全27件 (27件中 1-27件目)
1
相手がそうあるから自分がこうしたのであるという人たちは魂の勉強においては落第であることを日本の指導者は知らない。相手はどうあっても自分がそのために心に歪をつくらないように、心を正しくして勉強し魂を向上していかなければいけないのである。男達が、自分が間違ったことをすることを女のせいにし、女達が自分が幸せになれないことを男のせいにして、お互いにどちらもが自分たちの行為の責任を相手に押しつけて、自らの責任とせず、相手にだけ反省を求めて対立している間は、男女の問題は永遠に解決しないであろう。自分が、それぞれ男または女という立場でこの人生を生きなければならない現実を直視して、男は男として生まれたことを喜び、女は女として生まれたことを喜び、男は男として生まれることがなかったら絶対に体験できないであろう体験をし、女は女でなければ絶対に体験できないであろう体験をして、それぞれに男は男として、女は女として生まれてきたことを心から喜ぶということでなければ、真の人生を幸せに生きたとはいえないのである。男が男として生まれてきたことを損だと思い、女が女として生まれてきたことを損だと思い、男が女らしくあろうとし、女が男らしくあろうとすることの中からは、絶対に人生の幸福は生まれてこないのである。男は男の持たない女の良さを讃える前に、まず自分が男であることを自分で讃えなければならないし、女は女の持たない良さを男が持っていることを讃える前にまず自分が女であることに誇りを持たなければならないのである。自分が心の中に満たされないものを持っていながら人を讃えてみても、それは真に讃えたことにならずに羨望は相手に対する嫉妬が含まれているから、そのような讃え方は表面だけになってしまって心の中には苦しみをつくり出してしまう。正法は心からということを大事にする道なのであるから、二重人格的な偽善の道は歩まないのである。夫婦の間に真の愛があればどんな苦しみでも乗り越えて幸せを得ることが出来るが、愛情がなく、ただ経済的理由で結ばれた夫婦は金の切れ目が縁の切れ目で簡単に離縁に発展してしまう。愛はよく耐えしのぶ。よく耐えしのぶことが出来ないのは愛がないからである。真の喜びは、与えられた時よりも与えた時にあることを知らなければいけない。よく与えることが出来た者がまた与えられるのである。愛を得んとするものは、まず相手に愛を与えることである。与えられることを待っている暇があったら、その暇に与えることをすることである。夫から愛されることを求めるのであったら、まず夫の愛を与えることであり、妻から愛されることを願うならば、まず妻に与えることである。正法誌N037号1981年 9月号より抜粋人生を変えたいときに、背中を押してくれる言葉が、ここにある。人生の目的を知ることができれば、実りある人生を歩む第一歩が踏み出せる。心と魂に焦点を合わせて生きれば、満ち足りた日々を送ることができる。
2009.07.11
コメント(0)
自分ほど出来の良い、いい妻はいないと思っていたのに夫に裏切られたという人は確かに働き者という点では立派であったかもしれないが女らしさに欠けていたのである。男が女遊びをしたり、二号をつくったりすることを世の多くの人は男の甲斐性だといっているが、世間一般がそう考えていることに便乗して、妻への不満がそういう形になって現われている場合が多いことを、女の人たちはよく考えなければいけないのである。働き者の気の強い女に養われていた男が、気のやさしい女を求めるということがどういうことであるかというと、男はやはり男として女から立てられたいという心を持っているということであるし、働き者の収入の多い妻が、たとえ仕事はそのままつづけていても女らしい思いやりをするようになったときに夫の酒がやみ、夫の便秘が治ったということは女として生まれたら、また妻となったら女らしい妻とならなければならないということがどんなに大事であるかということを教えるものである。女の人の中には結婚もせず、子どもも持たず、男と同じような仕事をすることを通して魂の勉強をするために生まれてきている人がいる。そういう人は家庭などとどまっている気にはなれないのである。しかし、そういう人は限られた極く僅かの人である。そういう特殊な使命と立場にある人の考えを、普通の家庭の主婦にも持ち込もうとするから混乱が起こるのである。自分は、男としてどちらかといえば女性的要素が多いという人は、どしどし男らしさを学ぶことであるし、女であって女らしさが少なくどこか男っぽく男に負けまいとする心の起こる人は、女らしさ、女らしくあることを学ぶことである。そうすると、それまで行き詰っていた運命も突然開けてゆくのである。このようなことを書くと、女が良くなれば夫もよくなるのであるということにはなるが、正法がわかったら、たとえ相手がどうあろうとも相手がそうあるから自分がこうなったのであるということでなく、相手は相手として充分に相手を生かしながら、自分は自分で自分を大きく豊かに広く魂を向上させていくことができるのである。自分がそうなることによって相手もまた自然に変わっていくのである。相手がそうあるからといって自分の心に歪をつくり苦しみをつくり出す人は、まだ心の大事さがわかっていないのである。だが、現在の日本の宗教指導者達は女が女らしくなく、妻が妻らしくない結果、その夫が間違った行為に走った場合、その妻だけに反省を求めてその夫を反省させることはしない。正法誌N037号1981年 9月号より抜粋悩み、苦しみ、迷い…誰にも頼らず、自分ひとりで解決できる『反省・内観』。心にかかった雲を取り去って、新しい自分に生まれ変われる方法として注目を集める『内観』と『反省』を誰もが自宅で実践できるよう、著者自らの経験を踏まえながらやさしく解説した『反省・内観』の入門書。
2009.07.05
コメント(0)
奥さんは美容院でご主人は小学校の校長先生という人があった。その校長先生は碁が好きで、毎晩碁を打ちに出る。すると必ず酒を飲んでまともに真っ直ぐに帰ってきたことがない。必ず、どこかの道傍に酔い倒れている。それで毎晩息子を連れて探しに行く。翌朝になって、「あなたは校長先生でしょう。人の模範にならなければならない人がそんなことでどうするんですか。みっともない、少しはしっかりしてくださいよ。恥ずかしくて町を歩けもしない」と奥さんは叱言をいうのである。「うん、わかった、そうするよ」といっていてまた酔い倒れるという。ご主人の校長先生の収入よりも奥さんの美容院の方の収入が何倍もあった。そういう人があった。また、奥さんが旅館の家付き娘で、ご主人は養子で小学校の校長をしているという人があった。この場合も、ましてその奥さんが家付き娘ということもあって「あなたの校長の月給なんか、私の収入の何分の一だ」とやられるわけである。校長という立場上、世間体があって、女遊びをするとか、女を作るとかそういうことは出来ない。前の場合は、美容院をやっている奥さんのほうが「どうしたら主人の酒飲みが止まるのでしょうか」という相談であったが、後ろの場合は、その校長先生が「私は便秘で困っているんですが、1ヵ月も便が出ないことがあるんです。ものは食べられなくなるし、あくびをするとうんこがくさいし、腹が張って苦しくて仕方ないから家内にピンセットでほじくって出してもらうのですが、コンクリートみたいにカチカチになっているんです。どうにかして便が気持よく出る方法はありませんか」というのであった。「ああ、それはあなたの病気ではない、奥さんの病気です。ちょっと奥さんをここへ呼んで下さい」といって来てもらった。「奥さん、なるほどあなたは家付き娘でご主人は養子かもしれませんが、結婚したら妻は妻らしく夫に仕える、夫に愛を捧げるということが大事なので、自分が家の中心みたいに思って、まして主人の給料は私の方の旅館の方の収入より少ないと夫を軽蔑していたのでは本当の夫婦とはいえない。ご主人がずっと便秘を続いているのは、奥さん、あなたがご主人を軽く見ておられたことに対して、いつも心の中で反発を感じて、学校の先生をしているがゆえに派手な喧嘩をするわけにもいかないということで、今までずっとこらえにこらえてこられた。そのストレスが便秘という形で現われているんです。ご主人がこれまでにどんなつらいおもいをしてこられたか、あなたは一ぺんだってご主人の気持ちを考えて見られたことはないじゃないですか。あなたは働き者かもしれませんが女としては失格です」ご主人は「先生、私が言いたいと思っていたことをよく言ってくださいました」といわんばかりに涙を流しておられた。奥さんは初めて男の心、夫の心というものを知られたのであった。奥さんは自分ほど働き者のいい妻はいないと思ってこられたのであった。正法誌N037号1981年 9月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)第1章 祈りのことば(人類救済の祈り/人類救済の祈り(実践)/天と地のかけ橋の祈り/神のみ業 ほか)/第2章 反省瞑想の言魂(反省瞑想/八正道1・正しく見る/八正道2 正しく思う/八正道3 正しく語る ほか)
2009.06.27
コメント(0)
もっとも男らしい男は、もっとも女らしい女とウマが合って結婚をするが、女らしい男は、男らしい女を妻にして自分の足らない点を補おうとする。男女は次のような割合で結婚する。男らしい男の人が、男らしい女の人を妻にすることもめったにないし、女らしい男の人が、女らしい女と結婚をすることもめったにない。男性的要素というのは外に向かって働く、職業的要素であるという。女性的要素は内に向かって家庭で働く要素であるとワイニンゲルは言っている。だから、男性的要素を強く持っている男は外に向かってバリバリ仕事をするが、女性的要素の多い男は外での仕事は下手で、女のように家の中でご飯焚いたり洗濯掃除したりすることが好きだという。女の人で男性的要素の多いということは家庭のことよりも外での仕事が好きだという。いわゆる職業婦人というタイプである。昔から髪結いの亭主とよく言われるが、奥さんの方は髪結いでてきぱき仕事をすると、亭主の方は台所でご飯を炊いている図がよくあったものであるが、男性的要素の強い職業婦人は、結婚の相手を選ぶときに、男が家にいて炊事もしてくれるというような女性的要素の強い、気のやさしい男とウマがあうというのである。ワイ人ゲルの本を読んでから世間の夫婦を見渡してみると、気の弱い亭主に気の強い奥さん、働き者の女に仕事嫌いな亭主、男らしい夫にお淑やかな奥さん、まあまあという亭主には似たり寄ったりのまあまあという奥さん、ということで大体あたっているようであるし、個人指導で問題になり、夫に対する不満が多いというのは、男性的要素がの強い働き者の仕事を持っている妻が、女性的要素の多い、気の弱い、甲斐性のない夫を持った場合であった。働き者の女のヒモになっているのは気の弱い男であり、映画や芝居に出てくる伝法肌の勇み肌の女が持っているのは気の弱いやさ男である。こういうことからいえることは、色白の生白いやさ男に心がひかれるという女の人は、多分に男性的要素の強い、気の強い、男みたいな、女としては失格だという人であるということである。女としては、男らしい人に魅力を感ずるということが正常である。それと同様に、男であって、気の強い女の人に心を惹かれるというのは正常ではない。男はやはり女らしい人に魅力を感ずることである。正法誌N037号1981年 9月号より抜粋第1章 霊世界の幻/第2章 死後を見る霊眼/第3章 カイラスの大聖者/第4章 エリヤと対話した文豪/第5章 赤十字看護師の臨死体験/第6章 須弥山を訪問した聖女/第7章 生と死の法則 エドガー・ケイシーのリーディング/第8章 天国の知恵
