JINさんの陽蜂農遠日記

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オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その5)(09/08) 矢張り有料席から見ると正面から見るので…
jinsan0716 @ Re[1]:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) オジン0523さんへ ありがとうございます…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) そして9:20になり、カウントダウンが始ま…
jinsan0716 @ Re[1]:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) オジン0523さんへ 書き込み、ありがとう…
オジン0523 @ Re:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) 根府川山は根府川に関係あるのですかね

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2018.01.08
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カテゴリ: 藤沢歴史散歩
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遊行寺の散策を続ける。

鐘楼。 

延文元年(1356年)鋳造。鋳物師は物部光連と考えられている。

藤沢市最古の梵鐘で、後北条氏の時代には小田原にあって陣鐘として使われていたという。

その後、足柄の寿昌寺に移され、江戸時代に入って再び遊行寺に戻された。

神奈川県の重要文化財。

放生池の石の太鼓橋を渡る。

放生池の先には御番方そして信徒会館が。

元禄7年(1694)五代将軍徳川綱吉の時代、「生類憐れみの令」発布にともない、

次のような”おふれ”が出された。

「江戸市中の金魚(赤色)銀魚(白色)を所持いたすものは、その数など正直に報告し

差し出すべし」。

こうして江戸市中の金魚・銀魚が集められ、この遊行寺の池に放生されたと。 

遊行寺の受付は近侍司寮(ごんじしりょう)と呼び、信徒・団参の方々は、

この御番方(ごばんかた)と呼ばれる入口から入るのだと。

この建物は明治13年(1880)11月の大火で類焼し、大正2年(1913)2月23日上棟された。

関東大震災によって、本堂・大書院その他多くの建物と同様に倒壊したが、すぐに

倒壊当時の古材をもって再建された。なおこの建物に施されている彫刻類は、一部江戸時代の

彫り物をそのまま使用したのではないかと言われている。

寺務所入り口。以前ここで御朱印を頂いた。

左から寺務所、御番方、信徒会館。

中雀門を御番方側から。

中雀門を本堂側から。

安政六年(1859)に建立された、遊行寺境内で最も古い建造物。

四脚門で、高さ約6メートル、幅約2メートル70センチ。

1880年の藤沢宿大火の被害は免れたが、1923年の関東大震災では倒壊し

その後、そのままの形で再建され、現在にその姿をとどめていると。

大棟に皇室との深いつながりを示す菊の御紋が。

正月の御粧し(おめかし)をした今年の干支のワンちゃん。

時宗総本山・藤沢山無量光院清浄光寺(しょうじょうこうじ)の本堂。

時宗の宗紋「折敷に三文字紋」、「隅切三(すみきりさん)」の横断幕も

これは一遍上人が出られた伊予の河野氏の家紋から採られたものと。

DSC01541_R.JPG

本堂前の大香炉前で初詣客の交通整理に懸命な遊行寺の僧侶の姿。

宗祖 一遍上人像。

俣野大権現。

遊行寺開基の俣野五郎景平が祀られている。

開山の呑海は景平の弟といわれ、呑海が俣野領内の廃寺となっていた極楽寺に住んだことが

遊行寺の始まりだと。

本堂を俣野大権現の裏から。

本堂前階段には初詣客の長蛇の列が。

ダルマ販売所。

破魔矢販売所。

木造で高さおよそ3 メートルの日限地蔵様をお祀りしている地蔵堂。

