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このクリムソンクローバーなどマメ科の植物は、土壌を肥沃に、マリーゴールドなど
キク科の植物は、病害虫対策に特に効果的といったように、それぞれ目的にあった植物が
緑肥作物として植えられているのです。
そして我がミツバチはこのクリムソンクローバーが大好物なのです。
『旧東海道を歩く』ブログ 目次
この日は3月20日(水)、『旧東海道を歩く(安倍川~藤枝)』に向かいました。
いつもの電車で向かい、この日も快晴、富士山の姿を車窓から楽しみながら。
安倍川駅に定刻に到着し旧東海道歩きのスタート。時間は8:38過ぎ。
この日の旧東海道を歩く(安倍川~藤枝)のコースを 赤
線で。
東海道線は、安倍川駅手前で旧東海道と離れ、再び藤枝駅近くで近づくのである。
安倍川駅から旧東海道に向かい、旧東海道の分かれる「佐渡」交差点を進むと
右手にあったのが『子授地蔵尊』。
子供に恵まれない夫婦がここの地蔵を借り受けて信仰すれば子供が授かったと。
旧東海道(県道208号線)を進む。
丸子宿の後ろの山々が見えて来た。
地蔵堂を過ぎてしばらく歩くと旧東海道の松に出会った。
『ようこそ丸子宿 旧東海道松並木』
「江戸幕府は街道を整備するにあたり、道の両側に松の木を植えました。
夏の日除けか、冬の西風よけのためか?
この松は、東海道の名残の松です。手越から丸子宿入口まで松並木が続いていました。
この所は「大曲」と呼ばれ、道の両端には松を植える土手が築かれ、土手には笹が
生えていました。
戦後までは人家も明かりもなく、夜になると「オバケ」「オイハギ」が出没すると
噂されほど淋しい場所でした。」
『丸子宿』道標、岡部宿境まで二里(7.5km)。
旧東海道が左手に分岐する交差点。左側に行くと旧東海道へ。
『ようこそ 丸子宿へ』と書かれた木板が。
『この先丸子宿』、『丸子名物とろろ汁・丸子紅茶』の文字。
丸子は日本の紅茶発祥の地。
そして『国指定名勝史蹟庭園 吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)』の文字も。
この寺は今川氏に仕えた連歌師宗長ゆかりの寺。天柱山や丸子富士を巧みに取り入れた
借景式の庭園は、国の名勝・史跡に指定され、京の東山を模した竹林から登る月の
風景も優れた寺として知られていると。
『東海道 丸子宿』道標がここにも。
東木戸まで230mと。
日本橋から46番目(約181km)の丸子一里塚跡の『一りつかあと』石柱。
京三条大橋からは69番目で実測約333km地点(七里の渡しを27.5km、
天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。
歩道上にあり、左右にポールが立てられていた。気がつかないことがないようになのか?
通行人がぶつからないようになのか?
『大正十四年七月 静岡市』と。
更に丸子宿への緩やかな坂を上って行った。
『丸子宿 江戸方 見附跡』。
この場所から道が急に狭くなっていたが枡形の名残りであろう。
ここからが丸子宿。そして入口の枡形。
『ここは海抜10.2米』の木札も。
道路の反対側には『丸子宿 これから丸子宿 此処が江戸方見付跡』。
「東海道五十三次のうち丸子宿は日本橋から四十六里数えて二十番目の宿でした。
宿場は街道に沿って三百五十間、規模は小さいが正式な宿場でした。
宿場の入口(江戸方)出口(京方)に見付という場所があり、街道の見張場の役目を
していました。
○本陣:建坪二百八十坪門構、玄関付の大きな公認の宿泊所でした。
参勤交代の殿様や幕府の役人勅使等が利用する宿でした。
○脇本陣(二軒):本陣に準ずる宿でした。
○問屋場:宿場から宿場へ荷物を継ぎ送る伝馬業務を担当していた。
丸子宿は小さい宿場でしたが常に百人の人足と百疋の馬を備えた。
○七里役所:徳川家紀伊殿様の直属の宿泊連絡所
○旅籠屋:大二軒 中十六軒 小六軒
○茶屋:めし・茶・酒・団子等と共に近在からの産物を販売していた。
この中に丸子の山から掘出した山芋が「とろろ汁」として名物となった。
左手に老木が旧東海道を覗き込むように。
階段の上には朱の鳥居が。
『東海道 丸子下宿』、「ここは海抜17.1米」と。
「歴史の道 東海道のご案内
この道筋は、江戸時代の東海道です。ここ丸子宿は文治5(1189)年、源頼朝が、
奥州平定の功績により、手越平太家継という駿河の武士に丸子一帯を与えて駅家を
設けたのが起源といわれています。今の元宿といわれる辺りです。
戦国時代には今川家に仕えた連歌師宗長も「丸子という里、家五,六十軒、京鎌倉の
旅宿なるべし」と記しています。
江戸時代になり、徳川家康によって東海道の整備が行われると、丸子宿は品川宿から数えて
20番目の宿場町に定められました。比較的小さな宿場町であったので、周囲の村々からも
人足や馬を供給していました。これを助郷制度といいます。
ここは東の見付を通り丸子宿に入ってきた所です。見付は、宿場の出入口にあり、
往来を監視する機能をもっていました。
現在、宿通りと呼ばれるこの通りに、往時を偲ばせるような建物は残っていませんが、
本陣跡、脇本陣跡の碑や格子戸の残る家、間口が狭く奥行きの深い家並みなどから、
丸子宿のようすを思い起こすことができます。
天保4(1843)年の『東海道宿村大概帳』では、宿内町並み東西7町、惣家数211軒、
そのうち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠24軒、人口895人、と記録されています。
丸子宿には、お七里屋と呼ばれる紀州藩御用を務める機関もありました。」
丸子川畔に祀られる『水神社』。
丸子川を鎮め宿場を水害から守って来たのであろうか。
しかし水神社が鎮める丸子川に、この日は水は全く無かったのであった。
「御詠歌 駒繁く身は清浄の事ならず、諌の参らす」と書かれた祠。
民家の如き建物せあったが?しかしその壁には。
『丸子宿年表』が掲げられていた。
東海道「丸子宿」駿府町奉行所支配所
一、位置 江戸より四十六町六里四十五間(約百八十四粁) 府中宿へ一里十六町 岡部へ二里
一、宿内家並 東西三百五十間(約六百三十米)
一、宿内人別 七九五人 男三六六人 女四二九人
一、宿内家数 二百十二軒
一、本陣 建坪二百八十坪 門楼玄関付
一、脇本陣建坪百七十五坪門楼玄関付
一、脇本陣建坪五十六坪 門 玄関なし
一、旅籠屋二十四軒 大二軒 中十六軒 小六軒
一、問屋場一ヶ所人足百人 約百疋
問屋(責任者)一人 年寄(補助者)五人
張付(記録者)八人
人足指(人足指図)五人馬指(馬指図)六人
一、高札場一ヶ所 宿西入口 建
一、見付 東見付(江戸方)西見付(京方)
徳川家康は江戸を本拠地として京、大阪との重要な交通手段として東海道の整備を進めた。
御用箱御用物の輸送手段として東海道沿線に宿場を設けた。
旅行く人の利便を図ると共に宿場から宿場(継送する伝馬事業を開設した。
また参勤交代の大名殿様が利用する本陣、脇本陣を設置させた。
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