JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Comments

オジン0523 @ Re:3か月でマスターする数学・『モンティホール問題』(09/23) 最近は、難しいことをやっていますね! 私…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その5)(09/08) 矢張り有料席から見ると正面から見るので…
jinsan0716 @ Re[1]:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) オジン0523さんへ ありがとうございます…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) そして9:20になり、カウントダウンが始ま…

Favorite Blog

令和6年度 小出川沿… New! オジン0523さん

彼岸花ニョキニョキ… New! 隠居人はせじぃさん

【ペニンシュラの月… Gママさん

ビルトイン食洗機の… noahnoahnoahさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん

Calendar

2019.04.03
XML

『旧東海道を歩く』ブログ 目次

国道1号線に向かって急カーブの旧東海道を進む。



国道1号線に合流する手前まで来る。



合流ポイント左手に『萬霊等』が。



漸く三島塚原I.C」信号手前で国道1号線に合流する。
その合流した左側に西坂側箱根路の大きな自然石に刻まれた碑が置かれていた。
碑の右側面には『箱根路の碑 昭和四十三年八月』と刻まれていた。
さすがにきつかった箱根路もここで終わり。京側から見ればここが箱根西坂の入口になる。
東坂入口の碑は丸かったが、西坂は四角だった。



三島塚原IC交差点から富士山を見る。



橋の下を走る伊豆縦貫自動車道は渋滞中。



そして三島市谷田の国道1号線の松並木が始る。
この松並木は『初音ケ原松並木』と呼ばれていると。
初音ヶ原の地名は源頼朝が箱根権現に詣でた際に、ここで鶯の初音を聞いたことに
由来しているのだと。
実は松並木の右側には旧東海道の石畳が敷設されていたのであったが、
しかしこれは作られた初音ケ原石畳遊歩道であって、本来の旧道は国道1号線である
とのことであったので敢えて反対側に渡らず進んだのであった。



富士山の姿を追いかける。



松の樹には菰が巻かれていたが枯れてしまっている松も。



『富士見ヶ丘』バス停前を通過。



松並木の間から富士山を。



久しぶりの、日本橋から116.6Km。



そして前方に小高い丘そして大きな樹木が見えて来た。



『錦田一里塚』。
国道下り線側の東塚。



道路の向こう側には西塚(初音ヶ原石畳側)



『錦田一里塚 国指定史跡』 
「江戸幕府は慶長九年(1604)、東海道をはじめ主要街道に並木を植えるなどして
街道を整備した。その一環として一里(約四km)ごとに街道の両側に直径約10mの
円形の塚を築き、その上に風雨に強いエノキや松を植え、これを一里塚と称した。
一里塚は大名の参勤交代や旅人の道程の目安、馬や籠の賃金の目安、旅人の憩いの場等、
多方面に活用されていた。
錦田一里塚は江戸日本橋より始まる東海道の二十八里(約112km)の地点にあり、
松並木の間に道路をはさんで向かい合って一対残っており、旧態を保っていて
貴重であるので国指定史跡となっている。」



『国指定史跡 東海道一里塚』



『史跡 錦田一里塚』
錦田一里塚は、街道の基点となっていた江戸から数えて28番目の一里塚。
一対で残っているものは貴重で、大正11年(1922)に国指定史跡になった。
榎が植えられたのには逸話が残されていると。
徳川家康が「ええ木を植えよ」と言ったのを、家臣の大久保 長安(ながやす)が
「榎を植えよ」と聞き間違えたというもの。
真偽のほどは明らかではありませんが、理由のひとつとして、榎は根が深く張るため、
塚が崩れにくいからだと考えられていると。



国道下り線側の東塚である『錦田一里塚』を振り返る。



松の間から再び。



『一里塚歩道橋』を渡る。



そして旧東海道を左折して『田福寺』を訪ねる。
東向山天徳院田福寺は、箱根旧街道(国道一号線三谷バイパス)の入り口から東へ約五百メートル、
川原ケ谷の信号を右に曲がり、創価学会三島平和会館の横道を進むと、突き当たりの左側にあった。
同寺は応長元年(一三一一)、遊行二祖陀阿真教上人の弟子、覚阿栄証によって開創された。
往時は三島大社から南へ約三百メートル、下田街道に面して東向きに建っていたため、「
東向山」という山号がつけられたという。
安政の大地震(一八五四)で火災に遭い、古記録等の多くを失ったため、それ以前の歴史は
定かでない。明治三六年、同寺の南側に道路が開かれた際に、寺院を南向きに改めた。
さらに、昭和五九年、同寺の西側を通る県道二一号線の拡張に伴い、墓地の大半が道路用地と
重なったため、全山を現在地に移転した。
本尊は阿弥陀如来の坐像。行基作と伝えられてきたが、胎内に墨書があり、底部に「一六世其阿」
との記載のあることから、室町時代の作と推測されている。
また、本堂内には室町時代に作られた遊行二祖陀阿上人の立像も祀られていると。
入口には時宗総本山遊行寺の惣門にそっくりの黒の冠木門が。



『冠木門』。
「二本の柱の上部に冠木を貫き渡し、上に屋根をかけた門のことであるが
屋根のないものが多い。
鎌倉時代に武家の館に用いられ、室町時代以降は将軍御所や諸大名の邸の
外門に多く見られる。
江戸時代の大名表門によく使われ、各宗の寺でも用いたが、今日では時宗総本山
遊行寺の門が有名である。時宗で七ヶ寺目のもの、昭和五十九年三月の
建設である。」




1984年西側道路の拡張工事の為、現在地に移転をした。
同年4月29日のお施餓鬼のときに、本尊 阿弥陀如来坐像を開帳したと。
総本山は、藤沢の清浄光寺。



『本堂』



境内には遊行上人の御親教の碑が。
『信不信をえらばず、浄不浄をきらわず』。



一遍は、信心をもっていてもいなくても、どんな人も阿弥陀仏によって往生するのであるから、
素直な心で仏を求めて念仏を唱えるだけでよいのだと。



『東向山』と書かれた扁額。



『南無 やけどよけ地蔵尊』



1棟に二つの堂が。



左が『地蔵堂』。







不動堂の横には『不動尊』石碑。



そして再び旧東海道に戻り富士山の姿を。



日本橋から117.1Km。



松並木もこれで終わりか。



『愛宕町』バス停。



五本松交差点の角には『歌碑』が。



『箱根八里の 馬子吹消えて 今は大根を 造る歌  源水』。



『愛宕坂』 
「五本松交差点」を渡った正面の塚状に箱根旧街道の案内板が立っていたので、
それに従って塚を右に廻りこむと、石畳(復元)の下り坂に。



ここは三島市街地に入る最後の急坂となる愛宕坂で、少し下った左側に説明板が立っていた。

江戸時代には、現在の東海病院の敷地には愛宕社ほかの社寺がありましたが、
現在は「愛宕山」と刻んだ碑だけが頭上のこんもりした小山に残っています」



愛宕坂からの富士山。



                               ・・・​ その5 ​・・・に戻る

つづく ​・・・





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020.04.28 14:32:07コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: