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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】
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70番札所:本山寺
国指定重要文化財「仁王門」。
鎌倉時代の建物、正面三間奥行二間の切妻造り、本柱四本の前後に八本の控柱があるので
八脚門とも言う。組物・肘木・虹梁・冠木など和様を主体として禅宗様や天竺様式を組み合わせ、
新しい様式を見せて美しく、他に類例がない貴重な建物であると。
金剛力士像。
阿形像。
吽形像。
「本山寺五重塔 平成の大修復」と書かれた浄財勧募の看板。
四国霊場88ヶ寺のなかで、五重塔が建立されている寺は4ヶ寺で、そのうち香川県内の
霊場の3ヶ寺にある。本山寺は香川県の西部に位置し、四国霊場第70番札所であるが、
国指定重要文化財は仁王門と本堂が指定されている。
本山寺 境内配置案内図。
二王門をくぐると正面奥に本堂があり、その手前右に大師堂がある。
納経所は本堂の左側を通過し奥に進み本坊の門をくぐり中に入って左にある。
鐘楼。
拓魂堂。
この近辺から満州開拓団に参加して戦争の犠牲になった方々の冥福と永遠の平和を
祈願しているものと。
香川県指定有形文化財「鎮守堂」。
南北朝から室町時代初期の作で善女龍王像が安置されている。
雲を呼び雨を降らす力を持つ請雨秘法の霊神と。
正面に本堂が現れた。
右手に大門。
「十王堂」。
死後の世界に10人の王がいて生前の罪を裁く、十王は冥界における10人の裁判官で最も
権威あるのが閻魔王。
十王堂 内部。
手水場。
五重塔は平成の大修復工事中。
五重塔の姿。
五重塔の相輪の実物が展示されていた。
太師堂。
太師堂内部。
堂内奥の弘法大師像より5色の「結縁綱」が伸びていました。
綱に触れることで、大師様と縁を結ぶことができるという「結縁綱」。
私もしっかりと握って来ました。
修行大師像を本堂を背景に。
国指定重要文化財・国宝の「本堂」。
鎌倉時代の建物で、寄棟造り本瓦葺き、屋根の線がなだらかで美しい、
桁裄五間、梁間五間で、堂内は外陣、内陣(広く)後陣(狭く)を自由に納めている点が
極めてたくみで、これが平面的特徴である仏壇及び厨子も当初のもので、建築的にも
すぐれている。
七宝山 持宝院 本山寺(しっぽうざん じほういん もとやまじ)
宗派 高野山真言宗
本尊 馬頭観音
創建 大同2年(807年)
開祖 空海(弘法大師)
所在 香川県三豊市豊中町本山甲1445番地
本尊真言 ”おん あみりと どはんば うん はった そわか”
本堂説明板。
寺伝によれば、大同2年(807年)、平城天皇の勅願寺として、空海(弘法大師)が自ら刻んだ
馬頭観世音菩薩像を本尊、阿弥陀如来と薬師如来を脇侍として開創し長福寺と称したという。
この時、本堂はわずか一夜でできたという「一夜建立」の伝説がある。
中世には寺領2000石、24坊を持つ大寺となって栄えた。
天正年間(1573年 - 1593年)、長宗我部氏の戦により讃岐国の主要寺院の大半は兵火を受けた。
当寺も例外ではなく諸堂を焼失したが、境内に攻め入る兵士を斬られながらも止めようとする
住職を振りきり攻め入った兵士が、本堂内陣の厨子を開いたところ阿弥陀如来の体から血が
したたり落ちるのを見て驚き、本堂(国宝)と仁王門(重要文化財)は焼かずに撤退したという。
その阿弥陀如来は「太刀受けの弥陀」と呼ばれる。 その後、江戸時代には領主の生駒氏と
京極氏により再興され、天保年間(1830年から1844年)には本山寺と改称されたと。
本堂正面入口部。
頑張れカエル!!
