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2021.06.20
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カテゴリ: 読谷村



沖縄本島中部の西海岸沿いに読谷(よみたん)村があります。読谷村の西側に「喜名集落」があり、国道58号線を中心に西側に住宅地、東側は米軍嘉手納弾薬庫地区の森に覆われています。「喜名(チナー)」の歴史は古く琉球最古の歌謡集「おもろさうし」には「きなわ」の名前で登場し、各村の生産高を示した17世紀の文献「琉球国高究張」には「喜那村」と記載されています。「ムトゥチナー」「ニシンダムラ」「シミチムラ」の3つの村が統合して「喜名村」になったと伝わります。


(読谷山村道路元標)

「道路元標」とは1933年に公布された道路法により、全国の各市町村に一つづつ設置されたもので市町村における道路の基準点を示す石標です。沖縄でも各市町村に「道路元標」が設置されていましたが、そのほとんどが沖縄戦で失われてしまいました。「喜名番所」の入り口に設置された「読谷山村道路元標」も旧道路法の規定に基づいて一辺が25センチ、高さが60センチの四角柱で、かつての街道に向けて建てられています。


(喜名番所/読谷山役場跡)

「番所」とは間切(まぎり)と呼ばれる琉球王国時代の地方行政区に置かれた拠点施設で、現在の役場に相当します。「喜名集落」は首里と国頭(くにがみ)地域の中間にあります。徒歩で双方の地域から朝に出発するとちょうど夕方頃に着く地域的位置であったため、旅人が宿を求める宿場町として賑わいました。その交通の要の地点として「喜名番所」が置かれ、1853年には来沖したペリー提督の調査隊一行もこの番所を訪れた記録が残されています。


(読谷村教育発祥の地碑)

「喜名番所」の北側に「読谷村立喜名小学校/幼稚園」があり、敷地の東側に「読谷村教育発祥の地碑」が建立されています。1882年(明治15年)、この地に「読谷山小学校」が読谷村内最初の公的教育機関として開校し、村中の子供達がこの学校に通いました。戦後は小中併置の「喜名初中等学校」として認可され、後に村内最初の高校がこの地に「コザ高校喜名分校」として設立されました。この分校はその後「読谷高校」として独立認可され、現在地(読谷村伊良皆)に移転したのです。


(山吹の碑)



(さくら之塔)

「喜名集落」北部で国道58号線沿いの丘に「山吹の碑」「梯梧之塔」「さくら之塔」の慰霊碑が建立されており、日露戦争、支那事変、沖縄戦において戦死した戦没者の氏名が刻まれています。「梯梧之塔」には「さきほこる はなびらちりし でいごじゅに くれないそめて なつはきにけり」と謳われ、「さくら之塔」には「やまざくら あらしにちるも はるくれば いろかはたかく さとにみなぎる」という詩が刻まれています。この地には旧日本陸軍や海軍の兵士のみならず、沖縄の無名戦没者の魂も祀られています。


(喜名古窯跡)

(喜名古窯跡の内部)

「喜名古窯(喜名焼)」は沖縄の代表的な古窯の一つで、壺、甕、厨子甕、鉢などの様々な種類の器が現代に伝わっています。1250〜1280度の高温で焼かれ、固く焼き締まっているのが「喜名焼」の特徴です。15〜16世紀に行われた南蛮貿易の中で、泡盛のルーツと言われるシャム(タイ)の蒸留酒「ラオロン」と共に甕の製造技術が沖縄に伝わったとされています。「康𤋮九年(1670年)」の銘書がある「喜名焼厨子甕」が発見されており、沖縄県立博物館に所蔵されています。


(マチガー/松川井)

「喜名集落」の北西地区は「松川原」と呼ばれ、喜名小学校の北西側に「マチガー/松川井」があります。かつて「松川原」地区の住民の飲料水として重宝されてきました。現在の井戸はコンクリート製の蓋で閉じられていますがウコール(香炉)が設置されており、お賽銭が供えられ住民が水への感謝と神に祈る拝所となっています。ちなみに「松川原」の南側は「中原」地区があり、集落の西側は「喜名原」「前原」「中地原」「東原」「西平原」「後間原」地区に分かれています。


