JINさんの陽蜂農遠日記

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jinsan0716 @ Re[1]:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) オジン0523さんへ ありがとうございます…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) そして9:20になり、カウントダウンが始ま…
jinsan0716 @ Re[1]:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) オジン0523さんへ 書き込み、ありがとう…
オジン0523 @ Re:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) 根府川山は根府川に関係あるのですかね

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2019.05.04
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今日から次の『旧東海道を歩く(安倍川~藤枝)』のブログアップを始めますが
今回はチョット長くなりますが、日常生活への寄り道を。

昨日早朝に、趣味の養蜂の巣箱の内検を行いました。
暖かさが増し、菜の花から桜そしてクリムソンクローバーと花は変わって来ている中で
日に日に群勢を大きくしています。



現在はこの巣箱も2階建て、2階の巣箱を外すと全面にミツバチが。



新たな巣(新居)も盛り上げています。



そして巣枠の上部には、蜜を為、真っ白な蜜蓋を被せ蜂蜜が濃縮・完成した場所も
拡がって来ています。




そして濃縮が終わると、白い蜜蓋を。



ご近所の農家の畑は一面のクリムソンクローバーが開花中。



このクリムソンクローバーなどマメ科の植物は、土壌を肥沃に、マリーゴールドなど
キク科の植物は、病害虫対策に特に効果的といったように、それぞれ目的にあった植物が
緑肥作物として植えられているのです。
そして我がミツバチはこのクリムソンクローバーが大好物なのです。

そして食べきれずに残った冬キャベツにも花が咲いています。



そしてこのキャベツの花にも我がミツバチが訪花していました。





『旧東海道を歩く』ブログ 目次

この日は3月20日(水)、『旧東海道を歩く(安倍川~藤枝)』に向かいました。
いつもの電車で向かい、この日も快晴、富士山の姿を車窓から楽しみながら。



安倍川駅に定刻に到着し旧東海道歩きのスタート。時間は8:38過ぎ。



この日の旧東海道を歩く(安倍川~藤枝)のコースを 線で。
東海道線は、安倍川駅手前で旧東海道と離れ、再び藤枝駅近くで近づくのである。



安倍川駅から旧東海道に向かい、旧東海道の分かれる「佐渡」交差点を進むと
右手にあったのが『子授地蔵尊』。
子供に恵まれない夫婦がここの地蔵を借り受けて信仰すれば子供が授かったと。



旧東海道(県道208号線)を進む。



丸子宿の後ろの山々が見えて来た。



地蔵堂を過ぎてしばらく歩くと旧東海道の松に出会った。



『ようこそ丸子宿 旧東海道松並木』
「江戸幕府は街道を整備するにあたり、道の両側に松の木を植えました。
夏の日除けか、冬の西風よけのためか?
この松は、東海道の名残の松です。手越から丸子宿入口まで松並木が続いていました。
この所は「大曲」と呼ばれ、道の両端には松を植える土手が築かれ、土手には笹が
生えていました。
戦後までは人家も明かりもなく、夜になると「オバケ」「オイハギ」が出没すると
噂されほど淋しい場所でした。」



『丸子宿』道標、岡部宿境まで二里(7.5km)。



旧東海道が左手に分岐する交差点。左側に行くと旧東海道へ。



『ようこそ 丸子宿へ』と書かれた木板が。



『この先丸子宿』、『丸子名物とろろ汁・丸子紅茶』の文字。
丸子は日本の紅茶発祥の地。
そして『国指定名勝史蹟庭園 吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)』の文字も。
この寺は今川氏に仕えた連歌師宗長ゆかりの寺。天柱山や丸子富士を巧みに取り入れた
借景式の庭園は、国の名勝・史跡に指定され、京の東山を模した竹林から登る月の
風景も優れた寺として知られていると。



『東海道 丸子宿』道標がここにも。
東木戸まで230mと。



日本橋から46番目(約181km)の丸子一里塚跡の『一りつかあと』石柱。
京三条大橋からは69番目で実測約333km地点(七里の渡しを27.5km、
天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。
歩道上にあり、左右にポールが立てられていた。気がつかないことがないようになのか?
通行人がぶつからないようになのか?



