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札番 寺号👈リンク 読み 所在地 参拝日------------------------------------------------------------------------------------------------- 1 霊山寺1 りょうぜんじ 徳島県鳴門市 2015.09.02 霊山寺2 2017.10.14 2 極楽寺1 ごくらくじ 徳島県鳴門市 2015.09.02 極楽寺2 2017.10.14 3 金泉寺 こんせんじ 徳島県板野郡 2017.10.14 4 大日寺 だいにちじ 徳島県板野郡板野町 2017.10.14 5 地蔵寺 じぞうじ 徳島県板野郡板野町 2017.10.14 6 安楽寺 あんらくじ 徳島県板野郡上板町 2017.10.14 7 十楽寺 じゅうらくじ 徳島県阿波市 2017.10.14 8 熊谷寺 くまたにじ 徳島県阿波市 2017.10.14 9 法輪寺 ほうりんじ 徳島県阿波市 2017.10.14 10 切幡寺 きりはたじ 徳島県阿波市 2017.10.14 11 藤井寺 ふじいでら 徳島県吉野川市 2017.10.14 12 焼山寺 しょうざんじ 徳島県名西郡神山町 2017.10.14 13 大日寺 だいにちじ 徳島県徳島市 2017.10.14 14 常楽寺 じょうらくじ 徳島県徳島市 2017.10.14 15 国分寺 こくぶんじ 徳島県徳島市 2017.10.14 16 観音寺 かんおんじ 徳島県徳島市 2017.10.14 17 井戸寺 いどじ 徳島県徳島市 2017.10.14 18 恩山寺 おんざんじ 徳島県小松島市 2017.10.14 19 立江寺 たつえじ 徳島県小松島市 2017.10.15 20 鶴林寺 かくりんじ 徳島県勝浦郡勝浦町 2017.10.15 21 太龍寺 たいりゅうじ 徳島県阿南市 2017.10.15 22 平等寺 びょうどうじ 徳島県阿南市 2017.10.15 23 薬王寺 やくおうじ 徳島県海部郡美波町 2017.10.15 24 最御崎寺 ほつみさきじ 高知県室戸市 2017.10.15 25 津照寺 しんしょうじ 高知県室戸市 2017.10.15 26 金剛頂寺 こんごうちょうじ 高知県室戸市 2017.10.15 27 神峰寺 こうのみねじ 高知県安芸郡安田町 2018.03.27 28 大日寺 だいにちじ 高知県香南市 2018.03.27 29 国分寺 こくぶんじ 高知県南国市 2018.03.27 30 善楽寺 ぜんらくじ 高知県高知市 2018.03.27 31 竹林寺 ちくりんじ 高知県高知市 2018.03.27 32 禅師峰寺 ぜんじぶじ 高知県南国市 2018.03.27 33 雪蹊寺 せっけいじ 高知県高知市 2018.03.27 34 種間寺 たねまじ 高知県高知市 2018.03.27 35 清滝寺 きよたきじ 高知県土佐市 2018.03.27 36 青龍寺 しょうりゅうじ 高知県土佐市 2018.03.27 37 岩本寺 いわもとじ 高知県高岡郡四万十町 2018.03.28 38 金剛福寺 こんごうふくじ 高知県土佐清水市 2015.09.03 39 延光寺 えんこうじ 高知県宿毛市 2015.09.03 40 自在寺 かんじざいじ 愛媛県南宇和郡愛南町 2018.03.28 41 竜光寺 りゅうこうじ 愛媛県宇和島市 2018.03.28 42 佛木寺 ぶつもくじ 愛媛県宇和島市 2018.03.28 43 明石寺 めいせきじ 愛媛県西予市 2018.03.28 44 大宝寺 だいほうじ 愛媛県上浮穴郡久万高原町 2015.09.03 45 岩屋寺 いわやじ 愛媛県上浮穴郡久万高原町 2015.09.03 46 浄瑠璃寺 じょうるりじ 愛媛県松山市 2018.03.28 47 八坂寺 やさかじ 愛媛県松山市 2018.03.28 48 西林寺 さいりんじ 愛媛県松山市 2018.03.28 49 浄土寺 じょうどじ 愛媛県松山市 2018.03.28 50 繁多寺 はんたじ 愛媛県松山市 2018.03.28 51 石手寺 いしてじ 愛媛県松山市 2018.03.29 52 太山寺 たいざんじ 愛媛県松山市 2015.09.04 53 円明寺 えんみょうじ 愛媛県松山市 2015.09.04 54 延命寺 えんめいじ 愛媛県今治市 2018.03.29 55 南光坊 なんこうぼう 愛媛県今治市 2018.03.29 56 泰山寺 たいさんじ 愛媛県今治市 2018.03.29 57 栄福寺 えいふくじ 愛媛県今治市 2018.03.29 58 仙遊寺 せんゆうじ 愛媛県今治市 2018.03.29 59 国分寺 こくぶんじ 愛媛県今治市 2018.03.29 60 横峰寺 よこみねじ 愛媛県西条市 2018.03.29 61 香園寺 こうおんじ 愛媛県西条市 2018.03.29 62 宝寿寺 ほうじゅじ 愛媛県西条市 2018.03.29 63 吉祥寺 きちじょうじ 愛媛県西条市 2018.03.29 64 前神寺 まえがみじ 愛媛県西条市 2018.03.29 65 三角寺 さんかくじ 愛媛県四国中央市 2017.10.16 66 雲辺寺 うんぺんじ 徳島県三好市 2018.03.30 67 大興寺 だいこうじ 香川県三豊市 2017.10.16 68 神恵院 じんねいん 香川県観音寺市 2017.10.16 69 観音寺 かんのんじ 香川県観音寺市 2017.10.16 70 本山寺 もとやまじ 香川県三豊市 2017.10.16 71 弥谷寺 いやだにじ 香川県三豊市 2017.10.16 72 曼荼羅寺 まんだらじ 香川県善通寺市 2017.10.16 73 出釈迦寺 しゅっしゃかじ 香川県善通寺市 2017.10.16 74 甲山寺 こうやまじ 香川県善通寺市 2017.10.16 75 善通寺 ぜんつうじ 香川県善通寺市 2017.10.16 76 金倉寺 こんぞうじ 香川県善通寺市 2017.10.16 77 道隆寺 どうりゅうじ 香川県仲多度郡多度津町 2017.10.16 78 郷照寺 ごうしょうじ 香川県綾歌郡宇多津町 2017.10.16 79 天皇寺 てんのうじ 香川県坂出市 2017.10.16 80 国分寺 こくぶんじ 香川県高松市 2017.10.17 81 白峯寺 しろみねじ 香川県坂出市 2017.10.17 82 根香寺 ねごろじ 香川県高松市 2017.10.17 83 一宮寺 いちのみやじ 香川県高松市 2017.10.17 84 屋島寺 やしまじ 香川県高松市 2017.10.17 85 八栗寺 やくりじ 香川県高松市 2017.10.17 86 志度寺 しどじ 香川県さぬき市 2017.10.17 87 長尾寺 ながおじ 香川県さぬき市 2017.10.17 88 大窪寺1 おおくぼじ 香川県さぬき市 2015.09.04 大窪寺2 (結願) 2018.03.30 高野山 こうやさん 和歌山県伊都郡高野町 2017.10.18お礼 高野山奥の院 2018.03.31参り
2020.06.15
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク四国八十八ヶ所お遍路の旅・結願の翌日は高野山に向かう。四国八十八ヵ所のすべて巡礼が終わり結願すると高野山へお礼参りに行く習わしがあるのです。四国遍路は弘法大師の足跡を辿る旅でもあり、無事に八十八ヵ所を巡り終えた同行二人のご報告と感謝の気持ちをお大師様にお伝えするのです。高野山では今でも弘法大師が生きて瞑想を続けられているとされる、奥之院にある弘法大師御廟をお参りし、結願を報告するのです。途中、桜、桃が紅白に咲き乱れ祝福してくれた。そして高野山・大門に到着。高野山の入口である国道480号線に面したところにあった。高野山の総門であり、結界のシンボル。もともと高野山の入口は、鎌倉時代ごろまで九折谷という地区にありその頃は「門」の形ではなく鳥居が立っていたことが分かっていると。当時高野山に建てられたのが、鳥居だった理由としてはもともと高野山が丹生都比売神社の神領であったことが考えられると。現在の門が建てられたのは、今から900年前のことでこの時鳥居から門へと変えられた。また、800年には現在のような2階建ての楼門に建て替えられた。その後戦国時代に焼失したが、応其上人によって再建された。現在高野山に観光で赴いて目にすることのできる大門は、1705年再建。国の重要文化財・世界遺産。左右には金剛力士像が安置されていた。阿形像。大門のスケール感にマッチし非常に大きく日本国内で奈良の東大寺の仁王像に次いで2番目の大きさを誇るのだと。向かって右側に立つのが阿形像でその高さは546.0cm、京都の仏師・康意が造立。吽形像。左側に立つのが吽形像で高さ558.0cm、京都の仏師・運長が造立。大門の中央二本の正面の柱に掲げられた、「日々影向文」(にちにちようごうぶん)。これは高野山に伝わる「入定留身」の信仰の精神を伝える文章が。即身成仏した空海は死してなお多くの人のために祈りを捧げ続けてると言うことで、日々影向文の「弘法大師が高野山の樹下に身を留め、魂は弥勒菩薩の浄土である兜卒天の雲上に遊行し、毎日欠かすことなく、大師に縁ある遺跡に影向し検知する」という内容と同じことになると。大門に掲げられている「不闕日日之影向 (日々の影向を闕かさず)検知處處之遺跡 (處々の遺跡を検知す)」は「毎日欠かすことなく、大師に縁ある遺跡に影向し検知する」の部分に当たりると。高野山 壇上伽藍 配置図。そして次に中門へ。開創1200年を記念する主要事業として、天保14(1843)年に焼失した壇上伽藍の中門が172年ぶりに平成27年4月に再建された。新たな中門は、鎌倉時代の建築様式をもとに設計され、規模は東西25m、南北15m、高さ16m。平成26年10月23日から24日にかけて、四天王像が中門に運び入れられました。従来、中門には持国天と多聞天の二天王が安置されていたが、文化6(1809)年に起こった火災で焼失。その後、文政3(1820)年に中門が再建され、二天王も新たに造立されたが、23年後の天保14(1843)年、再び火災に見舞われ中門は焼失してしまった。しかしこの時二天王は救い出され、損傷の修復を受けた後長らく西塔に仮安置されていた。そして平成11年に根本大塔へと移され、現在に至っていた。今回の172年ぶりの中門再建により、この二天王は再び中門に安置されることに。また加えて、平成の大仏師・松本明慶の手によって現代ならではの作風に仕上げられた広目天、増長天の二天王が新たに中門に安置されることになり、平成の中門には四天王が揃うことになったと。「多聞天像」。上杉謙信の熱い信仰で有名な「毘沙門天(びしゃもんてん)」の別名の仏様。したがって、「毘沙門天(びしゃもんてん)」のこと。多聞天は、北の方角を守護する仏様。「持国天」。東の方角を守護する仏様としても有名。安置される位置に関しては、通例では、御本堂の本尊に向かい、右手前に安置される。持国天像のよく見かける姿は、革製の中国の唐の時代を連想させる甲冑姿に刀剣を手に持っている。「増長天」は平成の大仏師・松本明慶の手による仏。「増長天」は、南の方角を守護する仏様としても有名。胸に昆虫の蝉(せみ)がとまっている。この蝉の意味は蝉の鳴き声は遠くまで響き渡り、悪を退けるという意味合いがあるのだと。また、蝉は上空を飛び回って止まる木を見つけることから、”広くすみずみまで見通せる”の意味合いもあるのだと。「広目天」。「広目天」は、西の方角を守護する仏様としても有名。目を大きく見開いていた。「増長天」と同様に今度は昆虫のトンボがとまっている。これは「断じて悪を通さない、後へは引かない」という意味を持ち、前にしか飛ばない”昆虫のトンボ”で表しているのだと。金堂。高野山開創当時「講堂」と呼ばれていた「金堂」は、平安時代半ば頃より高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきた建物。現存する金堂は、7度目に再建されたもので1932年(昭和7年)に完成したもの。内部には仏師・高村光雲による本尊・薬師如来(秘仏)が祀られており、内壁には木村武山による壁画が描かれていると。金堂を境内側から。六角経蔵。六角経蔵は「鳥羽法皇」の菩提(ぼだい)を弔う為に、皇后の「美福門院(びふくもんいん)が、1159年(平治元年)に建立した経蔵。 実は、この六角経蔵は、経蔵の基壇付近(少し高くなっている基礎の上付近)に把手があって、なんと時計廻りに回転させることが出来たのです。山王院。弘法大師は高野山の開創に際して、日本古来の神々と仏教との融和のため、高野山の地主神として、丹生明神(にうみょうじん)と高野明神の分霊を高野山の守護神として「御社(みやしろ)」に祀った。この「御社」の拝殿として山王院は建立されたと。御社。そしてこの小さな山王院本殿には神仏習合の原点ともいうべき重要な意味のある社。山王院本殿は、その重厚感のある造りからそれぞれが立派な堂のように見えるが、御社の拝殿として建てられたものであり、現在の建物は1594年に再建された。山王院本殿は、伽藍大塔の西に約100メートルも離れた少し高い場所に。御社の朱の鳥居。孔雀堂。もともとは鎌倉時代初期の正治元年(1199年)、京都・東寺の延杲(えんごう)が雨乞いを成就させたことがきっかけとなり、後鳥羽上皇の命により建立された。 現在の建物は昭和元年の大火で焼失、昭和58年(1983年)に再建されたもの。准胝堂(じゅんていどう)。弘法大師が得度の儀式を行う際に自ら造立したという本尊、准胝観音を祀る堂。伽藍が建立された当時は食堂に安置されていたと伝わっており、973年(天禄4年)頃にこの堂が建立されこちらに祀られるようになったと伝わっていると。幾度も焼失し現在の堂は1883年(明治16年)に再建されたもの。御影堂。弘法大師の持仏堂として建立されたが、後になって真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安したことから御影堂と名づけられた。大塔の鐘。弘法大師が大鐘の鋳造を発願され、真然大徳の時代になってようやく完成したと伝わる「大塔の鐘」。火災等により度々鐘楼が焼失し、改鋳が繰り返され現在の銅鐘は、1547年(天文16年)に完成したもの。直径が約2mと非常に大きく、日本で4番目に大きな鐘であったことから「高野四郎」の愛称で呼ばれるようになったと。根本大塔。高野山のシンボル、高さ48m。愛染堂。四海静平、玉体安穏を願い後醍醐天皇の御願により1334年(建武元年)に建立された。本尊として愛染明王を祀り、愛染明王護摩と長日護摩が行われる場所。災害に何度か遭い再建されており、現在の堂は1816年(文化13年)に再建されたと。 不動堂。大会堂。鳥羽法皇の皇女・御辻斎院内親王が父帝の追善のために建立された堂で、元々別の場所からこの場所へ移された。徳川時代から大法会がある時にまずこの堂に会して行列を整える事から大会堂と呼ばれていると。現在の堂は、1848年(嘉永元年)に再建されたもの。本尊に阿弥陀如来を祀り、脇侍に観世音菩薩と勢至菩薩が祀られている。 三昧堂。済高座主が929年(延長7年)に建立した堂で、済高がこの堂で「理趣三昧」と言う儀式を執り行っていたことにより三昧堂と呼ばれるようになった。元々は総持院境内にあり後に伽藍に移された。この時修造に西行法師が関わったと。現在の堂は1816年(文化13年)に再建されたもの。東塔。白河法皇の御願により1127年(大治2年)に創建された塔で、本尊に尊勝仏頂尊、脇侍として不動明王、降三世明王の二尊が祀られている。江戸時代に塔が再建されたが、1843年(天保14年)に焼失し、その後再建されていなかったが、1984年(昭和58年)に現在の塔が再建されたと。手水舎。手水舎前から東塔、大会堂、根本大塔を見る。蓮池の太鼓橋を渡る。弘法大師像。金剛峯寺の参拝に向かう。壇上伽藍の東端のメイン道路に面した金剛峰寺表門。金剛峯寺・正門。金剛峯寺の建物の中で一番古く、文禄2年(1593年)に再建されて以来、今日まで建っていると。金剛峯寺伽藍。主殿は、秀吉が亡母の菩提を弔うために建立した建物「金剛峯寺」という名称は、弘法大師が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと。東西60m、南北約70mのこの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え境内総坪数48,295坪の広大さと優雅さを有していると。主殿の中には、歴史に名を残す狩野探幽筆の襖絵『松に群鶴』、豊臣秀次切腹の「柳の間」にある山本探斉筆の襖絵『雪柳白鷺』、豪壮ながら生活感が溢れた台所など見所が多彩。経蔵。天水桶。金剛峯寺の屋根は檜の皮を何枚も重ねた檜皮葺(ひわだぶき)になっていた。その屋根の上に、桶が置かれています。これを天水桶という。これは普段から雨水を溜めておき、火災が発生したときに、火の粉が飛んで屋根が燃えあがらないように桶の水をまいて湿らし、少しでも類焼を食い止める役割を果たすと。鐘楼。金剛峯寺の前身である青巌寺の鐘楼とのこと。そして奥の院入り口まで進む。奥の院参道を進む。奥の院参道ガイドマップ東日本大震災物故者慰霊碑。阪神淡路大震災物故者慰霊碑。花菱アチャコ句碑が右側に。加賀 前田家二代利長墓所。安芸 浅野家 墓所。蓮花院 墓所。結城秀康石廟。肥前島原 松平家墓所。奥の院 御供所に到着。弘法大師の御朱印を頂きました。護摩堂。水向地蔵。高野山奥の院。高野山信仰の中心であり、お大師さまが入定されている聖地。諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいた。御廟橋より先は写真撮影禁止。正面に大師廟が見えた。そして弘法大師廟にて四国八十八ヵ所のすべて巡礼が終わり結願した事を弘法大師様に報告したのでした。2015年9月3日に日本百名城スタンプラリーと共にスタートした私の四国遍路旅は、この時には1番発願寺そして88番結願寺を含め飛び飛びに11寺の参拝を完了。そして本格的には2017年10月14日にスタートし、1番から26番そして65番から87番札所を巡り残り33寺となっていた。そして今回27番札所:神峯寺をスタートし66番札所:雲辺寺で無事四国拝十八箇所遍路結願を成し遂げることが出来たのであった。88番札所:大窪寺も訪ね、結願証を頂き、また無事に旅を終えたお礼に1番札所に戻ってもう一度参拝する方法が昔から行われおり、この「お礼参り」も完了。更に88ヶ所すべての札所を巡り、お遍路を結願した後に高野山に行く「高野山参り」もこの日に済ませたのであった。お遍路は1200年前に弘法大師空海が四国で修業をした足跡をたどる旅。その流れで、弘法大師が眠る高野山奥之院へ結願の報告をしに行ったのです。昔は世捨ての旅として知られた、全行程1,400Kmにもおよぶ厳しい道のりの四国八十八ヶ所巡り。かつてのお遍路は、家内安全・病気平癒・先祖供養など、現世や将来を願う祈りの旅であった。しかし今回の私の四国八十八ヶ所巡りは健康のため、ストレス解消のため、自分自身を見つめ直すためそして観光としてなどなど、さまざまな目的で巡って来たのであった。日本百名城スタンプラリーそして四国八十八ヶ所巡りも完遂し次は何を・・と考えているのである。そして5月22日~29日まで人気上昇中のウズベキスタンに行くのである。中央アジアの国の1つで何世紀もシルクロードの中心として栄えた古代オアシス都市が多く点在し、かつてはこの地をアレクサンドロス大王やチンギス・ハンが活躍し支配していたこともあるのだ。"青の都"、"イスラム世界の宝石"、"東方の真珠"と数々の異名を持つサマルカンド。あのアレキサンダー大王にもサマルカンドに遠征で到達した時に「話に聞いていた通りに美しい、いやそれ以上に美しい」と言わしめたと。サマルカンド・ブルーの象徴はレギスタン広場にある丸屋根を持つモスクや壮大なメドレセ(神学校)群。他にも巡礼者が絶えないシャーヒズィンダ廟など見どころ満載なのである。古代ペルシャ時代からカラクム砂漠の玄関口として繁栄したウズベキスタン西部の都市ヒヴァ。外敵からの侵入を防ぐために、外壁(デシャンカラ)・内壁(イチャンカラ)と二重の城壁で街を守っていたのだ。城壁内は歩いて数々のモスク、メドレセ、ミナレットが観光するのだ。そびえ立つミナレット(尖塔)に登って一望すると、城壁都市であることが理解出来ると。ウズベキスタンの首都「タシケント」では第二次大戦後、当時、ソ連に抑留された日本兵がナヴォイ劇場を建設した。1966年にタシケントの街が壊滅した大地震が起こったが、なんとナヴォイ劇場は無傷で残っていたことで有名なのだと。18名のツアーであると添乗員から。多いに楽しんできたいのである。(5月20日記載) ・・・完・・・
2018.05.31
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク88番札所:大窪寺雲辺寺からは坂道をひたすら下り、井川池田ICから徳島自動車道を利用し、88番札所の大窪寺を目指す。脇町ICで徳島自動車道を下り国道193号線から377号線を走る。そして88番札所:大窪寺に到着。駐車場に車を駐め境内に向かう。久しぶりの巨大な仁王門。この日は、仁王門ではなく更に進み二天門から境内へ。「八十八番 結願所」と刻まれた石柱が。二天門。木造の二天門と平成2年(1990年)に完成した西側から入る鉄筋の仁王門の2つがあるのだ。「結願修行大師」。本堂。本堂扁額『瑠璃光殿』。五大明王。納経所。「弘法大師」と書かれた扁額。御朱印とは別に「結願証明書」を頂きました。(※別料金で、2000円)。日付は平成30年3月30日。逆から読んでも平成30年3月30日とトリプル3の忘れられない日となったのです。弘法大師像。そして仁王門を境内から。鐘楼。----------------------------------------------------------------------------------------------------1番札所:霊山寺大窪寺で「結願証」を頂いた後は、お礼参りに発願の寺。一番札所・霊山寺を目指す。県道40号線から引田ICから高松自動車道で板野ICまで。そして1番札所:霊山寺に到着。大窪寺から霊山寺までの走行ルート。霊山寺入り口の発心の門。「発心・修行・菩提・涅槃」といい、人が悟りをひらいて心の平安を得るまでの4段階になぞらえているのだと。仁王門。お遍路フル装備のマネキン像の久しぶりの再会。池(泉水池)越しの大師堂。縁結び観音。多宝塔。鐘楼。赤子を抱く仏像と多宝塔。大師堂を正面から。弘法大師像。多宝塔。等身大の十三佛。本堂の灯籠は美しく何度見ても圧倒されるのであった。そしてあまり知られていないが、天井には立派な龍の天井画が。四国に龍の天井画があるのは、ここ霊山寺の他に、藤井寺(第11番札所)、太龍寺(21番札所)、清滝寺(第35番札所)の4カ所なのだと。不動明王像。再び大師像。十三仏を逆方向から。小さな滝の前に涼しげに。大師堂前から境内を。多宝塔と桜。大師堂。濃いピンクの桜は河津桜か?納経所横の天井に燕が。尾羽が長いのでオスか。「四国八十八ヶ所霊場・第1番札所・お礼参り」の日付入りの御朱印を頂きました。よくぞ八十八箇所霊場を巡ったものと感慨に浸る。 ・・・つづく・・・
2018.05.30
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク本堂に向かって境内を進む。本堂はコンクリート造り。「寺伝によれば、789年(延暦8年)に佐伯真魚(後の空海・弘法大師)が善通寺建立のための木材を求めて雲辺寺山に登り、この地を霊山と感得し堂宇を建立したことを起源とする。空海はまた、807年(大同2年)には秘密灌頂の修法を行い、さらに818年(弘仁9年)に嵯峨天皇の勅命を受けて本尊を刻んで、七仏供養を行ったという。後に「四国高野」と呼ばれ、僧侶の修業道場となり、貞観年間(857年から877年)には清和天皇の勅願寺ともなった。1098年(承徳2年)火災で全山消失するも、その後に鹿を追って当地に入った猟師米成は樹上に現れた観音菩薩の威厳にうたれ発心し堂宇の再建を果たした。平安末期の中興の祖と云われるにふさわしい願西上人が住職のとき、現存する本尊千手観音と毘沙門天が造られた。 鎌倉時代には、阿波守護の佐々木経高(経蓮)の庇護を受け、七堂伽藍が整えられ関所寺であった。 1311年(応長元年)には、京都西園寺家により寺領が寄進される。 1363年(貞治2年)には足利氏より法華経真読を依頼される。1577年(天正5年)に土佐を統一し、四国制覇を狙う土佐の戦国大名・長宗我部元親が雲辺寺を訪れ、住職の俊崇坊に四国統一の夢を語ったという。1987年(昭和62年)には香川県観音寺市側の山麓と雲辺寺ロープウェイによって結ばれ、訪れやすい寺となった。」巨鼇山 千手院 雲辺寺(きょごうざん せんじゅいん うんぺんじ)宗派 古義真言宗本尊 千手観音創建 延暦8年(789年)開祖 (伝)空海(弘法大師)所在 徳島県三好市池田町白地ノロウチ763-2本尊真言 ”おん ばさらたらま きりく そわか”本堂内部。護摩堂。堂内には千手観音石像が。本坊。石輪くぐりをする旅友。すると目の前には「おたのみなす」が。「おたのみなす」はなすの腰掛けであると。『親の意見と茄子の花は万に一つのあだもない』なすの花は全て実になるということからの縁起物であると。「おたのみなす絵馬」再び本坊。 「千手院 雲辺寺」と書かれた扁額。ロープウェイのりば方面に向かう。左手に大師堂。多くの五百羅漢が参道に。弥勒堂。展望館の屋上に立つ毘沙門天像が見えた。毘沙門天像をズームで。展望塔入口。展望塔内部は螺旋状スロープが設けられていた。スロープ横の壁にあった七福神の絵。四国八十八箇所の版画も札所番号順に。版画を楽しみながら螺旋のスロープを上って行く。25番札所:津照寺と26番札所:金剛頂寺。36番札所:青龍寺。雲辺寺よりも高台に位置するので、360度の眺望が楽しめるのであった。右手の赤い屋根はロープウェイ頂上駅。標高1000mの県境杭と香川県と徳島県の境界。瀬戸大橋 竣工記念碑。「山頂駅」の近くには、五鈷杵が掲げられた記念碑が。香川県の名産品でもある「庵治石」が使われていて、霊場の数にちなんで88段になっており、「雲辺寺」をあらわす66段目は赤色の石にしているという凝った造りの記念碑。雲辺寺 ロープウェイ 山頂駅の赤い屋根にはソーラーパネルが。雲辺寺 案内板。雲に手が届きそうな高さの雲辺寺山と、樹齢数百年高さ数十mにもなるスギやヒノキの巨樹。御詠歌「はるばると雲のほとりの寺に来て 月日を今はふもとにぞみる」に詠まれた通りの雄大な風景が。山頂駅内部には各種のお土産が並んでいた。「おむかえ大師」。「厄除 交通安全 祈願所」と刻まれた石碑。ロープウェイの山頂駅と雲辺寺との間の参道脇に五百羅漢像が立ち並んでいた。怒り、驚きの表情の五百羅漢。こちらは穏やかな悟りを得た表情。七重の塔。釈迦涅槃像。千手観音。五百羅漢 説明板。釈迦入滅後の第1回の経典結集(けつじゅう)、および第4回結集のときに集まったという500人の聖者。また、その像のこと。仁王門の裏側には巨大な草鞋が。両側に。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。これにて四国八十八ヶ所お遍路の旅の「結願」です。時は2018年3月30日 金曜日 7:30。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。四国八十八箇所お遍路の旅を「結願」し、雲辺寺を後にし88番札所:大窪寺を目指す。吉野川に架かる徳島自動車道の高架橋。山桜を車窓から楽しむ。結願し「桜咲く」。世界の洋らん あんみつ館の案内表示番。シンビジウム生産世界一の評価を受ける「河野メリクロン」が設立した洋蘭展示館。満開の桜並木が見事。 ・・・つづく・・・
2018.05.29
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク66番札所:雲辺寺この日は4月30日(月)、早朝の新居浜駅。若き頃、何度も利用した駅であるが、様変わりして美しい近代的な駅に変身。この日もホテルを早朝6時に出発。新居浜ICから松山自動車道を利用してひたすら東に向かう。高速脇の山には満開の桜が次から次と迎えてくれた。この日の日の出。時間は6:15。三島川之江ICで下り、国道192号線を利用して66番札所:雲辺寺を目指す。前日は64番・前神寺で参拝を終えたのであるが、次の65番札所:三角寺は四国八十八ヶ所お遍路の旅・1回目で既に制覇済みなのであった。そして67番札所~88番札所までも既に参拝済みのため、この66番札所:雲辺寺が結願の寺なのであった。四国中央市手前からの瀬戸内海の朝。桜を楽しみながら進む。左折し県道268号線を走ると三好市池田にある池田福助(株)井ノ久保工場横が。そして山道をひたすら上る。66番札所 雲辺寺まで6kmの標識が。更に狭い山道を進む。そして駐車場に到着。時間は7:05。新居浜から松山自動車道を利用して雲辺寺までの走行ルート。雲辺寺への参道入口には車両が進入できないように鎖付きのポールが。「午後5寺以降は入山はご遠慮ください」の表示板。雲辺寺までの参道を徒歩で上って行った。駐車場を上って行くと、前方に石垣の上に雲辺寺の建物が見えて来た。境内からの南方方向の山々の眺望。雲辺寺 境内配置案内図。「仁王門の脇に手水舎があり、仁王門をくぐり石段を上がると右手に鐘楼、正面奥には大師堂拝殿があり履物を脱いで回廊を回って裏に行くと、大師堂奥殿がある。大師堂拝殿の左手前のスロープーを降りていくと、コンクリートの本堂側面が見え、左に納経所がある。本堂の左に護摩堂さらに本坊がある。」「四国霊場第六十六番巨鼇山(きょごうざん) 雲辺寺」と刻まれた石碑。仁王門。阿形像。吽形蔵。「巨鼇山」と書かれた扁額。手水舎と茄子の形をした石碑に厄年が刻まれていた。雲辺寺御詠歌:「はるばると 雲のほとりの 寺にきて つきひを今は ふもとにぞ見る」が刻まれた石碑。再び手水舎を近くから。先ずは大師堂への階段を上る。右手には鐘楼が。一言観音。一言だけお願いを聞いていただける「観音様」。大きなサヌカイト(カンカン石)が。香川で産出される自然石で、叩くとキンキンと綺麗な音が鳴るので、楽器や風鈴も作られたりすると。地元の小中学校の宿泊学習ではこの石を拾って風鈴を作ったりするので、香川県民なら探せば小さいカケラが1つや2つある家庭も多いのではと。一言観音横の石仏。厄除不動。「厄除け不動明王」マニ車。大師堂前の燈明の灯。大師堂拝殿。「弘法」と書かれた扁額。大師堂内部。稚児大師像。大師堂でお参りした後は本堂方面の参道を進む。「慈母観音」。五社大権現の石鳥居。本坊が右手に。水子地蔵尊。霊水が湧く「水堂」。 ・・・つづく・・・
2018.05.28
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鉱山観光の後は道の駅で待っていてくれた旅友Sさんと合流し、マイントピア別子・東平(とうなる)ゾーンへ車で向かう。右手に旧端出場水力発電所が。写真の明治45年に完成した「旧水力発電所跡」。愛媛を代表する西洋建築物で、紅葉の時期は赤と黄色のもみじとのコントラストが美しい撮影スポットになると。狭い坂道を上って行く。大正5年から昭和5年までの間、別子鉱山の採鉱本部が置かれ、社宅・小学校・劇場・接待館が建てられるなど、昭和43年に休止するまで町として大変な賑わいをみせていたと。マイントピア熱し東平案内図。東平・駐車場。駐車場は広い。2,3百台は可能か。マイントピア別子東平(とうなる)ゾーンは、市内の中心部から車で約45分、標高約750mの山中の「東平」と呼ばれる地域にある。東平は、大正5年から昭和5年までの間、別子銅山の採鉱本部が置かれた所で、地中深くから掘り出された銅の鉱石を坑内電車で東平まで運搬し、そこで選鉱した後、貯鉱庫に貯め、索道を利用して、現在のマイントピア別子(端出場ゾーン)のある端出場へと輸送していた中継所となっていたところ。最盛期には、社員・家族を含めて約5,000人が周辺の社宅で共同生活する鉱山町でもあり、病院や小学校、郵便局、生協、プール、娯楽場、接待館などの施設も整備され、一時期の別子銅山の中心地として賑わっていた。当時の施設の多くは取り壊され、植林によって自然に還っていますが、貯鉱庫、索道基地、変電所、第三通洞、保安本部などの鉱山関連施設の一部が風化の痕跡を残しつつ現存し、中でも重厚な花崗岩造りの索道基地跡の石積みは、東平の産業遺産観光の目玉となっている。 駐車場から見下ろした索道停車道跡。遠く瀬戸内の海も見えた。索道停車道跡まで下りた家族もお父さんのカメラに向かって。住友別子鉱山上部鉄道は標高800メートル以上の地点を、急峻な断崖の等高線にほぼ沿う形で敷設されていた。路線は急カーブが連続し、線路用地は石垣を築き確保されていた。伊予鉄道に続く愛媛県で2番目の鉄道として下部鉄道と共に1893年(明治26年)に開業した。別子銅山で採掘された鉱石は、角石原駅で積み込まれ、途中交換駅の一本松駅を経由し、石ケ山丈駅で降ろされ、索道で下部鉄道の端出場駅に輸送された後、港へ運搬されていた。採掘技術の進歩により坑道から直接鉱石を下部鉄道に運搬できるようになると役目を終え、1911年(明治44年)10月7日廃止された。住友別子鉱山鉄道(すみともべっしこうざんてつどう)は、愛媛県新居浜市において鉱石輸送や旅客輸送を行っていた住友金属鉱山運営の鉱山鉄道の通称である。1973年(昭和48年)の別子銅山閉山を見届けた後、1977年(昭和52年)1月31日限りで下部鉄道も廃止されたと。東洋のマチュピチュと称されるこの山中の秘境の遺構群も、端出場と同じく今は子供やお年寄りでも安心して見れるようにきっちり整備されて公園のようで、資料館もある。インクラインは傾斜面や勾配を意味する言葉。現在220段の階段として整備されたこの場所には、当時、端出場から索道を通じて運搬された物資を索道基地で受け、さらに高地にある電車ホームへ運ぶための施設(ケーブルカーのようなもの)が整備されていた。斜長95m、仰角21度で、動力は電気巻上げ。複線の斜路は連動していて、片方が上がれば片方が下がる仕組みになっており、生活用品などが引き上げられ、坑木などが引き下ろされていたと。住友別子鉱山上部鉄道は標高800メートル以上の地点を、急峻な断崖の等高線にほぼ沿う形で敷設されていたのだが、そのルートは今や確認出来ない。貯鋼庫、索道基地跡 案内板。東平資料館の建物の左手奥に残っている鉱山鉄道のトンネル。マンプは坑道のことを「間符(マブ)」と呼ばれていたところからきている。現在は、当時の鉱山関連機械器具類が展示されており、人々の運送を担った「かご電車」が。索道に吊られていた「索道バケット」の実物も。索道停車道跡を横から見る。マイントピア別子東平(とうなる)ゾーンの見学を終え新居浜駅前のホテルに向かって山道を下る。国領川に架かる新田橋を渡り市内へ。そしてこの夜は、会社の大先輩で新居浜にお住まいのTさんと懐かしの宴を旅友と3人で。 ・・・つづく・・・
2018.05.27
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64番・前神寺を後にし、国道11号線・讃岐街道を新居浜に向かって走る。東城交差点を右折しマイントピア別子に向かう。『山根公園』入口のオブジェ。「モニュメントは銅を基調にに豊かで潤いのある郷土の発展をめざし順風満帆、風を受け未来に向かって漕ぎ出すエネルギーを「動」の帆、恵まれた自然と共生しながらまちづくりを行う和を「静」の錨とし、また300年に及ぶ歴史と伝統を誇る太鼓台の幕、龍と鷲を象徴としてイメージしたもの」であると。マイントピア別子の入口を通過し進んで行くと「マイントピア別子」から1キロ位登ったところに"鋼鉄ループ橋"が見えて来た。青龍橋(延長700m、半径約65m)と呼ばれている橋。2003年度に着工し、ループ部分514mと前後の道路区間186mの2車線(幅6・5m)のループ橋。そしてその先には鹿森ダム。ここでUターンしてマイントピア別子へ。マイントピア別子。マイントピア別子 は、1691年に開坑し、1973年に閉山した別子鉱山跡につくられた別名世界的産業遺産の里。マイントピア別子 観光MAP。端出場(はでば)地区を開発した“ 端出場ゾーン ”は、道の駅を併設し、鉱山観光、温泉(ヘルシーランド別子)、砂金採りができるほか、バーベキューやグラウンドゴルフ、花園などがあり、一日楽しめる施設。東洋のマチュピチュと呼ばれる。道の駅 マイントピア別子。別子銅山最後の採鉱本部跡地を利用した鉱山のテーマパーク。日本初の山岳鉱山専用鉄道を復元した鉱山鉄道と観光坑道、炭酸泉・酸素泉の露天風呂や岩盤浴が楽しめる温浴施設「別子温泉~天空の湯~」、屋内型子ども用遊戯施設「あかがねキッズパーク」などがある。新居浜太鼓祭りの神輿。鉱山観光(観光坑道+鉱山鉄道)に向かう。ここ愛媛県新居浜市にある「別子銅山」は、元禄4年から昭和48年の閉山まで283年という長きにわたり銅を採掘し続けた日本三大銅山の一つ。さらに住友一社で採鉱された世界でも類をみない珍しい"大銅山"でした。現在は採掘された「東平(とうなる)」「端出場(はでば)」が一般に開放され、昔の偉業を今に伝えているのです。2階乗り場から乗車。時速10kmでのんびりと走りながら観光坑道に向かう。鉱山鉄道はトンネルの中に。当時のまま残された国の登録有形文化財のトンネル。日本最古のピントラス橋を渡る。端出場(はでば)駅~うちよけ駅までは333m。徒歩でも7分程度の道のり。アッと言う間にうちよけ駅に到着。駅のホーム横には様々な鉱山機械が展示されていた。そして観光坑道を開始。観光坑道 マップ。観光坑道に向かって橋を進む。橋の下には足谷川の清流が。坑口橋を渡ると、端出場坑道の入口。坑道内は、ひんやり涼しくて快適。年中16℃前後だと。中は江戸ゾーン、近代ゾーン、体験ゾーンと3つのゾーンがあり、まず始めは江戸ゾーン。旧火薬庫を利用した坑道の中は、江戸時代の採掘の様子を再現した人形があり、サザエの貝殻で作った明かりを手に坑道に入る、運搬夫や採掘夫がリアルに描かれていた。物資豊かな現代では考えられないような苦労をして採掘していたことがよく解った。坑道を奥に進んでいく。坑道内温度は13.1度。切上り長兵衛 (きりあがりちょうべえ)。掘り子として各地の鉱山ではたらく。元禄(げんろく)3年(1690)伊予(いよ)新居郡立川銅山近くの別子山で銅の大鉱脈を発見し、翌年住友家が別子銅山を開発するきっかけをつくった。坑道を上向きにほりすすむのを得意としたので、「切上り」とよばれたと。歓喜坑。歓喜坑は別子銅山発祥の記念すべき最初の坑道。この名の由来は、時は江戸1690年田向重右衛門一行が苦心して山中を調査し、このあたりで露頭を発見して試掘し、有望な鉱床が見つかり大喜びしたことがこの名の由来。この歓喜坑が開かれたのは1691年と。坑道内に観光客の姿は少なかった。負夫(運搬夫)と堀子(採掘夫)は分業になっており、サザエの貝殻で作った明かりを持って内部に入ったと。堀子はのみとつちを使って手作業で掘って行ったと。掘場(つぼ)。採鉱は主につちとのみなどを使い、手作業で行われた。また、地表近くで通気の良いところでは、薪に火をつけ、この熱で砕き、鉱石を採る方法も使われたと。湧水の引揚げ。鉱石を採ると石の目を伝わって水が溜まり、採鉱が難しくなる。そこで、湧水を昼も夜も坑外へくみ出す作業が行われた。坑口と風呂場。別子銅山では、歓喜坑を出るとすぐに共同浴場があり、便利に作られていた。銅山で働く人々は、その日の作業を終えると風呂で疲れを癒したと。砕女小屋(かなめごや)。運び出された鉱石は、男が大割した後、砕女(かなめ)と呼ばれる女性たちによって、金槌(かなづち)で3㎝角位くらいの大きさに砕かれ、色の濃淡によって選別されたと。銅の精錬工程。焼鉱→「一番吹き」または「鉑吹き(はくぶき)」→そしてこの「二番吹き」または、「真吹(まぶき)」。焼鉱を珪石、木炭とともに、吹床(ふきどこ)に入れ、「ふいご」で風を送って熱して溶かすと、成分の比重によって、”カラミ”と”カワ”に分離する。”カラミ”は銅をほとんど含まない鉄分の多い残りカス。”カワ”は、銅成分を含んだもの(硫化銅)で、”カラミ”に比べ比重が重く、下に沈む。”カワ”を真吹床に入れ、前工程と同じように、珪石とともに木炭の加熱で溶かす。すると、さらに”カワ”の中の硫黄分が亜硫酸ガスとなって発散し、硫化鉄は珪酸鉄となって除かれ、硫化銅は酸化されて銅分97~98%となる。これを「粗銅(そどう)」という。輸出用の粗銅は棹銅の形にされる。仲持ち。仲持ちとは、運搬夫(婦)のこと。銅山から、行きは粗銅や半製品の銅のかたまりを、帰りには米や味噌などの生活品を運んだと。 粗銅改め。山でつくられた粗銅は、山役人の立会のもとに、つくられた量を計られた。当時、銅山税として、生産量の13%が幕府に納められていたと。観光坑道の中に設けられた「江戸ゾーン」の奥には「近代ゾーン」と「体験型ゾーン」が。この動く巨大ジオラマは、別子銅山(旧別子・東平・端出場)の明治から昭和の模様を一か所に集約したもの。山神社。山神社とは、昔から鉱業を行う者が信仰した大山積神をまつるもの。人々は坑内にこの神をまつり、作業の無事を祈ったと。や別子銅山 足谷川周辺史跡めぐり案内図。観光坑道の一番奥にある「体験型ゾーン」では、別子銅山での作業内容を遊びの中から学習することができる。仲持ち体験。当時の女性達が背負っていたという30kgの荷物を持ち上げる体験が出来る。そして帰路も鉱山鉄道に乗って。 ・・・つづく・・・
2018.05.26
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク64番札所:前神寺(まえがみじ)横峰寺を後にし平野林道の坂道をひたすら下る。途中料金所前を通過。平野林道の往復料金は普通車1,850円、マイクロバスは2倍の3,700円と高価?駐車料金を500円と考えれば、片道は普通車で650円前後。冬季の積雪被害等の維持管理費を考えるとビックリするほど高くはないかとも・・・・・。再び車窓から黒瀬湖の眺望を楽しむ。国道11号線を右折し、前神寺方面に向かうと正面に石鎚神社の一ノ大鳥居が。二ノ鳥居の手前を左折し、讃岐街道を進むと、前神寺の大きな駐車場に到着。駐車場の周囲には桜が満開で迎えてくれた。横峰寺から前神寺までの走行ルート。車を降り散策開始。前神寺 境内配置案内図。「惣門をくぐって参道を進み左に折れて薬師谷川をわたると右手に手水場、鐘楼が左手に庫裏・納経所がある。そして右に折れると左に大師堂、穴薬師が右には金毘羅堂、修行大師像、水子地蔵菩薩像が並び、浄土橋を渡ると右に水が滴り落ちるお滝不動明王像、弁財天祠、稲荷社祠がある。石段を上がるとすぐに護摩堂、薬師堂があって、最も奥に本堂が建つ。本堂右の丘に石鉄権現堂がある。参道の鬱蒼とした杉・檜の木立や古い灯籠が何基も立ち並ぶ境内には、老樹が生い茂り、深山幽谷の佇まいを見せている。」惣門を背に境内に向かって進み極楽橋を渡る。三界萬霊像。手水舎。鐘楼。祖師「善識上人」左と「善尭上人」。現住職は佐々木善康氏とのこと。大師堂。金比羅大権現。金比羅大権現の隣の石塔。その隣に弘法大師像。水子地蔵菩薩像。十三仏像。浄土橋を渡る。お滝不動尊。1円玉を投げて、貼りつくとご利益があると。不動尊にはたくさんの硬貨が貼りついていた。中には5円玉10円玉も。護摩堂。本尊は不動明王。弁財天。薬師堂。江戸時代には西条藩主である松平家の信仰も集め松平氏は東照宮をまつり、三葉葵の寺紋を許したとのこと。石鉄権現堂への石鳥居と階段。御札、お守り等の売店。多くの石仏が並ぶ。本堂。「役小角によって開かれた霊峰石鎚山 (1982m) の麓にあり、役小角が石鎚山で修行を積んだ後、蔵王権現を感得し蔵王権現像を彫り、後に病気平癒を祈願し成就した桓武天皇(782年〜805年)によって七堂伽藍が建てられ金色院前神寺として開かれたと伝えられる。文徳天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇、順徳天皇、後醍醐天皇など多くの歴代天皇の信仰が厚かったことでも知られる。後に空海(弘法大師)も巡錫している。このとき空海は2度石鎚山を登ったといわれる。当寺は、横峰寺とともに山頂の弥山に存在する石鉄権現の別当寺にあたり、東側の遥拝所でもあった。江戸時代には西条藩主である松平家の信仰も集め松平氏は東照宮をまつり、三葉葵の寺紋を許した。本寺は里前神寺と称されることもあるが、これは海抜1400mあたりにある前神寺の出張所を奥前神寺と呼び区分するためでもある。奥前神寺は本来、現在の成就社であったが、明治の神仏分離令により分離独立し、奥前神寺と里前神寺ともに石鎚神社となり、当寺は廃寺となる。その時、本尊と権現像と僅かの寺宝は持ち出し、その後、1878年(明治11年)に現在地に里前神寺が再興され、さらに今宮道の最終地点に奥前神寺が再興され、さらにロープウエイ開通翌年に山上駅の上の現在地に奥前神寺が移転され現在に至る。」1972年(昭和47年)の再建。入母屋造で屋根は緑の銅板葺き。石鈇山 金色院 前神寺(いしづちさん こんじきいん まえがみじ)宗派 真言宗石鉄派本尊 阿弥陀如来創建 奈良時代の初期開祖 役小角所在 愛媛県西条市洲之内甲1426番地本尊真言 ”おん あみりた ていぜい からうん”本堂にて参拝。石鉄大権現。扁額。石鉄権現堂から本堂・境内を見る。石鉄権現堂の階段。「石鉄山蔵王大権現宝前報恩謝徳也」。「石鉄山縁起之事」。67歳の女性の心願成就の報国。方丈・客殿横の階段。中央に忠霊塔、右に弘法大師千百五十年御達忌報恩謝徳也。肩のネズミも可愛い、可愛らしい稚児蔵。大師堂。方丈、客殿。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。納経所前から、境内の大師堂(左)と鐘楼(右)を。日野駒吉像。すし屋を経営する傍ら四国遍路のお先達になられた人物の石像。四國霊場巡拝五拾度、小豆島四國巡拝百度、石鎚登山壱百度と。中 昌運像。石槌山修験道の先達とのこと。駐車場に向かって戻る。桜の先には惣門が見えた。惣門。参道方面を惣門前から。駐車場から方丈、客殿を見る。 ・・・つづく・・・