遊行寺宝物館。



「遊行寺の逸品」展を開催中。

明治天皇御膳水井。

明治天皇はたびたび遊行寺にお泊りになったことがあり、その時に使われた井戸であると。

大銀杏。樹高:16メートル、幹周り:6.83メートル。

藤沢市指定天然記念物で樹齢700年余りと。

時宗 真浄院(しんじょういん)入口。

山門。



白塀に囲まれた参道。

本堂。

清浄光寺の塔頭の筆頭である。住職を本山役僧が務め、講中の宿泊所だった。

歴代上人が法燈をつぐ時や、遊行から帰ってきた場合にはここで宿泊することになっていたと。 

本堂内部。

ご本尊は阿弥陀如来。

DSC01561_R.JPG

赤門 真徳寺(しんとくじ)。

清浄光寺の塔頭。住職を本山役僧が務め、講中の宿泊所だった。

別称は赤門、鎌倉北条氏邸より赤門を寄付され以来、朱塗りの門であるためと。

遊行51代一法はこの寺の檀家から出ていると。

三界萬霊。

三界とは、無色界(むしきかい)・色界(しきかい)・欲界(よくかい)。

無色界の上、つまり三界を超越したところに仏様の世界が存在すると。

本堂。

堂内部。

ご本尊は阿弥陀三尊坐像。 

板割浅太郎の墓。

遊行寺の黒門の手前右に、遊行寺の塔頭真徳寺の墓地があり、そこに浅太郎の墓がある。

板割浅太郎は、国定忠治の子分であった。ところが、忠次が浅太郎の叔父の中島勘助を裏切り者と

疑ったとき、忠次は浅太郎の忠誠心を試すために、浅太郎に勘助の殺害を命じた。

やむなく勘助を殺害した浅太郎だったが、そのときに4歳になる勘助の子勘太郎も殺害して

しまった。これを悔やむ浅太郎は、遊行上人の手引きにより、遊行寺で出家し、やがて遊行寺の

塔頭の1つ貞松院の住職となった。

貞松院は今はなく、浅太郎の墓は現在遊行寺内の真徳院の墓地にある。

「當院 四十二世 洞雲院彌阿列成和尚」と刻まれた石碑。

時宗総本山・藤沢山無量光院清浄光寺の総門(惣門)・冠木門。

右に「時宗総本山」、左に「清浄光寺」 と彫り込んだ大きな木札がかかっていた。

惣門前の青銅製灯籠・左。

江戸講中をはじめとした信徒たちにより建造が望まれ、天保13年(1842)に建立。

鋳造師は、江戸で活躍した西村和泉守藤原政時。

後ろの石垣と築地塀は国の登録有形文化財。

築地塀は、土と瓦を交互に積み重ねて作った土塀に、 屋根瓦を葺いた立派なもの。

高さ約2メートル80センチの青銅製の灯籠で、惣門前に対になって建立。

右側の灯籠。

消防車の車庫のシャッターには藤沢宿の浮世絵が描かれていた。

ふじさわ宿交流館に立ち寄る。

遊行寺の門前、藤沢宿の広小路と呼ばれていた場所付近にあり、ウオーキングや歴史散策の

休憩に誰もが気軽に立ち寄れる施設。

「ふじさわ宿交流館」と書かれた幟。

箱根駅伝参加大学の幟も。

館内では「みんなで応援! 第94回 箱根駅伝」が開催中。

箱根駅伝の過去の写真が壁に展示され、テレビ放送も放映中。

旧東海道藤沢宿関連資料が展示されていた。

当時の藤沢宿のジオラマ。



藤沢宿の地図も。

藤沢宿は東海道の江戸日本橋から数えて6番目の宿場。

すでに戦国時代から、小田原北条氏が弘治元年(1555年)に藤沢大鋸町に伝馬(てんま)を

置くなど、交通上の要地ではあったが、慶長6年(1601年)に駅制が定められるにあたって

藤沢宿として整備され成立した。また、それ以前の慶長元年(1596年)に徳川将軍家の

宿泊施設である藤沢御殿が築かれていた(17世紀半ばに廃止)。

宿場は境川東岸の大鋸町(鎌倉郡)と同西岸の大久保町(高座郡)・坂戸町(同)の3町で

構成されており、範囲は遊行寺東側の江戸方見附(みつけ)から台町の東手前

(小田急江ノ島線を越えたあたり)の京方(上方)見附までであったと。

そして帰路も遊行寺前からバスに乗り帰宅し、再び箱根駅伝の復路10区の選手の激走を

楽しんだのであった。 






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Last updated  2020.06.15 20:07:46
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