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夫婦の場合であっても、性を罪悪視していることが夜の生活を臆病にさせ、それがなんとなく不調和の原因となっている場合もある。調和の方法は夫婦が話し合って決めればよい。釈尊はこのように夫婦の性生活の大事さを説かれたのであったが、そのことは後世に伝わらなくなってしまった。夫婦の性をも罪だとしてしまったことによって、仏教伝来以来、どんなにたくさんの人々が正しい生活が出来なくなったことか。性が罪となるのは、中道をはずれて極端に放縦となるか、極端に潔癖になるか、また、不当な相手に向けられた時である。だからそこには、感情に流されないところの知性と理性によるコントロールが必要となってくるのである。魂の成長人間はやがて年齢とともに、性を必要としなくなってくる。それは神が、肉体的な欲望執着をなくして魂の成長のみをめざし、なに一つ不安なくあの世の世界へ行けるように準備せしめていられるのであるから、そういう年齢になったら、肉体的欲望は捨てて、あっさりと魂の成長のための勉強をすべきである。そういうことがなくなったことを人生の楽しみがなくなったと考え、いろいろな薬品を使って取り戻そうとすることは大きな執着となり、地獄行きの原因となる。自然の法則に逆らわずに、魂の修行をすることである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋ブッダの教えで最初の際立った特色は、あらゆるものの中心に“心”をおいたことである。“心”は物事に先んじ、支配し造り出す。もし“心”を完全に把握すれば総ての事も把握できる。“心”は総ての働きを導くものであり、主人であり、“心”そのものがその働きでできている。先ず専心すべきことは心の修練である。第二の特色は、我々の内外に起る総ての善悪は心が生み出す。悪や悪に関連し悪に属する一切の事柄は心から生じる。善についても同様である。閉ざされた心で語り行為すれば、牛に曳かれる牛車の車輪のように苦しみがついて回る。それ故心が澄み切っていることが宗教の核心でなくてはならない。第三の特色は一切の罪深い行為を避けよ。第四に真の宗教は宗教書の中ではなくその教えの実践にあるとした点である。インド仏教徒1億人のバイブルの歴史的名著、ついに復刻。インド仏教徒の最高指導者・佐々井秀嶺氏の解説を新たに収録。ブッダとそのダンマ価格:1,050円(税込、送料別)
2010.09.28
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性をどうみるか日本の宗教は性を罪悪視してきた。神道でも月のもののある女は不浄として神前に出ることはゆるされなかった。仏教は儒教の影響を受けて、やはり性器を不浄のものとした。キリスト教も性を罪悪だとしてきた。世界中が性を罪悪視してきたことが、釈尊がマヤ夫人の右脇下から生まれられたとか、キリストが処女マリヤから生まれたという伝説がつくられたのである。男女両性が、それぞれに肉体的な特徴を持ち、その結合によって子供が生まれるという法則は神が定められたのであるから、神が定められた法が罪であるということは絶対にないはずである。神が作られた法を破って、釈尊、キリストだけが特別の生まれ方をされたということはない。だから仏教は、釈尊がマヤ夫人の右脇下から生まれたという伝説をつくった時、キリスト教では、キリストが処女マリヤから生まれたという伝説をつくった時に教えが大きく歪められはじめ、やがてそれが釈尊・キリストの教えを実行するのではなくて、特別な偉大な方として礼拝の対象とするようになってしまったのである。だから現在の仏教・キリスト教のあやまりを修正してゆくには、まずこのことから正してかからなければならないのである。性というものが罪悪であるとしたら、神は男女の両性を今のようにはつくられなかったであろうし、男女両性の結合という方法をとらずに子供が出来るという方法を与えられたはずである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)第1章 ゴータマ・ブッダの根本思想(一切皆苦/心のカラクリ/心の向きを変える/知見と気づき)/第2章 最初期仏教の基本的立場(戯論寂滅/内面への道/自らを洲とす/中の教え)はじめのブッダ価格:2,100円(税込、送料別)
2010.09.11
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愛その男女両性の愛から出発して、それがひろがって、隣人愛、社会愛、国家愛、世界愛、宇宙愛へと発展してゆかなければならないのである。だから家庭において男女両性の愛の調和をはかれない人は、隣人愛も社会愛も・・・考えることは出来ず、むしろ社会に害毒さえ与える存在になってしまう。愛とは神の光を地上に顕現する祈りなのである。だから愛する顔が光り輝いているのである。男女両性の愛が隣人愛、社会愛・・・と発展するのであるといったが、それはこの地上界を中心として考えたときに愛はそのようにして時間空間的に大きく拡大し発展していくものであるということになるが、実際はあの世においては、一切はただ一つの愛の光によってつながれているのである。あの世の低い段階では、集団的に、人種、民族、国家、宗教の別があるが、高い段階には一切の差別がない。みな一つである。その一つの世界から、この現象界に出てくることになると、それぞれの役割となって肉体を持つのである。そうすると現象界だけを中心に考えるようになって、そこに自と他の別、男女の別、人種民族の別ができて対立抗争が起こることになってしまうのである。自と他の区別があるようで区別がなく、男女の区別がありながら区別がなく、人種の区別がありながら区別がなく、国境がありながら国境がないというのが真実である。禅定をして霊を高めていくとそういうことがわかってくるのである。それがわかった程度に従って心の安らかさの段階も違ってくるのである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)1 こころのカラクリ(善い行為には善い結果/ほんとに善行為?/助けてあげたのに怒られる/二重の損/平和好きのお面 ほか)/2 こころを洗う(神頼み、ひと頼み、○○頼み/お祈りしたらきいてもらえる?/人は弱い/弱い私たちが強い?!/強いやつはどこにいる? ほか)こころの洗濯価格:998円(税込、送料別)
2010.09.01
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人間社会は、この男女両性の調和からすべてが出発する。社会の最小単位が夫婦生活即ち家庭である。そこに子供が生まれ、親が中心となり、子供が惑星となって、家庭が一つの太陽系となり、そうして他の人々との連携を深め調和された社会が創造されていくのである。家庭生活がなかったら社会生活もない。結婚が行われ、家庭を持つことによって人類は、永遠に連綿としてこの地上に生命を持ってゆくことが出来るのである。だから、夫婦になったものは自分たちだけ何とか一生を暮らせばよいというものではないのであって、正しいよい伝統、正しい法を未来に伝えてゆかなければならない使命を持たされているのであるが現在、ほとんどの人がそのことは忘れている。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋人は誰もが、生きて、死んでいく。しかし、誰もが、死を知らない。だから恐れてしまう─「死にとうない」と。生とは何か?死とは何か?かつて、死と真正面から向き合い、清々しく旅立っていった禅僧の死生観から、私たちが現代を生き抜く智慧を得る。死への疑問がみるみる氷解。生死と向き合い生き抜いた、先人の生き様を紹介。さわやかに死を見つめる80の話価格:1,470円(税込、送料別)
2010.08.28
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陰陽の調和神はこの世界を陰陽に分ち、その陰陽の調和によって現象界は回転するようにつくられた。神・・・陽 男 雄 雄花 陽電気 陽電子 時間 火・・・ ・・・・・陰 女 雌 雌花 陰電気 陰電子 空間 水・・・結婚とは、陰陽の調和である。男女は、それぞれに役割と特性を持ち、両者は結婚によって、精神的、肉体的に成長してゆくのである。もし、男女平等ということで、結婚という共通の場を持たず 、別々に行動すれば人類は滅びる以外にない。この世を仏国土にし、ユートピアにするためには、結婚という共通の場を持ち、各人の心にそれを作り出して、それを子供に伝えていく以外にない。この肉体をこのまま何百年も何千年も保たせることはできないのであるから、心から心へ伝えてゆく以外にない。だから結婚とは、神の心をこの現象界に顕現するところの、神が定められた約束なのである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)幸せってなに?/幸せを感じる瞬間は/幸せって「わがまま」のこと?/ほめられたら幸せだけど…/ひとりの幸せは他の不幸/不幸のおねだり/「幸せ」の正体は不幸せ?/なにはなくても健康なら幸せ?/美しいと幸せ?/では、なにが幸せなの?/充実感とは「生きている」こと/人生でするべきことがあれば幸せ/幸せとは「足るを知る」こと/見方を変えれば幸せ/簡単にできる幸せチェック/今すぐできる幸せチャレンジ/幸せを失う落とし穴/悩みなんかはシャットアウト/火事にあっても泣きません/ほんとうの幸せ幸せをひらく鍵価格:998円(税込、送料別)
2010.08.19
