JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.04.04
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次





折しも、東海道線の上り熱海行の電車が通過。



『川原ヶ谷(かわはらがや)』
坂を下る途中に東海道本線の「旧東海道踏切」を渡るが、その手前右手に
「箱根旧街道図」と『夢舞台・東海道』の標柱が立っていた。
標柱には『三島宿(宿境まで四町) ← 三島市 川原ヶ谷(箱根旧街道入口)
→ 函南町(宿境までニ里八町)』と書かれていた。



踏切後ろ側には『箱根旧街道入口 箱根旧街道図』の大きな古い看板が立っていた。



「箱根旧街道図」には三島から箱根峠までの多くの坂が記されているが「今井坂」は
三島側の箱根旧街道の最初の坂となっている。
逆に今井坂を下りると三島宿への入口となる。



東海道線の三島駅方向。



『今井坂 』を下る。



『真立寺』への階段を上がる。



『本堂』。
真立寺は、はじめ真言宗の寺であったが、1508(永正5)年、日蓮宗に改宗。



 高現山  』と書かれた扁額。



『無縁仏塚』か?



箱根西坂の最後の坂もここで終わり。
坂が終わると愛宕橋(旧今井坂下橋)で山田川を渡る。
山田川を渡ると川原ヶ谷の中心エリアに入るのだ。



『山田川』の流れ。



愛宕橋の上から、東海道線を振り返る。
富士山ももう一息だったが・・・。



県道と旧街道が合流する角に『林光庵庚申堂』が。
ここはかつては林光寺という寺であったが、廃寺になり堂だけが残ったと。
江戸時代にはこの場所は高札場であった。三島宿でもないのになぜ高札場があったかというと、
この川原ヶ谷村は荻野山中藩の飛地だったからだと。
荻野山中藩は小田原藩から分かれた藩で神奈川の厚木あたりにあった藩であると。
また、川原ヶ谷は源頼朝が三嶋大社に寄進した土地であった。
そのことが書かれた古文書「源頼朝下文」が三嶋大社宝物館に残っているのだと。
川原ヶ谷は三嶋大社の社領であったために三嶋大社に代々仕える人たちが住んだ場所であったと。



『川原ヶ谷』の街並み。前方に更に進むと『鞍掛け石』手前の右側には
『荻野山中藩陣屋跡』があった。
伊豆国は基本的には徳川幕府の直轄地であった。
しかし、新町橋の手前の川原ヶ谷だけは荻野山中藩(神奈川の厚木あたりにあった藩)の飛び地
であったと。よって、ここに陣屋が置かれていたのだと。



『鞍掛け石(くらかけいし)』
バス停を過ぎると左角に鞍掛け石があった。
かつては右側にもあった様だが、現在は民家が新築された時に撤去されたとものと思われ、
左側しか残っていなかった。
昔は馬乗り石といい、北にある川原ヶ谷神社に参詣する人がここで下馬し
鞍(くら)を置いたと伝えられると。



『鞍掛け石』を左に曲がると正面に『宝鏡院』の山門が見えた。



『山門』



『宝鏡院(ほうきょういん)・史跡』 
『清和源氏足利尊氏』の三男、『足利二代征夷大将軍義詮(幼名-千寿丸)』宝鏡院を建立す。
(建長元年己酉年歳)『建長寺開山勅詔大覚禅師』
法の弟子『建長寺第四世勅詔普覚禅師宝鏡院開祖』となる。
当時山門は、建長寺裏門を移した名工『甚五郎の作』と言い伝えらる。
『足利義詮』(貞治六年十一月七日)三十八歳にて没す。
法名『宝鏡院殿従一位左大臣道灌瑞山大居士』
『足利尊氏公』第八代の『武将義政公』の弟『政知』は『田方郡北条館』にて『茶々丸』に殺さる。
(延徳三年四月三日)五十七歳にて没す。
法名『勝憧殿従三位左武衛九山大居士』、宝鏡院墓地に埋葬す。
『本尊薬師如来』仏工師運慶の作と言ふ。
此の地三島神霊来る。
一、鞍掛けの石
  東海道入口両側にあり、将軍が参拝の折に下馬し、鞍を置いたる石と言ふ。
一、笠置きの石三島七ツ石
   源頼朝公』参拝の折り笠を置いたる石と言ふ。



山門のすぐ後ろに笠置きの石が安置され、『笠置き石・三島七石の一』と書かれていた。



この祠は?



