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□謹告□ 知る人ぞ知る連載【曹操言行録】が近日に単行本として出版される運びとなりました。 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。作画・Ms.KANZAKI■第16回■ ★★
Oct 16, 2007

□謹告□ 知る人ぞ知る連載【曹操言行録】が近日に単行本として出版される運びとなりました。 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。作画・Ms.KANZAKI■第17回■ ★★
Oct 15, 2007

□謹告□ 知る人ぞ知る連載【曹操言行録】が近日に単行本として出版される運びとなりました。 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。作画・Ms.KANZAKI■第18回■ ★★
Oct 14, 2007

□謹告□ 知る人ぞ知る連載【曹操言行録】が近日に単行本として出版される運びとなりました。 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。作画・Ms.KANZAKI■第19回■ ★★
Oct 13, 2007

□謹告□ 知る人ぞ知る連載【曹操言行録】が近日に単行本として出版される運びとなりました。 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。作画・Ms.KANZAKI■最終回■ ★『曹操言行録』第一部のあらすじと年譜★曹操言行録第一部のあらすじ155年 沛國焦県(現在の安徽省毫県)に生まれる。 ・郷里の豪族、薛氏の娘と形式的な婚約。 ・父の夏侯嵩が宦官の曹騰の養子となり、費亭侯の爵位を継承する。174年 孝廉に推挙され、はじめて洛陽に上京する。 ・洛陽の帝宮で郎官に任じられる。郎官仲間で袁本初(袁紹)・張孟卓・許子遠(許攸)・何伯求らと出会う。 ・宦官の実力者、張譲の大邸宅の庭に深夜に侵入し、その目の前で警備の私兵たちを相手に武器を振り回し、土塀を飛び越えて逃走。(第1回) ・後に正夫人となる卞后と、洛陽の市街で出会い、大恋愛する。当時、卞后は11才ほどの少女歌手で、庶民に大人気の踊り子だった。(第2回) ・張譲邸の侵入事件は黙認されたが、郎官としての出仕を止められ、自宅にこもって古典や現代書(公刊直後の班固編纂『漢書』全巻)などを濫読する。(第3回) ・袁紹らが仏教思想を学びはじめたので、曹操も追随する。特に袁紹は母親の服喪を理由に東郡濮陽県の県長を辞任、以後6年間を母親の墓の側で生活。(第4回) ・太尉の橋玄に文武両才を評価され、城門校尉の下役、洛陽北部尉に任命される。就任後、ただちに北門の設備を改修、警備兵たちの装備を一新、腐敗を追放し、厳罰方針で一世を風靡する。(第5回) ・橋玄は北部尉の業績は評価しつつ、許劭と交際するように助言。最初は遠慮していた許劭も曹操の隠れた実力と志魂に注目、「治世の能臣、乱世の姦雄」と破格の評価を与える。(第6回) ・宦官の憲磧の叔父が夜間通行しようとしたので撲殺処刑。宦官たちは逆に曹操の勤務実績を称揚、東郡頓丘県の県令に「昇進左遷」する。(第7回) ・橋玄は老齢を理由に太尉を罷免。 ・従妹の婿、宋奇が死罪になり、曹嵩・曹操は連座刑となる。曹操は県令のまま逮捕収監され、洛陽まで囚人として送られる。(第8回) ・卞后を同伴して郷里に帰り、城外に別荘をかまえてスイート・ホーム生活を送る。 ・ともに一時帰郷した曹嵩の膨大な蔵書群も到着。それをもとに最初の主著『兵法接要』を執筆し、洛陽で評判となる。 ・議郎になっていた何伯求が『接要』の内容を高く評価し、「古典知識に詳しい」と同僚に推挙。このころ劉氏と政略的に婚姻。 ・議郎に任命され、皇帝の面前で政治腐敗を激しく糾弾する上奏をおこなう。 ・天変地異のため、全国の父老政治批判を求める布告が出る。曹操は県令・県長ら現場に不祥事の責任を押しつける政略に反発し、再び過激な政治批判の上奏をする。 ・霊帝は激怒して政府高官を全員罷免。しかし、首都に召喚された県令・県長数十人がすべて議郎になり、曹操は発言や上奏を封鎖され、失望する。(第9回) ・昔の仲間の一人、許攸が宦官打倒・新皇帝擁立のクーデター計画を打ち明け、曹操に協力を要請する。(第10回)183年 黄巾の乱が起きる。184年 騎都尉に任命され、首都警備隊を指揮して、頴川郡で黄巾賊に包囲された将軍・皇甫嵩らの官軍主力を支援。(第11回) 済南國の相に抜擢され、現地の政治腐敗を一掃、不正な役人たちをすべて罷免し、淫祀邪祭の風習を強制的に廃絶。 東郡太守の任命を謝絶返上、議郎にとどまる。(第12回) ・それまで無官だった袁紹が突然、何皇后の異母兄・何進の秘書役となり、その推挙で昇進を重ね、虎賁中郎将(宮廷警衛師団長)まで異例のスピード出世。187年 西域の金城(現在の甘粛省蘭州市)で氏族などが反乱。加担した在地豪族の韓遂らが県令を殺害し、謀叛を起こす。 188年 皇甫嵩を将軍、董卓を部将とする征討軍が遠征。董卓は戦闘を放棄して勝手に後退する。 首都で西園軍が新編成され、8人の校尉が任命される。袁紹が中軍校尉となり、典軍校尉・曹操の上座に巻き返す。(第13回)189年 董卓の乱。 曹操はすべてを投げ捨て、庶民の変装で洛陽を脱出。(第14回)
Oct 12, 2007
早期解決に全力=学生誘拐「政治的背景ない」-政府 イランを旅行中の邦人男子学生が武装グループに誘拐された事件で、政府は11日午後、外務省に設置した緊急対策本部(本部長・小野寺五典副大臣)の第2回会合を開き、イラン政府と連絡を取るなどして情報収集を進めた。 高村正彦外相は同日夜、外務省で記者団に「無事救出するため全力を尽くすようイラン政府にお願いする」と、早期解決に全力を挙げる考えを示した。 また小野寺副大臣は、事件に政治的背景はないとの見方を示した。 関係者によると、男性は横浜国大教育人間科学部4年生の中村聡志さん(23)。 福田康夫首相は同夜、「人命尊重という立場で、1日も早く取り戻したい」と記者団に述べた。 高村外相は、政府として中村さんの拘束場所を把握していることを認めた。[時事通信] 10月11日21時7分配信 _________________「明るいムードメーカー」=拘束学生派遣のボランティア団体 横浜国大4年中村聡志さん(23)をネパールでのボランティア活動に派遣した特定非営利活動法人(NPO法人)「NICE(日本国際ワークキャンプセンター)」(東京都新宿区)のスタッフは11日、「無事に解放されて早く帰ってきてほしい」と話した。 男性スタッフによると、中村さんは2月に「さまざまな文化に触れたり、現地の人たちと出会ったりしたい」と応募してきた。 「海外ボランティアは初めて」と話していたという。 4月に埼玉県秩父市で2泊3日の事前研修をした際は、ムードメーカーで笑いを取ったり、周りを和ませたりするような明るい性格だった。 英語は日常会話ができる程度という。 [時事通信]10月11日21時36分配信 _________________★こういうイカサマNPOは解散すべきだ。 まずODA関連の補助金を停止しろ。 それから政府の経費を請求書にしてNPOに支払わせるとよろしい。
Oct 11, 2007

□謹告□ 知る人ぞ知る連載【曹操言行録】が近日に単行本として出版される運びとなりました。 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。■第13回■ ★議郎・曹操の活躍 その1★ 曹操の伝記物は少なくないが、青年時代については、だいたい武官時代の【北部尉】の大活躍とか、済南国の相国として邪教淫祀を撲滅させたトピックスが中心である。 漫画の【蒼天航路】はさすがにそれはマズイということで、宦官との権力闘争に敗れて庶民となった人物を登場させて、皇帝への上書を頼むというエピソードが付け加えられている。 これは原作者の李さんが生前に問い合わせをしてくれたらよかったと思うのだが。。。 曹操は間違いなく、自分の勉学と教養で、霊帝に対して直接の上書を書き上げていたと推理するのが妥当である。 曹操の自作なのである。すると【蒼天航路】はもっと面白くなったと思うが。。。 第一回の上書は、議郎に就任した直後。 はじめて議郎として皇帝の前に出た親任式で、パパパっと上書を読み上げたと考えている。 その情景を再現したのが、このイラストである。作画・Ms.KANZAKI イラストのポイントは、あえて皇帝の玉座から見るアングルで描いたこと。 皇帝の玉座の隣にいるのは。。。そう、宦官たちである。 そして、曹操の背景には、上書の内容に驚き、あわてふためく群臣たち。 この群集の動きで、曹操の口から出た内容の衝撃的な過激さを表現した。 このときの曹操は、もう上書の内容はまったく暗記していたということで、顔を上げて皇帝を見すえるという設定にした。 これはまったく異例のことであったが、驚愕した皇帝は曹操を信任し、その上書を三公(大臣たち)に直接に下げ渡して、激しく叱責した。 恐怖した大臣たちはただちに総辞職したという。 まさに曹操の一枚の上書が政権交代を引き起こしたのである。
Oct 10, 2007

□謹告□ 知る人ぞ知る連載【曹操言行録】が近日に単行本として出版される運びとなりました。 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。作画・Ms.KANZAKI■第14回■ ★議郎・曹操の活躍 その2★ 私の想定では、この「第一回上書事件」は、高齢を理由に免職された太尉・橋玄に対する恩返しという側面と、橋玄の後で政治腐敗の極みに達していた政権そのものを掣肘する意義があったと思う。 どちらにしても、男子がまさに生命をかけて、必死の形相で、皇帝に堂々と意見したのである。 それなりの理由がなくてはならない。 正史の記述を丁寧に読み直していくと、曹操は「北部尉事件」のあと、昇進して頓丘県令になったが、しばらくして身内(母方の親族)に死罪になる人間が出て、連座刑で父子ともに罷免されたということになっている。 このことは大変に重要な知見であるので、別のところでまとめて述べることにしよう。 したがって、この議郎就任の背景事情としては、曹操個人の復讐劇という意味合いもあったと考えていいだろう。 こうして突然免職された後、議郎に就任するまで、曹操は故郷に帰って勉強を続けた。 理由のひとつは、父親も罷免されたから首都・洛陽の邸宅に所蔵されていた書籍類・・・それは荷車数十台以上になる私立図書館の規模だったが。。。 それらの書籍類も故郷に設置されたので、曹操はかなりの勉強ができたと思われる。 曹操の主著である【兵法接要】は、この時期に書かれ、洛陽でも公開されたと想定できる。 第一に、議郎という職務は相応の文化人を皇帝の側近にするという名目で創設された官職である。 だから、曹操も著作を発表しておかなければならないのであるが、処女作は【兵法接要】であった。 これは何度か書き足されて、最終的にかなり大規模になったと思われるが、最初の著作は孫子兵法と孫ビン兵法の両方から、兵術の決まり手を法則化し、歴史上のケーススタディにつき合わせたものであった。 それで兵法の要綱と現実の接点、【接要】というのである。 その出来映えを高く評価したのが、議郎の何伯求である。 彼は正史にも、橋玄とともに、曹操を評価した人物として登場する。 そして議郎の同僚として、曹操の洛陽復帰のキッカケをつくることになった。 曹操の洛陽復帰は、なかなか周到な準備があったに違いない。 そこで考えられるのが、このタイミングでの政略結婚。。。もちろん相手は権力者の令嬢、劉氏である。 このように想定していくと、曹操の第一回上書事件が、当時の政界においていかに衝撃的なクーデターであったかということは、曹操の立場だけでなく、正当に評価しなければならないであろう。 しかし、三国志研究と自称するもの、どのようにこの事情を理解してきたというのだろうか。 本当に文学研究者ってのはバカぞろいだと思うねえ。