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女性の役割女性の役割は家庭にあって、次代の子供を正しく養育することであって、その役割は、外にあって働く男性の役割より劣るものでは決してない。男が外で収入を得てくるからといって、そのゆえに男が威張るのもまちがいであれば、女は家庭で使うばかりであると思うことも間違いである。過去・現在・未来と人間が輪廻転生できるのも、子供を生むという役割を女が果たすからであり、その生んだ子供をどのように教育してどのような人間にするかということによって女は男よりもより多く未来社会にかかわりを持つ。その点、男はより多く現実社会のために費やす。だから男は、女が子供を生み、その子供をどうやって育てるかということを通して未来社会により多く貢献して行くのであるという女の役割を知って、女が安心してよりよき子供を育ててゆける環境を与えてやる、そのことに喜びを持たなければならないのである。子供に手がかからなくなったということで、子供が幼稚園や小学校に行くようになるとすぐ働きに出る主婦が多くなったが、子供の教育よりも、得る収入の方に心の重点が移るその程度にしたがって、やがて子供の問題で苦しむことになるのである。現在の経済事情では、どうしても共稼ぎでないとやってゆけないという人たちもあるであろう。それはやむをえないことであるが、それだけに夫婦が協力して子供の問題を真剣に考えてゆかないといけないのである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)この世から戦争をなくすために/平和という道/「敵」という亡霊/ナショナリズムを超えて/安全保障という神話/創造力の源/魂をめぐる駆け引き/怒りはなぜ治まらないのか/神は戦争を望んでいるのか?/テロ、イデオロギー、愛/愛のある交渉術/希望の道あなたの心から世界が変わる価格:2,625円(税込、送料別)
2010.07.23
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十年前には誰も、勿論、アメリカだって日本の自動車産業のために、アメリカの自動車業界がだめになることを考えた人はいなかったのであるが、黙々と努力しているうちにこうなってしまったわけである。イデオロギー的な男女平等という考え方は、ユダヤがつくりだしたニセモノの考え方であり、すべてを金銭に置き換えて考える考え方もユダヤがつくりだしたのであることを知ってもらいたいと思って書いているうちにこのように書いてしまったが、男が収入を挙げるのであるから女もそうしなければならないと、男と張り合って男女平等を主張することは間違いであることを知らなければならない。収入を直接挙げるから男が立派であって、女は家庭でそれを使うばかりだから、女は男より劣っていると見るのは、金銭を中心にしてみているのであるから正しい見方、考え方ではない。男が外で働いて収入を得て帰ってくるのは、それはそれで尊いし、女が女として家庭を守るのはそれはそれで尊いので、それはそういう役割なのである。いくら男女平等が正しいのだと、自分で自分に言い聞かせてみても、それが自然の正しい法に沿わないものである限り、心の中に抵抗が起こって心を安らかにすることはできない。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)激動する現代社会における「仏教徒のあるべき姿」とは。「仏教を学ぶ者が、どのように社会と関わりあうべきか」という重要なテーマを、タイ仏教界最高の学僧が明晰に説く。「志欲」「情報化時代」「超能力」「菩薩」「如理作意」など、これまでテーラワーダ仏教で取り上げられることの少なかったテーマを明快に解説。現代仏教の最高の到達点がここにある。仏法の思考と実践価格:3,360円(税込、送料別)
2010.07.15
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いろいろな起伏はあっても、最終的に日本が経済的に困ることはないユダヤは世界統一をまず、全世界の経済界を牛耳ることに達成しようという計画を持っているわけである。だからいろいろな手段を使って支配を図ってくるであろうが、ユダヤの計画が実現することは神の心にそむくのであるから、必ずどこかで破綻をきたして失敗するのである。ユダヤが有色人種の国を経済に支配しようとしてこれから打つ手は、逆にそれらの国々を力づけることになって最後は挫折することになるのである。終戦後アメリカは、日本の財閥を解体した。しかし、それは商社となって世界中に活躍している。アメリカが世界中の石油資源を手中に納めて、世界支配をしようとしたことは、アラブの石油産出国を結束させてオペックをつくらせることになり、お蔭で日本は燃料に困ることはなかった。これからも困らないであろう。日本は国内に資源がないのであるから、資源を持った国と仲良くしてゆかなければならない。その資源国はすべて後進国であり、それらの国々は自分でその資源を生かす技術を持っている。日本とそれらの国々が提携すればユダヤの経済的な世界支配はできなくなる。日本はこれから後進国を援助して、徳を与える国になることである。後進国を支配して儲けようと考えてはならない。後進国が立派になるためには、骨身を削ってその国のためになるという努力を続けてゆかなければならない。そうすれば日本は絶対に困ることはない。そのためには日本人全体がそういう心にならないといけない。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)第1章 お釈迦さまが気づいていた世界/第2章 お釈迦さまの日常生活/第3章 コミュニケーションと共感脳/第4章 現代人の問題/第5章 生きることへの科学の目、仏教の目/第6章 瞑想と脳の機能仏教と脳科学価格:2,205円(税込、送料別)
2010.07.08
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日本人全体がユダヤのワナに、はまって拝金宗になることを防いでくれたのは新興宗教であった。しかし間に合わせつくられたものはホンモノがつくられればその役目は終わるのであるから、間に合わせにつくられた新興宗教が永遠につづくはずはないし、役目が終われば消えるのは当然である。新興宗教が、日本民族を全部、拝金宗にしようとしたユダヤの謀略から、日本人を守って、金より以上に尊いものがあるということを教えたことはありがたいことであった。だからこれまで新興宗教も一応の存在価値があった。その功績は素直に認めなければいけないが、しかしやはり、間違っている点が多いのであるからそこに気づかない人達のために、それらの人々を救うために、間違いは間違いであるということはいわなければならないのである。以上のような意味において、邪教といわれるような新興宗教も、一時的存在として天上界から許されているのであるが、それをいいことにして、教団の財産を私物化して存続を図ろうとすれば、いつかはその反動としての苦難を経験しなければならないことになる。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)第1章 人はなぜ祈るのか/第2章 生きるということ/第3章 死んだらどうなるか/第4章 幸せになる心の法則/第5章 不善の感情と向き合う/第6章 心の大人に至る道/第7章 一切は瞬時に変化する/第8章 すべては因縁で語られる/第9章 生きることが苦ならば仏教は心の科学価格:500円(税込、送料別)
2010.07.03
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なぜ神は、邪教といわれるような新興宗教の存在を許していられるのか現在、日本には約二十万近くの宗教法人がある。正法の立場で見ると、あれでも宗教といえるのか、と思われるようなものまで一杯ある。近代国家で、しかも終戦後わずか三十年くらいで、これだけたくさんの宗教がいっぺんに出来たという例はこれまでの世界の歴史の中にもなかったであろう。表向きの原因といえば、敗戦で内地は爆撃され、原子爆弾が落とされ、外地からの引揚者は裸一貫で、とにかく食べるものが欲しかった。着るものが欲しかった。住む家が欲しいという。その上に日本は神国であるから、どんなことがあっても最後は神様が守ってくださると思っていたのに、その神の加護もなく精神的にも拠り所を失ってしまったのであるから、少しでも精神的なよりどころとなり、おまけに物質的になんでも与えられるとなれば、そうした現世利益宗教に飛びつかなければおかしいような状態にあったといえる。ユダヤは、一切の宗教をやめさせて全部を拝金宗にすることを実行したわけである。無信仰で金になりさえすればそれで良いと考える人も確かに増えてきた。ところが、創価学会の出現が、日本に共産革命、社会革命が起こることを防いでくれたように、戦後、簇生した新興宗教が日本人全体が拝金宗となることを防いでくれた。間違った信仰をしている人達であっても、金よりは信仰の方が尊いと考えている。信仰のためには金は惜しくないという人が多い。戦後の新興宗教も、全部が間違っているわけではないし、正しい点もあるから信じているのであって、ただ、指導者も信者も、間違っていることも正しいと信じているところに問題があるわけであるが、そのどこが間違っているかは正法が分からないとわからないのである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)だれだって歳をとる/太陽も変わる、地球も変わる、なんでも変わる/変わることが存在すること/太陽さえ生まれたり消えたりする/極小レベルも変わる、変わる/変化のなかのつかの間の命/「私」という錯覚/変わっていくのはあたりまえ/生きていることこそ、びっくり!!/ビッグなスケールで「老い」を見る/気持ち年齢/気持ち年齢と身体年齢のずれ/歳にふさわしいことをする/身体年齢を忘れたら失敗/「私は若いけど、あなたには無理でしょ!」/熟練者のラクラク野良仕事/八十歳の仕事に八十歳の幸せ/明るくかわいいお年寄り/「身体は歳とっても、精神だけはくたびれないように」/明解・こころをピカピカに保つ法/こころが錆びる第一の原因「欲」/欲って暗い/少欲=シンプル=楽/こころが錆びる第二の原因「怒り」/こころが錆びる第三の原因「無知」/無知にならない「裏ワザ」が買える?/「なんでも無常」でこころはピカピカ/歳をとることのない大いなる恵み老いは楽し価格:998円(税込、送料別)