檀家が最近奉納したもののようであった。



『本堂』
開基は室町幕府2代将軍の足利義詮。開山は鎌倉の建長寺4世の普覚禅師。
ご本尊は薬師如来像で運慶作と伝わります。寺宝の茶釜は足利家から奉納されたものと。
足利2代将軍義詮公と韮山の堀越公方足利政知公の分骨がされた。



『水月堂』。
永代供養塔であろうか。



本堂の左手から墓地に入り、突当りを右に進むと正面に『足利義詮・政知の墓所』があった。
室町幕府2代将軍の足利義詮と堀越公方の足利正友の墓。



境内にはきれいな沢水が流れていた。



そして『新町橋』を渡る。
大場川(通称:神川)に架かる橋で、この辺りが新町と呼ばれていたことから名付けられた。
江戸時代には三島宿の出入り口として多くの旅人が渡っていた。
この橋を渡ったところが三島宿江戸見附、宿場の東側入口となる
橋は長さ15間(約34m)、幅3間(5.4m)の欄干を持つ板橋。



『三島市眺望地点 新町橋』
「新町橋は、この辺りが新町と呼ばれていたことから名付けられた大場川(通称:神川)に
架かる橋で、江戸時代には東海道五十三次の三嶋宿の出入口として、多くの旅人がこの橋を
渡っていました。
快晴の日には、ここからすばらしい富士山の姿が見えることで知られていて、
浮世絵師の安藤広重もこの辺りからみた雪景色の富士山を
「東海道五十三次三島狂歌入り佐野喜版」に描いています。
また、この橋の西側約600m先には、鎌倉幕府を開いた源頼朝が祈願したことなどで有名な「
三嶋大社」があるほか、その三嶋大社東側には、旧暦を代表する暦として市の指定文化財にも
なっている「三嶋暦」を製造販売していた河合家があります。
この河合家の旧家は「三嶋暦師の館」として一般開放されていて、三嶋暦に関する資料が
ご覧になれます。」



眺望地点とは、富士山その他の三島特有の景観を眺望できる地点を三島市が指定したものだと。
確かに良い眺めだが、電信柱と電線が邪魔をするのであった。
残念ながらこの時は雲が富士山頂を隠していた。



浮世絵師の安藤広重もここから見た雪景色の富士山を「東海道五十三次三島狂歌入り佐野喜版」に
描いている。 



旧東海道から50mほど南の大場川沿いにあった
『無縁法界地蔵尊(むえんほうかいじぞうそん)』。

「無縁法界地蔵尊」の画像検索結果

江戸時代、重罪を犯し斬罪となった者の首は、 東海道を往来する人々の
見せしめとされました。宿はずれの新町橋際(しんまちぎわ)にあった
獄門台(
ごくもんだい)にのせられ、罪状を書いた捨て札を立て、
番小屋には番人を置き、数日間晒したといいます。
これらの晒し首で引き取り手のないものを憐れんで、霊を慰めるため
いつの頃か地蔵尊が安置され供養されるようになりました。


「無縁法界地蔵尊」の画像検索結果

旧街道に戻り右手に『守綱八幡神社』。
創建は不明であるが寛永年間頃とされている。
北面武士盛綱の霊を祀ると伝わり境内には常夜燈などがある。
明治16年の千葉屋火事で古い記録等を焼失したと。
北面武士とは、上皇に仕え身辺の警衛などを勤めた武士。



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                  ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2020.04.28 14:32:31
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