2009.06.19
コメント(2)
人間が男と女とにつくられてあるのは、男は男として、女は女として、どちらもその特性、役割を充分に発揮して魂を向上させていくためである。男性という肉体を持って生まれてきたら、男性らしく生きることがその人の魂の向上になるのであり、女性という肉体を持って生まれてきたら、女性らしく生きることが魂の向上になるのである。問題は、男でありながら、女らしい男がいるし、女でありながら男顔負けの強い女がいることである。女性的要素を多分に持った男は女装をして女らしく振舞おうととするし、男性的要素を多く持った女は、男らしい服装をそて男らしく振舞おうとする。そういう化け物みたいな人間は奇形であって珍しい存在であるかもしれないが、そういう人は人生の真の意義を知ることはできない。魂を磨くという点では失敗者なのである。女性的要素を多く持った男は、自分が女らしいことを自覚しているだけ、いかにしてもっと男らしくなるかを勉強しなければならないのであるし、男性的要素を強く持った女は、、その男性的要素を捨てて、いかにして女らしくなるかを勉強しないと幸福になることは出来ないのである。オットー・ワイニンゲルは十七歳で二十五カ国語をマスターしたという天才であった。二十代の若さで死んだのであるが、この人の書いた「性と性格」を私が読んだのは二十歳のときで、今、この本は書店では見つからない。だから、私の記憶によってしか書くことができないのであるが、その本の中に、男と女はどういう割合で結婚するかというのがあった。参考になるのでお知らせする。「男も女も、どちらも、男性的要素と女性的要素をもっている。両方を足して十になる割合で性格を持っている。例えば、もっとも男らしい男というのは、男性的要素が九つあって、普通の女も及ばないような愛の深さ、女らしさを一つ持っている。もっとも女らしい女というのは、女性的要素が九つあって、いざとなったら男もたじたじとさせるような男らしさ、男性的要素を一つ持っている。その反対に、女らしい男というのがいる。それは女性的要素が九つあって男性的要素は一つしか持たないという男である。男らしい男顔負けの女がいる。考えること、すること男そっくりだという女がいる。そういう女は女性的要素は一つしかなくて男性的要素を九つ持っているのである。正法誌N037号1981年 9月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)序章 運命の10則/第1章 大自然の法則が運命の原点/第2章 あなたにも特殊能力がある/第3章 波動が幸・不幸を決める/第4章 人間の主体は魂です/第5章 あなたが作る、あなたの運命/第6章 見える世界と見えない世界/第7章 神と人間/第8章 ミレニアムと新創世紀
2009.06.12
コメント(0)
女が良き母となることができるためには、その子の父たるべき人を尊敬するということがなければならない。その母が、その子の父を軽蔑していては良き子を育てることはできないのである。妻がその夫を軽蔑しているところでは良き子は育たない。不良の子供を持っている母を男達は尊敬する事はない。女が良き母となるためには、その夫との調和が大事である。原始時代は母系家族であったし、家庭は母親が中心であった。そのために、母というものは、あの太陽が一切万物を包容して全てのものに光と熱とを与えて万物を生かしていると同じように、母は家族の者すべてに愛をそそぐ存在でなければならないということであった。それが(平塚)らいてうさんの「母性尊重」の精神であった。太陽のような一切を生み育み育てる普遍的な愛を女は持て、それは母となることによって達成されるのであるということであった。マザーテレサ女史が来日されて、その愛が讃えられた。マザーテレサは自分を捨てて恵まれない子供達のために奉仕されたのである。愛とは自分を捨てて、自分の全てを相手のために奉仕し、相手を生かすことである。愛は表面的な献身を必要とする。夫婦の愛と言えば、夫は妻に、妻は夫に、そのすべてを捧げて奉仕することである。自分は奉仕せずにいて、相手にだけ奉仕を求めることはエゴであって愛ではない。キリストは「汝らは地の塩なり」といわれた。塩が塩としての働きをするには、塩は自らの形をなくして相手に溶け込まなければならない。塩が塩のままでがんと溶けずにいたら、ものの味を生かす味付けにはならないのである。男に負けてなならぬと、男のために生きてはならぬと自分を固くしている女は、相手を生かすことはできない。正法誌N037号1981年 9月号より抜粋ベストセラー『「原因」と「結果」の法則』のジェームズ・アレンが、もっと生きるのが楽になるシンプルな方法を教えます!「恵みがほしければ、善意をまくことです」「悪いことは、姿を変えた良いことにほかならない」「運のいい人とは、ねばり強い努力を続けてきた人である」など、愛と希望に満ちたことばが満載。落ち込んだときにぜひ読んでみてください。すぐに元気になれるに違いありません。
2009.06.05
コメント(0)
さて、その天変地異によって、あなたたちが信じていた教祖が死に、拝んでいた偶像が焼け、流され、土中に埋没し、姿も形もなくなったら、あなたたちの信仰はどうなるというのであろうか。対象物はなくなったのであるから、信仰はやめたということになるのであろうか。そういうことを信仰とはいわないはずである。地球にどのような天災地変があろうと、太陽も、月も、太陽系の惑星も、そうして宇宙全体はそのまま自然の姿を保っているのである。唯物論者は地球を死物だと考えているが地球は生きているのである。馬の尻に大きな虻がとまると、馬は筋肉をぶるぶるっとふるわせて虻を払い落そうとする。それと同じように、地球の生命はにふさわしくない不自然な心を持つと、その人たちが反省しない限り、地球の自浄作用が起こる。それが天災地異である。どんなに天災地異があろうとも、地球上の人類が全部死ぬということはない。残る者とそうでない者とがあり、また災害を受ける地区と受けない地区とがある。残るか残らないかは、その人の心が明るいか暗いかによる。誰を信じているか、なにを拝んでいるか、すなわち他力信仰は全く関係ないのである。どんなに天災地異で人類が減ったり増えたりしようと、そういうことには関係ないのが法であり、いつの場合でも残る人々は、神の心と調和している神がつくられた正法を信じている人のみである。正法は永遠なのである。釈尊は過去に七回肉体をもって現われて正法を説かれた。正法を正しく知って説かれた釈尊は「自分が肉体を持って現われようと現われまいと、正法は永遠に存在するのであるから正法を信じなさい」と説かれたのである。正法を信ぜよと説きに来られる方を如来というのである。如来が来生されるのは神の慈悲によるのであるが、その如来の説法を信ずるかどうかは、一人ひとりの自由に任されている。信じて救われる道を選ぶか、欲望のままに生き、また他力信仰をして滅びの道を選ぶかは、その人の自由である。人類の長い歴史の中で、一貫して説かれた永遠不変の正法こそ、われわれの心のよりどころとしなければならないものである。この次にまたいつか釈尊が現われて正法を説かれる時が来る。その時もまた釈尊は「肉体の私を拝んではいけない、私が説く正法を信じて、それをあなた方の心のよりどころとしなさい」と説かれるのである。そしてまたつぎも人間の手でつくったものが神や仏であるはずがない。正しく神がつくられた法を信ずることである。正法誌N037号1981年 9月号より抜粋わたしたちは元来、国境や民族・宗派の壁を軽やかに超えて、スピリチュアル民族という一つの存在であるはずなのに―。既存の社会システムの綻びは、もはや隠せない。『すべての人の心に花を』で知られ、ネイティブ・アメリカンやインドの精神世界にも詳しい音楽家・喜納昌吉と、みずからのルーツや経験に耳を傾けながら日本の神道研究に新たな視座をもちこんだ宗教学者・鎌田東二のふたりが、霊性の不遇を嘆き、霊性のネットワーキングの復活(ルネッサンス)を提唱する。霊性の知恵・叡智が、物質文明に侵されて硬くなった心を解きほぐす。それは神話であり、おばあちゃんの知恵であり、ユーモアである。目には見えないが、有機的な生命の流れの根底にたしかにあるはずだ。
2009.05.16
コメント(0)
ではなぜ今から二千年、あるいは三千年前の人々は物質的に貧しい生活をしていたか。今から一万二千年、アトランティス大陸が陥没したことは今はもう知らない人はいない。その時の天変地異で地上の人口は極端に減少したのである。その時、残された人々の子孫は徐々に増えて現在に至っているのである。物質的に貧しい生活をしているからといって、心まで野蛮だと考えることの間違いをもう一ついっておこう。この次いつ天変地異があるかもしれない。現在日本の人口は一億一千万であるが仮に天変地異があって、火山の爆発、地震、津波、隆起、陥没、日本列島がひっくり返って、日本の人口が奈良朝時代と同じ六百万人に減ったとしよう。あなた方の県の人口は何人であるか、全国に六百万の人口しかなかったとするならば、しかも天災地異、地震、火山の爆発等いろいろなことがあった後であるから、今のような立派な家に住むこともできないし、立派な洋服などもないし、おいしい食事なども出来ないし、雨をしのぐためには横穴を掘って住まなければならないし、食べるものは自然の野草などを食べ、着るものは木の皮など剥いで隠さなければならないことになる。そういう生活をしたからといって、その人たちが猿に近い考え方をし、心を持つといえるであろうか。猿は猿であり、人間はあくまでも人間なのである。ダーウィンの進化論に騙されてはならないのである。正法誌N037号1981年 9月号より抜粋のびのびと生きるために!精神世界から見た心の特質を分析し、心の世界の構造とその働きを追求した一冊。 【目次】(「BOOK」データベースより)心の起源/苦痛と喜び/泣く・笑う/忘れる/心の世界の特徴/心の世界の段階/心のいとなみの隠れた深み/心と精神/心の開発
2009.05.06
コメント(0)
現在より以前に、現在より以上の文明を持っていた人類がいた。しかし、それらはみな暗い想念を持って神の光をさえぎった結果、戦争となり、天変地変となり、ホンの一握りの人(正法を信じている人)を残して、すべて滅びてしまった。そうならないようにと、神は慈悲を持って、神の心を一番よく知っている如来(メシヤ)をつかわして、正法を説かしめられたのであったが、多くの人は他力信仰に走って偶像を崇拝し、心を明るくすることを怠ってしまった。自分の心を明るくするのも自力である。他力信仰をしている人たちもまた、ダーウィンの進化論にとらわれて、釈迦、キリスト出現から現在に至るまでは人間としての文明文化を持ってきたと考えているが、それ以前はそのままずっと猿から類人猿へという人間の存在を考えているし、信仰しない人達は、弥生、縄文時代からすぐ先は猿であったというような考え方をしている。そうではない。過去に人類は、現在より以上の文明を持ったことが何回もあるのである。現在わずかばかりの学問をしたからといって、昔の人は全部猿みたいであったと思うのは無知も甚だしいと言わなければならない。現代の文明がいくら素晴らしいからといっても、ピラミッド一つつくることはできないのである。現代の人々は、自分たちだけが文明人だと思う心を捨てて、過去に素晴らしい文明を持った人たちがあったことを知って、もっと謙虚にならなければいけないのである。ではなぜ今から二千年、三千年前の人類は穴居生活したりして野蛮であったのか。唯物的な物質中心の考え方をしている人は、物質的に不自由な粗末のな生活をしているとすぐ野蛮だというがそれは間違っている。なるほど物質的には貧しい生活をしていたが、だからといって心まで貧しく無知であったということではない。心は現代人の人々よりも、もっときれいな人もたくさんいたのである。それならば、インドの子供たちは実に貧しい。だからといって豊かな生活をしている日本の子どもたちより心がきたないであろうか。そんなことはない。あのインドの子供たちの澄み切った眼を見よ。残念ながら日本にはあんなにきれいな眼をした子供たちはいないといってよい。目は心の窓という。心は汚いが眼はきれいだという人は一人もいない。だから、物質的に貧しいからといって、精神まで貧しく野蛮だと考える物質中心の考え方はやめなければならないのである。正法誌N037号1981年 9月号より抜粋ほんの少し意識(ものの見方)を変えるだけで、日常的に見なれた風景が、とても神秘に満ちたものに変わってくる。「見えない世界」に対して心をオープンにしていくことで、私たちは真に自由に生きられるようになる。
2009.04.26
コメント(0)
古代インドの民族大叙事詩「マハーバーラタ」の中に原子爆弾のことではないかと騒がれている文章があるという。「マハーバーラタ」は今から三千五百年前につくられたものであるといわれているが、その中に書かれているものは、それ以前五千年にさかのぼる伝説類がまとめられていると いわれる。学者たちがこの文の重要性に気づいたのは、日本に原子爆弾が落とされてからであるという。原爆投下の状況そっくりのことが「マハーバーラタ」に書いてあるというのである。(それは)宇宙の力が詰め込まれたただ一個の飛び道具だった。太陽を一万集めたほど明るい白熱した煙と炎の柱がここぞとばかり輝きつつ立ち奔ったそれは未知の武器であり鉄のいなずま巨大なその使者だったブリシュニとアンダーカの民族をそれは灰に還らせた死体はあまりに焼けただれとても見分けがつかなかった毛と爪は抜け落ち壺はわけもなく砕け割れ鳥たちは白く変わった数刻ののちすべての食物は汚れた・・・…この火から逃れようと兵士たちは流れに身を投じた・・・・火のような物質がだしぬけに現実となっていまなお丘と川と森を火ぶくれにする・・・・動く宇宙と動かぬ宇宙のあらゆる種類の草々がどんどん灰と化してゆく・・・・それはあまりに強力なため地球を一瞬にして破壊できる煙と炎をあげて翔け昇る偉大な音そしてその上に座るものは”死”インドの古典に現在にまで伝えられているこの文章を見て、これは原爆のことだと思わない人は一人もいないであろう。正法誌N037号1981年 9月号より抜粋 第1章 新時代は知恵と創造の心の世紀(時代の流れに乗り遅れないように/金に必要以上に執着する者が淘汰される ほか)/第2章 “世界一”の自覚を―存在はオンリー・ワン(“一の法則”/自分の“世界一”をよく吟味して至福に満たされた人生を送ろう ほか)/第3章 ハートネットへのアクセス(心は全体を表わすもので、心自体はどこにもない/人間に与えられた武器は言葉である。正しい言霊は世を救う ほか)/第4章 人生を正しく楽しむために(悪魔も最後のあがきに突入している/宇宙空界には悪魔と天使と神の想念波動が充満している。人の心はそのどこにでもアクセスできる ほか)
2009.04.21
コメント(0)
釈尊の悟りの中にある生物発生の順序は、生物学者たちが研究の結果、現在到達していることと同じである。微生物の発生~植物の発生~動物の発生~人類の出現、これを学者たちは進化と見たのであるが進化ではない。地球の変化に応じ、やがて人類が誕生して生きていけるようになるために、それまでにない新たな種が突然発生してきたのである。人口が増え、人類が暗い想念を持って神の光をさえぎると、至る所で火山が爆発し、陸は海に、海は陸になり、地殻の隆起陥没があり、ホンの一握りの人を残すのみとなる。その残ったホンのひと握りの人類が、また次第に人口が増えるに従って自我意識が強くなり、人類の暗い想念が神の光を遮って天災地変が起こるということを何べんか繰り返して来ているというのである。今、宇宙の終末、地球の終末を恐れる悲観的な声が高くなってきている。物質文明は発達したけれども、人類の心がきれいになったとは絶対に言えない。ノストラダムスの大予言ような地球の消滅はないが、天変地異が起こってもおかしくないと誰しも考え始めている。原子爆弾がつくられ、いつ核戦争が始まるか分からない危険な状態にある。人類はこれまで同じようなことを何べんも繰り返してきたというのであるから、過去何千年か、何万年か前に原子爆弾を使ったことがあると考えてもおかしくない。正法誌N037号1981年 9月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)アドバイス1 心の安らかさを保つ/アドバイス2 導きに耳を澄まし、ゆったりとしたペースで生活する/アドバイス3 自分の使命を感じ取り、それを実践する/アドバイス4 驚きの体験を受け入れる/アドバイス5 欲しいものは天にお願いし、自分の与えることができるものは与える/アドバイス6 目の前の人を好きになる/アドバイス7 この世界に戻る
2009.04.10
コメント(0)
人間釈迦第一巻 偉大なる悟りより今まで釈尊が悟られたということはすべての人が知っていても、その悟りの内容がどういうものであったかを知る人は誰もいなかった。経典には四諦八正道だったと記録されているだけで外は何もない。釈尊の生まれ変わりであった高橋信次先生が、あの時の悟りの内容はこうであったといわれたものを書く。「人間は、天地創造と共に、神の意識から別れ、神の意志を受け継ぐ万物の霊長として産声をあげた。人間の誕生は、意識界という実在の宇宙に、まず姿を現した。そうして、神の意志である調和をめざす神の子として物質界に降り立ったのである。物質界に最初に降り立った最初の人間を、地上の目で見るならば、大地の一隅に、忽然と物質化されたといえるだろう。(註、日本人はこれを天孫降臨とつたえてきたのである)最初、微生物が誕生した。つづいて植物が発生し、動物が姿を見せはじめた。やがて爬虫類時代を迎え、一時期、地上は荒涼とした姿に変貌を遂げる。恐竜の時代も下火になった今から約2億年前に、人類は特殊な乗り物に乗って、他の天体から飛来した。人類は、神に意志に基ずいて、調和という仏国土をつくりはじめた。当時の人類は、荒涼と化した地上を開墾し、人類が植物、動物と調和した環境をつくりはじめた。人類は栄えた。動・植物もすくすく育った。人類の年齢は、五百歳、千歳の長命を保った。人類の人数は増えていった。子孫が子孫を産み、人々の輪廻転生が回転を始めたのである。人々は次元の異なる意識界、天上界と自由に交流ができた。文明は高度に発達した。人間は自由に空を駆け巡り、地下に大都市をつくった。しかしやがてその文明も終焉を迎える時がやってきた。人々の間に自我が生まれ、国境がつくられ、争いがはじまったからである。人々の不調和、暗い想念の曇りは偉大な神の光をさえぎった。その結果、大地は怒り、黒雲は天をおおった。至るところで火山が爆発し、陸は海に、海は陸になった。ホンの一握りの心ある人々を残して、人類は土中に、海中に消えていった。こうして人類は、栄えては滅び、滅んでは栄えた。天変地異は、人類がこの地上に住み着くようになってから、何回となく繰り返されてきたのである。天変地異は自然現象ではない。人類の地上での目的と使命は、二億年も現代も変わらない。それは、神の意志である調和という仏国土を建設するために人類は存在し、人々の魂はそうした建設を通して、永遠の進歩を目指すものであったのである」先に書いたように、人間はアミーバから猿になり、猿から類人猿になり、そうして人間となり、未開時代から現代へと進化してきたのではないのである。正法誌N037号1981年 9月号より抜粋"愛について神と一緒に考えよう「神との対話を日常に生かす」シリーズ発刊愛と喜びにあふれ、笑顔で楽しくワクワクと生きたい……誰でもそう思います。そのための考え方を3巻にまとめたのが「19歳から始める最高のライフレッスン」シリーズです。著者は『神との対話』で有名なニール・ドナルド・ウォルシュ。『神との対話』に導かれてウォルシュ氏が行うセミナーの内容をもとに、本にまとめました。第一巻のテーマはずばり「愛」。優しい語り口を生かして、恋愛、パートナー、人間関係の根底にある愛を、じっくり語ります。「愛は自由なのだ」「人間関係は魂の仕事」という考え方は、恋愛や夫婦関係に悩む人にとって目からウロコの内容です。「どうしたら恋愛はうまくいくの?」「愛ってそもそもなに?」「結婚って?」そんな具体的な質問に答えながら、偉大な愛を伝えます。『神との対話』を日常に生かす。それが本シリーズなのです。読者は10代後半からの若い読者を主に想定。本シリーズで、純真な若い人こそ最高の人生を目指してほしいのです。もちろん、これから人生をやり直したい30代以上の読者もターゲットです。なお、訳者はウォルシュ氏の友人であり愛弟子。著者の思想を余すところなく日本語に移しています。人生を劇的に変えたい読者にお勧めです。"
2009.04.03
コメント(0)
地質学、人類学では今から約3億年前、巨大爬虫類が地球の主人公であった。そこへ大体、今から2,300万年前に猿から徐々に進化して、またある日突然に変化して人類が2本の足で立つようになった、とダーウィンの進化論によって説明している。この説によれば、人類は徐々に進化してきたのであるから、昔にさかのぼるほど猿に近くなり、未来に行くほど立派になるということになる。昔の人は、みな野蛮人で低能だということになる。果たしてそうなのであろうか。それが正しいということになると、今から二千年前キリストのような、二千五百年前釈尊のような偉大な方が出現されたというのが説明がつかないのである。現在の地質学、人類学を信ずる人達は、キリストや釈尊のような方はいられなかったというのであろうか。いられなかったといくらいってみても、実在の人物であったことはいろいろな証拠がある。正しい信仰をしようと思うものは、ダーウィンの進化論が間違いであることを見破らなければいけないのである。この世に猿から進化したという証拠は何もないのである。残っているのはダーウィンが書いたというだけのものである。地球は何千万度という高温の高熱体であったものが次第に冷却したものである。形ある生命体が、何千万度という高温の中で生きられることは絶対にない。だから、地球はいくたびかの地殻変動を繰り返し、地表面に岩石層が浮かび上がった時にはそこにはなにも生命あるものはなかった。そこに生物が出現したのである。正法誌N037号1981年 9月号より抜粋地球が生まれ変わろうとしている今、あなたの役目は何ですか、あなたは残れる人ですか。地球のためにでもいい、人のためにでもいい、必要な人になってください。それができなければ、迷惑をかけない人になってください。人はそれぞれ持って生まれた役目があります。誰でも人を癒す何かを持っています。おもしろい人、力持ちの人、優しい人、それぞれの使命があります。自分には得意なものがない、役目がわからないという人は、ニコニコ笑ってそこに座っているだけでいいのです。その人は、みんなにとって必要な人なのです。
2009.03.30
コメント(0)
正しい信仰は法(タルマ)を信ずることである信仰というと、教祖を信ずることであったり、偶像を拝むことであったり、あるいは経典などを読むことであると思っている人が、ほとんど全部であるといってよい。信仰がそのようなものと信じられるようになったのは、大乗仏教のせいである。釈尊は「法は如来が現れようと現れまいと永遠に存在するのである」と説かれた。決して偶像や個人を信じてはならないと説かれた。釈尊が現れられたたから、法が生まれたとか、釈尊が亡くなられたから、法が消えてしまったとかということはないのである。偶像や人を信ずることが信仰だということであれば、何かのことで、その偶像が壊れ、また消え、あるいはその人が死んでしまったら、いったいその信仰はどうなるのであろうか。信仰はできないということになるのであろうか。どういう信仰が正しいのであるかを知るためには、この地球の歴史と永い人類の歴史を考えてみる必要がある。NHKでシルクロードの旅が放送された。チベットのラマ廟が映し出された。映写班が辿った標高3000メートル、5000メートルというあの高地の道路は、今から2億年位前は海底であったのが近くの大変動で隆起したのである。その証拠には、あの高地に貝の化石があるのである。かつて、海底であったのであるから、いつまた陥没して海底になってしまうかもわからない。もし海底になれば、ラマ廟にある仏像も歴代のダライラマのミイラも全部消えてしまうのである。地球が出来てから約40億年、地球は幾度かの地殻変動を繰り返してきた。リンゴが古くなると、皮にしわが寄ってくるが、ちょうどそのしわの寄った皮の部分に当たるのが地表面の岩石層で、われわれの目から見ると硬く見えるが、しかし、実際は一番軽いから地表面に浮かび出ているのであるし、また沈んだりすることはないように思っているが、いつどういうことで隆起したり陥没したりするかわからない軽いものである。正法誌N037号1981年 9月号より抜粋"恐れを手放してあなたのすべてを肯定しよう生きることに窮屈さを感じる人が増えています。それは、あなたが自分自身の「すべて」を表現していないからかもしれません。素晴らしい人生を送りたいのなら、自分のすべてを許し、身体・心・魂の全部を生きる必要があります。・健康であるための神のオススメは?・精神的進化に性はジャマか?・「すべては完璧」ってホント?・「引き寄せの法則」の効果的な使い方とは?・あなたが「神との対話」を行うには?・遺伝による病気は避けられない?・満足してしまうと成長できないように思うが?・トラウマを癒すには?・過去世は今世に影響するか?・2012年に人類が滅亡するというのは本当か?本書に収録した「神の叡智」があれば、ありのままの自分を生きることは可能です。あなたが生まれてきたのには目的があります。あなたも自分らしく、その目的を生きてみませんか?(日本語版特典として「日本人からの質問」を収録)"
2009.03.13
コメント(0)
人にすすめて、たとえその人が何かの形で救われたとしても、あなた自身の心に矛盾や悩み苦しみがあったとしたら、あなた自身が救われていないということである。自分の心の中に苦しみという暗い心があれば、その暗い心は神の明るさとは波長が合わない。自分の心を暗くするということは自分の神性を否定することであるから、自分で自分の神性を否定している人は、自分から神を拒否していることになるのである。ここで注意しなければならないことは、私は神を信ずるといくら思っていても、その人の心全体が暗い心であるならば、それは実際は神を否定し神を拒否していることになるのであるということである。よく「私はあれほど神を信じていたのに不幸になった」という人は、確かに神は信じていたかもしれないが、心の中に苦しみや悩みや矛盾があって、実際は神を否定する、神と波長の合わない暗い心を持っていたからそうなったのである。だから単に、信ずるということだけでは本当の信仰とはならないのである。心を明るくするか、暗くするか、という心の持ち方が大事なのである。もし、あなたが神はないと思っていたとしても、あなた自身の心が明るかったらその心は神と波長が合うから、あなたは幸福に恵まれ健康でいることが出来ることになるのである。だから、正しい宗教の指導者は「まず信じなさい」ということは言わないのである。「まず明るい心を持ちなさい」ということを先に説くのである。自分だけ良ければ良いという利己主義で心が明るくなれるか?家庭内に争いがあれば心が明るくなれるか?人に迷惑ばかりかけていて心が明るくなれるか?誰のお世話にもなっていないとの傲慢な心で心が明るくなれるか?体が病気で明るくなれるか?そのように考えて心を明るくすることを心掛けているうちに自然と神の存在も信じることが出来るようになっていくのである。「人類愛を!」「平和を!」と絶叫している人達が相互に殺し合いの闘争をやるのは心の中に殺人の意志を持っている人達であるからである。だから我々は見せかけの言葉と行動に惑わされてはならないので、真実の心を見分ける智慧が必要なのである。「愛」という言葉によって幸福が実現している反面に「愛」という言葉によってどんなにたくさんの不幸が創り出されているか。我々は冷静に、それらの人々の言葉ではなくて「心」を考えなければいけないのである。少しばかり霊能があるからといって、その人を神格化して、その神格化された人を信じない人をみな「悪魔だ」ということは果たして正しい心の在り方だろうか。人を悪魔という人の心の中には悪魔が描かれているから、それは正しい信仰のあり方ではない。霊能現象や奇蹟等のみに心を奪われてしまって、正しい明るい心の在り方を忘れてしまったら、それは正しい信仰にはならないのである。宗教団体の内部に争いが絶えないのは、また、一般社会の中でよりも宗教団体内部の争いが陰湿で残酷であるのは、その人達の心の中がきれいに明るく愛に満ちたものとなっていないからである。まず最初に、なぜ心を暗くしてしまったかの反省をさせずに、最初から「すなおに信ぜよ」「信仰は純粋でなければならない」と説く宗教は邪教とみて間違いはないのである。因縁を超える道は他力信仰によっては得られないのであって、どうしたら因縁をよくすることができるか、それは暗い心を明るくすればいいのである。そうすれば、あなたの守護霊、指導霊も、また光の天使も天上界から協力してくれるのである。常に心を安らかに明るくして、魂の向上のみを心掛けている人の愛の祈りに対しては必ず天上界は協力することになっているので、これを「自力の極に他力がある」というのである。正法誌第37号 1981年9月号より抜粋世の中に偶然は存在しない。すべて必然である。病は神からの「プレゼント」であることもあるのだ。あなたに気づかせるために、あなたの魂の成長のために、あるいは、あなたの人生を豊かに、実りあるものにするために。感謝して、今日から歩もう。あなたの背後で、いつも見守り、導いているガーディアン・スピリットも、それを切に願っているのだ。
2009.02.13
コメント(0)
自分を愛することが信仰のスタートである。祇園精舎はコーサラ国の城のすぐ近くにある。コーサラ国王の妃マツリカは城の上から辺りの景色を見ていた。そこへ王のパセナディがやってきた。「マツリカよ、そなたはこの広い世界で誰を一番愛するか」マツリカは大商人の娘であった。それを王妃にしたのであるから当然王は「王様、私は王様を一番愛しています」という答えを期待していた。ところが妃は「王様、私は私自身を一番愛します」と答えたので王にはショックだった。全く予期していなかった妃の言葉にとまどって、しばらく言葉が出なかった。王はどう、それに答えていいのか答えが見つからなかった。王の答えがないのでマツリカは王の答えを促すかのように「ねぇ、王様そうではございませんでしょうか」といった。王はそういわれても、まだ答えが見つからなかった。ややしばらくして、「そうかも知れない。だが自分にはその答えに自信がない、だから祇園精舎へ行って釈尊にお伺いしてみようか」王と王妃は行って、聞いた。「パセナディ王よ、自分を愛するということが一番大事なことなのだ。それがわからないと本当の信仰にならないのだ」持つべきものは良き妻である。一国の王であったパセナディが正しい信仰をもつことが出来たのは、妃のマツリカのお陰であった。肉体を中心とした自己愛は利己愛は利己主義という悪徳となるが、この場合の愛は、自分の霊を愛し、自分の心を愛することであって、その愛のみが真実なのである。例えば、あなたがどこかの教団の信者だとして、その教団の方針で毎月決まった金額を献金し、会員を増やし、本を売らないければならなかったとする。払わなければならない家賃を払わないで愛行だと言って、夫と喧嘩しながら家を留守に走り回ったとして、いくら献金をし、会員を集め、本を売ってみても、あなた自身の心の中に苦しみがあるはずである。それは本当の信仰ではないのである。この一つの事を考えてみただけでも、いかに現在の宗教団体の教祖と指導者が、信仰というものを知っていないかがわかるのである。我々は正しく信仰をしようとする者は、宗教団体の大きな組織の圧力に負けてはならないのである。集団の圧力に負けて自分の心に苦しみを作ってしまう信仰は、もはや信仰という名で呼ぶべきではない。それは神の名を利用した集団の暴力である。正法を信ずる者は集団の暴力を跳ね返す心の強さを持たなければいけないのである。だから、正しい信仰には勇気がいるのである。正法誌第37号 1981年9月号より抜粋"恐れを手放してあなたのすべてを肯定しよう生きることに窮屈さを感じる人が増えています。それは、あなたが自分自身の「すべて」を表現していないからかもしれません。素晴らしい人生を送りたいのなら、自分のすべてを許し、身体・心・魂の全部を生きる必要があります。・健康であるための神のオススメは?・精神的進化に性はジャマか?・「すべては完璧」ってホント?・「引き寄せの法則」の効果的な使い方とは?・あなたが「神との対話」を行うには?・遺伝による病気は避けられない?・満足してしまうと成長できないように思うが?・トラウマを癒すには?・過去世は今世に影響するか?・2012年に人類が滅亡するというのは本当か?本書に収録した「神の叡智」があれば、ありのままの自分を生きることは可能です。あなたが生まれてきたのには目的があります。あなたも自分らしく、その目的を生きてみませんか?(日本語版特典として「日本人からの質問」を収録)"
2009.02.02
コメント(0)
「神は、自分を愛する者を愛し、自己の神性を否定するものを拒否する。人は神の子であり、自分を愛せない者は神を否定し、人を愛することが出来ないからだ。この意味において、いたずらに現実の現象、奇蹟のみに心をとらわれ、自らを省みない行為は、厳に慎んでもらいたいものである」自力の正しい正法の信仰と、他力の人間性を歪める間違った信仰との分かれ道は、「神は、自分を愛する者を愛し・・・」と説くか説かないかにある。仏の慈悲といい、神の愛といい、それは自分のことは考えずに全面的に無我になって他を愛し、他に慈悲を与えることだとこれまでの宗教は説いてきた。自己を愛するということなど本来、宗教が説くべきことではないと説いてきた。それも全く間違いではないが、大きな誤りがある。慈悲、愛は他の人に施すものであるという他力的な間違った教えによって、全ての宗教団体の信者たちは、信者獲得や、その教団発行の新聞や本の販売に狂奔せしめられて、心の中に苦しみを作り出しているのである。しかも、そうすれば運がよくなる、おかげがあるという現世利益のえさに釣られてである。現世利益の願望をえさとして、どれだけ沢山の人が自腹を切って走りまわされているか。信者たちが、それが正しい信仰だと信じて走りまわったその利益は、その宗教団体を太らせるだけである。信者獲得や本、新聞の販売に走りまわって「これが本当の信仰なのだろうか」という疑問と矛盾を感じない人は恐らく一人もいないと思う。教祖や教団の指導者たちは、神、仏をえさにして一円の資本も投資することなしに、しかも運動費、交通費は信者の手持ちで拡張運動をさせて、その儲けは全部教祖、教団の懐に入るのであって、その代償としては信者がやがて受け取るものは、その宗教に対する疑問と矛盾である。自分の信じている宗教に疑問と矛盾を持ちながら、その人たちがその信仰をやめきらないのは「徳を積めば福が来る」ということで今まで徳を積んできたが(教団への献金と愛行)まだ福は来ない、もう少し積んだら福が来るかもしれないのに、今でやめるのはちょっと損だし惜しいことだと、今まで献金してきた金や自分のやってきた愛行に執着しているからである。正法を正しく知るためには、そういう執着を一切捨てることである。自分を愛するというと、多くの人はそれは利己主義で悪いことだという。その自分を愛するという自己愛が悪徳で利己主義だと非難されるのは、その愛が自分の肉体の欲望のみ奉仕されている場合である。自分だけ食べればよい、自分だけ見えればよい、自分だけ座れればよい、自分だけ着ればよい、自分だけ住めばよい、自分の所だけきれいになればよい等というように、自分の都合だけを考えてそのために他人がどんなに迷惑してもかまわないというような行為をする場合である。正法誌第37号 1981年9月号より抜粋思い通りに生きたいのなら、あなたの内なる声に耳を傾けてください。人生は自分で選んで生きていくものなのです。
2009.01.28
コメント(0)
因縁を越える道と助力 園頭先生の解説-9 「助力というものは、日頃の本人が努力しているか、誠実、真実に生きているかどうかによって、大いに変わってくる。つまり、指導霊の助力の根底にあるものは、他力でなく自力の精神であるからだ。他力の生き方は、本来の人間性を否定し、神の子の想像力を曇らせる」 日頃少しも勉強せずに怠けていて、いざ試験という時になって先生から教えられたとしても、それを充分に理解することは出来ないであろう。 日頃よく勉強しているからこそ、わからないことがあると、教えられるとすぐにわかるのである。 それを同じように、日頃本人が不真面目で怠けてばかりいて、自分がしなければならないこともよくせずにいて、その時だけ祈ってみても、その祈りは叶えられない。 また、なんでも欲しいものを祈ればいいというものでもない。 アメリカのニューソート、クリスチャンサイエンスの光明家たちは(○○の家でもそうである)、祈れば無限供給があると説いているがそれは間違いである。 過去世で大金持ちの体験をして、金が幸福をもたらすものではないことを知った人達は、心の大事さを求めて貧しい境遇を選んで生まれる。 信仰をしようと真面目に考えている人たちは多くがそういう過去世を持った人たちである。 金だけでは幸福になれないことを既に知っている人は、いくら祈っても金持ちになることはできないのである。 心貧しいがゆえに経済的にも貧乏であった人が、心の持ち方を変えることによって生活の心配はなくなったということはある。 その人が金持ちになったのは、実際はその人はその金を困った人達に布施するためである場合と実際は持ってしまうと金に執着が出来て、布施を忘れる人が多いが金だけでは幸福になれないことを教えるために金を儲けさせられて金持ちになることがある。 現世利益を受けられないのは信仰が足らないのである。という宣伝に煽られて欲望を満足させるために、信仰するというようなことは、もうやめるべきである。 いつでも足ることを知ることが正法である。 こういう点からいっても、高級官僚が天下りして高額な退職金と恩給を貰えることを幸福だと考えていたら、とんでもないことであって、あの世で、いやというほど反省させられるのである。 行政改革も本当の行政改革をやろうと思ったら、政治は正法を基準とすることである。 物質的なこの世だけの出世を願っている官公吏が多いと行政改革の実はなかなか挙げられない。 努力しない人に対しては、助けようと思っても助けられもしないが、努力しない人を助け教えてみても、その人のためにはならない。 もともと自分からは働こうともしない乞食に、いくら恵んでみても、かえって依頼心を助長して怠けさせるだけのことであるのと同じである。 だから、ものを施すにも、その人の依頼心を助長することにならないか、またはその人が一人立ちできる力になるものであるかどうかと、智慧を働かさなければいけないのである。 だから、他力信仰は「本来の人間性を否定し、神の子の創造力を曇らせる」ということになるのである。 われわれの子供の時分は、早く大人になって、ああしたい、こうしたい、うまいものも食べたいと思ったものであるが、この頃の子供の中には大人になりたがらない者が多いのである。 それは小さい時から、あまりにも恵まれすぎて、欲しいと思うものも、もうなくなった、親が何とかしてくれる。 大きくなるにつれて親はしてくれなくなる。 自分で働いて食べるなど面倒くさい。 それよりは、大人にならずに今のまま子供であった方がいいというのである。 これからは肉体的には既に大人であるのに、精神的には子供であるという人間が増えてくるのである。 あなた方の子供はどうであろうか。 子供が年をとって身体ばかり大人になり、一人前には働けない子供になったとしたら親としては、あなた方は幸福であろうか。 仕事はせず、自立できず、身体ばかり大人になってしまうと実にやっかいなことが起こる。 仕事せずに食べてばかりいるから普通の人以上に性欲が旺盛になってくる。 自立できないくせに結婚はしたがるのである。 自立できないからといって親が結婚させないとしたら、その性欲のはけ口をどこに求めるであろうか。 性に起因する誘拐、殺人もこれから多くなると考えなければいけない。 そういう依頼心の強い自立できない子供に育てることは子供自身の人間性の破壊ではないだろうか。 このような事実からして、心の面でも自立心を失わせて他力信仰をさせて、自分のことは自分で処理出来ないようにさせることは、その人の人間性を害うことになるのである。 だからして、最初は助力していた守護霊、指導霊たちも、これ以上助力することはかえって依頼心を助長させると思った場合は、その人が自発的に努力ししようという心を起すまでは助長せずに、その人をじっと見守っている場合があるのである。 こういう場合、この世の人は最初はいろいろなお蔭があって奇蹟もあったのに、この頃はいくら祈っても、さっぱり祈りが聞かれないと思うのである。 信仰が分かれるのはこういうときである。 もう、いくら祈っても祈りが聞かれなくなったからだめだと思って信仰をやめるか、または、これまでの信仰のあり方を反省して、報いを求めてする信仰ではなかった。 なにもお陰はなくても、心を偉大に成長させることが信仰だと悟って、日常生活の実践に精出すかである。 報いを求めずに実践を続けると、また助力してくれるようになるのである。 どんな場合でも他力の依頼心は起こさない方が早く魂が向上するのである。 正法誌第37号 1981年9月号より抜粋地球が生まれ変わろうとしている今、あなたの役目は何ですか、あなたは残れる人ですか。地球のためにでもいい、人のためにでもいい、必要な人になってください。それができなければ、迷惑をかけない人になってください。人はそれぞれ持って生まれた役目があります。誰でも人を癒す何かを持っています。おもしろい人、力持ちの人、優しい人、それぞれの使命があります。自分には得意なものがない、役目がわからないという人は、ニコニコ笑ってそこに座っているだけでいいのです。その人は、みんなにとって必要な人なのです。
2009.01.10
コメント(0)