2018.05.25
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク63番札所:吉祥寺(きちじょうじ)62番札所:宝寿寺から国道11号線(讃岐街道)を東に向けて1.4km強を走ると63番札所:吉祥寺に到着。正面に吉祥寺の山門。インドの四天王の一人毘沙門天を本尊とするためか山門の前には一対の「象」の像が向き合っていた。山門の扁額には「密教山」と。宝寿寺から吉祥寺までの走行ルート。吉祥寺 境内配置案内図。「山門を入って左側に鐘楼、手水場があり、少し進んで右に庫裏と納経所、左に本堂、その左に大師堂である。」境内の「巡りゆく思い」と題された作品。伊予之二名島(いよの・ふたなのしま)、胴体が一つで、顔が四つの島、四国、その骨格たる石鎚山、見事な造形であると。福聚閣(ふくじゅかく)。庫裏前のお堀に浮かぶ極彩色の八角堂の福聚閣には本尊の毘沙門天を除いた六福神が祀られており、本尊の毘沙門天を合わせて七福神となる四国七福神は吉祥寺と近辺の横峰寺・宝寿寺・前神寺・西山興隆寺・極楽寺・安楽寺の6ヶ寺を巡るのだと。手水舎。水子地蔵尊。お迎え大師(左)と くぐり吉祥天女(右)くぐり吉祥天女は貧苦を取り除き、富貴財宝を授かるという。お迎え大師。くぐり吉祥天女成就石。本堂付近から目を閉じて金剛杖を持って石が置いてある場所まで歩いて行き、石に開いてある穴(直径約30cm)に金剛杖を突き通すと願いが叶うと伝わると。鐘楼。吉田真照の句碑。「有難や美阿登慕うて二十五歳」弐千回、参千回、八十八ヶ所 百回の文字が刻まれており参拝回数の記念碑か。本堂。寺伝によれば弘仁年間(810年-823年)に空海(弘法大師)が光を放つ檜から毘沙門天・吉祥天・善賦師童子を刻み、安置したのが起源といわれる。当初は坂元山(現在地より南へ約2kmほど登った標高368m地点 )にあったが、豊臣秀吉の四国征伐の際に焼失。詳しくは1585年(天正13年)に小早川隆景が高尾城を攻めたとき、その山中にあった当寺も兵に放火された。万治2年(1659年)に大師堂があった現在地に、坂元山にあった本尊毘沙門天坐像が移され、再建された。四国八十八ヶ所で「毘沙聞天」が本尊なのは、ここ吉祥寺だけと。持国天・増長天・広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神であり、四天王では多聞天として表わされます。吉祥寺では「毘沙聞天」と表記する際に多聞天の「聞」の字を使っていますが、通常は「毘沙門天」と「門」の字で書くのだと。本尊・毘沙聞天像は秘仏で60年に一度だけ開帳され次回は西暦2038年とのこと。密教山 胎蔵院 吉祥寺(みっきょうざん たいぞういん きちじょうじ)宗派 真言宗東寺派本尊 毘沙門天(毘沙聞天)(秘仏)創建 (伝)弘仁年間(810年 - 823年)開祖 (伝)空海(弘法大師)所在 愛媛県西条市氷見乙1048本尊真言 ”おん べいしら まんだや そわか”大師堂。大師堂 内部。本堂前からの境内。「念ずれば 花ひらく」、この石碑は別の寺でも見かけた。熱心な信者の奉納か?左から弘法大師千五十回、一千一百回、千百五十回遠忌報恩謝徳也。境内の桜も満開。納経所へ。お遍路の可愛らしい人形が。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。「二百回 結願の碑 大本徳森翁」の石碑。ただただ脱帽。松山真講会 40周年記念碑。-----------------------------------------------------------------------------------------------------60番札所:横峰寺(よこみねじ)吉祥寺を後にし直ぐに県道142号線の狭い山道を登っていくと左手に黒瀬湖が姿を見せた。1973年(昭和48年)完成、県下でも有数の水量豊富なダムであり、西条市の産業発展の礎となっていると。鏡のような水面には、時はに「逆さ石鎚」が映り込むと。更に上って行くと、平野林道の料金所が。石鎚森林組合が管理している有料道路(約6km)であり、往復通行料金は普通車1,850円(駐車場代含む)。12月29日より2月末日までは冬季通行止(冬季通行止期間中でもゲートは開いており自己責任で通行は可能であるが、道路修復工事の為途中までで止まることがあり要注意)と。狭い林道を更に上って行く。そして頂上駐車場に到着。吉祥寺から横峰寺までの走行ルート。山の中でWIFI信号が弱いため、往復のルートがズレていますが同じ山道なのです。眼下には瀬戸内海・西条市の臨海工業地帯が望めた。今治造船・西条工場をズームで。現役の頃、この近くにあるアサヒビール四国工場に何度か通ったことを想いだしたのであった。駐車場に車を駐め、更に横峰寺に向かって山道を上っていく。横峰寺への案内表示板。横峰寺 境内配置案内図。「山門を入り参道を進むと右に手水場があり、左に行くと庫裏・客殿・納経所が、右の石段を上がると正面に鐘楼・星供大師があって、その右に本堂が建つ。本堂の向かいの参道を進むと正面に大師堂が、その右に聖天堂がある。 シャクナゲが境内一面に咲きほこる5月上旬はそれ目当ての観光客も来て、ゴールデンウイーク期間は自動車が渋滞するほどである。」境内に入ると星月堂(納骨堂)が左手に。境内への山の斜面には シャクナゲが一面に。5月中旬には写真の如く開花し、平野林道が渋滞するほどに花見客が訪れると。客殿。境内の正面に本堂が。歓喜天堂(聖天堂)。大師堂。参道左手には多くの石仏が並んでいた。弘法大師を近くから。歴史を感じさせる多くの石仏・地蔵尊が並ぶ。鐘楼。正面に大師堂、左手に歓喜天堂(聖天堂)。本堂。「寺伝によれば役行者(役小角)が石鎚山頂で修行をしていたところ、蔵王権現が現れたのでその姿を石楠花の木に刻んで堂に安置したという。その後行基が天平年間(729年 - 748年)に、空海(弘法大師)が大同年間(806年 - 810年)に入山したと伝え、空海が入山した際に大日如来を刻み、これを本尊としたという。前神寺とともに石鈇権現の別当寺であったが、明治4年に廃仏毀釈によって廃寺となり、明治13年に大峰寺の名前で復興、その後、明治42年(1909年)に元の横峰寺の名に戻される。」神社を彷彿とさせる権現造りの本堂に、神仏習合の面影が残っているのだと。大師堂とは参道を挟んで正面から向き合っていた。石鈇山 福智院 横峰寺 (いしづちざん ふくちいん よこみねじ)宗派 真言宗御室派本尊 大日如来創建 (伝)白雉2年(651年)開祖 (伝)役小角所在 愛媛県西条市小松町石鎚甲2253本尊真言 ”おん あびらうんけん ばざらだどばん”星供大師像が正面に。「星供」とは仏教系統の星祭で、『宿曜経』などの説により、北斗七星・九曜・十二宮・二十八宿を供養し、除災・延命・増福を祈る法会。冬至・正月・節分などに行う行事。西日本最高峰・石鎚山系中腹にある札所は古くから遍路泣かせの難所と言われています。開祖は修験僧の開祖・役行者小角(えんぎょうじゃおづぬ)。白雉2年(651)、星ガ森(石鎚山遥拝所)で修行中の役行者小角は、石鎚山頂で蔵王権現のお姿を見て、そのままの姿を石楠花(しゃくなげ)の木に刻んで小堂に安置しました。弘法大師が42歳の厄除け開運祈願の修行の為、この山へ登り星祭りの修行を行い、その結願の日に役行者と同じ権現様の姿を見せました。そこで大師はこの山を霊山と定め大日如来を刻み本尊として安置し第六十番札所に定められたと。星供大師像。標高750mの地でシャクナゲを背に右手に剣、左手に星供に巻物を持って立っていた。鐘楼堂。鐘楼堂を別角度から。納経所への階段を下る。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。仁王門からの参道にある手水舎。山門を見つめる旅友。手水舎前から山門をズームで。車によるお遍路の場合、山門・仁王門を潜らないケースが時々発生するのであった。納経所前から階段上の大師堂方面。大師堂を再び訪ねる。大師堂内部。「聖地巡礼 四国遍路」のポスター。「弘法大師空海ゆかりの札所を巡る四国遍路は、阿波・土佐・伊予・讃岐の四国を全周する全長1400kmにも及ぶ我が国を代表する壮大な回遊型巡礼路であり、札所への巡礼が1200年を超えて継承され、今なお人々により継続的に行われている。四国の険しい山道や長い石段、のどかな田園地帯、波静かな海辺や最果ての岬を「お遍路さん」が行き交う風景は、四国路の風物詩となっている。キリスト教やイスラム教などに見られる「往復型」の聖地巡礼とは異なり、国籍や宗教・宗派を超えて誰もがお遍路さんとなり、地域住民の温かい「お接待」を受けながら、供養や修行のため、救いや癒しなどを求めて弘法大師の足跡を辿る四国遍路は、自分と向き合う「心の旅」であり、世界でも類を見ない巡礼文化である。2015年4月に日本遺産に認定された」と。再び本堂方面の境内を見る。客殿廻りの庭園を見下ろす。そして駐車場にある休憩所・売店へ。アイスクリームを楽しむ。売店の前には多くのアルミ缶製の風車がぶら下がっていた。売店の女性が一つをプレゼントしてくれました。人になれた野鳥・ヤマガラが、餌のヒマワリの種を食べに旅友Sさんの掌に。心温まる瞬間なのであった。 ・・・つづく・・・
2018.05.24
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク61番札所:香園寺(こうえんじ)59番札所:国分寺の参拝の後は国道196号線を利用して61番札所:香園寺に向かう。順番であれば60番札所:横峰寺であるが山の中の寺でも有り、その手前に61番~63番札所があるのでそちらを先に参拝することを決断。西条市内を走ると前方に石鎚連山の姿が前方に。西条市小松町付近から石鎚連山を望む。山頂付近には残雪が。石鎚山をズームアップ 右から弥山、天狗岳、南尖峰。最高峰に位置する天狗岳(てんぐだけ、標高1,982m)・石鎚神社山頂社のある弥山(みせん、標高1,974m)・南尖峰(なんせんぽう、標高1,982m)の一連の総体山を石鎚山と呼ぶのだと。今治街道が小松街道と交わる交差点の角に三嶋神宮が。元明天皇の和銅5年(712年)8月23日に、勅詔によって国司河野伊予守越智宿禰玉興、玉澄が井出郷の総鎮守として大山祇神社よりご分霊を勧請したことに始まると。満開の桜に囲まれた香園寺の駐車場に到着。国分寺から香園寺への走行ルート。大聖堂に向かって桜の下を歩を進める。大聖堂の2階に本堂と大師堂があるのだ。香園寺 境内配置案内図。「参道を進むと左側に手水場が、右に鐘楼があり、その奥に遍明堂(釈迦堂)、正面に本堂と大師堂を兼ねた大聖堂が建っている。大聖堂の右側に聖徳殿と子安大師堂が、左に庫裏・宿坊・納経所がある。大聖堂の外の前に大きなローソク線香立てがあり、それらを灯してから、大聖堂の向かって左から外階段を上がって二階ホールに入る。中は舞台と観客席があり、舞台中央に前立本尊の大きな金色に輝く大日如来が鎮座していて、秘仏本尊はその後ろの厨子にひっそりと置かれている。大師像はその向こうの舞台右の厨子の中に奉られている。」寺伝によれば、用明天皇の病気平癒を祈って聖徳太子が創建したと。「子安大師」と刻まれた巨大な石。大聖堂に向かって進む。大聖堂の全景は桜の花に隠されて。「顕彰慰霊塔記念碑」と書かれたプレートが像の下に。「太平洋戦争中、遠くは南溟の雲の彼方や近くは本土周辺の空に海原に、戦場で戦い或いは神風特別攻撃隊で出撃し、青春の思い出を残しながら祖国日本の礎として雄々しく散っていった。当時の逓信省愛媛航空機乗員養成所出身者の霊を慰めようと建立されました。観音像は台座とも三mの高さで建ち、飛行服姿の若鷲が右手掌に霊安らかに鎮まれと抱かれている。観世音(観音)とは、世間の人々の悩める声(音)を観じ(聞き)、救済の手を差し伸べると云う意味で、三十三に姿を変えて信仰者のあらゆる災難を除いてくれるという大慈悲を表している」本堂に向かうと右手に種田山頭火の句碑があった。 「南無観世音おん手したたる水の一すぢ」 「秋の夜の護摩のほのほの燃えさかるなり」手水舎。手水舎は屋根無しで、手水鉢は巨大な岩を掘り抜いていた。漸く巨大な大聖堂が目の前に。白い鐘楼。子安大師堂。子安大師像。「大同年間(806年~810年)弘法大師が四国巡教の際に、当山の麓で難産に苦しむ一人の妊婦に出会いました。加持祈祷したところ、安産となり、玉のような元気な男の子が誕生した。その元気なうぶ声は、近隣に響き渡ったそうです。これが機縁となり弘法大師はしばらく香園寺にとどまった。塔中六坊を創建し、自らもその一坊に入りました。また、中国から持ち帰った金像一寸八分(約5.5センチ)の大日如来を、本尊の胸間に納め、脇仏不動明王の彫刻をのこしました。弘法大師は、安産、子育て、お身代わり、女人成仏を祈る秘法を寺にのこしたと伝えられています。香園寺が「子安の弘法大師」といわれる由縁はここにあります。弘法大師は、唐木梅檀を焚き、護摩修法を寺にのこしました。「梅檀山教王院香園寺」という名は、これに由来します」大聖堂の中央前に拝殿場所が。昭和51年に建立、褐色の鉄筋コンクリートモダンな造りで高さ16m。「大聖堂」の前で御本尊の大日如来様にお勤めをしました。納経所は仮設?納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。聖徳殿。聖徳太子を奉る祠。御本尊へのお勤めをし終えると、そこに貼り紙があり、この「大聖堂」の2階が「大師堂」になっているとのことだったので、建物の左側の外階段で2階に向かう。寺伝によれば、用明天皇の病気平癒を祈願して聖徳太子が建立し、天皇からは教王院の勅号を賜ったとされる。天平年間(729年 - 749年)には行基が巡錫。大同年間には、空海が巡錫中、当寺の門前で身重の婦人が苦しんでいた。空海は栴檀の香を焚いて加持祈祷をすると元気な男の子が無事に出産した。また、栴檀の香を焚いて、安産・子育て・身代り・女人成仏を祈る四誓願の護摩修法をした。以来、安産・子育ての信仰の寺となったと。大師堂 内部。柱が1本もなく、非常に広い。たくさんの椅子席が設けられていて、座りながらお参りができる。栴檀山 教王院 香園寺(せんだんさん きょうおういん こうおんじ)宗派: 真言宗 単立本尊: 大日如来創建:(伝)6世紀末開基:(伝)聖徳大師所在: 愛媛県西条市小松町南川甲19本尊真言:”おん あびらうんけん ばざらだどばん”巨大な講堂の中に、巨大で金ピカな「大日如来坐像」が鎮座。「大日如来坐像」があまりに光っていた為か、写真がブレてしまいました。「大日如来坐像」の脇仏。弘法大師像。大聖堂の壁は幾何学的な模様が。石仏群。ミニ五重塔。小石を積み上げて作ったような造り。「弘法大師千百五十回遠忌報恩謝徳也」と刻まれた石塔。森 紫苑荘の川柳、「偉い子はいぬがどのこも親思い」と刻まれた歌碑もあった。四国八十八ケ所巡拝を八十八回行い満願したという報恩謝徳の碑。-----------------------------------------------------------------------------------------------------62番札所:宝寿寺(ほうじゅじ)香園寺からは往路の道を戻り国道11号線を走るとアッという間に到着。「一國一宮 寳壽寺」と刻まれた石柱が入口右に。香園寺から宝寿寺そして次の吉祥寺までの走行ルート。宝寿寺 境内配置案内図。「東側から境内に入ると右手に手水舎、稲荷社、大師堂が、その先に本堂が建っている。納経所は正面奥にある。」手水舎。右手に大師堂が。安産観音像。大師が本尊に祈願した霊水・玉の井の水を加持した与えたところ、夫人は無事に男児を出産したという。以後、安産を祈願する寺として人々から慕われ、現在境内にはこの安産観音像が建てられていると。宝寿寺 境内。本堂前に香炉堂が。稲荷社。本堂。「寺伝によれば聖武天皇の勅願によって天平年間(729年 – 748年)に、道慈律師によって建立され金剛宝寺と名付けられた。大同年間(806年 – 810年)に空海(弘法大師)が逗留し光明皇后を模写した十一面観世音菩薩像を刻んで本尊とし、現在の寺名に改めたという。この頃国司だった越智氏の夫人が難産で空海に祈念を頼んだ。空海は宝寿寺境内の玉ノ井の水を加持し越智夫人に与えたところ、夫人は玉のような男子を無事出産した。これにより本尊は安産の観音として信仰を集めている。1585年(天正13年)羽柴秀吉の戦禍によって荒廃。1636年(寛永13年)宥伝上人によって現在地付近に移されて再興。明治初期の廃仏毀釈によって廃寺となったが、大石龍遍上人によって1877年(明治10年)に再興され、1921年(大正10年)に予讃線工事に伴い現在地に移転した。」旧本堂。そしてその前に仮設?の納経所が。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。下の写真は59番札所:国分寺に張ってあった霊場会六十二番礼拝所についての書類。61番札所:香園寺内に62番札所を設置したと。「朝日新聞デジタル」には次のような記事が。『お遍路訴訟、62番札所の脱退認める 霊場会の請求棄却四国遍路の札所寺院などでつくる「四国八十八ケ所霊場会」(香川県善通寺市)が、62番札所宝寿(ほうじゅ)寺(愛媛県西条市)の住職を相手取り、納経所運営要領の順守と未払いの会費の支払いを求めた訴訟の判決が(2017年3月)22日、高松地裁丸亀支部であった。小川雅敏裁判長は霊場会側の請求を退け、宝寿寺の主張通り、同寺の霊場会からの脱退を認めた。四国八十八カ所の寺院が霊場会から脱退するのは初めて。霊場会は、四国八十八カ所巡りの寺院からなる任意団体で、正会員はそれぞれの寺院の住職。訴状によると、宝寿寺の住職は運営要領で午前7時~午後5時とされている納経所の受付時間を短縮したほか、参拝者に本尊が描かれた御影を授けなかった。また、会費72万円が未払いという。裁判で宝寿寺側は「霊場会を脱退しており、要領に従う必要も会費を支払う義務もない」と主張。判決は、霊場会への入会手続きを定めた規定はないとしたうえで、「宝寿寺の住職であることをもって霊場会の正会員であるとは認められない」と判断。仮に入会していたとしても「退会の手続きについて特段の定めがない」として、住職が電話で不参加を連絡したことから退会が認められるとし、霊場会側の訴えを棄却した。』と。朝日新聞以外の記事や個人ブログなどもいくつかアクセスしたところ、宝寿寺住職から暴言・暴行を受けたという穏やかならぬ噂もあるようですが真実は如何に?はっきりしているのは、四国88箇所を「誰がいつ決めたのかははっきりしない」のだと。判決からは、四国八十八ケ所霊場会に各寺院を88箇所から追いやる権限はないということか。霊場会に入っていなくても88箇所の一員であることには変わらないはずと。宝寿寺側をサポートするような論調になっていますが、今後もこの争いは続くのでしょうか?この様な争いが存在している事実に少々驚いたのであった ・・・つづく・・・
2018.05.23
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク58番札所:仙遊寺(せんゆうじ)栄福寺から山道をひたすら登って行く。栄福寺から仙遊寺そして国分寺への走行ルート。車の正面に仙遊寺の仁王門が姿を現す。仙遊寺 境内配置案内図。「山門をくぐって石段を上ると弘法大師が錫杖で掘ったと伝えられる井戸がある。さらに参道を登って行くと境内にたどり着く、目の前に修行大師石像があり、その先に鐘楼、左に大師堂があり、その先に本堂が建ち中に納経所がある。千体仏は本堂左奥にある。」山門(仁王門)を正面から。扁額には「補陀落山」の文字が。仙遊寺の山号は『作礼山』だが、観音菩薩の住居あるいは降り立つ山を『補陀落』と言い、本尊:千手観世音菩薩が安置される寺院ということで、『補陀落山』の額を掲げていると。仁王阿形像。仁王吽形像。更に山を登り駐車場に到着。赤ちゃんを抱かれた子安観音像が駐車場の横に。千体仏。無縁地蔵菩薩。仙遊寺 四十六世沙弥宥璉?住職の墓碑か。仙遊寺 おねがい地蔵建立の勧め。手水舎。大師堂。この石仏群は?鐘楼。お砂踏み霊場と弘法大師像。八十八ヶ所の本尊の弘法大師像を一回りすることにより、八十八ヶ所をお参りした事になると。密厳浄土と刻まれた石塔。密厳浄土とは大日如来がいる浄土。大乗密厳経に説く、三密で荘厳された浄土で、密厳国・密厳仏国ともいう。真言宗では、このけがれた国土そのままが密厳仏国であると説く。山門(仁王門)へと続く石段の参道。境内。正面に本堂が。四国のみち案内図。本堂。「天智天皇の勅願によって伊予の大守越智守興が堂宇を建立した。本尊の千手観世音菩薩は海から上がってきた竜女が一刀三礼して彫ったという言い伝えがある。また、40年にわたって伽藍を整備した阿坊仙人という僧が本寺に暮らしていたが養老2年(718年)に突然姿を消してしまったことが寺名の由来になっているという。空海(弘法大師)が本寺に逗留して修法を行った折には、伽藍を復興し井戸を掘ったとされる。江戸時代に荒廃してしまったが、明治初期に宥蓮上人が再興した。1947年に山火事に遭い消失、1953年に昔のまま再建した。」二層破風建築の本堂。本堂扁額は「千手観音尊」。お参りする旅友。作礼山 千光院 仙遊寺(されいざん せんこういん せんゆうじ )宗派: 高野山真言宗本尊: 千手観音創建: 不詳開基:(伝)越智守興所在: 愛媛県今治市玉川町別所甲483本尊真言:”おん ばさら たらま きりく”本堂内部。賓頭盧尊者。札所番号の刻まれた石仏群。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。--------------------------------------------------------------------------------------------------------59番札所:国分寺(こくぶんじ)仙遊寺から山道を再び下り桜を楽しみながら国分寺を目指す。ドライバーの旅友はカメラをフロントガラスの近くにSETしリモコンで車窓風景を撮す。そして59番札所:(伊予)国分寺に到着。(伊予)国分寺 境内配置案内図。「数段の石段を上ると右に鐘楼があり、正面の石柱門を入ると境内である。すぐ左に手水場(薬壺から水が出る)があり、右には薬師如来の薬壺、握手修行大師像があり、正面に本堂が建つ。本堂の右側に大師堂があり、左に書院、納経所がある。」「聖武天皇勅願所 第五拾九番霊場 准別格本山 国分寺」と刻まれた石柱が。境内入口の桜も満開。鐘楼。正面に本堂。境内に入って直ぐ右手には握手をして祈願すると願いが叶う「握手修行大師像」。「お大師様と握手をして願い事を「一つだけ」 あれもこれもはいけません お大師様も忙しいですから」 と。私も握手をして願い事を「一つだけ」。修行大師の横には「薬師のつぼ」が。体の悪い部分の文字に触れると治るといわれる「薬師のつぼ」。こちらも、ここもあそこもはいけません?「弘法大師一千二百回遠忌報恩謝徳也」と刻まれた石柱。手水舎。とく、とく弁天。本堂天平13年(741年)、聖武天皇が発した国分寺建立の詔によって建立された諸国国分寺の一つ。寺伝では聖武天皇の勅願により行基が開創し、後に空海(弘法大師)が長期にわたって逗留し五大明王像を残したとされる 史実としては、具体的な創建年は定かでないが、『続日本紀』には天平勝宝8年(756年)、伊予国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したとの記載があり、この頃には完成していた。長宗我部元親の侵攻の際に焼き討ちにあって荒廃したが、後に再興される。焼き討ちの際に焼失を免れた多くの古文書によって律令制衰退後に国分寺の多くが荒廃して行く中で同寺が伊予における仏教信仰の中心地として曲がりなりにも維持されて来た事が明らかになっている。現在の境内は伊予国府のあった所とされ、かつての境内は東へやや離れた位置にあったとされる。寺の東方100mほどのところに塔の礎石が残されており、かつての国分寺東塔跡と認められている。現在の本堂は寛政元年(1789年)に再建されたもの。伝行基菩薩作の本尊・薬師如来像は県指定文化財。金光山 最勝院 国分寺(こんごうざん さいしょういん こくぶんじ)宗派: 真言律宗本尊: 薬師瑠璃光如来創建: 天平勝宝8年(756年)以前開基: (伝)行基所在: 愛媛県今治市国分4-1-33本尊真言:”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか”本堂内部。本尊の薬師如来の石像も。大師像。「七福神石仏」も赤い帽子、涎掛けで。「七福神石仏」の後ろに鐘楼。本堂を境内の別の場所から。反対側から。境内の風景。春日神社の石鳥居。文化銘の鳥居、嘉永銘の狛犬があると。春日神社と刻まれた石碑。階段の上に春日神社拝殿。境内の遠景。境内の桜と奥に中門が見えた。納経所に向かう。書院が正面に。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。 ・・・つづく・・・
2018.05.22
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク56番札所:泰山寺(たいざんじ)大きな駐車場の道を挟んだ右側の、「四国五十六番泰山寺」と刻まれた石柱から右折して小路に入り、突当りに泰山寺。石柱の後ろに弁天堂が。弁天堂を正面から。境内 配置案内図。「今治市郊外の田園の中、石垣に囲まれた高台にあり、2000年に改修された白い漆喰塀が美しい。数段の石段を上ると石柱門が立ち境内に入る。正面に客殿その右に納経所さらに右に鐘楼がある。大師堂は右後ろになる。本堂は左奥にある。」狭い小道を泰山寺に向かって進む。小路の脇には小さな祠が。明治時代に築かれた石垣と白塀が見事。千手観世音・馬頭観世音・如意輪観音・救世観音。四国八十八ヶ所巡拝五十年記念。手水舎。客殿。本堂。「寺伝によれば弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が梅雨期に当地を訪れた際に、蒼社川が氾濫していたが、村に伝えられる悪霊の祟りと考えられていた。空海は村人に堤防を築かせ、完成後に河原で土砂加持の秘法を行った。そのとき満願日に空中に延命地蔵菩薩が現われた。そこで空海は地蔵菩薩像を刻み、堂宇を建て本尊として安置したという。泰山寺の名は延命地蔵経中の「女人泰産」からとったものである。一説には道教の五岳の一つである東岳泰山からの引用ともいわれる。天長元年(824年)には淳和天皇の勅願所となり、七堂伽藍を備え10坊を持つ規模となったものの数度のの兵火により衰退し、金輪山の山上より麓の現在の場所へ移築された。安政元年(1854年)再建。」金輪山 勅王院 泰山寺(きんりんざん ちょくおういん たいざんじ)宗派: 真言宗醍醐派本尊: 地蔵菩薩創建:(伝)弘仁6年(815年)開基:(伝)空海(弘法大師)所在: 愛媛県今治市小泉一丁目9-18本尊真言:”おん かかかび さんまえい そわか”「地蔵大菩薩」と書かれた扁額。賓頭盧さん。四国巡拝如法石。客殿・宿坊。弘法大師御像。宝冠不動明王。聖宝理源大師像。神変大師像。大師堂。明治二十七、八年 戦没者戦死者『忠魂地蔵菩薩』と読めた。日清戦争の犠牲者を祀る菩薩のようだ。こちらにも小さな祠が。見事に刻まれた石灯籠。鐘楼。明治14年今治城太鼓楼古材で再建。鐘楼の天井画 。泰山寺の縁起、境内拡張の経緯等が刻まれていた。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。大師堂。本堂と客殿は廊下でつながっていた。可愛い稚児地蔵。泰山寺の立派な石垣。この上に城があるが如き偉容。----------------------------------------------------------------------------------------------------57番札所:栄福寺(えいふくじ)泰山寺から今治バイパスを利用し蒼社川を渡る。道路脇には濃いピンク、白の花が咲き乱れていた。そして栄福寺に到着。泰山寺から栄福寺までの走行ルート。境内 配置案内図。八幡宮への上り口付近から右に入って行く。山門はなく右手に鐘楼があって、折り返し参道奥に本堂がある。本堂右手前に大師堂、その右に薬師堂、金毘羅堂、庫裏・納経所がある。修行大師像。お願い地蔵尊。句碑。「四国路は 遍路道より 明けの春」 (弘法子)。 振り返ってもう一度。手水舎。鐘楼。ズームで。本堂のある境内へ。金毘羅堂。薬師堂。修行大師像。大師堂。仏足石。本堂。「寺伝によれば、嵯峨天皇の勅願によって空海(弘法大師)が弘仁年間(810年 - 824年)に海難防止を祈願し阿弥陀如来を本尊として開基したと云われている。その後、貞観元年(859年)大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡から京都山城に分社の男山八幡(石清水八幡宮)を創建するため近海を航行中暴風雨に遭いこの地に漂着した。上人は府頭山の山容が山城の男山に似ており、しかも阿弥陀如来は八幡菩薩の本地仏であることから、この山頂の境内に八幡明神を勧請し神仏習合の勝岡八幡宮を創建した。明治初年の神仏分離令まで、八幡宮別当栄福寺の関係であったが、山頂にあった堂舎が中腹に移築され現在の大師堂となった由緒があるように、神社と寺はそれぞれ独立した。昭和8年以降は、犬に引かせた箱車で足の悪い15歳の少年がこの寺で足が治り、その箱車を奉納したという話から足腰守りのお寺としても信仰を集めている。」本堂の手前の天井部。扁額には本尊の「阿弥陀如来」と書かれていた。府頭山 無量寿院 栄福寺(ふとうざん むりょうじゅいん えいふくじ)宗派: 高野山真言宗本尊: 阿弥陀如来創建:(伝)弘仁年間(810年 - 824年)開基:(伝)空海(弘法大師)所在: 愛媛県今治市玉川町八幡甲200本尊真言:”おん あみりた ていせい からうん”本堂内部。大師堂を本堂前から。”長寿手拭守り”と名称の付いた手拭い。そして右には般若心経の手拭い。般若心経の手拭いをズームで。絵心経は、かつて字の読めない庶民のために、絵で般若心経を表したことが始まりと。納経所前より本堂を見る。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。水子地蔵、水子観音。十輪地蔵菩薩像。 ・・・つづく・・・
2018.05.21
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク51番札所:石手寺の参拝を終わり次に54番札所:延命寺を目指す。52番札所:太山寺、53番札所:円明寺は既に2015年に参拝済み。54番札所:延命寺(えんめいじ)国道317号線を北上すると石手川ダム湖が右手に。ダム湖に架かる橋を渡る。桜が開花を始めた溜池沿いの細い道を延命寺に向かって進む。延命寺に到着。境内 配置案内図。「仁王門を入ると左手の丘の上に鐘楼があり、さらに目の前の小型の中門の右手にも鐘楼がある。その門を入ると、少し先に手水場があり左には薬師堂、納経所がある。石段を少し上ると正面に本堂が建ち、左の石段を上り詰めると大師堂がある」。仁王門。中門。総けやき造りの単層の小型の門、もと今治城の城門の一つで天明年間の建造と云われている。「念ずれば花ひらく」と刻まれた石碑。梵鐘の案内板。初代 近見太郎は戦国時代、その音色の美しさに魅せられた長宗我部の兵士がこの鐘を略奪し海上に運んだ時、鐘は「いぬるいぬる(帰る帰る)」と泣き始め、自分で海に沈んでいったという。2代 近見二郎は宝永元年(1704)、当時の住職が私財を投じて鋳造したものが「近見二郎」。これも盗賊に盗まれたが、あまりの音色の美しさにお寺に返しにきたという話がある。「近見二郎」という鐘は年1回の除夜の鐘でのみ撞かれるそう。3代 近見三郎は現在は、近見三郎が使われている鐘であると。二郎と称される鐘楼。今治市指定の文化財で寺宝の1704(宝永元)年の梵鐘(近見二郎)は、当時の住職が私財で鋳造したものといわれ、口径62cm、高さ112cmで、周囲には寺の由来が刻み込まれており、音色のいいことで知られていた。この梵鐘は、戦乱の合図の鐘に使われ夜になると叩かないのに「いぬるいぬる(伊予弁で「帰る」の意味)」と鳴くので恐れられたといわれる。また、松山城へ持出されそうになった時には「イヤーン、イヤーン」と鳴くので置き去りにされたともいう。それ以前の梵鐘(近見太郎)は、戦乱の時、長宗我部氏家の兵士達が軍用金にしようと椋奪して船に乗せて海に出たところ、鐘が急に動き出しあれよという間に海中へと転がり落ちてしまった。「あなおそろしきことよ、鐘が自ら動いて略奪を拒んでしもうた」と武士たちは仏の力におそれおののいたという。年1回、除夜の鐘として打たれている。歴代住職の墓石か?修行大師像。三郎と称される鐘楼。薬師堂。真念法師の標石(右)と頓圓自覚法師碑(左)本堂。「寺伝によれば、聖武天皇の勅願を受けて養老4年(720年)に行基が不動明王を刻み堂宇を建立して開基。弘仁年間(810年〜824年)に空海(弘法大師)が嵯峨天皇の勅命によって再興し、不動院圓明寺と名付けたという。かつては現在地の北の近見山にあって、谷々に百坊を有し信仰と学問の中心であった。しかし、再三戦火に焼かれて境内を移転し、享保12年(1727年)に現在の地に移転した。鎌倉時代には著書の多きこと日本一で学問は内外に通じ、深く後宇多天皇の尊崇を受け、生前に国師の号を賜ったほどの大学僧示観国師凝然がこの寺の西谷の坊で八宗綱要を著したことは有名である。明治の頃、五十三番札所の須賀山圓明寺との混同を避けるため、通称の延命寺を寺号とした。」近見山 宝鐘院 延命寺(ちかみざん ほうしょういん えんめいじ)宗派: 真言宗豊山派本尊: 不動明王創建:(伝)養老4年(720年)開基:(伝)行基所在: 愛媛県今治市阿方甲636本尊真言:”のうまくさんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うん たらた かんまん”本尊の不動明王は火伏せ不動尊とも呼ばれていると。宝冠をかぶった珍しい不動明王像で、再三の火災から逃れているのでこの尊名が。本堂にて参拝。大師堂。堂内部。行基菩薩の墓碑石造りの座仏像である、左から普賢菩薩、釈迦像、文殊菩薩像。不動明王像。水子地蔵尊。越智孫兵衛墓。江戸時代の庄屋・越智孫兵衛は、七公三民の厳しい年貢取立てに憂いを感じ、池普請の際に麦粥を竹筒に詰めただけの農民の弁当を役人に見せたという。そのお陰で年貢を六公四民に免下げした。それ以降も農民の生活向上に寄与し、享保の大飢饉の際には、一人の餓死者も出さなかったと。そんな彼を偲んで越智孫兵衛供養塔が建立されており、毎年8月7日には盛大な慰霊祭を行うと。境内。正面に本堂、左に納経所。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。-------------------------------------------------------------------------------------------------------55番札所:南光坊(なんこうぼう)延命寺を後にし、55番札所:南光坊に向かう。途中左手に城のような建物が現れた。『高井城 御城山ハイツ』。城好きな家主が建てたという城。知らない人は遠くから見て本物の城と勘違いしてしまう程の建物。今治北高等学校。そして南光坊に到着。石手寺から延命寺そして南光坊への走行ルート。立派な仁王門。南光坊の別称『日本総鎮守三島地御前』の扁額が掲げられていた。境内 配置案内図。「仁王門を入ると左手の丘の上に鐘楼があり、さらに目の前の小型の中門の右手にも鐘楼がある。その門を入ると、少し先に手水場があり左には薬師堂、納経所がある。石段を少し上ると正面に本堂が建ち、左の石段を上り詰めると大師堂がある。」弁財天。仁王門には四天王が守護する大型の楼門。一般的な外側に仁王像がある山門の形ではなく内側も加えた四箇所に四天王を配置していた。持国天(東の神)。不変不動な国造りの法力を与えるといわれ安泰や安全の象徴として家内安全や交通安全の神。増長天(南の神)。無尽の宝を生み出し多くの増益を与えてくれると言われることから商売繁昌や事業安泰の神。廣目天(西の神)。大きな心で視野を広げ正しい知識を持てば災厄を除け無量の寿命を得られることから健康長寿の神。多聞天(北の神)。多くの事を聞き学び知恵をえて財宝を生み出す力を得る事から金運招来、出世成功の神。別宮山 光明寺 金剛院 南光坊 と刻まれた石碑。深川正一郎の句碑。 「来島の 渦にも遊び 秋遍路」深川正一郎は愛媛県宇摩郡出身のホトトギス派俳人。青龍社の川端龍子画伯と遍路行を共にしたと。筆塚。昭和二十五年に書道家としては初めて芸術院賞を受けた川村驥山の筆塚。大師堂。大師堂は大正5年に建立。屋根の四隅が軽やかに跳ね上がり、その上にある相輪塔と相まって、船のような様相。地元の日とから「別宮のお大師さん」の愛称で親しまれていると。弘法大師像。大きな石灯籠。手水舎。境内中央から。本堂。「推古天皇2年(594年)、勅命によって伊予国一宮の大山祇神社(今治市大三島町)の「供僧寺」の一坊として南光坊が建立されたことに始まるとされます。その後、風雨の時の祭祀が欠けることを憂いた越智玉澄は、文武天皇の勅を仰いで、大宝3年(703年)、当地に大山祇神社の祭神を勧請し、それを大山祇神社の別宮(地御前)して奉祀したとされます。なお、大山祇神社には24の僧坊があったとされますが、南光坊は他の7坊(中之坊・大善坊・乗蔵坊・通蔵坊・宝蔵坊・西光坊・円光坊)と共に別宮の別当寺として移されたとされています。平安時代には、空海(弘法大師)が四国巡錫の際に別宮に参拝し、坊で御法楽をあげて四国霊場第55番札所と定めたと。その後、天正年間(1573~1592年)には、長宗我部元親の四国平定によって八坊すべて焼き払われたとされますが、慶長5年(1600年)に藤堂高虎によって南光坊のみが再興され、今治藩の祈祷所に定めたとされています。以来、今治藩の祈祷所として栄えたとされますが、第二次世界大戦の今治空襲によって、金毘羅堂と大師堂以外のほとんどを焼失し、戦後、昭和56年(1981年)に本堂が再建されて以降、徐々に復興して現在に至るとされています。」別宮山 光明寺 金剛院 南光坊(べっくさん こうみょうじ こんごういん なんこうぼう)宗派: 真言宗御室派本尊: 大通智勝如来(秘仏)創建:(伝)推古天皇御代二年甲寅(594年)開基: 行基所在: 愛媛県今治市別宮町3-1本尊真言:”おん あびらうんけん ばざら だどばん (なむ だいつうちしょうぶつ)”金毘羅堂。薬師堂。天野快道大僧正の墓。天野快道は、今治に伝わる「大楠と三匹の狸」と言う話の中で、境内で悪さしていた狸と話をし、諭したという伝説が残っている人物。元、大本山醍醐派の管長として三宝院門跡として、大僧正の栄位に進んだと。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。南光坊 境内。大師堂(左)と仁王門(右)。 ・・・つづく・・・
2018.05.20
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翌朝(3月29日(木))四国八十八ヶ所お遍路の旅4日目、ホテルを6:00に出発し東温市(とうおんし)の見奈良 ( みなら ) ・菜の花まつりの会場に向かう。折しもこの日の朝日が目の前に。時間は6:18。この日も快晴。菜の花畑の前の「坊ちゃん劇場」の駐車場に車を駐め【 見奈良 菜の花まつり】会場へ。1万5千平方mの菜の花畑に、約200万本の菜の花が満開で咲き誇る圧巻の「菜の花の海」が広がっていた。【 見奈良 菜の花まつり】は3/10(土)~4/15(日)までの開催。菜の花畑の先には松山自動車道が。一面に広がる金色の菜の花畑は特に美しい春の風景。早朝の為か、ミツバチの羽音や姿は確認出来なかった。鮮やかな色と菜の花の香りが。パノラマ撮影してみました。私のカメラではズームでのパノラマ撮影は出来ないのです。------------------------------------------------------------------------------------------------------51番札所:石手寺(いしてじ)短い時間であったが菜の花畑を満喫した後は、県道40号線を戻り、前日通った久米八幡神社前を再び通過。石手寺 弘法大師像が車窓から見えたのでズームで。県道317号線沿いの駐車場に車を駐める。「世界一立体曼荼羅皆一緒大楽仏」というものらしい。1年ほど前ここにマンション建設計画があり、石手寺が建設反対の幟を立てていたと。それがいつのまにか敷地が石手寺の駐車場になっていて、多くの石仏が並んでいた。石手寺はとても「お金持ち」なのだと、ネット情報から。その時は美しい仏像であると思い、カメラを向けたのであったが。この仏像も。ホテルから見奈良・菜の花まつりそして51番・石手寺までの走行ルート。入口には山門もなく、「渡らずの橋」から境内へ。境内 配置案内図。「県道より伝説の残る渡らずの橋、衛門三郎像の横を過ぎ、両脇に露店の並ぶ回廊を行くと山門に至る。くぐると、右に茶堂・納経所、左に鐘楼があって、その先に阿弥陀堂がある。正面奥に進んで一段高い位置に石段を上ると本堂が建つ。本堂の右に絵馬堂あり、その先に大師堂が並ぶ。本堂大師堂の背後にある山にはマントラ洞窟といわれる洞窟があり、本堂左後方に入口があり大師堂の裏に出口がある。大師堂右側には訶梨帝母天堂(祠)があり、石段を下りるとその右に三重塔が、左に一切経堂、護摩堂、弥勒堂が並ぶ。ここから左奥に入ると宝物館、大講堂がある。」「南無大虚空蔵主」碑。朝日を浴びて黄金色に輝く大師像。龍にのった観音様は、龍頭観音。入るとすぐに土産や食事ができる店が並んでおり、このような長い屋根付きの回廊が。奥の方には両側にお遍路グッズなどを販売している出店や屋台が並んでいたが、早朝の為か未だ開いている店は殆ど無かった。衛門三郎像。遍路の元祖とされる衛門三郎の再来伝説ゆかりの寺であると。入口には仏像が所狭しと並んでいた。色っぽい天女像?八幡大菩薩絵伊予13佛霊場第5番札所、地蔵院の山門。石手寺 案内図が毛筆で精緻に描かれていた。仁王門。仁王門は国宝で、高さ7m、間口は三間、横4m、文保2年(1318)の建立、二層入母屋造り本瓦葺き。この仁王像は、鎌倉時代後期の湛慶の作と伝わっているのだと。仁王阿形像。仁王吽形像。大草離。仁王門前左の恵比寿像?しかし釣り竿を持っていないので??その後ろに何故か「集団的自衛権 不要 不殺生祈りの会」の大看板が。伊予七福神像。三重塔。(重要文化財)弘法大師像。鐘楼。「建長3年」(1251)の銘が刻まれた愛媛県最古の銅鐘。昭和6年(1931年)11月3日、与謝野寛・晶子夫妻は石手寺に参拝していると。晶子の歌碑「伊豫の秋 石手の寺の香盤に 海のいろして 立つけむりかな」。石手寺裏の東山山頂に巨大な弘法大師を再び。弘法大師没後1150年を記念して、昭和59年に建立。高さ16M 顔の長さは2.4M。姿は、遣唐使として西安に行った31歳の頃のもの。体は西安を、顔は天竺を向いていると。鐘楼を正面から。阿弥陀堂。二王門を入って左側にある阿弥陀堂はぼけ防止の祈願者が多く参拝するスポットとして有名。本堂(重要文化財)「寺伝によれば、神亀5年(728年)に伊予国の太守、越智玉純(おちのたまずみ)が夢によってこの地を霊地と悟り熊野十二社権現を祀った。これは聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729年)に行基が薬師如来を刻んで本尊として安置して開基したという。創建当時の寺名は安養寺、宗派は法相宗であったが、弘仁4年(813年)に空海(弘法大師)が訪れ、真言宗に改めたとされる。寛平4年(892年)河野氏に生まれた子どもが石を握っていたという衛門三郎再来の伝説によって石手寺と改められた。河野氏の庇護を受けて栄えた平安時代から室町時代に至る間が最盛期であり、七堂伽藍六十六坊を数える大寺院であった。永禄9年(1566年)に長宗我部元親による兵火をうけ建築物の大半を失っているが、本堂や仁王門、三重塔は焼失を免れている。」熊野山 虚空蔵院 石手寺(くまのさん こくうぞういん いしてじ)宗派:真言宗豊山派本尊:薬師如来創建:(伝)天平元年(729年)開基:(伝)行基、聖武天皇(勅願)所在:愛媛県松山市石手2丁目9-21”本尊真言:”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか”本堂内部。納経堂。堂内部。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。様々な効能のある石が納められている堂。大きな輪の除罪苦与楽輪くぐり、そしてその奥に元気再生石。「マントラ洞」入場門。修行大師像。元気再生石。衛門三郎の罪と再生の伝説にちなみ、石を1つ持って帰って、1年したら改心と復活をし、7つ添えて8つ返す。七転び八起きの石訶梨帝母天堂。この堂の周りに落ちている石を妊婦が持って帰ると安産祈願になると。そして無事に出産すると石を2つにして返すというお礼参りの風習があるのだと。茶堂大師。この堂の大師像は絶対秘仏で住職も見たことがないと。堂の前の香炉には線香を奉納した煙が絶えない名所。本堂前より境内。正面に仁王門、左に茶堂。絵馬堂。絵馬堂内部。大師堂。石手寺の大師堂には落書き堂という別名が付けられていると。これはかつて夏目漱石や正岡子規など多くの名士が落書きを残していたことから付けられた。ただし壁は第二次大戦中に塗りなおされていると。三重塔(重要文化財)。三重塔地上部。四国88ケ所のお寺にお参りしたのと同じご利益があるといわれる「お砂撫で」もできるようになっていた。鐘楼国の重要文化財。鎌倉時代。全国でもめずらしい建造物。子育地蔵尊。参道脇の歌碑。「やま知古えて 一人由希登 主の手にす加れる 身ハ安介志」 西村清雄。多くの国宝、重文がありながらも、何故か他の遍路の寺とは雰囲気が違う寺であった。この二面性はもちろんだが、それ以上に、全体にサービス精神にあふれているのであった。わかりやすく仏教の教えを説いたり、仏の一生を説明したりと、仏教というものを真剣に教えようという姿勢を感じたのである。また国宝の仁王門の前に「集団的自衛権 不要 不殺生祈りの会」の大看板が。時間の関係で見られなかった仏堂もあり、住職の熱き思いをゆっくりと聞いてみたかったが・・・・・。 ・・・つづく・・・
2018.05.19
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繁多寺から松山市内のホテルに向かう。松山市内を走る路面電車の姿が。松山市の路面電車は. 市内中心部にある松山城を囲むような路線で、郊外電車と区別するため市内電車と呼ばれている。この日の夕陽がビルの壁に。「大街道」松山市の中心市街地にある商店街。一番町通り(国道11号)から千舟町通りにかけての全長483mの南北方向の商店街で、銀天街とともに松山市を代表する商店街の一つ。全蓋式のアーケードが設置され通りは現在では歩行者専用となっている。そしてこの日のホテルにチェックイン。時間は18時過ぎ。チェックイン後、松山城の天守閣を見ながら花見の宴を企図しその散策に向かう。松山城ロープウェー乗り場に徒歩で向かう。松山城ロープウエー東雲口駅舎北側に建立されている加藤嘉明の騎馬像。加藤 嘉明(かとう よしあきら/ よしあき)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。豊臣秀吉の子飼衆で、賤ヶ岳の七本槍・七将の1人。伊予松山藩および陸奥会津藩初代藩主。しかし松山城ロープウェーは既に運転を終わっており、東雲口登城道を徒歩にて向かう。正面に東雲神社入り口の山門が。松山城 配置案内図。大手門跡。大手門跡より松山城天守を眺める。戸無門 。本丸の大手入口に位置する現存の高麗門で、昔から門扉がないことから戸無門と呼ばれている。隠門を潜り本丸内へ。本丸内の桜は満開。しかし出店棟は一切なし・・・・・・!!花見の宴は諦めざるを得なかったのであった。瀬戸内海・伊予灘の残照。ズームで。右手に興居島(ごごしま)の姿が。天守。桜もライトアップされて。大天守と小天守。大天守をズームで。松山のテレビ塔。再び大小天守。松山総合公園方面。いよてつ高島屋 大観覧車「くるりん」。太鼓櫓。大天守も見納めか。ピンクの桜もライトアップされ色合いを増す。もう一度。提灯の灯りも情緒的。再び観覧車「くるりん」くるりん。大手門跡から再び二ノ門南櫓を。大天守をズームで。帰路は黒門口登城口を下るが、こちらは全く照明もなく真っ暗。スマホの懐中電灯のソフトを起動し足下に。そして慎重に一步一步。何とか無事に下り終え、愛知県庁前まで辿り着く。そしてホテルの手前の赤提灯でこの日の反省会を旅友と。アスパラとイカのバター炒め。おでん。ホルモン炒め。ビールから日本酒へと進む。だし巻き卵。ゲソのから揚げ。ソース焼きそば。そしてホテルへ。散策ルートマップ。そしてこの日3月28日の全走行ルート。そして明朝は、この日の参拝予定の寺が一か所残り、また東温市の「菜の花畑」を見たいので6:00にホテルを出発することにして、酒が後押ししあっという間の爆睡。 ・・・つづく・・・
2018.05.18
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク49番札所:浄土寺(じょうどじ)西林寺から県道40号線を北上し、伊予鉄横河原線の踏切を渡り、直後に左折して線路沿いを進み暫くすると49番札所:浄土寺に到着。浄土寺 仁王門。仁王阿形像。仁王吽形像。浄土寺 境内配置案内図。「石段を上って山門を入ると右手に手水場その後ろに弁財天、さらに石段を上って右に鐘楼があり、正面に本堂が建つ。本堂の左側に阿弥陀堂と愛染堂が、右側に大師堂がある。納経所は鐘楼の後ろにある門を入りずっと奥にある。」仁王門前の仏足石。仁王門を潜ると前方に階段そしてその先に本堂が。手水舎。弁天堂。浄土寺 本堂。「天平勝宝年間(749年-757年)に孝謙天皇の勅願を受けて恵明(えみょう)上人が開創、本尊として行基が刻んだ釈迦如来像を祀ったという。当初は法相宗であったが、空海(弘法大師)が伽藍を再興した際に真言宗に改宗した。平安時代中期の天台宗の僧空也が天徳年間(957年-960年)にこの寺に滞在し布教に努めた。建久3年(1192年)に源頼朝が堂宇を修復するが、応永23年(1416年)には兵火で焼失。河野通宣によって文明14年(1482年)に再建された。現在の本堂はそのときのものである。慶安2年(1649年)には大規模な修繕が行われている。なお、本堂に置かれた厨子に巡礼者が書いた墨書落書きがあり、その最古のものに大永5年(1525年)の年号が見られる」西林山 三蔵院 浄土寺(さいりんざん さんぞういん じょうどじ) 宗派 真言宗豊山派 本尊 釈迦如来 創建 天平勝宝年間(749年-757年)開祖 恵明上人 所在 愛媛県松山市鷹子町1198本尊真言 ”のうまくさんまんだ ぼだなん ばく” 本堂内部・内陣厨子鐘楼。境内には多くの弘法大師供養塔が。弘法大師像(修行大師像)と弘法大師供養塔。空也松。空也上人手植えと伝わる松の巨木「空也松」。この松は枯死したため現在では切株が残されている。本堂、内陣厨子そして木造空也上人立像は重要文化財とのこと。不動明王立像は松山市指定有形文化財。阿弥陀堂。観音堂。枝垂れ桜はこれから。大師堂。境内の右手に、森白象(1899-1994)の「お遍路や 杖を大師と たのみつゝ」との句碑が。七福神。白の八重桜であろうか?納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。境内。境内から仁王門を見る。本堂(左)と大師堂(右)。本堂(右)と阿弥陀堂(左)。-------------------------------------------------------------------------------------------------50番札所:繁多寺(はんたじ)浄土寺から県道40号線を更に北上する。正面に久米八幡神社の朱の鳥居が。西林寺から浄土寺そして繁多寺までの走行ルート。繁多寺前の駐車場に到着。時間は16:41。山門。1993年に老朽化していたが修復していると。繁多寺 境内配置案内図。「山門を入ると左手に地蔵堂、庫裏・納経所が、右手に手水場がある。石段を上って右側に鐘楼、正面奥に本堂が建ち、その手前左に歓喜天堂、毘沙門天、弁財天が、本堂の右手に大師堂がある。」桜を楽しみながら本堂を目指し参道を進む。弁財天の祠。池には花筏の姿が。手水舎。鐘楼。元禄9年(1696年)に信者の寄進により建立。鐘楼の天井には、中国古来の孝子24人の伝承をもとに、江戸時代に作られた「御伽草紙」の挿絵が描かれているのだと。修行大師像。南無興教大師座像。大師堂。堂内の弘法大師様。大師堂前からの鐘楼(左)と本堂(右)、正面に歓喜天堂。歓喜天堂前の石鳥居。4代将軍家綱の念持仏三体の一つである歓喜天が祀られ、厄除けや商売繁盛、合格祈願などの参拝者が多いと。「歓喜天」と書かれた扁額が。本堂。「寺伝によれば天平勝宝年間、孝謙天皇の勅願により行基が開基し、孝謙天皇の勅願所となったと。その際行基が坐高三尺の如来像を彫り、本尊として、光明寺と号したが、弘仁年間に空海(弘法大師)が留まって修行し現存の山号、寺号である東山繁多寺に改称したと。一時後衰退するが、源頼義により再興され、1279年(弘安2年)には後宇多天皇のために聞月上人が、祈祷を行なっている。また、一遍上人も当寺で学問修行したと伝えられる。上人は後に「捨聖」として遊行し、1288年(正応元年)亡き父である如仏を偲び三部経を奉納。1394年(応永元年)には京都泉涌寺26世快翁師が後小松天皇の命を受け繁多寺第7世の住職に就き、以降1681年〜1684年(天和年間)の寵湖など高僧が相継いで住職となるが、寵湖は徳川家の帰依を得ることとなり、4代将軍家綱の念持仏三体の一つである歓喜天を祀られることとなった。将軍家の帰依を得たことで寺は一時は隆盛をきわめ66坊と末寺100余という大寺となる。」「本尊 薬師如来」と書かれた扁額。東山 瑠璃光院 繁多寺(ひがしやま るりこういん はんたじ)宗派:真言宗豊山派本尊:薬師如来創建:(伝)天平勝宝年間(749〜757)開基:(伝)行基所在:愛媛県松山市畑寺町32本尊真言:”おん ころころ せんだり まとうぎ そわか”本堂内部。本堂(左)と大師堂(右)毘沙門天堂。納経所前の桜も見事に開花。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。満開の境内の桜。山門手前から本堂を見る。三界萬霊。山門横の才の池。境内から山門を見る。時間は16:52。御朱印は17時までなので、この日のお遍路はここまでとし、この後は松山城近くのホテルに向かったのであった。 ・・・つづく・・・
2018.05.17
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク47番札所:八坂寺(やさかじ)浄瑠璃寺から八坂寺までは1kmの近距離。駐車場脇には「いやさか不動尊」が。大きな不動明王を中心に、向かって右に矜羯羅童子と左に制多迦童子を従えた不動三尊像。極楽橋。極楽橋を正面から。山門は屋根付き橋のようになった単層小型の門。山門には菊のご紋章があり、天皇の勅願寺であることがわかる。山門の天井には22の菩薩と阿弥陀如来が描かれていた。極楽浄土の世界が描かれているようであった。八坂寺 境内配置案内図。「小川を渡る橋を兼ねた山門をくぐると右に手水場と庫裏・納経所が、左に宝篋印塔が、その先に鐘楼がある。正面奥に本堂が建つ。本堂右手には権現堂、十二社権現堂があり、本堂左には閻魔堂があり、そして大師堂がある。 駐車場に来た車遍路は、外から下って山門を入り、中央の石段を上がって本堂大師堂を参拝後、また納経所まで下り、山門から出て駐車場に外から戻り、車は左折し上がって八坂霊園の中を通過して、寺を後にするように寺は指導している。」右手に納経所のある方丈、客殿。左側には、松山市指定有形文化財の「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」が。呉越国の銭弘俶(せんこうしゅく)が、宝篋印心呪経などを銅塔に納めるために造ったと。八坂寺の塔は高さ約2m、基部・塔身・笠・相輪からなり、鎌倉中期から造立された。手水舎。本堂への参道。南無大師遍照金剛と書かれた旗が両脇に。左手に鐘楼。鐘楼の参道逆側には「お遍路の誰もが持てる不仕合わせ」と刻まれた句碑が。説明板によると、明治32年(1899)に松山に生まれ高野山金剛峯寺第406世座主となった高僧の詠んだ句。高浜虚子と知己を得、師事。子供がむなしくなり、四国巡礼の旅に出たとき、「遍路の思いにはそれそれの想いと影があることを想いよんだもの」とあった。俳号森白像。八坂寺 本堂。熊野山 妙見院 八坂寺(くまのざん みょうけんいん やさかじ)宗派 真言宗醍醐派本尊 阿弥陀如来創建 (伝)大宝元年(701年)開祖 (伝)役行者、文武天皇(勅願)所在 愛媛県松山市浄瑠璃町八坂773本尊真言 ”おん あみりた ていぜい からうん”八坂寺の寺名は、大友山に八箇所の坂を切り開いて修験の伽藍を創建し、かつ、ますます栄える「いやさか(八坂)」に由来するとのこと。「寺伝によれば役行者によって開基され、大宝元年(701年)に、伊予の国司越智玉興が、文武天皇の勅願を受けて堂宇を建立したという。このとき8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名になったといわれている。一時荒廃するが、弘仁6年(815年)に来錫した空海(弘法大師)が再興したとされる。 本尊の阿弥陀如来は恵心僧都源信の作と伝えられる。その後、紀州から熊野権現を勧進して十二社権現とともに祀り、修験道の根本道場として栄え、12坊、84の末寺を持ち多くの僧兵を抱える大寺となった。天正年間(1573年 - 1592年)には兵火によって焼失してからは寺域も縮小し、現在の境内となっている。」。本尊は、恵心僧都(えしんそうず)作といわれる寄木造の「阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)」。像高84cm・重さ18kg、粒の粗い螺髪・低い肉髻・髪際のゆるい波形など鎌倉時代前期の手法や特徴が顕著で、当時の代表的な作品。本尊は秘仏とされており開帳は50年に1度、次回の開帳は2034年。扁額には無量寿如来(阿弥陀如来)の文字が。本堂内部。本堂左右入口から降りた地下室には、万体阿弥陀仏が安置されていた。県ごとに並べられた砥部焼の仏像は、信者が奉納しており約8,000祀られていると。本堂と大師堂の間に閻魔堂が。美しい浄土を描いた「極楽の途」と修羅道などを描いた「地獄の途」があり、地獄から入って極楽から出ると極楽浄土へ行けると。弘法大師壱千百五十年 御遠忌供養塔。権現堂。権現堂からの境内の風景。大師堂。大師堂正面上部には見事な彫刻が。内部には大師様。境内の鐘楼前の可愛らしい地蔵様。境内の桜も満開。境内から極楽門を。層塔 一基。鮮半島の影響を受けたもので、死者の菩提を弔ったものと。高さ2.7mで鎌倉時代末期のものだと。現在6重となっているが、通常は3・5など奇数に造られていると。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。-----------------------------------------------------------------------------------------------------48番札所:西林寺(さいりんじ)県道194号線→207号線を利用して西林寺に車を走らせる。前の車両のトランク部にはお遍路さんのシールが貼られていた。重信川に架かる重信橋を渡る。そして西林寺駐車場に到着。西林寺境内案内図。「山門を入ると左に鐘楼、その奥に庫裏・納経所が右に手水場、茶堂がある。正面奥に本堂が建ち、その左に阿弥陀堂がある。本堂右に大師堂が、その右に閻魔堂がある。」八坂寺から西林寺への走行ルート。太鼓橋を渡り仁王門を渡る。振り返ると長善寺大師堂が左角に。正岡子規の歌碑。「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」仁王門。入母屋造楼門。仁王門の扁額「清滝山(せいりゅうざん)」。仁王阿形像を金網の間から。仁王吽形像前の金網?小さな金網越しの撮影テクニックは至難の業。仁王門を潜り境内へ。右手に手水舎。左手に鐘楼。遍照殿。水子地蔵尊。阿弥陀堂。本堂左にあった同堂と閻魔堂は取り壊され閻魔堂の跡に新しい阿弥陀堂が2018年新春開闢された。阿弥陀如来坐像像は修復され中央に鎮座し、閻魔像は向かって左に鎮座している。大師堂。現在は平成20年(2008年)に再建している。大師像を拝顔できる。本堂。「寺伝によれば、聖武天皇の勅願を受け、天平13年(741年)に行基が伊予国国司越智宿禰玉純と共に堂宇を建立、本尊の十一面観世音菩薩を刻んで開基したという。大同2年(807年)に空海(弘法大師)が本寺に逗留し奥の院になっている杖の渕の清水を湧出させたといわれる。当初は現在地より北東の徳威の里にあったが空海により今の場所に移されたと云われている。 伊予の関所寺(別の寺が関所寺という説もあり)で、境内は周りより一段低い場所にあり、邪悪な者が踏み入れると無間地獄に落ちると考えられている。17世紀末に火災で焼失したが、元禄13年(1700年)松平定直らによって一部再建、その後宝永4年(1707年)には本堂と鐘楼堂が、文化10年(1813年)に大師堂、天保14年(1843年)に仁王門が再建された。」清滝山 安養院 西林寺(せいりゅうざん あんよういん さいりんじ)宗派 真言宗豊山派本尊 十一面観音創建 (伝)天平13年(741年)開祖 (伝)行基所在 愛媛県松山市高井町1007本尊真言 ”おん まか きゃろにきゃ そわか”本堂内部。本尊の力が強すぎるため後ろ向きに安置されていると云われ裏からお参りする人もいたが、現在は否定されている。閻魔堂。仁王門を潜り境内側から振り返る。納経所入口の石。納経所前の庭園内の弁財天池の中の福授(ふくさずけ)地蔵。お詣りすると1つだけ願いを叶えてくれるという幸せを授けてくださる地蔵さん。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。納経所の前の庭園から仁王門(右)と鐘楼(左)。仁王門を境内から。手水舎(左)と遍照殿(中央)。正面に本堂、右手に手水舎。仁王門前から長善寺大師堂を見る。 ・・・つづく・・・
2018.05.16
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク43番札所:明石寺(めいせきじ)佛木寺を後にして、再び龍光寺の近くを通り松山自動車道(無料区間)の三間ICへ向かう。道の駅・三間の前には鯉のぼりと幟旗が。西予宇和ICで松山自動車道を下り県道237号線を走ると愛媛県歴史文化博物館が高台に。岩瀬川手前で左折し進むと明石寺に到着。宇和文化の里ご案内。佛木寺から明石寺までの走行ルート。明石寺境内配置案内図。参道から石段を上ると右手に本坊・納経所が、左に手水場があり山門をくぐる。右手に地蔵堂があり、さらに石段を数段上がると正面に本堂が建つ。その右側に鐘楼と大師堂がある。山門手前を左に行くとトイレがあり、その先奥に弘法井戸がある。また、本坊前を通り奥の山に入っていくと宇和西国三十三所があり最奥に、しあわせ観音石像が立つ。参道の石段を登る。売店には「お寺のたまご」が販売されていた。階段の上に仁王門が姿を現す。仁王門前の階段は大正5 (1916) 年・大正期建設、昭和初期増設。(国)登録有形文化財。左手に手水舎。仁王門。明治34 (1901) 年頃建築、(国)登録有形文化財。仁王門には源光山(げんこうざん)と書かれた扁額が。仁王阿形像(金網が邪魔しピンボケ)。仁王吽形像(金網が邪魔しピンボケ)。延命地蔵堂。明治42 (1909) 年建築。(国)登録有形文化財。境内の桜はこの寺も満開。階段の上に本堂が。鐘楼。江戸時代末期建築。(国)登録有形文化財。夫婦杉。大師堂。明治13 (1880) 年建築。(国)登録有形文化財。堂内の大師像。本堂。「寺伝によれば6世紀、欽明天皇の勅願により正澄上人が唐からの渡来仏である千手観世音菩薩を祀るため創建したという。天平6年(734年)に寿元行者が熊野より十二社権現を勧請し修験道の中心道場としたとされる。弘仁13年(822年)空海(弘法大師)が再興したという。縁起の通りであれば飛鳥寺や四天王寺以前の創建ということになるのでこれは史実とは考えられず、実際の創建年は不明といわざるを得ない。建久5年(1194年)に、源頼朝が池禅尼の菩提を弔うため阿弥陀如来を安置、経塚を築き堂宇の修繕をした。この時に山号を現光山から源光山に改めたという。その後も武士からの信仰が篤く、室町時代は西園寺氏の祈願所、寛文12年(1672年)には宇和島藩主伊達宗利が堂宇を建立した。」現在の本堂は明治23 (1890) 年頃建立と。(国)登録有形文化財。本堂の見事な彫刻。源光山 円手院 明石寺(げんこうざん えんしゅいん めいせきじ)宗派 天台寺門宗本尊 千手観音創建 (伝)6世紀開祖 (伝)正澄上人所在 愛媛県西予市宇和町明石201本尊真言 ”おん ばざらたらま きりく そわか”本堂内部には南予七福神の布袋様の姿が。本堂前からの境内。熊野神社への石灯籠。熊野神社。天平6年(734)に寿元という行者(役行者小角から5代目)が紀州熊野から12社権現を勧請し、12坊を建てて修験道の中心道場として法灯を伝承した。12社権現。手水舎と仁王門。見事な桜。境内の白木蓮も見事に開花。仁王門の大草履。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。明石寺駐車場の売店でソフトクリームを楽しみました。そして卵も1個、ご接待を受けました。------------------------------------------------------------------------------------------46番札所:浄瑠璃寺(じょうるりじ)次の45番札所、46番札所は既に2015年に参拝済み。44番札所:大寶寺(だいほうじ)45番札所:岩屋寺(いわやじ)明石寺から再び松山自動車道を利用し北上する。松山道大洲料金所を通過。 愛媛県喜多郡にある鎌倉山が前方に。愛媛県伊予市の街並みが見えた。松山自動車道松山ICから一般道へ。溜池の多い松山市内を浄瑠璃寺に向けて進む。そして46番札所:浄瑠璃寺に到着。明石寺から浄瑠璃寺までの走行ルート。明石寺 境内配置案内図。参道から石段を上ると右手に本坊・納経所が、左に手水場があり山門をくぐる。右手に地蔵堂があり、さらに石段を数段上がると正面に本堂が建つ。その右側に鐘楼と大師堂がある。山門手前を左に行くとトイレがあり、その先奥に弘法井戸がある。また、本坊前を通り奥の山に入っていくと宇和西国三十三所があり最奥に、しあわせ観音石像が立つ。「四国霊場第四十六番 浄瑠璃寺」と書かれた案内板。参道の石段を登る。鐘楼が右手に。正面に本堂が見えた。籾大師。ズームで。手水舎。本堂。「寺伝によれば、和銅元年(708年)に大仏開眼を前にした布教に訪れた行基が堂宇を建立、本尊の薬師如来と脇侍の日光菩薩・月光菩薩、十二神将を刻んで安置して開基したという。その後、大同2年(807年)に空海(弘法大師)が本寺を再興したと伝える。室町時代末期には当寺に帰依した足利幕府の武将・平岡道倚(みちより)が伽藍を整備した。正徳5年(1715年)の山火事で焼失し、江戸時代中期の天明5年(1785年)に住職・堯音(ぎょうおん)の尽力により復興した。」扁額には「醫王山」の文字が。医王山 養珠院 浄瑠璃寺(いおうざん ようじゅいん じょうるりじ)宗派 真言宗豊山派本尊 薬師如来創建 (伝)和銅元年(708年)開祖 (伝)行基所在 愛媛県松山市浄瑠璃町282本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか”本堂正面には多くの千羽鶴が。円形の薬師如来様と梁を咥える龍。本堂から寺の入口方面を見る。仏足石。仏手花判石:ほとけの指紋。賓頭盧様。無縁墓石。一願弁財天堂の朱の鳥居。本堂の左手に安置されているのが、芸術の守護神・弁財天を祀った「一願弁天」。ただ1つだけ願いを叶えてくれ、中でも知恵・財宝・音楽に関する願いには、霊験あらたかと伝えられている。大師堂。本堂と回廊で繋がっていた。堂内部。弘法大師の子どもの頃を象った木彫りの「だっこ大師」が左手に。弘法大師の幼名は、佐伯眞魚(まお)といい、その重みもちょうどその頃の大きさと。実際に抱くと何かを感じる人が多く、涙を流される方もいるのだと。大師様。水守地蔵。水子菩提、家内安全、子孫繁栄を願うと。燈ぼさつ。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。納経所の中の弘法大師行状曼荼羅。イブキビャクシンの老木三本。幹囲は (1) 4.8m、 (2) 3.5m、 (3) 3.2mで、高さは20mもあると。樹齢千年を超すといわれる松山市指定天然記念物。万霊塔。六地蔵か。 ・・・つづく・・・
2018.05.15
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク41番札所:龍光寺(りゅうこうじ)愛媛県道345号線を再び利用して宇和島市内に向かって走る。左手には宇和海が拡がり遊子の海に浮かぶ島の姿が。ズームで。松の盆栽の如し。養殖場の姿も。宇和島道路(無料区間)の道路脇の満開の桜を楽しみながら進む。宇和島城が遠く右手に。ズームで撮影。そして松山自動車道(無料区間)を走り41番札所・龍光寺に到着。駐車場から民家との間に設けられた細い通路を進んで行くと参道の階段の途中に出た。遊子水荷浦の段畑から41番札所・龍光寺そして42番札所・仏木寺までの走行ルート。境内配置案内図。石の鳥居が参道の入口に建つ。両脇に民家が並ぶ参道を進み石段を上詰めると狛犬の置かれた境内に至る。左に鐘楼、右に水子地蔵尊がある。その先左手に本堂が建ち、右手に大師堂がある。納経所は本堂の左にある。赤い鳥居をくぐり石段をさらに上って行くと稲荷社がある。左手に百体観音。水子地蔵尊。正面から。大師堂。ここ龍光寺は南予七福神の3番霊場。七福神の姿が。恵比寿尊が祀られていた。階段の上には朱の鳥居と稲荷神社が。主祭神は豊宇気姫命、配神として猿田彦命・大宮女大神。手水舎。本堂。寺伝によれば、空海(弘法大師)がこの地を巡錫した際、白髪の老人に出会った。その言動から五穀大明神の化身と悟り、稲荷明神像を刻んで安置した。本地仏として十一面観世音菩薩、脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで、四国霊場の総鎮守の寺とされ、開基したと伝えられてる。その後、神仏習合の「三間の稲荷」として親しまれ、明治初期の神仏分離まで稲荷社が札所であり、神社本殿は17世紀後半の建築とされ、隣接する旧観音堂であった廣田神社は18世紀初頭の建築とされ、江戸時代中期には現在に続く景観が成立していた。なお、江戸時代前期には、「立光寺」という名で神宮寺としての龍光寺が成立していた。稲荷山 護国院 龍光寺(いなりざん ごこくいん りゅうこうじ)宗派 真言宗御室派本尊 十一面観世音創建 (伝)大同2年(807年)開祖 (伝)空海(弘法大師)所在 愛媛県宇和島市三間町戸雁173本尊真言 ”おん まか きゃろにきゃ そわか”十三重石塔。鐘楼。池の中の地蔵尊。境内の右に鐘楼が。本堂(左)と大師堂(右)、中央に稲荷神社への階段が。本堂を再び正面から。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。坂東・秩父・西国百体観音の砂ふみ場もあった。地蔵様が並ぶ。階段の先には神社と間違うような古い鳥居が立ち、ここが龍光寺正面入口。神仏習合が今なお色濃く残るお寺である事が理解出来る光景。-----------------------------------------------------------------------------------------------------42番札所:佛木寺(ぶつもくじ)龍光寺から5分ほどで42番札所・佛木寺前の駐車場に到着。仁王門から階段を登ると境内へと続いていた。仁王門(山門)。入母屋造楼門、以前の門は1919年に建立されたが、老朽化したため2010年5月から建て替え、2011年5月28日に落慶したと。「一○山(いっかざん)と書かれた扁額が仁王門に。○は王偏に「果」。仁王阿形像。仁王吽形像。境内配置案内図。県道より石段を上って山門をくぐると参道は左に入るが、直進すると茅葺の鐘楼堂、庫裏がある。参道右手に手水場があり、段を上がると左に納経所があり、右に不動堂、その先に聖徳太子堂がある。参道を進むと左手には観音菩薩像を越え正面に本堂が左に大師堂が建つ、本堂の右に家畜堂、本堂右後ろに鎮守堂がある。修行大師像。七福神尊像。南予七福神の大黒天を祀る。鐘楼。鐘楼堂は元禄年間(1688~1703)に建てられた茅葺きの建物。2014年に四国霊場唯一の茅の葺き替えを行ったと。手水舎。大日如来座像。石仏群。聖徳太子堂。道祖神尊。救世観音像。本堂。「大同2年(807年)空海(弘法大師)がこの地で牛を牽く老人に勧められて牛の背に乗って進むと、唐を離れる際に有縁の地を求めて東に向かって投げた宝珠が楠の大樹にかかっているのを見つけた。そこで、この地が霊地であると悟り楠木で大日如来を刻んで、その眉間に宝珠を埋め、堂宇を建立して開創したという。牛の背に乗ってこの地に至ったというところから家畜守護の寺とされている。鎌倉時代は宇和島領主西園寺氏の菩提寺として栄えた。弘法大師像は正和4年(1315年)10月5日開眼」の胎内銘が入り、銘入りの大師像として日本最古のものといわれている。本堂は享保13年(1728年)に、吉田藩主伊達村賢が建てたものである。毎年、4月19日は当寺の縁日で、本尊の大師像が開帳される。なお、不動堂は元の大師堂で現大師堂の場所から移動され、前立の大師像は現大師堂が昭和時代になって建てられたときに共に造られた。」「大日如来」と書かれた扁額。一○山 毘盧舎那院 佛木寺(いっかさん びるしゃないん ぶつもくじ)○は王偏に「果」。 宗派 真言宗御室派本尊 大日如来創建 (伝)大同2年(807年)開祖 (伝)空海(弘法大師)所在 愛媛県宇和島市三間町則1683本尊真言 ”おん あびらうんけん ばざらだどばん"本堂内部。大師堂。大師堂内部の大師像。大師堂は前堂と後堂がある。前堂には白塗り着色の大師像が、後堂には県有形文化財の木肌の大師像が安置されています。このうち、後堂の大師像は正和4年(1315年)10月5日開眼」の胎内銘が入っており、銘入りの大師像として日本最古のもの。賓頭盧様。大師堂(左)と本堂(右)。救世観音像と聖徳大師堂と不動堂その奥に納経所のある本坊が。これも大日如来像?家畜堂。牛馬や家畜の守り仏として信仰を集めている。水子地蔵尊。神明宮。神宮社 社殿。手入れの行き届いた境内。四国八十八ヶ所霊場巡りを25回完遂したと。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ・・・つづく・・・
2018.05.14
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観自在寺参拝の後は、旅友Sさんが「蘇家神社(そがじんじゃ)」に行こうと。「蘇家神社」は昨年のNHK「にっぽん縦断こころ旅」で、火野正平、が訪ねた神社であると。そして「手すりも途中の踊り場もない185段の石段」を登るのだと。宿毛街道を戻り10分ほど走ると深浦の海岸線に出た。そして風光明媚な深浦の海岸沿いを走る。そして直ぐに蘇家神社前に到着。朱の鳥居と急な階段が見えた。観自在寺から蘇家神社までの走行ルート。駐車場に車を止め、蘇家神社を目指す。蘇家神社の狛犬(左)蘇家神社の狛犬(左)そして目の前に「手すりも途中の踊り場もない185段の石段」が姿を現す。覚悟を決めて185段の階段を登り始める。11月3日の秋祭り時にはこの石段をお神輿が降りてくるのだと。振り返ると、後ろから旅友のSさんの姿が。高所恐怖症にめげずに頑張っていた。途中までは階段の数を数えながら登って行ったが・・・。階段の終わりが見えたと思って足早に登っていくと、階段はカーブしてまだ先にも。そして蘇家神社が見えて来た。そして185段の階段を登り切り蘇家神社に辿り着く。大同年間、全村鎮護の神として相州鎌倉より勧請し当山山頂に創建したが、天正7年(1579年)9月に元社地に奉遷する。貞享元年(1684年)9月社殿を造営、元禄2年(1689年)3月鳥居を建立、宝永5年(1709年)8月御荘郷五十一社制定の一社となる。享保9年(1725年)9月社殿を改築、文化9年8月本殿を造営し慶應元年(1865年)11月に霧囲、本殿、中殿、拝殿を造営。昭和3年(1928年)11月御大典を記念して再び社殿を山嶺に奉遷した。蘇家神社 社内。祭神は蘇家大神(そがのおほかみ)御大典記念遷宮碑。恵美須神社(事代主神)。本堂の奥にあった金比羅宮。そして10分弱滞在の後に転げ落ちぬように慎重に階段を下る。朱の鳥居が陽光に輝いていた。火野正平はこの辺りの食堂で食事をしたとのことであったが、我々は道を急いだのであった。ここ深浦港の周辺の愛南町深浦から西海地区でマグロ2万匹の養殖を行っているのだと。蘇家神社を後にし、宿毛街道を宇和島に向かい北上する。南愛媛風力発電所が前方の山の上に。宇和島市の南端、観音岳を中心とした尾根沿い標高500~600mに位置する発電所。内浦沿いを北上する。正面に見えるのは由良半島。本マグロの養殖場であろうか?嵐坂ポケットパーク、風園の案内表示。ドライバー、通学生、遍路さんなどの休憩施設として、津島中学校生徒と地元住民で公園計画をまとめ24時間利用できる公衆トイレと駐車場(大型車用2台分・普通車用16台分・身体障害者用2台分)があるのだと。宿毛街道の桜を楽しみながら進む。桜の下に芳原川が流れていた。宿毛街道から宇和島道路(無料区間)へ。「ようこそ下波へ」の看板。下波村(したばむら)は、1958年まで愛媛県の南予地方の北宇和郡にあった村である。宇和海に突き出した三浦半島(蒋淵半島)の基部西側に位置し、宇和海に面している。宇和海村(うわうみむら)の成立によって自治体としては消滅し、その後の編入合併で現在は宇和島市の一部となっている。そして前方に目的の「遊子水荷浦の段畑(ゆすみずがうらのだんばた)」の姿が。蘇家神社から遊子水荷浦の段畑への走行ルート。水荷浦が位置する三浦半島の周辺は多島海・溺れ谷などから成る顕著なリアス式海岸で、急峻な丘陵斜面と深い海域から成る独特の地形を持つのだ。「耕して天に至る」と形容される段々畑。幅・高さとも1メートルほどの石垣がはるか山頂まで続いていた。急な山の斜面を人々が苦労してきり拓いてきた歴史の重み、壮観な造形の美に圧倒されるのだ。水荷浦の段畑は、眼前に広がる宇和海の美しさもあいまってまさに絶景。「日本農村百景」などに選ばれており、平成19年7月には全国で3例目の「国の重要文化的景観」に選定された。また、この景観保持の活動を続けている「段畑を守ろう会」も、平成15年3月末に「ふるさと愛媛創造賞」を受賞していると。上段への移動は梯子を利用している様であった。水荷浦は、起伏に富んだリアス式海岸に突き出た岬の斜面に、城壁のような石垣が幅1m、高さ1.5m前後の段々畑を形成し、標高は高い所で約60m、平均勾配が約40度で、その段数は50段余を数えるのだと。江戸時代終わり頃にサツマイモ栽培で段々畑化し、明治時代末から大正時代にかけて、養蚕経営でサツマイモから桑へと切り替わり、養蚕で得た収入で石垣化が行われ、現在NPO法人「段畑を守ろう会」が設立され、景観保持・環境保全しつつ早堀り馬鈴薯の栽培を主要作物とし、営農を持続的に行っていると。だんだん茶屋と段畑。 食事処(地元の新鮮な野菜・魚を使った食事)であるが、生憎この日は水曜日で休みであった。8月には段々ライトアップ(夕涼み会)が開催されると。NPO法人 だんだん屋 段畑を守ろう会 事務所。遊子水荷浦の案内図。毎年4月には山すその海岸沿いで「だんだん祭り」が開催されるののだと。段畑を守ろう会 事務所内にあった段畑の水彩画。こちらは上空からの写真。更に車で狭い山道を進み遊子水荷浦の段畑の裏側まで行ってみる。豊後水道に浮かぶ数々のマグロの円形養殖場が。復路で車を降りて、段畑のジャガイモ栽培を見る。水が浦鼻の防波堤には釣り人の姿が。そして帰路に再び遊子水荷浦の段畑を。 ・・・つづく・・・
2018.05.13
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク37番札所:岩本寺(いわもとじ)この日は3月28日、四国八十八ヶ所お遍路の旅の2日目。須崎市のホテルの部屋からの日の出の光景を楽しむ。部屋のカーテンを開けると東の空が赤く染まっていた。時間は6:20。そして日の出の場所の山の端が輝き始めた。山の端をズームで。木々の間から太陽の輝きがそして、そして日の出の瞬間。そして太陽が半分姿を現す。太陽が完全に姿を現す。時間は6:24。そして朝食なしでホテルを出発しこの日の最初の寺、岩本寺を目指す。新荘川に架かる橋を渡る。朝日が前方に。須崎西ICから高知自動車道(無料区間)を利用する。高知自動車道は途中、濃霧が発生していた。四万十町中央で高速を下り、少し走ると岩本寺に到着。ホテルから岩本寺までの走行ルート。境内配置案内図。山門(仁王門)を入ると左に手水場、納経所、右手に聖天堂、鐘楼があり、正面右手に本堂が建つ。本堂の左には水天宮、鐘楼の奥に大師堂がある。本堂の正面に、土産物を売っている売店と宿坊があり、トイレもここで借りる。境内の裏手には土佐くろしお鉄道の線路が通り、参拝中に列車の姿を見ることができる。岩本寺 入口。正面に仁王門。階段の両側には、板に描かれたひなまつりの子供達の絵が飾られていた。仁王門の扁額には「藤井山」と、仁王門。阿形像。吽形像。手水場。修行大師像。大聖歓喜自在天。平成8年に落慶した堂は、木造でありながら円形という珍しい建物。本尊は大聖歓喜自在天で、歓喜天や大聖歓喜天と言つた名前でも知られている。一般には商売繁盛、夫婦円満、子授け祈願、病悩祈願、盗難退散、財宝成就の民間信仰の対象として有名。頭は象、体は人間の姿をしており、単身と双身がある。双身のものには夫天が象頭、婦天が猪頭という珍しいものもあるそうだが、この寺に安置されているのは双方とも象頭の双身のものと。大師堂。200年の歴史を持つと。五鈷杵(ごこしょ)。 中央の刃の周囲に四本の刃を付けたもの。開山堂。本堂。江戸時代以前の37番札所は仁井田五社(仁井田大明神、現・高岡神社)であった。天平年間(729~49)行基菩薩が神宮寺の福円満寺をはじめとする7ヶ寺を開創。弘仁年間(810~24)弘法大師が仁井田大明神を五つの社に分けて五社大明神とした。さらに5つの寺を建立し、先の7ヶ寺と合わせて仁井田十二福寺と称し、神仏習合の霊場として栄えた。福円満寺が廃寺となった後は岩本寺が別当となった。明治の神仏分離で廃寺となるが、明治22年(1889)再興された。空海の七不思議伝説が伝わると。子安桜(この桜に祈れば安産する)、三度栗(一年に三度も実るようになった)、口なし蛭(ヒルが血を吸わなくなった)、桜貝(桜の花がみんな貝になった)、筆草(ねじ花)、尻なし貝(巻貝に棘のあるもの)、戸たてず庄屋(泥棒が入らなくなった)であると。本堂内。「五仏宝殿」の扁額が。藤井山 五智院 岩本寺(ふじいさん ごちいん いわもとじ)宗派 真言宗智山派本尊 不動明王 聖観世音菩薩 阿弥陀如来 薬師如来 地蔵菩薩創建 (伝)天平年間(729年 - 749年)開祖 (伝)行基、聖武天皇(勅願)所在 高知県高岡郡四万十町茂串町本尊真言 ”おん あみりた ていぜい からうん/ おん ころころ せんだりまとうぎ そわか/ おん あろりきゃ そわか/ おん かかかびさんまえい そわか/ のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたら たかんまん”1978年に新築された本堂の天井には画家や一般市民が書いた575枚の天井絵が飾られていた。地元の県展出品者からアマチュアまで約400名が描いたもので、洋画や日本画、水彩画などさまざまな手法で描かれていると。花鳥風月に混じってマリリン・モンローの艶然たる微笑が写真中央下に。鐘楼と観音様。鐘楼。岩本寺の中心には鐘楼堂がどどんと。露座の子育観音。右に水天宮。水難除けと安産祈願の神として信仰されていると。境内にある地蔵群。聖観世音菩薩像か?法隆寺の救世観音像に似ているが。客殿、方丈。奥に本堂、手前に鐘楼。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。鐘楼と修行大師像。境内から仁王門を。院号の「五智院」と書かれた扁額。無相居士之碑。境内全体を。修行大師像を見上げる。--------------------------------------------------------------------------------------------------40番札所:観自在寺(かんじざいじ)以下40番札所:観自在寺から65番札所:三角寺までは愛媛県の寺院ですので色も変えました。岩本寺から国道56号線(中村街道)を利用して38番札所、観自在寺に車を進める。市ノ瀬の山々も桜が満開となっていた。土佐佐賀駅付近を走る「くろしお中村線」の列車。土佐白浜手前よりの土佐湾の絶景。白浜海岸休憩所から四万十町方面を振り返る。光る土佐湾の海。ここから本来ならば38番札所:金剛福寺、39番札所:延光寺へと向かうのであるがこの2寺は既に2015年9月に日本百名城スタンプラリーの途中に参拝したのであった。既にブログアップしているので下記リンクからアクセス願います。38番札所:金剛福寺39番札所:延光寺宿毛市手前の松田川手前からの山の景色。くろしお宿毛線の東宿毛駅(ひがしすくもえき)。(愛称)早稲田・梓駅の文字の看板が。何故この地に早稲田の文字があるのかと思ったが、帰宅後ネットで調べてみるとそれは、明治時代に大隈重信と共に早稲田大学の前身である東京専門学校の設立に尽力した、法学者・政治家である小野梓の出身地が宿毛市だからとのこと。車は高知県から愛媛県に入り更に進む。そして観自在寺仁王門に到着。岩本寺から観自在寺までの走行ルート。山門前の満開の桜が迎えてくれた。境内配置案内図。仁王門を入ると右手に手水場、鐘楼、八角堂が、左に信徒会館が建つ。左に十二支守本尊、右に平城天皇遺髪塔、心経宝塔がある参道の正面奥に本堂が建ち、右手に大師堂がある。納経所は本堂の中にある。仁王門には山号の「平城山」の扁額が。現在の額は高野山第401世座主の筆によるものと。そして現在の門は、1910(明治43)年 観自在寺が消失した後、町内の大工が大師信仰による大病全快の礼として、1911年に建立したもの。総ケヤキ材を用い、地上から屋根まで7m、幅6mの堂々たるもの。町指定の文化財。仁王門からの境内そしてその先に本堂が見えた。仁王阿形像。仁王吽形像。手水舎。鐘楼が右手に。鐘を撞かせていただきました。お忘れぽっくり地蔵。説明板には「お地蔵様は私達の苦しみ、悩みを除き、大慈悲心を以って福徳を与え、中道無間の苦しみを除き安楽な世界へお導きくださる菩薩さまです」と書いてあった。宝聚殿八角堂。本尊 文殊菩薩・弁財天。平城山に伝わっている宝物を収納展示すると同時に、学業成就・受験祈願のため、文殊菩薩を祭祀されていると。修行大師像。八体仏十二支守本尊。一枚岩をくり抜いた光背を背負った八体仏。自分の干支の仏様にお水をかけて願いを成就するのだと。境内に「栄かえる」の石像が。そばの石碑に次のように書いてあった。親子孫と三かえるお金かえる福がかえる病気が引き(ひき)かえる本堂。銅葺き入母屋造り。寺伝によれば平安時代初期の大同2年(807年)平城天皇の勅願によって、空海は、一本の霊木から本尊の薬師如来、脇持の阿弥陀如来、十一面観世音菩薩を刻み安置して開創したと伝えられている。このとき残った霊木に庶民の病根を除く祈願をし「南無阿弥陀仏」と彫ったと云われる。また、平城天皇は勅額「平城山」を下賜し、当地に行幸されたと云われ、一切経と大般若経を奉納を奉納し、毎年勅使を遣わして護摩供の秘法を修したとされている。江戸時代初期の寛永15年(1638年)に京都の空性法親王が巡拝、薬師院の号を受けた。その後、宇和島藩主伊達宗利の勅願所になったという歴史をもつ。一時は七堂伽藍を持ち四十の末寺を有したが、火災で消失。延宝6年(1678年)に再建されたが、昭和34年(1959年)に失火で本堂を焼失、現在の本堂はその後に建立された。平城山 薬師院 観自在寺(へいじょうざん やくしいん かんじざいじ)宗派 真言宗大覚寺派本尊 薬師如来創建 (伝)大同2年(807年)開祖 (伝)空海(弘法大師)所在 愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城2253-1本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか”納経所は本堂内部の右側。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。観自在菩薩像。大師堂。五鈷杵(ごこしょ)。中央の刃の周囲に四本の刃を付けたもの。お大師様のお姿が。奥之院「篠山大権現」遙拝所。本堂と観自在菩薩像。信楽焼きの狸も、お遍路さんの格好をしていた。心経宝塔が奥に。大師が平城天皇の病気平癒を願って般若心経の祈祷をしたことから、全国の信者から多くの写経がよせられ、それを奉納する為、心経宝塔が建てられた。境内から仁王門を見る。井戸の跡。 ・・・つづく・・・
2018.05.12
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク36番札所:青龍寺(しょうりゅうじ)国道47号線を利用して、36番札所:青龍寺(しょうりゅうじ)を目指す。前方に浦ノ内湾口に架かる宇佐大橋が見えて来た。昭和48年(1973年)に架設。この宇佐大橋ができるまで、福島から井尻まで湾口約400mを渡し船が出ており、およそ1200年も続いたのだと。 青龍寺は、高知県土佐市にある真言宗豊山派の寺院。独鈷山 伊舎那院 青龍寺と号す。本尊は波切不動明王。四国八十八箇所霊場の第三十六番札所。波切り不動さんの愛称がある。35番札所:清瀧寺から36番札所:青龍寺への走行ルート。本堂へと続く参道階段。境内 配置図。石段下の右に手水場、左に納経所、恵果堂がある。石段途中左奥に三重塔があり、仁王門の先にも170段の石段が続く。石段を上りきったところに本堂が建ち、左に大師堂、右に薬師堂があるが、この配置は唐の青龍寺と同様であるといわれている。手水場。修行大師像。観音像。仁王門。金網の間からの阿形像。吽形像。仁王門近くにあった三重塔。三界万霊地蔵尊。本堂や大師堂への170段の階段を登る。モンゴル出身の元横綱朝青龍は、ここ青龍寺の近くの明徳義塾高校に在学して技を磨いた。四股名は師匠朝潮の「朝」と、青龍寺から「青龍」を取って決めたのだと。また当時はこの170段の石段を昇り降りして鍛錬したのだと。水子地蔵尊。背中の炎が緑の中にひときわ目を惹く波切り不動明王。 手には波を切った神剣を持ち、 滝に打たれる修行僧を見つめる姿と。行場のミニ滝。西国三十三観音が続く。どこまでも続く階段。手水舎。四国八十八ヶ所の寺にちなんだ石仏が参道脇に。階段下の仁王門を見下ろす。本堂。「寺伝によれば弘仁年間(810年 - 824年)に空海(弘法大師)によって開基されたとされる。入唐求法の遣唐使として、恵果和尚より真言密教の奥義を伝授された空海が帰国の折、有縁の地に至るように祈願して独鈷杵を東方に向かって投げた。空海はその独鈷杵がこの山中の松の木にあると感得し、嵯峨天皇に奏上。弘仁6年(815年)に恵果和尚を偲び、唐の青龍寺と同じ名の寺院を建立したという。本尊の波切不動は、空海が乗った遣唐使船が入唐時に暴風雨に遭った際に、不動明王が現れて剣で波を切って救ったといわれ、空海がその姿を刻んだものであると伝える。 江戸時代初期には荒廃していたが、土佐藩2代藩主山内忠義によって正保年間(1644年 - 48年)に再興された。しかし、宝永4年(1707年)には地震と津波で大きな被害を受け、江戸末期に再建された。」独鈷山 伊舎那院 青龍寺(どっこざん いしゃないん しょうりゅうじ)宗派 真言宗豊山派本尊 波切不動明王創建 (伝)弘仁6年(815年)開祖 (伝)空海(弘法大師)所在 高知県土佐市宇佐町竜163番地本尊真言 ”のうまくさんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん” 登って来た170段の階段。 空海作といわれる本尊の不動尊石像(レプリカ)。大師堂・本堂と一列に並ぶ「薬師堂」。朱が鮮やかで有り、最近建て直したのであろうか。薬師如来と書かれた扁額。白山大権現。境内。奥から本堂・大師堂、薬師堂。三十三観音の石像。こちらは青銅製の「波切り不動明王」。大師堂。ミニ不動尊。本堂と大師堂(左)。水子供養堂。再び三重塔。三重塔の下の歌碑。「大海に あまねき護り 独鈷山 峰にそびゆる宝塔の尊し」 空海の唐での師、恵果阿闍梨の堂宇。「青龍寺」は中国の長安にあり、空海はそこで恵果阿闍梨から密教の奥義を伝授され、遍照金剛という名をもらったのです。ここの寺はそういったことを模擬した寺なのだと。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。そしてこの御朱印は今年の3月7日に訪れた中国・西安にある青龍寺(せいりゅうじ)で頂いた御朱印。西安の青龍寺は空海が遣唐使に同行し、長安の都のこの青龍寺で恵果法師に就いて修行した事で有名な寺なのであった。御朱印には「第0番札所」の文字が。そして再び土佐の青龍寺本坊への鐘楼門。客殿・書院・方丈。護摩堂。鮮やかな朱塗りの二重塔。--------------------------------------------------------------------------------------------------------青龍寺を後にし、この日の宿のある須崎市に向かう。そして元横綱朝青龍の母校である明徳義塾高校の前を通過。国道47号線(横浪黒潮ライン)からの太平洋の眺望を楽しみながら進む。横浪県立自然公園帷子﨑(かたびらさき)の海岸線は美しかった。途中道路の脇に箱がズラッと並んでいるのを発見。日本ミツバチの待ち受け箱。日本ミツバチの分蜂群を捕獲するための巣箱。横浪スカイラインを中ほどまで走ると、道路脇の駐車場にあった武市 瑞山(たけち ずいざん)銅像。武市 瑞山(たけち ずいざん)は、日本の志士、武士(土佐藩郷士)。土佐勤王党の盟主。通称は半平太で、武市 半平太(たけち はんぺいた)と呼称される人物。高さは約3メートル。瑞山の銅像裏には、「土佐勤王党血盟者と同志人名」を刻んだ石版があった。住友大阪セメント(株)高知工場が車窓から。そして須崎市内のホテルに到着。青龍寺からホテルまでの走行ルート。そしてチェックイン後、夕食を兼ねてホテルの廻りを散策。JR土岐線多ノ郷駅へ。1時間に1~2本の電車。そして夕食の店で、鰹のタタキを楽しむ。その他いろいろとビール片手に楽しむ。〆の鍋焼きラーメン。そして部屋に戻り、この長い1日の疲れも有り、則爆睡したのであった。 ・・・つづく・・
2018.05.11
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク34番札所:種間寺(たねまじ)雪蹊寺を後にし県道36号線を走ると右手に高知競馬場が現れた。雪蹊寺から種間寺への走行ルート。種間寺駐車場に到着。石柱門のある種間寺入口。境内配置図。石柱門を入ると鐘楼があり光明殿前から右に入ると、左に水子地蔵尊、右に庫裏・納経所があり、その先に大師堂が並ぶ。左手に地蔵堂、底の抜けた柄杓が子安観音を取り巻く堂があり、最も奥にコンクリート作りの本堂が建つ。弘法大師像。一言地蔵尊。本坊。塀沿いの地蔵尊。水子堂。水子地蔵尊。境内。正面が本堂。江戸彼岸しだれ桜の碑。しかし何故かしだれ桜の写真は撮っていなかった。境内中央の椿。子育観音堂。子育観音像。底がない柄杓が子育観音像の周囲に。底がないひしゃくは「通りがよい」ことから、母親が苦しまず安産できるように、との祈りが込められているのだと。妊婦が持参したひしゃくの底を抜き、1週間かけて安産祈祷をした後、お札を添えて妊婦に返す。無事に安産すれば、ひしゃくを寺に納めるという。種間寺 本堂。敏達天皇の御代(572~85)四天王寺の造営のために百済から招かれた工匠や仏師が、寺の完成後に帰国する途中、土佐沖で暴風雨に遭ったため当地に上陸した。そして海上安全のために薬師如来の像を刻み、本尾山の頂上に祀ったことを起源とすると。後に弘法大師がこの像を本尊として寺を開創し、唐から持ち帰った五穀の種をまいたので種間寺と称するようになったと。安産祈願の底抜け柄杓で知られる。本尾山 朱雀院 種間寺(もとおざん すざくいん たねまでら)宗派 真言宗豊山派本尊 薬師如来創建 (伝)弘仁年間(810年 - 824年)開祖 (伝)空海(弘法大師)所在 高知県高知市春野町秋山72番地本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 本堂内部。右手に句碑。「道はるかなれど 歩まじ 沙羅の花」「つゝじ燃ゆ 浮世の嘆き 知らぬ気に」豊山派管長 長谷寺化主 聖定そして種間寺の境内には、徳光さんの石碑まであった。「徳さんのお遍路さん」という番組での記念に建てられたようである。BS-TBSで2012年から放映されていた、との事。「達観をちでゆく種間寺 ご住職」弘法大師像。沙羅双樹の木。本堂手前の手水舎。大師堂。大師堂の龍の見事な彫刻大師堂 内部。境内に堂々と、しだれ赤松。樹齢は200年を超えると。境内の本堂と大師堂。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。境内を再び。左に子育観音堂、中央に本堂、右手に大師堂。岡崎精郎(おかざきせいろう)の肖像レリーフをはめ込んだ記念碑。(1898(明治31)年~1938(昭和13)年)。地元出身の洋画家 農民解放運動家。歌碑。「波音のどすんどっすん浜木綿」鐘楼。--------------------------------------------------------------------------------------------------------35番札所:清瀧寺(きよたきじ)種間寺から279号線で土佐市方面に向かうと、仁淀川手前には、自動追随式のソーラーパネルを発見。ソーラーパネルが太陽を自動で追いかけパネルの角度を自動的に変えるシステム。土佐市、その先に仁淀川を見下ろす。種間寺から清瀧寺への走行ルート。そして清瀧寺に到着。境内配置図。山門の先にも石段が続き境内に至る。参道の右に赤い消防車、さらに庭園があって中に鐘楼が、その奥に客殿・納経所がある。正面先の右手に手水場、左には大きな厄よけ薬師如来像が立ち。さらに石段を上ると本堂が建っている。本堂右手には子安地蔵尊、琴平社祠、裏手には瀧と池があって水子地蔵尊が祀られている。本堂左の回廊続きに大師堂があり、その左に地蔵堂、観音堂が、大師堂の石段を下ると両脇に観音像、修行大師像があり、この南西に高岳親王逆修塔のある入らずの山がある。左に大師堂、右に本堂が。大師堂正面。平和観音。修行大師像。そして厄除け薬師如来像。像高15m、台座の中に入り戒壇巡りをすると厄除けのご利益があるという。本堂。寺伝によれば養老7年(723年)行基が本尊薬師如来を刻み、寺を開創し、景山密院繹木寺(けいさんみついんたくもくじ)と称したという。その後空海(弘法大師)が巡錫、五穀豊穣を祈願して山中で一七日(7日間)の修法を行い、満願の日に金剛杖で前の壇を突くと清水が湧き出て鏡のような池になったことから醫王山鏡池院清瀧寺と改めたという。平城天皇の第3皇子である高岳親王は薬子の変に連座したことから仏門に入り空海の弟子となり真如と名乗った。貞観3年(861年)に本寺に来錫し逆修塔(生前墓)を建てた。扁額にはご本尊 薬師如来と書かれていた。醫王山 鏡池院 清龍寺(いおうざん きょうちいん きよたきじ)宗派 真言宗豊山派本尊 薬師如来創建 (伝)養老7年(723年)開祖 (伝)行基所在 高知県土佐市高岡町丁568-1本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 本堂内部。大師堂に参拝。大師堂 内部。観音堂。地蔵堂。地蔵堂の裏にはたくさんの地蔵尊が。賓頭盧様。清瀧寺の境内に流れ落ちる瀧。奥の院の閼伽井から流れている清滝。厄除け薬師如来像を背面から。鐘楼。境内の駐車場から鐘楼の方に入って行く唐門。手水舎。再び高岡平野を見下ろす。本坊。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。琴平神社 鳥居。琴平神社 石碑。琴平神社 階段。琴平神社 手水場。琴平神社 拝殿。境内の地蔵尊。伊東象岳大和尚像。車でのお遍路のため、仁王門は潜る事は出来なかった。 ・・・つづく・・・
2018.05.07
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク32番札所:禅師峰寺(ぜんじぶじ)竹林寺がある五台山を駆け降り、まだまだ田園風景の中を海岸線目指して南へ。「黒潮ライン」と呼ばれる県道14号線の下を潜り込むように辿ると、海岸に面した低い山を登る道。その終点に、禅師峰寺の広い駐車場が現れた。竹林寺から禅師峰寺への走行ルート。不動明王、大日如来等様々な仏像が駐車場を見つめていた。四国霊場88ヶ所32番札所 禅師峰寺 案内板。境内配置図。麓から山道を登っていくと右に庫裏・納経所への分岐を過ぎると手水場があり山門に至る。山門脇には不動明王像が立つ。さらに石段を上ると右手に鐘楼があり正面奥に本堂が建つ。本堂左手に大師堂があり、その左には地蔵堂、阿弥陀堂がある。山上からは土佐湾が一望できる。駐車場には大きな十一面観世音菩薩が迎えてくれた。この十一面観世音菩薩は、・10種類の現世での利益(十種勝利)・4種類の来世での果報(四種功徳)をもたらすと言われていると。階段の途中には赤子を抱く地蔵の姿も。手水舎。弁財天には南無不動明王が。奇岩「屏風岩」を背中に「不動明王」が山門脇で出迎える。像の後ろにそびえ立つ奇岩がまるで炎の様に見え、不動明王の迫力がより一層。長い石段の途中に仁王門があり、さらに石段が続いていた。山門を正面から。扁額には「八葉山」の文字が。金剛力士阿形像。吽形像。手前の金網にピントが合ってしまいました。仁王像の姿を想像してみてください。奇岩「屏風岩」を右に見ながら階段を更に上る。そして本堂のある境内に。正面に本堂が。芭蕉の句碑「木がらしに岩吹き尖る杉間かな」は、本堂前の奇岩の間に。奇岩の前にお遍路に扮した信楽焼(しがらきやき)の狸像や可愛らしい地蔵が頭巾を被って。弘法大師像。本堂。寺伝によれば、聖武天皇の勅命を受けた行基が海上安全を祈願して堂宇を建立したのを起源とし、空海(弘法大師)はここを霊地と感得し虚空蔵求聞持法の護摩を修法、十一面観世音菩薩を刻んで本尊として祀り、現在の寺名を定めたという。土佐藩主山内一豊以来、歴代藩主の信仰を受けており、参勤交代で浦戸湾を出航する際には航海の無事を祈願したと。地元では「みねんじ」とか「みねでら」「みねじ」と呼ばれ、親しまれている。八葉山 求聞持院 禅師峰寺(はちようざん ぐもんじいん ぜんじぶじ)宗派 真言宗豊山派本尊 十一面観音創建 (伝)神亀年間(724年 - 729年)開祖 (伝)行基、聖武天皇(勅願)所在 高知県南国市十市3084本尊真言 ”おん まか きゃろにきゃ そわか” 禅師峰寺本堂内。大師堂。大師を拝顔出来るように扉が僅かに開いていました。お大師様のお顔がはっきり見えました。鐘楼。地蔵堂。地蔵様が並ぶ。地蔵堂内部。阿弥陀堂。阿弥陀堂内部。子安地蔵像。赤い涎掛けには般若心経が書かれていた。境内からの風景目の前に太平洋、眼下に園芸農業のビニールハウス、遠くに桂浜が望めた。桂浜をズームで。土佐民謡「よさこい節」にも詠われ、そして太平洋を望んで立つ坂本龍馬の銅像がある浜辺は、高知を代表する名所の一つ。納経所へ急ぐ旅友。納経所横の本坊。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。駐車場には数多くの水子観音も並ぶ。再び十一面観世音菩薩像と横にトイレそしてその後ろに本堂への階段が見えた。弘法大師石像。「道中お気をつけてお巡り下さい」と。----------------------------------------------------------------------------------------------------------33番札所:雪蹊寺(せっけいじ)禅師峰寺を後にし土佐湾沿いを走り浦戸湾にかかる延長1480 mの浦戸大橋を渡る。浦戸大橋を渡り黒潮ラインを左に行くと桂浜方面へ。桂浜は、白砂の美しい月の名所として知られる。幕末の志士、坂本龍馬の銅像が立っていることでも名高い。雪蹊寺に到着。禅師峰寺から雪蹊寺までの走行ルート。山門は無く、山頭火の言葉「人生即遍路」と刻まれた遍路石と石柱門が迎えてくれた。「寺伝によれば空海(弘法大師)の開基で、創建当初は真言宗に属し、「少林山高福寺」と称したと。天正16年(1588年)の長浜地検帳には「慶雲寺」とあり、この頃までに慶雲寺と改称していたことが窺える。寺に伝わる毘沙門天および両脇侍像は、毘沙門天像の足枘銘から湛慶の真作と判明し、高福寺創建の嘉禄元年(1225年)頃の作と推定されている。ただし、湛慶作の仏像が都から遠く離れた土佐に伝わった経緯は定かでない。鎌倉時代に仏師運慶と長男の湛慶が来山して「慶運寺」と改めたという伝承もある。その後、寺運が衰え、廃寺となっていたが、天正年間(1573年 - 1593年)の後期に月峰和尚が住職となり、土佐国の戦国大名長宗我部元親の後援で臨済宗の寺として復興した。慶長4年(1599年)の長宗我部元親の病没後、当寺は長宗我部家の菩提寺となり、長宗我部元親の法名「雪蹊恕三大禅定門」から「雪蹊寺」と称した。」境内配置図。石柱門から境内に入ると右に鐘楼、左に手水場がある。正面に本堂が建ち、その右横に大師堂がある。本堂左手に客殿・納経所があり、その左に馬頭観音堂がある。境内に入ってすぐ左側にある胸像は「山本玄峰老師」。慶応2年(1866年)~昭和36年(1961年)。十代で目を患い四国遍路にでる。裸足での遍路だったと。7回目の途上、雪蹊寺の門前で行き倒れとなっていたところを住職の山本太玄に救われる修行を重ね、雪蹊寺の住職になる臨済宗妙心寺派の管長も務めた。静岡県の龍沢寺を再興し96歳にて遷化(没す)。大玄塔。廃仏毀釈で廃寺となった寺を復興させた17代、山本太玄住職の供養塔。次の18代・山本玄峰和尚の師でもある。多くの石仏が。鐘楼。昭和52年改築。住宅街にあるため鐘は年に1度、大晦日の夜にだけ撞かれると。梵鐘には「朝破無明夢 夕闇清浄智」 の銘が。この詩は三島龍沢寺の老師で、山本玄峰の弟子である中川宗淵より贈られたものであると。 子安観音像。修業大師像「天質和尚、維新館址、長浜 簡易水道発祥之地」石碑。洗心接待堂。大師堂。本堂。高福山 高福院 雪蹊寺(こうふくざん こうふくいん せっけいじ)宗派 臨済宗妙心寺派本尊 薬師如来創建 (伝)弘仁6年(815年)、嘉禄元年(1225年)とも開祖 (伝)空海(弘法大師)所在 高知県高知市長浜857番地3本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 「高福山 高福院」と書かれた扁額。馬頭観音堂。昭和6年改築、馬頭観音は旅の安全を守るとされ、遍路の信仰が厚い。天井には松洞庵・横井五仙の天女絵が描かれている。安産子安地蔵堂。稲荷大明神。境内の垂れ桜も見事。長宗我部信親公の墓。土佐国の戦国大名・長宗我部元親の嫡男。信親の死は22歳。長宗我部家、土佐國、ひいては四国の覇者を継ぐものとして、あまりにも早い死であった。その後、家督を継いだ四男の長宗我部盛親は関ヶ原の合戦で西軍についたために土佐一国を没収。帰国も許されず京で浪人となっていたが、大坂冬の陣・大坂夏の陣が勃発。復権を夢見て豊臣側についたが、ここでも敗退。京都八幡で潜伏していたところを発見され、洛中引き廻しの上、六条河原で斬首となった。子らも各地に逃走したが、全て捕えられ処刑。長宗我部直系の血筋は、ここに途絶えたと。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。 ・・・つづく・・・
2018.05.06
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク30番札所:善楽寺(ぜんらくじ)高知市内に入り最初の札所となる善楽寺に到着。国分寺から善楽寺への走行ルート。十一面観世音菩薩石像。境内配置図。土佐神社参道の右手に大きな石造りの十一面観音菩薩立像が迎える。境内に入ると手水場があり、大師堂、本堂の順で並んでいる。その間には不動明王像、修行大師像が立つ。本堂の向かい側には地蔵堂、子安地蔵、梅見地蔵が並ぶ。庫裏・納経所は大師堂の左側に並んでいる。手水舎。この手水場の足元をよく見ると、邪鬼が手水鉢を支えていた。邪鬼は人の煩悩を表す象徴として毘沙門天などの仏像には、仏に踏みつけられているケースがよく見られるのです。水子地蔵尊(左)と小安地蔵堂(右)。本堂。「寺伝によれば、大同5年810年)空海(弘法大師)が高賀茂大明神(土佐国一宮、現在の土佐神社)の別当寺として、神宮寺とともに創建したといわれている。応仁年間に兵火で焼失したが、土佐藩2代藩主山内忠義の庇護を受けて栄えた。明治初期の神仏分離まで、納経は神宮寺(別当寺)で行っていたが塔頭寺院の善楽寺とともに廃寺となり、本尊の阿弥陀如来と弘法大師像が南国市にある29番札所国分寺に移された。両寺の廃寺により明治8年(1875年)に再興された安楽寺が30番札所となった。神宮寺は再興されず、善楽寺は昭和5年(1930年)に埼玉県与野町(現さいたま市中央区)にあった東明院をこの地に移転し、また国分寺に預けられていた弘法大師像を移して再興したが、30番札所の正統性について善楽寺と安楽寺の間で論争が起こり、しばらく30番札所が2箇所並立することになった。その後、善楽寺を「開創霊場」、安楽寺を「本尊奉安霊場」と称することになり、平成6年(1994年)1月1日、安楽寺を30番札所奥の院とすることで決着した」百々山 東明院 善楽寺(どどさん とうみょういん ぜんらくじ)宗派 真言宗豊山派本尊 阿弥陀如来創建 (伝)大同5年(810年)開祖 (伝)空海(弘法大師)所在 高知県高知市一宮しなね二丁目23番11号本尊真言 ”おん あみりた ていぜい からうん” 善楽寺は隣接する土佐神社の別当寺(神社を管理する寺)として運営されていたと。そしてお遍路さんは土佐神社の方へ参拝をする神仏習合スタイルだったのだ。しかし、明治の神仏分離、廃仏毀釈により土佐神社は独立し、善楽寺は廃寺となったと。無くなった30番札所を補うため、明治9年(1876年)、安楽寺が30番札所の機能を果たした。時代が経ち、昭和4年(1929年)、善楽寺が再興したことをきっかけに、30番札所を善楽寺と安楽寺の2寺が主張し、どちらも30番札所という状況になったと。平成6年(1994年)、安楽寺は30番札所の役割を終え、善楽寺の奥の院となり一件落着したのだと。本堂前の仏足石。不動明王石像。修行大師像。大師堂大正時代の建立。厄除大師と知られ、大師像は墨で黒く塗られ廃仏毀釈の難をのがれた。堂内部。梅見地蔵。梅見地蔵は首から上の病、学業成就、合格祈願にご利益があると。かつては境内の梅の木の下にあったことから名付けられたと。小安地蔵堂。子宝にご利益があるとされ、参拝者はフェルトでできた可愛らしい絵馬を奉納すると。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。----------------------------------------------------------------------------------------------そして隣りにある土佐神社に参拝する。土佐一の宮であることと、社殿が重要文化財に指定されているということで訪れた一の鳥居。手水舎。代々の領主は土佐神社に対して崇敬が篤く、現在の主要社殿は戦国大名の長宗我部元親による造営。拝殿。拝所拝殿の前にある小さな建物が拝所。その奥に拝殿・幣殿・本殿と続く。鼓楼(重要文化財)。慶安2年(1649年)、土佐藩第2代藩主山内忠義による造営。二重で、屋根は入母屋造で柿葺。初層は「袴腰」と呼ばれる形式。上層は桁行三間・梁間二間で、彫刻・柱が彩色で彩られており、内部には時を知らせるための太鼓を吊るす。絵馬殿。輪抜祓所。樹齢800年の御神木の杉が倒木の恐れがあったため伐採、根本の部分を奉斎したもの。御朱印をいただきました。---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------31番札所:竹林寺(ちくりんじ)高知県高知市五台山にある真言宗智山派の寺院・竹林寺に到着。善楽寺から竹林寺への走行ルート。山門に向かって階段を登る。境内配置図。石段を上がって山門の手前を右に進むと右側に鐘楼・宝物館があり、左側に虚空蔵菩薩堂があり、その先正面に納経所があり、見学のできる客殿と庭園の入口がある。戻って山門をくぐり参道を進み石段を上り詰めるとブロンズ製の善財童子像が立っていて、その上の高台に五重塔が聳え、左手に大師堂があり、右に進むと本堂が建つ。本堂の手前を左に行くとブッダドームがあり、その周辺が「めぐりのもり」である。その右の丘に稲荷社・子安地蔵祠・粟島明神祠があり、さらに奥まで進むと奥の院とされている船岡堂がある。本堂の右手を奥に進むと歓喜天堂があり、大師堂の右裏手に、一言地蔵がある。石段横にある弘法大師像。更に階段を登る。山門が見えて来た。鐘楼。梵鐘は総高78cm、口径46cm、鋳造は弘安7年 (1284)。山門。入母屋造楼門、金剛力士(仁王)像を安置。「五臺山」と書かれた扁額が。金剛力士阿形像。金剛力士吽形像。山門を潜ると再び階段が続く。弘法大師、文殊菩薩の石像。日吉神社。左上に朱に輝く五重塔。大師堂。賽銭箱の手前には、手綱に繋がれた、なで五鈷(ごこ)が。この手綱は、弘法大師と繋がっていると言われています。五鈷を撫でることで、ご縁を結ぶことができるのだと。接待所。善財童子像 。可愛い少年の像が、石座の真ん中に建っています平成26年本尊開帳を記念し造顕。「五智如来」という5つの像。大日如来の悟りの世界を表した立体曼荼羅(りったいまんだら)と言われます。大日如来を真ん中にして、それを囲むように4つの像が建てられていた。奥の左側「阿弥陀如来(あみだにょらい)」、右側「不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)」、真ん中が「大日如来(だいにちにょらい)」、手前の左側が「宝生如来(ほうしょうにょらい)」、右側が「阿閦如来(あしゅくにょらい)」。しかしこの写真では4体しか映っていませんでした。本堂。竹林寺に現存する最古の建造物で、国の重要文化財に指定されている。屋根の両端(軒反り)が軽快な曲線を描いていたり、屋根の下側の扇垂木が放射線状に広がっているなど、特異な建築様式だと。本堂内部。寺伝によれば、神亀元年(724年)に聖武天皇が唐の五台山で文殊菩薩に拝する夢を見た。天皇は行基に五台山に似た山を捜すように命じたところ、この地が霊地であると感得し栴檀の木に文殊菩薩像を刻み、山上に堂宇を建立して安置したという。その後、大同年間(806 - 810年)に空海(弘法大師)が滞在、瑜伽行法を修法し、荒廃した堂塔を修復したと伝えられる。金色院 竹林寺(ごだいさん こんじきいん ちくりんじ)宗派 真言宗智山派本尊 文殊菩薩創建 (伝)養老8年(724年)開祖 (伝)行基所在 高知県高知市五台山3577番地本尊真言 ”おん あらはしゃのう” 稲荷明神。子安地蔵尊。淡島明神。池の中には、ステンドグラスのドームに祀られた仏陀の石像が。インドでお釈迦さまが悟りをひらき、仏陀になって初めて説法(初転法輪)した時の姿と。船岡堂。船岡堂の「船岡」とは、明治時代の半ば頃、竹林寺の住職を勤めていた「船岡芳信」の名前から来ている。彼は傑僧と呼ばれた。あの「はりまや橋」で、駆け落ちに走った純信とは対象的に、邪念を振り払うために睾丸を抜いていたというエピソードがあるのだと。無縁仏であろうか?真蓮地蔵。千体地蔵。千体地蔵には、水をかけて祈願します。接待所に申し込めば、経木塔婆(木の板)を使ってご先祖様、過去霊位(死者)へ回向(供養のようなもの)をしてくれるのだと。五重塔。昭和55年 高さ31m 総檜造り。鎌倉時代初期の様式をもつ五重塔として復興された。古くは三重塔がありましたが明治32年の台風により倒壊したと。一言地蔵尊。一言地蔵(ひとことじぞう)。「一生に一度、一つだけ願いを叶えてくれる地蔵さん」とのこと。竹林寺宝物館。数多くの寺宝を持つ竹林寺。境内の一角にある宝物館には、藤原時代から鎌倉時代にかけての仏像17体を収蔵。それらの仏像はすべて国の重要文化財に指定されていると。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。納経所の前にあったのが句碑の庭。芭蕉の句「ほろほろと 山吹ちるか 瀧の音」虚空蔵菩薩堂。そして参拝後に軽い食事・カレーうどんを。食堂にはこんな文字が。「たっすいがは、いかん!」土佐弁で「たっすい」とは「薄い」とか「水っぽい」という意味であると店のオバチャンから。岩崎家ゆかりの高知には、キリンビールファンが多く、今でも、高知のキリンビールのキャッチフレーズは「たっすいがは、いかん!」であると。 苦みとコクがあるとされるキリンのラガービールに対して、のど越しの切れがあるというアサヒ「スーパードライ」を暗に批判している??高知県立牧野植物園の前を通り駐車場へ。植物学者・牧野富太郎氏の業績を記念して造られた植物園。園内には約1,500種の植物があると。 ・・・つづく・・・
2018.05.05
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク28番札所:大日寺(だいにちじ)大日寺に向かう道路脇の桜を楽しむ。香南市役所近くの小高い丘の裾野にあった忠霊塔。そして28番札所:大日寺三門に到着。野良時計から大日寺までの走行ルート。大日寺は四国八十八箇所霊場第4番、第13番、そしてここ28番の3ヶ所にあるのだ。門前の(有)錦堂 大日寺本店に掲げられていた空海上人像。三門の扁額には「法界山」と。大日寺 境内配置図。山門前に数台とその背後に大駐車場が。石段の途中に立つ山門を入ってさらに上って行くと左に鐘楼が、右に手水場が。奥に進むと右手に地蔵堂(六角堂)、左に大師堂があり、正面奥に本堂が建つ。本堂の左に鎮守堂がある。手水場から左に折れ塀沿いに進むと庫裡の門があり、その中の正面に納経所が。山門を潜り更に階段を上がる。階段横には本尊の大日如来の旗が両脇に。左手に鐘楼が。手水場。「四国遍路」四国霊場八十八ヶ所巡り、いわゆる「おへんろさん」が文化庁が認定する「日本遺産」に認定されたと。地蔵堂(六角堂)。本堂。寺伝によれば天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基が大日如来像を刻んで堂宇を建立して開創したと。弘仁6年(815年)に空海が楠の大木に爪で薬師如来像を彫って荒廃していた本寺を復興した。慶長年間(1592年 - 1615年)から土佐藩の祈願所となり栄えたが、明治に入って神仏分離令によって廃寺となったが、大日堂と改称した本堂に本尊を安置していたので助かった。その後、明治17年(1884年)再興された。奥の院の爪彫薬師は首から上の病に霊験ありとされ、平癒を祈る参拝者が跡を絶たない。願いが叶うと穴の開いた石に氏名、年齢、快癒した身体の部位を書き奉納する習わしとなっていると。平成9年再建、釘を使わず木組みで造られていると。土日のみ本堂の外陣に入って参拝ができ、前立本尊を拝顔できるとのこと。法界山 高照院 大日寺(ほうかいざん こうしょういん だいにちじ)宗派 真言宗智山派本尊 大日如来創建 (伝)天平年間(729年 - 749年)開祖 (伝)行基 所在 高知県香南市野市町母代寺476-1本尊真言 ”おん ばざらだとばん” 本堂前から鐘楼(右)と地蔵堂(左)。大師堂。昭和59年改修。大師像は土佐2代藩主山内忠義が寄贈したといわれる。大師像を拝顔できる。多くの石仏群。境内から階段、山門を見下ろす。再び鐘楼を見上げる。境内には白い花が。リキュウバイ(利休梅)であろうか?大日如来像。納経所への中門。境内の庭は美しく手入れがされていた。雨に苔も緑をまして。境内のしだれ桜も満開。しだれ桜には、もう少し青空が欲しかったが。様々な表情の仏。最近のものか?歴代の住職の墓であろうか?「奥の院 爪彫薬師」と刻まれた石碑。「奥の院」にはお大師さまが爪で彫ったとされる「爪彫薬師」が。弘法大師が楠の大樹に薬師如来を刻まれたと伝えられており、明治初年楠が台風で倒れたため、その霊木を堂内に祀ってあると。昔より首から下の病に特に霊験があると言われており、御利益を頂くと、穴のあいた石を奉納する習わしとなっているのだと。穴の開いたおおくにの石が奉納されていた。大師像と湧水(右)。大師像。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。---------------------------------------------------------------------------------------------------29番札所:国分寺(こくぶんじ)岡豊城址を後にし、田園の中を土佐国分寺に車を進める。土佐国分寺に到着。岡豊城跡から国分寺への走行ルート。山門「四国第二九番霊場国分寺」と彫られた石柱が左手に。入母屋造楼門、金剛力士(仁王)像を安置。明暦元年(1655年)建立。山門の扁額には摩尼山(まにざん)の文字が。金剛力士(仁王)阿形像。金網に入れられて、逞しさではなく、弱々しい顔をしているように感じたのだが。金剛力士(仁王)吽形像。国分寺 境内配置図。山門をくぐって進んでいくと右側に手水場、鐘楼が、左手に開山堂がある。正面奥に本堂(金堂)が建ち、その左に大師堂がある。この前に酒断地蔵がある。鐘楼の先を右に入ると中門があり、突き当りに光明殿、左に庫裏・納経所がある。本堂(金堂)に向かって参道を進む。手水舎。寺伝によれば天平13年(741年)に行基が千手観世音菩薩を刻み本尊として安置し開創したとされる。その後弘仁6年(815年)空海(弘法大師)が毘沙門天を刻んで奥の院に安置、また、星供の秘法を修めたことから、当寺は星供の根本道場となり、大師像は「星供大師」と呼ばれている。そして、その頃真言宗の寺院となったという。史実としては、『続日本紀』に天平勝宝8年(756年)、土佐を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したことがみえるため、この年以前には創建されていたとみられると。鐘楼。建立年は不明。寛永11年(1634年)最初の改築を行ったと。梵鐘(重要文化財)は平安時代前期の作、口径47cm、高さ63.8cm、重量225kg。本堂へと境内を進む。開山堂。建立年不明、嘉永2年(1849年)改築。境内のこの桜はソメイヨシン。聖武天皇が発した「国分寺建立の詔」により全国に建立された国分寺(金光明四天王護国之寺)の一つである。当寺は寺伝によれば天平13年(741年)に行基が千手観世音菩薩を刻み本尊として安置し開創したとされる。その後弘仁6年(815年)空海(弘法大師)が毘沙門天を刻んで奥の院に安置、その頃真言宗の寺院となったという。史実としては、『続日本紀』に天平勝宝8年(756年)、土佐を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したことがみえるため、この年以前には創建されていたとみられる。国分寺周辺は古代から中世まで土佐国の国府の所在地であり、「土佐日記」の作者紀貫之も国司として4年間当地に滞在した。国府の中心である国庁は国分寺から徒歩15分の位置にあり、かつてその近くにあった土佐国総社は現在当寺境内に移されている。寺はたびたび兵火に遭ったが、永禄元年(1558年)には長宗我部国親、元親によって金堂が再建。明暦元年(1655年)に土佐藩2代藩主山内忠義が山門を寄進した。大正11年(1922年)に境内全域が国の史跡に指定されている。本堂(金堂)。摩尼山 宝蔵院 国分寺(まにざん ほうぞういん こくぶんじ)宗派 真言宗智山派本尊 千手観音創建 天平勝宝8年(756年)以前開祖 行基 所在 高知県南国士国分546本尊真言 ”おん ばさら たらま きりく” 大師堂。寛永11年(1634年)建立。文化2年(1805年)再建。堂内部。酒断地蔵尊(ひとこと地蔵)。その気はないがお参りだけは。酒断地蔵尊 内部。酒断地蔵尊横には多くの地蔵尊が。酒断地蔵尊横の「観音像」。その横には石仏も。ここ土佐国分寺はしだれ桜が有名。しばし枝垂れ桜を楽しむ。お寺と枝垂れ桜は良く似合うのであった。別の角度から。こちらは鐘楼と山桜?中門を潜り納経所へ。庭園。書院。「国分寺の 薬師如来は千年の ゑまひゆたかに たたせたまへり」光明殿。平成7年(1995年)11月竣工。扁額。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。光明殿から中門に続く左右の庭を再び楽しむ。多くの団体巡礼客がお参りに。大型バスで移動する巡礼ツアー客。 ・・・つづく・・・
2018.05.04
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク神峯寺を後にし、次の大日寺を目指して山を下り、再び55号線・土佐東街道に出て高知市内方面に向かう。途中、安芸市の津波避難タワーが車窓から見えた。南海トラフ地震に備え高知県や市町村が整備している津波避難タワーが100基を超えていると。そして55号線を右折して進むと安芸城跡へ立ち寄る。古代から安芸地方を支配してきた安芸氏の居城。 延慶元(1308)年、安芸親氏によって築かれたといわれている。 安芸氏は、戦国期には土佐七雄の一人に数えられ、「安芸五千貫」を領有する大豪族として、土佐国東部で最大の勢力を誇るようになったが、永禄12(1569)年、土佐統一をめざす長宗我部元親に攻められ、激戦の末に敗れた。 安芸城は、安芸平野のほぼ中央にあり、標高41m、東西100m、南北190mの長楕円形をした平山城の頂上からは、安芸平野や太平洋を一望できる。 現在は詰のほか、二の段、三の段などの曲輪や堀切、虎口の遺構、大手門の枡形などが残る。安芸城跡周辺案内図。城跡に安芸市立の書道美術館が。その後30年間長宗我部氏が支配したが、慶長6年(1601)山内一豊の土佐入国とともに山内氏の重臣、五藤氏が安芸を治めることとなり、ここに居館を構え、安芸城は安芸土居と称された。城は江戸時代の初期にはすでに取り壊されていたようだが、五藤氏によって、周辺が整備され、今に至っていると。五藤吉兵衛為浄(ためきよ)は、13歳で山内一豊に仕え、越前(福井県)攻めの際には、一豊が朝倉軍の敵将三段崎勘右衛門と組み討ちになり、首を獲ったものの一豊自ら顔面に矢を受けた。そこで家臣の吉兵衛為浄は一豊の顔面を草鞋のまま踏みつけてようやく矢を抜いたと。その時の姿が描かれていた(左)。毒井戸跡。安芸国虎と長宗我部元親との間に起きた戦で、安芸城の落城を早めた原因のひとつとされる毒井戸跡。1569年(永禄12年)4月、長宗我部の大軍に安芸城は包囲された。安芸勢は敵に背後を取られながらも善戦、籠城は24日間に及んだが、この間に長宗我部側に内通した横山民部により、井戸に毒が入れられ、倒れるものが続出、食料も尽きていく中で、兵たちの士気は著しく低下する。そして、ついには城の東側、安芸川の対岸より放たれた火矢のために城が炎上してしまう。最後を覚悟した安芸国虎は城内に残る全将兵と民の助命と引き換えに降伏、菩提寺であった浄貞寺に移り自害し、安芸城は落城したと。藤崎神社。関ヶ原の戦い後、長宗我部に代わって土佐国に入封した山内一豊の家臣で、江戸時代を通して安芸を治めた五藤一族の神社であると。安芸城跡 説明板。安芸城は、小高い山とその山麓とを利用して築かれた城で、山上の安芸氏・長宗我部氏の戦国時代の城と山麓の五藤氏時代の江戸期の土居の二つが混在して残っている。 東に安芸川、北に城ヶ淵、西に安芸川支流の矢の川、南に溝辺の堀があり、これらを外堀とした天然の要害。 戦国時代の城は、山頂に詰を構え、南北に3段の曲輪を構え、最も高い部分の詰ノ段の南部分周囲には土塁がめぐっていた。 また、詰ノ段の南下には2段の曲輪を備えており、南三ノ段下には石垣が築かれている。勿論、戦国時代にも、山麓に居館は構えられていたが、今では、多くが江戸期の遺構。 山麓の五藤氏時代の遺構としては、水堀、土塁、石垣、大手門跡などがある。歴史民族資料館。枝垂れ桜が迎えてくれた。巨石が使用された石垣で構築された6m四方の大手門跡(枡形虎口)とその前の石垣で固められた土橋、その両側の水堀の光景はなかなかのもの。 安芸城(土居)の水堀と土塁。見事に手入れされた老松が。大手門跡(枡形虎口)を正面から。土居の外には、家臣団の居住地である廓中を整え、ウバメガシや土用竹の生垣で囲まれた街並みは、武家屋敷の面影をとどめていた。そして更に車を走らせ「岩崎弥太郎 生家」を訪ねた。神峯寺から岩崎弥太郎生家までの走行ルート。広い駐車場の脇には巨大な「岩崎弥太郎先生」と刻まれた像が。1985年(昭和60年)に生誕150年を記念して江ノ川上公園に建立された。阿南安芸自動車道の工事計画のため2015年(平成27年)にこちらに移設されたと。岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、天保5年(1835年) - 明治18年(1885年))は、日本の実業家。三菱財閥の創業者で初代総帥。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物。諱は敏(後に寛)、雅号は東山。別名を土佐屋善兵衛。彌太郎とも書く。左手に高知県安芸市生まれの作曲家・弘田龍太郎(1892年~1952年)の「春よ来い」の歌碑が。♪♪春よ来い 早く来い あるきはじめた みいちゃんが 赤い鼻緒の じょじょはいて おんもへ出たいと 待っている♪♪岩崎弥太郎は、天保5年(1834)12月11日にこの家に生まれ、波乱に富んだ青少年期をこの地に過ごしたのだ。安芸市内より約3㎞。郊外の住宅地、井ノ口一ノ宮に弥太郎生家が修復保存されている。岩崎弥太郎の先祖は安芸国虎の家臣だったようで、のち長宗我部の安芸支配の時代は長宗我部に仕え、山内氏が土佐入国後は開墾に従事し農業を営んでいたと。岩崎弥太郎生家入口。この家は、弥太郎の曽祖父 弥次衛門が郷士の株を売って1795年ごろ建築したもので、建坪約30坪藁葺きの平屋、表が8帖、その脇に4帖半2間、茶の間9帖になっていて、その左が通り庭、通り庭から茶の間の床下をのぞくと芋壷(芋貯蔵穴)がみえる。また風呂と便所は別棟に設置されていた。生家敷地内には、弥太郎に関する遺構を多く観ることができる。少年期に大志を抱き、「日本列島は我が庭の内にあり!」と言って自ら組んだ、日本列島の形を模した庭園の石組みが残っていた。こんなイメージで石が配置されていると。「岩崎弥太郎生誕之地」石碑。三菱マークを発見。そして岩崎家の家紋である菱形が縦に大・中・小と三つ重なった『三階菱』。これが三菱のマークの原型であると。「童謡の里 安芸」と道路標識に。安芸市は、作曲家・弘田龍太郎のふるさとであることから、童謡に特化したまちづくりを進めていると。代表作に『鯉のぼり』『浜千鳥』『叱られて』『金魚の昼寝』『雨』『雀の学校』『春よこい』『靴がなる』など多数あると。「野良時計」は、弥太郎生家から車で5分ほどの場所に。まだ家ごとに時計を持てなかった明治の中頃、大地主であった畠中源馬氏が、歯車から分銅に至るまで独学で全てのパーツを一人で作製した時計台であり安芸市のシンボルとして今も多くの人々に親しまれていると。個人の住居でもあるので内部は公開していなかった。時計は止まっているようであった。そしてネット情報によると現在は観光シーズンやイベント時などだけ動かしていただいているのだと。近くには歴史を感じさせる火の見櫓があり半鐘がぶら下がっていた。再び大日寺に向かって国道55線を走ると、 ごめん・なはり線の「球場前」駅前の右手に「安芸ドーム」を旅友が発見し急遽右折。この奥にある安芸市営球場1965年度から阪神タイガースが春季と秋季のキャンプを開催する会場として利用されており、別名タイガースタウンと呼ばれていると。なお2003年から、春季キャンプの一部が沖縄県宜野座村でも行われていると。2012年より春季の1軍キャンプからは撤退。2軍とオープン戦は引き続いて使用していると。そして車が店に突っ込んでいる現場に遭遇。実は「居酒屋 是々」の店の看板?国道55号線沿いの物部川の手前の果物屋「オレンジハートのくだもの屋」に立ち寄る。土佐文旦が袋入りで売られていた。ブンタンの標準和名はザボン(朱欒、香欒、謝文)。ボンタン、ジャボンとも呼ばれる。「土佐文旦」は、昭和の初め頃に高知県土佐市宮ノ内地区で栽培方法が確立されたと。お土産用に「小夏(コナツ)」を購入。以前にも土産として買ったことがある「小夏(コナツ)」小夏の一番の美味しさは、なんといっても甘皮。小夏は他と比べて甘皮が甘いのです。よって皮を剥く時はあえて白い部分を残して房毎食べるのです。そして大日寺に向かう。(明日にブログアップ)------------------------------------------------------------------------------------------------大日寺参拝の後は岡豊城(おこうじょう)跡に立ち寄る。岡豊城跡に向かう途中の坂道も青空の下で桜が満開。高知県立歴史民俗資料館の駐車場に車を駐める。高知県立歴史民俗資料館に建つ長宗我部元親の銅像。戦国時代の土佐は、応仁・文明の乱により支配力を弱めた細川氏に替わり、一条氏、津野氏、大平氏、吉良氏、本山氏、山田氏、香宗我部氏などの国人たちが覇権を争っていた。群雄割拠の世で勝ち上がったのが、長宗我部氏だった。長宗我部氏の岡豊城は、1508(永正5)年頃に本山氏らに攻め込まれて一度は落城している。しかし、元親の父である国親が1516(永正13)年頃に再興。その後、小勢力ながら着実に支配圏を広げていった。そして、その跡を継いで飛躍したのがこの長宗我部元親。岡豊城は「続日本100名城」に登録されたのだ。私の「日本100名城」スタンプラリーは3年前の2015年9月3日の高知城登城で完了。793番目の登城完了者であると公益財団法人 日本城郭協会から。駐車場の廻りも桜が満開。岡豊城跡 全体案内図。岡豊城の築城は発掘調査の結果、13~14世紀ごろ。「土佐物語」によると16世紀の初頭に一度落城したと伝えられており、その後、国親により1516(永正13)年に再興され、1588(天正16)年に元親が大高坂城(現在の高知城)へ移転するまでの、約70年間にわたり居城として使われていたと。岡豊山は、香長平野に突き出した丘陵であり、標高97mの頂上部(詰)に立てば、眼下に香長平野をおさめ、遠く太平洋も望むことができる。南には国分川が流れ、自然の要害の地であった。城跡は、詰を中心とする本城といわれる部分と西の伝厩跡曲輪、南斜面の伝家老屋敷曲輪の二つの出城からなる連郭式の構造。本城は、詰と堀切によりへだてられた二ノ段、詰の南から西にかけて周囲を取り巻く三ノ段、四ノ段からなり、虎口(城の中心となる出入口)は西部に造られている。登城道は、歴史民俗資料館の裏手、長宗我部元親像の背後が入口として整備されていた。2~3分も登れば、あっという間に二ノ段へ。二の段から東方向の眺望。岡豊城は、山頂に主郭部を置き、主郭部には詰、二ノ段、三ノ段、四ノ段などが階段状に並ぶ構造。東西に長い丘陵にあり、西の伝厩跡曲輪、南の伝家老屋敷曲輪までが城域となる。中枢の区画を「詰」と呼ぶのは珍しいのだが、この地域では一般的なのだという。二ノ段ではさっそく絶景が出迎えてくれ、東には土佐国衙や土佐国分寺が見下ろせた。二の段から見た岡豊城跡周辺の風景。周囲に高い建物がないので当時の雰囲気をそのまま味わえるのであった。遠くに見える四国の山々を見ると、あの山の向こうまで統一したいと野心に燃えた長宗我部元親の気持ちが何となく・・・。堀切。詰と二ノ段の間にある堀切。堀切は、尾根などを空堀によって断ち切り、敵の侵入を防ぐ施設。幅3~4m、深さ2m前後あり、岡豊城のなかでも最大の堀切。空堀を越えて2段上がったところが、本丸にあたる詰(つめ、本丸)。中央部には礎石建物が建っていたことが判明していて、現在は櫓が建てられ展望台に。岡豊城跡略年表。ここからの眺望もすばらしかった。南には香長平野、西には高知市街地が見下ろせ、南斜面下には国分川が流れていた。西から南にかけては当時から湿地帯だったようで、自然の要害となっていたことが実感できるのであった。そしてこの日は、既に田植えの準備が始まっていて、水田に水が張られていた。地鎮(じちん)の遺構。12枚の土師(はじ)質土器の坏(つき)に91枚の銭貨が入れられ、土坑(どこう)に納められていたと。土坑とは土に掘られた穴。土坑に納められた坏や銭貨は、築城の時に土地の神を鎮める祭りに用いられたと考えられると。岡豊城のジオラマ。続日本100名城案内コーナー。続100名城のスタンプラリーは2018年4月6日(お城の日)から開始されているのです。 ・・・つづく・・・
2018.05.03
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク27番札所:神峯寺(こうのみねじ)室戸岬から国道55号線(土佐東海道)を太平洋を左手に見ながら進む。奈半利(なはり)町の左手に白壁の蔵の如き「ふるさと館 高田屋」が。奈半利の歴史と共に、竹崎家に伝わる道具や書画などが見学出来ると。「なはり素通り禁止八策」と書かれた看板。土佐弁で「こじゃんと」とは「とっても」「沢山」、「あい」は「鮎」、「いお」は「魚」いう意味であろうか。山には満開の桜の木々が。ズームで。「27番札所 神峯寺」は「右折して4Km」の標識。室戸岬から神峯寺までの走行ルート。そして桜満開の駐車場に到着。「四国のみち 神峯のみち(12.3km)」四国のすぐれた自然景観や歴史的、文化的遺跡を歩道で結び、自然の中で、歩いてこれらに親しむ自然歩道。高知県内は総延長598.9kmで、この神峯のみちコースは、環境庁の補助を得て昭和58年度に整備された。神峯寺は、高知県安芸郡安田町唐浜にある真言宗豊山派の寺院。竹林山(ちくりんざん)地蔵院(じぞういん)と号し、本尊は十一面観音。四国八十八箇所霊場の第二十七番札所。寺伝によれば神功皇后が朝鮮半島進出の戦勝を祈願し天照大神を祀った神社が起源とされ、天平2年(730年)に聖武天皇の勅を受けて行基が十一面観世音菩薩を刻み、本尊として神仏合祀し開創したという。その後大同4年(809年)に空海(弘法大師)が堂宇を建立し、「観音堂」と名付けたとされている。幕末、三菱財閥創始者岩崎弥太郎の母は弥太郎の開運を祈願して現在の安芸市より片道20kmの道のりを素足で三七日(21日間)通い続けた逸話がある。明治初年の神仏分離令によって神峯神社だけが残り廃寺となり、本尊は金剛頂寺に預けられた。明治20年(188年)もとの憎坊跡に堂舎を建立し本尊を帰還させ再興した。大正元年には茨城県稲敷郡朝日村の竹林山地蔵院の寺格を移し、そして、昭和に入って、それまでの神峯から神峯寺と称するようになったと。真っ縦(まったて)と呼ばれる急な山道を登った山上にあり、「土佐の関所」また「遍路ころがし」と呼ばれる四国八十八箇所屈指の難所として知られていたと。神峯寺観光案内図。脊椎カリエスが治ったお礼に信者によって建てられたという石碑。参道脇のオブジェは顔に「同」、胸から腹に「行二人」と読め「同行二人」を表しているのだと。歌碑。小松直幹翁之像。高知県土佐郡江ノ口村(現高知市)出身の海軍中将。北清事変、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦に従軍したと。四国八十八ケ所 屈指の難所と言われた遍路道も、この小松直幹翁が自分の資財で車が通れるよう舗装道路をつけたのだと。神峯寺 境内配置案内図。仁王門をくぐると左に手水場が、その先右側に鐘楼が、左側に庫裏・納経所があり、石段手前の右側に神峯の水が湧く。石段を上りきって左に行くと聖観音堂がありその左に本堂が、戻って右に進むとリアルな不動明王像の前を通り大師堂の裏に出る。以下の配置案内図は【http://boianuf.hatenadiary.com/entry/20140802/1406960227】より転載させて頂きました。(明日以降のブログも同じ)。仁王門。入母屋造楼門。「真っ赤」な金剛力士・阿形像。お色直しが最近行われた模様。「真っ赤」な金剛力士・吽形像。烏蒭沙摩明王(うすさまみょうおう)。この明王は不浄除けに霊験があるといわれ、あらゆる不浄を清浄に転じる力を持ちトイレの神様として信仰を集めていると。本堂への階段に向かって境内を進む。四国八十八か所の中でも三番目に標高が高い場所(標高430m)に位置している寺。赤に近い桃の桜が満開だった。鐘楼。納経所はこの鐘楼の前にあることを確認する。歌碑 「お遍路に 春告鳥の 啼きそめぬ」(旭洋)。手水舎から本堂への石段は約150段。石段沿いには、見事に手入れされた日本庭園が続く。つつじや梅などが美しく配置されていて、緑が目にまぶしいくらいだ。歩き遍路であれば厳しい山道を登ってきた疲れがどこかに吹き飛んでしまうこと間違いなし。庭園の後方には、樹齢数百年といわれる古木が立ち並び、自然と庭園との調和がすばらしいのであった。鐘楼の裏手には「神峯の霊水」と呼ばれる石清水が湧いており、病気平癒に霊験あらかたであると言い伝えられていると。そしてその右側に水子地蔵尊。交通安全祈願地蔵。階段上からの鐘楼と客殿。みちびき弘法大師。経堂。仏足石。お釈迦様の足跡を印したもの。本堂。本堂を正面から。本堂内。竹林山 地蔵院 神峯寺(ちくりんざん じぞういん こうのみねじ)宗派 真言宗豊山派本尊 十一面観音創建 (伝)天平2年(730年)開祖 (伝)行基所在 高知県安芸郡安田町唐浜2594本尊真言 ”おん まか きゃろにきゃ そわか”多くの地蔵様が。大師堂。美しい花が。ミツバツツジであろうか?「弘法大師曰く」修行大師像。不動明王像。お迎え大師。再び美しい境内庭園を見下ろす。仁王門を境内から。神峯寺入口の道路脇にあった道標?当初は神仏同居であったが神仏分離、廃寺、再興を経て神峯寺の仁王門の近くに、神峯神社の鳥居が並んで建っていた。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ・・・つづく・・・
2018.05.02
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妻との下関・萩への旅行をブログにアップに時間を要したため、3月26日からの「四国八十八ヶ所お遍路の旅」のブログアップが1ヶ月以上遅れて早5月になってしまいましたが今日から随時訪ねた順にブログアップいたします。-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク昨年10月に第1回目の四国八十八ヶ所霊場巡礼の旅に行き、残り33寺となっていましたので今回は結願を目指して3月26日(月)から四国の桜を楽しみにしながら出発しました。今回も旅友のSさんの愛車で17:30に茅ヶ崎のお宅を出発。旅友のSさんが事前に予定表を作ってくれました。そして寒川南ICから首都圏中央連絡自動車道(圏央道)に。車窓からは夕焼けが。海老名JCTから東名高速道路方面へ。正面に標高1,252m大山の姿が。そして東名を進んで行くと、正面に富士山が姿を現し、夕陽が山の端に向かっていた。高速道路脇の桜も満開。そして夕陽が富士山の山の端に辿り着く。そして姿を隠す瞬間。完全に姿が隠れる。時間はカメラの時計で17:41。東名足柄橋を通過。新東名高速道が工事中との情報から東名高速を走る。富士川SAの大観覧車「Fuji Sky View(フジスカイビュー)」もライトアップされていた。浜名湖SAで食事を。ここから運転を私に交代し東名阪自動車道御在所SAまで走る。その後亀山JCTから新名神高速道路に。草津JCTから名神高速道路、吹田JCTから中国自動車道に入り神戸JCTから山陽自動車道へ。そして三木JCTから神戸淡路鳴門自動車道に入り垂水JCTを通過。そして明石大橋を渡る。時間は0:22。明石大橋を渡っているが、前方に主塔がぼんやりと。そして淡路SA下りでトイレ休憩。時間は0:30。人そして車の姿は少なく。大観覧車の直径は62.5m。左横には上弦の月より幾分ぷっくりとふくらんだ月が。ここまでの走行ルート。そして運転を再び私が。徳島自動車道へ入りひたすら高知南国I/Cへガソリンを満タンで出発したとのことであるが残量が少なくなり・・・・・・。しかしこの深夜でスタンドは皆閉店中。何とか高知南国I/Cまで辿り着き、降りるが残量が残り少なくなり更に心細く。南国バイパスで深夜営業のガソリンスタンドを見つけガソリンを満杯にして安堵することしきり。満タンにしたが入ったガソリン量は44.5L。満タンで52Lの様であるので、まだ少なくとも50km程度は走れたのか?時間は3:35。早めに辿り着いたので、室戸岬まで車を走らせ日の出を見ようと。そしてSさんが再び運転して5時前に室戸岬に到着。灯台の光が一筋。光達距離26.5海里(約49km)は日本一。また、日本に5箇所しかない直径2.6メートルの第一等フレネル式レンズを備えた第1等灯台でもあると。岬の先にある白き「室戸青年大師像」を訪ねる。真言宗・豊山(ぶざん)派「明星来影寺(みょうじょうらいえいじ)」。下部の基壇を含めて高さ21メートルという国内最大の“青年大師像”が1984年(昭和59年)に建立。若き日の弘法大師・空海は、ここ室戸岬で厳しい修行に励み悟りを開いたと。鉄筋コンクリート製・高さ5メートルの基壇の上に聳える「青年大師像」は“台風銀座”と呼ばれる室戸岬の厳しい気候に耐え得るように、鉄骨を主軸として塩害に強いニューセラミックで仕上げをした白亜の像。参道の入り口には仁王像が。阿形像。吽形像はピンボケ。日の出を見に来たのであるが、一面の雲。波は比較的静か。「青年大師像」が建立されてから、台風が室戸岬を避けて通るようになったという話もまことしやかに語られているのだと。白き波をしばし楽しむ。そしてこの日の日の出の時間の5:58になったが・・・・・残念!!。弘法大師行水の池。空海が西暦792年頃に修行したとき、行水をしたとされる池。よく見ると、岩が凹んでいた。この凹みは波によって削られたために出来たのだ。ということは、池が波打ち際にあったということ。ずいぶん高い位置まで大地の隆起によって持ち上げられていたのであった。土佐日記御崎の泊碑 。紀貫之が土佐国から都に帰る途中の出来事を綴った『 土佐日記』の 正月19-20日の頃に御崎(室戸岬)に船を泊めた「都にて やまのはに見し 月なれど なみより出でて なみにこそ入れ」。御蔵洞神明窟(しんめいくつ、右)御厨人窟(みくろど、左)。室戸市には、弘法大師(空海)ゆかりの場所が数多く残っていると。 その一つがこの「御厨人窟」で、修行時の住居として使われていたと。 約1200年前の平安時代、青年時代の大師が悟りを開いたといわれる洞窟で、内には五所神社と呼ばれる社があるのだと。 この横に主に御修行の場として使われていたと伝えられる「神明窟」があった。『空海』と名前をつけたのも、ここから見える空と海に感銘を受けたからと言われているのだと。 落石等により、御厨人窟・神明窟ともに立入禁止になっていた。中岡慎太郎像。坂本龍馬と共に薩長同盟を成し遂げ、陸援隊長として活躍した中岡慎太郎の銅像。慶応3年11月15日(1867年)京都河原町の近江屋で刺客に襲われ、龍馬とともに落命。この時慎太郎は30才。 本山白雲の作。室戸岬の先端近くに太平洋を見据えるように建っていた。今回の最初の寺は「神峯寺」 。御朱印が7時からのため同じ路を引き返し27番札所「神峯寺」へ向かったのであった。そしてこの日の淡路島~四国の走行ルート。 ・・・つづく・・・
2018.05.01
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク金剛峯寺を後にし、車で奥の院に向かう。 再び鐘楼「六時の鐘」を車窓から。奈良県道53号高野天川線を進む。成福院「摩尼宝塔(まにほうとう)」 御本尊は、なんと!!ビルマ(現ミャンマー)から、直接、寄贈された「釈迦如来(しゃかにょらい)」。 「魔尼宝塔」は三層八角形の堂で、成福院の境内に建立されている。宝塔の内陣の壁には、仏画が約15,000体も貼られており、地下は八角の地下道を巡る場所になっていると。奥の院参道ガイドマップ。 中の橋からの入り口。ここから弘法大師廟まで約1km。参道の両側に石灯籠が並ぶ。色々な有名企業の慰霊塔などが参道の両側に。新明和工業株式会社の慰霊碑兵庫の航空機メーカー、新明和工業株式会社は今にも宇宙に発射されそうなロケットが。全国建設専門工事業団体連合会 慰霊碑。日本しろあり対策協会の慰霊碑。日本しろあり対策協会は「しろあり やすらかにねむれ」と。福助の慰霊碑。福助人形が高い場所に鎮座。救世観音像。奥の院の銀杏の黄葉も今が盛り。日産の慰霊碑。日産は作業員風の像が建っていた。黄葉を楽しみながら奥に進む。紅葉が鮮やかな英霊殿入口。更に奥に進む。参道の両側に杉の巨木がそしてその下に多くの墓碑が。加賀前田家二代利長墓所。前田利長(1562~1614)は、前田利家の長男。利家没後、徳川家康に与して、関ヶ原の戦いの後、加賀藩百二十万石の初代藩主となった。慶長19年(1614)に没し、この石塔はその1年1ヶ月後に母芳春院(ほうしゅんいん)の勧めによって、弟で養子の二代藩主利光(後の利常)が建立した。高野山で三番目に大きい石塔で「三番石」と呼ばれる。訪ねる人も少ない多くの墓石が。浄土宗の開祖、法然上人圓光大師の供養塔。安芸(あき)浅野家墓所。奥の院参道も終わりに近づいた辺り、右手にある安芸・浅野家の墓所。浅野家といえば播州赤穂の浅野家の方が有名だが、こちらはその本家筋にあたると。越前松平家(えちぜんまつだいらけ)の石廟(せきびょう)。これは結城秀康と母(長勝院)の石廟。秀康は、徳川家康の次男として生まれたが、豊臣秀吉の養子になり、その後、秀吉に鶴松が生まれたため、さらに結城家の婿養子になった人。その後、松平に復姓したが、1607年には家康に先立って他界。秀康の石廟は、その長男の「越前松平忠直」によって1607年に造られた。母(長勝院)の石廟は、1604年に造られている。「松平秀康及び同母霊屋史跡」は2004年7月に世界遺産に登録された。浅野内匠頭墓所。奥の院参道の終点に近い、もうすぐそこが水向地蔵というところにある浅野内匠頭墓所。中央が「冷光院殿前朝散大夫吹毛玄利大居士」と刻まれている浅野内匠頭の墓。大石内蔵助が主君内匠頭の冥福を祈って建てたと。左は「忠誠院刃空浄剣居士外四十六士各霊」と刻まれていている赤穂四十七士菩提碑。忠誠院刃空浄剣居士は大石内蔵助の戒名。この墓所は参道に面しているので多くの人が足を止めていた。奥の院・頌徳殿。御供所の隣に建つ頌徳殿(しょうとくでん)は「茶処」とも呼ばれ、お茶のお接待を受けられる休憩所。大正4年、開創1100年記念事業の一環として建てられた大正建築。蝋燭台が並ぶ。織田信長墓所。 そもそも信長は、高野山を攻めた憎き「敵将」だったはずであるが・・・・ここに??死ねば敵も味方もないのであろう。 織田信長斯公墓の文字が。別の角度から。豊臣家墓所。豊臣家墓所で確定しているのは秀吉公、秀吉の母、秀吉の異父弟・大納言秀長夫婦のものと。中央奥の一番大きな五輪塔は「豊臣太閤秀吉公」とはっきり読めたが、そのほかは?。豊臣家には他に秀吉の父をはじめ、奥方の「ねね」「淀君」、子供の「鶴松」「秀頼」、異父妹「朝日姫」、切腹させられたものの「秀次」も考えられるが、五輪塔は全部で六基。秀吉と母、秀長夫婦で残りは二基。この二基に祀られているのは誰?。肥前島原 松平家墓所。この墓所の五輪塔は整然と並んでいた。1668年より肥前島原藩主。6万石。家祖は松平第3代信光の七男忠景の次男・忠定。十八松平のひとつ、深溝松平家。1524年より深溝城主。深溝城は愛知県額田郡幸田町深溝。愛知県幡豆郡吉良荘の吉良氏(元禄赤穂事件の吉良さんち)と徳川家康との戦いの拠点。4代家忠は家康の関東へのお引越に伴い武蔵忍藩1万石。1600(慶長5)年、伏見城の戦いにおいて、守将・鳥居元忠の副将格として伏見城で籠城、討死。家忠の子・忠利は、関ヶ原後に三河深溝藩1万石へ旧領復帰。その後転々として、1668年より島原藩主と。加賀前田利長夫人墓所。崇源院 徳川秀忠夫人 墓所。高野山・奥の院「一番石塔」。徳川二代将軍の秀忠の妻(崇源院/江姫)の五輪塔。「この塔は、高さ6.6mで、台石は八畳も。「崇源院」は、波乱の人生を送った浅井長政の「浅井三姉妹」の末っ子「江姫(ごうひめ)としての名前が有名で親しまれている。使われている石は瀬戸内海の島から切り出されたもので、これを船で海から紀の川と運び、町石道を人力で運び上げたものだと。。越前松平家墓所(重要文化財)これは結城秀康(右)と母(左)の石廟。秀康は、徳川家康の次男として生まれたが、豊臣秀吉の養子になり、その後、秀吉に鶴松が生まれたため、さらに結城家の婿養子になった人。その後、松平に復姓していますが、1607年には家康に先立って他界。秀康の石廟は、その長男の「越前松平忠直」によって1607年に造られた。母(長勝院)の石廟は、1604年に造られたと。「松平秀康及び同母霊屋史跡」は2004年7月に世界遺産に登録。 蓮華院墓所との立て札。天樹院千姫 供養塔。千姫(せんひめ)は、安土桃山時代から江戸時代の女性。豊臣秀頼・本多忠刻の正室。父は徳川秀忠、母は継室の江。播磨姫路 本多家 墓所。本多忠政は天正18年小田原攻めに初陣、元和3年播磨国姫路に転封、翌4年姫路城を修築した人物。肥前島原 松平家 墓所。寄り添う五輪塔。島原藩は幾度か藩主が入れ替わった後、松平氏が7代にわたり治めたと。加賀 前田利長夫人栄姫(えいひめ)の墓所。織田信長の5女。参道を挟んで向かい合う、利長夫妻。長州 毛利家 墓所。奥の院の石塔は「五輪塔」といって、大日如来を象徴した塔。空輪=一番上の宝珠形の石風輪=上から二番目の半月形の石火輪=真ん中の三角形の石水輪=下から二番目の丸い石地輪=一番下の四角い石と呼ばれ、それぞれを表す梵字が刻まれていた。ビルマ方面戦没英霊納骨塔「パゴダ」。高麗陣敵味方戦死者供養碑。1597~8(慶長2~3)年・慶長の役で戦死、横死・病死した人々は数知れず。敵方兵81500人以上、味方兵3420人とも。慶長の役から帰国した島津義弘・忠恒(家久)父子が、敵味方の双方の戦没者の菩提を葬うために建立した供養碑。石材は琉球石。高野山にあるはずのないこの石は、島津家が運んで来たと。伊予 大洲 加藤家 墓所。元和三年(1617)加藤貞安が入り大洲藩として江戸時代が終わるまで加藤氏が領主として続いたと。住友氏族墳。石田三成 墓所。石田三成が30歳のときに生前葬をして建てたもの。天正18年(1590年)当時ではこの五輪塔が一番大きかったとのこと.伊達政宗 墓所。伊達政宗1周忌のときに立てられた五輪塔。この五輪塔の周囲に後を追って殉死(切腹)した20人の墓があるのだと。20人もの殉死の墓があるのは奥の院では珍しいとのこと。奥の院内に伊達家は2ヶ所の墓所があると。武田信玄・勝頼 墓所。 紀州初代藩主 徳川頼宣 墓所。御供所で高野山・奥の院の御朱印を頂きました。「弘法大師」の文字が。 一の橋から参拝し、御廟まで約2キロメートルの道のりがあり、おおよそ20万基を超える諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいた。 奥の院参拝を終え、車に戻り高取城址を目指したのであった。
2017.11.18
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク更に金剛峯寺の伽藍堂塔の散策を続ける。三味堂。済高座主が929年(延長7年)に建立した堂で、済高がこの堂で「理趣三昧」と言う儀式を執り行っていたことにより三昧堂と呼ばれるようになった。元々は総持院境内にあり後に伽藍に移された。この時修造に西行法師が関わったと。現在の堂は1816年(文化13年)に再建されたもの。 東塔。白河法皇の御願により1127年(大治2年)に創建された塔で、本尊に尊勝仏頂尊、脇侍として不動明王、降三世明王の二尊が祀られている。江戸時代に塔が再建されたが、1843年(天保14年)に焼失し、その後再建されていなかったが、1984年(昭和58年)に現在の塔が再建されたと。 蛇腹坂を下り金剛峯寺境内に向けて歩く。六時の鐘。金剛峰寺の正面左前方、伽藍の入り口となる高い石垣の上にある鐘楼。かつて豊臣秀吉の勇将であった福島正則が両親の追善を祈り1618年(元和4年)に建立。1640年(寛永7年)に正則の子、正利によって再鋳され、鐘銘が仮名まじり文である事でも知られている。現在も午前6時から午後10時までの偶数時に時刻を知らせる鐘として使われていると。6時から22時までの偶数時に12回うたれる。なので、合計で108つ。修行僧の還俗への思いを断ち切る為のものか。こちらにも赤く染まり始めたモミジが。 総本山・金剛峯寺。格式高い、正門入口。 「総本山 金剛峯寺」と刻まれた石柱。 金剛峯寺は元は真然大徳の住まいがあったところで、天承元年(1131年)鳥羽上皇に許しを得て大伝法院を建立。その後、豊臣秀吉が亡き母の菩提を弔うために木食応其上人に命じて建立させた寺院で「青厳寺」と呼び、応其上人の住まいになった。その後、再三の火災により焼失したが、現在の本殿は文久3年(1863年)に再建された。現在は、奥の院祖廟を信仰の中心として結成された高野山真言宗三千余寺、信徒約1千万人の総本山として高野山真言宗管長兼金剛峯寺座主の住まいとなっていると。また、栄耀栄香と富貴のパワーがもらえるエネルギースポットとしても有名。高野山金剛峯寺が迎えてくれる最初の表門。この門は金剛峯寺の建物の中で一番古い正門といわれる門で、情緒あふれる門。往時の時代でこの正門を利用ができたのは、位の高い重職などだけだったと。文禄2年(1593年)に再建されたもので、400年以上もの間ここ高野山を見守って来たと。 主殿は、秀吉が亡母の菩提を弔うために建立した建物「金剛峯寺」という名称は、弘法大師が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと。東西60m、南北約70mのこの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え境内総坪数48,295坪の広大さと優雅さを有していると。主殿の中には、歴史に名を残す狩野探幽筆の襖絵『松に群鶴』、豊臣秀次切腹の「柳の間」にある山本探斉筆の襖絵『雪柳白鷺』、豪壮ながら生活感が溢れた台所など見所が多彩。金剛峯寺の御朱印をいただきました。鐘楼。表門を潜って右にある建物が、金剛峯寺の前身「青巌寺」の時代の鐘楼。その構造形式から、1860(万延元)年の大火で類焼後、主殿などの建物と共に鐘楼もその4年後に再建されたもの。桁行・三間、梁行・二間、袴腰付入母屋造りの形式で、県指定文化財。石崎光瑤作 襖絵『虹雉』全12枚が、特別公開中であった。高野山では、奥の院の参道をはじめ高野杉の高木が林立していて山の霊気を高めている。金剛峯寺の中で奥の院霊木として直径2メートルもの輪切りの幹が展示されていた。樹高 57.00メートル 直径 2.78メートル 根元周囲 7.00メートル。三鈷杵( さんこしょ)。密教では,杵(きね)の形をした中央の握り両端に鈷の突起をつくりその鋭さによって煩悩を打ち破り,菩提心(仏性)をあらわすための法具である。空海が唐から帰国の際、師の恵果和尚から送られた密教法具の一種である三鈷杵を東の空に向けて投げた。帰国後その三鈷杵を探し求めていると、高野山の松の木に引っかかっているのがわかった。そして高野山の地が真言密教の道場として開かれ、この松は「三鈷の松」といわれた。そのため高野山では「飛行三鈷杵」を大切にし、厳重に保管して来たと。両端の鈷数や形によって独鈷杵,三鈷杵,五鈷杵,九鈷杵,宝珠杵,塔杵,九頭竜(くずりゆう)杵などがある。独・三・五鈷杵は古いが,宝珠・塔杵は新しく,九鈷杵,九頭竜杵はチベットの杵の影響を受け,宋,元代に多いと。「遍照金剛」と書かれた御朱印を頂きました。播龍庭(ばんりゅうてい)。金剛峰寺の奥殿を中心とする我国最大の石庭でその広さは5000余坪。京の白川砂と四国の名石を使用。勅使門より左側に雄龍、右側に雌龍を配するように造られ、金胎不二(こんたいふに)を表すと。雲海の中で龍が奥殿を守っていると。石庭の奥にもモミジが。 金剛峯寺の堂内を回っていると、拝観ルートの途中で新別殿に出た。大勢の参詣者が休憩できる大広間で、ここで僧侶の法話を聞きながらお茶とお菓子のお接待を受けることが出来た。 この日の法話を行うのは、中堅の僧侶。 座禅している僧侶像が話しかけて来そう。 再び表門。 蛇腹坂(じゃばらみち)を駐車場に向かって戻る。壇上伽藍に通じる、幅およそ3メートル長さ100メートルの道。この道は、ほんの少しの傾斜がある上り坂だが、色付き始めた木々もあり、赤や黄色の色鮮やかな紅葉を楽しむことも出来た。。蓮池。干ばつに苦しむ人々を救うために善女竜王像と仏舎利を祀った池。 紅葉が始まった逆さモミジが。
2017.11.17
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク翌朝のT邸からの朝焼け。 ベランダから見る日の出。 朝食も豪華そのもの。 Tさんにお礼そして再開を約束してこの日の最初の散策地の高野山に向かう。途中、24号線沿いにあるの道の駅 「紀の川万葉の里」に立ち寄る。販売所にはこの地の特産の各種の柿が販売されていた。土産に真っ黒な粉が吹いた柿を土産に購入。これぞ思い荷物にならない車で移動の特典。 県道480号線を世界遺産の高野山に向かって車を進める。 花坂不動尊。参詣道の道中安全の守護を願い、表高野に位置する花坂の地が不動尊建立に最適な浄地であるとの霊示を受け、花坂不動尊を建立開眼した。霊験あらたかな不動明王像を彫刻し、本堂に本尊として安置。境内に日本有数の大きさの不動明王立像と、黄金の大日如来像が建立したと。大門(だいもん)を車窓から。高野山全体の総門。1705年再建。国の重要文化財・世界遺産。中門前の駐車場に車を駐め、金剛峯寺の伽藍堂塔を訪ねる。伽藍堂塔 境内配置図。中門。高野山の中門は、江戸時代の天保14年(1843年)の大火事で燃え尽きてしまい、以降、平成の現在まで「中門跡地」として残っていた。しかし、平成27年の高野山開創1200年の記念の際に、173年ぶりにこの「中門」を再建しようという話が持ち上がった。平成27年の高野山開創1200年記念の記念事業の一環で、中門再建計画が企画され工事実施。ここで再建されたのは、中門だけではなく、かつて中門に安置されていたとされる、運派が彫ったとされる「仁王像」も同時に再建されたと。中門正面手前の左側が「持国天」。中門正面手前の右側が「多聞天」。 中門裏側の正面から見て左側が「増長天」。中門裏側の正面から見て右側が「広目天」 。 境内の紅葉も始まっていた。ピークは後10日間か? 金堂。高野山開創当時「講堂」と呼ばれていた「金堂」は、平安時代半ば頃より高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきた建物。現存する金堂は、7度目に再建されたもので1932年(昭和7年)に完成したもの。内部には仏師・高村光雲による本尊・薬師如来(秘仏)が祀られており、内壁には木村武山による壁画が描かれている。「金剛峯寺」の御朱印。六角経蔵(ろっかくきょうぞう、壇場伽藍)。六角経蔵は「鳥羽法皇」の菩提(ぼだい)を弔う為に、皇后の「美福門院(びふくもんいん)が、1159年(平治元年)に建立した経蔵。 山王院。弘法大師は高野山の開創に際して、日本古来の神々と仏教との融和のため、高野山の地主神として、丹生明神(にうみょうじん)と高野明神の分霊を高野山の守護神として「御社(みやしろ)」に祀った。この「御社」の拝殿として山王院は建立されたと。山王院本殿(御社)。そしてこの小さな山王院本殿には神仏習合の原点ともいうべき重要な意味のある社。山王院本殿は、その重厚感のある造りからそれぞれが立派な堂のように見えるが、御社の拝殿として建てられたものであり、現在の建物は1594年に再建された。山王院本殿は、伽藍大塔の西に約100メートルも離れた少し高い場所に。御影堂。弘法大師の持仏堂として建立されたが、後になって真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安したことから御影堂と名づけられた。高野山内でも最重要な聖域とされ堂内には限られた人しか入ることが出来なかったが、近年旧暦の3月21日に行われる「旧正御影供」の前夜、御逮夜法会の後に外陣への一般参拝が許されるようになった。外陣には弘法大師の十大弟子像が掲げられていると。准胝堂(じゅんていどう)。弘法大師が得度の儀式を行う際に自ら造立したという本尊、准胝観音を祀る堂。伽藍が建立された当時は食堂に安置されていたと伝わっており、973年(天禄4年)頃にこの堂が建立されこちらに祀られるようになったと伝わっていると。幾度も焼失し現在の堂は1883年(明治16年)に再建されたもの。 孔雀堂。もともとは鎌倉時代初期の正治元年(1199年)、京都・東寺の延杲(えんごう)が雨乞いを成就させたことがきっかけとなり、後鳥羽上皇の命により建立された。 この22年後に承久の乱を起こして鎌倉幕府に敗北、隠岐に配流された後鳥羽上皇であったが、この頃は朝廷の権力を掌握しており、積極的な院政改革を行なっていた。 正治二年(1200年)に安置された本尊の孔雀明王像は快慶の作で、重要文化財に指定、(霊宝館所蔵)。 孔雀堂の建物は昭和元年の大火で焼失、昭和58年(1983年)に再建されたもの。孔雀堂 内部。孔雀明王像は、壇上伽藍孔雀堂の元本尊で、快慶作の端正で美しい仏像(重文・快慶作)。写真に写っているのはレプリカか?鐘楼。剛峯寺の前身であります青巌寺の鐘楼とのこと。西塔。大日如来の密教世界を具現するため、空海が設計し、仁和2年(886年)に空海の弟子で甥でもある真然が建立。現在の建物は江戸時代末期の天保5年(1834年)の再建で、内部には金剛界の大日如来と胎蔵界の四仏が安置されている。 御影堂周辺の紅葉。 紅葉のピークには別世界が拡がるのであろう。 高野山のシンボル、高さ48mの金剛峯寺根本大塔。 空海が816年(弘仁7)7月に高野山開創の勅許を得たのち建立に着手し、没後半世紀を経て完成した。現在の建物は1932年(昭和7)に着工し、38年に完成したもので、16間四面、高さ16丈の2層の多宝塔様式の塔。主尊は胎蔵界大日如来(たいぞうかいだいにちにょらい)で、これに金剛界の阿(あしゅく)・宝生(ほうしょう)・無量寿(むりょうじゅ)・不空成就(ふくうじょうじゅ)の四仏を配している。内陣の16本の柱には堂本印象(どうもといんしょう)の描いた金剛界十六大菩薩(ぼさつ)の仏画があると。「大日如来」「根本大塔」の御朱印を頂きました。 大塔の鐘 高野四郎。弘法大師が大鐘の鋳造を発願され、真然大徳の時代になってようやく完成したと伝わる「大塔の鐘」。火災等により度々鐘楼が焼失し、改鋳が繰り返され現在の銅鐘は、1547年(天文16年)に完成したもの。直径が約2mと非常に大きく、日本で4番目に大きな鐘であったことから「高野四郎」の愛称で呼ばれるようになったと。現在でも使われており、午前4時、午後1時、午後6時、午後9時、午後11時と1日5回時刻を知らせていると。境内、中央に大会堂、その右に三昧堂、東塔。 愛染堂(あいぜんどう)。四海静平、玉体安穏を願い後醍醐天皇の御願により1334年(建武元年)に建立された。本尊として愛染明王を祀り、愛染明王護摩と長日護摩が行われる場所。災害に何度か遭い再建されており、現在の堂は1816年(文化13年)に再建されたと。 大会堂(だいえどう)。鳥羽法皇の皇女・御辻斎院内親王が父帝の追善のために建立された堂で、元々別の場所からこの場所へ移された。徳川時代から大法会がある時にまずこの堂に会して行列を整える事から大会堂と呼ばれていると。現在の堂は、1848年(嘉永元年)に再建されたもの。本尊に阿弥陀如来を祀り、脇侍に観世音菩薩と勢至菩薩が祀られている。
2017.11.16
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク86番札所:志度寺11号線を走り、志度湾に出て直ぐに道の駅「源平の里むれ」に立ち寄る。「源平の里むれ」は、源平屋島合戦の古戦場として有名な場所に位置し、海を望む風光明媚な道の駅。海岸沿いの広場には石のモニュメントが展示されていた。「風を呼ぶ」佐藤幸子 作。「門ーMUSE LOVE」川島猛 作。志度港を望む一角にある駐車場に到着。八栗寺から8km、15分の場所。志度寺 境内配置案内図。 仁王門をくぐり、参道を進むと正面に薬師堂、その左に閻魔堂があり、さらに大師堂がある。本堂は大師堂の左にある。納経所は仁王門をくぐって右を進むとある。 我々は駐車場から近い裏口から志度寺境内へ。奪衣婆堂(だつえばどう)。奪衣婆というのは、三途の川のほとりにいて、亡者の着物を奪い取る鬼婆のこと。奪い取られた着物は、衣領樹(えりょうじゅ)と呼ばれる木の枝にかけられ、その枝の垂れ具合で亡者の生前の生前の罪の重さを計るのだと。五重塔。五重塔は、高さ33m。1973年から着工され、1975年5月に落成。地元出身の実業家竹野二郎によって寄進されたと。四国八十八ヶ寺の中で、五重塔があるのは竹林寺、本山寺、善通寺、志度寺の4ヶ所だけと。五重塔は、擬宝珠高欄を付した縁をめぐらし、中央間板唐戸、脇間連子窓、中備えは三間とも間斗束。鐘楼。本堂。本寺の縁起によると、志度浦にたどり着いた霊木を凡薗子尼(おおしそのこに、智法尼とも)が草庵へ持ち帰り安置し、その霊木から本尊(十一面観音)を造立し、堂宇が建立されたという。創建は626年(推古天皇33年)のこととされている。681年(天武天皇10年)には藤原不比等が堂宇を増築し、「死度道場」として名づけたという。不比等に関わる「海女の玉取り」伝説は謡曲などでも知られる。また、693年(持統天皇7年)には不比等の子・藤原房前が行基とともに堂宇を建立し、寺名を「志度寺」に改めたと伝えられている。室町時代には四国管領の細川氏が代々寄進を行い繁栄するが、そののち戦乱により寺院は荒廃する。藤原氏末裔の生駒親正による支援などを経てのち、1671年(寛文10年)、高松藩主松平頼重の寄進(本堂・仁王門)など、高松藩主松平氏により再興された。 補陀洛山 清浄光院 志度寺(ふだらくさん せいじょうこういん しどじ) 宗派 真言宗善通寺派本尊 十一面観音 創建 推古天皇33年(626年)開祖 凡薗子尼(おおしそのこに)所在 香川県さぬき市志度1102番地本尊真言 ”おん まか きゃろにきゃ そわか” 大師堂。初老の外国人の歩き遍路の御夫妻に一期一会。三尊仏。『高松藩初代藩主 松平頼重公が三人の近習を弔うために建立した三体の仏像(中央は阿弥陀如来、左は観音菩薩、右は薬師如来)。頼重公が若い頃、些細なことから三人の近習、甲賀八太夫、甲賀五左衛門、大西主膳に切腹を命じた。家老が、三人ともまだ若く、将来は藩のためにも役立つこともあろうから一命だけはと助命嘆願したが、頼重公は一向に聞き入れず、三人は切腹して果てた。それから何年かの歳月が流れ、晩年になった頼重公は、若いときの短期で三人を切腹させたことを深く後悔した。そこで、隠居後の住まいであった「お山御殿」石清尾八幡宮の南=宮脇村(現高松市宮脇町)に三人の供養のための三尊仏を作って安置し、朝な夕なに冥福を祈った。お山御殿が取りのけになり、三尊仏が残っていたのを、元禄十五年(1702)当時の志度寺住職「同性(どうしょう)」が、藩に願い出て、志度寺の境内に移転した。』と説明板に。薬師堂。 納骨堂。中門。 仁王門。三棟(みつむね)造りと云われる東大寺転害門(てがいもん)と同じ構造で、寛文建築の特徴を良く著している。円柱の本柱四本の前後にそれぞれ四本ずつの控柱があって、三間一戸八脚門、切妻造り、本瓦葺で、本堂と同時期建立の木割りの太い八脚門である。天正11年(1583年)讃岐に進攻した土佐の長宗我部元親が、山門を潜ろうとした時急に馬が動かなくなった。不思議に思って元親が両脇の仁王像を見ると、「後光」がさしていたので部下に命じ、志度寺を焼く事を禁じ、恭しく寺仏に礼拝して古高松に引き上げたと伝えられると。仁王門には運慶の作といわれる木造金剛力士立像が立っており、巨大わらじがぶら下がっていた。これは讃岐藩主、松平頼重により寄進されたもので、全国的にも珍しい三棟造りとなっていて、重要文化財に指定されている。両像共に桧材の寄木造り彫眼の像で、写実的に表現された大作で、豪快。像高は口を大きく開けた阿形(あぎょう)が304cmで、口を結んだ吽形(うんぎょう)は325cmであると。金剛力士立像 阿形像。 金剛力士立像 吽形像。 境内は緑豊か。 境内には心安まる美しい顔の石仏が。観音様? 隣にも。薬師如来様? 悲願金剛地蔵菩薩像。手水舎。 閻魔堂。閻魔堂は、高松藩初代藩主・松平頼重公が寄進した堂で、その名の通り閻魔様をお祀りしている。毎月この日・17日は閻魔様に会える日であった。写真の中央が閻魔様。左右にいるのが従者で、向かって右側が「司命(しみょう)」という罪状を読み上げる係で、左側にいるのが「司録(しろく)」という、判決文を記録する係だと。 よく見ると閻魔様の頭に仏頭が。嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれると、子供の頃祖母から。四国八十八ケ所光明真言一億萬遍塔。 四国八十八カ所のご本尊が刻まれていた。仏の徳の光が遍く届くようにとの強い願いが込められている石碑である。 境内には屋外専用蚊取り装置が。プロパンガスの燃焼によって発生した二酸化炭素を、特殊スクリーンを通し蚊の嫌う成分を取り除き、地表に向けて放出。空気より重い二酸化炭素は広範囲に拡散して、蚊をおびき寄せるようであった。賀茂社と天神社? 南無阿彌陀仏と刻まれた石仏。 古跡 海女の墓。海女だった不比等の妻が宝珠を龍神から取り返した伝説は能や謡曲でも有名と藤原房前(藤原不比等の次男)が母のために建立したと言われる「海女の墓」。命日である旧暦の6月16日には、「志度寺の十六度市」が開催され、年に一度、本尊の御開帳も行っていると。 生駒親正墓塔(いこまちかまさぼとう)。 白色の角礫凝灰岩で作られた、総高2.78mの墓塔である。墓塔に刻まれた種字は風化が著しく消滅している。生駒親正は美濃国に生まれ、織田信長に仕え、のち豊臣秀吉に従って戦功をたてた。天正15年(1587)赤穂6万石から讃岐17万石の領主となる。親正は地元郷士を重用して善政をしき、高松城・丸亀城を築いて、今日の高松の基礎をつくった。慶長8年(1603)2月13日、78歳で生涯を閉じた。生駒家は志度寺を崇敬し,寺領を寄進したり、定め書を下して当寺の興隆をはかる。三代正俊は慶長15年(1610)に、母永福院とともに、親正の菩提を弔うために、海女の墓の東方に五輪塔を建てた。高松の弘憲寺にも親正の墓があると。 高浜年尾(虚子の長男)の句碑。「盆に来て 海女をとむらう 心あり」。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------87番札所:長尾寺 志度寺から長尾寺は3号線を南下すること7.5km、15分。途中、讃岐うどん屋で遅めの昼食。 セルフでかき揚げとゲソ揚げを。 そして今回の遍路の最終目的寺の87番札所:長尾寺に到着。 長尾寺経幢( ながおじきょうとう ) 経幢は、経文を埋納保存する施設、もしくは供養の標識として鎌倉時代中期頃からつくられるようになった。長尾寺のものは屈指の古さを誇ると。山門前、向かって左側の覆屋の中に立っている経幢。幢身の北面に「弘安六年(1283)歳次、癸未七月日」の紀年銘が刻まれ、鎌倉時代の弘安六年(1283)に奉納されたことがわかると。向かって右側の覆屋。幢身の北面に「弘安第九天(1286)歳次、丙戌五月日、大願主、大工・・、・・・」と刻む。弘安九年(1286)に奉納されたことがわかる。仁王門。日本三大名門の1つという。寛文10年(1670年)建立とされ、三つ棟木という珍しい工法で知られる。阿形像。 吽形像。 長尾寺 境内配置案内図。仁王門をくぐって正面に本堂、その右に大師堂がある。納経所は本堂の向かいにある。 門をくぐる真上には吊り梵鐘が下がっていたが、綱は無く。どの様に打つのであろうか? 楠の大木。 手水舎。墓塚。 東門。栗林公園の北側にあった正門(延享年間建築)を大正2年に払い下げを受け忠実に再現移築したと。薬師堂。 内部。 大師堂手前の地蔵群。 本堂を太師堂前から。 大師堂。 彫刻も見事。 賓頭盧様は真っ赤。 本堂。寺伝によれば天平11年(739年)、行基が当地で霊感を得て聖観音菩薩像を刻み、堂宇に安置したのが始まりとされる。空海(弘法大師)が渡唐前、当地に滞在し、年頭7日目の夜に護摩符を丘の上より人々に投げ与えたとの伝説があり、これは毎年1月7日の「福奪い」として今に伝わっている。天長2年(825年)、唐より帰朝した弘法大師によって霊場と定められた。幾度かの兵火により堂宇は失われたが、その都度歴代藩主によって再建されている。なお、静御前が源義経と別れた後、母の磯禅師と共に当寺を訪れ、得度したとの言い伝えもあり、静御前の位牌が本堂の左脇陣にある。 2014年5月18日だけ本尊が開帳されたと。本堂内部。補陀洛山 観音院 長尾寺(ふだらくさん かんのんいん ながおじ) 宗派 天台宗本尊 聖観世音菩薩 創建 天平11年(739年)開祖 行基所在 香川県さぬき市長尾西653番地本尊真言 ”おん あろりきゃ そわか” 本尊の「聖観世音」と書かれた扁額。 本堂回廊から境内を見る。 護摩堂。 大きなお地蔵様の脇に「静御前剃髪塚」が。源義経の愛妾、静御前が長尾寺で剃髪し尼になり髪を埋めた剃髪塚であると。 大きなお地蔵様。本坊膳所の特別門か? 本坊膳所入口門。 自在天堂。ここは、「天満大自在天神」で、菅原道真公の御霊を祀っていると 。再び境内を。 村岡大僧正頌徳碑。四国霊場87番札所、長尾寺さんの十五代住職を務めた「村岡俊嶽大僧正」。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.11.14
