01.31
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生活の発見誌の12月号に3年間休職している男性の話がある。28歳の教員で、20歳のころから性的煩悶がある。3年前から人前に出ると自分の挙動が変になり、妙な奴だと思われはしないかと苦になる。予期恐怖甚だしく、そのため3年前から休職したままである。これに対して森田先生のアドバイスです。休職して、安楽に静養すれば治ると思うのが、常識的の大間違いです。一般には、これを治そうとする方法をする間は、10年でも20年でも、決して治ることはありません。症状や苦痛はそのままにして、自分の欲望に従い、四角四面に働くようになったら、一方の性的の方も自然に調整されて治るから不思議です。この方は森田先生の「神経衰弱と強迫観念の根治法」(白揚社)を読んで理屈は分かるが実行できませんと返答されています。本を読んで森田理論を理解することで神経症は多少なりとも改善できるはずだと思われているのです。私たちの所属している自助組織でも森田理論の理解に留まっている人がいる。理屈はよく分かるのですが、神経症が強くて行動に移ることができない。例えば、対人恐怖で営業の仕事ができない。つい仕事をさぼってしまう。その結果、毎月ノルマが未達で営業成績が不振である。上司から絶えず叱責され、同僚や事務の女性社員から軽蔑されている。会社を辞めてしまいたいが、辞めると家族が路頭に迷うことになる。八方塞がりです。どうしたらよいのでしょうかといわれる。理屈は分かるが、どうしても実行できないという場合どうしたらよいのでしょうか。こういう人を見ていると、決して実行力・行動力がないわけではない。その証拠に、パチンコや競馬のことになると目の色が変わる。ネットゲームなどには時間を忘れるほど熱心である。その他自発的に取り組んでいる趣味や学習にはとりわけ熱心である。その生の欲望のエネルギーの強さは仕事に熱心な人と遜色がない。しかし本職の仕事の方は、対人恐怖症が障害となって、どうしても「ものそのものになりきる」ことにならない。他人と交渉する能力がない。失敗ばかりで自信がない。やってもダメに決まっている。つい気分本位になり、仕事をさぼってしまう。そうなると自己嫌悪に陥り、精神状態が不安定になるので、刺激的、享楽的、刹那主義の快楽追及でその穴埋めをしようとしているのである。どこまで行っても悪循環が続いているのである。私はそういう人に対して、言い訳をしないで森田理論を応用して仕事に積極的に取り組みなさいとは言えない。まさに自分の場合がそうだったのですから・・・。そういう人にあえて、アドバイスするとすれば次のようになる。会社勤めをしているときは、生活費を稼いでくるという目的をはっきりさせた方がよいと思う。その目的さえ見失わなかったら、それで十分ではないかと思う。間違っても人間関係の改善や昇進することを目指さないことである。人間関係が良好というのは大切だが、第一優先順位に持ってくるのは違う。ここを勘違いして、力尽きて退職してしまうのは実にもったいないと思う。定年退職した後で振りかえってみると、あの時に辞めないでよかったということになるのだ。仕事をさぼり、対人関係で苦しみ、上司に叱られても、仕事を辞めないで、家族を支えて生活費を得続けたことが重要なのである。その中で、多少なりとも、仕事に興味や関心が生まれて、仕事の工夫や改善や改良を思いついて取り組むべき課題を見つけることができたならそれは望外の喜びである。つぎの策として、仕事以外の事で取り組むべき課題や目標を持つことである。気分本位になって、刺激的、享楽的、刹那主義の快楽追及は線香花火のようなものだ。それはカンフル材のようなものだ。一時的には効果があるが持続性がない。生活の発見会の集談会などに参加して、森田理論を学習しながら、アットホームな人間関係を築いていく。あるいは家庭菜園などに取り組んで、食料の自給自足を目指す。ついでに、料理や加工食品作りにも取り組んでみる。スポーツに取り組む。その他、一人一芸に取り組み、ボランティアの慰問活動に精を出す。こちらの方にエネルギーを投入してみたらどうだろうか。これらは対人恐怖症が障害となる事はない。それは利害関係がないからだと思う。自分も積極的に人生を楽しむことができるし、世の中の為にもなってくる。私は、この二つの生活態度を心掛けて、なんとか定年まで持ちこたえたような気がしている。
2021.01.21
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森田先生は、「くたぶれて、ヘトヘトになった時に、どうすればよいか」とか、「読書して、頭がぼんやりした時は、それでも無理に読むか」という風に、反問してはいけないといわれる。そういう窮地に達すれば、自らそれを切り開く道が現れて、心の変化が行われるようになる。時と場合における事情は、常に複雑極まりのないものであるから、臨機応変で、決してこれを「どうすればよい」とかいう鋳型にはめるべきものではないのである。(森田全集第5巻 568ページより引用)今日はこの話をもとに投稿してみたい。くたぶれて、ヘトヘトに感じたというのは事実そのものである。その事実に対して、気分本位な行動に走ってはいけない。またどう対応したらよいかと頭で考えてはいけないといわれている。その考えを押し通すと、周囲の状況と調和しなくなるからだ。森田先生は周囲と調和することが最も大切であるといわれているのです。それでは、ヘトヘトになって疲れたときはどうすればよいのか。その時の状況に合わせればよいのだと言われている。そのためには、正しい状況判断をする必要があります。正しい状況が把握できれば、臨機応変に状況に合わせた行動をとる態勢が整います。ヘトヘトでもう歩けないときでも、そこで安易に休んではいけないのです。そうすると最悪の場合、命に係わる危険にさらされることがある。そういう場合は、無理をしてでも、歩き続ける必要がある。強行軍です。酷なようですが、周囲の状況や変化に合わて行動することが肝心なのです。次に眠くなった時、それでも本を読み続けた方がよいのか。この場合も、その時の状況に合わせて行動する。急ぎでなければ、眠ってもよいでしょう。でも、近々試験があるという場合は、そのまま寝てしまうと大変なことになる。そういう時は、まずはうつらうつらしながらも時間の経過を待つ。時間が経てばぼんやりしていた頭がすっきりしてくることもある。どうしても寝てしまいそうなときは、いったん本読みから離れて、外に出て気分転換する。あるいは風呂に入る。シャワーを浴びる。頭を使うことから、身体を動かすなりして気分転換を図る。そうするといつの間にか眠気が飛んでいくことが多い。そしてつらいでしょうが試験勉強に取り組むしかない。そうまでしても、本を読まなければならない場合もあるということです。つぎに車の運転中に急に睡魔が襲ってくることがある。そのまま車を運転すると事故につながりやすい。とくに高速道路では大変危険である。そういう時は、すぐにサービスステーションに入り、15分程度の仮眠をとることが必須である。この場合はすぐに休むということが、正しい対応になります。法事などの時は、倒れないように気を付けながら、うつらうつらとしていても構わない。それが嫌なら、住職に合わせて、お経を唱和するしかない。つまり自分の行動は、常に周囲の状況に合わせることが肝心だということです。自分の気分や意思を前面に押し出して、自由自在に行動してはならないのです。進化論で有名なダーウィンは、「この世で今日まで生き延びてきたものは、力の強い者か。そうではない。富や権力を持っていたものか。そうでもない。時代の変化を正しく見極めて、その変化に即座に対応できた生物であった」と言っています。変化に対応し損ねた動植物は、進化の過程ですべて絶滅してきたということです。森田理論でも刻々と絶えず変化している状況に合わせて、自ら率先して臨機応変に対応していくという態度を目指しています。大河の流れに逆らって泳ぐよりも、大河の流れを見極めて、その流れに沿って泳ぐ方がよほど理にかなっているということです。
2021.01.16
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本日は信州大学の能勢博先生お勧めの「インターバル速歩」について紹介します。人の体力は30歳を過ぎると、10歳ごとに5%から10%程度低下してくるそうです。高齢者は、足の筋力の衰えにより、寝たきりになることもあります。寝たきりは、脳の活動を休止して、認知症などを呼び寄せてしまいます。それは何としても普段の生活の中で防止しなければなりません。そこで「インターバル速歩」が役に立つのです。最大体力の70%以上に相当する「速歩」と、40%以下の「緩歩」を3分間ずつ交互に行うものです。実に簡単です。これを速歩が1日トータルで15分以上になるようにして、一週間では4日以上行います。これは出勤時間や買い物に行く時間を利用して取り組めます。ウィークデイに時間をとれない人は、週末にまとめてトータルの歩行時間が週60分になるようにしてもよいそうです。ポイントは、意識して3分間だけは「速歩」を取り入れて歩くのです。大股歩きもよいそうです。そして、3分間の「速歩」の後には、必ず「緩歩」に切り替えるのです。つまりウォーキングにリズムを取り入れることです。言い換えると、ただ歩くのではなく、足に少しの負荷をかけるのです。それが筋力や持久力の向上に役立つのです。「インターバル速歩」を5か月間行えば、体力が20%増加するそうです。さらに生活習慣病指標が20%改善するそうです。そして医療費が20%削減につながるといわれています。能勢博先生は、これらをまとめて「20%の法則」と呼んでいます。私は通勤時間の中に歩く時間が往復40分あります。その時間帯で、3分速歩をして、3分緩歩をしています。あの橋まで、あの信号までと目安を作っています。この「インターバル速歩」で、末永く足腰と頭を鍛えていくつもりです。この記事はSNSの情報から取り上げました。興味のある方は「能勢博」で検索してみてください。
2021.01.15
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「生活の発見誌」9月号の70ページに陶芸をやっている人の記事があった。この方は電動ろくろを持っているという。本格的なものだ。紹介されている作品はとても見事なものであった。その方曰く。私は陶芸家になりたいのではない。夢中になる時間があるということは、それだけで十分幸せなことに気づいた。3時間ろくろを回したところで、目に見えて上達する訳が無いことも自覚した。人の為にもならないことに息を詰めるほど集中するバカがいてもいいのではないか?折しも日本はコロナ騒ぎである。車庫にこもってろくろ三昧、これ以上の至福の世界があろう筈はない。対人関係が苦手な私は、「外出できなくてストレスが溜まる人」が羨むような生活を送っている。この人に限らず、寝食を忘れて没頭できるものを持っている人は幸せだと思います。この方はテレビで、ピアノには全く縁のなかった52歳の漁師の人が、毎日8時間7年間練習を続けて、難解で超絶技巧を要する「ラ・カンパネラ」を独学で弾けるようになったことに刺激を受けたそうだ。彼の奥さんは、音楽大学の出身だが、この曲は弾けないそうだ。彼の心を動かしたのはフジコ・ヘミングの演奏を聴いたのがきっかけだったという。音楽でいえば、私が大阪に単身赴任をしていた時に、衝撃的なコンサートを見た。コンサートとはいえ区民文化センターで行われたものだった。バイオリンの演奏であった。10名くらいのグループだった。全員かなりの年配者だった。歩くのもおぼつかない人もいた。そのグループは、ベートーベンの第1から第9までを、毎年1曲ずつ取り組んでコンサートを開催しているということだった。私はその意気込みに圧倒された。現役時代に夢だったクラッシックの演奏に、定年後に取り組んでおられるその姿は、周りの人に人生の意義を考えさせる。私は会社勤めをしている時は、対人恐怖症でとてもつらかった。それを救ってくれたのは、その時々で、熱中するものを持っていたからではないかと思っている。37歳で始めたトライアスロン。大会には3回出場できた。残念ながら足を痛めたので5年で引退した。できれば各地を転戦したかった。その後資格試験に挑戦した。宅地建物取引主任者、社会保険労務士、行政書士、ファイナンシャルプランナー(CFP)などの資格を獲った。ファイナンシャルプランナーは2年間で30単位をクリアしないと資格の更新ができないので、今でも学習を続けている。森田理論学習の自助組織には入会して34年になる。これは生涯学習として命の尽きる時まで取り組みたい。その過程でこのブログを始めた。ほぼ毎日である。今年は間もなく8年目が終わろうとしている。現在はアップできる原稿をすでに40本持っている。習慣化している。始めたころと比べると自分が成長できたことが分かるようになった。いずれ重要な投稿をまとめて本にしたいと思っている。老人ホームの慰問活動はすでに10年以上になる。アルトサックス、獅子舞、ドジョウ掬い、浪曲奇術、腹話術の芸の練習は続けている。コロナが治まったら年間30ぐらいの慰問活動が始まる。田舎では、イノシシ除けの柵を取り付けて、本格的に家庭菜園を行っている。工夫や発見を次から次へと思いつく。水やりの為毎週のように田舎通いをしている。森田の実践として取り組んできたが、効果があり、とても楽しみである。最近は、作ったものを加工したり、お菓子作りが楽しい。これらの活動の中で、はぐくんできた人間関係は私の財産になった。私は神経質性格の特徴である執着性が強いのである。一度食いついたらめったなことでは離さない。神経症を持ちながらも、熱中するものを見つけて、取り組んでいる人は、今は辛いだろうがきっと乗り越えていけると断言できる。
2020.12.25
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私たちは時間やお金を投入し、目的を持って心身を動かす場合、何らかの見返りや成果を期待しています。果実を受け取ることを当然のことと考えています。しかし目的達成に至らないことの方が多いのが現実です。障害や壁がその目的の達成を阻んでいるからです。もし失敗すると、投入した時間やお金は無駄になってしまいます。下手をすれば、損失を抱えてしまうことになります。財産をすべて失うこともあります。エネルギーを消耗して疲れ果ててしまいます。手を出さなければよかったと思うことはたくさんあります。さらに悪いことに、自分を否定して責めてしまうことにもなります。そういったことが度重なると、取り組むべき課題や問題、目標があってもリスクを冒してまで挑戦しようとしなくなります。もし失敗したら自己責任になります。自己責任を負うことはなるべく避けたい。それらを引き受けることは、あまりにもリスクが多くメリットがないと考えてしまいます。時間やお金の無駄使い、エネルギーの消耗、損失、ミスや失敗が予想されることにはなるべく手をださないように気を付けよう。その方が自分の身を守るためには大切なのだと考えてしまう。現状に甘んじた生活は、やりがいもなく、刺激に乏しいが、事態がこれ以上悪くなることは避けることができます。そこで専守防衛に徹する。ここはひとつおとなしくして静観することにしようと考えるわけです。頭の中でシュミレーションを繰り返して、成功間違いなしと確信を持てたときだけ手を付けようと考えるようになります。このように考えて行動するメリットは何でしょうか。1、ミスや失敗、お金や時間の無駄使いがなくなります。無駄なエネルギーを消耗しません。2、リスクを取って挑戦しないので、うまくいかなかったときに不快な感情が襲ってきますが、嫌な思いをしなくて済みます。ではデメリットなんでしょうか。1、目的、課題、目標、夢に向かって運命を切り開いていくという、人間本来の生き方はできなくなります。味気ない、無為の人生を送ることになります。2、障害や壁を乗り越えていくと、いずれ目標を達成することが多くなる。そして大きな果実を手にする可能性があるのですが、このやり方ではその果実を手にすることはできません。また達成感や充実感も味わうことができません。自信もつけることができません。人生が縮小再生産に向かうことになります。私は集談会で、3000回の失敗や挫折を経験した人が一人前の立派な大人に成長していくのだと聞きました。失敗をすることが恥ずかしい。恐い。何とか回避したいと思って行動を自粛していると、精神状態は幼児のままで身体だけが大きくなる。バランスの悪い人間になってしまう。だからなるべく早めに3000回の失敗を達成しましょう。その数をメモして集計しましょう。そして目的を達成した暁には、目標を達成したお祝いを盛大に執り行いましょう。それは子供から大人へと成長した証になるのですからと聞きました。この話は役に立ちました。無駄な行動の経験の積み重ねが、知らず知らず自分という人間の器を大きくしてくれているということです。だから無駄なことを最初から切り捨ててはいけないのだと思います。それよりもミスや失敗は大いに喜んで、自分を励ました方がよいのです。プロ野球の選手で1億円以上を稼ぐ一流バッターでも、3割程度くらいしかヒットを打てていない。つまり半分以上の7割は失敗を積み重ねている。我々の言う見返りや成果とは無縁なことに手を出しているということです。無駄と言えば無駄なことをしているのですが、でもそれを無駄なことをしているとは言わない。無駄なことを積み重ねるというリスクを引き受けないと、絶対に3割打者にはなれない。それはミスや失敗によって、成功の秘訣を徐々に身に着けているからです。巨人の丸選手は凡打してベンチに戻ってくると、ノートになにやらメモをしている。凡打は凡打で終わらせない。凡打の中から次の成功につながるヒントをつかみ取るという強い意志を感じる。この姿勢が大事なのだと思います。無駄と思える行動に積極的に取り組むことが、成功への近道かも知れない。私たちも大局的に考えて、無駄の効用を再認識したいものです。
2020.12.20
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本来自信というものは、実践・行動によって、体で感じるものだと思います。実践・行動によって、事前に想定していた目標に到達した時、自信が生まれます。その過程では、うまくいかない事や失敗が出てきます。そこであきらめたり、挫折しては自信というものは生まれてきません。失敗や挫折を教訓にして、成功を目指す人が自信という宝物を手にすることができます。今まで歩けなかった赤ちゃんが歩けるようになるためには、何回も転んでいます。それでもあきらめないから、最後には難なく歩けるようになるのです。自転車に乗れなかった子供も何回も転んでいるうちに、バランス感覚を身に着けて自信をつけていきます。その積み重ねで、人間として成長していきます。自信が生まれると、うれしくなり、弾みがついてきます。それを足掛かりにして、また新たな目標を設定して、実践・行動したいという意欲が高まってきます。目標をもって行動することが人間の宿命だと思われます。その途中ではミスや失敗、乗り越えることが難しい壁が立ちはだかります。それを乗り越えようとするエネルギーや情熱が必要になります。気分本位になってすぐにあきらめるのは、その瞬間はホッとしますが、取り組む課題を喪失して無為の人生を余儀なくされます。森田先生は自信について次のように述べられています。気の勝った人は、一途に自分の欲望を見つめて奮闘し、意志薄弱の者は、少し骨の折れるような事には、すぐに中止してしまう。神経質はその中間にあって、欲望は捨てられず、一方には、自分の素質や力量を較量して、種々の迷いを起こし、それでも中止しきれないで、引きずられていくうちに、人並み以上に上達するという風になるのは、人間の種々の素質の模型的の成り行きであるのである。(森田全集 第5巻 607ページより引用)神経質者の特徴は、とりこし苦労が多くて、気の勝った人のように、すぐに実践・行動ができない。また意志薄弱者のように、すぐにその目標をあきらめることもできない。執着性が強いのが特徴です。そこでどうするかというと、頭の中で成功間違いなしという自信を付けようとする。観念上のシュミレーションを繰り返す。絶対に成功するという観念上の自信を持ったうえで、行動しようとする。しかしなかなか自分の思うような結果が出ない。そして自信をなくする。自分には到底無理だ。できないということになって、目標に挑戦する意欲を喪失する。このやり方は間違っているのです。これは自信が生まれるメカニズムが分かっていないということです。さらに間違った認識をしているために、右往左往しているのです。自信を得たいなら、実践・行動が不可欠である。頭の中で自信を作り上げる努力はほぼ失敗に終わる。ミスや失敗、思い通りにならない事は、成功へ近づくための貴重なヒントを与えてくれている。ミスや失敗は次の実践や行動に当たり、手を付けてはいけないこととして役立てないといけない。そのために反省、フィールドバック、教訓として生かすことが必須になるのです。そうしないと何度も同じミスや失敗を繰り返すことになる。執着性を活かして、粘り強く取り組んでいけば、高い確率で目標を達成できる。もし目標に到達できなくても、努力した時間は、充実感にあふれて、味わい深い時間を過ごしているはずである。
2020.12.18
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森田理論で「あるがまま」の内容を学習すると、不安、恐怖、違和感、不快感、症状などを、そのまま受け入れよう、あるいは放任しようと考えるようになります。しかし、受容し、放任しようと努力すればするほど、受容も放任もできない。「症状」が強くなって、苦悩は深まるばかりである。ますます、なすべきをなすという実行にふみきれない。対人恐怖の例でいえば、人に会うまえの不安、緊張感を受けいれよう、あるいはそれを「放任」しようとつとめればつとめるほど不安と緊張感が強まってくる。いよいよ会うのが苦しくなって、なんとか会わないですむことを考えるといったように、逃避的になり、「なすべきをなす」という実行から遠ざかってしまうのである。森田先生は感情の法則第4で、「感情は、注意をこれに集中するとき、ますます強くなる」ということを指摘されている。不安、緊張感を受けいれよう、あるいは放任しようとつとめることは、これを排斥するのと同様に、注意を不安、緊張感に集中することになり、不安、緊張感を強める結果になるのである。森田療法では、このように、「こうしたい」という思想とその結果(事実)とが反対になり、矛盾することを「思想の矛盾」といい、この注意と感情・感覚の悪循環を「精神の交互作用」といって、そこに神経質症状発生の主要なからくりをみるのである。(生活の発見誌 11月号 長谷川洋三 20ページより引用)不安はそのまま持ちこたえて、目の前のなすべきことに取り組む態度が「あるがまま」である。それで神経症が克服できるのなら、そうしてみようと思って実践・行動に取り組んでいては神経症は治らない。むしろ神経症はますますひどくなっていくのが真実だということです。最初は森田理論を理解して、そのような気持ちで実践・行動しても構いません。今まで不安、恐怖、違和感、不快感と格闘してばかりの状態から見ると事態は好転しています。また、気分本位になり逃げ回っていた状態からみると進歩しています。目の前のなすべきことに多少なりとも意識や注意が向いてきたというところが評価できるのです。ところが少し楽になった時に、そこに胡坐をかいていては、奈落の底に突き落とされてしまう。さらに言えば、神経症がどんどん増悪してしまうという面も併せて学習することが大切です。その悪循環を断ち切る方法は何か。目の前のなすべきことに対して、一心不乱になって取り組むということです。一時でもそうなれば、その時症状を治すとか治さないとかは蚊帳の外になっているはずです。それを別の言い方でいうと、生活の必要に応じて、必要なことに、必要なだけ取り組んでいるということになります。観念の世界にどっぷりと漬かっていた状態から、物事本位の態度に切り替わっているということになります。森田先生の言葉に、「ものそのものになってみよ、天地万物すべて我がもの」というのがあります。最初は神経症を治すための実践・行動でも構いません。しかしいつまでも、症状の改善を目的とした実践・行動は、百害あって一利なしということです。実践・行動のレベルを一段階レベルアップすることが欠かせないのです。そのキーワードが、「ものそのものになりきる」ということになります。その数を増やしていく姿勢が大切になってくるのです。
2020.12.12
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普通の人は、人生の中で仕事にかかわる時間はとても多い。いかに仕事に関わる時間を楽しく過ごすかが、人生の大きな目標となります。しかし現実は、仕事は生活費を稼ぐための手段に過ぎないと考えている人が圧倒的に多い。給料をもらうために、大切な自分の時間を犠牲にするのはやむを得ない。労働力を生活のために切り売りしているのです。最初から仕事は面白くないもの、必要悪と考えているのです。こうなると精神的に苦しい。また中途半端で投げやりな仕事ぶりになります。できるだけ手を抜いて、給料だけはたくさんもらいたいというような考えになります。ストレスが溜まりますので、土日祝日にはストレス解消をしないと持ちません。刺激的、刹那的、享楽的な楽しみがないとバランスがとれない。欧米では1か月の長期休暇が当たり前だそうです。労働は苦痛以外のものではないので、長期休暇でエネルギーをため込む必要があるのだそうです。では本来仕事は面白くないものなのでしょうか。そうともいえないと思う。そう思うのは仕事とは面白くないものという決めつけや先入観で凝り固まっているからかもしれません。「天職」という言葉がありますが、仕事に一途に取り組んで、仕事の中に人生の意義、楽しみや喜びを見出している人もいます。そういう人は長期休暇を取る必要がない。また自分の携わった仕事が、周囲の人、世の中の人の生活を豊かにしているはずだ。そういう誇りと自信を持って仕事に取り組んでおられる。こういう人はまずお金ありきではないのです。好きなことをして、それが周囲の人に役に立ち、自然に生活が豊かになっている。仕事を抜きにしては自分の人生は語れないというような人です。そういう人は素敵ですね。例えば、王貞治さんやイチロー選手。ミシュランで評価されるような寿司職人、シェフ、板前さん。痛くない注射針を開発した町職人。オーダーメイドの靴職人。どんな電化製品の故障でも使えるように修理する職人。自然の中で無農薬の食べ物を作り直販している人。弘前で無農薬のリンゴつくりをしている人。神の手を持つといわれているような難手術をこなす外科医。救難ヘリやドローンの操縦に命を懸けている人。カツオの一歩釣りをしている人・・・・・。先日テレビでアフリカで蚊帳を普及させている人の番組を見た。アフリカは蚊に刺されてマラリアに感染する人が後を絶たない。その会社は蚊帳に薬剤を練りこんで、蚊を駆除する蚊帳を作った。蚊帳にとりついた蚊はすぐに駆除できる。これで、マラリアが劇的に減少していた。人に喜ばれ、結果として売り上げもついてきたという。情熱大陸という番組で、下町のランプ職人の番組を見た。この職人は若い女性だった。お母さんと二人でやっている。現在ランプはいやし効果があって人気があるそうだ。父親が残した金型加工機を駆使して一から手作りしていた。自分の仕事に自信と誇りをもってとりくんでいた。できた商品を送り出す時の顔つきが忘れられない。こうしてみると自分の携わっている仕事を天職にすることが人生の醍醐味であると思う。これはほとんどの仕事でいえることではなかろうか。そのためには、まず自分の仕事に一心不乱になって取り組むことだ。そして気づきや発見、疑問や関心が生まれてくればしめたものだ。それが、呼び水となって、次々に目標が生まれてくる。私の今の天職は、「森田理論学習の普及活動」である。これはやりがいを感じている。生涯をかける価値がある。一人でも多くの人にその魅力を伝えていきたい。たかが人生、されど人生という気持ちである。そのためにこのブログを最大限に活用していきたい。
2020.12.07
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会社などに就職している人から次のような悩みを訴えられることがある。1、仕事の内容が自分に合っていないような気がする。生活のためには辞めることもできない。どうしたらいいでしょうか。2、会社での人間関係で悩んでいる。お互いに利害むき出しで、非難、否定、叱責、拒否、無視、人格否定の応酬で、針の筵に座っているような気持になる。生きている心地がしません。どのように対応すればよいのでしょうか。この二つの問題が解決すれば、会社勤めはずいぶん楽になると思います。今日はこの問題について考えてみたいと思います。せっかく森田理論を学んだのですから、それを活用して解決していけばよいのではないでしょうか。まず、第一の質問からです。会社に就職するということは、基本的に自分の労力を提供して、会社が儲けるために行動することが求められます。その対価として、生活費を得ることができます。つまり仕事というのは、自分がやりたいと思っていることではないのです。会社が従業員や生産手段を使ってたくさんの利潤を上げたいと思っていることなのです。多くの人にとっては、仕事内容は自分の意思とは乖離しています。そのままでは、意欲的に取り組むことはあり得ないと思われます。強制、命令、指示、叱責などによって、自分の行動を制御されているのが本来の仕事だと思います。本来会社での仕事は面白くないものなのです。この点はしっかりと押さえておきましょう。そういう仕事の本質を無視して、仕事に対して生きがいを持ちたいと言っているようなものです。この相談は出発点からして矛盾を孕んでいると思います。この問題について、森田理論では次のように考えます。仕事自体は、もともと他から強制される行動を強いられるということです。それは、運命、宿命、境遇のようなものです。どうすることもできないものです。でもその枠の中でも仕事を楽しむことはできます。やりがいにまで高めることもできます。それは、仕事の中に問題点、改善点、改良点などを発見することです。興味や関心を高めることです。課題や目標を見つけることです。そのためには、よく観察して見つめるということが必要になります。また最初はイヤイヤ取り掛かった事であっても、一旦はものそのものになって行動することが大切です。そうなれば、あれ程嫌っていた仕事に意欲的になります。実は自分の天職であったと感じるようになるのです。長い間仕事を続けている人は、そういう体験を思い出すことができるのではないでしょうか。特に就職したての頃は、必死になって仕事を覚えようと頑張っていたと思います。ただしこれは一過性のものであって、当面の問題が片付くと元の木阿弥に戻ってしまったというのが、実際のところではないでしょうか。そのような時に、今の仕事は自分のやりたいこととは違う。自分にあっていないという考えが湧き上がってくるのではないでしょうか。ですから仕事に取り組むときは、問題点、改善点、改良点、課題、次の目標を絶えず探しまわる態度を維持して、実際にそういうものが現実に存在しているかどうかが問われてくるのです。そういう人は仕事を自分のものとして引き付けているということになります。そういう姿勢で仕事に向き合っているのかどうかが、厳しく問われているのだと思います。仕事に対して一心不乱に取り組んでいる人は、この仕事が自分に合っているかなどと言う質問はしないはずです。ただ気が付いたら、仕事によって人生が味わい深いものに変化していたと思えるようになるのです。第2の問題は、明日の投稿といたします。
2020.11.19
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楽しみが一つもない人生は味気ない。だから誰でも楽しい事や快感を求めて活動している。集談会の近況報告を聞いていると、活動の内容が基本的に二つに分かれているように感じる。一つは、自分を受け身の立場に身を置いて、外から与えられる楽しさが伴う刺激を追い求めることで、豊かで楽しい人生にしていこうという人である。追い求めているということは、積極的で意欲的である。具体的には、Go―Toキャンペンなどを積極的に活用している。割引制度を利用して観光地、温泉旅行、グルメ三昧などを楽しんでいる。ホテルなどは普段は宿泊できないような高価な部屋を予約している。その他、日ごろからアンテナを張って、バスツアー、海外旅行、スポーツ観戦、演劇鑑賞、映画鑑賞などを楽しまれている。ギャンブルに手を出す人もいる。市内でミシュランガイドに登録されているような料理店に予約を入れている。料理を自ら作るという気持ちは希薄で、有名なお店やお惣菜情報にたけている。乗用車などに凝って高級車を乗り回している人もいる。家なども、親の援助を得て高級タワーマンションなどに住んでいる人もいる。大型テレビは8K、4Kである。スマホは2年ごとに最新機種にしている。家の中は、高級な服や靴、お宝で足の踏み場がないほど、埋め尽くされている。こういう人の特徴は、多額のお金がかかる。移動することで手にできるものが多い。一つ一つの楽しみが短命である。線香花火のようでぱっと一瞬華やかであるが、すぐに暗闇に戻る。一つの楽しみと次の楽しみの間に隙間時間が生まれる。この時間帯が長くなると、イライラやモヤモヤの原因となる。こうした人生の豊かさ、楽しみを追い求める人とは一線を画している人がいる。一般的には少数派ですが、何とも言えないいい味を出しておられる。そういう人の特徴を整理してみました。自分の日常生活の中でささやかな楽しみをたくさん持っている人である。そういう人は、日々の生活の中で、小さな課題、目標、夢を持っている人である。あるいはそういうものを見つけ出そうとしている人である。自らがそれらに向かって積極的にかかわる過程そのものが、人生の醍醐味ではないかと思っているような人である。そういう人は集談会の近況報告で、生活感にあふれたこんな話をされる。ビールをおいしく飲む方法を発見しました。先日タイのあら炊きをおいしくする料理法を見つけました。自分の畑で採れた旬の材料を使った新しい料理への取り組み状況。家庭菜園の楽しみ方について。奥さんとの人間関係で心掛けていること、子どもや孫の付き合い方や成長の楽しみ。カラオケで音程をとる方法について。日ごろ心がけている身体の手入れ。運動や健康法。家の修繕。盆栽や草花の手入れ。ペットのしつけ方。近場での温泉地、観光地、図書館、公民館活動、近所の人との交流など。話ながら、地味すぎて誰も真剣に聞いてくれないなどと言われる。私は決してそうは思わない。畏敬の念が湧き上がってくる。この手の豊かさや楽しみを目指している人は、努力する過程が楽しみそのものになっているので、その快感は刺激的とは言えないが、じんわりと長く持続しているようだ。またそんなにお金はかからない。遠方まで移動する必要はないようだ。移動してまで、楽しみを追い求めなくても、そこら中に人生の楽しみのかけらはいくらでも転がっていると思っている節がある。私はこの二つの豊かさ、楽しみの見つけ方は、両方とも必要だと思う。ただそのバランスを心掛けることを提案したい。基本は2つ目にある。日常生活に丁寧に取り組むことで、小さな楽しみをたくさん見つけ出す。そして1年に数回は、一つ目の楽しみを組み込んでいくやり方である。これが人生に変化とアクセント、刺激を与えます。ただし、一つ目の楽しみの追及に偏るのは問題だと思う。人生を豊かにするはずの行動が、逆に空虚でむなしい人生をおびき寄せてしまうような気がします。基本は、凡事徹底の中での楽しみを数多く見つけることの中にあるのではないでしょうか。そういう人は、地に足のついた安定感を感じます。
2020.11.17
