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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】
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61
番札所:香園寺(
こうえんじ)
59番札所:国分寺の参拝の後は国道196号線を利用して61番札所:香園寺に向かう。
順番であれば60番札所:横峰寺であるが山の中の寺でも有り、その手前に61番~63番札所が
あるのでそちらを先に参拝することを決断。
西条市内を走ると前方に石鎚連山の姿が前方に。
西条市小松町付近から石鎚連山を望む。
山頂付近には残雪が。
石鎚山をズームアップ 右から弥山、天狗岳、南尖峰。
最高峰に位置する天狗岳(てんぐだけ、標高1,982m)・石鎚神社山頂社のある
弥山(みせん、標高1,974m)・南尖峰(なんせんぽう、標高1,982m)の一連の総体山を
石鎚山と呼ぶのだと。
今治街道が小松街道と交わる交差点の角に三嶋神宮が。
元明天皇の和銅5年(712年)8月23日に、勅詔によって国司河野伊予守越智宿禰玉興、
玉澄が井出郷の総鎮守として大山祇神社よりご分霊を勧請したことに始まると。
満開の桜に囲まれた香園寺の駐車場に到着。
国分寺から香園寺への走行ルート。
大聖堂に向かって桜の下を歩を進める。
大聖堂の2階に本堂と大師堂があるのだ。
香園寺 境内配置案内図。
「参道を進むと左側に手水場が、右に鐘楼があり、その奥に遍明堂(釈迦堂)、正面に
本堂と大師堂を兼ねた大聖堂が建っている。大聖堂の右側に聖徳殿と子安大師堂が、
左に庫裏・宿坊・納経所がある。大聖堂の外の前に大きなローソク線香立てがあり、
それらを灯してから、大聖堂の向かって左から外階段を上がって二階ホールに入る。
中は舞台と観客席があり、舞台中央に前立本尊の大きな金色に輝く大日如来が鎮座していて、
秘仏本尊はその後ろの厨子にひっそりと置かれている。大師像はその向こうの
舞台右の厨子の中に奉られている。」
寺伝によれば、用明天皇の病気平癒を祈って聖徳太子が創建したと。
「子安大師」と刻まれた巨大な石。
大聖堂に向かって進む。
大聖堂の全景は桜の花に隠されて。
「顕彰慰霊塔記念碑」と書かれたプレートが像の下に。
「太平洋戦争中、遠くは南溟の雲の彼方や近くは本土周辺の空に海原に、戦場で戦い或いは
神風特別攻撃隊で出撃し、青春の思い出を残しながら祖国日本の礎として雄々しく散っていった。
当時の逓信省愛媛航空機乗員養成所出身者の霊を慰めようと建立されました。
観音像は台座とも三mの高さで建ち、飛行服姿の若鷲が右手掌に霊安らかに鎮まれと
抱かれている。観世音(観音)とは、世間の人々の悩める声(音)を観じ(聞き)、救済の手を
差し伸べると云う意味で、三十三に姿を変えて信仰者のあらゆる災難を除いてくれるという
大慈悲を表している」
本堂に向かうと右手に種田山頭火の句碑があった。
「
「秋の夜の護摩のほのほの燃えさかるなり」
手水舎。
手水舎は屋根無しで、手水鉢は巨大な岩を掘り抜いていた。
漸く巨大な大聖堂が目の前に。
白い鐘楼。
子安大師堂。
子安大師像。
「大同年間(806年~810年)弘法大師が四国巡教の際に、当山の麓で難産に苦しむ一人の
妊婦に出会いました。加持祈祷したところ、安産となり、玉のような元気な男の子が誕生した。
その元気なうぶ声は、近隣に響き渡ったそうです。
これが機縁となり弘法大師はしばらく香園寺にとどまった。塔中六坊を創建し、自らもその
一坊に入りました。また、中国から持ち帰った金像一寸八分(約5.5センチ)の大日如来を、
本尊の胸間に納め、脇仏不動明王の彫刻をのこしました。弘法大師は、安産、子育て、
お身代わり、女人成仏を祈る秘法を寺にのこしたと伝えられています。
香園寺が「子安の弘法大師」といわれる由縁はここにあります。
弘法大師は、唐木梅檀を焚き、護摩修法を寺にのこしました。「梅檀山教王院香園寺」という名は、
これに由来します」
大聖堂の中央前に拝殿場所が。
昭和51年に建立、褐色の鉄筋コンクリートモダンな造りで高さ16m。
「大聖堂」の前で御本尊の大日如来様にお勤めをしました。
納経所は仮設?
