JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.04.30
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

興津坐漁荘を後にして旧東海道を西に進むと「清見潟(きよみがた)」のバス停が。
「静岡県中部,静岡市清水の興津,清見寺門前の海岸。前面には三保半島が清水港を」いだいて
突出し、北東には富士山,南東には駿河湾をへだてて伊豆の天城連山を望み、古くから東海道の
景勝地として有名。気候温暖で西園寺公望の別邸坐漁荘はこの海岸にあった。
2 次世界大戦後、清水港の拡充整備に伴い海岸の埋立てが進められ、
臨海工業地に変わっている。」と。



その先にはユニークな名前の「東海道薬局」が。



坐漁荘から西に二百メートルほどの清水清見潟公園の一角に『井上馨の像』が。
井上馨も興津を愛した一人。晩年には療養のために「長者荘」と呼ばれる別荘で過ごすことが
多かったのだと。
「長者荘」はこの先、静清バイパスのガードをくぐり、広い三差路の右に「静岡市埋蔵文化財センター」の
正門があり、そこが井上馨別荘長者荘本館跡地であると。



17万m2に及ぶ広大な敷地に「長者荘」は、残念ながら第二次大戦の空襲によって失われた。
また高さ5mに及ぶ井上らしいフロックコート姿の巨大な銅像も建てられていたが戦時中に
銅像供出で撤去されてしまったと。
跡地には石碑が二つ残されて長い間放置されてきたが、地域の発展に尽くした井上を慕う
地元の方たちによって、現在は緑地として整備され、かつての銅像の作者によって
新たにこの場所(場所は跡地とは異なる清見潟公園の一角)に座像が作られているのだと。




運動に共鳴したり、伊藤博文とともにイギリスに密航したこともあるそうです。
元治元年(1864年)9月25日、長州藩での御前会議を終えた井上聞多が、反対派に襲撃され
重傷を負いました。この時、母親が血だらけの聞多をかき抱き兄に対して
介錯を思いとどまらせたというエピソードがあります。
このエピソードが国定国語教科書に『母の力』と題して紹介されたそうです。



『井上馨候之像』
昔は、ここが海岸線だったそうです。井上馨の銅像も戦前、高さ4.85m、重さ6.75tでしたが、
昭和17年(1942)供出により取り壊されたと



ズームで。



杉孫七郎が井上馨を讃えた文章が刻まれた碑文。
「井上馨別荘(長者荘)跡 -- 明治四十三年十一月二十八日 
井上侯壽像成欣躍之餘賦一絶聊表祝頌之意 儼然巨像立崇邱影暎滄瞑萬里流不 
算南山松柏壽雙眸睥睨幾千秋 子爵杉孫七郎拝算
明治四十三年十一月二十八日 井上侯壽像(じゅぞう)成ル 欣躍(きんやく)之餘(よ)
一絶(いちぜつ)ヲ賦(ふ)シ 聊(いささか) 祝頌(しゅくしょう)之意を表ス 
儼然(げんぜんたる) 巨像崇邱(すうきゅう)ニ立ツ影ハ暎(えい)ズ 滄瞑萬里
(そうめいばんり)ノ流算(かぞ)エズ 南山松柏(なんざんしょうはく)壽像雙眸睥睨
(そうぼうへいげい)ス 幾千秋(せんじゅう) 子爵 杉 孫七郎 拝草」
「杉孫七郎は1835(天保6)年、萩藩士・植木家の次男として御堀村(現 山口市)で生まれ、
萩藩士・杉家の養子となりました。文武に優れ、藩主の側近である小姓役となり、
藩主の信任を得ます。1861(文久元)年、幕府が使節を欧州へ送ることになった際、
孫七郎は4萩藩から選らばれ、その一行に従って渡欧します。
一行はフランス、イギリス、オランダなどを訪問。
孫七郎は産業革命が進む西欧諸国に衝撃を受け、1862(文久2)年12月に帰国するとすぐに
藩の重臣・周布政之助らに報告。話を聞いた周布は翌年、井上馨ら5人の藩士をイギリスへ
密航留学させることに力を尽くします。1864(元治元)年、英仏蘭米四国連合艦隊が下関に
来襲した際には、藩の副使として講和会議に臨み、講和を成功させます。」



この碑は「男爵渋沢栄一撰弁書」。
全て漢字でひたすら書かれていたが。
「井上侯壽像碑 是為井上侯壽像侯今年七十六氣力旺盛髭髪尚黒無毫老憊態吾儕當辱侯知遇致有
今日因胥謀請建像壽之侯不聴衆請弗已始見許乃相侯之興津別墅為置像之所命工閲二百餘日
而成歳之十一月廿八日値侯之誕辰招衆賓落之以余与侯四十餘年親交衆属余記之侯経濟功績赫
著史乗喧傳世上而吐握下士之勞實致此王臣為国家蹇蹇宜如此也夫興津之地衿富岳帯大洋遠控
三保近接清見洲渚點綴烟波渺茫稱為東海絶勝侯夙置別墅于此設園池築亭榭鑿山引泉水懸髙厓
而下珠噴雪望之如匹練聴之如琴筑侯時来遊嘯詠自適以娯老豈古詩所謂英雄四首即神仙者欤且侯
昔日翻攘夷倡通好遭反黨要撃被重創而不死如有神助近歳罹病於此別墅九死得一生非天眷
而何天眷神助是不獨侯之幸亦邦家之慶也然則吾儕建像之挙不啻報知遇亦表邦家之慶也乃誌
建像之顛末以諗後之遊此者
明治庚戌十一月廿八日 男爵澁澤榮一撰并書」
「是ニ井上侯壽像ヲ為(つく)ル 今年七十六 氣力旺盛 髭髪(しゅはつ)尚黒ク 
毫(ごう)モ老憊(ろうはい)ノ態無シ 吾ガ儕(せい) 嘗テ侯ノ知遇ヲ辱(かたじけ)ナウシ
今日有ルヲ致ス因リテ胥謀(あいはかり)テ像ヲ建テテ之ヲ壽セント請フ 侯聴(ゆる)サズ
衆請テ已マズ 已ニシテ始メテ許サル 乃チ侯之興津別墅(べっしょ)ヲ相シ 像ヲ置ク之所ト
為ス 工ニ命ジテ 二百餘日ヲ閲(けみ)シテ成ル歳ノ十一月廿八日侯之誕辰ヲ値(あ)ウ
衆賓ヲ招キテ之ヲ落ス 余ノ侯ト四十餘年ノ親交アルヲ以テ 衆余ニ属シテ之ヲ記サシム
侯経済ノ功績四乗ニ赫著(かくちょ)ニシテ世上ニ喧傳ス 而シテ吐握下士之労実ニ此ヲ致ス 
王臣ノ国家ノ為メニ蹇々(けんけん)タル宜シク此ノ如クナルベシ 夫レ興津之地富岳ヲ
衿(きん)トシ 大洋ヲ帯トシ 遠ク三保ヲ控エ近ク清見ニ接シ 洲渚點綴烟波渺茫
(しゅうしゅてんけいえんはひようぼう)稱シテ東海ノ絶勝ト為ス。侯夙(つと)ニ別墅ヲ
此ニ置キ園地ヲ設ケ亭榭(ていしゃ)ヲ築キ山ヲ鑿(うが)キテ泉水ヲ引キ髙厓(こうがい)
ニ懸ツテ下ル珠ヲ跳ラセ雪ヲ噴キテ之ヲ望メバ匹練(ひつれん)ノ如ク之ヲ聴ケバ琴筑ノ如シ
侯時ニ来遊シ嘯詠自適(しゅくえいじてき)以テ老ヲ娯(たの)シム 豈古詩ニ所謂英雄首
(こうべ)ヲ□(めぐ)ラセバ即チ神仙ナル者歟 且ツ侯昔日攘夷ヲ翻シテ通好ヲ倡(とな)エ
反黨(はんとう)ノ要撃ニ遭イ重創ヲ被リ而モ死セズ 神助有ルガ如シ 近歳病ニ 此ノ別墅ニ
罹リ九死ニ一生ヲ得タリ 天眷(てんけん)神助ハ是レ獨リ侯ノ幸ノミナラズ亦邦家之慶也リ 
然レバ即チ吾ガ儕建像之挙モ啻(ただ)知遇ニ報ズルノミナラズ亦邦家之慶ヲ表スル也 
乃チ建像之顛末ヲ誌シ 以テ後之此ニ遊ブ者ニ誌(つ)グ
明治庚戌(かのえいぬ)十一月廿八日  男爵 澁澤 栄一 撰併(あわせ)書」



バイパスの下で左に波多打川、右に東海道線と平行に。
波多打川の手前は清見潟公園ですから、もともとここは海岸線
国道1号線バイパスの下を潜って直ぐに左折し旧東海道を進む。