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク84番札所:屋島寺一宮寺から11号線を利用して屋島寺に向かう。途中、栗林公園が左側に。屋島の名称は屋根のような形状に由来し、高松市のシンボル。また、いにしえから瀬戸内海の海路のランドマークであり、海外交流交易海路に面した要衝。屋島は南北5キロメートル・東西3キロメートルの島。南嶺の標高は292.0m・北嶺の標高は282m、山頂は平坦で、端部は急崖で囲まれた台地の地形(メサ)である。両者は細い尾根で接続されている。山上に多島海が眺められる展望景観を有し、1934年(昭和9年)3月16日、国立公園として初の瀬戸内海国立公園に指定された。 一宮寺から17.5km、40分で屋島ドライブウェイを使って、屋島山上の駐車場に到着。 ここは源平屋島合戦場の舞台になった地。源平屋島合戦図屏風(弓流し図屏風)。本図は,『平家物語』第11巻に記された源平の屋島合戦中,もっとも有名なエピソードのひとつである「弓流」に題材をとっている。その内容は以下のとおり。勝ちにのっていた源氏勢は,船に逃げた平氏の軍兵たちを追って,馬の太腹が水につかるほどに海中に乗り入れて攻め戦っていた。そんな中で,義経はどうしたことか,自分の弓を平氏勢の熊手にかけられて落としてしまう。周りの臣下たちが「弓よりも,お命の方が大切です。お捨てなさい。」と口々に言うが,義経は何とかむちで弓をかき寄せて,拾うのに成功した。このことで,あとで家臣たちになじられられた義経は「弓が惜しくて拾ったのではない。もし私の弓が二,三人でなければ張れないほどの強弓であったなら,わざとでも落とすのだが,私のひ弱な弓を敵が取って,『これが源氏の大将九郎義経の弓だ』といって,ばかにするのが残念だから,命がけで取ったのだ」と語り,すべての人がその心意気に感心した。本図は「弓流」を八曲一隻という大画面を生かして比較的大きい人物を配して描いており,非常に珍しい構図となっている。いささか金の方が強いような印象を受けるが,金地金雲の金と海の濃紺とが見事にお互いを引き立て合って,画面をひきしめている。また,それ以外の色彩の豊かさも目につく作品で,武将たちの衣装や甲,乗っている馬など,色鮮やかに描き分けられている。第八扇が殆んど一面金箔であるという構図の不自然さから,もとは八曲一双の屏風であった可能性が高い。 源平屋島合戦 主な登場人物が絵と共に説明されていた。 源平屋島合戦パネル。 屋島寺 境内配置案内図。車遍路は東大門から入って行くことになり、千体堂、三体堂、大師堂の順になる。歩き遍路は山門を通り、四天門を通って正面に本堂、本堂の手前を右に進むと右手に納経所、正面に大師堂がある。朱に塗られた東大門。 石仏がお出迎え。 十一面観音像。 五重塔。 見事な彫刻の大きな石鉢。天女の姿が。境内中央を眺めると、千躰堂と三躰堂の向かいに鐘楼堂があり、鐘楼堂の奥に宝物館が建っている。宝物館の右に見えるのが屋島寺本堂。 天平勝宝6年(754)唐からはるばる来日した鑑真和上がここを通ると屋島の山上に瑞光が見えたので船をとめて屋島の北嶺に登り、仏像や経典を納めて開基した。のち弟子の恵雲師がこの地に堂宇を建て初代の住職となった。弘仁6年(815)この地を訪れた弘法大師は、瑳峨天皇の勅願により、北嶺にあった伽藍を南嶺に移し、十一面観音菩薩像を刻んで本尊とした。その後戦乱によって衰退したが、歴代の藩主によって修榎され現在に至っている。千躰堂(せんたいどう)。本堂に向かって右のところにある、千手観音(せんじゅかんのん)を安置する堂。三躰堂(さんたいどう)。 釈迦如来、阿弥陀如来、そして鑑真和上を祀る。一丸不動尊。不動尊の誓願は、人間の悩みの原因である無明(むみょう)を断ち切って、本当の幸せを授けることにあると。我々の真心が通じるならば、どのような願いでも必ず一願は成就すると。 不動明王像が中心に。 大師堂。弘法大師(こうぼうだいし)―空海(くうかい)を祀る。 大師像に会うことが出来ました。 熊野権現社。 蓑山大明神。「本堂」の右側に、複数の鳥居とともに巨大な「狸」の石像が安置されていた。 四国狸の総大将「太三郎狸」と呼ばれる土地の氏神。子宝、縁結びや家庭円満などの神さま。 本堂。南面山 千光院 屋島寺(なんめんざん せんこういん やしまじ)宗派 真言宗御室派本尊 千手観音創建 天平勝宝6年(754年)開祖 鑑真所在 香川県高松市屋島東町字屋島峯1808番地本尊真言 ”おん ばさら たらま きりく” 屋島寺本堂内部。壁際のひじ形の模様や天井の格子状の模様など細部にまで、こだわったつくりが美しいです。「廣大智慧觀」と大きく飾られた額は、「こうだいちえかん」と読みます。「あらゆるものを平等に観ずる心」という意味と。高松藩主「松平頼恭」(まつだいら よりたか)によって書かれた。松平頼恭は、人々の声を聞くために投書箱を設置した話が残っており、世の中を平等に見ようとする意志をもって、政治を行っていたのだと。 山門(仁王門)。 阿形像。 吽形像。 不喰之梨(くわずのなし)の石碑。 月光殿の門。 本坊。 源平屋島合戦800年祭記念の供養塔と合戦の模様を描いたレリーフ。 四天門。阿波蜂須賀家の寄進である。 阿吽形像。 宝物館。本堂に隣接する、貴重な寺宝や源平合戦に関する宝物などを収めた資料館。那須与一の子孫が寄進した「源氏の白旗」や「源氏の勝臼」。土佐光起筆「屋島合戦屏風」、「源平盛衰記絵巻」、狩野深信筆「源平合戦絵図・那須与一の扇の的」などの絵画が収蔵され、屋島寺と屋島の歴史に触れることができると。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------85番札所:八栗寺 「源平屋島古戦場」屋島のドライブウェイを下る途中に、こんな看板が設置されていた。屋島の合戦となった場所を見渡せるポイントで、車を停められるスペースが設けられていた。 屋島山頂の談古嶺展望台から檀ノ浦古戦場を眺める。入り江の両側に源平合戦にまつわる遺跡が点在している。向こう側は五剣山であるが雲に隠れていた。 談古嶺から瀬戸内海を望む。やや右に見える山の向こう側に見えるのが「船隠し」。 八栗ケーブル(やくりケーブル)駅に到着八栗ケーブルは、香川県高松市牟礼町牟礼の八栗登山口駅から八栗山上駅に至る四国ケーブルのケーブルカー路線。四国八十八箇所第八十五番札所の五剣山八栗寺への参詣者で賑わう。毎月1日の縁日には早朝4時15分から運行されると。 路線距離(営業キロ):0.7km 軌間:1067mm高低差:167m 最急勾配:288‰大人上り 560円 下り460円 往復 930円と料金が微妙。ケーブルカー駅前の源氏池にはホテイアオイが満開中。白い花びらに入る紫色の模様が幻想的なホテイアオイ。見た目は繊細ですが、繁殖録がとても強く、今では世界中で増えすぎて世界十大害草の1つに数えられているのです。 ケーブルカーを利用しなくても八栗寺に行けるとチケット売り場の女性から聞き、急遽車に戻り出発し15分ほどで八栗寺駐車場に到着。八栗寺本坊入口門。 八栗寺 境内配置案内図。歩き遍路は山門から入って正面に本堂、その手前左に納経所、右にずーと進んでいくと大師堂があり、その向こうに多宝塔がある。ケーブルカー利用は、ケーブル山上駅を出て進み左に曲がり道なりに行くと多宝塔、大師堂、さらに参道を行くと正面に聖天堂があり、その左が納経所で、右上に本堂がある。 寺伝によれば空海(弘法大師)がここで虚空蔵求聞持法を収めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が現れて、この地が霊地であることを告げた。空海は降ってきた剣を埋め、天長6年(829年)に再訪し八栗寺を開基したと。なお、寺名の由来は二つあり、一つは、空海が唐より栗子を八つ海に投入、漂着した所に仏法が栄えるゆえ、帰国できたときにはその地に寺を建立せんと願をかけたという説と、寺の奥ノ院である五剣山頂上より眺望が良く八つの国が見える、八国寺が八栗寺になったという説がある。 多宝塔。昭和59年10月建立された総桧づくりの建物で本尊は金剛界大日如来。内部は四方の壁面に八祖大師と十二天像、来迎壁の裏面に尊勝曼陀羅、四方の扉には八大菩薩が極彩色を以って描かれていると。 多宝塔の下の各種の石仏が迎えてくれた。 大師堂。八栗寺本坊から本堂に向かう途中にある堂。当山の開祖である弘法大師像を安置。 十二支守本尊。五剣山を模したミニ五剣山の前側には八角柱の台座と写経を納めた石室があり、上にはブロンズの十二支尊像が祀られていた。平成四年(1992年)寄進されたと。十二支尊像は子年が弥勒菩薩、丑年が勢至菩薩、寅年が阿弥陀如来,卯年が聖観世音菩薩、辰年が如意輪観音、巳年が虚空蔵菩薩、午年が地蔵菩薩,未年が文殊菩薩、申年が大威徳明王、酉年が普賢菩薩、戌年が大日如来、亥年が釈迦如来と。 地蔵菩薩像。授けにご利益のあるお地蔵さま。地蔵堂。地蔵菩薩の御真言は「オンカカカビサンマエイソハカ」。 木食以空上人像。天尊行者として名高かった木食以空上人が八栗寺に歓喜天を勧請し、寺の繁栄の礎を築かれたことをたたえて、昭和四十年(1965年)に建立された像で、姿は上人の自画像をもとに。ちなみに、肉類や五穀を食べず、木の実や草などを食して修行することを「木食」と言うと。 境内入口から、正面は聖天堂。 大師堂。 聖天堂。 八栗の「お聖天さん」として親しまれ、商売繁盛や学業成就、縁結びにご利益がある。御真言は「オンキリクウギャクウンソワカ」と唱えます。お聖天さまが勧請されて以来、八栗寺では毎朝御祈祷が行われ、大縁日・大般若法会は1月・5月・旧暦9月16日に行われると。また、毎月1日・16日の縁日にも多くの人が商売繁盛・縁結び・学業成就を願いに参拝されると。「歓喜天」の左には「軍茶利明王」、右に「十一面観音菩薩」が祀られている。手水舎。 護摩堂。歓喜童子(お聖天さまの子)が祀られていると。毎月15日・月末午後7時から聖天尊護摩供養がここでおこなわれている。納経所の隣にあり、護摩祈祷所や鐘の拓本、天狗の面などがあると。納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 お迎え大師。その目は、本堂の方角にむけて注がれていると。素朴な石仏。 石灯籠とモミジ葉。 鳥居の先に二天門。 二天門には、天部の仏神で四天王の一尊「持国天」と「多聞天」が祀られていた。持国天と多聞天。二天門から境内を見る。 本堂。 寺伝によれば空海(弘法大師)がここで虚空蔵求聞持法を収めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が現れて、この地が霊地であることを告げた。空海は降ってきた剣を埋め、天長6年(829年)に再訪し開基したという。なお、寺名の由来は二つあり、一つは、空海が唐より栗子を八つ海に投入、漂着した所に仏法が栄えるゆえ、帰国できたときにはその地に寺を建立せんと願をかけたという説と、寺の奥ノ院である五剣山頂上より眺望が良く八つの国が見える、八国寺が八栗寺になったという説があるのだと。本堂内部。五剣山 観自在院 八栗寺(ごげんざん かんじざいいん やくりじ)宗派 真言宗大覚寺派本尊 聖観音創建 天長6年(829年)開祖 空海(弘法大師)所在 香川県高松市牟礼町牟礼字八栗3416番地本尊真言 ”おん あろりきゃ そわか” 十一面観音像。十一面観音菩薩は、聖天様の本地仏であり、衆生の迷いを救い、願いを叶えると。昭和五十一年(1976年)に寄進された。背面の地層は、1000万年以上も前のものと。 鐘楼堂。 本尊身代わり仏。 本堂から二天門方向の境内を見る。 修行大師像と多くの石仏。 本坊西門。紅葉時には美しい景観を楽しめる事間違いなし。
2017.11.13
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク82番札所:根香寺白峯寺から約15分、深い緑そして紅葉が始まりかけた道走ると根香寺(ねごろじ)に到着。山門(仁王門)。阿形像。 吽形像。巨大草鞋 根香寺 境内配置案内図。山門の左側の林の中に牛鬼像がある。山門をくぐり数段下り進むと今度は上りの石段があり、上がって行くと右に大師堂、左に納経所がある。さらに石段を上がり上り詰めると正面に本堂が見えるが左の薄暗い回廊の中を巡って本堂に至る。杉木立の中にある仁王門をくぐると、いったん石段を下り、木々の間の参道を通り、また石段を上がって境内に出る。参道沿いや境内にはカエデの木が多く、紅葉のシーズンには全山が赤く染まってみごとな眺めが楽しめるのだと。階段横には白き流れが。根香寺石柱。仁王門を振り返る。水かけ地蔵。牛頭観音。役の行者像。根香寺開創1,100年を記念して、昭和6年に安置。開基は、弘法大師と智証大師であるが、山岳仏教と結びつき、大護摩祈祷も盛んであったと。笑っているのか? 手水舎。白猴欅(はっこうけやき)。樹齢1600年とも言われるケヤキの老木であり、香川県の天然記念物に指定されていたが枯死した。名の由来は智証大師が寺院創建の折にこの樹を伝って下りてきた白い猿が大師を手助けしたと言われる伝説に由来する。平成3年(1991年)に株を生えていた場所に置き、屋根を付け保存されていた。五大堂。五大尊の像を拝観できると。鐘楼は修復工事中であった。延命地蔵堂。竜宮地蔵尊。大子堂。大子堂内部。更に本堂への階段を上る。重要文化財の木造千手観音立像 。桜材の一木造りで漆箔、163.3cm平安時代の作。この寺の本尊である。33年に一度開扉の秘仏。昭和30・2・2指定。本堂。寺伝によれば、空海(弘法大師)が弘仁年間(810年 - 824年)にこの地を訪れ五色台の五つの峰に金剛界の五智如来を感得し密教の修行にふさわしい台地であるとし、その一つである青峰に一宇を建立し五大明王を祀り「花蔵院」と称し、衆生の末代済度を祈願する護摩供を修法をしたと伝えられている。その後、円珍(智証大師)が天長9年(832年)に訪れたさい、山の鎮守である市之瀬明神の化身の老翁に、蓮華谷の霊木で観音像を造り観音霊場の道場をつくるよう告げられた。すぐさま円珍は、千手観音像を彫像し「千手院」を建てて安置した。この霊木は香木で切り株から芳香を放ち続けたことから、この2院を総称して根香寺と呼ばれるようになったと。後白河天皇から勅願所として帰依も厚く繁栄したが、戦国時代には兵火にあい衰微した。しかし、慶長年間に高松城主・生駒一正が復興、さらに寛文4年(1664年)高松藩初代藩主松平頼重が再興した。なお、このとき真言宗から天台宗に改宗されたと。青峰山 千手院 根香寺(あおみねざん せんじゅいん ねごろじ)宗派 天台宗単立本尊 千手観音創建 弘仁年間(810年 - 824年)開祖 空海(弘法大師)、円珍(智証大師)所在 香川県高松市中山町1506番地本尊真言 ”おん ばさら たらま きりく そわか” 本堂内部。回廊。万体観音。本堂前の凹字型回廊に、全国の信者が奉納した3万3千体の観音像が並んでいた。これは圧巻。再び回廊。灯籠も美しかった。回廊を外から。阿弥陀堂。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 伝説の牛鬼像は駐車場の横の木々に囲まれていた。江戸時代の初め頃、この地には牛鬼がいて人や家畜に危害を加えていた。そこで弓の名手であった山田蔵人高清に退治を依頼した。高清は3本の弓で見事に牛鬼を退治した。高清は退治した牛鬼の角を切り取り、根香寺に奉納し菩提を弔ったと伝えられている。現在、根香寺にはその牛鬼の角と呼ばれるものと、牛鬼の姿が描かれた掛け軸が伝わっていると。------------------------------------------------------------------------------------------------83番札所:一宮寺 根香寺から県道16号線を東に向かう。瀬戸内海そして島々の景色を車窓から楽しむ。176号線に右折し12号線に入り約19km、30分強走り一宮寺(いちのみやじ)駐車場に到着。 駐車場近くの西門から境内へ。 一宮寺 境内配置案内図。通常は仁王門とは反対の裏側にある西門の前に駐車場があるので、そこから入っていくと本堂左手に至り、大師堂は本堂の右側にあり、護摩堂は大師堂の左にある、納経所は本堂から仁王門に向かうと左手にあり、鐘楼は右手にある。参拝順路沿いに枯山水庭園が。多くの墓石、石柱が壁沿いに。 菩薩堂。 水掛不動尊。 こちらが仁王門。 阿形像。吽形像。 本堂。 サンゴジュの赤い実か? 鐘楼。 庫裏と納経所。岸信介元総理の揮毫による般若心経記念碑が境内に建立されているのだが・・・・??地蔵堂。 観音像。 厄除弘法大師。 手水場。弘法大師が清めの水を注いでくれました。本堂。寺伝によれば、義淵により法相宗の寺院として大宝年間(701年 - 704年)に建立され、年号にちなみ大宝院と称したと伝えられる。そして、和銅年間、諸国に一の宮が制定された際、讃岐一宮・田村神社の第一別当として行基が堂宇を改修し一宮寺と改めたという。その後大同年間(806年 - 810年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備し、106cmの聖観世音菩薩像を刻んで本尊として安置し、真言宗に改宗した。1584年(天正12年)の兵火により焼失するも、宥勢大徳により中興される。延宝7年(1679年)に時の高松藩主である松平頼常によって田村神社の別当寺を解職され、明治の神仏分離より200年も早く神仏の分離が行われ、現在に至っている。 神毫山 大宝院 一宮寺(しんごうざん だいほういん いちのみやじ)宗派 真言宗御室派本尊 聖観音創建 大宝年間(701年 - 704年)開祖 義淵所在 香川県高松市一宮町字宮西607番地本尊真言 ”おん あろりきゃ そわか” 大師堂。奥に鎮座する大師像を拝顔できた。護摩堂。護摩堂内部。 近年新築され、不動明王像を拝顔できた。 稲荷堂。 薬師如来を祀る石の祠。地獄の釜の煮えたぎる音がする祠で、悪いことをした人が頭を入れると抜けなくなると云われていると。一宮御陵。三基の宝塔。江戸時代の神仏分離の際に田村神社から移築された。田村神社の祭神である孝霊(こうれい)天皇・百襲姫命(ももそひめのみこと)五十狭芹彦命(いそさせりひこのみこと)の供養塔と言われていると。 無縁墓地か? 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.11.12
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク80番札所:國分寺前夜の発熱も、解熱剤の効果もあり、体調も戻り、この日も早朝6:30にホテルを出発。国道11号線を利用して約13km、30分弱で國分寺に到着。仁王門。仁王門前の立派な松が迎えてくれた。仁王像。 外側には仁王像を配し、内側には大わらじを飾っていた。阿形像。 吽形像。國分寺 境内配置案内図。仁王門をくぐり八十八ケ所の石像が両脇にならぶ参道を進むと左に閻魔堂があり右に四国最古の釣鐘があり、さらに行くと礎石のならぶ間を行き小さな橋を渡ると正面に本堂が立つ。本堂を背に左手を進むと白い多宝塔があり、それが大師堂である。その右の門から遍路用品のならぶ店内に入るとそこが大師堂拝殿であり、納経所でもある。本堂への参道を進む。讃岐国府跡推定地の東方2kmに位置し、一帯は讃岐国の中心地であり多くの遺跡が発掘されている。現在の境内は、創建当時の国分寺の伽藍と重複している。伽藍跡は全国に残る国分寺跡の中でも保存状態が良く、国の特別史跡に指定されている。なお国分寺跡で特別史跡であるのは、当寺の他に遠江国分寺跡と常陸国分寺跡のみである。そのほか、本堂・本尊・銅鐘が国の重要文化財に指定されている。國分寺のミニ四国八十八カ所巡拝・御砂踏道場入口の大師像。ミニ四国八十八カ所巡拝・御砂踏道場。四国八十八箇所の各本尊の仏像が配されており、ここでお遍路をすることができるようです。この寺・國分寺は右側に。北向地蔵。千体地蔵堂。ここにも大師像。境内の五重塔。國分寺案内図は錆の発生が激しく更新が必要か。 鐘楼。奈良時代に鋳造された四国最古の鐘であるとされています。また、案内板によれば以下の様な伝説があるようです。『昔、讃岐国の安原郡百々渕(どどがふち)に大蛇が棲んでおり、付近の住民を悩ましていた。 そこで弓の名手・戸次八郎(べっしはちろう)が国分寺の千手観音に「一矢当たれば千矢の霊験あれ」と祈願し、鐘を冠って渕に望み、そこに現れた大蛇を見事に退治した。 その後、龍神の夢告げ(神託)により、国分寺に奉納された』と。『慶長14年2月2日、当時の高松藩主・生駒一正(いこまかずまさ)が朝夕の時鐘にしようと、田一町を寄進して鐘を城内に持ち帰ったところ、鐘は少しも鳴らずに城内外で怪異が起こるようになった。そのほか悪疫も流行し、遂には一正も病床に伏すようになったという。また、毎夜鐘が夢枕に立ち「もとの国分へ帰りたい」と泣いたため、これは鐘の祟りに違いないと恐れて、同年3月14日に返された。そのとき「鐘がものいうた国分の鐘が、もとの国分へいぬというた」という歌がつくられ、当時の証文が現存する』と。 焔魔堂。お迎え弁財天。 毘沙門堂願掛け金箔大師。金箔を貼って諸願成就を祈願することができると。境内の池。旧金堂跡(手前)と現本堂。池に架かる橋を渡ると正面に本堂の姿が。橋の上から、池の中に立つ弁財天を。手水舎。延命地蔵尊。本堂。5間四方の入母屋造で、本尊・千手観世音菩薩の立像は5.2mで四国一の大きさ。本尊と本堂、鐘楼は国の重要文化財に指定。奈良時代の講堂跡に立ち、その礎石を再利用している。本堂は5間四方の入母屋造で、重要文化財。白牛山 千手院 国分寺(はくぎゅうざん せんじゅいん こくぶんじ)宗派 真言宗御室派本尊 千手観音創建 天平勝宝8年(756年)以前開祖 行基所在 香川県高松市国分寺町国分字上所2065番地本尊真言 ”おん ばさら たらま きりく” 本堂回廊から境内を。春日明神も境内に。福龍。竜の形をした古木であり、以下の様な謂れがあるとされていると。『空海(弘法大師)が四国巡錫の際、国分寺の本尊の千手観音像が損傷しているのを見かけた。そこで、観音浄土に祈願すると天から霊木が降り授けられ、その霊木を以って尊像を造り、修法したという。この古木はその霊木の残木であり、これを御衣木(枯れ木さん)と称する。』と。お願い弁財天。財運福徳を授ける神として霊験あらたかと。正面から弁財天を。良縁えんむすび。金箔縁結び。願掛け不動明王。成満大師ここにも。仏足石。釈迦如来。大師堂(弘法大師礼拝殿万霊塔)は納経所とつながつていた。 大師様にもお会いできました。。本堂内部の不動明王像。中門と奥に納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 福松。境内には見事な枝振りの松が多数あったが、珍しいのはそのうちの1本。大師堂のすぐ横にある松の木を見上げると、まっすぐ延びた幹の中央にこんもりと繁った葉の塊があり、まるで鳥の巣のようになっていた。------------------------------------------------------------------------------------------------81番札所:白峯寺國分寺から180号線の坂道を上り、白峯寺を目指す。車窓から山裾の街並みが雲の下に。白峰寺 全図。 白峯寺 境内配置案内図。高麗門形式の七棟門を入ると、茶堂、御成門、勅使門があって門の中には客殿、庫裡、納経所がある。さらに左へすすむと宝物館や不動堂、宝庫などの建物が並び、正面が勅額門、ここを入れば崇徳天皇の廟所・頓証寺殿である。本堂は勅額門の手前からの右投を登りつめたところにある。 山門前の修行大師像。 五社稲荷大明神。 昭和二十六年(1951年)建立。歌碑。 境内への入口は、巨大な杉に迎えられる白峯寺の山門。この山門は「七棟門」と言い、高麗形式の門の左右に2棟の塀を連ねた珍しい堀重門で、棟数あわせて7棟、故にこの門を七棟門と呼んでいる。左右から中央に積み上げられた屋根の形はまことに面白く、白峯寺名物の一つ。享保3年(1803)に再建された。 御成門。享保九年(1724年)建立。 客殿入口か。 客殿 案内板。護摩堂。山門の正面には、護摩堂があり、本堂大師堂まで行けない方はここでお参りするための大師像ある。 白峯寺では、参拝者の開運厄除・身体健固等を祈願し、境内に十二支守り本尊と七福神像を祀っていた。 護摩堂には辰・巳・酉。護摩堂内部。 山門を境内側から。 白壁の建物は宝物館。 弁財天。手水舎。 勅額門の手前から右に折れ、92段の石段を上ると、樹林に覆われて本堂が建っている。静かな山寺で、古刹のしっとりとした佇まい。 更に階段を上がる。本堂。弘法大師は、白峯山中に如意宝珠を埋め、井戸を掘り、衆生済度の誓原を行ったという。その後の貞観2(860)年ちしょう智証大師が白峯大権現の神託を受け、瀬戸内海の流木で千手観音を刻み、本尊として祀ったと伝えられている。 綾松山 洞林院 白峯寺 (りょうしょうざん どうりんいん しろみねじ)宗派 真言宗御室派本尊 千手観音創建 弘仁6年(815年)開祖 空海(弘法大師)、円珍(智証大師)所在 香川県坂出市青海町2635番地 本尊真言 ”おん ばさら たらま きりく” 本堂前の五重塔は苔むして歴史を感じさせた。 勅額門。 延宝八年(1680年)建立。重要文化財の勅額は宝物館にあり、門にはレプリカが掛けられている。両脇には、源為義と源為朝の武者像が守護しているが普段は扉が閉められ見えない。なお、この門には新造された像で、元々の像は金刀比羅宮・白峰神社に明治31年移されたと云われている。頓証寺 勅額門 勅額のレプリカ。後小松天皇自筆の「勅額」が残っており、国の重要文化財に指定されていると。 勅額門を振り返る。 崇徳天皇御廟所 頓証寺殿(とんしょうじでん)。崇徳上皇は、平安時代の末、保元の乱(1156年)に敗れ、今の坂出市あたりに流された。伝説によると、都を恋しく思いながらさみしく日々を過ごしていた上皇は、せめて自分の書き写したお経だけでも都の寺に納めたいと願った。しかし、都の貴族たちはこのお経には呪いがこめられていると考え、これを都に持ち込むことを許さず送り返してきた。そこで上皇は、都の貴族たちに深い怨みをいだき「魔王となってこの世を悩まし、乱してやろう」と、自らの指を食いちぎり、流れる血で呪いのことばをお経に書いて海に沈めた。その後、上皇は深い怨みを持ち、悲しみのうちに亡くなったと。哀れな死を遂げた崇徳天皇には、古くから怨霊伝説があると。崇徳天皇の死後すぐに武士である平氏が権力を振るうがその間に太郎焼亡・次郎焼亡の大火事が起こり、末期には叛乱が相次ぎ、更には養和の飢饉が起こる。そして平家の都落ち後の木曾義仲による暴虐と、京には凶事が連続した。やがて源平争乱を経て鎌倉幕府が成立、承久の乱で後鳥羽上皇を流刑に処するに至ると、朝廷ではいよいよ崇徳の祟りが起こったと恐れたと。中央に天皇の尊霊、向かって左は鎮守白峯大権現、向かって右は御念持仏十一面観世音を祀っている。建物は延宝八年(1680年)松平頼重、頼常両公の再建。 相模坊大権現像。相模坊大権現はかつて相模の国(神奈川県)の大山に君臨した修験の大行者でその名を相模坊と称した。後に讃岐の国、白峯山に入山し、当山の修験行者(山伏)集団の統括者<大先達>となり、その神通力、法力により行者集団から大権現として祭祀されたその無限大の法徳により、霊威のある聖地白峯山の守護神(鎮守)として崇め祀られた。また崇徳天皇の守護神(謡曲 松山天狗、雨月物語、等に詳述)としても有名である。当地方の鎮守として衆生の諸々の願い事(海上、交通、家内、商売、健康、等)を叶えてくれる権現様。石像は、ご本尊秘仏の故、前仏として建立された尊像。 頓証寺の左手には白峯御陵遥拝所があり、傍らに西行法師石像が。西行法師廟参の遺跡。西行法師の石像が安置されていた。案内板には次の歌が。『よしや君 昔の玉の床とても かゝらん後は 何にかはせん』【たとえ君よ、あなたが昔、玉座に着いておられたところで、こんなお姿(死者)になられた 以上、それがなんになりましょう。そういう現世の執着を忘れ去って成仏なさいませ】と。この歌は西行が上皇のご霊前に捧げた鎮魂絶唱の歌として今に広く知られる歌であると。頓証寺殿の奥が、白峰御陵(しらみねごりょう)。第75代崇徳天皇は保元の乱(1156)により讃岐に流され、林田の雲井御所で3年間、府中の木の丸殿御所で6年間、合わせて9年間を過ごされ、46才で崩御(1164)された。御遺詔により、白峯で荼毘に付し、そこに御陵を築いたのであった。全国に天皇御陵多しといえども、こんなに遠隔の地にあるのは珍しい。また、これが悲劇を物語っているともいえると。石灯籠。坂出市文化財保護条例に基づく重要美術品。寺伝によれば、文治年間に源頼朝が為義・為朝の菩提のために奉納したものといわれているが鎌倉後期のものであるらしい。頓証寺灯篭という形式をなすものであると。 鐘楼堂。 明治時代の再建。 薬師堂。宝形造りの大師堂は、文化八年高松藩主松平頼儀公により再建された堂で、中央に弘法大師、左に稚児大師、右に庚申の本地仏青面金剛が祀られているとのことであったが扉が閉まっていた。行者堂。安永八年(1779年)再建。中央に役行者、周りに十王、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩を安置。 廻向堂。平成十五年(2003年)建立。中央に阿弥陀如来を安置。脇に永代供養者の霊を祀る。裏に永代供養墓が。阿弥陀堂。 他人とは思えない体つきの布袋様。笑顔が素晴らしい。 瑜祇塔(ゆぎとう)。『瑜祇塔の正式名は、金剛峰楼閣瑜祇塔(こんごうぶろうかくゆぎとう)であり、金剛智三蔵訳の「金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祇経」に基づいて建立されます。瑜祇経は密教の根本である金剛界と胎蔵界の両部は本来同一のものであるという精神を説いたもので、重要な経典の一つであります。古来より日本仏教は、伽藍建築様式を確立し各地に伽藍が建立されました。伽藍境内の最も特徴的な堂宇が多宝塔形式の塔(四角、六角、八角等の多角形の屋根を持つ建物又、三重、五重、七重、等の多層の屋根を持つ建物)であり、その多宝塔形式の原型とされるものが瑜祇塔で、古の形をインドのストゥーパー(塔)に求めることが出来ます。当、瑜祇塔は元三谷寺 法印 圭應僧正、発願により文政12年、巳丑、仲春(1829、陰暦2月)当山 法印 而住僧正代に建立された。山主』と。 大黒様。境内の紅葉も始まっていて美しかった。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.11.11
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク78番札所:郷照寺道隆寺から郷照寺へ向かう途中、左手の車窓にゴールドタワーが姿を現した。ゴールドタワーは、香川県綾歌郡宇多津町にあるガラス張りのタワー。高さ:158m(127m:展望台) 竣工・オープン:1988年3月18日改装・リニューアルオープン:2004年8月1日そして20分ほどで78番札所:郷照寺(ごうしょうじ)に到着。郷照寺 案内板。 地元の人から「厄除うだつ大師」と呼ばれ親しまれる郷照寺。毎年正月には厄除けを祈願して10万人もの参拝客が訪れると言う宇多津町内の高台にあり瀬戸内海の眺めを楽しむことが出来る寺。江戸時代、鐘が割れて鳴らなくなった時、大阪からお遍路に来ていた鋳物師が鏡を入れて造りなおしたところとても良い音色で鳴り、その音色に誘われて龍神が現れたという伝説があると。 郷照寺 境内配置案内図。山門をくぐり、左側の石段を上がると駐車スペースになっていて左側にある鐘楼と手水舎の前の数段の石段を上がると左に納経所、右向こうに本堂がある。本堂左の通路を通り石段を上がると正面に大師堂がある。 正面下に観世音菩薩像そして遠くに瀬戸大橋を望めるはずであったが・・・・。 郷照寺仁王門 鐘楼。 手水舎。 本堂。 寺伝によれば、行基が神亀2年(725年)に一尺八寸(55cmという説も)の阿弥陀如来を本尊として開基、当初は道場寺と呼ばれていた。大同2年(807年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備した。その時に厄除の誓願を修し大師像を納め、それが「厄除うたづ大師」として信仰されていると云われている。仁寿年間(851年から854年)には理源大師が阿弥陀三昧の行を修した。寛和年間(985年から987年)には恵信僧都が釈迦如来の絵図を納め釈迦堂を建立した。正応元年(1288年)には一遍上人が遊行の折に3か月逗留し踊り念仏の道場を開いた。その後も栄えたが天正の兵火(1576年から1585年)で堂宇を焼失するも寛文4年(1664年)高松藩主松平頼重により再興、その時の住持と徳川家の関係により、時宗に属し郷照寺と改称。このため四国八十八箇所では珍しい異なる2つの宗派が共存する寺になっているのだと。仏光山 広徳院 郷照寺(ぶっこうざん こうとくいん ごうしょうじ)宗派 真言宗&時宗本尊 阿弥陀如来創建 神亀2年(725年)開祖 行基所在 香川県綾歌郡宇多津町字山下1435番地本尊真言 ”おん あみりた ていぜい からうん” 庚申堂。庚申信仰を伝える堂で、ご本尊には6本の手をもつ青面金剛と、三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)が祀られているのだと。ポックリさま。本堂の右に。撫で仏。 庚申堂の左横に。本堂の奥から石段を上ると「厄除うたづ大師」で知られるという大師堂。 「厄除大師」と書かれた赤い提灯がいくつも。 大子堂天井。 「厄払祈願殿」と書かれた木札が左に。厄年は体調の変化も起こりやすい時期・・・厄年は災難や不幸に遭遇することが多いとされる年齢のこと。男女で厄年は異なるが、一般的にみて、体調の面でも社会的役割の面でも大きな変化が起こりやすい年齢のため、現在でも厄年を意識する人が多いのだと。【男性】25歳、42歳、61歳男性の42歳は「死に」に通じる大厄とされていると。【女性】19歳、33歳、37歳、61歳女性の33歳は「散々」に通じる大厄とされていると。 古い石仏や新しい石仏がたくさん境内に点在していた。 淡島明神。江戸時代初めの頃、讃岐国では様々な病気が流行し、お産の後に身体をこわす女性がたくさんいた。そこで高野山の以空上人に相談したところ、以空上人が郷照寺を訪れ「このお寺をお参りする女性たちが丈夫に健康で幸せな生活ができますように、良い縁に恵まれ子供が授かり、安産で生まれますように」と誓願なされた。そして淡島からご本尊を勧請して、この淡島明神堂を造られたと。それから淡島大明神は多くの女性の守護神となったのだと。 常盤明神の朱の鳥居の前には多くの種類の仏像が並んでいた。 中央に修行大師像。その右側に浪切不動明王。 花瓶を逆さに持つ仏像は? 赤い手すりの階段を降りると万躰観音洞 これぞ万躰観音。 釈迦如来。 多くの墓石がある境内。 白壁が美しい境内。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 --------------------------------------------------------------------------------------------------79番札所:天皇寺鳥居には「崇徳天皇」と書かれた扁額が掲げられており、ここは保元の乱に敗れ讃岐で崩御された崇徳上皇にゆかりのある場所。赤鳥居の奥にあるのが、崇徳上皇の霊を奉る白峰宮。天皇寺の山門は白峰宮の「三輪鳥居(みわどりい) 」が兼ねていて、鳥居から直進すると白峰宮、参道の左右は天皇寺という珍しい配置になっていた 。「三輪鳥居」は明神鳥居と同じような建て方であるが、明神鳥居の左右に、わき鳥居をつけたもの。4本の柱を並べ、入り口が3ヶ所あり。「天皇寺」と刻まれた大きな石碑。崇徳天皇社が創建されてからはその別当となり、天皇にゆかりの深い寺ということから「天皇寺」と称するようになったと。明治初年の神仏分離令によって摩尼珠院は廃寺となり、崇徳天皇社は白峰宮と改称し初代神官には摩尼珠院主が赴任した。また、明治天皇の宣旨により崇徳院御霊は京都白峯神宮へ戻られた。 その後、明治20年に近く(約2km北の林田町)にあった末寺の高照院が移転して七十九番札所を引き継いだと。「さぬき十五社 第九番 白峯宮」と刻まれた石碑。天皇寺 境内配置案内図。四脚の赤い鳥居をくぐり、正面奥は白峰宮であり、その手前を左に行くと天皇寺の本堂とその左に大師堂がある。右の門を入って行くと本坊がありその右側に納経所がある。白峰宮本殿の向って右を通り境内を通り抜け裏に通ずる車道を500mほと行くと八十蘇場の清水と地蔵堂があると。 境内を進む。正面に白峰宮が。菊の御紋が入った境内の馬の像。 白峰宮の手水舎。 白峰宮。 「白峰宮」と書かれた扁額。白峰宮内部。地蔵堂か? 茶堂? 天皇寺の手水舎。 大子堂。 本堂。2016年2月17日より1年間、本尊と脇仏日光月光菩薩は本坊にて御開帳された。本尊の中には伝弘法大師作の十一面観音が胎内仏として納められていると云われている。金華山 高照院 天皇寺 (きんかざん こうしょういん てんのうじ)宗派 真言宗御室派本尊 十一面観音創建 天平年間開祖 行基所在 香川県坂出市西庄町字八十場1713番地2本尊真言 ”おん まか きゃろにきゃ そわか” 境内から本坊への門。 見事な境内の植栽。 納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 「三輪鳥居」を境内から。 最後に80番札所:國分寺を目指し門前に17時直前に到着。しかし仁王門は17時に閉まってしまうとの事でこの日の遍路は諦め高松市内のビジネスホテルへ。ホテルに着くと、発熱を感じたのでこの夜の外での夕食は諦め、旅友のSさんから解熱剤を頂き、おとなしく早めにベッドに潜り込んだのであった。
2017.11.10
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク76番札所:金倉寺善通寺から76番札所:金倉寺 ( こんぞうじ ) までは25号線に出て瀬戸内海に向かって走り21号線に出ると直ぐ。善通寺から4.5km、約10分で到着。笑顔の七福神が出迎えてくれました。境内の参道を歩いて行くと次々に七福神が迎えてくれたのです。寿老人。 福禄寿。 金倉寺の境内で祀られている神社。名前は?忠魂社? 仁王門。 阿形像。 吽形像。 金倉寺 境内配置案内図。山門から入り、参道を進むと正面に本堂、本堂の右手に納経所、左に進むと大師堂がある。 境内はかなり広い、正面に本堂。 右手に手水舎。 柱の数が多い鐘楼。 智証大師一千年遠忌供養塔と刻まれた石碑(左)。水子地蔵尊(中央)。こちらは智証大師一千百年遠忌供養塔と刻まれた石碑。 本堂。宝起5年(774)弘法大師の甥に あたる智証大師の祖父、和気道善 の開基で、当時は道善寺といった。この方はのち延暦寺5代の座 主となり三井園城寺を賜わったが、この地は智証大師の誕生地でもある。天安2年(858)唐から 帰られた智証大師が、先祖菩提のため堂塔を修理し、延長6年 (928)醍醐天皇の勅願によりこの 地の郷名をとって金倉寺と改めた。その後寺運は大いに栄え広大な 寺領や多くの堂塔を有する大寺になった。南北朝や室町時代の 兵火によって堂塔のほとんどを焼 失したが、寛永19年(1642)藩主松平公によって再建され現在に 至っていると。 本堂には所願成就の巨大な「願供養念珠」があり、大きな数珠を引くと、数珠が回り、上に上がった数珠が落下。その時に下方の数珠に当たって「パチ、パチ」と音がはじけたのであった。 本堂のガラス扉の前、賽銭箱の前に五鈷杵(ごこしょ)が鎮座。杵(きね)の形をした中央の握り両端に鈷の突起をつくりその鋭さによって煩悩を打ち破り,菩提心(仏性)をあらわすための法具である。 七福神の見事な木彫り。 鶏足山 宝鐘院 金倉寺 (けいそくさん ほうしょういん こんぞうじ)宗派 天台寺門宗本尊 薬師如来創建 宝亀5年(774年)開祖 和気道善所在 香川県善通寺市金蔵寺町字本村1160番地本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 本堂内部。本尊薬師如来のほか、不動明王、阿弥陀如来を安置する。天満宮。 山伏姿の入山大師・ 智証大師(円珍)の像。賓頭盧様。 金倉寺の絵馬は、黄金の小判形 。寺名が「金倉寺」であるから?訶梨帝母堂(かりていもどう)。金倉寺は、安産や子育て・女性守護の神・訶梨帝母尊(かりていもそん・鬼子母神)が、日本で初めて現れたという寺。本堂横には訶梨帝母尊を祀る訶梨帝堂があり、子宝を願う女性が多くお参りに訪れていると。太子堂。 智証大師(円珍)像が中央に弘法大師(空海)像が右陣に神変大菩薩(役の行者)が左陣に安置されている。智証大師の両脇仏として伝教大師と天台大師が大きな宮殿に納まっている。四国八十八箇所の寺院で、大師堂に弘法大師以外の「大師」を中央に祀るのはここだけ。大師堂の奥に続く奥殿にもその三尊の仏像が祀られていると。 太子堂内部。 太子堂を横から。 大師堂(祖師堂)の扁額。智証大師像が中央に、弘法大師像が右に、神変大菩薩(役の行者)が左に。四国霊場で大師堂に弘法大師以外の「大師」を中央に祀るのはここだけであると。 境内の神社の祠を横から。 不動明王像。恵比須神も雨に濡れて。 乃木将軍袖章記碑。この寺の境内には乃木将軍の仮住まいがあった事、そして将軍を訪ねてきた女房を会わずに返したと言う逸話が書かれた看板と「乃木将軍、妻返しの松」があるとのことであるがその看板と松には気が付かなかったのであった。 護国院殿像(乃木希典)。毘沙門天様。 ぐち聞きわらべ。「頭をなでて ぐちをささやいて ください」と。ぐちもなかったですが、頭はなでて来ました。 子育地蔵。安産や子育てに御利益があるそうだ。 納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------77番札所:道隆寺金倉寺から25号線、21号線を利用して走ること4km、10分で77番札所:道隆寺(どうりゅうじ)に到着。仁王門。阿形像。 吽形像。 道隆寺 境内配置案内図。仁王門を入ると参道一番奥に本堂があり、その手前の右に大師堂、左に納経所がある。小さいさまざまな祠は本堂を取り巻くように点在する。本坊は、仁王門の門前の右にある遍路用品店と境内の間の道を進み突き当たりを右に行くとある。 境内、正面に本堂。 参道の脇には全国各地の観音霊場の本尊が255体安置されていた。 鐘楼。 粟島堂。 本堂手前まで観音像が。 弘法大師に許しを請う衛門三郎の像が大師堂前に。衛門三郎は、四国お遍路をした最初の一般人で、伝説上の人物。 大子堂。大子像を拝顔できました。寿老人。本堂。 天平の頃この付近は桑園であった。寺伝によれば、和銅5年、当地の領主である和気道隆が桑の大木が夜ごと怪しい光を放ったのでその方向に矢を射ると、矢が乳母に当たり誤って殺してしまった。これを悲しんだ道隆は桑の大木を切り、薬師如来を刻んで堂に安置したのが起源であるという。道隆の子の朝祐は、大同2年(807年)唐から帰朝した空海に頼み、90cmほどの薬師如来を彫像し、その胎内に道隆の像を納め本尊とし、また、空海から受戒を受け第2世住職となって、七堂伽藍を建立し父の名から「道隆寺」と号した。そして、第3世は空海の実弟の真雅僧正(法光大師)が継ぎ23坊を建立、第4世は円珍(智証大師)で五大明王を彫像し護摩堂を建立し、第5世の聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となり大いに栄えた。 しかし、貞元年間(976年から978年)の大地震による被害や、康平3年(1060年)の兵火や、天正の兵火による災難にあって興亡を繰り返したと。本尊の薬師如来を中心に多くの仏像が堂内部に。 桑多山 明王院 道隆寺(そうたざん みょうおういん どうりゅうじ) 宗派 真言宗醍醐派本尊 薬師如来創建 天平勝宝元年(749年)開祖 和気道隆所在 香川県仲多度郡多度津町北鴨一丁目3番30号本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 多宝塔。 賓頭盧さま。 賓頭盧さま 案内板。釈迦の直弟子の一人で十六羅漢の第一であると。観音像の先にぐち聞き地蔵の姿も。 高祖大子千五十回忌之塔。 潜徳院殿堂(せんとくいんでんどう)。 堂内には眼病平癒に霊験あらたかとされる目なおし観音が祀られている。 稚児太子像。灌頂堀。 納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.11.09