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高良武久先生は、多勢の前で話す機会が多く、話すことに非常に恐怖を感じている人に次のようにアドバイスされています。不安を感じながら一生懸命にやるだけですね。楽をして人前でしゃべりたいというのではなくて、しゃべることはへたであろうがなんであろうが、いい内容を言おうと心がければいいわけですね。その方が大切です。私は、人前で話すことは非常に苦手だと思っていた。それで、とにかく、自分が話をするのは下手なんだから、なるだけ内容をよくしようということに、一生懸命につとめたつもりでいましたね。それでいいんですね。そしたら、人もだんだんに、あの人の話はいいというふうに認めてくれるようになりますからね。うまく話そうとしたら、内容のほうがかえって留守になりますから。多勢の人の前で講話をするような人は、話し方教室などに通って、インパクトのある話し方を身に着けようとする傾向があります。そういう講座があります。抑揚をつけ、緩急をつけ、ユーモアセンスを取り入れる。NHKのアナウンサーのように発音がよく、耳ざわりがよい活舌の訓練をする。政治家のように圧倒的な迫力で相手に感動を与えるような手法を学ぶのです。高良先生は、まず自分は人前で話すことは下手だと認めてしまいなさいと言われています。しかしその事実を安易に認めてしまうと、人間として進歩することはないのではという疑問が湧いてきます。確かに一理あります。ここで大切なことは、そういう努力を決して否定されているのではないと思います。その方向で努力する前に、まずは話す内容の方に力を入れなさいと言われています。話す内容が心もとないのに、話法ばかりに力を入れることは本末転倒であるといわれているのだと思います。話法にエネルギーをつぎ込む人は、他人にすごい人だとほめてもらいたい気持ちの強い人だと思います。尊敬されたい。一目置かれる存在でありたい。圧倒的な存在感を示したい。優越感を味わうことが最大で唯一の目標となっているのです。そうなりますと、話す内容に投入するエネルギーはどうしても減少してきます。話しぶりは圧倒的な迫力はあったが、話の内容は陳腐で参考になることはほとんどない。その方面で目の肥えた人から見れば一目瞭然なのです。そのうち、話に飽きてきて、さらにその人の人格まで否定されてしまいます。内容よりも話法に力を入れる人の心理は、絶えず他人の評価を気にしています。批判される、否定される、反対される、拒否される、無視されるようなことはあってはならないと考えるようになります。つまり注意や意識が自己防衛的になっているのです。自己内省的、専守防衛的に偏っているのです。精神的にはつらくなります。これでは話の内容の質を高めようという方向には向かいません。結果として現実の評価の方は、自分の理想からどんどん乖離していくことになります。ここで心掛けることは、自分の話法は決して褒められるようなものではない。でも、話の内容としては、みんなの役に立つように徹底的に準備しておこう。一つでも参考になり、役立ててもらいたい。実際に自分の生活に取り入れてみようと思ってもらいたいたい。大事なことだが、普段みんなが見落としている点に気づいてもらいたい。役に立った。参考になった。また機会があれば、ぜひ話してください。そう感じてもらえるように、精いっぱい時間をかけて準備していく。努力してみる。こうなりますと、精神状態は内向きではなく、外に向かって解放されているのです。ここが最も肝心なところです。それを前提として、次に話し方を改善すれば、感動を与えることができるようになるのです。
2020.11.11
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今日は森田先生のおすすめの実践・行動の心構えについて考えてみたいと思います。絶対にしてはならない事から説明してみましょう。基本的には、自分の都合、気持ち、気分、身体の状態を推し量って、行動に踏み込むかどうかを決定してはいけないということです。これはどういうことかというと、「今はやる気が起きない」「興味や関心が湧かない」「疲れている」「病気でしんどい」「行動すれば病気が悪化する」「資金がない」「協力者がいない」「設備や道具がない」・・・などと言う自分の都合で、行動しないほうを選択するというのは間違いだということです。自分の気分や都合ばかりを推し量っていると、目の前に起きている変化に対応することができなくなる。例えば、火事、地震、津波、雷、噴火、台風、土砂災害などが起きたとき、運が悪いと命を落とすかもしれない。関東大震災の時、根岸病院の壁が崩れ落ちている時、ある精神病患者がケロッとして、「ずいぶん大きな揺れですね」といって平然としていたという。こういう自然災害の時は、危険を察知したら、どんな状況にあろうが、真っ先に身を守るための行動をとなければならない。自分の都合や気分を問題にしていると、命を落としてしまう。森田先生は実践・行動に当たっては、自分の気持ちや都合を最優先させてはならないといわれているのです。自分がいま置かれている状況、境遇、環境などを見極めて、行動するかしないかを決定することが大切であるといわれている。一言でいうと、外部の変化に合わせて、臨機応変に実践・行動することが大切だといわれているのです。強行軍の時は、いくら疲れていてもみんなについていくことになります。いくら仕事に行くのが嫌でも、生活費を得るためには、足をひきずりながらでも会社に行かなければならない。次に、ここで大事なことは、外部の変化を正確につかむということです。外部の変化を間違って掴んでしまうと、間違った方向で行動することになります。たとえば、最近下痢が続き、出血しているようなときは、すぐに内視鏡で検査して、ガンではないかどうかを判断してもらう。そんな検査は嫌だと言って無視する態度では、重大な変化を見落とすことになります。外部の変化を正しくつかむために、森田先生が提案されていることは「みつめよ」ということです。目の前の出来事をよく観察しなさいということです。他人の意見を鵜呑みにするのはまずい。先入観や思い込みは事実とは異なることが多い。現地に立ち会い、自分の目で真偽のほどを確かめることが大切です。見つめていると、気づきや発見が見つかる。興味や関心も出てくる。問題点や課題も見えてくる。この段階に達した時、変化に対応した正しい行動を選択することができるのです。
2020.11.03
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長谷川洋三氏のお話です。森田先生は、「従順」と「盲従」とを峻別している。「従順」とは、気がすすまないが、とにかく必要なことはやる、あるいは半信半疑だが、一応はいわれたとおりにやってみるという態度である。そこには批判精神が働いている。これに反して「盲従」とはこの批判精神が働かず、唯々諾々と、「右を向け」と言われれば何の疑問もなく何の疑問もなく右を向き、「左を向け」といわれれば左を向くといった態度であって、森田先生はこの盲従的態度をきびしく戒めている。最近の言葉でいえば、「従順」には主体性があるが、「盲従」には主体性が失われているのである。(生活の発見誌 11月号 20ページより引用)「従順」も「盲従」も行動することは同じなのだが、この2つは月とすっぼんだといわれているのである。その違いをはっきりさせておこう。普通は実践・行動することで、物事の方に注意や意識が移っていく。そして気づきや発見がある。興味や関心が深まっていく。工夫やアイデアが浮かんでくる。それが弾みとなって、やる気が湧き上がってくる。最初は他人から指示された事であっても、イヤイヤシブシブ取り組んでいくうちに、感情が動き出してくるのである。感情が変化して動き出してくると、主体性の発揮につながる。主体性の発揮がきっかけとなり、新たな行動へとつながっていく。盲従の場合は、指示されたことだけを早く仕上げて、自分の手から離したいという気持ちが強い。指示されたことをとにかくやってしまえば、何も問題ないでしょうという気持ちが強いのです。その結果が不十分で問題だらけだろうが、本人は馬耳東風なのです。どこまで行っても、主体性の発揮とは無縁なのです。これでは感情は動き出さない。実践や行動によって、元の感情を速やかに変化させて、流していくという目的から見ると、これは大きな問題ということになります。従順というのは、最初は相手の指示に対して反発しています。どうして私がやらなければいけないのか。他の人に頼めばよいのにという気持ちがあることも多い。それこそイヤイヤシブシブ引き受けて行動するということになります。考えてみれば、人生の三分の一を占めているといわれる仕事もそうですね。最初から仕事が面白くて仕方がないという人は、ほとんどいない。その証拠に高額な宝くじが当たれば、すぐに退職したいと思っている人が多い。これが普通の状態であり、何ら問題はないのです。問題はこの先にあります。イヤイヤ引き受けた仕事に対して、ものそのものになって取り組んでみたかどうかが問われることになるのです。仕事でいえば、大きな不具合や問題が生じて、それを解消するために必死になって取り組むようなことがあります。こういう状態になると、感情が動き始めます。気づきや発見、工夫やアイデアが泉のようにこんこんと湧き上がってくるようになります。不具合や問題が生じなくても、主体的に取り組むことで、感情は動き出します。森田理論は、物事を観察することで、感情が生まれ、その感情を速やかに流すことを目的としている理論なのです。特に不快な感情はそうして解決していくのです。谷あいの小川を勢いよく流れる水のごとくです。これがお城に停滞している水のような状態になると、汚く濁って雑菌がはびこってしまいます。これが神経症を引き起こす大きな原因となっているのです。最初はイヤイヤ仕方なしの行動で何ら問題はありません。それがむしろ普通の状態です。問題はその先にあります。森田先生の言葉に、「ものそのものになってみよ。天下万物すべて我がもの」というのがあります。どんなに気が進まない事であっても、一旦は時間を忘れるくらいの気持ちで取り組んでみることが大切なのです。その方向を目指していると、自分の人生はとても味わい深いものに変わっていくのです。