2010.07.01
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日本にはふしぎな使命が与えられているユダヤ民族が2千年も前からこのような世界謀略思想を持ち続けてきているのであるから、ノストラダムスが「ユダヤ思想が危ない」と警告するのも当然のことである。ノストラダムスならずとも、ユダヤがそのような思想を持っていることを知った人なら誰でも警告を発するはずである。日本は敗戦して無条件降伏したということにより、ユダヤ思想の実験国家にされてしまったわけである。この実験は、ある程度成功したともいえるし、また、成功しないであろうともいえる。絶対にさせてならないのは、完全な実験国家になって国としての主体性を失ってしまっていけないということである。神への信仰や精神の高貴さを奪って、金を儲けることだけが人生の目的であるという拝金宗を植え付けて、さらに政治は、道徳を以ってしてはいけないということにして、金権政治にし、その上でわれわれが世界の全民族を思うように支配するのであるというような心を持っているユダヤを、神がそのまま見捨てて置かれることはないし、因果の法則によってユダヤは自分たちが苦しむことになるし、世界の民族の中で、いちばん最初に「人種差別撤廃」を叫んだ道議をを中心とした日本のあり方を、この地上から消してしまったのでは、神の心のとおりの仏国土をこの世に築くことはできないからです。私(園頭先生)がここで強くいいたいのは、「ユダヤ民族よ、あなたたちは、自分たちだけが神の選民だと思うままに支配しようという今のような世界統一の唯物思想を持って、日本をもう一度だめにしようというようなことを考えられたら、因果の法則が働いて、ユダヤ民族のあなた方が困ることになりますよ」ということである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)人間は生まれつきわがままです/すばらしい慈悲のエネルギーと功徳(よく眠り、よく目覚める/悪い夢を見ない ほか)/慈悲の冥想/慈悲の光をつくる/地球からの借りものに執着する苦しみのこころ/大地のこころ、母のこころ/自分を観る冥想(ヴィパッサナー冥想)/質問コーナー(殺生は怒りのこころ/慈悲のこころで生きる ほか)慈しみと人間成長価格:998円(税込、送料別)
2010.06.20
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各国民は、自分の個人的利益に没頭して、国の運命がどうなろうと、その国を侵略しようとしている国があろうと、そういうことには少しも注意を払わなくなる。(日本人の中にも、こういう人がたくさん出ている)他人よりも優越感を持とうとしてさかんに闘争をやるようになり、事業界における普段の投機(株の買い占め、企業の乗っ取り等)とは、道徳も人情も全くない社会をつくり、その社会は、宗教にも政治にも無関心どころでなく、むしろそういうことには嫌気、吐き気がして、唯、金を儲けることが唯一の指針、たのしみとなり、金を集めるためにはどんな努力でもするということになる。いわば、物質が楽しみだけの拝金宗となってしまう。書けばまだあるが、これだけでも、いかに現在の日本がユダヤ思想のとりこになって目が見えなくなっているかおわかりであろう。このシオンの議定書が、今のような形の文章にまとめられたのは今から約百年前であるが、しかし、この中に書かれてある考え方は、ユダヤ民族が流浪の旅を始めるようになった二千年前から代々考えられ続けてきたものである。短く考えても、今から百年前に世界を日本を、このような状態にすることを計画していたということに驚かなければならないし、また、事実、その通りになってしまっていることに尚一層驚かなければならないのである。アメリカ占領政策が日本弱体化政策であったことは、マイケル・アームストロングというアメリカの学者が「日本人に感謝したい」という本に書いている通りである。この本は「日本人よ、あなたたちは、アメリカの占領政策を忠実に守ってくれて、馬鹿になってくれました。自分では、自分の自主的な独立独創的な考え方をしていると思っているが、今、日本人が考えている考え方は、アメリカが日本を弱体化しようとして与えた考え方しかできないようになってしまっているんですよ」という。日本人を馬鹿にしたといえばこれ以上馬鹿にした本はないし、また、これ以上、日本に警告を促してくれた親切な本はないといえる。「シオンの議定書」の中には、「三S政策(セックス、スポーツ、スクリーン)を通じて青年の考え方を骨抜きにする。金が人生の目的だということを教えて、歌ったり、踊ったり、スポーツをすれば大きな収入になるというようにして歌手やスポーツ選手を高給取りにして、まじめにコツコツ勉強するのは馬鹿らしいことで、それよりも勉強せずに高給を取った方がよいというようにさせて、まじめに勉強する青年がいないようにするのである。まじめに勉強する青年がいなくなれば、やがてその国は、立派な指導者がいなくなって滅び、そうすれば、金を出してくれる人をありがたいと思うくせが付いているから、われわれが金をだしてやって、経済的方面からその国を支配するのである」ということが書いてあるのである。日本は全くその通りになっているではないか。このことも、この「日本人に感謝したい」という本に指摘してあるのである。正法誌N038号1981年 11月号より抜粋老いること、病気になること、死ぬことは、私たちに確実に訪れるもの。闇雲に「老病死に勝つ方法」を求めても、実現することはできないでしょう。しかし、お釈迦さまは、心と体の因果法則を二五〇〇年に実証し、真の健康を手に入れて、幸福に生きるための智慧を説かれていました。その根本にあるのは、心を清らかにして慈悲の心を育てること、そして、「老い」「病」「死」にどう向き合うべきかを具体的に学ぶことなのです。付録として、死を理解する経典「箭経(Sallasutta)」を、解説とともに掲載。老病死に勝つブッダの知慧価格:893円(税込、送料別)
2010.06.10
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われらの標語は、力と偽善である。古代において真っ先に、自由、平等、友愛を民衆に投げたのは、われわれユダヤ人である。われわれは、徳によって政治することを打破して、金によって政治することが正しいのだと教えた。だから、徳のある人は政治家にはなれないように、金のある人しか政治家になれないようにしたのである。(日本の金権政治も、ユダヤ思想に毒されているのであるが、政治家はそのことに気づいていない)貪欲、個人主義的欲望を動かして、彼らを、彼らに金を出してやる人の思うままにならないようにさせた。そうして、人間の独創の精神を殺してしまった。(現代の人々が、金を出してやるという人があればどんなにたやすくその人のいいなりになり易いか、それはあなた方が知っていられる通りである)第四議定 宗教に対する闘争信仰があれば人民は、よき精神指導者の下に、神が地上に打ち立てた法則に従って、安らかに調和した生活をしていけるようにになる。そうなってはわれわれの目的を達することはできないから、ユダヤ民族以外の民族(ゴイム、これからはゴイムとだけ書く)の精神から、あらゆる信仰を破壊し、神の観念を抜き取ってしまわなければいけないのである。そのために、それに代わるものとして、物質の欲求と数字で計算できる金が人生の目的だと教えるのである。(高橋信次先生が、講演の度ごとに、資本主義も共産主義も、どちらも唯物思想であって神理ではない。この二つの主義思想を超越しなければいけないのであると絶叫された意味が、よくおわかりであろう)正法誌N039号1981年 11月号より抜粋あなたはけっして一人ではありません。神の深い愛に支えられ、包まれているからです。悩みや苦しみは、あなたの成長にとっての気づきなのです。自分を好きになるための心のビタミン。立ちどまってしまったあなたへ価格:1,449円(税込、送料別)
2010.06.04
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正しい男女観と夫婦観女は経済的理由で結婚をしてはならない人生は何も収入を得るためだけにあるのではない。近代の唯物的思想、資本主義的思想の奴隷になった人達は「収入の多い人が立派な人で、収入のない人はわるい人だ、劣った人である」という考え方をするようになってしまった。世の中がよくなるためには、収入の多い少ない、収入のあるなしで人間の値打ちを決める、物質主義、金銭主義の考え方が変わって来なければいけないのである。資本主義思想も共産主義思想も、どちらもユダヤ民族が世界支配のために考え出した謀略思想なのであるが、いかにこの世界の人々が、この謀略思想のワナにはまっているかは、あなたが、何かものを考えようとする時でも、その判断の核心になるものは「そうしたらどれだけ儲かるのか、損するのか」という損得の判断しかないことを考えてみられるとわかるのである。あなた方のような、一応の常識を心得ていられる立派な方でもそうなのなのであるから、そうでない一般の多くの人達が、あなた方より以上に損得を考えるのはもっともだとは考えられないであろうか。それほど、まちがった思想に毒されているのである。参考に、その拝物、拝金の思想の原点はユダヤの謀略にあることを示すことにする。ユダヤ思想と運動シオンの議定書 第一議定の中より「地球上の至るところに、自由、平等、友愛の標語が、われわれに煽動された旗持ち人足どもの熱心な努力で、莫大な人間をユダヤ陣営に引き入れたか。(自由、平等、友愛を、真理だと思っている人は、顔は日本人でありながら心はユダヤ思想の奴隷だということである)この標語が、どれだけユダヤ民族以外の民族の繁栄を虫食み、平和、協同、安寧を破壊し、国家の基礎を危なくしているか。就中、われわれの唯一の切札は、政治は道徳でするものではなくて、権力即ち金による権力でするものだということにしてしまったことにある。道徳で政治をする人はいい政治家ではない。政治をしようとする人は欺瞞と偽善を用いなければならぬ。一般の人々が大きな徳目としている正直、率直は、われわれの政治においては不徳とするのである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋私たちが考え悩み続けてきた「どう生きたらよいか」という問題を、初期仏教は、「私とは何か」を知り尽くすことによって解決します。「私」がわかれば、「生きること」の真実がみえてくるのです。こうして導き出される「生きること」の答えは、「動き」、「知ること」、そして「苦しみ」です。しかし、苦しみは嫌でしょう?不幸より幸福がよいでしょう?だからこそ、生きる目的は「苦しみを乗り越えること」になります。幸福な人生に不可欠な生きることの根本=お釈迦さまの智慧を解説。