因縁を越える道と助力 園頭先生の解説-8 「神に祈りなさい、神様が直観として教えて下さる」と説いている教祖達がいる。 それは間違いであって神が直接一人ひとりに直観で教えられるということは絶対にないのである。 そのような間違ったことを教えているから、そういう人間の心を巧みに利用して動物霊が支配し「われは○○の神である」とか「○○菩薩である」とかいって出てくるのである。 ○○の神のお告げを受けたとか、○○菩薩のお告げを受けたという人をそのまま信用してはならないし、神の光を見たといってもそれをすぐ神の光だと信じてもならない。 一つ上の段階の指導霊が一つ下の世界へ下りると、その段階の人達は「光が来た」というのであるから、光を見たのをそのまま神とだと思ってはならないのである。 天理教祖、大本教祖、金光教祖が最初にお告げを受けられたのは、神ではなくて守護霊であったのである。守護霊はその上の指導霊、その上の指導霊、そうして光の大指導霊、光の指導霊は神へとつながっているのであるから、守護霊が間違った指導をすることは絶対にないのである。 虫の知らせ、予感としてその人に知らせるのも、また直観を与えるのも、それは、すべて守護霊とその親しい友人、先輩なりの指導霊がする。 その指導霊はその上の天使へ、そうして大指導霊とつながっている。 あの世はこのように秩序整然として指導の役割がきまっているのであるから「祈れば神様が救ってくださる」というのも「みなさん一人ひとりを○○菩薩が導いて下さいます」というのも、また死ねば実相世界という漠然とした光の世界へ行くと説いているのも、間違っているのである。 人はそれぞれに、その人の魂の指導の系列がある。 その系列を通して最終的に神に一つにつながっているのである。 「こうして人の心は、光の子として、すべて一つにたばねられている。 それゆえ、助力を求める手順は、まず自身の守護霊であり、守護霊が経験不足の場合は、すご霊から指導霊なり天使に連絡される」ということになる。「本人が知らない間に(自覚している者もあろう)指導霊なり天使に助力が行われ・・・」とあるが、 私は私が「宇宙即我」の体験をしてから戦地でのいろいろな奇蹟、終戦になって生長の家の講師になってからの、いろいろな奇蹟が、決して私一人の力でないことを自覚していた。 見えない世界から守られていることを、ひしひしと感じていた。 もっとさかのぼると小学校4年の時からであった。そういうことが、あの世とこの世との関係を知りたいという念願になり。、やがてそのことから高橋信次先生のところに導かれるということになったのであった。 不思議な思いがけない方法で助けられたとか、奇蹟があったという人たちは、自分たちの気づかないうちに守護霊や指導霊、天使の方々の助力があったのであるから、そのことについて心から感謝しないといけないのである。 宗教の立派な指導者だと思っていた人が、またあんな素晴らしい信仰者はいないと思われていた人が、しばらくすると全く駄目になってしまうのは、守護霊、指導霊、天使の助力によってそうなったのにそれへの感謝を忘れて、あたかも自分ひとりの力でそうなったかように増長慢になったからである。 最初は確かにそういうことがあったのであるのであるから最初の体験は本当である。 ところが増長慢になると助力が得られなくなるのであるから奇蹟も何も起こらなくなる。 しかし、増長慢になるような人は最初に誇大に宣伝するから、聞いた人はその人を、その実力以上に信ずることになる。 しかし、もはや力はなくなっているのに、もう、力は無くなりましたというわけにゆかない。 いえば指導者の地位から下りなければならない。 増長慢になるような人は下りるということが絶対に出来ない。 それでその地位を保とうとして、ありもしないウソをついて信者の心を引き止め、過った自分の優越感と権力欲を満たそうとする。 宗教指導者のはったりはこうして生まれるのであるが、ところが多くの信者は、まじめな謙虚な指導者よりは、大言壮語するか、誇大宣伝をする、はったり屋の指導者の方を信ずるから始末が悪い。 本来、清浄潔白であるべき宗教界が、一般社会よりも醜い嫉妬中傷が渦巻いているのは、そういう講師、指導者が多いところにも原因がある。 まして、それに金銭問題が絡んでくると、何とも言いようのない憎悪、闘争が生まれてくることになる。 私がそういったからといっても、それが実情なのであるから誰もそうではないと否定する者はいないはずである。 こうした日本の宗教界の現状を正しくするには、そういう心を持っている宗教指導者自体の力では難しい。 信仰している信者たちが正法を知って、信者がそのような指導者を選ばないように、信じないようになることである。 正法誌第37号 1981年9月号より抜粋 各雑誌、メディアで話題の「ハーモニーベルCD」が、初めてCDブックになって登場!よい音には、人を癒し、場所の波動を変えるパワーがあります。あなたの部屋は、居心地のいい空間ですか?あまり落ち着かない、汚い、植物がすぐ枯れてしまう・・・という部屋は波動が乱れて、部屋の磁場だけでなく、そこにいる人の運を悪くしています。しかし、付属のCDを部屋に流すだけで、部屋の波動は変わり、ツキを呼びこむ部屋に変わります!モニターアンケートでは、CDを部屋に流すようになったら、「植物が元気になった」「ぐっすり眠れるようになった」「掃除をしたくなった」「家族の仲がよくなった」などといった声が、続々と集まっています!プロローグ 「音」は部屋にツキを呼び、あなたに幸運をもたらす1章 身体・心・場をチューニングするハーモニーベル 2章 部屋をキレイにしてツキを呼びこむ 3章 幸運オーラがもっとツキを呼びこむ付属CD1枚:1.Lucky Room(ラッキールーム)2.Brighten your Aura(ブライトンユア オーラ)~オーラが輝く
2008.11.15
コメント(0)
因縁を越える道と助力 園頭先生の解説-7 昭和51年6月25日、高橋信次先生は48歳をもって昇天された。 もっと長生きして下されればよかったのにという人が多かった。 また、高橋信次先生が正法を説かれたことによって、大きな影響を受けると見られる教団の教祖達は「正しく人を救う人であったら、もっと長生きして人を救うべきである。48歳の若さで亡くなったのはそれだけ人を救う力がなかったからである」とか「わたしは80歳になっても教えを説いているのに、あの若さで亡くなったのはニセモノの証拠である」という教祖もあった。 そのことについては、先にも書いたので、ここには今まで書かなかったこと、ぜひ高橋信次先生の教えを受けた人に伝えておきたいことがある。 それは亡くなられる昭和51年2月であった。 その時そこにいたのは私と当時の関西本部長・N氏の2人であった。 講演の前の昼食の時であった。 「肉体を持つと肉体に制約されて活動が制限される。これは仕方ない。意識だけになると肉体に制約されないから自由自在に活動ができる。ぼくは早くあの世へ帰らないといけないかもしれません。ぼくはすることが一杯あるんです」と このようなことを現在の日本の教祖達の誰がいうことができるであろうか。 そのしなければならないことの中に「ソ連は原子爆弾を使おうとしている。原子爆弾を使ったら、地球は崩れてしまう。だから絶対に原子爆弾を使わせてはならないのであるが、肉体を持っていると肉体に制約されてソ連の指導者を直接指導するわけにはいかない。するとすれば、あの世へ帰って、あの世からソ連の指導者を指導する以外ないんですよ」 その時、私は、それが実現するのはもう少し先で、まさかそれが6月であるとはおもわなかったのであった。 国民一人ひとりが総理大臣に陳情したのでは、総理大臣は総理大臣としての本来の仕事は出来なくなる。 それと同じように全人類の魂の救い主であり統括者だからといっても、個々に一人ひとりがその名を呼んだら、本来のなされべきことができられなくなる。 それで、指導はそれぞれの段階を経て、それぞれの役割を持った人がするのであるということで「人の心は一つにつながっている。そのつながりは、自身の守護霊であり、ついでその守護霊の親しい友人、先輩なりの指導霊であり、さらにそれにつながる天使(菩薩界の人)そして大指導霊(釈尊、キリスト、モーゼ)とつながる。」と書かれてあるのである。 「こうして人の心は、光の子として、すべて一つに束ねられている。それゆえ、助力を求める手順は、まず自身の守護霊であり、守護霊が経験不足の場合は、守護霊から指導霊なり天使なりに連絡される。そうして、本人が知らない間に(自覚している者もあろう)指導霊なり天使の助力が行われ、それが時として奇蹟となって現れたり、智慧の発見として、その人を助けるようになる」正法誌第37号 1981年9月号より抜粋私たちは、人類の進化の歴史の大きな節目に立っています。科学は四百年にわたり宇宙の進化のプロセスを明らかにしてきました。同様の真剣な探究が今、私たちの内面に関しても求められているのです。人間の能力や可能性がより深く理解されることにより、新しい進化の段階が始まります。この段階は、全く新しい能力と、未知のレベルの体験を私たちに与えてくれるものとなるでしょう―。
2008.11.02
コメント(0)
因縁を越える道と助力 園頭先生の解説-6 「人の心は一つにつながっている。そのつながりは、自身の守護霊であり、ついでその守護霊の親しい友人、先輩なりの指導霊であり、さらにそれにつながる天使の指導霊、そして大指導霊とつながる。 こうして人の心は、光の子として、すべて一つにたばねられている。それゆえ、助力を求める手順は、まず、自身の守護霊であり、守護霊が経験不足の場合は、守護霊から指導霊なり天使になりに連絡される。 そうして、本人が知らない間に(自覚している者もあろう)指導霊なり天使の助力が行われ、それが時として奇跡となって現れたり、智慧の発現として、その人を助けるようになる」 モーゼはエジプトを脱出するのに永い年月を要した。地中海を渡ってシナイ半島までは辿り着くことができたけれども、それから先へなかなか進めなかった。 一人で何万という民に一人一人、今度はこうするのだと伝えて廻っていたから、最初に伝えて次第に終りの方に伝えていっても、終りに近くなる頃には最初の方はいろいろな流言に惑わされて、モーゼの言ったことに反対の行動をとろうとする。 ほとほと困っていたある夜、ヤーヴェが現われて次のように教えられた。 「十人には十人の長を、百人には百人の長を、千人には千人の長を、万人には万人の長をつくり、その長を集めて指示せよ」 モーゼは烏合の衆であったユダヤの民を整然と組織化した。 そうしてシナイ半島の突端からシナイ山まで短い時間で整然と秩序だって行進できた。 だから西洋ではモーゼは人を組織化して行動させた最初の人だと言われている。 ヤーヴェがモーゼにそのようなことを教えられたのは、あの世が整然とした秩序立った世界であるからである。 多くの人は死ぬと漫然として霊界へ行き、そこは誰も指導する者もない、ただ漠然として霊がいる世界だと考えている。 モーゼが十人には十人の長をと組織化を命ぜられたように、あの世も幽界、霊界、神界、菩薩界と上の方に組織化され、それぞれの系統を通して導かれることになっているのである。 そのことが、ここには書かれているのである。正法誌第37号 1981年9月号より抜粋色・形・音に秘められた意味は何か。精神科学の独自の観点から色・形・音について語ったユニークな一冊。その意味を念頭に置いて、私たちのまわりの色・形・音を整え、よりよい生活、より麗しい生活に役立てよう
2008.10.18
コメント(0)