2020.11.02
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森田先生のお話です。富士山の強力を職業としているものは、平常は百姓などをしていて、夏は強力になる。毎年初めて登るときには、強力でもやはり、普通の人間であるから、人並みに足も痛む。その翌日ははなはだしい時は、便所でも、こごめないほど、股やふくらはぎが痛いとの事である。もしここで休めば、2、3日で回復する。しかし3日に一度登山するという風では、職業にならない。しかたがないから、痛いのを我慢して、足を引きずるようにして、強いて登山を続ける。そうすると、一週間ばかりもたつうちには、いつともなしに、足の痛みもなくなり、夏中続いて、その職業をやっていくことができるとの事である。(森田全集第5巻 566ページより引用)身体の痛みがある場合は、治療や休養をとって回復を図るのが普通の考え方です。森田先生は、この考え方だと職業としては成り立たないといわれています。確かに痛み耐えて、仕事を続けことで、痛みがなくなる場合もあります。この場合は、いきなり富士登山をするのではなく、1週間ぐらいかけて体を順応させてから、初めて強力の仕事に入るのがセオリーかと思います。ただここで森田先生の言いたいのは、身体の痛みや精神的苦痛に影響を受けて、本来なすべきことから逃避してしまうというのは問題だということだと思います。一時的な身体の痛みや精神的苦痛と格闘することは、百害あって一利なしということです。プロ野球の監督で、「身体の悪いところがあったらすぐに申告してくれ。直ぐに休ましてあげる」と選手たちに言ったという。プロ野球の選手は、シーズン中は移動が続き、遠征先ではホテル暮らしである。生活が不規則になり、身体や精神が疲労困憊状態になりやすい。そしてケガと隣り合わせの仕事である。また炎天下での連戦も続く。過酷な仕事である。そんな時に、監督の言葉を真に受けて、気分本位になって「今日はどうも力が入りませんので休ませてください」と言ったらどうなるのか。「よし分かった」と言ってもらえるかもしれません。しかし監督は、そういう選手が相手と闘争心を持って勝負に向かう選手ではないとみなしてしまうのです。プロ野球の世界は、そういう選手を試合で起用するほど甘い世界ではない。またその選手のポジションが空くのを手ぐすね引いて待っている選手が次々と出てくるのです。こういう態度ではプロ野球の世界では生き抜いていくことは不可能です。10年以上も選手生活を続けている選手はどうしているか。身体の疲れがある。けがを抱えている状態が普通の状態だと認識しているのです。中には指の骨折を隠してまで試合に出るという選手もいる。試合に出続けてこそ意味があると考えているのです。国民栄誉賞の衣笠祥雄さんはそう考えていました。つまり疲労感や痛みを押して仕事を続けているということです。ケガは試合に出続けながら治していくという気持ちを持っているのです。一度掴んだポジションは絶対に死守する。自分と家族の生活はプロ野球選手の仕事を通して守り抜いていくという気持ちを持っているのです。そのために、規則正しい生活を送る。食生活に気を配る。野球以外の誘惑を断ち切る。贅沢三昧の生活には気を付ける。寸暇を惜しんで、絶えず技術を磨いていく。人の見ていないところで練習を積み重ねている。つまり野球中心の生活を貫いている。マッサージやストレッチなどに力を入れて、体のメンテナンスを念入りに行う。ケガは仕事をしながら治していくことを考えて実際に実践している。これらを淡々と繰り返している人たちが、過酷な勝負の世界で生き続けている。我々はこれに学んで、不安を抱えたまま生活を維持していくという態度を崩さないようにしたいものです。
2020.11.01
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対人恐怖症の人は、ミスや失敗を恐れる傾向が強いと思います。ミスや失敗をすると上司や同僚たちから批判や叱責されていたたまれない気持ちになるからです。無視される、馬鹿にされる、軽蔑されることは、絶対にあってはならない事と思っている。そういう気持ちの人は、他人がミスや失敗をすると内心嬉しくなる。心の中で、なんて馬鹿なことをしているのだと軽蔑しているのです。そして、あの人よりは自分の方がましだと優越感を味わっているのです。こういう人は、自信のある仕事、ミスや失敗の可能性が限りなく0に近いものを選別するようになります。しかも選別した仕事に、恐る恐る取り組むことになります。仕事の問題点や課題を見つけ出して、改善や改革してより効率的にしていこうという気持ちはさらさらない。大過なくその日が過ぎ去れば万々歳という気持ちしかない。人生そのものが閉塞していく考え方になります。むなしくなります。この状態は、どんどん目の前の仕事をこなしている人と比較するとスピード感がない。こなす量も少ない。そのため慢性的な残業過多に陥っている。周囲の人から見ると、あの人はやる気がない人と判定されてしまう。極端に言えば、給料泥棒のような人だと思われているのです。そういう人も、はるか以前には、できたら仕事をバリバリこなして、リーターシップを発揮して出世したいという気持ちは持っていたのだと思います。生の欲望が人一倍強い神経質性格を持っていますから当然のことです。しかし、過去のミスや失敗による心のトラウマが重圧となって、自己防衛せざるを得ない心境に陥っているのです。このまま他人の思惑に振り回されながら仕事を続けていかなくてはならないのかと暗澹たる気持ちになっておられることと思います。この問題を森田理論で考えてみたいと思います。ミスや失敗は一度たりとも許されないという「かくあるべし」に取りつかれています。生きている限りミスや失敗は発生するのが当然であるとい考え方に転換することができない。人間は3000回のミスや失敗をして、分別のある大人に成長していくのだという話を聞いたことがあります。それくらい、あるいはそれ以上に、多くの人はミスや失敗を繰り返しています。こうした事実が見えていないのです。そのことがさっぱりわからないのです。むしろ性格的に他人の批判や叱責が気にならない人たちなのだと思っている。あるいは、その人たちはうまくすり抜けるコツを身に着けている人だと思っている。これは認識の誤りです。積極的に仕事をすればするほど、ミスや失敗に出くわす機会は格段に増えていきます。我々が嫌なことから逃げまくっている間に、次々とミスや失敗の経験を積み重ねているのが事実なのです。ミスや失敗をイヤイヤ仕方なしに受け入れているといってもよいのです。ミスや失敗はイヤだけれども仕事から逃げまわることはできない。ミスや失敗を繰り返しながら、やり続けるしかないと思っているのです。そして大事なことは、数多くのミスや失敗の経験を無駄なことだと思っていない。ミスや失敗の経験が自分という器を大きくしてくれるものだと信じているのです。ミスや失敗は、私たちが成長していく上に欠かすことのできない食料のようなものだと思っている。特に小さいうちに沢山のミスや失敗の経験を積み重ねていきたいと思っているのです。絶えずミスや失敗の経験に学んで、成功につながる貴重なポイントを身に着けているのです。それによって大人になったとき、間違いの少ない対応方法がとれるのです。ミスや失敗の経験は宝の山だと思っているのです。インフルエンザの注射は痛いものですが、それによって予防できるのだから、我慢して病院に行くという態度なのです。ミスや失敗におびえている人は、二度とそういう状態には近づかないようにしています。ミスや失敗から成功への足がかりをつかもうとしている人は、今はタメを作っている時だと思っています。大きく飛び上がるときは膝を折って腰を沈めなければ、大きく飛び上がることはできません。その期間がないと自分は大きく飛躍することができないということを自覚している人です。そうすることで大きな果実をつかみ取ることができると信じている人です。ミスや失敗から逃げ回っていく人とそれを嫌なことだけれども人間として当然な事として受け入れる人との差はどんどんと広がっていくばかりとなります。これは一人の人間としての器の差になって現れてくるのです。ミスや失敗は注射針を打たれるような痛みはありますが、立派な大人になるためには欠かすことのできない貴重な経験であるという認識を持つことが大切になります。そういう認識を持っていれば、自分を責めなくなります。また次の問題、仕事、課題に向かって挑戦していけるようになります。
2020.10.31