黄色い花がついた木が。トサミズキであろうか。



前方に踏切が。



東海道本線・『横砂(よこすな)踏切』を渡る。



少し歩くと再び国道1号線に合流しその横に『横砂 延命地蔵尊』があった。



正面から。
『秋葉山常夜燈(左)』と『延命地蔵堂』が。
ここはこの先にある東光寺の飛び地で、中に奉られる延命地蔵尊石像は東光寺が
創建された頃のものと。東光寺は戦国時代はじめ頃の創建。
他にも弘法大師石像、弥勒菩薩石像など、計7体の石像が奉られているとのこと。



『横砂・延命地蔵尊』とは
『病は治せるが寿命は延ばせない』との無理な願いを叶えてくれるのが、
横砂の延命地蔵尊さんです。その昔は獅子舞の縁起もあって、地域・家庭の安全・健康と
五穀豊穣を祈ったと伝えられています。」



更に500mほど歩くと右手にあったのが『医王山 東光寺』の山門そして本堂。
横砂東にあった延命地蔵尊を管理する寺。
この山門は、昔、朝廷からの勅使が、興津川の氾濫により、東光寺に泊まることになり、
急遽、この門を造った、と伝わるものであると。
勅使が泊まる宿舎は、格式上、門構えでなければならなかった為であろう。



『東光寺』標柱。
その横に東光寺の由来が刻まれていた。



境内に入ると左手に、『青面金剛童子塔』と『六地蔵尊』。



『水子地蔵尊 子育地蔵尊』。



『本堂』。
臨済宗妙心寺派の寺、医王山 東光寺。
この東光寺は戦国時代のはじめ、天文年間(1532~1555)にここより北側の場所で開山された。
しかし、寺はすぐに廃れてしまった。恐らく、この頃からこのあたりは甲斐武田氏との
戦闘が激しくなった地域でしたから、戦火に巻き込まれたのでしょう。
その後、この地で再建されたのが慶長年間。しかし、再び寂れます。
次に再建されたのはもう幕末の宝暦年間であったと。
寺佛の薬師如来(秘仏)は行基の作と伝えられていると。 



「醫王山」と書かれた扁額。



小さな鐘も本堂脇に。



本堂を斜めから。



『不動尊』




横砂交差点を直進し更に進む。
このあたりは旧清水市の住宅地のようで、ほとんどが比較的新しい家が多かった。



庵原川に架かる庵原橋を渡ると横砂西町。



川に流れ込む水路には小豆色の排水が大量に。
ここは日本なのであろうか?



遠くに東海道新幹線の線路も見えた。



しかし、すぐに袖師町に入った。明治維新後の町村合併で、旧横砂村、旧嶺村、旧西久保村が
合併し、袖師村になり、その後、袖師町になったが、昭和の大合併で清水市に併合された。 
さらに、今回の静岡市との合併で、旧横砂村は、清水区横砂○○町に、旧西久保村は、
清水区西久保に変り、旧嶺村だけが、清水区袖師町になったのだが、別の意味では、
江戸時代の区分けに戻ったとも言えるようだ。 
民家の角にあった『延命地蔵、そして小さな御堂』。



『袖師ふるさとの路 10 延命地蔵』と書かれた案内板。
ふるさとの路の記述によるとこの地蔵さんは庵原川が氾濫した時に、国道1号線を
はさんでの向かいにある沢野氏宅の竹やぶへ流れてついたもので、長い間沢野氏宅で
祀られていたものが、現在の場所に移されたとのこと。
地蔵は高さ80cmくらいの延命地蔵でいぼとり地蔵といわれていると。
いぼとり地蔵さんは赤い屋根の小ぎれいな地蔵堂の中に祀られていた。
願いがかなってイボが取れた時には、赤青白などの七色菓子を供えるとのこと。
毎年7月16日(私の誕生日)には施餓鬼が行われ、この近くの方々により大切に
護られているようで、この時にも新しい花が奉納されていた。



袖師交差点にある歩道橋を渡る。
この道が北街道。北街道は中世の東海道。今川氏が滅ぶと駿河国に入ったのは武田氏。
武田氏は江尻に江尻城(小芝城)を建設した。その当時までの江尻宿は秋葉山の近くにあった。
ところがこの旧江尻宿が火災を起きたのであった。それ以来、江尻宿は江尻城の南側、
海岸に近い場所に移された。それに伴い、旧東海道も変更されたのだと。



歩道橋を渡り終わると直ぐ右の民家の前にあった小さな『馬頭観音菩薩』。
『袖師ふるさとの路 1 馬頭観音』と。
「袖師ふるさとの路」は1997年(平成9年)に、袖師地区まちづくり推進事業として、
地元の史跡41ヶ所を冊子で紹介したもの。ここが「1 馬頭観音」で史跡巡りのスタート地点で
ありようだ。






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Last updated  2020.04.28 14:56:08
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