因縁を越える道と助力 園頭先生の解説-5 守護霊は、その人がこの世に生まれてくる時に、その人の一生を守る使命を持っているのであるから、守護霊に協力をお願いすることは筋が通っているが、それでもいたずらに、みだりに口にしてはならないというのである。 例えば学校の先生は生徒に数学を教える役目を持っている。だからといって生徒が自分では少しも考えずに、最初からの数式を根掘り葉掘り一つ一つ、これはどうなるんですか、これはどうするんですか、そうして答えはこうですかと、自分では少しも考えずにいちいち聞いたとしたらその生徒は力がつくであろうか、絶対に力はつかない。 それと同じように、この世は魂の勉強の世界なのであるから、やはり自分で考えて自分で実践して、そうして力をつけてゆかねばならないのである。 だからよく正法を知っている指導者は個人指導をする時に、いきなり「こうしなさい」ということは言わないのである。 いろいろ話をしているうちに、その人が自分で答えを出すように話をしてゆくのである。 自分で考えて考えてどうにも分からないという時にはじめて守護霊に助力を求め、また祈願文を唱えて助力を求めるべきであって、いきなり「高橋先生助けて下さい」と固有の天使の名を口にしてはならないのであるというのである。 どうしてそうしてはならないかは、この次に説明してあるからそれまで待ってもらいたい。 「ユダヤ教のヤーヴェ(キリスト教ではエホバともいう)も、このことを再三注意している」と書かれてあるが、これは、ヤーヴェが「わが名をみだりに呼ぶな」といわれたことであり、キリストが「主よ、主よと呼ぶ者がみなすくわれるのではない」と戒めていられることに当たるのである。 そういわれた趣旨は、自分自身を反省することなく、いたずらに助力を求める傾向が強くなると、自分で努力するということをせずに、信仰が他力になってしまうからであるというのである。 「また、天使も地上の人々が求めれば、他の重要な仕事をおいても、その声に耳を貸さなければならなくなり、それが時には、より多数の人々を犠牲にしなければならないことも起きてくるからだ。 それだけに、自分の都合の身を願って、固有の天使の名を口にしてはならないのである」 例えば、あなたの家の前の道路が悪くなったので、それを舗装してくれということを、国の政治の責任者であるからということで直接総理大臣に陳情されるであろうか。 そんなことはされないであろう。必ず自分の住んでいる市町村役場に行って陳情されるはずである。 その場合でも一人でするということはされないであろう。隣組全部の人と話し合って、その地区の責任者である区長さんを通してということになるであろう。 この世が秩序をもって政治されると同じように、あの世はこの世よりも霊の段階によって整然と秩序だった世界であるのである。正法誌第37号 1981年9月号より抜粋第1章 希望実現の最高の秘訣は感謝力にある/第2章 感謝の心が人間関係に調和をもたらす/第3章 よい人脈は感謝力で決まる/第4章 感謝力で人生のすべてがうまくゆく/第5章 感謝力は心の浄化に比例する/第6章 感謝を引き出すための五つの方法/付録
2008.10.04
コメント(0)
因縁を越える道と助力 園頭先生の解説-4 どうしてそうなったのかということを反省することがなくて、困ったことが起こるとすぐ「高橋信次先生助けて下さい」と「固有の天使の助力を求めることは、それはとりもなおさず他力の所業であり、他力はやがて欲望充足の道具と化してしまう」ということになる。 光の天使は困った人が助けて下さいと呼ぶと、放って置くわけには行かないからと行って助けるのである。 するとそこに奇蹟が起こって苦しみがなくなる。 それに味をしめるとなにかあると、すぐまた光の天使の名を口にしてしまう。 そうなると遂には、自分の都合の悪いことは、みな光の天使にお願いしさえすればいいという、安易に自分の欲望を充たすための道具としてしまうのである。 だから、最初、光の天使の名を呼んで奇蹟があったという人が、次に何かあって光の天使の名を呼んでも、お蔭が起こらなかったという場合は、その教えがだめなのではないのであって、いつまでもそういう心であっては、あなた自身のが向上しないのであるから、今度は自分でやってみなさいという、光の天使の慈悲であることをよく知らなければいけないのである。 ゆめゆめ、光の天使を疑ってはならないのである。 「このことは、自分自身を守っている守護霊をいたずらに口にする場合も同じことである」 私が高橋信次先生に帰依したのは昭和48年3月であったが、私より1カ月早く帰依した京都のTという人があった。この人は高橋先生に帰依する前は○○氏主宰の○○会の京都の幹部で真言密教をやっていた人であった。 T氏は人が何かを相談するとすぐ眼をつむって首をかしげ、「あ、あなたの守護霊が見えます、あなたの守護霊がこういっています」という指導をするのでT氏は守護霊が見えるというので評判になった。 この人の指導は間違っていると思ったので、その年の6月に私が「Tさん、あなたがすぐ守護霊に聞いてみますというやり方は間違っているのである。我々には智慧が与えられてあり、神の慈悲として反省とということが与えられているのであるから、どうして、そうなったのであるかを智慧によって反省し、自分で自分を向上させようとする、まじめな努力をして祈った時に守護霊さんお願いしますといわなくても守護霊は協力してくれるのであって、どうしてそうなったかも反省させず、いきなり守護霊に聞いてみますというやり方をしては霊を向上することにならないのである」と注意したのであった。 京都のT氏は、高橋先生公認の指導法であると言ってウソを言ってやっていたのである。 高橋先生公認といえば、誰しもが簡単に信じてしまった。 ある人が、高橋先生がこう言われたからと言っても、それをすぐ信じてはならないのである。 このことについては高橋先生が「如来のいうことといえどもすぐ信じてはなりません。果たしてそれは正しいかどうかをよく判断して、間違いないとわかった時にはじめて信ずることです」といわれた言葉を大事にしなければならないのである。正法誌第37号 1981年9月号より抜粋のびのびと生きるために!精神世界から見た心の特質を分析し、心の世界の構造とその働きを追求した一冊。
2008.09.28
コメント(0)
因縁を越える道と助力 園頭先生の解説-3 人間の心には現在意識と潜在意識がある。現在意識は表面意識ともいう。われわれは心の表面では誰しもが幸福で健康であることを望んでいる。不幸を望んでいる人はほとんどいない。ほとんどいないというのは、多くの人の中には、幸せになるのはもったいない、自分みたいな者が幸せになれるはずがないと、自分の不幸を願っている人もいるからであるが、そういう一部の人を除けば世の多くの人々は幸福を願わない人はいない。 だから、いろいろな宗教団体の信者たちが「あなたは幸福になりたいと思いませんか」といって勧誘に来るのである。その人たちは不幸であるのは○○の信仰をしないからであると説明して入信をすすめるのであるが、それは○○の信仰をしないからではなくて、表面では幸福になりたいと願っている、その心の裏側というか奥にというか、その人自身も気づかない暗い心を持っているからである。 多くの人は、人間だから腹も立てるし、泣きもするし、幸福な人を見れば羨ましくなるし、それまでは自分と同じとだと思っていたのに、その人が自分より出世すれば嫉妬もしたくなるし、愛を裏切られれば憎みたくなるし、そういう感情を持ってこそ人間といえるのであって、そういう心を持つことは普通であって決して悪いことではないと考えている。 だからこういう人は、法律にふれるような悪いことをしていなければ、それで人間は立派なので、心の中では、どんなことを思ってもよいのであると考えるのである。 政治的には、法律にふれた人を悪人というのであるが、宗教は心のあり方を問題にするのであって、自分は法律にふれるような悪いことはなにもしていないといっても、心の中に怒り、嫉み、悲しみ、憎しみ、不平不満等の心を持てば、それは宗教的には悪というのである。 不幸や病気になっている人は、心の奥底すなわち潜在意識の中にそういう暗い心を持っているからである。 だから、幸福になろうと思ったら見せかけの表面的な明るさではなくて、心の底から明るい心にならなければいけないのである。正法誌第37号 1981年9月号より抜粋我とは、意識とは、生命とは何か?―精神世界の実相に迫る。サイ科学研究会会長が著名な霊能力者や心霊現象研究家と接しながら、自らの信仰体験も加えて長年にわたる科学的・実証的研究の成果を集大成した渾身の一冊。
2008.09.14
コメント(0)
因縁を越える道と助力園頭先生の解説-2 因縁を越える道は、悪い運命が現れてきたのは、それまで暗い心を持ち、悪の想いを持ってきたことが原因なのでであるから、今度は勇気と努力をもって、明るい心を持ち、善念を持つようにすれば、因果の法則によって良い運命が現れてくるということなのである。 そういう、悪を善に切り替える正しい心を持って努力する時に、守護霊は協力してくださるというのである。 天は自ら助くるものを助くである。 自分のことは自分でする。 なんとすばらしい道ではないか。 自分のことを自分で始末しきれないのは子供である。 だから子供は親に協力を求める。 子供が求め頼っていたからといって、子供がいくつになっても、大人になっても親がやってくれていたら、子供は完全な大人になりきらず、自分で生きていくことも出来ないようになるではないか。 いつまでも親を頼りにさせることはよいことのようであるが、実際は子供を不具にすることになる。それと同じように、いつまでも神に頼らせて自分は努力せず、他力を頼りにさせているということは、信者を精神的な霊的な不具者にしてしまうことになるのである。 親は子供が早く一人立ち出来ることを望んでいるのではないのか。 それと同じように、神や天上界の光の天使達は、早くその人が霊的に自立してくれることを望んでいられるのである。 「最近、ややもすると、こうした自力の精神を忘れ、いたずらに固有の天使の名を呼び、助力を求める傾向があるのは遺憾である」 高橋信次先生が私にこのことを言われたのは昭和49年10月、高橋信次先生と一緒に10人ばかりで志賀高原の山中で修行した時のことであった。 「園頭さん、この頃なにかあると、高橋先生助けてください、なんとかして下さい、という人が多くなって困っているんです。僕は僕で修行しなければならないことがあり、また、天上界へ行って天上界の人達を指導しなければならないことがあるし、そういう時に、僕の名を呼ばれると、助けに行かないわけにはいかないし、もっと、みんな自力だということをわかってくれないと、自分がよくならないのですよね」と。 このことがつぎに 「もちろん、天使の名を心に思い、求めれば、手を貸し与えてくれることもあろうが、しかしそれによって奇蹟が起こり、急場を凌いだとしても」ということばになっているのである。 しかし、そうして、 「急場を凌いだとしても、病気の原因を根本的に改めない限り、また同じような、あるいはちがった形で病気をつくりだしていくだろう」ということになっていくのである。 