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク74番札所:甲山寺出釈迦寺から74番札所:甲山寺(こうやまじ)までは48号線を利用して10分弱。境内には山門が二つ、本堂前に二つ目の山門が。「醫王院」と書かれた扁額。 甲山寺 境内案内図。山門をくぐり右に手水舎を越え、左に曲がり中門をくぐると右手に納経所、わずかな石段を上がると本堂その右の続に護摩堂、左に数段上がると大師堂があり、鐘楼がその先にあり、その向こうに毘沙門窟入口があり、中に毘沙門天の石像が祀られている。 手水舎。 伝説では、壮年期の空海が寺を建立しようと幼きとき遊んだこのあたりを探索していると老翁が現れ、この地にお寺を建立すべしとお告げをした。この地の岩窟に住む毘沙門天の化身と悟った空海はこの岩窟に毘沙門天を祀った。 その後、嵯峨天皇の勅命を受け別当として満濃池の修築を命じられた空海は、この地で薬師如来を刻み修法すると数万の人々が集まり、無事に築造を完成に導いた。弘仁12年(821年)その功績に対して朝廷から二万銭が与えられ、その一部によって堂を建立したのが当寺の始まりであるという。甲山(標高87.2m)には、室町時代に天霧城の出城があったと云われていて、山頂に石舞台跡があり、頂上には神武天皇孝明天皇震儀石がある。また、当寺から山頂に向かう山道には江戸時代末期に開かれたという西国三十三所の石仏が並んでいる。 下の境内から鐘楼を観る。 太師堂。2014年に大師像が開帳された。鐘楼。 毘沙門天尊。 仏の世界の東西南北を守護しているのが、四天王。東は持国天、西は広目天、南は増長天、北は多聞天が護っています。多聞天は、別名「毘沙門天」ともいわれ、74番札所の「毘沙門天」を祀る堂がこれ。親子地蔵尊。 淡島大明神。 本堂。 檜の一木造りで、重厚な姿と力強く引き締まった表情が印象的な「薬師如来像」が祀られていると。医王山 多宝院 甲山寺(いおうざん たほういん こうやまじ)宗派 真言宗善通寺派本尊 薬師如来創建 弘仁12年(821年)開祖 空海(弘法大師)所在 香川県善通寺市弘田町1765番地1本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 修行大師像。 金木犀が満開中。 しかし既に雨に打たれた花が。 正面に本堂、左手に鐘楼。 鐘楼と毘沙門天尊。 納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------75番札所:善通寺甲山寺から1.4km、約5分で「お願い事が善く通る寺」・善通寺(ぜんつうじ)駐車場に到着。しかし寺号の実際は、弘法大師・空海の父の名・佐伯善通 ( さえきのよしみち)に由来すると。善通寺 境内配置案内図。総面積約45,000平方メートルに及ぶ広大な境内は、「誕生院」と称される西院「伽藍」と称される東院、の東西二院に分かれています。金堂、五重塔などが建ち並ぶ「伽藍」は、創建時以来の寺域、御影堂を中心とする西院「誕生院」は、弘法大師が御誕生された佐伯家の邸宅地にあたり、ともに弘法大師御誕生所としての由縁を今に伝えていると。まずは西院「誕生院」を訪ねる。山門をくぐり右に手水舎を越え、左に曲がり中門をくぐると右手に納経所、わずかな石段を上がると本堂その右の続に護摩堂、左に数段上がると大師堂があり、鐘楼がその先にあり、その向こうに毘沙門窟入口があり、中に毘沙門天の石像が祀られている。空海記念碑。中国西安市の青龍寺跡に建てられたものを縮小復元したもの。 交通安全地蔵尊。済世橋(さいせいばし)。 この橋は、弘法大師が中国に御修行の砌(みぎ)り洛陽の洛水に架かる天下の名橋、天津橋を渡られた。その故事により、このところ天津橋を復元し往時を偲ぶもの。下を流れる弘田川。 駐車場から石橋(済世橋)を渡るとそこに唐風の正覚門が。ビルマ戦での戦没者供養塔のパゴダ。1941年の太平洋戦争開戦後間もなく、日本軍は援蒋ルートの遮断などを目的としてビルマへ進攻し、勢いに乗じて全土を制圧。連合国軍は一旦退却したが、1943年末以降、イギリスはアジアにおける植民地の確保を、アメリカと中国は援蒋ルートの回復を主な目的として本格的反攻に転じた。日本軍はインパール作戦を実施してその機先を制しようと試みたが、作戦は惨憺たる失敗に終わった。連合軍は1945年の終戦までにビルマのほぼ全土を奪回。日本人の戦没者は18万名に達したと。パゴダの手前に「遍照」の石碑。弘法大師の精神「仏の光明」で全てに優しく分け隔てなく、遍く照らし世のため人のために尽くすこと。遍照閣への参道の左手に 十二支守り本尊が並んでいた。戦争犠牲者慰霊供養塔。 聖天堂。 歓喜天が祀られ どんな願い事でも叶えてくれ約束を守らない者には容赦なく罰を与える神様。国鉄四国総局殉職者慰霊碑(左)と光明殿(右)。光明殿は納骨永代供養塔とのこと。善通寺では宗旨、宗派を問わず供養してくれるのだと。御影堂と聖霊殿を結ぶ回廊の下を潜る。 戒壇巡りは真っ暗な通路を法号を唱えながら精神修養の道場。途中の祭壇で再現された弘法大師の声を聞くことが出来ると。地蔵堂(国登録有形文化財)。ほやけ地蔵が祀られていると。頬にやけどの痕がある娘が、日参し祈願したところきれいにとれ、地蔵尊の頬に痕が移ったというお地蔵さんをお祀りしていると。やけど、しみのある人に信仰が篤いと。護摩堂。 聖霊殿。1940年建築の仏堂、登録有形文化財。 延命龍観音菩薩像。足元に竜がどぐろを巻いていた。この延命観音菩薩は呪いや毒薬の害を除いて下さる仏と。 金堂から移されたという五百羅漢。 護摩堂から聖霊殿への回廊に祀られていた。不二地蔵菩薩像。手水場。 御影堂(太師堂)。 御影堂の前から稚児大師像の後ろ姿を。幼少時は真魚(まお)と呼ばれ、聡明で信仰心の篤い子供だったと。仁王門。 扁額には「遍照金剛閣」 と。金剛力士像、阿形像。 吽形像。 観智院。大同二年弘法大師が創建。善通寺が最盛期だった弘安年間には、四十九の塔頭が散在していたが、当院はその時、十善坊と称し、寺内塔頭の筆頭として、一山の寺務を掌握していた。中世に入って、現在の院号に改められた。本尊の観音は、子安観音と呼ばれ、高松藩主松平公の側女が尼となって住んでいた庵のご本尊を移したものと言われる。大正二年火災に遭い、十四年に再建されて現在に至っている。修行大師像。毘沙門天 華蔵院。商売繁盛の守り神とされる毘沙門天。中門は改修工事中。境内の西辺中央、釈迦堂の正面に建つ。一間一戸楼門、入母屋造本瓦葺。下層では左右に袴腰状の板壁を設け、虹梁には雲龍や鶴を彫る。上層は桁行三間梁間二間とし、吹き放つ。軒は総反りで垂木を扇に配り、優美な意匠とする。特異な外観をもつ門。中門を潜り、創建地である東院境内へ。善通寺は、弘法大師の父で地元の豪族であった佐伯善通から土地の寄進を受け、大同2年(807年)、佐伯一族の氏寺として、弘法大師(空海)の師であった恵果が住していた長安の青龍寺を模して建立したといわれ、創建当初は、金堂・大塔・講堂など15の堂宇であったと。こちらにも塀沿いに五百羅漢が。佐伯祖廟(さえきそびょう)。『弘法大師は宝亀5年(774)、讃岐国多度郡屏風浦(善通寺)にお生まれになりました。この地方の豪族、佐伯直田公(さえきあたいたきみ)・善通卿と玉寄御前(たまよりごぜん)の三男です。この佐伯祖廟堂には父君善通卿と母君玉寄御前の御尊像を泰安してあり、「佐伯明神」、「玉寄明神」と称しております。なお五色山の頂上には佐伯家代々の霊廟がございます。』と案内板に。直ぐに目に付いたのが、境内に入って直ぐ右側に巨大な天蓋の様な樹冠を持つ「五社明神の大クス」と呼ばれる大楠。三帝御廟。三帝とは、鎌倉後期に讃岐国主になった大覚寺統の後嵯峨上皇、亀山上皇、後宇多上皇の事で、善通寺興隆に大きな援助をされたと。五重塔。1884年再建。高さ43m(礎石上〜相輪頂上)、総欅造、三間五重塔婆、本瓦葺。五重塔は4代目の塔として江戸時代末期の安政年(1854年)に着工し、3代の棟梁が携わって、明治35年(1902年)に竣工した。鐘楼。江戸時代末期再建。桁行三間、梁間二間、入母屋造、本瓦葺、初層袴腰、上層は擬宝珠高欄付縁。子授招福大師像。善通寺 金堂。伽藍は戦国時代に焼失しており、金堂は元禄12年(1699)の再建。伽藍の中央に建つ金堂は、一重、もこし付で、本格的な禅宗様仏殿の形式をもつ。屏風浦五岳山 誕生院 善通寺(びょうぶうらごがくさん たんじょういん ぜんつうじ)宗派 真言宗善通寺派本尊 薬師如来創建 大同2年(807年)開祖 佐伯善通 所在 香川県善通寺市善通寺町三丁目3番1号本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 扁額。金堂前から中門方面。後ろに善通寺の五岳山が見えた。東院仁王門(南大門)を境内から。この先には善通寺市の大通りである中通りになり、以前は商店街に出る赤門と同様に、参拝者の多く出入りする門の一つであったと。南大門前から五重塔を。「五岳山」と書かれた扁額。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.11.08
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク72番札所:曼荼羅寺弥谷寺から72番札所:曼荼羅寺までは約6.5km、15分。駐車場に車を駐めると、目の前には白塀に囲まれた美しい芝生庭園が。山門(仁王門)。 仁王像は金網で保護されていた。 何とか金網の網目にレンズを入れて。曼荼羅寺 境内配置案内図。山門をくぐり進むと本堂、その手前を左に行くと大師堂、右に進むと納経所がある。縁起によると、創建は四国霊場で最も古い推古四年(596)。讃岐の領主・佐伯家の氏寺として創建され、初め「世坂寺(よさかでら)」と称していた。弘法大師がこの寺を訪れたのは唐から帰朝した翌年のこと。亡き母玉依御前の冥福を祈るためだったともいわれている。唐の青龍寺にならって伽藍を三年がかりで建立。本尊に大日如来を祀り、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界の曼荼羅を安置し、寺名を「曼荼羅寺」に改めとた。鎌倉時代には、後堀河天皇から寺領を給わるほど栄えた。 しかし、1560年の兵火で焼亡、さらに、1596年に戦火を受けたが復興していると。 山門を潜り本堂に向かって歩く。 本堂の古い鬼瓦(明治9年)で、境内右手に展示されていた。手水舎。 延命地蔵尊。 修行大師像。 鐘楼。 笠松大師。 笠松大師。笠松と呼ばれていた「不老の松」の幹に刻んだ弘法大師座像。お遍路は笠松大師をさすっては在りし日の姿を偲んで行くと。 平成14年までは立派な「不老の松」があったようです。 樹齢1200年を超す「不老の松」で高さは4m足らずですが直径が17〜18mもあり、菅笠をふたつ伏せたような印象的な姿で県の自然記念物にも指定されていた。しかし、松食い虫に浸食され、平成14年に伐採されてしまったと。大日如来像。福禄寿。観音堂。 昭和9年、昭和59年と50年毎に建立された石塔が2本。太師堂。 太師堂内部。 大師像を拝顔出来ました。 延命地蔵堂。 愛染堂。地蔵堂。 八幡宮。 水子供養地蔵尊。 「実相院殿観月宗真大居士菩提」五輪塔 。護摩堂。 内部。 本堂。 ここは四国内の寺で一番古いとされているとあります。推古天皇の時代からだと。 我拝師山 延命院 曼荼羅寺(がはいじざん えんめいいん まんだらじ) 宗派 真言宗善通寺派本尊 大日如来創建 推古天皇4年(596年)開祖 行基所在 香川県善通寺市吉原町1380番地1本尊真言 ”おん あびらうんけん ばさらだどばん” 堂内の扁額には「大日閣」の文字が。毎年、彼岸の入りの日に、本尊金剛界大日如来が開帳されると。賓頭盧尊者(びんずるさん)。 福禄寿。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------73番札所:出釈迦寺曼荼羅寺から73番札所:出釈迦寺(しゅっしゃかじ)は300mの距離。本堂に向かう参道を上る。 出釈迦寺 境内配置案内図。山門を進み右に折れると左に納経所があり、正面に本堂、その右側が大師堂と並置されている。本堂の左の石段を上がると赤い壁の地蔵堂があり、その先に奥之院遥拝所と大きな石の台座に虚空蔵菩薩石像があり、眼前に奥の院のある我拝師山がそびえる。種田山頭火の「山あれば山を観る」と刻まれた石碑。裏には「雨の日は雨を聴く」と刻まれていたのであろうか?寺伝によれば、空海(弘法大師)が7歳の時に倭斬濃山(わしのやま)(現、我拝師山)に登り、「仏門に入って多く人と衆生を救いたいのです。私の願いが叶うなら釈迦如来様、お姿を現して下さい。もし、願いが叶わないのなら私の命を仏に供養します」と願い、山の断崖から谷へと飛び降りた。すると、落下する空海の前に釈迦如来と天女が現れて抱きとめ、「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就された。感激した空海は、釈迦如来が現われた山を「我拝師山」名づけ、その山に出釈迦寺を建立し、釈迦如来の尊像を刻んで本尊としたと。現在の当寺の奥之院である山上のお寺は、曼陀羅寺の奥之院であったが、1600年代半ばに我拝師山の麓に寺が建立された。山上が札所であるが麓の寺でも納経するようになっていた。しかし、1920年(大正9年)に札所は麓の寺に移されたと。 修行大師像。「四国霊場 第七十三番 我拝師山 出釈迦寺」と刻まれた石柱。「子宝の三鈷の松」。ここにも修行大師像。境内から遠く瀬戸内海が見えた。 参道の右側には「干支別守り本尊」がずらりと。子、牛、寅、卯、・・・とそれぞれの干支によって異なる御本尊の石像が刻まれ、並んでいた。我が寅年は虚空蔵菩薩。山門が現れる。山門は2008年落慶と。「我拝師山」(がはいじさん)と金字で書かれた扁額。恵比寿像。求聞持大師像(ぐもんじたいしぞう)。弘法大師7歳の捨身誓願の霊跡であるとともに、お大師様が四国八十八ヶ所ご開創の砌り、再度当地に巡錫、虚空蔵求聞持の法を修行され、故に当山院号を求聞持院と号します。この求聞持の法とは虚空蔵菩薩のご真言を一百萬遍お唱えする法で、そのご修行のお姿が当山求聞持大師像です。この求聞持の法を修することによって一切の教法の文義悉く暗記する事が出来るといわれています。 太師堂。太師堂内部。 仏足石。 水子地蔵尊。地蔵堂。捨身ヶ嶽遙拝所(しゃしんがたけようはいじょ)。弘法大師が真魚(まお)呼ばれていた7歳の時、我拝師山に登り「将来仏門に入って、仏の教えを広め多くの人々を迷いから救いたい。この願いが叶うかどうか、お釈迦様の証をお示しください。もしもそれが叶わないなら、この身を諸仏に供養としてささげます。」と願い、断崖絶壁から飛び降りた。すると、紫色の雲が湧き、羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめた。天女が真魚を飛び降りた場所に戻すのと同時に紫色の雲が湧き、釈迦如来が現れ「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就された。その後、成人した弘法大師は、お釈迦様のお姿を拝んだお山というところからこの山を「我拝師山(がはいしさん)」と名付け、山頂に釈迦如来像を刻んで安置し、堂宇を建て「出釈迦寺(しゅっしゃかじ)」と名付けた。この場所は「捨身ヶ嶽禅定」といわれ元は札所でしたが、1600年代半ばに我拝師山の麓に寺が建立され、1920年(大正9年)に札所は麓の寺に移されたので、今は奥の院としての役割を果たしている。また出釈迦寺は、大師が虚空蔵菩薩の真言を100万回唱える「虚空蔵求聞持の法」の修行をした地としても知られており、院号の「求聞持院」もここから来ていると。虚空蔵菩薩像。再び修行大師像。新しい鐘楼。鐘も新しそう。今年の5月に落慶法要とのこと。出釈迦寺本堂が左手に。右に太師堂。我拝師山 求聞持院 出釈迦寺(がはいじざん ぐもんじいん しゅっしゃかじ) 宗派 真言宗御室派本尊 釈迦如来創建 奈良時代後期~平安時代初期 開祖 空海(弘法大師)所在 香川県善通寺市吉原町1091番地本尊真言 ”のうまく さんまんだ ぼだなん ばく” 弘法大師作の本尊・釈迦如来はすだれ越しにうっすらと浮かび上がっていた。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.11.07
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク70番札所:本山寺国指定重要文化財「仁王門」。鎌倉時代の建物、正面三間奥行二間の切妻造り、本柱四本の前後に八本の控柱があるので八脚門とも言う。組物・肘木・虹梁・冠木など和様を主体として禅宗様や天竺様式を組み合わせ、新しい様式を見せて美しく、他に類例がない貴重な建物であると。金剛力士像。阿形像。吽形像。 「本山寺五重塔 平成の大修復」と書かれた浄財勧募の看板。四国霊場88ヶ寺のなかで、五重塔が建立されている寺は4ヶ寺で、そのうち香川県内の霊場の3ヶ寺にある。本山寺は香川県の西部に位置し、四国霊場第70番札所であるが、国指定重要文化財は仁王門と本堂が指定されている。 本山寺 境内配置案内図。二王門をくぐると正面奥に本堂があり、その手前右に大師堂がある。納経所は本堂の左側を通過し奥に進み本坊の門をくぐり中に入って左にある。 鐘楼。 拓魂堂。この近辺から満州開拓団に参加して戦争の犠牲になった方々の冥福と永遠の平和を祈願しているものと。香川県指定有形文化財「鎮守堂」。南北朝から室町時代初期の作で善女龍王像が安置されている。雲を呼び雨を降らす力を持つ請雨秘法の霊神と。 正面に本堂が現れた。 右手に大門。 「十王堂」。死後の世界に10人の王がいて生前の罪を裁く、十王は冥界における10人の裁判官で最も権威あるのが閻魔王。 十王堂 内部。手水場。 五重塔は平成の大修復工事中。 五重塔の姿。 五重塔の相輪の実物が展示されていた。太師堂。 太師堂内部。堂内奥の弘法大師像より5色の「結縁綱」が伸びていました。綱に触れることで、大師様と縁を結ぶことができるという「結縁綱」。私もしっかりと握って来ました。 修行大師像を本堂を背景に。 国指定重要文化財・国宝の「本堂」。鎌倉時代の建物で、寄棟造り本瓦葺き、屋根の線がなだらかで美しい、桁裄五間、梁間五間で、堂内は外陣、内陣(広く)後陣(狭く)を自由に納めている点が極めてたくみで、これが平面的特徴である仏壇及び厨子も当初のもので、建築的にもすぐれている。 七宝山 持宝院 本山寺(しっぽうざん じほういん もとやまじ) 宗派 高野山真言宗本尊 馬頭観音創建 大同2年(807年)開祖 空海(弘法大師)所在 香川県三豊市豊中町本山甲1445番地本尊真言 ”おん あみりと どはんば うん はった そわか” 本堂説明板。寺伝によれば、大同2年(807年)、平城天皇の勅願寺として、空海(弘法大師)が自ら刻んだ馬頭観世音菩薩像を本尊、阿弥陀如来と薬師如来を脇侍として開創し長福寺と称したという。この時、本堂はわずか一夜でできたという「一夜建立」の伝説がある。中世には寺領2000石、24坊を持つ大寺となって栄えた。天正年間(1573年 - 1593年)、長宗我部氏の戦により讃岐国の主要寺院の大半は兵火を受けた。当寺も例外ではなく諸堂を焼失したが、境内に攻め入る兵士を斬られながらも止めようとする住職を振りきり攻め入った兵士が、本堂内陣の厨子を開いたところ阿弥陀如来の体から血がしたたり落ちるのを見て驚き、本堂(国宝)と仁王門(重要文化財)は焼かずに撤退したという。その阿弥陀如来は「太刀受けの弥陀」と呼ばれる。 その後、江戸時代には領主の生駒氏と京極氏により再興され、天保年間(1830年から1844年)には本山寺と改称されたと。本堂正面入口部。頑張れカエル!!本尊は四国霊場唯一の馬頭観世音菩薩。境内には馬の像が2頭寄り添っていた。 天保4 (1833) 建設の宝蔵。赤堂(大日堂)。江戸時代中期建設。 本坊。江戸時代末期の嘉永5年(1852年)焼失後の再建。 中門。 宝蔵の横の門。 境内の納骨塔の上にもやや年老いた弘法大師像が。 満州開拓慰霊堂(阿弥陀堂)。 堂内部。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------71番札所:弥谷寺国道11号線(伊予街道)を進み進むと右手前方に、香川県の丸亀市と坂出市の境に位置する山である標高: 422 mの飯野山(いいのやま)が見えた。別名を讃岐富士と呼び、讃岐七富士のひとつに数えられている山。「ふれあいパークみの」の近くを右折し山道を進むと71番札所:弥谷寺(いやだにじ)の駐車場に到着。標高382mの小高い弥谷山、その中腹に貼り付くように弥谷寺はあった。弥谷寺 境内配置案内図。俳句茶屋を越えると山門があり、さらに長い石段の参道を登っていくと大きな金剛拳菩薩が迎えてくれる。その先に赤い手すりの108階段を上り詰めると目の前に大師堂がある。右に進むとすぐ左上に多宝塔があって稲荷社はその脇にある。鐘楼は正面にあり、その前の石段を上って行くと途中の右に観音堂、左に十王堂があり、上り詰めると正面に岩窟の護摩堂がある。その護摩堂の右脇の急斜面に荒れた激急坂歩道の上に権現堂が見える。護摩堂を左に進むと水場があり、石段は二手に分かれ右の方に上がると途中、岩壁に阿弥陀三尊磨崖仏があり、それを過ぎるとやっと本堂がある。納経所は大師堂の中にあり、洞地蔵尊は大師堂中央あたりから斜面外を望めばある。なお、寺を去るとき、決して振り返ってはいけない、それは死者を背負って帰ってしまうからとの云い伝えがあると。雨も強く降っていたので階段を上るのを諦めて往復750円のマイクロバスを利用して太子堂近くの本坊まで。2台あるバスの1台はのナンバーは88-71と88ヶ所巡りの71番札所に拘っているのであった。バスを降りるとそこは本坊。本坊門。太師堂への階段を上る。再び案内図。歩き遍路の「百八階段」を見下ろす。108段という数字は、108の煩悩を落とす、12ヶ月+24節気(春分、冬至などの季節指標)+72候(古代中国の季節方式)で1年を表すそして四苦八苦を落とす(4×9+8×9)という意味があるのです。108回撞かれる除夜の鐘も同じような意味が。 手水場。太師堂手前の大黒天像。太師堂内部。大師が学び、密教修行をしたとされる獅子の岩谷が太子堂内の奥に。「大師堂」内に納経所があり、奥の院「獅子之岩屋」も同じ建物内に。供養堂。 寺伝によれば、聖武天皇の勅願により行基が堂宇を建立し、光明皇后の菩提を弔うため、大方広仏華厳経(伝・光明皇后書写)を祀り、寺院を創建したとされる。当初は中国、四国の八国が眺められたことにちなみ蓮華山八国寺と称したという。また、空海(弘法大師)は7 - 12歳の期間、当寺にある岩窟である獅子之岩屋で学問に励んだという。807年(大同2年)、唐より帰国後の空海は当地を再び訪問し蔵王権現のお告げにより千手観音を安置し、唐から持ち帰った金銅四天王五鈷鈴を納め、伽藍を再興した。また、求聞持法を修していると五本の剣が落ちてきたことから山号を剣五山、谷が多いことから寺名を弥谷寺と改めたという。 多宝塔。 報恩供養塔。 修行大師像。 鐘楼堂。 観音堂。 十王堂の回廊に安置されていた鐘。 鐘楼を見下ろす。 岩窟の護摩堂。 護摩堂内部。 宝篋印塔(ほうきょういんとう)。更に本堂への急な階段を上る。 水場。 死者を供養する弥谷参りでは、死者の霊を水場で降ろす習わしとなっていると。薬師堂。本堂への参道脇には多くの石仏が。 「本堂」への石段の途中には山の岩肌に彫られた「阿弥陀三尊磨崖仏」が 本堂。剣五山 千手院 弥谷寺(けんござん せんじゅいん いやだにじ) 宗派 真言宗善通寺派 本尊 千手観音創建 奈良時代開祖 行基、聖武天皇(勅願)所在 香川県三豊市三野町大見乙70本尊真言 ”おん ばさら たらま きりく” 上って来た階段。 五輪塔再び阿弥陀三尊磨崖仏。 雨霧城主「香川家」代々の墓。天正13年8月、秀吉の四国攻めにより香川氏滅亡して400年詣でる人とてなく、半ば土砂に埋もれ雑草に覆われて密かに眠っていた。場所はこれより上方100m本堂西「西院(さいいん)」の旧跡にあった。昭和59年住職建林良凞が回向のため、現在地に移したものである。権大僧都法合徳實像。残念ながら、バスに乗ってしまったため仁王門、仁王像にはお目にかかれなかった。そして納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。帰路の下りもマイクロバスにて。こちらも71番札所に拘って。
2017.11.06
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク68番札所:神恵院大興寺から68&69番札所の神恵院&観音寺に向かうが、駐車場がなかなか見つからず迷う。何とか裏の駐車場に車を駐め坂道を下るといきなり境内に出る。山門まで戻り遍路開始。山門(仁王門)には68番札所:神恵院と69番札所:観音寺の二寺の文字が。「七宝山 観音寺 神恵院」の文字が。2つの札所が1つの境内にある珍しい霊場。阿形像。吽形像。神恵院 境内配置案内図。仁王門をくぐり参道を進むと石段があり上り切ると右に鐘楼があるが、左に折れまた右を見るとお堂の向こうにコンクリート打ちっぱなしの建造物があり、その中の石段を登ると本堂がある。大師堂は戻って降りた右手にあり、納経所は本堂と反対側の門をくぐり右に進むとある。庭園は観音寺の方であるが、神恵院の本堂に上がった左側から眺めることができる。境内に上がる階段が前方に。鐘楼。近くに寄り鐘楼を見上げる。鐘楼の中に入って見上げれば天井一面に渦巻く見事な雲海模様。四隅に龍を配し、その間を雲海模様が埋め、それぞれの側の中央にはビリケン像のような人形が様々な姿態で屋根を支えていた。神恵院 本堂入口。法相宗の日証が琴弾山で修行をしていたところ、琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。この老人は八幡大明神であることを知った上人は、その琴と舟を祀り琴弾八幡宮と名付けた。行基が養老6年(722年)に訪れた後、大同2年に空海(弘法大師)が阿弥陀如来を描き本尊として安置し、琴弾山神恵院(じんねいん)として第68番札所に定めた。以来明治初期までは神宮寺として琴弾八幡宮が第68番札所であった。しかし明治政府による神仏分離令により琴弾八幡宮は琴弾神社と神恵院とに分離されることになり、神恵院は麓にある観音寺境内に移され、阿弥陀如来図も移転に伴い観音寺境内の西金堂(さいこんどう)に移された。近年、神恵院本堂が鉄筋コンクリートで新築され、その西金堂は薬師堂に戻され、西金堂の横にあった神恵院大師堂は台風で失われたので、十王堂の右半分が大師堂になっている。本堂。琴弾山 神恵院(ことひきさん じんねいん)宗派 真言宗大覚寺派本尊 阿弥陀如来創建 大宝3年(703年)開祖 日証上人所在 香川県観音寺市八幡町一丁目2番7号本尊真言 ”おん あみりた ていぜい からうん” 本堂内部。回遊式日本庭園「巍巍園(ぎぎえん)」第45世太政大僧正道尊の作庭。太師堂。大師像を拝顔できる。向かって右側が大師堂で左側は閻魔堂。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------69番札所:観音寺 観音寺 境内配置案内図。仁王門をくぐり参道を進み石段を上りきると右手に鐘楼、さらに奥に朱塗の本堂がある。大師堂は先ほどの階段を上りきった所に戻り、右手二つ目の堂である。 伝承によれば、大宝年間(701年 - 704年)に、法相宗の日証が琴弾山で修行をしていたところ、琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。この老人が八幡大明神であることを知った上人は、その琴と舟を祀り琴弾八幡宮と名付けた。その神宮寺として建立され神宮寺宝光院と称していた。寺伝によれば、行基が養老6年(722年)に訪れた後、大同2年 (807)空海(弘法大師)が第7世住職として入山し、奈良の興福寺を模して、中金堂に聖観世音菩薩像を刻み本尊とし、西金堂、東金堂など七堂伽藍を整備し、名称も観音寺と改め札所のひとつにしたと。 本堂。 寄棟造、本瓦葺き。室町時代建立の前身堂の部材を用いて延宝5年(1677年)に建立されたもの。国の重要文化財指定名称は「観音寺金堂」であると。 本堂内部。七宝山 観音寺(しちほうざん かんのんじ)宗派 真言宗大覚寺派 本尊 聖観音創建 大宝3年(703年)開祖 日証上人所在 香川県観音寺市八幡町一丁目2番7号本尊真言 ”おん あろりきゃ そわか” 大日如来坐像は当寺の本尊(伝・聖観音)で像高103.0cm、平安時代(11世紀)の作。法界定印に蓮華を持し胎藏大日如来と聖観音が一体となる姿であるという。その左右に安置される薬師如来坐像(向かって左)と釈迦如来坐像はともに像高75.0cm、平安時代(11 - 12世紀)の作。 境内から階段上の薬師堂を見上げる。 五智如来(ごちにょらい)像。五智如来は、五大如来ともいい、密教で5つの知恵(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を5体の如来にあてはめたもの。 金剛界五仏のことであると。 薬師堂への急な階段を上る。 薬師堂。元神恵院本堂で、本来の薬師堂に戻っているのだと。本尊は大きな薬師如来坐像、向かって右脇には胎蔵界大日如来坐像が。 黄金の弘法大師? 心経殿はコンクリート製の多宝塔で、本尊は金剛界大日如来坐像。 愛染堂。修復され2017年5月14日に開眼法要が行われたと。手水場。太師堂。大師像を拝顔できました。 納経所への門。納経所への入口。2寺共通の納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 正面に大きな楠木が。根元が盛り上がっていたが、これは根元の岩盤が固いため下に根を張れなかったので上に盛り上がっているのだろう。 駐車場に戻る途中、境内の隅の山の麓にも小さな大日堂祠が。 ここにも小さな祠が。 歴代の住職の墓か?
2017.11.05
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク65番札所:三角寺この日は四国巡礼3日目の10月16日。6時過ぎにホテルを出て高知自動車道に向かう。川之江JCTから松山自動車道へ。三島川之江ICで下り65番札所:三角寺に向かう。 高知のホテルを出発し、1時間で65番札所:三角寺に到着。73段の石段を上って釣鐘が架かる山門(仁王門)に向かう。山門(仁王門)。鐘楼門。山門には重さが150貫という梵鐘が吊されていた。 「三角寺」と書かれた扁額。 阿形像吽形像。 三角寺 境内配置案内図。73段の石段を上って釣鐘が架かる山門を入り右に納経所があり、参道を左に進むと右手に、弁財天のある三角池、薬師堂、一番奥に本堂がある。大師堂は本堂手前の右の丘に建っている。寺伝によれば天平年間(730年‐749年)に聖武天皇の勒願により行基が開基したとされる。空海(弘法大師)が来訪した際、本尊である十一面観世音と不動明王を刻み、三角形の護摩壇を築き21日間降伏の秘法を施したとされる。三角寺の寺号はこの護摩壇に由来する。境内には三角の池が残り、そのときの名残とされる。嵯峨天皇が本尊を深く信仰し、寺領300町歩を下賜し、堂塔を建造したとされ、往時は12坊を持ち、七堂伽藍を備えていたという。天正9年(1581年)の長宗我部元親軍の兵火で焼失し、現在の建物は嘉永2年(1849年)に再建されたものであると。 客殿 方丈。休憩所。 三角寺という寺名の由来となったのは大師堂の脇にある三角の池(みすみのいけ)。弘法大師が護摩修行をしたとされるが、その修行を行った三角形の護摩壇の跡地がこの池の正体。三角の池の中には、護摩壇の代わりに七福神の女神である弁財天が祀られている小さな堂が建っていた。境内は紅葉が始まっていた。 薬師堂。 疣や魚の目が治るご利益があるといわれる。疣は松かさのようにぽろりと落ち、魚の目には蛸の絵を描いた絵馬を奉納して祈る。蛸の吸盤が魚の目を取るという。太師堂。 大師堂は往時、山を越えた仙龍寺だったが分離したとき弥勒堂を大師堂とし、大師像は向かって右側に鎮座していると。手水場。 小林一茶の歌碑が隣に。寛政7年(1795)に訪れたとき、『これでこそ 登りかひあり 山桜』と詠まれたと。山内は樹齢3、400年の桜が爛漫となる名所であると。本堂。寺伝によれば天平年間(730~749年)に聖武天皇の勒願により行基が開基したと。空海(弘法大師)が来訪した際、本尊である十一面観世音と不動明王を刻み、三角形の護摩壇を築き21日間降伏の秘法を施したと。三角寺の寺号はこの護摩壇に由来。境内には三角の池が残り、そのときの名残と。嵯峨天皇が本尊を深く信仰し、寺領300町歩を下賜し、堂塔を建造したとされ、往時は12坊を持ち、七堂伽藍を備えていたと。天正9年(1581)の長宗我部元親軍の兵火で焼失し、現在の建物は嘉永2年(1849)に再建されたものと。 由霊山 慈尊院 三角寺(ゆれいざん じそんいん さんかくじ)宗派 高野山真言宗本尊 十一面観音創建 天平年間(730年‐749年)開祖 行基 所在 愛媛県四国中央市金田町三角寺75 本尊真言 ”おん まか きゃろにきゃ そわか” 本堂内部。本尊の木造十一面観世音立像は子安観音として厄除観音としても信仰されている。妊婦が寺の庫裡にある杓子をひそかに持出し、出産の際に床下へ置くと安産になるという言い習わしがあり、寺では妊婦が杓子を持ち帰るのを見てみぬふりをし、妊婦は安産の後は新しい杓子を持ってお礼まいりにくる習慣がある。また、子宝に恵まれない女性は裏の入口でしゃもじをもらい、自宅に持ち帰り使用して子授けを祈願する。60年に一度申子の年に開帳される秘仏。延命地蔵菩薩。 ズームにすると顔の表情が変わった様に見えるのであった。こちらも延命地蔵菩薩? 境内の最奥から。 賓頭盧様。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 三角寺を後にすると、山道から川之江の街並み、丸住製紙の煙突が。車窓から川之江城の姿を楽しむ。------------------------------------------------------------------------------------------------67番札所:大興寺 66番札所:雲辺寺はロープウェイで上るとの事で、雨の中では下界の景色も見えないので次回に回す事を決断して67番札所:大興寺を目指す。大興寺前の田園の長閑な風景の中で素朴な地蔵様が迎えてくれた。地蔵さんの下にも、「へんろ道」の表示と手の形の矢印が刻まれていた。小さな橋を渡ると山門(仁王門)が。 仁王門は文保2年(1318年)建立。高さ3.14m、伝・運慶作(実際の作者は不明)、鎌倉時代の作。四国霊場八十八ヶ所の中では最大の仁王像。阿行像。吽行像。 大興寺 境内配置案内図。小さい川をわたり仁王門をくぐると石段があり上り詰めると右に鐘楼左に手水舎、正面に本堂、本堂の左奥に弘法大師堂、右奥に天台大師堂がある。本堂の向って左側が納経所になっている。境内の東側に一段高くなって熊野三所権現をまつる祠があると。修行大師像。 寺伝によれば、天平14年(742年)に東大寺の末寺として建立された。その後、最澄の影響で天台宗となる。火災により焼失していた諸堂を、嵯峨天皇の勅願によって空海(弘法大師)が弘仁13年(822年)に現在地より北西約1kmに熊野三所権現を鎮護する霊場として再興し、また、本尊に薬師如来と脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで堂宇を建立し安置したと。その後も東大寺の末寺として真言宗24坊、天台宗12坊の僧堂が連ね、空海と最澄の教えを修行する道場として栄えた。 しかし、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって本堂以外を焼失。慶長年間(1596年 - 1615年)に再建されたものの再び焼亡、本堂は寛保元年(1741年)に建立された。 また、境内南側の熊野三所権現は明治の神仏分離までは当寺住職が別当を兼ねていた。 昭和の末までは、地元でもっぱら、小松尾寺と呼ばれていたと。 山門を入ってすぐ右にある小松尾寺のカヤ:樹高20m、胸高幹周3.92m、樹齢およそ1200年。香川県指定自然記念物。境内への階段が前方に。 石の五重塔。 境内。 正面に本堂。手水場。 鐘楼。 水子供養地蔵尊。 本堂。寛保元年(1741年)に再建されたもの。61年に一度の本尊開帳が2017年3月26日から5月8日まで行われた。宮殿には本尊および脇仏・不動明王立像と毘沙門天立像が扉は別であるが同じ空間に入れられている。また両脇陣には十二神将が6体ずつに分けられ置かれている。また宮殿背後の左側には閻魔大王とその脇侍がいると。小松尾山 不動光院 大興寺(こまつおざん ふどうこういん だいこうじ)宗派 真言宗善通寺派本尊 薬師如来創建 弘仁13年(822年)開祖 空海(弘法大師) 所在 香川県三豊市山本町辻字小松尾4209番地本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 本堂には多くのロウソクが灯されていた。 赤いローソクは「七日燈明」で有名なのだと。境内の銀杏も黄葉を始めていた。 大興寺の県指定有形文化財。 弘法太師堂。 太師堂内部。 水子供養地蔵尊と鐘楼。 天台太師堂。 境内の池と池に浮かぶ「金仏地蔵」 穏やかな表情の地蔵様。 寺務所入口の黒門。 境内の連絡回廊。 三鈷の松越しの本堂。 三つの葉のある三鈷の松葉を財布に入れておくと、金運がアップするといわれていると。仁王門を境内側から。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 「おへんろさん休憩所」の案内の看板を見かけたが、結局横を通らなかった。
2017.11.04
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク25番札所:津照寺最御崎寺から室戸スカイラインを下っていくと眼下に土佐湾に拡がる室戸漁港、室戸岬町が。再び55号線を高知方面に右折し土佐湾沿いを15分ほど進む。室戸漁業市場の近くに津照寺の仮駐車場があるとのことであったが、駐車場に辿り着くのに苦労。何とか車を駐め遍路開始。第25番札所:津照寺の山門。 柱に屋根がついた簡素な門。津照寺 案内板。ここは高知県、徳島県にはなかったこの様な案内板。津照寺 境内配置案内図。麓の山門を入ると右側に大師堂と納経所が、左側に一木神社がある。正面の石段で山を登っていくと途中に鐘楼門がある。125段を登り詰めると右手に手水鉢があり、コンクリート造りの本堂が建っている。ここからは室津の港や太平洋が一望できる。右側に太師堂。125段の階段を上る。 写経大師尊像。 丸みを帯びた唐風:鐘楼門本堂へ上る125段の石段の途中にあり、上層は鐘楼堂で両側に仁王像を安置した変形の二重門である。 赤の涎掛けを掛けた地蔵が並ぶ。右に曲がった階段を上ると本堂が姿を現した。手水場。 本堂は近代的なコンクリート造り(昭和50年竣工)。室津港を見下ろす小山の上に所在する「津照寺」は、地元では、津寺(つてら)と呼ばれている。大同2年(807)に、この地を巡錫した弘法大師は、海の安全大漁を祈願して開基された。船人、漁師の信仰は厚い。別名「楫(かじ)取り地蔵」とも言われていると。山の形が、地蔵菩薩の持つ宝珠に似ているところから、霊地とし、地蔵菩薩像を刻まれ本尊として、宝珠山真言院津照寺と号された。長宗我部氏の庇護を受けて津寺村と称して七町余り地高を有していた。その後山内氏が入国して、更に、一町五反余りの田畑を寄贈され、寺院の運営も藩営とされ隆盛を極めていた。明治の改革により寺領は、政府に没収され小作農民に払い下げとなり、寺は廃寺とされた。明治16年寺名復興を許され、現在に至っていると。宝珠山 真言院 津照寺(ほうしゅざん しんごんいん しんしょうじ)宗派 真言宗豊山派本尊 延命楫取地蔵菩薩創建 大同2年(807年)開祖 空海(弘法大師)所在 高知県室戸市室津2652本尊真言 ”おん かかかびさんまえい そわか” 本堂内部。 本堂の屋根の「宝珠」と「水煙」。境内から太平洋そして室津港を望む。 本堂建立記念碑。 本堂から階段を下りる。素朴な地蔵尊。 漁業殉職者霊塔。毎年、5月中旬には漁業殉職者慰霊祭と共に盛大な大祭が催されている、主催者である室戸漁業協同組合が時代の流れと共に高知県漁業協同組合に統合され室戸支所になっても祭りは変わらず連綿として受け継がれていると。一木神社。普請奉行として室津港改修工事を担当した一木政利(一木権兵衛政利)は、工事が難行したために、一身を海神にささげることを約して竣工を祈願し、改修が終わると約を違えず人柱となったといい、地元町民がその死を悼んで、延宝7年(1679年)に港を見下ろす山の中腹に神として祀るようになったと。稲荷大明神。 太師堂。 太師堂入口横にはこの寺を描いたこの地域の子供の絵画が展示されていた。 六地蔵。 納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 三地蔵菩薩。 室津港工事のお邪魔石。この大石は室津港の工事中、邪魔になり、工事は難航したと。これを助けたのがご本尊。お陰で室津港は竣工する。住民は感謝して境内に安置したと。 ------------------------------------------------------------------------------------------------26番札所:金剛頂寺 室戸岬の北西、土佐湾に小さく突き出た行当岬(ぎょうどうみさき)。その頂きに緑に囲まれた26番札所:金剛頂寺(こんごうちょうじ)があった。仁王門に向かって61段の厄坂を上る。数え年で61歳は男女の本厄の歳。厄坂ということで、蓮の花の形が埋め込まれた石段にお賽銭の1円玉数え切れないほど置かれていた。 仁王門には3mほどもあろう巨大な草履が。阿形像。プラスチック製?の如き表面。吽形像。 金剛頂寺 境内配置案内図。駐車場から厄坂の石段を上って途中に山門があり、さらに上り詰めると広い境内に入る。すぐ左側に手水場が、左に回り込むと大師堂がある。正面奥に間口の広い鉄筋コンクリートの本堂が建っている。本堂手前に鐘楼、数々の重文が収蔵されている霊宝殿は本堂の左にあり地下でつながっている。境内伽藍エリアから左方向に数段下りると小さな池があり中に弁財天の祠がある。その先に行くと宿坊があり、さらに奥の本坊と通路でつながっていて、通路の本坊側に護摩堂がある。本坊の下段に魚籃観音石像がある。大師堂に向って右前に一粒万倍の釜がある。納経所は本堂の手前左にある。智光上人廟は鐘楼と本堂の間から山林の中に入った奥にあり、その途中にヤッコソウの自生地がある。 階段の上に本堂が見えて来た。 境内。階段上の参道中央に石灯籠そしてその先に大きな屋根を持つ本堂。 手水場。太師堂。左手にかって、「大師と天狗が問答をした」とのレリーフそして空海の歌碑が。 空海の歌碑。『法性の 室戸といえど 我が住めば 有為の浪風 よせぬ日ぞなき』香炉堂と大香炉そして奥に本堂。 本堂。 寺伝によれば、平城天皇の勅願により大同2年(807年)に空海(弘法大師)が薬師如来を刻んで創建し「金剛定寺」と号し女人禁制であったという。次の嵯峨天皇が「金剛頂寺」の勅額を下賜し、その寺名に改められた。『南路志』(江戸時代の土佐の地誌)所収の寺記によれば、大同元年、唐から帰国途次の空海が当地に立ち寄り創建したとされる。同寺記によれば、さらに次の淳和天皇も勅願所とし、住職も十代まで勅命によって選定されたという。延久2年(1070年)の「金剛頂寺解案」(こんごうちょうじげあん、東寺百合文書のうち)によれば、当時の寺領は現・室戸市のほぼ全域にわたっていた。室町時代には堂宇を罹災したが、長宗我部元親が寺領を寄進しているほか、土佐藩主山内家の祈願所とされ、復興は早く整備された。その後、明治32年(1899年)の火災で伽藍を焼失し、本堂ほか現存する堂宇は再建であると。 「瑠璃光殿」と書かれた扁額。薬師如来が祀られた本堂は「瑠璃光(如来)殿」とも呼ばれる。幸い開帳されていたので、本尊と脇仏、十二神将像などを拝観できた。龍頭山 光明院 金剛頂寺(りゅうずざん こうみょういん こんごうちょうじ)宗派 真言宗豊山派本尊 薬師如来創建 大同2年(807年)開祖 嵯峨天皇(勅願)、空海(弘法大師)所在 高知県室戸市元乙523本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 捕鯨八千頭精霊供養塔。さすが高知県。鐘楼。 霊寳殿。正倉院を思わせる形状を持った霊寳殿には、国指定重要文化財7点をはじめとした、平安朝古器、仏具、仏画、古文書など50点あまりの寺宝を後世に伝えるため、厳重に保管されていると。 一粒万倍の釜。大師が粥を炊くと一粒が万倍になったと伝えられる釜。稚児大師尊像。左に「がん封じ乃椿御霊木」。その名の通り、撫でると癌封じなるといわれる霊木。「がん封じ乃椿」金剛頂寺の御詠歌が刻まれていた。 『往生に 望みをかける 極楽は 月の傾く 西寺のそら』大師立像。大師様がこの場所で天狗と問答して、天狗を足摺岬に封印したそうで、足摺岬方向に睨みをきかせる方向に建てられているのだと。接待所。檀家の方達が当番制で美味しいふかし芋とお茶がお接待されると。しかしこの日は雨のためか、それとも時間が遅かったのか既に閉店。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 時間的にこの日の遍路はこの寺で終了とし、今宵の宿の高知駅近くのビジネスホテルに向かう。55号線で奈半利を通過中に、大きな看板に目がとまりました。 『なはり 素通り禁止八策』と。遍路道中に学んだ土佐弁講座。「いお」は魚?道路沿いの何カ所かに津波避難センターが。 無事、高知駅近くのビジネスホテルにチェックイン。近くの鮮魚店に入りこの日の反省会。ビール片手に名物「かつおの藁焼き」や高知名物を注文。 締めは徳島ラーメン。ニンニクたっぷりの味噌味ラーメンを完食したのであった。
2017.11.03