(喜名観音堂)

(土帝君/トゥーティークー)

喜名小学校の西側に「喜名観音堂」と「土帝君」が祀られる聖域があります。「喜名観音堂」は1841年の旧暦9月18日に金武町の「観音寺」より勧請したもので、建物は瓦葺で四周は石が積まれ内部には千手観音が祀られていました。現在でも旧暦の9月18日には「喜名集落」の住民により観音堂拝みが行われています。観音堂の西側には農業の守護神である「土帝君」が祀った石造りの祠があります。祠内には霊石、ウコール、花瓶が設置されており、集落の住民により大切に祈られています。


(ボージガー/坊主ガー)




(西原屋取西井戸之跡の碑)

(西原屋取東井戸之跡の碑)

「喜名集落」の西側にある「伊良皆集落」の「西原地区」と隣接する場所に「西原屋取西井戸之跡の碑」と「西原屋取東井戸之跡の碑」が建立されています。「屋取(ヤードゥイ)」とは士族の帰農によって沖縄本島の各地で形成された小村落のことで、 18世紀の初頭に政治/経済/文化の中心地域であった首里から沖縄本島の農村地域に「良人(ユカッチュ)」と呼ばれる士族の人口移動がおこなわれました。「西原地区」の「屋取」が使用していた井戸跡として現在は石碑が建てられています。


(喜名公民館)

(番前池跡)




(喜名馬場跡の南側入り口)

(喜名馬場跡の北側入り口)

国道58号線沿いに「喜名番所」を中心に南北に300メートルほど延びる旧道一帯は「チナーンマイー(喜名馬場)跡」と呼ばれ、かつて「喜名ウマイー/ンマイー(馬追い)」という「琉球競馬」が行われた馬場跡があります。明治末期頃まで盛んに「与那国馬」による競馬が行われており「琉球競馬」は馬の速さを競うものではなく、馬の走り方の美しさを競うものでした。戦前までは道の両側にあった大きな琉球松がその名残りを留めていたのです。現在は「喜名大通り」の名で親しまれ、数多くの飲食店や駐車場が整備されています。


(西森御嶽/ニシムイウタキ)

「喜名集落」の東側は米軍嘉手納弾薬庫のフェンスが南北に横断しており「西平原」と「東原」地区には立ち入りができませんが、フェンスに隣接して「西森御嶽(ニシムイウタキ)」があります。この御嶽がある周辺が「喜名集落」発祥の地とされており、御嶽の西側に旧家や祭祀場が位置しています。この場所から更に西に向かって村を切り開きムラウチ(集落)を形成して行きました。その後、水源を確保する湧き水や井戸が多数存在する現在の国道58号線沿いに人々が移り住んだと考えられます。


(世立火の神/ヨダチヒヌカン)

(逢拝所/ウトゥーシー)

「西森御嶽」は「喜名」のノロや神人らによって祭祀がなされた神聖な場所であり、かつては一般の人々が立ち入る事が出来ませんでした。1713年に琉球王府によって編纂された「琉球国由来記」にも「喜名の御嶽」として記載されています。「西森御嶽」には石造りの祠が2つあり、西側の祠には「世立火の神」が祀られ東側の祠は「ウトゥーシー」と呼ばれる逢拝所となっています。この「ウトゥーシー」は「喜名集落」発祥の地である「ムートゥンナー」に向けて建てられています。旧暦12月24日の御嶽願に集落の無事や発展に感謝と祈念を込めて拝まれています。


(郵便局跡)

昔から多くの人々が行き交った「喜名集落」は他の地域からの流入者(寄留民)も多く、廃藩置県以降は地人(元からの住民)と寄留民による独特な村が形成されてきました。沖縄戦後「喜名集落」と周辺の耕作地が米軍に強制接収され、現在地への移転を余儀なくされました。しかし、戦後の混乱と困難の中でも「喜名」の精神である「和衷協力」の旗印のもとに先進的な村作りが営まれ、今日の「喜名集落」の発展を迎えているのです。






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最終更新日  2022.03.06 23:32:20
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