2010.06.01
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一見、不幸と見えることが幸福になる前兆であるあなたが正法を一所懸命やっていたのに不幸になってしまった。事業に失敗した。会社をやめなければならなくなった。いろいろな事情で住居を変えなければならなくなった。あるいは、何も暗い心を持ったり、人を憎んだりしたこともないのに病気になってしまった、というようなことが起こって来たとしたら、あなたはそれを喜びなさい。それはそのことによってあなたの魂が飛躍的に向上しなければならない場に立たされているのである。いままでやっていたことがつづけられなくなったということは、それはあなたがそのことから勉強しなければならなかった魂の勉強は、もはや勉強し尽くしてしまったから、もはやそこにいてもなにも魂の向上にならないから、今度は違った環境で魂の勉強をしなければならないということなのである。既にそこでの魂の勉強が終わって、今度は別な違った環境で勉強しなければならないということになった人が、一向にそのことに気づかずに環境を変えようとしない場合、守護霊や指導霊が強制的にその人を病気にしたり、あるいは仕事を失敗させて、どうしても、否が応でも変えなければならないという状態にさせられることがある。人生の生き方には二通りある。一つは、地位、名誉、金銭、物質欲を中心にして魂をくさらせてしまうか。一つは、魂を大事にして、そういうものに執着を持たないか。前者の生き方はやさしいし無難な人生を送ることができる。後者の生き方は周囲に金銭欲、物質欲に執着している人が多いだけに苦難な道を歩かなければならない。しかし最後の勝利は後者の生き方によって得られるのである。だから、もし皆さんが正法を信ずることによって、生活に変化が起こってきたとしたら、それこそ魂を成長させるチャンスが来たと明るい心で迎えることである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋「欲」「落ち込み」「暴力主義」が不幸の根源。この3つの汚れに気をつけるのです。実行してみれば、幸せで豊かな生き方が、すぐにできます。
2010.05.26
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Fさんは血統書付のスピッツがいなくなった。誰かが連れて行ったわけである。相手の名前が分からなくてもこういう時は「私の家のスピッツを連れていった人よ」と呼べば、必ず守護霊たちがその人の内面にそのことを通ずることになるのである。「あなたは私のところの犬を連れて行って、それで儲けものをしたと思っていられるかはわかりませんが、そういうことをしていたのではあなた自身が幸せにならないのです。私はあなたの幸せを祈っております。あなたが幸せになられるには、あなたはその犬はやはり元の処に返された方がよいのです。私達の知らない間に返しといてください」とその晩、祈られた。そうしたら翌朝、夜が明けてみたら玄関の処に返してあった。ある弁護士の人は正義感が強いだけに相手に対する攻撃精神も旺盛であった。引き受けた弁護がいつもややこしい問題で、自分ではりっぱな弁護をしたつもりでもいつも負けてばかりいたために収入も少なかった。相談を受けたので、攻撃的な心を捨てて相手の幸福を祈らなければならないこと、また法廷全体が神の光に包まれて裁判官も神の子であると祈ること、出てくる結果をすべて神の心として感謝すること、以上の三つのことを教えてあげた。そうしたら客筋が全部変わってしまって、難しいまた負けるような弁護の依頼は一つもなくなって、余り時間もかからず、しかも勝つような問題だけを頼みに来るようになって収入も増えた。キリストが「汝等を責め憎む者のために祈れ、されば汝等は救われん」といわれたのも、それが神理だからである。研修会に来られた人たちに対して私(園頭先生)は、「もし、この中で、今まで誰かを憎んできた人があったとしたら、この場でその人を赦し、その人が幸せになることを祈りなさい。あなた方のその祈りは、祈った瞬間に相手に通じて相手も変わっているはずである。だから、この研修が終わって家に帰られたら、その人がすっかり変わってしまっているはずである」という話をする。すると必ず帰ってみたら変わっていましたといわれるのである。ウソかホントかは、あなたが実践してみられるとわかることである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋仕事は順調で、安定した収入にも人間関係にも恵まれた充実の日々。病気とも無縁で、家族はいつも笑顔。人生が楽しくてしかたがない―。このような理想の人生を、いとも簡単に実現できる方法があります。二六〇〇年前にお釈迦さまが考えられた「瞑想法」です。これは、人間の財産である脳細胞を活発にする「脳のトレーニング」であり、心をきれいに磨き、完璧な安らぎを得るための「幸福の実践」です。この一冊で、あなたの脳の奥底に潜んでいる素晴らしい能力を掘り起こし、心満ち足りた成功人生を歩んで下さい。
2010.05.21
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麻薬常習者の精神錯乱も憑依による。だから、そういう人達に対しては家族あるいは周囲の者は恐れたり、忌避したりしないで、自分の心を愛に満たし(自分の心を愛によって満たすとその人の心からは光が出る)、その人も神の子であるから、その人が神の光に包まれて幸せになっている状態を心に描くと、自縛霊、地獄霊は光が一番恐ろしいのであるから、その光に恐れをなして憑いておれなくなる。自縛霊や地獄霊が憑いていてささやかなければ、その人はおとなしくしていることになる。人間の運命を支配するものは、表面の現在意識よりも、奥底の潜在意識の方が強いのであるから、表面はその人がどんなに立派に見えていても、潜在意識すなわち、心の奥底で、人を鋭く批判したり、人を抹殺しようと思ったりすると、類は類をもって集まるという心の法則によって、殺意を持っている人と波長が合って事故に遭うということになるのである。自分が正しいという正義感の強い人がなぜ不運になるかと言うと、自分の正しさを主張する余りに自分に反対する人を憎んだり恨んだり、あるいは抹殺しようと思ったりするからである。あんなに立派な正しい人がどうして運が悪いのであるかという疑問を持っている人は多いと思うが、それは潜在意識がどう思うかということが強く運命に影響してくるのである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋私たちを創造し、支配し、幸福や不幸を決めるのは、「心」です。心に振りまわされずに生きるには、心に維持管理されることをやめて、心を維持管理しなくてはなりません。それにはまず、心を分析して学ぶ必要があります。お釈迦さまは、五二種類の「心の中身(心所)」を発見されました。心の膨大なはたらきは、この「心の中身」を理解することで把握できるのです。A・スマナサーラ長老の『ブッダの実践心理学 第三巻 心所(心の中身)の分析』のエッセンスを、初学者のためにわかりやすく書き下ろした一冊。
2010.05.04
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人間の心は現在意識(表面の心)と潜在意識(奥底の心)とに分かれている。表面ではどんなに立派に見えていても、心の奥底で相手を憎んだり恨んだり、また、相手が不幸になることを望んだり、あるいは「あいつをころしてやろうか」とか「あいつがしねばいい」とか、いろいろと思う場合がある。四国で、精神病院を何回も出たり入ったりしていた息子が、斧で親や兄弟を殺したという事件もあった。精神病者は、その本人の意識が暗くなっているところへ自縛霊、地獄霊が憑依しているのである。精神病者だからといって四六時中、霊が憑依しているわけではない。憑依している霊がはなれた時はおとなしくなり、短い時間であっても正常に返る時があるのである。自縛霊、地獄霊は自分が攻撃的な心、破壊的な心、相手が不幸になることを喜ぶ心、あるいは、自分が攻撃されるのではないか等と不調和な心を持っているから、たとえその家族が日頃いい人達であっても、その精神病者に対して口では言わなくても「この息子には困ったものだ、早く死んでくれればいいのに」とか「殺してやりたいぐらいだ」と潜在意識(心の奥底)で思うと、本人の意識はそれを感じなくても、憑いている憑依霊がその殺意を敏感に感じて「おいおい、お前は殺されるかも知れんぞ」と耳元でささやくのである。誰でも自分が殺されるとなると死にたくないから、自分を守るために無意識のうちに防禦的な気持ちではあるが、動作は攻撃的になって飛びかかって行って殺すつもりはなくとも、結果的には殺すということになってしまうのである。地獄霊は『お前はあいつを殺さんとお前が殺されるぞ」とささやくから、自分を守るためにそうするのであるから、殺人を犯した後で本人がいうのは決まって「自分は殺すつもりはなかった」というのである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋悩み多い日常生活を心豊かに、明るく、のびのびとおくるための智慧がいっぱいつまっています!静かな感動を呼ぶ話題のシリーズ第5弾。