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク23番札所:薬王寺平等寺から再び55号線を利用して、海岸線の日和佐道路を30分程走ると阿波徳島「発心の道場」の最後を飾る23番札所:薬王寺に到着。仁王門。 阿形像。 吽形像。 薬王寺 境内配置案内図。国道に面して立つ単層の仁王門を入ると左手から石段が始まる。33段の女厄坂の途中右手に鐘楼があり、石段が終わる絵馬堂を通って42段の男厄坂につながる。上りきったところに本堂が建つ。本堂から左に進むと大師堂があって、その向かいに十王堂と地蔵堂がある。本堂の裏には肺大師があり、右手の還暦厄坂を上ると本寺の象徴と言ってもよい瑜祇塔が特異な姿を見せている。瑜祇塔の階下は戒壇めぐりで薬師三尊が祀られ、1階は五智如来を祀っていて展示室にもなっており、2階は展望台で、見学は有料である。なお、納経所は石段を下りて、仁王門に向かって右手および、鐘楼の段にある本坊入口近くの2か所あると。本堂に向かう参道には石灯籠が並んでいた。 女厄坂の途中右手に鐘楼。厄除けの鐘であり厄年の数だけ打つと 厄が鳴り落ちるといわれていますが・・・・。33段の女厄坂を上ると絵馬堂。絵馬堂にある大香炉は、昭和34年のもの。前方に42段の男厄坂。手水場。魚籃観音。中国、唐の時代、仏が美しい乙女の姿で現れ、竹籠に入れた魚を売りながら仏法を広めたという故事に基づいて造形されたもの。本堂。ご本尊は前向きと後ろ向きの二体の薬師如来像が祀られていると。 1188年の火災の時、ご本尊薬師如来は光を放ち 自ら王厨子山に避難しその後本堂が再建され新しい本尊を安置すると王厨子山に避難していたご本尊薬師如来が再び 光を放って戻り、後ろ向きに本堂に入ったといわれ「後ろ向き薬師」として伝えられていると。 医王山 無量寿院 薬王寺(いおうざん むりょうじゅいん やくおうじ)宗派 高野山真言宗本尊 薬師如来創建 神亀3年(726年)開祖 行基 所在 徳島県海部郡美波町奥河内寺前285番地1 本尊真言 ”おん ころころ せんだり まとうぎ そわか” 鎮守堂。肺大師。本堂裏手にあり、ラジウムを含んだ霊水で肺病などに効能があるという。秋篠宮悠仁親王さま御誕生 慶祝 お印「高野槇」。太師堂。宝形造り本瓦葺、4間半四方 文政3年(1820年)の建立。堂内部。弘法大師坐像〔天文19年(1550年)造〕を中心に龍猛・龍智・金剛智・不空・善無畏・一行・恵果(各二尺)の真言宗八祖坐像をお祀りすると。大師堂から左に進むと地蔵堂。入母屋造り 本瓦葺、正面2間・奥行き3間。地蔵堂内部。地蔵菩薩半迦座像3尺5寸、聖観音立像2尺、弥勒菩薩、不動明王立像2尺をお祀りすると。十王道堂前の灯籠群。生前の罪を閻魔大王中心に十人の王で裁く、冥界の裁判官が祀られているのだと。薬王寺の象徴と言ってもよい朱色と白の鮮やかな美しい宝塔・瑜祇塔(ゆぎとう)が特異な姿を見せてくれた 昭和38年(1963年)の建立。宝形屋根をもつ宝塔形の塔。銅板葺・高さ35m。還暦厄坂。鎮守堂。左:賓頭盧尊者 右:寿老人。賓頭盧尊者は十六羅漢の第一尊者。衰老の僧形として安置されるが、文殊菩薩ともいう 。除病の撫仏(なでぼとけ)として、広く寺院の外縁に安置されている。寿老人は阿波七福神霊場の一つ・『富貴長寿の神様』無病息災・厄除・長寿を授けて下さる神様で、財宝に恵まれ地位名誉を得て、健康で長生きさせて下さる。霊牌堂。大楠は美波町指定天然記念物。 境内から「日和佐湾」、「日和佐城」とを眺める景色もなかなかの見もの。「日和佐城」は一昨年秋に日本百名城スタンプラリーで立ち寄った城。本坊。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------24番札所:最御崎寺23番札所:薬王寺をあとにし、55号線・土佐東街道を、太平洋を左手に見ながら室戸岬を目指してひたすら進む。途中、右手にちょっと変ったモスクの様な建物海陽町観光協会の建物が。 広場の片隅に「すこやかに さわやかに おおらかに 平成九年 尾崎将司」と白く彫られた石碑が。尾崎将司は1947年 尾崎家の長男としてこの近くの徳島県海部郡宍喰町に生まれます。1964年 地元の徳島海南高校のエース打者として春の選抜高校野球にて全国制覇し、翌年に西鉄ライオンズに入団。わずか4年で退団してプロゴルファーに転身。1971年 プロデビュー2年目の9月には「日本プロ」で初優勝を飾ります。1973年 年間5勝を挙げて初めて賞金王となり、ジャンボ全盛期時代に突入。1996年 11月17日、ダンロップ・フェニックス3連覇でプロ通算「100勝」を達成。これを記念して建てられた石碑とのこと。更に太平洋と海岸の景色を楽しみながら室戸岬へ。前方に「夫婦岩」が。室戸岬町と佐喜浜町の境にある鹿岡鼻にあり、海中からまっすぐに立つ二つの岩柱。夫婦岩は全国各地にあるが規模が大きい部類に入るのだと。そして室戸岬に近づくと、右手前方に白き青年大師像(明星来影寺)が。この像は昭和59年11月、大師の徳を慕う信者や一般の方々の寄進によって建立されたもので、青年空海の力強い生き方がしっかりときざみ込まれていると。台座の5mを含んだ像全体の高さは21m。前回訪ねたので今回はパス。そして室戸岬を通過し、室戸スカイライン方面へ右折。急勾配を上りきった先、左カーブを曲がった先が駐車場。高知県の遍路の最初の寺:薬王寺からここまで約80km、90分のドライブ。駐車場から山門までは比較的緩やかな上り坂。山門まで徒歩約3分で左手に山門が見えて来た。いよいよ今回のお遍路の高知県の最初の寺・24番札所:最御崎寺へ。 お迎え大師像。仁王門前にも修行大師像が。楼門式仁王門。表と裏に、仁王像が2対立つ。表の阿形像。表の吽形像。最御崎寺 境内配置案内図。門を入ると右に袴腰造の鐘楼堂、虚空蔵菩薩石像、多宝塔などがあり、左に土俵、大師堂がある。この先左手に手水場、納経所があり正面に本堂が建っている。本堂裏には霊宝殿、聖天堂、護摩堂などが並び、最奥の宿坊である遍路センターの建物内には遍路休憩所がある。岩見重太郎・薄田隼人塚。 豊臣秀吉に馬廻衆として仕えたと伝わる。秀頼には三千石で仕えていた。剣の道を極めるため、諸国を武者修行の旅に出たが、天橋立での仇討の助っ人をした話や信州松本の吉田村で狒々退治をした話など著名。大阪冬の陣と言われる慶長19年11月には大いに戦って有名をとどろかし、さらに翌元和元年五月の夏の陣では、ついに惜しくも戦死したと。無縁仏塚か?境内。正面に本堂。島田信保大僧正像。大正13年大学を卒業し、東京・無量寺で修行した後、四国霊場第二十四番札所最御崎寺の住職を拝命。昭和58年真言宗豊山派大僧正。平成元(1989)年2月最御崎寺名誉住職。住職在任中、寺院の整備に尽力する一方、幅広い分野で地元室戸市の文化、社会福祉の向上に貢献したと。相撲練習場。現在でも使われているのであろうか?十一面観音像。 更に境内を本堂に向かって進む。右に鐘楼堂。 鐘楼堂正面。袴腰造、慶安元年(1648年)、土佐藩2代目藩主・山内忠義によって寄進された。昭和59年に新しい鐘楼堂が建立された為、現在は使われていない模様。鐘石。くぼみに石が置いてあり、この石で大きな石を叩くと、澄んだ音色がするのです。するとこの音が冥土まで届くのだと。一種の冥土への通信装置なのだと。 香炉堂と大香炉。弘法大師像。虚空蔵菩薩。子育地蔵尊。 手水場。多宝塔とその前に十三重塔。昭和55年建立。RC造。但し外装である扉、連子窓、組物、彫刻、軒下一式などは木材で造作。内装も四天柱・側柱を除き木造であろう。一辺5.5m、高さ約20m。 本堂。空海は都での学問に飽き足りず、19歳の延暦11年(792年)頃からの約5年間、山林修行を続けた。空海の『三教指帰』には「土州室戸崎に勤念す」(原文は漢文)とあり、室戸岬にほど近い洞窟(御厨人窟)で虚空蔵求聞持法に励んだとされる。寺伝によれば空海は大同2年(807年)に、嵯峨天皇の勅願を受けて本尊の虚空蔵菩薩を刻み、本寺を開創したとされる。当初は奥の院四十寺のある四十寺山頂にあり、現在地に移ったのは寛徳年間(1044年 - 1055年)頃といわれていると。室戸山 明星院 最御崎寺(むろとざん みょうじょういん ほつみさきじ)宗派 真言宗豊山派本尊 虚空蔵菩薩(秘仏)創建 大同2年(807年)開祖 嵯峨天皇(勅願)、空海(弘法大師)所在 高知県室戸市室戸岬町4058-1 本尊真言 ”のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おんあり きゃまり ぼり そわか” 本堂内部。 本堂前からの境内。本堂裏の鐘楼。鐘を突くお遍路御夫妻の姿が。霊宝殿。毎年11月の第1日曜日に公開され、重要文化財の宝物が拝観できると。合わせて、室戸岬灯台と室戸岬特別地域気象観測所(旧室戸岬測候所)の公開があるのだと。六地蔵。仁王門を境内から。大師堂。大師像を拝顔できました。 大師堂の脇に眼病平癒の「一畑薬師」が勧請されていた。 納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 仁王門を出て最御崎寺をあとにし、徒歩にて2分程の室戸岬灯台を訪ねた。 周辺は、室戸阿南海岸国定公園に指定され、太平洋を望む風光明媚の地。光達距離26.5海里(約49km)は日本一。また、日本に5箇所しかない直径2.6メートルの第一等フレネル式レンズを備えた第1等灯台でもあると。 最御崎寺の山門から駐車場に向かう帰路の参道の、山門の先の右側の低い塀に沿って、吉井勇の歌碑が建っていた。 『空海を たのみまいらす 心もて はるばる 土佐の国へ 来にけり』
2017.11.02
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク21番札所:太龍寺「西の高野」と言われる、四国霊場の中でも群を抜く、壮大なスケールを誇る「第21番札所 太龍寺」のロープウェイ駐車場に到着。ロープウェイが開通したのは、平成4年7月の事と。ロープウェイの駅の駐車場と入口の間に架かっている朱の「開運橋(かいうんばし)」と鷲の里駅(道の駅鷲の里・観光物産センターに併設)。 太龍寺ロープウェイ。 徳島県那賀郡那賀町の鷲の里駅(道の駅鷲の里に併設)から阿南市の太龍寺駅を結ぶ四国ケーブル(株)のロープウェイ路線。太竜寺山の山頂に所在する四国八十八箇所第21番札所の舎心山太龍寺への直通路であり、多くの参詣者で賑わう。従来同寺は徒歩でしか登れないうえ、遍路ころがしの一つと呼ばれる難所であったが、このロープウェイ路線の開通で多くの参拝者が容易に登れるようになったと。太龍寺の本堂が描かれた遍路ポスター。世界遺産への登録を目指していると。 太龍寺ロープウェイは全長2,775mで西日本最長。101人乗り、所要時間約10分。切符は往復2470円。 この日の往路は、我々2人と中年御夫婦の4名のみ。2つの山と1級河川・那珂川越えを行う珍しいロープウェイ 。支柱の数:2基 支柱の高さ:1号支柱42m 、2号支柱24m。ケーブルの直径:60mm。ゴンドラの床にグレーチングの設置された孔が。下方に那賀川(なかがわ)という川が綺麗に見えた。徳島県を流れる那賀川水系の本流で、一級河川。「山犬ヶ嶽の尾根に5匹の狼がおります。」とガイドから。石像だがここから何とか小さく見えたがかなりの大きさであると。いったいどうやって運んだのか。ガイドによるとこのロープウエイを使っての作業と。歩き遍路にはここは阿波の三難所と言われているところ。「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と。山犬ヶ嶽には、今から千二百年ほど前の平安時代に、 たくさんの日本オオカミ(山犬)の群れが暮らしていたそうで、 弘法大師 空海は、舎心ヶ嶽 岩上で百日間の修行中、 山々に響くオオカミの遠吠えを聞いたのだと。天気が良ければこの様にズームで。 【http://newsnaka.blog6.fc2.com/blog-entry-109.html】より転載ロープウェイ山頂駅の太龍寺駅に到着。太龍寺 境内配置案内図。山門から長い参道を進むと右側に六角経蔵、護摩堂、持仏堂(本坊)、納経所があり、この先の石段を上って行く。石段の途中に鐘楼門が設けられている。上り詰めて左に進むと奥に本堂が建ち、その左後ろに求聞持堂がある。本堂とは逆の右に進むと橋を渡った先に大師堂拝殿がある。履物を脱いで拝殿回廊を回り込んで拝殿裏に行くと大師堂奥殿がある。多宝塔は本堂と大師堂の間の丘の上に立つ。なお、ロープウェイ利用の場合は、山頂駅舎出口の前の石段を上り詰めると本堂の正面にでる。山頂駅舎出口の前の石段を上る。 ロープウェイ利用者用の手水場。更に階段は続く。 旅友のSさんはご自分の年齢の「70歳・息災延命」の場所で記念写真を。しかし写真を見ると密かに1歳サバを読んでいた、いや逆サバ行為。人は誰でも年齢より若くありたいと願うもの。 そして本堂へ。空海(弘法大師)の24歳での著作である三教指帰(さんごうしいき)の序文に「阿國大瀧嶽に…勤念す」と記されており、大瀧嶽は現在の大竜寺山であると考えられている。19歳で都の大学での学問に見切りをつけて修行に入った空海が、現在の境内の600m ほど西にある舎心嶽の岩上で百日間の虚空蔵求聞持法を修したとされる。山号はその舎心嶽から、寺名は修行中の空海を守護した大龍(龍神)にちなんでいると。 延暦12年(793年)に桓武天皇の勅願によって堂塔が建立され、空海が虚空蔵菩薩像などを刻み安置したと伝えられている。皇室や武家からの信仰が篤く寺勢は栄えたが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失し衰退、その後も復興と荒廃を繰り返すが徳島藩主蜂須賀家の保護によって再建されたと。 舎心山 常住院 太龍寺(しゃしんざん じょうじゅういん たいりゅうじ)宗派 高野山真言宗本尊 虚空蔵菩薩 創建 延暦12年(793年)開祖 桓武天皇(勅願) 空海(弘法大師) 所在 徳島県阿南市加茂町龍山2本尊真言 ”のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん あり きゃまり ぼり そわか” ご本尊の「虚空蔵菩薩」 と書かれた扁額。境内の多宝塔、観音堂へ向かう道。 弁財天堂。 多宝塔への階段を上る。 多宝塔。法界虚空蔵、金剛虚空蔵 宝光虚空蔵、蓮華虚空蔵、業用虚空蔵と五尊で一組の五大虚空蔵が奉安されていると。功徳は息災増益すなわち災を除き寿福を授ける尊像。特に天変地異の安穏を折り、60年に1度巡る辛酉歳の除災に祈願された。この多宝塔は江戸時代・文久元年(1861)辛酉歳に建立、銅瓦葺、高さ 約18m、一辺6.38m。天気が良ければ大鳴門橋が見えるのであったが、一面白の世界。 太師堂。 高野山奥の院を模倣し、拝殿の彫刻は四国八十八カ所中最も繊細な描写で中国の神話、民話が刻まれていると。太師堂内部。宗祖弘法大師傾が安置され、大師の十弟子が璧に描かれていた。奥殿 御影堂(みえいどう)御影堂内部。 中興堂。 長範僧正(第4世・平安後期)と亮山僧正(第22世・江戸前期)を祀っている。長年の歳月を経て、隣どうしに生えている杉と桧の根が共存した『異株同根』と呼ばれる樹。 岩肌に這う根の廻りにも小さな数々の仏像が。 龍美聖観音。 修行大師像。 相輪橖(そうりんとう)(江戸時代 文化13年 1816年)。相輪橖の建っている場所には興願寺に譲った三重塔が建っていたと。鐘楼門。鐘楼門内部には、綱がぶら下がっており、天井に掛かる鐘を鳴らすことが出来た。こちらが歩き遍路の境内への道。 この下に仁王門があったが様だが・・・・・。本坊、持仏堂と続く境内。 本坊は明治27年(1894)の火災により焼失し、再建されて現在に。寺務をかね寺の職員が生活する場所。持仏堂内部。龍天井。竹村松嶺による龍の絵が大廊下の天井に描かれていた。 護摩堂。 明治27年(1894)の大火災により焼失し、再建され現在に。護摩堂には「大龍嶽」と書かれた扁額が。護摩堂内部。本尊は興教大師作とつたわる不動明王。 六角経蔵。 仏教のすへての経典すなわち一切経を収蔵する施設のことでこの経蔵には版木印刷の一切潅が収められていると。以前の一切経は三代将軍徳川家光公の寄進による物であったが焼失し、現在の一切経及び経蔵は安政3年(1856)に収蔵されたものと。納経所前のハイビスカスも雨に濡れていた。 桔梗の花も。 納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ロープウェイ山頂駅に向かって下る。山城の如き城壁。 ロープウェイ山頂駅。 太龍寺から700m程登った山頂に祀られた修行大師像の写真が待合室に。あと1ヶ月もすればこの写真の如くの紅葉の世界が。帰りのロープウェイは我々二人占め。 蛇行する川を越えて大龍寺から下るロープウェイ 。道の駅出口に「コイの袋入れ 鯉の袋は再利用します」と。朱の開運橋の下の池には大きな鯉が泳いでいたので、この鯉を掴み取りして入れる袋?おそらく鯉の『餌』の袋入れであり『餌』の字が抜けている事間違いなし。------------------------------------------------------------------------------------------------22番札所:平等寺 195号線に戻り阿南市に向けて走り、途中右折し284号線に入り、木材置き場のあるT字路を右折し 住宅街を走ると左手に22番札所:平等寺の駐車場があった。ここまで14km弱、25分の行程。小雨の降り続く中遍路開始。階段の上の山門(仁王門)が迎えてくれた。入母屋造楼門、金剛力士(仁王)像を安置。 阿形像。 吽形像。平等寺 境内配置案内図。道路に面した13段の石段を上がって山門をくぐる。左に鐘楼があり、その先に大師堂、その横に小さな観音堂がある。右には納経所があり、その先に手水場が、左に鏡の井戸と地蔵石像の祠がある、正面に42段の男厄坂が左には緩やかな33段の女厄坂があり上り詰めると本堂が建つ。本堂左のほうに護摩堂がある。 仁王門を潜り境内を見る。 寺伝によれば、空海がこの地で厄除け祈願をすると五色の雲がわき金剛界大日如来の梵字が金色に現れた。さらに、その端相に加持すると薬師如来像が浮かび上がったので、錫杖でその場に井戸を掘ると乳白色の水が湧いた。その水で身を清め百日間の修行をした後薬師如来を刻み、堂を建てて本尊として安置したのに始まるという。寺名は、この霊水により、人々の平等な幸せを願い、また、一切の衆生を平等に救済する祈りを込めて「平等寺」と称されたという。七堂伽藍や12の末寺を持つまでに栄えたが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火で焼失した。享保年間(1716年 - 1736年)になって照俊阿闍梨によって再興されたと。修行大師像。 水子地蔵尊。 鐘楼。 本堂から仁王門へ数本の綱が渡されていた。「縁の綱」、「善の綱」と呼ばれこれに手を触れれば、本尊に触れたと同じ功徳(くどく)があるという。手水場。 緑の紅葉と洋蘭ががあしらわれていた。地蔵菩薩。 六地蔵。 その脇にも様々なお姿の石仏が。 白水の井戸。この水は万病に効くとの言い伝えがあると。 本堂への階段には1段1段に1円玉が奉納されていた。 これは厄年の人が、年齢の数だけ1円玉を置くことで、厄が落ちると言われているのだと。階段を上がり本堂に到着。 本堂を斜めから。 本堂前の花堂には多くの生花が奉納されていた。 本堂内部。 ご本尊の薬師如来像。 脇陣の不動明王坐像 。内陣の天井絵は四国八十八箇所の本尊を外陣の天井絵は多くの草花が描かれていた。 ご本尊「薬師如来」 と書かれた扁額。仁王門まで繋がれた綱。 本堂から眺める仁王門の背景の山が弘法大師が寝ているように見えるのだと。なるほど。米国の人類学者フレデリック・スタール( (Frederick Starr)博士(1858~1933年)が四国遍路でこの寺を訪れた際に残した資料が本堂に展示されていた。博士は文献に記録が残っている中で最も古い外国人遍路とされるのだと。大正6年&10年に歩き遍路を二度、大正10年の歩き遍路は35日で結願していると書かれていた。 英語で「南無大師遍照金剛」を意味する「To the Honor of Kobo Daishi」 とサイン入りで書かれていた。仁王門下に寺を後にする和服の女性群の姿が。午前中は、この方々が太子堂前の黄色のテントにて、お接待をしてくれていたのだと納経所の女性から。時間は既に12時過ぎ。もう少し早く辿り着けば良かったのだが・・・・。白水山・ミニ八十八ヶ所巡礼道。 護摩堂。 不動明王坐像、脇仏:聖徳太子・毘沙門天が鎮座。太師堂。 大師像を拝顔できた。 納経所前から太師堂、護摩堂を見る。 黄色のテントには人の姿はなし。御納経を頂く旅友Sさん。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.11.01
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク19番札所:立江寺この日(10月15日)は12番札所:焼山寺の宿坊で5:30に起床。朝風呂をTRYしたが、残念ながら風呂にはお湯なし。6:30に朝食が部屋に届けられた。そして7:00過ぎに焼山寺宿坊を出発して19番札所:立江寺に向かう。昨日利用した狭い坂道を下ると、左手にある四国遍路の元祖といわれている「衛門三郎」ゆかりの「杖杉庵(じょうしんあん)」に到着。弘法大師伝説の残る四国八十八箇所霊場番外札所。本尊は地蔵菩薩。 最初に四国八十八箇所を巡った伝説の人物とされる衛門三郎の終焉の地伝説が残る場所に建つ寺院伝説によれば、平安時代前期の天長年間(824年 - 833年)に、伊予国の人であった衛門三郎は四国巡錫中の弘法大師に行った無礼な行いを詫びるため弘法大師を追って旅に出たという。21回目に逆回りを行っている途中、四国八十八箇所12番札所焼山寺近くのこの地で力尽き病に倒れた。そこに弘法大師が現れ、衛門三郎は非礼を詫びた。大師が衛門三郎に来世の望みを訊くと、生まれ変われるなら河野家に生まれたいと望んで息を引き取った。そこで大師は「衛門三郎再来」と書いて左の手に握らせた。天長8年(831年)10月20日のこととされると。大師は衛門三郎をこの地に葬り、墓標として衛門三郎が遍路に使用した杉の杖を立てた。これがやがて根を張り杉の大木となったという。 衛門三郎が弘法大師から許しを得る姿の像が。更に坂を下って行くと右手に広場があり、その隅に「おへんろ駅」 と書かれた看板が。ここ鍋岩の左右内の人達が運営している「おへんろ駅」という売店らしいが、早朝の為まだ人もおらず品物も並んでいなかった。道沿いにある土産物屋「すだち館」を訪ねる。ここは宿坊も営んでいるとのことで欧米人のお遍路を含めた男性達が宿泊していたようであった。 店の内部には所狭しと土産物が並んでいた。10/2日のNHK『鶴瓶の家族に乾杯』の放送で、俳優の遠藤憲一と鶴瓶が「素敵な家族を求めて」のぶっつけ本番旅で夏にこの店を訪ねたとのこと。しかしその部分はカットされたとオバチャンが。袋に入ったスダチを土産に購入。 33号線⇒55号線に出て勝浦川を渡り55線へ出る。立江川手前で右折し川沿いを走ると19番札所:立江寺(たつえじ)に到着。 仁王門は入母屋造楼門、金剛力士(仁王)像を安置。金剛力士仁王の阿吽像。 立江寺 境内配置案内図。山門を入ると左に鐘楼が、右には毘沙門堂があり隣に手水場がある。その先左側に本堂が建ち、本堂左に観音堂がある。本堂を背にして境内の南に進むと右に多宝塔、左に神変堂があって奥に大師堂が建つ。大師堂の右に黒髪堂がある。納経所は山門の正面奥の右側である。手水舎と子授け地蔵尊。聖龍美観音像。 子授け地蔵尊。 多宝塔とその前に毘沙門天堂が。 内部の毘沙門天立像。 先祖供養、水子供養の「経木流し所」 。修行大師像。 多宝塔。大正7年建立、一辺5.59m、上重は銅板葺き、初重は本瓦葺き。 太師堂。堂内。 赤い涎掛けの様々な地蔵。 多宝塔を見上げる。 庚申堂・神変堂。 正面が方丈、客殿。護摩堂。 本堂。 縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願で行基菩薩によって創建された。勅命により行基菩薩が光明皇后の安産を祈るため、念持仏として5.5センチほどの小さな黄金の「子安の地蔵さん」を彫造した。これを「延命地蔵菩薩」と名づけて本尊にし、堂塔を建立したと伝えられる。弘仁6年(815)、弘法大師が当寺を訪れ、このご本尊を拝した。大師は、あまりに小さなご本尊なので、後世になって失われる恐れがあると、自ら一刀三礼をして新たに像高1.9メートルもある大きな延命地蔵像を彫造され、その胎内に行基菩薩が彫ったご本尊を納められた。このときに寺名を「立江寺」と号した。当時は現在地より西へ400メートルほど山寄りの景勝地にあって、七堂伽藍を備えた巨刹であったといわれる。「天正の兵火」(1575〜85)では立江寺も逃れられず、壊滅的な打撃を受けた。だが本尊だけは奇しくも難を免れている。のち、阿波初代藩主・蜂須賀家政公の篤い帰依をうけ、現在の地に移って再建されたと。本尊の「延命地蔵尊」と書かれた扁額。鰐口(わにぐち)前にも太い綱が下がっていたが。そしてこの寺を再建した蜂須賀家の家紋「蜂須賀万字 」が。 賓頭盧様(びんずるさま)。寿老人 。本堂の天井画は花鳥風月などが描かれていた。東京藝術大学教授ら40名余が描いた286枚の格天井画であると。橋池山 摩尼院 立江寺(きょうちさん まにいん たつえじ )宗派 高野山真言宗本尊 延命地蔵菩薩創建 天平19年(747年)開祖 聖武天皇(勅願) 行基 所在 徳島県小松島市立江町若松12本尊真言 ”おん かかかびさんまえい そわか” 本堂内部。 納経所前から多宝塔と仁王門を見る。 観音堂。 内部。 鐘楼。黒髪堂。大師堂右手にある小祠。不義をしたお京という女がこの寺に詣り懺悔するとお京の髪の毛が逆立ち、鐘の緒に巻き上げられて残ったという伝説のお堂。白杉大明神。鐘楼と仁王門。 本堂から仁王門を見る。毘沙門堂と多宝塔そして修行大師の姿も。納経所、寺務所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました ------------------------------------------------------------------------------------------------20番札所:鶴林寺 「お鶴さん」と呼び親しまれる鶴林寺は、標高550mの鷲が尾山の山頂にある山岳霊場。寺への遍路道は険しく、遍路にとっては八十八ヶ所指の難所であるとのことだが我々は山門近くまでの車道を利用し、山深い霊場に到着できたのであった。仁王門。阿形像。吽形像。鶴林寺 境内配置案内図。山門を入ってしばらく参道を進むと右手に六角堂があり、さらに進むと左手に手水鉢があり右に70段の石段がある。石段下の右手に忠霊殿、左手に護摩堂と大師堂があり、石段を上り詰めると本堂が建つ。本堂の周辺に鐘楼、三重塔がある。納経所は大師堂の先にある。六角堂。地蔵尊が並ぶ。 苔むした境内の美。 様々な仏像が参道沿いから迎えてくれた。 慈母観音像。水子地蔵尊。忠魂殿。不動明王。手水場。本堂への階段を上る。本堂。本尊である「波切り地蔵・地蔵菩薩立像」は国の重要文化財。暴風雨で難破しそうになった船を導いてくれた伝説がある。 霊鷲山 宝珠院 鶴林寺(りょうじゅさん ほうじゅいん かくりんじ)宗派 高野山真言宗本尊 地蔵菩薩創建 延暦17年(798年)開祖 桓武天皇(勅願)、空海(弘法大師) 所在 徳島県小松島市立江町若松12本尊真言 ”おん かかかびさんまえい そわか” 別名「波きり地蔵」とも呼ばれる本堂を護るように、両脇に鶴の像が立つ。寺伝によれば、延暦17年(798年)に桓武天皇の勅願によって空海(弘法大師)が開創。空海がこの山で修行中に雌雄の白鶴が杉の梢で小さな金の地蔵菩薩像を守護していた。空海はそれを見て、霊木に3尺(約90cm)の地蔵菩薩を刻み、その胎内に鶴が守っていた1寸8分の地蔵像を納めて本尊として鶴林寺の寺名を定めた。境内の雰囲気が釈迦が説法をした霊鷲山に似ていることから山号にいただいたという。平城、嵯峨、淳和の各天皇からの篤い帰依、源頼朝、義経、徳島藩祖蜂須賀家政などからの信仰も受けて大いに栄えた。本尊の伝承として、昔、猟師が猪を追って山に入り矢を放ち、たどって行くと本堂で地蔵菩薩の胸に矢がささり血を流していた。猟師は殺生を懺悔し仏門に入ったということから矢負いの地蔵と呼ばれ、本尊にはその傷が残っていると云われていると。 延命地蔵尊。三重塔の塔が雲の中から姿を見せた。文政6年(1823年) に建造。各層は和様、唐様と、それぞれに異なった建築手法をとっている。江戸末期における代表的建築物であり、徳島県でただひとつの三重塔として、県の有形文化財に指定されているのだ。銅板葺、高さ 23m。三重塔の見事な木組みと扁額。 延命地蔵尊。弘法大師像か?更に苔むした本堂裏の階段を上る。石造宝塔。 小さな祠が。扁額等は無かった。 祠内部。 三重塔への下り坂の途中にも小さな堂が。 鎮守堂か。再び三重塔。鶴と延命地蔵尊。本堂前の鶴と後ろに三重塔。本堂への階段を下る。 太師堂。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 宿坊は休業中。再び雨で緑の色を増した苔に覆われた参道を楽しみながら鶴林寺を後にしたのであった。
2017.10.31
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク18番札所:恩山寺今宵の宿泊寺(宿坊)の12番札所:焼山寺到着の目標時間は16:30過ぎであり、まだ多少時間の余裕があったので、予定を変更して18番札所:恩山寺へ向かう。55号線⇒136号線を利用して20分強で恩山寺に到着。いきなり大きな修行大師像が迎えてくれた。恩山寺は徳島市を離れ、小松島市の小高い山の中腹にある寺。 恩山寺境内入り口の石柱には「弘法大師 御母公玉依御前 ゆかりのお寺」の文字が。恩山寺 境内配置案内図。坂道を登って行くと大きな修行大師像の立つところに出た。車は左上方へ上がると駐車場に出てそこから坂道を5分ほど歩いて上がると大きな修行大師像の前に出る。左手の数段の石段を上ると境内に入り、直進すると右手に手水場があり石段をさらに上り詰めた所に本堂が建つ。手水場手前まで戻って本堂を背にして右手先に大師堂が、その手前に御母公堂がある。納経所は大師堂と反対側の客殿の左に。 「四国第十八番 恩山寺」と刻まれた石碑が。山門は、駐車場へ向かう途中にあった母養橋(赤い欄干橋)の傍にあり、山門の近くには大師が植えたという「びらんじゅ」の樹が今も残ると。 太師堂とその右側に大師御母公剃髪所。大師がこの地で修行されていた時、大師の生母の玉依御前が訪ねて来たが、あいにく女人禁制であった。そこで大師は一七日間の女人解禁の修法をして母を迎えたが、喜ばれた母君は剃髪して、髪を納められたので「母養山 恩山寺」と改めた。大師堂の前に「大師御母公剃髪所」の石碑があり、母君の髪の毛が納められていると。 ここにも再び「弘法大師修行像」。 手水場。 水子地蔵尊。数え切れないほどの水子地蔵が。 松の枝の裏には素朴な歴史を感じさせる石仏が。 多くの石仏、石碑が境内に。 鐘楼。 本堂より階段下を。 本堂。本尊は空海自刻と伝える。真言八祖像が脇仏として並んでいると。母養山 宝樹院 恩山寺(ぼようざん ほうじゅいん おんざんじ)宗派 高野山真言宗本尊 薬師如来創建 不詳(天平年間末か)開祖 行基 聖武天皇(勅願)所在 徳島県小松島市田野町字恩山寺谷40 本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” ご本尊のお姿も。 本堂内部。 本堂手前より水子地蔵尊を見下ろす。 大師堂と同じ敷地の向かいに長い屋根の中には、彩色豊かな観音像や十大弟子の木像があり、これもみどころの一つ。地蔵像。十大弟子像。空海の十大弟子は、真済、真雅、実恵、道雄、円明、真如、杲隣、泰範、智泉、忠延の10人とされると。様々な表情が今でも語りかけて来そうであった。 本堂、大師堂はじめ恩山寺の伽藍は歴史を感じさせ、大きな修行大師像もなんとなく趣きがあり、山寺の雰囲気ある古刹なのであった。境内全景。右の階段上に本堂。ここにも弘法大師像が。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ 12番札所:焼山寺そしてこの日の最後に今宵の宿坊がある12番札所:焼山寺に向かう。焼山寺は四国八十八ヶ所は四国八十八ヶ所の中では2番目に標高の高い山の中に位置する寺。国道55号線⇒438号線⇒43号線で鮎喰川を渡り狭いクネクネとした山道をひたすら上る。約1時間で焼山寺宿坊に到着。荷物を案内された部屋に置き、早速焼山寺の参拝に向かう。部屋からの山々と次第に白が拡がる雲。なにはともあれ、徒歩でのお遍路の入口の山門(仁王門)に向かう。大師像。歩き遍路「遍路ころがし」では石段を上り切ると、修行姿の大師像が迎えて下さるのだ。深い山中にあるため、四国八十八箇所霊場の中でも随一の難所として知られる。また、阿波霊場三難所の1つにも数えられ「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と呼ばれる。藤井寺からの遍路道で行くと、長戸庵、柳水庵、浄蓮庵を寄りながら焼山寺に至ると。山門(仁王門)。 阿形像。 吽形像。 焼山寺 境内配置案内図。参道より石段を上ると山門があり、入っていく左手に手水場、右手に鐘楼があり正面に本堂が。本堂右手に2008年に落慶した大師堂がある。本堂左手に三面大黒堂が、大師堂の右手に十二社神社がある。納経所は山門を背にして左側、その奥には茶堂がある。本尊と大師像は、本堂裏の斜面上にある収蔵庫に収められていて、本堂と大師堂にあるのはそれぞれの前仏である。 本堂が近づいた、見事な大杉に見とれてしまう。太古の息遣いが聞こえるようだ。 境内の杉の巨木は樹齢数百年といわれる。昭和37.1.16に県指定天然記念物に。山門をくぐり境内に入ると、右側に2体のお地蔵様。 観音像? 宿坊の裏山には雲が湧き上がってきた。こんな所に牛の像。 納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 正面に本堂が。寺伝によれば大宝年間(701年 - 704年)、役小角(役行者 えんのおづの)が開山し庵を結び蔵王権現を祀った。のちに空海(弘法大師)は、神通力を持ち火を吐いて村人を襲う大蛇がこの山に棲んでいることを聞き退治に向かった。大蛇は全山に火を放って妨害したので摩盧(まろ/別名:水輪水)の印を結びながら進むと、山頂の岩窟に閉じこもって抵抗した。そこで虚空蔵菩薩や三面大黒天に祈願するととうとう大蛇を岩窟の中に封じ込めることができたため、そのお礼に虚空蔵菩薩を刻んで本尊とし一寺を建立したと。このエピソードが摩盧山焼山寺の名前の起源となっていると。足利尊氏は本寺を祈願所とし、江戸時代には徳島藩主蜂須賀家の帰依を受けていたと。 左から三面大黒天、本堂、太師堂、十二社神社。 可愛らしい稚児地蔵。 鐘楼。銅鐘は 昭和59.8.3県指定有形文化財 、径51cm、高さ103cm。鐘楼の前に何故かブランコが。子供連れで来られるお遍路さん用?文化財に指定された初代の鐘は別の場所に保管され、これは2代目との事。響きが徳島市まで届くと。焼山寺の手水場がなかなか新鮮な造形。緑の濃い苔を植えていた。手水場の横には古い石仏や小さな祠。三面大黒天堂秘仏として、中央に大黒天像、右に毘沙門天像、左に弁財天像が安置されていると。通常は前立三面大黒天が拝顔できる。多宝塔。 本堂 摩盧山 正寿院 焼山寺(まろざん しょうじゅいん しょうさんじ)宗派 高野山真言宗本尊 虚空蔵菩薩創建 弘仁6年(815年)開祖 空海(弘法大師)所在 徳島県名西郡神山町下分地中318 本尊真言 ”のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おんあり きゃまり ぼり そわか” 本堂内陣。十二社神社 境内。太師堂。 太師堂内部。 そして初日の車によるお遍路を終了。この日の移動ルートを我がIphonesのソフトより。1番札所:霊山寺から18番札所の寺までのお遍路の走行距離は約125km。予約していた焼山寺宿坊に到着。玄関。1階の廊下の廊下に客室の和室が並ぶ。 厨房への連絡用廊下。2階にも客室があるようだ。 8畳の我々の部屋、隣の部屋との仕切りは唐紙。 電気コタツ、ストーブも用意されていたが、テレビはなし。客は我々の部屋の隣に同じく男二人のみ。標高938mの部屋からの眺め。そして夕食は全て精進料理。アルコールは可とのことで旅友Sさんは日本酒、私はビールを楽しむ。 真ん中は芋茎(ずいき)そしてその右が焼きナス。 ヤツガシラ?の赤い茎である赤ずいき。そして食後にも購入済みのビールを楽しむと、この日の疲れが一気に出て消灯もせずに爆睡。
2017.10.30
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク14番札所:常楽寺 15番札所の国分寺を後にし192号線に戻り直ぐに右折し細い住宅地の道をカーナビに従い進むと鳥居が現れたのでここで車を駐め徒歩にて進む。実はここは八幡神社である事に気がつき、再び車に戻り神社脇の急な坂道を上がった先が常楽寺の駐車場。常楽寺には、山門が存在せず、代わりに石柱が立っていた。1番霊山寺から順にお遍路巡りをしている我々にとっては、初めての山門なし。入り口に山頭火の碑で、「人生即遍路」と。正面には巨岩の上に石垣が立ち上がり、まるで山城の城壁の如し。階段も巨岩をそのまま階段状に削り出していた。 歌碑には・・・・・・・・。 下の石柱から50段の石段を上がって来ると境内入り口の石柱門が。石柱門には「四国第十四番 盛寿院 常楽寺」と刻まれていた。常楽寺 境内配置案内図。 階段下から石柱門を通って50段の石段を上ると起伏のある流水岩の境内に入る。左手に手水場があり、その奥に鐘楼が。一番奥に本堂が建ち、その手前右側に大師堂があった。本堂と大師堂の間にアララギの巨木があって、その木の俣にはちいさな大師像が安置されていた。納経所は石段を背にして右手に。手水場。 無縁塔には「まつり人(て)のない霊さまをおがんであげて下さい」の文字が。合掌。 大僧正智俊猊下の胸像。修行大師像。 鐘楼。 境内は断層が剥き出しとなった自然の岩盤の上にあり、その形状から流水岩といわれていると。 寺の建物全てがあるのは天然の岩の上。境内移転の際に山を削り、岩盤の奥に堂宇を建てたためで、露出した様々な岩が自然に庭を形作り「流水岩の庭園」と呼ばれているのだと。岩は風雨に削られ、今も少しずつ姿を変えていると。 常楽寺 本堂。開基は弘法大師。この地で修行していると、多くの菩薩たちとともに弥勒菩薩が現れ、説法を行った。大師はその姿を刻み、本尊とした。弥勒菩薩は、お釈迦様が入滅されてから56億7000万年後に現れて、衆生を救済する未来仏。現在は、地球ができて46億年、人類が誕生して700万年。弥勒菩薩が現れた時、果たして人々は存在していたのか…。こんな思いを巡らすのは未だ煩悩具足の凡夫。弥勒菩薩を本尊とするのは四国霊場でここ常楽寺だけであると。 盛寿山 延命院 常楽寺(せいじゅさん えんめいいん じょうらくじ)宗派 高野山真言宗本尊 弥勒菩薩創建 弘仁6年(815年)開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県徳島市国府町延命606番地本尊真言 ”おん まいたれいや そわか” ここ常楽寺は弘法大師が堂を建てた後、弘法大師の弟子・真然(しんねん)僧正が金堂を建て、祈親(きしん)法師が、講堂・三重塔・仁王門などを増築し、立派な寺となり栄えたが、天正年間(1573~1592)の長宗我部勢の兵火で焼かれてさびれてしまった。それを万治2(1659)年に、蜂須賀家が再興した。灌漑用の溜め池を造るために文化15(1818)年に、少し高台の現在地へ移されたのだそうだ。「本尊弥勒大菩薩」と書かれた扁額。 奉納幕の左手に五三桐の紋章。天皇から弘法大師の称号を下賜された時に一緒に天皇家の家紋である五三の桐紋も頂かれたと。併せて右手の「三頭左巴」の紋章は、空海・佐伯真魚(幼名)は讃岐国の豪族である佐伯直田公の3男として生まれた。巴紋は佐伯家の家紋であると。本堂内部。 本堂回廊から左手に太師堂。太師堂。 太師堂内部。 境内の仏像群。手前に不動明王、後ろに聖観音菩薩?。 多くの石灯籠に囲まれ中央に三界万霊塔、方柱台の上に文殊菩薩が安置されていた。 本堂前に繁るアララギ(イチイ)の老木。弘法大師が糖尿病に苦しむ老人に持参の霊木を煎じて飲ませ治療した後、その霊木を挿し木したものが育ったと。樹周8メートル、高さ10メートルの巨木。また木の股には小さな石仏が安置されていた。 この弘法大師の像は「あららぎ大師」と呼ばれており、糖尿病や眼病の治癒にご利益があるのだと。大師の廻りには多くの枯れた小枝が。鳥が以前に巣を造った跡なのでしょうか。本堂横から再び境内を。こちらは納経所前からの境内。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------13番札所:大日寺 常楽寺から10分ほど、県道21号線沿い、寺から西の方角に駐車場があった。駐車場から大日寺までは徒歩で1分強。 大日寺 山門。 大日寺 境内配置案内図。県道に面した山門を入ると向かいにしあわせ観音が見える。しあわせ観音を背にして右手に手水場があり、左に大師堂が建つ。右奥に入っていくと大師堂と向き合う形で本堂があり、その左手に地蔵堂がある。納経所はしあわせ観音の後にあった。弘法大師がこの地で護摩修法をされていた時、空から大日如来が舞いおり「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」 と、告げられた。大師は、さっそく大日如来像を彫造して、本尊とし、安置したのが寺の縁起とされている。 戦国時代 「天正の兵火」 により堂塔はすべてが罹災。江戸時代前期に 阿波3代目藩主、蜂須賀光隆公により 本堂が再建され、県道を挟んで建つ一の宮神社を管理する別当寺となったが、明治の神仏分離令により独立。そのとき一宮神社の本地仏であった十一面観世音菩薩が本尊となり、大日如来像は脇仏となったと。 右手に太師堂。 「しあわせ観音」。合掌している手を模した中に小形の観音像が入っていた。 正面からは直ぐに合掌している手と判らなかったが、斜めから見ると納得したのであった。 しあわせ観音と呼ばれる合掌した手のなかに彩色された観音様がやさしいまなざしで立つ姿に多くの巡拝者はしばし立ち止まっていた。 私もしばし合掌。 手水場。 水子地蔵尊。 交通事故で亡くなった方を供養する慈母観音像。 地蔵堂。本堂。 彫刻も見事。大栗山 花蔵院 大日寺(おおぐりざん けぞういん だいにちじ)宗派 真言宗大覚寺派本尊 十一面観音創建 弘仁6年(815年)開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県徳島市一宮町西丁263 本尊真言 ”おん まか きゃろにきゃ そわか” 本堂内部。 灯籠も美しい造形。本堂左手にある真っ赤な目が大きい像。「びんずる様」も願い事を唱えながら撫でると叶うとか。境内の池の中には剣に龍が巻き付いた彫像も。3番札所:金泉寺の倶利伽羅龍王(くりからりゅうおう) と同じか。 本堂から再び境内を見る。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 そして国道向かいの一の宮神社を帰りに訪ねました。 正面に2頭の神馬。拝殿。御祭神:大宜都比売命、天石門別八倉比売命神馬越しに大日寺本堂を見る。こちらが正面の鳥居。
2017.10.29
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク16番札所:観音寺17番札所:井戸寺から29号線、123号線を走り7分ほどで16番札所:観音寺に到着。 国府町の住宅街のど真ん中、狭い道路に突如、立派な鐘楼門が出現。和様の堂々とした楼門であり、こぢんまりした境内に重みを見せている。観音寺 境内配置案内図。 手水場。 太師堂。左下に夜鳴き地蔵尊。夜鳴き地蔵尊をズームで。 「子供の夜泣き止めをお願いして下さい」と。本堂横の仏足石。本堂より鐘楼門を見る。庚申堂と隣に郷友殉国之霊碑。八幡大神宮と惣社大御神とが合祀。本堂と左下に仏足石。木造平屋建、正面三間側五間、入母屋屋根及び平入流向拝本瓦葺。寺伝によると741年、聖武天皇の勅命により行基が勅願道場として本寺を建立、816年に弘法大師が巡錫した際に本尊として千手観音像、脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで安置、現在の寺名に改めたとされる。いったん天正の兵火(1573~92年)で焼失するが、1659年に徳島藩主蜂須賀光隆(はちすかみつたか)の支援を受け宥応(ゆうおう)法師が再建。 光耀山 千手院 観音寺(こうようざん せんじゅいん かんおんじ)。宗派 高野山真言宗本尊 千手観音創建 天平13年(741年)開祖 聖武天皇(勅願) 所在 徳島県徳島市国府町観音寺49-2本尊真言 ”おん ばさら たらま きりく” 扁額には「六無礙」???。六とは「地と水と、火と風と空と、そして、人の心」。無礙とは「障りや妨げが無く自由自在であること」とあるが。本堂を斜めから。修行大師のお姿。境内から手水場そして鐘楼門。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------15番札所:国分寺16番札所:観音寺から192号線を北上し、2km、7分ほどで15番札所:国分寺に到着。山門。 「薬王山」と書かれた扁額。国分寺 境内配置案内図。単層の山門を入ると右手に手水場が、左手には地蔵堂、七重塔礎石、鐘楼堂と並び、正面奥に工事中の本堂がある。本堂の手前右に大師堂がある。烏瑟沙摩明王堂はその横にある。納経所は境内の右手奥にあり、庭園の入口は納経所の左にある。手水舎には仮設?の水道水が。本堂は改修工事中で入れず。聖武天皇が諸国66の国分寺を建立したうちの一つ。天平13年(741年)に建立したが、天正年間(1573 - 1592年)土佐の長宗我部元親率いる軍の兵火によって焼失。長らく荒廃していたが、寛保元年(1741年)に徳島藩主蜂須賀家の命により郡奉行速水角五郎が復興にかかり、吼山養師和尚が再建したことから宗派も現在の曹洞宗となったと。重層の入母屋造りで、聖武天皇、光明皇后の位牌が祀られていると。 薬王山 金色院 国分寺(やくおうさん こんじきいん こくぶんじ)宗派 曹洞宗本尊 薬師如来創建 天平勝宝8年(756年)以前開祖 行基所在 徳島県徳島市国府町矢野718-1本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” いつもなら。 【http://cultural-experience.blogspot.jp/2015/11/15.html】より。七重塔心礎。心礎とは礎石の中で七重塔などの木造塔の中心柱(心柱)を受けるもので,檫礎(さつそ)ともいうと。七重塔心礎説明板。この心礎の環溝型は珍しいと。塔の元の地か、興禅寺前の近くの水田で発掘され、ここに運ばれて来たのではないかと。心礎の大きさは3.75m×1.54m×0.75mで、孔の外周径は1m、内周径は52cm、溝巾24cm、深さ10/4cmとのこと。地蔵堂。工事中の本堂に替えての仮本堂は、うすさま明王堂。うすさま明王堂は不浄の神様で、なんでもひとつ願いを叶えてくださるのだとか。婦人科の悩みにも霊験あらたかとの事。多くの涎掛けが奉納されていた。うすさま明王堂正面。鳥瑟沙摩明王堂(うすさまみょうおうどう)の明王像は弘法大師が刻まれたもので不浄除けにご利益があるのだと。左手に鐘楼。四国霊場には四県に国分寺があり、その最初の札所が「阿波国分寺」である。仏教に篤く帰依した聖武天皇(在位724〜49)は、天平13年に国家の安穏や五穀豊穣、政教一致、地方文化の向上などを祈って、勅命により全国68ヶ所に国分寺、国分尼寺を創建したと。阿波国分尼寺跡はここから北へ約1km、昭和45〜46年に発掘調査が行われ、金堂・北門跡・寺域などが確認され、寺域は約160m四方に及ぶ広大なものであると。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.10.28
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