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森田先生が形外会の高知支部発足式で話しされています。船酔いについて、商船学校が毎年多数の卒業生を出すが、卒業の時に、必ず遠洋航海に出ることになっている。その時に100人が100人ながら、みんな必ず船に酔う。酔わぬものはほとんどない。つまりこれが普通の人の生理的感覚であるといってもよい訳である。これを治すには必ず無理を押し通して、酔うがままに働かなければならない。中にはマストの上で、嘔吐するような事さえもある。つまり酔うがままに、しかたなしに、自分の職務を尽くすわけである。もしそれが、自分は酔うからといって、仕事を休んだり寝ていたりしていては、決していつまでも、船酔いは治らないとの事であります。(森田全集 第5巻 564ページより引用)何事も新しいことを始める時は、大変なエネルギーがいるということだと思う。月へ向かうロケットは燃料の70パーセントくらいは、地球の引力から脱出するために使うという。ほんの10分足らずの時間で、エネルギーの大半を消費するということは、いかに軌道に乗せるまでが大変なのかということがよく分かる。一旦引力から解放されれば、その後の、莫大な距離を飛行するためのエネルギーは、ごくわずかで済む。この話から学ぶことがある。よい習慣を身につけるということです。集談会では、あの人はいい人生を生きているなという人が少なからずおられます。そういう人は、良い習慣をいくつも身に着けて、毎日その習慣に従って淡々とした生活を繰り返しておられるのです。つまり行き当たりばったりの生活ではないのです。暇つぶしの生活、快楽、快適、好奇心を絶えず刺激するような生活ではないのです。そういう生活は、絶えずそういうものを探し回っているので疲れます。自分が習慣化した生活に向かって日々行動することによって、小さな感動や小さな喜びのかけらを全身で浴びている。虚しさを感じたりや精神が弛緩状態に陥ることがないのです。ここで大事なことは、小さな良い習慣をいくつも身に着けていくことだと思います。私の例でいうと、朝一番にブログの原稿を1本書く。約1時間。今日アップした投稿の修正と明日投稿する原稿のチェック。朝晩はベランダの草花の手入れと水やりを行う。どじょう掬いとしば天踊りの練習。毎日単行本を読む。できれば200ページの本を一冊。昼ごはんの後は30分仮眠をとる。仕事でマンションの管理人をしている。掃除をしながら、マンションの階段の上り下りを繰り返す。その間はカラオケの練習を行う。毎日通勤や仕事を通じて7000歩のウォーキングをする。仕事から帰ると、サックスの練習を30分する。部屋の整理整頓、掃除機をかける。日記を書く。株式の研究を30分から1時間行う。you tubeの討論番組をチェックする。これらはすべて習慣化している。基本的に同じ時間に同じようなことをしている。次のやるべきことを考えて行動することはあまりない。勢いをつけて行動するということもない。やらないと気持ちが悪いといった感じです。よく毎日ブログを投稿して大変でしょうといわれる。自分としては習慣化しているので苦にならない。自然体で取り組んでいる。むしろ森田理論が深まるので楽しみなのである。集談会でコロナで家にいることが多くて、気がめいるという話をよく聞く。またやる気が起こらなくて困っている。行動することはしんどい。面倒なことは、できればパスしたい。公民館活動に参加して趣味などを見つけたらどうですかと提案しても、そんなことをすれば疲れるでしょうなどと言われる。自家用野菜つくりはどうですかといえば、買った方が安くつくのではありませんかなどと返される。よい習慣作りは、最初は大変です。だから3日坊主になるのだと思います。それを我慢して、1週間、1か月、1年と続けていると習慣化されるのです。そういう良い習慣を1つでも持っている人は、人生の核となるものを一つ持っている人だと思います。そういう習慣を数多くつくれば、不安に振り回されたり、無気力、無関心、無感動とは無縁な生活に切り替わってくると思います。
2020.10.25
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徒然草の157段に次のような言葉がある。事理もとより二つならず。外相もし背かざれば、内証必ず熟す。ここで「事」というのは、外相たる現象のことです。「理」は本質たる真理のことです。ここでは「事理不二」といって、現象と真理は一つであると言っているのです。外相、つまり生活や行動をきちんと整えていけば、心は自然に整ってくるといわれているのです。生活上の困難さはあるが、葛藤や苦悩はなくなるということです。森田先生は次のように説明されています。外証というのは、外に現れた証跡、すなわち事実または実行であり、内証とは心の内部における感想の精神的事実であろうと思われる。それで、もし外証すなわち自分の行動が正しくて間違いがなければ、しだいしだいに、それに相当したところの内証すなわち感じが生育してくるということかと思う。僕のところでは外証を重視する。心の中ではどんなことを思っていてもよい。心のうちには、苦しみながら・ビクビクしながら・いやいやながら・どうにかこうか・人並みに仕事をやっていさえすればよい。きわめて簡単である。僕のところでは、たった40日間でいつとはなしに健康感が起こり、「自分は何でもできぬことはない」というような信念が湧きだしてくるのである。(森田全集 第5巻 560ページ)この点に関して、私たちが使っているテキスト「森田理論学習の要点」には次のようにあります。心の中でどんなに苦しくても、まず形だけ整えてみる。「やる気」になるのを待つのではなく、外側(行動や態度)をひとまずととのえれば、不快な感情も、その外側につられて後退していくものです。例えば、勉強するには、まず椅子に座り、本を開くということです。実践・行動と精神活動は、あざなえる縄のごとく相互に密接に関係しているということです。これを勘違いして、精神活動だけから解決しようとすることは認識の誤りなのです。私は集談会で教えてもらった「靴がそろえば心がそろう」という言葉をキャッチフレーズにしています。この言葉はキャッチフレーズにしては簡単で分かりやすいので気にいっています。そして規則正しい生活、凡事徹底を心掛けて日々生活しているところです。
2020.10.23
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私たちは何かに取り組むとき、その方法については多角的にシュミレーションを繰り返します。そしてある程度、成功のイメージを作り上げていきます。仮説といわれるものです。本来はその仮説に向かって、挑戦していくのです。成功すれば自信となり、次の新たな目標に向かう出発点となります。思い付きで行動するよりも、最初に仮説によるシュミレーションをいくつも考えることは成功への近道です。ところが神経質者の場合は、これが仇となっているのです。神経質者の場合は、その過程で障害となる問題点をことさらピックアップします。ネガティブで悲観的なことが一つでもあれば、行動に移すと失敗してしまう確率が高くなると考えます。失敗することが予想されると、挑戦することはエネルギーの無駄遣いとなると考えます。無駄なことはしたくないのです。効率性を第一に考えているのです。別の面から見ると完全欲が強いとも言えます。完全、完璧から外れることは受け入れることができないのです。やりながら完璧なものに近づけばよいということは考えません。最初から完全、完璧なものや人以外には近寄らないという考え方をしています。また失敗すれば、周囲の者から能力のない人だと軽蔑されることもある。そんなことになると、仲間として受け入れてもらえなくなると考えてしまうのです。100%成功すると確信を持てた場合にのみ行動する方がよい。少しでも、不安や障害物があれば行動や挑戦は中止した方がよいだろう。その方が肉体的にも精神的にも楽ができる。そしてますます観念の世界に迷い込んで、葛藤や苦悩を深めているのです。森田先生はこの問題について次のように説明されています。理屈で考えると、不安を持ちながら、イヤイヤながらする事は間違いが多く、イヤな心を取り直しておいて、朗らかにやればよくできると思うけれども、実際にはうまくいかない。不安な感情は、これをため直して、やる気を鼓舞していくには及ばない。うまくいくだろうかという不安があっても、その感情はそのままにしておくことだ。そして、ただ自分のなすべきことを、止むを得ずになし、なしてはならないことを、仕方なしになさなければよい。このことを私は「自然に服従し、境遇に従順なれ」と称して、その自然に発動する自分の感情をそのまま忍受する事を、「自然に服従」といいます。不安を抱えながら、仕方なしに実践・行動していく。これが「境遇に従順」であって、素直に我慢して、なすべきことをするのである。そうすると、心が自然の流れに従うようになる。自信もなく、不安の感情に振り回されていた心がいつの間にか流れ去っていくのである。(森田全集第5巻 554ページを参照して一部引用)
2020.10.20
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森田先生は入院中の患者に次のように注意されている。掃除や炊事などをするときに稽古をする、練習をするという気持ちで取り組んではいけない。また別のところでは、いつまでもお使い根性で行動してはいけないとも言われています。神経症の克服のために、先生の指示に従って日常茶飯事に取り組むような態度では治らないといわれています。実行や行動は真剣に取り組むことが必要である。指示したことに対して、一心不乱取り組んでもらいたい。ものそのものになってやってもらいたいと森田先生はおっしゃっているのです。この点に関しては、なるほどそうかと納得はできますが、現実問題として大変難しいと思います。例えば仕事などに対して、生活を維持するためにイヤイヤ仕方なく会社に行っているのに、真剣に仕事に取り組みなさいと言っても無理がある。一時的にはそうなっても、継続することは難しい。どちらかというと、手を抜いて、さぼりながら、終了の時間まで無難に過ごすという気持ちの方が強い。この問題に対して私は次のように考えています。初めて取り組むような仕事・課題・問題点に対して、最初から意欲満々という気持ちにはなれない。イヤイヤしぶしぶ仕方なしに取り組むことが多い。ましてや、他人から指示・命令・脅迫されての行動は、自分の意志ではないので、苦痛である。だから、気分本位になり、いい加減に取り組む。さぼる。怠ける。すぐに止めてしまうことが起きる。それが普通なのではないかと思っています。ここで大事なことは、やる気がなくても、人から強制されたことでも構わない。実践・行動に手を付けたということが肝心だと思います。最初から気分本位になって、実践・行動を避けるという態度ではまずいと思います。最初はイヤイヤ仕方なしに取り組み始めることが一般的であるということです。それで構わないし、全く問題はないと思います。ただしいつまでもそのような態度が続くことは大問題です。やる気がない仕事ぶりは、心身ともにストレスとなって、自分自身を破壊していきます。これを打ち破るのは、「ものそのものになってみよ、天地万物すべて我がもの」という森田の考え方です。実践・行動していると、つい時間の経つのを忘れて、無我夢中になることがあります。その時は一心不乱に取り組んでいます。この経験は誰にもあると思います。こういう経験を持つことが大切になるのです。森田では取り組んでいることをよく観察しなさいと言います。見つめていると、自然発生的に、気づき、疑問、発見、課題、問題点が見えてきます。興味や関心が生まれてきます。気持ちが次第に外向きに変化してくるのです。それに伴って意欲、やる気、情熱、モチュベーションが高まります。他人から指示されなくても、自然に体が動いてきます。行動することによって、さらに新たな気づき、疑問、発見、課題、問題点が見えてきます。これによって、さらに上の目標に向かって行動するようになります。この好循環を作り上げることが肝心なのです。この好循環の流れに乗ると、生きがいを持ててうれしい。日々生活することが楽しいということになるのです。生きがいを見つけたということになるのです。ですから、最初は気が進まなくても一向にかまわない。他人から、指示、命令、脅迫されての行動でも全く問題はないのです。むしろそれが普通である。でもそれが続くことは耐えがたい苦痛になる。歯止めをかけるためには、「ものそのものなりきってみる」態度が欠かせないのです。練習や稽古という態度はよくないというのは、誤解を生みやすい言葉です。
2020.10.16
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禅僧の枡野俊明氏のお話です。禅の考え方には「今」という時間しか存在しません。過ぎ去った過去に思いを寄せることをせず、未だ来ていない未来を思うこともない。今という一瞬を大切に生きていく先に、未来があると考えます。今を大事にすることは、すなわち即行動に移すということ。今やるべきことを明日に延ばさない。要するに「後回し」にする発想がないのです。人間にはつい、物事を後回しにしようとする癖があります。絶対に今やらなければいけないことはやるのですが、今やらなくてもいいものについては、何となく明日でもいいやと考えてしまう。大したことではないものであっても、後回しのものが増えすぎると、それは二進も三進もいかなくなってきます。片付けなどがいい例です。「後でやろう」と思う。その「後」は、ほとんどの場合、具体的な時間が決まっていません。つまり「後でやろう」と思ったことのほとんどは、結局はやらないままになってしまうのです。特に仕事の中で「後回し」を作ってしまうと、ちょっとした失敗であっても、時間が経ったことで、取り返しのつかないほど大きな問題になっている。そのような事態もあり得るでしょう。(限りなくシンプルに、豊かに暮らす 枡野俊明 PHP研究所 78ページより引用)耳の痛い話です。事務の仕事は一つ一つを分解してみれば、きわめて単純で簡単な仕事です。伝票や書類を整理する。きちんとファイルすることなどは面倒なものです。これらを「面倒だから後でやろう」とつい投げやりになることがあります。また、今月中にやるべき仕事を、来月に引き延ばすこともあります。簡単ですぐにできる仕事ほど、取り扱いがぞんざいになります。しかし、後回しにした単純な仕事が蓄積するとどうなるでしょうか。釣り糸が絡まったような状態になります。ほぐして元に戻そうとしても、複雑に絡み合って、すぐにほぐすことができなくなります。そのうちイライラして、ハサミでその絡まった部分を切り取ってしまうこともあります。小さな誰でもできるような単純作業を、後回しにした結果はみじめなものです。傍から見ると、あの人は基本ができていない。事務の仕事の適性がない。能力がないとみなされてしまいます。小さな仕事を後回しにしないで、丁寧に取り組んでいる人は、机の上や引き出しの中が整理されています。実に見ていて気持ちがよいものです。文房具も必要なもの以外は置いていない。整理名人の人は。頭の中もきちんと整理整頓されている。余裕時間が生まれて、その時間に仕事の改善や改革に振り向けている。新しい仕事の立ち上げなどを考えている。こういう人は、仕事を追っているのです。精神的に楽です。片や、仕事を「後回し」する習慣の人は、いつも仕事に追いまくられて、疲労困憊しているのです。残業までして頑張っているのですが、残念ながらこういう人からリストラされていくのです。ですから仕事に追われるようではいけないと思います。小さな、細かい仕事を、お札のように大切に扱うことで、無駄な仕事をつく出さないようにしたいものです。
2020.10.05
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再び、青山学院大学陸上競技部の原晋監督のお話です。箱根駅伝で優勝するためには、体力だけを鍛えることや、運動能力を高めることだけが指導のすべてだと思われている人が多いと思う。原監督は、それに加えて、部や個人の目標を明確にすることが欠かせないといわれる。個人の目標達成のために「目標管理シート」を取り入れている。これは、A4用紙一枚に1年間の目標と1か月ごとの目標、その下に試合や合宿ごとの具体的な目標を書き込んだものだ。ここで大切なのは、自分自身で考えて目標を決め、自分の言葉で書き込むことだ。これが、選手の自主性につながる。これには、「もう少し速く走る」といった抽象的な目標はダメで、必ず具体的な目標を書かせている。どんな小さな試合でも目標を設定させ、到達度を確認させる。原監督が目を通したあと、寮の階段の壁に貼り出している。これを見れば、普段話をしていない部員どうしでも、相手が何を考え、どういうことを実践しているかが理解できる。目標管理については、「一歩先」の目標ではなく、「半歩先」の目標を設定するように指導している。少し努力すれば実現可能な、できるだけ具体的で小さな目標を設定することだ。例えば、5000mのタイムを1分縮めるなどという目標は、妄想でしかないといわれる。ある選手は、小さな目標を8個設定していた。例えば、クロスカントリーを週3回取り入れる。体幹を鍛えるトレーニングとして2種目を週4回やる。手洗い、うがい、外出時マスクを守る。など。その結果については、月1回6~7名のグループ分けした班でミーティングを行っている。それぞれが設定した目標の進捗状態、目標を達成するための改善点や改良点を話し合っている。これは選手に任せて、自主運営させている。この考え方は、人間である限り、すべての人が取り入れる価値があると思う。自分の現在の状況をしっかりとつかんだ後は、少し努力すれば達成可能な目標設定することが大切になる。目標は人それぞれ異なる。これを、まずは日常茶飯事に取り入れてみる。小さな目標は、日々の生活の中でいくらでも頭に浮かんでくる。まずそれを忘れないようにメモすることが大切になる。これを実行可能なものや急ぐものなどから、片っ端から片づけていく。仲間の協力がいるものや期限があるものは別途メモしておく。その結果を日記などに書いておく。気を付けることは100%完全にこなそうとしない事である。60%から80%達成できれば十分だと言い聞かせることである。その結果を集談会の体験交流で発表すれば、いろいろとアドバイスがもらえるはずだ。これが軌道に乗ると、とりあえず、当面の神経症とは縁が切れると思う。
2020.10.02
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