JINさんの陽蜂農遠日記

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jinsan0716 @ Re[1]:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) オジン0523さんへ ありがとうございます…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) そして9:20になり、カウントダウンが始ま…
jinsan0716 @ Re[1]:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) オジン0523さんへ 書き込み、ありがとう…
オジン0523 @ Re:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) 根府川山は根府川に関係あるのですかね

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2019.05.04
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

丁子屋の前から 丸子川に架かる丸子橋を見る。



橋への入口の右にも石碑が。



『細川幽斎(ほそかわゆうさい)公歌碑』



『細川幽斎公歌碑』。
細川幽斎(藤孝)は、戦国時代の武将で、肥後細川藩の始祖、細川忠興の父であるが、
古今伝授を授けられた有名な歌人でもあった。  
天正十八年(1590)三月八日、豊臣秀吉の小田原攻略の先陣として、うつの山路を越えて、
ここに差し掛かった時、地元の人が「 まりこ川 」 というのを聞いて、詠んだ歌といわれる。
『人数には たれをするかの 丸子川 けわたす波は 音はかりして』



再び丸子橋から『 丁子屋 』を振り返る。



丸子橋を渡る。



橋を渡り終えると、右手に『丸子元宿高札緑地』と書かれた石柱が。



『高札場』説明書き。
高札場とは、江戸時代に法度や掟、犯罪人の手配などを書いた木の板(高札)を掲示した施設で、
多くの人の目を触れるように、集落の中心や人通りの多い街道沿いなどに設けられていた。
丸子では、昭和56年頃に津島神社で高札が発見され、それに基づいた複製品がここに
掲げられていた。



復元された『天和の高札』。



『定 忠孝奨励諸法度』。
「一、忠孝をはげまし、夫婦・兄弟・諸親類尓むつましく、召使のものに至るまで憐愍をくはふる
  べし、若不忠・不孝之者あらは可為重罪事
一、萬事おこりいたすべからす、屋作・衣服・飲食等に及迄倹約を可相守事
一、以悪心、或いつはり或無理を申懸或利欲をかまえて、人の害をなすべからす、惣て家業を
  徒とむへき事
一、盗賊并悪党もの有えば訴人尓出すべし、急度御褒美可被下事
  附 博奕竪令制禁事、
一、喧嘩・口論令停止之、自然有之時、其場へ猥尓不可出向、又手負たる者をかくし置く
  べからず事
一、被行死罪の族有之刻、被仰付輩之外、不可駆集事
一、人売買竪令禁止之、并年季尓召仕下人男女ともに拾ヶ年を限べし、其定数を過は可為罪科事
    附、譜代之家人、又は其所尓住来の輩、他所へ相越在付、妻子をも令所持、其上科なき
  ものを不可呼返事、
右條々可相守之、於有違犯之輩は可被処厳可旨所被仰出也、仍下知件如
   天和二年五月 日
                     奉行」



『定 宿駅諸法度』。
「一 御朱印伝馬人足之数御書付之外おほく不可出事
 一 御伝馬并駄賃之荷物は壱駄四十貫目人足之荷物は壱人に付而五貫目に限るべき事
 一 丸子宿から府中迄駄賃銭一駄に付而四十七文、乗懸荷は人共に同前荷物なくして
   のらば三十壱文、人足賃は壱人弐十四文、岡部へ七十九文、荷なしに合乗は、
   五十壱文、人足賃は四十文但夜通しいそき相通る輩は荷なしに乗というとも
   夜の分は壱駄荷の積に駄賃銭可取事
   附 五貫目迄之乗懸荷物は荷なしに乗る駄賃銭同前たるべし、それよりおもき荷物は
     本駄賃銭可取事
 一 人馬之賃御定之外増銭を取者在ては、可令籠舎并其町之問屋年寄は過料鳥目五貫文に宛
   人馬役之者は家一軒は百文宛可出事
 一  御伝馬駄賃之荷物は其町之馬不残可出、若駄賃馬おほく入時ハ在々所々へやとい
    荷物遅々無之様に風雨之節も可出之往還之輩無子細而理不尽之儀於中懸は可為越度
    又往還之者に対し非分なる儀有えは可為曲事
 一 道中次人足次馬之員数たとえ國持大名足りと言うとも家中共に東海道は一日に五十人
   五十足に過べからず此他之伝馬道は弐拾五人弐拾五足に限るべし
   但 江戸京大坂は格別たるべし勿論道中にて人馬共に追返すべからざる事