納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。
そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。
聖徳殿。
聖徳太子を奉る祠。
御本尊へのお勤めをし終えると、そこに貼り紙があり、この「大聖堂」の2階が「大師堂」に
なっているとのことだったので、建物の左側の外階段で2階に向かう。
寺伝によれば、用明天皇の病気平癒を祈願して聖徳太子が建立し、天皇からは教王院の勅号を
賜ったとされる。天平年間( 729
年 - 749
年)には行基が巡錫。大同年間には、空海が巡錫中、
当寺の門前で身重の婦人が苦しんでいた。空海は栴檀の香を焚いて加持祈祷をすると元気な
男の子が無事に出産した。また、栴檀の香を焚いて、安産・子育て・身代り・女人成仏を祈る
四誓願の護摩修法をした。以来、安産・子育ての信仰の寺となったと。
大師堂 内部。
柱が1本もなく、非常に広い。
たくさんの椅子席が設けられていて、座りながらお参りができる。
栴檀山 教王院 香園寺(せんだんさん きょうおういん こうおんじ)
宗派: 真言宗 単立
本尊: 大日如来
創建:(伝)6世紀末
開基:(伝)聖徳大師
所在: 愛媛県西条市小松町南川甲 19
本尊真言:”おん あびらうんけん ばざらだどばん”
巨大な講堂の中に、巨大で金ピカな「大日如来坐像」が鎮座。
「大日如来坐像」があまりに光っていた為か、写真がブレてしまいました。
「大日如来坐像」の脇仏。
弘法大師像。
大聖堂の壁は幾何学的な模様が。
石仏群。
ミニ五重塔。
小石を積み上げて作ったような造り。
「弘法大師千百五十回遠忌報恩謝徳也」と刻まれた石塔。
森 紫苑荘の川柳、「偉い子はいぬがどのこも親思い」と刻まれた歌碑もあった。
四国八十八ケ所巡拝を八十八回行い満願したという報恩謝徳の碑。
62番札所:宝寿寺(ほうじゅじ)
香園寺からは往路の道を戻り国道11号線を走るとアッという間に到着。
「一國一宮 寳壽寺」と刻まれた石柱が入口右に。
香園寺から宝寿寺そして次の吉祥寺までの走行ルート。
宝寿寺 境内配置案内図。
「東側から境内に入ると右手に手水舎、稲荷社、大師堂が、その先に本堂が建っている。
納経所は正面奥にある。」
手水舎。
右手に大師堂が。
安産観音像。
大師が本尊に祈願した霊水・玉の井の水を加持した与えたところ、夫人は無事に男児を
出産したという。
以後、安産を祈願する寺として人々から慕われ、現在境内にはこの安産観音像が
建てられていると。
宝寿寺 境内。
本堂前に香炉堂が。
稲荷社。
本堂。
「寺伝によれば聖武天皇の勅願によって天平年間( 729
年 – 748
年)に、道慈律師によって
建立され金剛宝寺と名付けられた。大同年間( 806
年 – 810
年)に空海(弘法大師)が逗留し
光明皇后を模写した十一面観世音菩薩像を刻んで本尊とし、現在の寺名に改めたという。
この頃国司だった越智氏の夫人が難産で空海に祈念を頼んだ。空海は宝寿寺境内の玉ノ井の
水を加持し越智夫人に与えたところ、夫人は玉のような男子を無事出産した。
これにより本尊は安産の観音として信仰を集めている。
1585
年(天正 13
年)羽柴秀吉の戦禍によって荒廃。 1636
年(寛永 13
年)宥伝上人によって
現在地付近に移されて再興。明治初期の廃仏毀釈によって廃寺となったが、大石龍遍上人に
よって 1877
年(明治 10
年)に再興され、 1921
年(大正 10
年)に予讃線工事に伴い
現在地に移転した。」
旧本堂。
そしてその前に仮設?の納経所が。
納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。
そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。
下の写真は59番札所:国分寺に張ってあった霊場会六十二番礼拝所についての書類。
61番札所:香園寺内に62番札所を設置したと。
「朝日新聞デジタル」には次のような記事が。
『お遍路訴訟、62番札所の脱退認める 霊場会の請求棄却
四国遍路の札所寺院などでつくる「四国八十八ケ所霊場会」(香川県善通寺市)が、
62番札所宝寿(ほうじゅ)寺(愛媛県西条市)の住職を相手取り、納経所運営要領の順守と
未払いの会費の支払いを求めた訴訟の判決が( 2017
年 3
月)22日、高松地裁丸亀支部であった。
小川雅敏裁判長は霊場会側の請求を退け、宝寿寺の主張通り、同寺の霊場会からの脱退を認めた。
四国八十八カ所の寺院が霊場会から脱退するのは初めて。
霊場会は、四国八十八カ所巡りの寺院からなる任意団体で、正会員はそれぞれの寺院の住職。
訴状によると、宝寿寺の住職は運営要領で午前7時~午後5時とされている納経所の受付時間を
短縮したほか、参拝者に本尊が描かれた御影を授けなかった。また、会費72万円が未払いという。
裁判で宝寿寺側は「霊場会を脱退しており、要領に従う必要も会費を支払う義務もない」と主張。
判決は、霊場会への入会手続きを定めた規定はないとしたうえで、「宝寿寺の住職であることを
もって霊場会の正会員であるとは認められない」と判断。
仮に入会していたとしても「退会の手続きについて特段の定めがない」として、
住職が電話で不参加を連絡したことから退会が認められるとし、霊場会側の訴えを棄却した。』と。
朝日新聞以外の記事や個人ブログなどもいくつかアクセスしたところ、宝寿寺住職から
暴言・暴行を受けたという穏やかならぬ噂もあるようですが真実は如何に?
はっきりしているのは、四国88箇所を「誰がいつ決めたのかははっきりしない」のだと。
判決からは、四国八十八ケ所霊場会に各寺院を88箇所から追いやる権限はないということか。
霊場会に入っていなくても88箇所の一員であることには変わらないはずと。
宝寿寺側をサポートするような論調になっていますが、今後もこの争いは続くのでしょうか?
この様な争いが存在している事実に少々驚いたのであった
・・・ つづく
・・・
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