『大正十四年七月 静岡市』と。



更に丸子宿への緩やかな坂を上って行った。



『丸子宿 江戸方 見附跡』。



この場所から道が急に狭くなっていたが枡形の名残りであろう。
ここからが丸子宿。そして入口の枡形。
『ここは海抜10.2米』の木札も。



道路の反対側には『丸子宿 これから丸子宿 此処が江戸方見付跡』。
 「東海道五十三次のうち丸子宿は日本橋から四十六里数えて二十番目の宿でした。
宿場は街道に沿って三百五十間、規模は小さいが正式な宿場でした。 
宿場の入口(江戸方)出口(京方)に見付という場所があり、街道の見張場の役目を
していました。 
○本陣:建坪二百八十坪門構、玄関付の大きな公認の宿泊所でした。
    参勤交代の殿様や幕府の役人勅使等が利用する宿でした。 
○脇本陣(二軒):本陣に準ずる宿でした。 
○問屋場:宿場から宿場へ荷物を継ぎ送る伝馬業務を担当していた。
     丸子宿は小さい宿場でしたが常に百人の人足と百疋の馬を備えた。 
○七里役所:徳川家紀伊殿様の直属の宿泊連絡所 
○旅籠屋:大二軒 中十六軒 小六軒 
○茶屋:めし・茶・酒・団子等と共に近在からの産物を販売していた。
    この中に丸子の山から掘出した山芋が「とろろ汁」として名物となった。 



左手に老木が旧東海道を覗き込むように。



階段の上には朱の鳥居が。



『東海道 丸子下宿』、「ここは海抜17.1米」と。



「歴史の道 東海道のご案内
この道筋は、江戸時代の東海道です。ここ丸子宿は文治5(1189)年、源頼朝が、
奥州平定の功績により、手越平太家継という駿河の武士に丸子一帯を与えて駅家を
設けたのが起源といわれています。今の元宿といわれる辺りです。
戦国時代には今川家に仕えた連歌師宗長も「丸子という里、家五,六十軒、京鎌倉の
旅宿なるべし」と記しています。
江戸時代になり、徳川家康によって東海道の整備が行われると、丸子宿は品川宿から数えて
20番目の宿場町に定められました。比較的小さな宿場町であったので、周囲の村々からも
人足や馬を供給していました。これを助郷制度といいます。

ここは東の見付を通り丸子宿に入ってきた所です。見付は、宿場の出入口にあり、
往来を監視する機能をもっていました。
現在、宿通りと呼ばれるこの通りに、往時を偲ばせるような建物は残っていませんが、
本陣跡、脇本陣跡の碑や格子戸の残る家、間口が狭く奥行きの深い家並みなどから、
丸子宿のようすを思い起こすことができます。
天保4(1843)年の『東海道宿村大概帳』では、宿内町並み東西7町、惣家数211軒、
そのうち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠24軒、人口895人、と記録されています。
丸子宿には、お七里屋と呼ばれる紀州藩御用を務める機関もありました。」



丸子川畔に祀られる『水神社』。
丸子川を鎮め宿場を水害から守って来たのであろうか。



しかし水神社が鎮める丸子川に、この日は水は全く無かったのであった。



「御詠歌 駒繁く身は清浄の事ならず、諌の参らす」と書かれた祠。



民家の如き建物せあったが?しかしその壁には。



『丸子宿年表』が掲げられていた。




『江戸時代の丸子宿』も枯木を割って。
「東海道宿村大概帳(天保十四年)抜粋 

東海道「丸子宿」駿府町奉行所支配所

一、位置 江戸より四十六町六里四十五間(約百八十四粁) 府中宿へ一里十六町 岡部へ二里 
一、宿内家並 東西三百五十間(約六百三十米) 
一、宿内人別 七九五人 男三六六人 女四二九人 
一、宿内家数 二百十二軒 
一、本陣 建坪二百八十坪 門楼玄関付 
一、脇本陣建坪百七十五坪門楼玄関付 
一、脇本陣建坪五十六坪 門 玄関なし 
一、旅籠屋二十四軒 大二軒 中十六軒 小六軒 
一、問屋場一ヶ所人足百人 約百疋 
  問屋(責任者)一人 年寄(補助者)五人 
  張付(記録者)八人 
  人足指(人足指図)五人馬指(馬指図)六人 
一、高札場一ヶ所 宿西入口 建 
一、見付 東見付(江戸方)西見付(京方) 
徳川家康は江戸を本拠地として京、大阪との重要な交通手段として東海道の整備を進めた。
御用箱御用物の輸送手段として東海道沿線に宿場を設けた。 
旅行く人の利便を図ると共に宿場から宿場(継送する伝馬事業を開設した。
また参勤交代の大名殿様が利用する本陣、脇本陣を設置させた。 

一里塚 江戸日本橋から四十六里(二十一番目) 」



創業110余年の『しらい酒店』
「三州屋」の屋号で、先祖が三河より移住してきた三州瓦の職人であったと




『丸子宿 問屋場跡』



『史蹟 丸子宿本陣跡』。
丸子宿が、東海道伝馬制度によって宿場町と定められたのは、関ケ原の戦いの翌年、
慶長6年(1601年)です。江戸から数えて20番目の宿場町で、江戸期の宿場数は200余り。
宿場町は、本陣・脇本陣等が設けられており、本陣は参勤交代の諸大名、幕府の役人、




さらに狭い旧東海道を進む。



歌川広重「隷書東海道・鞠子」
雪の鞠子宿ですが、こんなに直角に左に曲がる場所は何処だったのでしょうか?。



『明治天皇御小休所跡』と『丸子宿脇本陣阯』。



この近くに『鞠児学校跡』があるはずであったが、発見できず。



『お七里役所跡』
江戸時代の初期、寛政年間、紀州徳川頼宣は、江戸屋敷と領国の居城の間、百四十六里に
沿って七里間隔の宿場に、独自の連絡機関として二十三ヶ所に中継ぎ役所を設けた。
県内では、《沼津》《由比》《丸子》《金谷》《見付》《新居》に設けられ、この役所を
『紀州お七里役所』と呼び五人一組の飛脚を配置したと。



更にカーブに沿って旧東海道を進む。



古い佇まいを見せる「丁子屋」の姿は安藤広重が描いた丸子宿の様子とほぼ同じで、
街道の茶屋然とした藁葺屋根が印象的。



眼の前に丸子宿の名物とろろ汁の『丁子屋(ちょうじや) ​定休日』​の文字が。
慶長元年(1596年)。時は猛々しい戦国時代。
駿府の町が目の前で焼き払われ、豊臣秀吉は小田原城征伐のため兵を挙げ宇津谷峠を通過。
そのような中、初代・平吉はのれんを掲げ、ここに丁子屋が創業した。
今でこそ「とろろ汁の丁子屋」として親しまれているが、当時はお茶屋として開業したと。
その後、富士山の大噴火、大政奉還、世界大戦など時代の転換期にも直面。
初代がどのような“想いや希望”を抱いて創業したのかを知る由もないが、丁子屋は現在まで
場所を変えること無く、ここ東海道の丸子宿で400余年を過ごして来たのだと。
この日は水曜日なのであったが・・・月末の水曜日?。



店内はこの様になっていると。



現在の店主。



そして、これを楽しみたかったのであったが・・・。



現在でも丸子の山から掘出した天然の『自然薯』を使っているのだと。
自然薯の皮ごととろろにしていると。そして香り高い焼津産の鰹節を使用し、しっかりと
旨味の効いた味噌汁を作ります。
味噌と鰹、大地の恵みと海の恵みを合わたこの味噌汁を混ぜ、味わい深いとろろ汁が
出来上がるのだと。 仕上げに卵を加えているのだとも。



『千寿の前』案内板。



丁子屋の周囲にはたくさんの歌詞の碑が並んでいた。
これは芭蕉句碑。
大津の荷物問屋で門人の乙州(おとくに)が江戸へ下るときに餞別として贈った句。
『梅若菜 丸子の宿の とろろ汁 芭蕉翁』



この石碑は?



丁子屋は茅葺屋根だけの小さな家だと思っていたが、この部分も丁子屋の一部の
勝手口であろうか。



「丁子屋」の前に、「辰石」(たついし)と呼ばれるくさびの痕が残る石が置かれていた。



「徳川家康は駿府城築城にあたりその石垣は丸子など近在より集めたと伝えられる。
この石もその一つで、丸子舟川より運び出されたが、三百七十余年目前の旧東海道の下で
眠っていたものを丙辰(1976年)正月、電話ケーブル埋設事業の際掘り出されたもので
辰年にちなみ龍が爪あと(くさび割りあと)を残して天に昇った。
丸子の縁起ものとして辰石と名づけました。」



『十返舎一九 東海道中膝栗毛の碑』。



東海道中膝栗毛の中で、茶店の夫婦が喧嘩を始め、女房が亭主にとろろの入った
すり鉢を投げつけてとろろまみれになって滑って転ぶ大騒ぎになり、
結局弥次さん喜多さんはとろろ汁を食べそこなったという話を記したもの。
『けんくはする 夫婦は口をとがらせて 鳶とろろに すべりこそすれ』
と詠んだのだと。



『岡本かの子の碑』。



「午前の陽は流石に眩まぶしく美しかった。老婢が「とろろ汁が出来ました」と運んで来た。
別に変った作り方でもなかったが、炊たき立の麦飯の香ばしい湯気に神仙の土のような
匂いのする自然薯は落ち付いたおいしさがあった。
私は香りを消さぬように薬味の青海苔のりを撒ふらずに椀わんを重ねた。
                   岡本かの子「東海道五十三次」より」



丁子屋には歌川広重の東海道53次の丸子宿の絵が掲示されていた



『東海道五拾三次の内 丸子 名物茶屋 広重画』。
「芭蕉の句「梅 若菜 丸子の宿のとろろ汁」と詠われた丸子宿の情景。横田山を背景に大きく
詳細に描かれた茶店には「名ぶつ とろろ汁」と書かれた看板が立てかけられている。
床机に腰掛けた旅人が大きな口を開けて、名物のとろろ汁を美味そうに食べている。」



当時、丁子屋では早春にのみ『とろろ汁』を出していたのだと。
よって『名ぶつ とろろ汁』の看板は取外し可能になっているのだと。



そしてとろろ汁が無い時には、看板のごとく茶屋として「お茶漬け」「酒さかな」を
提供したのだと。店の中には、巻き藁に刺さった魚も吊るされている。干し柿も見える。
歌川広重の保栄堂版「東海道五十三次」の初版では「丸子」、しかし後刷りになると「
鞠子」と表記されていると。
「丸子」は「まるこ」と読み間違えてしまいそうなので、誰もが読める
「鞠子」を当てたのではないかと。しかし広重以前の葛飾北斎は、すでに「鞠子」と
表記しているので、事実は??であると。



この人が自然薯堀りの男で、丁子屋に自然薯を収め、一杯やった後に帰路につく姿を
描いているのだと。掘り上げた自然薯を折らない様にこの棒に括り付けて養生して
運んできていたのだと。
腰に下げた巾着には、この日の稼ぎが入っているのだと。
なるほど巾着の重みが感じられるのであった。



『東海道五十三次 佐野喜版・狂歌入東海道 鞠子』
「松園庵芝守 通りぬけ するかごもあり とまつたり  神楽のきよくの まりこ宿とて」
「鞠子宿は東海道中で最も小さな宿場でした。店先では旅人が腰掛けて、とろろ汁を
すすっています。とろろ汁は松尾芭蕉の俳句や、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」の
中にも登場し、鞠子名物として知られていました。店内の壁には白粉の広告や錦絵が
貼られています。よく見ると広重の名作絵と見られる作品もあるようです。図に添えられた
狂歌の中には「神楽のきよく(曲)のまりこ(鞠子)宿」とありますが、この地域一帯は
現在に至るまで神楽が盛んで、それらは「駿河神楽」と総称されています。」



広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)鞠子』。
この地の名物の梅の姿が前後に描かれている。



『江戸時代の丸子宿』がここにも。
「一 丸子宿の成立
 慶長6年(1601)徳川家康により東海道の伝馬駅として指定される
一 位置  
 江戸へ46里4町10間(約180粁)
 府中へ1里16町 岡部へ2里
一 宿内人口 総数795人
       内 男366人 女429人
一 宿内家数 211軒
一 宿泊施設 本陣1軒 建坪280坪
       脇本陣2軒
       旅籠屋 大2軒 中16軒 小6軒
一 問屋場 一ヶ所 人足100人 馬100疋
一 高札場 一ヶ所 宿場入口に立つ」



『丸子宿』道標。
岡部宿境まで一里二十七町と。



『旧東海道案内』
丸子宿から岡部宿までの行程と名所、旧跡が示されていた。



『はるこがねばな(春黄金花)』であると木札がぶらさがっていた。





                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.04.28 15:01:15
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