 【以下 略】    天和ニ年五月 日





『條々 毒薬にせ金等禁制』。

「一、毒薬并にせ薬種売買之儀弥堅制禁之、若於商売仕者可被行罪科、たとひ同類たりと
   いふとも、訴人に出る輩ハ急度御褒美可被下事
一、にせ金銀売買一切停止たるべし、自然持来にをひてハ、両替屋にてうちつぶし其主に可返之
  并はつしの金銀、にせ金銀は金座・銀座へつ可はし可相改事
  附、にせ物すべからざる事
一、寛永之新銭、金子壱両に四貫文、勿論壱分には壱貫文たるべし、御料・私領共に年貢収納等

一、新銭之儀、いづれの所にても御免なくして一圓不可鋳出之、若違犯之輩有之は可為罪科事 
  附、悪銭・似銭・古銭此外撰べからざる事
一、新作の慥ならさる書物商売すべからざる事
一、諸色の商売、或一所に買置志めう里或申合、高直にいたすべ可らず事
一、諸職人申合、作料・手間賃等高直にすべからず、惣て誓約をなし、結徒党儀可為曲事たる事
右條々可相守、此旨若違犯之於有之ハ可被処厳科者也、仍下知件如
  天和二年五月 日
                   奉行」



『カフェ&ギャラリー 喫茶去 夢想庵(きっさこ むそうあん)』。



丸子川沿いを進む。



国道1号線への合流手前の右側、二軒屋公民館横にあった『御堂』。




「この道筋(みちすじ)は江戸時代の東海道 です。
国道1号の拡幅によって、かっての面影は全く残っていませんが、西へ向かえば東海道の
難所宇津野谷峠(うつのたにとうげ)、東へ向かえば丸子宿です。
赤目ヶ谷(あかめがや)の起木神社(おききじんじゃ)には、源頼朝上洛の折の
梅ノ木にまつわる伝承があり、神社の山手には、幕臣の近代茶業の振興に貢献した




現国道1号線合流手前まで進む。



『ようこそ丸子路へ』。



現国道1号線脇の旧東海道左手にあった『丸子紅茶』、そして水車。
丸子は明治初期日本で初めて紅茶の木の栽培を始めた「日本紅茶の発祥地」。



旧東海道・静岡市駿河区丸子地区を更に進む。



左手にあったのが『臨済宗 長源寺』。



『超樹(おきぎ)天満宮』入口の石鳥居。
起木天神社とも、起樹天満宮ともいう。祭神:菅原道真公。
場所:静岡市駿河区丸子6625。国道1号線「赤目ヶ谷」交差点から北側の側道に入り、
約500m。臨済宗妙心寺派「長源寺」の奥にある。駐車スペースあり。
建久6年(1195年)、上洛のため源頼朝が当神社の前を通るというとき、紅梅の大樹が
道の中央に倒れていた。頼朝は、通行の妨げとして伐採を命じた。
ところが、倒れていた梅の木は、その夜のうちに元通り起き上がった。以来、
当神社を「起木天神社」あるいは「起樹天満宮」と称した、という。
残念ながら、その「起き木」は枯れてしまったが、その一枝は今も当神社に納められて
いるそうである。なお、菅原道真公が紅梅を愛したことから、かつては当神社の境内には
百本以上の紅梅が植えられていたといい、そもそも「赤目ヶ谷」という地名は、
元々「赤梅ケ谷」と称していたのが訛ったものという。



庚申堂とその手前左に天保15年(1844)の庚申塔が。



多田元吉が寄進したと伝わる『起木天神碑』。



『丸子 赤目ヶ谷 起木天神碑文』。
「 風は松声をとどめて静かに、山は跿馬を含みて淵し」 



『日本近代茶業之先駆者 多田元吉翁碑』
日本で初めて紅茶の生産に取り組み、近代日本茶業の貢献に尽力した多田元吉翁の功績を
称える碑。
多田元吉の名前は初めて目にしたが「幕臣だった多田元吉は、明治維新後この地を開墾して
茶を植え、更に茶の研究のため中国やインドに渡り紅茶の製造技術を習得し、
その時、インドから紅茶用の茶の木を持ち帰ったのが日本の紅茶の始まり」と。
杉山彦三郎らに茶の栽培・製造を指導するなど、多くの茶業人に大きな影響を与えたのだと。



赤目ヶ谷の京方入口、長源寺の境内に鎮座する『起樹天満宮』。
明治初期にインドから紅茶製造の技術を持ち帰り、丸子に茶園を開いた多田元吉に
由来があるらしい。長源寺境内には多田元吉の墓をはじめ、元吉が寄進したと伝わる
起木天神碑や、インドより持ち帰った紅茶原木がある。



奥にも末社が。



『絵馬』
名馬:生唼(いけずき) 名馬:麿墨(するすみ)
生唼は宇治川の先陣争いの際,佐々木四郎高綱の乗った馬。もと源頼朝の愛馬。
麿墨は梶原景季の愛馬として知られた名馬の名前。



隣りにあった『霊泉山 長源寺』を訪ねる。
山門を潜って境内へ。



境内に入ると羅漢さんがずらーっと墓地への道沿いに並んで出迎えてくれた。



ユーモラスな顔と仕草は疲れを忘れさせてくれるのであった。



今にも声を出しそうに。



美しい境内。



『早百合水子観音菩薩』。



小さな観音像が並んでいた。



朱の欄干の橋(かない橋)の向こうにも。



『丸子弁財天』。



子育観音菩薩尊(右)と耳地蔵尊(左)。



本堂。



扁額『霊泉山』。



『六地蔵』。



多くの色彩豊かな風車が。
風車が回る姿は仏教の教えの1つ、「輪廻転生(りんねてんしょう)」を表しているのだと。



『丸子路観光案内図 長源寺・起木神社』。
「長源寺は宝台院 の末寺として、寛保元年( 1741 )慈悲と心の安らぎの観音様を
祭ったお寺です。
山門左側正面に、平成元年に建立された高さ 3 mの座像で、観音菩薩が三人の子供を抱きよせた
石仏の「早百合水子観音菩薩」の供養塔がある。
境内には、幕末の国学者野沢昌樹 の墓がある。昌樹翁は甲斐の人で、明和事件( 1767 )で
尊皇の志士で有名な弟の山県大弐が処刑されたので、駿府丸子長源寺に移り住んだ。
時に府中に寓居し、国学、医学の道を教えた人だった。木枯の森の本居宣長
撰文の碑も
建立された。寛政 12 年( 1800 79 歳で没し、縁り深い長源寺に葬られた。

辞世の歌に

心引く ほたしなき身は 梓ゆみ

    かへらぬ旅の 道にまよわず   昌樹

鳥居の奥に、源頼朝公縁りの起木神社が祭られている。平安中期に学問の神として知られる
菅原道真公を御祭神として鎮祭された。当社は古来神域に紅梅が多く「赤梅ヶ谷」と言われ、
何時しか「赤目ヶ谷」となった。春秋二度の例祭日には「合格祈願」「雷除けの神」として
信仰篤く、遠近より参詣者で賑わっている。」



墓地の中央にも大きな水子供養の観音像が。



                               ​ その1 ​ に戻る

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.05.01 11:35:43
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