Oct 9, 2007

□謹告□ 知る人ぞ知る連載【曹操言行録】が近日に単行本として出版される運びとなりました。 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。■第15回■ ★議郎・曹操の活躍 その3★ この「上書事件」は、正史では「第二回上書事件」がつづいている。 これは臨機応変に出されたものであるから、曹操は自分で上書を起案し、作成する文章力があったといわねばならない。 だから、第一回事件の「上書」は、政争に敗北した元高官に委託されたものだったとする【蒼天航路】の原作は間違い。 曹操が第二回の上書に踏み切ったのは、「第一回」の反響として、曹操を支援する文官グループが形成されたという印象がある。 もちろん中心人物は何伯求。 この人物は相当な文化人で、老子の解釈にも詳しく、もちろん仏教思想も深く知っていたと考えられる。 後に董卓が独裁をはじめたとき、何伯求は勝手に反発して逃亡した袁紹たち高官を各郡太守などの地位を与え、優遇して忠誠を誓わせるように仕向けた。 そのおかげで袁紹らは渤海郡太守などになり、いっせいに董卓追討の軍勢を旗揚げすることになった。 もちろん何伯求は自害。 曹操はこの人物に助けられ、皇帝に重ねて上書したのである。 皇帝は曹操をかなり信頼していたので、その上書は宦官も手をつけられなかった。 普通、議郎の上書は「公文書」として提出されるから、結局は宦官の手にわたり、都合の悪いところは書き換えられることが多かったはずである。 しかし、曹操の場合は、皇帝が直接、その上書の読み上げに臨席した。それは第一回の上書の真実味が評価されたといっていいだろう。 ここで私がこのイラストにこめたポイントを再確認してもらいたい。 それは相手の目を見て話すという、プレゼンテーションや交渉術の基本である。 皇帝はその立場が立場であるから、だれも目を見上げてハッキリとモノをいわないのである。 これでは信頼できない。 経営コンサルタントが社長たちに受け入れられるのは、社員たちが家来になってしまい、誰も「目を見て、率直にモノをいってくれない」という寂しさもあると聞いたことがある。 それは不敬に当たることを恐れての礼儀であったが、「皇帝の目を見て話してはいけない」という規律や礼法があったわけではない。 皇帝が曹操を信任したという事情は、まさに「目を見て、真実を言う」という心理的にも基本中の基本が生かされたのである。作画・Ms.KANZAKI
Oct 8, 2007

□謹告□ 知る人ぞ知る連載【曹操言行録】が近日に単行本として出版される運びとなりました。 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。作画・Ms.KANZAKI■第11回■ ★曹操の女性観 その1★ まず最初に確認しておきたいのは、この時代の一般社会の女性観は現代とまったくカケ離れていたこと。 この時代に、今のような風俗業はなかったが、女性の奴隷がいた。 女性の奴隷は、まさに男性のなぐさみものとして売買された。 男性の奴隷は宦官のように去勢されて、女性の身の回りの世話をしていた。 結婚も女性にとってはまったく不本意なものであった。 「結婚」という制度が存在したのは、大きな土地の相続財産がある階級の話である。 もちろん一夫多妻制であるから、第一夫人はあっても正妻ではない。 正妻がある場合は、「入り婿」という形で、男性が妻の家に住み込む場合だけである。 曹操には故郷に正妻がいた。 かなり気性の激しい女性であり、曹操が呼びかけても、知らぬ顔をして機織りを続け、完全に無視をしたというエピソードはよく知られている。 曹操は最初、入り婿で正妻の家に住んでいたが、父親の出世にともなって首都洛陽に栄転して故郷を去り、県令を罷免されてから再び故郷にもどってきた。 このときは洛陽で結ばれた元アイドル少女歌手のベンちゃんが一緒だったので、郊外に一軒家の別荘を建て、正妻の家にはもどらなかった。 ベンちゃんは多産系の女性で、後には何人も子女をもうけたけれども、この時期はずっと愛人のままだった。 その理由は、おそらく源氏物語の紫の上と同じで、まだ15才未満だったからだろう。 しかし、ベンちゃんは、30才をこえても子供を産みつづけた。 これは戦場近くまで曹操を追いかけて、いつも寝所を一緒に過ごしていたからである。 まさに独壇場(笑。 ベンちゃんが気が気でなかったのは、これも理由がある。 正妻に子がなかったので、曹操は若過ぎるベンちゃんを愛人にキープしたまま、劉氏から第二夫人を迎えることになった。 いろいろな諸伝をつきあわせると、この劉夫人の実家、つまり実父は、宦官たちとつながりが深く、後に董卓にも隷従して権勢を振るいつづけた劉某であったらしい。 これは政略結婚であった。 劉氏は男子の双子を産んだが、一人は早く死に、長男の曹昂だけが初陣らに参加するまで成長した。 しかし、劉夫人は早く亡くなり、その墓も建てられなかったらしい。 曹操は晩年になり、曹昂をしのんで「人間にもし魂があって、死後の世界で曹昂の霊魂にめぐりあったとしたら、母の墓はどこなのかと聞かれることがつらい」と嘆いている。 墓があれば、霊魂は存在する。 祭祀が行われるから、そこに霊魂は実在するわけだ。 逆に言うと、墓がない死体は霊魂がさまよって祭祀を受けられない。 曹操は劉夫人の遺体が行方不明であることを嘆いた。 洛陽の深窓の令嬢が、どうして遺体不明の運命にあって死亡したのか。 間違いなく、董卓の乱で洛陽全市が大混乱する中で行方不明になってしまったのだろう。 ベンちゃんは曹操の遊び仲間たちと昔から気楽に交際していたので、曹操が勝手に洛陽を脱出しても、すぐ助けを求めることができた。 このときに、あの袁術が、わざわざベンちゃんに使いを走らせて、「曹操は死んだぞ」と申し入れをしたということになっている。 その意図は明らかで、袁術は「オレのところに来い、愛人にしてやる」とベンちゃんを誘惑しようとしたのである。 袁術は死の直前に追い詰められるまで、裸の女たちに囲まれていたという好色な男。 ベンちゃんはその誘いを蹴って、幼児の曹ヒを連れ、曹操の故郷に行く決意をした。 これが運命の別れ道だったのである。
Oct 3, 2007

□謹告□ 知る人ぞ知る連載【曹操言行録】が近日に単行本として出版される運びとなりました。 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。作画・Ms.KANZAKI■第12回■ ★曹操の女性観 その2★ それにしても哀れを極めたのは劉夫人。 曹操は最初は「くだらん政略結婚だ」とシラけていたと思うが、子供ができたのだから情が生まれたのだろう。 それは政略結婚という枠組みの中でも、ひたむきに愛情を求めた劉夫人の人柄にほだされたものだと考えられる。 董卓の乱は、その令嬢を行方不明に。。。おそらくは異民族の兵士たちに拉致され、なぶりものにされて殺害されたのだろう。多くの若い女性たちとともに。 曹操はそうした痛惜の念があって、女性には特に気を使うようになった。 たとえば呂布の反乱を鎮圧したとき、敵将たちが処刑された後、呂布に加担して曹操を裏切った古くからの知人たちは「慈悲があるなら、わが妻子を頼む」と願い出て、曹操も泣きながら承諾したという記録がある。 戦争は、多くの犠牲者とともに、たくさんの未亡人たちをつくり出した。 曹操はそのことにも注意深く配慮した。 秀吉が少女の淀君姉妹を落城寸前に柴田勝家から引き受けた話は、城が落ちた後に城中の女性たちは占領軍兵の乱暴狼藉の餌食になったことを背景としている。 曹操は、このことを嫌い、憂慮して、戦争の後の処理として、多くの未亡人たちに救済と保護の手を差し伸べたのである。 感激したのは未亡人たち。 彼女たちも政略結婚、あるいは男性の欲望の犠牲者だった。 そこへ曹操の無償の優しさにふれると。。。。。 曹操が敵将たちの未亡人たちを食い物にするプレイボーイだという噂が広まったのはやむをえない。 曹操は自発的なフェミニストだったということがいえるのではないか。
Oct 2, 2007

□謹告□ 知る人ぞ知る連載【曹操言行録】が近日に単行本として出版される運びとなりました。 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。作画・Ms.KANZAKI■第10回■ ★曹操と許劭のつながり★ 許劭という人物は、みんなも知っているように、若い曹操のことを「治世の能臣、乱世の姦雄」と評したことで知られている。 許劭は「月旦表」という人物鑑定のガイドブックを公表し、ミシュランのグルメガイドのように人材の評価を論じた。 その中にはまったく無名の人物、あるいは「王佐の才あり」と評定された子供、ジュンイクもいたのである。 面白いことに袁紹・袁術などは許劭との交際は見当たらない。 袁術は、その人間からして許劭は敬遠しただろうが。。。 どうして曹操は許劭から「治世の能臣」という破格の評価を受けたのか。 そして「乱世の姦雄」とは具体的にどういうことなのか。 またしても従来の三国志研究の愚連隊たちは、こうした基本的な疑問に何も答えていないことがわかるだろう。 まったく口先だけの馬鹿な眠たいヤツラだぜ。 まず「治世の能臣」ということについて。 これは北部尉として、綱紀粛正の改革で洛陽全市民に一世風靡した時期の世評と無関係ではないだろう。 そもそも許劭との出会いのきっかけをつくったのは、後漢の最高官・太尉の橋玄の言葉である。 「曹操君、君は確かに有名になったが、まだ官界や文化人たちに名声があるわけではないぞ」 「橋玄さま、私はどうしたらいいのでしょうか」 「許劭に面会して、君の人物を鑑定してもらいなさい。大丈夫だ。私が貴君を抜擢したのだから」 ここで推理されるのは、北部尉の抜擢は太尉・橋玄の決断と推挙によるものだということである。 もちろん橋玄は許劭と面識も交際もあったはず。 しかし、許劭は頑固に、しかし手前は柔らかに面会を謝絶しつづけた。 それは曹操がいかに清廉の志士であるとはいえ、やはり宦官の養孫ということに偏見をもっていたからで、許劭としても葛藤があったものであろう。 ただ、それだけでは「能臣」という評価はない。 文化人の代表格だった許劭を「これはすごい」と唸らせるものは何だったか。 後に議郎に就任したとき、ただちに皇帝に政治改革の意見書を奉呈したわけだが、その準備を、この時期から営々とやっていたのである。 その草案を、曹操は許劭に見せた。 その文才と志気に感動した許劭は「能臣」という評価を即座に与えたのである。 では「姦雄」とは。 「姦」というのは、相姦にせよ強姦にせよ、印象のよくない漢字である。 しかも女性が関係している。 「雄」というのは、曹操自作の「青梅、酒を煮て英雄を論ず」の詩にもあるように、動物のオスの意味ではない。 人材として傑物を意味する。 曹操たちがよく引用した歴史的人物名としては、前漢時代に皇帝廃立のクーデターを断行した霍光があげられる。 西域遠征で武帝に仕えた将軍・霍去病の異母弟である。 この人物は非常に偉大な政治家として評価されているわけだが、皇帝を擁立して一ヶ月もたたないうちに廃止したり、これはなかなか文化人たちの評価が分かれるところだった。 私の解釈するところ、「姦雄」というのは、英雄ではあるが、そのやり方が尋常ではない、むしろ君臣の境目を踏み越えてしまう人間に対する警告であった。 曹操の強引な手法は、なるほど鮮やかで効果は抜群だが、従来の前例にとらわれない、したがって保守的な人間たちからは批判の対象になりやすいものだった。 そして、許劭は実際に曹操の人物を評価して、「月旦表」にも姓名を掲載した。 そのことによって、曹操は単なる有名人ではなく、一流の文化人たちと交際が認められるような人間として成長していったのである。
Oct 1, 2007
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