このことは、他力信仰をしている人達が、一つの病気がよくなったかと思うと、また外の病気が起こり、自分がよくなったかと思うと家族の誰かが病気するというように、信仰していて、どうしてあの人達はしょっちゅう病気しているんだろうといわれる人が多いのは、その病気になる原因を改める努力をせずに、ただ他力信仰で拝んだり、おまいりしたりしているからである。 しかし、他力信仰をしていて、私は良くなったという人もいる。 それは他力信仰をしていたが、その間に、それまでの心の在り方を反省して心を変えてしまったからである。 他力信仰が治したのではなく、その人が心を変えたので治ったのである。 その他力信仰は心を変えるきっかけになったのにすぎないのである。 だから他力信仰で治ったという人達は、実際は他力で治ったのではなく自力で治ったのであって、その事実を深く考えることを忘れて、ただ他力で治ったと思っているにすぎないのである。 他力信仰がよくなるというのであれば、他力信仰をしている人は皆よくならなければならないはずであるが、良くならない人も多いのはどういうわけであろうか。 また、他力信仰をせず自力でよくなる人達はどう解釈すればいいのであろうか。 そこのところをよく考えてみなければいけないのである。 他力信仰をしている人達が他力でないと考えている原因の中に、自分は幸福になりたいとばかり思ってきて何一つ悪いことをしたことはないのに、どうしてこんなに不幸や病気になったのであろうか。 その原因がわからない、幸福になりたいと思い続けてきてどうしてふこうになるのか全く分からない。 こんなに不幸になったのは、自分のせいではなくて何か他のせいであると考えていることがある。 だから、先祖の因縁だとか、なにかの祟りだと言われるとそうかなと信じてしまうのである。 それは、心がどういう働きをするかを知っていないからである。 だから、釈尊は「苦の原因は知るべきことを知らない無明にある」といわれたのである。正法誌第37号 1981年9月号より抜粋精神の波動を高く保ち、念のエネルギーで幸せになる。運命の種子を播こう。
2008.08.13
コメント(0)
因縁を越える道と助力園頭先生の解説-1 この言葉は、あの世とこの世との関係を知る上に、また、正しい信仰のあり方正しい心の持ち方を知る上に、非常に重要な言葉である。 高橋信次先生と、これまでの日本の宗教団体の教祖との、全く大きな違いが示されたのもこの言葉であるといえるし、今までこのようなことを言った教祖はいなかったし、また他力信仰を教えている教祖では絶対にいえないことであるし、他力信仰をすすめている教祖がいかにあの世のことを、また真理を知らずに信者をごまかしているか、ということもはっきりと教えられている言葉である。 私はこの言葉を読むたびに、神の子としての自分自身の尊さを教えられて身のひきしまる思いがするし、この天地を創造された神の慈愛の深さに感謝せずにはいられなくなるし、この言葉は、高橋信次先生にしてはじめていえることであって、高橋信次先生の偉大さの前に自然に頭を垂れざるを得ない心になる。 「正法は自力である」ーなんと力強くきびしく愛の深い言葉であろうか、人間はなにか問題があると、力一杯自分の力を出し切って解決しようとするよりも、その努力はせずにすぐ誰かこの問題を解決してくれないかと、弱気になって何かに、また人に頼りたくなるものである。 「正法は自力である」という言葉の中には、凛として「お前はその問題を解決する力があるんだよ」という、天からの声を聞く思いがする。 「なぜなら、人間は神の子である。原因、結果の因縁因果は、すべて自分の想念と行為にあるからである」 人間は神の子だと説きながら他力信仰をやらせている教団がある。 神は天地を創造された。 神は絶対であって、神はなにか神以外のものに頼ってこの天地を創造されたわけではない。 その神の子であるならば、人間もまた自分の運命を創造する力が与えられてあるということではないのか。 自分の責任ではない他の人の運命を自分が引き受けるということは不合理である。 もし、他の人の因縁を自分が引き受けるのだとしたら、それはどうしてそうなるかが説明されなければならない。 例えば、ある人が病気になった。ところがこれまでの宗教団体では、それは先祖の因縁を受けたのだという。 子孫は何人もあるのに、なぜその人だけが先祖の因縁を受けなければならないのであろうか。 よく、信者の病気は私が引き受けましたという教祖がある。 信者の病気をすべて引き受けるというのであったら、信者の中にはいろんな病気を持った人がいるのであるから、信者の持っている病気はみな教祖の肉体に現れなければならないということになるが、病気を引き受けたという形跡もなく元気いっぱいでいるという教祖がいるが、元気な教祖は信者の病気を引き受ける力がないということになりはしないか。 他力信仰は、自分の責任でないものを引き受けて、それとともに自分の業も一緒にとの力に頼ってよくしてもらおうというのであるが、自分で間違ったことをしていてそれを反省も修正もせずにいて、それですべてをよくしてもらおうとすることは全く筋が通らない無責任な話である。 その人の運命のうち、どこからどこまでが人の業で、どこからどこまでがその人自身の責任なのであろうか、人の因縁を受ける人と受けない人とはどこが違うのであろうか。 多くの人は「それは先祖の因縁ですよ」といわれると無批判にそれを信じてしまって「何人も子孫がいるのに、どうして自分だけがその因縁を引き受けて苦しまなければならないのであろうか」ということなどは考えようともしない。 私たちがこの言葉で知らなければならないことは、自分の運命はすべて自分の責任であって他の責任ではないということである。 自分がつくった借金は自分が払わなければならないのであって、他人が払ってくれるのではないということである。 釈尊が説かれた因果のほうは「一切は自分の責任である」ということであって、従来のお坊さんやまたいろいろな教祖がいっているような、自分の責任でもないものを自分が受けてしまうというものではないということなのである。 一切は自分の責任であるからこそ、我々は因縁を越えることが出来るのである。 よく「因縁切り」だといって、金や物を上げさせたり、お詣りさせたり、断食や水行をさせたり、いろいろなことをさせる教祖がいるがそれは間違っている。 例えば、いつもよく腹を立てる人がいる。その人が腹をたてないようになるためには、その人が心の正しいあり方を知って、自分で腹を立てないようにする以外に腹が立たないようにする方法はないのであって、自分がいつも腹をたてていながら、いくら行をしてみても、金や物を上げてみても、それでその人が腹を立てないようになるということは絶対にないではないか。 自分がしたことを他人のせいだと考えたり、自分がしなくても誰かがよくしてくれると自己の責任を回避せずに、自分のことは自分の責任だと自覚して一人一人が正しくなってゆけば、それでこの世は極楽往生になるという、誰もが納得できる、また実践できるやさしい道、実はそれが釈迦、キリストが説かれた正法なのである。正法誌第37号 1981年9月号より抜粋心の曇りが晴れる本 【目次】第1章 幸せの正体を考える/第2章 思いに秘められている無限のパワー/第3章 心の浄化で運命は好転する/第4章 正しい呼吸法で身も心も快調/第5章 内観瞑想で自己発見の旅へ/第6章 止観瞑想で理想的なあなたに/第7章 対人関係の悩みを解消する瞑想法/第8章 真の願いをかなえる理想・希望実現計画表
2008.08.01
コメント(1)
高橋信次先生の言葉因縁を越える道と助力 正法は自力である、なぜなら、人間は神の子であり、原因、結果の因縁因果は、すべて自分の想念と行為にあるからである。因縁因果を越えるには、善念を起し、勇気と努力をもって自分を変えていくしかない。 守護霊の助力は、そうしたときに働き、私たちを導いてくれる。最近、ややもすると、こうした自力の精神を忘れ、いたずらに固有の天使の名を呼び、助力を求める傾向にあるのは遺憾である。 もちろん、天使の名を心に思い、求めれば、手を貸し与えてくれることもあろうが、しかし、それにより奇蹟が起こり、急場を凌いだとしても、病気の原因を根本的に改めない限り、また同じような、あるいは、ちがった形で病を作り出していくだろう。 自分をかえりみることもなく、固有の天使の助力を求めることは、それはとりもなおさず他力の所業であり、他力はやがて欲望充足の道具と化してしまう。 このことは自身を守っている守護霊をいたずらに口にする場合も同じことである。 ただ守護霊の場合は、その人を専任で守護し、指導をしているので、純然たる指導霊乃至は天使とは趣が異なる。したがって、なにかあった場合、決して固有の天使の名を口にしてはならないのである。ユダヤ教のヤーヴェ(キリスト教ではエホバという)も、このことを再三注意している。 注意の趣旨は、自分をかえりみることなく、いたずらに助力を求める傾向が強くなると、信仰自体が他力と化してしまうからである。 また天使も、地上の人々が求めれば、他の重要な仕事をおいても、その声に耳をかさなければならなくなり、それが時には、より多数の人々を犠牲にしなければならないことも起きてくるからだ。 それだけに、自分の都合のみを願って、固有の天使の名を口にしてはならないのである。 人の心は一つにつながっている。 そのつながりは、自身の守護霊であり、ついでその守護霊の親しい友人、先輩なりの指導霊でありさらにそれにつながる天使の指導霊、そして大指導霊とつながる。 こうして人の心は、ひかりのことして、すべて一つにたばねられている。 それゆえ、助力を求める手順は、まず自身の守護霊であり、守護霊が経験不足の場合は、守護霊から指導霊なり天使に連絡される。 そうして、本人が知らない間に指導霊なり天使の助力が行われ、それが時として奇蹟となって現れたり、智慧の発見として、その人を助けるようになる。 しかしこうした助力というものは、日頃、本人が努力しているか、誠実、真実に生きているかどうかによって大いに変ってくる。 つまり、指導霊の助力の根底にあるものは、他力ではなく自力の精神であるからだ。 他力の行き方は、本来の人間性を否定し、神の子の想像力を曇らせる。 神は、自分を愛する者を愛し、自己の神性を否定するものを拒否する。 人は神の子であり、自分を愛せない者は神を否定し、人を愛することができないからだ。 この意味においていたずらに現実の現象、奇蹟のみに心をとらわれ、 自らをこころみない行為は厳に慎まなければならない。 正法誌第37号 1981年9月号より抜粋7月20日・品川セミナーのお知らせです。詳しくは、こちらをご覧ください。http://plaza.rakuten.co.jp/hhokari/022001突如として訪れた啓示が、あなたの人生を変える。物質世界と精神世界の結び目=シンクロニシティ。この“奇妙なる偶然”で人生の意味を知る、自分を見つける。
2008.07.13
コメント(0)
全27件 (27件中 1-27件目)
1