2010.04.28
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不慮の災害に合わないために通り魔殺人とか、あるいは東京の新宿でビルの屋上から投身した人が、路上を通りかかった人にぶつかって、その青年が死んだという事件、こういう事件はまだこれから増えてくるであろうが、こういう場合、今までの宗教指導者は「殺された人は前世で、その人を殺したから、今度は自分が殺されたので、みな前世の業である」と説明している。それは間違いである。自分の心の中に人を殺し、また、人を殺すと同じような想念がなかったら、我々はそういう人にそういう場面に会うことはないのである。殺された人は、前世で自分が殺されたから今度は自分がその人を殺したのであるということになって、人を殺すということが正当化されることになる。人殺しを正当化していいはずはない。それが本当だとするならば、例えば、強盗に入られて者を盗られた人は、前世でその人の物を盗っていたからということになり、人を殴っても、その人は前世で自分が殴られたから殴り返したのであるということになって、すべての悪事が正当化されることになり、そうなれば、この世は混乱して、この世からは一切悪事はならないことになる。そういう悪事を正当化する宗教は宗教ではない。すべての原因を、前世の業だとか、先祖の業だと説いているのは間違いである。この世のことはこの世の人々の心に原因があるのである。ほとんどの宗教団体が前世の業、先祖の業を説いているが、こういう事件があった。東京都内のある支部長が、会員から三十万円を借りて、営業資金にした。ところが商売がうまくゆかない。会員が返済してくれと言ったら「わしが借金して金が返せないのは、前世で君がわしから借金していたからだ」と。こういうことが本当だとしたら、思う存分、金を借りまくって、金を貸してくれた人にみな「前世であなた達は、わたしから借金して返さなかったのを、今、返してもらったんだ」といえばそれですむことになる。それでは社会は混乱して悪知恵の働く者が得をするということになる。会員から金を借りて返せなくなった支部長の中にはこういう人もいた。「わしは金を返そう返そうと一生懸命になっているが、わしがお前に金を返せないのは、お前のお題目が足らんからだ。お前の信心が足らないから、お前は貸した金を返してもらえないのだ」盗人猛々しいという言葉があるが全くその言葉そのままである。また一九八一年前後の事件で通り魔殺人で殺された婦人もまじめないい婦人であり、新宿で死んだ青年も親孝行のいい青年だったと新聞は書いていた。だから新聞を読んだ人達は、どうしてそういういい人達がああいう目に遭うのであろうかと疑問に思うのは当然である。この世で原因が見つからないとすれば、今までまちがっていわれてきた前世の業を引っ張り出してきて、あの人達は前世で人殺しをしていたから、今度は自分が殺されたのであると、辻褄を合わせたくなるのもまた自然である。しかしこれは殺人を正当化することになるから正しくない。ではその原因はどこにあるのであるか?正法誌N039号1981年 11月号より抜粋悩み、苦しみ、迷い…誰にも頼らず、自分ひとりで解決できる『反省・内観』。心にかかった雲を取り去って、新しい自分に生まれ変われる方法として注目を集める『内観』と『反省』を誰もが自宅で実践できるよう、著者自らの経験を踏まえながらやさしく解説した『反省・内観』の入門書。
2010.04.22
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光を念ずる時に光が現われるのである。われわれは実際は光を念じなくても神の光に包まれているのであるが、日頃のわれわれはそのことに気がつかないでいる人が多いし、また神の光に反した間違った暗い、不平不満の心を持っていることが多いし、すでに神の光はそこにあっても、われわれの心が波長に合わなければ神の光を現わすことはできないし、だから、神の光を念ずるということは、自分の心を光にするスイッチを入れることなのである。皆さんの家のテレビでも、電気は既にそこにきているのであるが、スイッチを入れないと画面がうつらないのと同じである。自分の心の波長が、地獄霊や動物霊に波長が合っていると、そのような画面がうつるのである。ある時には神に波長を合わせ、ある時には地獄霊や動物霊に波長を合わせ、ある時は、あの人がこういったから、この人がこういったからということでその人に波長を合わせているということになると、その人の人生には、よいこと、わるいこと、まちがったこと、いろいろに現われてくることになるのである。「不動心」は、つねに神の心に波長を合わせているところから生まれてくるので、神の心に波長を合わせるということをしないで、ただ単に「不動心を持ちたい」といくら念じても不動心を持つことはできないのである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋人は何のために生まれたのか、何をしなければいけないのか、どこから生まれてどこへ帰るのか、自分自身はいったい何者なのか。悔いのない人生を歩むために日々の暮らしの中に生かしたい「八つの誓い」。
2010.04.16
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一貫性のあるのが神理であり正法である神は一つであり、神理は一つである。個人が救われる原理も、集団、国家が救われる原理も一つでなければならない。こうした祈りをする人々、そしてその家は、天上界から見ると光って見えるのである。この祈りの仕方を整理すると次のような順序になる。一.心の波動を神に合わせる。敵、味方の想念を心の中から一掃して、相手も神の子であり、相手と共に救われてゆくことを祈る。二.自分の心がまん丸く光り輝いている状態を念ずる。胸の辺りに、風船玉のような光の玉を描く。三.自分の体全部が神の光に包まれている状態を心に描く。四.祈っている間に雑念、または生命に対する恐怖心がチラッとでも心をかすめたら、その都度、その瞬間に、心の中でそれを斬って捨てて否定して、その瞬間に「われは神に守られている。神と一体である」と念ずる。その時は、下腹に息をとめて、うんと下腹に力を入れ下腹のところで斬り捨てて否定して、瞬間に神の生命であり、神と一体であることを肯定するのである。一ぺん否定しても、また雑念、不安、恐怖心が起こってきたら、その都度否定し肯定することを繰り返すのである。神は絶対であり、神の力を破壊する力はこの世にはないのであるから、神の心に波長を合わせることが最高最大の大きな力となるのである。教祖また指導者に誓って心の波長を合わせるといっている宗教団体があるが、そういう人達は本当の神理を知らないのであるから、人に波長を合わせよという宗教を信じてはならない。もし、その教祖、指導者が死んでしまったら、どこに波長を合わせるのであるか。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋人生を変えたいときに、背中を押してくれる言葉が、ここにある。人生の目的を知ることができれば、実りある人生を歩む第一歩が踏み出せる。心と魂に焦点を合わせて生きれば、満ち足りた日々を送ることができる。
2010.04.11
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その夜、米軍が攻撃したのであるがこれは撃退した。私が爆撃されるのを第一線陣地から見ていた宮内正准尉は、戦後、私に「あの時の隊長殿の姿はまさしく観世音菩薩かと思われました。私が生きて帰ることができたのは、隊長殿のあの姿を見て、神があると信ずることができたからであると思います」という手紙をくれた。昭和五十五年八月、インド国立教育研修所教授、哲学博士、国連アジア道徳会議議長、アニル・ヴァイジャランカール氏と「宗教と哲学と道徳」について話し合った時、私が戦争中のその体験を話したら「あ、それと々話がリグ・ヴェーダ聖典(今から三千年位前)に書かれてあります」と教えてくださった。最初から日本人全部がこれをやるというわけにはゆかないであるから、正法を知った人から順次にこの祈りをすることである。日本の国全体が神の光に包まれていることを常に心の中で祈るのである。そうして、日本は国全体として徳を積むようにすることである。出来うる限り後進国の発展のために援助することである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)第1章 祈りのことば(人類救済の祈り/人類救済の祈り(実践)/天と地のかけ橋の祈り/神のみ業 ほか)/第2章 反省瞑想の言魂(反省瞑想/八正道1・正しく見る/八正道2 正しく思う/八正道3 正しく語る ほか)
2010.04.06
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昭和十六年十二月八日、大東亜戦争が起こり、昭和十八年一月、第六師団はソロモン群島ブーゲンビル島に上陸した。二月ガダルカナル戦は失敗に終わり、残った部隊はブーゲンビル島へ撤収してきた。ガ島は餓島といわれるように、優勢な米軍の前に、日本軍は弾薬も食糧もなくたくさんの兵が餓死した。ブーゲンビルの防備についた私達は、米軍との決戦を覚悟してとても生きて帰るとは思わなかった。レンドバーの米軍重砲陣地が完成するとムンダ飛行場めがして試射が始められたが、日本軍はただ撃たれ放しであり、ガ島からの飛行機による偵察爆撃、海上からの高速艇による威力偵察が始まった。いつもより爆撃の頻度がはげしくなり爆撃機の数も増し、ジャングルがなぎ倒されていった。幸いなことに第一線陣地は完全に秘匿(ひとく)されて一兵も爆撃で死ぬことはなかった。そのために米海兵隊の攻撃を撃退することが出来たのであるが、しかし、私のいた本部周辺は徹底的に爆撃された。第一線との通信線は切断され、連絡に飛びだした兵隊はみな爆撃でやられ、本部の位置を変えるために、位置を選定してきますといって飛び出していった副官も軍医も書記も全部やられてしまった。私一人が本部の位置にいても第一線の指揮は出来ないし、こうなったら第一線陣地の壕で指揮しなければだめだと、その壕を飛び出して第一線陣地めがけて走りだしたところを米軍の偵察機に発見され、ガ島上空に待機していた編隊が十分後には頭上に現われて私一人を目がけて爆撃を始めた。爆撃されたジャングルの跡というものはとても歩けるものではない。第一次長沙作戦の時、砲弾の中に座った時のことを思い出し、爆撃の真只中に禅定した。その時も私の心の中には、敵味方と分かれて争っているんだという思いは微塵もなかった。爆弾の威力は、中国軍の迫撃砲弾の比ではない。飛行機の胴体を離れた爆弾がシューっと空気を切って落ちてくるその音に一瞬「こんどはやられる」とふっと思うのである。その瞬間、その恐怖心をパッともう一つの心で断ち切って「我は神の光に包まれている」と臍下丹田に息をため、ジッと息をつめて強く念ずるのである。ところが前に後ろに遠く落ちるのは破裂するが、身近に落ちて、それが破裂したら木端微塵になって吹っ飛んでしまうというような近いところに落ちたものは全部破裂しなかった。持っているだけの爆弾を落としても死なない私を目がけて、こんどは150メートル位の超低空で五機編隊が、かわるがわる機銃掃射を始めたが、私の座っている横4.5メートルの所まで弾丸は撃ち込まれるが、私の体には当たらなかった。私の頭上には空の薬莢がカラカラ落ちてくるだけであった。余程恨めしかったと見えて、機銃も一発残らず撃ち終えても私が生きているので、最後に100メートルの低空に降りてきて、ジャングルの高い木の梢をかすめるように飛んできて風防ガラスを開け、手榴弾を投げつけてガ島へ帰って行った。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)第1章 人間をじいっと観察してきた/第2章 人はなぜ悩み、苦しむのか/第3章 「苦」とは、思いどおりにならないこと/第4章 「般若心経」は難しくない/第5章 受け容れる/第6章 有り難し/第7章 人は、喜ばれると嬉しい/第8章 宇宙を味方にする/第9章 釈迦の教えは「感謝」だった
2010.03.31
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その一瞬、肉体的な死の恐怖心が心をかすめる。その死の恐怖心を私はもう一つの心でパッと斬り捨てて「自分は神の光に包まれている」と念ずるのである。一発だけ砲弾が飛んでくるわけではない。矢継ぎ早に飛んでくるのであるから、その心は刹那々々の心の働きである。臍下丹田に呼吸をためて息をつめ「神に護られている」と念ずると当然炸裂するはずの砲弾が不発になるのである。その連続である。前の方に、頭上を飛び越して落ちるのはみな炸裂した。私はもし、私の祈りの力が足りなくてしんだらそれでいいと思っていた。そのうちに砲弾が飛んで来なくなった。都城の第二十三連隊が渡河して中国軍の後ろへ廻ったからである。砲弾が飛んで来なくなって、いちばん最初に私の所へ来たのは指揮班長の加藤准尉であった。「隊長殿、ご無事でしたか」と私のいる所へ登ってきた。このことがこれが一回きりだったら偶然だということで私はこのことをそう深く気にとめることはなかったと思う。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋1993年、屋久島の地で霊的自覚を得てのち、心身の癒しと神理正法流布の講演活動を続ける著者による、目覚めと安らぎを得るための愛の技法およびひかりの世紀を生き抜くためのメッセージ集。
2010.03.25
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「日本が勝ちますように」と祈ることは、実は「相手が負けますように」と祈ることと同じである。相手が負けますようにと祈ることは、日本人よりも相手の国の兵隊がたくさん死にますようにということを祈ることになる。肌の色や言葉は違っても、人間は皆、神の子である。神に生かされている同じ人間が、一方はたくさん死んで、私達だけが勝ち残りますようにと祈ることが、神の心に叶うことであろうか。神の眼から見たら、どちらも神の子なのであるから、どちらも繁栄し発展し幸福になっていくことを願われるはずである。だから、神に祈る時には、神の心に波長を合わせて祈らないとその祈りは聞かれないのである。私は日本人であり、将校として何人かの部下を持っているのであるから、常識的に言ったら日本が勝ちますようにという祈りをすべきである。しかし「神に祈れ」という天からの声を聞いた時、私はそういう祈りはすべきではないと思った。となりの歩兵第二十三連隊(都城)方面でもはげしい砲銃声がしている。間断なく落下する砲弾の炸裂で辺りは砲煙に包まれ土が草が飛び散っている。その中に私は座った。禅定を始めた。私の心の中には敵も味方もなかった。争いの真っただ中で争いのない調和された神の世界を描いた。その時、私は私の心が神の光に満たされ、私の身体全体が神の光に包まれていることを想念し、中国軍が十三門の追撃砲で日本軍をやっつけようと発射しても、そういう争いの想念は神の光の波長に合わないから、そのような砲弾はどんなに破裂しようと、神の光の内側にまで侵入してくることはないことを念じた。私がそういうことを念じたからといって中国軍が砲弾をやめたわけではない。いぜんとしてポン、ポンという迫撃砲弾の発射音が聞こえると、空気を切って飛んでくる砲弾の音が瞑目して禅定している私の耳に入ってくる。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋第1章 「心の十字架」を抱く生き方(「宇宙創造神の魂」を感じること/「生き通しの過去世の魂」を実感する ほか)/第2章 「見えない世界」を感じる生き方(人は、この世にどのように生まれてきたか/この世に正法を伝えた人々の魂 ほか)/第3章 「心を浄化」し、高める生き方(心を浄化する方法/心の中の「カルマ」を見つける ほか)/第4章 現実世界を「心」でとらえる生き方(お金や地位、名声とはなにか?/家族の役割とはなにか? ほか)/第5章 「宇宙意識」を感じて生きる(自分はどこからきたのか?/人生のテーマを感じ取る ほか)
2010.03.18
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ここで皆さんによく考えてもらいたいのことは、原爆、水爆、中性子爆弾というものは、人間を殺傷する以外には使い道のないしろものであるから、それらの製造を命じ、また製造している人々の心の中に想念されるものは、この爆弾によってたくさんの人が殺されるのであるという想念だけである。多くの人々が幸福になりますようにという想念は全くないのである。だからそれらの爆弾が製造されればされるほど人殺しの想念は積み重ねられて増大してゆくことになる。水蒸気が一定の飽和点に達すると雨となるというのが自然の法則である。そのように、それらの爆弾が製造されてゆくごとに人殺しの想念蓄積されてゆくのであるから、ある一定まで蓄積されると、その人殺しの想念が形になって現われるということになる。これを「業の自壊作用」という。このことからして、それらの爆弾が戦争という手段によって使用されなくても、ある一定度蓄積されるとその想念(業)の自壊作用によって、それらの爆弾が、接触、取り扱いミス、誤って運搬中に落とすとか等の事故によって自然爆発するということが起こってくるということになる。アメリカでも、もうそのような事故で技術者がたくさん死んでいるし、ソ連でも一九五七年末から一九五八年初めに、南ウラル地域で地下所蔵庫が何らかの原因不明の理由で大爆発を起こし、約一〇〇〇平方マイルが放射能で汚染されて住めなくなっている。アメリカ、ソ連は物は破壊せず、人間だけを殺傷する中性子爆弾、殺人光線の製造に重点を置きはじめた。その理由は、旧型の水爆は人間を殺すだけでなくあらゆるものを破壊し、その土地に数百年も人間が住めなくなるような危険な放射能を残すから、人間だけを殺す中性子爆弾、殺人光線の方がより人道的だというのである。人殺しをするのに、人道的とか何とかそういうことが言えたものではないと我々は思うのであるが、現実にアメリカ、ソ連の指導者はそう思っているのである。実に恐ろしいことである。今まで度々、核の事故爆発が起こっているということは、早く核爆弾の製造をやめよという警告なのである。多くの人を殺すことを目的としている国が、永久に繁栄すると皆さんは思われるであろうか。個人でも悪いことをし続けていると「おれはこんなことを続けていると、ロクなことにならないなぁ」と思うのである。悪いことを続けていて、善いことが来るということは絶対ない。だから、人殺しを目的とした核爆弾の製造に夢中になっている国は、その想念の自壊作用によってやがて滅びることになるということになるのである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋普段、何気なく使われている言葉「やさしい」って、本当はどういうことだろう、と、改めて問い直したのが本書です。これは、ちゃんと考えようとすること自体が、案外むずかしく、何を考えたらいいか悩んでしまう人も多いでしょう。著者は「ちょっとしたあいさつ程度で考えないで、人の一生の生き方として、人生論そのものとして、見直す必要があると思います」と書いています。「やさしい」の本質にぐいぐい迫っていきます。