本尊は四国霊場唯一の馬頭観世音菩薩。
境内には馬の像が2頭寄り添っていた。
天保4 (1833) 建設の宝蔵。
赤堂(大日堂)。江戸時代中期建設。
本坊。
江戸時代末期の嘉永5年(1852年)焼失後の再建。
中門。
宝蔵の横の門。
境内の納骨塔の上にもやや年老いた弘法大師像が。
満州開拓慰霊堂(阿弥陀堂)。
堂内部。
納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。
そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
71番札所:弥谷寺
国道11号線(伊予街道)を進み進むと右手前方に、香川県の丸亀市と坂出市の境に位置する山
である標高: 422 mの飯野山(いいのやま)が見えた。
別名を讃岐富士と呼び、讃岐七富士のひとつに数えられている山。
「ふれあいパークみの」の近くを右折し山道を進むと71番札所:弥谷寺(いやだにじ)の
駐車場に到着。標高382mの小高い弥谷山、その中腹に貼り付くように弥谷寺はあった。
弥谷寺 境内配置案内図。
俳句茶屋を越えると山門があり、さらに長い石段の参道を登っていくと大きな金剛拳菩薩が
迎えてくれる。その先に赤い手すりの108階段を上り詰めると目の前に大師堂がある。
右に進むとすぐ左上に多宝塔があって稲荷社はその脇にある。鐘楼は正面にあり、その前の
石段を上って行くと途中の右に観音堂、左に十王堂があり、上り詰めると正面に岩窟の護摩堂が
ある。その護摩堂の右脇の急斜面に荒れた激急坂歩道の上に権現堂が見える。
護摩堂を左に進むと水場があり、石段は二手に分かれ右の方に上がると途中、
岩壁に阿弥陀三尊磨崖仏があり、それを過ぎるとやっと本堂がある。納経所は大師堂の中にあり、
洞地蔵尊は大師堂中央あたりから斜面外を望めばある。
なお、寺を去るとき、決して振り返ってはいけない、それは死者を背負って帰ってしまうからとの
云い伝えがあると。
雨も強く降っていたので階段を上るのを諦めて往復750円のマイクロバスを利用して
太子堂近くの本坊まで。
2台あるバスの1台はのナンバーは88-71と88ヶ所巡りの71番札所に拘っているのであった。
バスを降りるとそこは本坊。
本坊門。
太師堂への階段を上る。
再び案内図。
歩き遍路の「百八階段」を見下ろす。
108段という数字は、108の煩悩を落とす、12ヶ月+24節気(春分、冬至などの季節指標)
+72候(古代中国の季節方式)で1年を表すそして四苦八苦を落とす(4×9+8×9)という意味が
あるのです。108回撞かれる除夜の鐘も同じような意味が。
手水場。
太師堂手前の大黒天像。
太師堂内部。
大師が学び、密教修行をしたとされる獅子の岩谷が太子堂内の奥に。
「大師堂」内に納経所があり、奥の院「獅子之岩屋」も同じ建物内に。
供養堂。
寺伝によれば、聖武天皇の勅願により行基が堂宇を建立し、光明皇后の菩提を弔うため、
大方広仏華厳経(伝・光明皇后書写)を祀り、寺院を創建したとされる。当初は中国、四国の
八国が眺められたことにちなみ蓮華山八国寺と称したという。
また、空海(弘法大師)は7 - 12歳の期間、当寺にある岩窟である獅子之岩屋で
学問に励んだという。
807年(大同2年)、唐より帰国後の空海は当地を再び訪問し蔵王権現のお告げにより
千手観音を安置し、唐から持ち帰った金銅四天王五鈷鈴を納め、伽藍を再興した。
また、求聞持法を修していると五本の剣が落ちてきたことから山号を剣五山、谷が多いことから
寺名を弥谷寺と改めたという。
多宝塔。
報恩供養塔。
修行大師像。
鐘楼堂。
観音堂。
十王堂の回廊に安置されていた鐘。
鐘楼を見下ろす。
岩窟の護摩堂。
護摩堂内部。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)。
更に本堂への急な階段を上る。
水場。
死者を供養する弥谷参りでは、死者の霊を水場で降ろす習わしとなっていると。
薬師堂。
本堂への参道脇には多くの石仏が。
「本堂」への石段の途中には山の岩肌に彫られた「阿弥陀三尊磨崖仏」が
本堂。
剣五山 千手院 弥谷寺(けんござん せんじゅいん いやだにじ)
宗派 真言宗善通寺派
本尊 千手観音
創建 奈良時代
開祖 行基、聖武天皇(勅願)
所在 香川県三豊市三野町大見乙70
本尊真言 ”おん ばさら たらま きりく”
上って来た階段。
五輪塔
再び阿弥陀三尊磨崖仏。
雨霧城主「香川家」代々の墓。
天正13年8月、秀吉の四国攻めにより香川氏滅亡して400年詣でる人とてなく、
半ば土砂に埋もれ雑草に覆われて密かに眠っていた。場所はこれより上方100m本堂西
「西院(さいいん)」の旧跡にあった。
昭和59年住職建林良凞が回向のため、現在地に移したものである。
権大僧都法合徳實像。
残念ながら、バスに乗ってしまったため仁王門、仁王像にはお目にかかれなかった。
そして
納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。
そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
帰路の下りもマイクロバスにて。
こちらも71番札所に拘って。
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