2010.03.08
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運命の修正会社が赤字を出し、その責任をとって社長が辞めたからと言って赤字をなくするということにはならない。その赤字は次期社長が引き受けなければならないのと同じように、国家が一つの業をつくってしまったら、指導者が代わったとしても、その業は引き受けて解消してゆかなければならないのである。各国の元首、大統領、首相という人たちは早くその点に気付いて国の運命を修正しないといけないのである。兵器産業は平和産業につくりかえることはできない。まして原子力を、原爆、水爆、中性子爆弾と破壊用に使うことにしたものは絶対に平和用には転換できない。それは破壊用、人殺し用に使わないと仕方がないものとなるのである。想念が物をつくり、運命をつくるのであることは皆さんは既に御承知であろう。水面、地表面から蒸発する水蒸気が一定の飽和点に達すると雲となり、冷たい空気に触れると雨となって降ってくることは、また既に知っておられることである。それと同じように、その人の絶え間のない想念は善いものであれ悪いものであれ、ある飽和点に達すると、それはその想念にふさわしい運命となって形の上に現われてくる。だから、運命を良くしようと思う人は、日々の想念を善い運命が来るような明るい想念に切り替えなければならないのである。いつもは暗い想念を持ち続けながら、善いことが来ますようにと祈ってみても運命はよくならないのである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)第1章 ゴータマ・ブッダの根本思想(一切皆苦/心のカラクリ/心の向きを変える/知見と気づき)/第2章 最初期仏教の基本的立場(戯論寂滅/内面への道/自らを洲とす/中の教え)
2010.03.06
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六月、私がハワイに行って、真珠湾頭で「世界の歴史よ変われ」という祈りをしたことは前号に書いた。日系二世の問題を書いたのは、アメリカに在住する日系人のあり方、日系人の動き、アメリカ政府の日系人に対する取り扱いが、アメリカのこれからの運命を支配することになると考えたからである。一六世紀、ヨーロッパ諸国が東洋侵略を始める時に、ローマ法王庁で「有色人種は人間か動物か?」という討議が行われて「動物ではない」ということになったが、白人種の中にははっきりとした有色人種差別の心があった。日本人に対しても、この人種差別の心があったことが第二次大戦の原因となっているし、この差別の心は、第二次大戦が始まるとすぐ日系人の財産を没収して強制収容所へ入れて虐待したという事実になり、今それが米上院議員で問題にされているわけである。アメリカの建国が、アメリカ土着のインデアンを、白人が銃でもって虐待したことから始まっていることは、少し歴史を勉強した人ならみな知っている事実であり、この事実はインデアンのジョン・コスター氏が「この大地、わが地、インデアン抵抗史」という本にまとめている。西部劇をよく見る人なら、アパッチ、シャイアン、スー族等のインデアンの名をよく御存じであろう。純朴なインデアン達は、狡猾な白人たちによって銃で、毒薬で病原菌で、酒を飲むことを教えられて殺され弱体化させられて、土地を奪われてアンデスの不毛の山麓へと追い立てられて行ったのである。ヨーロッパから白人がアメリカ大陸へ渡って、約三〇〇年になるが、アメリカが建国されて二〇〇年になる。建国二〇〇年祭を終わったばかりのアメリカはインデアンの人たちから「我々の先祖の土地を返せ、これまでの損害を補償せよ」と訴えられているし、今また日系人から人種差別で告発されているのである。この上に、今のアメリカの黒人の祖先は、みなアフリカから奴隷として連れてきたのであるし、この黒人たちが「われわれを祖先の土地に返せ」とか「これまでの損害を補償せよ」と告発されたらアメリカ政府はどうするのであろうか。こういうことは因果の法則が国家の運命として現われてきたわけである。個人の運命の責任がすべて個人の責任にあると同じように、国家の運命は、たとえ指導者は代わっても、その国家が責任を負わなければならないので、それは祖先がやったことで現在の我々は責任はないというわけにいかないのである。ソ連が共産革命をやった時に、三〇〇〇万人を殺し、その後も粛清という名の人殺しをやり、中共が六000万人を殺したその業が両国にはある。この業がますます強くこれから現われてくる時代に入る。物の世界においても霊の世界においても光は規則正しい一定の法則を持っている。その調和ある光の波動が妨礙され乱されるとそこに暗黒が現われてくる。未来の出来事は、宇宙の大調和の波動と調和しているか、いないかということによって予測できるということになる。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋老いること、病気になること、死ぬことは、私たちに確実に訪れるもの。闇雲に「老病死に勝つ方法」を求めても、実現することはできないでしょう。しかし、お釈迦さまは、心と体の因果法則を二五〇〇年に実証し、真の健康を手に入れて、幸福に生きるための智慧を説かれていました。その根本にあるのは、心を清らかにして慈悲の心を育てること、そして、「老い」「病」「死」にどう向き合うべきかを具体的に学ぶことなのです。付録として、死を理解する経典「箭経(Sallasutta)」を、解説とともに掲載。
2010.02.18
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十六世紀、ヨーロッパでは宗教戦争の時代が終わると、ヨーロッパ諸国は一斉に東洋進出を始めた。日本では織田信長、豊臣秀吉の時代である。スペイン、オランダ、ポルトガルといった国々が、その頃隆盛を極めていて日本にもいろいろな文化をもたらせたが、これらの国々は衰退して今は三流国になっている。この三国に代わって登場したイギリス、フランスも今は昔ほどの国力はなく衰退一途である。一番遅く登場したのがアメリカであり、アメリカは何事にも世界一であることを誇りとしてきたがアメリカの力も次第に弱まってきている。それを挽回しようというのでタカ派のレーガン政権が登場してきたのであるが、私はレーガン大統領が強気に出て高圧的な政策を取ればとるほどそれは裏目に出て、かえってアメリカの国力を衰退させていくと思っている。大正八年〈一九一九年)ロシアに共産主義が誕生して今日まで約七〇年、そのソ連も共産主義の内部矛盾が暴露されてきた。高橋信次先生が昭和五〇年に、ソ連、中共には食糧飢饉がつづくと予言されたように、既に今年も不作である。そのような状態になってきたのは、ヨーロッパ、アメリカの白人国家は東洋、有色人種の国々を植民地にして搾取するという国家としての悪業を積んできたからである。白人諸国家にはそのことに対する反省は少しもない。日本は第二次世界大戦以前のことを反省し、アジアン諸国に対しては無償供与という形で善業を積みつつある。だからもし、アメリカを筆頭とする白人諸国家が、これから日本の発展を邪魔しようとするならば、逆にそのことが日本の国家としての運命にはプラスになっていくのである。世界歴史を裏側から支配してきたユダヤ民族も、いよいよ、これまでのユダヤ民族のあり方、ユダヤ政策を反省しなければならない段階に入るのである。(フランス革命、ソ連の共産革命、第一次大戦、第二次大戦の主謀者はユダヤ人であった。それぞれの各国民は、ユダヤ政策に乗せられて敵となり味方となって戦ってきたのである。このことについてはユダヤ人の著書もたくさん出ている。)仏国土、ユートピアの実現は、世界の各国家が、また民族がこれまでのあり方を反省して、一斉に世界平和の実現を目指したときに実現するのであって、世界の各国家が反省するまでは、その国はその国が国家として積んできた善業悪業の因果の法則の実現に合わせまかせ委せなければならないということである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)第1章 人間をじいっと観察してきた/第2章 人はなぜ悩み、苦しむのか/第3章 「苦」とは、思いどおりにならないこと/第4章 「般若心経」は難しくない/第5章 受け容れる/第6章 有り難し/第7章 人は、喜ばれると嬉しい/第8章 宇宙を味方にする/第9章 釈迦の教えは「感謝」だった
2010.02.06
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他力信仰の最大の誤り他力信仰の最大の誤りは、人間の運命は偶然の法則によって支配されるのである。だから、その運命を支配している神(仏)に祈って、物を捧げて善いことだけ、さづけてもらうように悪い運命はよこしてもらわないようにしようと考えて、自分の言ったこと、やったことを少しも反省させようとしないことである。運命は他動的に、他の何者かの力によって支配されることは絶対にないことであって、全て自分の心がつくり出す自動的なものである。だから他力信仰は。神の最大の慈愛の現われである反省、この反省を否定していることは実は神の慈愛を否定していることになっているのであって、心の一方では神を否定し、一方では神の救いを頼むという矛盾を信者の心の中につくり出しているのである。だから、他力信仰で救われたものは一人もいないのである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋内容情報】(「BOOK」データベースより)欲望を滅尽し死を超越する道とは。時代の半歩先を読む。 【目次】(「BOOK」データベースより)第1章 自らその意を浄める/第2章 悪魔との対話/第3章 不死の門は開かれた/第4章 法輪を転ず/第5章 この身は泡沫のごとし/第6章 一切にわがものなし/第7章 生きものたちに幸いあれ/第8章 善き友とともに/第9章 空飛ぶ鳥に迹なし/第10章 仏に帰依す/第11章 安らぎの境地/第12章 自らを灯とせよ
2010.01.16
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反省は神の慈愛である人間は一日のうちに善いこと悪いこと、いろいろなことを思う。その一つ一つがみな結果として出てくるのであるとしたら、この世に幸福な人は一人もいないということになる。如来とか菩薩といわれるような段階の人になれば別として、それ以外の多くの人は善いこと悪いことなど、いろいろなことを思う。一つの原因に対しては必ず一つの結果が現われてくるというのであったら、とてもこの人生はたまったものではない。外面からはどんなに謹厳実直で、聖人だと見られている人でも、きれいな女の人を見て欲心を起こさなかったという人はないであろう。高橋信次先生から正法を教えられて、やっと「心に思うこともいけないのである」ということが実行できるようになったが、それ以前の特に若い頃の私(園頭先生)はそうであった。常に清浄でありたいとする自分と内心の醜さとの葛藤に悩んだものである。この善悪二面の自分の人間性に大いに悩む人が真に真理を求める資格のある人であるといえる。悪いことを思っても、思った通りの悪いことが必ずしも出てこないのは、人間には反省するという心(この心は知性と理性の総合された働きである)が与えられているからである。反省しない、反省出来ないという人は知性、理性の働きが鈍いか、全くない人である。そういう人を感情だけで動かされる感情的な人というのである。「あゝわるかった。すまない」という反省、懺悔があれば悪いことが起こってくるという運命は修正できるのである。この、いろいろの人生の出来事を反省することが出来るような目覚めた心を持つようになればなるほど、心の力で運命を変化改善させる力は拡大されてくるのである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋恐るべし。ゴータマ・ブッダの智慧。最も古い仏典の精読から、ブッダの思索の成り立ちとその核心に切り込む。「ゴータマ・ブッダの仏教」の真実とは何かを明らかにする、画期的論考。
2010.01.06
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なぜ悪いことをした人が反省しにくいか善いことをしたら善い結果が出てくるし、悪いことをしたら悪い結果が出てくるという因果の法則は大抵の人が知っている。知っているのになぜ悪いことをする人がなかなか耐えないのであるか。それは悪いことをしてもすぐ結果が出てこないからである。悪いことをしたらすぐ次の日に悪い結果が出てくるというのであったら反省することもはやくなるであろうが、因果の法則の周期律は三年、五年、七年であるから、善い事をして善い結果が出てくるのは三年、五年、七年の周期律であるし、悪いことをしてもその結果が出てくるのは三年、五年、七年の周期律であるから、悪いことをしてもすぐ結果が出てくるわけではない。大抵三年も経つと特にその日その日の行き当たりばったりの生活をしている人ほど、三年前にどんなことをしたかも忘れてしまっている。既に悪いことをしたという記憶もなくなっている頃に、三年前の悪い結果がぽこっと出てくるものだから、何も悪いことはしていないのに偶然にぽこっと悪いことが起こったように感じてしまうのである。よくいわれる「忘れたころに災害がやってくる」というのもそういうことからである。この世に偶然ということは何ひとつないのであるが、それはその原因を自分がつくったことを忘れているために偶然のように感じられることだけなのである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋悩みや苦しみや怒りにとらわれていると、人は笑顔を失います。怒りをぶつけられたとき、怒りで返してしまうと、こころは汚れてしまいます。いつでもこころを明るく、清らかに過ごすにはどうしたらよいのでしょうか?こころを汚さず、笑顔を失わずに生きるには、どうしたらよいのじょうか?この世のすべては無常であること、執着のできないことがわかるとこころは微笑みでいっぱいになります。お釈迦さまはユーモアたっぷりに世界の見方をお説きになりました。こころを育てる笑いの方法、ユーモア術をお釈迦さまの言葉とともにご紹介します。
2009.12.26
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布施善いことをすることを布施というのであるが、布施には二通りある。布とは、人に神理を教え伝えること、人に愛を施すこと、人に親切にすること等、心で人を救い、善いことをすること、このことをキリストは「人の道を直くせよ」と説かれた。道が凸凹でぬかるみであると歩けない。だからその道を平らにして人が通りやすいようにせよということで、人生は人が歩く一生に道である。その人生の道のを直くするとは、その人に神理、法を伝えなさいということである。施とは、物のない人に物を施して助けることである。神理を伝えることはその人を一生救えることになる。いやそれだけではない。親から子へ孫へと伝えれば子孫代々に救われることになるが、物を与えたのは、その物を与えたときだけである。例えば金のない人に金を与えてみても、その金がある間は楽であるが、その金がなくなるとそれっきりでまた困ることになる。金品を与えるだけのことは、逆にその人を怠けさせることになる場合があるから気を付けなければいけない。布施は、人を愛する、神を愛し、神理を愛するという心からの布施でないと本当の布施にはならないことを注意しなければならない。今までの宗教団体は心の大事さを説かずに形での布施を説いてきた。そのために、心を汚くしたままで欲望から布施をする人が多かった。そういう布施は本当の布施にはならないのである。何事も真心からということが大事なんである。釈尊の時代、人々は心から寄進をし、布施をした。それは釈尊が偉大なる方でいられるからということもあるが、それよりも、その寄進、布施を通して、一人でも多くの人々を幸せにしたいという心であった。人はそれぞれ仕事を持っている。人に法をひろめて多くの人のためになりたいという人たちは、人に伝える力を持っている人を助けることによって、自分のできないことをその人にやってもらって伝えてもらいたいということで、その人に布施をするということであった。釈尊は今の宗教家のように、自分の財産を増やすことをされたわけではない。釈尊ご自身は何一つ身に着けられなかった。釈尊自身も自分のすべてを布施された。真心から布施する人が、幸せになるのは因果因縁の法則によって当然なことである。心から布施する人を「大黒」といわれたのである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋恐るべし。ゴータマ・ブッダの智慧。最も古い仏典の精読から、ブッダの思索の成り立ちとその核心に切り込む。「ゴータマ・ブッダの仏教」の真実とは何かを明らかにする、画期的論考。
2009.12.11
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因果を超越する道現象の世界には、因果の法則と周期律があまねく働いている。因果の法則は人間の運命、心の面においては因縁とか、因果と言っているし、物の面、すなわち物理化学的な面においては因果律といって、同一原因に対して同一結果が出るという法則によって知られている。周期律というのは一定時間ごとに全くの同一の現象が全く同様に繰り返される現象のことで、地球が太陽の周りを一年かかって回るのも、分子原子の各電子の運動も、人間の心臓の鼓動も、肉体細胞の活動も、全部一定の周期を持っている。地球の自転の周期も、公転の周期も一定していて、去年は一年365日で太陽の周りを一回転したが、今年は、500日で回るというようなことは絶対ない。心の面の周期律は、3年、5年、7年とその倍数である。善い事をしたからと言ってその結果がすぐに現われてくることは絶対ない。善いことをすれば善いことが来ると言われたからというので善いことをしてみたが、一向に良いことが出てこないので、もうやめたという人があるが、善いことの結果が現われるのが3年、5年、7年であるから、思いがけない時にひょっこり善いことがあって助かったという体験を持っている人があるのは、過去に善いことをしていて、それを忘れた時に、善いことだけがひょっこりと偶然に出てきたように思ってしまうだけのことである。善いことをしたらかあらずその結果は現われる。結果があらわれたら、その原因は消えてなくなる。一つの原因に対しては一つの結果が現われるので、一つ善いことをしていたら一生続けて善いことが現われてくるというようなことはない。たとえば、自動車も、ガソリンがある間はいくらでも走る。今まで走っていたのだからといってガソリンがなくなっても走るということは絶対ない。走らせるためには、またガソリンを入れればよいのである。だから、一つ善いことをしたら必ずその良い結果は来るが、それ以外には何一つ善い事をしなかったら、もう善いことは出てこないのである。だから自分の人生を最高に幸福なものにしようと思う人は、毎日毎日何か一つは善いことをするということをすればいいのである。正法誌N039号1981年 11月号より抜粋よみがえるブッダ真理のことば。「人はなぜ生まれ、いかに生きるのか」。
2009.12.03
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